[近現代そして未来を読む](1)/「<日本人>の境界」をめぐって/沖縄の100年-今・これから/「日本人」の枠組み問い直す/沖縄の近現代は対日関係・小熊/植民地文学研究にも示唆・星名/県民の問題意識にクロス・仲里
座談会出席者

小熊英二(おぐま・えいじ1962年、東京都生まれ。慶応義塾大学講師)

仲里効(なかざと・いさお1947年、沖縄生まれ。総合雑誌「EDGE」編集長)

星名宏修(ほしな・ひろのぶ1963年、兵庫県生まれ。琉球大学教授)

進行役・長元朝浩(前・学芸部長)

 「激動の二十世紀」が終わろうとしている。沖縄も近代化の流れに洗われ、ナショナリズムの波をかぶり、「日本人」で大きくゆれるなどほんろうされ続けた。沖縄をどう位置づけるか-アイデンティティーの模索は、県民についてまわった命題であった。それを読み解く視点として注目されたのが、近現代の「日本人」という概念を再検討し話題となった「<日本人>の境界」-沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで」である。著者の小熊英二・慶応義塾大学講師と、沖縄から文化情報を発信している総合雑誌「EDGE」の仲里効・編集長、台湾文学を専攻する星名宏修・琉球大学助教授の三人に、近現代の日本の「境界」に表れた「国民国家意識」や「課題」などを語ってもらった。

 - 小熊さんは、どういうモチーフでこの本を書くことになったのですか。

 小熊 がっかりされるかもしれませんが、沖縄文化が大好きで、沖縄に関心があって、沖縄の歴史をやったというのとはちょっと違います。自分の所属している日本という国民国家というものの揺らぎとか、出来上がり方、社会秩序がつくられるときの一番の問題点が集中的に表れる周辺とか、境界の問題をやってみたかった。そのなかで沖縄を取り上げさせていただいた。台湾や朝鮮、北海道もそういう形で触れました。沖縄にかなりの比重で割かれている本ですが、沖縄史ではないと思っています。
 歴史の研究者だと歴史上の事件や人物の固有性にこだわると思いますが、僕が一番関心があるのは、今どういう社会をつくっていけばいいのかということで、それを考えるためのケーススタディーとして歴史上の題材を扱っています。日本という国を研究するのも、自分が住んでいるからというだけでなく、ある時は欧米型と呼ばれる帝国主義的な意識を持ち、ある時は中国やアジアの民族に近い意識を持つなど、揺れているという興味深い事例だと思ったからです。近代日本は、いろんな形でのナショナルアイデンティティーの持ち方、国や社会のつくり方みたいなことが試みられた実験場のようなものだったと思います。

 - 本は、国民国家とナショナリズムの問題が大きくあって、そこから沖縄を見るという書き方なのですが、沖縄側からすると、なるほどこういうふうに書いたときに沖縄の近現代史の核心的な書き方ができるんだなあ、と感心したのですが。

 小熊 『<日本人>の境界』が、沖縄の近現代史をよく描きあげているという印象を与えているとすれば、沖縄の近現代の歴史はほとんどイコール日本との関係の歴史であった、と逆に言えると思います。この本では、沖縄固有の文化とか経済の歴史はほとんど取り上げていません。取り上げたのは、日本との関係でどういうアイデンティティーの展開をしたか、ということだけです。それでもなお沖縄の近現代の歴史をよく知る手がかりになっているとすれば、繰り返しになるのですが、沖縄の近現代の歴史は、すなわち日本との関係の歴史だったのだと。なかでも、日本という社会集団、国民国家に同化していくか、あるいは独立性を保つか、ということが沖縄の近現代の最大のテーマであったと思います。

 仲里 この本は、沖縄の人の問題意識にかなりクロスしている。一つの民族、一つの国家というこれまでの神話をいかに崩しながら新しい関係をつくりあげるか。これからの沖縄のポジションを見つめ直していく眼差(まなざ)しがあり、それが一方向だけでなく、時間的にも空間的にも多様な角度から照らし出している。「境界」という概念をキーに、沖縄と日本との関係の歴史を、東アジアのスケールの中で多角的に浮かび上がらせ、僕らの父母の世代やその前の世代が歩んできた痕跡や内在的な夢がこの本から見えてくる。
 琉球処分から反復帰論まで対象にしているのですが、僕らの時代体験にも一部重なっていて、僕らが経験し考えたことへの解答となる視点を与えてくれるという、かなり刺激的な本になっている。

 星名 僕は沖縄(出身)ではなく関西の生まれで、三年前、琉球大学に就職してきました。専門は日本植民地時代の台湾文学。沖縄は距離的に台湾に近いので面白いことがあるのでは、という期待はあった。実際、関西にいれば気が付かなかったかもしれない、戦前からの沖縄と台湾の交流などさまざまな問題が見えてきた。
 現在の研究テーマは、植民地時代の台湾人「親日」文学者が日本語で戦争に加担した「皇民文学」と言われている文学を調べています。研究主体である日本人の僕が、台湾人の戦争翼賛文学をどう読み、どう評価していくのか、という難しい問題がある。このテーマにたどりつく前は、抗日派の文学研究をやっていたが、いかに日本の侵略や支配に抵抗したのか、お決まりの結論に持っていけば、ある意味では楽だった。逆に、「親日派」の作品を当時の台湾人がどう読んだのかということを考えていくことは、結構しんどい作業だと思う。
 そういう問題意識と関連させるならば、この本の「朝鮮生まれの日本人」という章では、日本に一度賭(か)けてしまった朝鮮人が、そこから降りることが出来ずに、最後まで賭けざるを得なかった悲哀が取り上げられていて、大変面白かった。

 小熊 この本のもう一つの特徴は、朝鮮や台湾のことをかなり書きながら、独立運動派は取り上げていないのです。独立運動派の人たちは、多少迷いがあったかもしれませんが、「日本人」と「自分たち」を分ける境界をはっきりさせ、「日本人」とは違う民族としてのアイデンティティーを固めて、独立するという最終解答を持っていた。それよりも、「日本人」に同化すべきか独立してゆくかの狭間でふらふらしていた人の方に関心があったのです。なぜかといえば、こういう人々の存在のほうが、境界をはっきりさせようとした独立派よりも、結果として私たちの「日本人」の枠組みを問い直すことになったと思うからです。
 僕は、ナショナルアイデンティティーを固めて独立するという方向性が、民族問題の解答として力を失ってきていると思うのです。一九七〇年代で植民地の独立がだいたい一回りした後、民族問題は新しい段階に入ったと思います。世界各地で、もう「独立」が終わっても、なお民族問題が絶えないという時代になって、民族自決や独立が最終解答としてとらえられなくなっているのです。
 沖縄も、民族意識を高めて独立するということが最終解答としてすっきりと皆が受け入れるとは思われていない。かといって、もちろん日本という国民国家のなかに完全に同化しきって何の問題もないというのでもない。沖縄はいわば民族自決やナショナリズムが行き詰まった後の時代における問題が表れている象徴的な場所であるわけです。この本で、沖縄が大きな比重を占めているのはそういう理由からです。

『<日本人>の境界-沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』 小熊英二氏が一九九七年に東京大学に提出した博士論文を九八年七月に本にして出版した。日本が明治時代から、アイヌや沖縄、朝鮮、台湾の人たちをどのようにして「日本人」として組み込んでいったのか、そこに住む人々はどのように揺れたかを検証し、「日本人」が時代や状況により変動していることを明らかにした。七百七十八ページ。(新曜社・五八〇〇円)

[近現代そして未来を読む](2)/「<日本人>の境界」をめぐって/沖縄の100年-今・これから/「日本人」を選択できる・小熊/沖縄の揺らぎに可能性・仲里/台湾で"統治"に意識差・星名

 - この本(『<日本人>の境界』)でなるほどとあらためて思ったのは、日本人や日本民族という観念は固定した動かしがたい所与のものとしてとらえがちであるが、実はそれが歴史的産物であり、政治的なものによって時期時期、時代時代によって違う可能性も有り得たんだと。日本人、日本民族というのを徹底的に相対化し、なおかつ非常に心地良いのは、自分たちも選択肢があるんだ、という印象を受けた。

 仲里 この本の一番の特徴はいま言ったように、境界の揺らぎですね。沖縄も台湾も朝鮮も、境界の変動によって揺らぎを余儀なくされた。「日本人であって日本人でない」ような奇妙な意識を持った人たちの行き先が、一つは日本に同化して行く路線と、民族独立というかマイノリティーを確立していくという二方向性があった。ナショナルアイデンティティーを形成して独立を達成するという方向は、一つの解答ではあるが、抑圧の装置にも転化していく。
 この本で、沖縄の比重が大きくなったというのは決して偶然ではないと思う。沖縄が抱える「日本人であって日本人でない」というあいまいな輪郭や奇妙な意識を持った人たちのその奇妙さをどう自己相対化し、言葉を与えていくか。沖縄の人たちに「揺らぎはしんどいけど、そういう揺らぎも悪くないんだ。そこにこれからの社会を形成していく一つの可能性があるんだ」と言いきった。われわれが言おうとしてなかなか言えなかったことを言いきったのが、この本の一番の魅力だと思う。

 小熊 そう言っていただけるとうれしいですね。選んでいいんだ、自由な選択肢があるんだと思う心地良さがある、と言っていただけましたが、私自身もそれを感じたかったから頑張って書いてこれたのです。僕は、最初から図式を立てて書くのではなく、自分の中ではっきりしないものを考えたり位置づけたりしながら構成し直すのです。最終的な結論よりも、その結果に至るまで自分が考えた過程を読者にも共有してもらえればと思っています。取り上げた題材についての結論よりも、それについて考えた過程をみてもらえば、当初は関心がないと思っていた題材でも興味を持ってもらえるのではと思います。沖縄の人が、台湾や朝鮮について書いたところを読んでも共鳴する部分があったらうれしいのですが。

 星名 沖縄の人たちの感想は納得いったのですが、この本では台湾や朝鮮のこともたくさん触れています。朝鮮や台湾の方々はどんな感想をお持ちでしたか。

 小熊 私が聞いた範囲はほんの少しですが、賛否両論ですね。親日派に対して糾弾が甘いという声もありました。
 この本は、ナショナルアイデンティティーをがっちり固めていきたい立場の人からみると、ある種、気持ちの悪い本なのかもしれません。それまで自分とは関係ない親日派、裏切り者と思っていた歴史上の人物が、実は自分も経験した迷いをたくさん抱えていた、もしかしたら自分もこうなったかもしれない、というものを読まされるというのはあまり気持ちのいいものではないと思います。

 - 方言論争は、小熊さんもまだまだよくわからないことがあると書いていますが、沖縄でもまだ決着がついていないのではないかと思います。このように、本全体を通して、どちらの側にも目配りして、客観的な記述を心掛けているという印象を受けたのですが。

 小熊 世の中の問題について何が正しい解答か分かっていて、それをメッセージとして送ることが本を書く目的だったのであれば、政治運動をやるほうがよかったと思うのです。だけど僕自身は、何が正しいのか分からないから学問をやっているわけで、しかも問題の微妙さにこだわっているからこんなに長く書いてしまう。読者は僕の本を読んで、何か解答を与えられたとは感じないと思うのです。むしろ問題の難しさがますます難しくなってしまうかもしれない。読む人には申し訳ないと思いつつも、自分が考えているところまでは書きましたので、それを共有してもらって皆さんにも一緒に考えてもらいたい、という本です。私が答えを出して、それを人に示そうという本ではありません。ただ自前でほめるとすれば、そういう意味では開かれた本だと思います。
 これも性格だと思うのですが、歴史上の人物を取り上げる場合でも、僕がこの人の立場であればどうしたかって考えてしまうわけですよ。時代と場所を離れた人間が、問題の複雑さを捨象したうえで、すっきりした解答を出すのはある意味で簡単です。でも当時に生きていた当事者にとっては、そんなすっきりした解答には納得できないと思う。読者にとっても、当事者の抱えていた複雑さのレベルまで共有してもらった方が、歴史上の出来事から多くのものを考えさせられると思うのです。

 - 沖縄では方言論争というのがあったのですが、台湾ではどうだったのでしょうか。

 星名 これは大きいテーマで、なんと答えればいいのか、とっさに思いつかないんですけれども。ただ関係あるかどうかわからないけれど、しばらく前に話題になった『台湾万葉集』を書いた世代はもう七十代を越えていると思いますが、彼らはいまだに日本語による表現を続けている。しかも彼らの多くは、日本人の植民地支配と「外省人」のそれとは全く違うといいます。昨年末に台湾で開かれた「皇民化」をテーマにしたシンポジウムで、パネリストだけでなく会場からも「日本の植民地時代はよかった」という発言が日本語で飛び交ったのです。だからといって、彼らが自身のことを日本人だと思っているかと言えば、そうではないと思うのです。老人になって青年時代のことを懐かしがっているだけではないのか、という声もありました。一般的には戦後、国民党とともに台湾に入ってきた外省人は大陸で日本軍と戦ってきたわけですから、日本に対する意識というのは明らに彼らとは違うと思います。

 小熊 われわれは「日本」と呼ばれる土地や人間集団のすべてに実際にふれることはできないわけですから、「日本」という言葉で表現されているのは実体ではなく、イメージであるわけです。そうなると、「日本」という言葉がそれを発する人によってどんなイメージがかぶせられていたのかが問題になる。日本の植民地時代はよかったという台湾の人たちの言っている「日本」とは何なのか。それは現実の日本ではなくて、国民党による弾圧の中で生まれた幻想なのかもしれない。ところが、そうした願望を託された「日本」というものが、結果的にはその人を裏切っていくのですよね。沖縄でいえば、復帰運動の中でイメージされた「日本」がまさにそうだったわけです。この本では「日本」というナショナルアイデンティティーに多くの人が魅了され、最終的に裏切られていくという過程を書きました。この本の帯に「人間は国家に抗しうるか」と書きましたが、それは「国家の魅力に抗しうるか」ということなのです。

[近現代そして未来を読む](3)/「<日本人>の境界」をめぐって/沖縄の100年-今・これから/まだある二項対立思考・仲里/日本人か沖縄人か、に驚き・星名/先端的な関心呼ぶ沖縄・小熊

 仲里 本土と沖縄という二項対立の思考はなくなったという意見があるが、僕はそう簡単には断言できないと思う。方言を知らない世代が大多数を占めたとか、消費文化が浸透し社会構造が変わってきたという大きな流れはあるだろが、それぞれの世代の体験の中に累積された意識や無意識は、「未(いま)だ解き明かされない言語」のように依然として沖縄の現在的な課題としてあると思う。それはこの三年の動きを見ても、ある程度了解できるのではないでしょうか。ひとつの事件をきっかけにして露出したのは、そうした累積された記憶が現在に働きかける力です。歴史は一方向に直進的に進みゆくのではなく、歪(ゆが)んだりする。その歪みに沖縄という場所の難しさがある。かつてのようなルサンチマン(憎悪・敵意)と言うか、コンプレックスというか、そういうものを込めながら考えた対向軸ではなくて、もう少し開いた感じの動きが出てきたことはあるが。

 星名 沖縄に来て驚いたのですが、「あなたは日本人だと思うかウチナーンチュだと思うか」という質問が成り立つ。そういう問いが成立すること自体が驚きだった。例えば「あなたは関西人ですか、それとも日本人ですか」などという質問は、おそらく誰もしないだろう。だけど沖縄ではごく当たり前の問いであって、「自分は日本人であるけど、それよりもウチナーンチュであることにアイデンティティーを感じる」という人の割合がかなり高い。ルサンチマン的な二項対立ではなく、ウチナーンチュであることに対するある種の楽天性がある。言葉の問題でも、若い人たちはウチナー・ヤマトゥグチを肯定的にとらえている。

 小熊 沖縄で土着の文化が薄れてきているといいますが、必ずしも完全な形で残っていなくても文化的アイデンティティーは成立するんです。むしろ沖縄内部の小さな地方的なものが消失した方が、「沖縄」という単一のアイデンティティーは成立しやすい。そして、その「沖縄」は、ヤマトに対しての「沖縄」というアイデンティティーです。沖縄内部での関係だと、首里とか名護とかの意識があるが、ヤマトに向かいあうと「沖縄」というアイデンティティーでまとまる。ウチナーというアイデンティティーの持ち方は、いいことかどうかは分からないが、この百年間は「ヤマト」に対しての「ウチナー」だった。
 沖縄の近現代史はヤマトとの関係の歴史だったと最初に言いましたが、日本という国民国家に所属していて首都が東京にある限り、「ヤマト」に対して「ウチナー」というアイデンティティーを抱くという状況は多分続くでしょう。一般的な差別は薄れてきている部分はあるが、政治関係では対等でない関係がはっきり残っているから、三年前のような事件が起きるとバーっと強烈な「ウチナー」意識が吹き出してくる。

-この三年来の基地問題に関して、沖縄の主張に好意的な本土の文化人が「独立した方がいい」と言っている。そう言われると逆に沖縄の方が途方に暮れてしまうところがある。

 小熊 一八七九年の琉球処分から不幸な関係が続いているが、この本がヤマトでも読まれているというのは、もはや物珍しい文化が沖縄にありますという次元の関心だけではなくなってきている。沖縄の置かれた政治的位置が、ヤマトでも本当に関心が持たれる時期に来ているのかな、という気はします。
 今の沖縄に対する関心は、国民国家の行き詰まりのなかで、しかし同時にマイノリティーが民族自決によって新しい国民国家をつくるという方向が対案として限界にきているという状況を背景にしています。つまり、独立も出来なければ、同化もしきれないという沖縄のある意味で中途半端な状態が一番先端的な関心を呼ぶ位置になっている。

-昨年の知事選で革新陣営が「ウチナーンチュの誇り」ということを言っていた。「ヤマト政府」対「ウチナーンチュの誇り」の闘いなのだと。復帰から二十年以上も経ってこういうことが依然として語られている。世代交代が進んでいてもそういうところは変わらない。

 小熊 「ヤマト」対「ウチナー」という図式が不幸な歴史の産物であるという観点から言えば、ふっきれた方が望ましい。しかし不平等な関係が解消されていない間は、対抗意識の方も簡単にふっきれてはいけないのもまた事実だと思う。高校野球の場面までヤマトとの代理戦争をひきずるのはどうかと思うが、選挙の場合、実際に基地問題がかかっているのだから言ってもいい、という気はする。

 仲里 高校野球の話が出ましたが、「スポーツはスポーツなんだ」という声がある一方で、これで本土並みになったとか、まだなっていないとか、本土との距離を測る指標にするような、社会的な文脈で読む見方がある。スポーツを文化的、社会的な文脈で読む、あるいは読み直す土壌は一体何なのか、そこまで問わなければ。ここは、やはり奇妙な場所です。問題はそうした奇妙さを成り立たせる基盤を掘り起こさなければ、読み解くことはできない。

 小熊 社会学的な言い方をすれば、劣位にある集団の若者は通常の社会的上昇の機会が限られているから、だいたい芸能界かスポーツに希望をかける。「在日」やアメリカのエスニックマイノリティーの場合もそうです。私も大学の沖縄関係の講義でアンケートをとると、必ず安室奈美恵やSPEEDを例に出してヤマトと平等になったとか書いてくる人がいますけど、それが平等の証(あかし)だと受け取られること自体が差別の構造を表している。野球と芸能界の代理戦争で勝ったと言われては不幸なことだと思う。

 星名 確かに高校野球に皆が釘(くぎ)付けになっている状況には、やはり違和感を覚えます。

 小熊 例えばビートルズのメンバーにはアイルランド系が多い。イギリスにおけるアイルランド系は日本の「在日」みたいなもの。ジョン・レノンは実際に「アイリッシュであること」という歌も書いている。だからマイノリティーとしての魂の震えのようなものが全世界に通じるというような見方もあります。沖縄から芸能界に進出する人が多いのもそういう文脈で語れるかもしれませんが、アーティスト本人はそうした読み方をされるのを非常にいやがることが多いですね。

[近現代そして未来を読む](4)/「(日本人)の境界」をめぐって/沖縄の100年-今・これから/国家の誘惑、まだ強い・星名/国民国家に代わるものを・小熊/沖縄には境界思考必要・仲里

- 沖縄の歴史を五十年ぐらいの単位で見た場合、今はウチナーンチュ自体がものすごい勢いで変わりつつある時期のような気がします。

 小熊 案外、いつでも変わり続けていくのではないか、という気がする。例えば一九四〇年代の方言論争の時に、昔は言葉を聞けば、どこの村のどこの辻の人間で、その階級まで分かったのが、最近はせいぜい那覇か宜野湾かぐらいしか分からない、と書いてある。そういう地域的なものが失われていくと「沖縄」という単一のアイデンティティーが発生してくるわけですが、文化が失われるからアイデンティティーを求めるということも多分にある。

- 失われつつあるから、その反動で求める動きが出てくるというのは確かにある。

 仲里 揺れ方がいかにも沖縄的。独立論の問題にしても、周期的に、社会的な変動期に絶えず見果てぬ夢のように現れてはまた消えていく。それが国民国家、ナショナルアイデンティティーに回収されていく方向にはいかないで、その手前で折り返し、歴史の暗がりの中に戻っていくような形をとる。振り子のように揺れながら、反復されていくところが面白い。

 小熊 いろんなことを考えながら書いたんですけど、沖縄や朝鮮を描く際に境界とか周辺という呼び方をしていいのかな、とも思ったんです。境界とか周辺というのはあくまでも中心の側から言う言葉。沖縄に住んでいる人のことを、東京からあなた方は周辺で境界だという位置づけをしていいのかと。沖縄の人にとっては、沖縄が中心でいい。それでもこの百何十年かの歴史の中で、結果的に政治構造の中で周辺という形に組み込まれたことは事実。そしてその中でアイデンティティーについて悩み、考え続けた人々のいた地域であるということも事実だからそう書いたわけです。さらに言うと、これは沖縄のことだけではなくて、朝鮮や台湾の人々も同じようなことで悩んでいたし、現在のヤマトの人々の中にも同じ傾向が出てきた。国民国家の揺らぎのなかで、全世界的にアイデンティティーについて考える人たちが増えてきたのです。そういう意味において沖縄の普遍性が出てきている。

- 「境界」ということに対し沖縄の中から二つの反応が出てきた。一つは自分たちが中央だという考え方。もう一つは、境界にいることをいったん受け入れ、境界に居続けることの面白さを感じている人が出てきた。昔のようなコンプレックスや反発はあまりない。

 小熊 「EDGE」七号で、目取真俊さんがインタビューに答えて、境界に生きていることはある種の文学が生まれたりする可能性もあるが、基本的には非常にしんどい位置ではないかと言っている。私自身、境界に位置していること、「日本人」であって「日本人」でないことは、一部のポストコロニアル論で称賛されているようなかっこいいものではなく、当事者にとってはむしろ悲惨でしんどくてどうしようもないことである点は十分に描きたかった。しかしなおかつ、そこに可能性があるということも書きたかったのです。安易にかっこいいということではなく、ちょうどマルクスがプロレタリアートをそう描いたように、矛盾が集中しているからこそ変革の場となる可能性を秘めたものとして描いてみたかった。。

 仲里 「EDGE」は地理的な概念であり、時間的な概念であり、関係概念でもある。そういうトポロジックな複数のチャンネルを持つことで見えてくるものがあると思う。沖縄の歴史観を立ち上げていく場合、境界からの思考とか、まなざしとかはどうしても必要だろうというようなことはあった。そういう意味で『<日本人>の境界』は「境界」をひとつのキーにしながら、歴史を読み解いている。その読み解いた歴史がまた現在的であるということは、沖縄の人が読んで非常に勇気づけられる。

 小熊 それはうれしい言葉ですね。同じくらいうれしかったのは「読んで気が楽になった」と「在日」の方に言われた時。「日本人になりきるか、朝鮮人としての自覚を持つかのどちらにも徹しきれず、悩んでいたのだけれど、考え続けていてもいいのだと感じた」という意味だったのですけど。

 星名 境界にいることのしんどさと同時に面白さという話ですが、結論のところで、日本人であって日本人でない存在を取り上げてきて、国民国家の論理を相対化する可能性を問うている。ところで、僕は台湾について考えているわけですが、やはり国家の誘惑、国家の魅力はすごく強いのだな、と読みながら感じた。現在の台湾の宙ぶらりんな状態は、面白いのではないかと、人ごとなので気楽に考えているわけですが、やはりそうではない、と言う人も台湾にはたくさんいる。新しい国家をつくりたいという人に対して、今は口ごもるしかないんですけど。

- 国民国家の揺らぎということが言われながら、それでもなおかつ揺るぎない国民国家というものがある。国民国家を解体するといっても、すぐに世界連邦をイメージすることもできない。今できるのは国民国家の中でできるだけ自由になっていくという感じなのか。

 小熊 先進国ではそうですね。でも私は、基本的に国民国家という体制は長くはもたないだろうと考えている。国民国家の揺らぎとかズレは、日本とかアメリカなどで起こっているのではなく、ルワンダや北朝鮮で起こりうるのだと。アメリカなどは典型的なのだけれど、国民国家の揺らぎに対して多文化主義を対案にして、多様な民族文化を認めますよということができるためには、ここが世界で一番いい国だという意識を国民に持たせられるだけの経済的な豊かさが必要なんです。そう思わせられるだけの豊かさがない国から崩れていくだろうと思うんです。そういう意味で、私は国民国家という体制は長くもたないと思う。だから今後は、好むと好まざるとにかかわらず、国民国家に代わるものを考えなくてはいけなくなるでしょう。(おわり)