危険な大衆煽動主義/近代以降の勝手なアジア観
彼らこそ「自虐的」
「つくる会」の歴史教科書を読んで感じたのは、まず、その卑屈さだ。基準が、彼らが「左翼」だと思っているもの(実際には幻想だが)にあって、それに対する反論、弁明が多い。もう1つの基準は欧米で、やはりそれに対する反発が続く。その意味で、彼らの方がむしろ「自虐的」だ。
当然のことながらアジア諸国の反発を招いている侵略正当化の一連の記述は、先に述べた構造の中におけるアジア諸国の位置づけからくるもので、近代以降の日本のアジア観の傾向がよく表れている。それは、そもそも欧米との関係が先でアジア諸国は後。都合よく利用はするものの、ろくに知識もない、本当は関心すらないというものだ。
記述は、日本という国を欧米の基準で近代国家として認めてもらいたいがために、中国と朝鮮、そして日本の歴史はこうあって欲しいという願望、こうあったはずだという憶断が多い。植民地支配を正当化しているからよくないというレベルの問題以上に、自分が作りたい物語のために他のアジア諸国を材料に使う姿勢が気になった。
このように近代以降、連綿としてある日本のアジア観(アジア観というよりは欧米観のネガと言うべきだが)がよく表れている。
このような歴史教科書の記述は、公民の教科書に顕著に表れている彼らの思考回路から派生しているものだろう。結局、彼らなりの不安、危機感から脱出するための打開策として、「国家や公共心は大切だ」と唱える公民の教科書があり、歴史教科書に反映された歴史観はその主張を支えるためのものだ。
彼らにとっての一番の問題は、対欧米関係という形で展開されている現在のグローバリゼーション、もしくはアメリカナイゼーションと呼ばれる日常生活の変動についていけないことで、それに対してどう対処するかという時に、アジア諸国を材料に使って物語を作っているのだ。
視野の狭さと閉塞観
こうした彼らの思考は、旧来型の右翼ナショナリズムと同類のものと言えるのだろうか。私はむしろ今風のポピュリズム(大衆煽動主義)だと認識している。
大衆の不安をうまく汲み取り、その時々の潮流にうまく応じた物語を作るのがポピュリズムだ。今風というのは、不況をはじめ、日本の近代化の中で作られてきた旧来の枠組みが行き詰まって発生した様々な社会問題や、それにまつわる閉塞感の責任を他者に転嫁し、打破してくれそうな物語を提供している点だ。
政治の場では、55年体制で作られてきた保革の地盤が崩れて、ポピュリズムが出てきた。人々が「左右」の既存勢力に共に嫌気が差している閉塞感に乗った、そんな今風ポピュリズムを代表する存在が石原慎太郎・東京都知事である。
それを支えているのは、人々の視野の狭さだ。近年、ますますその時々の「瞬間最大風速」の気分や流行に流されるようになっている感がある。それが、政治の場面ではポピュリストの台頭という形に表れ、片やまともに広い視野で見れば日本の「国益」を損なう「つくる会」の教科書のようなものが出てくるということになるのだろう。とても危険な状況だ。
一方で私はこの問題を、そもそもは歴史認識の問題というより、教育現場の制度疲労の問題だとみなしている。「つくる会」のような主張をする人はいつの時代にもいるものだが、一部の教師たちがなぜ支持したかと言えば、彼らが教育現場の荒廃に相当深い危機感を覚えているからだ。
とくに歴史教育に関して冷戦崩壊後、何を価値基準にして教えていいか分からなくなってしまった一部の教師たちは、「生徒に喜んで聞いてもらえる歴史」を求めていた。生徒に喜んで聞いてもらえれば、それが右か左かというのは問題ではなかったと思う。学校教育や歴史教育の制度の問い直しも視野に入れないと、問題の根は絶てない。
こうした教育現場の危機感が解消されない限り、また同じような動きは出てくるだろう。それはもちろん、社会全体を覆う閉塞感と無縁ではないはずで、私たち研究者のやるべきことはまだまだ多い。
(朝鮮新報、2001年3月16日)