2000年度小熊研究会T期末レポート

私、消費、他者

−「私」の服装選択に関する近代的自我の社会学的考察―

総合政策学部4  石野純也

79700729

 

 

1.      始めに

 

自らの服装を選択するという行為は明らかに近代的なものである。換言するならば近代社会においては析出された個人は服装に関しても「自律的」に決定できるという事である。しかし、これは建前でしかない。一見自律的に見える服装の選択もボードリヤール(1995)によれば、「差異化の戦略」であり、「システムの準拠枠」の中でそれを選択しているに過ぎない。また、ブルデュー(1990ab)もまた、服装の選択は経済資本や文化資本の総量、構造等の「客観的諸条件」によって規定された「ハビトゥス」による選択でしかない。ボードリヤールやブルデューの理論にとっては「自律的」に服装を選択するという認識は「神話」でしかないのである。

すると次の様な疑義が生まれる。私もまた現代社会を生きる一員である。その様な「私」も様々な社会的要因に規定されながら服装を選択し、自己規定を行っているのだろうか。そして仮にそのテーゼを承認するならば、どの様な要因によってその選択が規定されているのだろうか。本レポートでは、「私」が「私の服装を選択する事」について考察をしていきたい。そしてそれを選択する「私」の「自我」はどの様な要因に規定されているのかを、論理的、社会学的に記述していき、「私」の近代的自我とはどの様な性質のものなのかを明らかにしていきたい。

 

 

2.      アノミーとエートス

 

デュルケームは『自殺論』において、集団の統合と自殺の増減、自殺の種類の相関を考察し、共同体内の統合が弱まった近代社会において「自己本位的自殺」、「アノミー的自殺」という類型の自殺が出現する事を指摘した。伝統社会が近代社会に移行する事により、個人が析出し、「個人に特有の目的が専ら共同体の目的に対して優越せざるをえない。」[デュルケーム:1985]状況に陥った自殺が「自己本位的自殺」、社会の規制が取り払われ「人の活動が規制されなくなりそれによってかれらが苦悩を負わされているところから生じる」[デュルケーム:1985]自殺が「アノミー的自殺」である。本レポートで服装を考察する際に興味深いのは、伝統社会が近代社会に移行する事により、個人の「外部」として現れた「社会」の規制が弱いために「底なしの深淵」の欲望が個人の「内側」に誕生する、という点である。それでは、この理論と「私」の消費意識の関係はどの様なものなのか。伝統的社会とは異なり、「私」が服装を選択する際には欲望の欲するままにそれを選択する事が出来る。そしてこれは今年に入ってからの私の消費活動に端的に表れている。私は既に、この一ヶ月で、「SO」のコート一着、「サンローラン」のモヘアニット一着、「サンローラン」のロングスリーブシャツ一着、「サンローラン・ジーンズ」のジーンズ一着を購入しており、その総額は7万円を超えている。私が学生という身分である事を考慮に入れれば、伝統社会では、この様な服に対する投資は分限を超えるものとして決して許される事はない。この様に服を買うための金銭を欲しようとはしないし、仮にその様な金銭を持ってしまってもそれをなくても困らない服に投資しようとは考えないだろう。その意味では、私の今月の消費活動は「底なしの深淵」の欲望が欲するままに行った消費であり、まさに「アノミー」と言う事が出来る。また、今回のこの消費にとどまらず、意識の上では、(可能であるならば)[1]更に上級のブランド、例えば「グッチ」や「ジルサンダー」、「プラダ」といったブランドの商品を所有したいとも考えている。伝統社会の様に、身分に応じた服装が定められていれば、上述した消費活動はおろか、この様なブランドの商品を所有したいと考える意識自体現れる事はあり得ない。この意味においては、「私」が服を欲する意識、そして実際に必要最低限以上の服を購入するという行動はまさにデュルケームの言う様な近代社会の「アノミー」的現象である、と言える。

しかし、これだけでは、「私」の消費意識、消費行動を説明し尽くす事は出来ない。「アノミー」という概念だけでは、なぜ、服の購入を7万円で止めたのか、そしてクレジットカードなどの利用で理論上取得する事が「プラダ」や「グッチ」の様なブランドの商品をなぜ実際には購入するという行動に至らなかったのかが説明できないからである。それを説明するために必要な概念がウェーバーの「禁欲的エートス」である。ウェーバーによると、資本主義の発展に必要不可欠である「消費の禁止」という「エートス」は「現世内的禁欲的」なプロテスタンティズムの倫理から誕生したものである。ウェーバーの挙げた例に従えば、伝統社会の人間はその日の生活を維持するのに必要な金銭を稼ぐ事で満足するのに対し、現世内的禁欲的な教義を持ったプロテスタンティズムの「エートス」を内在化した近代人は労働を倫理的義務と見なし自らの生活を維持する以上の金銭を稼ぐようになる。そして、その「エートス」の禁欲的性格から、稼いだ金銭は貯蓄し、新たな労働のために用いる。これが、ウェーバーの言うところの「資本主義の精神」である。無論、「私」がこの「エートス」を完全に内面化していると言うつもりはない。服を消費するという行動自体が完全にこの「エートス」と矛盾しているからである。しかし、「私」が商品を購入する際にクレジットカードの使用を忌避する意識はある程度説明する事が出来る。「私」は半ば無意識的に貯蓄がマイナスになる事に罪悪感を感じているし、過度の消費にはやはりある程度の罪悪感を伴う。上述した消費行動に関しても多少の罪悪感が残っている事は否めない。また、後になって使わない商品を購入してしまった時には「なぜこれを買ったのだろう」と自問自答する事もしばしば起こり得る。この意識をウェーバーの様にプロテスタントに起因させる事は、若干無理があるが、何らかの形で禁欲的な「エートス」、換言するならば「規範」が内在化されている事は否めないのである。

ここまで考察してきた様に、私の消費意識、消費行動は極めて近代的な二つの意識を反映していると言わざるを得ない。一つは、次から次へと物を欲する「アノミー」、そしてもう一つはそれに歯止めをかける「エートス」である。両者は一見すると矛盾した意識に思えるが、どちらも伝統社会の価値観が崩壊し、変容した産物であり、「私」の消費行動、消費意識もその意味では近代社会によって規定されていると言えるのである。

 

 

3.      選択

 

ここまで私は、「なぜ私は服を欲するのか」という事に焦点を合わせて議論を進めてきた。そしてそれを解く鍵概念がデュルケームの「アノミー」とウェーバーの「エートス」であった。しかしながら、これだけでは、「なぜ私は特定の服を欲するのか」という疑義を解消する事が出来ない。以下にはそれを考察していきたい。

ブルデューが「趣味は分類し、分類する者を分類する」と言うように、行為者がある特定の服を「自分のもの」として選択する行為は「私」と「他者」を差異化する事と同義である。そして、その様な選択は資本総量や資本構造の差異によって決定された「(部分的あるいは全体的に同一性をもった)知覚、思考、評価、行為のシェーマ」[2]であり「構造化された構造」である「ハビトゥス」によって体系的になされるものである。この様に考えると、私が「サンローラン」や「アニエスb」、「A.P.C.」などのいわゆる「きれいめ」のブランドを好むのも自らの階級によって規定された消費行動と言う事になる。しかし、これは本当にそう言えるのだろうか。私は、次の様な反証が可能ではないかと思う。私の弟は現在大学生であり、弟であるから当然育った家庭環境も同一のものである。つまり、ブルデュー的に考えるならば、弟は私と同型の「ハビトゥス」を内在化していると言えるのである。ところが、事実はこれと全く逆の事を物語っている。私の弟が好む服は私の好みとは異なり、アウトドアやワーク系のジャケットや多少色落ちしたジーンズ等を取りいれたいわゆる「カジュアル系」の服装である。確かに、服の機能性を超えた部分、つまり、その服の形状や素材、色、などを選択しているという事実、換言するならば服飾に対する興味という点では、全く服装を気にかけない人間に比べ、同型の「ハビトゥス」を備えているという事も出来るかもしれない。しかし、ブルデューが「数量化三類」を用いて描き出した概念図式の様に、厳密な差異が存在する訳ではない。よって、私はここでは、ブルデューの議論は部分的に採用したい、と考える[3]。例えば第2章で述べた、部分的な「禁欲的エートス」は明らかに階級的要因に規定されている。私が、もし「ブルジョワジー」程の金銭を有していれば明らかに「アノミー」の欲するままに服を購入しているだろうし、過度の消費に罪悪感を抱く事もないであろう。しかし、詳細な服装の差異に関しては、「ハビトゥス」の概念を用いるのは以上の理由から保留しておきたい。

それでは、私が上述した様な服を選択するのはなぜか。その一つの原因に近代的な「時間意識」が挙げられる。「年齢に合った服装」。換言するならば、「高校生」でも「社会人」でもない「大学生」の服装をしようという意識がそれである。私は、時間は直線的に流れており、「大学生」である「今」は一度しかないと考えている。私が「高校生」であった時は通常、学生服を着用していたし、「社会人」になってしまえば仕事の関係上服装は制限されざるをえない。そのため、「高校生」や「社会人」に出来ない服装をする事で二度と来ない「大学生」としての「今」を享受しようと考えている。そのため、「高校生らしい」服装や、「社会人」のスーツの様なステレオタイプ的な服装を消去法的に避けているのである。つまり、自らを「子供期」[4]ならぬ「大学生期」と見なし、その自らが考えるフォーマットに従って服装を選択している、と言えるのである。そのため、高校生では金銭的に購入するのが多少困難であるが、会社には着ていけないレザーパンツや、フラワープリントのシャツ等を好んで消費するという傾向が生まれるのではないだろうか。つまり、ここでは階級の差異、というよりも年齢の差異に重点が置かれているのではないだろうか。この事から、「私」が服装を選択する際に「近代的時間意識」は欠かす事の出来ない規定要因の一つである。

次に挙げる事のできる要因は「権威主義的性格」[5]である。「権威主義的性格」とは、フロムがナチズムに走る人々の「社会的性格」を分析した際に用いられた概念である。フロムによると伝統社会の崩壊により「第一次的絆」が失われ、人々は自由を獲得した。だが、まさにそのために、人々は解放と同時に孤独に苛まれ、上位の者(物)への無条件の服従をすると同時に自分よりも下位の存在に対しては徹底的に支配を行うといった心理、「サド=マゾヒズム的性格」を形成する事となり、その社会的性格によってナチズムが増長していった。私は、この「権威主義的性格」は「私」が服装選択をする際にも働いているのではないか、と考える。2章で挙げた「アノミー」現象や上述の「時間意識」だけでは、服を消費する際に特定ブランドの商品を選択する必然性がないからである。ブランドの商品というただそれだけの理由でその商品に安心感を抱き、それを選択する事。このマゾヒズム的性格は、同じナイロン素材のバックでも「無印」のものより「プラダ」の商品に魅力を感じてしまう「私」の自我を的確に説明している。また、それを着用する事で「他者」からの承認を得たいという意識。これは「プラダ」の商品を身に付ける事で「他者」から「良い選択をしている」と承認されたい「私」のサディズム的性格を的確に表現している。「アノミー」や「時間意識」に加えこの「サド=マゾヒズム的性格」を内在化している事によって、服を購入する際に私は「私」が「権威」と見なしているブランドの商品を選択するのである。

  ここまでの議論では、「服を欲する私」、「特定のブランドを欲する私」の自我を説明してきた。それでは、その選択を行う際に「私」が念等においている「他者」とは一体誰の事なのか。以下ではそれを解明していきたい。

 

 

4.      他者

 

「私」の自我を分析する際に「他者」という概念は避けて通れないものである。「権威主義的性格」によって承認を得たいという意識も「他者」という存在があって初めて成立するものであるし、「私」を「大学生」と規定し「高校生」や「社会人」と差異化をはかる際にも、それら二つのステレオタイプ的な「他者」が存在する。それでは、この様な「他者」とは一体誰なのか。私は、ジラールの言う様なモデルとしての「他者」が存在しているとは考えない。「他者」とは具体的な友人のことかと尋ねられればそうではないと答えるし、雑誌の中のモデルかと尋ねられても違うとしか答えようが無い。もし、「他者」がその様な具体的存在であるならば、「他者」が誰かという事を指し示す事が出来るのだが実際にはそうではないのである。「私」の思い描く「他者」とは、より抽象的で希薄化された顔の無い「他者」である。これは、フーコーの述べるところの「権力」に近い概念である。フーコーが『監獄の誕生』の中で提示しているベンサムの「パノプティコン」の例がそれを的確に説明している。パノプティコンとは「一望監視装置」の名が示す通り、中心点から周りを監視する事は出来るが、監視されている者からは監視している者を見る事は出来ない。そのため、監視されている者は、監視する者から監視される者への「まなざし」を内面化し、実際には監視されていなくても、規律に従うのである。この「まなざし」を内面化する事こそがフーコーの言うところの微視的な「権力」である。

「私」の「権威主義的性格」から「他者」の承認を得たいと考えている、と上に述べたが、ここでの「他者」とはまさにこの「まなざし」の事である。そして、この「まなざし」は「私」に内面化されたものであるからこそ「他者」とは誰か、という事を具体的に指し示す事が出来ないのである。また、上述したように、「社会人」でもなく「高校生」でもない服装をしたいという意識の中にある「社会人」や「高校生」も具体的な存在ではなく、内面化された「社会人」「高校生」である。「私」がいままで、実際に、また、マスメディアを通じて経験してきた「社会人」や「高校生」という現実的な存在を総和し平均化した存在。その様な「社会人」や「高校生」は「私」の意識の中にしか存在しない虚像であり、その様な虚像と自らの差異化をはかる事が、「私」の意識の中に「大学生」らしさというイメージを作り上げているのである。「私」がこの様に「他者」を作り上げる「まなざし」は鏡の様にそのまま「私」に向けられている。「社会人」や「高校生」という「他者」を作り上げ、「大学生」らしい「自分」が出来あがり、承認させたい「他者」を作り上げる事によって絶対的な「権威」に服従する。デュルケームやフロムが言うように前近代的な社会的拘束が崩壊したからこそ「アノミー」や「自由」が発生し得た訳だが、その近代の非拘束性の故に「私」は「私」を拘束する「他者」を構築し得たのである。

 

 

5.      まとめ

 

ここまで考察してきたように、「私」が服を消費する意識とは、次の様に要約される。まず、「アノミー」と「禁欲的エートス」の相反する意識の拮抗状態。これによって消費の快楽に身を委ねながらも一定以上の消費に伴う罪悪感によってそれに歯止めをかけ、限定的な消費を行う事になる。次に「近代的時間意識」によって「高校生」や「社会人」といった虚像を作り上げる事によって、それの裏返しである「大学生」像を作り出し、その基準に則った服の消費をする。また、想像された「他者」を意識の上で構築し、「権威主義的性格」によってその「他者」からの承認を得るために、ブランドという「権威」に服従する。

この様に、「私」の消費意識はまさに近代という社会によって生み出されたものであると言う事が出来る。また、この様に自らの消費意識を分析する「私」の行動そのものがまさに近代的であるとも言える。ウェーバーが「ピューリタンたちは職業人たらんと欲した。われわれは職業人たらざるを得ない。」と述べたように、「私」は近代という社会に生まれ、暗黙の内に近代的な自我を内在化してしまっている。今回のレポートでその意識を言語化した事は、例えそれが近代人の行動であるとは言え、それを相対化する一助にはなったのではないだろうか。本レポートの意義はその様なところにあるのかもしれない。

 

 

6.      おわりに

 

以上をもって小熊研究会Tの期末レポートとかえさせていただく。私は、本研究会で自らの研究をすると共に、現代思想、国民国家論、政治思想、社会学など、自らの研究や今後私が生きていく上での根底となる知識や視座を多少なりとも身に付ける事が出来たのではないか、と考えている。そして、この様な機会を与え、2年間私をご指導くださった小熊英二氏にはこの場を借りて感謝の意を表したい。

 

 

参考文献

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(東京創元社、1951

エミール・デュルケーム『自殺論』(中央公論新社、1985

ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造[普及版]』(紀ノ国屋書店、1995

ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオンT』(藤原書店、1990

同『ディスタンクシオンU』(藤原書店、1990

ピエール・ブルデュー&ジャン=クロード・パスロン『再生産』(藤原書店、1991

フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』(みすず書房、1980

真木悠介(見田宗介)『時間の比較社会学』(岩波書店、1981

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店、1989

ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(新潮社、1977

 



[1] クレジットカード等の「後払い」や「分割払い」が可能な現代社会のシステムの中でなぜ私の消費はこれ以上のものにならないのか、という点については後述する。

[2] ブルデュー(1991

[3] しかしこれによってブルデューの議論が全否定される訳ではない。本レポートで考察している事はあくまでも「私」の意識であり、「私」という事例に限ってはブルデューの議論は部分的に採用されるに止まる、という事である。「私」は統計的観点からは「外れ値」の可能性もあり、この事例によってブルデューの議論が否定されるとは私は考えない。

[4] アリエス(1980

[5] フロム(1951