発表資料 

発表では直接ふれませんが、彼の構造化理論や社会学への考え方がよく示されています。

A1 《社会学は、客体の「あらかじめ与えられた」世界にかかわるのではなく、主体の能動的な行いによって構成され、生産される世界を問題にする》。人間は、自然を社会的に変容し、そして自然を「人間化」することによって、自分自身を変容させる。しかし、もちろん人間が自然的世界を生産するわけではなく、自然的世界は、人間の存在とは無関係に対象世界として構成されている。かりに人間が、自然的世界を変容しながら、歴史を創造し、それゆえ歴史の《なか》に生きるのであれば、それは、社会の生産と再生産が、下等動物の場合のように、「生物学的にプログラム」されたものではないゆえに、人間はそうしているのである(人間が展開させる理論は、その理論の科学技術的応用を通して、自然界に影響を及ぼしうる。しかし、展開させる理論は、社会的世界の場合がそうであるようには、自然的世界《の》諸特性を構成するには至らないのである。)

 

《したがって、社会の生産と再生産は》、たんに機械的に連続した過程としてではなく、《社会の成員による巧みな行為遂行として論じられなければならないのである》。しかしながら、この点の強調は、行為者が、これらの技とはどのようなものかについて、あるいは自分たちはいかにしてそうした技をうまく用いるのかについて、完全に自覚しているというのではまったくない。さらに、社会生活の様式は、行為の意図された結果として適切に理解されるというのでも決してないのである。

 

B1 《人間の行為作用の及ぼす範囲は限定されている。人間は社会を生産する。しかし、人間は、歴史のなかに位置づけられている行為者として社会を生産するのであって、自分自身が選択する条件のものとでそうするのではない》。しかしながら、意図的行為として分析されうる行動と、一連の「出来事」として法則論的に分析されなければならない行動との間の境界は一定しない。社会学に関していえば、法則論的分析の決定的な任務は、構造の特性について説明することに見いだされるのである。

 

《構造は、たんに人間の行為作用に強制を加えるものとしてだけでなく、行為作用を可能にするものとして、概念化されなければならない》。このことが、私のいう、《構造の二重性》である。構造は、一連の再生産された実践としての、構造の《構造化》の観点からつねに原則的に考察することが可能である。社会的実践としての構造化を探究することは、構造の行為を通しての構成がどのように生ずるのか、また逆に行為はどのようにして構造的に構成されるのかを、説明しようとすることなのである。

 

《構造化の過程は、意味および規範、権力の相互作用を伴う》。これら意味、規範、権力の三つの概念は、社会科学の「原初」語として分析的には同等であり、また、論理的には、意図的行為の観念と構造の観念の双方にともにかかりあう。認知的および道徳的秩序はいずれもみな、同時に、「正統性の地平」を内包する、権力システムなのである。

(『社会学の新しい方法規準』P.231からP.233