――小熊英二さん『〈民主〉と〈愛国〉』を語る(下)

度量の広さは大切なこと

 

60年安保の全学連と68年の全共闘

 

――60年安保闘争の全学連に関する記述は好意的ですね。

★まあ好意的といってもいいでしょう。ただし、彼らが賢かったとは思いません。冷たい言い方に聞えるかもしれませんが、全共闘運動や60年代の新左翼も含めて、20歳かそこらの人間が上の年代と縁を切って運動をやっても、思想的ないし政治的に賢いものが出てくる確率は少ないと思う。

 ただ60年安保闘争の全国民的な――あえてこういう言い方をしますが――盛り上がりをもったときに、全学連主流派はそれなりの役割を果たした。つまり若者の純粋さというか、直情径行な直接行動が、一種の起爆剤の効果をもった。

 国会突入を繰り返す全学連主流派のデモを、回りの大人たちは半分あきれて見ていたようですけれど、その純粋さや真摯さに刺激されて、運動が広がっていったわけです。それはいわば、枯葉がたくさんあるところにマッチをすったようなものです。

 学生という存在そのものも、60年と68年では大きく違っていた。60年にはまだ進学率が低く、学生という存在があまり大衆化していなくて、社会的に尊敬されていた。そういう「学生さん」ががんばっている、ということが人びとを動かしたわけです。

 大学の先生と学生の関係も、60年安保の時は慨して良好です。学生たちが突っ込んでいくのを、一緒にデモにきた先生たちが心配して見守っているという関係だった。竹内好が書いているように、学生たちが先生に、社会的な問題を考えるために学問を教えて下さいと指導を求めてくるという状況もあった。国会突入で死んだ東大生の樺美智子の遺稿集にも、運動もやりたいけれど、卒論も立派なものを書きたいと書かれています。

 68年は全然違う。全共闘の学生たちは「大学解体」をスローガンに掲げ、大学で勉強したり研究したりすることじたいがよくないという方向に向かっていった。よいか悪いかは別として、60年の場合には、樺美智子のように、学生らしく勉強もしたいけれど、その勉強をあえて放棄してデモに行くという姿勢が、一般国民に好評だったことは事実でしょう。

 60年安保闘争での学生運動というのは、ある意味で古いタイプ――発展途上国型の学生運動だと言っていいと思う。これも樺美智子が述べていることですが、労働者は生活があるから、生活に支障があるような闘争はできない。だから直接行動は学生が担うという。学生が特権層であることをはっきり意識したうえで、全共闘のようにその特権を自己否定するというのではなく、特権層としての役割と責任を担うという姿勢です。こうした形態は、途上国の学生運動によくある形で、中国の五・四運動や80年代までの韓国の学生運動などはこうしたタイプに近い。こういう姿勢が、庶民の尊敬と共感をよんだわけですね。

 『〈民主〉と〈愛国〉』が60年安保闘争の全学連主流派を好意的に描いているように見えるとするならば、それは私が意図して好意的に描いたというより、当時の多くの人々から彼らが好意的に見られていたからだと思いますね。私は当時の資料を集めて並べ、当時のメンタリティを再現しようとしただけです。

 ただし西部邁さんが自治会の不正選挙のことなどを回想しているように、当時の活動家たちが「純粋さ」だけでやっていたわけではないと思う。ここでいうのは、主流派のデモに参加した一般学生たちを含めた、総体に対する当時の評価の話です。

 それに対して、上野千鶴子さんと対談した時などは、全共闘と吉本隆明に冷たいと言われた。しかしそれも、当時の雰囲気のなかで、戦争体験世代の「大人たち」からは全共闘がそのように見られていたという事実を書いたつもりです。

 吉本隆明についていうと、彼の著作を集中的に読んだのは、今回が初めてです。理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。もしかしたら、20歳前後で読めば、もうちょっと違ったかもしれない。でも30代後半になって初めて読んだのでは、50年代から60年代の吉本さんが使う「反逆の息子」とか「壊滅的な徹底闘争」とかいうフレーズには、共鳴できないと感じた。

 ピエール・ブルデューは、フーコーを批評して「青少年向きの哲学者」と言っています。フーコーはそれだけの存在だったとは思いませんが、60年代の吉本さんの影響のあり方については、ちょっとそういう印象を感じますね。ああいう戦闘的ロマンティシズムというか、「壊滅的な徹底闘争」で「擬制」を倒せみたいな思想として吉本さんの著作が若者にうけてしまったというのは、全共闘や新左翼を政治的な観点から評価すれば――文化的な観点から評価すれば別の基準があるでしょうし、「政治」と「文化」がそうはっきり分けられるのかという疑問もあるでしょうが――幸せなことではなかったと思う。

 私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた見方では、吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果は、党派や社会運動、あるいは「公」の解体を促進したということだった。彼の力で解体したわけではないけれども、解体を促進する触媒としての機能を果たしたと思います。

 ただ吉本さんの文章は、おそらく当時から相当に誤読もされていただろうとも思います。だから吉本さんの思想が社会運動を解体したというと、反論する人もいるでしょう。あるいは『〈民主〉と〈愛国〉』で、吉本さんがじつは戦中に兵役を免れたことに罪責感をもっていて、その罪責感から「死ぬまで闘う皇国青年」みたいなイメージを作っていたことを書いたことで、自分の吉本イメージとちがって驚いたという人もいると思います。

 そういう人に幾人かお会いしましたが、そのときはこういう言い方をしています。吉本という人は、要するに思想家というより詩人なんだと。吉本さんの文章は、私が書いたようにその内容をダイジェストして、要するにこういうことを言っていますみたいな形にしてしまうと、特有の魅力が発揮されなくなってしまう。詩のあらすじを書いてしまうようなものですから。だから、「確かにあらすじはそうかもしれないけれど、私のあの感動した心はどうしてくれる」みたいなことをいう人の気持は、否定しません。

 だけどそれは、あくまで文学的な次元の話です。もし吉本さんや、あるいは江藤淳さんもそうですが、ずっと詩や文芸評論だけを書いていたら、私はこういう研究で彼らをとりあげる必要はなかったでしょうし、批判をすることもなかったでしょう。しかし彼らが政治評論を書いて、そういう方面で影響を与えてしまった以上は、当人も批判の俎上に乗せられることを覚悟するべきだと思います。

 

■柔軟さに学ぶ

――べ平連にはやけに好意的な感じがしました。

★最後の章はベ平連についても書いていますが、基本的には鶴見俊輔と小田実の思想について論じているのであって、ベ平連についての記述は最低限にとどめました。注でも、運動の経緯に詳しい人には、ベ平連の描き方が「やや概略的かつ公式的と感じられるかもしれない」が、「本章の対象は……彼ら〔鶴見と小田〕の思想がべ平連(とくに初期)の活動といかに関連していたかである」と書いておきました。

 ベ平連の活動も、65年に発足してから74年に解散するまで、いろいろな変遷があったのは一応知っています。べ平連も末端レベルまでいけば、鶴見さんや小田さんの思想とはあまり関係のない世界が広がっていたとも思います。しかし、別にそういうことを含めたベ平連の評価を書こうと思ったわけではないですから。

 私自身、鶴見さんと小田さんについて、ちょっと記述が甘いかなと思わなかったわけではありません。私も出版社にも長く勤めましたから、彼らや元ベ平連メンバーのいろいろな噂や評価も聞きましたし。しかし今回、あらためて鶴見さんの50年代の文章とか、小田さん60年代の文章とかを読んでみて、こんなに面白かったのかと再発見したことは確かです。これは小田さん自身が書いていることですが、人間は一生ずっと百点満点ということはありえないけれども、ある時素晴らしいということは誰にでもあるわけです。

 それから、鶴見さんと小田さん、そしてベ平連でこの本を終わらせたのは、あまり暗い終わり方にしたくなかったという理由もあります。60年安保闘争から全共闘運動、そして新左翼と進んでいったら、内ゲバの話にならざるを得ない。それで連合赤軍事件で終わったら、ちょっと救いがない。その点ベ平連は、ベトナムから米軍が撤退したあと、74年1月に役目が終わったということで解散していますし、内ゲバもほとんどなかった。ですから、これで『〈民主〉と〈愛国〉』もきれいに終わらせようと判断したわけです。

 書いていたときに考えていたのは、いまの20歳前後の何も知らない若い人たちが読んで、希望が持てるような本にしたいということでした。まかり間違ってこの本が戦後史の基本文献になったりする可能性を考えると、いくらかでも日本の社会運動に対して、希望があるような終わらせ方をしたかった。

 全共闘運動や新左翼にも、いい点はあったと思う。しかし20歳前後の、しかもほとんど男ばかりが集まって先鋭化していったのは、いい結果を生まなかったと思います。

 全共闘や新左翼のマイナス点の一つは、やはり年長者を切ったことだと思う。あれをある種のカウンターカルチャー的な運動だったとみなせば、年長者と決別したことで文化的に面白いものが出てきたという評価もありうると思います。しかし一方で、思想面や運動面では、実りの少ないものになってしまったのではないか。

 もちろん当時なりの事情があったろうし、一概には言えないと思いますが、例えば50年代前半の共産党の火炎瓶闘争時代や、内紛やリンチを体験した人間があるていど混じっていたら、ちょっと違っていただろう。新左翼の一番上の方には、年長者が一人や二人はいたわけですが、その一人や二人は、運動をより先鋭化しようとする一人や二人だった。そうではなく、いろいろな経験を積んだ年長者が例えば10%ぐらいいて、多様な意見を言っていたら、武装闘争の暴走や内ゲバの激化にはならなかったと思います。

 そういう点からいうと、ベ平連には、そういう年長者がかなりいた。事務局長の吉川勇一のように、活動家としてはベテランで、しかも共産党内紛期にリンチ事件の凄惨さを経験していた人が、裏方をやっていた。

 本を書いたあと、鶴見俊輔さんに会って話を聞いたのですが、ベ平連に警察のスパイらしい人が入ってきたとき、どう対処したかという話が面白かった。自由参加が原則だから入ってくるのは拒めないし、査問とかはやりたくない。しかたがないから、会合と称して夕飯を食べ、飲み屋に行き、深夜喫茶をはしごし、スパイらしき人が帰ってしまうまでそれを続けて、夜明け近くになってから重要なことを決めていたという。「食い倒れ作戦」とか呼んでいたそうですけど(笑)。

 またベ平連の脱走兵支援活動で、あるとき脱走兵の一人が気弱になって「もう脱走をやめて隊に帰る」と言い出し、ほかの脱走兵と喧嘩になってしまった。そういうときに、「裏切者」とか問い詰めてもしかたないから、鶴見さんは「せっかく脱走したんだから、隊に帰る前に日本で行ってみたいところはないか」と聞いて、みんなで銭湯に行った。それで午前中の誰もいない銭湯で、窓から日光が入ってくるなかでみんなでお湯に漬かっていたら、その脱走兵が気を取りなおして「やっぱり頑張ってみる」と言ったそうです。

 こういう姿勢は、ある意味では「いいかげん」ともいえますけど、ある意味では余裕のある知恵というか、柔軟さというか、太っ腹さともいえる。こういう姿勢が、連合赤軍などにもあったら、事態は違っていたでしょうね。

 ベ平連の組織論やスローガンそれ自体は、別に特筆してどうのこうのというものじゃないと思います。中心的な指導部が全体を統制するのではない、ある種のネットワーク型の組織というのは、工業化した社会の運動はみんな自然発生的にそうなっています。いまでは自民党だって、「新しい歴史教科書をつくる会」だって、ネットワーク型の組織になっているし、「普通の市民」とか言っています。

 だからべ平連から学ぶものがあるとすれば、組織論よりも「柔軟さ」というか「太っ腹さ」だと思う。それは、異なるものを排除しないという論理につながる。10のうちの1つでも意見が共通していれば、一緒にやればいいじゃないか。今回一緒にやるからと言って、次回も一緒にやらなくたって別にいいじゃないか。またの機会に一緒になるなら、それもまたいいじゃないかという、「来る者は拒まず、去る者は追わず」みたいな余裕の感覚ですね。それは「幅広く取り込む」とかいう、組織拡張志向とは別の問題です。

 本にも引用しましたが、66年ごろ吉川勇一が「先日のデモはとうとう40数人しか来なかったのですが……」とこぼしたら、鶴見俊輔は「驚いたなあ、40何人も来たのですか? 凄いですねえ」「小さいことはいいことだ」と言ったという。営利事業じゃあるまいし、「お客」の数さえ多ければ偉いというわけでもない。「幅広く取り込む」とかいうのは嫌らしいけど、こういう「来る人は歓迎します、来ない人はご自由に」の姿勢はいいですよね。

 

■社会運動があってしかるべき時代

 

――今後の日本の社会運動についてはどう思われますか。

★『〈民主〉と〈愛国〉』を読んで、なるほど戦争体験が生きていた時代には思想も社会運動も生き生きとしていた、それと比べると今の日本は本当にダメだというふうに思った方も、いらっしゃるかもしれません。しかし、あまりそういう発想の仕方をしても意味がないと思う。戦後思想は、敗戦直後にはリアリティがあったというだけのことです。時代が変わったらリアリティを喪失するのは当然です。今の時代には、今の時代に即した思想や社会運動のあり方を考えればいい。

 むしろ今の日本は、一時期よりも、社会運動が盛り上がる素地ができてきたように思う。まず「新左翼後遺症」が、30年たってようやく抜けた。私の身近にいる大学生にリサーチをかねて聞いてみると、「内ゲバ」という言葉を知らない者がほとんどです。「『爆弾』と聞いたら何が思い浮ぶか」と聞いても、「イラクに落とすヤツですか」とか答える。それと連動して、一時期あったような「社会運動は怖い」という印象が、ようやく薄れたという感じもあります。だからイラク反戦のデモなどにも、若者が屈託なく参加してくる。

 またこれは幸せなことではないのですが、不景気が続いている。これからもっと不景気になり、若者の失業率が上がってきたら、社会への不満が蓄積してくるだろう。これは当然、社会運動の素地になります。

 この3月に、イラク反戦デモに行って感心したのは、組織動員が事実上ないのに何万人も集まったことです。60年代には10万人とか20万人とかのデモも多かったけれど、あれは組織動員がかなり多い。組織動員なしで4万も5万も集まるというのは、戦後の社会運動史全体からみてもかなり珍しいことで、むしろ最大に盛り上がったと言ってよい。

 ただし私は、あの4万人、5万人が、今後の社会運動にいつも集まってくるとは思いません。一時のブームという側面は確かにある。またあの「屈託のない参加」が、これから「つくる会」の方に集まるか、反戦運動の方に集まるかはわからない。

 最初に述べたように、社会に関心を持ちたいという気分は若者に潜在しているようだけれど、それが右に転ぶか左に転ぶかわからない情勢にある。あるいは右にも左にも行かなくて、不景気が続いて不満がたまっても、犯罪が増えて治安が悪くなるだけかもしれない。そこで、そういう潜在的なエネルギーに、どういう通路を提示できるかというのが、思想や社会運動の課題になると思う。

 私が『SENKI』の読者に社会運動のことを述べるのは「釈迦に説法」ですが、研究を経て言えることがあるとすれば、さっき述べたようなある腫の「太っ腹さ」というか、度量の広さはあった方がいいだろうと思います。いつの時代でも、この機会に自分たちの組織を拡張しようとか、防衛しようとかいう打算でセコセコしているより、「来る者は拒まず、去る者は追わず」みたいな度量の広い姿勢の方が好かれるでしょう。

 それからあの本を書いて思ったのは、妙に勇ましいというか、大言壮語をする人は信用できない、ということでした。吉本隆明は、本当は日和見なのに、「壊滅的な徹底闘争」とか言う。吉本と同世代でも、鶴見俊輔は戦争中に慰安所の係員みたいなことまでやらされて、ひどい目にあって自分の小ささを思い知らされた結果、他人にもあまり過酷な厳しさを要求しない。だけど60年安保のときに、本当に死ぬ覚悟があったのは鶴見のほうだった。

 ヤクザだって、修羅場をくぐったことのないチンピラのほうが、できもしないような勇ましいことを言いがちでしょう。もちろん鶴見さんも欠点はあるでしょうが、この点に関しては吉本さんより鶴見さんの方が偉いなという感じがしました。

 それは、社会運動が停滞した時代を経てきた今の年長の活動家が、若い人たちに何を提示できるかという問題でもあるかもしれませんね。例えばいま20歳前後で、イラクの反戦運動から始めたという人が、「あの時は5万人も集まったのに……」と落ち込むようなことがあったら、「小さいことはいいことじゃないか。小さいデモの楽しみ方なら経験があるよ」とか平然と言える度量があるかどうかです(笑)。あるいは仲間割れしそうになって、「もうあいつは絶対に叩き出せ」とかなったとき、「まあまあ、いいじゃないか」と言えるかどうか。「頼られる大人」というのは、そういうものでしょう。

 3月のイラク反戦デモで、面白いと思ったのは、老若男女が来ていたことです。年寄りもいるし、中年もいるし、若いのもいる。女も男も子どももいる。どうみてもあのデモが、機動隊との衝突に発展するとは思えなかった。若者が血気にはやったら、きっと中高年が止めるだろうなという雰囲気がある。これはいいことだと思いましたね。

 80年代くらいの社会運動では、「中高年が多くて若い人が来ない」という言い方をよく耳にしました。だけどそういう言い方は、60年代末から70年代に、若い学生ばかりで構成されていた社会運動、年長者との対抗を掲げがちだった運動に参加した人びとの、時代的な感覚というか、あえていえば偏見だと思う。むしろ50年代には、日本の社会運動は学生とか若い人しか来ない、普通のおじさん、おばさんが来てくれないと言って嘆いていたんですよ。若い人が多い方が、ある種の活気はあるかもしれませんが、若い人が来れば偉いというわけではないでしょう。

 そういう意味では、思想も社会運動も、70年前後にできた型を、いろいろな意味で相対化できる時期に来たと思う。もちろん、過去の遺産や教訓は学んだ方がいい。私の場合は、『<民主>と<愛国>』を書いて学んだのは、やはり運動にしても人間にしても、度量が広いほうがいいな、ということです。