2003年度秋学期小熊研究会T期末レポート    

「私的所有論」の検討       

環境情報学部4年学籍番号70055625高橋直樹

 

本レポートは、「私的所有論」(立岩真也1997)の内容を他の生命倫理学説との異同に注目しながら概観することを目的とする。

まず、序で立岩は、「行おうとするのは、既に、確かにあるもの、しかし十分な言葉を与えられていないもの、それを覆う観念や実践の堆積があっていうことをやっかいにしているものを顕わにすることだ。」という。これは立岩の本の特徴になっている姿勢の一つだといえるだろう。彼がするのは、生命倫理上の諸問題に対する様々な立場の検討と一つの倫理的な立場の提案だが、そこに立岩が述べようとするのは既に語られてきたもののなかにも潜んでいる願望ではないか、という予測が散在してみられる。それは彼が提案する仕方やその立場そのものにも関わっていると思われるが、以後、内容に則してそれを見て行く。

 

立岩は多くの学説や、様々な立場からなされた主張を見て行くが、それは検討され、分析される限りであって「本書は事実をそれ自体として示すことを主題とはしていない」ようだ。

 

1、              「自己決定」で話は終わりだとする倫理の忌避

現在の我々の社会での多くの意見するところの立場として「自己決定」がある。「自己決定」は少数者、弱者の権利の擁護のためにも使われる言葉でもある。しかし、例えば人口妊娠中絶といったときの自己決定権の主張と、尊厳死といったときの自己決定権の主張は違うのではないか、そもそもその場合誰が主張しているのだろう。立岩は、その二つの違いに、その自己決定権を認めたときに起こる事態が、「社会」の側にどれほどのコストを強いるか、といった単純な事情が、これらの自己決定権の受け入れられやすさに安易に影響していると見る。そこで、「自己決定」そのものが不必要であるとすることではなく、「自己決定」のみを中心として倫理が語られることに、その違和感も含め一つの倫理的な説として語る試みを行っている。

 

2、              古典的自由主義の倫理

(ア)  「自己決定権」がまず主張され、自らのもの、自らの身体、自らの生命の質に関する選択は自らの決定の内にあるとされる。

(イ)  次に、それらを制限することが認められるのは、他者に危害を加えることが有る場合のみとなる(他者危害の原則)とくに国家による規制、介入は、その決定が自らに不利なものであろうとなかろうと、認められない(愚行権)

(ウ)  しかし、例えば麻薬の服用を禁止することによって発生する社会的な利益と禁止することによって発生する社会的な不利益と較べて、後者がはるかに小さいことでもって禁止を認める論もある。これは、公共の福祉という広い意味での他者危害原則に基づくか、あるいは功利主義的な制限であると考えられる。[1]

 

これらは、国家によるパターナリスティックな(あるいは単に暴力的な)介入に対抗して、「自由」を獲得するために表明されてきたと歴史がある。前述したように筆者は自己決定メインの倫理の立て方に疑問を表す。とはいえ医療の自己決定という観点からさらに充実すべきだと言われるインフォームド・コンセントなどが不必要だというわけではないし、自らを「かなりの部分は『自由主義者』だと思う」と述べているが、そのような「自己決定」という倫理だけではない倫理を立てようとする。それは例えば「その者のもとに置かれることには同意するが、譲渡(得に売買、そして『再分配』を含む)を全面的に肯定することができないものがある」という感覚を倫理として言語化しようとする。次章では、まず自己決定権という立場の分析を辿る

 

3、              自己決定正当化の不可能性

以下で自己決定を支えている論理を検討する軌跡を辿る。要点を先取して書くと立岩がこの中で見出すのは「制御→所有」という論理の正当化の不可能性である。これは、

立岩が引用したカント、ヘーゲル、ある時期までのマルクスにも見られる。(起点が精神だったり肉体だったりずれもあるが)

(ア)  自己制御から自己所有へ

近代的な所有権の概念では、所有権とは処分権であり、処分の決定権である。

よって、何が自己決定の対象になるかは、何が自己所有の対象かと等しくなる。

そして、自己所有として認められるのは、自己制御、労働の結果となる。それは、

どこから来る起点であるのか。

「私の身体は、私が制御するよって私のものだ、その私の身体を使った労働の成果は私のものだ」と論は進む。だが、しかし、私が労働したからといえ、その成果が私のものにならなくてはいけない根拠はない。私が労働した成果だ、ではなぜ、それが私のものになるのか。私が労働をしたという事実から、それが私に帰属する「べき」だという規範は出てこない。単にそれが最初の規範となっているだけである。それを根拠づける倫理はなく、生産者が一番、生産物をもって居やすいといった事実などに支えられているだけである。(これは立岩も認めるがあらゆる倫理にいえることである。倫理の最も基礎的な段階をどのように正当化するのか、最終的にそれが一致しないのならばそれは単に信仰の別として諦めるしかないのか、これらの問いはメタ倫理学の分野で問われることも多い)

そして、現在、私的所有のみが認められているものには、自己制御、自己労働と関連づけることが危ぶまれるものも含まれている。例えば私の身体は、私が労働して作ったものではなく、親が労働して作ったものであり、親もまたその親が作ったものであり、その親もまた・・・となる。その他にも私の体の中にも制御していないものが、多くある(不随意筋、それによる内臓など)

とすれば、私が因果の起点だとするこの説は、通すことができない、出来ていない。

 

(イ)  効果による正当化

さきほどの自己所有=自己決定の倫理は、それ以上遡って根拠付けられない。

とすれば、この倫理を認めることによって現れる社会状態が最も素晴らしいということでもってそれを一番「良い」倫理だと正当化することを考える。この場合は善性云々というより、それが最良であるという功利的、機能的な立場からの正当化だといえよう。

まず、確かに、ある財が、ある人間に所有されることで、それを有効活用しようという意図が表れ、最大限配慮されて消費され、さらに拡大再生産されることが目指されるだろう。これによって財が「有効に」使われているとはいえる。これは確かに各人にとって幸福で、全体としてみても、誰にも与えられない社会、財がただ共有される社会より幸福に思える(共有地の悲劇)

だが、しかし、この論理はどの財が誰のもとにあるべきかということを示さない。

財が「任意の」誰かのもとにありつまり所有されれば有効活用されるということを示すに留まる。では、ただ誰かのもとにあれば、有効活用されるのではないか?

これだけでは、「制御→所有」の有利さすら示せていない。単に、「所有」に「有利さ」(正しさではない)を示したに過ぎない。

 

(ウ)  財のより有効な活用

では、例えば、身体という財も自由に配置できるとしたらどうだろうか。

以下で、生命倫理学者のハリス(John Harris)のサバイバルロッタリー論の有効性を検討される。単に所有の有効性を考えるだけなら、このような論の方がより有効である。

その論は、

「すべての人に一種の抽選番号(ロッタリーナンバー)を与えておく。

    医師が臓器移植をすれば助かる二、三人の人を抱えているのに適当な臓器が手に入らないときは、コンピューターにより無作為にある提供者を選び、

    選ばれた人間は、他の二人以上を救うために殺される。」

といったものであり、

これは最大多数の最大幸福という功利主義の立場にたてば最も良い社会だと考えられる、「正しい」社会でもある。

では、これが認められないと感じられるとしたらどう批判できるか。それに対しての反論を考えると、「殺される人間の個性が尊重されるべきだ」という批判には、放置すると死んでしまうその人間たちの個性も尊重すべきだと、答えられる。

「放置して『死なせる』のではなく、わざわざ『殺す』ことが問題だ」とする意見には、死がもたらされる確実性が問題なら、放置すれば確実に死ぬ人間をそのままにすることは「殺す」ことと違いはない、と答えられる。[2]

違いがなければ、より多くの命を救える点で優れている、となる。

しかも、この制度は全ての人間に均等に機会が与えられるし、ランダム抽選であり公平だ。(平等・公平)

この制度を考えることで、「財が誰かに配分されることは有利なことだ」とはいえても「私の身体が私に所有されるのが最良の状態だ」とは言い切れないことが分かる。これは現在、臓器がそのように動かせないことに基づいて実現されていないだけである。そして、実現できるようになったとき、それを否定したいと考えるのなら、それはいかなる倫理によってだろうか。実際、立岩はこれを受け入れ難いと考える、しかし、それは今見たように自己決定権のみで擁護できる立場ではない。では、例えば、人間の尊厳、生存権といった、自己決定とは別のところからでる論であるだろう。

 

4、              私ではない、私が制御しないものとしての「他者があることの受容」

「特別なだからそれには触れてはいけない」という論の立て方がある。あるいは「自己制御した/するものだから自分のものだ」というものもあった。そのようなものではなく、ある身体がある人間にあることを、それのみをただ動かさないでおきたいという感があるという。それは、それをその人間が制御しているからコントロールしているからその人間の権利としてそれを守ろうということではなくて、「私」がそれを制御せずに、そのものがあるままにしておきたいということである。そこで考えられるのは「私が制御しないものとして在るという他者性」奪ってはならない、奪いたくないと考えているのではないか。第一に、それは責務として、倫理観としてあるのではなくて、我々の願望としてあるのではないか。もちろん「私」は他人を意のままに動かそうとする、そのような願望もある、しかし、一方、他者が他者としていてくれることによる快楽もある(例えば、恋愛)あるものが私の完全に制御下にあるなら、それは私の一部であってすでに他者ではない。世界がそのように私のものになっていくとき、私は私にしか出会わない。他者がそのようにならずに居る快楽が、他者が意のままにならない苦痛と共にあるのではないと考えることから倫理を作ってみる[3]

  (ただし、後述するがここで「完全に制御することが他者性を奪うことである」ということを認められる人間は多くとも、「部分的に手を加えること」にはそれほど違和感が覚えられないのではないか。もちろんこれは投票数によって決まる議題ではなく倫理を記述しようという試みであるので、数は問題ではないが、実際、他者性が奪われるときそのようなやり方で乗り越えられるのではないだろうか)

立岩の倫理は<私>が起点になっている意味で信念であり、「そのようであってほしい」と

いう願望・感覚に過ぎない。だが同時に私的所有論=自己決定論という倫理は、結局の

ところ「そのようであってほしい」と願い「そうであることにする」という信念に過ぎな

いことは上で見た。その意味でこの二つは等価である。立岩は、おそらくメタ倫理上の倫

理の実在論者を認めない。彼はおそらく非実在論者で、内在主義者だろう。

あるいは外在主義者とも受け取れなくはない。彼はまず、自己決定権や、その他の倫理上

の立場を等しく「私」からのものであるとして同じ舞台に立たせよとしている。

「どこまでを私とするか」を設定しても、「他者があること」を設定しても、どちらも「私」

(すなわち倫理を立てる者)が「設定している」に過ぎないのだ。ただし、立岩論のなか

では、自己決定論も、ある人がある人の生きようを決めてやっていくということが、その

人があることの一部を構成すると考えられるから肯定される。違いは、自己で制御したら

自律した存在であり、自己決定したことにより認めるのではないことだろう。

 

5、              他者とは誰なのか

上で述べた、自己制御・自律を起点として自己決定権を認めていく立場を認めないことは、立岩が言う他者とは誰なのか、第5章で検討される線引き問題である。

まず、自己決定・自己制御を起点として線を引こうとする倫理は二つに分かれる。

一つは、人という種を自己決定・自己制御できる種であるとし、そこに線を引くもの。

もう一つは、自己決定・自己制御を資格として種とは違う部分で線を引こうとするもの。これらに対しては、立岩以外の論者からも疑念が提出されている。人(あるいは人に類するもの)が大事であるなぜか自己決定・自己制御するから、とし、逆になぜ自己決定・自己制御が資格となるのか、それは人(と彼等が認めるもの)の性質だから、というように循環的に定義されているだけで、自己決定・自己制御=人(大切なもの)というトートロジーのくり返しに過ぎないという批判がある。
立岩はこれらに対してのどのような立場を取るか。上で見たいように当然自己決定・自己制御を資格としない、それをもつものを人ともしない。彼が立てた「他者性を奪わない」というところから始める。ただ我々が滅ぼすことを躊躇うことがあることを認め、それをこのようにいう

「第一にこのようなことを考えるのは人間だけであると言う意味で、これは人間的な倫理であり、第二に、仮にその遵守を人間以外に求めるとしたらそれは人間の側の倫理をおしつけることに他ならないといういみで人間中心的な倫理であり、第三に、それとは逆に、その遵守を人間だけに適用させようとかんがえるのであれば、それはやはり−人間を特に有利に扱おうというのではなくむしろその反対であっても−人間を特権的に扱う倫理であり、第四に、その遵守を人間以外に求めるということは実際上不可能なのだから、それは人間内の倫理である」(p.178

しかし、逆に滅ぼさないでも生きられない、という事実もある。線引き問題はこの間で揺れる。立岩においてはその滅ぼしてはならないとする他者、消してはいけないと思われる他者は「私」において現れる。そして、その「私」を「私」は消せない他者として認めている。その私とは「私」において生まれてくる存在のことだろう。私達はまず人を特別視する。それはこれらの人間中心的な倫理を語る存在であるということでである。それをする存在のもと「性、生殖という世界がある」(p.184)のであり、そこに付随した交配の可能性のもとにあるから、生まれてくるものがいる。まとめれば、それらを経て、子という存在が殺さないものとして現れてくる過程があるのだ、となる。

こうして、人から生まれてくる過程を経たものが消せない他者として現れてくるのであり、

それを享受しようという感覚が倫理として一応の一貫性をもったことになる。

 

6、立岩の立場の図式化

 

 

1、〈私が作ったものが私である〉の否定

a1は、Aから切り離されるし、Aに排他的に所属しない、またAであることに関わらない。

2、〈能力に応じた配分〉

a1は、分配の対象となるし、交換の対象となる

3、〈能力だけしか評価してはならない〉

a2は、Aから切り離されない、Bの評価・制御の対象にはならない

さらに、誰かからみなされるもの全てではなく、人から生まれて人に育てられる過程により他者だと感知してしまうような存在である。

βの領域は、αの領域に優先され、規定される(p.353

 

このようにまとめられる立場は、従来のものとどのように違うのか。

まず、実は私的所有=自己決定のみでは、業績原理と属性原理は区別されない。

例えば、ある人間が、財Aを出して、労働と交換するとき。どの「労働者」を選ぶか、労働者の属性でもっていわゆる差別でもって選択しても、それは自己決定である。自己決定の倫理だけではそれを否定し得ないのだ。

それに対し、2、3、でもって分配、交換の対象となり市場を認めるものと、そうではないものをわけることになる、なぜか。後者は、その存在が他者として甘受される中核をなすもの(他者性となるもの)で、それは評価されることはないからである。あるいは評価して動かそうと奪おうとしないからである。よって能力(≒業績)以外は評価されない。

 

7、新しい倫理とそれが要請するもの

元来の生存権に加え、様々な生活の様式(α)もまた擁護すべきだということ、そしてそのために財を再分配すること(すでに私的所有は自明ではない)、譲渡・交換に対しての抵抗を表すこと、能力以外を評価しない原則を導くことが示された。例えば財の配分に再分配をするための税の徴収に反対するものはどうなるのか。立岩は、それは認められないというそもそもここまで至るのになどこれらを一貫して行うために、

今までと別のこのような倫理が提出されたのであった。

ここから  ・ 決定しないことで、何らかの権利を奪うようなことにはせず

       広義の他者性保障のための積極的な福祉策が考えられ

       しかし、国家による制御は行わず(他者性のため)

       積極優生学(狙って産ませる)をはっきりと否定する

 といった個別の政策、倫理的立場を考えることが行われる。

ここでは、各論に関しての立岩説の検討は行わず、次章以降、立岩説の特徴を見ることにする。

 

8、この倫理が目指すものや根ざすもの

 この立岩説は、これら生殖倫理をめぐって行われた運動の主張、優生学という発想を詳細に分析していることからも、それらに対抗して立岩が自らの(あるいは運動の中に含まれる)感覚を元にはっきりとした記述ということがうかがわれる。本レポートでも取り上げたパーソン論やP・シンガーのような功利主義者の説、人工妊娠中絶をめぐる女性運動、それに抗した青い芝の運動など、それらのなかには(対抗上そのように述べねばならなかったのか)過激なものもある。

それらの運動と並行して行われていた社会科学は立岩がいうように立場上、環境説の立場を取ることが多く、様々な価値観が社会的であることを示した。その成果は確かなものでもあるが、しかし社会的に作られたというだけでは、それをどのように変えるべき、という判断は出てこない。それらの社会科学の成果が(論文として読まれたことに限らないにしろ)広く認められるようになると、運動の中でもそのような価値の廃絶・転倒の試みに繋がっていくことになる。私の判断でもまたこれは行き過ぎていたか、あるいは戦略上無理でもあった試みだと思われる(無駄ではない)。

例えば、卑近なことにかぎって言えば、フーコーの言う「生=権力が働いている」「権力の網の目」といった言葉に反応して自らを反権力という立場に置こうとして苦しむ人間を多く見る。だが、これはおかしいし行き過ぎだと考える。フーコー的に拡張された権力概念と、実際に散在している権力は行き渡っているという事実を認めるならば、もはやこのような社会にあって我々の誰もがその図式から逃れ得ないはずだ。極言すれば人が二人居ればこのような権力は働きうる。権力が統治者と重ねられ、反権力の位置から考えるというものではなく、我々一人一人が権力者となってしまっている図式から始まるのだ。ここから帰結するのは、社会全体の改変を革命的に起こさない限り、そして現在の社会の部分を認める限り、反権力ではなく、いかに野蛮ではない権力者足りえるか、どのような権力なら認められるか、どのような権力を軽減させていくことができるのかという方向のほうがましであろう。

立岩も現在の社会の価値とされていることをひとまず認める。(p.303)そして、社会改変を望みつつも、「制御→所有」を残したままであったということこそが、各運動の行き詰まりを生んだという。この私的所有は、マルクスの立場からも、それは関係の不可視化を通じた錯視としても捉えられているが立岩はその立場は取らない。社会のうち小さな部分で転倒を試みることは「制御→所有」の図式が残っている(運動者も持っている)限り、運動者を苦しませることに繋がっていたのだ。

立岩の認識は、これらから始まっているように思える。ではそれに対して何を置いたのだろう。

既に見たように立岩はどのような倫理も<私>からのもので、人間中心的なものである、と考える。そして、<>の他者に対する願望からスタートして、それが一般化可能なのではないか、とその倫理を他の<>にも呼びかけている。この図式は非常に受け入れられやすいものだと思われる。以下でそれを考える。

第一に「倫理」は、どこか押し付けがましい。露骨な認識説の立場や、客観的な倫理を何か権威から導き出そうとする立場は、それが信じられないものからは全く受け入れられない。そこで<>から始まる倫理は、それが私のものでもあると受け入れられる限り押し付けがましくはない。

第二に、<>から始まる倫理が「他者性を享受するために他者を残す」というもので、非常に普遍化しやすそうだ、ということも利点だろう。何らかの権威が広く認められていない限りそこに端を発する倫理は受け入れがたい。だが、ABという契機を欲することは非常に普遍化しやすいのではないだろうか。この場合、普遍化できるのが良いというのは、必ずしもカント的な定言命法を重要視するからではなく、単なる利己主義の立場からもそれを普遍化していると受け取れるものと考えられるからである。他者を全く不要と「語る」人間はおそらく居ないだろう(あくまで語る場合だが)

これら2点は立岩の倫理の非常に大きな説得力のもとになっていると考える。では、それに対して、問題点もないわけではない。

第一に、立岩のいう倫理が内在的なものだと認められない立場からは、これは利己的な価値の普遍化にはならない。利己的ではないと感じられる価値を認めるのは、「善く生きることが本人にとっても善い」「善く生きることのみが、本人にとって善いことだ」という主張とも重なっていくだろう。それは受け入れ難いだろう。

第二に、これは程度問題ではないか、ということだ。他者性を望むことは、二点目のメリットで書いたようにおそらくは普遍的な願望である。だが、それが立岩がいうように全ての人に「完全な」他者性を認める、ということにまで結びつくだろうか。例えば選択的優性は立岩がいうように、その他者であるはずの子に、私達にとって「よい」ものを与えようとする行いであり「私は、私にとってあなたがあることの基本的な意味を消し去っている」

とどこまで認められるだろうか。おそらくはここが一番危ういところであろう。この場合の他者性は、基本的には損なわれていない、と考える人間が実際おり、それが選択的優性の試みを進めることになるのではないか。

 そのような試みに対しては、立岩は、その新しく生まれてくる他者に関しては、制御→所有はすでに正当化できない以上、そして再分配によって負担も広く引き受けると考えている以上、親も我々も等しく他者であるからといって介入を測っていくしかないのだろう。

つまり、お前だけの他者ではなく、我々の他者でもあるという風に。ここにいたって<>から発した享受の態度が、規範化されるべき倫理という次元に移行する。この移行がどれほど説得的であるかに問題は残るだろう。

 「私的所有論」で立岩が示した倫理の形は、非常に説得力をもっているし、ひとまずは筋の通った論であると考える。今後としては、検討した部分の最後で示した論点が考えられる。これは実際には、倫理から法化・ガイドライン化を目指す運動の問題として現れるだろう。当然ながら、倫理と法は同じではないのだ。今後の展望をするならば、正しい優生学の新たな局面や、そして万一、社会全体の種の「改良」の必要性といった事実がもしあらわれるならば、立岩の倫理はさらに細かく再検討されることになるだろう。

 

参考文献

立岩真也「弱くある自由へ」(2000青土社)

永井均「倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦」(2003産業図書)

加藤尚武「応用倫理学のすすめ」(1995、丸善ライブラリー)

岡本裕一郎「異議あり!生命・環境倫理学」(2002、ナカニシヤ出版)

Peter SingerPractical Ethics=P・シンガー「実践の倫理」(1999 昭和堂)

石川准・長瀬修「障害学への招待」(1999赤石書店)

小泉義之「レヴィナス 何のために生きるのか」(2003NHK出版)

小泉義之「生殖の哲学」(2003河出書房新社)



[1] 功利主義は、1行動や制度の真価は動機によってではなく、帰結から判断(帰結主義)2、帰結のよしあしは当事者の主観的快=効用の点から評価(快楽主義・効用主義)3、各人の快の集計からなる社会全体の幸福の最大化が最適の状態(集計主義)という柱をもつ。行為功利主義と規則功利主義という立場にも分かれる。部分的には現代でも認められているだろう、例えば、5人が苦しむより、1人が苦しむ方がましであるという感覚において。

[2] ABを殺した」「ABを憎んでいた、あるときBが誤って毒を飲んでしまった、Aは解毒剤を持っていたが、それを傍観して死なせた」このときに殺すことと、死なせたことの道徳的な違いはそれほど大きなものだろうか。これは「意図した目的」と「意図はしないが予期される結果」を区別するダブル・エフェクト論への疑問である。

[3] これを保守的な位置とただ呼ぶのか、少し違うだろう。他者にまで自らの影響で改変を望むときがある、しかし、そのときに出さえ他者性を経たあとで、変わって欲しいと考える姿勢ではないか。私が私の考えを、私の制御下にあるものに広げるならそれは、ただ一人の行為である。「みんなが居るから私がいる」(ある種の共同体主義)や「制御しないのが自然だから」(自然主義)の他者との差もはっきりとしている。そもそもの契機が違う。