このテキストは基本的に、 Karyn C. Rybacki, and Donald J. Rybacki, Advocacy and Opposition, An Introduction to Argumentation, New Jersey, Prentice-Hall, Inc., 1986. を抜粋・翻訳したものです。疑問などがある場合は直接原典にあたって下さい。論理的に主張するにはどうしたらいいのかを悩んでいる、入門段階を終えたディベート初級者の復習用にお奨めします。
さて、みなさんは小学生の時に文字の書き方は習ったと思います。九九も暗記したでしょう。これらは、生きていく上で欠かせないものです。しかし、ものの考え方はどうでしょう。小学校からまた例を引くなら、みなさんは読書感想文をどう書きましたか?やり方なんてあってないようなものだったはずです。今まで、日本の教育ではものの考え方は教えてきませんでした。教えることのできる人はもちろんいません。でも安心してください。ディベートをやっていけばそれが実践的に身につきます。それでは、論証の原理を見ていきましょう。
論証の本質
私たちは日々の生活の中で、私たちに影響を与えようとしている様々なものに囲まれています。友人や家族もそうですし、もちろんマス・メディアなどもそうです。友人は金を貸してくれと言うかもしれません。家族は手伝いをしろと言うでしょう。新聞には減税をしなければならないと毎日書かれています。実際、論証(・主張)とは、推論 (reasoning) と証拠 (proof) によって考え方や行動に影響を与える、言われた・書かれた言葉などによるコミュニケーションの技術なのです。このことからも分かるように、論証(・主張)とは「他者」に向けてなされるものです。しかしそれと同時に、「自分」が何をいかに考えているかをまとめるためのものでもあることを忘れてはいけません。
論証の効用
論証を学ぶことは意思決定を行なう上でも良いのです。何より、「真実」に到達するための信頼できる手段ですし、その人の柔軟性をも向上させます。つまり「偉い先生が言っているから」とか「昔から続いているから」といった理由に捕らわれなくなるのです。さらには「他者」が自分の考えや行動を変えようとしていることを嗅ぎ取ることができるようになります。なぜなら、その主張は論証の過程をたどっているはずなので、それがどのような構造なのか分かることができるからです。その上で、正しい主張ならば採用すればいいでしょう。もし間違っていると感じたら、どこがおかしいのか説明できるので完璧です。
論証の限界
しかし、説得 (persuasion) がヒトラーという悪い例を持つように、論証にもその限界があります。何より人間がやることという限界がありますし、技術のある人が使えば浅い議論でも効果的に見せかけることができます。また、聴衆はすべてを検証する時間・手段を持たないので論者は倫理的な責任を果たさなければなりません。そのためにしっかりしたリサーチを行なうとともに、共通善 (common good) を知っておかなければなりません。例えば「妊娠中絶は基本的な選択の権利なのか殺人なのか」は、どちらが正しいのかの答は究極的にはその人の価値観によります。つまり、リサーチをしただけでは答は出ないのです。
プリザンプション
すべての論証は現存するものによる象徴的な根拠 (ground) によって行なわれます。そしてプリザンプションとは論争においてどちらが先に論証を行なうかを特定するための用語なのです。 人工的なプリザンプションは(アメリカの)法制度から来たものです。つまり推定無罪とは、社会的に受け入れられている慣習によって独断で決められたものでしかないのです。実際、フランスでは逆に、無罪であると証明されるまでは有罪であるという仮定がなされます。自然なプリザンプションとは、自然の秩序の観察から来るものです。変革を求める者は、単にそれが今存在しているからという理由で、プリザンプションを相手に与えるのです。未知の戦場に打って出るよりも、要塞に籠った方が安全だという考えと同じです。繰り返しますが、自然なプリザンプションとは私たちの周りの世界を反映したものなのです。プリザンプションは、聴衆が何を受け入れているのかを示しているのだと仮定し、論証するかの参考なのです。逆に言えば、聴衆によってプリザンプションは変わります。
立証責任
何らかの主張を行なう人は、それを証明する責任があります。このことを立証責任と呼びます。プリザンプションの段落でも書いたように、現状が受け入れられていると仮定するならば、それを変えるためには「なぜそうすべきなのか」を論じなければなりません。そのことはつまり、聴衆によってどの程度の証明で充分なのかが変わることをも意味します。またもちろん、改革を望む者の方が立証責任が重いのもそのためです。現実でも、改革派も現状維持派も論証できなければ、結果として現状は維持されるでしょう。
プライマ・フェーシー・ケース
プリザンプションを保留させ立証責任を満たすようなプライマ・フェーシー・ケースでなければ論争に敗れるでしょう。プライマ・フェーシーとは、もともとは「一見して」 ("at first sight") という意味だったものが転じたのです。
論題の本質
論題とは議論の範囲、立証責任とプリザンプションの方向を示すものです。
定義のための用語を選ぶのは、論者双方と聴衆のために明確にすることが目的です。論題は意味の枠組を作りますが、双方はそれを組み替えても構いません。肯定側は立証責任を負い最初のスピーチを行なうので、彼が望む変革を合理的な聴衆に理解してもらうために定義を行ないます。しかしながら否定側は必ずしもその定義を受け入れなければならないわけではありません。定義が議論の第一歩なのです。どちらが正しいかは聴衆が判定します。ですので、一般的な定義を使うのが1つの手です。
次に、変革の方向を特定する(プランを示す)必要があります。例えば「メディア規制」といっても、メディアはテレビなのか新聞なのか全部なのか、規制の内容は何なのかを示さなければなりません。さらに注意すればテレビといっても報道からバラエティーまで多様です。混乱させないためにも明らかにさせましょう。(変革のための、)現状とは異なる選択肢が示されないと議論する意味はありません。
さらには、鍵となる論点を明らかにしなければなりません。
定義の過程
定義のルールは、いくつかあります。その語で表せるものをすべて含ませる・不要なものを除く、という方法。論の文脈に会わせる、感情的な言葉を使わないことも大切です。また、「公式」な定義は分かりにくいですし、もちろんその言葉自体よりも分かりやすくする必要があります。定義をする必要がある語は、いくつかの意味を持つもの、漠然としているもの(自由・民主主義など)、専門用語、新語、新造語(略語や新興分野の語)などです。その方法は、同義語を使う、機能を示す、例を示す、権威(事典など)を参照する、段階を踏む(AなのでB)、(法則・現象などにおいて)反応を説明する、反対語で説明する、などです。
忘れてはならないのは、定義は議論が発展するのを助けるということです。
論題の種類
事実命題はA=Bという二者の関係を示し、直接証明します。価値命題は価値の有無であり、価値基準を通じて証明します。政策命題はある行為が行なわれるべきか否かに関してであり、下位の事実・価値命題の成立を通して証明します。
リサーチしなければならないことは分野によって異なりますが、議論を構成する一組の要求されている要素はどの分野にも適用できます。論ずるトピックが多様なように議論の質も多様なので、ここではトゥールミン・モデルを学びます。
第1段階
クレイム・エビデンス (ground) ・ワラント(論拠)がまず重要です。なぜなら、論証・主張はエビデンスがワラントを通してクレイムに至る動き(が受け入れられること)だからです。あなたが読んだり聞いたりするものに、必ずしもこの3つが揃っているとは限りませんが、これらが論の構造の基本で、推論の過程を表すものにはかわりません。
クレイムには事実・定義・価値・政策があり、これだけでは成立せず何らかの証明が必要です。エビデンスは、実験の観察・統計・専門家の意見・個人的知見・常識・議論のそれ以前の段階で認められたことなどで、事実や意見の情報でクレイムを証明するものです。クレイムは必ずエビデンスで支えられていなければなりません。クレイムだけでは暫定的な仮説・仮定に過ぎません。例えば「国営放送は重要な情報を多くの国民に与えている」というクレイムに対する論理的な反応は「重要とは何か?」「多くのとはどの程度か?」などの疑問でしょう。クレイムの強さはエビデンスによります。ワラントは「なぜなのか」を示すもので、すでに正しいと認められているものに基礎をおきます。つまり、常識・慣習・社会規範・自然法・法原理・法令・経験則・数学の公式などです。これにより、適切なエビデンスが出された時に、それがいかにクレイムに理性的に到達するのかを示せるのです。上のクレイムであれば、エビデンスは「毎週500万の国民が見ており、その番組は民法では提供できない」であり「民法はその経営を広告に負っているので国会中継やオペラなどは放送できない」であり「民法はその経営を広告に負っているので国会中継やオペラなどは放送できない」というワラントを必要とするでしょう。ワラントはしばしば語られませんが、クレイムはその適切さに左右されます。もしクレイムとそれを支えようとしているエビデンスを見て「これは成り立っていない」と感じたのなら、それは、合理的にエビデンスとクレイムを結ぶワラントがない(あるいは見つけられない)からです。
第2段階
よりクレイムを強くするものに裏付け (backing) ・限定 (qualifier) ・抗弁 (rebuttal)があります。必ずしも必要というわけではありませんが、議論の技術を学んでいる間は裏付けくらいはやった方が良いでしょう。裏付けはエビデンスとクレイムのつながりの正当性の信頼であり、ワラントの証明です。限定はクレイムの量・程度・確実性などで、すべてのクレイムは同じ強さを持つわけではないのでこれがあります。抗弁はクレイムが成立しない状況(例外)を示し、それを排除することによってより強い主張にするためのものです。
要求されている証明の質の水準は聴衆の知識・信条の分析によって変わってきます。
エビデンスの種類
エビデンスは事実と意見の2種類に分かれます。情報源は自分で観察したものと他人が記録したものの2つです。本来もっとも信頼できるのは個人の観察と経験です。例えば「どの車を買うべきか」という政策命題を考えましょう。性能の数値や質の評価という事実・価値の主張を吟味しますが、最も信頼できるのは自分で実際に試乗することなのです。しかし実は、このような個人的な問題でも自ら調べるというのは簡単ではないし望ましくなかったりします。自動車雑誌のようにやる時間も能力もないからです。単に時間の節約だけでなく、メディア情報への信頼があなたを専門家と同等になるための助けになるのです。加えて、専門家の意見や調査といった権威の重みをあなたのアイディアに加えた方が有利なことも多いのです。印刷された事実や意見という「熟知した」情報源を使うことは、主張を強化し合理的な訴えの信頼性を増すのです。
エビデンスの検査
エビデンスを使う時はその信頼性の評価ができなければなりません。
<例と例証 (illustrations)>は存在する事件や現象の報告です。例証はその詳細をも含むものです。情報源の質については、ある報告者が観察を行なっているのだということにまず気をつけましょう。つまり、観察者はそのための訓練と経験があるのかということです。資料の正確さは、情報はそれを報告する情報源に解釈されたものなので、その解釈の信頼性---正直なものか誤魔化しがあるか---を確認しなければならないためのものです。資料の原物度とは、1次資料か2次資料なのかということで、他人の資料に基づく報告は信頼性が劣るのです。ただし、実際に調べることが不可能な場合などもあるので、2次資料がまったく信用できないわけではありません。資料の新しさも大事です。一般的には、より新しい情報の方がより信用できます。時間が経つと物事は移り変わりますし、報告者のその事実に関する記憶も薄れるからです。観察者の態度も気をつけましょう。理想としては中立的な態度の観察が良いのですが、それぞれの人は独自の認識枠組を持つので、相対的に中立的な言葉で書かれたものを 探すのが現実的です。
<統計>は数字による情報です。無駄のない証明形式ですが、曲解したりや説明を誤りやすい傾向にあります。数字を使うと何やら証明できたように見えますが、信頼できる情報源によるよう気をつけましょう。情報源の信頼性として、まず、情報源の出所を見極める必要があります。権威や実績のある専門の機関が良いです。統計の正確性として、誰が集めた情報か、に加えてどのように集めたのかも知るべきです。標本は集合を代表しているか、ということなどで、例えば全国とするのであれば全都道府県で調査するべきでしょう。また、調査期間も重要です。状況が変われば情報も変わります。構成単位の比較は、統計は比較に意味があることが多いので、構成単位が本当に比較できるかが重要だということです。使われている用語が調査機関によって定義が異なっていないかなどに注意して下さい。資料の意味も考えなければなりません。統計は平均値・最頻値・中央値・パーセンテージ・偏差で示されることが多いですが、そのやり方によっては、資料が創られ・隠され・歪められ得ます。パンが過去10年で50円から150円になったと述べることは重要ではないですが、200%上昇したと述べることは重要です。統計は使い勝手のいい情報ですが、誰が解釈するかによって、同じ資料でも別の結論に至り得るのです。統計に限りませんが、情報は(良くも悪くも)単に存在するのではなく解釈が必要かつ重要で、すべての人に平等であるわけではありません。
<科学的エビデンス>はフィールド・ワークや研究室での実験で得られた結果で、他にも適用できるものです。手法が適切かにまず注意します。被験者と調整における一般化とは、研究結果は、実験は統制されているということに加え特定の被験者・実験材料に対して行なわれている、ということに問題なく一般化できるのかということです。変数の統制と処理は、知りたい点以外の要因を適切に固定しているかということです。例えば男性は攻撃的であるというためには、他のすべての条件を揃えて男女両方に実験しなければなりません。他の研究結果との一貫性も大事で、時期の近い、似た手法を使った他の研究結果と矛盾しないものが良いです。
<工芸品>とは、音声・映像・写真などのことです。工芸の真実度として、それは本物か、また他のもので代用できないかを考えましょう。ヒトラーに対する熱狂を思い出すと良いです。
<前提>は、経験の定型パターンとして受け入れられているものを基礎とした事実の主張です。過去にあったことは将来もあるという我々の考えに基づいているので検証は難しいです。前提が不適当となるような環境の変化はないのかを検討しましょう。
<意見>は、専門家が当該分野に関する範囲での説明的・評価的言明を行なったもののことです。事実と違い直接検証はできません。意見は事実に対する誰かの信条であるので、他の人と異なる可能性も仮定する必要があります。16世紀には錬金術が信じられていたのは良い例でしょう。情報源の能力として、訓練・経歴・経験を持つ質の高い専門家かを検討します。そして、その信頼性が聴衆に受け入れられるのならば、その人の意見は影響力を持ちます。情報源の中立性は、比較的偏見がないかというもので、より客観的な方がより信頼できます。意見の基礎となる事実も確認しましょう。その意見が信頼できる事実に基づいているのでなければ、使うのは考え直した方が良いでしょう。
<一般的な注意>としては、正確性と新しさ(つまり信頼性)があります。質に関してはまず、エビデンスが多いことと良いエビデンスを持つことを混同しがちであることを指摘しておきます。充分な量、使うエビデンスは調べたエビデンス全体を代表しているか、クレイムときちんと結び付いているか、分かりやすく明確かに注意すると良いでしょう。そして、そのエビデンス自身一貫性があるか、他の情報と矛盾しないかという点、さらには聴衆に受け入れられるものかも重要です。今の時代、情報へのアクセスはどんどん楽になっています。そうなると求められるのは、情報を読むセンスです。同じ事実から別の結論を導くことができるように、情報は「あるもの」ではなく「読むもの」であることを理解しなければなりません。
推論は経験の一般形式の認識に基づきます。エビデンスとクレイムだけでは少しも信用することはできず、ワラントがその2者のつながりの信頼性を増すのです。
原因
原因による論拠 (argument) は推論の最も一般的な形式です。何かが起きた時にそれらを関係づけようとするのは人間の本性です。原因に論拠を求める推論は、現象間に仮の(一時的な)関連性を持たせようとする提案です。私たちはある出来事や現象を別の出来事や現象によるものだと主張します。例えば、
現象1:ある学生は課題をやらなかった
現象2:彼は単位をもらえなかった
というものです。これらは時間軸にも沿っているので使いやすいものです。現在の結果は先行する原因に関係づけられると言われます。現象1は2に先行し、おそらくは原因でしょう。人間のやることや自然はでたらめ (random) ではないので「すべてのものには原因がある」という前提を信じることができる、と考えるのです。因果律による議論において、その理由はクレイムを導くに充分であるかが重要です。他の理由がその結果を導かないか、理由と結果は一貫しているか、結果はその理由によらないという事例はないか、で検証します。因果律は時間順の発生以上の証明を要求します。例えば、ある人が今まで投票してきた候補はすべて落選したからといって次もそうなるというのはバカげています。また、現実世界では、1つの原因のみで成り立つものはほとんどないことも忘れてはなりません。1つの原因だけを盲信する前にそれに代わるものや他のものがないかを探すべきです。そして、原因は必要十分かで判断します。<必要>とは、それがなければ結果は現れないということですが、それだけで結果に至るわけではありません。酸素がなければ火は着きませんが、酸素だけでは火は着かないのです。この場合、燃料・酸素・着火源で<十分>です。<必要>と<十分>を区別すると代案や他の案が見つけられるでしょう。その原因はその結果を生むことができるのか、結果はその原因によるのか偶然「原因」と同時に起こったのか、他の潜在的原因はないか、結果は一貫してその原因から導かれるのか、で検証します。
兆候
兆候による論拠は、現象と単に存在するだけの状況とを結び付けるものです。兆候とは、観察可能なきざし・状況・しるしといった真相は何なのかを教えるための表示なのです。例えば、次のものなどは因果関係のない兆候による推論です。「ウグイスは春の訪れを告げる」「リスが木の実を多めに貯め込んだなら、その年の冬の寒さは厳しいであろうことを意味する」。どのようなものが兆候となるのかと言えば、何らかの出来事です。ある製品が良く売れたなら、品質が高いか宣伝がうまいのだと私たちは考えるでしょう。統計も何らかの兆候を示していると、しばしば推論されます。例えば、失業率とインフレ率が共に低いことは、経済が健全である兆候だと言われます。世論は政策への態度を表します。注意すべき点はその兆候が信頼できるかです。信頼できる兆候を見つける上での問題点は、兆候は多くの場合状況証拠でしかないということです。絶対に正しいと言えるものではありません。ワラントに兆候を使うなら裏付けがいるでしょう。また、兆候を因果と混同してはいけません。兆候は何が事実なのかを表し、因果はなぜそれが事実なのかを表します。兆候が表れることは、次に何が現れるかの期待・予測でしかないのです。最後の注意は、兆候の確実性を考えなければならないという点です。
一般化
一般化とは帰納的推論であり、ある事例・特定の事実・状況・出来事を見ることによって、それらが代表する階層全体の予測をすることです。一般化はあなたが最もよく使っているものでもあります。あるリストランテで食べたスパゲティがまずかったら、他の、リゾットもピッツアもアンティ・パスト類も全部まずいと考えるでしょう。他国の人に対する先入観も一般化に基礎をおくことが多いです。しかし、これらは一般化が使い物にならないことを意味するのではありません。例えば視聴率は、いくつかのサンプル家庭を選び、その家庭での視聴行動を一般化して日本の全家庭の視聴行動とするものです。限定を使うと、確実な予測ができない場合も一般化による主張がしやすいでしょう。あなたがイタリア車を3台持っていて、それぞれに不満があっても「イタリア車は欠陥車ばかりだ」とするのは早計です。一般化は普遍化でもあり、万能なだけにサンプルが適切かには注意が必要です。5節で統計に関して述べた注意はこれにも当てはまります。適切な事例の量は、それ以上増やしても結果が変わらない程度です。究極的には聴衆が決めるので、彼(女)らがその分野に詳しければ少なくてす
みます。事例に選んだ人やものは全体を代表しているかも大
事です。例えば、コンピューターの授業を取っている人と
っても、初級クラスと上級クラスでは違ってくるでしょう
。そして、無作為抽出法が必要です。偏るとダメなのでラン
ダムにサンプルを選ぶ必要があります。ただし、ランダム
はデタラメという意味ではありません。また、結論に反す
る不利な事例が出てくるかもしれません。しかし、他の充分
に多くの事例が結論に沿うのならば、抗弁を示した上で主
すれば良いので、結論の変更は必要ありません。
類似
類似による論証とは、2つ以上の似た出来事・事実に基礎をおく推論です。政策立案者は考えをまとめるために、これをよく使います。似たような地域・国で機能していることは我々の地域・国でも機能するだろう、と考えるのです。AとBが似ているから期待する結論を導けるとするのです。第1の注意点は、「どれだけ似ているのか」です。第2は「似ているのは(重要な・)鍵となる要素についてか」です。類似点は主張と関係していなければなりません。
類推
類推は特殊な比較の形式で、類似と比べて充分な程度似ていない時に使われます。つまり類推とは、特徴的な類似点のない事例の間に、根源的な同一性があると仮定するものです。類似はその内容に忠実なものであるのに対して、類推は象徴的であり、しばしば主張の表現法を増すための修辞的技巧として使われます。
エビデンス:血液の自由な流れは健康な体に重要である
ワラント:情報は社会の血液である
クレイム:ゆえに情報の自由な流れは健全な社会にとって欠かせない
類推はそれが表す機能に基礎をおきます。血液と情報に共通する点はほとんどありません。そのため、主張の強さはその機能がどれだけ似ているかによります。類推を使うことは、どのように機能しているのかという理解を助けます。その象徴性によっているので、類推は最も弱い論証の形式です。本当に主張の論拠となることはない、と言う人もあります。より覚えやすくしたり目立たせるためであったり、実例で説明したり明確化したりすることに役立ちます。そして、もし確実性の高い主張をしたいのなら、類推では満足できないでしょう。注意点はまず、強調された類似が本当にすべての重要な部分の機能において充分に同一であるかです。次に、それらの間の相違点が比較を無意味にするほど重大ではいけません。つまり、相違点が根源的な類似点に影を落してはダメなのです。最後に、類推の使用が信頼性を減じさせるのなら、2つ以上の類推を使って関連性を増すこともできます。
権威
基本的には5節を参照して下さい。権威に依拠する主張は、それが証明する主張の論拠を情報源の信頼性に負っています。その分野の訓練・経験・経歴が裏付けとなります。彼(女)らの言明はその専門分野に関してのみ通用します。また、不当に偏見がある人はダメです。そして、その分野の少数意見であるものを使う場合には、論者がその信頼性を確立しなければなりません。最後に、その意見は事実に基づいていなければなりません。
二律背反
二律背反(ジレンマ)による論証とは、受け入れにくい2つの案のどちらかを選ばなければならないとする方法です。環境問題でよく使われます。ベトナム戦争時にジョンソン大統領を批判するグループが使った「銃かバターか」もジレンマの一例です。注意点は、本当に2つは排他的かということと、他の選択肢はあり得ないのかというものです。使い方としては、相手を共に問題のある選択肢のどちらかを選ばなければならなくさせる、というものもあります。
論の強さは、信頼できるエビデンスの使用・適切な推論・聴衆に合わせたアレンジにかかっています。人は時には間違いを犯すでしょうが、わざと誤魔化しているのか、単に誤っただけなのかは聴衆には分かりません。これらの誤りは虚偽と呼ばれます。偽ったり、でっち上げたりすることによって曲解したり・だましたり、あるいはエビデンスの意味をねじ曲げたり・わざとまことしやかな意味を使ったり、言っていること (communication) の意図を誤魔化したりすることは倫理的な問題が発生します。論理の誤りのほとんどは不完全な推論か言葉の選択の問題なので、私たちは論の構造・理性に基づいて支持を求めること (appeal) の本質・それらのために使われる言葉に注意したいものです。
推論上の虚偽
<早まった一般化>は論理の飛躍で、事例の数量と代表性が十分でないときに起ります。ワラントがないと適当ではない、とも言えるでしょう。「騒音公害は全国的な問題である」と、東京と大阪の例だけで主張することは不十分な例による虚偽です。これだけで言うならば、せいぜい「大都市における問題である」とすべきです。また、
エビデンス:マクドナルドではスマイルが無料で売られている
ワラント:マクドナルドはファースト・フードの典型である
クレイム:すべてのファースト・フードでスマイルは無料で売られている
は、ワラントに裏付けがありません。トゥールミン・モデルを思い出しましょう。最後の可能性は、ワラントが本来示している以上のことを絞り出そうとすることです。限定によりそれを回避しましょう。
<変質 (transfer) >は、論理的に可能な範囲を超えて推論を拡大することです。これには3種類あります。一部に正しいことは全体でも正しいとしてしまう、組み合わせ (composition) の虚偽。全体にとって正しいことをある一部分にも正しいとしてしまう分割の虚偽。「ディベート・サークルに入ることは価値がある」としても、一高東大弁論部に入ってもそうかは分かりません。一般的な形としては「メルセデスは高い車を作っている。ワイパーは車の一部だ。ゆえにメルセデスのワイパーは高い」という虚偽を挙げておきましょう。論拠と裏付けに注意しなければなりません。反論の虚偽はワラ人形の議論として知られています。全く言及されていない論へのうまい反論に注意を向けようとするときや、論を弱く見せるようなやり方で強い論を再び言うときに起ります。簡単に引っくり返される論点に注目させるのでワラ人形と呼ばれるのです。主張の中に含まれていないニセの論を出したり、元の論を誤って代表させたりするので、騙していることになります。この種の虚偽は曲解しよう・騙そうと思っていなくても結構やってしまうものです 。相手の論への適切な反応だと思って一連の質問をしたりす るのです。知らされていなかったり、誤った準備をすると いった不案内・無知がワラ人形を生みます。
<関連性のない主張>は、証拠が合理的に示していないもの、必然的には導かれないものです。「十分な医療を受けられない老人がいるから、戦域ミサイル防衛に予算を回すべきではない」というのは、国の予算がどのように配分されているかに関する論拠のない仮定に過ぎません。この主張をしたいのなら、医療費に使うべき金がハイテク兵器に転じているという、流用の証拠が必要となります。
<循環推論(トートロジー)>になるのは、エビデンスとワラントの意味がクレイム自体と同じだからです。例えば、
クレイム:銃は人を殺さない、人が人を殺す
ワラント:銃はそれ自体では発射せず、人が引金を引く
エビデンス:銃は自発的に動かない物体である
これは、クレイムの核となる部分を繰り返しているだけで、(論理的な)議論にはなりません。
<争点の回避>、つまり争点から注意をそらそうとすることは誤りです。理由なく主題を変えたり、主要な論点をやり過ごしたり、論点の中心から論争へ注意をそらす単純な回避があります。内因性に時間を使ったときによく起ります。議論ではなく人物を攻撃するのも回避行動です。人格・服装・能力・人種・価値観に注意を向けてもその主張の有効性は変わりません。立場の変更は、元の論をやめて新しい論を採用するときに起きますが、言い逃れをしているという印象を与えてしまいます。気を変えたり、誤りを認めることは絶対にいけないことというわけではありませんが、主張にはこだわった方が良く、もし変更するのなら特別な説明が必要です。ささいな点に固執するのは、立場を危うくする弱い点や防御できない点があるときです。出典が9月31日付けになっている、とか、失業率は約4%ではなく3.82%だ、とか。正確性は大事ですが、全精力を(小さな点に)つぎ込むのは議論の技術として適切ではありません。
<二項対立の強要>は、過剰に単純化して、どちらを好むかを示すよう強いるものです。これは代替案の可能性を無視しています。「日本を愛するか立ち去るかだ」であるとか。誤った二律背反(ジレンマ)として知られています。人間のやることで2つしか選択肢がないものは少ないのではないでしょうか。
訴えかけ (appeal) の虚偽
中身のない論を立ててはいけません。常に聴衆を頭においておきましょう。しかし、争点を論じるのを避けることは問題です。合理性のない訴えかけは(聴衆の)感情・偏見・願望に基づきます。
<無知への訴えかけ>は、反証できないから正しい、とするものです。「ポルノ雑誌が買春を助長していることを証明するエビデンスはない」だけでは、そうでないことの実証にはなりません。より厄介なのは、あるものが起らなかった・存在しなかったと証明できないから、それは起きた・存在したに違いないという主張です。UFOなどがその例でしょう。証拠がないというのは、主張の正当性の可能性を示すだけなのです。薬品の副作用の治験で、「安全であろう」と判断するのがこの方法です。この種の推論の問題点は、ワラントの裏付けが、エビデンスがないこと自体をエビデンスとすることです。ただし、プリザンプションは例外です。
<人々への訴えかけ>は、聴衆の偏見や感情への訴えかけです。人気があるから、というだけで正当化させるものがそうです。例えば、国民の多くが減税すべきだと言っているからそうすべきだ、というようなものです。このような場合、主張が適切か否かの境界線はぼやけます。「人々」に関して論じているときは考慮にいれます。しかし、争点への批判的考察は世論より優先されるべきでしょう。
<感情への訴えかけ>は絶対に悪いというわけではなく、また、完全に合理的であるのも不可能です。しかし、感情への強い訴えかけは念入りな推論の代わりにはなりません。できの悪い議論でよく使われるのが同情と脅迫です。同情だけで寄付は集まるでしょうが、効果的救済策の持つ経済的実行可能性などに欠ます。「敵がいつ攻めてくるか分からないから軍備を増強しよう」という脅迫も適切さと比較衡量の問題です。この主張だけだと戦時中のようです。
<権威への訴えかけ>が誤っているのは、意見の出所が見せかけの権威の時(真の専門能力が欠ていたり、反対意見を正当に聞いていない)です。権威者は誤りを犯しにくいとみなされますし、他の証明や裏付けの代わりに、それ以上の議論を遮断するために使われます。権威の濫用は聖書・憲法・崇拝されている人や有名人の証言を使って一般に行われています。3番目のものはCMでよく見られるものです。ネスカフェの「違いの分かる」シリーズであるとか。あなたが使う専門家の選択を守る準備をしましょう。そして、経済学者は経済問題の専門家であり、社会問題のそれではありません。ただ、専門が多岐にわたる人もいます。
<伝統への訴えかけ>ですが、私たちは通常、伝統に強く縛られ、歴史的背景を知ることは論の準備として良い方法です。しかし、正当性ではなく慣習に根拠を求めるのは伝統への訴えかけという虚偽です。「女性は家庭を守るべきだ」などがそうです。伝統を参照するだけなら問題はないでしょう。価値命題ではよく、伝統に依拠した主張がなされます。その場合、伝統の背後にある根拠を分析すると良いでしょう。ただ、論証が他者に影響を与える技術だとするなら、伝統にだけ基づくと聴衆に不十分な理解しか与えないことを覚えておきましょう。プリザンプションは伝統を好みますが、相手は続けるべきでない理由を論証してくるでしょうから、こちらも論証しなければなりません。伝統である、というだけでは魅力がないものです。