性の歴史T

「知への意志」

ミシェル・フーコー
MICHEL FOUCAULT

 

 

総合政策学部2年

及川理恵

(s04123ro)

70401233

 

 

1.本著について

 

「知への意志(性の歴史T)」「性(セクシュアリテ)の歴史」の第一巻として1976年に出版された。

予定では第二巻が「肉欲と身体」、第三巻「子どもの十字軍」、第四巻「女、母、ヒステリー患者」、第五巻「倒錯者たち」、第六巻「人口としての住民(ポピュラシオン)と人種」であったが、予定は実行されなかった。

フーコーは晩年を「性」に関する考古学的研究(=ニーチェの系譜学を引き継ぎ、絶対化された思想がいかに社会的に形成されたかを歴史的にたどることでその存立の構造を示す方法)に捧げた。その成果としての「性の歴史」三部作、第一部。

 

「快楽の活用(性の歴史U)」1984 「生存の作法(アール・ドゥ・レグジスタンス)」、「自己についての技術(テクニック・ドゥ・ソア)」という概念を用いて、個人の「生き方」に注目、諸個人が自らの実践を通して性行動を「問題化」する次元の分析へと移行。紀元前五世紀のギリシア文化にて哲学や医学がどのように性行動を問題化したかを分析。

 

「自己への配慮(性の歴史V)」1984 紀元前二世紀の古代ギリシア、ラテンの哲学書、医学書などを詳細に検討し、いかに「自己」に関する文化が西欧において形成されたかの検討。厳しい自己統御を通じて自己享受を目指す志向の誕生過程について記述。

 

「知への意志」は<権力テクノロジーの歴史>という視野でセクシュアリティを、他2巻は倫理という視野をひらくものとしてセクシュアリティがとらえられており、特に倫理的、道徳的主体の「主体化」の歴史が問われている。


2. フーコーの<生-権力>と<ビオ・ポリティック>

 

かつての君主の権力に代表される権力観は、国家権力を権力の中心と考えている。(すなわち、社会システムの制度として権力を考えるものである。)

 

フーコーの<生-権力>観とは、日常的な相互作用のネットワークにおいて作用する権力のことである。法や抑圧などの可視的な関係ではなく身体の深部まで達する不可視の権力であり、コミュニケーションというゲームで行使される無数の力関係、それは社会的関係を生み出す生産的な役割を持つ権力である。(すなわち、社会システムの相互作用を可能にする力の相互作用として権力を考える。)

 

→「だれが権力を行使するのか」から、「どう権力が行使されるのか」という問いへの移行。

 

<生-権力>とは何か

2つの形態の権力が17世紀以後の西欧にて生まれる。

@『監獄の誕生(1971)』で分析された規律の権力、身体を管理し監禁する権力。

A18世紀ごろ誕生した、繁殖、誕生、健康、死亡率など種・生物としての身体に関心をあわせそれを管理する権力。

 

フーコーは本著で<生-権力>の最も重要な対象として、「規律・管理の権力」「人口管理の権力」の両方に密接に関係する「性」を組み込もうと試みた。第五章「死に対する権利と生に対する権力」参照。

 

     「知への意志」における「権力」についての定義

 

「権力とは、一つの制度でもなく、一つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力でもない。それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである。(p.123)」

 

フーコーの著書のなかでも、本書で初めて定義がなされる。

1・権力は、無数の点から出発し、不規則で不平等な一定しない諸関係によって成立するゲームの中で行使される。

2・権力の諸関係は、経済、学問、性といった現象が生み出しうる諸関係外にではなく、そうした諸関係の中に作りだされる。

3・権力は下部からくる。支配する者、支配される者という古典的な二項図式は否定され、生産の機関、家族や局限された集団の内部で形成される多様な力関係が、全般的力線を形作る。

4・権力をふるうのは、特定の個人でなく、諸関係の中で、その作用によって権力が行使されるに過ぎないのであり、権力の関係は非-主観的である。

5・権力の外部に抵抗があるのではなく、抵抗は、あくまでも権力の内部にある。一つの固定した抵抗の拠点があるのではなく、あくまでも、諸関係の網の目の中で、不規則に発生するのが「抵抗」であり、権力は、この不規則な抵抗を完全に排除することは出来ない。そして、この抵抗点が、戦略的に結び付けられて作動したとき、革命が可能になる。


■ビオ・ポリティック(生命を管理する政治学)とは

規律を特徴付けている権力の手続きである「人間の身体の解剖政治学(アナトモ・ポリチック)」と同時に、生に対する権力の1つとして第五章にて提起。
ビオ・ポリティックは本著で提起された新しい概念であり、後期フーコー思想を特徴付ける。

 

■近代国家は、国民の名のもとにすべての人々の身体が管理される時代

→君主のためではなく、国民全体を動員して、国民全体の生存のために殺しあうため、人口調節を行い、住民の健康を管理し、保護し、人口を調節する国家。

結果として、オナニーをするこどもたち、性的逸脱とされる人々、子供を産まない女性「普通ではない」と管理される。「近代社会」は、ビオ・ポリティクスに従って、絶えず国民の性的欲望をかきたてている社会ともいえる。

 

3.「知への意志」概論

 

『知への意志』は、フーコーが「抑圧の歴史」と呼ぶ思考への批判を起点とする。「抑圧の仮説(歴史)」とは、17世紀以降近代のキリスト教社会にて性は抑圧されており、性を語ることはタブーであったとする一般的見解のことである。実際には16世紀以来人々はますます性について語るようになっており、とりわけキリスト教の「告白」という儀式において自己の性について隠さず告白することが求められており、性についての言説が逆に増大しているとフーコーは言う。

性に関する言説の空間においては<生-権力>が行使され、18世紀には性は公共のものとなり、行政の管理の対象となった。具体的には、人口増大に関心をもった国家が19世紀に一夫一婦制のもとでの家族制度を権力の維持基盤として活用するようになる。さらに性を管理する科学も形成された。成人と子ども、未成年男女をそれぞれ分離し、オナニーの禁止指導がなされ、様々な国家の人口政策に基づく性的指導が行われた。それに伴って、同性愛や少年愛などは異常性愛として取り締まりの対象となってゆく。人々は、ソフトに権力に管理、保護され、「生命を管理する政治学」が機能する社会となった。

フーコーは、中国や日本における「性愛の術」と西欧における「性の科学」を対比する。性愛の術において快楽はそれ自体のために追求され権力とも実用性とも無縁である。それに対して西欧の性の科学では、告白という形式を通じて、性は知としての権力にさらされてきた。さらに医学が登場し、性の科学は聖地化するのである。こうした権力装置によって、人間の<服従=主体化>が進行したのである。


 

4. 内容紹介

 

第一章 我らヴィクトリア期の人間

第二章 抑圧の仮説

1 言説の煽動

2 倒錯の確立

第三章 性の科学

第四章 性的欲望の装置

1 目的

2 方法

3 領域

4 時代区分

第五章 死に対する権利と生に対する権力

 

第一章 我らヴィクトリア期の人間

 

■「歴史的過失」とは何か

人々は17世紀初頭、人々のあいだで卑猥なもの(性的なもの)のコードは19世紀よりも緩やかであったといい、ヴィクトリア朝ブルジョワジーの時代になると、夫婦を単位とする家族が性現象を押収し、人々が性を口にすることを禁ずるようになる。

 

このような性と権力の関係を抑圧の関係として語ることが一般的に好都合であるのは、語り手の利益、つまり既成の秩序に対抗しているという意識、自分は体制破壊的であるということを示し、現在の悪を祓い、未来を読んで、その日の出の到来を早めるのに貢献していると信じる熱情による。(フーコーはこれを『経済的効果』と呼んでいる)。

 

■「抑圧の仮説」について

第一の疑い 「性の抑圧」は本当に歴史的に明らかなことなのか。17世紀以来性に対する抑圧体制が明らかになったのか。歴史的な問い。

第二の問い 権力の仕組み、我々の社会において働いている権力の仕組みは、本質において抑圧の次元のものなのか。歴史的―理論的問い。

第三の問い 抑圧の時代と抑圧についての批判的分析の間には、本当に歴史的断絶があるのか。歴史的―政治的問い。

 

・問題なのは、人間の性現象についての言説を支えている<権力-知-快楽>という体制を、その機能と存在理由において決定すること。本質的な点は、性について総体的な「言説事象」、性の「言説化」。

拒否、検閲、否認は、言説化や権力の技術や知への意志といった、局地的かつ戦術上の役割をもっている「部品」に過ぎないとする。

 

→目的は、言説的産物にとって支えでもあると同時に道具ともなっている「知への意志」を、はっきりと取り出してみること。言説の産出の決定される場と、権力の産出の決定される場と、知の産出物の場の追求。

 

■結論の眺望

・16世紀以来、性の「言説化」は、制約を蒙るどころか、逆にいよいよ増大する煽動のメカニズムに従属していた。知への意志は、「性現象の科学」を成立させるのに熱中していた。

 

→抑圧の仮説とそれが訴えかける禁止と排除の事象の裏を通過し、価値のある歴史的事実から図式的に出現させようとしている。

 

第二章 抑圧の仮説

 

1 言説の煽動 「性について、人は語らねばならぬのだ」

 

・性に関する言説の爆発、権力の行使の場における、性についての言説の増大。

e.g. 性について語ることを、制度が煽り立て、執拗に語らせようとする、カトリック教司教規律と告解・悔悛の秘蹟)

 

・人々はその言説から、欲望に対する強化、方向付けといった効果を期待し、結果的に、性について引き受けられる際限のない務めとして、自分のすべての欲望を言説にしようと努めるべしという言表作業の強制が行われる →「近代西洋社会の桎梏の誕生」とフーコーは形容。

 

・18世紀で性について語らせようとする計量的あるいは因果論的探求という形での政治的、経済的、技術的な煽動が生まれる。さらに、性は審判の対象となるだけでなく、行政の対象にもなる。

 

18世紀における権力技術の新しい様相としての「人口」問題

人口調節の経済学を通じて、「性に関する観察格子」が作られる。

 

子供のセクシュアリティの管理

世にも冗長かつ執拗なやり方で、子供のセクシュアリティを管理。

 

性についての言説を引き出すため活動を開始する2つの場(18−19世紀)

―医学「神経の病気」

―精神医学「倒錯行為に対して細かい裁判権を行使する」

 

2 倒錯の確立 「運用構造に従わない性的欲望形態を追い出すという務め」

 

多くの言説は、ひとつの基本的な配慮「人口の増加を保証し、労働力を再生産し、社会的関係をそのままの形で更新すること。経済的に有用であり、政治的に保守的な性行動を整備すること」を通じて、「取るに足らぬ」倒錯-早く性に目覚めすぎた少年、早熟な少女、いかがわしい召使や教師、同性愛者-を法的にますます断罪するに至った。性的に不規則なものを精神病に結びつけた。そしてすべての逸脱を特徴付けた。

→「道徳的狂気」「生殖神経症」「生殖感覚の錯乱」「心的不安定」といった刻印を一世紀の間に負わされる。

 

言説の急激な増大

@異性愛に基づく一夫一妻制に対する遠心的運動。

A少年期の性行動、狂人、犯罪人の性行動を問いかける。

 

行使される権力の形式

-快楽が現れうるところにはすべて監視の装置を設定、告白させるような際限のない矯正的言説を課す。結果として倒錯というものの組み込みと個人の新しい定義をもたらす。

-権力の新しい形態は、行使されるためには、恒常的で注意深く、好奇心に満ちている存在を必要とする。

-性的飽和の装置が生まれる。家族=一夫一妻の夫婦を中心とした社会の細胞であり、多種多様な点と機能的に結び付けられた<権力である快楽>の網の目でもある。

 

近代社会の倒錯

19世紀のブルジョワ社会は性的倒錯が炸裂してあからさまになると同時に分裂・解体もした。社会が身体と性の上に機能させた権力の型であり、性的欲望の細分化によって事を進める。性的欲望を排除するのではなく、個人の特殊化のありようとして身体の中に包合させる。権力はそれを避けずに、快楽と権力が相互に補強しあう螺旋構造によって様々な変種(倒錯者)を引きつける。

権力は性的変種を生産し固定する。

 

性の倒錯が生まれる過程

性的欲望の切り離し、濃密化や強化によって性と快楽に対する権力の関係は細分化し、多様化し、行動の内部に侵入する。このような権力の突出部に固定された性的欲望が定着する。それをフーコーは「道具である作用」と呼ぶ。

 

第三章・性の科学

歴史における性の「真理」を生み出すための二つの大きな手続き「性の科学」と「性愛の術」。

 

性の科学

西洋社会において見られ、性についての真理の言説を「告白」という形式を用いて産出し、それを科学的形態の中に成立させてきた知である。またそうした性に関する知を産出し、言説を増加させ、快楽を誘導し、権力を発生させる言説の実践メカニズムでもある。性の科学は、性的欲望は医学、病理学的プロセスをもって理解可能であり、判読すべきものであると位置づける。

 

性愛の術

日本、中国、インド、ローマ、アラブ社会に見られる。「真理」は人が経験した快楽そのものからひきだされ、快楽は快楽のために存在する。知は公開されればその効能と力を失うと考えられているゆえ秘密にされ、師が弟子に秘儀伝授の儀式の果てに伝えることができるとする。

 

■「性の科学」が性の「告白」をどのように科学的形態に位置づけたか?

@「語らせること」の臨床医学的コード化によるー尋問などあらゆる手段の導入

Aすべてに適応可能で、拡散した因果関係を公準として立てる―性が「あらゆることの原因」とされる

B性現象には本質的に潜在性という特性が内在しているという原理によるー性の機能自体の不明瞭さ

C解釈という方法によるー真理は「儀式」によって解釈され、構成される。性現象を「解釈すべきもの」に仕立て上げる(科学的言説の形成作業への貢献)

 

第四章・性的欲望の装置

 

1・目的

権力の「分析学」―権力の関係が形成する特殊な領域の定義と分析

分析対象は「王朝」そのものではなく、権力がコード化し、権力にとって表象の体系となることが少なくなるような型それ自体。歴史分析は性に関する本物の「テクノロジー」の存在を明らかにする。

 

2・方法「性についてのある種の知の生成を、権力との関係において分析する」

権力とはー特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称。

不均等で多種多様な力関係を統合するための、2つの戦略として、「政治」、「戦争」の形でコード化される。

 

権力に関するいくつかの提言(上記p.2

 

権力に関する4つの規則

@内在性の規則

A不断の変化という規則

B二重の条件付けという規則 -可能な戦術の特殊性による戦略の条件づけと、そのような戦術を機能せしめる戦略的覆いによるこれらの戦術の条件付けのこと。

C言説の戦術的多様性という規則 -言説は、力関係の場における戦術的な要素あるいは塊とする。

 

3 領域 「知の特権的対象、標的にして戦略拠点」

18世紀以降、性について知と権力の特殊な装置を発展させた4つの重要な戦略的集合(領域)を区別。

@女の身体のヒステリー化

A子供の性の教育化

B生殖行為の社会的変化

C倒錯的快楽の精神医学への組み込み

 

本章の研究対象は「性的欲望の装置」。キリスト教的セクシュアリティを出発点とし、19世紀に4つの戦略をもとに発展。上記1、2、4に加えて「人口調整」が条件となる。

 

「家族」とは、性的欲望装置における最も重要な戦術的要素のひとつであり、<性的欲望への組み込み>の主要な動因であるとする。

 

4 時代区分

 

17世紀の断絶と20世紀の重要な区分

17世紀の断絶 禁止事項の確立、成人の性的目標のみの評価、慎みの評価、強制的な恥の意識。

20世紀の断絶 執拗な性的禁忌から、婚前や結婚外の関係に対する寛容へ、子供の性的欲望に関するタブーも多くのものが廃止。

 

18世紀〜19世紀

18世紀末、新しい<性のテクノロジー>が誕生する。それは、教育(子供の特殊な性的欲望を目的とする)、医学(女性に固有の性的心理を目標)、人口学の軸(出産の計画的な調整)である。

性医学の身体に関する一般医学からの引き離しがあり、性倒錯の医学と優生学のプログラム(性は‘生物学的責任’であり、病気を未来の世代へと伝えてしまう、という種の病理学的資本の根本にあらわれてきた)という大きな革新。

 

19世紀末

性的本能を遺伝との相関性からひきはなし、すべての人種差別と優生学から切りはなす試みがなされる。

 

結論

すべての性についての技術の系譜は、その決定的な変化、移動、連続、断絶といった現象において、抑圧の時期という仮説と合致しない。むしろ不断の創造性、方法や手段の増殖が認められる。

→第一章、第二章参照

 

■ブルジョアジーと性の権力

セクシュアリテというものは本来的、歴史的にブルジョアジーのものであるとする。自らが発明した権力と知のテクノロジーにより、自分自身の性に地位を与える仕組みの中、己の身体の、感覚の、健康の、余命のもつべき政治的な高い価値というものを認めさせた。

ブルジョアジーは性を己が未来の健康の責任者であるとすることで、己が生と死とを性に結びつけ、子孫に対する責任から性に未来を投資し、性に魂を従属させた。

 

第五章 死に対する権利と生に対する権力

 

■権力メカニズムの変更

君主の至上権を特徴づける特権のひとつは「生と死に対する権利(生殺与奪の権)」であったが、権力が、服従させる力に対する管理、監視、増大、組織化といった「諸機能をもつ他の部品の一つ」にすぎなくなる傾向にある。

 

現在の死に対する権力は、生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力の補完物となる。

e.g 戦争、自殺)

 

■生に対する権力とは

17世紀2つの主要な形態において発展

機械としての身体を中心に定め、身体の調教、身体の適性の増大、力の強奪、有用性と従順さとの並行的な増強、管理システムの身体の組み込み等を「人間の身体の解剖政治学(アナトモ・ポリチック)」、すなわち規律を特徴付けている権力の手続きによって保証した。

 

18世紀半ばに、繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、それらを変化させるすべての条件である「人口の生-政治学(ビオ・ポリチック)」が生まれる。(上記p.1-2参照)

 

<生-権力>「ミクロな権力論」

―資本主義の発達に不可欠の要因であると位置づける。

 

生きるという現実は、もはや死の偶然とその宿命の中、浮上してくるにすぎない手の届かないものではなく、部分的には、知の管理と権力の介入の場へと移る

 

■「性」と「血」

性が政治的目的として重要性を獲得した。性は二つの<性に基づく政治的テクノロジー>のつなぎ目に位し、身体の生というものへの手がかりであると同時に、種の生というものへの手がかりでもある。性を規律の母型としても用い、調整の原理としても用いる。

 

血→象徴的機能をもつ現実(戦争の名誉、飢饉の恐怖、死刑執行人と死の刑罰)→人種差別

性的欲望→意味の価値を持つ作用(性的欲望は象徴ではなく、対象であり標的である。権力はそれを描き出し、増殖する意味としてそれを用いる。)

 

 

5・参考文献

「フーコー 知の教科書」桜井哲夫 講談社選書メチエ, 2001

「クロニクル社会学 人と理論の魅力を語る」 那須壽 有斐閣アルマ, 1997