「在日」のアイデンティティと社会運動
――日本社会への「同化」と「分離」の対立軸を通して
総合政策学部3年
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宮内 一
0.はじめに――「同化」か「分離」かという対立軸について
■「朝鮮人衆院議員 朴春琴」
1891年慶尚南道(韓国)生まれ。1907年頃渡日し1930年代に東京4区から衆議院議員に当選する。だが、戦後は「在日」、祖国においても「売国奴」「裏切り者」のレッテルを貼られ1973年に東京で没する。
朴の基本的な思想としてはその著者『我等の国家 新日本』[i]から知ることができる。朝鮮人が求めるものは独立ではなく「日本人」としての平等だという。「朝鮮民族を真に愛するならば、即ち併合の詔書に宣ひし『一視同仁』の聖旨を奉体し、日本民族同様の幸福を授けやうとならば、朝鮮の2000万民を日本民族に仕立てる覚悟がなければならぬ」[ii]朴は、独立や自治の可能性はなく、たとえ困難でも「日本人」への同化による平等獲得しか道はないと断言する。1932年衆議院の解散とともに朝鮮総督府など日本側の支援を受けて立候補、当選。議会で主張した内容は、朝鮮への参政権および兵役義務の付与、内地―朝鮮間の渡航制限の撤廃、満州移民の促進などであった。彼はマイノリティゆえに、大日本帝国の支配的価値観にあくまで忠実に従い、「内鮮融和」や「一視同仁」を掲げた。政府側もそれらを朴が掲げている以上、正面から否定はしなかったが、彼の言うことは事実上無視されつづけた。彼は模範の「日本人」になるように努力する[iii]が、政府への信頼の喪失、バックグラウンドの組織の弱体化などに伴い、次第に「日本人」としての揺らぎが起こる。屈折した「朝鮮人」の心が現れる(資料1)。
⇒1世の朴春琴でさえ、「同化」か「分離」かという対立軸ではとても整理することはできない。
T.戦後の日本の政策−如何にしてマイナスイメージは内面化されたか
■植民地時代より「チョーセン/チョーセンジン」は蔑視の代名詞
日本社会のピラミッドの最底辺に編成される
ex.「チョーセンジンは血が汚い」「チョーセンジンは民族的に劣っている」
■戦後の日本政府は一貫して「同化」政策を行ってきたと言われているが・・・
マイノリティとしての「在日」に対する考えうる4つの政策
→<人権の論理><同化の論理><排除の論理><抑圧の論理>に基づく政策
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人権の論理 |
同化の論理 |
排除の論理 |
抑圧の論理 |
|
植民地支配の「謝罪」と「補償」 |
○ |
○ |
× |
× |
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帰国希望者の実現 |
○ |
○ |
○ |
× |
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在留者への基本的人権の保障 |
民族学校認知と財政援助 |
○ |
× |
△ |
× |
参政権の付与 |
○ |
○ |
× |
× |
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外国人登録の対象 |
× |
× |
○ |
○ |
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1952年時点での国籍選択の自由 |
○ |
○ |
× |
× |
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社会的差別の抑止 |
○ |
△ |
× |
× |
表1:『在日韓国・朝鮮人』福岡安則 第一章「在日」の歴史より作成
◆<抑圧の論理>に基づく政策
日本政府は、みずからの植民地支配政策によって生み出した「在日」という存在を、日本社会にとって“厄介な”存在として、単なる治安維持の“管理”対象としてのみ、見なしてきた。
■1945年の敗戦後から講和条約成立の間、「日本人」と「在日」の人の地位が逆転
それまでの差別を行ってきた日本人側が「在日」の反発を恐れて、腫れ物に触れるような扱いをするようになる。「在日」は闇市場などを形成して必死に生きるだけのことだった。
→「チョーセン/チョーセンジン」は「怖い人」「いかがわしい」というイメージが内面化される。ex. ホルモン焼き
■日本人による「無意識の」差別
日本人が意識していないところで「在日」は追い込まれ、自分達で固まろうとするか、「日本人」になりすまして適当に演技をする
→「日本人」と「在日」は永遠にまともなコミュニケーションはできない。マスコミの報道[iv]により「在日」についてのイメージがつくられ、朝鮮についての無知、さらに現代韓国や北朝鮮[v]についてのイメージが加わり、「チョーセン/チョーセンジン」というイメージの再生産・強化が行われる。
■「在日」による「在日」のマイナスイメージの強化
自分と同じ生活背景を持っている者を見ることで、自分の心の傷や影が投影されていることに気づかされたり、同じ穴のムジナ同士の牽制が働いたりする。これに日本人/日本社会が創りだした「在日」のイメージが働くと、自己否認と自己否定に陥る(資料2)
⇒「同化」か「分離」か
U.「在日」のアイデンティティ
■ 「日本人」対「韓国・朝鮮人」という二項対立
「在日」は分類不能の存在
→日本人にとって「在日」は「外国人」
→本国の韓国人・朝鮮人にとって「在日」は「半日本人(パンチョッパリ)」、あるいは「在外同胞」
■「アイデンティティ」と「帰属」
「アイデンティティ」→主観的な意味合いでの帰属
「帰属」→客観的な意味合い(≒国籍)
⇒両者にズレがあると、アイデンティティに揺らぎが起こる
V.「在日」の社会運動の変遷とアイデンティティ
■50、60年代―民族団体を媒体にした「上からの組織運動」(1世世代)
「民族教育を否定する法案」(65年)、「出入国管理法案」(69年)廃案へ
→飢えと貧困の中で明日の生活を確保するためには民族よりも生きていくことを優先
⇒結果的には国家や組織を媒介に民族差別と闘い、民族性を守ることになる(民族解放)
(北朝鮮支持組織としての朝鮮総連は積極的に帰国を推進していた)
■70、80年代―公民権運動の始まり「個人の思いからの市民運動」・「在日」と日本人の共闘(2世、3世世代)
「日立差別就職裁判」(70〜74年)、「公共住宅の入居資格」「児童手当の支給」国籍条項撤廃(74〜75年大阪府/市・兵庫県尼崎市)、「国公立大学外国人教授任用運動」(75年〜82年兵庫・滋賀・愛知県)「公務員国籍条項撤廃運動」(83〜84年大阪八尾市)「指紋押捺制度廃止運動」(80〜89年(指紋押捺制度は89年3月の外国人登録法の改正で全面廃止))
→「差別を克服し、民族や国境を越えた平等な社会の実現を志向」⇔「在日として民族的異質性を維持し、民族的に生きる」
⇒国籍という差異を維持したまま地域住民としての日本人と平等の権利や処遇の「当然性」
■90年代―「草の根運動」からの地方参政権要求(3世、4世世代)
・当初から総連も民団も参政権獲得には否定的
・90年前半は各地で法廷闘争が行われる→いずれも敗訴
・95年最高裁の判決における附則で「国内永住者など自治体と密接な関係を持つ外国人に、法律で地方選挙の選挙権を与えることは、憲法上禁止されていない。」とし、「(そのような)措置を講じるかどうかはもっぱら国の立法政策にかかわる」とした。
・95年頃より民団も参政権要求に積極的に
・その後、当時の連立与党三党(自民・社会・さきがけ)が定住外国人に参政権を与えるか議論→しかし、政治的状況により議論は立ち消え状態に
・98年10月当時金大中大統領「日本で税金を納め、大きな貢献をしている。参政権を与えて欲しい」と呼びかけ
・呼びかけに応え、民主・公明・共産各党は法案をそれぞれ作成し、衆議院事務局に提出
☆ 一連の社会運動の背景には日本を取り巻く国際状況の変化ということを考慮する必要がある。日韓・日北朝鮮の二国間関係や、国民難民条約や人種差別撤廃条約といった国際条約発行の影響である。
■ 「在日」のアイデンティティ―1世、2世
1世―祖国から移民としてやってきた彼らは、「ディアスポラ」として日本で差別と迫害を受けることで、祖国への思いを強め、コリアンとしての「集合的アイデンティティ」を形成。⇒「分離」
2世―総連という組織の中で事故のアイデンティティを北朝鮮の「在外公民」という政治的言説に位置付けることで、1世がつくりあげた「集合的アイデンティティ」の呪縛にとらわれる。⇒「分離」
■「在日」のアイデンティティ分類―90年代の若者世代のアイデンティティ
≪図1≫ 「在日」若者世代のアイデンティティ構築の分類枠組み
出所 『在日韓国・朝鮮人』福岡安則
◆ 「共生志向」タイプ
日本社会への愛着度高く、それと同時に抑圧された朝鮮民族の歴史に強い興味を示す人々を表している。日本社会での差別を無くし、違いが基本となった社会の実現であり、日本社会と「共に生きる」ということを目標としている。「在日」としてのアイデンティティの確立を目指す。
◆ 「祖国志向」タイプ
日本社会への愛着度は低いが、抑圧された朝鮮民族の歴史に関しては強い興味を示す人々である。朝鮮半島の発展と統一に対し貢献することを課題として、朝鮮総連系の民族学校に通い、祖国の歴史・言語・文化を学ぶ。その結果として朝鮮民族としてのアイデンティティが確立される。日本人との交流はほとんどない。
◆ 「個人志向」タイプ
日本社会への愛着も弱く、抑圧された朝鮮民族の歴史に関する興味もそれほど持ち合わせていない人々である。自己の確立、個人的成功を目標としている。自分たちの能力に自身を持っており、海外経験や、日本での上昇移動(出世)によって自分たちを取り巻く環境を変化させることができると信じている。
◆ 「帰化志向」タイプ
日本社会への愛着がとても強く、抑圧された朝鮮民族の歴史に関する興味もそれほど持ち合わせない人々である。帰化することによって、差別を味わうこともなく生活できると信じている。通名を使用することによって自分が朝鮮民族であるということを隠す。自分の国は朝鮮半島ではなく日本であり、朝鮮民族に対する歴史はもう済んだことであり、今ではどうすることもできないと考えている。
◆ 「同胞志向」タイプ
“母国としての韓国”と“自分の住む国としての日本”への双方の愛着を持っている民団傘下の「在日本大韓民国青年会」に結集している若者がこのタイプである。「共生志向」タイプと「祖国志向」タイプの中間に位置付けられる。課題は「在日同胞」のための「権益擁護」と「処遇改善」をかちとることである。
⇒「在日」内での分化が起きるが、「同化」志向を基調としたアイデンティティ形成のように感じられる。もしくは個人個人の「在り方」の現れなのかもしれない=「パフォーマンス」
■「在日」の動態
◆民族学校通学者の減少
「在日」の小中高校生約15万人、うち19,500人(約13%)が朝鮮学校、1,600人(約1%)が韓国学校、残りの13万500(約86%)人が日本の学校に通う
◆朝鮮総連の役割の変化
金正日が総連に対して「北朝鮮追随の政治活動を改めて、在日朝鮮人の互助組織としての活動に重点を移す」よう指示[viii]。
W.地方参政権付与は何をもたらすか
■「在日韓国朝鮮人をはじめ外国籍住民の地方選政権を求める連絡会」
日本社会の構成員としての権利の必要性[ix]―日本人と変わらぬ「在日」であるべき
2001年12月
ソウルで開かれた日韓議員連盟と韓日議員連盟の合同総会で、「地方参政権問題で日本側は、通常国会での実現のために積極的に努力する」との共同声明が採択
2002年1月
滋賀県米原町議会は、周辺市町との合併を問う住民投票条例案で、全国で初めて、永住外国人を投票資格者に含む条令案を可決。
現在
永住外国人地方選挙権付与法案は継続審議中。
■朝鮮総連は反対(資料3)
■現在の「在日」が参政権を手にするとき
・地域社会の発展・向上のために参政権を行使する(であろう)現在の「在日」
⇒「同化」は決定的か?
Cf. 新井将敬
1948年在日韓国人3世として大阪に生まれる。16歳の時に帰化し、東大→大蔵官僚→政界というエリートコースを歩むものの、「韓国系代議士」ということで差別を受け、次第に孤立。1998年、「自分の生き方の延長として死を選んだ」[x]とされる。
X.現在、そしてこれからの「在日」のアイデンティティ
「同化」か「分離」か、それとも・・・?
■金城一紀『GO』(資料4)
「同化」か「分離」か、という言説や「民族」や国家やそれらの境界に関わる言説を「脱構築」⇒バトラーの理論へ
Cf. 新井栄一『清河への道』(資料5)
■日本国籍取得奨励の動き
◆「在日」であることの不利
・「外国人」であるので、日本国民とまったく同等の権利を獲得することは期待できない[xi]。
韓国/朝鮮籍を維持しているということは、自己の運命を本国政府に委託することであり、韓日/北朝鮮政府の外交取引に利用される。あるいは、両国の政治問題としてしか在日問題は解決しない。
⇒日本社会で生きていく(=永住する)には日本国籍が必要(資料6)。
・ 「在日」が日本人と同様の社会権を獲得するということはアイデンティティと帰属
の間のズレや乖離という状況を生み出す→在日韓国人の帰化への準備性を高める
・ グローバリゼーションの流れ(自分を客観視する環境の出現)
◆参政権獲得の意味
アイデンティティと帰属の間のズレが永続的に続く。
「在日」の「被害者性」や「犠牲者性」を保存し、「差別国家日本」という烙印が国際的に拡がる。
⇒国籍を変えることがその解決策
◆コリア系日本人の誕生
日本社会の他文化化、多民族化の契機になりうる。
よく言われる日本に多様な民族性、多様な価値を認める社会が実現すれば、「コリア系日本人」が誕生するのではなく、「コリア系日本人」が実現させる。
⇒「同化」と「分離」の同時性
Ex. 孫正義
Y.まとめ
■3世、4世のアイデンティティは多様化しているという一言に尽きる。⇒「同化」か「分離」か、で括ることはできない。
■アイデンティティと運動が相互に影響を果たしながら変容していく。
■「同化」対「分離」という二項対立の揺らぎによって暴かれた結果として「在日」内での性差別が注目されている。また二項対立に当てはまらない帰化者・ダブルへの差別もあった。
■日本人として、民族性を明らかにした上での日本人として、「在日」として、あるいはそういったものすらから脱構築する一個の「人間」としてのアイデンティティを確立している「在日」に対して日本社会も変わっていくと考えるのは楽観的であろうか。
■ 著者紹介
福島安則
1947年静岡県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。1992年6月より埼玉県大学教養学部教授。日本開放社会学会会長(1993〜98年)。
金城一紀
1968年埼玉県生まれ。中学まで民族学校、高校から日本の学校へ。慶應義塾大学法学部卒。在日2世。『レヴォリューションNo.3』で小説現代新人賞受賞。『GO』で直木賞受賞。他の著書に『フライ、ダディ、フライ』『対話編』がある。
鄭大均
1948年岩手県生まれ。立教大学とUCLA大学で学ぶ。現在東京都立大学人文学部教授。民族・国民集合間の眺め合いを研究テーマにする。著者に『日韓のパラレリズム』(三交社)、『韓国のイメージ』、『日本(イルボン)のイメージ』(中公新書)などがある。
■ 資料
資料1「天皇陛下万歳と言つて死んだと云ふ志願兵があるならば、是は絶対に成り得る」と述べた直後に「国の威力を以てこの『チャンコロ』この『ヨボ』と云ふやうなことを言ふ、そんなこと言つて誰が日本人なれと言つた所でなれるか」と発言している。(第74回帝国議会衆議院決算委員会議録第14回(1939年3月20日)21頁。第75回帝国議会衆議院予算委員会議録第11回(1940年2月15日)285、286頁)
「日本の文化は何れから来て居るか・・・・・・内地も朝鮮に対して恩があると思ふ」「朝鮮の歴史から言つても内地より古い」
資料2「朝鮮人コンプレックスの中に落ち込み、日本人の視線を盗み見る萎縮した子どもとなっていた。マイナスの朝鮮人イメージをつくり出す日本社会の差別構造、日本人の差別意識を洞察する能力を欠いていた私は、私を取り囲む朝鮮人社会から逃げ出すことと、自己の内にある朝鮮的なものを排除しようとすることが、いつしか習性のようになっていた」(金敬得『在日コリアンのアイデンティティと法的地位』)
資料3「現在、在日本大韓民国民団など一部が要求している「地方選政権」問題は、在日同胞を日本社会へ同化させる道を開く危険なものです。(略)自らの民族的尊厳とアイデンティティを否定するものです。(略)日本がかつて朝鮮植民地支配時代に「内鮮一体」をうたがいながら民族的な一部の朝鮮人に「請願」させ「選挙権」を付与した忌まわしい事例を想起させるものです」
(在日本朝鮮人総連合会「在日同胞の『地方選政権』に反対する」1996年4月)
「『参政権』の付与は、在日同胞に対する分裂、同化策動であり、「国籍取得特例法」は在日同胞の間で「帰化」を促進し、彼らを「朝鮮系日本人」「韓国系日本人」に作り、日本から朝鮮人自体をなくそうとする危険な策動である。」(2001年5月に行われた在日本朝鮮人総聯合会第19回全体大会の総聯中央委員会活動報告(要旨))
資料4「俺は≪在日≫でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえよ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。」(金城一紀『GO』)
資料5「国に国境があったとして 親子に国境があるじゃなし いままでぼやけていたことが まるで大地のそらのように 心のすみまで晴れて」
「哀しい時代があった事を 俺は忘れちゃいないけど 過去を見ながら生きるより 明日に向かって生きるのが 人の道だと気がついた アリアリラン スリスリラン アラリヨ アリラン峠を 俺は行く」(新井栄一『清河への道』)
資料6「日本に滞在する韓国人は日本国籍を持たないが、永住権をもっている。日本国籍はないが、すでに日本人である。在日韓国人は日本社会に同化していくことが日本に寄与することであり、日本国民のためにもよいことだと思う」
(当時の洪淳瑛外交通商相の発言『産経新聞』1999年11月9日付、文章を一部修正)
■参考文献、URL
田中宏『在日外国人 新版』(岩波新書、1995年)
福岡安則『在日韓国・朝鮮人』(中公新書、1993年)
原尻英樹『「在日」としてのコリアン』(講談社現代新書、1998年)
鄭大均『在日朝鮮人の終焉』(文春新書、2001年)
在日朝鮮人研究会『コリアン・マイノリティ研究1』(新幹社、1998年)
在日朝鮮人研究会『コリアン・マイノリティ研究3』(新幹社、1999年)
「<在日文学への挑戦>それで僕は”指定席”を壊すために『GO』を書いた」『中央公論』2001年11月号・12月号
朴一『<在日>という生き方』(講談社選書メチエ、1999年)
金泰泳『アイデンティティ・ポリティクスを越えて』(世界思想社、1999年)
徐瑛喜『在日韓国人青年のアイデンティティ』(慶應義塾大学湘南藤沢学会、2001年)
金城一紀『GO』(講談社文庫、2003年)
在日朝鮮人・人権セミナー『在日朝鮮人と日本社会』(明石書店、1999年)
山下誠也・キムソンヒョ・日隈光男『在日コリアンのアイデンティティと日本社会』(明石書店、2001年)
Ryang Sonia, “North Koreans in Japan” Westview Press, 1997
在日韓国朝鮮人をはじめ外国籍住民の地方選政権を求める連絡会
http://www.denizenship.net/sanseiken/sanseiken_top.html
朝鮮日報http://www.korea-np.co.jp/sinboj/Default.htm
在日本大韓民国民団中央本部http://mindan.org/index.php
[i] 「我等の国家 新日本」(朴春琴事務所、1930年)
[ii]しかし朴のいう同化の内容はあまり明確ではない。「同化の目標が生活の様式から風俗習慣から、内地人に同化せよといふことであり、忠君愛国の誠意も今直ちに内地人同様たるべしというに在るならばそれは求むる者の無理である」と断言している。
[iii] 「日本で生まれた朝鮮人より、寧ろ朝鮮で生まれた朴春琴は、皇室中心主義において一歩も譲らぬと云ふ信念を固く有つて居る」
[iv] 金日成死後、マスコミに流された民族学校の様子は、普段は日本語で話しているようなのだが、この時は模範的に朝鮮語による生徒による金日成および北朝鮮への忠誠のことばだった。
[v] 98年の北朝鮮によるミサイル発射により、北朝鮮への反発という意味でチマチョゴリ切り裂き事件が起きた。
[viii] 毎日新聞1999年8月5日付け。だが、それ以降でも参政権に対しては否定的な見解を示している。資料2を参照。
[ix]「定住外国人の完全なる地方選政権を求める在日共同声明」http://www.denizenship.net/sanseiken/seimei_01.html)
[x] 「新井真理子、独占告白:わが夫新井将敬身公開の遺書」『週刊文春』1998年3月5日号
[xi] 「共生の街」として知られる川崎市では、外国籍者への開かれた市政を宣言する一方で、外国籍公務員には182の職務と管理職への昇給を制限する制度を設けている。いわゆる「入れてはあげるが、中で差別する『川崎方式』」(「国籍条項とは何か――川崎市当局との交渉から見えてきた地平について」パンフレット)である。