みえない権力

(原稿形式)

M. フーコー 『監視と処罰』

総合政策学部4年 山越 峰一郎
12.4.1997


キー・ワード:主体・権力・監視・構造主義

「人は自由なのか?」という疑問を頭におきながらこれからの発表を聞いて下さい。


刑罰史

身体刑とその改革(啓蒙思想・功利主義・社会契約論)
17世紀ころまでは刑罰として、当然のように身体刑がおこなわれてきました。時代劇での拷問(例えばはりつけ・さらし首)を思い出してもらえばわかりやすいでしょう。しかしこれは、18世紀に「改革」されていくのです。苦痛を与えることは、(その犯罪者および民衆が)犯罪を行なわないようにさせるものではない、もっと内面を見るべきだ、と。またそれまでは、見せしめとして時々派手に罰をあたえていた一方、小さな罪はとわれなかったのです。「より良く処罰する」ことを望んだ改革者たちは、精神を処罰すべきだと考えました。同時に、君主の過剰を限定し下層民の違反を厳重にとりしまろうとしたのです。真実と処罰とには因果関係が必要になったからです。つまり、罪と罰とが常に一致してこそ犯罪を防止できるからです。以前は、刑罰は君主=法に抵抗した者に対する報復としての(神聖奪回の)祭式だったのですが、民衆を法的主体として考えた場合、社会の防衛と同時に犯罪者の社会復帰をめざさなければならないのです。しかしまあ、実際にはこの改革は、刑罰の効率化のためという説明の方が適当でしょう。つまり、刑罰のコストを最低にしてその効果を最大にするための。その効果に関して大事なのが、肉体と精神を分割するだけでなく、肉体自体も細分化することです。スポーツのテキストで、体を細かく分けてやり方を示しているのは参考になるかもしれません。「これこれといった基礎的なものをやれば上達する」とか「この筋肉はこうして、その時別のはこうで」とか。肉体を細分化しなければコントロールはできません。このように、刑罰は人間の内面を(肉体を媒介として)取り扱うようになったのです。

監獄の誕生←規律・訓練
監禁することは矯正することでもあります。なぜなら、1人で孤独な時間を過ごすということは、自分の良心とのみ対話することでもあるからです。そして、罰としての監獄は個人個人の違いに対応することもできます。つまり、模範的な態度を取れば刑期を短くし、完全に改心したのなら釈放することでそれらに応えることができるでしょう。1人1人を測定し、数量化し、比較する。そういうことが、監獄によってのみ可能なのです\footnote{監獄以外の罰としては、追放・賠償・さらしものにする・幽閉などがありました。}。監獄で実際におこなわれているのは、独房による孤立化、労働\footnote{疎外されていない労働によって教育すること。}による調教、治療\footnote{心理学などを使い、それぞれの受刑者を個別に観察すること。}による監視です。なにより、看守が見張っているので、行ないによっては刑期が短くなることを考え、規則正しい行ないをします。その際、見られているというのは、本当に見られていなくても実はかまわないのです。例えばマジック・ミラーでしきられていれば、その見られている可能性によって受刑者の態度は規律をまもったものになります。この見られているかもしれないという感覚は重要で、これによって実際には何もないところから服従強制を自動的に生み出させることができるのです\footnote{これが、かの有名な一望監視装置(パノプティコン)という概念です。}。つまり自分で自分に強制するわけです。監獄は「理想的形式に縮約された或る権力機構の図解」\footnote{フーコー、1977年:p207}なのです。そして、こういったものが典型的にあらわれる場所がまず2つあります。監獄での監視・処罰がまずそうですが、みなさんの場合はテストで説明するとわかりやすいでしょう。高校でも自動車学校でもいいですが、そこではある「正しさ」に従うことがもとめられます。それをテストして計るわけです。その際、みなさん全員に(総体として)ある基準を示しながら、それからの逸脱は個々別々に修正されます。(いわば、羊飼いが羊の群を牧場に戻す時に、帰る方向は群全体に教えますが、そこからずれないように1匹1匹注意を向けて列からはみ出たらそれぞれを戻そうとするように。)細かいミスを全て指摘・修正され、「正しさ」にそって序列化される。そのことによって、いつの間にやら基準通りに行動するようになり、しかも、その「正しさ」の下にあっても、それを自覚することはまずなくなるのです。また、学校は子供を通してその家庭をも監視し、人々を規律化させています。勉強と生活態度は関係づけられているのです。通知表に、「落ち着きがない」などと書かれたことのある人がこの中にもいるのではないですか?子供の生活態度を通して、家庭環境をも監視しているのです。別の例としては、警察は犯罪者を捕まえるためだけではなく、安全の確保、具体的には犯罪者予備群の監視もおこなうことがあげられます。犯罪ではなくても、不道徳な行為は見咎められます。それが、人々を秩序に適合させるのです。しかもそのうちに、規律によって(見られている可能性とその自動化によって)、自発的に権力にしたがってくれるので安上がりですし、効果も確実です。

しかしそれでは、なぜこの仕組みが社会一般にひろがるのでしょう?それは、規律社会の形成に鍵があります。もともとは規律は、例えば軍隊なら、略奪・脱走・反抗防止のためでした。ところが、規律の存在は、技能向上の手段にもなってゆくのです。先ほどのスポーツの話を思い出すと良いでしょう。(しかも、このような人間は資本主義社会に必要なのです。規律をまもることは、秩序維持のためだけでなく、生産性向上のためでもあるのです。みなさんですと、受験勉強の時を思い出せばいいのではないでしょうか。「規則正しくやった方がはかどる」といわれたことはないですか?)


構造主義・系譜学

監獄の失敗
ここからは、フーコーは「監獄がなぜあるのか」ではなく「それがどのような意味をもってきたのか」を探求していることを理解しなければわかりづらいかもしれません。さて、監獄は再犯率の高さなどを根拠として、失敗したといわれています。犯罪者を矯正し、社会に適応できるようするのが目的なのにそうなっていない、と。しかし、監獄の存在理由はそれだけではないのです。

権力--知の表れ---監視と処罰
もう1度考えてみましょう。裁判の目的は、法律に違反した人を裁くことにあります。一方、刑罰の役割は、普通の人と非行にはしる人を区別することにもあるのです。監獄の中で問題となるのは、犯行自体ではなく受刑者の態度であることを思い出してください。刑罰というものは先天的に決まってくるのではなく、社会の状態の1つのあらわれなのです。監獄は、その意味において、通常の人間と不道徳な人間をわけることをあらわしています。 さらに進むと、裁判も人間の内面を問題にするようになるのです。つまり、判決がその罪の重さだけでなく「反省しているか」などの観点からも考慮されるようになるのです。処罰の目的が矯正であるのも同じ意味です。 そして「あの人はいつか悪いことをするに違いない」という形で普通の人と不良とに区別されるのです。元犯罪者が永遠に社会的制裁を受けるのもこれゆえです。出来心の犯罪者を常習犯に転向させることによって、犯罪を維持し生産することが監獄の現実的な目的となってしまうのです。加えて、不良と呼ばれる人たちは、社会の周辺に押しやられ、政治・経済的にみて重大な犯罪はおこなえなくなるのです。逆にいえば「普通」の人たちは、そうならない範囲で行動するのです。道徳的であるためには、何でもしていいということを否定しなければならないことはわかりますよね。

つまり不良か否かという基準で監視が行なわれているのです。ただ、1つ注意しておきますが、おそらく皆さんがイメージする非行とフーコーの言わんとする非行は違うと思います。殺人・麻薬などの暴力団的なものではなく、彼の場合の非行は、何と言うか、アウト・ローとでも言うか流浪の民(旅人)とかそういうものをイメージしてもらった方が話がわかりやすくなるでしょう。


主体の形成

自律への疑い
フーコーの議論があきらかにしていることは、人間はみずからに法をあたえているのか、という疑問です。ある「正しさ」によって計られ、賞罰をあたえられてきたためにパヴロフ的存在であるのではないか、と。犬も小さなころに調教されれば、一生、それが良いのかをかんがえる前に「お手」をしてしまいますし。人は非行を行なわない自分・行なう自分をそれぞれで規定する(される)のです。そして、そこにおいては1人1人の友達が監視者であり自分自身が監視者でもあるのです。監獄社会においては精神が身体の監獄なのです。そう、認識することは形作ることでもあるのです。極めて乱暴な例をだせば「私はA型だからー」という発言は、BでもOでもABでもないものとして自分を規定している(されている)のです。そして彼女は「A型の私」として振舞うでしょう。他と違うという個人としての意識は(認識するには形が必要なので)自分を企画化し\footnote{「アイデンティティにしばりつけられる」と言う人もいます。}、自分で考えるという主体性というのは(判断基準への)隷属を意味するのです。

権威主義的従属
権力がそれにみあった主体をつくっていくというのは、別の人の言葉を借りれば、内集団の理想化された道徳的権威\footnote{権威:強制も説得も必要とせず、服従を強制された人々が疑問なく受け入れること。(この場合の権威とはカリスマは意味しません。)}に対する従属的・無批判的態度によるのでしょう。あるいは、権力は抑圧装置のみなのではなく(学校--家族により)私的な領域で機能し人々の無意識に訴えかける、という言い方をする人もあります。それゆえ、自らの意識が精神をうごかしているのか、という疑問でもあります。

このような主体化の問題は、来週の『オリエンタリズム』でより具体的にわかるでしょう。それから「そういった分析はわかったけど、だったらどうすればいいの?」と思う人もいるでしょう。(これの前の『想像の共同体』、次の『オリエンタリズム』もそうですが。)答は出されていません。分析家に政策も期待してしまうのではなく、皆さんが具体的にどうするかはかんがえるべきなのです。知ってからの言動は少し変化してくるでしょう。

さて、わかったつもりになるのをさけるために、フーコーの用語はできるだけさけてきましたが、この説明の仕方は、フーコーの議論をわい小化するものだという批判を受けるかもしれません([2]を参照)。しかし、第1歩としては充分だと思います。それでは、何か質問はありますか?…なければこれで終ります。


主要参考文献
[1]M.フーコー『監獄の誕生---監視と処罰』新潮社 1977年
[2]M.フーコー「主体と権力」〜『思想』1984年4月号
[3]M.フーコー、蓮見重彦(聞き手)「権力と知」〜『海』1977年12月号
[4]桑田ほか(編)『ミシェル・フーコー』新評論 1984年
[5]橋爪大三郎『はじめての構造主義』講談社現代新書 1988年
[6]今村仁司(編)『現代思想を読む事典』講談社現代新書 1988年
[7]大村英昭『新版 非行の社会学』世界思想社 1989年
ほか



今回使用した資料のうち、読みやすいものを中心にいくつか紹介します。[1]に関してまず言う必要があるのは、邦題はタイトルが適切ではないことです。本来は、邦訳のサブタイトルである「監視と処罰」がメインのタイトルなのです(つまり入れ替わっているのです)。内容も、監獄というものは具体例にすぎません。ですので論文のほとんどが、この本を『監視と処罰』として表記しています。それから、この本はSFCのメディアにはないので、借りるのであれば三田か日吉からとりよせてください。次に、フーコーは著作と論文・インタビュー・講演などを別のものとしてあつかっているので、書かれたものではわかりにくくても言ったことを読めば大丈夫です。その意味で、[2][3][4]をあげています。また、解説書よりはフーコー自身の論文などの方がわかりやすいのですが、どうしてもというのであれば、桜井『フーコー』(講談社)、中山『フーコー入門』(ちくま新書)を日本人の書いたものとして、メルキオール『フーコー』(河出書房新社)をそれなりに批判も含んだものとしてあげておきます。ちなみに、ドゥルーズの『フーコー』(河出書房新社)は著者の名前につられて手にとってしまうかもしれませんが、フーコーを素材にしたドゥルーズ自身の著作という側面もあるので、後回しにすることをおすすめします。フーコーが何を言っているのかある程度わかってから読めば面白いですが。構造主義に関しては、(SFCのメディアにあるものの中では)[5]が読みやすいのではないでしょうか。あるいは、『タブーの謎を解く』(ちくま新書)はどうでしょう。(私の記憶が確かならば)食のタブーを素材に機能主義の見方ではだめで構造主義によって説明ができる、という内容です。これら以外でフーコーに関するものとしては、例えば雑誌論文が色々あります。『現代思想』の97年3月号(特集=フーコーからフーコーへ)・87年3月号(特集=変貌するフーコー)、『思想』84年4月号(特集=構造主義を越えて)などです。

(強制は自由を含意する。「強いられたのではあるが、欲していたのである。」自由な諸主体にのみ権力は行使される。)


以下のような批判がありました(要約)。

「フーコーの言う主体とは受動的なものにとどまりません。主体的だからこそ従属的なのです。これが、権力を禁止行為とのみ考えることへの(後の)批判につながるのです。また、賞罰→矯正の読み方は、小熊先生が戒めた<管理社会論としての読み方>に近いものです。むしろ、他者をそのイメージに閉じ込めることによる「正常」、とするべきです。この点で、矮小化というより方向を間違えているのではないでしょうか。」