小熊研究会2 第6回プレゼンテーション  総合政策学部2年 千葉達磨(s98611tc@sfc.keio.ac.jp)
博覧会の政治学 まなざしの近代 吉見俊哉著

1.博覧会と言う近代
 大航海時代−「発見」のプロセスの拡大⇒新たな「物」、情報の流通           
         |                    
       まなざしの発見
         「発見」された世界に客体としての「自然」の地位を強制
 発見→征服、植民地化(キリスト教の優越性の証、欧の富のための搾取対象)
※ ただし、最初からまなざしているわけではない
             ←[17Cヨーロッパ] エピステーメーの変容

*エピステーメーの変容による博物学的視点の誕生(Foucalt M.)
  〜16C末  類似が知を形成
     ↓
  17C中頃  同一性と相違性と言う視界へ
         ⇒博物学的視点の誕生
           「物を視線と言説の双方に結びつける新たな仕方」
   ex.見世物における動物の呈示⇔博物学における動物の記述、動物植物園
 博物学的空間における「視覚」の特権化
  「発見」された世界を視覚の力でまなざす

* 博物学的まなざしが産むもの
  欧人の知識増大 + ある段階的な優劣or主客の分離
             オリエントに関する知識増大→オリエンタリズムの制度化
 眺める=「特徴的諸要素を正確に測定する対象へと変換」 
       ex.ある地方の人間の「劣性」を「科学的」に証明
  分類・序列化するまなざし
      ↓
  世界が記号化され、格子状の網目の項へと置換
   ex.コレクションの意味合いの違い−単なる富・権力の誇示から体系的に分類・展示へ
      私的機関→公共的機関へと拡大していく

* 博覧会の時代へ
   博物学的まなざしを新しい資本主義のイデオロギー装置として自ら演出していこう
  と言うときに出現
 1798年 初の産業博覧会(フランス)以降、産業博各地へ飛び火


2.水晶宮の誕生〜初の万国博覧会へ〜
*第一回フランス内国博覧会の特徴(→万国博覧会の基本的な性格の諸特徴)
 1 政府が、産業振興のために主催したこと
 2 展示されるのは実用目的の商品であり、
  またその商品は販売用ではなく、展示されるだけであること
 3 アトラクションやスペクタクルを伴う祝祭であること
 4 一つの会場にすべてを集めたこと
 5 出品者の資格がほとんどフリーであり、私企業ないし私人であること
 6 単なる展示会でなく、商品のコンクールであること

* なぜロンドンで第1回万国博覧会が開かれたのか?
  大陸における博覧会の活発化−英の工業品浸透守り、国内育成
                  →アピールと言う政治的意図
  万国博覧会=イギリスの全面参加
     →対抗できない国は危険!

* 水晶宮=巨大温室
  新しいエキゾチックな植物(=椰子、オレンジetc)の展示
   ⇒世界を植民地化して行くまなざし
  鉄、ガラスの大量生産により可能に
     |
   商品の神秘化促進

* 観覧される商品の世界
  機械の力の信仰と言う統一⇔整然とした分類の仕方とは異なる
               産業的な実用性は貫徹していない
  商品自体のスペクタクル(多様な商品で溢れた世界をあらわす)
   商品が機能的な価値をはるかに越えた存在であることを大衆に呈示

* 視覚の特権的な場
  「できる限り近くへ、しかし触れさせないように」注意を払う
  値札なし→展示品を比較、選別される対象として眺めることに集中させる

* 大衆の動員と変容する大衆
  入場料金のシステム、鉄道(鉄道網、料金)、マスメディアの発達
   ⇒大衆における階級の境界線を越えるような消費者としての意識の芽生え
  <背景>
    イギリス国民の生活水準向上−革命する群集から消費する大衆へ
 見世物の側面+博物学的コレクション
        (世界を一望のもとに見渡すまなざし)


3.博覧会都市の形成
 ロンドン万博の成功⇒各地へ余波
1855 パリ万博
ナポレオンV + サン・シモン主義者
   (国民の間に蘇った偉大なる帝国という陶酔と熱狂の維持+産業発展の新次元へ)
1867 パリ万博
引き続きサン・シモン主義の影響−部門的に配列
               (国ごとに放射状、部類ごとに同心円状)
パビリオンの建設を各国に推奨−博覧会の娯楽化傾向のあらわれ
                →徐々に強めながら繰り返し登場
1889 パリ万博=エッフェル塔<俯瞰装置>の建設、電気
                            エッフェル塔(縦方向)
テクノロジーによる生活の変容を提示 |
* 百貨店の登場 |
  '30sマガサン・ド・ヌヴォテ(衣料品店)の百貨店化 |
     →後に出現する百貨店の原型        ――――――――鉄道(横方向)
  消費の創造                       |
                              |
* 博覧会都市、パリ |
  オスマンによるパリ改造事業=外部へパリを開く
   凱旋門から360度広がる視界


3.文明開花と博覧会
 日本人がヨーロッパの万博と出会う−1862 ロンドン
  簡易な着物で登場(だが、逆に話題に)
  恰好の「展示品」(≠「未開人」の展示)
 <欧> 突然の客を世界のどこに位置付けるか―――日本
                         まなざされる客体+
 <日> 「ヨーロッパ」をまなざす――――――――客体として国々をまなざす

1873 ウィーン万博−明治政府万博初参加
  目的−1.日本の豊かさ、技術を精良の品により示す…展示のジャポニズム
     2.西洋から技術ゲット!…現地に技術伝習生を残す
     3.日本でも博物館を→博覧会へ…日本で博覧会を開くためのケーススタディ
     4.日本の品を日用品として輸出したい
     5.各国に欠ける品を調達したい

* 明治政府は何を学んだか?
  殖産興業、富国強兵に欠かせない装置(久米邦武)
  博覧会が「眼」の空間−民衆教化(佐野常民)
   
1877 初の本格的な産業博覧会
      |
   第1回内国勧業博覧会
モノを集め分類→広く国民に展示
  =素材、製法などの基準で相互比較するまなざしを民衆に獲得させる
     ⇔会場自体も部門ごとに配列

*内国博がめざすもの
○ あくまで新しい「文明」を具象として教える展示場
× 伝統的なシンボルが顕現する場
   =骨董品、珍奇物はダメ!
 主役−薬品、陶磁器、織物、生糸、文具、理学機器、電信装置、蒸気機関etc.
     +出品人の技能そのものも博覧会のまなざしにより補足、布置
 技能を審査する⇒可視化
 見物人にも「審査」してもらう
  「凡そ会場に入るものは人々審査官の気象あるを要す」

* 民衆のなかでの内国博
  強制動員の側面、見世物(=江戸時代からの延長)としてとらえる
    ⇔江戸時代の見世物との連続性により容易に受容された側面も否定できず

* 内国博の影響
  勧工場の設立→民衆教化の戦略を持続的に発展させていく施設
  ↓ ―洋品、小間物、玩具、時計などの商品を正札現金掛値なしで陳列販売
  百貨店へ

* まなざしの発見と経験
  歩きながら商品を見較べ、そのなかに「新しさ」を発見     消費を管理する
                              ⇒  資本主義の
  見ること自体を楽しんでもいく、「見る」と言うまなざしの経験  運動過程へ接続
※江戸時代にも物産を集めて展示する催し(薬品会)は存在
  だが、大衆レベルにまで浸透させるのは「博覧会」(明治時代以降)



5.演出される消費文化
 明治前期   見世物的な出品を排除
 明治30年代〜 むしろ積極的に見世物要素を取り入れる
    ex. 第5回内国博(1903)
       メリーゴーランドのなどの遊戯施設、夜のイルミネーション
 ?新しい文明に向けて人々のまなざしを再編するのは挫折?
 ⇒否!
   近代化そのものの構造的な変質が原因

*観客の変質
  テーマの変化――婦人、こども、家庭に照準
 博覧会=生産の場→消費の場に対するモデル的な役割へ
      (ただし、国家レベルと言うより百貨店などが推進)
 ホワイトカラー層(会社員など)の増大→新しい家庭生活イメージの大衆的普及

* 博覧会を演出していく側の変質
  百貨店、電鉄、新聞社による博覧会の増加
 ex.呉服店(百貨店の前身)による積極的な博覧会への出品
    特定の顧客を相手        不特定多数の大衆へ
      [呉服店] 
          博覧会=恰好の宣伝媒体


6.帝国主義の祭典
 博覧会の時代=帝国主義の時代
1851 ロンドン万博―――――大英帝国の植民地・自治領からの展示
                    ↓
                  帝国の展示
        来場者―初めて彼らの「帝国」の広大な地域への支配に気づく
        大英帝国の「豊かさ」、英国民の「優越性」を植民地展示より「立証」
 その後、植民地展示拡大
   人間の「展示」も
1893 シカゴ万博―植民地展示のスタイルがより組織化
  ホワイトシティとミッドウェイプレザンス−「進歩」の歴史と同一視
           →非白人の世界を野蛮で子供じみたものだと「科学的」に正当化
会場の外では階級対立、数年前まで都市騒乱も
⇔「階級」に不関与な「人種」に基礎を置くユートピアを、
 実際の「展示」によって演出していく本質的にイデオロギー的な仕掛けとしての博覧会

1901 バッファロー万博
 配置の政治学+色の政治学[暗→明]
   未開      →  文明     
 (赤褐色、黄土色)   (薄い青、緑、金)
1904 セントルイス万博――今までを大きく上回る規模の「人間の展示」
  フィリピン村−1200人の展示
    
    マニラの城壁――――――スペイン橋―――――フィリピン村
               (米西戦争?)
「未開」のネグリト族から「文明化」された警察兵までの展示
  ⇒「フィリピン人にはまだ自らの国を統治する能力なし」(植民地支配正当化)

* 植民地展示について
 「征服の暗い側面や帝国内の至る所で起きていた虐殺や文化の破壊や富の搾取を隠蔽」
  ファシズムの台頭⇔最後まで「帝国」のディスプレイ装置であろうとする

* ジャポニズムと帝国主義
  =シカゴ万博=
   鳳凰殿―東洋の「帝国」ぶりアピール
      [ヨーロッパ側]
         礼儀正しさといった伝統的な価値守りつつ、欧米に技術学び発展する
       ⇒ヨーロッパ文明の先兵として、背後のアジア国を「文明化」して欲しい!
    ※欧米の文明に従順なアジアの小国=白人たちのユートピアの好ましい子役
  =セントルイス万博=
    日本−「帝国」としての優位意識→国内の博覧会にも ex.台湾館
    欧米側も特殊な仕方で扱う
 博覧会の位置付けの変化
  「新文明」を見て、技術習得
    →「帝国」(日本)の地位を植民地の「未開」の距離ではかる場へ
 やがて、帝国主義的膨張が博覧会と言う幻想を超えるまでに破局的に進んでいく…

* 「博覧会の時代」の終焉
大戦後、政治文化的影響力の減退←見本市、テレビコマーシャルの出現
博覧会自体が「コマーシャリズム」と未来との統合
  =企業パビリオン、バーチャルなものの展示、体験

*これからの万博は?
 大量消費社会→グローバルコモンズの時代へ
  消費を是とする博覧会のあり方そのものの転換⇔娯楽性との両立、集客目標の達成
 単なるテーマパークではない博覧会ならではのものは…?


7.まとめ
博覧会――透明な分類学的秩序のうちに地球上で「発見」される全てを記号として配列
「博覧会に集まってきた人々の社会的経験の歴史」に焦点
3つの戦略的論点
  博覧会=
1.「産業」のディスプレイ&「帝国」のディスプレイ
2.19Cの大衆が近代の商品世界に最初に出会った場所
3.「見世物」としての博覧会と言う視点<娯楽性>


資料
エピステーメー(episteme) ギリシャ語で「知識」の意。フーコーはある時代に置けるさ
        まざまな学問の成立を可能ならしめる、その時代固有の知の深層構造を
        指すのに用いている。
オリエンタリズム 「優越する西洋と劣弱な東洋との間に根深い区別を設けること」
米西戦争(1898) スペインとアメリカがフィリピンを巡りあらそったもの。
     戦争直前となる96年にはアギナルドが独立宣言をしており(すぐつぶされ97      
     年に大統領に)、こうした混乱にアメリカが目をつけた。
     ここで興味深いのが、アメリカ側が「圧政」のスペインからフィリピンを守る
     という主張をしていること。

(1) 16世紀末までの西欧文化においては、類似と言うものが知を構築する役割を演じて
きた。テクストの釈義や解釈の大半を方向付けていたのも類似なら、象徴のはたらき
を組織化し、目に見えるもの、目に見えぬものの認識を可能にし、それらを象徴する
技術の指針となっていたのもやはり類似である。世界はそれ自身のまわりに巻きつい
ていた。大地は空を写し、人の顔が星に反映し、草はその茎のなかに人間に役立つ秘
密を祝していた。(Foucalt.M 「言葉と物」)

(2) 博覧会の殿堂と同様、これら百貨店はガラス・テクノロジーにおける新発明を次々に
援用することで、透明なディスプレー・ウィンドーの面積を飛躍的に拡大させた。  
(中略)ガラスと照明の結託はまたスペクタクルの効果もつくりだした。さしあたり買
いたい商品がすぐそこにあるという以上に、なにやら劇場じみた過剰さの感覚がそこ
に醸し出されてこずには措かないのだ。商品は人を魅了する装いのもとに陳列され、
それが日常的環境をいじするため現に買って、家に持って帰ることもできるのだとい
う意味であくまで現実的なもの、という二重性を帯びるにいたった。(R.ボウルビー)

(3) 博覧会の趣旨は眼目の教によりて人の智巧技芸を開進せしむるに在り。夫人心の事物
に触れ、其感動識別を生するは、眼視の力に由る者最大く且だいなりとす。(中略)
人智を開き工芸を進ましむるの最捷径最易方は、此眼目の教に在るのみ。(佐野常民「澳国博覧会報告書」)

(4) ある店舗の暖簾をくぐれば必ず何かを買わなければいけない、という一種の商道徳が
かつてはあったのだが、百貨店の「自由におはいりください」原則がこれに止めをさ
した。と同時に、はっきりと正札をつける定価性の導入が、買うことは値切ることと
心得たりという形の店頭での駆け引きの商慣習に止めをさした。       
(Bowlby R.「ちょっと見るだけ」)