小熊研究会T最終レポート

『戦後思想』のディス・コミュニケーション化過程を追う

〜小熊英二『<民主>と<愛国>』より〜

総合政策学部二年 渡辺朋昭 学籍番号:70230217 ログイン:s02521tw

 

     はじめに

 本稿は基本的には小熊英二『<民主>と<愛国>』に沿って、その内容をまとめることを目的とする。しかし、その上であらかじめ断っておかねばならないことがある。それは以下のことである。

 本書において著者は、一方でマクロな視点に立って戦争状況や戦後日本の社会状況について論じている。しかし他方ではミクロな視点に立って、丸山眞男・大塚久雄・竹内好・江藤淳・吉本隆明・鶴見俊輔・小田実といった思想家や作家についても詳しく論じている。この点からわかるように、本書は非常に多面性を持っており、様々な読み方ができる著書である。したがって、本稿もある側面に光を当てた場合の読み方になる。そのことについて、あらかじめご了承いただきたい。

 

     要旨

『<民主>と<愛国>』のなかで著者は、「戦後思想とは、戦争体験の思想化であったといっても過言ではない」(794頁)と述べる。このように戦後思想の背景には戦争体験が存在する。また、戦後日本は敗戦による貧困状態にあり、階層格差も非常に大きかった。そのような社会状況は、戦後思想の形成と密接に関係している。

しかし、敗戦から10年ほど経過すると、日本の社会状況は高度経済成長期に入ることで大きく変化し、また人びとの戦争の記憶も風化してゆく。その中で戦後思想は、戦争体験や貧困といった背景が共有されなくなるがゆえに説得力を失うことになる。

本稿では、こうした戦後思想が説得力を失って理解や共感がなされなくなる過程を追っていきたい。それは、いわば戦後思想のディス・コミュニケーション化過程である。

 

     著者について

 ここで簡単に『<民主>と<愛国>』の著者である小熊英二氏について触れたい。

 小熊氏は」、1962年生まれで、1987年に東京大学農学部を卒業する。その後、出版社勤務を経て、1998年に東京大学教養学部総合文化研究科国際社会科学専攻大学院博士課程を修了。そして現在は慶應義塾大学総合政策学部助教授である。著書には、『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年)、『<日本人>の境界』(新曜社、1998年)、『インド日記』(新曜社、2000年)などがある。なお、共著として『<癒し>のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会、2003年)等がある。

 

     主題

 一言でいえば、「戦後」における、ナショナリズムや「公」にかんする言説を検証し、その変遷過程を明らかにすることが本書の主題である。これをより具体的に言い換えるならば、敗戦を経た戦後日本において「望ましい人間像」「理想的な国の秩序のあり方」「『公』と『私』の関係がどうあるべきか」というテーマについて、どのような議論がなされてきたのかを検証することが本書の主題となる。

 

     研究仮説

 まず、本書を理解する上での重要概念である「第一の戦後」と「第二の戦後」という言葉の意味説明から始めたい。

 時期にすると、「第一の戦後」は敗戦時から1954年までを指し、「第二の戦後」は1955年から1990年までを指す。

 次に具体的に両者の特徴について述べたい。「第一の戦後」は、敗戦による貧困と、闇市に象徴されるアナーキー状態といった秩序の不安定化が特徴である。このように「第一の戦後」は、いわば「混乱と改革の時代」である。それに対して「第二の戦後」の特徴は、高度経済成長、「55年体制の確立など」秩序の安定化である。言い換えるならば、「第二の戦後」とは「成長と安定の時代」であった。

そして「第一の戦後」と「第二の戦後」とでは、同じ言葉が異なる響きをもっていた。たとえば「第一の戦後」においては、貧困や階層格差のために「民主主義」や「平等」という言葉は、これから目指そうとする目標として響いていた。しかし「第二の戦後」になると同じ言葉が、「欺瞞」「横ならび主義」として批判すべき対象として響いていくことになる。

以上を踏まえて筆者は一つの仮説を提示する。すなわち、「第一の戦後」においては、「国家」「民族」「愛国」といった言葉も、「第二の戦後」とは異なる響きをもって語られていたのではないか。

たとえば、「第一の戦後」の特徴として「秩序の安定化」があるが、そこでは「国家」という言葉は、変革が可能な「現実」の一部として語られていたのではないか。それが「第二の戦後」にシフトすると、秩序が安定することで同じ「国家」という言葉が、人間を圧しつぶす所与の体制として語られることになるのではないか、と筆者は仮説として述べている。

 

     研究手法

 端的にいえば、本書は「言説分析」を研究手法としている。言説(ある社会の、特定の時代において支配的だった言葉の体系ないし構造)が、時期や社会状況の変化によって、どのように変動するのか検証する。

 そこで登場する本書の重要概念は「読みかえ」「心情」という言葉である。しかし、方法論に深入りすることは本稿の主旨ではないので、ここでは指摘するにとどめておく。

 

     本論

1.「第一の戦後」〜混乱と改革の時代

 そもそも、本書において「戦後思想」とは何を指しているのであろうか。著者は25頁で次のように述べる。

 

本書において「戦後思想」とは、戦争体験をもつ「戦後知識人」から生み出された思想のことを指す。したがって、戦争体験をもたない知識人とその思想は、本書でいう「戦後知識人」「戦後思想」に入らない。

 

 それでは、こうした戦争体験をもつ「戦後知識人」によって生み出された戦後思想とは、一体どのような背景を持つのだろうか。それは大きく分けて、以下の二点を背景にしている。一つめの背景は戦争体験であり、もうひとつは敗戦直後の社会状況である。ここからは、具体的に戦争体験や敗戦直後の社会状況が、どのようにして「戦後思想」の背景となっていったのか見ていきたい。

(1)   戦争体験と、それがもたらした心情

「戦後思想」は、その背景となった戦争体験を知らずして、理解することはできない。なぜなら「戦後思想」は、戦争体験や、それを通して植え付けられた心情をもとにしているからである。それでは、戦後思想を生み出す背景となった戦争体験とはいかなるものだったのか、そして人びとに果たしてどのような心情を植え付けたのだろうか。

第一に、巨大な共同意識の創出である。まず戦争体験は、当時の人びとに巨大な共同意識を植え付けた。「戦争体験は、戦争という悪夢を共有した者たちによって、一つの共同体をつくりあげた。職業も地方も、年齢も学歴も異なる人びとが、多くの言葉を必要としないまま共感を通わせる基盤ができあがった」(795頁)。そして、こうした共同意識を背景として、知識人たちの思想も一般民衆の心情とつながっていたのである。

第二に、死と結びついた崩壊感覚である。戦争体験は、少なからぬ人びとに言語を絶した心情を植え付けた。言い換えるならば、その心情とは現存の秩序や世界を、安定した必然と考えることができない不安感であった。

たとえば、作家の小田実は1954年に中学校(当時は義務教育ではないので入試がある)に入学した当時を回想して、こう述べている。「その前日か前々日だかに大阪は大空襲を受け、試験問題がすべて燃え上がってしまったのか、出願者全員が無試験入学。以来、私はすべての秩序がいつかは崩壊するという度しがたい信念の持ち主になった」。

こうした崩壊感覚から、「国家」や「公」を、人びとに根底から問い直す思想が創りださせた。たとえば丸山眞男などは、世界と未来の不安定さを前提に、国家の「建設」に参加する「国民主義」を唱えた。

(2)   敗戦直後の社会状況

それでは戦後思想の背景となった敗戦直後の社会状況の説明に入る。

戦後思想は、戦争体験のみならず、戦後の社会状況も背景となっている。すなわち、敗戦直後における日本の社会状況について語ることを抜きにして、戦後思想について語ることはできない。それでは、具体的に敗戦直後の社会状況がどのようなものであり、それがどのようにして戦後思想の背景となったのか見ていきたい。

第一の背景は、敗戦による貧困である。敗戦後の日本では、社会全体の貧困が大きな社会問題であった。そのことは、国連によるアジア極東経済調査によって調査された、1948年当時の国民一人あたりの推定所得から一目瞭然である。アメリカの推定所得が1269ドルであるのに対して、日本は100ドルである。ちなみにセイロン(後のスリランカ)が91ドルでフィリピンが88ドル、インドが43ドルであった。こうした状況を踏まえ、当時の日本の知識人の多くは、日本を「アジアの後進国」と位置付けていた。

そして、人びとはこうした状況のなかで、自然に政治への関心を抱いた。というより、貧困という現実を目の前にして、政治について考えざるを得ない状況が存在していたのである。たとえば敗戦直後の飢餓のなかで、憲法について小田実は「主食にイモをかじりながら、これが何故、<健康で文化的な最低限度の生活を営む>ことになるのか」と考えざると得なかった。小田の言うように、「実際私たちは、そのとき、憲法に対して、そうした激しいことばを叩きつけるよりほかに、大げさに言えば、生きる道はなかった」のである。

第二の背景となったのは、日本社会内部での経済的・社会的格差である。貧困と同時に、1950年代前半までの日本社会では、知識人と労働者、都市と農村のあいだには圧倒的な文化的格差が存在し、話題の共有もありえないというのが常識であった。つまり、人びとが地方と階層によって分断され、均質な「日本人」などという概念が、およそ通用しない世界であった。たとえば新聞記者の山本明は次のように述べる。「地方が開発され、都市も農村も同じ日本だと考えるようになったのは、1960年以降のこと」

こうした状況のなかで、人びとは、身分や地方の分断を克服した「国民」が成立した状況を志向した。たとえば左派知識人は、そのような分断を克服した状態を「単一民族」と表現した。それは志向すべき目標であり、人びとの参加によって「創造」されるべきものだったのである。

戦後思想は、以上のような戦争体験と社会状況を基盤として創りあげられた。そして「第一の戦後」においては、戦争の傷痕と貧困の現実が生々しく、社会秩序がまだ流動的だったため、「悲惨な日本を必ず私たちで建てなおす」という言葉が、それなりのリアリティをもって響いていた。また、左派の唱えた「私的利益の追求≠生活の向上=社会体制の変革」は当時の日本社会では、一定の現実感をもっていた。というのは、当時の日本社会全体が貧困であったため、労働者が個人で努力しても、得られる利益は少なかったからである。そうした状況では、労働組合のもとに団結してゆくことこそ、個人が「生活の向上」を勝ちとる最良の手段だったのである。

2.「第二の戦後」〜安定と繁栄の時代〜

 戦争体験や戦後すぐの社会状況に根ざした「戦後思想」は、「第二の戦後」に移ると、しだいに説得力を失っていくことになる。そのなかで、しだいに戦後思想のディス・コミュニケーション化が進行することになる。それでは、なぜ戦後思想は、「第二の戦後」において説得力を失ったのだろうか。その背景は二つあり、一つは「高度経済成長による、階層の縮小化と『大衆社会化』」で、もう一つは「戦争体験の風化」である。以下では、これら二つについて順に見ていきたい。

(1)   高度経済成長による、階層の縮小化と「大衆社会化」

 1950年代後半から、日本は経済復興と高度経済成長に入る。それによって、人びとの生活の変化は顕著になる。たとえば、この時期は冷蔵庫・電気釜・冷蔵庫を総称する、いわゆる「三種の神器」が徐々に家庭に浸透し始める。また、テレビの普及などマスメディアが飛躍的に発達するのもこの時期である。こうしたなかで、地方や階層の文化的差異が縮小し、「大衆社会」に移行する。結果として、貧しさと階層格差を背景としていた戦後思想の基盤が崩れることになる。

 また、同時に現われたのが、体系的な思想をもたない、無自覚なナショナリズムであった。これはいわゆる「大衆ナショナリズム」と呼ばれるものである。高度成長の進行とともに、生活の安定をもたらしてくれる「日本」への信頼と安心が、無自覚なナショナリズムというかたちで定着していった。

たとえば1960年に20歳前後の「日本をどう思うか」と尋ねた場合、「日本は立派だ」と答えた者は少なかった。そして「立派だ」と答えた人も、それなりの思考を経て「日本は立派だ」と答えていた。それが、高度成長の進行とともに、多くの若者が「日本は立派だ」と答えるようになった。あるいは、多くが「国を愛する」と言い切るようになった。だが、そう述べる若者の多くが「なぜそう思うのか?」という問いに返答できなかったのである。つまり、彼らは「日本のここが立派だ」という確信があって「日本は立派だ」と答えたのではなく、あくまで当たり前のこととして「日本は立派だ」と答えたのだ。同様に、「国を愛するとはどのようなことなのか」という反問や思考を経て「国を愛する」と答えたのではなく、「国を愛することは当たり前だ」と思ったからそう答えたのだ。こうした無自覚なナショナリズムが高度成長とともに定着していった。

(2)   戦争体験の風化

「戦後思想」のディス・コミュニケーション化の背景の二つ目が「戦争体験の風化」である。「第二の戦後」では、戦後思想の基盤であった戦争体験の風化が二つの側面から進行した。

 一つ目が「戦争を知らない」世代の台頭である。戦争を知らない世代は、戦争体験世代の心情を理解することができなかった。ということは、「戦後思想」の背景となった「現存の秩序はいつか崩壊するんじゃないか」という崩壊感覚は、秩序が安定した高度成長期以降は、およそ理解されないものとなっていったのである。結果として、戦争を知らない世代にとっては、戦争体験を基盤とした戦後思想の言葉が説得力を失うこととなった。つまり、戦後思想の言葉は戦争体験を持たない世代に共有されなくなったのである。

 二つ目は「記憶の形骸化」である。一点目は戦争を知らない世代による戦争体験の風化について述べたわけだが、戦争体験世代にとっても「戦争がすでに各人の体験と実感を超えた抽象物になりかけて」(日高六郎、1956年)いた。そうなることで、戦争は美化の対象となったり、あるいは戦争の記憶は感傷的に語られるようになったのである。つまり、一方で戦争を美化する「戦記もの」が「勇戦敢闘」や「純粋無雑」を強調していったが、他方では戦争の悲劇を伝えようとする「戦争体験もの」は、「悲劇」や「労苦」を情緒的に語る傾向が現われていったのである。

 このような「戦争の美化」と「記憶の感傷化」に対して、戦争を知らない世代は反発した。戦争を体験していない世代は、年長世代への対抗手段として、戦争体験者の「被害者意識」を批判して、「加害」を強調した。

 こうして戦後思想の活力であり、最大の背景であった戦争体験は風化する。そして戦争体験という戦後思想の基盤は崩壊していくことになる。

 以上のような経緯で、「第一の戦後」に創りだされた戦後思想は、「第二の戦後」においてその基盤が崩壊するために、説得力を失うことになる。そして「第二の戦後」では、戦後思想は「戦後民主主義」と一括されて批判対象となっていくことになる。

 

     結論

「第一の戦後」において戦後思想の言葉は人びとにとってリアリティをもち、説得力があった。それは、戦後思想が戦争体験を最大の背景としていることと、当時の日本の貧困や巨大な階層格差が存在していたからであった。しかし、「第二の戦後」において日本社会は高度経済成長期に入り、階層格差も縮小した。また「戦争の記憶」も年月が経つとともに、しだいに風化することになる。そのなかで、戦後思想の言葉はしだいに説得力を失い、共有されなくなっていった。そして、ほんらいは多様で混沌としていた戦後思想に、「戦後民主主義」という一枚岩の総称が付され、「戦後民主主義」といえば「欺瞞」「近代主義」「市民主義」「護憲」であるとして批判されてゆくことになる。

 

     参考文献、参考URL

小熊英二『<民主>と<愛国>』(新曜社、2002年)

小熊英二『<日本人>の境界』(新曜社、1998年)

小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年)

小熊英二・上野陽子『<癒し>のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会、2003年)

小熊英二・姜尚中「ナショナリズムをめぐって」(『青春と読書』集英社、20035月号)

小熊英二・上野千鶴子「戦後思想の巨大なタペストリー」(「週刊読書人」2003年1月1724日号対談)

「日本のナショナリズムを探る」(http://www.tokyo-np.co.jp/doyou/text/d80.html

「小熊英二さんに聞く(上)(下) 戦後日本のナショナリズムと公共性」(SENKI11101111号)(http://www.bund.org/opinion/1110-5.htm)(http://www.bund.org/opinion/1111-4.htm