『ある正義の理論』の世界

ジョン・ロールズ『正義論』

1部 理論

 

 

1 経歴

1921年、ボルティモア生まれ。母親は女性参政権運動家、父親は弁護士。プリンストン大学卒業。ニューギニア、フィリピンを経て占領軍の一員として日本の地を踏む。「ご多分に洩れず、すっかり軍隊嫌いになり、軍を文民統制下におくことがなによりも大事だと考えるようになった」。[1]プリンストン大学哲学講師、フルブライト留学生としてオックスフォード留学、コーネル大学助教授、MIT教授、を経てハーヴァード大学教授(1962年)。現在、哲学科名誉教授。1999年ナショナル・ヒューマニティ・メダルを受賞(アメリカ大統領から授与されるもので、国民栄誉賞のようなもの)。

 

「英語圏に政治哲学を復権させ」、アメリカのみならず、世界を代表する政治哲学者(らしい)。講談社「現代思想の冒険者たち」シリーズで、ロールズの巻は講談社側がシリーズ中もっとも力を入れて販売し、同時にもっとも売れた巻のひとつでもあったとのこと。[2]

 

2 主要著作

『公正としての正義』[3]1950年代から1960年代の主要論文の翻訳)、『正義論』[4]1971年)(1972年、ニューヨークタイムズ書評新聞が年間ベスト5に選定)、『政治的リベラリズム』[5]1993年)、「原爆投下はなぜ不正なのか?」[6]1995年)、『ジョン・ロールズ―集成論文集』(1999年)、『正義論』[7](改訂版、1999年)、『諸民衆の法―「公共的理性の観念・再考」とともに』[8]1999年)。昨年3冊出版し「老い先も短い」と言われている。

 

3 系譜

功利主義に対抗し「ロック、ルソー、カントが提唱した伝統的な社会契約の理論を一般化し、高度に抽象化」(pxi)する。その理論は「本質において、極めてカント的である。確かに、私が展開した見方は独創的とはいえない」(pxii)。書き方は対「実証主義」。

 

4 その世界

道徳哲学者のジョン・ロールスが、面白い頭の体操を考案している。ちょっと、未来社会のすべてのルールをつくる委員会のメンバーになったと想像してごらん。(略)委員会はなにからなにまで考えるんだ。そして委員会が合意して、ルールにサインしたとたん、きみたちは死ぬ。(略)でもすぐに、きみたちがつくったルールで動いている社会に生まれ変わる。でもその社会のどこに生まれるか、つまりどんな社会的立場に立つかわからないというのが、この頭の体操のミソなんだ。(略)そういうのが公平な社会だろう。誰もが平等なあつかいを約束されているのだから。(略)ロールスの頭の体操では、誰も男に生まれるか女に生まれるかわからないのだからね。確立が五分五分なら、社会は男性にも女性にも魅力的なようにつくられるだろう[9]

 

5 議論の組み立て

「われわれ」の道徳判断と正義の原理が合致するように、初期状況の記述を改変してゆく。その結果、初期状況から「合理的」に正義の原理が導き出される。(「仮定する」「信ずる」が頻出。)

 

6 用語集

原初状態:「原初状態の記述は本体的自我の視点、すなわちその意味するところが自由で平等な合理的存在であるものの視点に似ている。かかる存在としてのわれわれの本性は、この本性が選択を決定する諸条件の中に反映されている際に、われわれが選択するであろう原理から行為するときに、現われる。」(p198[10]

内省的均衡:「これらの原理がわれわれの正義に関する慎重な確信と一致すれば、そこまではよい。しかし、おそらく不一致があるであろう。この場合、われわれには一つの選択がある。われわれは初期状況の説明を修正するか、現在ある判断を改めるかのどちらかができる。(略)ときには契約環境の条件を変え、ときにはわれわれの判断を撤回してそれらを原理に一致させるというように、ゆきつもどりつすることによって、ついには合理的な条件を表わし、十分な簡潔にされ調整された、慎重な判断に一致する諸原理を生み出す初期状況の叙述を見出すだろうと私は思う。この事態を、内省的均衡とよぶことにする。」(p15-6

 

7 正義の二原理

<最初の言明>(p47

第一原理:各人は、他の人々の同様な自由の図式と両立する平等な基本的自由の最も広範な図式に対する平等な権利をもつべきである。

 第二原理:社会的、経済的不平等は、それらが (a) あらゆる人に有利になると合理的に期待できて、 (b) 全ての人に開かれている地位や職務に付随する、といったように取り決められているべきである。

<改変>(p64

第二原理:社会的、経済的不平等は、それらが、 (a) 最も不利な立場にある人の期待便益を最大化し、 (b) 公正な機会の均等という条件の下で、全ての人に開かれている職務や地位に付随する、ように取り決められているべきである。

 

8 ロールズが想定するもの

1章 公正としての正義

     「社会」は互いの利益のために存在する。

「社会とは、相互の関係の中で、一定の行動ルールを拘束力のあるものとして認め、しかも、大体はそれらのルールに従って行動する人々の、多かれ少なかれ自己充足的な連合体である、と仮定しよう。さらに、これらのルールは、そこに参加する人々の善を増進するよう企図された協働の体系を明確に定める、と想定しよう。すると、社会には、相互の有利化を求める協働事業ではあるが、利害の一致とともに利害の対立が生じるという、際立った特徴がある。」(p4

「階級間の差があまりに大きいと、民主的平等だけでなく相互の有利化という原理までが侵されてしまう (§17) 。」(p59

 

     議論の範囲

「諸国民の法のための条件は、多少違う方法で得られた異なる諸原理を必要とする。当面、他の社会から隔離されている一つの閉鎖システムとして考えられた、社会の基本構造についてのある合理的な正義の概念を定式化することができれば、私には十分である。」(p7

 

     嫉妬

「公正としての正義の一つの特徴は、初期状況にある当事者を合理的で、相互に無関心であると考えることにある。」(p10

 

2章 正義の諸原理

 

     平等の解釈

 

      “あらゆる人の有利“     

“平等に開かれている“       効率性原理       格差原理  

才能に対して開かれている     生来の自由の体系    自然的貴族制

キャリアとしての平等

公正な機会均等としての平等    自由主義的平等     民主的平等

p51

 

     効率性の限界

「効率性原理は、それだけでは、効率的な分配として、一つの特定の財貨の分配を選び出すことはしない。効率的な分配のなかから選別するためには、ある他の原理、例えば正義の原理が必要である。」(p53

 

     功利主義批判

「かくして、一定の条件の下では、ある代表的人間の期待、例えば地主の期待を低めることなく農奴制を大きく改革することはできないということがありうる。その場合には、農奴制は効率的であるのだが。(略)しかし、それらは確かに、全く正義にかなってはいない。」(p55

「だがわれわれは、他者の才能を減ずる政策を提案することは、一般に不運な人の有利にはならないことを指摘しておくべきであろう。」(p82

 

     公正な機会

「自由主義的解釈は、(略)生来の資産のある分配が存在すると仮定すれば、同じ水準の才能と能力を持ち、それを使おうとする同じ意欲を持つ人々は、社会システムにおける初期の位置にかかわらず、同じ成功の見通しを持つべきなのである。」(p56) cf.教育ヴァウチャー制度

「自由主義的な概念は、明らかに生来の自由の体系よりも好ましいように思えるが、(略)それは、依然として、富と所得の分配が能力と才能の自然の分配によって決定されるのを許している。(略)分配上の取り分は、自然の巡り合せ (lottery) の結果によって決定される。そして、この結果は道徳的視点からみて恣意的である。所得や富の分配が歴史的、社会的幸運による以上に、生来の資産の分配によって決定されるのを許す理由はない。」(p56

「当事者たちは、相互に対称に位置づけられる。そしてその意味で、彼らは平等なのである」[11]

 

     鎖状結合

「期待の不平等は鎖状に結合されている (chain-connected) と想定しよう。もし、ある有利性が最低の地位にある人の期待を引き上げる効果をもつならば、その中間の地位にある全ての人の期待を引き上げる。例えば、企業家の期待がより大になると未熟練労働者が便益をうけるのであれば、半熟練労働者も、また、便益を受ける。」(p62

 

     性、人種、文化に対する差別

「性にもとづく差別はこのタイプのものであるし、人種や文化に依拠する差別もそうである。かくて、いわば、男性が基本的権利の割り当てにおいて恵まれているとするならば、この不平等は、もしそれが女性に有利であって、女性の観点から受け入れることができるのであれば、その場合にのみ、格差原理(一般的に解釈された)によって正当化される。」(p75

 

     格差原理

「格差原理はもちろん補償原理ではない。格差原理は、あたかも全員が同じレースにおいて公正な基礎に立って競争すると期待されるごとく、ハンディキャップをならすように社会に求めたりはしない。しかし、例えば最も恵まれない人の長期期待を改善するために、格差原理は教育に資源を配分するであろう。」(p77

「格差原理は、実際には、生来の才能の分配をある点で共通の資産とみなし、この分配を補整することによって可能となるより大きな社会的、経済的便益を分け合うことに、同意することを表わしている。天性によって恵まれた立場におかれた人々は誰であれ、敗れ去った人々の状況を改善するという条件に基づいてのみ、彼らの幸運から利得を得ることが許される。」(p77

「格差原理のもう一つの利点は、それが博愛の原理に関する一つの解釈を提供してくれるということである。(略)家族は、その理想的な概念においても、しばしば実際にも、有利性の総計を最大化するという原理が拒否される一つの位置である。」(p80

 

     福祉国家批判

「財産所有の民主主義およびその下での競争市場システムに属する諸制度は、富と資本の所有を分散させることにより、社会の一部分が経済をコントロールし、間接的に政治生活そのものを牛耳るという事態を避けようとする―福祉国家との主要な相違点は以上の点にある。このタイプの民主主義はそうした目標を達成するため、一定期間が終わるごとに所得の一部をより所得の少ない人びとに再分配するという〔福祉国家流の〕やり方をとらず、むしろ一定期間の始めから生産手段の所有を分散し、能力や才能の教育によって生み出される人的資本 (human capital) の所有を広い範囲に振り分けることを保証する。そしてこれらの分散はすべて、基本的諸自由の平等および機会の公正な均等によってこそ可能となる。こういった理念の含意は、事故や不運のために不利益をこうむっている人びとを助けることだけでなく(もちろんそれもなされるべきだが)、あらゆる市民が、平等という条件下での相互尊重にもとづいて、一身上の事柄を自分で取りしきりつつ社会的協力体制 (social cooperation) に参与できるようにするところにある。」[12]

 

3章 原初状態

     意図

「さて、なんびとといえども、明らかに、自分の欲しいもの全てを得ることはできない。単に他人が存在することがこれを妨げる。(略)だが、正義の二原理は合理的な提案であるように思える。実際、私は、これらの原理がいわば他者の相応の要求にも応えた、あらゆる人にとって最善のものであることを、明らかにしたいと思っている。」(p93

 

     無知のヴェール

「われわれは、人々に争いを起こさせ、社会的、自然的環境を自分の有利になるように利用しようという気を起こさせる、特異な偶然性の影響をなくさなければならない。このために、私は、当事者は無知のヴェールの背後におかれていると、仮定する。彼らは、様々な選択対象が自分に特有の事情にどのように影響を与えるかを知らないし、ただ、一般的な事由にもとづいてのみ原理を評価せざるをえない。」(p105

 

     なにを知らないと想定するのか

「まず、自分の社会における位置とか階級上の地位とか社会的身分 (status) を誰も知らない。また、生来の資産や能力の分配に関する自分の運、つまり自分の知性や体力等々についても知らない。また、自分の善の概念とか、自分の合理的な人生計画に特有の事柄とか、危険回避度あるいは楽観論に陥りやすいかといったような自分の心理に独特の特徴でさえも、誰も知らない。これに加えて、当事者は、自分の属す社会に特有の環境についても知らないと、私は仮定する。」(p105

 

     なにを知っていると想定するのか

「だが、彼らが人間社会に関する一般的な事実を知っているということは、当然と考えられる。彼らは、政治現象や経済理論の諸原理を理解している。つまり、社会組織の基礎や人間心理の諸法則を知っている。事実、当事者は、正義の諸原理に影響を与える一般的事実はなんでも知っていると前提されている。」(p106

 

     マキシミン・ルール

 

    環境    

決定      C1  C2  C3 

1      −7   8  12

2      −8   7  14

3       5   6   8

「このルールは企図された行動方針の下で起こりうる最悪の事態にわれわれの注意を向け、それに照らして決定を下させるものである。」(p147、注19

「選択しようとしている人は、マキシミン・ルールに従うことによって、実際に、確実なものにしうる最小の取り分 (stipend) 以上に得られるものには、どちらかといえば、ほとんど注意を払わないような善の概念をもっている。」(p118

 

3部 諸目的 第2部は次週(アメリカ憲法史的展開)

「『正義の理論』第三部では、よい秩序の社会のメンバーとして成長した市民たちは、自然や人間心理学の法則 (the laws of nature and human psychology) によって、その政治・社会制度を世代を越えて支えていく事のできる正義の感覚を習得してゆく、と論じられていた。」[13]

 

     最後になり愛に頼る

「本章での仕事は、公正としての正義が自からへの支持を生み出すことを説明し、この方が道徳的心理の諸原理の線により一層沿っているから、伝統的な選択対象より大きな安定性を持つようにみえることを示すことにある。」(p359

「正義感と人類愛の相違は、後者は無際限で、生来の義務や責務の原理が許す免除に訴えかけることをしないという点にある。だが、明らかに、これら二つの信条の対象は、密接に関係していて、大体において、同じ正義の概念によって定義される。」(p373

「進化論は、それが自然淘汰の結果であることを示唆する。正義感や道徳的感情に対する力量は、人類が自然の中に占める自からの位置への適応なのである。」(p391

「動物に対するわれわれの行動はこうした原理によって規制されない、あるいは一般にそう信じられている。」(p392

「道徳的パーソナリティに対する力量が平等な正義に対する資格をもつための十分条件であることがわかる。」(p393

「この属性を欠く民族とか人間的存在の認識された集団は存在しない。この力量を持たない、あるいは最小程度までも実現されていない個人は散見されるにすぎず、それが実現されなかったのは、正義にもとる疲弊した社会環境の、あるいは不意の偶然性の帰結なのである。」(p394

「愛の冒険(略)友人や恋人同士は大きな危険を冒して互いに助け合う。そして家族の成員も喜んで同じことをする。」(p447

 

9 批判と継承(ノージックにしろその他の人にしろ自由と平等の大切さは疑わないが、その中身を争っている。)

アマルティア・セン(1998年ノーベル経済学賞受賞)

「知的な面で私がジョン・ロールズに負うところが大きいことは疑いない。私はかなりの領域まで彼の論法に導かれている。そして、(例えば、ロールズの「基本財」よりも自由の広がりのほうに焦点を置くなど)私が違った方向へ進んでいくときも、その決断は、ロールズの理論を明示的に批判することから出発している。」[14]

「実際に享受している自由をあらわす「潜在能力」を、(一)基本財(およびその他の資源)と、(二)(実際に享受された機能の組み合わせやその他の実現された結果などの)成果の両方から区別することが大切である。最初の区別の例として、障害のある人は(所得、富、自由などの)基本財を多く持っていたとしても(ハンディキャップのために)潜在能力は低いということが起こる可能性がある。」[15]

 

HLA.ハート(法理学者)

「ロールズの主張(「自由の優先性」)が、あらゆる自由主義者の心の琴線にふれるものであるにもかかわらず、決して原初状態の契約当事者によって採択されるようなルールではなく、ロールズが独断的に持ち込んだ想定に過ぎないことを、ハートは丹念な読解を通して説得的に論証した。」[16]→ロールズも認める

 

JC.ハーサニー(ゲーム理論家)(ゲーム理論:1950年代に流行った、(カラーブラインドな)合理性にかんする理論)

「ハーサニーのロールズ批判は、「道徳原理、ないし正義の原理は、マキシミン推論に基づいた個人的な決定作成のプロセスを通じて獲得される、という想定を突き崩すものとしては決定的である」」[17]→後にロールズはマキシミン・ルールを撤回(神→理性→科学→民主主義)

 

10 書評と日本での受容

70年代を通じて哲学者や経済学者などの間で大きな議論を読んできた。」(竹内靖雄、日本経済新聞、19791216日)

「それは70年代の学問の状況と暗合するかのように私には思える。(略)この動機に立った人間の善=利益の最大化追求こそが、正によって響導されないところに現代の争点が噴出しているにちがいない。(略)正義の二原理が実践性を明らかにするのは、いま述べた現代の争点に対する市民的不服従における多数者の正義感覚へのアピールの点であろう。」(内山秀夫、政治学、図書新聞、1979113日)

「それは自由と平等という問題が、正義の理論のみによっては解決されえないという単純な理由によるためであろう。(略)元来「フェア」という言葉を持たなかったといわれているわれわれ日本人に、より近づきやすい形で本書が訳出されたことは大変喜ばしい。」(猪木武徳、エコノミスト、19791120日号)

 

西部邁

(『リベラルマインド』等において)「「社会規範の根底をその国の歴史(伝統)に求め、そしてその伝統が何であるかを探るためにこそ「自由討論」を輿論および議会の両次元で旺盛に展開しようと構え、次にその社会規範の下で、できるだけ社会計画(統制、規制)を排して、自由討論および自由取引をはじめとする自由な活動の余地を広めようとするような体制である」≪リベラル・デモクラシー」を、称揚する。」[18]

竹内靖雄

(「アダム・スミスは生きている」において)「市場ゲームの普遍的なスタイルである自由主義を採用することによって、自己利益の追求と全体の利益の増進とを一致させるように努めるべきであるし、またそうせざるをえない」[19]

藤原保信

(『自由主義の再検討』において)「コミュニタリアニズムを「近代的自我への根本的な反省」として紹介した政治思想研究者が、「公共心、連帯心の欠如」の例として挙げたのが、「運動部の先輩」の命令に後輩が口答えをしたというものだったという逸話は、もはや一編の悲喜劇といえる。」[20]

 

11 参考文献

ジョン・ロールズ『正義論』矢島鈞次監訳、紀伊國屋書店、1979

渡辺幹雄『ロールズ正義論の行方』増補新装版、春秋社、2000[21]

川本隆史『ロールズ』講談社、1997




(いしいひさいち作画)

皮肉入りのハンバーガーに飽きたら

現実主義とペシミズムのサンドイッチに疲れたら

ほんのり甘いロールズのロールパン。ロールズのロールパンはどの民衆にも貧富にかかわりなく公正な市民の主食として安心してめしあがっていただけます。

その割に間口のせまい店ですね。
どーせ了簡がせまいよ フン
批判してるわけじゃありませんよ。
(正義の味覚 ロールズ)



[1] 『ハーヴァード哲学評論』創刊号(1991年春) [川本、p45より]

[2] アマゾン・ドット・コムによれば、ロールズを購入する読者は、次のような思想家の本も買う、という傾向にあるとのこと。ドゥウォーキン、マイケル・サンデル、ノージック、トマス・スキャンロンなど。

[3] 田中成明(編訳)、木鐸社、1979

[4] 矢島鈞次(監訳)、紀伊國屋書店、1979年、絶版(川本隆史(訳)が準備中)

[5] 岩倉正博(訳)、紀伊國屋書店、準備中

[6] 川本隆史(訳)、『世界』19962月号

[7] 結局、986ページに増改訂したわけではなかった。

[8] 先学期やった、1993年度アムネスティ講演(『人権について』みすず書房、1998年)を256ページに大幅加筆修正。

[9] 『ソフィーの世界』、「マルクス」の章、ソフィーは「いいなあ、そういうの」という感想を洩らす。[川本、p20より]

[10] 「原初状態は、物自体としての自我 (noumenal selves) がこの世界を見下ろす視点であると考えられる。当事者たちは、物自体としての自我として、彼らが望む任意の原理を選択する完全な自由を持っている。」[渡辺、p169より]

 

[11] 『政治的リベラリズム』p305 [渡辺、p155より]

[12] 「『正義論』フランス語版序文」〜『みすず』19934月号、p6

[13] 『政治的リベラリズム』(ペパーバック版)pxlii [渡辺、p111より]

[14] 『不平等の再検討』岩波書店、1999年、pxi

[15] 同上、p125

[16] 川本隆史「リベラリズムの継承と克服」〜『現代思想』p296

[17] 渡辺、p85

[18] 川本隆史「リベラリズムの継承と克服」〜『現代思想』、p303

[19] 同上

[20] 小熊英二「『日本型』近代国家における公共性」〜『社会学評論』第504巻(2000年)

[21] 「渡辺幹雄「ロールズ正義論の行方」は、規範的経済学に計り知れない影響を及ぼしてきたロールズの「正義の理論」を中心に、彼の正義論の構想を全面的に再検討した意欲作である。ロールズに対する著者の破たん宣言が論理的に不可避であるかに関しては異論の余地があり、惜しくも受賞には至らなかったが、規範的経済学の基礎に関わる研究が今後さらに深められることを多いに期待したい。」(日本経済新聞2000年11月3日、第43回日経・経済図書文化賞、総評、審査委員長、今井賢一、スタンフォード日本センター理事長)