グローバリゼーションとフェミニズム
〜世界システム論及びマリア・ミースを中心として〜
総合政策学部3年 谷野直庸
学籍番号:70105665
ログイン名:s01566nt
目次
・ はじめに
・ 第一章 近代世界システム論の理論的枠組み
第一節 近代世界システム論の概略
第二節 近代世界システム論の各論
1.「帝国」と「世界経済」
2.「中核」と「周辺」及び「半周辺」
3.ヘゲモニー
4.反システム運動
・ 第二章 ミースのNIDL分析
第一節 ミースのNIDL分析の概論
1. IDLとNIDL
2. NIDLと女性労働分析
・ 第三章 今後の展望
第一節 近代世界システム論の今後
第二節 ミースのNIDL分析の今後
・参考文献一覧
・ はじめに
以下では、本稿の主旨を述べる。「近代」という時代は、その起源から「グローバル」であったという認識は、一定の了解事項と言っていいだろう。グローバリゼーションを論じる上で、様々な角度からの分析が試みられているが、そのいずれも同時に近代という時代を無視してのものは成り立たない。そして、過去様々な論者たちが述べてきた近代のグローバル性というものは、近代が輸送通信手段の発達が人々の距離を飛躍的に圧縮し、商品連鎖によって地球上が単一の分業体制のなかに組み込まれた時代であり、また近代は、もともと明確な境界の存在しなかった世界にナショナルな境界線を持ち込み、人々を区分化した時代でもあったと定義できる。(伊豫谷、2002、p38)以上のような近代が、その当初から一貫して「グローバル」なシステムであったという点を、近代世界システム論として明示的に示したのが、I・ウォーラーステインである。ごく簡単にウォーラーステインの議論を述べると、一国史観的な歴史観や、国別の比較史的歴史観にとらわれてきた従来の社会科学及び歴史学を批判し、全世界を単一の世界システムとみなすものであった。近代世界では、世界経済こそが、いやそれのみが自立的な単位であり、単一の分業体制として規定される。また、上述した世界システム論をフェミニズム経済構造分析において援用し、途上国を世界市場に統合させるNIDL(新国際分業体制)を論じたのが、マリア・ミースである。ミースも、資本主義市場経済分析の場を、一国経済分析から世界システムへと拡大する理論形成を成した。ミースの議論の要諦をごく簡単に述べると、IDL(古典的国際分業)からNIDLへと世界の分業体制が変容する過程において、そのNIDLによって新たに統合された資本主義経済の、入り口と出口における「労働力の女性化」がもたらされたというものである。本稿では、まずウォーラーステインの近代世界システム論の理論的枠組みを概観し、世界システム論を援用してフェミニズム経済構造分析を行ったミースの理論の流れを概観する。また、上記の二つの理論において、どういった問題が新たに現出してきているかに関しても述べていく。
第一章 近代世界システム論の理論的枠組み
第一節近代世界システム論の概略
16世紀に西ヨーロッパを中核として誕生した大規模な地域間分業体制(近代世界システム)が、その後全世界を包摂すべき拡大していったとする観点が、近代世界システム論の基本的な視点であり、その見方は「ある国は進歩していて、ある国は遅れている」といった一国史観的な歴史観や、国別の比較史的歴史観とは全く異なるものである。理論的には、上述のように国別の発展段階論を否定し、中心―周辺(半周辺)という関係で世界が一つにまとまっているとし、マルクス主義的な開発論のひとつである従属理論や世界資本主義論を、その理論的前提としている。ここで注意しておかなければならない点は、歴史上、「世界システム」と呼ばれるべきものは多数存在していたということである。16世紀以前にも、地理的にも越境的な人々の活動という点からもグローバルな体制である「世界システム」は、確かに存在していたということは誰しもが否定出来ないことである。しかしながら、16世紀以前の世界システムは「政治的」に統合された「帝国」としての世界システムであったという点を忘れてはならない。16世紀以降に成立した世界システムは、政治的には統合されていないが、経済的には大規模な分業体制を維持しているという「世界経済」としての世界システムなのである。明確な政治的統合が欠落した状態で、ただ経済という単位のみで世界システムが成り立っていたのである。つまり、経済はグローバルであったが、政治・文化の面はナショナルであったと言い換えてもいいであろう。
また、近代以前の歴史的社会システムにおいては、自己増殖を至上の目的とする資本の循環は簡潔されることは決してなかった。しかしながら、近代以降の世界システムにおいては、それ以前において市場を介さずに展開されていた各種の交換過程や生産過程、あるいは投資過程の大規模な商品化を引き起こすことになった。さらに、これらの商品化のみならず、この生産過程は複雑で多様な商品の連鎖として相互補完的な関係となった。このような意味で、近代世界システムにおける資本主義という体制は、種々の生産活動を統合する歴史上唯一のシステムである。
さらに、この生産活動を行う主体である世帯という点に注目すると、近代以降、賃金労働者が出現したことにより、労働者そのものに対して生産的労働と非生産的労働という社会的区別が施される。生産的労働とは、現金収入(基本的に賃金労働)を得ることのできる労働を指し、非生産的労働とは世帯にとっては必要不可欠なものではあるが、自給的活動にすぎないものを指し、当然の帰結であるが後者の労働は商品化されることはない。近代世界システムにおいて、これらの区別は明確なものとなった。そして、特筆すべき点は、労働が生産的か非生産的かという区別が明確になることで、このような分業の慣習化が、行われる労働の価値評価に結び付けられたことであり、その必然の結果として「性差別」が制度化されるに至ったという点である。つまり、「賃金労働制度の誕生」と「プロレタリアートの出現」という事態が、上述の「労働の二分化」を招き、この「労働の二分化」と労働の「価値評価」がそれ自体共犯関係にあったので、「性差別」が制度化されるに至ったというのである。であるから、近代世界システムにおいて「性差別」という現象も、決して偶然の産物ではなく、必然の結果なのである。ある意味で、ウォーラーステインの議論のなかで特筆すべきは、このような「差別」や「格差」の「必然性」を理論的に証明した点にあるのではないだろうか。以上述べた「性差別」は一例であるが、ウォーラーステインは16世紀以降の世界を「近代世界システム」という単一の分業体制を定義してことで、また「単一」であるからこそ顕在化してくる、諸々の「格差」や「段差」に目を向けることが出来たのではないか。一国史観的なものの捉え方ではなく、世界という単位を唯一のものとすることで、隠蔽されてきた種々の「格差」を見て取ることが出来るのであろう。
ウォーラーステインのより詳細な各論は、後述することにして、先ほどの性差別と並んで重要な論点は、「人種差別」に関するものである。つまり、近代世界システムを通して、民族集団と職業的・経済的役割との間には高い相関関係が認められてきた。そして、世界の労働力が、民族集団を基に区別されたことによって、職業的及び経済的「格差」を「伝統」という名の下に、隠蔽し正当化できたのである。要するに、いわゆる人種差別(レイシズム)とは、労働者の階層化と報酬の分配上の不平等を正当化するための重要なイデオロギーであったのだ。各民族特有の文化が、それぞれの民族が異なった経済的位置を占めている主因であるという考え方によって、人種差別が正当化されてきたのである。
以上、ウォーラーステインの近代世界システム論の概論を述べてきた。「労働」や「差別」あるいは「格差」という点を中心に論じたが、以下ではウォーラーステインの議論の各論を、キーワードとともに述べる。
第二節 近代世界システム論の各論
1.「帝国」と「世界経済」
歴史上、数多存在した「世界システム」は、「帝国」と「世界経済」に分類することができる。まず、「帝国」という概念は、世界システム全体が「政治的に」統合されている状態を指すものである。上述の通り、システム全体を支配する巨大な「政治」機構が存在するという形態の「世界システム」は、歴史的に見ると数多く見受けられる。古代の諸王国や、中国の歴代王朝などがその典型である。「帝国」の特徴としては、地域間の結びつきは強化されるが、その反面、統治の維持費用が莫大なものとなり、その結果政治的に破綻してしまう。
また、「世界経済」という概念は、16世紀以降、「西ヨーロッパ」を「中核」とした、「資本主義的」な世界システムということを表す。この、資本主義世界経済という形態をとったシステムが唯一の「世界経済」の体制を保持している。この「世界経済」という世界システムの特徴として、経済的には大規模な分業体制を保持しつつも、政治的には統合されていない、という点が挙げられる。「中核」国などの国家機構が、各々に主権を保持しているからである。
2. 「中核」と「周辺」及び「半周辺」
ウォーラーステインは、近代とはその当初から一貫してグローバルな体制であったと主張する。前述のように、彼は、「諸国家の集合」として捉えられてきた既存の社会科学や歴史学の批判として、近代世界を「単一」のシステムとして見る観点を提示した。しかしながら、「単一」=世界の「均質」では毛頭ない。そもそも、近代世界システムは「中核」と「周辺」及び「半周辺」から成っている。「中核」とは、「周辺」との間における巨大な分業体制を利用してシステム全体の経済的余剰の大変を占めている国であり、「周辺」は経済的に「中核」に従属させられ、文化的にも「中核」のそれが優位に立つ。「中核」は、経済的には製造業や第三次産業に集中し、そこでは「自由な賃金労働」が優越する。産業革命の工場制の典型的雇用形態である。これに対して、「周辺」は鉱山業や農業のような第一次産業に集中している。労働形態としては、奴隷制や再版農奴制などが主流である。(ここで言う強制的な労働形態もまた、「周辺」における労働形態であるという意味でしかなく、あくまで資本主義的世界経済システムの一労働形態である。)その帰結として、両者間の貿易関係は、「中核」からの工業製品と、「周辺」からの原材料及び食料の交換という形態を取らざるを得ない。
以上のことから、「中核」による「周辺」の搾取の必然性を明瞭に解明し、南北問題のような「格差」を生む歴史的構造を解明した。性差別や人種差別とは異なるが、このような「格差」が正当化されるという論は、かなり広範に理解することが出来る。その具体例として挙げる事ができるものとして、今まで述べてきた国家(つまり先進国と途上国)や人種(白人と有色人種)、労働(生産的労働と非生産的労働)などである。
3. ヘゲモニー
16世紀以降の近代世界システムの歴史においては、ときとして「中核諸国」の中の一国が圧倒的な経済的覇権を確立し、他の「中核」諸国を寄せ付けないような状況が発生した。このような一国が、他の「中核」諸国を圧倒的に優位する状態を「ヘゲモニー」と呼ぶ。ヘゲモニー国家の具体例として、17世紀のオランダ、19世紀のイギリス、20世紀以降からベトナム戦争までのアメリカ合衆国を挙げられる。このように、ヘゲモニーは移動することもあるのだ。これらヘゲモニー国家は、生産・流通・金融の順で覇権を確立し、この順で覇権を喪失していく。例えば、17世紀に覇権を確立したオランダが衰退し、イギリスにそのヘゲモニーが以降しても、金融の中心はアムステルダムであった例がある。また、今現在の世界においても、生産・流通におけるアメリカの覇権は失われているが、金融の中心はニューヨークである。
4. 反システム運動
「反システム運動」とは、近代世界システムにおいて、システムの部分的改良や漸進的改良による現状の改善を否定し、なんらかのレベルでシステムそれ自体を変革することを要求の土台とする社会的、政治的、知的運動のことを指す。古典的な反システム運動は、社会主義運動と民族解放運動である。これらは、ともに、階級的マイノリティと人種的なマイノリティの運動として、近代世界システムの構造的な矛盾が集約的にあらわれる二つの軸であった。
「反システム運動」という概念のメリットは、近代世界システムが構造的にもたらす矛盾が、どのような場や運動を通して顕在化するのかという点を鑑みる際に、運動のミクロ的状況を、近代世界システムのマクロ的構造との関連で評価・判断するパースペクティブを提起すること。また、古典的な「反システム運動」である、社会主義運動や民族解放運動、フェミニズム等の個々の運動を、史的分析の中で系譜的に関連させ、比較・再検討を可能にするということ。
第二章 ミースのNIDL分析
第一節 ミースのNIDL分析の概論
1 IDLとNIDL
1960年代以降、多国籍企業が発展途上国にその生産拠点を移動することによって、世界を取り巻く分業体制の変容が生じた。この新たな国際分業が全世界的に展開することによって、発展途上国の膨大な人口を低賃金労働として動因可能なものとし、労働力供給の再構成が行われた。ミースは、この新国際分業体制に対して、世界システム論によるフェミニズム経済構造分析からの批判をおこなった。まずは、IDLとNIDLに関して述べる
IDLとは古典的国際分業と訳され、要するに先進資本主義諸国は諸々の工業生産をおこない、そこでは自由な賃労働がおこなわれ、富の蓄積が実現される。それに対して、途上国では第一次産品の輸出に特化せざるを得ず、そこでおこなわれる労働の形態も強制的なものや奴隷労働であり、当然のことながら富の蓄積は不可能であり、貧困が常態化する。中核諸国による周辺の搾取は、以上のようにIDLにおいては必然のものである。ミースはIDLにおける、中核と周辺との関係及び、そこでおこなわれる労働に関して以下のように述べている。
・・旧IDLが意味したのは植民地や元植民地から安価な労働力によって生産された安い原料を輸入すること、商品の購買力をもつ高価な労働力を使って母国で機械製の製品を生産することである。植民地における労働者は低賃金であったため、その購買力は低かった。この関係が、周知のように、増加の一途をたどる先進諸国の富を成長をもたらし同時に先進諸国の労働者により高い賃金を要求させることになった。彼らもまた植民地とその労働者の搾取の上に富を増やす行動に参加していたのである。植民地の労働者にとって、この関係はたえざる貧困化と低開発をもたらした。(Mies,1997,p170)
以上の旧IDLからNIDL(新国際分業体制)へと世界の分業体制が変容していったが、NIDLとはいかなるものであるのか。それは、先進諸国の工業生産が、途上国及びその周辺地域に移転され再配置される状態のことを指す。これによって、途上国による、世界市場向けの工業製品生産が可能となるのである。この背景には、現代における資本蓄積の前提条件の質的変容を認めることができる。大阪女子大学教授の足立真理子は、この点を以下のように簡潔にまとめている。
その前提条件とは、次の三点、@世界的規模での潜在的労働力の貯水池が形成されたこと、A技術と労働組織の改編による「非熟練」労働力によっても可能な生産過程の単位工程への分割、B通信・情報技術の進歩による生産立地を管理機能の空間的制約からの解除、(状況出版、2000、p174)
この指摘は、IDLからNIDLへと国際分業体制が変容していく上での、労働力の再発見、工業生産の再配置を理論的に後押ししている。以上が、IDLとNIDLの概略である。このNIDLの進展過程における世界システム論的ジェンダー分析を以下でみていく。
2 NIDLと女性労働分析
結論から先に述べると、上記のNIDLが進展していく過程において、「女性の労働力化」の進展をも同時にもたらした。グローバリゼーション過程における女性の労働力化は、これまで私的領域として温存されてきた家庭あるいは生存維持部門の部分的な解体過程である。女性は、公的領域としての生産を担う労働力としてだけではなく、市場化された再生産領域の担い手として再登場してきたのである。(伊豫谷、2002,p176)再生産労働とは、狭義の意味では家事や育児などのケア労働を指し、広義の意味では我々が生きていく上で不可欠な種々の共同体の再生産を指す。グローバリゼーションの過程で、この再生産労働が市場化され、その結果労働力供給におけるナショナルな制約が消滅するに至る。
また、より具体的な問題として、労働力供給におけるナショナルな制約が風化することと同時に、再生産労働を「おこなう人」の変容も見られる。つまり、再生産領域の市場化によって、先進諸国では女性の社会進出が進展し、それの補完的役割を担う形で有償の再生産労働に従事する「女性移民」が増加したのである。逆に言えば、1960年代以降多国籍企業の発展途上国への生産拠点の移転や女性解放運動の興隆などを背景にして、女性の社会進出が進むにつれ、家事や育児などのケア労働の市場化が実現されてきたとも言えるだろう。例えば、よく知られたことではあるが、アメリカにおいて「白人」女性が社会進出するに伴って、ナニ−と呼ばれる「発展途上国」からの女性移民がケア労働の担い手として雇用された。要するに、NIDLが進展する過程において、「看護や老人介護などの公的な再生産領域から家事労働や性労働までの再生産領域が、ますます移民女性へと依存してきている」のである。(伊豫谷、2002、p179)
しかしながら、今までの議論で触れなかった点であるが、「女性の労働力化」が進展しているということは、イコール「二重に自由な賃労働」の拡大を意味するわけではない。「女性の労働力」が進展し、労働の領域に包含される女性の数はますます増加してきてはいるが、そのことが賃金労働者の創出を同時に増加させているかと言えば、そうとも断定出来ないのである。では一体どのような労働形態の変容が見られるのか。足立は、以下のように述べている。
・・・むしろ、それ以外の多様な労働力の一形態として、性別・エスニシティ・人種・国籍において制度的制約を受ける《不自由賃労働 un-free wage labor》および賃金による報酬形態を取らないインフォーマル・セクターから生存維持経済にいたるまでの様々な就労形態という意味での《非賃金労働 non-wage labor》の増大過程であり・・・(情況、2000,p175)
《二重に自由な賃労働》も、資本主義的家父長制における固定的なジェンダーヒエラルキーの下で初めて成り立つものであるという理解は一般的であろう。1960年代以降に現出した「女性の労働力化」は、その背景にNIDLによってジェンダーヒエラルキーが再構成されるという事態が確固として存在するため、従来どおりの「二重に自由な賃労働」の拡大を招くわけではなかった。資本のナショナルな枠組みからの脱却、再生産領域におけるその担い手としての移民女性の越境的活動等は、その就労形態としては様々な形態を成しており、なかば「賃労働」という概念の停滞といっていい状況を呈しているのだ。私見では、今後、ある意味では賃労働という形態は厳然として残るか、ある領域においては強化されることもあるだろう。しかしながら、NIDLの進展過程の度合いがますます強化されるに従って、賃労働という形態を取らない就労形態もますます増えていくことも、かなりの可能性があるとみてよいだろう。この二つのベクトルはけして「断絶」しているものではなく、「接合」しているものである。ジェンダーヒエラルキーの再構成によって、世界的に鑑みた時、賃金労働の「拡大」でもなく「縮小」でもなく「停滞」という現象が起きているのである。
以上、NIDLの進展によって、労働力の問題、労働形態の問題がどのように変容してきたのかを論じた。これらの議論に加えて、ミースは、上述のNIDLの進展過程が現実のものとなるには、二つの条件が揃ってなければならないと説く。以下にその二つの条件を記述する。
1移転された産業、アグリビジネスその他輸出志向の企業はできるだけ生産コストを下げるために途上国の最も安く、最も従順な、そして最も操作しやすい労働者を見つけ出さなければならない。
2これらの企業は豊かな国の消費者に第三世界で生産されたあらゆる製品を買うように仕向けなければならない。どちらの戦略においても女性を動員することがきわめて重要である。(Mies,1997,p172)
つまり、簡単に言えば、NIDLによって統合された資本主義経済の、入り口と出口の双方で女性労働力の統合が必要であるということだ。もっと端的に述べれば、「先進国既婚女性非正規雇用労働力」と「第三世界若年女性現業労働力」の双方が、大量生産および大量消費の両端に再配置されなければならないということである。今まで述べてきた「女性の労働力化」の典型的な形態こそが、この入り口と出口で統合された労働力であり労働形態なのである。
NIDLと女性労働分析については、これ以上の言及を避けるが、最後に大きな問題が残っている。それは、1960年代以降、多国籍企業の生産拠点が第三世界へ移転し、既存のジェンダーヒエラルキーが変容していく中で、なぜ「女性」が国際資本によって「再」発見されたのかという問題である。ある意味で、女性の労働力の発見ということそれ自体は、それほど真新しいものではない。欧米諸国や日本においては、戦時期の総動員体制において、女性やマイノリティをも包含した労働体制を作り上げた。また、植民地主義の初期の段階においても、女性の労働力はその当初から発見され利用されていたのである。しかしながら、なぜ「女性」が国際資本によって「再」発見されるに至ったのか。ミースは「主婦」という概念を用いて以下のように説明している。
女性が最適労働力であるのは、彼女たちが今日普遍的に労働者ではなく、「主婦」であると定義されているからである。つまり、女性の労働は使用価値においても商品生産においても明確ではなく、「自由な賃労働」としては現れず、「所得創出活動」と定義され、したがって男性労働者よりもはるかに低い価格で取引されるということである。さらに、世界中で女性を主婦と定義することによって、その労働力を安く見積もることができるだけでなく、政治的にもイデオロギー的にも女性を支配することが可能となる。・・・この動きを支えているのはますます強まる性別分業と国際分業のつながりである。換言すれば、男女の分業−男を自由な賃労働者、女を不自由な主婦とする−と生産者と消費者との分業のつながりである。この分業には主として植民地の生産者である女性と主として西側の消費者である女性との分業もある。(Mies,1997,p175-176)
ここでいう「主婦化」とはミースの基本概念であり、人々を主婦と定義することによって、その人間おこなっている労働の価値を引き下げ、その人々の社会的地位を従属的なものとすることである。この人々は、その大半が女性であるが、必ずしも女性のみで構成されているわけではなく、実際問題として男性が含まれることもある。
国際資本が労働力を発見するに際して、「最も安く、最も従順な、そして最も操作しやすい労働者」の存在が、NIDLの進展過程に必要不可欠であることは既に述べた。その時に、この条件に当てはまるのが第三世界及び先進諸国の「主婦」であるとされた女性なのである。ようするに、「女性=主婦」という図式の成立は、NIDLの進展過程における偶然の産物などでは決してない。「女性=主婦」という図式は、NIDLと共犯関係にあるものであり、絶対的な前提条件なのである。
このようなミースの議論には、世界システム論的な要素が散見される。ウォーラーステインは、人種差別や労働における報酬の格差、あるいは種々の権利における不平等を正当化するイデオロギーとして「普遍主義」や「真理」・「合理化」といったものの存在を強調した。これらは、結局のところ中核による周辺への搾取を正当化し、中核という強者の利害を代弁する機能を果たしていた。ウォーラーステインの世界システム論を援用したミースにおける「主婦化」という神話・イデオロギーもまた、NIDLの進展過程で搾取されている労働力を正当化するものなのではないか。中核と周辺あるいは、男性と女性などの間におけるあらゆる「格差」や「不平等」を正当化する上で、ある種の「神話」や「イデオロギー」の存在は不可避なものなのであろう。実際には、第三世界における女性たちは、「主婦」ではなく、世帯主であり稼ぎ手であるという割合は増加傾向にある。しかしながら、このような現実があるにもかかわらず、「男性=稼ぎ主・世帯主/女性=主婦・従属的な立場」というイデオロギーはなんら変化していない。いや、ある意味ではますます強化されていると言ったほうがいいのかもしれない。そこには「主婦」イデオロギーの下で、女性を類型化することによる「搾取」・「抑圧」が厳然と存在していることは明白である。慶應義塾大学の小熊英二は以下のように述べている。
過去の神話化の本質は、他者とむかいあって対応をはかる煩わしさと恐れから逃避し、現在にあてはめたい自分の手持ちの類型を歴史として投影することなのだ。・・・直接にむかいあいながら少しずつ類型をつくる努力を怠り、わずかな接触の衝撃にすら絶えきれずに神話の形成に逃避し、一つの物語で世界を覆いつくそうとすることは、相手を無化しようとする抑圧である。(小熊、1995,p404)
ウォーラーステインやミースが暴き出した、あらゆるケースでの「格差」や「不平等」における正当化のプロセスも、その背景には必ずと言っていいほどイデオロギーや神話が散見される。このような「搾取」や「抑圧」の本質を小熊は簡明に述べている。普段、何気なく接しているイデオロギーや神話という概念も、その背後には必ず「搾取」あるいは「排除」されているマイノリティーがいるということは忘れてはならない。
第三章 今後の展望
第一節 世界システム論の今後
近代世界システムにおいて、「中核」では均質な国民からなる「国民国家」のイデオロギーが強調され、世界システムの盛期はまた「国民国家」の盛期でもあるというパラドクシカルな状況を呈した。同時に、「中核」に対抗しようとした「周辺」でも、自ら「ナショナリズム」を採用せざるを得なかった。国民国家というものは、当然のことながら「想像の共同体」であり、一種の神話あるいはイデオロギーであった。そうではあるが、19世紀以降、「中核」に対抗するために「周辺」諸国においても、国民国家建設に向けての動きが見受けられたのだ。
そして、世界システムの終焉という問題は、上記の「国民国家」の終焉とも密接に関連しているものである。近代世界システムが、ベトナム戦争までのアメリカをヘゲモニーと定めるならば、今現在は「ポスト・アメリカ」と呼ばれる時代であり、いまだにヘゲモニーがどの国へ移動するのか予見できない時代である。今後、ヘゲモニーの位置が、アメリカからどこか他の国へと移行していくのか。あるいは、EUのような地域共同体という可能性もあるのかもしれない。いずれにせよ、16世紀の「西ヨーロッパ」を起源として始まった近代世界システムが今後も維持していくのか、それとも衰退し、最終的には消滅してしまうのかという問題は、やはり「国民国家」・「国家機構」の力の今後の動向と切っても切れない関係にあると断言してよいだろう。「国民国家」や「国家機構」の力やその役割に関して言えば、その力が強化されていると述べるよりも縮小してきていると述べるの方がより自然である。その時に、近代世界システム死滅していくのか。私見では、今後の展望に関して明確は定義付けをすることは極めて困難であると思うが、近代世界システムは「死滅」することはないのではないか。確かに、グローバリゼーションの過程において、「国民国家」の果たすべき役割は明らかに変化しつつある。しかしながら、ここで忘れてはならないことは、グローバルとナショナルという両面を、独立した異なる要素と捉えることは間違いであるということである。つまり、「グローバリゼーションは、ナショナルな制度や機構を通して実現されるのであり、ナショナルな統合を推進するためには、グローバリゼーションの政治的実践が進行してきている」のである。(伊豫谷、2002,p34)そうであるのならば、近代世界システムが完全に消滅することを想定するのはなかなか難しい。むしろ、近代世界システムの「変容」が起こりつつあると捉える方がより賢明ではないだろうか。
第二節 ミースのNIDL分析の今後
ミースによって、資本主義経済市場の場を、一国経済分析、つまり国民国家分析から世界システムへと拡張する理論形成が成された。しかしながら、ミースの使用する「女性」概念が、その集団的単一性を前提としているという点には、批判が多い。いわゆるフェミニズム本質主義に関して生起する問題であり、果たしてどこまで「女性」というカテゴリーの使用可能性があるのかという疑問は確かに湧く。今後、NIDLの進展過程において、単に中核と周辺という構図だけでなく、「うちなる周辺」とか「周辺のなかの中核」という構図がより鮮明になっていくのではないか。単純に、「中核」と「周辺」という二項対立的図式では割り切ることの出来ない関係性の生気は間違いなく起こる。いや、もうすでに現出してきている。確かに、「半周辺」という概念提示は重要ではあるが、「中核」の中にも重層的・複合的に「中核」と「周辺」という要素が存在しており、同様に「周辺」の中にも重層的・複合的に「中核」と「周辺」というファクターが存在しているのである。であるから、ミースの提示した議論は非常に重要なものを含んでいるのは間違いないし、今後もミースの議論が色褪せていくことは想像しがたいが、ミースの議論と現実とのギャップがますます拡大していくことは充分ありえるだろう。グローバリゼーションの最新局面において、以上述べたミースの理論的前提でもある「中心−周辺」構造が変容してきている中で、個体レベルでもジェンダー分析の可能性を模索する動きが出てきている。
参考文献一覧
・ 足立真理子「予めの排除と内なる排除」『現代思想』2003.1青土社
・ I・ウォーラーステイン『近代世界システム』岩波現代選書1981
・ I・ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』岩波書店1997
・ I・ウォーラーステイン他『世界システムを読む』状況出版2000
・ I・ウォーラーステイン『世界経済の政治学』同文館1991
・ 伊豫谷登士翁『グローバリゼーションとは何か』平凡社新書2002
・ 伊豫谷登士翁編『グローバリゼーション』作品社2002
・ 上野千鶴子他『ラディカルに語れば・・・』平凡社2001
・ 小熊英二『単一民族神話の起源』新曜社 1995
・ 川北稔『知の教科書・ウォーラーステイン』講談社2001
・ サスキア・サッセン『グローバリゼーションの時代』平凡社1999
・ マリア・ミース『国際分業と女性』日本経済評論社1997
・ マリア・ミース他『世界システムと女性』藤原書店 1995