今福龍太「クレオール主義」
環境情報学部 3年 中田 学
学籍番号 79656520, ログイン名 t96652mn 


 文中の、[1]と[2]はそれぞれ引用文献を表し、何も記していないときは「クレオール主
義」からの引用。

\section*{クレオールとは何か?}
 
 クレオールとは、「先ず何よりも言語学的な概念であり、そこから民族的、社会的、
文化的概念へと拡張され」ていった。([1]p.148)\par
 そして「クレオール語とは、いわばピジン語がネイティヴ・スピーカーを獲得したとき
に発生する」(p.196)\par
\medskip

 ではピジン語とはどんな言語か? \par
 
一般的に言って、ピジン語とは「共有する言語を持たない複数の集団が交易等の目的
で継続的に接触を繰り返す際に、相互のコミュニケーションの必要からあみ出される
一種の簡略化された言語のことをふつう指して」おり、(p.193) さらに、\par
「その(ピジン語の)成立のためには、複数の集団の言語的接触が、なんらかの社会的
理由(たとえば相互不信、あるいは親密な交流の欠如)によって、一つの集団が相手集
団の母語を学習するというかたちにけっしてならないような状況が必要とされる。」
(p.193) \par \medskip

  従って、ピジン語の基本的な特徴は「いかなる人間にとっても『母語』ではありえ
ない」(p.196)ことである。以下に、ピジン語とクレオール語の違いを簡潔にまとめ
る。
\par \medskip

◎ {\gt ピジン語 }\par
「言語的簡略化・収縮」化によって生まれた、あくまで便宜的な言語 \par
\medskip
◎ {\gt クレオール語 }\par
「言語的深化・拡張の」結果生まれた言語。それは「母語であることから、人間の経
験のあらゆる領域を表現するためにピジンよりも語彙を拡大し、より複雑な統語体系
をもつようになった。」\par      
 {\small ( カッコ内はともに、[1]所収 「『クレオール化』と複合的なアイデンティティ」姜尚中 著 からの引用 )}
\par
\medskip

 クレオールという考えは、自らと異なるものを自分に取り込み、絶えず自らのアイデンティティを刷新させ、新たな文化・思想を再創造しようとする試みである、と定義しておく。

\par
\medskip
  これから、「クレオール主義」で述べられている論点のうち、
{\gt「文化の土着性」}と{\gt 「アイデンティティという幻想」}
の二つについて、それぞれまとめる。

\section*{文化の土着性 -native の発明について-}
  ◎ ある文化を、それがどんな文化であるか規定するときは、多くの場合その
文化が根差しているとされる「場所」によって規定する。\par
 → 文化の名称は殆んどの場合 「地名」+文化 \par 
 (室町文化・室町文化などの名称も、結局は「場所」を示している。) \par

\medskip
  
 そもそも「『場所』という概念がもともと人間の文化を記述=再提示するときのレトリックの一つとして編み出された」(p.13) \par \medskip
 
 ◎ また、人間がアイデンティティを獲得するときの拠り所は、多くの場合彼が帰属しているとされる「文化」であるので、人間がある「文化」に帰属しているという時、
それはその文化が根差す「場所」に帰属していること。\par
\medskip
 「『文化』は具体的な土地と関連づけられることではじめて内容を盛り込まれ、人間
は現実の土地への帰属を確認することを通じてもっとも容易に『自己同一性』の意識を
手にいれることができる。」(p.13)\par \medskip

  だが、こうした実体論は「場所」というレトリックが発明されたプロセスを曖昧にする。もともと「場所」という言葉には、修辞学的な形式と実体的な「名前」の二つの意味を持っていたが、私たちは前者を無視し、「もっぱら場所を実体的な空間と関連づけ
て認識する思考方法を発達させてきた」(p.14)\par
→「場所」は「土地」という実体的な意味に回収された。 \par
→ そしてネイティヴ(土着)という概念が、このような思考方法の犠牲になった。
\par
\medskip

 ネイティヴという言葉自体はニュートラルなものであったが、「近代科学のディスクールのなかで、いつのまにか人類学者たちのテクニカルな用語として彼らによって独占的に使用され」(p.14)るようになり、「西欧的都市社会から隔絶された『未開』の土地
における出自と帰属だけを意味するようになっていった。」(p.15)
\par
 →この結果として、「ネイティヴという概念は、『場所』の概念と分かちがたく結び
つきながら、否定的な、すなわち植民地主義的なディスクールにおける一種の侮蔑的な
言葉として彫琢されていくことになった。」(p.16)\par
\medskip

 このとき同時に、ネイティヴは「植民地時代の西欧のなかにもう一つの幻想を、しかも
今度はいわば肯定的価値を持った幻想を産み出していった。」(p.18)\par
 →その幻想を象徴する言葉が{\gt 「帝国主義的ノスタルジー」}\par
\medskip

 西欧人の「帝国主義的ノスタルジー」の最たる現れが、パプアニューギニアのセッピク川流域で行われる「食人族ツアー」である。\par
 →このツアーに参加する人々(殆んどが西欧人)は、「未開文化」に対して、それが「伝統的」で「純粋」であるとの幻想を抱いている。\par
  「『未開文化』とは、まさにそれを破壊・変容させた張本人である植民地主義の想像
力がうみだした、一種のノスタルジックな憧憬の対象であった。」(p.71)\par
\medskip

 しかし、ここで西欧人が抱くノスタルジー(帝国主義的ノスタルジー)は、\par
 「人を殺しておいて、その人の死を悼むような」(p.18)逆説的な懐旧であり、「西欧が自己の『無罪』を証明しようとする試み」(p.19) \par

\medskip

  ☆ なぜ西欧人は自分達と異なる、native を発明したのか?\par
   → {\gt アイデンティティの獲得には、つねに「他者」=<外部>という否定的な媒介が必要とされる。}\par
   → {\gt アイデンティティの幻想性}
     
\section*{アイデンティティという幻想 }
  
  私たちは、自らが所属する「土着」の文化、あるいはそれが
根差している「土地」を拠り所としてアイデンティティを獲得する。(あたかも、そ
れなしでは、自分がどこにも存在できないかのように。)\par
\medskip

 ※ しかし、自らのアイデンティティを探求するという行為に潜む本質的な意味を、
ここでよく考えなければならない。 \par
→「あるべき」自分を探すことは、「あるべきでない」自分を排除すること。	\par
→そして、「あるべき自分」を規定するためには「あるべきでない自分」を規定しなければならない。 \par
→ その「あるべきでない自分」は<外部>につくられる \par
→ {\gt 「他者」の発明 } \par

\medskip
 アイデンティティの概念は、「自己にとって真正のものではない、すなわち異質であると思われるすべての要素の排除を求める。『わたし』は、『非-わたし』(すなわち『他者』)を絶対的にそのカテゴリーから除外する」(p.243)\par
 つまり、「『アイデンティティの探求』とは、失われた自己、すなわち純粋で、根源的で、真正の自己を求めながら、一方で表層的な、堕落した、まやかしの『他者』を排除してゆく行為として遂行されるようになったのである。」(p.245)\par
→ このとき「わたし」が排除すべきまやかしの「非-わたし」を投影する装置として、 「未開人」native という概念を発明した。\par
 (このあたりの過程については、「オリエンタリズム」に詳しい)
\par
\medskip
 こうした排除は必ず差別に結び付く。従って、このような排除をすることなく、つまり
「アイデンティティの探求」という作業から脱却して、「自分が今どこにいるのか」を
見定める訓練が必要。\par
→{\gt 「位置のエクササイズ」}の必要性\par
\medskip
 クレオール的アイデンティティという流動的・恣意的なアイデンティティが有効な戦略となる。\par
 →p.206 のヴァージニア・R・ドミンゲスの記述を参照 \par

 
\section*{クレオールの可能性と問題}
  クレオール化によって 「言語というような確固たる文化的体系ですら、接触や融合の結果として、伝統や一貫性から切り離された、「原型」への還元の力につねにさらされている」(p.200)\par
\medskip 
  
  ◎「クレオール化の力は、土着文化と母語の正統性を根拠として作りあげられて
きたすべての制度や知識や論理を、まったく新しい非制度的なロジックによって無化し
、人間を人間の内側から更新し、革新するヴィジョンをうみだす戦略となる可能性を
秘めている」(p.200)\par
 → 個人が自分のアイデンティティを解体・再構築するための手段として有効  \par
 (「位置のエクササイズ」のための手段) \par
 → 中心化、均質化という「近代」の論理を克服するための一つの戦略的思考 \par
 → 新たな芸術の創造の可能性   
\par
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 ※ {\gt 「クレオール性」自体が一つのアイデンティティに
なってしまうことは危険。}\par
  → 「クレオール」と「非-クレオール」という二項対立に陥る \par
  → 必然的に「非-クレオール」を排除しようとする排他性を持つ
     

\section*{まとめ}
  ☆ 文化、あるいは個人といったものは本質的に混淆・混血の産物である。\par
  → あらゆる個人・文化は混血児である、という当然の認識をもつ必要性\par
\medskip 
「個人なるものはその内部に無数の構成要素をかかえこんでいると同時に、外部
からの無数の構成要素の交錯する場として存立している。」\par
 {\small ([1]p.234 「複数性と横断性」杉村昌昭著 より)}\par
 \medskip
 →文化も同様である。 \par
 「およそ複数的な離合集散の過程を経ていないような文化現象というものは存在しないか、イデオロギー的なフィクションに過ぎない。」{\small([1]p.235)}\par
 近代という時代は、この「イデオロギー的なフィクション」を多数産み出してきた。 
 \par 
 →その代表的なものは国民国家である。\par 
 \medskip
 ☆「イデオロギー的なフィクション」を具現化したのは、自分と異なるものを排除する
思想である。この排除の思想は、自分と他者との間に境界線を引き、それを絶
対のものとして固定化するところから生まれる。そもそも、 「わ
たし」と「非-わたし」(「他者」)という区別は境界線を引いたときにはじ
めて生じる。
\par
 → ◎従って、最初から境界線を引かない、あるいは引いてもすぐに書き換える作業が
 求められる。 \par
 → ◎「他者」と共生することは、とりもなおさず自分のなかの
「他者」・「異物」と共生するということ    

\subsection*{引用文献}

[1] 「 <複数文化>のために   ポストコロニアリズムとクレオール性の現在」 \par
    複数文化研究会・編/人文書院/1998 \par \medskip

[2] 「多言語主義とは何か」 \par
    三浦信孝編/藤原書店/1997 \par



\end{document}