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 こんにちは。基金の佐藤です。さきほど小熊さんがインドを飛び立ちました。
私たちとりまきにとっても小熊さんをとおしていろいろなことを学ばせていただ
いた貴重な2ヶ月となりました。インド日記第7回をどうぞ。

インド日記 第七回

 2月16日(水) うす曇
 大学の講義の日。朝から明治初期の産業開発政策について概説する。経済史は
私の専門ではないが、インド側が関心をもつテーマであることがわかっていたか
らだ。
 明治初期の経済状態は、ほんとうにひどいものだった。各地の藩札が乱発され
ものすごいインフレ、生糸と茶しか輸出する産物はなく、欧米人商人が日本の輸
出入貿易を独占し、一部の鉱山の採掘権さえ欧米人商人に譲渡されていた。函館
などは、榎本武揚の軍勢が軍資金を借りる担保としてドイツ人商人に99年間租
借する契約を結んでしまっていたほどで、そのまま放置しておけば香港と同じに
なっていたはずである。こうした植民地化の危機から、どのように明治政府が経
済開発を進め、経済的独立を達成していったかの話である。植民地化されたイン
ド人にとっては、聞き逃せない話だ。
 結論からいえば、理由としてあげたのは大きく二つ。まず中央政府の強力な指
導で、強引な貨幣統一や産業化政策を行なった。また三菱など一部の商人を援護
して、公用船を安く払い下げたりして外国人商人と対抗させ、対中貿易ルートの
奪取に成功している。
 そして第二には、先進諸国との技術ギャップが、まだ大きくなかったこと。明
治政府は欧米の最新技術を導入して富岡製糸工場などを作ったが、これはそれじ
たいとしては赤字だった。戦後に独立した途上国もよく似た経験をしたが、先進
国から機械類を輸入して最新工場を建てても、設備コストが高すぎて赤字となっ
てしまうことが多いのである。ところが、富岡で働いた工員などが全国に散り、
富岡を模倣して工場を建てていった。もちろん最新型の機会を揃えた富岡とまっ
たく同じ工場を作ったのではなく、たとえば蒸気釜を鉄ではなく村のツボ職人が
陶器で作ったりしている。こうした工場は不完全だがコストは安く、これらが輸
出産業の中心になっていったのである。そしてとにかく不完全であっても、村の
職人が見様見真似で作れたということは、それだけ技術ギャップが小さかったと
いうことだ。
 しかし、こうした産業開発は問題の残した。一つは、政府の指導や規制が多す
ぎる経済体制を残したこと。また、一部の大企業と政府の癒着をもたらした影響
も見逃せない。また輸出産業を支えたのが、いわゆる「女工哀史」という言葉に
象徴される低賃金労働だったことはいうまでもない。こうした諸問題は、そのま
ま戦後日本の経済体制の問題にまで引き継がれているのである。
 こうした産業開発のやり方を、インドが模倣できるかは疑問である。鉄の蒸気
釜の代わりに陶器で作ってもいちおう工場は動いたが、同じことをコンピュータ
工場で行なうのは不可能だし、原子力発電所でそれをやったら大変である。くり
かえしになるが、見様見真似でも村人が作れるほど技術ギャップが小さかったの
だ。今の途上国に、それは望めない。
 以上のような説明をしたが、インド側の人々は複雑な表情。「先生、日本の政
治家は、こうした政策をどこまで系統的に考えてやっていたのですか。それとも
いろいろやっていたら結果としてうまくいったのですか」と質問が出た。おそら
く後者だろう、明治初期の大混乱の時期に、全部を見渡していた人がいたらそれ
は神にちかい、と答えた。要するに運がよかったということもいえるわけだが、
それを言っては身もふたもない。しかし、「日本の発展の奇跡」は、「日本民族
が優秀だったから」というのではなく、「運」も含めていろいろな要因が働いて
いることを強調したかっただけである。
 その後、通訳の実習をしたあと、ハリとアシュトシ、そしてラジ先生とチャイ
を飲む。ラジ先生は、「インドはまだまだ近代化が足りない。カースト製度と
か、古い時代の悪いものがたくさん残っています。日本はいろいろ問題もあるで
しょうが、とにかく近代化を成功させ、平等に近い社会を作ったのは評価すべき
です」という。ラジ氏は、「92年の経済自由化政策いらい、インドは大きく変
わりつつあります。私が学生だった時代は、社会主義的な政策がとられていて、
たとえお金を持っていても物なんか自由に買えなかった。もっと近代化が進め
ば、もっと良くなるでしょう。今は過渡期なんです。日本が一〇〇年でなしとげ
たことを、インドは50年でやりとげなければならない」と述べる。日本留学の
経験が長いラジ氏は、日本の近代化を評価しているのである。
 それにたいし私は、「しかし、経済開放政策は貧富の格差も生みつつありま
す。デリーのファンシー・ショップでは、2000ルピーもするヌイグルミが売
られていたりする。ついこの前のバレンタインデーでは、数十ルピーのカードが
売られていました。テレビは先進国とほとんど同じような消費物資のコマーシャ
ルをどんどん流している。そうした商品を買える人がいる一方で、月収がヌイグ
ルミ一個にも満たない人が大勢いる。経済自由化にとりのこされた人々が原理主
義に近づいて行けば、政治的不安定は避けられません」と述べる。しかしラジ氏
は、「それでも、全員が貧乏であるよりいい。金持ちになった人がお金を使え
ば、そのお金が貧しい人にも回り、結果として全体を引き上げます。もちろん私
は、そんなヌイグルミなんか買いません。金持ちがステイタスとして見栄をはり
たいから、そんな商品が出まわるんです。これもインドの人々の意識がまだ変わ
っていないからです」という。
 どちらが正しいかなど、答がない。ただ、インドがいま急速に変わりつつある
ことだけは、確かである。ラジ氏はさらに続けて、「独立いらい、インドは政治
ばかり優先されてきました。みんな貧しいから、政治に期待し、熱心になるんで
す。日本人はもう豊かだから、政治にみんな関心がない。インドは独立いらい何
十年も政治優先の社会主義的な政策がとられてきて、もうみんな我慢できなくな
った。私はガンジーとかネル−とか、『強いリーダー』というタイプの政治家も
嫌いです。小学校でも講堂でも、どこに行ってもガンジーやネルーの肖像画があ
るのも、戦前の日本の御真影みたいなもので、インドの近代化が足りない一つの
表れです」と述べた。
 ラジ氏のいうことも、正しいのだろう。しかし日本だって、「不合理」な慣習
は山ほどある。インドで問題になっている結婚結納金だって、日本も地方によっ
ては、家の対面を保つために多大の嫁入り道具を持たせ、娘が三人いると家がつ
ぶれるといいわれる地域もある。ラジ氏も、「私も日本に行ったとき、周囲の
人々にわざと見えるように嫁入り道具を満載したトラックが、走っているのを見
ました。日本は近代化しているはずなのに、まだこんな慣習があるのか、と思い
ました」と述べる。しかし彼は、「でも、日本では街で歩いている人を見てもど
んな身分の人かわからないし、年末には教授も学生もそろって大掃除をする。す
ばらしいことです。インドではどういう身分かすぐわかってしまうし、大学教授
が自分で掃除をするなんてなかなかありません」という。
 日本では、工場長と工員が同じ社員食堂でおなじ物を食べるという話は、「日
本型経営」として有名になった。しかし同じ物を食べたところで、それで両者が
平等になっているわけではない。たとえ服装や外見で区別ができなくても、学歴
や会社名による格差は、厳然として残っている。それでも、インドに変化をもた
らしたいと思うラジ氏には、はるかによい状態と見えるだろう。しかし、ラジ氏
がそれを言うことはともかく、ここで私が「そうですね。インドも日本を見習っ
て近代化してください」などと言えば、同じ言葉でもまったくちがう意味を持っ
てしまう。インドで日本知識人がどうふるまうべきか、いつも考えさせられる。
 大学を出て、午後は楽器店にゆく。先日物色した店はあまりよくなかったの
で、楽器店が固まってあるという通りに行った。一〇件くらいの小さな楽器店
が、大通りに面して軒を並べている。中型のシタールと小型のハーモニウム、そ
してハープなどが目的だ。ライブで使うつもりなので、大きいのは持ち運びに不
便だからである。
 10件ほどの店をぜんぶ回ってみた。ラホールから印パ分裂の時に難民として
きた人々の店、店主がシーク教徒で雇い人がヒンズーとイスラムで「うちはイン
ドの縮図だよ」という店などいろいろあったが、似たような商品でも提示する条
件がぜんぶちがう。だいたい、「日本人観光客だな」と思われると、まずは土産
物用の実用にならない楽器を、「これはいいよ」とか言って薦められる。観光客
が飾り物のシタールなどを買うのに慣れてしまっているからで、日本のガイドブ
ックに載った楽器店では、日本語で店名を書いてあるところさえあるほどだ。
 こちらがあるていど英語が話せて、楽器のことも知っているということがわか
ると、相手も少しまともな楽器を見せはじめる。しかし似たような楽器でも、木
材がチークやローズウッドといった中級ないし高級品から、安物の木までさまざ
まある。おまけに、木材は季節によって収縮するから、伐採したあと一年か二年
放置して、四季の気候にならさなければならない(「シーズニング」という)。
いいかげんな店だと、シーズニングをしていない安物の木で作った楽器を売りつ
ける。こういう楽器は、日本に持ち帰ってちがう気候のもとに置くと、木が収縮
して楽器がバラバラになったりすることさえあるのだ。
 全部の店を回ってみたあと、いちばん良心的そうな店で、全部の楽器を買うこ
とにした。すでに七〇年ほど続いている店で、本店はオールドデリーにあるが、
若い息子が人の集まる地域に支店をまかされているのである。まだ二二歳という
店主はイスラム教徒で、長髪で楽器にくわしい私をみて「あんたミュージシャン
だろ」と言い、「俺はミュージシャンによい楽器を安く提供するのが仕事なん
だ。うちは工場を直営しているし、ほかの店みたいにショーケースを派手にした
りしていないから、いい楽器を安く売れるんだ」という。こういう言葉は話半分
に聞いておいたほうがよいことも多いが、観光客ずれしている他の店にくらべ、
若くて店主になったばかりの彼は、楽器の説明にも熱心だったのである。
 楽器を注文して、後日届けてもらうことを約束したあと、国際交流基金事務所
にむかう。音楽好きの佐藤氏が私の楽器選びの話を聞いて、交流基金の若手社員
(各地の支所の見学のため世界中を回っている最中なのである)と一緒に、有名
な楽器屋に行こうという。何でも、ビートルズのメンバーがシタールを買ったと
かいう店だそうだ。おもしろそうなので、夜から同行する。
 店は「デリーの銀座」コンノート・プレイスの近くにあった。小さな店だが、
驚くほど高級そうな楽器が次々に出てくる。「一生物の楽器だよ」といって見せ
てくれたローズウッド一本取りのシタールなど、鳴らすだけで陶酔しそうなよい
音だ。値段はやや高くて一万8000ルピー、日本円に直せば6万円くらいだ
が、現地感覚では100万円以上である。私が昼間に注文したシタールは、十分
に実用に耐えるものだが、2200ルピーだった。いささか恐れ多すぎて、以後
は見学に徹させてもらう。
 おもしろいと思ったのは、こういう権威ある楽器屋であるにもかかわらず、伝
統楽器を改良した独自の楽器を作っていること。シタールにギターの糸巻きをと
りつけて調弦しやすくしたりすることから始まって、バンジョーのような共鳴皮
を張ってサロードの音を出せるようにしたシタールとか、ハワイアンのスライド
ギターとシタールをミックスさせたような楽器などを、どんどん見せてくれる。
しかもそれが遊び半分の思いつき楽器ではなく、どれも素晴らしい音と仕上げで
あるところがすごい。欧米やインドの一流ミュージシャンご用達の店であること
もうなずける。すっかり感心させてもらって、その日は引き上げた。
 帰宅してラジブ邸で夕食をとり、ラジブ夫妻およびゴダン氏と歓談。学校見学
のことを聞かれ、教師カマルがセックスの話ばかりしていたことや、許可前と許
可後でガラリと態度が変わったことなどを話す。プニマ夫人は「恥ずかしい話だ
わ。それがインドの平均的な姿だと思って欲しくない」と述べ、ラジブ氏は「そ
れはインドを理解する上で重要な点だ」という。ラジブ氏によれば、現在のイン
ドではまだ社会の目が厳しく男女交際が自由でないので、パートナーを得られな
い若い男性の間には不満が鬱積しているというのだ。
 グローバライゼーションが進み欲望はあおられながら、なお社会の枠組みは生
きているというギャップが、その根底には存在する。カマル一人の問題ではない
のだ。一人の人間の行動は、社会全体の動向の現れでもあるのである。
 
 2月17日(木) 晴
 今日は夕方の飛行機で、インド南部のバンガロールで開かれる国際会議にむか
う日。この国際会議は国際交流基金の後援で、アジアにおける新しい社会科学の
可能性を探るため、アジア各国から知識人を招いて行なわれるもの。ほんらいは
日本側の参加学者は別にいて、小川氏が国際交流基金本部に報告書を書くために
行く予定だったのだが、彼が別の用事で行けなくなったので、私が飛び入り報告
者を兼ねて派遣されることになった経緯は、以前に記した通りだ。
 夕方からデリーの空港で飛行機に乗った。バンガロールは「インドのシリコン
バレー」とよばれるビジネス都市で、飛行機のお客はほとんどビジネスマン。私
の隣はヒューレット・パッカード社のインド社員で、その隣のインド人も東芝の
ノートパソコンを広げていた。
 バンガロールに到着すると、空港がとてもきれい。出口には国際交流基金が予
約した旅行会社のタクシーと、国際会議の主催者である社会文化研究センターが
派遣した車の両方が待っていた。ぜいたくな話だが、センター側の車に案内して
もらい、旅行会社のタクシーに搭乗。同乗した旅行会社の社員はハリ・シンと名
乗り(シーク教徒ではなかった)、日本語を話す。どこで勉強したのかと聞いた
ら、デリー大学の日本研究科だという。以前にも日本研究科を卒業して旅行会社
に勤めている人にあったが、彼もそうした者の一人である。デリー生まれだが独
身のままバンガロールの会社に就職し、現在はおもに現地のトヨタ支社にやって
くる本社の人間の接待を請け負っているそうだ。
 バンガロールはかつてマイソール藩王国が栄えた古都で、インド南部のカルナ
タカ州の州都で人口500万の大都市なのだが、ビジネス都市なので観光客は少
ない。道を走っていても、中心街はヨーロッパの街並みとあまり変わらず、牛や
犬や物乞いはほとんどいないので、デリーやベナレスに慣れた目にはやたらとク
リーンにみえる。寒暖の差が激しいデリーは、夏の45度から冬の10度前後ま
で気温が上下するが、ここバンガロールは年間を通して二〇度から30度台前半
で安定しており、緑が多く、公園都市という形容もあるという。
 タクシーに乗っていると、つくづくバンガロールは清潔な町だと思わされる。
同じ国際会議にカルカッタから到着したパルタ・チャタルジー氏(先日お会いし
たサバルタン・スタディーズの大御所)は、「最初着いたときは外国かと思っ
た」という。牛もいないし、何より広告や看板の類が英語ばかりなので、インド
の町という感じがしないのである。もう一つ目についたのは女性がスクーターを
運転しているのをよく見かけることで、デリーではやや少ない光景だ。
 もっともあとで聞いた話では、バンガロールの当局は牛を市外に出す特別部隊
を設け、郊外に追い出しているそうだ。カルカッタなどでも動物や物乞いを時々
掃討するのだそうで、小川氏の話だとカルカッタ当局が行なった物乞い狩りに日
本人の貧乏旅行者が混じっていて、一緒にトラックに載せられてデカン高原に棄
てられたというウソのような本当の話もあるらしい。清潔都市バンガロールの、
もう一つの側面である。
 看板に英語が多いのも、それなりに理由がある。バンガロールの属するカルナ
タカ州は言語がヒンディー語とはまったくちがうので、看板は英語か、地元のカ
ルナタカ語になる。しかしバンガロールは周辺地域からの出稼ぎやビジネスマン
が多いので、少数言語であるカルナタカ語ではそういう人々に通じないから、必
然的に共通言語である英語のほうが多くなるのである。
 デリーやベナレスでは、「インドの標準語」であるヒンディー語が地元の母語
なので、それで十分に生活してゆけるうえ、外部から来た人間には「ヒンディー
語を話せ」と要求できる立場にある。だから、町の看板はヒンディー語が多く、
かなりの教育を受けた人しか英語を十分に話せない。しかしバンガロールでは、
よほど下層の人々以外は、英語を話せないと生活してゆけない。観光会社のハリ
氏も、デリー出身なのでカルナタカ語はできないから、ふだんは英語だけで生活
しているそうである。こういうわけでバンガロールは、インドでは「誰でも英語
を話す町」として有名だそうだ。
 要するに「英語の看板が多い」というのは、カルナタカ語がインド国内におい
ては地位が低いにもかかわらず、バンガロールはビジネス都市として膨張してい
るという二つの条件が重なったことから派生したわけだ。「少数民族には語学の
達人が多い」というのは定評だが、弱い言語の側はそうならざるを得ないのであ
る。
 女性のスクーター姿が目立つのも、ビジネス都市なので、単純に働いている女
性がデリーより多いかららしい。女性の活動の自由に対する圧力については、
「デリーよりは少しはよいと思いますが」というのが、ハリ氏のコメントだっ
た。
 こういう事情を知ると、印象論による文化論などというものが、つくづく当て
にならないことを痛感する。最初は、英語が多いのをみて「文化的に西洋化され
た町なんだな」と思い、女性のスクーター姿をみて「女性の活動に寛容な文化の
土地なんだろう」などと勝手なことを考えていたのである。とにかく何かわから
ないことがあったら、「この土地の文化なんだろう」とみなすのが、いちばん楽
な道なのだ。説明に「文化」だの「伝統」だのが出てきたら、もうそこで思考停
止である。「デリーの牛=インドの文化」論と同じく、「文化」を云々する以前
に、まずは社会的な背景をよく知ることが必要だと思う。
 タクシーでしばらく走ると、会場の新社会研究センターに到着。ここもすごく
きれいな場所。歩き回ってみると、インド有数の財閥である「タタ」グループの
後援で作られたものらしく、会議の会場にはガンディーとタタの肖像がある。タ
タのトラックなどは、どこでもよく見かけるものだ。そして旅行会社のハリ・シ
ン氏の話では、この会場はもっぱらビジネスエリートや医者などの研修や会議で
使われているそうで、人文社会科学の会議など珍しいとのこと。翌日、会議と並
行して隣の講堂ではビジネスマンの講習が行なわれていたので覗いてみたが、そ
こでは「タタの五大原理」として「正直・優秀・責任・団結・理解」といった項
目が説明され、何だか日本企業の徳目教育みたいだった。
 宿泊所も高級ホテルのようなゼイタクさはないが、日本の大学宿舎と印象が変
わらない。荷物を置いたあと、主催の社会文化センターが宅配でとってくれたお
いしい食事をいただき、報告者全員の報告内容をコピーした会議資料をもらう。
国際交流基金が資金を全面的にバックアップしているうえに、センター側も熱心
なので、いたれりつくせりの国際会議である。冬だといっても暖かいから、蚊が
多いのには閉口したが、部屋にはちゃんと蚊取り線香も用意してあった。
 食事をいただきながら、センター側の中心であるヴィヴェク・ダ−レシュワル
氏に会う。ヴィヴェク氏は「日本のインド旅行のガイドブックの内容を、聞かせ
てもらったことがあるよ。やれ水は飲むな、生野菜は食うな、あれは危ない、こ
うやって騙されたとかっていう話ばかりでね。『だったら、何でインドに来るん
だ』って聞きたくなったよ」と笑いながらいう。こういうユーモアのある人は好
きだ。
 ヴィヴェク氏は、これまでの社会科学がゆきづまるなかで、新しいアジアの社
会科学を模索しようという意図でこの国際会議を企画した。しかしこちらは、
「しかし、アジア諸国に共通の文脈がありますか」と問うてみた。「オリエンタ
リズムとかポストコロニアルとか、共通の言葉はあるでしょう。それだって西洋
からアジア諸国の知識人がそれぞれに学んだ言葉です。そして『伝統の創出』と
いう考え方一つとっても、西洋から学んだ同じ言葉や概念が、日本とインドでは
ちがう定着の仕方をしています。同じ言葉を話しているように見えても、意味が
ちがう。国ごとの歴史的文脈がちがうからですよ」と。
 ヴィヴェク氏は真顔になって、一瞬考え込んでしまう。むずかしい問題だ。ア
ジア諸国の国際会議といっても共通語は英語。この事実が象徴しているように、
話し合いの共通の言葉は西洋出自の言葉だけだ。みんなウェーバーやマルクスの
名は知っていても、お互いの国の知識人や歴史のことはほとんど知らない。桑原
武夫は四〇年前にアジア・アフリカ作家会議に参加したさい、『インドで考えた
こと』という本を書いて同じ状況を描いたが、それはまったく変わっていないの
だ。
 それでも、共通の土俵はある。まさに、「みな西洋のことは知っているが、お
互いは知らない」ということそれじたいは、共通だ。言葉を換えれば、みな一様
に「近代の病い」に侵され問題を抱え込みながら、互いのコミュニケーションも
成り立たないまま模索をしているということ、それは共通しているのだ。その
「共通の病い」を対話の土俵にすること、それ以外に道はない。

 2月18日(金) 晴
 朝七時半に起きて、若干の執筆をしたあと、宿泊所内の食堂にむかう。朝食の
場には、多くのインド人学者、それに韓国や台湾からの学者、さらに日本在住十
五年という「名誉アジア人」のアメリカ人学者などに混じって、日本側の学者で
ある桑山敬意己氏と吉見俊哉氏がいた。桑山氏は柳田国男研究が専門の人類学者
で、滞米経験が長く英語は流暢。吉見氏は文化と政治社会の関わりを研究してき
た社会学者で、私とは出版社時代からの知合いである。
 宿泊所に隣接した会議場は、これまたおそろしくきれい。マイクなどの用意も
完璧。さらに驚いたのは、写真係や会計係もセンターの研究スタッフがやってい
たこと。完全分業社会インドにおいては、会計事務などは身分の低い事務員がや
ることとみなされやすく、会議の間だけとはいえ、研究員が会計事務を担当して
いるなどというのは珍しいこと。講演会などでも、知識人の講師や聴衆が議論に
熱中している横で、明らかに身分のちがう音響担当の人がふてくされた顔で座っ
ているという構図をよく目にする。しかしここでは、どうも様子がちがうのであ
る。
 国際会議は、ヴィヴェク氏の挨拶のあと、報告者一人当たり二〇分の報告と一
〇分のコメント、そして30分の議論という、国際会議によくある形態で始まっ
た。一番目の報告者は桑山氏。柳田国男の思想的変遷をあつかった報告は、おな
じく柳田を研究したことのある私には問題意識がよくわかったが、インドの知的
文脈とは少しずれているようにも感じた。会場がやや静かなので、「日本の知識
人は英語がヘタだという定評がありますが、あえて質問します」と述べ、議論の
口火を切る。
 これで味をしめて、以後は会議の賑やかし役を務める決意をする。国際会議な
んてものは議論がなければ退屈なものだし、それに放っておけば、英語が得意で
ひたすら自分の意見をまくしたてるインド知識人の独演会になることも予想でき
たからだ。語学の問題もあって、「日本の知識人は、みんな国際会議に出ても黙
っている」という定評があるが、それも少々しゃくだったのである。
 二番目の報告は、シンガポール在住のインド系知識人による報告。既存の西洋
社会科学に代わる、アジアによる新しい社会科学を構築するための準備というの
が主題だったが、やや話が大きすぎて雑駁。そもそもそんな巨大なテーマを、二
〇分かそこらで報告するというのが、どだい無理な話なのである。
 しかしインド知識人は、「西洋の限界」とか「新しい社会思想」といった、大
きな抽象的テーマを好む人が少なくない。議論に入ると、次々とインド知識人た
ちが立ち上がり、早口でまくしたてる。しかもお互いの主張を聞いて議論を発展
させるという感じではなく、各自がその場で思いついたことを長々と述べあうと
いう状態。国際会議といいながら、ほとんどインド知識人たちに議論が占領され
そうになってきた。
 やや不満になってきたので、質問に出た。
 「アジアってどこのことですか。今の報告や議論で、『アジア』『第三世界』
『元植民地』『非西洋』などがほとんど同じ言葉として使われているので、居心
地の悪い思いをしています。『アジア』と『第三世界』が同じものだというな
ら、なぜアフリカや南米諸国も『アジア』に含めないのですか。また、日本は非
西洋ではあっても第三世界ではありませんから、あなたがたのいう『アジア』で
はないのですか。もしそうなら、私はなぜここに呼ばれたのですか。報告者は、
『アジアとは西洋の作った主流文化から排斥された人々のことだ』といいました
が、英語を早口で長々と話せるインド知識人たちが国際会議を占領しているのを
みていて、英語が下手な私などはそこから排斥されたようで、たいへんイライラ
します。」
 質問の後半では、会場から笑いが漏れた。彼らの目には20代前半くらいに映
っているであろう外国人が、日本語なまりの下手くそな英語でこういうことを述
べているので、面白がられたのである。
 しかし、面白がられるだけの問題ではない。インド知識人たちが、「アジア」
「第三世界」「元植民地」「非西洋」などをほとんど同じ言葉として使うのは、
彼らがもっぱら「アジア」の国としてインドしか想定せずにしゃべっているから
である。インドはたしかにこれらの条件すべてを満たしているが、そうした国
は、じつはそう多くないのだ。こうした「アジア」議論には、日本の知識人だけ
でなく、南米やアフリカの知識人、あるいはアジア諸国でもすでに「第三世界」
とはいいがたい台湾や韓国、植民地化されなかったタイの人々だって、ついて行
けないだろう。私の質問は、インド知識人の議論の姿勢だけでなく、世界観の独
善性を指摘したものでもあったのだ。
 午前の議論が終わると昼食。「面白い質問だったわ」と言ってきた台湾のフェ
ミニストがいた。またインド側の知識人でも、「重要な問題よ。私はシンガポー
ルで国際会議に出たことがあるけど、東南アジアの知識人が『アジア』というと
き、インドを含めていないと感じたわ」と話しかけてきた人もいた。後者の話か
ら察するに、自国の状況しか想定せずに「アジア」を語るのは、インド知識人だ
けではないようだ。日本の政治家や知識人だって、他国のことを言えた義理では
ない。まこと、「アジア諸国」に共通の文脈を探るのは困難である。
 午後の会議は、韓国の女性映画監督による、映画における女性表象(女性の描
き方)についての報告から始まる。さらに、台湾の学者による、台湾におけるポ
ストコロニアリズムについての報告があった。しかしこれまでの議論を聞いて思
ったのは、この会議に呼ばれた日本・韓国・台湾の東アジア知識人と、インド知
識人の間では、問題意識がまったく隔絶しているということだった。
 アジアの社会科学の未来を探るという国際会議だから、それぞれの国で最先端
のことをやっている人を招いているはずだ。そして前記の東アジア側の知識人た
ちは、アメリカやイギリスの文化研究の影響を受けて、映画や広告などにおける
女性表象の問題や、脱植民地化以降の文化変容などを最先端の研究として問題に
している。
 しかし彼らにとって、インド知識人にとって重要な問題である識字率の向上や
初等教育の普及といった問題は、ほとんど「終わってしまった問題」である。イ
ンド知識人が重視する宗教と政治の関係についての問題も、東アジア地域では
「異国の話」以上のものではあるまい。逆にインド側にとって、東アジア側が問
題にしているような、高度消費社会や情報化社会のなかでどのように女性や性的
マイノリティ(同性愛者など)の位置を獲得していくかなどというテーマは、お
よそ縁遠いものだろう。
 私に話しかけてきた台湾のフェミニストである丁乃非氏は、映画における同性
愛者の表象が専門だ。しかしインドでは、同性愛の描かれ方を問題にする以前
に、映画で同性愛を描いてよいかどうかをめぐって原理主義者と知識人が争って
いるのである。韓国からきた映画監督である金素栄氏も、ストーリーのない前衛
ドキュメンタリー映画を作っているといっていたが、インドでは社会派以外のド
キュメンタリーを作ることが画期的なのだ。
 どちらが良い悪いの問題ではない。それを言い争いはじめれば、東アジア側は
「インドは文化も社会も遅れている国なんだ」とみなし、インド側は「東アジア
の知識人はお遊びのような研究をやっている」と非難するだけだろう。良いも悪
いもなく、直面している状況がちがうのである。
 しかも輪をかけて悲劇なのは、これほど文脈がちがうにもかかわらず、使って
いる学術用語は同じであること。サイード、アンダーソン、フーコー、デリダと
いった西洋知識人の名前は、両者ともにしばしば使う。同時代の世界に生きてい
るから、同じ西洋社会科学の情報が入ってくるのだ。しかし同じ情報が入ってき
ても、社会的な文脈がまったくちがうから、それぞれ異なる文脈で言葉が定着し
ている。おなじ「フェミニズム」という言葉を使っても、片方は映画における同
性愛表象の問題を思い浮かべ、片方は農村女性の識字教育を想定しながら話して
いるのでは、対話が成立するわけがない。
 こういう場合、かえって「フェミニズム」といった共通語がなくて、互いの状
況説明から話し合ったほうが、よほど相互理解につながるだろう。お互いが「な
んとなくおかしい」と思いながら、同じ言葉をちがう意味で使っているというの
は、コミュニケーションにおいては最悪の状況である。たまたま東アジア出身で
インドに在住している私は、会議を盛り上げる扇動役と同時に、質問をしながら
両者の文脈を橋渡しする役を担うようにしたが、なかなか困難だった。
 午後の三番目、今日の最後の報告者が私である。題材は、ベナレス・ヒンズー
大学でやったものの使い回し。ただしナンディー氏のCSDSでの失敗を教訓にして
大幅に時間を短縮し、戦後の部分は割愛して、ジェスチャーや強調を重視した話
し方をした。ポイントをしぼったぶん通りがよくなって、反応は上々。午前中か
ら何回も質問をしていたので、面白い奴だという評価が参加者のあいだに定着し
ていたということもある。
 しかし私としては、近代化やグローバライゼーションの波を前にして、人間が
どのようにアイデンティティを形成して行くかという普遍的なテーマが、聴衆に
届いたのだと思いたい。コメントをしてくれたインド人も、また質問にたった韓
国の映画作家も、報告はクリアで刺激的だったが、近代社会というものに対し
て、私がアンビバレントな姿勢をとっていることを指摘した。近代社会は、人間
にある種の自由と平等をもたらすが、不安と不安ゆえの病気(過度のナショナリ
ズムや原理主義など)を生み出しもする。私とて、その両側面からいって、近代
社会を否定も肯定もできにくい。それが報告にあらわれたのだろう。
 ヴィヴェク氏も、「面白いが、矛盾を含んだ報告だった」と指摘した。そこで
私が、「ご指摘は認めますが、私は報告とか論文というものは、完成された作品
というより、議論と対話をよぶ刺激剤になればよいと思っています」と回答する
と、場内からは笑いがもれた。インド人は議論を一種のゲームのようにみなして
いるところがあるので、気の利いた回答をするとウケるのである。
 報告終了後、吉見氏が「もう芸の域に達してるね」と話しかけ、台湾のフェミ
ニスト女性である丁乃非氏も「あなたはパフォーマーよ」と述べてきた。私は学
術報告といえどもコミュニケーションの一種だと思っているので、当然これらは
誉め言葉だと思っている。
 会議でめいっぱい働くと、もう夕方の6時近い。タクシーに飛び乗り、市内見
学に出かける。
 まず向かったのは、ヒンズーのブル寺院。牛の神様を祭っているので、この名
がある。バンガロールの中心街からやや離れた地域にあり、ここまでくると周囲
は「インドの町」らしくなってくる。ドラビダ様式のブル寺院の中には、高さ5
メートル、長さ10メートルくらいの巨大な雄牛の像があった。近辺にはさらに
二つヒンズーのお寺があり、巨大なゾウの神(ドネ−シャ)などが祭られ、人々
が礼拝に訪れている。
 おもしろかったのは、やはりどの寺院でも電気による飾り付けを行なっている
こと。巨大なゾウの神は大理石と金銀でできているが、点滅する赤い豆電球が飾
りに多数つけられており、白・金・銀・赤・緑など極彩色のキンキラキンで、ま
るで玉が入ったときのパチンコ台みたいな派手派手しさ。他の寺院では、寺で打
ち鳴らす小さな鐘を自動化した「自動鐘付き機械」があった。
 インドの寺院では、ラウドスピーカーで説教を行なったり、ライティングをと
りいれて派手にしているところが少なくない。店先でも自動車でも、赤い豆電球
で周囲を飾ったヒンズー神のますこっとをよく見かける。自己の存在を強調する
ために、色彩や音を強調し拡張する近代テクノロジーを、「平然と」どころか
「積極的に」取り入れているところがおもしろい。こういう国で、カラーテレビ
やオーディオが大人気なのもうなずける気がする。
 寺院の前には、オートリクシャーやバイクが集まり、寺のブラフマンが何やら
儀式を行なって花輪を車にかけている。交通安全の祈願のようで、ここにもテク
ノロジーと宗教の同居がある。お金を払って愛車に花輪をかけてもらったオート
リクシャーの運転手などは、カメラを向けると大喜びだった。
 おなじく花輪のかかったバイクを撮影していると、持主が声をかけてくる。二
人連れの若者だ。べつに怒っているふうでも、タカリ屋ふうでもなく、「どこの
国だ」「名前は」「職業は」といった質問をしてくる。こちらも質問をすると、
気さくに答えてくれた。ヤマハのバイクは3万ルピー(現地感覚二百万円くら
い)ほどで、収入の半年分をはたいて買ったのだという。一人は携帯電話の販
売、もう一人は金融関係の仕事だそうだ。仕事の内容はビジネス都市バンガロー
ルにふさわしいが、そういう新興産業の若者も、交通安全祈願のために寺院にや
ってくるのである。「インドは好きか」と聞かれたので、「好きだよ。エネルギ
ーに満ちた、柔軟性のある文化の国だよね」と答えたら、「柔軟性ねえ」と笑っ
ていた。
 この二人にかぎらず、バンガロールの人々は、がいして親切。道を訪ねても、
写真を撮ろうとしても、とても気さくである。ベナレスやカルカッタ、あるいは
デリーなどでは、外国人に声をかけてくる人間はタカリ屋と相場が決まっている
が、ここではそういう人間にはまったくお目にかからず、単なる親切心と好奇心
から話しかけてくる。
 これは町の気質というより、外国人観光客が少ないからなのだろう。バンガロ
ールは大都市だが、歴史的なポイントが少ないので、観光客はめったにこない。
そのため、観光客と見れば「カモ」「金づる」とみなす人々がいないのである。
もともとは、ベナレスやカルカッタの人々も、こうした気さくな態度だったのか
もしれない。ただ、現地感覚からすればあたかも湯水のように大金を使う観光客
の存在が、彼らの外国人に対する態度を変えてしまったのではないか。
 寺院を出て、市場にむかう。ここはバンガロールの中心部とちがって、上野の
アメ横みたいな大衆市場である。露天の野菜売りがはりあげる威勢のいい掛け声
がとびかい、各種の小商店が軒を並べている。
 ここでも、人々はやたらと気さくで親切。この町のこんな場所に日本人が来る
ことはめったにないから、方々から声をかけてきて、国や名前を聞いてくる。写
真をとってくれとせがまれ、撮ると大喜びするのはお馴染みの反応。ただしここ
の特徴は、露天商はともかく、小さな商店の人々ともなればかなりの英語を話す
こと。デリーやベナレスでは、こうはいかない。さすが「みんなが英語を話す
町」と呼ばれるだけのことはある。
 もう一つの特徴は、市場のとても小さな商店でも、写真を撮ってあげると名刺
を渡し、「日本から送ってくれ」といわれること。ビジネス都市バンガロールで
は、名刺を作ることはごく普通の行為として浸透しているのだろう。
 中には私にむかって、「日本で働きたいんだ。どんな仕事でもするし、航空機
代は払うから、一緒に連れていってくれないか」などと言ってきた若者の集団も
あった。もっともその連中もごく気さくで、見知らぬ私と肩を組んで記念写真を
撮ろうというような人々なのだが、先進国で働くと金が稼げるということはよく
知っているのである。こうしたことは、おなじく気さくな人々といっても、サハ
ランプール周辺では起こらなかったことだ。観光客が少ないから悪擦れはしてい
ないが、大都市だけあって外国の情報は入っているのである。
 一回りまわって、宿泊所にもどる。みな昼間の活動で私の顔を覚えていて、い
ろいろ話しかけてくる。この調子で明日もいこうと思いつつ、日記を書いて寝
た。

 2月19日(土) 晴
 朝食の場に出ると、昨日声をかけてきた台湾のフェミニストである丁乃非さん
が、隣にすわった。彼女は映画におけるレズビアンの表象といった、性別の境界
を再考するテーマを研究しているので、自身も坊主頭の「女らしくない」女性で
ある。私が「僕はインドでは、しょっちゅう『男か女か』と聞かれるんだけど」
というと、彼女は「いいことじゃない。私だってこの外見だから、そんなことよ
くあるわよ」と笑う。
 それから韓国の女性若手映画監督である金素栄氏と、三人で食事と談笑。日
本・韓国・台湾は、かつてはすべて「日本」だった地域で、日本語教育が行なわ
れていた場所だが、いまでは共通語は英語。しかも二人の若手女性学者は英語が
達者で、私がいちばんヘタである。
 しかしそのうち、お互いの名前を確認するために、漢字を紙に書きあうことが
始まった。会議のプログラムは英語で記されているので、名前もローマ字表記
で、読みはわかっても漢字はお互いしらなかったのである。「小熊」という名前
を書くと、二人の女性は「かわいい名前じゃない」と言い、「小熊」の韓国語読
みである「ソウン」、中国語読みである「ショウシャオ」を教えてくれた。漢字
はかつて東アジア共通語だったから、言葉はちがっても筆談はできるのだ。ひと
しきりお互いに漢字を書いて名前交換をしたあと、「私たち、何をしてるのかし
らね」と笑いがもれる。私が「こういうのを東アジア同盟っていうんだろうね」
と言ったら、二人とも「ちょっと、変なこといわないでよ」とさらに笑った。
 二日目の報告は、午前中に二つ。一つは丁乃非さんのものだったが、悪い予感
が当たって、インド側の反応はいま一つ。インドでは同性愛などという問題は、
そもそも公の場で、しかも学術会議の場で話し合うということじたいが、まだま
だタブーにちかい。どういう問題意識で丁さんが研究しているのか、それじたい
がなかなか伝わらなかっただろう。私はインドのへジュラ(女装男性の芸人階
級)の例などを出しつつ、多少橋渡し的な質問をしたが、うまくいかなかった。
 もう一つの報告は、インド側知識人による、インドの宗教問題についてのも
の。ヒンズーやイスラムの摩擦、ヒンズー内部の改革運動などにかんする報告で
ある。インド知識人たちにとってこうしたテーマはもっとも関心のあるところ
で、大勢の人が意見や質問を述べるが、東アジア側の参加者は沈黙。ただでさえ
こうしたあまりにインド的なテーマは、予備知識もなしに理解するのは難しい。
おまけに、他国からの参加者にはインドにどういう宗派があるかもよく知らない
人がいたかもしれないのに、報告者はいきなり各種の宗教運動や教義論争の話に
入ってしまっていた。インド知識人の基準から、「このくらいは知っていて当
然」という前提が無意識のうちに決められてしまっているので、インド側の人間
以外は議論に参加できないのである。
 こういう状態を放置しておくと、イライラしてくるのが私の性分である。思い
きり手を上げて、質問をした。
 「ヒンズーって何ですか?」
 これまで宗教教義や対立関係の論議をしていたインド側知識人は、この子供み
たいな質問に一瞬あっけにとられ、つぎに失笑が漏れた。しかし、私が以下のよ
うに質問を続けると、しだいに彼らもマジメな表情になった。
 「私はどうやったらヒンズー教徒になれますか? 言葉を換えて言えば、イン
ドにいるイスラム教徒は、どういう生活習慣や宗教マナーを身につければ、ヒン
ズー教徒と認められるのですか?」 
 ここまでくれば、インド知識人も真剣にならざるを得ない。これは日本で言え
ば、ある外国人がヘタクソな日本語で「日本人って何ですか?」と聞き、さらに
「私はどうやったら日本人になれますか? 日本にいる朝鮮系の人は、どんな生
活習慣を身につければ日本人と認めてもらえているのですか?」と質問を続けた
ようなものだからだ。最初はあまりに素朴な質問に笑っても、後半は笑い事では
なくなってくる。
 じっさい、ヒンズーというのはわけのわからない「宗教」である。そもそも
「入信の儀式」というものも、「これさえ守っていればヒンズーだ」という戒律
もない。しかも多神教で、インド各地でいろいろな形態があって、「これがヒン
ズーだ」という特定のかたちがない。もともとあるカーストの親の子に生まれた
者が、そのカーストに位置付けられることを中心とした生活習慣すべてを、「ヒ
ンズー」と呼んでいるにすぎないのだ。だから、ヒンズーからイスラムや仏教に
改宗する人はいても、その逆はほとんど聞かない。いわば、「ヒンズー教徒とし
て生まれる」ことはあっても、「もともとヒンズー教徒でなかった人間がヒンズ
ー教徒になる方法」は、聞かれても答えようがないのだ。
 こうした質問は、私自身の研究から派生したものである。私は『<日本人>の
境界』という本で、沖縄やアイヌ、朝鮮や台湾の人々など、近代以降に「『日本
人』にされた人々」のことを書いた。その時にわかったことだが、「日本人に生
まれる」ことはあっても、「日本人になる」ことはきわめて難しいということで
ある。どんなに努力して日本語を話し、日本の習慣を身につけても、「元からの
日本人」でない人間は、「真の日本人」としてはなかなか認められない。
 これは同化政策などで朝鮮人や台湾人を「日本人」に改造しようとした側も同
じことで、いざ「日本人になれ」と命令しても、何をどうすれば「日本人になれ
る」のか答えようがない。太平洋戦争前後には、朝鮮人に神道の神社を拝ませた
り、日本語を強制的に話させたり、日本風の名前に変えさせたりしたが、それで
「真の日本人」になったとみなしていたとは思いがたい。そうしたとき、朝鮮人
や台湾人から「日本人って何ですか? 私はどうしたら日本人として認めてもら
えるのですか?」と質問されても、絶句するしかなかっただろう。
 インドは多宗教共存の世俗国家が建前だから、「インド人になる方法」は法律
的には単純で、要するに国籍を取得すればよい。しかしヒンズー・ナショナリズ
ムを叫ぶ原理主義者は、「イスラム教徒やキリスト教徒は真のインド人ではな
い。ヒンズーこそが真のインドなのだ」と主張している。インドでは、こうした
原理主義には反発も強いため、原理主義者の「真のインド」という主張は「目立
つ」存在である。しかし日本では、「元からの日本人だけが本当の日本人」とい
う感覚が空気のように当然になっていて、インドにくらべて「目立たない」。原
理主義が「目立つ」インドと「目立たない」日本、どちらが重症の原理主義国家
かは、判断しがたい問題である。
 こうした「ヒンズーって何ですか」という質問に、当然ながら会場は一瞬の沈
黙。報告者は渋い顔。そりゃそうだろう、これまで宗教運動の細かい議論などを
やってきたのに、いきなり議論の根底をぶちこわしにされるような質問である。
報告者からは、「そんな『私とは何なのか』みたいな質問、答えようがありませ
んよ」とだけ述べられて、回答は打ち切られてしまった。
 しかし議論が終わったあとの休憩では、幾人ものインド知識人たちが、私に声
をかけてきた。「あれはとても難しい質問なんだ。簡単には答えられない」とい
う人、「『ヒンズー』というのは実態としては存在しないものなんだ」と禅問答
みたいなことを言う人、「とりあえずガンジス川で沐浴して、それから腕輪をし
てお寺に行けば、第一段階終了だ」とか冗談めかして言う人などなど。サバルタ
ン・スタディーズの大御所であるパルタ・チャタルジー氏からは、「君は『ヒン
ズー教徒になる方法』という本を書いたらいい。もちろん君の顔写真を表紙にし
てね。とても面白い社会科学小説(ソーシャル・サイエンス・フィクション)に
なって、大評判をとるだろう」というお言葉をたまわった。たしかに日本でも、
外国人の学者が『日本人になる方法』などという本を顔写真入りで出版したら、
ちょっとした評判になるにちがいない。
 「大賢は大愚に通ず」という言葉があるが、これは学問をやる人間にとって、
一つの目標である。「ヒンズーってなあに」「日本人ってなあに」という質問
は、一見ばかげていて、じつはあまりに深い。かつて私はラジブ氏に、「僕はこ
の国では子供みたいなものだけど、子供の目からしか見えないものもあるはず
だ」と述べたことがあるが、学者の本望は、「王様は裸だ」と叫ぶ子供になるこ
とである。
 さらに私はインド知識人たちに、「ヒンズーというのは、寛容な宗教だといわ
れますが、実はとても排他的な宗教だと思いますよ」と述べた。ヒンズー教は多
神教だから、ちょうど日本人がイスラムのモスクだろうがキリスト教の教会だろ
うが平気でお参りするように、ヒンズー教徒たちもいろいろな神にお参りする。
こうした姿勢は、一見開放的で寛容に見えるし、インドのヒンズー系知識人もそ
う思っている。しかし、私はこう続けた。
 「もし私が、ヒンズーの寺院にお参りしたら、ヒンズーの人たちはいうでしょ
う。『外国人がお参りしたってかまわないよ。ヒンズーは寛容な宗教だから
ね』。そして私がガンジスで沐浴して、腕輪を巻いたら、『そいつは結構なこと
だ。ヒンズーの文化を学びたいんだね』というでしょう。しかしそのあと、私が
『それでは、私をヒンズー教徒と認めてくれますか』といったら、彼らは『どう
してだい。おまえは外国人じゃないか』というに決まっています。」
 ヒンズーは柔軟な宗教だといわれ、さまざまな様式をとりこんで変形してゆ
く。しかし、その柔軟性は、排他性と表裏一体のものである。ヒンズー教徒であ
ることは生まれによって決まっているから、どの宗教の寺院をお参りしようと、
ヒンズーであることには変わりないのだ。その代わり、生まれがヒンズーでない
人がヒンズーになるのは、きわめて困難である。
 これがイスラム教のような厳格な戒律を持つ宗教なら、事情は反対である。戒
律が厳格であっても、その戒律さえ守れば、外国人でも「イスラム教徒」として
認めてもらえるだろう。ヒンズーが「柔軟性と排他性」の宗教だとすれば、イス
ラムは「厳格さと普遍性」の宗教だ。異邦人に開かれた普遍性と開放性をもたせ
るためには、「この原理にさえしたがえばあなたも仲間として認めよう」という
基本原理と戒律が生み出される。開放的になるために、単純化された原理が設け
られるのだ。そしてもちろん、日本の神道は、ヒンズーに似た「柔軟性と排他
性」という性格をもつ宗教である。
 さらに私は、「もしかしたら、ヒンズー原理主義者のほうが、普通のヒンズー
教徒より外国人に開放的でしょう。彼らはインド各地の多様なヒンズーの形態を
画一化して、ヒンズーを一神教的な厳格な宗教にしようとしています。しかしそ
うやって決められた形態や戒律に従えば、原理主義者は外国人だってヒンズー教
徒として認めるんじゃありませんか」と述べた。チャタルジー氏は複雑な表情に
なって、「そうかもしれない。いや、その通りだろう」と応じた。
 原理主義は、インド社会が近代化にゆらぐなかで、新たな宗教運動として発生
した。近代化によって人間の社会的移動が激しくなるにしたがい、カースト制度
や在来の生活慣習は崩壊にむかう。そうなれば、統一的な戒律や基準を設けない
かぎり、「これがヒンズー教徒だ」という定義は難しくなる。それを無意識のう
ちに行なおうとしているのがヒンズー原理主義だとすれば、まさに原理主義は近
代化の産物だということになる。
 この報告が終わって、昼食。在日15年のアメリカ人仏教研究者である、デビ
ッド・ロイ氏の隣にすわる。「大活躍だね」といわれたあと、彼の経歴を聞く。
奥さんはイギリス人で、シンガポールで出会ったあと来日し、現在は息子が一人
いるそうだ。「あの質問の意味はわかるよ。日本でも『変な外人』という位置を
占めるのは簡単だが、日本社会に本当に受け入れられるのはむずかしい」とい
う。彼自身は日本語があまり得意でなく、「日本人」になる気もないというが、
息子さんは日本語と英語のバイリンガルだそうだ。
 私が「息子さんは日本でずっと育てるのですか」と聞くと、「頭の痛い問題な
んだ。日本は好きだが、日本の入試システムは人間を歪めるから、アメリカの学
校にやるつもりだよ」と答える。私はそれにたいし、「それでは、息子さんは日
本の企業に就職するのは困難でしょう。日本企業は日本の大学を出た『日本人』
しか雇わない傾向が強いですからね」というと、「そう、彼は日本を出て行くこ
とになるだろう」という。私はさらに続けた。
 「それは、一種の悲劇ですね。」
 「誰にとって? 僕の息子にとってかい?」 
 「ちがう。日本にとってですよ。」
 ここまで会話して、ロイ氏はため息をついた。「そう、たしかに日本にとって
悲劇だ。息子をはじめ、日本にいる外国人は、これからの日本が必要とするはず
の、いろいろな能力を持っている。それなのに……」。バイリンガルで日本育ち
の彼の息子は、日本社会が彼を有効に働かせることができれば、日本の国際化に
多大の貢献をするだろう。それを活かせないことで損害を受けるのは、何よりも
日本社会そのものである。
 午後の報告は、日本の吉見俊哉氏による、1930年代から80年代までの日
本の電気製品の広告分析。「誇るべき日本製品」といったナショナリズムをはじ
め、広告に含まれる隠れたイデオロギーを探り出す報告で、数々の珍しい広告の
スライド画は聴衆の目を引いた。しかしインド知識人たちは、時代で言えば一九
六〇年代まで、つまりテレビ・冷蔵庫・洗濯機などが「三種の神器」などとよば
れて急速に普及し始めた時期までには関心を示したが、高度消費社会に突入した
八〇年代以降にかんする分析には興味が持てないようだった。現在のインド社会
の状況を考えれば当然のことだが、ここでも東アジアとインドの関心のギャップ
が露呈した。
 次は、デビッド・ロイ氏による報告。彼の報告趣旨は、以下のようなものであ
る。人間には、現状にあきたらない「欠落感」がある。近代以前のヨーロッパ社
会では、この欠落感は、宗教的な「原罪」意識や来世意識として表現された。と
ころが、近代社会になって政教分離が行なわれ、公共生活から宗教が締め出され
ると、「制度化された欠落感」が生まれた。それが、あくなき利潤の追求にあけ
くれる資本主義、アイデンティティの欠落感を埋めてくれるナショナリズム、社
会的地位の追求と競争の発生といったものであるというのである。つまり、近代
社会は一見すると宗教を締め出しているが、実際には欠落感の追求形態が変わっ
ただけだというわけだ。こうした「近代の病い」に対抗するため、仏教における
欠落感や欲望の制御の思想が重要だというのが、ロイ氏の主張だった。
 ロイ氏の学説は、おそらくはヒッピー世代のアメリカ人である彼が、金銭欲や
出世欲がうずまく資本主義社会を批判するために生み出したものだと感じられ
た。これはアメリカや現代日本のような、「欲望の制御」が必要とされる高度消
費社会ではたいへん重要なテーマではあったが、やはりインドの文脈にはあては
まらなかった。インド知識人が次々に立ちあがって意見を述べたが、自分の仏教
解釈を長々とまくしたてるなど、ロイ氏の基本的な問題意識を理解しているとは
思えないものが多かった。
 そもそも問題意識が伝わっていないだけでなく、例によって同じ言葉が、ちが
う意味で使われているとも感じた。例をあげれば、「世俗主義」である。
 ロイ氏は近代社会の始まりを、17世紀のヨーロッパ宗教戦争の教訓から政教
分離が定められ、世俗主義が定められたことに求めた。カトリックやプロテスタ
ント諸派の戦争でヨーロッパが荒廃した教訓から、以後は政治をはじめとした公
共生活に宗教を持ち込まず、個人の思想や私生活においてだけ宗教を享受すると
いうのが、ヨーロッパ世俗主義の原則である。
 ところがインドでは、「世俗主義」という言葉じたいは知識人たちもよく使う
が、ヨーロッパとは少々異なる意味を含んでいる。インド社会では、公共生活で
宗教を排除するなどということはほとんど不可能に近いと認識されており、学校
に行こうが公共機関に行こうが、ヒンズー神のブロマイドや彫刻が見られないこ
とはほとんどない。この会議が開かれている会場にも、ヒンズーのゾウの神の彫
刻が、「世俗主義」の象徴であるはずのガンジーの肖像画と同居している。これ
はヨーロッパの「世俗主義」からいえば、矛盾である。
 しかしインド知識人たちは、私生活のみならず公共空間をも含んだ全生活にお
いて、それぞれの宗教をもった人々がそれぞれの信仰を楽しみ、そうして多様な
宗教が共存することが「世俗主義」だと思っているふしがある。これは、多神教
のヒンズーが支配的な「柔軟社会」であるインドならではの「世俗主義」解釈
で、公共空間に宗教を持ち込めば戦争になるという原則から出発しているヨーロ
ッパの「世俗主義」とは異なっている。
 ロイ氏の報告では、近代ヨーロッパで生まれた「世俗主義」によって、公共生
活から宗教や精神生活が排除されたことを批判することが一つの柱なのだが、そ
のことがインド知識人たちにはよく伝わっていないようだった。報告の趣旨を理
解していないインド知識人による質問や議論が続くので、ロイ氏はややとまどい
顔。私は挙手をして、ヨーロッパとインドにおける「世俗主義」の違いを私なり
に説明し、議論の交通整理に努めたが、あまり効果がなかった(あとでチャタル
ジー氏からは、「君の整理はだいたい当たっているが、実情はもう少し複雑だ
ね」といわれた)。こうまでたがいの問題意識と言葉がくいちがっていては、議
論が成立するのは困難である。
 この日の最後は、ヴィヴェク氏による報告。行き詰まりつつある西欧の社会科
学を乗りこえ、アジアの社会科学を創ろうという意欲が伝わる報告だったが、こ
れもやや話が壮大すぎで、東アジア勢はほとんど沈黙。インド知識人たちは、ま
たもや次々と質問や議論に立ちあがる。ヴィヴェク氏の報告は興味深かったし、
個々の意見にはおもしろいものもあったが、各自がそれぞれの意見をまくしたて
るだけで、まったく議論が収斂しないうちに時間切れ。なんだか消化不良の感が
残った会議だった。
 会議が6時に終わったので、今日もタクシーに乗って市内観光に出る。昨日は
寺院や市場に行ったので、こんどはバンガロール一番のファッショナブルな通り
である、ブリゲート・ロードにむかった。
 到着すると、たしかにファッショナブルな通り。日本でいえば、渋谷のような
感じも少しある。大きなビルにはビザ屋のフロアがあり、ジーンズのブランドシ
ョップや高級オモチャ店もあった。ビルの二階の位置では、高さ三メートル以上
はあるブロンズの「バットマン」が(やや顔がインドっぽいのがおかしかっ
た)、日本の「カニ道楽」の看板みたいに動いている。「インドのシリコンバレ
ー」といわれる都市だけあり、コンピュータを売る店や、一時間40ルピーくら
いでコンピュータを使わせてくれる「コンピュータ・カフェ」がいくつもあっ
た。
 なかでも傑作だったのが、靴屋の正面にあった「自動ナマステ人形」。「ナマ
ステ」はヒンディー語の挨拶の言葉で、両手を合わせて「ナマステ」と言うのが
インドでの挨拶のお定まり。この「自動ナマステ人形」は、実物大の女性の人形
が、合わせた手を自動で上下しながら挨拶のかっこうをして、店頭に立ってい
る。日本でいえば、フクスケ人形みたいなものか。
 巨大なデパートのようなものが目に入ったので、入ってみる。名前は「五番
街」というビルで、外見はヨーロッパの教会みたいに、模造の時計台(動かな
い)と風見鶏が頂上に付けてある。内部は中央が吹き抜けで、おしゃれなエレベ
ーターが上下し、おしゃれな服飾店がならぶ。ギリシア風の彫刻から、水が出て
いる池まであった。ビルに入っている人は、もちろん一目で中産層以上とわかる
人々だけである。
 ビルの入口には、旅行代理店の出店があった。見ると、「海辺でヤシの木陰に
日が沈む」という体の絵が書いてあり、「ゴア州観光 二泊三日 格安7500
ルピー」と書いてある。ゴア州やケララ州は南国情緒の観光地として有名だが、
ここバンガロールから、インド人ビジネスマンの家族がツアー旅行に行くのであ
る。それにしても、「ヤシの木陰に日が沈む」絵は、みごとなまでにヨーロッパ
諸国がアジアに対して抱くオリエンタリズムの典型で、インド人が国内の州にこ
ういうイメージを抱いているのは興味深い。
 しばらく見物して、会議のメンバーが集まっている高級ホテルに行く。今日は
ディナーパーティの予定なのである。少々遅れて行ってみると、ほんとうに超高
級なホテルの庭で、みながカルナタカ料理を食べていた。料理はもちろんおいし
く、インド知識人と話をかわす。
 主催者側の研究員の一人が、やや興奮ぎみに私に言ってくる。「あなたはいろ
いろ発言していたが、インドのことを簡単に判断してもらいたくない。われわれ
には、ヨーロッパの側から、『インドとはこういうものだ』という偏見をさんざ
ん投げかけられてきた歴史があるんだ」というのだ。私は答えていわく、「イン
ドがわかったなんて、言うつもりはない。ただ僕はいま、インドから刺激を受け
て、日本と自分自身を再発見しているんだ」。くだんの研究員は、「それならい
い」と握手を求めた。

 2月20日(日) 晴
 今日は、朝10時にはバンガロールを出て、ケララ州の首都であるコーチンに
行かなければならない。バンガロール行きを決定したとき、小川氏が「会議は全
部出なくても、インドを回ることを重視したほうがよいでしょう。ケララは北イ
ンドとはまったくちがうから、一度は行って見るべきです」とアドバイスしてく
れたので、ケララ行きのチケットを今日にとってしまったのである。
 昨夜そのことをディナーの場で話したら、何人もが「それは残念だ。あなたが
いたほうが面白いのに」と言ってくれた。ありがたい話である。とくに残念がっ
たのが台湾のフェミニストの丁乃非さんで、「ショウシャオ(チビ熊)はいなく
なっっちゃうの」と言い、韓国の金素栄さんと、最後に朝食を一緒に食べようと
言ってきた。
 三人に吉見氏をくわえた「東アジア同盟」の朝食の場で出た話題は、やはりイ
ンド側との文脈のギャップと、インド知識人の議論姿勢。吉見氏は、「いまの台
湾とか韓国とかだと、だいたい日本と問題意識を共有しているんだけど、インド
は全然ちがうから、どう話したらいいかむずかしい」と言っていた。デビッド・
ロイ氏も朝食の場に現れたが、「欧米で同じ報告をしたときと反応が全然ちがっ
て、やりにくかったなあ」と述べる。
 こういうギャップをどう埋めるかは、今後のアジアでの国際会議の課題だろ
う。東アジア側がインドの文脈を理解することも必要だが、インド知識人の一部
に見られる、全体の文脈を無視して自分の考えをまくしたてる姿勢も改めてもら
いたいものだ。とにかく課題を残したままで、みなで記念写真をとり、バンガロ
ールを離れる。
 空港から飛行機に乗ると、わずか40分ほどでコーチンに到着。気温はぐっと
暖かく、ほとんど夏。空港を出ると、国際交流基金が手配してくれた、旅行会社
の人とタクシーが待っていた。旅行会社の担当員であるクマル氏は、いろいろ質
問すると答えてくれる。
 ケララ州はインド最南端の州で、コーチンはその州都。南にあるが海辺のおか
げで、気温は内陸のデリーとちがって安定しており、冬は二〇度前後、夏は30
度台半ばとのこと。やはり南部のゴア州と並んで、ヨーロッパ諸国が海沿いに早
くから進出した土地として知られ、州の人口のうち約半数がヒンズー教徒だが、
キリスト教徒が第二位で3割ほどを占める。しかもコーチンが位置するケララ中
部では、キリスト教徒が多く、今日の運転手もクリスチャンだ。コーチン市は人
口50万くらいの中小都市、海辺の町なので主産業は水産で、水揚げだけでなく
加工工業なども盛んだそうである。現地語がマリヤラム語で、町はバンガロール
とおなじく、英語の看板のほうが多い。
 またケララ州は、識字率が90パーセント以上と、インドでいちばん高いこと
で知られる。初等教育の就学率も、ほぼ一〇〇パーセントに近い。旅行会社の人
だけでなく、運転手も英語をけっこう話す。その秘密も探って見たいというの
も、このケララ行きの理由の一つである。
 観光ポイントを訪れながら人々の様子を見てまわるというのがいつものスタイ
ルだが、今日は市内の観光ポイントが集中している旧市街をタクシーで回ること
にし、明日は船で水辺を回ることにする。旧市街の様子は、平屋建てがあまり広
くない道の両脇に並んでいる。乾燥した北インドの建物は、同じ平屋でも屋根が
水平で中庭がある石造りであるのにたいし、雨が多いコーチンは三角型のかわら
屋根で、日本の家屋とくに沖縄の古い家に少し似ている。ヤシの木がそこらじゅ
うに植えてあり、二期作の水田やバナナが郊外には広がる。キリスト教徒が多い
だけあって、ヒンズーの寺院よりも教会がめだつ。
 コーチンの人々は人懐っこく、観光ポイントを離れた道を歩いていると、声を
かけてきたり、酒場に誘ったりする。初対面の数人のムスリムと、ココナッツの
汁から作るビールを飲んだりした。これがデリーやベナレスだと、旅行者に声を
かけてくるのはたいていタカリ屋なのだが、ここは単なる好奇心と好意からお声
がかかったりする。気性が柔らかいというのもあるだろうが、バンガロールでも
感じたように、観光地化がそれほど激しくないのだろう。
 それを考えさせられたのが、観光ポイントでは人々の態度がややちがうこと。
コーチンは小さな町なので、あまり市内に観光ポイントはないのだが、それでも
ポルトガル統治時代から立っているというマッタンチェリー・パレス(といって
も小さな屋敷)や、16世紀に移住してきたユダヤ移民が建てたというシナゴー
グ、さらに浜辺など、いくつか名所旧跡がある。その周辺には欧米人の観光客が
集まっており、窓口の人の態度もやや横柄だった。
 とくに、シナゴーグ周辺はいただけなかった。このシナゴーグはかつてはユダ
ヤ・コミュニティの中心だったのだが、イスラエル建国後にほとんどのユダヤ家
族はイスラエルに行ってしまい、現在はわずか6家族だけが残っている。完全に
観光地と化したシナゴーグへの小道には、ずらりと観光客向けのみやげ物屋が並
び、客引きがカタコトの英語や日本語で声をかけてくる。
 シナゴーグ門前のいちばんよい場所にはアンティークの店があり、欧米人が品
物を選んでいた。のぞいてみると、古びたキリスト絵画や柱時計、茶碗、ブリキ
のおもちゃなど、さまざまなガラクタが集めてあり、日本の下北沢あたりにあり
そうな感じの店だ。店の主人に値段を聞いてみたら、何と古いアイロンや壊れた
目覚し時計が900ルピー(現地感覚5万円くらい)。「おい、冗談だろう。こ
んなガラクタを誰が買うんだよ」と聞くと、店主はニヤニヤ笑って肩をすくめな
がら、外国人観光客がけっこう買っていくと言っていた。
 アンティーク店は本屋も兼ねており、インド文化やヨガ、あるいは「自然の恵
み」などと題した写真集など、いかにもインドにロマンを求める外国人が喜びそ
うなものが置いてある。古アイロンや古時計も、日本円に直せば3000円台だ
から、先進国の人間が記念品に買ってゆくことはありえる。しかし、壊れた古ア
イロンや古オモチャを周辺の農村から集めてきて、それが何万円にも売れるとな
ったら、下手をすればマジメに働く気が失せるだろう。地道に働いて稼げる何十
倍ものお金が、外国人観光客を相手に一商売すれば手に入ってしまうのだ。
 ここコーチンはまだそれほどひどくないが、町全体がガンジス川の門前町のよ
うなベナレスで、タカリ屋が多いのはむりもない。しかしコーチンでも、街頭で
市価の二倍ちかい値段でフィルムを売りつけようとした少年たちや、理由もなく
「お金をくれ」といってきた子供たち(制服を着た学校の生徒で貧乏そうではな
い)もいた。現地感覚でいえば数万円から数十万円のお金を簡単に使う観光客の
存在が、現地の青少年に与える悪影響ははかりしれまい。しかし現地の人々は、
ほんとうはそうした観光客をあざ笑っている。古道具を選んでいるアメリカ人観
光客の横で、笑いをかみ殺しながらかしこまっていた店主の様子は印象的だっ
た。
 しかし、観光客は外国人だけではない。シナゴーグにも浜辺にも、たくさんの
インド人観光客がいた。コーチンはゴアとならんで海辺のリゾート地として知ら
れるようになっており、北インドやバンガロールなどから、経済開放政策の恩恵
をうけた中産階級の観光客がやってきているのである。バンガロールにあったよ
うな、「ヤシの木陰に日が沈む」という観光案内を見てやってくるわけだ。また
シナゴーグで話した相手は、72年に一九歳でビハ−リ州からオーストラリアに
移住したインド系移民で、こういう「欧米人観光客」と「インドの他地域からの
観光客」の中間にあたる人もいる。
 さらに、格差はコーチン内部にもある。タクシーの運転手に聞いた話では、ビ
ジネスや商業の中心地である新市街の人々が、浜辺のある旧市街にやってくる。
ちょうど日曜だったので、浜辺は自家用車やバスでやってくる家族連れであふれ
ていた。
 しかし、浜辺の風景はさらに複雑な分化をみせる。よく見ていると、浜辺の出
店のなかでも、外国人観光客がたまっている店と、インド人の家族連れがたまっ
ている店は分れている。後者の一つをのぞくと、日本にもよくあるパラソルと白
いテーブルのセットが並び、「サハラ・ファースト・フード・ショップ」という
名前でコーヒーやコーラを高値で出していた(店員に「なぜサハラなのか」と聞
いてみたが、結局不明だった)。インド人の寄る店はこんなに先進国風のきれい
さはないが、値段がやや安く、こうした分化が生じるのである。
 もう一つ気がついたのは、シナゴーグ周辺でも浜辺でも、「アート」を売り物
にしたみやげ物屋が多いこと。正体不明の絵画や民芸品らしき品物を売る店は
「アート・ギャラリー」と名づけられ、それに飲食店が付属すると「アート・カ
フェ」などと銘打たれる。「みやげ物屋」と名乗るより、なんとなくカッコよく
て、高値でも売りやすいのだろう。もっともこの手の「アート・ギャラリー」は
デリーでも多少見かけたが、コーチンは町が小さいだけにとくに目だった。
 ひとあたり名所めぐりを兼ねて町を見まわったあと、夜はケララ名物のカタカ
リ・ダンスを見にゆく。しかし「コーチン文化センター」という小さなホールに
入ると、30人弱ほどの客は、ほとんど欧米人ばかり。あとは数人の日本人らし
き人々と、若干のインド人。このカタカリ・ダンスも、原型はやや異なるもの
で、現在のものは観光客向けに派手にしたものだそうだ。それでもダンスそのも
のはおもしろかったが、完全に観光文化になりつつある感はした。地元民がくる
安い地元料理屋を運転手に教えてもらって夕食をとり、早々に寝る。

 2月21日(月) 晴
 今日は船に乗って海辺を見る予定なので、朝早くタクシーに乗って出発。目指
す場所はコーチンから南へ60キロほど行ったところにある、アレッピ−という
小さな町。そこから船に乗るのである。
 今日の運転手は、昨日とは変わりスニ−ルと名乗るヒンズー教徒。体格のいい
陽気な男で、年齢は二〇歳台前半くらい。道々いろいろ話かけてくる。「ジャッ
キー・チェンはいいよな。彼は日本人だったろ」「人民党が好きだ。強い政党だ
し、国民議会のように人をだまさない」といった話からはじまり、「イスラム教
徒は嫌いだ。あいつらは人を騙すからな。知ってるかい、シナゴーグの周辺のイ
ンチキ店のあたりは、イスラム教徒のたまり場なんだ」といった調子。
 もっとも、「シナゴーグ周辺の店」云々の話は、正確かどうか保証がない。少
なくとも私が入った二軒の店は、主人はそれぞれヒンズー教徒とキリスト教徒だ
った。ためしに「イスラム教徒の友達はいるかい」と聞いてみたら、「一人い
る。ムハマドって名で、あいつはいい奴だ」という。どこで知合ったのかと聞く
と、この運転手が生まれた農村で、小学校の同級生だったという。
 こういう事例は興味深い。現在のインドにおける宗教対立は、農村部より都市
部で多いといわれる。顔見知りばかりで構成されている農村部は、「イスラム教
徒」というイメージよりも「ムハマド」という個人が浮かぶが、人間関係が希薄
な都市部では、「よくは知らないが、イスラム教徒は悪い奴らだ」という集団感
情が発生しやすい。これに経済開放政策がからみ、「奴らのほうが最近設けてい
るらしい」といった格差意識がくわわると、よけい不安定になる。
 近代化によって地方コミュニティが崩壊すると、「世田谷人」や「立川人」と
いった意識よりも「日本人」というアイデンティティ、つまりナショナリズムが
生まれるのも、同じ構造だ。ナショナリズムや原理主義は、近代化の遅れではな
くて、近代化の一つの形態である。
 それにたいし、「イスラム教徒」のなかに具体的な友人が一人でもいると、偏
見はずっと緩和される。その唯一の友人が農村時代からの幼なじみだというの
も、興味深い話だ。在日朝鮮人のタクシー運転手を主人公にした『月はどっちに
出ている』で、主人公の同僚が言っていた「俺は朝鮮人は嫌いだが、姜さんは好
きだ」というセリフが思い出される。
 そうこうしているうちにアレッピ−に着く。公共の旅行サービス事務所に行
き、船に搭乗。旅行代理店に予約を頼んでおいたのだが、なんと貸し切り船で、
3時間は自由に回ってよいという。代金が少々気になったが、とりあえず出発。
運転手のスニ−ルも、「俺も乗せてくれ。ガイドするよ」と言って乗ってきた。
あまり運転手と親しくなりすぎると、金品を要求されるなどあとで問題が生じる
こともあるという話もあるが、3時間ぼんやり風景を眺めているのも退屈なの
で、とりあえず乗ってもらう。
 海辺の村は、細かい水路が縦横に走り、細い陸地にヤシの木や水田が広がるな
かで、漁師たちが魚をとっている。その風景を楽しむのがケララ観光の名物で、
たくさんの船がアレッピ−から出発する。大きな観光船にすし詰めになったイン
ド人観光客、わら屋根で雰囲気を出した食堂寝室付きの船で回る欧米人夫妻な
ど、観光形態もさまざまだ。
 観光船がゆきかう水路に沿って、地元の人々の家が並んでおり、人々は水路で
洗濯をしたり小船で釣り糸をたれている。しかし、家の様子をみていると、明ら
かに貧富の差があることがわかる。スニ−ルに聞くと、大きくて洋式なのは水田
の地主の家、小さいのは小作人か漁師の家だそうだ。
 スニ−ルはあたりを説明して、「この地域は見た目の風景はきれいだけど、
人々は貧しいんだ。水田で働くか、小船で漁師をやってコーチンの町まで売りに
ゆくんだ。そして若い男は町に働きにゆくのが多いから、老人とか女、そして子
供ばかり目立つだろ」という。見ると観光船にまじって、コメの袋を満載した小
船や、定期的にアレッピ−の町まで往復しているバス船が動いている。観光客か
らはどう見えようと、人々にはその土地の生活があるのだ。
 そして観光定期便の船が立ち寄る場所は決まっており、客を上陸させる場所に
はやや瀟洒なバーがあって、ヤシの実やヤシ酒が出されているのが見える。観光
客が上陸する近辺にだけ、他の場所にはない丸木橋が渡してある。
 とはいえこの漁師の地域にも、電線が通っており、電柱が目に入る。とくに地
主の家には、大きなパラボラ・アンテナやTVアンテナを取り付けたものが目立
つ。水辺で高温多湿という気候のせいか、洋服姿はデリーやベナレスより少ない
が、やはり現代のインドなのである。
 風景を見ているだけではつまらない。スニ−ルがどこか行きたいところはない
かというので、学校がないかと聞いてみる。ここが貸し切り船のよいところで、
スニ−ルが現地のマリヤラム語に通訳し、船の運転手が学校のそばに寄せてくれ
た。水路沿いの陸地に、男子専門のハイスクールが建っている。上陸すると、子
供たちがアジア人を珍しがって、盛んに手を振ってきた。
 スニ−ルと一緒に校門から職員室に入り、見学させてくれないかと頼む。ここ
は私立学校なので役所の許可は不要だが、教師たちは校長が留守なので写真はダ
メだといい、教室をみるのはよいという。細長い校舎が二つほどあり、教室には
机が並んでいて、生徒たちは外国人をみて大はしゃぎ。これから試験だから教員
室に戻ってくれというので、話を聞くほうに切りかえる。
 ここはキリスト教系の私立学校で、教員室にはガンジーの絵をのぞけば、あと
はキリストの絵と代々校長の絵ばかり。1921年に創立された、けっこう古い
ハイスクールのようだ。生徒は500人、教師は25人といった状況を聞いたあ
と、寄付をしてくれないかといわれる。教師のいうには、「ここは貧しい学校な
のよ。運動場もないし図書室もない、マイクは一本だけ、扇風機も教員室に一つ
あるきり。政府はマネージメントだけで資金援助をしてくれない。だから寄付が
頼りなのよ」というのだ。たいした手持ちがないので考え込んでしまうと、「だ
ったら寄付はいいから、日本政府に働きかけてください」といわれてしまった。
 私ごときは、日本政府に働きかけるような地位でもない。学校の外壁には水路
から見えるような位置にセメント会社の広告が一面に描いてあり、そうした広告
収入まで使っての学校経営であることはよくわかった。しかし設備はあまりよく
ないが、それでも生徒500人にたいし教師25人、いちおう机もそろってい
る。先月に見学したスルタンプール周辺の農村にあった小学校でみられた、「た
だ一人だけの教師に一〇〇人の生徒」という状況くらべれば、はるかにましだ。
何よりこんな細い水路の村に、ハイスクールがあるということは、さすが教育が
行き届いていることで名高いケララ州である。
 校門前で一枚だけ児童の集合写真を撮っていいといわれ、プリントを日本から
送ることを約束して撮影したあと、また船に乗って出発する。先の男子校から、
水路を挟んで反対側にはやはりキリスト教系の女子高があり、上陸して見学を頼
んでみたが、ここは許可が出ずだめ。女子高というのは、どこも厳しいものであ
る。
 さらに水路旅行を続ける。スニ−ルが、私の職業を知って、いろいろ聞いてく
る。学校見学のときに職業を名乗ったからだ。そもそも学校に立ちよる観光客な
ど、まずいない。「結婚しているか」「収入はいくらか」というお決まりの質問
に、こちらもお決まりの「サモサ一個2ドル」の例で日本の物価高を説明。スニ
−ルの月収も聞いてみたが、固定給450ルピーに、走行距離で計算する料金の
七割が出来高払いで加えられ、最高でも月収3500ルピーくらいだという。下
の上といった収入だろう。
 ケララは西ベンガルとならんで、共産党が政権をとっている州である。スニ−
ルは、「共産党は嫌いだ。仕事もない、経済も悪い、それでいてしょっちゅうス
トライキばかりだ」という。昨日の旅行会社のクマル氏も、「景気はよくない。
新しい橋とかができたが、外国の銀行からの借款だ」といっていた。
 このクマル氏はインテリなので、昨日空港からホテルに着くまでの間に、いろ
いろ質問に答えてくれた。彼に聞いた話では、ケララは確かに教育程度は高い
が、大した産業がなく、インドの他州や外国への出稼ぎが多いという。インド国
内の看護婦の半数が、ケララ出身だという話さえ聞いたことがある。外国への出
稼ぎは、やはり看護婦や医療関係、そして中東の油田地帯の労働者などが有名
だ。英語が話せて給料が安くてすむというので、アメリカなどでもインド人とフ
ィリピン人の出稼ぎ看護婦が少なくないと聞く。漁業と水産物の加工・輸出業の
ほかは、外国企業の自動車会社工場などもあるが、それも一般工員の月給は30
00ルピーくらいだそうだ。
  スニ−ルもけっこう英語を話すが、外国人観光客によく雇われるそうだ。欧米
人観光客などが、20日間ほどタクシー会社を通じて彼を雇って、ケララからゴ
アやバンガロールなど、インド南部を一周するなどの旅をするのだという。「だ
けど、アメリカ人っていうのは、金持ちのくせに金をあまり使わないんだよな」
というので、「日本人の観光客はどうだい」と聞くと、笑って答えなかった。
 日本にいれば、こちらだってそう金持ちではない。しかし為替レートの魔術
で、インドにくると大金持ちになってしまう。そういう大金持ちたちの行動が、
現地の人々にはどう映り、どう影響しているのだろう。私にしたところで、彼ら
の一週間分の稼ぎくらいの金で、船を貸し切りでチャーターして回っているの
だ。今はあたかも友人のような感じでスニ−ルと話しているが、これほど格差が
あっては、真の交際など成り立つまい。あまりの経済格差は、さまざまな意味で
人間の関係を破壊する。
 3時間の船旅を終え、船着場のあるアレッピ−の町で昼食をとり、午後は村落
部の見学にゆく。スニ−ルは、いまは妻と二人でコーチン市内のアパートに住ん
でいるそうだが、もとはコーチンとアレッピ−の中間にある村の生まれだという
ので、そこに案内してくれと頼んだのである。コーチン=アレッピ−間のハイウ
ェイを横道にそれ、しばらく進むと、海岸に近い農村がある。村の中心で降ろし
てもらい、周囲を歩き始めた。
 村の中心は十数件の小商店がならび、人々が珍しげにこっちを見ている。外国
人観光客などめったにこない場所だからだ。経験的に、ここケララではバンガロ
ールとおなじく挨拶をしてから写真を撮ると人々が喜ぶことを知っていたので、
いくつか写真を撮らせてもらったあと、「村の小学校はどこか」と聞いてみる。
方角を聞いて歩いて行くと、10分ほどでデリー市内の通常小学校と大して変わ
りないくらいの施設を持った学校があった。職員会議中だったので、黙って写真
をとって立ち去る。
 近辺を歩いていると、改築中の農家が目立つ。改築はたいていケララ在来風の
かわら屋根の農家から、コンクリートかレンガで西洋式の平屋根家屋に作り替え
ているものが多い。小さな村であるにもかかわらず、ダンプカーが石や砂を運ん
で村内に入ってきている。
 外国人、とくに西洋人でない外国人が珍しいので、家の近辺にいる人に声をか
けると適当に質問に答えてくれた(教育程度が高いので、村内にも英語を話せる
人が多い)。このあたりは一面にココナッツの木が植えてあり、ココナッツ油を
作ってコーチン市内に売りに行くのだが、改築中の家は外国への出稼ぎで収入を
得た家庭が多いそうだ。しかし地元でココナッツを作るより、外国で働いたほう
がはるかに高収入になるのである。
 村を見まわっていると、村の中にも格差が発生しつつあることがうかがわれ
る。改築中の家、立派な西洋風の家と、明らかにそれより貧しげな在来洋式の家
が混在する。一軒の豊かそうな家に挨拶して覗かせてもらうと、テレビ・冷蔵
庫・アイロンなどが目に入る。家の屋根のテレビアンテナには、ヒンズーの飾り
がかけてあった。そして特徴的なのは、お金をもっていそうな家ほど、周囲をコ
ンクリートの壁で囲い、鍵のかかる門を備えていること。まさに、経済格差は
人々の間に壁を生みつつある。
 村の中心に戻ると、ヒンズーの寺院が建っている。新しく作られたけっこう豪
華な門があり、寺院の中心では女性が拡声器でヒンズーの説教を放送していた。
こうした設備も、出稼ぎによる経済効果の一つなのだろう。村には電線が行き渡
り、テレビの音声がいくつかの家から聞こえ、村の中心にある小商店のなかに
は、ビデオの録画屋もあった。
 村内をうろうろしていると、帰りが遅いのを心配したスニ−ルが、村人に私の
行き先を聞いて車で迎えにきた。乗車して車で10分ほどの浜辺に出ると、地元
の人や漁師ばかりで観光客はいない。スニ−ルも子供のころよく泳いだ浜辺だそ
うだ。しばらくぼんやりインド洋でも眺めようかと思ったが、人々は珍しがって
私をとりかこみ、とれたての生エビを食えだの、写真をとってくれだのと一人に
しておいてくれない。好意はありがたいが、少々疲れる。
 しかしこんな場所でさえ、制服を着た生徒が、外国人とみると「ペンをちょう
だい」「50ルピーくれない」などと寄ってくるのには、少々複雑な気分になっ
た。50ルピーは現地感覚では数千円だが、レートで直せば200円にも満たな
いから、簡単に与える観光客がいるのだろう。あとで聞いた話では、ペンを子供
にあげる観光客も多いそうだ。まったくタカリ屋がいないバンガロールと、すっ
かり観光に毒されたベナレスを両極端とすれば、コーチンは前者から後者へ移行
しつつある状態を感じさせた。
 近辺に学校帰りの制服を着た生徒がたくさんいたので、乗車して近所のハイス
クールにむかう。車で5分もしないうちに大きなハイスクールがあり、立ち寄る
と子供たちがいっせいに手を振ってくる。教師がいたので、無断で立ち入ったこ
とをあやまったあと質問すると、生徒数1300人で教師は33人だという。こ
こもキリスト教系で、1906年創立という古い学校だ。さらに車で行くと、す
ぐにまたキリスト教系のハイスクールがあった。
 ケララの初等教育就学率は100パーセントに近く、ティワーリー氏のNGOが
活動していたサハランプール周辺の小学校卒業率が3パーセントなのにくらべ、
格段の差がある。私が見た範囲で、両者の農村部を比較して明らかに気づくの
は、人口密度のちがいである。ケララの村落は海岸周辺に集まっていて、見渡す
かぎりの畑が広がっていたサハランプール周辺にくらべ、ココナッツの林(とい
うか畑)のなかに家々が密集している(地主がいる水田は広いが、これは時々現
れる風景というにとどまる)。人口密度が高いから、必然的に学校もサハランプ
ール周辺にくらべ密集していて、通うのが簡単なのだ。
 サハランプール周辺では、車で走っていてごくたまに小学校を見るだけだった
のにたいし、コーチン周辺ではいたるところに学校がある。その密度は、デリー
市内といい勝負だろう。サハランプールの小学生が10キロの距離を通わなけれ
ばならないとすれば、ここは1キロかそこらですむはずだ。
 しかも学校が密集していることは、相互の教師が設備を融通し合ったり、研修
をしたり助け合ったりするのにも有利だ。サハランプール周辺では、周辺の半径
10キロ以内にあるただ一つの学校の、ただ一人の教師がすべてを行なわなれば
ならない。彼が負担に耐えかねて病気になったり、やる気をなくせば、その地域
全体の教育がマヒする。しかしコーチン周辺なら、たとえ一人の教師が病気な
り、あるいは一つの学校が火事で焼けても、なんとかカバーできるだろう。政府
の監督なども、行き届きやすいにちがいない。近代日本で教育制度の普及に成功
したのも、一つには人口密度が高かったからだとも考えられる。
 もう一つは、キリスト教系学校の多さ。ハイスクール以上はとくに顕著で、私
がコーチン周辺で見たハイスクールは、ほとんどキリスト教系だった。運転手の
スニ−ルも、ヒンズー教徒であるにもかかわらず、キリスト教系のハイスクール
に通ったという。あとで旅行会社のクマル氏に聞いた話では、教会ルートなどを
通じた欧米諸国からの援助が、これらキリスト教系学校を発達させるのに一役買
ったらしいのだ。
 しかし反面、人口密度の高さは、教育を受けても仕事がないという事態も生ん
でいる。教育を受けて仕事がなければ、外国やインド他州に働きに出る者が多く
なるのも道理である。コーチン周辺は洋風の新築の家を建てている場所が多かっ
たが、これもあとでクマル氏から聞いた話では、ほとんど水田の地主か、外国へ
の出稼ぎ者がいる家庭か、あるいは水産物の輸出をあつかうビジネスマンの家屋
だという。高い教育程度と出稼ぎの多さというケララの光と影は、おなじ社会構
造から生じているのだ。
 歩き回っていいかげん疲れ果てたので、スニ−ルの運転でコーチン市内にもど
る。昨日行った旧市街とは逆に、こんどはビジネス街や大商店が並ぶ新市街に行
ってもらう。街並みはベナレスのように「インドくさい」ものではなく、西洋や
日本の中型都市という感じで、これも印象だけでいえば沖縄のコザ市などに似て
いた。ケララの在来家屋が沖縄の家に似ていることは、前にも記したとおりだ。
高温多湿の南方地域、高い人口密度、出稼ぎと失業の多さ、観光客の集中という
ケララの特徴は、そのまま近代沖縄の特徴でもある。
 スニ−ルに、「せっかくだから君の写真も撮ろう」というと、スペシャルな場
所に行くからそこで撮ってくれという。どんなところかと思ったら、何とキリス
ト教の教会に行き、その前でポーズをとった。彼はヒンズー教徒だが、運転席の
前に十字架を飾っていたくらいで、けっこういいかげんである。もっともこのい
いかげんさは、長所にもなる。彼の生まれた村も、働いている運転手一二人の小
さなタクシー会社も、ヒンズー教徒・キリスト教徒・イスラム教徒が混在してい
るという。スニ−ルは、「ニュースでは北インドの宗教対立の話とか聞くけど、
ケララにはそんなことはないよ」と強調していた。
 しかし、私はそれほど楽観的にはなれない。宗教対立は、宗教そのものの対立
というより、社会不安が宗教対立のかたちをとって現れたものである。現在にお
いて紛争が起きている地域も、かつては各宗派が平和に共存していた地域が多
い。ケララに宗教紛争がないとしても、都市がデリーやカルカッタのように巨大
でなかったり、密度の高い農村が近くにあったりして、具体的な人間間系が保た
れているからだとも考えられる。仕事が少なく、格差が生じつつあるとはいえ、
デリーをはじめとしたインドの他の都市部にくらべ、コーチンに明らかな貧困層
やスラムは目につかない。まだそうした社会不安が顕在化する度合いが弱いの
だ。
 インドでは夕食が通常8時か九時だが、疲れたので6時半から夕食をとり、そ
れで今日はホテルにもどることにする。スニ−ルの案内で、地元の人がゆく安い
レストランに案内してもらった。インドでは「運転手を雇っても、一緒に食事を
しないこと。金をたかられることもある」というのが通例らしいが、彼は一緒に
店に入ってくる。
 いざとなったら彼の食事もおごるつもりだったが、私がケララ料理を食べてい
るあいだ、彼はコーラだけ注文した。「女房が待っているから、夕食はいつも家
で食べるんだ。でも観光客に雇われると夜まで長引くことが多いんで、『今夜は
遅くなるから』って電話をかけるのがしょっちゅうさ」という。写真を見せても
らったが、かわいい女性だった。
 スニ−ルが「農村を歩き回ったり、学校に行ったりして、おもしろいのかい」
と聞くので、「普通の観光ポイントよりおもしろいさ。君の話もね。『イスラム
教徒は嫌いだが、ムハマドは好きだ』とかは、本には書いてないインドの宗教事
情の実例だよ」と答える。スニ−ルは、「大学の先生っていうのは、そんなこと
に興味を持つんだな」と笑った。
 
 2月22日(火) 晴
 今日はコーチンを発ち、デリーにもどる日。しかし、昨夜急にクマル氏からホ
テルに電話があった。飛行機は二時半の出発だから、午前中にもう一つ、2時間
くらいの船旅を用意してあげようというのである。一昨日にもその提案があった
ので、高そうなので断ったのだが、「安くしますよ。とりあえず朝10時にホテ
ルに行って相談します」と一方的にいわれ、電話を切った。
 ところが朝の9時、こんどはスニ−ルからホテルに電話があった。クマル氏の
計画はキャンセルになったので、二人で11時半に迎えに行き、直接空港に行く
というのである。どうも様子がおかしいが、11時半までひまになったので、近
所を歩くことにする。
 ホテルのある地区は新しく埋め立てでできた人工島で、一面の草原に、港や貨
物鉄道ががあるだけの殺風景な場所。歩き回ると、港湾労働者やダンプカーの運
転手たちが、物珍しそうに見て、声をかけてくる。ダンプカーは、キリストやヒ
ンズー神の絵などで、派手に飾ったものが多い。ダンプの運転手などは、愛車と
一緒に写真をとってあげると大喜び。英語が話せる人は少なかったが、タミルナ
ド州などから出稼ぎにきている運転手も多かったようだ。
 11時半まで歩き回ってホテルにもどると、クマル氏が待っていて、「10時
にきていたんですよ」という。スニ−ルからキャンセルの電話があったという
と、「まちがいです。さあ、今から船旅に行きましょう」と言いだす。船旅とい
っても、飛行機の出発まで時間がないはずだ。それを指摘すると、「30分の船
旅がありますよ。私が用意してあげます。あなたの好きな農村部も通って行けま
すよ」といってねばる。料金はと聞くと、「150ルピーくらいをめどに、お好
きなように」という。
 一昨日に会ったときには、何を聞いても少し気が弱そうな表情で、「社長に相
談してみないと」と言うばかりの人だったのに、今日はやけに強引である。どう
やら、旅行会社を正式に通さないプログラムを自分で組んで、個人的にお金をも
らおうということらしい。むこうの考えはわかったが、農村部を通れるというの
で、最高でも50ルピー以上は出さないという約束でOKを出す。クマル氏とスニ
−ルはなにやらマリヤラム語でもめていたが、とにかく最初に空港から到着した
のとはちがうルートで走り出した。
 道々クマル氏が「旅はどうでした」と聞くので、簡単に答えたあと、ケララの
経済状態や彼自身のことをいろいろ聞いてみる。一昨日に空港からタクシーに同
乗したときに、ケララの宗派比率などをすらすら答えたので、けっこうインテリ
である可能性が高いと思ったからだ。
 予想は当たり、クマル氏はコーチン大学で歴史学を専攻した人だった。にもか
かわらず職がなく、もう七年ほど小さな旅行会社の社員として、月給4000ル
ピーで働いているという。大学出にもかかわらず、工場労働者や、スニ−ルのよ
うなタクシー運転手と、たいしてちがわない給料だ。市内は家賃も物価も高いの
で、コーチンから60キロほど北の生まれ故郷の地域から、バスで通勤している
という。家は三部屋に九人家族。彼の子供は4歳の男の子だけだが、親兄弟が多
いのである。テレビやオーディオ、アイロンや冷蔵庫などはいちおう持っている
が、車やオートバイはなく自転車だけ、電気製品もぜんぶローンで買ったそう
だ。
 クマル氏はしだいに、私がインドの人々の暮らしについて、いくらか知ってい
る人間であることを察知したらしい。ケララの経済状態を問われるままに答えた
あと、「歴史なんか勉強してもお金にならない。私の兄弟はエンジニアリングを
勉強して技術者になりましたが、そのほうがよかった」という。「日本人はお金
持ちですよね。ケララは美しい場所ですが、経済はお話ししたとおりです。ほん
の一部の金持ちと、私たちのような中の下の人間、そしてもっと貧しい人々。そ
して観光客は、私たちが信じられないようなお金を使うんです」というのであ
る。
 私はそれに答えて述べる。「ガラクタを高値で売っている店を見ましたよ。観
光客にお金をねだる子供もね。でも日本人だって、国内では狭い家に住んでいる
し、物価はあなたがたが信じられないくらい高い。ただここに来ると、国家が作
った為替レートの魔術で、いきなり大金持ちになってしまうだけです」。クマル
氏は、「どこも同じというわけですか」と、ため息まじりに微笑む。
 スニ−ルは、一部始終の話を黙って聞きながら、運転をしている。とある川端
に着くと、村人たちが乗るフェリーが船着場に待っていた。なるほど、これが
「船旅」かと思ったが、黙って車ごと乗ると、ほんの10分ほどで対岸に着いて
しまう。それから農村や小さな町を抜けて、空港にむかった。
 空港に着き、スニ−ルと別れる。クマル氏は空港内までついてきて、何やら帰
りにくそうにしている。こちらから、「さて、さっきの船旅に、いくら払うべき
ですか」と聞くと、やや複雑な表情で「あなたは全てわかっているでしょう。好
きなだけどうぞ」という。私が「フェリーの代金は、せいぜい20ルピーかそこ
らでしょう。タクシー代は旅行会社を通じてもう払ってある」というと、クマル
氏は黙ってうなずいた。ここでどうするか一瞬迷ったが、「あなたはいろいろ話
してくれた。それを考えて、最初に言ったとおり50ルピー渡しましょう」と伝
えた。
 クマル氏は50ルピー札を受け取り、「わかってください。これも私の仕事な
んです」という。大学を出ても職がなく、小さな旅行会社で安い給料で働き、毎
日何時間もバスで通い、湯水のように金を使う観光客の相手をする生活。どこの
国でも、人間は同じような労働をしているだけなのに、なぜ国家が設けた国境が
からむと、何十倍もの格差が生じるのか。もし私がインドに生まれ、クマル氏が
日本に生まれていたら、立場は逆になっていたかもしれない。複雑な表情で立っ
ている彼に、「あなたは自分に誇りを持つべきですよ」というと、「私の身の上
など聞いてきた旅行者はあなたが初めてです。あなたはやさしい人だ。ありがと
う」と言い、軽く握手して立ち去っていった。
 私の振舞いが正しかったのか、間違っていたのか、わからない。金額は少なく
とも、結果としては「カモにされた」といえるし、それが彼にとってよいことだ
ったろうか。なにより彼はこのままコーチンにとどまり、私はもうすぐ日本にも
どる。いくらか感傷的になったところで、格差がなくなるわけでも、状況が改善
されるわけでもない。デリーへもどる飛行機の中で、さまざまな想念が浮かんで
は消えていた。