――小熊英二さん『〈民主〉と〈愛国〉』を語る(上)

『七人の侍』をみて、「これが戦後思想だな」と思った

 

■「つくる会」に対抗したかった

――小熊さんにこれだけの大著を書かせた動機はなんだったのですか。

★前著の『<日本人>の境界』で戦後沖縄の復帰運動を書いたこととか、いろいろありますけれど、一つには90年代に「新しい歴史教科書をつくる会」が出てきたり、加藤典洋さんの『敗戦後論』をめぐる論争が盛り上がったりしたことです。私にいわせれば、あれは「戦争の歴史認識を論じる」というかたちをとって、「戦後という時代をどう考えるか」を論じていたといってよいと思う。「戦争」は「戦後」のネガであるわけですから、「あの戦争をどう位置付けるか」は、「戦後日本をどう位置付けるか」とイコールであるわけです。

 しかし当時の私の知っている範囲から見ても、議論の前提になっている「戦後」の認識が間違いだらけだということが、はっきり分かった。例えば小林よしのりさんの『戦争論』は、戦争に対する無知ばかりでなく、戦後史に対する無知に基づいて書かれています。

 ところが小林さんや「つくる会」を批判するにあたって、戦争の歴史認識が誤っているという話は多かったけれど、戦後の認識が誤っているという意見は非常に少なかった。つまり、小林さんや「つくる会」を批判する側も、戦後認識があやふやだということです。そこで戦後について、きちんと押さえておかなければいけないなと思った。

 それからもう一つ、私は小林よしのりの『戦争論』を読んで、共感はしなかったけれど、「これは売れるだろうな」と思った。記述は間違いだらけだけど、今の時代の気分というか、現代社会に対する漠然とした不満をつかまえていると思ったからです。

 たとえば『戦争論』の冒頭は、渋谷の街頭でサラリーマンがぼんやりした顔で歩き、女子高生が座りこんでいる絵が書かれて、「平和だ…。あちこちがただれてくるような平和さだ」「家族はバラバラ、離婚率は急上昇、援助交際という名でごまかす少女売春、中学生はキレる流行に乗ってナイフで刺しまくり」などと書かれている。そして「戦後の日本」は、アメリカに影響された「戦後民主主義」のもとでミーイズムと利己主義が蔓延し、モラルが崩壊してしまった時代であるとされ、それに対照させて「人びとが公に尽くしていた時代」としての戦争や特攻隊が美化されているわけです。

 つまりあの本は、正確にいえば「戦争論」ではなくて、「戦後批判論」なんです。もちろんこうした戦争認識、戦後認識は大間違いなのですが、ミーイズムにうんざりし、「公」と呼ばれるものを求めたり、何らかの形で政治や社会に関心を持ちたいという今の若者の気分はとらえている。だから『戦争論』は売れるだろうなと思った。

 それからほぼ同時期に、ある映画館で黒澤明特集をやっていて、見に行ったら初回が『七人の侍』だった。そして映画館は満員で、上映が終わった途端に満場の拍手になった。私はそのとき、「なるほど。こういうのが受けるのが、今の時代の気分なんだ」と思った。『<民主>と<愛国>』でも引用したように、『七人の侍』のハイライトの一つは、侍の主将が戦闘から逃れようとする農民に向かって、「他人を守ってこそ自分も守れる。おのれのことばかり考えている奴は、おのれをも亡ぼす奴だ」と一喝する場面ですからね。

 もっともこういう風潮というのは、あながち悪いことばかりでもない。最近、イラク反戦デモに多くの人々が集まったことが注目されましたが、それと小林よしのりの『戦争論』が売れるというのは、ある種共通の土壌から出ていると思う。つまり、「今の社会には不満だ。何か社会に関心を持ちたい」というエネルギーが、潜在的に鬱積している。そもそも小林よしのりさんも、薬害エイズ運動を経てきた人です。

 しかしそういう潜在的なエネルギーを、侵略戦争の賛美とか、「戦後民主主義はミーイズムを蔓延させたから憲法改正だ」とかいう方向にもっていかれてはたまらない。ここで戦後認識をきちんとしておけば、そういう潜在的エネルギーをよりよい方向にもっていけるのではないかと考えたのが、『〈民主〉と〈愛国〉』を書いた動機の一つです。

 まああとは、「つくる会」への単純な対抗意識ですね。「つくる会」の設立趣意書は、彼らが作る教科書の理想として、「私たちの祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です。教室で使われるだけでなく、親子で読んで歴史を語りあえる教科書です」と述べている。

 誤解を恐れずに言えば、それを読んで、そういうものがいまの風潮として求められているなら、私が彼らよりもっとましなものを書いてやろうじゃないかと思った。「日本人の物語」という部分はともかく、「祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる」という本を書いてやろうと。実際に『〈民主〉と〈愛国〉』を読んだ学生たちが、「戦争ってこんな感じだったんだ」「日本にも60安保闘争みたいなすごい社会運動があったんだ」とか言っているのを見て、あるていど成功したかなと思っています。

 

■黒澤映画が描く戦後という時代

 

――『七人の侍』の話が出ましたが、『〈民主〉と〈愛国〉』でも何度か黒澤映画についてふれていましたね。

★あの本では、現在の価値基準から戦後思想の限界を指摘することよりも、そういう思想が出てきた当時のメンタリティを再現することを重視しました。そういう敗戦直後の時代のメンタリティを理解するのに、黒澤の映画は参考になりました。

 先ほど話したように、ある映画館で黒澤映画の特集をやっていて、その最初が『七人の侍』でした。ちょうど研究の初期だったんですが、そのときこの映画を見直してみて、戦後のメンタリティというのはこういうものだったのかと、つかめた気がしたのです。

 『七人の侍』というのは、戦後思想の心情的な特徴を集約したような映画だと思います。例えば農民と侍の対比ですね。農民は卑屈で、自分では何も決断できなくて、権威に従うだけの存在。それに対して侍は、誇り高く自立していて屈することがない。『〈民主〉と〈愛国〉』を読んだ人にはわかると思いますが、丸山眞男や大塚久雄が批判した「封建的」な人間像と、「近代的」な「主体性」を備えた人間像の対比は、まさにああいうものです。

 そういう侍たちが、そのどうしようもない農民たちに竹槍訓練を施して、野武士に立ち向かう団結を築くわけですね。『〈民主〉と〈愛国〉』の注にも書きましたが、『七人の侍』が公開された当時、多田道太郎は、この映画は知識人と農民、いうなれば前衛と民衆が、いかに連帯できるのかというテーマを描いたものだと評した。黒澤明自身は、そんなことは考えていなかったと思いますが、そういうふうにみられる土壌があった。『七人の侍』の公開は一九五四年ですから、占領中のチャンバラ映画禁止が解けた直後の時代に作られたわけですが、それは同時に山村工作隊の時代でもあったわけです。

 一般の観客にしても、竹槍訓練の場面をみて、10年前の戦時中の記憶が蘇った人は多かっただろう。10年前に自分たちが経験した戦争では、実際の軍部や政治家は、作戦も拙劣なうえに官僚主義的で無責任で、おまけに卑怯で利己主義で、国民に多大の犠牲を強いたうえに敗戦の責任もとらなかった。そういう戦争を体験した人びとは、「本当はこんなふうに戦いたかった」という気持ちでみていたとしても不思議はなかったと思う。

 『七人の侍』は、いうなれば敗戦後の日本で、「理想の戦い」を描いた映画です。やむにやまれぬ自衛の戦いのなかで、みんなが相互の対立とエゴイズムを乗り越えて連帯してゆくわけです。知識人も一般大衆も、右翼も左翼も、共感する土壌があったでしょう。

 そして最後の場面で、侍の主将は「また負け戦だったな」という。負けたものこそ正しいんだというメッセージを残して、映画は終わる。日本はほんの10年前に負けているわけですから、「正義は勝つ、悪は負ける」というストーリーでは救われないわけです。

 そういうことを頭において『七人の侍』を見直してみると、丸山眞男にも竹内好にも鶴見俊輔にも、みんな相通ずるメンタリティを感じる。それから顔です。

――カオ?

 最近の映画とは、出演者の顔が違う。ちょっと曖昧な記憶なんですが、80年頃に映画監督の浦山桐郎だったと思いますが、「黒澤明さんはいい時代に映画をつくった。『七人の侍』では村人の脇役にいたるまで、みんなすごい顔をしている。もうあんな顔をした人間を集めることはできない」と言っていました。

 たしかに当時の日本には、戦争で殺人をしたことがある人、自分が殺されそうになった人、飢えや犯罪を経験した人、人間がそばで死ぬのを経験した人などがたくさんいた。しかも、まだ記憶が生々しいわけです。そういう人間の顔を集めて映画をとれば、それだけである迫力は出るでしょう。

 『<民主>と<愛国>』では、表紙の写真が好評だったんですが、やはり顔に味があると思う。47年の天皇の広島巡幸の写真で、原爆ドームの前で群衆が天皇にむかって叫んでいるのが写っているのですが、歓迎しているのか怒っているのか、喜んでいるのか泣いているのか、よくわからないような顔をしている。わけのわからない感情が人びとにたまっていて、とりあえず巡幸にきた天皇にむかって噴き出している、という感じを受けます。

 そういうことを念頭において、たとえば『仁義なき戦い』とかも見てみたんですが、ダメでしたね。73年の映画ですから、顔が全然違うのです。敗戦直後の焼け跡闇市を描いていても、雰囲気が出てこない。

 それで『七人の侍』のあと、その映画館の黒澤特集を一通りみてみました。それで感じたのは、『七人の侍』に限らず、黒澤というのはまさに「戦後」の監督だったということです。私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた、「第一の戦後」にあたる一九四五年から五四年までが、黒澤映画の一番面白い時期です。

 そのあと、原水爆問題を描いた『生きものの記録』が55年に公開されるわけですが、どこか歯車がずれはじめている。そのあとの『隠し砦の三悪人』や『用心棒』などは、映画としての完成度は高いのですが、もう時代とシンクロしているようには思えない。そして65年の『赤ひげ』を最後に、そのあとは「絵巻物語り」ですね。ものすごい大作なんだけれど、どこか空虚な感じになっていく。これはもう、戦後思想がたどった軌跡そのものといってもよいと感じました。

 『七人の侍』などに比べて有名ではないですが、そのとき見て印象に残っている黒澤映画に一九五〇年の『醜聞(スキャンダル)』があります。三船俊郎が新進画家の役で、志村喬が堕落した弁護士の役で出てくる。正義感の強い三船役の画家が、知人の女性の名誉毀損裁判で、志村喬の弁護士を雇う。そして、志村喬の弁護士は一抹の罪悪感をもちながら裏で買収されかかるんですが、そのとき三船と飲んだくれる場面が印象的です。

 志村の弁護士が住んでいる焼け跡のスラムに、泥沼がある。泥沼のモチーフは黒澤の映画に何度も出てくるわけですが、その泥沼に星が映っている。二人とも酔っぱらっていて、弁護士の志村喬の肩を抱いて三船が言うんです。「見ろ。あの泥沼にもこんなに星が光ってるじゃないか。どうしようもない人間でも……」って。そのシーンを見て、ああこれだな、これが戦後思想だと思った。後の時代からみれば歯の浮くようなヒューマニズムの「星」は、敗戦の焼跡とスラムの泥沼を背景にしてこそ、光り輝いていたわけですよ。

 それから星を眺める直前のシーンでは、汚い飲み屋で、三船や志村のほか、たくさんの客がみんな飲んだくれている。ちょうど年末で、一人の酔っぱらいが立ち上がって、「諸君、今年は本当にどうしようもない年だった。でも、来年こそは、来年こそは」と叫び、それからみんな泣きながら合唱しはじめるんです。この「来年こそは」「来年こそは」というのが、戦後思想の「進歩主義」を支えていた心情だったと思いますね。

 

■思想が栄える時代は不幸な時代

 

――戦後思想であれ黒澤映画であれ、戦争体験・敗戦体験が活力の源となっていた。そうした現象は戦後日本特有のものなのでしょうか。

★日本の戦後が特殊なわけではないでしょう。『〈民主〉と〈愛国〉』にも少し書きましたが、「フランス現代思想」として日本に紹介されたものは、じつは「フランス戦後思想」という側面があったと思いますね。年齢からいっても、アルチュセールと加藤周一、バルトと丸山眞男、ドゥルーズと鶴見俊輔、デリダと江藤淳などは、ほぼ同じです。

 戦争体験についても、ブローデルやアルチュセールは捕虜収容所に何年もいたりしている。レヴィ・ストロースも兵隊にとられ、そのあと亡命しています。そういう人たちの思想が戦争体験から何の影響も受けなかったと考えるほうが、かえって不自然でしょう。フーコーも、『〈民主〉と〈愛国〉』で引用したように、「私はほぼ確信しているのですが、その当時(第二次大戦当時)のフランスの若い男女の大部分が、まったく同じ体験をしたからです。それは、私たちの個人的な生への脅威だったのです」「そこにこそ、私の理論的欲求の核になるものがあるのですよ」と述べています。

 そこで考えると、フーコーは、なぜあれほどフランス共和国の公の理念である「近代」や「理性」を憎むのか。同性愛者だったからという理由も、もちろんあるでしょう。しかし思うに、戦前は人民戦線の共和国だったフランスが、ナチスに占領されて4年間ぐらいは、政治家や大人たちの態度がいきなりひっくり返って親独政権ができ、ユダヤ人狩りとかをやっていたわけでしょう。ところが連合軍が入ってきたら、またいきなり反ナチスにひっくり返った。そうした事態を10代後半でながめていたら、国家の掲げる公の理念なんて信用できない、という感覚が身についても無理はないのじゃないか。

 ついでに言えば、フーコーは吉本隆明とほぼ同世代です。吉本さんは明らかに、「聖戦」を掲げていた国家や大人が民主主義礼賛にひっくり返って、裏切られたという思いがある。ある時代に支配的なディスクール(言説)なり、共同幻想というものは、簡単にひっくり返るものなんだという感覚は、フーコーと吉本に共通していますね。フーコーの著作というのは、ある支配的な言説が一度ひっくり返り、またまたひっくり返って近代に至った、という筋書きばかり書いていたと思います。

 こうした体験をするという事態は、いつの時代のどこの国でも起こりうることです。それこそ現在、イラクやアフガニスタン、ユーゴスラビアで、人びとが経験していることでもあるでしょう。この本を書いていてつくづく思ったけれども、思想が栄える時代というのは不幸な時代ですね。

 しかし逆にいえば、不幸な時代のほうが、思想が栄えるともいえる。私は出版社で編集の仕事をしているころから、いろいろマスメディア上の文章を読んできましたが、著者があんまり真面目に書いていないなというか、依頼があったからとりあえず書いているなと思うような文章がたくさんあるわけです。あるいは、力んで書いているのだろうけれども時代とシンクロしていないとか、または「これは『ごっこ』だな」みたいな文章もある。

 それに対して、敗戦直後のものをいろいろ読んだときに、これは本気で書いているなという文章が多いことが印象に残った。もちろん敗戦直後にも、くだらないものはたくさんあります。しかし戦争と敗戦で生活が破壊され、みんなひどい体験をした時期ですから、さすがに真剣にものを考える人が多かったんでしょう。この迫力はいったいどこから出てくるのか確かめてみたいというのが、研究を深める動機の一つにもなりました。

 しかしその真剣さも、敗戦後10年ぐらいしかもたなかった。年代で言えば1955年、黒澤映画が時代とシンクロしなくなったのと同じ頃までです。やはり人間は、考えなくてすむ環境にいたら、ものを考えなくなるのでしょうか。敗戦直後は、本当に考えないとどうしようもない環境にいたから、考えたもいえますね。

――戦後思想というとすでに「終わった思想」という感じがして、ほとんど読みもせずに近代個人主義のエゴイズム、敗戦後のニヒリズムの思想とイメージしていました。

★いや、私も似たようなもので、研究するまでは詳しく知っていたわけではありません。 だけど詳しく知らないという感覚から出発したから、あのような研究になったのだと思う。戦後思想の同時代にいた人は、戦後生まれの人間が戦後思想や戦後社会のどこを知らないか、どこを新鮮に感じるかわからないから、ああした形にはまとめないと思います。

 ただ戦後思想が「近代主義」でエゴイズムだというのは、半分は正しいと思います。ただ、そこでいう「近代主義」や「エゴ」が、『七人の侍』の侍たちのようなイメージだったということは、今の人びとには当時のメンタリティを再現してみないとわからなくなった。

 まあそれに、戦後知識人たちを含めて人間は、わけてもインテリは、大なり小なりエゴイスティックなものですよ。丸山眞男も荒正人も鶴見俊輔も、基本的にはかなりひねくれたタイプの人間です。竹内好なんて、すごく内向的な人ですしね。

 例えば鶴見俊輔なんて、平和な時代に育っていたら、ただのひねくれ坊主で終わった可能性もある。丸山眞男だって、頭もいいし勘もいいけれども、もとは単なる優等生です。戦争がなかったら、多少時事的評論もこなす研究者で終わったでしょう。素質としては、いまマスコミに出ている評論家や研究者とたいして変わらないと思う。ところが戦争でひどい目にあった結果、時代や社会と正面から向き合わざるを得なくなった。

 丸山も鶴見をはじめ、敗戦直後にマルクス主義にストレートに行かないで、あえてそれ以外の道筋でもの考えようとした人達は、多かれ少なかれひねくれた人です。そういうひねくれ者たちが、戦争と敗戦の経験をくぐり、一人でひねくれているエゴイストではやっていけないと真剣に考えざるをえなくなって、戦後思想が生まれたわけです。

 だから60年代になって生活も安定してくると、社会と向きあおうという志向はいささか薄れてゆく。丸山眞男なんかも、67年頃の対談では、「天下国家論よりは音楽なんか聞いているほうが楽しい」と言っている。元々はそういうタイプの人なんです。だけどそういう人が、社会や国家のことを考えざるをえない時代にぶちあたってしまったわけですね。

――不幸な時代にはみんな真剣に考えたけれども、社会が安定し生活が豊かになるとともに戦後思想はその活力を失ってしまったと?

非常に平凡だけれども、そう言ってしまってもいい側面はあるでしょうね。

 だけど今の時代からみて興味深いのは、丸山眞男も荒正人も竹内好も、みんな共産主義や社会運動に幻滅した地点から再出発していたことです。一九三〇年代の共産主義運動が弾圧や武装闘争、リンチ事件などのなかで崩壊し、多くの元党員が転向して戦争協力に走ったのを見て失望を味わった世代なんです。それが敗戦でもう一度社会に向き会わざるをえなくなって、共産主義に頼らない思想を生み出そうと試みた。

 日本の社会運動の歴史からみてマイナスだったのは、そういう努力が「戦後民主主義」などと一括されてしまい、遺産が継承されなかったことですね。そして68年の全共闘運動以後に、丸山たち年長世代を批判して切り捨てた世代が、また弾圧やリンチ事件、そして共産主義運動への失望という径路をくりかえすことになった。

 『<民主>と<愛国>でも書いたように、60年代や70年代に新しい考えだと思われていたものも、じつは50年代に原型があったのに、若い世代が知らなかっただけというものもある。いつもゼロから始めて同じ失敗をくりかえすという、いわば堂々巡りの状況を何とかしたほうがいいと思ったことも、あの本を書いた動機になっています。