エドワード・サイード著『オリエンタリズム』

小熊研究会2  総合政策学部二年  相澤真一  学籍番号 79700023  login:s97002sa

 

プレゼンテーションの主旨

サイードの取った方法と主張に関する概観

言説による分析方法とはどういうものか?

他者を見る視線、まなざしはどういうものか?

「知識」、「学問(discipline)」、「真理」とはどういうことなのか?

 

エドワード・サイードについて

イギリス委任統治期、エルサレムに生まれたアラブパレスティナ人。家族はパレスティナ系でありながら、イギリス国教徒。アウトサイダーとしての自分を意識

「私たちはイスラム系の多数派の枠の中にはまったキリスト教系の少数派の中の少数派であった。」

現在はアメリカ市民。コロンビア大学の英文学・比較文学教授。

『オリエンタリズム』以外の主著

『始まりの現象』、『知識人とは何か』、『イスラム報道―ニュースはいかに作られるか』、『パレスティナとは何か』、『文化と帝国主義』『音楽のエラボレーション』、インタビュー集『剣とペン』などが著されている。

 

『オリエンタリズム』の方法論

知と権力の関係を言説秩序の分析[1]によって明らかにしたフーコーの方法論、知的態度を援用

サイードが彼自身の経歴の中で培われてきた反帝国主義、反植民地主義。

両者が重ね合わされることによって、異文化表象、理解において極めて政治的な「オリエンタリズム」の姿を映し出そうとする。

 

訳語、言葉の確認

Orient…オリエント、ただしOccidentとの対照が強調される場合は「オリエント(東洋)」、「オクシデント(西洋)」とする。

Represent…表象する[2]、代表する  discourse…「言説(ディスクール)

オリエンタリズム…オリエント(東洋)に関するオクシデント(西洋)の理解の総体

章ごとに明らかにされていること

「オリエンタリズム」とは、

1.                  ヨーロッパとアジアのあいだのオリエントの可変的な歴史的・文化的関係の領域であり、四千年におよぶ古い歴史をもつものである。

2.                  西洋における学問的規律=訓練(ディシプリン)にしたがって、十九世紀初頭以来、オリエントの様々な文化や伝統が専門的に研究されて、発展したものである。

3.                  オリエントと呼ばれる世界の一地域の同時代的重要性と政治的緊迫性を帯びたイデオロギー的仮説やイメージ、幻想の領域である。

オリエンタリズムの言語…神話[3]的言説(ディスクール)

 

それぞれの章の位置づけ

第一章オリエンタリズムの領域

第一章の意図

古代、中世・ルネサンスの時代を通じ、ヨーロッパ文化の一般の中で受け継がれてきたオリエントに関する思考の全般的視野の支配がどのようなものであったか、またその特徴。

 

現在(出発点)における問題意識

現代の政治家に一貫して見られる類似的なオリエント

20世紀前半作用する西洋人と東洋人の支配、被支配の論理

「思考に対する強制と制限の集合」(文庫版上p.103)というオリエンタリズムの強い影響力は現在もなお存続している。

 

サイードの見出す人間観

1.人間は事物を区別する時、無意識な恣意性がある。

人間の精神は物事を執拗に秩序[4]の中で認識しようとする。事物が区別されるやり方は、客観性が想定されても、つねにある程度の純粋な恣意性が働いている。

 

2.人間はテクスチュアルな姿勢を持っている。

人間や場所や経験が一巻の書物によってつねに描写されうるという考えを持ち、その結果として、書物(テクスト)のほうが、その中に描写されている当の現実よりもいっそう大きな権威を得、いっそう広く利用されるようになってしまう。

 

人間がそれまでに形成されてきた知識に束縛されるという点は共通。

 

西洋(オクシデント)を東洋(オリエント)から隔てる境界線。人為的な心象[5]地理と心象歴史学によって、「オリエントのオリエント化」が行われる。

 

古代ギリシアの時代から近代以前のヨーロッパが創り出すオリエント

閉ざされた領域演劇舞台、表象=代表することによって可視的なものにする

 

近代化したヨーロッパが創り出すオリエント

旧き良きオリエントを取り戻すための改良、西洋のオリエント支配とオリエント開発

オリエントが外の別の世界ではなく「我々の」世界、「単一の」世界へと変容する

 

第二章オリエンタリズムの構成と再構成

 

第二章の意図

十九世紀にいかにして近代的な専門用語と職業的慣習とが確立され、それらがいかにしてオリエントについてなされる言説(ディスクール)を支配するようになっていったかを明らかにする。

→オリエントの特殊近代的構造の枠組みを担うもの=規律=訓練(discipline)

 

近代オリエンタリズム特有の知的・制度的構造が拠って立つ十八世紀的思想の諸潮流

拡大−イスラム諸地域をはるかに超えたオリエントの拡大、さらには探検家達によるオリエント像の鮮明化。

歴史的対決−歴史の比較方法論の隆盛(ローマ帝国衰亡史など)、ルネサンス−オリエントを敵として捉える→超然的態度からオリエントを捉えようとする。結局はそれがヨーロッパの自己理解につながる。

共感−歴史主義、自己とオリエントの間に共感意識を持つこと

分類−当時、隆盛であった博物学の方法論で自然や人間を徹底的に類型に分けること。

例:「アメリカ人種は「赤色、胆汁質、硬直」、アジア人種は「黄色、黒胆質、剛直」、アフリカ人種は「黒色、粘液質、弛緩」(p.279)

 

オリエンタリズム再構成のサイクル

…「大衆的信用の獲得が創造性の喪失に軌を一に」するサイクル

 

先駆者の仕事→研究領域とそれを構成する諸観念の創出→学者の共同体の創出→その共同体の持つ威信から世俗的、大衆的信用を得る→教育的一覧→論理的操作→「客観的構造(オリエントという指示対象)と主観的再構成(オリエンタリストによるオリエント表象)とは相互置換」が可能なものへ→先駆者の「新たな発見」→研究領域とそれを構成する諸観念の創出→…

知によるオリエントの従属:演劇舞台から実験室へ=知による一望監視制度(パノプティコン)の創出

 

第三章今日のオリエンタリズム

 

第三章の意図

オリエンタリズムが政治的な教義(ドクトリン)であり、それはオリエントのもつ異質性をその弱さにつけこんで無視しようとする態度、特に無意識的な態度がどのように形成されてきたかを明らかにする。

 

二十世紀における政治的状況

西方から東方へと力の中心が移動、オリエンタリズムの危機と東洋における政治的・文化的な力の復興、政治的独立要求の高まり

 

無意識的態度の形成

潜在的オリエンタリズムと顕在的オリエンタリズム

顕在的…オリエントについての知識に生じるあらゆる変化はもっぱらこちら。第二章までの分析

潜在的…無意識の確信、オリエントの教義的、学説的な発露→これを動員することによって、ディスクールに変換可能なものになる

例:東洋人を見るまなざし…嘆かわしい異邦人、西洋社会のなかの諸要素(犯罪者、狂人、女、貧乏人)と結びつけられる、男性的な(女性が男性的な権力幻想によって作り出されるように)世界概念。

 

「白人」の創造…評価的な解釈による言語、種族、類型、皮膚の色、メンタリティーといった種々の集合名詞による分割

「我々」と「彼ら」という厳格な二項対立の存在

→「合理的な」価値観によって、「我々」はつねに(「彼ら」が「我々」の完璧な一機能となるまで)「彼ら」を侵食しつづける。

一方で、西欧社会の中でも、「合理的な」価値観によって現実の局外者(アウトサイダー、植民地、貧乏人、犯罪者など)を作り出している

 

オリエントの担い手の知識の作られる過程=置換と合体の一形式

→「我々」の知りうる唯一のオリエントの形成

→結果として作られるヴィジョンは「支配が権力への意志、真理と解釈への意志にほかならず、歴史の客観的な状態などではない」(文庫版下p.94,95)

一方で、東洋人は西洋人の観念を理解できない存在として恐怖心を煽る

 

歴史の後半、現代のオリエンタリズム

第一次世界大戦の直前と直後の時期のあいだにみられる差異

オリエントはあくまでオリエント的。

だが、オクシデントはオリエントの中の本質的オリエント性を見極めようとする。

 

知識人論:先達の著作、制度に縛られた学究生活、学術的な企てにつきものの集合的性格がある、

学者は国家的伝統に対する半ば意識的、半ば無意識的な自覚が存在する

→どのような学者も自分の属する国家から離れることができない

 

結論としてオリエントの表象のあり方

A)               そのオリエンタリストの特徴的刻印を帯び、

B)               ありうる、あるいはあるべきオリエントについての彼の考え方を説明し、

C)               他人のオリエント観に意識的に対抗し、

D)              オリエンタリズムの言説(ディスクール)に、その時点でももっとも必要と思われるものを供給し、

E)               その時代の一定の文化的・職業的・国家的・政治的・経済的要求に応ずるものである。

 

「表象とは、それが表象であればこそ、「真理」以外の実に多くの事柄に結び合わされ、からみあわされ、埋めこまれ、織り込まれているのであり、「真理」とはそれ自体ひとつの表象なのだということである。」(p.165@)

表象とは、形成されたもの(フォルマシオン)であり、変形されたもの(デフォルマシオン)である。

 

最新の局面

伝統的なオリエンタリズムの知識と力は現在において、

アラブ、イスラムは、 以下のようにのみ扱われる。

1.                  いつも否定的価値として

2.                  「東洋人(オリエンタル)は書かれる存在」、「数と生殖能力」で

3.                  現在の政治的にも、文化的にも趨勢を担うアメリカによって、「政治的に」(「我々」と「彼ら」の観点から)

 

学術的に、オリエンタリズムは、以下のような状況があるため、一層、強化されている。

1.                  オリエントという専門分野を研究する(オリエンタリズムの知識を踏まえた)一社会科学者となる

2.                  西洋で東洋について語る者はみなオリエンタリズムに染まっている

3.                  西洋が学術機関を独占しているため、東洋(オリエント)出身の学術的なエリートも西洋に行く

 

オリエンタリズムに替わる選択肢は何か?

 

参考文献

エドワード・サイード著、板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳『オリエンタリズム』(86年平凡社、文庫版は93年平凡社)

同著、大橋洋一訳『知識人とは何か』(文庫版)(98年平凡社)

同著、同訳『文化と帝国主義1』(98年みすず書房)

同著、中野真紀子訳『剣とペン』(98年クレイン)

同著、山形和美訳『世界・テキスト・批評家』(95年法政大学出版局)

同著、山形和美、小林昌夫訳『始まりの現象』(92年法政大学出版局)

ベネディクト・アンダーソン著、白石隆、白石さや訳『想像の共同体』(97NTT出版)

小熊英二著『日本人の境界』(98年新曜社)

中村雄二郎著『術語集U』(岩波書店)

ミシェル・フーコー著、中村雄二郎訳『言説表現の秩序』(72年河出書房新社)

同著、同訳『言説表現の秩序』(改訂版新装) (95年河出書房新社)

同著、同訳『知の考古学』(改訂版新装) (95年河出書房新社)

 

資料

(1)「言説(ディスクール)としてのオリエンタリズムを検討しないかぎり、啓蒙主義時代以降のヨーロッパ文化が、政治的・社会的・軍事的・イデオロギー的・科学的に、また想像力によって、オリエントを管理したり、むしろオリエントを生産することさえした場合の、その巨大な組織的規律=訓練というものを理解することは不可能なのである。(中略)オリエンタリズムとは「オリエント」なる独特の存在が問題となる場合にいつでも、不可避的にそこに照準が合わせられる。(したがってまたつねにそれに組み込まれることとなる)関心の網の目(ネットワーク)の総体なのである。本書は、このことがいかにして起こるのかを明らかにしようとするものである。」(ハード版p.4、文庫版上p.22)

 

「実は私が本当に言いたいことは、オリエンタリズムが、政治的であることによって知的な、知的であることによって政治的な現代の文化の重要な次元(ディメンジョン)のひとつを表現するばかりか、実はその次元そのものであって、オリエントによりはむしろ「我々の」世界のほうにより深い関係を有するものだということなのである。」(ハード版p.13、文庫版上p.41)

 

(2)「一方に西洋人があり、他方にアラブ=東洋人(オリエンタル)がいる。前者は合理的、平和的、自由主義的、論理的で、真の価値を見分ける能力をもち、生来の猜疑心はもたないのに対して、後者にはこれらのことが全部欠けている。」(ハード版p.49、文庫版上p.119)

 

(3)「明らかに異質で遠く隔たったものは、どうしたわけか、かえってよりなじみ深い地位を獲得するものなのだ。人は事物を、まったく新奇なものとまったく既知のものとの二種類に分かつ場合には、判断を停止する傾向がある。」(ハード版p.58、文庫版上p.139)

 

(4)「オリエントは、なじみ深いヨーロッパ世界の向こうに際限なく広がる空間ではなく、ひとつの閉ざされた領域、つまりヨーロッパに附属する演劇舞台としての外観を呈する」(ハード版p.63、文庫版上p.149)

 

「オリエントの「イメージ」がイメージであるゆえんは、それが本来収拾のつかぬほど散漫な、ある巨大な実体を表象=代表することによって、この実体を人間に把握可能な可視的なものにする」(ハード版p.66、文庫版上p.155)

 

(5)「近代オリエンタリズムの理論と実践をもっとも主要な局面において把握するとすれば、それは、オリエントに関する客観的知識に一挙に近づくものとしてではなく、過去から受けつがれ、世俗化され、再配置され、さらに文献学のような学問分野(discipline)によって、変形されたひと組の構造物として理解することのできるものなのである。」(ハード版p.125、文庫版上p.284)

 

(6)「アカデミックな専門分野の初期段階にありがちなことだが、近代オリエンタリズムもまたみずからが定義した主題を万力のような力でしっかりと掴み、いったん掴んだものを手放すまいとしてほとんどありとあらゆることをしたといってよい。」(ハード版p.153、文庫版上p.342)

 

(7)「オリエンタリストはオリエントを高みから概観し、自分の眼前にひろがるパノラマ−文化、宗教、精神、歴史、社会の全貌を掌握しようとする。それを行なうためには、彼は、一連の還元的なカテゴリー(セム族、ムスリム精神、オリエント、等)の装置を通して、細部をくまなくながめなければならない。こうしたカテゴリーは元来図式的かつ効率的なものであり、東洋人はオリエンタリストが彼らを知るようには自分自身を理解できないということもまた、多かれ少なかれ前提されているのであるから、オリエントのヴィジョンはどれも究極的に、その所有者たる人物、制度、言説に依拠して、その首尾一貫性と力とをひき出すことになる。 包括的なヴィジョンというものは、どれも基本的に保守的なものである。そして、西洋における近東観念の歴史のなかで、こうした諸観念が、それらを反駁する証拠をつきつけられてなお不動の地位を保ってきたことは、我々がすでに見てきたとおりである。」(ハード版p.243、文庫版下p.92)

 

(8)「両大戦間の時期の重要な課題は、偏狭で外国人嫌悪的な自己定義を超越した、文化的な自己定義を行なうことであった。ギブの考えでは、西洋は研究対象としてのオリエントを必要としている。なぜなら、オリエントは不毛の専門分化から精神を解き放ち、過度に狭隘で民族主義的な自己充足性の弊害を和らげ、文化研究における真の核心的問題の把握を促すからである。」(ハード版p.263、文庫版下p.135)

 

(9)「私が固く信じていることは今日の人間科学において、現代の学者が洞察力、方法、観念を身につけるのに必要なことを十分に行なってきた結果、彼らはもはや、オリエンタリズムがその歴史上の全盛期に提供した人種的・イデオロギー的・帝国主義的ステレオタイプを用いなくともやっていけるという事実である。」(ハード版p.331からp.332、文庫版下p.285からp.286)

 



[1] 中村雄二郎氏の解説を参考にすれば、ディスクールとは「話」、「言語表現」という広い意味と「論弁的」(直観的に対する)という意味が用いられている。フーコーは著作において、「言表」(エノンセ、énoncé)を「言説」(ディスクール)を構成する最小単位とし、「さまざまな言表が同一の言説編成 formation discursive に属するかぎりにおいて、そうした言表の総体 ensembleを言説と呼ぶ」と規定している。フーコーは狂気や性においてこの分析を行なったが、サイードは「東洋(オリエント)」を語るオリエンタリストたちのオリエンタリズムについて、この手法を取っているのである。

[2] 表象…@現在の瞬間に知覚してはいない事物や現象について、心に描く像。イメージ。▽記憶の再生によるものだけを、また意味付けのあるものだけを指すこともある。A象徴

[3] 神話とはある社会の中で伝承によって伝えられ、人々に真実として信じられ神聖視されてきた物語である。

[4] この「秩序」という用語はレヴィ・ストロースの定義である。それによると、「あらゆるものを弁別・観察し、意識にのぼるすべての物体を安全で再発見可能な場所に据えつけることによって、つまり、環境を形成する対象と主体が織りなす機構(エコノミー)のなかで事物のおののにその果たすべき役割を与えることによって、はじめて打ち立てられるもの」(文庫版上p.128)と説明されている。

[5] 感覚(的要素)が心の中に再生したもの。イメージ。