小熊研 研究プロジェクトA ブルデュー  2005年11月4日(金)

「ディスタンクシオン(La Distinction)」

総合政策学部2年 諸星 伸純

学籍番号 70408902

 

1.著者略歴:ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)

 

1930 フランス・ダンガンにて生まれる

1951-1954

エコール・ノルマル(高等師範学校)にて哲学を専攻。哲学の教授資格を取得

1958 アルジェリア戦争へ兵卒として赴任。戦後にはアルジェ大学助手となる
1964 社会科学高等研究院教授となる。ヨーロッパ社会学センターを設立。
1975

研究誌「社会科学研究学報」を創刊。広範な主題(政治からスポーツ)について発表
1981 コレージュ・ド・フランスの社会学講座教授となる
2002 逝去(涙)

 

ピエール・ブルデューは、スペイン国境・ピレネー山脈に近い南仏の小さな農村に生まれた。そこは、ピレネー山脈を背景に広大な田園が広がっているような本当の田舎であった。ブルデューはそんな田舎の、祖父は農民、父は郵便配達夫という家庭に生まれながら、南仏の中心都市であるポー市、次いでパリへと上京し、ついにはエコール・ノルマル(※1)への入学に成功した。

この奇跡の立身出世を成し遂げていく一方でブルデューは、常に、自分の通過してきた環境に違和感を持って過ごしてきた。言葉の発音やアクセントに対する嘲笑(※2)、ジョークに対して即座に適切な反応のできない自分、そうした青年期の悔しさがブルデューの社会学を形づくっていると言っても過言ではない。

立身出世を遂げる過程で、ほとんどの者は自分の過去に所属していた階級と決別してしまう。そんな中でブルデューは、自らの生れ落ちた階級に最後まで忠実に、そして彼自身が感じた違和感を言葉にし続けた稀有の研究者と言えるだろう。

 

※1:エコール・ノルマル:フランスには大学とは別系統のエリート養成機関があり、文部省管轄のエコール・ノルマルもその一つ。入学選抜はきわめて厳しく、大学入学資格(バカロレア資格)取得後、約2年間の準備課程を経て入学試験に合格しなければならない。

※2:「パリから遠く離れた田舎から出てきたころ、私は人に笑われるような田舎訛り丸出しでしたから、学校という市場で自分の言語的所産を差し出したとき、つまり自分の言葉遣いでしゃべったとき、非常に低い価値評価しか受けませでした。」(ピエール・ブルデュー〔超領域の人間学〕」)

 

2.ブルデュー思想の背景

 

ブルデューを理解する上で、ブルデューがエコール・ノルマルに入学した50年代以降の社会学的潮流の概観は避けて通ることはできない。ここでは、彼の体験や当時の社会状況を考慮しつつ、50年代以降の(主にフランス)社会学とブルデュー思想との関連を考察してみたい。

 

50年代―現象学(実存主義)の絶頂―

 

ブルデューの学生時代(1950年代)は、実存主義(サルトル)がフランス思想界において絶大な影響力を持っていた時代であった。ブルデューも、この時代の学生の例にもれず、非常に早い時期から実存主義や現象学に触れていたようだ。そして、特にハイデッガーやフッサールからは、かなりの影響を受けていることを告白している。(※)

しかしブルデューは、「実存主義的ムードに染まることは一度も」(※)無かったという。

それは、「当時はやっていたふやけた『人間主義』、『実体験』への迎合、それに今日『エスプリ』周辺に生き残っているような類の政治的モラリスム、こうしたものに反発しようとする意志を、私ももっているから」(※)であった。

 

※「構造と実践」 哲学のフィールドワーク

 

60年代―構造主義の衝撃―

 

1962年、レヴィ・ストロースは、著書「野生の思考」で、それまでアカデミズムの世界に君臨していたサルトル、そして実存主義に対し、痛烈な批判を行う。未開社会でのフィールドワークの経験は、「主体の決定」という実存主義のモデルが、必ずしもどんな人間、どんな社会にも当てはまるわけではないことを彼に痛感させた。サルトルとレヴィ・ストロースの論争はレヴィ・ストロースの勝利に終わり、実存主義に代わって構造主義の時代が始まった。

アルチュセールやレヴィ・ストロースと親しかったこともあり、ブルデューも、当初は構造主義者と言われた事があるほど構造主義の影響を強く受けていたようだ。ブルデュー自身、積極的に構造主義の思考様式を取り入れた形跡がある。

しかし、ブルデューはその後、構造主義に対して批判的となり、独自の道を歩むようになった。構造主義の有効性は認めながらも、南仏の田舎者として青年時代を過ごしたブルデューにとって、観察者と現地人、学者とその対象(素人)の間に絶対的な区別と距離を設ける構造主義の姿勢は、貴族主義的で、どうしても我慢のならないものと映ったのである。(※)

(※)「構造主義的人類学に伴う倫理的な意味での姿勢に対する、皮膚感覚的な拒絶というものにも、おそらく導かれていました。」(「構造と実践」)

 

構造主義との決別―未開社会との出会いが教えてくれたもの―

 

ブルデューは構造主義に対して、かなり早くから違和感を持っていたようだ。繰り返しになってしまうがそれは、彼自身がむしろ、人類学者に調査されるような土地、少なくともパリよりは未開社会に近いような土地の出身であり、どうしても未開人と言われる人々の婚姻・儀礼について上空から見下ろすような視点を取りづらかったという事である。

しかし、ブルデューが決定的に構造主義に懐疑的になったきっかけは、彼自身が、レヴィ・ストロースと同じように行った未開社会の人類学的調査のデータを収集したときのことであるという。

レヴィ・ストロースによって、アラブ=ベルベル社会においての優先的な婚姻の形態とされていた平行イトコ婚は、実際には3〜4%程度しか行われていなかった。またその理由も、人によって、事情によって、まちまちであった。完璧に見えた構造主義も、実は必ずしも現実を反映しているものではなかったのだ。

だがレヴィ・ストロースは、こうした現地人の理由付けには根拠が無いとしていた。客観主義的分析だけが、行動の真の原因なり理由なりを明らかにできると考えていた。けれども、レヴィ・ストロースより遥かに未開人と言われる人々に親近感を覚えていたブルデューは、情報提供者たちの発話を無意味なものとして排除することはしなかった。むしろ、こうした当事者の主観を無批判に排除してしまう構造主義者の方こそ、客観主義のイデオロギーにとらわれているのだとブルデューは考えるようになっていった。

 

発生論的構造主義・ハビトゥス−構造主義と実存主義との葛藤の中で−

 

行為者は、当人達の手の届かない機械的な法則に従って動く自動人形ではないし、観察者は、社会構造に操られる操り人形を眺める神のごとき存在ではない。こうした構造主義の静的なモデルを否定しつつも、行為者を合理的個人とみなす主体主義(実存主義的アプローチ)へ逆戻りする事もブルデューは決してなかった。決定因か目的因か、古くは中世にまで遡る二者択一をブルデューは真っ向から否定した。

行動は、必ず目的との関連で方向付けられる。しかし、それは決して自由な主体による決定などではない。常に社会的諸条件により規定された可能性に適合するよう無意識のうちに調整されている。実際には行為者は、時間も情報も限られた中で行動しているのであり、有益な情報をすべて手中におさめて、その情報を使いこなす能力を備えた観察者とは根本的に異なる条件下で行動している。

しかし、かと言って行為者は、決してやみくもに行動しているという訳でもない。限られた時間・限られた情報の中で、それでも適切な行為を選び取って行動している。それは合理的な判断でもなく、けれども構造の力でもなく、身体に無意識のうちに埋め込まれた行動の性向、すなわち「ハビトゥス」の力によって導かれているのだ。

ブルデューはハビトゥスを、「構造化する構造」であると同時に「構造化された構造」、すなわち分類図式でありながら類別図式であり、ものの見方、分割の仕方の原理であって趣味であるようなものであるという。それは、行為者の側から見れば、行為者の行動を規定すると同時に、その構造を身に付ける事によって行為者に、より一層の自由を生み出すような構造のことであり、ハビトゥスの側から見れば、行為者の行動を一定の方向へ導くことができると同時に、行為者の行動によってハビトゥス自身も常に変容することが運命付けられているような構造のことである。

例えばスポーツのプレイヤーが、定められたルールの中で、時間的にも限られる中で、それでも多くの場合適切なプレーができるように、人間も、与えられた構造の中で、自分の目的に合わせて合理的に行動を調整することができる。卓越したプレイヤーであればあるほど、よくルールを理解し、より多くの自由、つまり「卓越したプレー」を行う事ができるが、それは、ルールを無視するからではなく、より一層そのスポーツに没入し、そのスポーツに投資し、よりよくルールを理解するからこそ可能なのである。

ブルデューは、構造主義と実存主義の双方が抱えるこうした時間性・情報の完全性についての前提を批判し、こうした静的なモデルではなく、もっと動的な、構造と決定をともに内包するようなモデルを提唱して、自らの社会学を「発生論的構造主義」と名付けた。

 

3.ブルデューの生きた時代

 

高等教育の大衆化

 

1960年代に入り、フランスは、急速な経済成長と同時に急速な高等教育の拡大を経験した。数%に満たなかった大学進学率が、たった10年で20%を超えるようになった。労働者や移民の子どもであっても努力すれば大学に入学し、社会的な成功を勝ち取ることができるかもしれない。持続する経済成長と大学進学率の急上昇によって、こうした楽観的な教育観も広く社会に行き渡るようになっていった。いわゆるメリトクラシー(教育の能力主義)が、こうした社会状況を背景にして急速に普及していった。

 

フランス社会の実情

 

経済成長と高等教育進学率の上昇に加えフランスでは、公教育の無償原則と能力主義の徹底が貫かれていた。少なくとも制度上は、所得や階層による不平等はほとんど無いはずであった。しかし、現実は決してそうではなかった。

 

社会-職業カテゴリー

学生(1964−1965)

1964年現在の男子労働人口

自営農業

5.50%

13.70%

実業家、職人、商人

15.20%

9.80%

自由業・中等および高等教育職

14.30%

2.60%

上級幹部職

15.90%

2.80%

中堅幹部職、小学校教員

17.70%

7.50%

他の事務員

9.40%

9.80%

農業労働者

0.70%

5.30%

労働者

8.30%

44.80%

その他

13.00%

3.70%

(※)「文化的再生産の社会学」

 

1964年の全労働人口の44.8%を占める労働者の子弟が全学生のうちわずか8.3%に過ぎないのに対し、たった2.8%の上級幹部職の子弟が学生の中に占める割合は15.9%にも上る。1961年の国立統計経済研究所の調査「フランスにおける社会的成功」でも、指導的エリートの3分の2が最上層の出身であることが指摘されている。進学機会が広がったとしても、社会階級ごとの進学チャンスの比率はほとんど変わらないのだ。

少なくとも中産階級・庶民階級に人々にとって、「どの社会階層にも開かれた大学」という大学の自画像は、あまりに現実とかけ離れたものであった。

 

学生達の反乱―5月革命の勃発―

 

その一方で、勤勉さを武器として、中産階級・庶民階級の出身から大学への立身出世に成功した人々も確実に増えていった。メリトクラシーと、それに付随する楽観論が語るほどではないにしろ、教育の機会均等は、ある程度までは社会の変化を反映したものであった。しかし、今までなら大学進学できなかったであろう階層の子弟がはじめて大学へと到達したとき、彼らは大きなとまどいと違和感に直面することになる。古い人文主義的な教養を必要とするカリキュラム、極度にエリート主義的な雰囲気、大学の門戸は広く開かれても、中身の変化はそれに追いついていなかった。また、急増した学生数の量的拡大は、必然的に「大学生」という肩書きの価値下落をもたらし、それに見合うポスト、就職先の不足を帰結した。学生達の不安は頂点に達した。60年代に起こったフランス最大の学生運動―いわゆる5月革命―も、こうした高等教育の大衆化と大いに関係すると言われる。

ブルデューがその学者としてのキャリアを開始した60年代は、このような大きな社会変動の時代であった。

 

ブルデュー思想の時代的意味―メリトクラシー(能力主義)への批判的視座―

 

現在においては、ブルデューの指摘する階層の再生産性や、趣味と階級との相同は、それほど目新しいものとは必ずしも映らない。しかし、これまで見てきたように、当時の文脈においてこの指摘は、極めて危険、かつ革命的なものであった。

教育の不平等に関する当時の見方は、経済的不平等の観点からのものだけであった。経済的な不平等さえ是正すれば、すなわち奨学金を与え、能力主義を徹底しさえすれば、あとは個人の努力の問題という事になるはずだ。こうしたメリトクラシー的教育観、メリトクラシー的制度に、ブルデューは真っ向から反論していった。

 

実は、当時の主要な教育観であるメリトクラシーには、2つの大きな大前提が存在した。一つは平等性の前提、もう一つは普遍性の前提である。ブルデューは、この2つの隠された大前提に対し、根本的な批判を行っていった。

メリトクラシーの平等性の前提とは、無償教育などの制度的措置により教育において、少なくとも許容可能な程度には不平等を是正できる、言い換えれば、基本的に平等な競争が行われているという事である。したがって、もしその個人が成功できなかったならばそれは、基本的に努力不足が原因であり、責任もその個人にあるという事である。

しかしこれまで述べてきたように、それは決して現実を正確に描写したものではない。チャンスは、階級が上になればなるほど増大し、下になればなるほど少なくなる。統計資料は、身も蓋も無い現実をメリトクラシーのイデオロギーに突きつけた。ブルデューは、数多くいる社会学者の中でも、最も早くからこの「メリトクラシー」や「教育の機会均等」に批判の目を向けた人であった。「遺産相続者たち」(1964年)や「再生産」(1970年)といった著作は、こうしたメリトクラシーの背後にある平等性の前提を疑問に付すものであった。

だが、もしブルデューの批判が、平等性の前提のみに限られていたなら、おそらく彼の仕事がこれほどの評価を受けることはなかっただろう。教育のメリトクラシーに対するブルデューの批判には、もう一つの重要な側面があるのだ。それが、普遍性の前提に対する批判である。

現在でもそうした傾向は強くあるが、学問にしろ、芸術にしろ、多くの場合、中立的で普遍的なものだと見なされている。学問なら真理という言葉で、芸術なら美という言葉で定義されるその観念は、確かに存在し、万人にとって共有されるべきものとして、疑問に付されることはあまりない。

しかしブルデューは、学問における「真理」も、芸術における「美」も、上流階級のハビトゥスと極めて密接な因果関係があると主張する。普遍の真理、至高の美として語られ、流通するその観念は、支配階級による隠された支配の道具であり、知らず、知らず再生産を担う重要な要素となっていることをブルデューは見抜いた。「文化資本」とブルデューが呼ぶその観念は、例えば審美眼であったり、良い趣味であったり、どういった本を読めばいいかの知識であったり、優雅とされる立ち居振る舞いであったりする。それは一般には、普遍の価値として見過ごされてしまうが、実は支配階級にとって極めて都合の良いルールであるのだ。家庭において、幼少期の教育において獲得されたこういった文化資本は、その個人のハビトゥスとして身体化されているからこそ、後の学校や社会における選別過程で、知らず、知らず、しかし確実に作用し、階層の再生産を進める。1966年の「美術愛好」そして、本作品「ディスタンクシオン」(1979年)は、「真理」や「美」についての恣意性に言及することで、再生産という現象を記述するのみならず、再生産の原因について考察したものである。

ブルデューの教育、社会に対する批判は、それがアンフェアに行われているという指摘に止まらない。むしろゲームは、はじめからルールが特定の人に有利に作られているがゆえに、アンフェアにしか行われざるを得ないと指摘したのである。

 

「ディスタンクシオン」T(La Distinction T)

 

「芸術作品との出会いというのは、普通人々がそこに見たがるようなあの稲妻の一撃といった側面などまったくもってはいない」(序文)

 

あるものを「美しい」と感じる気持ち、実はその背後に自己を卓越させようとする隠された意図がある。序文においてブルデューは、芸術に対する「純粋」な視線が実は、社会における弁別の指標となっていることを述べている。俗人には「理解できない」芸術を「楽しむ」ことのできる人々は、洗練された、無私無欲の、上品な人であるという優越性を社会の中で獲得することができる。芸術の純粋性こそが、その卓越化の作用を支えているのである。

 

第T部 「趣味判断の社会的批判」

 

第T部においては、文化資本の大小が社会階級と極めて強い相同を持つこと、そして、文化資本自身が社会的選別の指標となっていること、さらに、そうした文化資本が、家庭や学校といった場所を通じて再生産的に蓄積されていることがテーマとして取り上げられている。

 

1.           文化貴族の肩書と血統

 

文化貴族の肩書

 

ブルデューは、統計上の相関関係を指摘したとしても、その社会的意味が明らかにならない限りその分析に意味は無いという。統計的には学歴が、ある種の趣味に対して強い相関関係を持っているのであるが、「学歴資本」や「『平均律クラヴィアータ曲集』を聞くこと」の社会的意味を考えなければそれは結局、ただの資料にとどまってしまうことを意味する。もし、このように相関関係の意味を考えて見るのであれば、学歴と抽象絵画の理解力に相関関係が存在するからといって、その原因を学校での習得に結び付けてしまうような短絡に陥る心配はないだろう。実際に、この種の統計が示すものは、学歴―つまり学校で求められる知識―と、芸術の能力や趣味―それは結局家庭において伝達される―との間に、ある一貫した正統的見方が存在するということであり、それは、もっと具体的に言えば、ルノワールの絵を見たときに「これは印象派だね」という事が分かるような見方のことである。(※)そして同時に、この正統的見方は、学校での教育によって、社会での承認という過程を経る事によって、人々に押し付けられていくとブルデューは述べている。

 

(※)ちなみにこれは、ルノワール=印象派という知識を持っているから分かるという意味ではなく、ルノワールだと知らなくてもルノワールの絵を見て、色使いやタッチから「印象派だね」という事が分かるという意味で言っている。

 

ブルデューは続けて、趣味には、正統的見方を反映した純粋趣味と、一般大衆の野蛮趣味とがある事を指摘する。難解さと多くの形式―入場料の高さ、様々の礼儀作法、荘厳な建物などなど―に守られた純粋趣味に対して、野蛮趣味は、「率直さ」と、素材そのものの「魅力」や「感動」によって特徴づけられる。純粋趣味がときにするように「つまらない」・「ありふれた」対象を芸術の対象とするような事もなく、素材そのものの美しさ―きれいな風景や美しい女性―をそのまま芸術の対象として受容する。(※)

一方で純粋趣味は、作品を、「その内容とは無関係に」評価しようとする傾向に支えられている。ラック工場の写真(72p)を見て、「なにもわからない」、「まったく見たことがない」と当惑する庶民階級に対し、「ビュッフェがこういうのをよく描きますね」、「この写真は非人間的だけれども、そのコントラストによって美学的な見地からは美しい」という支配階級の人々は、まさしく典型的な純粋趣味の持ち主と言えるだろう。

しかし、こうした「無償」かつ「無私」の芸術への自己投入は、実は、自己の生活の心配をする必要の無い経済的・物質的条件なしには達成できないものであり、それは、こうした生活様式の一側面であると言わざるを得ない。逆に、「浪費」や「贅沢」によって財産の破壊をしてしまう事なく「無私のもの」へと向かうことで、ブルジョワジーは、金銭的拘束から逃れて「ゆとり」を表現することができる。必要性から敢えて距離を取ることで、純粋趣味は、自身の経済的な優越と社会空間における特権的地位とを表す最も効果的な指標となっているのだ。

 

(※)たとえば写真についての調査で、キャベツの被写体としての印象を訊ねた場合、最も低学歴の層「免状なし、CEP」・「CAP」においては、それぞれ「面白い」:10%、7%、「つまらない」:56%、63%であったのに対し、最上位の「教授資格・グランド・ゼコール卒」では、「面白い」:21%、「つまらない」:38%と明らかな差異が存在する。

 

文化貴族の血統

 

統計調査は、学歴が同程度の集団の中では、出身階層に比例して文化に対する親和性が上昇することを示している。(※)これは、教養のある部分が、家庭において幼少期に体験的に習得されるものだという事を証明している。この極めて早期からの文化的正統性の獲得は、スタートラインにおいて有利であるというばかりでなく、ブルジョワ(経営者など)特有の「ゆとり」と「自信」にも繫がっていると言う。それは、文化的正統性の獲得の多くを学校での習得に負っている人々(学校の先生など)の「きまじめさ」ときれいな対称を成している。それは例えば、華やかな「社交家」と勤勉な「学者」の対立であり、礼儀作法や言葉遣いに価値を置くか知識と理性に価値を置くかの対立であり、芸術作品において、ただ楽しみ、ただ感じようとする態度と、その作品の意味を解読し、批評しようとする態度との対立である。

ブルデューによれば、こうした文化的正統性(文化資本)の獲得は、必ずしも経済原則すなわち、そうした文化資本を持っているときといないときの、文化資本を獲得するコストとその見返りを計算・比較した上で見返りの方が大きいから文化資本を積極的に獲得しようというような合理的計算によってではなく、家庭においてであれば何気ない会話や日々の生活の中で、粗野な冗談に対して眉をひそめられたり、時には叱責を受けたり、またマナーとして様々の優雅な振る舞いを「しつけ」られたりする事によって、学校であれば、難解な言葉遣いや積極的な授業態度を取る生徒に対する教師のあの友好的な態度や、学校の押しつける価値に合わない生徒(服装・言葉遣い・態度など)に対する同じ教師の冷淡によって、その場に受け入れられるよう各人が「知らず知らず」・「無意識に」適応しようとする長年の行為の蓄積の結果もたらされるものであると言う。そして特に、文化的教養と「社交的なもの」の領域においては、それが「学歴」という形で資格化されていない分だけ余計にその効果が見えにくいがそれは、自らの無知をさらけだしそうなシチュエーションであっても、知ったかぶりや冗談を駆使することで何とかその場を切り抜けることを可能にし、例えばテレビメディアや週刊誌、そして商社の営業など、そうした能力を最も必要とする部門において、そうした人々を有利にするものである。「文化貴族の血統」では、このような文化資本の伝達のメカニズムとそれに伴う再生産の仕組みについて主に論じられている。

 

(※)「学歴資本が同等の場合、提示された音楽作品のうち十二曲以上を知っていると答えた者の割合は、十二人以上の作曲者の名前を挙げることができると答えた者の割合にくらべて、庶民階級から支配階級へと移るにつれてはっきりと増加する。」(T・100p)

 

第U部 「慣習行動のエコノミー」

 

2.           社会空間とその変貌

 

階級は存在する。しかしその描写を、各人の職業との完全な等式として理解するような

単純化は絶対に避けなければならない。同じ職業状態でも、それがキャリアのスタート

である人間と、その職業状態がキャリアのゴールである人間とが、こと中間階級におい

ては混在している。もし階級の状態を正確に描こうとするのであれば、その職業の社会

的評価だけでなく、その職業に就く個人の社会的軌道も必ず考慮に入れなければならな

い。こうして得られた社会空間は、学者的か経営者的かというX軸と上層か下層かとい

うY軸による二次元空間に時間軸を加味した三次元の関数として描くことができるだ

ろう。

 

階級の存在状態と社会的条件づけ

 

職業と学歴との関係という形で、ある変数が他の変数に与える影響を分析していると、職業と学歴との間にある相関関係を学歴のみの効果に帰してしまうような、変数どうしに偽りの独立性を賦与してしまうような過ちを犯しかねないとブルデューは言う。学歴というものには、学歴に影響を与える様々な変数が存在するのであって、この変数の存在への視座を欠いた分析は、学歴以外の変数が職業に与える影響を無視してしまうだけでなく、学歴に対して他の変数が持っている影響を考慮に入れ損ねてしまいがちだ。ある階層は必ず、それに特徴的な2次的特性(性別・年齢・宗教など)をその中に保持していて、そうした様々の要素の関与性の総体、諸要因の構造の全体によって形づくられている。だから例えば、これらの要素を考慮に入れるのを怠ると、支配的職業の中のマイノリティー―女性医師(※)や黒人弁護士―が、小児科医や黒人専門弁護士になりがちであることを見落としたり、年齢ごとに見られる差異を単純に年齢に還元してしまったりしかねない。

 

(※)たとえば性的特性というのは、ちょうどレモンの黄色がその酸味と切り離せないのと同じように、階級の諸特性と切り離すことができない。(T・168p)

 

三次元空間

 

こうした総体としての構造という説明要因体系を考慮に入れた上でブルデューは、階級と慣習行動との関係を描いた共時的な階級図式を提供する。それは、第一に、生活条件に対してどの程度影響力を持っているか、生活条件の改善に利用できる手段や力をどの程度保持しているかという軸―すなわち経済資本(どの程度金持ちか)と文化資本(どの程度頭が良くて、尊敬されているか)の総量の大小による階級的配置(上下関係)―であり、第二に、同じ程度の資本総量を持つ人々のなかでの、文化資本と経済資本の比率(文化資本に偏った学者、経済資本に偏った経営者、双方を豊かに持つ医者・弁護士)の軸である。(192・193p図)

この図表から我々は、ただちに、最上位の階層において見られる対立、商工業経営者と高等教育教授の対立がそのまま、中・下層階級における小学校教員と小商人・職人の対立として、同様の相同をなして社会空間の中に実現されている事を読み取ることができる。この図表の主なる意図は、階級関係が単なる資本総量による対立だけに還元できない事、階級の内部においても様々な対立が存在する事、そしてその対立は、趣味と生活様式の領域における象徴利潤をめぐって行われるという事であろう。

 

転換の戦略

 

各々の階級は、無意識にせよ意識的にせよ、己の階級の社会的地位を、ときには維持するため、ときには上昇させるための再生産の戦略に基づいた慣習行動を持ち合わせているという。この慣習行動は、集団的なレベルにおいては、その階級・職業が下降局面、すなわち縮小再生産のプロセスに突入しつつある局面では、他の職業においてこれまで蓄積してきた文化資本を生かすという形で、つまり職業移動を活発に行い、上昇局面では再生産への投資をより強化するという形で実現する。一方、個人的なレベルにおいては、小学校教員の子弟が大学の教授になるとか、小経営者の子弟が大経営者になるといった垂直移動、または経営者の子弟が、大きな文化投資という形で経済資本を文化資本に転換することで教授になるといった水平移動として現われてくる(※)。

 

(※)ただし、大幅な水平移動は極めて少なく、教授の子弟で商・工業経営者になった者の率は1.9%、工業経営者の子弟で教授になった者は0.8%、商業経営者でも1.5%に過ぎない。小学校教員の子弟でも、職人や商人になったケースは1.2%、職人から小学校教員、小商人から小学校教員というケースもそれぞれ2.4%、1.4%であった。

 

階級についてのこの戦略と移動というブルデュー独特の概念は、社会現象についての新たな視野を我々に提供してくれる。60年代、教育機会の拡大によって、庶民階級の人々でも学校に通えるようになった。それらの人々にとってそれは、夢の未来を約束するものであったろう。明日どうなるとも分からない生活からの脱却を教育制度にたくした人々はしかし、そのうち現実によって裏切られることとなる。バカロレア資格(※1

)を持ちながら単能工や郵便配達夫にならざるをえなかった人々が、仕事と職場に対して必ず表現する種類の居心地の悪さは、おそらく教育制度により一層順応したからこそ余計に強く感じられるものだろう。そうした人々というのは、自分たちを口先だけで釣った学校制度というものに対して極めて強い嫌悪感を持っており、学校制度そのものに対する拒否、社会秩序全般に反抗という形で、自らの人間性を回復しようとする傾向がある。実はこうした傾向というのは、この人たちほど極端ではないにしろ、この世代全般に共有されているものであり、それは、どの人々も、前世代の人々よりは少ない見返りしか得られないという必然を背景にして、ありとあらゆる若い世代の人々に共通して見られる傾向である。(※2)もしこの点に思い至れば、高齢者の謹厳さと若者の自由・無頓着といったよく言われる対立が、単に、年齢による生物学的効果や今ある地位を保持しようとする保守性だけによるものではなく、こうした社会背景との関わりにおいても生成し得るという事を理解できるようになる。

 

(※1)バカロレア資格(Baccalauréat)とは、フランスにおける大学入学資格を得るための統一国家試験のこと。フランスではバカロレアに受かると、定員制限さえ満たしていればグランゼコールを除く任意の大学に入学することができる。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

(※2)1962年の15〜24歳の事務労働者のうち、BEPC保持者は25%、バカロレア資格者は2%、大卒またはグランド・ゼコール卒は0.2%であった。対して1974年にはその割合が、38%、8%、1.7%、と大きく増加している。しかも同年の25歳以上の者について見ると、16.1%、3.3%、1.4%にしかなっていない。

 

また同時に、ブルデューの言う階級ごとの戦略という概念は、種々のシンクタンクの研究員やコンサルタント、マスコミ関係者といった文化生産的職業領域の近年の肥大が、学歴資格の氾濫、それを持つ人々の労働市場での価値下落という事態を背景に起こっている事も我々に教える。学歴資格や大きな相続文化資本を持ちながら自らの希望する未来を獲得できない人々は、一つには、こうした新しく、まだ官僚化されていない職業(映画評論家など)を創設することによって、一つには、既存の職業を言い換える事(仕立て屋→デザイナーなど)によって、一つには仕事の内容も定義もはっきりしない職業(ソーシャルワーカーなど)で敢えて自分の位置を確定しない事によって、生涯教育でタイムリミットを先延ばしすることによって、客観的未来と主観的希望とを折り合わせる。

それぞれの階級がそれぞれの利害に基づいてこうした戦略的行動を取ることにより、実は、その外見上の差異とは対称的に、階級相互間の関係と再生産の程度に驚くほど変化が見られないという事態が出現する。それは、抜きつ抜かれつを繰り返したあげく、結局最後はスタート時の差が保たれてゴールするようなレースと同様、上昇を目指した必死の努力が、すぐ上位の集団の同じような努力によって帳消しにされてしまうような不条理な現実である。(※)

 

(※)244・245p表およびグラフ参照。就学機会の増大により、見かけ上のチャンスは確かに広がったが、階級ごとの就学者の比率である就学率のデータを取ってみると、庶民階級・中間階級にチャンスが広がったのと少なくとも同程度には、支配階級の子弟にもチャンスが広がっていることが分かる。しかも、庶民階級出身の学生達の大半が、文学部や理学部、技術系の学部といった一般的には評価の低いセクションに属している反面、支配階級の子弟の多くが、自然科学や経営関係といった比較的評価の高い学部に所属(その傾向は、医学部やグランド・ゼコールといった最上位の学部において最大となる)していることを考えれば、むしろ統計から見える以上に階級による再生産の効果は大きいとさえ言えるかもしれない。

 

しかしそれでも下位の集団は、クレジットを購入するという方法―すなわち自分の時間を担保として、学歴なり文化的教養なりを獲得するための投資を行う事―によってしか自分の未来を向上させることができないために、現在の秩序に大きな価値を認めなければならない。これは、犠牲者をあたかも解放してやるかのような顔をしながら近づき、実際は犠牲者自身を永遠にその秩序に縛り付けることを可能にする不可視の力―正統性の押しつけ―である。したがって、社会に対する不満が社会に対する異議申し立てを必ずしも導くわけではなく、むしろ時には、現行秩序の最も忠実な守護者の位置に不満分子を配置するとブルデューは言う。

「社会空間とその変貌」においてブルデューは、階級の描写と、そこから導かれる様々の戦略、そして戦略の裏に隠れる正統性の押しつけについて考察している。

 

3.ハビトゥスと生活様式空間

 

第2章においてブルデューは、各人の持つ慣習行動が各人の社会的位置に強く関係することを証明した。ブルデューは、この階級性に依存した慣習行動の総体をハビトゥスと名付けた。しかしハビトゥスは、各人の社会的位置から生成し、各人をある種の慣習行動に導くような作用だけではなく、慣習行動全般、ある作品、趣味などを弁別し、分類する差異化=識別・評価する認識の体系としての作用も持ち合わせているという。例えば、名うての老家具職人の持つ世界観の全て(時間・家計・生活をきっちりと管理する厳格さ堅苦しい言葉遣い、質素な衣服など)が、彼の仕事の正確さ・丁寧さ・入念さを物語っているようなケースにおいて、また、結婚が、意識しているわけでもないのに似たような階層の者同士で行われがちであるようなケースにおいて、ハビトゥスの弁別記号として働きは最もよく現われている。

したがって趣味とは、数ある中から自ら選び取るようなものではなくて、配分上自分に与えられたものを好きになるというものである。

 

諸空間の相同性

 

ブルデューによれば趣味には、文化資本であれ経済資本であれ、何らかの資本の欠如によって仕方なく受容される必要趣味と、卓越性の象徴である贅沢趣味とがあるという。

この2つの趣味の対立は、支配階級・中間階級・庶民階級のそれぞれにおいて、経済資本―文化資本の対立軸に沿った対応関係をそれぞれ持ち合わせている。

例えば、経済資本に偏った商・工業経営者においては、「ご馳走」(高価でかつ高カロリー)が好まれ、経済資本が多くなればなるほどその傾向が強まるのに対し、弁護士や医者は、職業上の必要性からスリムな身体を求める傾向が強く、脂っこい食べ物を下品なものとして退け、新鮮な野菜などを使った軽くて繊細な高級料理に向かいがちであり、文化資本に偏った教授層においては、不足がちな経済資本を補うため、異国趣味や庶民料理といった最低のコストで独自性を追求できるような料理が好まれる。そして、労働市場で高い評価を受ける女性達(いわゆるキャリアウーマン)が、冷凍食品やグリルした肉や生野菜によって最大限、調理に裂く時間と労力を節約しようとするのに対し、伝統的な性役割に強く拘束された庶民階級の専業主婦の女性達が、もっとも庶民階級らしい料理、例えばポトフ―安い肉を長時間煮込むという理由からこれほど庶民階級向きのものも少ない―を好むというのも、こうした社会背景を考えればむしろ当然とさえ思えてくる。

 

様式的可能性の世界

 

数あるスポーツの中で、人はなぜそのスポーツを選ぶのだろうか?ブルデューによればそれは、自由な選択の結果などではなく、認識体系として各人のなかに無意識に埋め込まれたハビトゥスに導かれての事であると言う。同じスポーツをやっているように見えても、各人にとってそれが同じ意味を持っているとは限らない。あるブルジョワは健康な身体を作るために、ある庶民階級の人は頑健な肉体を求めてスポーツを行っているかもしれない。だからこそ、同じスポーツ―例えばテニス―であっても、そのスポーツの仕方には大きな差異が生じるのだ―プライベートなクラブで、ワンピースとテニスシューズで行う場合と市営の競技場を使ってジャージで行う場合の違いように―。

このスポーツ実践の意味の違いは、実は諸階級の持つハビトゥスによるものが大きいとブルデューは言う。他者の視線に縛られ、身だしなみが社会規範にどこまで適合しているかどうかによって自分自身の評価が大きく左右されるプチブル階級の女性たちが、身体を鍛える目的で体操をすること、それが誰にでもできる事から、付き合いたくないような人々とも接触せざるを得ないという付帯的特性のために、サッカーやラグビーといった団体スポーツを支配階級が忌避しがちであること(結果、それらは典型的な大衆スポーツとみなされる)、むしろブルジョワは、専用の場所で、自分の好きなときに、一人または選ばれたパートナーと行う事のできるような、自らの希少性を主張できるヨットや乗馬などを好むということは、ある種の必然性を持っていると言わざるを得ない。

第3章では、趣味や好みを導く認識体系としてハビトゥスがいかに重要な役割を演じているかを示している。

 

4.場の力学

 

この社会は、様式的可能性と同じ数だけ選好の空間を持っている。今日の昼食から乗っている自動車まで、投票する政党はもちろんのこと、気晴らしに楽しむ週刊誌でさえも、その一つ一つが無限の差異の表象であると同時に、卓越化を求めて各人が争う闘争の場でもある。各人が文化財を消費するとき、卓越化の関係は、各人が気付いていようといまいと、望もうと望むまいと、客観的に現われて来ざるを得ない。しかし文化財は、物理的には誰でもそれを楽しむことができるがゆえに、逆説的に、経済資本を失うこと無く卓越化を行う事ができるという効果を持っている。文化財の消費から卓越化の利潤を引き出す人々は、現実的な独占を可能にする文化財へのアクセス権とも言うべき文化資本―文化財への知識、美的な感覚―を所有する事により、この魔法のプロセスを成し遂げている。文化財の普及(いわゆる大衆化)によって彼らは、文化財市場の拡大によって彼らの活躍の場がより一層広がるという利潤を得る一方で、自らの希少性の唯一の根拠となっている文化財の知識の独占が崩れる危険性に直面することになる。

この文化財の普及に対する知識人のアンビバレントな関係が、文化の普及機関と大衆との関係に対する彼らの2重化された言説に現われている。(※)

 

(※)「美術館における作品の展示方法に何か改善すべき点はないか、そして特に、技術的・歴史的・美学的観点からいろいろと説明を与えることで作品の『供給水準』を引き下げることをねらいとする教育改革がいま必要かどうか、この点について質問してみると、支配階級の人々―そして中でも特に教授や芸術専門家たち―は、他人にとって望ましいことと自分にとって望ましいこととを切り離すことによって、自家撞着を免れようとする。」(T・351p)

 

財生産と趣味生産の照応関係

 

趣味は、文化財生産者と消費者との運命の出会いでもなければ、生産者による完全な押し付けでもない。人は忘れがちだが、提供された生産物はどれも、その生産物が生産されるための条件を同時に隠し持っている。前衛絵画を楽しむためには、前衛絵画を楽しむに足るだけの教養が無ければならないし、それは言い換えれば、それだけの余暇と知識習得のための道具を暗に消費者に求めているのであるから、支配階級の持つ全ての趣味は、支配階級にしか備わっていないその時々の利用可能な諸条件にしたがって形づくられてくる。ある趣味を持つことは暗にその前提をクリアすることである。趣味生産の市場においては、需要が供給に、供給が需要に、直接影響を及ぼしている。テニスコートがあちこちにできる事で会員制のクラブが必要になるように、趣味生産のための条件の変化は生産そのものに直接影響せざるを得ないし、大量生産によってテニスのラケットやシューズが安価に手に入るようになったことは、テニスに対する需要を喚起するだろう。

人間と趣味との間に見られるこの奇跡的な需給の一致は、一つは共通の物質的限界によって、もう一つは、この限界を心理的に受け入れさせる正統性の押しつけによって実は成り立っているとブルデューは述べている。

 

象徴闘争

 

各人の慣習行動がこれまで見てきたように様々の社会的制約によって条件づけられているからと言って、こうした構造を客観的主義的に静的な秩序と見なしてしまってはならない。文化は、「何が真の文化であるか」を争点として闘われる象徴闘争の結果であり、ゲームのルール自体も常に賭けの対象となっているので、諸階級間の力関係も常に変化の可能性にさらされ続けている。

現実について行為者が抱いている表象―各人の意思―は、すべからく社会的現実の制約を受けているが、それでも各行為者の抱く表象自身が争点となっているため、それ自身のうちに変化の可能性、社会的地位上昇の希望を含んでいると言っても良い。だからこそ被支配階級の人々は、―ほとんどの場合、引き立て役で終わるにも関わらず―卓越性を所有しようと努力することで、自分たちを支配する者たちの卓越性を承認せざるを得ないのだ。

「場の力学」においてブルデューは、各々の場における各階級の葛藤を細かに描写している。

 

ディスタンクシオンU(La Distinction U)

 

第V部 階級の趣味と生活様式

 

第U部までブルデューは、社会空間の階級構造を全体的に描写するよう努めてきた。第V部ではそこから、個々の階級―その境界画定の仕方が恣意的であることは承知の上で―についての分析に入ってゆく。

 

5.卓越化の感覚―支配階級―

 

支配階級の人々についてアンケート調査からその分布を調べて見ると、支配階級内部においてもある種の対立関係を見ることができる。(11p図)一方の極には、収入は少ないが能力の大きい人々(※1)、もう一方の極には、収入は最大だが能力は最小の人々(※2)、この両者の位置の違いは、まず経済資本と文化資本の比率を第一因子として、次に、どのくらい古くからブルジョワ階級に所属していたかという各人の社会的軌道を第二因子として決まってくるとブルデューは言う。

 

(※1)彼らは、音楽作品の知識や作曲家の知識が豊富で、抽象絵画に興味を持ち、現代美術館をよく訪れる

(※2)彼らは、音楽作品や作曲家をほとんど知らず、教科書に載るようなブルジョワ文化の2流作品、比較的通俗化した作品を好む。

 

非常に早くから希少な文化財や「卓越した」人々に日常的に接することで文化資本を獲得してきた古参のブルジョワ階級に対し、つい最近ブルジョワ階級に上昇してきた「成り上がり者」たちは、独学によって手当たり次第に様々なものを取り入れつつ、血のにじむ努力の結果、文化資本を獲得してくる。そのため彼らは、一般に、古参のブルジョワジーと比べ、文化に対し、よりきまじめで、厳格で、こわばった関係を持っている(※)。

 

(※)古参のブルジョワ階級を構成する人々は、親から相続した家具を持っていることが多く、骨董品店をよく訪れ、快適なインテリアや伝統的な料理を好みがちである一方、学校での教育を通じてその資本の大部分を獲得した新規のブルジョワ階級の人々は、教養ある人・芸術家肌の人より、意思の強い人や実際家を好み、インテリアは小ぎれいで清潔なもの、質素で控えめなものを好む傾向がある。

 

芸術作品の所有化様式

 

文化財の所有は、所有によって他人から自分を区別し、自らを卓越化する事を可能にする。しかしその所有様式は、経済資本に応じて2つの異なった形態を取りうる。経済資本を多く持つ経営者のような人々が、着飾って、最高級の劇場の一番高い席で芝居を見るのに対し、経済資本を持たないインテリ・知識人と言われる人々は、「劇場に行くのは芝居を見るためであって、自分を見せびらかすためではない」(※1)と、劇場や展覧会、芸術映画館などに足しげく通うことで、最小限のコストで最大の「文化的収益」をあげようとする。(※2)つまり、彼らは芸術作品そのものから、芸術作品についての言説を生産することで、芸術作品の弁別的価値の一部を所有しようとしているのだ。

 

(※1)「ディスタンクシオンU」22p

(※2)観劇のために払う金額の中央値は、私企業一般管理職4.61フラン、公企業・官庁一般管理職4.77フラン、公企業・官庁上級管理職6.09フラン、自由業(医者・弁護士など)7.00フラン、私企業上級管理職7.58フラン、商人7.80フラン、企業主9.19フランに対し、教師層は4.17フランとなっている。

 

支配趣味のヴァリアント

 

医者や弁護士といった自由業の人々と教授層のように文化資本の面で極めて近い二つのカテゴリー間の対立は、社会軌道の違いによる差異の効果に加え、その経済的条件が後押しする形で成りたっている。学歴資本の蓄積によって支配階級に上昇できた人々の割合の多い教授層では、蓄積の必要条件である禁欲的性向を文化資本の面でも応用していくという傾向が強く、ブルジョワ出身であることを見せびらかすような自由業の人々の豪奢―これは仕事上、社会関係資本の蓄積が非常に重要であるという職業上の必要性によってさらに後押しされる―と対立している。

 

時間の刻印

 

若年者VS年長者、上昇志願者VS現保持者、新参者VS古参者という階級内部の対立は、どの階級においても見られるものだが、特に支配階級において顕著であるとブルデューは言う。医師や弁護士といった自由業の人々が、ポストへの到達者数を制限する事によって、そのポストの伝統的定義を維持する事に今のところ成功している反面、管理職や上級技術者というカテゴリーでは、上で述べたような制約条件に守られていないために、進学率の増大による直接的な影響を受けるようになった。したがって、生物学的年齢で見られる趣味の違いも、以下のような事情―上級技術者のカテゴリーにおける、中間階級・庶民階級出身で下から叩き上げてきた、または2流校しか出ていない年長者のプチブル趣味と、少なくとも一世代以上前からブルジョワ階級に属する若い上級技術者のブルジョワ趣味の対立、そしてまた、管理職というカテゴリーでの、伝統的教養を持つ最古参の権威者、昇進試験などによって成り上がった叩き上げの事務系、グランド・ゼコール(※)出身の若いエリート、ビジネススクール出身の旧ブルジョワ階級出身の新タイプの管理職というそれぞれ階級軌道の異なる人々の間の趣味の相違―を考えれば、そう簡単に世代間効果に還元することはできなくなるだろう。

最新のマネージメント技術を操る現代風の若い管理職と昔ながらの体制維持的経営者、「日に焼けたスマートな管理職」と「太鼓腹の堅苦しい経営者」というよくある図式もこうした階級軌道の違いが明確に現われている一例であろう。

 

(※)「グランド・ゼコール(Grandes Écoles) とは、フランス独自の教育機関で高校卒業後、

カロレア試験に合格し、 その後グランゼコール準備学級で2年勉強した後でさらに、グ

ランゼコールの入試に受かったものだけが入学が許される高等教育機関のこと。いずれも

難関で知られ、入学難易度の高さは世界的にも屈指で、日本の東大京大、アメリカのハ

ーヴァード大学等を越えるとも言われている。その代償として、学生は聴講官とよばれる

国家公務員として扱われて給金が支給され、卒業後もエリートとしての要職が約束されて

いる。」ウィキペディア(Wikipedia)

 

世俗的大きさと非世俗的大きさ

 

支配階級内での対立は、対立であると同時に、ゲームの賭け金と、それを獲得するために争うという共通の姿勢において、共犯関係であると指摘するのも可能である。知識人や芸術家はときに、経営者VS知識人・芸術家という支配階級内部での対立が、実際の社会空間の中での支配階級VS被支配階級という対立と極めて似通った関係を持つために、被支配階級に対してむしろ親近感を持ったり、場合によっては実際に連帯したりするが、それでもパトロンが知識人や芸術家を承認せざるを得ないのは、知識人の持つブルジョワ的「物質主義」への否定が、大衆的物質主義に対する否定も同時に持ち合わせているからでしかない。特に、作家達の中での被支配的な層―支配趣味に直接適合するような文化生産物を提供する層に対立する―において、この傾向は最も強くなるけれども、支配階級内部の闘争における利害の内在性から、知識人・芸術家のこうした「無私の姿勢」があくまで出てくる事を忘れてはならないとブルデューは述べている。

 

6.文化的善意―中間階級―

 

続いてブルデューは、中間階級の趣味の分析を行う。まったく読書をしない、文学賞についても全く知識がない人々でも、かなりの割合で好意的な意見を表明するのはなぜだろうか?ブルデューの分析は極めて鋭い。

 

認知と承認

 

プチブルの文化に対する関係は、認知=知識と承認の間の大きな落差の中にその全てが凝縮されている。正統的文化への親しみとそれにまつわる不十分な知識から、必然的にプチブルの「文化的善意」が導かれる。何に自らを捧げればよいか分からないために貴族的伝統であれば取りあえず何でも崇拝する、「文化的善意」とは、そうしたプチブルの悲しい性向の事だと言う。

「バカの壁」(養老猛)や「報道ステーション」のように、プチブルの文化とは、時代遅れの正統的生産物と最も高尚な大量普及生産とを媒介する一連の生産物であり、それは、そうした意味で、まさしく「中間文化」である。

 

学校と独学

 

プチブルの中には、独学によって少量の文化資本を所有する者が一定数存在する。独学者は、正統的な手順で教養を獲得したわけではないために、常に自分の正しさに不安を抱える。ちょうど、ブルジョワの絵画のコレクションに対するプチブルの切手のコレクションのように、独学者たちは、クイズ番組の出演者のように、雑多で、格下げされた知識を溜め込んでゆく。

この独学者たちの馬鹿げた熱心さは、正統的文化に対する憧れから引き出される文化資本の蓄積への激しい欲求から導かれるとブルデューは分析している。

 

勾配と傾向

 

子どもの人数を階級ごとに見てみると、庶民階級から中間階級に移行するごとに減少し、中間階級から支配階級にかけて再び増加するという。(※)これは、上昇可能性が極めて限られるために子どもへの教育投資を低所得層ではわずかしか必要とせず、逆に、高収入層では、投資額は増えてもそれをカバーするだけの収入が見込め、社会的上昇をめざそうとする野心を持つ中間階級において、資力と教育投資のギャップが最高になるからであると言う。

 

(※)職業別に見た子どもの数は、農業労働者3.00人、単純労働者2.77人、対して、商店員1.68人、一般技術員1.67人、小学校教員1.68人であり、工業実業家は2.09人、自由業は2.06人である。

 

彼らが成功を収めるためには、「節約」・「勤勉」という精神的な資力を加えなければならず、特に社交関係における犠牲を伴いがちであり、大家族特有の楽しさや、安定した家族関係のもたらす老後の保証の放棄はもちろんのこと、極端な場合には、昔不幸を共にした仲間との関係の否認にまで至ることもあるのだ。

 

プチブル趣味のヴァリアント

 

支配階級におけるのと同様、中間階級についても趣味と階級内対立についての描写をブルデューは行う。(135p・図)

照応関係の分析によって浮かび上がった集合の体系は、次のような事実を明らかにするという。それはすなわち、きわめて多種多様に見えるプチブルの選択が、実は支配階級の趣味を組織立てる構造とほぼ同様であるという事実である。しかし、それ以上に重要な事がある。それは、中間階級においては、上昇しつつある者と現在の位置を保持する者との対立に加えて、下降しつつある者がそこに加わるという点である。したがって中間階級というのは、様々な階級軌道を持つ者たちの出会いの場であり、それゆえ、最も不確定で、社会的軌道の分析がより一層重要になる場であるとブルデューは述べている。

 

下降プチブル

 

ブルデューはこうして、プチブル階級内での階級的差異について考察を進めてゆく。まずは、下降プチブルである。下降プチブルは、人数的にも経済的にも退潮傾向を明確に示す人々の一群であり、小商人・職人がそれに当たる。

彼らは、転職を試みるのに必要な経済資本、ことに文化資本を備えていないことから、経営困難で消滅しつつある小商店の主人になんとか留まろうとせざるを得ないため、ありとあらゆる分野で、最も厳格で最も伝統的で最も退行的な選好を表明する。

彼らは、すぐクレジットで物を買おうとする傾向や性の放縦に対して恨みの感情を抱き、新しく愉快な「当世風」の趣味を退け、労働・秩序・厳密さ・細心さという「良心的な」エートスに最高の価値を置いている。

 

実働プチブル

 

中間階級の中でも中央の位置に身を置く実働プチブルは、最も中間階級らしい中間階級である。実働プチブルは、文化資本のわずかな蓄積によって可能になった上昇傾向を継続させようとする野心によって特徴付けられるが、この野心の存在は、未来のある者や若者を非難することにしか満足を見出せない下降プチブルの恨みの感情とは反対に、実働プチブルの人々に、慎重な進歩主義と結びついた禁欲的厳格主義を植えつける。(※)

 

 

(※)実働プチブルの禁欲的厳格主義が社会的上昇への野心と結びついている何よりの証拠として、子どもの教育や性行動に関して、他の諸階級よりはるかに厳格主義的な上層プチブルの人々が、妊娠中絶や未成年の避妊薬の使用のように、自分の上昇のために役立ちうる慣習行動だけに関しては、支配階級以上に寛大になりうる事実を挙げれば十分であろう。

 

しかし、こうした実働プチブルの望みは、多くの場合叶うことはない。「学校を出たら・・・」「家のローンを払い終えたら・・・」「子どもが大きくなったら・・・」「退職したら・・・」、楽しみを常に先延ばしすることで、現在を未来のために犠牲にすることで、想像上の期待を実現しようとプチブルはするが、高齢になり、もはや自分の長期間の努力が負の収支を計上せざるを得ないと分かったとき、むしろ彼らのハビトゥスは、下降プチブルのそれに近づくことになる。

プチブルが道徳的観念に忠実であるのは、別に彼らが道徳的だからではなく、彼らがモラルそのものに利害を持っているから、すなわち、彼らの恨みと怒りの感情を最もよく提供できるからである。

 

新興プチブル

 

新興プチブルは、父親の職業から言えば当然期待できる学歴を獲得できなかったり、以前であれば得られたであろう肩書きを学歴資本から得られなかったりする階級脱落者達から主に構成され、セールスマンや、ファッションデザイナー、食餌療法士やラジオ・テレビのディレクターなど、いかなる保証も無い代わりに、いかなる未来もあり得るような新しい職業郡に従事している。

彼らは、元は上流階級出身であることが多いので、文化資本や社会関係資本に比較的恵まれ、中間階級の中では最もブルジョワ階級に似た選考を示しがちだ。それは、成り上がり者達の不安に満ちた上昇志向とは一線を画し、ブルジョワがよく挙げるような気の利いた画家や音楽家の名を挙げる一方、現代美術館を実際に訪れることは少ないといった中身の伴わない卓越によって特徴付けられている。

 

義務から義務としての快楽へ

 

新興プチブルの持つハビトゥスは、様々な領域で新興プチブル特有の倫理を帰結するとブルデューは主張する。

例えば性の領域において、彼らの貴族主義的上昇志向は、新たな倫理的教義を人々に押し付けることがすなわち彼らの職業的救済につながるので、必然、快楽的な性倫理を導き出す事になる。性行動という概念がごく最近の歴史発明物である事を忘れ、性行動の機会が、人によってほとんどまちまちに配分された社会的条件によって左右される事も無視し、性的交換の分野に「ギブ&テイク」という合理的計算を彼らは持ち込んでくる。

また同時に、育児と精神医療の分野においても、新興プチブルの快楽主義的ハビトゥスは、子育ての楽しみ・健康な精神生活というイデオロギーの生産に寄与していて、映画や漫画といったまだ成長途上にある文化領域の中で正統的文化の切り売りをすることで、新興プチブルの人々は、ますます発展する広告産業と一種の弁証法的関係を持ちながら、結局は社会界の外へのロマン主義的逃亡でしかない新たな保守主義の担い手となっていくのである。

 

必要なものの選択―庶民階級―

 

ハビトゥスは、必要性に迫られたため仕方なくなされた選択であるという事が、庶民階級ほど明確に現われている例も少ない。知識人が労働者に、彼らの階級内での被支配関係を投影してしまうことで、統計的にほとんどありそうもない労働者像を作り上げてしまう事からくる、悲惨さが強調されただけの労働者像と、理想社会の担い手としての労働者像との誤った二者択一から抜け出すことをこの章では目指している。

 

必要趣味と順応の原理

 

庶民階級のハビトゥスの特徴は、彼らがあまりに長い期間にわたって経済的拘束にさらされ続けていたため、上昇に必要な諸々のハビトゥスを身に付けることができないでいるという事である。外科医の息子が結婚式に大金を使ったと耳にしたとき、その出費が実は、社会関係資本を形成する上で恰好の投資であることを全く理解できないために、「きちがい沙汰だ」としか思えない労働者特有の選好の体系は、労働者の慣習行動全般を通じて見られる形式上の探求や芸術特有の無償性へのきっぱりとした拒否によって導き出されているともいえる。

この形式上の探求・芸術の無償性の拒否は、例えば、労働者階級の女性が身だしなみにあまり気を使わない事にも現われる。(※)そして彼女達のこの拒否の姿勢が、彼女達の行動だけでなく、倫理の面においても貫徹されていることは、次の事をみれば明らかだろう。すなわち、労働者階級の大人の女性が年齢に似合わない露出の多い服を着ていたら、それはおそらく嘲笑の的となってしまうという事である。(同じ事を医者の妻がすれば、「彼女はおしゃれをするために生まれてきたみたいね」と言われるかもしれない。)

これは、客観的諸条件によって押し付けられた選択肢を、あらかじめ受け入れるよう各人に内在化されたハビトゥスであり、単に経済的条件からばかりでなく、庶民階級の人々が自ら望んで庶民階級のハビトゥスを獲得していく逆説の最も説得力のある説明と言えるだろう。

 

(※)「庶民階級の女性はほとんど常に、自分の身体の部分について他の階級の女性よりも低い点数を与えている(ただし肌と鼻と手は除く)。さらに彼女たちは、容姿・容貌にたいしてあまり価値を認めておらず、身体の手入れにかける時間・金銭・関心も一貫して少ない。」(U・202p)

 

支配の効果

 

庶民階級は、スポーツや音楽の世界に大衆文化をたずさえて参入するが、実はその参加の本質は、自分たちが剥奪されてしまったものの埋め合わせでしかない。身体化された文化資本を持っていることが物品のうちに客体化された文化資本を適切に所有化できる必要条件であるため、身体化された文化資本を持たない庶民階級の人々は文化資本から疎外され、文化資本を使いこなす理論的手段を持つ人々によって支配されてしまう。

庶民階級の中でも、支配階級・中産階級で見られたような階級内部での対立関係は存在するようであるが(事務労働者と肉体労働者)、庶民階級のハビトゥスの本質を成しているのは結局、庶民階級の無能力から、どうしても支配階級の文化的正統性を承認してしまうような文化のあり方そのものである。

 

 

結論 階級と分類

 

趣味は、その保持者に対し、その保持者が占める社会的位置から何が起こりえるかを事前に予測する方向感覚として機能しつつ、実際に彼らの最もありそうな未来へと作り出された慣習行動を通じて向けてゆくものである。そしてハビトゥスが認識の体系としても機能する事により、個々の社会的行為者は、ある分類された行為の行為者であるばかりではなく、行為を分類する分類者でもあるのだ。

 

身体化された社会構造

 

各人に身体化されたハビトゥスは、階級構造と相同的構造をなしていて、自分に近いものにより高い価値を与え、自分から最も遠く隔たったものを最も価値の無いものとして分類する。しかしその対立は同時に、自分と自分から最も遠い人々、自分と自分からやや遠い人々、自分と自分に近い人々、…というように、無限の連続的対立として階層分化されている。

 

概念なき知識

 

自分が社会的にどこに位置するかという境界感覚は、社会を分類するある恣意的な秩序を自明なものとして承認・賛同する手続きがなければ、そもそも成立し得ない。しかしこの原初的承認は社会構造に根拠を持っているので、ほとんどすべての人がこの承認を共有するという事態を帰結し、そのために、いかにも客観的必然性を持っているような外観を呈することになる。

 

利害がらみの帰属判断

 

社会界の知覚について各人に内在化された原理(=常識)は、それを手にする事によって、その原理を支配する場に各人が所属する事によって、各人が得られる利益によって成りたっている。何かを知覚するという事は、それを知覚する事と何らかの利害関係を当事者が持っていることに他ならない。

例えば、同性愛と異性愛を対立させる事によって、暗黙のうちにそれ以外の性愛形式を葬り去るように、また、「お前は所詮ユダヤ人じゃないか」と非難することで、その個人の諸特性のうち一つだけを恣意的に認知するように、階級間の境界を設定する行為にも、必ずある戦略的な意図が付いて回る事になる。年齢による区分のようにどんなに形式的に見える指標であっても、あらゆる社会的闘争のうちのある一状態を規定(※)しているのだ。

 

(※)例えば、ホームレスの中の貧困状態を測定しようとするとき、生活保護が支給される65歳以上とそれ以前では、その意味が全く異なってくる。

 

そして、一方で個々の行為者たちは、例えば次のような図式を考えれば分かりやすいが、通常であれば、自由気ままに振舞う特権を持つ代わりに責任ある行為からの排除を承知している若者たちが、特定の危機的状況になって、現在の責任保持者達を、保守主義者であり、耄碌した無能者であり、平常時であれば賢明さであり、慎重さであると見なされるような美徳を、単なる既得権益を保持するがゆえの無責任として糾弾するような場合、言葉の定義を賭け金として、彼らの定義する新しい「完成された人間像」を正統的なものとして人々が認めるか否かという事をめぐって、象徴闘争が繰り広げられているのだ。

 

分類闘争

 

この社会界の意味をめぐる闘争は、闘争を通して知覚と分類のシステム全体に働きかけて、これまで隠蔽されていたり、背後に追いやられたりされていた別の特性を喚起する。この特性は、既成秩序の擁護者達の抗議に打ち勝って正統的意見の位置をそれが獲得したとき、はじめて客体化された分類システムとして構成される。

言葉の秩序が物の秩序を厳密に再現することはありえない。人々は、ポストと肩書きの、現実と名目との不一致を利用して、ある時は資格を持たずに職務を行う事でそれを既成事実化して正統的な肩書きを得ようとし、ある時は価値下落した肩書きによって、物質的報酬をあきらめる代わりに今より権威あるレッテルを得ようとする。

すなわち分類とは、階級闘争の産物であり、階級間の力関係の結果である。

 

表象の現実と現実の表象

 

国家名、民族名、職業、学歴など烙印として機能するあらゆる肩書きの交わりあうところに、当人の社会的アイデンティティは定義される。人間を特徴づけるためには、測定された物質的特長を併記するだけでは十分ではない。分類図式によって他と比較対照したとき、それらは初めて象徴的特性として機能する。

財は、それが関係の中で知覚されたとき弁別的記号へと転換される。その記号は、ときに卓越性の、ときに通俗性のしるしとなってある階級の知覚された表象を提供する。

統計の客観主義的用法で武装された「社会物理学」と意味の解読をその目的とする「社会記号学」の乗り越えを乗り越えるためには、各人を規定する諸生産関係の物質的要因によってだけでなく、そうした生産関係に対し相対的な自律性を持つ象徴的表象の論理によっても階級闘争が行われていることを自覚することが絶対必要である。

 

注:なお今回は、8.『文化と政治』、『追記「純粋」批評の「通俗的」批判のために』は、やや注釈的な内容となっているため割愛した。

 

感想

 

「ディスタンクシオン」を読んで、前半部は、「何が言いたいかは分かりやすいが、それほど面白くない」、逆に後半部は、「何が言いたいかはっきりしないが、面白い」という感想を持ちました。筋の通った議論の多い前半部に比べ、後半部は話があっちこっちに飛ぶし、ブルデューの持論を述べただけに近い分析も多く見受けられます。おそらく、「ディスタンクシオン」を書くうちブルデューの中で、彼がこれまで経験してきた不条理・矛盾・悔しさ、そういったものが溢れんばかりに出てきて、彼の学者としての良識よりも、人間ブルデューの思いが勝ってしまった、そういう事なのだと思います。

ブルデューが社会上昇を成し遂げてゆく過程で、彼は様々な人に出会いました。今の生活が当たり前で、パリの事や、まして世界の事なんて興味も関心もない故郷の農村の人々、必死で勉強したけどグランド・ゼコールに入れなかった友達、毎日、毎日、単調な仕事に朝から晩まで従事し、そして死んでいく自分の祖父、そして父親…、華やかなパリのエリート達とそうした人々を比べ、自分がどのポジションをとればよいのか、一番迷っていたのはブルデュー自身なのではないでしょうか。

ブルデューにとって学問とは、自分のそうした思いを形にする作業に他ならなかったのかもしれません。「ディスタンクシオン」を読んで、そんな風に感じました。

 

参考文献

 

「ディスタンクシオン」T・U

「社会学の社会学」 田原音和監訳 ブルデュー

「構造と実践―ブルデュー自身によるブルデュー―」 石崎春巳訳 ブルデュー

ピエール・ブルデュー 1930-2002」 ブルデューほか 加藤晴久編

ピエール・ブルデュー〔超領域の人間学〕」 加藤晴久編

差異と欲望〔ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む〕」 石井洋二郎

文化的再生産の社会学〔ブルデュー理論からの展開〕」 宮島喬

「ブルデューを読む」 情況出版

「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文藝春秋

「情況」2002.5 「ピエール・ブルデュー追悼特集にあたって」

「現代思想」2001.2 「ブルデューとは誰か」

             「ブルデューにおける相対的自律性の主体と抵抗の理論」

「環」2003.1 「ピエール・ブルデューの社会学的遺産」

 

web

ウィキペディア(Wikipedia)

http://grigori.jp/socio/002.html

http://www.city.kofu.yamanashi.jp/i/kafufu/8/S50-8-18.html

http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=20000926

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Kazuma.Kohara/jsecf.htm

http://web.sfc.keio.ac.jp/~thiesmey/shakainote03.htm

http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000528cross.html

 

画像

http://www.ntv.co.jp/angel/20040523/main.html

http://salut3.at.infoseek.co.jp/basic/provence01.html

http://www.fantasy.fromc.com/art/renoir.shtml

http://www.recipe.nestle.co.jp/recipe/500_599/00512.htm

http://www.omame.net/toichi/diarylog/jj.html