戦後補償が問い直すもの

排除の線引き国籍だけか
二項対立議論の陥せい

 毎年八月になると、戦争に関する議論が新聞紙面を飾る。近年では「被害者意識から加害者の意識化」という流れもあり、アジアへの戦後補償などが「忘却されてきた問題」として注目されるようになってきた。

 しかしここで考えてみたい。忘却されてきたのは、アジアをはじめとした「日本人以外の人々」への補償だけなのか。

貢献度に比例


 たしかに、日本国籍を持つ人々には恩給などが支払われ、国籍のない人々がそこから排除されてきた。しかしそれは「日本国籍を持つ人間」のなかでも、軍人をはじめとする、政府から認定された人間に支払われたにすぎない。被爆者援護法は長年の運動でようやく実現したにすぎず、空襲や沖縄戦など被災者には補償はなかった。

 すなわち日本政府が支出をしてきた対象は「日本国籍を持つ公務従事者」が中心だったといえる。それはせんじ詰めていえば、「公務」というかたちで日本政府に貢献し、かつこれからも貢献が期待できる(日本国籍がある)人間にだけ支払った、ということである。しかもその金額は一般軍人よりも高級軍人に多額だったように、政府に対する貢献度や、政府部内での地位の高さに応じている。

 そこからは「日本国籍のない人間」ばかりでなく、「政府の認定する公務に従事していなかった人間」もが排除されていった。

 そこでは、日本国籍の有無は重要な境界の一つではあるが、唯一の境界ではない。 日本国籍がありさえすれば厚遇が保証されるなどといえないことは、沖縄戦の被災者の処遇や、中国残留孤児への対処からも明らかである。

 「日本人には戦後補償が支払われてきた」という認識は、「日本国籍のある高級軍人に支払った」ことを「日本人に支払った」と言い換えるトリックにはまったようなものである。

被害と加害の枠


 これは戦後補償問題に限らない。最近注目されたドミニカ共和国移民のように、「日系日本人」であっても政府から切り捨てられてきた人々は少なくない。参政権の有無にしても「国内の外国籍人」だけでなく「国外の日本国籍保持者」もつい最近まで排除されてきたのであり、「日本政府管轄内に居住している日本国籍保持者」だけが参政権を与えられていたのだ。

 また在日外国人は年金や保険制度から排除されているが、日本国籍保持者も明日にでも政府の認定する組織(企業)からリストラされれば、ただちに厚生年金制度の対象外になる。

 なぜこんなことを問題にするのかといえば、「被害者=アジア」「加害者=日本人」 という二項対立的な議論に、限界を感じるからである。この図式のなかでは、日本国籍を持つ人間にできることは、責任を感じて恥じ入るか、同情するかしかない。さもなければ「自分には関係ない」として議論を避けるか、「日本は悪くなかった」と歴史修正主義に走るか、ということになる。私は、自由主義史観をはじめとした右派ポピュリズムの温床は、こうした二項対立的な枠組みだと思っている。

国家のあり方


 「被害者」と「加害者」、あるいは「マジョリティー」と「マイノリティー」といったものは、国籍や民族といった基準で、実体的に区分できるものでは必ずしもない。国家が決めた線引きの外側に位置づけられれば「マイノリティー」 として排除される可能性は「日系日本人」にもありうるのだ。明治期いらい、日本政府は、政府に忠誠心と貢献を期待できる人間、ないし政府の「身内」の人間に優先して権利を与えるという方針をとってきた。こうした姿勢は現在でも、完全に変わったといえるだろうか。

 私は戦後補償問題は「加害者である日本人」が謝罪するという問題である以上に、 こうした国家のあり方を問い直すものであると思っている。そうであるならば、この問題は現在は「多数派の日本人」に位置している人々にとっても「他人事」に「同情」するというものではないはずだ。

(2000年8月7日、沖縄タイムス)