図式はナショナリズムとの共犯関係
グローバリゼーションの光と影
第一部国家のゆくえE
近年、「グローバリゼーションとナショナリズムの対立」という図式が語られる。しかし筆者は、両者は対立関係というより、共犯関係だと考える。
そもそもグローバリゼーションとは何だろうか。よく挙げられるのは、交通・通信技術の発達、文化の均質化、経済活動の領域拡大などであろう。
しかしこれらは、ナショナリズムの基盤でもある。幕藩体制から近代国家への移行は、藩を超えた交通の発達と、標準語の普及や地方文化の消滅、全国市場の成立などをもたらした。こうした交通の発達や文化の均質化がなければ、藩や村を超えた「日本」という意識は成立しえなかったのである。
そう考えた場合、グローバリゼーションとナショナリズムは、同じ現象の別側面だといえる。交通の発達や文化の均質化が、国境内で起こる場合にはナショナリズムと呼ばれ、国境を跨いで起こる場合にはグローバリゼーションと呼ばれるにすぎない。
相互に高めあう関係
そして両者は、相互に高めあう補完関係にある。まずナショナリズムの覚醒は、グローバルな他者接触の結果として発生するものである。明治維新が黒船の来航から起こったこと、これが蒸気船という交通技術革新の結果だったことは、いうまでもない。
さらにナショナリズムの形成は、グローバルな模倣関係によって行われる。明治政府が国旗を制定し、国家を作り、文化財を保護したのは、西欧のナショナリズム形成政策を学んだ結果にほかならない。ナショナリズムの特徴は、どこの国家も「独自性」を主張しながら、その「独自性」の主張の方法(歴史や伝統文化の重視など)が、どこでも同じである点にある。
また国家は、しばしばグローバリゼーションを加速する。明治政府は鉄道や港湾の整備、産業の育成、教育の普及などを促進した。これらは国家隆盛政策であると同時に日本を国際経済の一部に組み込む作業であった。
そしてグローバリゼーションと呼ばれる現象の多くは、国家の存在を前提として成立している。多国籍企業が国境を越えるのは、為替レートや平均賃金の相違、税制の優遇や環境基準の甘さなど、国家によって設けられた段差を利用するためである。世界が国家で分断されていなければ、多国籍企業が国境を越える動機は半減するであろう。
それでは、ナショナリズムとグローバリゼーションの対立と称される現象が、なぜ存在するのか。筆者はこれを、権力の配置から派生した問題と考える。
「ナショナル」と「グローバル」の最大の相違は、国家には主権があるが、国家を超える権力は存在しないという点にある。実際にはコインの表裏であるはずの両者だが、権力の問題に限っては明確な相違があるのだ。
そのためグローバリゼーションとナショナリズムの対立という議論は、多くの場合、この「国家にしか存在しない権力」の活用や正統性をめぐって行われているようだ。典型的な事例は貿易自由化の問題だが、「国民文化」の保護もその一環である。
国家の権力をめぐる問題
なかでも争点になっているのは、福祉政策を始めとした、国家の再分配機能をどう考えるかである。グローバリゼーションによる格差の拡大を嘆き、国家を擁護する論者は、この再分配機能に期待があると思われる。一九三〇年代のドイツや日本、現在の第三世界などに明らかだが、民衆を巻き込んだ草の根ナショナリズムも、格差に耐えかねた人々が、国家権力による再分配を期待した場合に台頭しやすい。
ところが問題は、こうした権力の問題でも、やはり国家とグローバリゼーションは共犯関係にあるということである。為政者のレベルでは国家の再分配機能を重視しないのが現在の潮流だ。そこでは、再分配の原資である国家経済そのものが、国際競争力の強化によってしか拡大できず、したがって再分配に予算を割くよりも、国際競争に勝てるエリートと産業を育成すべきだという論理が唱えられやすい。
その結果グローバリゼーションの被害者は国家に期待するが、国家を動かす為政者の方は、グローバリゼーションに対応した競争の強化を唱えるという図式が出現している。しかもそのグローバリゼーションへの対応は、「国際競争の勝利」というナショナリズムの名の下に進められているのだ。現実の世界は、グローバリゼーション対ナショナリズムというような、単純な二項対立では動いていない。両者を抽象的に対立させ、どちらか一方に肩入れするという議論は、その構図自体が不毛であろう。国家という制度をどう使いこなすにしても、国家とそれを超える動きが共犯関係として併存している状況を把握することなしには、現実的な議論は進まない。
(毎日新聞、2002年3月4日、夕刊)