インド日記 第五回(改訂)

 2月8日(火) うす曇
 今日はカルカッタ旅行の疲れをいやすため外出せず、朝から執筆作業。ひたす
ら書きまくっているうちに夕方になり、七時から出かける。デリー大学の中国・
日本研究科長であるタンカ氏のお宅で、夕食をいただく予定なのだ。
 マンシの運転するタクシーで、例の「インドでいちばんきれいな場所」である
インド国際センターに行くと、小川氏夫妻とタンカ氏が待っていた。ダス氏が運
転する小川氏夫妻の車に乗り、デリー郊外のタンカ氏宅へむかう。
 タンカ氏の自宅は、デリーの新興住宅街ヴィディシャ地区にあった。ごみごみ
したデリー中心部とちがい、こちらはきれいなマンションがならぶ。タンカ氏の
マンションはなかなかきれいな建物で、大学教授など知識人が会を作って土地を
購入し、デリー大学の建築学の先生が設計したようだ。
 マンションには入口に警備員がいて、門を開けたあと、訪問する人と目的、そ
れに自分の住所氏名を書かされて入場。もっともこれは知識人の邸宅では珍しく
なく、小川夫妻のマンションも入口に警備員がいて門を開閉するし、ラジブ邸の
ある高級住宅街ディフェンス・コロニーでは、個人宅の門の横に門番が常駐して
いる番小屋があることが少なくない。格差が大きくて門番の人件費が安いのと、
治安上の問題があるからである。こういうことでいちいち驚いていては、インド
で客員教授などやっていられない。
 ラジブ氏の住居は、このマンションの6階にあった。ドアを開けて入ると、知
識人の邸宅に慣れた目にとってはそれほど広くはないが、4LDK(?)に応接
間つきぐらいのきれいなお部屋。まずは応接間に通され、小川夫妻、タンカ夫
妻、そしてインドの教育事情を研究している押川氏と談笑。タンカ夫人が日本語
をわからないので、言語は英語である。押川氏は何と私のゼミ学生の母親で、
「息子がいつもお世話になっています」などと挨拶された。
 応接間は長ソファ二つに椅子がいくつかあり、壁には本棚と数枚の日本画、そ
してラジャスタン地方の織物が飾ってある。どこの世界も、知識人の応接間に
「民芸品」はつきものだ。タンカ氏の息子二人も紹介され、こちらは写真好きの
大学生と、まだ高校生の二人の男の子で、二人ともきれいな英語を話す。奥さん
も教養ある美しい人。インドの新興住宅地の、幸福そうな家族の風景である。
 議論好きのインドに住む知識人集団だから、会話の内容はけっこう高級。カマ
ラー・ダースという女性詩人が、イスラム教に改宗したことが話題になった。
 カマラーは、1973年に自伝を発表して、一躍世界に名が知られた女性であ
る。インド南部のケララ地方の名家に生まれ、カルカッタのヨーロッパ系学校で
教育を受け(ゴダン氏やブルマン君のように)、一五歳で結婚した。しかし愛の
ない結婚生活に疲れ、男性遍歴と詩作生活をはじめたのである。男性優位社会の
なかでこうした奔放な生活を自伝に書いたため、彼女は故郷には受け入れられな
くなったが、欧米のフェミニストからは「インドの女性闘士」として注目を集
め、日本でも翻訳が出ている(『解放の女神』、辛島貴子訳、平河出版社、19
98年)。
 しかし最近、このカマラーが、イスラム教に改宗してヘジャブ(イスラムの女
性の被るスカーフ)をかぶりはじめたため、話題をよんだ。理由は「自由に疲れ
た」ということだそうで、女性差別的な戒律が厳しいといわれるイスラム教徒に
あえて改宗し、夫と家族につくす女性として再出発したというのである。日本語
訳のカマラー自伝の訳者あとがきによると、彼女は地元ケララ州から国会議員に
立候補して落選していらい、故郷の人々に受け入れられないことに傷つき、さら
に93年には男性遍歴のすえに最後に結婚した夫と死に別れて、かなり気が弱く
なっていたらしい。
 元フェミニズムの闘士が、疲れを感じて家庭にもどったという事例は、六〇年
代アメリカのウーマン・リブの看板的存在だったベティ・フリーダンなどにも見
られた現象である。しかし問題は、なぜインドでは、ヒンズー教徒の女性が「自
由に疲れた」というとイスラムに改宗するのか、という点である。アメリカのフ
ェミニストの場合、同じような言葉を残してヨガなどを習い始めた例はある。な
ぜアメリカではヨガで、インドではイスラムなのか。この点は「インドにおける
イスラム」を理解するうえで重要である。
 じつはインドでは、イスラム女性の地位が問題となっている。宗教的少数派と
してのイスラムは尊重するが、イスラム社会の女性の地位が低いことは認められ
ないという意見は、世界のフェミニストに共通のものだ。
 また同時に、近年のインドでは、宗派別に分れている民法の家族法規を統一し
ようという動きがある。家族関係の慣習は文化によって異なるので、たとえば一
夫多妻制のイスラムと、他の宗派の家族法規は別々に分かれているのだ。ところ
が、これをヒンズー教徒の慣習に合わせて統一民法をつくり、インド全国民に適
用しようという動きが右派から出ているのである。
 これにたいするインド知識人の姿勢は、複雑だ。前述したように、宗教的少数
者としてのイスラムは尊重するが、イスラムの家族慣習は女性差別的だという見
解が存在する。イスラムの女性は、がんじがらめの戒律に縛られ、いっさいの自
由を奪われているという偏見も多い。ヒンズーの慣習に統一したほうが、イスラ
ム女性の地位向上につながるという意見もあるようだ。
 じつは似たような話は、日本にもある。韓国の家族慣習では夫婦別姓が原則な
のだが、日本の民法では夫婦同氏しなければならない。それを避けるためには、
在日韓国人は日本国籍を取らないという方法しかないのだ。また戦前の日本で
は、朝鮮の家族法を改正して日本式に近づけることが行なわれたさい、朝鮮総督
府は「朝鮮の女性の地位は低いから、日本の家族形態に近づければ朝鮮女性の地
位が向上する」と主張していた。この改正と同時に、希望によって日本風の名前
に変えてもよい(これは名目上で、じっさいには強制があった)としたのが、名
高い「創始改名」である。
 話をカマラーにもどす。このようにインドの知識人の間では、「イスラムの女
性は地位が低い」、ないし「イスラムの女性は因習的で自由のない生活をしてい
る」という印象が流布している。ちょうど、アメリカのフェミニストが、「イン
ドの女性は因習的で自由のない生活をしている」と思っているように。こうした
思考枠組みのなかでは、「自由な女性」と「自由のない女性」とが、二項対立を
なす。それゆえ、アメリカのフェミニストが「自由に疲れた」ときにはヨガを習
い、インドの知識人女性が「自由に疲れた」さいにはイスラムに改宗するという
図式が生まれるのだ。
 たしかに現在のインド社会は、都市の中層および上層階級にとっては、ある意
味で疲れる社会である。ささいな問題で一時間でも二時間でも議論をし、リクシ
ャーひとつ乗るのにもいちいち交渉。地方の下層民衆は地縁・血縁の社会に生き
ているからそうでもないが、92年から導入された経済自由化によって、しだい
に地縁・血縁が解体し、個人的な立身出世主義や拝金主義が広まりつつある。そ
のなかで、都市の中層・上層階級は心の疲れを感じているのだ。ラジブ家もタン
カ家も核家族だし、小川氏の運転手ダス氏でさえ親子三人住まいだから、大家族
同居は都市では過去のものになりつつある。ヒンズー原理主義が台頭しているの
も、そうした背景があるからだ。
 このカマラーの話題につづいて、当然のように、現在のインド社会における出
世主義と若者の意識の話となった。タンカ氏は、自分の学生時代とちがい、今の
大学生は個人的な成功や、給料の高い企業に就職することしか考えていないと嘆
く。インドでは農村に教育が普及していない一方で、都市部では受験競争が小学
校レベルから起こっている。公立の小学校は教育内容や教師の質が高くないの
で、カルカッタの修道院学校のような私立学校に子弟を越境入学させる動きが、
中上層階級のあいだでは強まっているのだ。
 タンカ氏の息子はまだ学生だが、ラジブ家の長男であるアニル−ダは、親が
NGO活動家であるにもかかわらず、政治的な話題にはとんと関心を示さない。彼
はインドの古典音楽よりもアメリカの音楽のほうが好きで、よくアメリカ風の野
球帽をかぶっている。押川氏もタンカ氏の意見にたいし、日本でも学生が子供っ
ぽくなり、モラルが低下していると述べた。
 私は、「最近の若いものは」式の見解は好きではない。20歳やそこらのとき
に、政治的知識が不充分で、遊びたいのは誰でもそうだ。外見が軽薄だからとい
って、能力がないとはかぎらない。私のゼミにいた押川氏の息子も、髪の毛をオ
レンジ色に染めていたが、日本の農本主義をあつかったレポートは、腰を抜かす
ほど優秀だった。人間の能力や社会性が、一世代の変化くらいでダメになるとは
思えない。
 ただ、近代化とともに社会が複雑になり、頼るべき価値観がわからなくなると
いうことは、時代とともに進行しているだろう。昔は、インドなら「ガンジーと
ネルーの理想」とか、大日本帝国なら「忠君愛国」とか、それさえ述べていれば
「しっかりした青年だ」と評価されるような固定した枠組みがあった。いまの社
会に、それは期待できないのだ。だから依拠できる枠組みをもとめて、原理主義
に頼る人々も現れてくる。価値観の多様化、出世主義の流布、核家族化、そして
原理主義の台頭といった現象は、表裏一体のものなのだ。
 ひとあたり談笑のあと、ディナーとなる。タンカ氏は、現在インドとパキスタ
ンの国境争いがある北方のカシミール地方の出身で、じつにおいしいカシミール
料理が出た。タンカ氏が奥さんやコックに教えたのだそうだ。インドで食べた食
事のなかで、ベストだったかもしれない。彼の息子なども料理を手伝ったそう
で、うまいと述べると、タンカ夫妻は目を細めた。インドの上層家庭では、夫や
息子が料理を手伝うのは、珍しくないとのことである。
 11時においとまし、ダス氏の運転でラジブ邸に帰る。会食のときには、いつ
も小川氏の約束した時間より一時間はよけいに待たされるダス氏は、今日も文句
一ついわず、にこやかに運転してくれた。

 2月9日(水) 晴
 大学の講義の日なので、朝からタクシーに乗って出発。運転手はタルダ−ン。
到着後10時からすぐに講義を開始。この日の講義は、明治初期の初等教育制度
について。いかに就学率を上げることに苦労したかの話である。
 まずは、江戸時代の寺子屋と近代小学校のちがいを説明。両者は内実がまった
く異なるもので、そもそも身分制度が前提の江戸時代には、全国民共通の教育な
ど存在しない。商人の子はいわゆる「読書き算盤」を習うが、農村の寺子屋で算
盤を教えているものは多くなかった。習っても、農民の仕事には役立たないから
である。農民(といっても上層農民)が寺子屋で習うのは、おもに「往来物」と
いう手紙の定型文を集めた文例集で、農村のリーダー層が役人などにきちんとし
た文書を書けるようになるための練習をする。武士の子は算盤などという「賎し
い」ものは習わず、武士の教養である儒学を習う。しかも寺子屋は随時入学・個
別指導制で、全生徒が4月に入学してクラス編成になることなどない。
 明治政府は、こうした身分制度を破壊しないかぎり、植民地化の脅威から逃れ
るための優秀な労働力と兵士を大量に動員することは不可能であることを知って
いた。サムライ階級のみを兵士にするとか、あるいはエリートのみを教育したの
では、兵力源が限定されてしまうからである。もうこれを説明した時点で、イン
ド知識人たちは複雑な表情をする。カースト制度が現在でも残存していること
と、植民地化されてしまった歴史は、彼らにとって痛恨だからだ。
 しかし、その後の初等教育の普及は、日本でも簡単ではなかった。農民の親た
ちは、農民になるのに意味のない近代教育になど関心がなく、貴重な労働力であ
る子供を学校にやりたがらない。おまけに明治政府は財政難で、初期には授業料
を徴収していた。さらに当時は近代教育の前例がなく、教科書のほとんどは欧米
の直訳で、たとえばローマ数字などを教えている有様だった。意味のない教育を
受けるために金を払う人はおらず、おのずと就学率は上がらない。このあたり
は、現在のインドとそれほど変わらない状況である。
 ここから先が、インドと日本ではかなりちがう。日本では中央政府の力が強力
で、ほとんどは旧寺子屋や民家の改造だったとはいえ、とにかく全国に小学校を
配置した。さらに強力な就学督促を行ない、児童を学校にかき集める。強制就学
や授業料徴収にたいし、反乱や学校焼き討ち事件が起きても動じない。さらに教
科書検定を開始し、日本の事情に合わない(「教育内容が合わない」と「危険思
想が混ざっている」の両方だったが)教科書を「日本化」させる。そうこうして
いるうちにしだいに産業化が軌道に乗りだし、学校で読書きや計算を習うと有利
な職に就けるようになってき始めた。そして日清戦争で勝利し、当時の国家財政
4年分以上の賠償金をせしめ、それを基盤に授業料を廃止して、就学率は急上昇
したのである。
 要するに、よくも悪くも中央政府が強力だったこと、産業革命とあわせタイミ
ングよく戦争に勝利した運の良さが、就学率を最終的に上昇させた要因だと説明
した。また、植民地化されなかったため、インドのようにイギリスが英語教育を
受けた中産層を形成してしまったあとに教育政策をはじめたということはなく、
白紙の状態から開始できたことも大きい。ただし、極度の中央集権がゆきすぎ、
教育の画一化や自由のなさが問題になっていることも説明した。「国家のリーダ
ーシップ」に憧れと反発の両方をもつインド側の教員や学生は、複雑な表情で聞
いていた。
 その後、通訳の実習で「日本語の見本」を務めたあと、いくつかの用事をすま
せるため国際交流基金事務所に立ち寄ると、支部長の小川氏が「日本山妙法寺の
中村上人と連絡がつきました。会うなら今夜がいいそうなので、行ってくださ
い」という。タクシーでいったんラジブ邸にもどったあと、すぐに妙法寺デリー
支部へ出かける。
 妙法寺デリー支部は、住宅街の一角にある、これまた奇妙な建物だった。三階
建てくらいの住宅なのだが、正面上方にはブッダを描いたステンドグラスがあ
り、入り口からは巨大な金色の仏像が鎮座しているのが見える。通常なら本尊の
仏像は奥にあるはずなのだが、ここでは真正面に据えられているのだ。
 中に入ってゆくと、中村上人はまだ夕方の「お勤め」の最中で、本尊にむかっ
て信徒たちと拝んでいる。それが終わると、応接間に案内され、上人と対面し
た。インドでの妙法寺の活動についていろいろ聞きたいというと、快く応じてく
れた。
 中村上人は本名中村行明、現在45歳。大学教授を父親に持ち、インド在住2
5年。1972年、高校一年生のとき、当時全盛期のピンク・フロイド(イギリ
スのロックバンド)を箱根の野外コンサートで聞き、「人生が変わった」。その
後大学は行ったが、世界を放浪旅行し、1977年に21歳でインドにやってき
た。当時、日本山妙法寺は掃除などをすれば泊めてくれたので日本人放浪学生な
どがよく宿泊しており、彼もその一人だったわけだが、ここで創立者の藤井日達
に会い感化され、仏教に目覚める。当時、やはりインドに在住していた大江健三
郎と同居していたこともあるという。
 その後、二〇代後半から三〇歳前後にはニューヨークに行き、国連本部の前に
あるユナイテッド・ネイション・プラザ(NGOの組織場所として有名)で、平和
運動に従事していたこともある。しかし、その後に藤井日達上人から一〇〇ドル
を渡され、「北インドはおまえにまかせるから寺を建てろ」と言われてデリーに
赴き、スラムに十数年住む。そしてヒマラヤに近いラダックの山でテントを張り
修行していたとき、「インドの女帝」とよばれたインディラ・ガンジー首相が通
りかかって事情を聞き、「政教分離が建前だから、寺を建ててやることはできな
いが、道を作ってやる」といわれた。その後、現地の寄付や日本からの送金、そ
して現地軍の全面援助により、妙法寺ラダック寺院が完成する。
 何だか奇跡みたいな話だが、中村上人によれば、「別に不思議なことではあり
ません。インド政府はパキスタンからのイスラム勢力の影響を食い止めるため、
国境地帯であるラダック州の仏教をてこ入れしようとしていた。ところが、現地
の仏教宗派のどれかに支援すると相互の対立が起きるので、日印親善とかで名目
が立ちやすい外国の仏教宗派を支援したんです」という。ラジブ夫妻がラダック
で見たのはこの寺院である。
 その後、デリーの寺院は、日本の仏教学の教授が死ぬ前に貯金を寄付してくれ
たため、現在の地に立てることができた。現在、日本山妙法寺はインド各地に支
部があるが、そのうちカルカッタは、戦前の1940年に現地のビルラー財閥の
資金で建設された(現地の寺男バリク氏から私が聞いた「1970年に建設」の
情報は改装工事のまちがいだそうである)。藤井日達がガンジーの友人で、ビル
ラー財閥とつながったのである。ボンベイの妙法寺もビルラーの資金で建ったも
ので、ダージリン妙法寺は藤井が元のイギリス別荘を買い取った。オリッサ州の
妙法寺は、現地の州政府が仏教ゆかりの地である山に観光資源を兼ねた寺を建て
たがっていたため、その支援を受けて建設されたという。
 このように聞けば、もちろんそれなりに政治的ないし経済的背景があるのだ
が、やはり有力者やキーパーソンと「友人」になってゆく能力が、藤井日達とい
い中村上人といい並たいていではない。ヒッピー世代末期の中村氏は同世代の友
人も多く、西ドイツの「緑の党」の看板スターだったぺトラ・ケリーと親友であ
ったり(ケリーは「私も僧になりたかった」と言っていたそうだ)、ミュージシ
ャンの上田正樹や久保田真琴と友人だったりするそうだ。
 しかし中村上人によれば、妙法寺はいわば「藤井日達」や「中村行明」といっ
た個人活動の集積であり、「本部からの指令」といったものはない。そもそも
「信徒」という考え方もしないという。彼によれば、「私が祈り修行をしてい
る、その状態が仏教徒であるのです。もし私が南インドで海水浴をしていれば、
その時は仏教徒ではない。仏教徒とはある人間を指すのではなく、魂の状態をい
うのですから、誰が『信徒』で誰が『信徒』ではないといった固定したものでは
ない」という。
 この組織原理と人間観は、たいへん興味深いものだ。一九六〇年代から七〇年
代にかけて、硬直化したピラミッド組織に堕してしまった共産党にあきたらず、
自由な活動原理を求める新しい運動が西欧やアメリカ、日本で発生した。イタリ
アのアウトノミア運動、西ドイツの「緑の党」の初期、そして日本の「ベ平連」
(「ベトナムに平和を!市民連合」)などがこれにあたる。ベ平連の組織原理
は、「世話人と事務局はおくが、本部や代表はつくらない。誰かが反戦デモをや
ったら、その時にその人が『ベ平連』になる。やりたいときにやって、やめたい
ときにやめていい」というものだった。
 こうした「新らしい社会運動」の影響から、ポスト構造主義の思想も出現し
た。こうした思想では、「人間のアイデンティティや同一性は固定したものでは
ない。たとえば、ある時に人が『男』としてふるまえばその時は『男』だし、別
の時に『女』としてふるまえば『女』なのだ」といった発想をする。こうした思
想は、「おまえは男なのか女なのか」といった社会圧力に悩まされていたゲイや
レズビアンの運動、あるいは「おまえは日本人なのか朝鮮人なのか」といった圧
力に苦しんでいた「混血」の人々などに、自然に受け入れられていった。
 そして、修行しているときは仏教徒、そうでないときは仏教徒ではないという
思想は、「おまえはイスラム教徒なのかヒンズー教徒なのか」という分類をせま
る原理主義とは、対極に位置する考え方である。ヒッピー世代の中村氏は、期せ
ずして現代思想に近い考え方をしているのだ。
 ちなみに、中村上人は「ピンク・フロイドのコンサートでは、まわりでアメリ
カ兵などが吸っていたマリファナがもうもうとたちこめていたので、自分も吸い
こんでしまった。その状態であの音楽を聴いて、物の見方が変わってしまった。
それからは、たとえば授業中に本を読んでも、『入りこんで』しまって手につか
なくなってしまった」という。
 これを科学用語で説明すれば、感覚機関からの情報は神経繊維上の電気パルス
として脳に伝達されるが、ある種のドラッグはその電気信号をかく乱する。その
ため、赤いものが黒く見えたり(視覚情報のかく乱)、絵を見るとと音楽が聞こ
えたりする(視覚情報と聴覚情報のかく乱)。いちどこういう感覚の転換を覚え
てしまっては、本を読んでも道を歩いても音楽や色彩がとびかって、とても「集
中」だの「雑念を払う」だのどころではなくなってしまうのだ。
 ヒッピーカルチャーの中では、こうしたドラッグをやって感覚を広げ、「カラ
フルな音楽」を演奏したグループが多く、初期のピンク・フロイドはその代表格
である。そこでは、「赤は黒であり、色は音であり、男は女である」といった世
界観が生じる。
 一度こうしたかたちで、世界を「別の角度」から見てしまうと、それまでの
「普通の世界の見方」を信じることができなくなってしまう人がときどきいる。
べつにドラッグでなくとも、長期の外国経験のあとに「普通の日本人の感覚」に
もどれなくなってしまったり、社会運動にかかわって「普通の日本社会の感覚」
を疑いはじめたり、学問をやっためにそれまで当然と思っていた「日本らしさ」
が信じられなくなったりすることはよくある。この場合のドラッグ・外国体験・
学問などは、「世界を別の角度から見ること」、すなわちそれまで「当然と思っ
ていた同一性」がいったん破壊され、そのあとに新しい世界観が開けてくるとい
う、いわば人間の感覚や思考を拡張するための手段なのだ。
 こうした思想をもつ中村上人は、「仏教は非原理宗教です。時や状況などによ
って、行動を変えていい」という。彼の解釈によれば、イスラム教などが確固と
した戒律(ブタを食べないなど)をもち、どこに行ってもそれを変えないのと異
なり、仏教には特定の型というものがない。インドでは仏教の僧服は黄色いが、
それは黄色い染料が簡単に手に入るからで、仏教が中国に入ったら中国にある墨
汁で染める黒い僧服になったし、チベットでは赤土で染める赤い服である。「こ
ういう様式を守っていれば仏教徒」ということはない。
 もちろんこれは彼なりの仏教解釈だし、イスラムだってそれなりに現地対応を
しているし、仏教にだって原理主義的な宗派はありうる。しかし、彼のいう「非
原理宗教としての仏教」が、「一つの型やアイデンティティに固まらない」とい
う意味だということはわかる。彼は、「組織された教団は、選民思想になる。そ
うなれば、『一切衆生』つまり『すべての人を救う』という大乗仏教の考え方に
反する」という。
 こうした柔軟な考え方のゆえに、各地の妙法寺の建築様式は、それぞれ現地の
事情に合わせて異なっている。仏教の強いラダック州では現地の仏教寺院に近い
様式だが、仏教それじたいがあまり知られていない新都市のデリーでは、「仏の
ショールーム」というコンセプトに徹したという。ビルの正面にブッダを描いた
ステンドグラスを設け、外の道から見える位置にいちばん大きな仏像を置き、夜
中にもライティングを施しているのは、そうしたデリーの状況に合わせたもの
だ。ステンドグラスなどという、およそ「仏教寺院」らしからぬものを採用した
ところに、中村上人のいう「非原理宗教」の面目躍如たるものがある。
 中村上人が建てたラダックとデリーの妙法寺がこのようなものであるのにたい
し、藤井日達が建てたカルカッタの妙法寺は、インドで仏教が最初に発祥した様
式に近づけつつ、妙法寺独自の様式を折衷したものだという。これは「仏教があ
まりに現地に適応しすぎ、国際性を失ってしまったので、『ゆるやかな共通項』
として原点の様式をとりいれた」からだという。しかし結果として妙法寺の建物
は、どれをみても国籍不明、どの国の様式にも所属しないものとなっているとこ
ろがおもしろい。
 そして中村上人は、「一つのアイデンティティに固まる原理主義は、人々のパ
ワーを引き出すこともあるが、とても危険だ。オウム真理教や大日本帝国がそう
だったように」と強調する。彼が代わりに提案するのは、「アイデンティティの
複数化」だ。「自分は仏教徒でもあるけれど、日本人でもあるし、関西人でもあ
るし、インド人としての感覚ももっている。先進国の人間でもあるが、スラムに
長く住んだこともある。男でもあり、宗教者でもあり、東京に住所がある人間で
もあり、ここデリーのコミュニティの顔役でもある。『私は仏教徒だ。だからキ
リスト教は敵だ』というふうに、どれか一つだけのアイデンティティに固まって
はいない」というのである。
 こうした「アイデンティティの複数化」も、ナショナリズムや原理主義をのり
こえるために、現代思想で強調されているポイントの一つである。たとえば在日
の運動でも、「朝鮮人」というアイデンティティだけでは、「日本人」が「敵」
になってしまいがちだ。しかしその在日の人に「世田谷在住者」や「女性」とい
うアイデンティティもあれば、「日本人」による世田谷住民や女性の運動とも連
帯できる。もちろん、「非世田谷在住者」とはまた別のアイデンティティ、たと
えば「仏教徒」というアイデンティティの回路で対話できるわけだ。国家・民
族・宗教といったアイデンティティを、対立のもとになるからといって全否定し
てしまうのではなく、逆にアイデンティティを複数に増やしていって、調和させ
てしまうという戦略である。
 彼はまた、「冷戦後の世界では、オルタナティブ・アイデンティティが形成さ
れていない。コンピュータとかグローバライゼーションとかが注目されたが、そ
の反動として原理主義が台頭してしまった。それをのりこえるために、近代産業
社会の論理を見直したい」という。競争社会の不安のゆえに、原理主義に走って
しまうという問題を解決するためには、近代産業社会の論理そのものを考え直す
必要があるというわけだ。
 上人がそのために提唱するのは、「プログレッシブな簡素な生活」だ。「私は
一年の半分くらいを、インドや世界を旅してすごしています。そういう生活をし
ていると、『物をたくさん持ちたい』という欲求より、『荷物を軽くしたい』と
いう欲求のほうが強くなる。人生も同じこと。今の日本の家は、ふだん誰もいな
い応接間に、誰も弾かないピアノを置き、子供が一〇歳から一八歳くらいまでの
たった八年間だけしか使わない子供部屋を用意している。そんな家を建てるため
に、長時間労働をして、休みもとらずに何十年も働く。狭い部屋に少しの家具で
も、自由に生きられたほうがよっぽどいいじゃありませんか」。
 私の側はこれを聞いて、社会学者のマックス・ウェーバーや、見田宗助の話を
した。マックス・ウェーバーは、社会学の古典である『プロテスタンティズムの
倫理と資本主義の精神』で、「お金が欲しいというのは、欲望の形態としては変
態なのではないか」という問いを立てた。彼が生きた一九世紀末のドイツでは、
ポーランド国境付近に企業が進出したとき、高い給料を払っても労働者が働かな
かった。「高いお金をもらうより、働かないで休んでいたほうがいい」という価
値観の人々が多かったからである。彼らの村の生活にたくさんのお金はいらない
し、必要のないものは買う気もない。だったら、苦労してお金を稼ぐ必要はな
い、というわけである。
 ウェーバーは次に、「では、現在のような資本主義の欲望形態は、どこからき
たのか」という問いを立てた。彼が注目したのが、プロテスタンティズムの一派
であるカルヴィニズムである。この宗派は、「神による最後の審判で救われるた
めには、神の与えた現世の仕事につくすことが必要だ。そしてどれだけ現世の仕
事につくしたかは、その仕事で稼いだ金額で決まる」という考え方をとったので
ある。この宗派の人々が、お酒を飲むのも友人とつきあうのも我慢して、ひたす
ら長時間働いて無駄使いをせず、お金を貯めて事業を大きくした。こうして、
「来世のために我慢をする」ことが、「お金をひたすら求める」という欲望の形
態を生み出したというのである。
 この視点を延長したのが、現代日本の社会学者、見田宗助である。彼は、「人
生の道具化」を問題にする。いま我慢して勉強するのは、よい学校に入るため。
よい学校に入るのは、よい会社に入るため。我慢して働くのは、よい老後のた
め。今日の生活は、明日に備えるための道具であり、明日は明後日のための道具
である。しかし、人間は無限に生きるわけではない。それでは、ひたすら我慢し
て勉強し働くのは、「よい墓に入るため」なのか?
 ウェーバーが研究したカルヴィニズムなら、「その通り、現世の生活は、死後
の『最後の審判』に備えるための道具なのだ」と答えるだろう。見田はそうした
プロテスタンティズムの精神を、「景色も見ることも、鳥の鳴き声を楽しむこと
も我慢して、ひたすら目的地に直行する旅のようなもの」と形容している。金銭
や出世のために、友人との交際や家族とのふれあいを我慢することは、欲望その
ものではなく、「欲望の貧しいかたち」なのだ。
 さらにマルクスの言葉を借りれば、現代の労働は疎外された労働の形態だ。人
は工場や会社など、生産手段をもつ資本家の命じるままに働き、その対価として
賃金をもらう存在にすぎない。そこでは人間は、自己の意志のままには行動でき
ない、いわば奴隷のような存在だ。しかしそうした現代社会でも、人は物を買う
ときだけは「お客さま」として「主人」や「神様」になれる。いわば一瞬の買物
のときに「主人」になるために、「奴隷」として我慢してお金をためるのだ。奴
隷としての生活が不満であるほど、「主人」として物が買いたくなる。人は物そ
のものが買いたいというよりも、買物という行為によって「人生の主人公」にな
れる瞬間を求めているといえる。
 この話をすると、上人は大きくうなずき、こう述べた。「仏教では、人生を四
つに分けます。最初は学生期で、学ぶ時期。次が家住期で、家族と働く時期。そ
して林生期で、これは仕事から引退する時期。最後が遊行期で、出家して死ぬの
を準備する時期です。この四つが、同じ比重をもっていることに注目してもらい
たいのです」。それにたいし私の側は、「わかります。近代社会では、仕事がで
きてお金を稼げる時期、業績の挙げられる時期だけが人生だとみなす。だから引
退後や死ぬ直前は、人生の残りかすだとみなされる。しかし仏教では、働く時期
は人生のうち四分の一の意味をもつにすぎないとみなすのですね」と応じた。
 上人はさらに、「そうです。この考え方は、日本国を救う上でも必要です。い
ま、日本の健康保険予算の七割は、死ぬ直前の一週間のターミナル・ケアに使わ
れている。生命維持装置とかは、一分使えば何万円というものですからね。そう
までして死を一週間伸ばすことに、どんな意味がありますか。死は終わりではな
く、来世への入口にすぎないのですよ」と述べた。私はそれに、「西洋の近代哲
学では、人間の人間たるゆえんは、理性の存在だとみなします。だから動物は、
理性をもたない機械にすぎない。そして理性の働きは、外界を観察し、操作し、
物を生み出してゆくことです。身体は、理性が外界に働きかけるための道具にす
ぎない。だから、物を生み出せなくなったら、もう理性の働きがなくなったのと
同じで、人間としては『終わった』ものとみなされてしまう。だから『引退』や
『死』を恐れ、『まだ働ける、まだ物が造れる、まだ生きている』ということに
固執するのではないでしょうか」と答えた。
 こういう社会学や近代思想の話をすると、上人は「私が宗教からたどりついた
結論に、あなたは学問から至ったんですね」という。私は、「入口はどこからで
もよいことですよ」と述べ、こう続けた。「宗教者が『魂の医者』であるよう
に、人文社会科学の学者は『意識の医者』であると思っています。人は近代社会
の不安に耐えきれず、何らかのアイデンティティを求めようとする。それは人間
の業のようなものですが、まかりまちがえば、原理主義やナショナリズムのよう
な、極端なアイデンティティにはまりこんでしまう。それはいわば、『意識の病
気』です。そういう病気から回復することを助ける医者として、学者はいるのだ
と思っています。」
 寺院に到着したのは7時だったが、会話は食事(おいしい日本風の煮物とうど
んだった)をはさんですでに6時間ちかく続き、午前1時になっていた。泊まっ
てもっと話していかないかと言われたが、私のほうはもうグロッキー状態に近か
った。私も議論好きだが、上人はそれ以上にタフな人である。さすがスラム生活
十数年で、異国に寺を二つも建てた人はすごい。
 上人は「たいへん楽しかった。またお会いしましょう」といって、別れ際に数
珠をくれた。私をラジブ邸にもどすため、タクシーをよんでくれた上人は、寺院
の門前で合唱しながら見送ってくれた。

 2月10日(木) 曇ときどき雨
 明日はベナレスへ講演に行かなければならない。体力温存のため今日は執筆作
業に専念しようと思ったが、午前一〇時ごろに停電。デリーでは、三日か四日に
一度くらいの頻度で、停電がある。パソコンが使えないので執筆は中止、外出に
切りかえる。
 近所でリクシャーを拾って出発。もうこの周辺のリクシャーの運転手には知ら
れた顔になってしまったので、ふっかけられることは少なくなった。
 まずは東京三菱銀行の支店にゆき、旅行の準備のため、トラベラーズ・チェッ
クをルピーの現金にとりかえる。ここから「デリーの銀座」コンノート・プレイ
スまではすぐ近くなので、歩いていると、「旦那、靴に牛糞が付いてますぜ、私
が20ルピーで磨きますぜ」という声。国際交流基金の小川氏から、最近この手
のやり口がコンノート付近で多いと聞いている。観光客とみると仲間が牛糞をひ
っかけ、靴磨きが声をかけるのである。
 「気にしないからいいよ」と言って歩きつづけると、「だったら10ルピー、
いや5ルピーでいいです」という。まんまと手に乗るのもしゃくだが、牛糞を自
分で拭うのもたいへんなので、5ルピーでOK。磨きはじめると、「わたしゃラジ
ャスタン州の奥から来たんです。ラジャスタンには古いお城がたくさんあります
よ」とかやたら愛想がよい。英語が話せるということは、地方のハイスクールぐ
らいは通ったのだろうか。NGOのティワーリー氏は、「数少ない小学校卒業生
が、都会に行ってしまう。都会に行ってもろくな働き口がないのに」と言ってい
たが、その実例かもしれない。
 ところがこの靴磨き屋、仕事が終わると「5ルピーは牛糞を拭うだけ、スペシ
ャルの靴墨で磨いたから100ルピー」とか言い出した。ふざけるなといって5
ルピーだけ渡そうとするとゴネはじめ、言い合っていると、「また観光客がぼら
れてる」というふうに周囲に見物人が集まってくる。まったく観光ポイント周辺
にくると、ロクなことがない。うるさいのでさっさと約束の金額を渡し、先を急
ぐ。
 コンノートにきたのは、土産に買う楽器をみるためだ。楽器屋でシタールやハ
ーモニウムなど、自分のバンドに導入できそうな楽器を物色し、だいたいの値段
を聞く。今日は荷物になるからまた来るといって、リクシャーに乗って工芸博物
館にむかう。
 工芸博物館は、ラジブ氏もお勧めで、デリーの知識人のあいだでは評判のよい
博物館だ。到着するとなかなか手入れの行き届いたきれいな博物館で入場無料、
1981年に当時の大統領が「国家に捧げた」ものらしい。中に入ってみると、
いわゆる「指定部族」(少数民族)や田舎の民芸品、各地の工芸品などが集めて
ある。なんとなく、柳宗悦が目黒に設立した「日本民藝館」の大型版という感
じ。現代の民芸作家の特別展が開かれているのも、「民芸品」の模造品を売るみ
やげ物売店があるのも、「日本民藝館」とよく似ている
 この工芸博物館の中庭には、「マディアプラデシュ州の農村の家」が実物大で
再現してあった。地元の人にとっては、何の変哲もない農家である。こういうも
のを、珍しがって見物する都市のニューリッチが、デリーにも台頭しているのだ
ろうか? 中庭の奥にゆくと、「民芸実演会場」があり、「農村民家風」の売店
がならんで、ツボを造ったり織物を並べたりしながら即売会をやっていた。
 全体に、インドの博物館としては抜群にきれいで、展示も良心的で企画力が感
じられる博物館。まじめな博物館だけに、付属の図書室まであり、民芸について
勉強もできるようになっている。会場にあった「感想ノート」をみると、知識人
や欧米からの観光客からは絶賛が寄せられていた。そりゃ、展示がきれいで、
「いかにもインド」の民芸品が並んでいれば、観光客は喜ぶだろう。しかしこち
らがひねくれているのか、やはり「いかにもの民芸品」というか、やや「プリミ
ティヴィズム」(「文明人」が「野蛮人」の「民芸品」見物するの図)ではない
かという感は拭えなかった。
 この博物館でいちばんおもしろかったのは、写真家のバーソロミュー・パブロ
が撮影した、少数民族ナガ族の写真展。会期限定の特別展示である。ナガ族はミ
ャンマー国境にちかいアッサム地方の少数民族で、日本軍がチャンドラ・ボース
を援助してインドに攻めこんだ「インパール作戦」のさいに、戦場になった地域
の住民だ。
 展示の解説によれば、ナガ族は自分たちの国家をもたず、ビルマ王国、イギリ
ス、インドと支配者が変わってきた。独立後のインドに編入されてからは、自治
をもとめてインド政府と交渉し、1963年に自治州の座を獲得したものの、独
立を求める反乱が絶えず、一九七五年に大統領直轄領になってしまった。住民は
モンゴロイドで、35の部族と60の方言があり、各部族の共通語はヒンディー
語と英語、そして「ナガメセ」とよばれるブロークンのアッサム語だ。ミャンマ
ーのカレン族などと同様に、イギリス支配下では宣教師が入り、いまではナガ族
の3分の2がキリスト教徒、1割が在来のアニミズム、残りが他宗派だという。
産業の中心は、米作をはじめとした農業である。
 展示の解説によれば、パブロ氏の父親は戦争前にビルマに住んでいて、その父
親がビルマに侵攻した日本軍に追われて逃亡するさい、ナガ族の部落で食料をも
らったというエピソードを、パブロ氏は子供のころから聞かされていたという。
パブロ氏はデリーの高校をドロップアウトしたあと、手工に興味をもってアート
カレッジに進んだが、そこにナガ族出身の友人がいた。そうしたことがきっかけ
で、1989年から6年ほどナガ族の村に通い、写真を撮影したのだという。
 展示は、明らかにナガ族への深い共感が伝わってくるもの。入口正面には、伝
統衣装に身を包んだナガの老戦士や、花嫁の巨大なパネル。人物が、いかにも尊
厳をもったかたちで写っている写真である。部落の生活や祭りの様子が写真で語
られ、最後はインド軍と戦ったナガ独立運動軍将校の墓の写真。キリスト教式の
十字架が書かれた石の墓で、碑銘はヒンディー語ではもちろんなく、英語で書い
てあった。ナショナリスティックな展示の多いインドの博物館のなかにあって、
こういう展示ははじめて見る。
 しかしこの展示のおもしろいところは、伝統文化賛美一本槍ではないこと。展
示の後半には、キリスト教式の村の結婚式で、花嫁・花婿や友人が洋服を着てパ
ーティをしている様子が写っている。ナガの伝統的な戦士の絵が描かれた壁に、
ギターが立てかけてある写真もある。伝統様式だけを撮ろうとする写真家は、し
ばしば老人や祭りだけを写し、近代化した日常生活を関心から排除してしまうも
のだ。これは一見相手に同乗しているようにみえて、じつは自己に都合がよいよ
うに相手のイメージを操作してしまう行為なのだが、ここでは「伝統文化」以外
の「ナガ族の現在」が写されている。
 展示のラストは墓だが、ラスト前の写真は、ナガ族の結婚式にカメラを向ける
人々の写真。他人を写すはずのカメラマンが、写される対象となるという逆説。
私もインドの人々にカメラを向けるとき、あるいは観察するときには、「自分は
相手にどう映っているのか」をしばしば考える。「撮影するという行為」は、
「相手を一方的に自己の都合で描き出すこと」に通じやすく、その恐ろしさに自
覚的なカメラマンは、「写す」ということに自省的だ。このパブロ氏も、そうい
う自覚の持主なのだろう。
 いったんラジブ邸にもどり、夜に再出発(あまり飛び回るので、プニマ夫人が
あきれていた)。7時から、国際交流基金の企画で、沖縄舞踊団が公演するので
ある。場所は「インドの国立劇場」みたいな、シュリラム・センター。堂々とし
た建物の、1000人弱くらいは収容できそうな広い講堂に着くと、小川氏が忙
しそうに最前列に座った日印のお偉方の相手をしている。
 小川氏夫人の藤岡氏も現れ、一緒に座席につく。会場は先日の現代舞踊がガラ
ガラだったのにたいし、中産層の家族連れやインテリ風の人々で超満員。藤岡氏
の話では、「『日本の舞踊』といったら、現代舞踊より伝統舞踊のほうが喜ばれ
るし、今回はチラシもよかったから」という。チラシは、白塗りの顔の女性が扇
を持って踊り、金屏風に松の絵がバックの写真もあしらうという、異国趣味を思
いきりかきたてるものである。
 開演前に、小川氏や日本からの大使の挨拶。小川氏は沖縄文化の独自性を強調
し、チラシの裏の解説には琉球がむかし一つの王国だったことが書かれていた
が、インドの観客に日本舞踊と沖縄舞踊の区別がつくかは疑問である。
 次に挨拶に立った大使は、日印親善を強調した挨拶を、前半はヒンディー語で
披露。彼はいつもスピーチの前半はヒンディー語でやるそうで、今回も観客の好
感と笑いを得ていた。外国人が受け入れられるいちばん簡単な方法の一つは、下
手な発音で現地語を話すことで、日本の大相撲の千秋楽にも、和服を着てなぜか
何年経ってもヘタな日本語で「ヒョ−ショージョー(表彰状)」と読み上げる
「外人さん」がウケる。中村上人に聞いた話では、以前の大使には、インド側の
要人と会うときはいつも紋付袴に着替えるという人もいたそうで、なかなかみん
な多様な適応戦略をつかう。
 もっとも、「ヘタなヒンディー語」という戦略も、日本が経済力によってイン
ド側から認められているから通用する。以前に韓国で教えた日本の大学教授に聞
いた話では、「韓国の学生たちは日本人や欧米人がヘタな韓国語で話す喜ぶが、
中国人が同じことをすると容赦なく馬鹿にする」といっていた。大相撲の「ヒョ
−ショージョー」のオジサンがウケていたのも、彼が白人であるからだ。もとも
とコンプレックスを持っている相手が、自分の土俵に入ってきてくれて「ヘタ」
だからウケるわけで、自分がふだんから馬鹿にしている相手が「ヘタ」でもこの
「面白味」は出ない。ここデリーでも、マリやウガンダの大使は、ヘタなヒンデ
ィー語でスピーチするより、キングス・イングリッシュでスピーチしたほうがよ
いのではなかろうか?
 大使の努力は評価したいが、ヒンディー語でスピーチをしても、この国にはヒ
ンディー語がわからない人たちもたくさんいる。相手国の多数派に適応すること
は、ときに少数派の無視につながる。ヒンディー語はいわば「インドの標準語」
ではあるが、沖縄で日本標準語の強制があった歴史を考えれば、「沖縄舞踊団の
前でヒンディー語」はなかなか複雑である。
 挨拶が終わって、舞踊がはじまる。プログラムはまず、「伝統舞踊」と題した
琉球宮廷舞踊からはじまった。沖縄服を着て、メイクアップを施したダンサーが
並ぶと、観客は物珍しさでカメラをいっせいにむける。進行はなかなか巧みで、
静かな「伝統舞踊」ではじめ、次ににぎやかな「フォークダンス」(漁民の踊り
など)に進む。そして「武闘踊り」と題して「カラテ」や「ヌンチャク」(ダン
サーが出てきて空手の振りをしたりヌンチャクを振り回したりする)が披露され
ると、会場は拍手の嵐。最後は「祭り舞踊」として「獅子舞」で、金色で派手に
デコレイトされた獅子が踊ったり転がったりし、子供たちに大受け。最後に舞踊
家たちは最前列のインド人を舞台にひっぱりあげ、大舞踊大会で幕。観客たち
は、大満足の表情で帰っていった。
 もちろん、インド人たちは、好奇心とオリエンタリズムを満足させたにすぎな
いだろう。昔は一緒に踊ることなどありえなかった宮廷舞踊と漁民舞踊が「沖縄
舞踊」という言葉のもとに並列に演じられるのも、ほんらいなら一晩でも踊り明
かす漁民の踊りがきっちり三分で終わるのも、近代の現象であることはいうまで
もない。しかしとりあえず、今日の観客だったインド人たちは「オキナワ」の名
前を記憶したはずだ。沖縄舞踊団は沖縄の芸術大学の教師と学生たちだそうだ
が、なかなかのエンターテイナーで輸出仕様の舞踊をみせる。沖縄は観光で食べ
ている島でもあるし、県が舞踊や島歌をバックアップしていることもあって、観
客慣れしているのだろう。変に「伝統」にこだわった舞踊をみせられるより、輸
出仕様のエンターテイメントに徹した姿勢はむしろ潔いと思った。
 帰りは、小川氏夫人の藤岡氏と食事。在デリー日本人女性の話になる。駐在員
は日本社会のエリートだから、その女性も高学歴。そうした女性が、夫の赴任に
したがって、日本での仕事をやめてデリーに来ている。なかでもアジアへのまじ
めな関心をもつ人は、つい「がんばりすぎて」しまう傾向があるらしい。学習会
を開いたり、ヒンディー語を勉強したり、とにかく「帰国したあとに活かせるも
のを学ぼう」という意識が強くなる。しかしなかには、がんばり過ぎでストレス
がたまり、体調を崩す人などもいるそうだ。
 その話を聞いて私は、昨日の中村上人との会話を思い出した。現在の生活は、
未来へのステップという意識。昨日よりは今日、今日よりは明日と、前進し進歩
しなければならないという観念。勉強し、生産していなければ、人生は無に等し
いという価値観。そうしたものが生産性をあげることもあるが、行過ぎれば当人
を追い詰める。もちろん、女性(だけではない)がその能力を活かせる社会を考
えることが大切なのだが、その前に体をこわしてしまうのでは元も子もない。
 「自由の重荷」。女性詩人をイスラム教に改宗させ、インドの若者たちを出世
競争にかりたて、原理主義を求める不安を生み出す近代の病い。インド在住日本
女性の問題は、現代社会の普遍的な問題の現れなのだ。そして私は、誰よりも自
分が「重病」であることを知っているからこそ、それを研究せずにはいられない
のである。

 2月11日(金) 曇
 今日からベナレスである。朝九時にラジブ邸を出て、10時40分発の飛行機
で11時半にはベナレスに到着。日本人団体客が同乗していたが、もう一団アジ
ア系の団体が乗っていたので、声をかけてみたらタイのバンコクからの観光客だ
った。
 ベナレスに行くにあたって、小川氏からアドバイスがあった。『ウオーター』
という映画がベナレスで撮影されようとしていたのだが、それが原理主義者のデ
モによる妨害で中止に追い込まれてしまった事件があり、それについて現地の意
見を聞いたほうがよいというのである。『ウオーター』は、レズビアン描写を含
んでいるとのことで原理主義者から非難された『ファイヤー』の監督の続作。原
理主義者たちは、ヒンズーの聖都であるベナレスでこの監督が続作を撮影するこ
とを「冒涜的行為」とみなし、攻撃したのである。撮影が中止されたのはつい昨
日のことで、この件で何か聞けることがあればおもしろいだろうというのが、小
川氏の考えだった。
 ベナレスの空港に着くと、国際交流基金の予約した観光会社のタクシーと、講
義先のベナレス・ヒンズー大学のアル−ナ歴史学部長(女性)、そして同大学の
日本語講師である杉本昭夫氏が待っていた。杉本氏はまだ28歳の男性である。
今回講義をするベナレス・ヒンズー大学は、デリー大学のように日本研究科はな
いが、もともと日本から多くの仏教研究者や中根千恵などの人類学者が留学した
ことで知られている。また現在の副学長の奥さんが日本人であることもあり、交
流基金としてはこの大学のスタッフに日本への関心を増大させようと、時々講師
を送り込んでいるのである。この大学の留学生でヒンディー語が堪能で、日本語
の非常勤講師としても勤めている杉本氏は、私の案内役にこの副学長夫人から派
遣されてきたのだ。
 観光会社社員はカルカッタのときに会ったブルマン青年のような愛想たっぷり
の人ではなく、事務的に用事をすますと、あとは運転手に任せて消えてしまう。
残りの一同でむかった宿泊先のクラーク・ホテルは、例によって国際交流基金の
予約だけあり、ずいぶんと豪華なところ。大理石のロビーのソファで明日の講義
の打合せを簡単にすませ、杉本氏とは夕方またガンジス川の川端で会うことにし
て、市内観光に出かける。
 ベナレスは、デリーやカルカッタにくらべると中型都市という感じの町だ。人
口は二百万前後あるらしいが、空港からホテルに向かうまでの風景は、舗装され
た一本道の両側にマスタードの黄色い花が咲く、典型的なインドの農村風景。宿
泊するホテルがある新市街は、デリーのような大都会というより、先日ティワー
リー氏のNGOを訪ねたときに列車を降りた地方都市サハランプールのほうが近
い印象。
 ガンジス川に近い部分が旧市街だが、そこも細い道で人口が密集した庶民的な
平屋建ての店が続き、デリーのように新しいビルが建っているわけでも、カルカ
ッタのように歴史を感じさせる西洋式建築が連なっているわけでもない。強いて
いえば、日本では一昔前の地方都市によくあった商店街のような感じ。デリーと
ちがって道は細くてあまり舗装が行き届かず、自動車はごく少なくて、交通手段
の大部分は自転車、あるいは自転車が引く人力リクシャー。まばらにオートバイ
やオートリクシャーが通る。農村部が近いだけあって、牛・犬・ヤギの類はごろ
ごろいた。
 まずむかったのは、バーラトマーター寺院。ここは寺院といっても、宗教的な
神を祭っているわけではなく、巨大な大理石のインド地図が「本尊」になってい
る。マーターは「母」、バーラトは「インド」という意味で、いわば「母国」そ
のものを神様としている寺院である。植民地化されたインドをレイプされた女性
にたとえ、男たちが救援に立ちあがるという言説は、独立運動いらいインド・ナ
ショナリズムの定番である。
 到着すると、大理石造りだが、何となく薄汚い寺院。中に入ると、確かに十数
メートル四方のプールのような囲いがあり、中に大理石を浮き彫りにした大きな
インドの立体地図がある。インド地図といっても、いわば衛星写真風で国境はな
く、スリランカやパキスタンも含んだインド亜大陸全体を示したもの。この巨大
地図の周囲には、ガンジーやチャンドラ・ボース、ネルー、インディラ・ガンジ
ーなどの肖像が飾ってある。すっかり汚れた外壁には、もうよく読めなくなって
いるが、インドを中心とした地球図と宇宙図、そしてインドの歴史的発展が示し
てあった。
 寺院の常で入場料はないが、係員が隅の売店でみやげ物を売っている。みると
ベナレス地図やインド神話の絵葉書など典型的みやげ物で、とくに愛国思想的な
ものは見当たらない。掲示はヒンディー語のみで読めなかったので、係員にこの
寺の歴史を聞くと、植民地時代の1936年にガンジーの友人だったシュープラ
サッド・グプタが創立したと言っていた。
 カルカッタの妙法寺の経験からいっても、この種の係員情報はあまり正確でな
いこともあるが、どうやら植民地時代に愛国運動の一環として建てられたものに
はちがいない。寺院内には、みやげ物コーナーの商品を除けばヒンズー趣味を排
除してあり、宗教的ないし文化的シンボルに依拠しない「インドそのもの」への
崇拝を創り出そうとした意欲がうかがえる。
 しかしその「母国インド」思想にくらべ、この薄汚れかたと、みやげ物しか売
っていない売店は、いささかみすぼらしい。寺の周囲では、こうした「インドそ
のもの」の崇拝とは関係なく、折からのヒンズー教関係の祭りでにぎわってい
た。ガンジーを中核とした独立運動神話はヒンズー至上主義にくらべてすたれ気
味で、ネルーやインディラ・ガンジーを生んだ国民会議派も「インドの右翼」人
民党に第一党の座をあけわたしている状況のなかで、寺のみすぼらしさが何とな
く象徴的に感じられた。
 この寺院を出て、有名なヴィシュワナート寺院にむかう。この寺院はヒンズー
のシヴァ神信仰の中心地で、5世紀に開設されたといわれるが、12世紀以降の
イスラム勢力の侵攻で破壊され、イスラムのモスクに改造されてしまったという
場所である。現在はモスクがメインの部分を占め、ヒンズーの寺院はやや隅のほ
うに残っている。いわばインドの宗教対立の象徴的存在で、現在は政府が厳戒態
勢を敷いている。
 この寺院はガンジス河の近くにあるが、お祭りの行進で渋滞して進めない。よ
うやく到着して降りると、観光客狙いのタカリ屋がたくさん寄ってきて、カタコ
トの日本語や英語で盛んに話しかけてくる。ヴィシュワナート寺院へ行くには大
通りから門前市になっているかなり細い道を抜けていかなければならないのだ
が、これらタカリ屋たちは店に連れ込もうとしたり、ガイドと称してあらぬ方向
に誘導したりする(人気のないところ連れ込んで金品を奪うのである)。
 それらを無視して門前市を抜けてゆくと、ラウドスピーカーでヒンズーの説教
を流しているのが聞こえはじめ、寺院に到着する。寺院の周辺は兵隊だらけで、
モスクはまったく近づけず、その横ではヒンズー側の集会が開かれていて、ばか
でかい音で説教の放送をしている。ヒンズー側の寺院にはヒンズー教徒以外は入
れないので、20ルピー支払って近所にあるみやげ物屋の三階の窓から外観を見
学する。金で装飾されているのでゴールデン・テンプルと通称されるが、あたり
は野良のサルだらけだ。寺はどうということはなかったが、とにかく警戒の厳重
さと、モスクを取り囲むようにラウドスピーカーを配置して放送されるヒンズー
の説教の音量が印象に残った。
 ガンジス川が近いので、歩いて川端に出て、河を見下ろす縁台に立つ。観光客
狙いの「自称ガイド」や、河くだりのボート屋が次々に声をかけてくるので、落
ち着いて流れを見ているという雰囲気ではない。冬なので沐浴する人は少なく、
川沿いは出店と観光客でごった返していた。インドの「観光ポイント」に徘徊し
ているタカリ屋にはもううんざりしていたので、ベナレスはあまりよい記憶は残
らないかなと思っているうちに、ヒンズー大学の杉本氏が到着した。
 杉本氏は、今日の午後は日本からやってきた琴の演奏家の一団(先日の沖縄舞
踊団のように、インドを巡回しているのである)の案内をしたあと、夕方にはイ
ンド人の友人を訪ねるというので、それに同行させてもらう約束をしていたので
ある。もう観光ポイントは飽きていたので、普通の人の夕食に招待してもらうの
に随行したかったのだ。
 まだ時間が早いので、杉本氏にガンジス川沿いの火葬場を案内してもらいなが
ら、彼のこれまでの人生を聞く。彼は大学時にインドを一度旅行したあと、アジ
ア進出で有名になった八百屋チェーンである「ヤオハン」に入社した。ところが
会社の経営の様子がおかしくなってきたのを察知して勤務二年でやめ(その後ヤ
オハンは倒産した)、「なんとなく」ここベナレスのヒンズー大学に留学し、ヒ
ンディー語を勉強しているのだという。ベナレス在住は二年になる。
 その昔、三島由紀夫が感動したという火葬風景をみながら、マキで死体を焼く
煙にとりまかれつつ、杉本氏と話がつづく。彼はヒンズー大学で日本語の非常勤
講師をしているが、ヤオハン時代の知識を活かして、そのうちにインドでスーパ
ーを開くのが夢だそうだ。インドに長期滞在する人間は学問や音楽、あるいはヨ
ガなどに関心をもつ人が多いが、彼の場合は夢がビジネスというのがおもしろい
と思った。
 こちらは、自分なりのインド観から、インドでスーパーを開く場合を想定して
話をする。たしかにインドにスーパーはない。それはおそらく、完全分業社会で
「八百屋は八百屋、肉屋は肉屋」というかたちに分れていること、定価販売が定
着していないこと、地縁や血縁のネットワークが物を言う社会なので大規模流通
や仕入れが容易でないこと、などの理由からだろうと意見を述べた。
 近代日本でも事情はほぼ同じで、各種の品物が買える店という発想はなかっ
た。デパートやスーパーの原型は、最初は「一箇所で買えて便利だから」という
理由からではなく、「そこに行くといろいろ見れて楽しい」というかたちで始ま
っている。明治初期の勘工場がそれで、入口で入場料を払い、文明開化の品々を
出品している各種の出店を見まわるという、いわばフェア形式の見本市のような
ものだ。定価販売や大量仕入れによる値下げというシステムが定着していないと
ころでは、「安さ」や「便利さ」を売り物にするよりも、むしろ「物珍しさ」を
売り物にして都市の新興中産層をターゲットにしてはどうか、というのが私の意
見だった。彼はそれなりに面白がって聞いていた。
 火葬場からもとの縁台にもどり、彼の地元の友人チョテラルに会う。チョテラ
ルはガンジスのボート屋で、暴利ではなく手堅い商売を心がけているという。た
だし最近、運良く公務員に採用されたので、もうボート屋は兄弟にまかせるのだ
そうだ。海軍の事務職で、タイピストに採用されたのだという。杉本氏によれ
ば、「ふつうは賄賂とかを使わないと採用されるのは難しいんですけど、彼の場
合はそれなしでうまくいったので、家族みんな大喜びらしいです」とのことだ。
 この国では安定して収入の多い公務員になれるのが一つの理想で、とくに軍関
係は待遇がよい。その日稼ぎのボート屋よりは、たしかによい仕事なのだろう。
ボート屋の人々のカーストはもともとガンジス川の漁師で、低位カーストであ
る。公務員採用は平等化促進のため低位カーストの枠があり、それにチョテラル
は当たったのだ。
 ボート屋の稼ぎは一家総出で月収5000ルピーくらいなのに、チョテラルの
月収は一人だけでほ同額になる。公務員の座が、憧れの的になるのも無理はな
い。NGOのティワーリー氏が、「この国では植民地時代から公務員になるのが
教育を受ける目的だという風潮があって、せっかく教育を受けた若者がみんな政
府機関や軍に行ってしまう」と嘆いていたことを思い出す。
 そのチョテラルを含むニシャッド一家の住居は、川沿いからほんの少し、細い
路地を入ったところにあった。杉本氏の話では、このあたりは一八世紀初頭にラ
ジャスタン(デリーより西部の州で細密画で有名)の王族が別荘として建てた遺
跡で、二百年ほど前から地元の人々がそこに住みついているのだという。独立後
はラジャスタン州の所有になり、さらにインド政府直轄地となって、政府は人々
を追い出そうと試みたそうだが、結局はそのまま住んでいるのだそうだ。そうい
えば日本でも、東京大学の敷地に敗戦直後の混乱期にバラックを建てて住みつい
た人々が、結局そのまま既得権を認められた例があった(やや居住年数のケタが
ちがうが)。
 くねくねと曲がりくねった路地裏に、小さな入り口があった。石造りの遺跡の
一角を住居にしているのだ。中に入ると、3メートルほど廊下兼台所があり、そ
の奥に5メートル四方ほどの部屋がある。あとは、玄関の横に二畳ほどの小部屋
と、数メートル四方の物置があるだけだ。遺跡だけあって石造りだが、ラジブ邸
が二階建てで7つから8つの部屋があるのとは大きくちがう。西洋風の靴履き生
活であるラジブ家やタンカ家とも異なり、ここは靴を表で脱ぎ、みんな石床の上
に薄い毛布を敷いて座っている。
 杉本氏の友人チョテラルは、このニシャッド家の三男。彼はまだ独身だが、兄
たちは結婚しており、それぞれ5人と3人の子供がいる。さらに彼らの両親、そ
れに二人の甥をくわえ、合計一七人がこの家に住む。この家族の大部分が、5メ
ートル四方の一室や玄関口で寝るのである。ベナレス旧市街の人口密度は高いと
聞いていたが、インドの庶民的住生活はこんな感じかもしれない。チョテラルの
父親は一度離婚しており、その先妻の子供たちも結婚して周辺に住んでいるとい
うから、かなりの人数になる一族のようだ。
 しかし、この家族は貧困層ではない。彼の友人チョテラルは公務員に採用され
たし(「それからここの家の食事もよくなりました」と杉本氏はいう)、何より
子供たちは全員学校に行っている。そしてチョテラルは、なんとベナレス・ヒン
ズー大学で勉強したこともあるという。大学で学んでも職がないからボート屋を
やっていたのだ。杉本氏によれば「階層は下の上といったとろでしょう」とのこ
とだが、インド商工会議所の定義では「中間層」は年収12万ルピー以上の階層
だから、家族総出のボート屋とチョテラルの月収で合計月に一万ルピーを稼ぐこ
の一家は、すでに「中間層」の最下部に位置している。
 そして彼らの部屋も、狭いながらミッキーマウスの壁掛けやカレンダー、映画
のポスターなどで飾られ、蛍光灯や煮炊き用のガスボンベもあり、アイワのテレ
ビとミニコンポが置いてある。家具は当然ながら少なく、あとはトランクが大小
5つほどと戸棚があるくらいだが、とにかくテレビとミニコンポはあるのだ。も
っとも、この二つは杉本氏が不要になったものをあげたそうだが、以前から中古
で買ったテレビとコンポがあったそうだし、先日農村に行ったときも、ほかには
何もない農家にテレビはあった。この一家のテレビも6年から7年前に導入され
たそうだが、92年に経済開放政策がはじまっていらいの高度成長の波に乗りつ
つある家族といえそうだ。この近所のコミュニティからも、音楽がガンガン聞こ
えてくる。
 「とにかくテレビが楽しみみたいですね。みんな何はなくともテレビを買う」
と杉本氏がいう。テレビ・ミニコンポ・アイロンが、現在のインドの「三種の神
器」だそうだ。子供の一人は、「インドじゃ『君のモバイル(携帯電話)ナンバ
ーは何番』という曲が流行っているんだ」という。携帯電話はデリーでも一種の
ステイタス・シンボルで、たいした用もあるとは思えないのに、自慢げに携帯電
話をとりだして電話をしている人をみかける。「アメリカのエリートみたいでか
っこいい」のだろう。グローバライゼーションの波は、インドに確実に押し寄せ
ているのだ。
 杉本氏とこのニシャッド一家は、もう2年以上のつきあいで、「インドでの家
族」だそうだ。杉本氏は、「とにかく、いったん身内と認められると、もうほん
とに暖かいです。テレビとかあげたけど、『何かくれ』なんて言われたことは一
度もない」という。地縁・血縁社会は、「よそ者」には冷たいが、「身内」には
とても暖かい。観光客相手にはよそよそしい人々も、家庭ではこのような生活を
送っているのだろう。ヒンディー語を話す日本人は珍しく、杉本氏はこの一帯で
は知られた顔らしい。私を連れてきたことについては、「もともとお客は歓迎さ
れるし、何より女性たちにとっては家庭内だけが世界だから、そこに友人が外国
人を連れてくれば喜びます」とのことだ。
 子供たちや女性たちは、いれかわり立ち代りに私の顔をのぞきにくる。例によ
って「あなたは男か女か」という質問があったあと、若い女性たちは私の髪の毛
を結いたいと言い出し、どうぞご自由にといったら、ついに留め輪やピンを持ち
出して結ってしまった。子供たちは、さかんに写真をとってくれとか、自分でカ
メラを使いたいという。カメラはまださほど普及していないし、何よりフィルム
が一本100ルピー(現地感覚だと約五千円から一万円)ほどするので、めった
に撮影できるものではないのだ。一家のお母さんが、孫の誕生パーティのときに
撮影した家族写真をみせてくれたが、これは特別の機会のものなのだろう。
 そのうちに、この一家の長男の長男であるサッティサ君が、英語で話しかけて
くる。一五歳だそうで、ハイスクールの九年生だそうだ。この家で英語がそれな
りにできるのは、彼を含め数人であり、女性たちはほとんどできない。
 サッティサ君は、「日本では何年生くらいになったら読書きができるか」と聞
く。だいたい小学校4年くらいになったら漢字を含めかなり可能だろうといった
ら、「早いんだな。こちらでは小学校を卒業しても読書きができない人がたくさ
んいる。それにヒンディー語の時間のあとには英語の時間が多くて、社会科学や
理科の時間は少ない」という。中等・高等教育を受けるためには英語を学ばなけ
ればならないという負担が、この国の教育にもたらしている影響ははかりしれな
い。
 職業と年齢を聞かれたので、大学教授で37歳と答えると、二二歳にしか見え
ないといって信じない様子。パスポートを見せ年齢を証明したが、まだ半信半
疑。「ホンモノの大学教授だ。信じろよ」などとくりかえしたから、かえって怪
しげに聞こえたかもしれない。杉本氏は、「格差の大きいこの国では、大学教授
といったらこの人たちにとって雲の上の人ですからね。そんな人が遊びに来るな
んてありえないと思っている。冗談だと思われても仕方がない」という。
 どこに宿泊しているのかと聞かれたので、クラーク・ホテルだと答えると、兄
弟たちがのけぞった。彼らにしてみれば、一泊で数ヶ月分の収入が吹っ飛ぶホテ
ルの名前である。続いて「では月収はいくらか」と聞くので、正直にルピーに換
算して答えると、これまたのけぞる。農村に行ったときもそうだったが、庶民か
らの質問はまず「男か女か」「国はどこか」で、その次はたいてい「結婚してい
るか」「収入はいくらか」と相場が決まっているのだ。
 しかしこちらが、「いいかい。東京のインド料理屋では、サモサ(インドのオ
ニギリ)が一個2ドル、チャイが一杯4ドルはする。稼いでいるようでも物価が
高いんだ」というと、大笑いになった。これはほとんど、「オニギリ一個一万
円、お茶一杯二万円」というふうに彼らには聞こえている。「それだったら、僕
らがサモサを東京に送るから、あなたが一個一ドルで街頭で売ってくれ。儲けを
分け合ってもいい商売になる」と言われた。
 表では、やたら派手な音楽が聞こえている。聞くと、今日はヒンズー神話では
学問と音楽の女神であるサラスヴァティをまつるお祭りの後夜祭で、各地のコミ
ュニティの人々がそれぞれの女神像の前で踊ったあと、その女神像をガンジス川
に流す日なのだという。誘われて表に出ると、高さ80センチくらいの極彩色の
女神像の前で、大きなステレオスピーカーを置いて映画音楽をかけ、近所の子供
たちが踊りまわっている。
 みんな私にむかって、一緒に踊れといって寄ってくる。しばらく一緒に踊った
が、インドの手振り腰振りはむずかしく、子供たちが笑いながら私をとりまき見
本を示してくれる。みな私にむかって「フォト! フォト!」(写真のこと)と
叫び、写真をとってやると大喜び。住所も知らない人間に撮影されたところで、
写真がもらえるあてはないのだが、とにかく暗夜にフラッシュが光るだけで、何
やら祭りの最後にマジック・パワーの花火を打ち上げたような気分になるらし
い。
 踊り終えてニシャッド家にもどり、簡素だがおいしい夕食をいただく。しばら
く子供たちの相手をしておいとまし、8時過ぎに外に出た。杉本氏の案内でこの
遺跡コミュニティの細い路地を抜けて、表通りに出る。すると通りは、ベナレス
周辺の各コミュニティから、女神像をガンジスへ運ぶ群衆で埋まっていた。
 ものすごい行列だった。大型トラックやトラクター、オートリクシャー、牛車
など、ありとあらゆる車両が各コミュニティの女神像を積んで、ガンジス川を目
指している。トラックは市内のコミュニティ、トラクターや牛車は郊外の農村部
のコミュニティからやってきたのだろう。私が見ただけでも、女神像を乗せた車
両は、一〇〇台は軽くあったろう。それぞれが荷台の女神像にライティングを施
し、その車の後ろにはスピーカーを積んだ荷車が続いて音楽を大音響で流し、各
コミュニティの男や子供たちが踊りながらその車両に続く(女は見当たらなかっ
た)。観光客は夜間には外に出ないからほとんど見当たらず、群集はみな大はし
ゃぎで、外国人であるわれわれも踊りの輪にさそってくる。
 ガンジス河畔にもどってみると、ここも大混雑だった。大騒ぎをしたり太鼓を
叩いたりしながら女神像を船に乗せ、花火を打ち上げながらガンジスに沈めにゆ
く人々でいっぱいだ。写真を撮ってくれと次々にせがまれ、フラッシュを焚いて
やるとみな大喜び。貧しい彼らにとって、祭りの日はすべてを忘れたい瞬間であ
る以上、明日という日はないという勢いで盛り上がっている。
 ヒンズーの女神像という「伝統的」なものと、ライティング・スピーカー・自
動車といった「近代テクノロジー」の同居が、もっとも興味深かった。先日のデ
リーでのブックフェアでも、インド側出版社の出品で目立っていたのは、宗教や
ヨガの本と、コンピュータの本だった。両者を結ぶキーワードは、「マジック・
パワー」である。大行進の人々は、ラウドスピーカーやライティングを、魔法の
機械として楽しんでいるのだろう。
 ナイジェリアのミュージシャンが、西洋の電気楽器を使うと伝統が損なわれな
いのかと質問されたさいに、「逆だよ。神話のスピリットは新しいテクノロジー
を使ったほうが表現しやすいんだ」と言っていたことを思い出す。大行進の中に
は、蛍光灯をまるで『スター・ウオ−ズ』の戦士の剣みたいに「光の棒」として
全員に掲げさせ、行進していたコミュニティもあった。私はそこで彼らに、カメ
ラのフラッシュという、「魔法の花火」をそえてあげたというわけだ。
 しばらくこの大行進のなかを歩いたのが、おそらくこれまでのインドの日々の
なかで、もっとも劇的な体験だった。しばらく歩いたあと大行進はようやく途切
れ、杉本氏がホテルにもどるリクシャーをつかまえてくれる。夜中まで、大行進
の音楽はホテルにまで聞こえてきた。 
 
 2月12日(土) 曇のち晴
 朝はクラークホテルのルームサービスで、現地感覚で言えば「一万円の朝食」
をいただく。九時半からタクシーに乗り、昨日のガンジス河畔へ行く。
 10時になると、昨日のサッティサ君がやってきた。杉本氏がニシャッド家に
いるから、行けという。彼は朝のボート漕ぎの仕事を終えたので、近所の仲間と
クリケットをして遊びたいそうだ。ガンジスの日の出を見たいという観光客が多
いので、彼らを乗せるため、いつも5時に起きてボートを漕ぐのが彼の日常であ
る。
 ニシャッド家にゆくと、杉本氏が出てきた。昨日は暗くてよくわからなかった
が、確かにここは遺跡である。遺跡の屋上に案内されると、ラジャスタンのマハ
ラジャが作った天文台があり、野良サルがうろうろしていた。人が住んでいない
この遺跡の中心部は、もうすぐ政府経営の博物館になるそうで、のんびりと壁塗
り工事をやっているのが見える。「外国人観光客とかが住居のそばまで押し寄せ
て、子供たちに悪い影響を与えなければいいんですけど」と杉本氏はいう。
 コミュニティを出て、サッティサ君が漕ぐボートに乗せてもらう。相場だった
ら50ルピー、外国人観光客にはもっとふっかけるボート屋が多いが、「もう身
内あつかいだから、料金は受け取らないと思います」と杉本氏が言った。よくも
悪くも、インドに「定価」はない。しかし考えて見れば、相手が友達であろうと
見知らぬ外国人であろうと料金が同じということのほうが、近代社会になってか
ら発生した異常な価値観なのだ。
 ボートが漕ぎ出すと、昨日ガンジスに投げ込まれた女神像の残骸がたくさん浮
いている。木の芯にワラを巻き、土を塗って顔を描いたものなので、土が水に溶
けてワラ人形みたいになったのが流れているのだ。この流れ出た土や塗料が、河
の汚染問題にもなっているそうである。
 河畔では、流れ着いた「元女神像」を、マキや燃料にするため解体している
人々が多数いる。日本でも精霊流しのように川に宗教シンボルを流す習慣はある
が、再利用している風景は現在では珍しい。しかし江戸時代の豪商である紀伊国
屋文左衛門が、まだ無一文だったとき、お盆に使われたナスの馬が川に流された
あと漂着しているのを、漬物にして売ってもうけたという話は聞いたことがあ
る。
 女神像は、村やコミュニティの職人が作ったものが多いようだ。これもいずれ
は大量生産品のプラスチックとなり、川に投げ込まれても溶けたりしないように
なるのかもしれない。もっとも現在のインドでは、カースト制度で職人が固定し
て存在しているのと、労働賃金が低くて機械生産よりも安いから、女神像の製造
も手仕事だ。ボートもほとんど手漕ぎボートで、モーターボート(例によってデ
ィーゼルエンジンで排気ガスをもうもうと出していた)は数少ない。杉本氏は、
「燃料代も高いし、とにかく人があまっていて人力が安いから」という。
 しか一方で、変化は確実に押し寄せている。川沿いに係留してあるボートに
は、商品や市内のお店の広告を横腹に描いたものが目立つ。何より、いわゆるイ
ンド式の服を着ている男性や子供はごく少ない。若い男では外国人である杉本氏
くらいで、もっぱら老人と女性だけだ。これはベナレスだけでなく、デリーはも
ちろん農村でも感じた現象だ。「一〇年前に初めてインド旅行に来たときは、洋
服の人のほうが珍しかったんですけどね」と杉本氏はいう。
 しばらくボートに乗っていると、サッティサ君が「親戚の家に行くけどいい
か」という。観光ポイントより普通の家に関心があるので、もちろんこちらはO
K。川端の石段にボートを係留して上陸すると、あたりは沐浴する人、洗濯する
人、女神像の残骸を解体している人でいっぱいで、牛糞や洗濯物が所狭しと干し
てある。石段から階段を上り、さらに細い路地を抜け、狭い入口をくぐると、サ
ッティサ君の祖父が先妻との間にもうけた子供夫婦が住んでいる家につく。家と
いっても、数十年前に立ったとおぼしき迷路のような建物のなかの一角だ。
 家はニシャッド家より狭く、入口からすぐ3メートル四方くらいの部屋とな
り、奥に台所がある。夫婦二人と3人の子供で住んでいるそうだ。なんでも、親
や他の家族と折り合いが悪くなって、夫婦と子供だけで出ていった(といっても
近所だが)らしい。ラジブ家やタンカ家のような都市のインテリはもちろん核家
族だが、庶民でも大家族同居から核家族化への流れがある。
 チャイとビスケットのもてなしをうけながら観察すると、部屋は狭いがやはり
テレビとミンコンポ、ガスボンベ、蛍光灯などがある。ほかはランプ(停電が多
いのだろう)、クリケットのバット、鏡台、壁にはカレンダーと小さな本棚、ヒ
ンズー神のブロマイド数枚などがあった。すみっこをネズミがちょろちょろして
いるが、そんなことを気にしなければ、そこそこの暮しのようだ。細い路地のむ
こうからは、ファミコンのBGMらしい「イッツ・ア・スモール・ワールド」の
メロディーが聞こえた。
 それと同時に、ミニコンポの上には、しっかりとヒンズーの小さな神像が置い
てある。こうしたテクノロジーと神話の結合は、昨夜の祭りのような活気の源で
もあるが、しばしば言及しているように原理主義の基盤でもある。近年のヒンズ
ー原理主義もビデオを作成して原理主義の普及に使っているし、核兵器製造計画
だって神話の言葉で行なわれる。明治政府も、明治天皇の肖像画の写真を全国に
配布して神話教育と併用した。よくも悪くも、神話とテクノロジーの結合から力
が生まれているのが現在のインドである。
 チャイを飲みながら、小川氏が言っていた映画『ウオーター』の撮影中止につ
いて、杉本氏の観察を聞いてみた。杉本氏の友人の間では、比較的お金のある中
層カーストの人は「撮影反対」という意見が多かったそうだが、貧乏な下層の友
人は「撮影が進めばたくさんお金がこの町に落ちるはずだったのに」という声が
多いという。もちろん最上層の知識人は「撮影を妨害する原理主義に反対」とい
う立場だ。
 いわば最上層の将校でもなく、最下層にあたる平の兵隊でもない「下士官」ク
ラスが、いちばん原理主義的なわけだ。丸山真男が戦前の日本ファシズムの中核
として、「村の教師、町の親方、自営業主、寺の住職、地方の小地主」など「か
ろうじて新聞を読める階層で、周辺の無教育の人間に政見を説教する下士官タイ
プ」を挙げていたことを思い出す。
 現在「インドの右翼」人民党の支持基盤も、「中の下」といった階層だ。92
年から国民会議派が導入した経済開放政策で、中産層は増加したが、核家族化や
競争の増加といったストレスが増えている。ニシャッド一家だって、「中産層」
の仲間入りはしたものの、コミュニティのなかでは周囲の嫉妬を買った。一方
で、自由化のなかで没落を強いられた旧上層カーストは、権威はあっても富はさ
ほどでもなく、これも「中の下」として心理的不安を持っている。
 ヒンズー原理主義団体は、経済政策では開放政策への反対や反西洋・反物質文
明・反多国籍企業といったスローガンを掲げており、これが地域共同体の解体や
価値観の動揺にとまどう「中の下」階層に受容されているわけだ。また開放政策
への反対は、同時に自営業や小地主の保護でもあるから、文化だけでなく経済に
おいても原理主義はグローバリゼーションへの反発なのだ。
 もっとも杉本氏によれば、「原理主義のデモといったって、ここは十人くらい
で騒ぎ出せば野次馬が集まって脹れあがってしまうところです。『ウオーター』
の反対デモも、わけもわからず参加した人も多かったろうと思います」という。
近年の研究では、フランス革命などでも指導層の理念に共鳴して参加したのは比
較的少数で、都市部にたまっていた貧民が革命さわぎのなかで暴動に参加して、
王権が倒れてしまったという説もあるそうだ。貧しい者が多いところでは、よく
も悪くも民衆のパワーが鬱積しているものである。
 お礼を述べておいとまし、ふたたびサッティサ君の漕ぐボートに乗って、ガン
ジス川をもとの場所にもどる。ボートに乗りながら、杉本氏が問わず語りに話
す。「インドにいると、日本にいたときとちがって、未来に不安をもたなくても
やっていけるんですよね。日本にいると、会社に入るために学校に行ったり、老
後が心配でひたすら働いたり、未来への不安から無理をするばかりじゃないです
か。」。
 彼の言わんとするところも、よくわかる。インドでは庶民はあたたかい身内社
会に囲まれ、そこそこ食えるお金を稼ぎながら、はしゃいだり踊ったり、友人や
親戚を訪ねながら日々をすごす。家はたしかに狭いが、先日の中村上人風にいえ
ば、少しばかり広い家に住むために毎日何十年も生命をすり減らして働くのと、
どちらが幸福とはいちがいに決めがたい。
 現在の生活を「明日への準備」とみなして手段化している日本のサラリーマン
と、明日のことは考えず今日を楽しく暮らすインドの庶民。こうした図式化が
「日本人」や「インド人」すべてにあてはまるとは思えないし、インドにも確実
に変化は訪れている。「インドの生活」を過度にロマン化するのも嫌いだが、ガ
ンジスの流れの上で少々考えさせられた一瞬だった。
 もとの川岸にもどってサッティサ君と別れ、杉本氏と一緒にタクシーでベナレ
ス・ヒンズー大学にむかう。ヒンズー大学はデリー大学やカルカッタ大学より広
くてきれいなところで、大きな門をくぐると、喧騒のうずまく外界とはまるで別
世界。落ち着いた建物と芝生が続く学園で、何となく空気からしてちがう。
 まずは杉本氏の宿泊所である留学生会館に行き、その食堂で昼食をとる。会館
はけっこうきれいな外観で、食堂は10メートル四方に長机が四つ。定食を食べ
ていると、彼の留学生仲間がやってきた。ウガンダの留学生クリストファー君は
エンジニアリングを勉強しており、モンゴルからきたバギー君は農業を学んでい
る。そのほか、インド系南アフリカ人であるリングさんは、インド音楽を学びに
きているそうだ。クリストファー君が「インドはどうか」と聞いたので、「好き
だよ。観光地の周りにいる奴らを除けば、人々がいいよね」というと、リングさ
んが「冗談でしょ。そのうち嫌いになるわよ」という。在外インド人のインド評
価は辛口というが、その類だろうか。
 杉本氏に聞くと、ヒンズー大学に先進国の学生は日本を除けばほとんど来ず、
ほかにケニア・タイ・インドネシア・ミャンマーなど、アジア・アフリカ圏の学
生ばかりらしい。彼によれば理由は、「ヨーロッパやアメリカに留学するより費
用が安いからインドにきたのじゃないですか」という。留学生が学んでいる内容
も、前述のようにエンジニアリングとか農業とか、はては英語を学んでいる学生
までいるそうで、インドの大学で学ぶ必然性はあまりないものが多いようだ。
 しかし、日本の大学だってそれを笑えた状況ではない。何せ日本に留学して
も、苦労して日本語を勉強したあとで、読まされるのは欧米の本の翻訳だったり
する。そんな国の大学に、しかも物価も高いのに留学にくる外国人は少ないので
ある。
 留学生会館を出て、ヒンズー大学付属のインド美術館にゆく。古代神像や細密
画といったお定まりの展示のあと、大学創立者であるマハビヤの展示がある。こ
こにもガンジーと一緒に撮った写真があり、とにかくガンジーと一緒に写ってい
ることがインド知識人の誇りになるようだ。
 全体にあまり展示はおもしろくなかったが、唯一興味を持ったのが、画家であ
りインド研究者であるアリス・ボナーの展示室。ベルギーとパリで美術を学んだ
あと、おそらくは当時のパリ知識人のオリエンタル趣味に沿ってチュニジアやモ
ロッコを訪ね、それから1925年にインドにやってきた。そしてインド舞踊に
魅せられ、1936年にはベナレスに住みつく。1941年から1945年くら
いに、「ガンジスの日の出」とか「シタール弾き」とかの絵を描いており、イン
ド神話に題材をとった絵もあった。一つには、戦争でベルギーやフランスがナチ
ス・ドイツに占領されて、帰るに帰れなくなったのかもしれない。展示の最後に
は、「アリス・ボナーはインドの伝統の再発見者だった」という言葉があった。
 日本でこれに近い存在なのは、有名なラフカディオ・ハーン。彼もカリブなど
を経たあと日本にきてはまってしまい、住みついた。しかしハーンの場合、当時
は「変わり者の外国人」くらいにしか日本では思われていなかったらしい。ハー
ンが再評価されるのは1920年代後半以降で、昭和の国粋主義台頭とともに、
「日本の伝統を再発見してくれた欧米人」として有名になることになった。
 アジア諸国のナショナリストは、反西洋のスローガンを掲げるわりには、「自
国の文化を評価してくれる西洋人」が好きで、その人が現地に住みついたりなど
すると一段と評価があがる。いわば、アリス・ボナーは「インドの小泉八雲」い
えるだろう。ヒンズー大学の「インド美術館」で、わざわざ一室とって展示して
あるのもご愛嬌である。もっともその後の研究では、ハーンの描いた日本像は相
当にオリエンタリズムで脚色されたものだったことが知られているが、アリスの
場合はどうなのか確認できなかった。
 時間になったので、講義を行なう予定の歴史学部にゆく。会場にはきのう打合
せにきたアル−ナ学部長がおり、ていねいに迎えてくれた。講義室に案内される
と、部屋は40人くらいの客でいっぱいである。演台はヒンズー寺院によくある
黄色い花で飾られ、私には花輪がかけられて、額に赤い印がつけられた。さらに
創立者の写真の前にある線香とロウソクに火をつけるようにいわれ、学生の一団
が校歌を合唱したあと、司会による私の紹介がはじまった。講義前に儀式やら校
歌斉唱やらがあるのは、やはりここがインドでもっとも格式ゆかしい大学だから
だろうか。
 講義の内容は、日本のナショナル・アイデンティティを政府や知識人がどうつ
くりあげてきたかを、明治から戦後までサーベイしたもの。近代化と伝統の変
容、そしてナショナリズムの関係は、インドでもっとも関心をよぶテーマであ
る。
 例によって明治政府による「伝統の創出」や宗教政策、そして日本知識人が
「反西洋」を掲げる戦争の支持に傾いていった経緯などを話したが、インド知識
人の前で日本近代史の話をするときには、ちょっとした工夫が必要だ。たとえば
彼らに「2・26事件」と言っても関心を示さないが、「ブディズム・ファンダ
メンタリズムに影響されたクーデター」というと耳を傾ける。「戦艦大和」とい
っても彼らが知っているわけはないが、「今日の原爆がそうであるように、当時
は巨大戦艦が強国のシンボルだった。日本は貧富の格差が激しかったのに、戦艦
だけは世界一巨大なものを建造していた」というと、インド知識人は自国の状況
にひきつけて想像力を働かす。
 そのほか、「生活綴方運動」のことは「農民の識字教育と社会的覚醒の目的を
兼ねて、彼らに自分の生活状態を作文させた運動」と紹介する。柳宗悦の民芸運
動は、インドの農村民芸品販売のNGOと比較した。石牟礼道子は、「公害に悩
む漁民たちの声を、仏教的に記録した『水俣の霊媒』」と形容する。
 さらに見田宗助のことを、「消費文明の浸透の中で、ヨガを学び、欲望の形態
の転換を主張した学者」と紹介すれば、経済自由化政策以降の出世主義の蔓延に
批判的なインド知識人たちは共感を示す。森崎和江を「朝鮮が戦後に日本から分
離独立したさいに、朝鮮生まれの難民の少女として日本に来た女性」と紹介する
と、彼らは印パ分裂による難民の苦難を思い出し、さらに「彼女は鉱山労働者の
オルガナイザーとして活動したあと、女性鉱夫と娼婦の歴史について本を書い
た」と述べると女性の聴衆が大きくうなずいた。
 もちろんこれらの日本の史実や知識人の紹介は、すべて事実を述べたものであ
る。ただ、事実を日本国内で流通している枠組みのままで並べてしまうのでな
く、インド知識人の直面している問題意識の枠組みに沿って整理しただけだ。も
ともと日本もインドも、近代化の波の前で知識人が悩んできた問題はほとんど共
通するから、ちょっとインドの文脈に翻訳してやれば、彼らの関心に大きくかか
わってくる問題が日本近代史にはたくさん含まれている。
 翻訳は言語だけでなく、文脈の翻訳も必要だ。そして、こうしてインドの文脈
から日本を見なおしてみると、いままでとは異なった日本が見えてくる。他者と
のコミュニケーションの基本は、相手の文脈を知り、これまで空気のように感じ
ていた自分の文脈を新しい観点から捉えなおすことにあるのだ。
 英語で一時間半も講演したのははじめてだったが、結果は成功だった。インド
の聴衆はつまらないと思えば途中で遠慮なく出ていってしまうが、今回は講演終
了と同時に拍手がおこり、質問が集中。その受け答えをすると、さらに質問が涌
き出てくる。司会のアル−ナ学部長やアンジュ−教授が「最高の講演だった」と
終了宣言をしたあとは、幾人もが握手を求め、教授たちは講演草稿のコピーが欲
しいと希望してきた。こういう反応があるから、学問はやめられない。
 好評のうちに講演を終えると、どっと疲れがきた。講義は聴衆の「気の流れ」
を制御するために、精神エネルギーの放射を必要とする。アンジュ−教授の案内
で、日本からきた琴の演奏団が演奏している会場に案内してもらい、暗い座席に
ついて休息した。
 琴の演奏団が昨日から来ているという話は、杉本氏から聞いていた。正直に言
えば全然期待しておらず、どうせ和服を着て「サクラサクラ」とか「荒城の月」
とかを演奏するのだろうと勝手に思っていたから、疲れ安めに昼寝でもするつも
りだったのだが、まったく予想がはずれた。
 すでに演奏は数曲がすんでいたのだが、私が席についてから演奏された「焔」
という曲には少々驚いた。琴の演奏団は女性七人で、現代音楽の影響を受けたら
しい緻密なアンサンブルの曲を、じつにスリリングに演奏する。中央で演奏する
リーダーは琴を低くチューニングして重低音でメロディを弾き、まわりの六人は
通常の奏法のほかに、琴を弓で弾いたりパーカッションのように叩いたりして盛
り上げる。まるでマイケル・ヘッジス(特殊奏法で知られるアコースティック・
ギタリスト)のライブのようだった。
 そのあと、ヒンズー大学の教授や学生による演奏とダンス。これもいわゆる古
典、とくに観光化してステレオタイプ化した「いかにも」のインド音楽や舞踊で
はなく、伝統様式を活かしながらの現代的な新作で、じつにおもしろかった。そ
のあとは、タブラ・インドバイオリン・琴によるセッション。琴の奏者は先ほど
のリーダーの女性。しかし、彼女は革新的ではあるものの、どうやらあらかじめ
作曲された緻密な曲を演奏するタイプで、即興のセッションは不得手のようだっ
たが、これもなかなか興味深かった。ついでにいえば、この日のステージの舞台
照明や音響も、こ裏方スタッフの信頼性が乏しいインドの講演としては上出来だ
った。
 いわゆる伝統楽器や伝統様式を使いながら、新しい解釈を施し、さらには異文
化と融合してゆく試みは興味が持てたし、だいいちカッコよかった。こうしたこ
とは、各プレイヤーや作曲者が、与えられた型から離れても自力で展開を行なえ
る力量がなければ、できないことである。
 人は不安なとき、決められた「伝統」「文化」「宗教」などの型に逃げ込み、
異端とみなした者を排除する衝動にかられがちだ。そこでは、もとは共存してい
た相手さえ、「自分が正常であること」を証明するための「異端」として憎悪の
対象になったりもする。私がインドでよく話す「伝統の自己決定権」や、中村上
人のいう「非原理宗教」も、たんなるご都合主義ではなく、「型」に逃げ込まな
い強さのことだ。
 杉本氏を私のガイドによこした副学長夫人のシマハドリ直子氏が、「音楽はど
うでした」と聞いてきた。おもしろかったと答えると、琴の集団について説明し
てくれた。リーダーの松村絵里菜氏は、すでに革新的な琴のリサイタルを20年
近く行なっており、各地の海外講演でも高い評価を得て、インドでもすでに数回
講演している。彼女の母親の松村紫乃氏がシマハドリ直子氏と同郷の高知県在住
で、友人となった縁から、宿泊所を用意するなど講演をバックアップしているの
だそうだ。その他のメンバーは、絵里菜氏の生徒たちだそうである。
 このあとは琴演奏団の女性たちと、副学長宅で夕食会。副学長宅は大学構内に
あり、兵士が十人くらいで警備を固める邸宅。琴の演奏団は楽器の片付けなどで
しばらく来ず、直子氏と世間話をする。彼女は「今日の琴の新作はとても良かっ
たのに、歌舞伎の新作とかはなんでおもしろくないのが多いのかしら」という。
私はそれにたいし、「『伝統芸能の権威』を保ったままで、『現代的なこともや
ってますよ』という色気を出しているだけみたいな、中途半端な姿勢のものが多
いからじゃないですか」と述べる。「安心できる型」に頼った権威意識は残しな
がら、それでいて色気を出すという姿勢は、腰のひけたラブレターみたいなもの
で説得力がないし、みっともない。政治家でも学者でも、ほんとうは権威意識を
保っていながら、戦略として若者や庶民にウケを狙うような姿勢をとる人は、い
ちばん信用されないものだ。
 直子氏は、「そうね。能の世阿弥だって、『われわれは大衆にウケてナンボの
ものだ』といってるものね」という。能も最初は「河原乞食」による芸能だった
が、しだいに大名などのバックがついて権威化してしまった。明治以降は大名や
将軍がいなくなって滅びかけたが、留学帰りの知識人や官僚が、西洋諸国で「伝
統芸能」を保存している様子を参考に、「日本の伝統芸能」としてバックアップ
して再興したのである。しかしその後は、「日本の伝統だっていうから見たけ
ど、寝ちゃったよ」という聴衆が多くなってしまった。伝統芸能は、固定化した
「伝統芸能」になってしまった時点で、死んでしまうのだ。伝統が「生きた伝
統」であるためには、対話の相手である聴衆の変化にあわせて、変わり続けなけ
ればならない。
 やがて、琴の演奏団の面々がやってきて、ディナーとなった。もちろんインド
料理でさすがにおいしく、日本酒も出た。演奏団のメンバーたちは、「今日はあ
そこをまちがえた、ここをまちがえた」と話し合っている。
 インドの古典音楽は、いわゆるラーガ(スケール)と一部の決め所が決まって
いるだけの即興で、同じ演奏は二度とない。さらに朝に演奏すべきラーガとか、
雨の日に演奏すべきラーガとかが決まっている。つまり、音楽は大地や空気とお
なじく宇宙の一部であり、朝の空気には朝のラーガしか合わない。そして、同じ
天候や同じ日が二度とないように、同じ演奏も二度とないのだ。そういう原理か
らいえば、どんな風土の場所でも、どんな天候でも、あらかじめ作曲された通り
に演奏するということはありえないし、したがって「演奏をまちがえた」という
発想もない。合奏は会話のようなもので、同じ会話は二度とないし、「会話をま
ちがえた」という発想もなく、会話がいつ終わるかも決まっていないのだ。
 インドにかぎらず、近代以前の音楽というものはそういうものだ。現代では、
最初の骨格を決める作曲家がいわば頭脳、演奏家はその手足という分業が、あた
かも理性と身体の分離のように成立している。そこでは、作曲家だけが特権的な
位置に立ち、譜面に書かれた内容だけにたいして「著作権」という概念が成立す
る。ほんとうは音楽では、楽譜に現れないニュアンスや音色が大切で、演奏家の
真骨頂もそこにあるのだが、近代では「紙の上に記録されないされないものは存
在しない」のだ。
 しかし近年では、インドの古典音楽も「著作権」とか「作曲家」という概念が
生まれつつあり、あらかじめ決められた通りの展開で終わる「曲」も演奏され
る。音楽がレコード(記録)というかたちで市場に流通しはじめると、「記録さ
れたものには著作者がいる」という論理に立たなければ、音楽家の市場における
権利も守られなくなってしまう。いったん近代の論理に入れば、その論理は音楽
の形態まで変えるのだ。
 七時半にはじまったディナーは、10時には終わった。演奏団一同は、明日は
ガンジスの日の出を見に早朝5時45分に集合とのことで、直子夫人が引率する
ようだ(ご苦労だと思った)。私も誘われたが、寝るほうが好きなので、ご遠慮
する。杉本氏にお礼を述べて別れ、待たせてあったタクシーでホテルにもどって
寝た。夜は停電となり、自家発電で電燈はついたが、楽しみにしていたフロはお
湯がでなくてだめだった。
 
 2月13日(日) 晴
 朝食をとり、朝九時半からタクシーで出発。今日はデリーにもどる日だから、
午前中だけの観光である。
 今日の目的地は、ベナレスにある日蓮宗法輪寺。日本の仏教にとって、仏教の
発祥地であるインドに寺を建てるというのは一つの夢らしく、日本のお寺がとき
どきある。おなじく日本の寺院といっても、妙法寺とどのようにインドでの展開
がちがうか見たかったのである。
 ベナレスの郊外にあるサルナートという地名を指定して出発したが、しかしタ
クシーの運転手は「ジャパニーズ・テンプル」の場所を知らなかったらしく、ス
リランカの仏教宗派が建てた石造寺院の前で降ろされた。ここもそれなりにおも
しろそうだったので、見学に行く。運転手が知っているだけあって名所らしく、
日本の団体客をはじめ仏教徒がたくさんいた。私と一緒に本堂に入った日本から
の団体客が、いきなり本尊の前に全員ですわりこんで、お経を合唱し始めたのに
は少し驚いたが(きっとどこかの宗派の団体ツアーなのだろう)。
 このあたりは仏教寺院のたまり場らしく、例によってカタコトの日本語で話し
かけてくる「自称ガイド」に聞くと、付近にはスリランカ・日本・チベット・韓
国などの仏教寺院があるそうだ(場所だけ聞いて案内は断った)。スリランカ寺
院であるムラガンダークティ寺は、一九三一年に建立された、比較的あたらしい
もの。インドの仏教団体であるマハブディ協会の援助で建ったものらしい。本尊
前のみやげ物売場では、各種の仏教図書とならんで、ダライ・ラマとチベット関
係の本が一群ある。インドでは仏教といえば、チベット問題と切り離せないのだ
ろう。
 外に出ると金色に光るチベット寺院が遠くに見えたので、歩いて行ってみるこ
とにする。ベナレスは小都市だから、ちょっと郊外に出るともう完全な農村風景
で、人々はじつに素朴。子供たちは「ハロー」とか声をかけてきて、写真をとっ
てあげると大喜びする。
 チベット寺院であるヴァジャラヴィジャ寺につくと、赤い柱に竜が巻きつい
た、なかなか立派な建物。もちろんスリランカ風とはまったくちがうが、金色に
輝く本尊もじつに大きくて豪勢。もちろん本尊の前には、ダライ・ラマの写真が
飾ってあった。
 ここはまだ観光名所にはなっておらず、観光地に群がるたぐいの人間はいな
い。境内の芝生で僧服の若者がたむろし、お経を読んだりボール遊びをしてい
る。観光化したインドのお寺にいる、すれっからしの「自称ガイド」や、やる気
のなさそうな土産売りとちがい、じつに素朴でまじめそうな人々だ。
 彼らを見ていたら、むこうから少し話そうと誘う。聞いてみたら、僧たちはチ
ベットからきた人々が多く、50人ほどがこの寺院に寝泊りして仏典の勉強をし
ているとのこと。寺院はやはりマハブディ協会の援助で建てられたものだが、な
んと設計した建築家はフランス人で、1999年にできたばかりだそうだ。何も
知らない身には「いかにもチベット的」な本尊とお寺に見えたが、ブータンの仏
教寺院を参考に、「伝統を活かした」設計にしてもらったそうである。もうこう
なると、何が「伝統」だかわかったものではない。
 韓国の仏教寺院というのも見たかったが、時間がないので農村を歩き抜けてス
リランカ寺院にもどり、タクシーで日本の法輪寺にむかう。到着すると、妙法寺
のような国籍不明の「奇妙な」建物ではなく、一目で日本式とわかるお寺が建っ
ている。境内の建立搭もぜんぶ日本式で漢字ばかり、創立者の名前とともに、
「維持 平成十一巳卯年 霜月廿一日 日月法輪寺営之」と書いてあった。
 日本から海外に出た人間の反応はさまざまある。現地に適当に適応してゆく人
もいるが、かたくなに日本風の生活様式を守る人もいる。後者の場合、かえって
日本にいたときよりも「日本的」になることもある。インドに「適応」して国籍
不明の怪しい建造物になった妙法寺にくらべ、ここ法輪寺は建築様式が「純日本
風」であるのみならず、建立搭の書き方まで「超日本風」だ。インドで「平成」
だの「卯年」だの「霜月」だのと書くのに、いったいどういう意味があるのか?
 
 寺の中に入ると、ここも日本のお寺そのまま。本尊も木彫りの木目調で、金色
のブッダ像ばかりのインドではやけに地味にみえる。仏前のお供えは、妙法寺カ
ルカッタ支部がトマトケチャップにビスケットだったのにたいし、ここは乾燥凍
り豆腐や日本茶のパック。さすがに生菓子のような腐敗しやすいものは置いてい
ないが、日本風の気配りが妙法寺より感じられる。インドへの適応としては、本
尊の横でお経を唱えているお坊さんの袈裟が日本の黒とちがって黄色いのと(そ
うしないとインドでは仏僧だと思ってもらえない)、本尊前に
「NAN-MYO-HO-REN-GE-KYO」の小型看板が出ているくらいである。
 しかしこの法輪寺、インド人にとっては便利な観光地になりうると思う。日本
に行かなくても、日本のお寺を見物できるからだ。ゲイシャやフジヤマとならん
で、「いかにも日本風」のお寺を彼らも見てみたいだろう。その意味では、国籍
不明の妙法寺より、かえって人気が出るかもしれない。
 インド側参拝客も、妙法寺とは対照的。妙法寺カルカッタ支部が近所の子供の
遊び場になっていたのにたいし、ここにはアメリカ風に野球帽をかぶりサングラ
スをかけた若者三人組がきていて、物珍しそうに見物したあと、私にカメラを渡
して「お寺と一緒に撮ってくれ」といってきた。前述したように、ここでは「フ
ィルム一本一万円」だから、明らかに彼らはニューリッチである。現地適応で子
供の遊び場になる妙法寺と、「純日本風」でニューリッチの観光対象になる法輪
寺。どちらが良い悪いとは簡単にいえないが、日本の文化交流はどの道を選ぶの
か、なかなか深い問題である。
 ひとあたり見学してもどってくると、タクシーの運ちゃんが「いいお寺だった
か」と聞く。適当に答えてホテルに帰ってもらう。ホテルに着くと、観光会社の
社員が来ていて、飛行機は天候の都合で遅れることになったから、しばらくホテ
ルの部屋にいたほうがよいという。ホテルのフロントは、早くチェックアウトし
て追い出したいらしく、いかにも嫌な顔をしてごねたあと上司に連絡をとり、
「特別だ。一時間だけ部屋にいていい。テレビでも見ていろ」と言い捨てた。こ
ちらの外見が若造風だから、小馬鹿にしているのである。ベナレス一番の超高級
ホテルに、しばしば英語もよく話せない日本の若者が、札束の威力で泊まること
への反感もあるのだろう。
 この野郎と思い、「控えおろう、私を何と心得る。天下のデリー大学の客員教
授であるぞ」とでも言ってやろうかと思ったが、やめにした。そう言ってやれ
ば、相手はひれふすかもしれない。だがそんなことで「気持ちのよい思い」をす
れば、「権威のある奴が偉い、そうでない奴は馬鹿にしていい」という相手の価
値観に、自分もはまってしまうことになる。かつて福沢諭吉は、ヨーロッパにい
ったさいの回想として、黄色人種として差別され怒ったあと、いつか日本をイギ
リスより強い帝国主義国家にして見返すことを決意した書いていた。人はしばし
ば、差別された痛みから差別の論理を受け入れて、その価値観のなかで「差別す
る側」に成り上がることを願うようになるのだ。
 一時間部屋にいて、さらに40分ほどロビーで待ったあと、ホテルを出て空港
にゆく。予定より3時間ほど遅れてデリーに帰着し、ラジブ邸に帰って早々に寝
た。



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