小熊研究会T最終レポート「社会理論潮流を概観する」

総合政策学部二年 渡辺朋昭 学籍番号:70230217 ログイン:s02521tw

 

はじめに

 今期の小熊研究会Tでは、「近代日本を分析する」というテーマに沿って、日本における最近の近代史研究を多方面において概観してきた。つまり、一般的な日本人にとって、ある概念がどのように変化したのか追跡することを主旨としていた。それは例えば「時間」「国語」「天皇」といった概念であった。このような近代化によって変化したと思われる幾つかのケース・スタディを通して、近代日本を分析することを目指した。

本レポートの主旨は、講義で取り扱った研究史と理論潮流を整理し体系化することである。必要に応じて文献を用いて補足したい。したがって、今期の研究会で紹介された理論潮流のまとめを基本軸としながらも、適宜それ以上に敷衍することが本レポートの目的である。

 

1.断絶説と連続説

 具体的に理論を紹介する前に、まずは今期の研究会の前提となった近代史における二つの学説について記すことから始めたい。それは、近代以前と以後では断絶しているという立場の「断絶説」と、反対に連続しているという立場の「連続説」である。

 今期の研究会では主に「断絶説」の立場をとった文献を扱った。しかしながら、その立場が本質的により正しく、優位にあるということではない。この二つの学説の相違は視点の違いである。百数年間で変化した部分に焦点を当てた場合には断続説となり、逆に変化していない部分に焦点を定めた場合は連続説になる。例えば「思想」という観点で考えるならば、断絶説になる。それはマルクスの上部構造と下部構造の概念が関連しているのだが、下部構造の変化を通して当然上部構造の一つである思想も変化しているという論理になるのだ。他には、社会の上層は断絶しているけれども下層は連続しているという立場に立つ場合も存在する。

 近代史の学者は断絶説に立ち、江戸時代を研究する人は連続説に立つ傾向が強い。近代史の中でも文化史や思想史は断絶説で、地方史・経済史は連続説の立場に立つ場合が多い。ただし、思想史の中でもタイプは分かれるので、そう単純ではない。

 さらに断絶説と連続説とでは、流行や時流が存在することも強調する必要がある。敗戦直後は断絶説が強く、50年代から60,70年代は連続説のピークであった。ところが80年代になると断絶説に再び戻り、90年代でピークを迎えることとなる。これは近代化のスタンスやそれをどのように捉えるかが異なるからに他ならない。はじめに断絶説については、敗戦直にその流れが強かった根拠は次のようなことであると考えられる。第一に、敗戦直後は広告イデオロギーが強く、それに対する反発が強かったからである。第二に、マルクス主義の影響が考えられる。つまりマルクス主義は歴史進歩説をとるから、必然的に断絶説をとることとなったのだ。第三は、近代化に対して夢があったということである。この点はいかにも戦後らしいと言えよう。そのような理由から近代以前と以後とでは断絶しているとみなされた。80年代から再び断絶説が盛り返した。これにはボブズボウムらの「創られた伝統」の一連の研究か関係している。しかし、戦後直後の断絶説と80年代以降のそれとでは近代化をどのように捉えているのかが大きく異なっている。敗戦直後は近代化を理想的な状態とみなしていたから当然肯定的に捉えていた。それに対し、80年代以降は近代化を否定的に捉えていた。このように戦後直後と80年代以降とでは断絶説という点では共通しているが、近代化に対する評価が正反対なのである。

 反対に60年代から70年代は連続説の流れが強かった。この時期は公害が日本各地で発生し、近代化を否定的に捉える傾向が強まっていった。同時に、農村が再評価されるようになった。このようなマイナス評価のためにこのような変化を発端として連続説が主張されるようになった。

 繰り返しになるが、このように連続説と断絶説はその時々の時代状況に応じて変化する。したがって、どちらが正しいか間違っているというものではなく、視点のとりかたの違いなのである。

 

2.近代日本の「国語」思想における保守と革新の対立の流れ(『「国語」という思想』)

 『「国語」という思想』の主題は、近代日本で「国語」という概念がいかに作られ、どのように広まっていったかということであった。そもそも「国語」という言葉自体が近代になって創造された概念である。文献の中には明治以降の「国語」概念の変遷と上田万年および保科孝一の活動とその思想が明記されている。「国語」「国語学」における保守と革新という分類をするならば、両者はともに革新の方に帰属する。本章では、明治期から現在にいたるまでなお続いている保守・革新の対立を概観してみたい。

 はじめに保守家に分類される上田万年の言語思想をみてみたい。上田は「国語」を確立させるために、それに「日本精神」を付与した。その思惑は、国語とナショナル・アイデンティティを結びつけることにあった。また国語の連続性をそれに歴史性を与えることで証明しようとした。さらに「国語=母語」という構図を積極的に作り、国語から郷土愛を連想させようとした。これは国語と国家を心情的に結びつけようという意図である。このようにして上田は均質な国語の普及と言文一致を進めた。

 次に保科孝一であるが、彼は基本的に上田の思想に相通じる政策を掲げた。保科は漢字廃止論を最終目標にするなど「国語」の簡易化政策をとった。その一方で、政府の力によって標準語を作り、方言を撲滅するべきだと主張した。両者の主張の共通点は国語を平易化することであった。それは、均質な「国語」を話す「国民」を形成することによって近代国民国家を創造することができるという共通の認識があったからに他ならない。上田・保科らは国内外において「国民」を形成するために、「国語」の簡略化を進めようとしたわけである。

 このような立場を「改革派」とすると、その対立項として「保守派」が登場した。改革派が漢字全廃、表音式仮名遣いなどの国語の平易化である「国語改革」を提唱し、「標準語」を話し言葉のレベルで実現しようとしたなら、「保守派」は「国語」の書き言葉の伝統を重んじ、「国語改革」を反国家的なもくろみとして攻撃した。この立場の人々は古典の価値を絶対視した。

 以上の保守派と改革派の対立は明治期にはじまったものであるが、現代も同じ論戦の延長のようなことを行っている。現在の両派の「国語」観は次のようなものである。すなわち「改革派」は平明、的確な国語を実現すべきだとし、教育者や一部の言語学者が支持している。他方「保守派」は「国語」は美しくあるべきだとみなしており、主に文学者と一部の言語学者によって支持されている。

 

3.メディア研究の潮流(『声の資本主義』)

 メディア研究で大きな流れとして考えられるのは次の二つである。一つはマルクス主義的芸術論潮流であり、いまひとつはカナダ人小説家のマーシャル・マクルーハンである。マルクス主義芸術論とは次のような理論である。

 価値・信用・労働時間の物証である貨幣の介在によって、社会で人間関係の再編が行われた。その結果人間は二重の意味で「自由」になった。この社会では、自由主義者であるブルジョワジーと労働力を商品とするプロレタリアートの分離が生じる。このような社会が「市民社会」である。そのようなマルクスの理論を受け継いで、『声の資本主義』においては階級間におけるメディア・テクノロジーとその消費のされ方の差異に注目している。

 続いてマーシャル・マクルーハンであるが、彼の代表的な著作は『グーテンブルクの銀河系』である。マクルーハンは「メディアの中身より、どのメディアを使うかが重要だ」と述べた。その言葉が象徴的に語っているように、伝える中身よりテレビ・新聞・ラジオなどからどのメディアを選択するかということを重視したのである。彼は、人間の五感が非常に生き生きとし、フルに生きている状態を作り出すことのできるメディアを「クールメディア」とし、それと対比して受容者による参与性・想像力の低いメディアを「ホットメディア」とした。そのように分類したのは、マクルーハンがメディアは人間の感覚の比率を変え、人間の思考様式や表現様式までも変化させると考えたからである。ホットメディアの一つであり、こうした変化を引き起こした重要な事件は、なんといってもグーテンブルクによる活版印刷の発明であった。新聞などの活字メディアはグーテンブルクの生前、非常に画期的であった。活版印刷の普及によって、人々はアルファベット26文字だけでのみ世界を還元するようになったのだ。しかし同時に視覚以外の感覚を切り捨てることになった。つまり、活字メディアの氾濫は、視覚の異常な肥大化を引き起こした。その結果、触覚や聴覚といった他の感覚を抑圧し、無意識の状態に押しやってしまった。要するに、印刷文化は人間の視覚化を進めたが、逆を言うと人間の五感全体は貧困化したのである。

 以上の二つがメディア研究の主な流れである。

 

4.人類学の研究潮流(『天皇のページェント』)

人類学の流れは機能主義にはじまる。研究対象となる集団を分析する際に、「機能」という観点からあらゆる慣習や生活習慣を捉える見方である。この視点によると、国家的儀礼を分析しようとした場合に「その儀礼には国家を団結させるなど、何らかの機能が存在するはずだ」というスタンスをとることが特徴と言える。機能主義後にきた流れは構造主義である。レヴィ=ストロースの構造人類学や神話学は他の学問分野へも多大な影響を与えることになるのだが、構造主義の視点は同じく儀礼を例にとって説明するとこのようになる。すなわち「社会構造そのものがその儀礼をやるようにできているのだ」といった考え方をする。さらに続く人類学における研究潮流は70年代から80年代にかけてよく知られた人類学者クリフォード・ギアツが提唱した解釈人類学である。ギアツの代表的な著作はバリを人類学的に考察した「ヌガラ」であり、その主張の概要は「ある儀礼の中にその国の国家体系が象徴的に現れている」ということだった。この視点を用いて、儀礼の中から意味を読み取って解釈した。なお、一般的にギアツの主張は基本的には構造主義と相通じるものが多いとされている。

ただしこれら三つとも、いずれも歴史という観点を視野に入れていない点で共通している。つまり、時間的変化を念頭においていないのである。またこれらの理論潮流は当時の全体的学問潮流にも強く左右されている。どういうことかというと、人間の理性を重視である合理的精神を体現した科学的分析が流行していた頃には機能主義が中心的な理論的枠組みを形成していた。西欧中心主義への批判が始まる頃になると構造主義が注目されるようになった。それが80年代後半から「固定した伝統文化など存在しない」という流れに変化していき、『創られた伝統』のような研究がもてはやされるようになった。

 

5.「時間」研究における潮流(『遅刻の誕生』、『客分と国民のあいだ』)

 この研究についての主な流れは次の二つが挙げられよう。一つはマルクス主義的歴史学の潮流であり、もう一つはフランスの非マルクス主義勢力であるアナール学派による研究潮流である。

 マルクス主義的歴史学とは、基本的なマルクス主義的発想である「上部構造は下部構造に規定される」という考え方を採用する。また唯物史観的発想にも則って、時間研究の場合には「この世界が現在どのような発展段階にいるのか」という問題意識を持つ。やはりマルクス主義歴史学では下部構造である経済史の領域を重視することになる。

マルクス主義的歴史学においては、1950年代から労働者階級の形成の歴史および労働者階級の意識の変遷を調査することになる。例えばイギリスでは、先進資本主義に入っていく中でどうして労働者の中に資本主義社会の矛盾が意識されないのかという問題意識があった。この問題についてマルクス主義歴史家であるE.P.トムソンは「モラルエコノミー」(注1)の概念を利用した。彼はイギリスの労働者階級を調査したのだが、その問題意識はいかに民衆蜂起が起こるのかということであった。トムソンによれば、民衆蜂起の動機は飢えからくるのではない。反乱のきっかけは彼らの旧来のモラルエコノミーに反した行動をとる者がいて、それらに対して不満を抱いているのである。これは政府に限ったことではなく、飢餓状態になった際に値段を吊り上げる商人も反乱の対象となる。要するに、飢餓状態自体に憤っているのではなく、飢餓状態に陥った際の行動がモラルエコノミーに反していることに憤っているのである。このようにしてトムソンは労働者階級、民衆の意識を調査した。

続いてアナール学派(注2)による流れである。アナール派には中世史の専門家が多いのだが、時間意識という面では南仏の歴史に注目した。

フランスは「理性」を重んじる国柄である。これはフランスのナショナリズムとも言えるし、支配的な考え方であるとも言える。その意味で、「近代的理性」や「共和国」といった概念を重視する傾向が強い。彼らはフランス革命以前の中世フランスと近代以後のフランスの意識形態の違いを問題意識とした。南仏はパリなどの大都市とは異なり、比較的前近代的な意識を保持しているという意味でそれに注目が向けられた。なお、論調としては近代になると何かが失われたとなる場合が多かった。

 

6.日本におけるエスニック研究の潮流(『異化と同化のあいだ』)

 もともとエスニック(注3)研究はアメリカ合衆国から開始された。マイノリティがマジョリティにどのようにして同化するのか、あるいはマイノリティはマジョリティと異化することで独自性を主張しようとするのかという問題意識が存在した。それはつまり、このどちらによってマイノリティはアイデンティティを獲得していくのだろうかということである。日本でこの問題が注目されたのは80年代後半である。背景には第一に、日本へ大量に外国人労働者が移入してきたことが挙げられる。第二に指紋押捺に対し、在日韓国・朝鮮人が反抗、批判したことが挙げられる。

 ここで手本にしたのが先行研究としてのアメリカ・エスニック研究である。それまで、在日韓国・朝鮮人は日本社会のそもそもの問題とはされず、植民地支配の遺産だという認識であった。この点はアメリカと異なる。アメリカは移民が独自にやってきたのに対し、日本の在日韓国・朝鮮人は戦時中に強制連行されてきたため事情が異なるのである。日本の在日韓国・朝鮮人はそのような事情で日本に来たという経緯がありながらも、2世3世になって祖国に帰るということはなくなり、アメリカの移民と同じような存在として考えられるようになった。そしてアメリカの移民と同じようなアプローチがなされるようになった。アメリカでの先行研究を日本社会で応用することを試みたのである。その研究手法はさらに日本の被差別部落問題にも適用された。ただし、アメリカと日本では歴史的にも文化的にも背景が違うといった根拠から、そのアプローチが必ずしも日本において適当ではないという批判も存在した。

 それが90年代になると、エスニック研究に対して、アプローチが変わっていった。「ポストコロニアル論」が台頭し、それの視点では同化や異化について批判的であったのである。その理由は二つあって、一点目は固定化されたアイデンティティについて批判的だったことである。アイデンティティは固定的なものでもなければ、揺らぐ可能性が十分にあるものである。二点目はマジョリティとマイノリティのどちらかのアイデンティティも持っていないということもありうるという批判である。日本人のアイデンティティもなければ韓国・朝鮮人のアイデンティティ持たない在日韓国・朝鮮人がその例である。

 

7.日本における女性史研究の潮流(『戦略としての家族』)

 そもそも女性史は比較的新しいということが指摘できる。1980年代半ばくらいから盛り上がりはじめたもので非常に新しい研究領域である。1960年代のウーマンリブに参加した世代である女性たちが、大学で教鞭をとるようになってから女性史の編纂にとりかかった。したがって19世紀に端を発するフェミニズムではあるものの、実際に盛り上がってきたのは80年代になってからだといってよい。

 ただし、フェミニズムや女性史研究につながる「社会史研究」において、それらの手がかりとなる先行研究が行われていたことは事実である。特に影響の強い著書はPh.アリエスの『<子供>の誕生』である。『<子供>の誕生』というからには、子供中心に書かれているのだが、田舎や中世に対するノスタルジーが随所に見られる。アリエスによれば、村落共同体やギルド組織などが、家族の成立のために乖離してしまったのだ。共同体における社交を断ち切ったのは個人ではなく家族なのである。さらに著書の中で、アリエスはフランスの国柄である理性に対して憧憬を表していおり、その点はフーコーと共通している。

 このような経緯ではじまった女性史であるが、それに影響を与えた研究として、はじめに高群逸枝を指摘する必要がある。彼女はマルクス主義的歴史学の手法を用いたのであり、必然的に女性運動も社会構造を変化させないことには変わりえないという主張であった。そのために、女性運動を社会主義運動の一環として進めていくべきだと考えた。これはマルクス主義者の被差別部落問題を解決するための考え方と同じ発想になる。しかし、高群はそのアプローチ方法に途中で行き詰って歴史研究へ、特に日本の古代史研究に移行していった。その研究の成果が日本における女性史のはしりだとされる。そしてその後、すぐに社会主義的女性史が登場することになる。共産党員であった井上清は日本女性通史を著した。しかし、それからしばらくした後、女性史の流れは途絶することになる。女性史を編纂しようとする研究者は少なく、第二派のフェミニズムが現れてくるまではそれをメインに研究する人は少なかった。だが、80年代半ばに再び盛り上がってくるに際し、注目したのは前出のアナール学派の研究やフーコーである。

女性史研究においては人間のメンタリティ研究に影響を受けた。特にアナール派はメンタリティの変化を追及しており、女性史研究に与えた影響も多大であった。アナール派は革命や事件によらないものから人間の意識の変化に注目した。アナール派は意識に重点をおいたという意味で、経済に重点を置くマルクス主義と距離を置く。

 メンタリティという観点からすると、日本民俗学も女性史研究に影響を与えた。柳田國男を中心とし、日本人のメンタリティを追求した。大衆の意識を調査するという問題意識からはじまった研究である。柳田の研究は結果的にフェミニズム研究にも大きく貢献することとなる。以上が女性史研究における潮流である。 

 

8.性の歴史の研究潮流(『色と愛の比較文化史』)

 性の歴史を追った研究の潮流は第一にフーコーを挙げなければならない。『監獄の誕生』『狂気の歴史』『言葉と物』などの著作で有名なフーコーであるが、彼の一連の研究では共通して「近代的主体」の誕生が非常に重要な意味を持つ。性というテーマを扱った『性の歴史』においても、やはり「主体」という概念に注目した。フーコーによると、近代的な「主体」の誕生が、性を強く意識させることになった。しかしそれは性の解放とはなりえず、逆に性意識の抑圧になった。これが基本的な彼の考え方である。

 次は、フロイトを祖とする精神分析学と性の研究との関連である。フロイトによれば、性は現実社会の中で囲い込む必要があるものである。そうすることが人格形成につながるというわけだ。つまり、性を社会化することではじめてうまく個人が社会に適応させることができるわけである。またフロイト左派の主張では、人間の根源的なエネルギーは性意識にある。マルクス主義者の間で人間の解放が論じられる中で、性の解放も並列に論じられるようになった。ただし、マルクス主義では下部構造が上部構造を規定するという立場であるが、フロイト自身はそれに否定的であった。人間の根源的エネルギーは経済活動にだけ影響されるものではないのだという立場であったからである。

 最後に日本の民俗学との関連で述べると、柳田國男が性について直接論じることはなかった。農村の家族について言及はされても、民衆の猥談について論じられてはいない。その一方で、赤松啓介は夜這いなど、その手のものを中心に研究した。彼の研究は60年代から70年代に再評価されることになる。その時代は左翼思想の影響で性の解放と革命を同列に論じられることが多かったのと関係している。以上が性の歴史の研究潮流である。

 

9.文学研究の潮流(『万葉集の発明』)

 文学研究の歴史について代表的なトピックは主に以下の三点である。第一は注釈の歴史である。それは一言で表現すれば「ある古典に対して注釈をつけていく歴史」だと言える。文学研究とは元来、お経や聖書に注釈をつけるようなものであった。その時代はテキストが中心であって、作者や注釈者ははっきり言って誰でもよかった。しかし近代になると、その構図は逆転し、作家が誰であるかが重視されるようになる。これと同時期にできあがるのが「古典」である。この時点で「主体が発生」し、ここから作家による「近代文学」や「古典」が誕生を始める。

 そして近代以降、歴史編纂作業が始められるようになる。それ以前から「王家の歴史」は存在していたけれども、ネーション・ステイトの概念が出来上がる以前は国民全体を扱った歴史が編纂されることなどあり得なかった。その背景にあったのも「主体の発生」である。日本では近代化を進めていくうちに、漢字文学は排除されるようになった。同時に、それまで評価の低かった「ひらがな文学」に注目が集まった。それに江戸期には下賎だとされ陽の目を浴びることのなかった近松門左衛門の作品が再評価されるという事態も起こった。少なくともそれ以前においては、近松の作品が文学とみなされることは決してなかった。同じことが源氏物語や竹取物語のような作品にも言えて、それらも近代化の途中で再評価されることとなった。いずれにしても「主体となる国民」が誕生しないことには民衆の文化や文学が評価されることなど考えられない。

 第二は、作家研究としての文学研究である。これは現在でも依然として現在においても中心的な潮流である。この研究では作家の精神を追う。つまり、作家は物語の中で伝えたかった真意があるはずだとして、それを正しく汲み取ることを目標とした。したがって優先順位はおのずから作品研究以上に作家研究の方が高くなる。

 第三は70年代から80年代に流行した、J.デリダの影響である「テキスト論」の流れである。デリダといえばポスト構造主義者の筆頭に挙げられる人物であるが、彼は近代的主体というものに疑いを挟んだ。別の言い方をすれば近代的理性を懐疑したのがデリダである。この点はフーコーとも一致する。ロゴス中心主義批判にテキストを関連させた。つまり、

理性に疑いを挟むという立場から、文章は誤読を引き起こすという問題を指摘したのである。テキストを中心としない人物、例えば古代ギリシアのソクラテスは本を書かず、対話によって自分の伝えたいことの真意を表現した。それに引き換え、テキストになると独自の読みのが発生する可能性が大きくなる。要するに、文章にすると誤読や多様な解釈が発生するというのだ。これは、作者があって、真意があり、作者が最高位にくるということについて異議申し立てをしているのである。そうなると作者の真意はさほど重要性がなくなってくる。書かれたものから多様な読みが可能であるということは、「近代的理性」があって、ある一つの絶対的な解釈が存在するという認識を懐疑しているにほかならない。これは近代以前の注釈の世界に逆戻りしたともとれる。もともと読者復権を謳う解釈学はそれを問題にしている。デリダ自身が唱えたのは60年代だったが、70年代から80年代にアメリカ文学界において流行した。日本にもこの考え方は80年代に流入してきた。しかし90年代に入ると今までの流れに合致してポストコロニアル論が台頭するようになった。

 ただしさらに三点目について言及すれば、国文学の世界ではあまりテキスト論の流れに影響を受けるということは少なかった。よく言えば尻軽でないのかもしれないが、悪く言えば流行に鈍いとか極めて保守的な世界だとも言える。相変わらず作家研究をしているケースが多いのは否めない事実である。

 

10.アナール学派R.シャルチエの「領域」理論(『<青年>の誕生』)

 本節は直接研究潮流を示すものではないが、デリダによるテキスト論と関連したシャルチエの「領域」理論を紹介し、前節を補足したい。

 第五節でアナール派の問題意識の一つが「民衆意識を知る」ことであると明記した。それに関連してアナール派は70年代に階級別の蔵書目録を調査した。階級が異なると読まれている本の種類も異なるだろうと考えたからである。この調査は図書とあらゆる社会的事象がどのように関わっているかを明らかにしたいという問題意識から生じたものである。フランス革命が行われるにあたって、その当時誰がルソーを読んで、どのような影響を受けたのかというような疑問はその一例である。

これが70年代アナール派の研究潮流であったのだが、80年代になるとR.シャルチエが台頭してくる。彼はどんな本があったのかではなく、ある本がどのように読まれたかということにより注目した。階級が異なれば同じ本であっても受容の仕方は違うという発想から生じた考え方である。これはテキストよりも読む主体に重きを置いた、デリダのテキスト論と深く関係していると言えよう。この考え方からすると、書かれた著作の意図とは別に、同じ読み方をした人間同士で「読者共同体」が築かれるようになる。そして作者自身のそのコミュニティーから誕生するようになる。

 

11.植民地研究の潮流(『<日本人>の境界』)

 第二次大戦後、植民地研究においては帝国主義批判が中心であった。しかし、70年代から帝国主義批判一辺倒ではあまりに単純すぎるのではないかという批判が発生した。そのように批判する、ヨーロッパの先進国側からなされた帝国主義に対する良心的主張は「協力システム論」である。植民地支配は何らかの現地に呼応するものが存在したから機能していたと考える。これは現地の人間のイニシアチブが作用していたという描き方ではなくて、現地の人間もそれなりにしたたかに植民地支配を享受していたという主張である。つまり、協力メカニズムが働いていたのではないかということだ。韓国のパク・チョンヒ政権がその一例である。

 日本でも同じように戦後、植民地批判が圧倒的に強かった。特に、戦時中に日本が行った創氏改名については同化主義だと批判され、80年代頃まではその流れが続いた。しかし、日本のマイノリティに対する同化主義は本来的な同化主義であったのだろうか。そうではないと考える立場から批判も寄せられる。その言い分とは、同化主義として批判するけれども少しも平等になってはいないのではないかという主張である。参政権も付与されなかった。このような状態を本当に同化主義と呼べるのかどうか。いずれにしても、日本の帝国主義が単純に同化主義だったと断定するのは認識が甘いと言える。

 なお、日本の植民地支配を考える上で非常に重要なのは欧米という第三者の存在である。他者を表象することによって自己が現れてくる。日本人は比較対照としてほとんど欧米を引き合いに出す。中国や朝鮮をもってくるのは非常に稀であった。欧米以外はサブの比較対照であったと述べても言い過ぎではない。ここからサイードのオリエンタリズム論をそのまま日本に応用するのは不可能なのではないかという問題意識が発生する。日本はオリエンタリズムの図式にはぴったりはまらない。繰り返しになるが、日本の場合は欧米という上位の存在がいたのである。

 

12.日本民衆思想史の流れ(『客分と国民のあいだ』、『声の資本主義』、『遅刻の誕生』、『天皇のページェント』)

日本民衆思想史の大まかな流れは、丸山真男批判から端を発する。だがそもそも、丸山はいかなる思想の持ち主だったのであろうか。

「きちんとした国民意識を持って、客分意識を捨てるべきだ。主体意識を持って国政に参加せよ」というのが丸山真男の主張であった。この立場からすると、客分意識でいる方が、政府に従順であるという認識になる。近代的国民とは政治に対して反抗するものという認識に立っているのである。よって、近代的な国民意識を保持することで「おかみ」意識を捨て、自らで判断できるように主体性を持てという主張なのである。これは戦後ひとつの潮流となった思想である。

 そもそも丸山が上のような主張をしたのは、民衆たちが利益誘導で動いていることに対する意義申し立てからであった。丸山は、近代的国民は地元の利益で左右されるのではなく、「国」を意識しなければならないとする「国民主義」(≠国家主義)を提唱した。

 しかし、ある時期から丸山に反論する立場が現れる。1950年くらいに現れるのが、丸山は民衆蔑視だという立場からの批判である。民衆が利益誘導で動くのは、むしろしたたかなのではないかという立場である。丸山の民衆観はあまりに一面過ぎるものだとし、民衆には民衆の論理があって、それに従って行動するのだと主張した。だから、丸山のように説教ばかりしても民衆は動かないのだと考えた。民衆が立ち上がるのは、民衆が反発する時だと主張したのである。彼らは「国」のためと考えているのでもなければ、自発的意識を持っているわけでもない。ムラの利益を考えている運動をしたのだ。そのように考え、民衆思想を再注目するべきだとした。ここから安丸良夫につながる民衆思想史の流れに移るわけである。

したがって安丸の問題意識は「民衆の思想をしらねばならない」ということであった。それは民俗学でも共通したテーマであった。この背景には当時の知識人と大衆との大きな隔たりがある。大衆にとって知識人は雲の上の存在であったと同時に、知識人にとっても大衆の思想は想像に難いものであった。しかしいざ研究するに当たって、論文を書くわけではない民衆の思想をどうやって理解すればよいのか。それについて安丸は大本教や丸山教といった民間信仰を通して民衆意識を研究するというスタンスをとるのである。これは現在のサブカルチャー研究の元祖となっている。

 

おわりに

以上、12節にわたって研究史・研究潮流について概観してきた。まとめてみて、今期の研究会シラバスで明記してあったことを改めて痛感した。すなわち、近年の日本近代史の研究は歴史学が社会学の影響を受けているということである。わたしたちが今期読んだ文献は、ある視点から近代日本の変遷を捉えるものがほとんどだった。それは「時間感覚」であったり、「女性の地位」であったりしたわけである。しかし、それらは歴史学という領域内でのみ収まらない。本レポートで紹介してきたように歴史書と呼ばれる文献であっても、社会学理論を多用しているケースが多く見られた。『<青年>の誕生』ではブルデューの概念である「ハビトゥス」や「プラティーク」が使われた。また国文学者のひとりである品田悦一が『万葉集の発明』の中で「想像の共同体」とか「創られた伝統」と言った概念を使用したという事実からも歴史学に社会学的視点がもたらされたことがわかる。そのような点を考慮に入れると、「近年、社会学と歴史学の境界ははっきりしなくなってきている」と小熊先生が言及されるのも頷ける。

 今期の研究会は、私のような初学者にとっても非常に学びやすかった。その理由は恐らく、理論を理論として学ぶのではなく、先行研究を通して理論を学ぶことができたからであろう。だが、来期は今回の種本となった理論書として、いよいよウォーラーステインやフーコー、あるいはハーバーマスなどの著作を読むことになる。しかし、それらの理論を応用した具体的研究を学んだことで、それほど抵抗を感じずに読んでいくことができるだろう。学問とは往々にして段階的に進むものであるが、来期につながるステップとして今期の研究会で学んだことは大きい。

 

注1:モラルエコノミー

広義では「旧来の共同体に根ざした政治・経済のあり方」のことを指す概念である。だが、現在ではより拡大されて広がっている。

モラルとは元来「習俗」を指す言葉だった。それが倫理とも繋がってくるようになる。他方エコノミーはもともと「経世済民」を指す言葉である。両概念が結合した「モラルエコノミー」は、ある集団が持っている習俗の規範・運営の仕方であって、ムラの掟の集合体に近い。

注2:アナール学派(『岩波哲学・思想辞典』26頁)

現代歴史学の革新に主導的な役割を果たしているフランスの研究グループ。L.フェーヴルとM.ブロックにより1929年に創刊され、歴史学を中心として広く人間諸科学の連携を目指す雑誌『アナール(年報)』が、この研究グループの拠点となっていることから、「アナール学派」と呼ばれている。専門分野ごとに細分化され、事件史に矮小化された実証主義の歴史学を批判しフェーゲルとブロックは、人間をまるごと捉える「生きた歴史学」を旗印に、歴史の総体的な把握を目指した。

 1956年フェーヴルの後を継いで『アナール』の編集責任者となったF.ブローデルは、歴史学を広義の社会科学の一環と位置付け、諸学問分野の交流を推進した。ブローデルは、変化しにくい歴史の深層を重視して歴史の構造的な把握へと向かったが、他面、分析方法としては数量分析を積極的に導入し、現代社会科学との連携を深めた。

 1972年からは、J.ルゴフやE.ルロワ=ラデュリが中心となるが、構造主義人類学・精神分析学・神話学などとの連携を強め、身体性の歴史や心性史を重視して、歴史の日常態の解明を目指す歴史人類学へとむかった。近年はさらに、R.シャルチエらによって、P.リクールやP.ブルデューを援用しつつ、表象の次元を重視した「新しい文化史」が提唱されている。このように、アナール学派の歴史学は、現代思想の展開と密接に結びついている点に特徴がある。

注3:エスニック集団(梶田孝道編『国際社会学』337頁)

 基本的には、伝統的な絆に基づく所属意識を土台として政治的、社会的に活性化した集団を意味する。共通の祖先、生活習慣、言語、文化、宗教などを契機として人びとは集合して政治的、経済的価値あるいは文化的、象徴的な価値を追求する。エスニック集団は、ホストあるいは支配社会のマイノリティ集団として存在することが多く、マジョリティ集団からの差別などに対して対抗運動を実施することが近年多くなった。具体的には移民、難民、外国人労働者や周辺マイノリティ集団をさすことが多い。

 

 

参考文献

     イ・ヨンスク『「国語」という思想』、岩波書店、1996年

     吉見俊哉『<声>の資本主義』、講談社、1995年

     T・フジタニ『天皇のページェント』、日本放送出版協会、1994年

     橋本毅彦+栗山茂久編『遅刻の誕生』、三元社、2001年

     黒川みどり『異化と同化の間』、青木書店、1999年

     牟田和恵『戦略としての家族』、新曜社、1996年

     佐伯順子『色と愛の比較文化史』、岩波書店、1998年

     品田悦一『万葉集の発明』、新曜社、2001年

     木村直恵『<青年>の誕生』、新曜社、1998年

     牧原憲夫『客分と国民のあいだ』、吉川弘文館

     小熊英二『<日本人>の境界』、新曜社、1998年

     梶田孝道編『国際社会学』、名古屋大学出版会、1992年

     木田元監修『朝日キーワード別冊―哲学』、2001年

     廣松渉等編『岩波哲学・思想辞典』1998年