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■■編集長から(寄稿家のみなさんへ)■■

 Q:117への回答ありがとうございました。失業率が下がると、雇用は最悪期を脱し
たのではないか、ということがいつも言われます。いつものことですが、寄稿家のみ
なさんの回答を拝見すると、最悪期を脱したという言い方も可能だし、決してそんな
ことはないという見方も可能だということがわかります。
 もちろんわたしは、雇用は最悪期を脱したのか、という設問が不毛だと思っている
わけではありませんし、そういった論議に意味がないと考えているわけでもありませ
ん。失業率は重要な経済指標であり、多くのことを示唆しているはずで、それは寄稿
家のみなさんの回答に表れています。

 先日、『単一民族神話の起源』の著者である小熊英二氏と対談しました。対談は現
在発売されている雑誌「文学界」(文藝春秋)8月号に掲載されています。
昨年JMMで小熊氏の著書を推薦しました。実際にお会いした小熊氏からは非常に刺
激的な話を伺うことができました。
 詳しくは対談を読んでいただきたいのですが、わたしがもっとも印象に残ったのは、
「日本の共同体が崩壊しつつある」「日本の共同体がダメになりつつある」という言
説は不毛であるだけではなく、有害ではないかという氏の指摘でした。ダメになって
いるわけではなく、実態が変化しているのだ、というわけです。まったく正しいと思
いました。

 社会は理念で共同体の形態を選択しているわけではありません。狩猟採集社会では、
バンドと呼ばれる数十人規模の部族がその経済活動にもっとも適していました。おも
に人口の増加により、経済の効率化が求められ、人類は農耕を開発し、大規模な開墾
や灌漑や交通の整備が必要になって、数十人規模のバンドでは対応できなくなり、国
家の原型が誕生しました。
 部族の統合が進んで共同体の規模が大きくなり、それで大規模な農耕が可能になっ
たという説も、順序が違うだけで同じことです。人類は理念の元に国家を誕生させた
のではなく、サバイバルするために必要だったからそれを作ったのだとわたしは個人
的に考えています。

 わたしたちは、まず食料や水や住まいを確保し、そのための労働・交換・資源配分
のシステムを必要としました。たとえば家族システムにおいて、つい最近まで、つま
り高度成長以前まで、日本は農業中心の経済だったので、村社会や大家族制が効率的
でした。高度成長は農漁村の大家族制や村社会を解体し、都市部に大量の核家族を生
みましたが、それは製造業とオフィスワーク、つまり近代化の達成にもっとも適して
いました。

 ITの急激な進化と冷戦の終焉によって、日本の経済活動も変化しています。つま
り実態が変化しているわけです。
「実態のほうが先に変わっているのに、人びとの認識の枠組みが変化についていって
いない(対談中の小熊氏の発言より)」
 わたしたちは、家族や学校を始めとして、これまでわたしたちを支えてきたシステ
ムがダメになっている、と考えがちです。それは現在のシステムが、自明で、普遍的
なものだという前提に立っているからです。ダメになっている、という前提に立つと、
性急にソリューションを求めるようになります。しかもそのソリューションは旧来の
構造がもたらした文脈に沿ったものになりがちだし、あるいは旧来の構造の維持に努
めることにもなるかも知れません。

 ダメになっているわけではなく実態が変化しているのだ、という前提に立つと、変
化を受け入れた上で、実態を正確に捉え、これまでの認識の枠組みを疑い、
シュミレーションを行って、とりあえず変化に対応できるようなパーソナルな戦略を
持とうとするのではないでしょうか。
 さまざまな論議の中で、日本は、とか、日本人は、という主語が機能しなくなって
いるように思うことがこれまで多かったのですが、「実態の変化」の影響は個々の
ケースで異なるので、作家としてはその違和感も当然のことだったわけです。
 言葉の定義や検証を含めて、議論の前提を整備するというJMMの姿勢は間違って
いないと思いました。

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Q:118
 みなさんは沖縄サミットにどういう期待を持たれているのでしょうか?
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                                   村上龍

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JMM [Japan Mail Media]                 No.070 Monday edition
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                   独自配信:50,361部
                   まぐまぐ:19,258部
                   melma! :  988部
                   発行部数:70,607部(7月9日現在)

【WEB】    http://jmm.cogen.co.jp/
【MAIL】      jmm-info@cogen.co.jp
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【発行】      有限会社 向現(FAX 03-3599-0173)
【編集】      村上龍
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書評1

二者択一の思考

(前略)
 このような問題意識を抱いて今月の論壇を振り返ったとき、最も興味深く思えたのは村上龍氏と小熊英二氏の対談「『日本』からのエクソダス」(文學界8月号)である。この対談は、村上氏のいくつかの文学作品に錨をおろしながら進められているが、時代の読みとしても示唆するところが多い。
 この対談の基調にあるのは、個人と共同体の関係をいかにとらえるかということである。IT革命に即していうと、一方の陣営はそれはネットを通じて個人を引きこもりから解放するといい、反対陣営は逆に引きこもりを助長すると主張する。だが問題はそういうことではなく、本当の問題は個人と共同体の関係をどうとらえるかだ、と対談者は主張する。われわれはややもすれば、個人を集団に同調しないもの、集団から浮き上がった者として、否定的なニュアンスで語る傾向があるが、それは問題ではないか。このような思考の裏には集団や共同体を実体視し、しかも道徳的に善なる存在だとみる見方が潜んでいる。だから問題がパーソナルなところで起こっても、すぐに「日本がおかしい」とか「日本はダメになった」などと大状況の言葉で語るのだ−−と村上・小熊の両氏は論じている。つまり個人と共同体をあれかこれかの二者択一で考えるのではなく、個人のもつ個人的なるものを再検討せよ、そうすることによってこれまで自明視されていた共同体の方こそむしろフィクションであることが明らかになる、というのである。
(後略)
(間宮陽介、朝日新聞、2000年7月26日)


書評2

雑誌から話題の3点

 小熊氏は、村上氏の文学世界には、共同体に帰属しえない違和感が通底していると指摘、80万人の不登校の中学生がいたら80万種の悩みがある時代に文学は成立するのかと問う。村上氏は、それでも人間には他者との関係が必要、と切り返す。孤独の世紀末の文学論。
(あ、朝日新聞、2000年7月31日)


書評3

外国人の日本語作品

 (前略)
 「文学界」八月号では、社会学者の小熊英二氏が村上龍氏との対談で、二葉亭四迷が言文一致の文体を作るため、まずロシア語で書いて日本語に訳したという逸話を挙げ、「いったん英語で書いてみると、高級なレトリックが使えない分だけ、ものすごくストレートな書き方になって、日本語に訳してみたら、恐ろしく生々しい小説になったりする可能性ってないですかね」と語るなど、新たな日本語の模索に言及した。
 (後略)
(小屋敷晶子、読売新聞、2000年7月26日)


書評4

今月の推薦

 村上龍の『希望の国のエクソダス』(文藝春秋)、小熊英二の『インド日記』(新曜社)を読んで面白く思ったので、この二冊の本の著者の対談を読んだのだったが、案に違わず興味深かった。小熊氏が村上氏の「(日本が)崩れ始めている」という言い方に異を唱え、「現在起きていることは、けっしてあるものが崩れて、『だめ』になってきたのではなくて、変化しているだけだと思うんですね」と言っているところに共感した。本文中の南木作品にも、それはどこか共通するものであると思う。
 これまでの共同体や制度を守ろうとする人たちには、それは「崩れ」「壊れ」かけているように見える。しかし、それを「最高じゃん」と思う若い人たちもいる。
 「××崩壊」という表題の本はあまり信用できないのである。(筆者=川村にも『満州崩壊』という著書があるのだが……。)
(川村湊、毎日新聞、2000年7月27日)