ジョン・ロールズ『正義論』1971年
序
「近代道徳哲学史上概ね主流をなしてきた体系的な理論は、功利主義の形態をとってきた。ひとつの理由は、その範囲においても精巧さにおいても、実に印象的な思想の本体をつくり上げた一連の大家が、それを支持してきたことである。」(vi)
「われわれはこうしたことからしばしば、功利主義か直観主義かの選択を迫られるようである。そして結局は、直観主義に強いられて、一定のその場しのぎの方法で限界を画され、制限を課された効用原理の変形できまりをつける場合が多いようである。」(vi)
「私が試みたことはロック、ルソー、カントが提唱した伝統的な社会契約の理論を一般化し、高度に抽象化することである。」(xi)
「そこから帰結する理論は本質において、極めてカント的である。確かに、私が展開した見方は独創的とはいえない。」(xii)
第1部 理論
第1章 公正としての正義
「正義は、社会制度の第一の徳目」(p3)
「各人には皆正義に根ざす不可侵性があり、社会全体の福祉でさえこれを侵すことはできない。」(p3)
「社会とは、相互の関係の中で、一定の行動ルールを拘束力のあるものとして認め、しかも、大体はそれらのルールに従って行動する人々の、多かれ少なかれ自己充足的な連合体である、と仮定しよう。さらに、これらのルールは、そこに参加する人々の善を増進するよう企図された協働の体系を明確に定める、と想定しよう。すると、社会には、相互の有利化を求める協働事業ではあるが、利害の一致とともに利害の対立が生じるという、際立った特徴がある。」(p4)
「社会が構成員の善を増進するよう企図されているだけでなく、正義の公共的概念によって有効に規制されているとき、その社会は秩序ある社会であるということにしよう。」(p4)
「正義への一般的な願望は、他の目的の追求に制限を加えるのである。」(p4)
「現存する社会は、もちろん、この意味での秩序ある社会であることはほとんどない。」(p4)
「諸国民の法のための条件は、多少違う方法で得られた異なる諸原理を必要とする。当面、他の社会から隔離されている一つの閉鎖システムとして考えられた、社会の基本構造についてのある合理的な正義の概念を定式化することができれば、私には十分である。」(p7)
「正義の概念は、権利と義務を割り当て、社会的有利性の適切な分割を定める際の諸原理の役割によって定義される、と私は考える。正義の概念とは、この役割の一つの解釈である。」(p8)
「公正としての正義においては、平等な原初状態は、伝統的な社会契約論における自然状態 (the state of nature) に対応している。」(p9)
「公正としての正義の一つの特徴は、初期状況にある当事者を合理的で、相互に無関心であると考えることにある。」(p10)
「全ての人々の安寧は、それなしには誰も満足できる生活ができない協働の図式に依存しているから、有利性の分割は、不遇な人々を含めて、そこに参加している全ての人々の自発的協働を引き出すようなものでなくてはならない、というのが直観的な観念である。」(p11)
「明らかに、公正としての正義かかなりうまく成功すれば、次の段階は「公正としての正 (rightness) 」の名で示唆される、一層一般的な見解について研究することになるであろう。しかし、この広範な理論さえ、全ての道徳上の関係を包含する事はできない。」(p13)
「原初状態とは、到達される基礎的な合意が公正であることを保障する適切な初期のありのままの状態 (status quo) である、と私は述べてきた。」(p13)
「こうして、諸原理の選択において、自然の運や社会環境によって何人も有利になったり、不利になったりするべきではないということは、合理的でかつ広く受け入れられるように思われる。(略)さらに、特定の性癖や熱望、そして人々の自分の善についての概念が採用される諸原理に影響を及ぼさないということを、保証しておくべきである。」(p14)
「これらの原理がわれわれの正義に関する慎重な確信と一致すれば、そこまではよい。しかし、おそらく不一致があるであろう。この場合、われわれには一つの選択がある。われわれは初期状況の説明を修正するか、現在ある判断を改めるかのどちらかができる。(略)ときには契約環境の条件を変え、ときにはわれわれの判断を撤回してそれらを原理に一致させるというように、ゆきつもどりつすることによって、ついには合理的な条件を表わし、十分な簡潔にされ調整された、慎重な判断に一致する諸原理を生み出す初期状況の叙述を見出すだろうと私は思う。この事態を、内省的均衡とよぶことにする。」(p15-6)
「功利主義的な正義観の際立った特長は、間接的な場合を除き、個々人が自分の満足を人生にどう分配するかを問題にしないのと同様、間接的な場合を除き、この満足の総和が、個々人に、どのように分配されるかを問題にしないことである。」(p19)
「直観主義は、優先問題に関する有用かつ明白な解が存在することを否定する。」(p29)
「直観主義は、競合する正義の諸原理にウェイトを割り当てる問題に対しては、建設的な回答を与えることができないと、考えている。」(p29)
「辞書的順序づけは、正義の概念のより大きな構造を示し、それに沿ってより近似的な調和が見出される方向を示唆するであろう。」(p33)
第2章 正義の諸原理
「制度を定めるルールの体系は守られているという公共理解にしたがって、制度によって明確に定められている行為が規則通りになされている時に、一つの制度はある時点である場所に存在する。」(p44)
「例えば、儀式 (ritual) は通常、正義にかなうとかもとるとみなされない。」(p45)
「二つの原理の最初の言明は次の通りである。
第一原理:各人は、他の人々の同様な自由の図式と両立する平等な基本的自由の最も広範な図式に対する平等な権利をもつべきである。
第二原理:社会的、経済的不平等は、それらが (a) あらゆる人に有利になると合理的に期待できて、 (b) 全ての人に開かれている地位や職務に付随する、といったように取り決められているべきである。
第二原理には二つのあいまいな言い方、つまり「あらゆる人の有利」と「全ての人に開かれている」、がある。これらの意味をより正確に決定すると、§13にある二番目の原理の定式化に至る。」(p47)
「中でも大切なのは、政治的自由(投票したり、公職についたりする権利)と言論および集会の自由、良心の自由 (liberty) と思想の自由 (freedom) 、心理的圧迫と肉体への暴行や殺傷 (dismemberment) からの解放を含む身体の自由(身体の無欠性)、個人的な財産権を保有する権利や法の支配という概念によって定められるような恣意的な逮捕や押収からの自由である。これらの自由は第一原理によって平等であるべきなのである。/第二原理は、まず最初に、所得や富の分配および権限と責任の差を利用する組織の設計 (design) に適用される。富や所得の分配は平等である必要はないが、他方、それはあらゆる人に有利になるのでなければならないし、同時に、権限と責任のある地位は、全ての人が近づけるのでなければならない。」(p48)
「二原理は、逐次的順序で取り決められているので、酌量すべき事情のない限り、基本的自由と経済的、社会的利得との間の交換を許さない。」(p49)
「平等である初期的取り決めが基準点として取り上げられる時に、全ての人がより有利になるような方法が無限に多くあることは明白である。」(p51)
“あらゆる人の有利“
“平等に開かれている“ 効率性原理 格差原理
才能に対して開かれている 生来の自由の体系 自然的貴族制
キャリアとしての平等
公正な機会均等としての平等 自由主義的平等 民主的平等
(p51)
「どの解釈の場合にも、平等な自由という第一原理は満たされているし、生産手段が私的に所有されていようといまいと、経済は、大体において自由市場システムをとっていると仮定する。」(p52)
「効率性原理は、それだけでは、効率的な分配として、一つの特定の財貨の分配を選び出すことはしない。効率的な分配のなかから選別するためには、ある他の原理、例えば正義の原理が必要である。」(p53)
「かくして、一定の条件の下では、ある代表的人間の期待、例えば地主の期待を低めることなく農奴制を大きく改革することはできないということがありうる。その場合には、農奴制は効率的であるのだが。(略)しかし、それらは確かに、全く正義にかなってはいない。」(p55)
「直観的に見て、生来の自由の体系の最も明白な不正義は、道徳的視点からは非常に恣意的なこれらの諸要素によって、分配上の取り分が不当な影響をうけるのを許していることにある。」(p56)
「自由主義的解釈は、(略)生来の資産のある分配が存在すると仮定すれば、同じ水準の才能と能力を持ち、それを使おうとする同じ意欲を持つ人々は、社会システムにおける初期の位置にかかわらず、同じ成功の見通しを持つべきなのである。」(p56)
「自由主義的な概念は、明らかに生来の自由の体系よりも好ましいように思えるが、(略)それは、依然として、富と所得の分配が能力と才能の自然の分配によって決定されるのを許している。(略)分配上の取り分は、自然の巡り合せ (lottery) の結果によって決定される。そして、この結果は道徳的視点からみて恣意的である。所得や富の分配が歴史的、社会的幸運による以上に、生来の資産の分配によって決定されるのを許す理由はない。」(p56)
「ある取り決めがどのくらい正義にもとるかは、より高い期待がどのくらい過大であるかに依存し、かかる期待が他の正義の諸原理を、例えば機会の公正な均等をどの程度まで侵しているかに依存する。」(p59)
「格差原理は、厳密にいえば、最大化原理」(p59)
「階級間の差があまりに大きいと、民主的平等だけでなく相互の有利化という原理までが侵されてしまう (§17) 。」(p59)
「期待の不平等は鎖状に結合されている (chain-connected) と想定しよう。もし、ある有利性が最低の地位にある人の期待を引き上げる効果をもつならば、その中間の地位にある全ての人の期待を引き上げる。例えば、企業家の期待がより大になると未熟練労働者が便益をうけるのであれば、半熟練労働者も、また、便益を受ける。」(p62)
「社会的、経済的不平等は、それらが、 (a) 最も不利な立場にある人の期待便益を最大化し、 (b) 公正な機会の均等という条件の下で、全ての人に開かれている職務や地位に付随する、ように取り決められているべきである。」(p64)
「この原理は実力主義の (meritocracy) 社会をもたらすという反論をうけつけないということを、さらに明らかにするつもりでいる。」(p65)
「もし、ある位置が全ての人にとって公正な基礎にもとづいて開放されているのでないならば、そこから締め出された人々は、たとえ、そうした地位につくことを許された人々の一層大きな努力から便益を得ているとしても、正義にもとる取り扱いをうけていると感じて当然である。」(p65)
「不完全な手続き上の正義の特徴となる点は、正しい結果に関する独立の基準があるにはあるが、確実にそこに至る実行可能な手続きは存在しないということにある。」(p67)
「純粋な手続き上の正義という観念を分配上の取り分に適用するためには、正義にかなう制度の体系を確立し、それを不偏的に管理する必要がある。」(p67)
「量的な個人間の比較は最低の地位を見つけ出す際になされるが、他方、残りの人々については、一人の代表的人間についての序数的判断で十分なのである。」(p70)
「一位的社会善とは、それらをより広い範疇で述べれば、権利、自由と機会、および所得と富とである。」(p70)
「これを行なう場合、われわれは明らかに直感的な評価に頼ることになる。しかし、これはどうしても避けられないことである。」(p71)
「この構造は、社会的協働の便益を分割するに際して、ある出発点となる位置に他よりも好意をよせる。二原理が規制しようとするのはこうした不平等である。一度、これらの原理が満たされるならば、自由な連合体の原理にしたがった人々の自発的行為から生ずるその他の不平等は許される。」(p73)
「最も不利な立場にある人々(略)そのような人々とは、生まれついた時の家族と階級が他の人々より不利な立場にある人々、生来の資質(実現された場合の)があまりよい暮しを許さない人々、および人生の順路における運や巡り合せが幸せ薄い結果に終わるような人々である。」(p74)
「性にもとづく差別はこのタイプのものであるし、人種や文化に依拠する差別もそうである。かくて、いわば、男性が基本的権利の割り当てにおいて恵まれているとするならば、この不平等は、もしそれが女性に有利であって、女性の観点から受け入れることができるのであれば、その場合にのみ、格差原理(一般的に解釈された)によって正当化される。」(p75)
「補償原理(略)出生や生来の資質の不平等は、不当なものであるから、こうした不平等はともかく補償されるべきなのである。かくて、全ての人々を平等に取り扱う、つまり機会の純粋な均等を定律するためには、社会は、生まれながらにしてもつ資産のより少ない人々やより恵まれない社会的地位に生まれた人々に、より多く注意を向けなければならない。この原理はそう考える。その観念は、偶然の偏りを平等の方向に正すことである。」(p76)
「格差原理はもちろん補償原理ではない。格差原理は、あたかも全員が同じレースにおいて公正な基礎に立って競争すると期待されるごとく、ハンディキャップをならすように社会に求めたりはしない。しかし、例えば最も恵まれない人の長期期待を改善するために、格差原理は教育に資源を配分するであろう。」(p77)
「格差原理は、実際には、生来の才能の分配をある点で共通の資産とみなし、この分配を補整することによって可能となるより大きな社会的、経済的便益を分け合うことに、同意することを表わしている。天性によって恵まれた立場におかれた人々は誰であれ、敗れ去った人々の状況を改善するという条件に基づいてのみ、彼らの幸運から利得を得ることが許される。」(p77)
「以上で述べてきたことに照らしてみれば、生来の才能の分配や社会環境の偶然性は正義にもとるのであり、この不正義は人間の取り決めに持ち越されてこざるをえないに相違ないから、制度の順序づけには常に欠陥があるという主張を、われわれは拒否してもよいであろう。(略)自然の分配は、正義にかなうわけでもそれにもとるわけでもない。(略)これらは自然の事実にすぎない。正義にかなったり、正義にもとったりするものは、制度がこれらの事実を処理するやりかたなのである。(略)社会システムは人間の制御を越えた不変の秩序ではなく、人間行為の一つのパターンなのである。(略)二原理は運の恣意性に対抗する一つの公正な方法なのである。」(p78)
格差原理は互恵 (reciprocity) の概念を表わしているというのがもう一つの要点である。それは相互便益の原理なのである。」(p78)
「そのような性格は、相当に、われわれが何の功績を主張することもできない幼年期における幸運な家族とか社会的諸環境に依存しているからである。」(p79)
「格差原理のもう一つの利点は、それが博愛の原理に関する一つの解釈を提供してくれるということである。(略)家族は、その理想的な概念においても、しばしば実際にも、有利性の総計を最大化するという原理が拒否される一つの位置である。」(p80)
「だがわれわれは、他者の才能を減ずる政策を提案することは、一般に不運な人の有利にはならないことを指摘しておくべきであろう。」(p82)
「われわれは、司法上、行政上、その他の権限のある地位を受け入れるときと同様に、結婚するときにも責務を引き受ける。われわれは、約束や暗黙の了解によって責務を得るのであり、ゲームに参加する時でさえ、つまり、ルールによってプレーして善いスポーツをする責務の場合でさえ、そうである。」(p86)
「多くの生来の義務がある。私はそれらを一つの原理の下にまとめようとは思わない。明らかに、この統一性の欠如は優先順位のルールにあまり過重な負担を課す危険がある。しかし、私はこの困難を棚上げにしなければならない。」(p86)
「責務とは対照的に、われわれの自発的行為を考慮せずに適用されるというのが生来の義務の特質である。」(p87)
第3章 原初状態
「さて、なんびとといえども、明らかに、自分の欲しいもの全てを得ることはできない。単に他人が存在することがこれを妨げる。(略)だが、正義の二原理は合理的な提案であるように思える。実際、私は、これらの原理がいわば他者の相応の要求にも応えた、あらゆる人にとって最善のものであることを、明らかにしたいと思っている。」(p93)
「原初状態は、到達されるいかなる合意も公正である状態 (status quo) というように定義される。」(p94)
「それゆえ、原初状態が純粋に仮説的状況であることは、明白である。原初状態が描き出す諸々の制約に注意深く従えば、われわれは、当事者の内省を模擬実験することはできるが、それに似た状況が生まれると考える必要はない。」(p94)
「また、これらの原理を受け入れるということが、心理法則とか確率として推測されているのではない点にも注意すべきなのである。」(p95)
「既に述べたように、初期状況の解釈については、多くのものがありうる。」(p95)
「私は、原初状態にある人は、かかる正義の環境が得られることを知っていると、むろん仮定する。(略)さらに、当事者は、最善を尽くして自分の善の概念を高めようとするのであり、これをなそうとする際には、それに優先するお互いへの道徳的絆に束縛されないと仮定する。」(p100)
「公正としての正義の狙いは、正義の義務と責務の全てを他の合理的な条件から導き出そうとすることにある。」(p100)
「原初状態における相互の無関心という仮定は、正義の原理が強い仮定に依存しないようにするためにおかれている。」(p101)
「かくて、正義というのは、競合する利益が存在し、人々が互いに自分の権利を抑えて然るべきであると感じているところの実践の徳目である。」(p101)
「公共性の条件は、合理的存在として、人が目的の王国の法として喜んで制定する原理に従って行為するようにわれわれに求める限り、カントの定言命法説にも、明らかに、潜んでいる。」(p103)
「結果を好まないからといって、最後になって再度、原理を審決することはできないのである。」(p104)
「われわれは、人々に争いを起こさせ、社会的、自然的環境を自分の有利になるように利用しようという気を起こさせる、特異な偶然性の影響をなくさなければならない。このために、私は、当事者は無知のヴェールの背後におかれていると、仮定する。彼らは、様々な選択対象が自分に特有の事情にどのように影響を与えるかを知らないし、ただ、一般的な事由にもとづいてのみ原理を評価せざるをえない。」(p105)
「まず、自分の社会における位置とか階級上の地位とか社会的身分 (status) を誰も知らない。また、生来の資産や能力の分配に関する自分の運、つまり自分の知性や体力等々についても知らない。また、自分の善の概念とか、自分の合理的な人生計画に特有の事柄とか、危険回避度あるいは楽観論に陥りやすいかといったような自分の心理に独特の特徴でさえも、誰も知らない。これに加えて、当事者は、自分の属す社会に特有の環境についても知らないと、私は仮定する。」(p105)
「だが、彼らが人間社会に関する一般的な事実を知っているということは、当然と考えられる。彼らは、政治現象や経済理論の諸原理を理解している。つまり、社会組織の基礎や人間心理の諸法則を知っている。事実、当事者は、正義の諸原理に影響を与える一般的事実はなんでも知っていると前提されている。」(p106)
「無知のヴェールが、ある特定の正義の概念に関する満場一致の選択を可能にする。」(p108)
「われわれは、望む解がえられるように原初状態を定義したいのである。」(p109)
「むろん、一度、無知のヴェールが外されるならば、宗教上その他の理由から、実際には、これらの善をより多く欲しないという当事者がいるかもしれない。」(p110)
「この手続きをとる一つの理由は、羨望があらゆる人の暮し向きを悪化させる傾向があるということである。この意味で、羨望は集合的に不利益である。」(p111)
環境
決定 C1 C2 C3
d1 −7 8 12
d2 −8 7 14
d3 5 6 8
「このルールは企図された行動方針の下で起こりうる最悪の事態にわれわれの注意を向け、それに照らして決定を下させるものである。」(p147、注19)
「マキシミン・ルールは、一般的には、不確実性下の選択に適した指針ではない。ある特殊な特徴によって特徴づけられる状況でしか成立しない。」(p118)
「まず、このルールは起こりうる環境の見込み (likelihood) を考慮に入れていない」(p118)
「選択しようとしている人は、マキシミン・ルールに従うことによって、実際に、確実なものにしうる最小の取り分 (stipend) 以上に得られるものには、どちらかといえば、ほとんど注意を払わないような善の概念をもっている。」(p118)
「反対論者が考える可能性は、現実には起こりえない。」(p120)
「より恵まれた人々のより大きな期待は、おそらく、訓練の費用を埋め合わせているか、組織上の要請に答えているであろうし、そのことによって、一般的有利性に貢献するとおもわれるからである。」(p120)
「開放階級システムを備えた競争経済の場合には(私的所有権を伴おうと伴うまいと)、過度な不平等は常態とはなりえないという観念に依存している。」(p120)
「個人の数が増加するとき、一人あたりの平均効用が十分にゆっくりと下落する限り、平均値がどこまで低下したとしても、人口は無限に成長するように促進されるべきなのである。」(p123)
「原初状態にある人の観点からすれば、平均福祉を下支えするある種の下限に同意する事の方が、より合理的であるように思える。当事者は、自分の利益の増進を目指しているのであるから、いずれにせよ、満足の総合計を最大化したいという願望をもたない。」(p124)
「この危険回避が大であればあるほど、それだけ、この形の効用原理は格差原理に似てくる。」(p126)
「この議論は、不確実性の大きい状況の下における正義の適切な最小分の概念が二原理であることを明らかにする助けとなる。効用原理ならば得られるかもしれない一層大きな有利性は、いずれも非常に疑問の余地のあるものであって、それに反して、事がうまく運ばなかったならば生ずるであろう困難は、耐え難い。」(p132)
第2部 制度論
第4章 平等な自由
「この構造の主要な制度は立憲民主主義の制度である。(略)むしろ私の意図は、今まで、制度的な形態から抽象されたところで論じられてきた正義の諸原理が、実行可能な政治的概念を定め、われわれの慎重な判断の、合理的な近似物であり、かつその拡張であるということを示すことにある。」(p153)
「今までのところ、一度、正義の諸原理が選択されると、当事者は社会における自分の位置に戻り、それ以降は社会システムに対する自分たちの要求をこれらの原理によって判断する、と私は想定してきた。しかし、いくつかの中間的な段階が、ある確定した系列において生ずると想定されるならば、この系列が直面しなければならない複雑性を選り分けるための図式を、われわれに与えてくれるかもしれない。」(p154)
「四段階の系列の観念は米国憲法とその歴史によって示されている。」(p200、注1)
「事実、正義にもとる立法が法制化されないということを保証する手続き上の政治的ルールに関する図式は存在しない。」(p155)
「正義に関する第一原理の適用を議論するに当り、私は極めてしばしばこの話題を混乱させてきた自由の意味をめぐる論議を避けて通ろうと思う。(略)たいていの場合、この論議は定義とは全然関係がなくて、むしろ、いくつかの自由が対立するときのそれらの相対的な価値と関連している、と私は信ずる。」(p157)
「ある階層の人人が他の階層よりも大なる自由をもっている時、あるいは、自由が当然そうあるべきであるところまで拡張されていない時には、自由は不平等である。」(p159)
「貧困や無知の結果として、そして、一般的に手段を欠く結果として、自由の権利や機会を利用できないということが、時に、自由を限定する拘束の中に数えられることがある。だが、私はこのように言いたくはなく、むしろ、これらのことは、自由の価値に、つまり第一原理の定める諸権利がもつ個々人にとっての価値に、影響を与えるものと考えたい。」(p159)
「自由とは、平等な市民権のもつ自由の完全な体系によって提示される。他方、人々や集団にとっての自由の体系は、体系の定める枠組みの中で、自分の目的を増進する彼らの力量に依存する。平等な自由としての自由は、全ての人にとって同じである。したがって、平等な自由のより少ない人を補償するという問題は生じない。」(p159)
「良心の平等な自由は、原初状態にある人が承認することのできる唯一の原理であるように思われる。彼らは、支配的な宗教的、道徳的教義が、それが望むなら、他人を迫害したり、抑圧したりすることを許してまで、自分の自由を賭けてみることはできない。(略)他方、当事者は、効用原理にも同意することができないであろう。この場合には、彼らの自由は、社会的利益の計算に従属するものとなり、自由は、もし、それを制限することが満足の純残高をより大にするようであれば、制限されて当然であるとみなされることになろう。」(p161)
「たとえ、人間の一般的力量が知られているとしても(実はそうではないので)、各人は、やはり、自分自身を見出さなければならず、それには、自由があらかじめ必要とされる。」(p164)
「宗教国家という考えは排斥される。」(p165)
「国家は、自ら哲学的、宗教的協議にかかわるのではなく、個々人の道徳的、精神的利益の追求を、彼ら自身が平等な初期状況で同意するであろう原理にしたがって、規制するのである。」(p166)
「正義は、人々が自分の存在の基礎を他者が破壊する間、そばで手をこまねいて見ていなければならないなどということを、要求しない。一般的な見地から、自衛の権利を捨て去ることは、決して、人々の有利になりえないわけであるから、不寛容な宗派が他者の平等な自由にとっての直接の危険でないときに、寛容な宗派が彼らを抑える権利をもっているのかどうかということが、唯一の問題となる。」(p170)
「何らかの方法で、不寛容な宗派が、正義の二原理を受け入れている秩序ある社会に存在するようになる、と想定しよう。」(p170)
「市民は、不寛容な宗派に、他者の自由を尊重するように、当然強制することができる。だが、基本法それ自体が安全に守られているときには、不寛容な宗派の自由を否定すべきいかなる理由もない。」(p171)
「他の人々は、彼らの制度に本来備わっている安定性を忘れるべきではない。」(p171)
「満場一致の欠如ということは、正義の環境の一部なのである。」(p174)
「政治的平等と両立する限度をはるかに越える財産と富の分配の格差が、一般に、法体系によって許容されてきた。(略)価格理論が真に競争的な市場に帰するということは、理論においてさえ、望ましい性質をもつものではない。」(p176)
「船の乗客たちは、船長はより多くの知識をもっていて、彼らと同様に安全に到着したいと願っていると信じているから、喜んで船長に船の操縦を委せる。そこには利害の一致とそれを実現する際の顕著な技能および判断の差とが共にある。」(p181)
「各人は、いまや、全ての人が正義にかなうと認めることができるものにまで、自分の要求を緩和するように要求されるから、それは他者に命令したいという野心にこたえることでもない。全ての人の信念と利益を参考にして考慮に入れるべきである公共の意志は、市民的友情に根拠をおいており、政治的文化に特有の精神 (ethos) を形作る。」(p182)
「公正としての正義の共通理解が立憲民主主義を形成していると、いえるかもしれない。」(p188)
「多分、代表制に関するバークの非現実的説明は、一八世紀社会という脈絡の中では、妥当性の一要素であったのであろう。」(p191)
「第一原理
各人は、すべての人に対する類似の自由の体系と両立する平等な基本的自由の最も広汎な全体体系に対する平等な権利を持つべきである。
優先順位のルール
正義の諸原理は辞書的順序で順位づけられるべきである。それ故、自由は自由それ自体のためにしか制約されえない。これには二つの場合がある。 (a) あまり広汎でない自由は、すべての人によって分有される自由の全体体系を強化するのでなければならない。 (b)平等以下の自由は、自由のより少ない市民に受け入れられるものでなければならない。」(p194)
「自分の行為の諸原理が、自由で平等な合理的存在としての自分の本性の最も適切で可能な表現として、自らの手で選択されるとき、人は自律的に行為しているとカントは考えていた、と私は信ずる。」(p195)
「カントの主な狙いは、自由とはわれわれが自らに与える法にしたがって行為することであるというルソーの考えを、深化させ、正当化することにある。」(p198)
第5章 分配の正義
「確かに、これらの善に関する理論は心理的前提に依存しており、それは正しくないと証明されるかもしれない。」(p204)
「体系は、構成員に対応する正義感を、つまり正義に根拠を持つルールにしたがって行為したいという有効な願望を、よびおこすように取り決められていなければならないというのが、この意味である。」(p205)
「このような考察の要点は、公正としての正義が、いわば、既存の欲求や利益には左右されないということである。」(p205)
「功利主義は願望の質を区別せず、すべての満足はある価値を持つから、それは願望の体系あるいは人の理念を選択するための基準をもたないように見える。」(p205)
「原初状態というのは、満場一致が可能であるように特徴づけられている。ある一人の人の熟慮は万人の典型である。」(p206)
「かくて、原初状態という契約論的概念が最初に樹立される。それは適度に単純であって、それが提起する合理的選択の問題は、相対的に厳密である。この概念から、それがどれほど個人主義的に見えようと、結局、われわれはコミュニティの価値を説明しなければならない。さもなくば、正義論の成功はおぼつかない。」(p207)
「公共善は、不分割性と公共性という二つの特徴をもつというのが主要な観念である。すなわち、多かれ少なかれこの善を欲する多くの個人、いわば公衆がいるのであるが、彼らがそれを享受しようとするならば、各々、等量ずつ享受しなければならない。」(p208)
「たとえ、他者の行動を所与として、各人の決定が完全に合理的であるとしても、孤立してなされる多数の個人の決定の結果が、ある他の行為の進路よりもあらゆる人々を悪化させる時には常に生ずる。これは囚人のディレンマの単なる一般的ケースにすぎず、ホッブスの自然状態はその古典的な例である。」(p210)
第二の囚人
第一の囚人 白状しない 白状する
白状しない 一、一 一〇、〇
白状する 〇、一〇 五、五
(p254、注9)
「このような状況では、相互に無関心な動機づけを仮定するとき、彼らにとって最も合理的な行動方針―ふたりとも白状しない―は不安定である。(略)彼らは功利主義者であるか、あるいは正義の諸原理(囚人への適用は制限されている)を是認するということが、もし囚人の間の共有知識であるならば、かれらの問題は解決されるであろう。」(p254、注9)
「私的所有体系も社会主義体系も、共に、正常なら、職業および職場の選択の自由を許す。この自由が公然と妨げられるのは、どちらにせよ、指令経済の下においてなのである。」(p211)
「市場の失敗や不完全性が重大であることが多く、配分部門によって補正的な調整をしなければならない。」(p212)
「社会主義の下では、生産手段や自然資源は公的に所有されているから、分配機能は大幅に制約されている。それに反し、私的所有体系は、両方の目的のために、様々な程度まで価格を利用する。これらの体系のいずれが、そして多くの中間的形態のどれが、正義の要請に最もよく応えているかは、あらかじめ決定できないと私は思う。」(p213)
「私は、また、機会の公正な(形式性とは反対のものとして)均等がそんざいすると仮定する。政府は、通常いわれる社会共通資本の維持に加えて、私立学校への補助金あるいは公立学校システムの確立によって同じ資質をもち、同じ動機をもつ。人々に関する教育や文化の等しい機会を保証するよう努めるというのが、このことが意味するところである。それは、経済活動における、そして職業の自由な選択における機会の平等を助長し、裏書する。(略)最後に、病気や雇用のための周知の割引又は特別支出によって、あるいは、等級化された所得補助(いわゆる負の所得税)のような装置によってより体系的に、政府はソシアル・ミニマムを保証する。」(p214)
「一度、適切なミニマムが移転によって準備されるならば、総所得の残りが価格システムによって処理されるということは完全に合理的である。(略)正義の諸原理が満たされているか否かは、最も不利な立場にある人々の総所得(賃金プラス移転)が彼らの長期期待を最大化するようになっているかどうかにかかっている(平等な自由と機会の公正な均等という拘束と両立して)。」(p215)
「租税の負担は正義に適うように分配されるべきであり、(略)比例的な支出税 (a proportional expenditure tax) が最善の租税の図式の一部である(略)それは、正義の常識的な準則の水準でも、所得税(どのような種類の)よりも好ましい。それは、人がどれだけ貢献しているかに従うのではなく、人が財の共通の倉庫からどれだけ持ち出すかにしたがって、租税を課すから(ここでは、所得が公正に獲得されていると仮定する)である。(略)それゆえ、累進税率を用いる方が一層よいとされるのは、正義の第一原理と機会の公正な均等とに関する基本構造の正義を保持し、それに対応する制度を掘り崩すような財産と権力の蓄積の機先を制するような場合のみである。」(p216)
「比例的支出(所得)税は、第二原理を実行に移すために、公共善や移転部門や教育の機会の公正な均等の確立などに要する収入を準備する。」(p217)
「正義論は、社会的、利他的動機の強さには確定した限界があると仮定する。」(p218)
「(おそらく前の世代を除いて)、当事者は、各世代が先行者から当然受け取るべきものを受け取り、来るべき者達への公正な負担を果たすことを保証する貯蓄原理に、同意するにちがいない。世代間の経済的交換だけが、いわば、実質的なもの、つまり、貯蓄原理が採用されるときに原初状態でなしうる補正的な調整なのである。」(p222)
「そこで、合理的な結果を得るために、第一に、当事者は家系を代表する、いわば、少なくとも直接の子孫には、気を配る人である、と仮定する。第二に、採用される原理は、前の世代全てがそれに従ったことを当事者が望めるものでなければならない。」(p223)
「正義の二原理の満たされている秩序ある社会においてさえ、家族は、個人間の平等な機会に対する一つの障壁となるかもしれない。(略)もし、同じ部門内の家族の間で、彼らの子供の熱望をどう形成するかについて相違があるのであれば、そのときには、機会の公正な均等は部門間では得られていても、個人間の平等な機会は得られていないことになろう。この可能性は、機会の均等ということをどこまで実行に移すことができるかという問題を生み出す。」(p231)
「第一原理
各人は、全ての人の同様な自由の体系と両立する平等な基本的自由の全体体系を最大限度までもつ平等な権利を有するべきである。
第二原理
社会的、経済的不平等は、それが次の両者であるように取り決められるべきである。
(a) 正義に適う貯蓄原理と矛盾せずに、最も恵まれない人の便益を最大化すること。
(b) 公正な機会の均等という条件の下で、全ての人に解放されている職務や地位に付随していること。
第一の優先順位のルール(自由の優先)
正義の原理は、辞書的順位で序列がつけられる。それ故、基本的諸自由は自由のためにしか制約されない。これには、二つの場合がある。
(a) それほど拡張的でない自由は、全ての人によって分有されている諸自由の全体体系を強化するのでなければならない。
(b) 平等な自由より少ない自由は、自由がより少ない人々にとって受け入れることができるのでなければならない。
第二の優先順位のルール(効率性や福祉に対する正義の優先)
正義の第二原理は、効率性の原理や有利性の総計の最大化という原理に、辞書的な意味で、優先する。これには。二つの場合がある。
(a) 機会の不平等は、機会のより少ない人々の機会を高めるのでなければならない。
(b) 過剰な貯蓄率は、この困難を負う人々の負担を、差し引きしてみて、緩和するのでなければならない。」(p232)
「教育のための貸付金(あるいは補助金)の資本市場が、参入の制約がない、あるいは不完全ではない場合には、よりよい資質を持つ人々の獲得する割増は、ずっと少なくなる。より恵まれている階級と最低所得階級との獲得の相対的な差は接近する傾向がある。そして、この傾向は、格差原理が成立している時には、はるかに強いものとなる。」(p235)
「全ての混合概念は、第一原理を受け入れているのであり。それ故、平等な自由が第一位の位置にあることを認めているということは、この場で、強調しておく必要がある。」(p241)
第6章 義務と責務
「窮境にある場合、他の人々が援助してくれることを当てにすることができるような社会で、われわれは暮らしているのだ、という公共の認識はそれ自体大きな価値をもっている。」(p263)
「生来の義務には種々の原理があるのに対し、責務はすべて公正の原理から生まれる。(略)多数の個人が一定のルールにしたがって、相互に有利な協働事業に乗り出すとき、またしたがって、彼らの自由を自発的に制限するとき、こうした制限に服従した人々は、彼らの服従から利益を受けた人々の側の同じような黙従を得る権利がある、ということである。われわれは、公正な役割を担うことなしに、他の人々の共同的努力から利益を得るべきではない。」(p266)
「われわれはまず、基本法、あるいは財産を規制する基本的な法(それらを正義にかなうものであると仮定すれば)に従う生来の義務をもっているが、それと同時にわれわれは、獲得に成功したある職務の義務を遂行する責務、あるいはわれわれが参加した連合体、もしくは活動のルールに従う責務をもっているのである。(略)おそらく高い地位にいる社会構成員は他の構成員よりも一層、政治的義務とは異なる政治的責務を担うことになるだろう。」(p267)
「私は、彼と同じように、次のように仮定してきた。すなわち各人は相手側が正義感をもっており、したがって自己の真実の責務を遂行したいという一般的に有効な欲求をもっている、ということを知っている、あるいは少なくとも合理的にそう考える、ということである。」(p270)
「大部分のその他の倫理学的理論とともに、公正としての正義は、生来の義務と責務がもっぱら倫理学的原理に基づいて起こる、と考える。」(p270)
「ある法の不正義は一般にその法を守らない十分な理由にはならないのである。社会の基本構造が現状の認めるところによって評価されるとき、かなり正義にかなっているならば、われわれは正義にもとる法をも拘束力のあるものとして認めなければならない。ただし、それはこれらの法が不正義の一定の限界を超えないならばの話しである。」(p272)
「正義にもとる法がすべて同格に置かれていることはない。」(p273)
「どんなに僅かであっても正義から外れることは既存のルールに従う義務を消滅させてしまう、と考える人はごく少数にすぎない。」(p274)
「正義にかなう基本法を支持することを要求されるため、われわれはその本質的な原理の一つ、すなわち多数決ルールの原理に従わなければならない。」(p275)
「ひとたび、基本法制定集会の視点に立てば、その答えは明らかである。第一に、少しでも受け入れられる見込みのある、非常に限定された数の実行可能な手続きのなかには、常にわれわれに有利な採決をするような手続きはまったくない。第二に、こうした手続きの中の一つに同意することは、全然合意のない場合よりも確かに好ましい。この状況は、当事者が身勝手なエゴイズムのどんな望みをも捨てる原初状態の状況に似ている。(略)彼らは、立憲体制を機能させるために、互いに多少とも譲歩しなければならない。最良の志をもってしても、正義に対する彼らの意見に衝突が見られることは確かである。」(p275)
「大雑把に言えば、長期的には不正義の重荷は、社会の異なる集団の間に多かれ少なかれ一様に分散されるだろう。」(p275)
「もし少数決ルールが認められるならば、決定のための明白な選択基準は存在せず、しかも平等が損なわれるからである。」(p276)
「多数派が望むことは正しい、いう見解は全く意味がない。」(p277)
「私は正義論の一部として次のことを仮定する。すなわち、不偏な立法者が唯一望むことは、一般的な事実を彼が知っているとすれば、この点において正しい決定を下すことである、ということである。」(p277)
「それにもかかわらず、通常、多くの人々による、理想的に導かれた議論は、彼らのうちの任意の一人があれこれ考えるよりも、正しい結論(必要ならば、投票によって)に達する可能性が大きい、と仮定される。なぜそうなのか。日常生活において他の人々との意見の交換は、われわれの偏った考えを抑制し、しかもわれわれの視野を広げる。(略)しかし、理想的過程では、無知のヴェールは立法者がすでに不偏であるということを意味している。」(p278)
「市民的不服従(略)この理論は正義に近い社会、すなわち大方秩序立ってはいるが、なお依然として正義に反するある重大な事態が起こるような社会という特定の事例にのみあてはまるものである。正義に近い状態は民主主義体制を必要とする、と私は仮定しているので、この理論は合法的に確立された民主主義的権威に対する市民的不服従の役割とその妥当性を問題にする。」(p281)
「私は初めに市民的不服従を、通常、法や政府の政策を変えさせることをねらってなされる行為であって、法に反する、公共的、非暴力的、良心的、かつ政治的な行為と定義したい。」(p282)
「危害を加え、苦痛を与える可能性のある暴力行為に参加することは、請願の一形式としての市民的不服従とは両立しがたい。」(p284)
「良心的拒絶は多数派の正義感に訴える請願の一形態である。」(p286)
「格差原理に対する違反は確認がいっそう困難である。この原理が満たされているかどうかについては、通常、広範囲にわたって対立する、合理的な意見が存在する。」(p288)
「正義論はこれらの実践的考察について特別なことは何も述べない。」(p291)
「だが、ひとたび、社会が平等な人々の間の協働組織として解釈されるならば、重大な不正義によって侵害された人々は服従する必要はないのである。実際、市民的不服従は(また、良心的拒絶も同様に)立憲体制を安定化させる方策の一つ(だが、定義によって非合法な方策)である。(略)法に対する忠誠の範囲内で不正義に抵抗することによって、市民的不服従は正義からの乖離を抑制するのに役立ち、そして、そうした乖離が生じるとき、それを是正するのに役立つのである。」(p296)
「そのとき、民主主義社会では、各市民は正義の諸原理に関する自己の解釈とそれらの原理に照らした自己の行動に責任をもっている、ということが認められる。」(p301)
「だが、もし正当化される市民的不服従が市民の和合を脅かすように思われるならば、その責任は抗議をする人々にかかるのではなく、権威や権力を濫用することによって、そのような反対を正当化している人々にかかるのである。」(p302)
第3部 諸目的
第7章 合理性としての善性
「公正としての正義においては、正の概念は善の概念に優先するからである。」(p309)
「善の定義はまったく形式的なものである。それは単に、ある人の善が最高部類の計画の中から思慮ある合理性を持って選択される合理的な人生計画によって決定される、ということを述べているにすぎない。」(p331)
「慈善的な行為は別の人の善を促進する。そして、博愛的な行為は、もしその行為をすれば他の人がこの善を身につけてくれるであろう、という願望からなされるものである。」(p342)
「第三の相違は、正義の諸原理が適用される場合にその多くが無知のヴェールによって制約されるのに対し、ある人の善の評価はおそらく諸事実についての完全な知識にかかっているだろう、ということである。(略)基本法制定集会の代表者および理想的な立法者と有権者は、彼らが適切な一般的事実だけを知る視点をとるよう要求される。他方、自己の善についての、ある個人の概念は最初から彼個人の状況に合わせられるべきである。」(p350)
第8章 正義感
「かくて、秩序ある社会とは、あらゆる人が、他者は同一の正義の諸原理を受け入れていることを受け入れ、かつそのことを知っていて、基本的な社会制度がこれらの諸原理を満たしていて、かつ満たしていると知られている社会である。」(p357)
「本章での仕事は、公正としての正義が自からへの支持を生み出すことを説明し、この方が道徳的心理の諸原理の線により一層沿っているから、伝統的な選択対象より大きな安定性を持つようにみえることを示すことにある。」(p359)
「これらの図式の境界は、自己充足的な国民共同体という考えによって与えられていると仮定する。」(p360)
「さて私は、秩序ある社会の基本構造はある形態の家族を含み、それ故、子供はまず両親という合法的権威に従う、と仮定する。もちろん、より広く探求すれば家族制度は疑問視されるかもしれないし、他の取り決めが好ましいとされるかもしれない。」(p363)
「この問題に答えるために、次の心理学的原理を仮定する。両親が、最初に、それとわかるように子供を愛するならば、その場合にのみ、子供は両親を愛するようになると。」(p363)
「子供は合理的な根拠にもとづいて準則を拒否する地位にないから、彼は自身の批判の標準をもっていない。」(p364)
「全員が便益をうけているのを知っていることを保証するから、自分の役割を果たす際の他者の行動は各人の有利になると考えられるようになる。」(p369)
「正義感と人類愛の相違は、後者は無際限で、生来の義務や責務の原理が許す免除に訴えかけることをしないという点にある。だが、明らかに、これら二つの信条の対象は、密接に関係していて、大体において、同じ正義の概念によって定義される。」(p373)
「それ故、純粋に良心的な行為という学説は非合理的であるように思える。」(p373)
「契約論的見解の健全性を仮定すれば、いくつかの道徳的感情の説明は原初状態で選択される正の原理に依拠する一方、他の道徳感情は、善性の概念と結びつく」(p376)
「正と正義の理論は、平等な道徳的人間として、自我の視点と他者の視点を調和させる互恵性という考えに根拠をもつからである。」(p379)
「経済理論における状況は、しばしば個人や企業に開かれている行為を定義するルールや拘束に関する固定された構造を仮定することができるし、一定の単純化のための動機づけに関する仮定があまりにまことしやかでありすぎるという点で、特異である。」(p384)
「進化論は、それが自然淘汰の結果であることを示唆する。正義感や道徳的感情に対する力量は、人類が自然の中に占める自からの位置への適応なのである。」(p391)
「動物に対するわれわれの行動はこうした原理によって規制されない、あるいは一般にそう信じられている。」(p392)
「道徳的パーソナリティに対する力量が平等な正義に対する資格をもつための十分条件であることがわかる。」(p393)
「この属性を欠く民族とか人間的存在の認識された集団は存在しない。この力量を持たない、あるいは最小程度までも実現されていない個人は散見されるにすぎず、それが実現されなかったのは、正義にもとる疲弊した社会環境の、あるいは不意の偶然性の帰結なのである。」(p394)
「幼児や子供は基本的な権利をもっていると考えられるから(普通は、両親や保護者によって子供達のために行使される)、必要条件のこの解釈は、われわれの慎重な判断に必ず適合するように思える。」(p396)
「最後にここで正義論の限界を思い起こすべきであろう。棚上げにされている道徳性の側面は数多い上に、動物やその他の自然物に関する正しい行為の説明も与えられていない。正義の概念は道徳観の一部にすぎない。」(p398)
第9章 正義の善
「秩序ある社会では有効な正義感は人間の善に属し、不安定性の傾向は除去されないまでも抑制される」(p403)
「われわれのではなく彼らの良心は間違っている、ということをいかにしてわれわれは確認するのか。また、いかなる環境の下で彼らは思いとどまることを余儀なくされうるのか。さて、これらの問題に対する答えを見い出すには、原初状態にさかのぼることが必要である。」(p407)
「また、正義にもとる命令の実行や邪悪な計画の扇動に黙従するような人々は一般的に、自分達はよくわからなかったとか、その罪はもっぱら高い地位にいる人々にあるのだ、等と言い逃れることはできない。」(p407)
「われわれの個人的な欲求や意図を述べるためにさえ利用される概念でさえ、長い伝統の集団的努力の結果である信念や思想の体系と並んで社会的背景を前提とすることがよくある。」(p410)
「人間は歴史的存在であると言うことは、任意の一時点に生存する個々人の諸力の実現には長期にわたる多くの世代(あるいは社会でさえも)の協働が必要である、と言うことに等しい。」(p411)
「カント的解釈によれば(略)人間は自らの本性を自由にして平等な道徳人として表現したいという願望をもっており、それを最も適切に行なうために、彼らは、自らが原初状態において認めるような諸原理に基づいて行動するのである。」(p413)
「私は、羨望の傾向の主たる心理的素因が無力感と結合した、自分自身の価値に対する自信の欠如にある、と仮定する。」(p418)
「理論では、格差原理はより恵まれない人々の小さな利得に対する見返りとして無限に大きな不平等を認めるが、所得と富の分布は、必要な背景的制度が与えられれば、実際上極端なものではないであろう。」(p420)
「封建制度やカースト制度では、社会秩序は人々が平等人として同意する諸原理にかなうべきものである、と想定することは人々の現世における地位を誤解することになるのである。」(p427)
「正義にかなう行動をしたいという願望とわれわれの本性を自由な道徳人として表現したいという願望は、実際上同じ願望を表わしていることがわかる。」(p446)
「愛の冒険(略)友人や恋人同士は大きな危険を冒して互いに助け合う。そして家族の成員も喜んで同じことをする。」(p447)
「一般化された囚人のジレンマの危険は正と善との間の調和によって取り除かれる。」(p450)
「私はこれらの条件が自然なものであることを主張し、それらが受け入れられる理由を提示したが、それらが自明である、あるいは、道徳的概念の分析や倫理学的名辞の意味によって要求される、ということは主張されなかった。」(p452)
「どんな正義概念のリストも、あるいは諸原理に対する合理的な条件とみなされるものについてのコンセンサスも、多かれ少なかれ恣意的であることは確かである。公正としての正義のために提出される事例は、論点はそうなっていても、これらの制限を免れない。」(p452)