産婆・助産婦 資格化とその弊害、そして可能性
総合政策学部4年 79710449
渡辺大輔(s97045dw)
*旧漢字はすべて新漢字に直して記載してあります*
序論
現在、出産の99%以上が施設内において行われている。[1] ここでいう施設とは、病院の産科、産婦人科医院、助産院、母子センターなどをさしている。このような施設内分娩はいったいいつ頃から主流派となったのだろうか。資料の図1を見てもらいたい。戦後の高度経済成長と並行して急速に進んでいることが分かる。このことは、出産というある種の事件が家族や地域の人間関係から急速に切り離されたことを意味しているだろう。
さて、このとき施設内での担い手たる人間は誰なのか。それは産科の医師であり、助産婦である。これらの人は、「国家によって助産をすることを認められた人間」であり、そのためその「資格」を持つ人々である。逆を言えば、資格をもたなければこれらの行為を職業として行えないのである。しかし、当然のことであるが前近代においてこのような資格などは存在していなかった。国家によって認定された資格によって様々な職業が規定されるのは、近代特有の現象だといってよいだろう。職業を資格化することで、その内容を専門化するとともに特定化する。この近代特有の現象において、もたらされたものは何であり、逆に失われたものは何であるのだろうか。これが本レポートに通底する問題意識である。そこで、前述した出産をテーマとし、この出産に専門的に関わるべく資格化された職業、すなわち産婆・助産婦に焦点を当てて資格化の意味を考えてゆきたい。[2]
本レポートでは、第1章において日本の資格制度史に関して概観し、第2章において第1章での議論を下敷きに産婆・助産婦の制度史をみてゆく。さらに、資格化によって失われたものが何であったのかを産婆・助産婦を例として考える。第3章では出産に関する新しい試みを考察し、資格化によって失われたものとの関係性を考察する。
第1章 資格
第1節 資格の定義
まず資格の定義をする必要があるだろう。「資格」で『広辞苑』を引くと、「身分や地位。立場。また、そのために必要とされる条件」となっている。ここで問題としたいのは、職業の条件としての資格である。例えば同じ英語に関しての資格でも、運輸省の認定し管轄する「通訳案内業」と、財団法人日本英語検定協会が認定する「実用英語技能検定」はまったく異なるものである。前者は公的職業資格であるのに対して、後者は能力を示す指標としての意味合い以外法律上の効力はもたない。本稿において取り扱うのは前者ということになる。
辻功はこの職業の条件としての資格を「公的職業資格」と呼び、5つの条件をもって定義した。その条件は1.法律や条令などによって身分が規定され、2.職業上の身分に限られ、3.不特定多数が国などの行う試験などの競争的審査を受けることで、同時的に複数の人が獲得できるものであり、4.公務員以外でも取得可能な身分であり、5.主として知識・技術に関するものである、となっている。[3] この定義を用いることで、さきほどの「通訳案内業」と「実用英語技能検定」の違いがより鮮明になるだろう。今後、資格という言葉を使うときは、この公的職業資格を意味していることとする。
第2節 日本における公的職業資格制度史
産婆・助産婦の資格の制度を歴史的に考察する前に、前節で定義した公的職業資格が日本でどのような経緯で制度として規定されてきたのか、またどのように扱われてきたのかを概観する。辻功は日本の公的職業資格制度の変遷を次の5つの時期に分類して考察している。[4] それぞれの特徴を簡単に紹介する。
・創成期<1868(明治元)年〜1878(明治10)年>
1868年の「医学取締及医学ノ奨励二関する布告」(太政官布告第1039号)によって
医師を国家が認定する資格として定めたのをはじめに、薬舗主(現在の薬剤師)、産
婆(現在の助産婦)、小学校・中学校・大学の教員などが資格として定められた。こ
の時期は学校制度も整ってなく、資格の認定は認定試験によるものや従来からの開
業者は無試験で認定するものなどが多かった。[5] また、一般の学歴による無試験認定
も多くみられた。
・整備期<1879(明治11)年〜1908(明治40)年>
この30年間は、これまでに制定された諸資格制度の法的な整備と分化がその傾向と
してあげられる。認定形式も、様々な実業学校・実業専門学校・講習所などの法で
指定された「指定校」が設立されたことにより、資格認定試験合格者とともに、そ
の指定校の卒業生には無試験で認定する形をとるものも多くみられた。この時期の
特徴は、この指定校に顕著に表れるように、試験認定から学歴依存に移ったことで
あろう。
・漸進期<1909(明治41)年〜1945(昭和20)年>
この時期は、科学技術が導入され発達したことにより、工業系の職業資格が多く出
現した。このような資格は以前にはみられなかったもので、例えば、電気事業主任
技術者資格(現在の電気主任技術者資格)や自動車運転免許[6] などの資格が登場した。
・改革期<1945(昭和20)年〜1956(昭和31)年>
この10年は戦前の資格制度の見直しをはかった時期であり、その多くが改正された。
無試験認定制度が廃止され、試験検定のみの認定方式に変更されたものも多い。ま
た、歯科衛生士、測量士など新しい技術資格も多く創設されている。
・発展期<1957(昭和32)年〜現在まで>
技術革新のただなかのこの時期の特徴は、技術の革新にともない既存の制度の充実
と、管理的職業資格・作業主任的職業資格の増大にみることができる。この時期の
資格の量的拡大は著しく、資格社会といってもいい様相を呈したのもこの時期から
といっても良いかもしれない。
以上5つの時期を概観したが、日本の公的職業資格は国策からの必要性(医師・教員資格など)と、技術革新による必要性の増大という二つの柱からなっていることが分かるだろう。ここで、問題点が浮かんでくる。
第3節 資格の問題点について
第1章の最後に、資格化の問題点に関する先行研究を紹介しておく。
R・コリンズは、資格を取得するための試験や学歴そのものへの批判を行っている。コリンズは「ある職業にどれだけの学歴水準を要求するかは、それを設定できるだけの権力をもった集団の利害関係が反映している」[7] と述べ、何が資格化されることによって特定化されまた権威化されるかは集団の利害関係や権力関係によって決められており、資格自体が能力を持っていることを必ずしも示しているわけではないことを論じている。
また青島祐子は、資格とジェンダーの関係を論じ、資格が女性集中職を作るという指摘をしている。[8]
以上、資格について、日本での制度の変遷と、問題点をみた。次章ではより具体的に産婆・助産婦という出産に関する資格を考察することで、ここでは指摘されなかった資格化の問題点を考えてみたい。
第2章 産婆・助産婦制度史
第1節 資格化以前
前近代における出産は、助産する人が必ずしもいない場合もあり、地域によって出産様式の差も激しかった。また、村の助産者の呼び名も地域によって差があり、「トリアゲババ」「トリアゲバアサン」「コトリババ」「コナサセ」「コゼンボ」など様々に呼ばれていた。[9] 村において出産という一大事を担う彼女達は、地域におけるお産の相互扶助の紐帯でもあり重要な位置をしめ尊敬されていたといわれる一方で[10]、しかし、堕胎や産褥のこともあって一般には賎業と見られていたという指摘もある。[11]
このように、地域によって差はあるが前近代における助産者である「トリアゲババ」らは、それぞれの地域において独特の文化の担い手として存在していた。
第2節 産婆の資格化
「トリアゲババ」らが、全国一律で「産婆」と少なくとも法律上呼ばれたのは明治以降である。
明治政府は、1968(明治元)年12月太政官布達において産婆の堕胎・売薬行為を禁止する。これは、同年11月に出された「医学取締及医学奨励二関する布告」によって医師と薬舗主の資格を定め、医薬を分離したこととの整合性を保つためであると推測できる。とはいえ、産婆に対する明治政府の視線ははじめから監視的・管理的なものであったことは指摘できるだろう。
1874(明治7)年、明治政府は文部省通達「医制」を通達し、「トリアゲババ」を「産婆」という職業資格として認定する。[12] また、この通達によって職業として公認されたため、同時に職務内容に関する規定も設けられた。それは、職務を助産に限定し、投薬や緊急時以外の医療行為を禁止するものであった。ただ、この医制はこの産婆の規定に限らず取り締まりなど様々な面で実効性の薄いものであり、実際の規定は地域にそれぞれ任していた。[13]
さて、このように地域ごとであった産婆の規定を全国一律の規則とした法律が、1899(明治32)年の「産婆規則」「産婆試験規則」「産婆名簿登録規則」である。産婆規則第一条には、「産婆試験ニ合格シ年齢満二十歳以上ノ女子ニシテ産婆名簿ニ登録ヲ受ケタル者ニ非レバ産婆ノ業ヲ営ムコトヲ得ズ」として試験による認定を定めた。しかし、10年後の1910(明治43)年、産婆規則の第一条が次のように改定される。
「産婆タラントスル者ハ二十年以上ノ女子ニシテ左ノ資格ヲ有シ産婆名簿ニ登録ヲ受
クルコトヲ要ス
一.産婆試験ニ合格シタル者
二.内務大臣ノ指定シタル学校又ハ講習所ヲ卒業シタル者
三.外国ノ学校若ハ講習所ヲ卒業シ又ハ外国ニ於テ産婆ノ免許ヲ得タル者ニシテ内務大臣ノ適当ト認メタル者」
これは、第1章第2節で述べた指定校卒への無試験認定の導入を示している。このような背景には何があったのであろうか。
宮坂靖子は、富国強兵政策の一環として、従来からの開業者であり専門的な教育を受けていない伝統的産婆から、指定校によって教育されたことにより近代的な助産技術をもつ産婆を明治政府が重視したためと指摘している。[14] また落合恵美子はさらに一歩進めて、村の中の存在である伝統的産婆から国家によって教育され認定された産婆への移行は、「出産の国家化」であるとして、ここにおいて出産の心性が大きく変化していると指摘している。[15]
産婆の制度的な面はこれ以降特に変化はないが、ここで産婆の実状について多少言及する必要があるだろう。伝統的産婆(旧産婆とも呼ばれる)と、試験に合格するか教育を受けた産婆(新産婆とも呼ばれる)をどう認識するかについて、1906(明治39)年に出版された『女子職業案内』には次のように書かれている。「然し又世間は広いもので新式の走り出しの産婆よりも経験のある産婆が安心だなどと云つて立派な産婆のあるにも拘らず態々旧産婆に依頼する人もあるが、この旧式の産婆は、又私共は当時の学問は知らぬが何百人となく手に掛けて実地の方には憚りながら当時の若い産婆には負けを取らぬ、産計りは経験で学問や理屈では生することは出来るもので無いと中々の怪気炎を吐くのが面白い」。[16] 著者の近藤正一は知識人であり、また女子が職業につくことを勧める本でもあるため旧産婆に対して批判しているが、ここで述べられている旧産婆の証言が村でかなりの程度のコンセンサスを得ていたことは想像に難くない。1925(大正15)年に旧産婆と新産婆の数が逆転するが、妊婦が新産婆を選ぶ傾向に拍車がかかるのは1929年頃以降である。この変化について宮坂靖子は、「教育の浸透にしたがい、「教育されたこと」への信頼が増し、「“より高くより確実な権威ほど良し”とする尺度」が、お産をも支配下に収めたことを意味しているのである」[17] と述べ、教育の内部へと取り込まれていく様を指摘している。
第3節 産婆から助産婦へ
戦後、GHQの指示・指導のもとで制度改革がなされるなか、1947(昭和22)年、産婆規則が助産婦規則に改正され、産婆という呼称も助産婦へと変わった。さらに翌年、保健助産看護婦法(通称、保助看法)制定され、保健婦・助産婦・看護婦が医師の指導に基づく「看護専門職」として一括して一つの法律のもとで規定された。助産婦に関係するところをみてみると、厚生大臣の指定した指定校である助産婦養成所を卒業したものか、文部大臣の指定した学校で助産婦に関する学科を修めたものにのみ助産婦国家試験を受ける権利が認められている。[18] これによって、戦前の産婆規則で認められていた指定校卒業による無試験認定が廃止され、指定校の卒業と試験の合格双方が必要になった。このことはより高い専門的知識・技術をこれらの資格を習得するために必要とすることを意味し、よりいっそうの発展が期待された。
しかし、その後の看護婦(現在の看護婦・看護士)は数が増えつづけたが、図2を見ると分かるように助産婦は1950年頃を境に減少傾向に入り、現在では全国で2万人を何とか保つ程度である。[19] この傾向を示すものとして参考資料の図3をみてもらいたい。この図は出産に立会う人の割合をしめしたものである。この図を見ると分かるように、助産婦から医師の立会いのもとでの出産に急速に変化していることがみてとれる。このことは同時に、図1で示したどこで出産をするかといったことにも関わってくるだろう。助産婦は必ずしも助産院や病院・診療所で助産を行うわけではなく、妊婦の家に行って助産を行うことも多かったが、それが産科のある病院や診療所へと移行したのである。また、この流れに伴い、独立で開業している助参院も減少している。[20]
このような変化の要因を考えると、心性的な変化に関しては、戦前から戦中にかけて新産婆のもとでの出産が一般化した後に、より信頼性が高いと思われる医師のもとでの「医療としての出産」へと移行したためだと考えられる。また、社会的な変化に関しては、出生率の減少に伴う小産化があげられる。1950(昭和25)年に3.65であった合計特殊出生率は、1993(平成5年)には1.46まで減少している。このため、助産の専門職である助産婦になるよりは看護婦を、また産科専門ではなく産婦人科をという流れが生まれたといえる。このように考えると、助産婦は高度に近代化した社会においては、資格によって特定化された職務範囲自体が社会的要因によってその重要性を奪われていったといえるかもしれない。
助産婦の制度自体の変化は保助看法以降特に変わっていないが、前述したような社会的な変化に対応するために、近年、助産婦の周囲では様々な活動が行われている。1972(昭和37)年、国際助産婦連盟評議会で「助産婦の定義」が採択され、翌年にはWHO(世界保健機構)においても採択されている。この定義には、助産婦は妊娠・出産・産褥のケア及び助言の担い手であり、「助産婦は女性のためだけでなく、家族及び地域社会の中にあっても健康カウンセリングと教育に重要な役割を持っている。その活動には産前教育と親になるための準備が含まれ、さらに婦人科の一部の領域、家族計画及び育児にまで及ぶ」[21] とされている。このように、助産行為だけではなく主産を巡る様々な場面におけるケアも助産婦の職域としている。
また、1986(昭和61)年には日本助産学会がスタートし、最近の自然出産運動などに伴って助産婦の見直しをはかろうとしている。なお、この自然出産運動に関しては第3章で考察する。
以上、助産婦の制度とその状況をみてきた。産婆・助産婦の制度的な変遷は、第1章で検討した日本の公的職業資格の変遷とくらべ、発展期を除けばそのまま一致するといえる。これは、政府が産婆・助産婦の必要性を認識し、常に対応しつづけてきたことを表している。しかし、そのような確固たる制度のもとにあるにも関わらず、今助産婦は消えようとしている。この現状に対しての様々な動きは第3章で考察するとして、第2章の最後として次節において、それでは出産介助者を産婆・助産婦として資格化することはいったいどのような意味を持っていたのか、資格化によって特定化されたものと失われたものを考える。
第4節 特定化されたものと、失われたもの
この節で考えたい、資格化によって「特定化されたもの」と「失われたもの」は、決してそれぞれが独立したものではなく、特定するということはそれまでの状況を捨象することであり、表裏一体のものである。
トリアゲババは地域によってその活動範囲も大きく違い、またその認識のされ方も違うことは第1節で紹介した。これに対して、全国一律で資格化された産婆はその地域差を一切無視するものとして作られている。もちろん、実際の活動は風俗の違いなどもあることから地域ごとで差があっただろうが、少なくとも理念形としての産婆は近代的な助産術をみにつけた衛生的な女性であった。[22] これに対して戦後、産科医は、出産に対して様々な形のケアをするのではなく医療行為としてなすため、産科医自身が主体となり、母体は医療行為を受ける対象として客体化させた。このことから、医師は出産のマネージメントをする存在といえる。このような出産の医療化への反省から、助産婦は出産のケアをする存在として、見直された。これはあくまでも戦後の助産婦に対しての認識であるが、妊婦が出産に対して安心を求め、それを精神面でケアするということに関しては、産婆・助産婦に同一のものであると考える。そこで、助産婦の理念形における2つのポイント、「近代的な助産術」と「出産のケアをする存在」を通してこの問題についてみてみる。
産婆が近代的な助産術を獲得するためには、助産術の教科書で勉強するか、産婆学校・産婆講習所で学ぶしかなかった。ここで学ぶ内容は、産婆試験規則などで産婆にとって必要な知識であると規定されたものであり、これまであった助産技術の地域差などは一切考慮されていない。そのため、地域の助産技術は失われる。当然ながら、そのような地域の助産技術――技術というべきでなく、出産に関する習俗というべきかもしれない――にいったいどのような価値があるのか、という批判があるだろう。しかし、このような地域の助産技術は近代的な助産術にかなっておらず合理的でないというだけで、価値がないといいきれるのだろうか。ここで問題となってくることが、近代的な助産術を身につけた助産の専門家としての産婆としてだけでない、出産のケアをする存在としての産婆である。
出産のケアは多岐にわたる。そこには、出産という一大事件に直面する妊婦を安心させるというものも当然含まれる。この安心を得るために儀式や儀礼といった習俗があり、それをトリアゲババや旧産婆が担っていた。[23] このような、出産という行為をより安心して行うような、出産のケアの面に関しての意識が、資格の認定には抜け落ちており、必然的にこのような技術が失われてゆく。[24] それとともに、資格の認定に必要とされる近代的な産婆技術が産婆の職務範囲として特定化される。
また、新しく特定化された近代的な助産技術の伝達経路も先ほど述べた教科書や指定校といったもののみになる。これは、技術の情報伝達経路の特定化といえよう。これに対して、トリアゲババや旧産婆がその技術を得たのは村の中で前任者から徒弟制度的に受け継いだものである。そして、この旧来の情報伝達経路はそのまま村の中で伝統を伝える情報伝達経路でもあった。これも資格化されることで、情報伝達経路が特定化されるため失われる。同時に、産婆は村の中の産婆から、個人としての産婆に、すなわち「職業」となる。これは資格が職業を認定するわけではなく、職業を作るという意味を持っていることを示している。
資格化することで、その資格が担う近代的な技術が特定化され、その資格を持つ人はその担い手であることが示される。しかし、その特定化の過程において、これまで論じてきたように様々なものが失われる。それは、必ずしも目に見えるものではなく、習俗であったり村の中の情報伝達経路であったりと抽象的なものも含まれる。このようなものは一概に切り捨てられるのだろうか。この疑問を考えるために、次章で出産に関する新しい運動を考察する。
第3章 産婆・助産婦は必要ないのか
第1節 自然出産運動
自然出産運動は、その前史を「痛くない出産」の追及に求めることができる。[25] この追求は、痛みを止めるための薬草の使用や麻酔の使用へと移行してゆく。そして同時に、出産の医療化への移行とも重なっていった。[26] しかし、出産の医療化と、それにともなう薬物の使用――特に麻酔による無痛化と、排卵誘発剤の使用による出産日の管理――にたいしては、その使用の是非をめぐる動きも高まっていった。この動きにはいくつかの主張が混在しているが、その主張の柱は、1.薬物使用の拒否、2.医療権力の介入の拒否・産む主体の回復、の2点にあるといえる。
第1点の議論に関しては医療化によって「システム化した出産」になることで、無説明かつ無批判に薬物を使用していることへの批判である。[27] 問題点は、薬物に対する副作用や、宗教上の理由から薬物の使用ができないにも関わらず、出産を医療行為として行われるために使用される場合があるといった形でおきている。この問題に対して行政としての対応として、厚生省は1992(平成4)年に陣痛促進剤の使用基準を改めているが、それ以降でも副作用による死亡事故もおきつづけている。この点に関しては、インフォームド・コンセントの徹底を図る行政措置などがとられているが、現実には徹底されておらずまだ不十分な点が多い。[28]
第2点に関しては、様々な議論がありまた実際の運動も多種多様である。これらの運動に共通する特徴は、第1には先進国で起きている点であろう。これは近代化の進んだ先進国であればあるほど、出産の医療化が進んでいるためであるだろう。第2点は、出産の「人間化」・「自然化」をうたっている点である。この場合の「自然」とは人工的でないという意味で用いられているようであるが、人間性=自然性という論理が展開されていることは興味深い点である。この議論を推し進めるのであれば、近代=医療と自然=人間が対立する形になるであろう。この二項対立図式については、次節でより詳しく分析したい。まず、いくつかの運動形態を紹介しよう。
実際の自然出産運動としては、様々な出産方法による啓蒙活動が行われている。いくつか例をあげると、日本でも広く行われており、独特の呼吸法や夫の立会いなどが特徴的なラマーズ法、これまでの出産法は妊婦や医者の立場からのものであっという批判から「赤ちゃんに対してやさしい出産」を追求するルボワイエ法、生む主体の解放を訴え、基本的に一切の助産行為をしないアクティブ・バースなどが代表的である。[29]
これらの自然出産運動のすべてが医療を全面的に否定するわけではないが、少なくとも批判を投げかけているのは事実である。そこで、次節では近代医療と自然出産の問題に関して考え、その上で消えようとしている産婆・助産婦を再考してみる。
第2節 Alternative Birth
出産をめぐる医療化と自然出産運動の葛藤を考えるにあたって、吉村はその言説の中に二者択一を強いる構造を探り出している。吉村は自然な出産の言説に対し、「本当に私の心から「安全性」ということを消し去って、強がりでも、見栄はりでもなく、心底からの納得で、おっさんに挑めるだろうか?……今の自分の現状では、「緊急時に即応できる」ということと「好ましいお産方法がある」ということの両者を得ることができないと判断した場合、二者択一をせまられる場合には、今でもやっぱり前者をとってしまうのではないか、正直なところ、そんな気がする」と、その理想の限界性を指摘する。[30] 医療を伴う安全性か、それとも危険性を伴うかもしれないが主体的である自然出産かという二者択一は、前述したように落合が指摘した出産の医療化に対しての心性の変化を経た上では、吉村の言うように前者をとる傾向になったとしても仕方がないであろう。[31] しかし、そもそもこのような二者択一の二項対立構造自体が安全=医療化という「近代化の論理」において推し進められたものである。
ここで考えてみたいのが、オールタナティブ・バース Alternative Birth という考えた方である。この考え方は、近代医療に対する批判として生まれたもので、自然出産運動のやみくもな医療拒否に見られるラディカルな側面を批判しつつ、「自然に出産できるときには自然の過程に身を委ね、真に医療の介入が必要な場合には適切な医療の援助が受けられる」ような出産の模索といってよいだろう。[32] この考え方は、「近代化の論理」に対して、鶴見和子の提唱する「内発的発展の論理」に結びつくものではないのだろうか。鶴見和子のいう内発的発展とは、「目標において人類共通であり、目標達成への経路と、その目標を実現するであろう社会のモデルについては、多様性に富む社会変化の過程」であり、「そこに至る経路と、目標を実現する社会の姿と、人々の暮らしの流儀とは、それぞれの地域の人々および集団が、固有の自然生態系に適合し、文化遺産(伝統)に基づいて、外来の知識・技術・制度などを照合しつつ、自律的に創出する」ものである。[33] この論理を出産に適用するのであれば、その地域に根ざした伝統的な出産を再考することで、医療=安全と自然出産の二項対立を解体し、多様性がありかつ安全な出産形態が確立されることを求めることになろう。
次なる問題は、どのようにして多様性がありかつ安全な出産形態を確立するかということになる。そこで次節において、これまでみてきた産婆・助産婦に改めて注目してみたい。
第3節 産婆・助産婦再考
第2章第3節において、産婆・助産婦が資格化されることによって技術の特定化が生じる現象を考察した。そこで、多様性がありかつ安全な出産形態を確立できるかどうかを見る前に、次の点について考えたい。それは、資格化によって特定化された技術を誰もが受け入れるような体制を作るときに起きる問題についてである。
産婆・助産婦が資格化される移行期において技術の特定化と地域の出産事情とのギャップはどのように解消されていたのだろうか。分娩体位の座産から仰臥産への移行を新産婆が変えた点が出産の社会史の中ではよく注目されるが、杉山・堀江は昭和戦前期の開業産婆たちは、学んできた助産学を一律に適用するわけではなく、分娩体位などに関する従来の出産を尊重していたことが少なくないことを指摘している。[34] これは、医療行為としての助産を行う産科医の非柔軟性とは異なり、産婆・助産婦の助産行為は消毒の徹底などといった近代的な助産技術をいかしつつ、同時に地域のニーズにあった助産をしていたことを示している。それは同時に、産婆・助産婦が多様性がありかつ安全な出産形態の担い手となっていたことを示しているのといえよう。
さて、ここで問題となってくるのことが地域の出産事情にあるような、いわゆる伝統的な出産そのものが、出産の内発的発展において残すべきものであるかという点である。舩橋は、地域の出産事情にあらわれてくる産婆・助産婦の伝統の諸要素において、「忘れてはならないのは「シンボリックな治療」である」と述べ、出産に関する様々な地域の文化における象徴的治療体系の意義を強調している。[35] この論証として舩橋は、フランスにおけるアフリカ移民の出産に際し、安心感を得る材料は近代的な医療ではなく民族の伝統的な出産形式であったことを例にあげている。また、松岡は分娩体位について、医学的見地から仰臥位の問題点を指摘し、問題があるにも関わらず仰臥位が産科病院などで採用されている理由は、医学的道理以外の「病院がという文化では患者は寝るものとされている」という文化によっておしつけられたものであると論じている。そして、仰臥位ではなく因習的として近代医療から切り捨てられた座産などの分娩体位のほうがより合理的であるとしている。[36] このような議論からもみて取れることは、伝統的な知識・技術を持った産婆・助産婦の復権であり、オールタナティブ・バースの担い手の一人としての産婆・助産婦の姿ではないのだろうか。
第2章第3節で述べたように、現在日本において助産婦は消えようとしている。しかし、吉村が述べたような出産にまつわる二項対立を崩し、新しい出産形態を模索するためには助産婦の復権を図るべきであろう。また、この問題は近代化した先進国においてのみ当てはまる問題ではない。西アフリカでは、出産1000に対して母体の死亡率が7人と非常に高い確率になっており、これら発展途上国・後進国の出産事情は改善する必要がある。[37] このとき、このような国において近代医療をそのまま根付かせることは金銭的にも精神的にも難しい。そこで、産婆・助産婦による国際的な技術支援も考えることができる。実際に、国際助産婦連盟(ICM)やその関連団体は後進国などへの技術支援を行っている。また国際助産婦連盟は、このときに近代的な医療によって起きた伝統的な知識や技術が失われないように、1996年に「国際助産婦連盟は、女性とその家族と協働する助産教育および実践を推進し;個人と文化の尊厳に敬意を払い;その敬意を肯定し;原住する女性とその人々の文化的な表現および関心を認めるものである」という所信表明を行っている。[38]
産婆・助産婦は、オールタナティブ・バースにおいて再考することで、出産における近代医療と自然出産の二項対立の問題を架橋する存在として新しい位置付けをすることができるのである。
第4節 予想される批判への回答
この節が本論文の最後の節になるが、前節までで論じてきた産婆・助産婦の新しい位置付けについての予想される2つの批判に対して、回答を与えておきたい。
第1の批判は、妊婦にとって出産時の安心感を、近代医療ではなく「シンボリックな治療」といった形での伝統的な出産形態が本当にもたらしうるのかというものである。たしかに、舩橋の議論は「シンボリックな治療」に対しての思い入れが強く、何が産婆・助産婦が担うべきものであるかについて言及していない。また、前近代をみてみたとき、産婆・助産婦は決して伝統の技を継承した助産者としての位置付けだけでなく、堕胎者ないしは堕胎によって子を隠す存在としての位置付けがあったことは事実であり、シンボリックな側面を無批判に取上げるべきではないだろう。[39] しかし、だからといって伝統的な技術を全て切り捨てるべきでないことはここまでで述べてきたとおりである。いかにして近代の助産技術と伝統的な技術を「照合する」かは難しい問題であるが、その地域のニーズを十分に考慮した上で、妊婦が主体的に自分がいかなる出産形態を取るべきか選択することができるような制度作りをしていくべきではないか。何によって安心感をえるのかは複雑な問題であるが、すくなくとも自分にとっての安心が何であるのかを、押し付けでなく考慮できる環境が理想的であると考えている。
第2の批判は、近代医療の問題点を解決すれば産婆・助産婦は必要なくなるのではないか。むしろ、産婆・助産婦は近代化の過渡期に出産を医療化するまでの「つなぎ」としての存在ではなかったのか、というものである。たしかに、日本やアメリカでは助産婦の存在意義は急速に薄れてきており、これは他の先進諸国でも指摘できる傾向である。又、医療における問題もインフォームド・コンセントの徹底や、排卵誘発剤の使用規定の強化など様々な取り組みが行われている。このような取り組みは医療過誤による問題を払拭するとともに、妊婦に医療への信頼性をより高めるものとなっていることはたしかである。しかし、近年になって助産婦再考の動きが日本でもアメリカでも起きていることもまた事実である。[40] この論でも述べてきたことであるが、出産の医療化の問題点はただ医療過誤の問題が起きるだけでなく、医療化した出産は妊婦から「産む主体」としての立場を奪い去るものであることである。より主体的なお産を望む限り、出産の医療化とは相容れない。産婆・助産婦を再考することは近代化の一面を担ってきた産婆・助産婦を、今度はその近代化の論理に潜む問題点を解体する存在としてとらえなおすことである。そのため、産婆・助産婦は近代化における「つなぎ」としての役割を担っているだけではないのである。
結論
鶴見和子は「内発的発展論の系譜」において、市井三郎の用語を援用して、「キーパースン」という概念を論じている。これは、「地域の小伝統の中に、現在人類が直面している困難な問題を解く鍵を発見し、旧いものを新しい環境に照らし合わせてつくりかえ、そうすることによって、多様な発展を切り拓く」地域の小さな民たちという意味である。[41]
出産における近代化は、その安全性を決定的に高めたものの、薬害や説明不足、医療権力の問題などを伴っていた。また、そのアンチとして出てきた自然出産運動も限界を含んでいた。この対立を架橋するキーパースンが、産婆・助産婦ではないのだろうか。そして、産婆・助産婦の活動によって、出産における国際的な格差の是正をより効果的に解消することができるのではないのだろうか。
産婆・助産婦は、資格化によって様々なものを失った。その失ったものを改めて再考することが今求められていると結論し、論を終わる。
参考文献
青島祐子『ジェンダー・バランスの挑戦 ――女性が資格を生かすには――』学文社、1997
新村拓『出産と生殖観の歴史』法政大学出版局、1996
Collins, Randall , 1979、新堀通也監訳『資格社会 教育と階層の歴史社会学』有信堂高文
社、1984
藤田真一『お産革命』朝日新聞社、1979
舩橋恵子『赤ちゃんを産むということ 社会学からの試み』NHKブックス、1994
長谷川博子「産婆のキリスト教化と慣習の形成 ――女たちの多数決による産婆の選択
をめぐって――」萩野美穂他『性・産・家族の比較社会史 制度としての<女>』平
凡社、1990
松岡悦子『出産の文化人類学 儀礼と産婆 [増補改訂版]』海鳴社、1991
宮坂靖子「「お産」の社会史」『叢書<産む・育てる・教える――匿名の教育史>1 <教
育>――誕生と終焉』藤原書店、1990
落合恵美子『近代家族とフェミニズム』勁草書房、1989
落合恵美子「ある産婆の日本近代 ――ライフヒストリーから社会史へ――」萩野美穂他
『性・産・家族の比較社会史 制度としての<女>』平凡社、1990
近藤正一「女子職業案内」1906、『女と職業2 女子職業案内』大空社、1993
大林道子『助産婦の戦後』勁草書房、1989
杉山次子・堀江優子『自然なお産を求めて』勁草書房、1996
鈴木七美『出産の歴史人類学 産婆世界の解体から自然出産運動へ』新曜社、1997
辻功『日本の公的職業資格制度 ――歴史・現状・未来――』日本図書センター、2000
鶴見和子「内発的発展論の系譜」鶴見和子・川田侃編『内発的発展論』東京大学出版会、
1989
柳田國男「産婆を意味する方言」1926、『定本 柳田國男集 第十五巻』筑摩書房、1963(a)
柳田國男「社会と子ども」1941、『定本 柳田國男集 第十五巻』筑摩書房、1963(b)
吉村典子『お産と出会う』勁草書房、1985
吉村典子「お産と出会う 抄」加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角『フェミニズム・コレク
ションU』1993
吉永真子「昭和戦前期における出産の変容と「母性の教化」 ――恩賜財団愛育会による
愛育村事業を中心に――」『東京大学大学院教育学研究科紀要 第37巻』1997
厚生省『母子衛生に関する統計』
厚生省『衛生統計年報』
総理府統計局『日本統計年報』
参考資料
[1] 厚生省兒童局母子衛生課『 母子衛生の主なる統計 1990年度』1990
[2] 「産科の医師」も助産を専門とするが、「産科の医師」として資格化されたというわけではなく、「医師」として資格化されたものであるのでここでは除外する
[3] 辻功、2000、16‐17頁
[4] 辻功、前掲書 この本の、第2〜6章がそれぞれ、創成期、整備期、漸進期、改革期、発展期にあたっている
[5] 辻功、前掲書、52頁 例えば、理想の医師資格要件は、医学卒業の学歴をもち、さらに2年の実務経験を重ねることであった。しかし、現実には医学校はほとんどなく、実務経験のみの無試験認定や試験検定などによって認定されていた
[6] 自動車運転免許による資格は職業といえず、公的職業資格の定義から外れるという指摘があるかもしれないが、科学技術の発達によるもっとも一般的な例として取り上げた
[7] R. Collins, 1979、邦訳1984、109頁
[8] 青島祐子『ジェンダー・バランスの挑戦 ――女性が資格を生かすには――』学文社、1997、135-168頁
[9] 柳田國男、1963(a)、401-404頁
[10] 吉村典子、1985、224-225頁 また、柳田國男は「取上げるといふ語は、今はたゞ抱き取るといふくらいの感じに用ゐられて居るが、事によると最初今少しく込入つた意味があったのかもしれぬ。……トルは即ち採用、家族の一人に加へるといふだけの、例へば嫁どり聟とりのとりであらう」(柳田國男、前掲書、402頁)として、トリアゲババは家族への承認者の役割を果たしていたのではないかと言及している
[11] 新村拓、1996、188頁
[12] 「医制 第五十条」
[13] 辻功、前掲書、57頁、新村拓、前掲書、189頁など
[14] 宮坂靖子、1990、35頁
[15] 落合恵美子、1989、45頁 なお、落合はこの変化が出産の心性の変化の第一段階であり、出産の医療化は心性の変化の第二段階であるとしている
[16] 近藤正一、1993、314頁
[17] 宮坂靖子、前掲書、40頁
[18] 「保健助産看護婦法」 第七条、第二十条
[19] 看護婦(現在の看護婦・看護士)は1950年時に129,641人だったものが、1996年では看護婦544,929人、准看護婦383,967人と約7倍に急増しており、現在でも増加傾向にある。
[20] 例えば、大林、1989に詳しい
[21] 「助産婦の定義」(1990年改訂)より 所出は http://www.nurse.or.jp/jna/kokusai/Icm/midwifedfn.html
[22] 産婆の地域差については様々に言及がなされている。例えば、柳田國男、1963(b)、217-220頁
[23] 例えば、松岡悦子、1991、6-21頁
[24] 戦後、助産婦が担う出産のケアの多くは自然出産運動などのかたちで現れた。これは地域の習俗とは基本的には切り離されたものが多く、理念系としての自然への回帰を求めたものと私は捕らえている。そのため、ここでいう地域の助産技術はやはり失われたといえる。
なお、このような習俗的なものを医者が批判し切り捨てた点に関しては、新村拓、前掲書、187-188頁も参照。
[25] 舩橋恵子、1994、77頁
[26] この移行について、アメリカでの人類学的研究として、鈴木七美、1997
[27] 日本では、藤田真一が1979年にはじめて批判し、またほぼ同時期に『出産白書』でも同様の批判がなされている。 藤田真一、1979、243-250頁
[28] 朝日新聞1998年2月9日朝刊23面 1992年10月以降の調査で陣痛促進剤を使用された人の約6割に何らかの副作用があり、また9割近くの人に対してインフォームド・コンセントが不十分だったことを指摘している。
[29] 詳しくは、舩橋恵子、前掲書、77-98頁など。なお、自然出産運動に関するホームページも多い。日本語で参照できるものとしては、「ラマーズ法研究会」http://www.lamaze-hayashi.or.jp/index.htm、「babycom birth」http://www.babycom.gr.jp/birth/index.shtml など。
[30] 吉村典子、1993、276-277頁
[31] 落合恵美子、1989、45頁
[32] 舩橋恵子、前掲書、99頁
[33] 鶴見和子、1989、49頁
[34] 杉山次子・堀江優子、1996、81-84頁
[35] 舩橋恵子、前掲書、143頁
[36] 松岡悦子、1985、138-142頁
[37] 現在日本では出産10000にたいして2.3程度
[38] 国際助産連盟による所信表明「原住民の文化保護および助産婦」(1996)
[39] 産婆の堕胎・嬰児殺しの関与については、新村拓、前掲書、241-242頁など。また西洋に関しては、長谷川博子、1990、236-237頁
[40] アメリカにおける産婆・助産婦再考に関しては、以下のホームページを参照した。”Citizens for Midwife” http://www.cfmidwifery.org/ , “Safe Motherhood Initiative-USA” http://www.smi-usa.org/ など
[41] 鶴見和子、前掲書、59頁