2003年度小熊研究会1 障害学報告
立岩真也「私的所有論」
環境情報学部4年高橋直樹
◆著者紹介
立岩真也 1960年 佐渡島生まれ
1990年 東京大学大学院社会学研究科博士課程終了
現在 立命館大学先端総合学術研究科助教授
第一章 私的所有という主題
・ 医療倫理の世界では「自己決定」を軸とする考えが現在主流である。
近代的な意味での所有権=処分権であり、この意味で「私的所有=自己決定」である。
「私が私のもののことを決める」を肯定するとして、
・ 何が私のものなのか?
・ なぜそれが私のものなのか?
・ 私が私の働きの結果をものにする、という原理だけでよいのか?
・ そのものに置かれることには同意するが、譲渡は肯定できないものがある
・ 私達の国の「生命倫理学」では、「自己決定」「説明の上での合意」が中心
本書は、市場/政治/家族/それ以外の自発的な関係、によって構成される社会で
各々の領域にどんな権利や義務が付与されているかの検証と、評価を行う試み
の一部である。
今までの社会科学を中心として、これらの問いの歴史はどうか?
・ 私的所有は、資本主義や市場経済など体制をめぐる取り分の対立として
・ 1960年代、人間主義的な批判として労働の「疎外」批判として
・ 構築主義的に〜は制度である、権力による産物であるとして
まだ記述されていないことを、記述する試みである
第二章 私的所有の無根拠と根拠
1、自己決定は、他者危害の原則にそむかない限り、自明だとされる。
だが、そもそもの配分事態がすでに危害を与えているということはないか
・近代の所有の特徴は
・ 個人単位であり、
・ 独占的かつ自由な処分が認められ
・ 実際に、所持、利用という具体的な行為に根ざさない。
この3点を認めたとしても、まだ現在の配分を正当化するロジックはない。
2、「生産・制御→所有」がロック、カント、ヘーゲルにも見られる正当化である
⇔結果に対しての貢献が不明瞭である行為(人間の営為のみ前提にしている)
自分自身という起点に関して、自分は貢献していない。
★ 「自分が制御するものは自分のものである」にそれ以上の根拠はありえず、
一つの信念として、そうであるべきだと主張しているに過ぎない。
(よって「より多くを製作することが、人間的で良いことだ」も同様)
「自由」という価値はそもそもの配分には何も言わない。
3、私的所有を認めたことによる結果でもまた現在の配分は正当化できない。
パレート最適、機能主義的な観点の有効性は認められる(私的所有・市場・能力主義)
しかし、これらの観点を徹底させて功利主義的な「サバイバルロッタリー」を
考えるとそれが「私的所有」より「有効」であることを否定できない。
生命を、自分で制御しているわけではない→「制御」でも否定できない。
第三章 批判はどこまで行けているか?
1、 情報の提供を求めるのみでは、情報が十分であればよいことになる
自己決定が自己かどうか疑う姿勢は、十分な批判にならない(自由意志はあるか?)
2、 公平性からの視点だけでも、技術が共有された場合、
臓器の売買に特化した批判を説明したい場合には足りない。
(「公平」であれば、とくに批判する理由はなくなる)
3、 決定する「私」の主体性を守る視点ではなく、交換、比較の対象になってはならない
とするものの位置が主体にだけ置かれる視点もまた、不十分である
第四章 他者
1、 サバイバルロッタリーを否定する感覚は、ただ「そのままにしておく」ことである。
→私が制御しないもの、「他者」の他者性を奪ってはならない
制御しない、決定しないこと、他者、世界を制御不能だからこそ享受している。
私が全てを制御する場合、全ての世界は私の延長となってしまう。
・ 「他者が私達を作ったから他者を尊重する」ではない、「他者との一体感」が大事なわ
けでもない←「他者が在る」というのは、同じであることと、等しくはない
・ 私の身体も私にとって他者でありえる
・ 危険だから自然のままにするのではない
自然法則を守るのでもない、そのように言われる「自然」ははたして自然か(そもそ
も私達は「自然」に従っている、逆らえない)
世界は私に現れた世界であり(でしかなく)、制御不能であるがゆえに享受する
・ 「<他者>があることの受容」は、日々の選択、作為を否定しない
制御する欲望もあるが、制御しないことからくる欲望もある、他者があることは快楽
生命に限らず、生の様式も許容されるべきだろう。
2、 作為しないこととすることの境界線はどのように決められるか
あるaをAのもとに置かれる場合とは
・ 私達が受け取りがなければ仕事をしないというあり方を生きる
・ 行為と経験を介し、それがAにとって手放せなく、Aが宿るものになった
・ それがBを侵害しない
関係の透明性ではなく、他者が居ること(分かることでなく)
3、 私的所有としての自己決定権は否定され、その人のあり方を尊重するため確保される。
自己決定は周囲の負担のため得られなかったり、周囲の都合のため認められたりした。
ただしある自己決定を悲惨だと言いうるのは、以上で示した感覚である。
4、 技術による改変は、私については、やがて飽和を迎えるだろうし、
他者によるものは、自己決定を尊重するからでなく、他者が他者でなくなるから忌避
5、 生殖技術に関して
受動性において享受されるものには、手段として利用されることに慎重であるべきだ
禁止することは出来なくても、そのような自己決定は制限されうるし、
それがいつも強いられるがゆえに貧者は悲惨だ、と不平等が問題化する。
・ 失うものは何か(体外受精、卵、受精卵の提供、代理出産)を考えて不快さが
あるとき、自己決定だとしても疑問が残る。
・ 得られるものは、自己決定する人以外が欲するものではないか
(自己決定を認めるとしても、他人が自己決定を要求しないことはできる)
子が登場するとは、産む者の身体において何かが他者になっていく過程だと捉える
→それゆえに代理母の心変わりは擁護されうるし「必ず渡す」契約は認められない
実際に産む者がまず母であり、第一に親となる
代理母、積極的優性に関しては、自己=親の欲望として生まれてくることへの不快
第五章 線引き問題と言う問題
1、 私的所有の思想で語られた他者の尊重は「人格」「自己決定能力」を要件としていた
ここで述べるのは、他者が他者であること、人が人であることに根拠を設定しない
→では、全てが他者なのか?他者と他者でないものをどう分けるか
2、 客観的な基準はありえない。(規範に関して、事実から線は引けない)
「その他者自身に決定をゆだねることが出来ないときに、
近いことにおいて他者を消去することを最も躊躇してしまう存在の言うことを
聞こうという立場。」
3、 人間を特権的に扱う理由として「ヒトという種」を根拠とすると人種も根拠になる
人を特権的に扱うとは差異化であるから、資格を求める主張は説得力をもつか。
→資格論は差異化で、人の扱いが差異化であること同型であるが、
なぜそれが殺して良いことにつながるか、
・「人は人から生まれる、人は人以外のものを生まない、人から生まれるものが人であり、そうでないものが人ではない」
「殺さないものとして、現れてくる過程がある」この二点をあわせて
→単に育てるからではなく、まず倫理という人間中心的なものを扱う私達のなかのA
において、他者として現れてくるBがあるとき、それを殺さないという位相がある
・あらゆる線は、私達が引いている。どんな線であれ、私達の側からの思いである。
4、 基準が必要とされるとき議論が行われるが、判断する側の位置を問題としていみる。
自己決定は自己決定内部での「正しさ」を考慮しない
→「同一のものは同一に扱うべし」という普遍性は破られている
Aのもとにしかxが現れない経験があるとき、それを他者性として尊重する
(Aがxを制御しているからではなく、他者がそれを制御しないからだ)
ただし、xがどんなものであるかに基づく他者の制御をAが試みることは抵抗がある
何かを制御することが所有権を正当化せず、そのような能力が生存権を正当化しない。
第六章 個体への政治
1、 自由(不関与、寛容)の領域の設定の背景はなにか
近代の成果としての「属性」の切り離し、内面への不関与がある
→それらは同時に均質な関与・権力の行き渡りと、個人の制御能力を求める。
2、 積極的な個体関与の諸実践としての「主体化」
人=労働能力という市場の判断としてのみならず、公教育の場が実質的な基盤と、そ
の教化の場として働いてきた。実力主義は、どこまで出来るかとわからないため希望
を抱き→個人は、可変的な自己を求め、社会も「成長」可能になる
3、 自己制御機構の埋め込み+社会全体の生産への関心→個体に内在する質の優生学へ
積極的・消極的優生学の試み、ラマルキズムの台頭、平等化の否定
ナチズム以後の優生学の「消失」←そのようでない優生学の不可視化
4、 遺伝を主体以前の起点とすると、自己原因→私的所有の論理と食い違う
→生得因も環境因もそれぞれに根付く改良の試みが並存していく
第七章 代わりの道と行き止まり
1、 近代でも既存の階層構造は維持される生得説はそれを肯定、
環境説は、機会、環境の不平等さを改善する左派を捉えるという構図になる。
能力主義を肯定し、ヘッドスタートでよいとする説
遺伝説の間違いに対しての批判は、間違っていない生得説には有効でない。
→間違っていない生得説・間違っていない優生学に対して何をいうか
これら批判の中心は、原因→結果、原因とならなければ責任はない、の構図であった
2、 ロールズ「無知のヴェイル」を使う保険の原理は、
保険に入りたくない人間、無知でなくなったときには向こうである。
3、 介入に対しての「自己決定」による否定は、自律的な存在であることを資格とする
→優性学、死の介助に関して言えることはほとんどない
4、 私的所有体制・能力主義原理を完全否定する主張は実現不可能ではないか
資本主義のあり方を否定するのか→革命の停滞へ
フーコー的な管理社会論の権力の痕跡は歴史として発見される→以後どうするか?
5、 生産を良いと認め、死や苦痛を悪いとすることをひとまず認め、
この社会を覆うものに対しての抵抗も認める
→だがAとaの結びつきも必然ではなく信仰に過ぎない。Aの価値をBに適用するこ
とも悪いとする。
第八章
1、 能力主義⇔全体的な評価あるいは全面廃棄なのか
選抜は日常的であり、「真性」の有用性があることに関しては能力主義しかないのか
2、T<私が作ったものが私である>の否定
他者を手段とすること批判→行為の手段性と人の存在を分ける
能力をその個人のものとすることを問題とする批判に対し
→個人生産=個人所有ではなく生産者生産=生産者所有を問題化する
ことへ問題転換
↑手段性・個別性そのものは不可避である。
3、U<能力に応じた配分>の否定+肯定
Aがaを処分できてしまう、その欲望全てを否定せずに
「再分配しかしない国家」、「市場+再分配」を採用する
再分配を税として徴収することに対しての反発は、生産物を私的所有することの正当化になりたつ、それゆえこの構想のもとでは肯定されない。
4、<能力>しか評価してはならない>の肯定
所有・契約の原理、T、Uからではなく、他者性を奪わないために否定される
5、結論および再確認
1、〈私が作ったものが私である〉の否定
a1は、Aから切り離されるし、Aに排他的に所属しない、またAであることに関わらない。
2、〈能力に応じた配分〉
a1は、分配の対象となるし、交換の対象となる
3、〈能力だけしか評価してはならない〉
a2は、Aから切り離されない、Bの評価・制御の対象にはならない
さらに、他者として、誰かからみなされるもの全てではなく、人から生まれたことにより人だと感知してしまうような存在であることが、他者の要件になる。
・人が集まる場(αを含む)では、隔離を禁止する(教育に関して親子関係の問題が残る)
・遺伝子検査によりαをもとにした差別的な振る舞いがあるなら禁止される
・他者を制御したい願望はある、だがそれは実現されると魅力を失う
第九章正しい優生学とつきあう
1、 障害者の生きる権利⇔女性の産むことに対しての自己決定という出生前診断
・ 不幸であることが社会的に規定されており、我々は不幸ではないという主張だけか
そもそも<不幸>な子供を生まない=<不幸>な子供が居なくなったではない。
それは<不幸>な子供と、別な子供が生まれてきただけであり、育てる人間、我々社会のコストが減ると考えられているだけである。(あるいは功利主義者の肯定)
・ 生むことの選択はやはり生む人間にあるのではないか
←負担が、女性・母親のみに担わされることにも起因するだろう
2、 女性の自己決定ではない、対象は自己ではない。
「産む/産まないは女の権利」を認めるが、「どのような人を迎えるか」を決定することと同じではない(これ自身「女の問題」とされることにも問題がある)
3、 当事者はいない、これはいかなる決定であれ当事者の決定ではない
抹殺だから禁止できるわけでもない(それならば人口妊娠中絶も抹殺になる)
4、 この社会にある者の営みである、他者の質をあらかじめ決めることである
批判するとしたら、そのことをめぐる「卑怯さ」に向けられる
(負担・苦労も認める、しかし多くは社会的なまなざしもあるだろう)
・苦痛がなく(正)存在する(正)ものと、苦痛があり(負)存在する(正)ものを
どちらも「存在する(正)」は想像であるため薄れ、後者のみを較べている。
しかし、現実に(正)を消してもいない。
・「障害者福祉」と「選択的中絶」が両立したとしても、批判はありえる
出生前診断の一部は、優生思想のもとにある(行う主体が国家か女性かの違いのみ)
→優生思想の問題点は、国家によるものであること、間違いであることに留まらない
5、 ある時期までの妊娠中絶は、現れを最初に感知する女性の位置により、認められる
しかし、胎児条項の設定は認められず、子自身に苦痛がない属性の情報請求は拒絶さ
れる。
→家族の扶養義務は制度的・実質的に、解体・縮小され、社会全体が負う
6、 積極的優性については、他者である性格を奪う試みであるから不愉快であり、
選ばれた性質に関わらず否定される。
・教育は、他者性がそもそもある上で行われる
→「選んで産む」はそれと区別して否定され得る
7、 引き受けないこと
女性の産む/産まない権の主張は、国家、男による強制のもとであり当然であったが
それがある基盤には、他者性をあらしめるためのコストもある。
他者性を消去することへの否定があるだろう
→コストの問題から福祉国家の介入を避け、他者として現れてくるものを
選ばないことを模索する。
子が「私」に属するという思いを軽くし、その者たちとその者たちの関係を
支えるためのいくつかの手立てをとることは出来るだろう。
参考文献
永井均「倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦」(2003産業図書)
加藤尚武「応用倫理学のすすめ」(1995、丸善ライブラリー)
岡本裕一郎「異議あり!生命・環境倫理学」(2002、ナカニシヤ出版)
Peter Singer「Practical Ethics」=P・シンガー「実践の倫理」(1999 昭和堂)
石川准・長瀬修「障害学への招待」(1999年赤石書店)