70年代 日本の障害者運動「青い芝の会」
〜自らを語る者たちが残したもの〜
総合政策学部4年 森谷真樹 s00925mm
1. 年表
・57年 発足
「すべての脳性マヒ者[i]の更正と親睦の為の、社会福祉団体で脳性マヒのみんなが手をつなぎ踏まれても踏まれても青々と萌えていく芝のように立ち上がろうとする会」[ii]
・70年 運動は展開を見せる
横浜で、母親が2歳の障害児を殺す事件が起きる。近隣の住民や同じように障害児をもつ親らを中心に、減刑を嘆願する運動が起こる。
これに対し、青い芝は、減刑反対の運動を起こす。福祉政策が不十分であることが障害児殺しの正当化にはならないし、そこで言う福祉自体が隔離・管理という形での障害者棄民政策に他ならないと彼ら/彼女らは主張した。[iii]
これ以後、青い芝の運動は大きく、過激になる。
・72年 優生保護法[iv]改正に反対
「胎児が重度心身障害を持つ可能性がある場合」の要件が優生保護法に加わる問題に対し、青い芝は断固阻止の構え。(結局、この改正(改悪)は障害者団体の反対で行われなかった。)
・73年 小田急線梅が丘駅スロープ運動
梅が丘駅へのスロープ取り付け交渉を進めるが、小田急側は「障害者は客じゃない」などの反応。
「メンバーを募って二班に分かれて行動することにしました。新宿駅構内と、私一人が南新宿と新宿の間の踏み切りへ行き、文字通り「身体を張って」電車を止めました。もう死ぬ覚悟でやりました」[v]
・77年 バス会社による車椅子利用者の乗車拒否問題
28台のバスを占拠
・79年 養護学校義務化[vi]に反対
2.青い芝の主張
@ 「障害者」であることの積極的肯定(差異の主張)
「脳性マヒ者としての真の自覚とは、鏡の前に立ち止まって(それがどんなにつらくても)自分の姿をはっきり見つめることであり、次の瞬間再び自分の立場に帰って、社会の偏見・差別と戦うことではないでしょうか」[vii]
健全者中心の文化に生きる障害者は、どうしても健全者への憧れを抱きがちである。「内なる健全者幻想」(横塚)を持っている、というのである。しかし、青い芝はこの道を行かない。有用な文化資本となりえない障害者が主流の文化・システムに参入しても、失敗の可能性が高い。この罠の匂いを敏感に嗅ぎ分け、青い芝はあえて健全者の社会に背を向け、自分たちの文化・価値観を主張する。
A 優生思想の否定
B 「自立」の要求 〜自己決定権の要求〜
「1960年代前半まで「重度障害者」は障害者施策の対象とさえなっておらず、施設整備などの公的な対策の必要性が論じられるようになるのは1970年代に入ってからである。障害をもつ当事者の団体である「青い芝の会」は、こうした状況を「親がかりの福祉」と呼び、1970年代前半から批判運動を展開し」[viii]た。親がかりの福祉では、十分な自己決定権[ix]が得られない。彼らは自己決定を妨げる「代行」の一切を拒否するため「親は敵だ!」「介護する人は自分たちの手足だ!」といい、「完全な所得保障」を求めた。
C 能力主義の否定
現在の社会システムは、私的所有(「自分の生産したもの」は全て「自分のもの」とすること)の上の能力主義である。ここにおいて、機会の平等は確保されなければならないが、「個人能力の差」は肯定される。
↓
では一体、障害者にあたって、機会の平等が仮に、もし仮に確立されたとして、健全者と競争することはできるのか?
↓
できる人もいれば、できない人も多い。身体に障害を持つ人、軽度の知的障害者なら何らかの競争ができる。しかし、重度の知的障害者が、果たして競争できるのか?できないかもしれない。
↓
結局のところ、今ある能力主義はある人々(主に健全者)の都合に合った一システムの形態に過ぎない。「自分の生産したもの」→すべて「自分のもの」でなくてはならない理由はない。ただ、それが都合がいいだけだ。もっと別のシステムもありうる。
↓
最終的に、青い芝を含めた70年代の障害者運動は、健全者と同じ土俵に立つよりも、「ただ食い」(完全な所得保障)を求めた。
3.青い芝運動に寄せられる批判
・障害者の文化について
自分たち(障害者)の文化・独自の価値観とは何か?について、青い芝は具体的なことを言えなかった。
「新たに構築されるべき文化のよりどころをどこにおくか、具体的な根拠を欠くままに進められたその運動は、長年の過酷な抑圧状況の下で醸成された対抗的なパトスや、新左翼運動・カウンターカルチャー運動が盛り上りをみせていた、当時の社会情況ともあいまって、本来の目的である創造よりも対抗それ自体を優先させてしまうという陥穽におちいってしまったのである。」[x]
→ 横山担当の障害者文化に関する話へ。
・完全な所得保障について
二つ問題がある。一つ目として、まず論点のすり替えに青い芝は気がつかなかったとされる。完全な所得保障は、「家族からの」「施設からの」自立を求めるものだった。しかし、行政側から考えると、この話は受け入れやすいものだ。完全な所得保障といっても、無制限の保障をするはずがない。どこかで折り合いはつくはずだ。行政としては、公的機関が介護を全て任せられるよりも、障害者個人に自立を「買って」もらう方が、格段に負担が少ないのだから。[xi]
二つ目。完全な保障を仮に得られたとしても、それだけでは自立できないものもいる。重度の知的障害者など、自己決定ができないものがいる。彼らには自立を与えないのか。自己決定できないものを切り捨てることは、もう一つの能力主義でしかないのではないか?
◆ 「自らを語れない者」をどう考えるのか?
→ 高橋担当の自己決定・私的所有の話へ。
[i] CP(Cerebral Palsy)とも呼ばれる。運動中枢の故障によって起こる、手足の動作や発語が不随意になる症状。現在の医学では直すことは非常に困難とされる。
[ii] 「青い芝の会」神奈川県連合会機関誌『あゆみ』創刊号(1965年11月)「脳性マヒとは」(を引いた『弱くある自由へ』p.96よりさらに引用)
[iii] こうした運動から、青い芝を代表する5項目の「行動綱領」が示された。
一、われらは自らがCP者であることを自覚する。
われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。
一、われらは強烈な自己主張を行う。
われらがCP者であることを自覚したとき、そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である。われらは強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。
一、われらは愛と正義を否定する。
われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
一、われらは問題解決の路を選ばない。
われらは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行うことのみわれらの行いうる運動であると信じ、且つ行動する。
一、われらは健全者文明を否定する。
われらは健全者文明が創り出してきた現代文明がわれら脳性マヒ者をはじき出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動および日常の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明を告発することに通ずることを信じ、且つ行動する。
[iv] 優生保護法
1948年に施行。戦後の食糧難の中、認定(許可)された医師による中絶を刑法堕胎罪に問わないとする法。「優生」とは、優れた遺伝形質を子孫に伝えることで、名前の示すとおり「不良な子孫の出生防止」の考え方が堂々と記載される。優生保護法では、本人や配偶者が遺伝性の精神・身体疾患を持っていることが優生手術(不妊手術のこと)の理由として認められていた。
1996年、障害者差別となっているこれらの部分を削除、人工妊娠中絶の対象は母性の生命・健康を目的としたものに限られ、母体保護法と改名された。
[v] 『自立生活運動と障害文化』収録「不屈な障害者運動」横山晃久p.267より
[vi] 障害児の就学猶予・免除をなくし、障害児を盲・ろう・養護学校へ入学することを義務化する、というもの
[vii] 『母よ!殺すな』横塚晃一 すずさわ書店 1981 p.72(を引いた『障害学への招待』p.225をさらに引用)
[viii] 荒川章二・鈴木雅子1997「1970年代告発型障害者運動の展開:日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」をめぐって」『静岡大学教育学部研究報告(人文・社会科学篇)』:13-32(を引用した「障害者家庭」へのまなざしの変遷−政策作成側と当事者運動側の緊張関係をみる− 土屋葉 2000 http://www.arsvi.com/2000/000000ty.htmよりさらに引用)
[ix] 青い芝メンバー達が「自己決定権」という言葉を使っているわけではない
[x] 『障害学への招待』 「異型のパラドックス」倉本智明 p.228
[xi] 土屋 2000を参照