小熊英二研究プロジェクトⅠ　最終レポート

テーマ：『「国語」という思想』を読む

総合政策学部三年

学籍番号：７００００４４３

飯島要介

Ⅰ　目次

Ⅱ　本レポートの意義と流れ

Ⅲ　本書まとめ

－ⅰ　本書メインテーマ

－ⅱ　研究対象・研究方法

－ⅲ　明治初期の「国語問題」（第一部まとめ）

－ⅳ　上田万年の言語思想（第二部まとめ）

－ⅴ　保科孝一の言語政策（第三・四部まとめ）

－ⅵ　本書結びまとめ

－ⅶ　研究史上の意義

Ⅳ　本書背景

－ⅰ　「日本語の国際化ブーム」について

－ⅱ　当時における日本政府の言語政策

Ⅴ　結び

Ⅵ　参考文献

Ⅱ　本レポートの意義と流れ

まず導入として、本レポートの意義及びその流れを説明する。

本レポートはイ・ヨンスク著『「国語」という思想　近代日本の言語認識』（岩波書店　１９９６）を読み、その内容をまとめると共に、本書の研究的位置付け並びに本書が書かれた背景に関して言及している。なお予め断っておくが、本レポートは本書において書かれている議論全てを把握することはレポートという形式の性質上不可能である。あくまで「日本のナショナリズム」という今期研究プロジェクトのテーマに沿って読み、まとめたものであると考えていただきたい。

本レポートの流れとしては、まず前半において本書のまとめを本書の流れにほぼ沿って行なっていく。なお冒頭においてはメインテーマ、最後においては本書の研究史上の意義について触れる。後半は著者が本書を書くに至った背景を、１９８０年代に日本において生じた「日本語の国際化ブーム」及び当時の日本政府が行なった言語政策について触れることによって明らかにしていきたい。

Ⅲ　本書まとめ

Ⅲ－ⅰ　本書メインテーマ

まず、本書のまとめを行なっていく前提として、本書のメインテーマに関して触れることにする。本書のメインテーマは大きく分けて二点ある。第一点目は、「『国語』という思想概念がいかにして作られ、どのように広まっていったのか？」というテーマであり、第二点目は「『国語』＝『日本語』ということが自明になっており、文化・伝統が『国語』には秘められているとされているが、そのような『国語』がまとっている意味とは何か？」というテーマである。

第一部（第一章～第三章）においては、明治初期の「国語」をめぐる論調が網羅的に示されている。第二部（第四章～第六章）になると上田万年の言語思想に焦点が絞られる。さらに第三部（第七章～第九章）・第四部（第十章～第十四章）では、上田の弟子である保科孝一によって試みがなされた言語政策と、それによってどのような影響がもたらされたのかについての言及がなされている。

これは後述するが、戦前において支配的であった「国語」概念は「『国語』＝『日本語』ということが自明になっており、文化・伝統が『国語』には秘められている」とするものであり、それは上田万年や保科孝一の思想に対して批判的な勢力によって唱えられていた「国語」概念に他ならなかった。

一方、上田や保科の志向していた「国語」の意味は全く異なっていた。彼らは「国語」を、「日本語」による言語共同体を築くための全く新たな言語として捉えていた。ベネディクト・アンダーソンによれば、言語共同体ができることによって、「想像の共同体」足る「ネーション」が初めて想像し得るものになるという。しかし、確固たる言語共同体が不在であった日本において、近代国家になるためには「国民」すべてが共有し得る言語の創造が急務であった。「国語」を作り出し、それによって「日本語」による言語共同体を浮かび上がらせようと上田・保科は考えていたのである。

Ⅲ－ⅱ　研究対象・研究方法

ここでは、本書の研究対象及び研究方法について言及する。

始めに研究対象について言及する。第一部においては、明治以降の「国語」概念の変遷を対象とし、第二部～第四部においては、「国語」・「国語学」の確立に重要な役割を果たした上田万年・保科孝一の活動に対象を絞っている。

次に研究手法について言及する。全体を通して、上田や保科などの言語学者や国語学者・歴史学者等の著作、論文集、政策提言、講演記録、法案、政府機関の記録・提言等の分析を行なうことによって、先述のメインテーマに対する解答を導こうと試みている。

Ⅲ－ⅲ　明治初期の「国語問題」（序章・第一部まとめ）

それでは、本論のまとめに入る。

ここでは、序章及び第一部のまとめとして、明治初期の「国語問題」に触れる。

本書によれば、江戸～明治初期においては、書きことばと話しことばは異なっており、また話しことばに関してはそのことばによって身分が特定できた。つまり、当時は統一され、均一的である「日本語」が存在するという概念がなかったと言える。

明治初期において、日本における「国語」をどのようなものにするのかということに関して、様々な知識人によって論じられた。以下、本書で触れられているその代表例を挙げることにする。

まずは、森有礼の「英語採用論」である。森は、「日本の言語」を「日本語（やまとことば）」と「中国語（漢字・漢語・漢文）」とが無秩序に混合した「貧しい」言語とし、「日本の言語」では近代化は困難と考え、「簡易英語」を提唱した。

「簡易英語」とは、「英語には『正書法に語源あるいは発音にもとづいた法則、規則、秩序が欠けていること、大量の不規則動詞があること』が、『英語の日本への導入を』困難にしている」ことを踏まえて、「『日本国民の使用のために英語から全ての不規則性を取り除』」[1]いたものである。

森の「英語採用論」に批判を加えたのが馬場辰猪である。馬場は「日本語」の文法書を書くことで、「日本語が英語にくらべて劣った貧弱な言語であるという森の主張を否定」し、「英語を唯一の公的言語として採用するよきに生じるに違いない社会的不平等に注意を喚起」[2]した。しかし、その文法書は英語で書かれていた。「日本語」で書くことができなかったのである。ここに、馬場には不本意ながら当時における「日本語」の書きことばと話し言葉との断絶を露呈している。

続いて、国字改良問題の文脈で現われたのが、前島密の「漢字廃止論」である。前島は漢字を廃止することによって、言葉の学習量を減らし、普通教育の実現を意図した。中国文明圏からの脱出と西洋文明への同化渇望によって生じた議論であると言える。

また、「かなのくわい」「羅馬字会」などによって、国字のかな文字化・ローマ字化や新字創製などの試みが行なわれたが、それらはことごとく文章が擬古文や漢文訓読体になってしまった。

書きことばと話しことばとの一致が試みられた初めての統一的な運動は「言文一致運動」であると言える。「言文一致運動」は二葉亭四迷、山田美沙、坪内逍遥などによって行なわれた。これによって「東京語」が日本の中央言語になっていった。さらに、日清戦争以後、言文一致である欧米諸国と並ぶべく国家事業になった。言文不一致である中国・朝鮮への蔑視の意味合いもあったしかし、現実は「国語」と「伝統」との調和に終わり、言文一致はなされなかった。

Ⅲ－ⅳ　上田万年の言語思想（第二部まとめ）

ここでは、第二部のまとめとして、上田の言語思想について触れる。

上田は言語の本体は書きことばではなく話しことばにあるとして（比較言語学の影響）、昔の言語しか研究せず、現在話されている言葉を研究しない国内国学者への批判を行なった。

上田は「国語」に「国民精神」＝ナショナル・アイデンティティと歴史性を植え付けようとした。そこで疑似科学的論証と心情的訴えかけによる「国語」と「国家」との結び付けを行なった。

疑似科学的論証においては、「国家概念の普遍的な本質規定とその属性の分析をおこなっている」[3]。その意図は「国家の成立過程や発展法則を客観的に定式化することではなく、あるべき国家の理想像をえがきだし、そのうえで＜日本＞が以下にその理想像に近いかを説得する」[4]ことにあった。

これによって、＜日本国家＞の価値を定めた上で、今度は有機的言語観を用いて「言語を＜国民＞の精神生活全体をかたちづくる総合的要素として把握しなお」[5]した。これにより、「国語」に「だれも反論できない受動的自然性を言語に賦与し、それを万世一系の『国体』と同一化させ」[6]ようとしたのである。

一方、心情的訴えかけにおいては、＜母＞と＜故郷＞というフレーズを用いて＜国体＞の内面化を図っている。＜母＞概念は「家族国家観」に立脚し、言語による国家支配のなかに心情的親密性を持ち込むために用いられた。一方、＜故郷＞概念は「主体的意志が生まれる以前に存在する『自然』である」と位置付け、「近代性から脱出しようとするものが安心して身を寄せることのできる暖かい避難所として想像された」[7]ものである。それは後に「天皇制ファシズムがマルクス主義をも含む近代的意識を全面的崩壊に追いやるための武器」[8]として用いられた。

以上の理念に基づき、上田は＜国語学＞の設立を提唱している。＜国語＞と＜国語学＞の関係は、通常の学問における研究対象や研究方法といった関係とは著しく異なる関係にあった。＜国語学＞にとって客観的事実の分析は手段でしかなく、「『国語』の相貌を明確にし、国民を同質化・均質化する機能を作動させる」という規範設定を目的とする学問である。従って、国語教育・国語政策という実践抜きにしては、＜国語学＞という実践自体が成り立たなかった。

さらに、上田は「標準語」という概念を日本に始めて紹介し、その普及に努めた。「内地雑居」問題に関わる外国との摩擦を発端にして、上田は国内に「標準語」を導入しなければ、内地雑居の外国人や、帰化する外国人を「日本化」することはできなく、ひいては国民自身の自発的な「国語の統一」も不可能であると考えた。この発想は対外進出の際にも適用されており、「国語」の世界進出を上田が想定していたことが窺われる。

Ⅲ－ⅴ　保科孝一の言語政策（第三・四部まとめ）

ここでは、第三・四部のまとめとして、上田万年の思想を忠実に受け継いだとされる保科孝一の採った言語政策について触れる。

保科は文献研究に終わっている伝統的国語学を批判し、「国語」教育、「国語」政策の場を通じて「国語学」を体系化することを図った。「国語」の簡易化をはかり、標準語、標準文体を制定しなければ、「国語学」が確立しえないと保科は主張した。そのために、ヨーロッパの比較言語学に対応する「東洋言語学」を構想した。

保科は戦前において、文部官僚として国内における「国語改革」を何度も試みている。そしてその度に「改革派」として山田孝雄・時枝誠記ら「保守派」と対立した。例えば、１９０５年に表音式仮名遣いの使用、１９４２年に標準漢字表（漢字節減を意図）の作成を提言するが、それぞれ「保守派」の猛反発（「国民精神の改革として気狂（きちがい）の沙汰」と反論）を受け、頓挫している。「改革派」と「保守派」の対立はそれぞれ、ヨーロッパ言語学（話し言葉、言語学重視）と日本国語学（書きことば、文学重視）との対立であったとも言える。

また、保科は同化政策にも着手している。彼は、ドイツの「ゲルマン化政策」に関する研究を行ない、朝鮮支配に利用しようとした。そこでは、異民族を同化する手段としての言語教育の重要性を説いた。

さらに、「同一民族の話すひとつの言語の内部での『人文的国語問題』と、それにたいして異なる言語を話す民族間の衝突から生まれる『政治的国語問題』とを区別」し、前者が「『その結果において政治上になんらの影響をも及ぼさない』ものである」のに対し、後者は「多民族国家や植民地統治において国家体制の存続にかかわるほどの政治問題となりうる」[9]と述べた。そして、『政治的国語問題』に対しては、民族語を絶滅させるなど、強圧的な政策は採らず、長期的かつ着実に実施し、政策変更が行なわれていくべきであると述べている。

さらに、保科は「国家語」構想を試みている。彼は、多言語多民族国家において統一的な言語体制を構築するために、４つの言語領域（公用語・教育語・裁判語、軍隊語）を統括する「国家語」を法的に規定することを提言した。これに対し、「国家語」が政治の場面に限定されることで、かえって「国語」の地位を揺るがすとして「保守派」のみならず「改革派」からも批判を受けた。

一方、実際の植民地における同化政策は「内地延長主義」を採り、非支配民族に対する同化政策を遂行していったが、一貫した「政策」と呼べるものを設け、それを組織的に遂行することはなかった。

しかも、そこには数点の問題を孕んでいた。

第一に、「国民精神」を自然主義的な概念で規定しようとしていたため、「国民精神」と言語による同化との論理的矛盾が生じた。

第二に「日本語」教育をめぐって国語国字問題の再来が生じたが、「国語」の簡易化に対しては「保守派」による批判が出た。「外国人」教育のために「日本語」を改革しようとするのは、「国語」の伝統への冒瀆であるとするのが「保守派」の立場であった。

第三に、現場の混乱があった。何語で教えるべきかという問題や、「国語」自体の曖昧さの問題は政策レベルにおいては浮上することが無かった。ノウハウが無い中、現場でこれらの問題を解決していくのは非常に困難であった。

結局披支配民族は矛盾が解決しないまま従属的な地位に置かれることとなった。

Ⅲ－ⅵ　本書結びまとめ

ここでは、本書結びのまとめを行なう。

上田・保科にとっては「国語」とは均質なことばを話す「国民」を形成することによって近代国民国家を創造するために創られた概念であった。それは、「山田孝雄のいう『伝統』から断たれたところにこそ、成立するしかなかった」[10]。しかし、「国語」の形成過程において、「国語」には「国体」の伝統が宿ると考えられるようになっていった。それは同時に日本語をあらゆる言語のうちの一つとして捉える考え方を拒んだ。このような「国語」観が「『八紘一宇』の言語的イデオロギー」[11]を生み出したと言えよう。

一方、上田万年・保科孝一は「国内での『標準語』制定、植民地と『大東亜共栄圏』での『同化政策』の推進など、国家主義的・帝国主義的側面をもつと同時に、漢字制限、表音仮名遣いの採用、口語文の普及など『国語民主化』ともいえる側面をあわせもっ」[12]た理念を主張し続けた。戦後の言語政策、１９８０年代の「日本語の国際化」ブームは上田・保科の思想の延長線上にあると著者は述べている。

Ⅲ－ⅵ　研究史上の意義

ここでは、本書の研究史上の意義について触れる。

本書のユニークな点としては、これまであまり取り上げられることの少なかった保科孝一の思想と研究を分析したことが挙げられる。他の研究において、保科が研究対象とされなかった背景としては、彼の提言が実際の言語政策において実現したことは少なく、保守派によって封じられてきたことが挙げられる。

「戦後の『現代かなづかい』や『当用漢字表』に見られる『国語改革』をいちはやく提案し、制度的な面においても戦前からその実現に努力した者」[13]としてイ・ヨンスクは保科に注目しているが、戦後の「国語改革」は必ずしも保科の影響力によってもたらされたとは言えない。ＧＨＱ・ＣＩＥによる一連の「戦後改革」の文脈で行なわれたと考えるのが妥当であろう。

しかしながら、戦後の「国語改革」に影響を与えた（と著者はいう）保科の思想を知ることによって、国語学はどのように構想されたか、またその認識のもとにどのような言語政策が提起されたかということを言語思想の展開として眺めることができると言う意味で、本書は意義があるのではないだろうか。

Ⅳ　本書背景

Ⅳ－ⅰ　「日本語の国際化ブーム」について

ここからは、本書が書かれた一つの契機となったと考えられる「日本語の国際化ブーム」に関して触れ、その背景に上田や保科の掲げていた「国語」の思想が根強く残っていることを示す。

では、始めに「日本語の国際化ブーム」がどのようなものであったかについて言及する。

本書においては下記のように、イ・ヨンスクは「日本語の国際化ブーム」に関して言及している。

上田と保科の「国語」の思想は、「敗戦」をこえて生き残った。戦後の「国語改革」が保科の長年の努力の結実であるばかりではない。ここ十年ほどでブームになった「日本語の国際化」とは、上田と保科の言説の延長線上に位置付けることができる。本書で論じたように、現在「日本語の国際化」をめぐってさまざまに論じられる話題は、ほとんどが戦前に保科孝一が取り上げたものだった。このように考えてみると、あまり見栄えのしない保科を、「国際化」の先駆者として祭り上げることもできるだろう。[14]

そもそも、「日本語の国際化」ブームは１９８３年を契機に発生した。ブームが起きた時期における、アメリカの大学の様子に関して、茅野友子は自著で言及している。

（１９８３年以降）経済の発展にともなって、それまでマイナーな言語であった日本語が急に脚光をあびたとき、日本語を避難する保守的なグループと、積極的に日本語を学ぼうとする若いグループが生まれた。実利を求めて日本語を学習する外国人が急増した。[15]

実際に、日本語を学習する海外の人々がどの程度増加しているかについては、下記の統計を参照して欲しい。１９７９年から１９８４年にかけて人数が大幅に伸びていることが確認できよう。

１９７９年：１２７１６７人

１９８４年：５８４９８４人

１９８８年：７３３８０２人

１９９０年：９８１４０７人

１９９３年：１６２３４５５人

１９９８年：２１０２１０３人

出典：国外における日本語学習者数の変移（国際交流基金・日本語教育機関調査）

では、「日本語の国際化ブーム」の原因は何だったのだろうか。その最たる要因としては経済成長によるところが大きいと考えられる。ブームが起きた１９８３年頃には日本はアメリカに次ぐ経済大国の名をほしいままにしていた。従って、豊かな日本での生活を求めて、訪日を望んだ外国人は少なくなかっただろう。また、高度経済成長を可能にした、日本型経営のノウハウを習得するべく、日本に訪れた外国人の経営者もいたと考えられる。さらに、その強大な経済力を元手に更なる応用科学技術研究への期待が海外の研究者からあったと考えられる。

「日本語の国際化ブーム」の背景で日本語を学ぶ人数が最も増加したのは、母語に漢字を含む外国人であった。特に、中国・韓国及び北米のアジア系の増加はめざましかった。茅野友子も下記のように北米のアジア系学生が最も熱心に日本語を学ぼうとしている姿勢があったことを触れている。

私の勤めていたカリフォルニア大学では、ごく数名をのぞいてアジア系の学生たちが日本語教室を占領してしまった。[16]

しかし、１９９０年代後半に入るとブームは衰退した。その背景としては、ブームの裏返しとしての「経済の低迷」と「語学への壁」が考えられる。

「経済の低迷」に関しては、バブル崩壊・日本型経営の行き詰まりが具体的事項として挙げられる。また、研究分野においては、基礎研究重視を期待されるようになり、日本がアドヴァンテージを有していた応用科学技術分野に対しては批判がなされるようになった。そのため、日本への研究分野における魅力も薄まったと言える。

「語学への壁」に関しては、さらに２つの要素に分けられる。一つは習得困難性であり、もう一つは儀礼的・固有文化的側面である。これらの要因は、ブームの最中において既に顕在化していたが、先述の「経済の低迷」が、日本語学習抑制に拍車をかけることになった。

まず、習得困難性であるが、漢字の存在が多くの学生の学習意欲を削いでいた。以下は茅野友子のブーム期における言及であるが、既に漢字の存在が日本語学習の敬遠に結びついていたようである。

しかしその反面、初級で挫折する学生も多く、上級まで続ける学生は全体の一割にも満たないのが一般のアメリカの大学での実状である。その上、初級レベルでさえ、漢字圏の学生数が多い地域では、非漢字圏の学生たちの日本語学習意欲がしぼみがちになる傾向がある。[17]

次に、儀礼的・固有文化的側面であるが、敬語・呼称の存在が、日本語習得を困難にしたようだ。「…して下さる」「…申し上げる」といった敬語表現、目上の者に対して、「あなた」ではなく「課長」・「先生」と呼ぶといった呼称表現は、他の言語にはない表現であり、敬語や呼称を適切に使えなかったことによって日本の企業において衝突を生んだ経験を持つ外国人は少なくない。

なお、先述の国外における日本語学習者数の変移（国際交流基金・日本語教育機関調査）を見ると、「日本語」学習者数そのものは増加傾向にある。これはオーストラリアなどの各国において「日本語」学習の環境整備が概ね完了したことによって、常に一定数の日本語学習者を確保することができるようになったことによるものである。一方、ブーム期においては日本語学習の環境が余り整備されていない中で学習者が増えていったことを踏まえると、そのブームの重大性が窺える。

Ⅳ－ⅱ　当時における日本政府の言語政策

それでは、「日本語の国際化ブーム」の中で、日本政府はどのような言語政策を展開していたのかについて言及する。

ブームが発生した１９８３年、中曽根首相（当時）は（短期）留学生１０万人受け入れ計画打ち出している。これは、国際社会の主要メンバーの一員としての責任として留学生を受け入れることは当然であるという理念から打ち出されたものである。ここには、「日本語」を海外に広めることも視野に入れていたと考えられる。

また、ブームからさかのぼること１０年、文化庁は「ことば」シリーズを作成し、学校、社会、教育機関に配布している。この冊子は１９７１年６月の国語審議会からの建議によって発刊されたものである。建議内容は「…国語が平明で、的確で、美しく、豊かであることを望み、この際、国民全体が国語に対する意識を高め、国語を大切にする精神を養うことが極めて重要である」とある。ここには、戦後以降、戦前「改革派」と呼ばれた勢力が打ち出していた言語政策の姿勢を貫いていることが改めて確認できる。

「ことば」シリーズが、外国人との関わりで書かれたものとしては、昭和６１年（１９８６年）度版には「日本語と外国人」というテーマを扱っているものが初めてである。さらに、１９９５年には新「ことば」シリーズとして、「国際化と日本語」というテーマを扱っている。この翌年に『「国語」という思想』が出されていることを踏まえると非常に興味深い。

『国際化と日本語』においては、「日本語」を海外に広めることに賛同する意見を載せている。国語審議会の建議と『国際化と日本語』の議論を合わせると、上田・保科の議論との類似性が見られる。「『国語』の平明さ」という言及は、上田・保科が掲げた「漢字節減」と類似しており、「『国語』の的確さ・美しさ・豊かさの追求」という言及は、「あるべき『国語』・『国家語』の追求」という上田・保科の姿勢に類似している。また双方とも「外国への『日本語』の進出」を想定している。

日本人は、日本語を世界に広めることに臆病と言うか、ためらいがありすぎる。世界の経済状態を見ると、世界で一番金持ちで、それに見合うだけの言語的影響力がないから、むしろ問題があるので、もっと日本語を理解する人を世界にふやすような努力をするべきで、それを文化侵略ととられないかとか、うじうじした気持ちがよくない。（鈴木孝夫の発言）[18]

ボーダーレスの国際社会では、自国の言語や文化を境界の外に送り出して、自分の国の言語や文化を境界の外に送り出して、自分の国の言語や文化を理解させるだけではなく、支持してくれる人々を作らねばならない。そしてそれは、国際社会に参加する権利でもあり、責任でもある。日本語の普及という表現に、押し付けというイメージが伴うと言って避ける傾向がなくもないが、どこの国も、自分の国の言葉を普及し合うことを今後の国際社会での公正な競争手段としなければならない。[19]

また、『国際化と日本語』においては、外国人子女や帰国子女に対する「日本語」教育問題を扱っている。これは、どうやって「日本語」を母語としない人々に教えていくべきかを論じていると言え、これも上田や保科が問題視したことである。

政府の言語政策に対する最も新しい言及は、国際社会に対する「日本語」のあり方（２０００年１２月８日答申）が挙げられる。この答申では、日本語の国際的広がりについての基本的な考え方について下記のように言及している。

私たち日本人は，母語としての日本語を大切にし，継承・発展させていくとともに，日本語やその所産を人類の文化資産の一つととらえ，その存在意義や価値，果たすべき役割を提言し，地球社会においてそれらが発揮されるよう行動する主体性を持つべきである。すなわち，現に存在する世界の人々の日本語への評価や期待にこたえるとともに，日本語が果たし得る積極的な役割がより一層世界の人々に認識され，日本語使用の国際的な広がりが拡大していくよう，世界に発信し，日本語使用や日本語教育の充実のために必要な体制を積極的に用意していくべきである。併せて，伝統を生かす美しく豊かな日本語の在り方や，コミュニケーションに適した平明で的確な日本語の使い方についても，絶えず追求していかなければならない。

日本語による情報発信は，日本人の思考や広い意味での日本文化の発信である。日本語を通じた様々な情報の受容や，日本語によるコミュニケーションを通して，世界の人々に日本や日本人についての理解を深めてもらうことが大切であるが，日本語の国際的な広がりには，世界の人々にとって日本語あるいは日本や日本人が魅力的であること，また日本人もそれらに誇りを持っていることが前提となる。したがって，日本人が世界の人々にとって人間的に，そして文化的に，より魅力ある存在であるよう，自覚的に努力していくことが必要だと言える。[20]

そして、下記の五点の提言を行なっている。

ⅰ）世界に向けた情報発信の推進

ⅱ）多様な日本語学習需要に応じたきめ細やかな学習支援

ⅲ）国際化に対応する日本人の言語能力の伸長

ⅳ）外来語・外国語増加の問題

ⅴ）姓名のローマ字表記の問題

ⅰ・ⅱはいかに「日本語」を世界に広めていくか、ⅳ・ⅴは世界に通用する「日本語」のあるべき姿が検討されている。１９７１年国語審議会の建議との比較をすると、フレーズの類似性（「平明」・「的確」・「美しい」・「豊か」）が窺える。これに関しては、「日本語」をめぐる議論の発展性のなさとも言えるし、戦後言語政策の堅固さとも言える。ただし、１９７１年の建議が平明・的確・美しい・豊かを並列しているのに対して、２０００年の答申が平明・的確と美しい・豊かを分けて考えているという限りにおいては多少議論が発展しているとも言える。

Ⅴ　結び

『「国語」という思想』を読むことによって、明治以降の言語政策の変遷と「国語」概念の変遷をたどることができた。全体を通じて考えさせられたことは、「国語」の「変遷」とは言うが、実態は殆ど変わっていないのではないかということである。

「『戦後』になって、この保守派＝国粋派の勢力はほとんど消滅したといえよう」[21]とイ・ヨンスクは言及しているが、現状における言語政策の進展のなさ、昨今の国内における「日本語」ブームを見るに消滅したとは言い難く、未だに戦前において行なわれていた対立が現在進行形で繰り広げられているというのがより正確な認識ではないだろうか。

今後、日本の言語政策がどうなっていくかについて考えると、今までの経緯を踏まえれば、当面は「保守派」と「改革派」による不毛な論争が繰り広げられるのだろうという極めて悲観的な解答を出さざるを得ない。そして、「外国人労働者」の流入によって、なし崩し的に「日本語の国際化」＝「漢字節減」「文法・表現の簡易化」が行なわれていくだろうと予想する。

Ⅵ　参考文献

田中克彦　国家語をこえて　筑摩書房　１９９８

茅野友子　国際化時代の日本語　大学教育出版　２０００

安田敏朗　＜国語＞と＜方言＞のあいだ　人文書院　１９９９

新「ことば」シリーズ１　国際化と日本語　文化庁　１９９５

[1] イ・ヨンスク　『「国語」という思想　近代日本の言語認識』　岩波書店　１９９６　ｐ８

[15] 茅野友子　『国際化時代の日本語』　茅野友子　２０００　ｐ１３

[18] 文化庁　『新『ことば』シリーズ１　国際化と日本語』　１９９４　ｐ３１

[19] 水谷修　「日本語の国際化」　同上書所収　ｐ３６

[20] 「国際社会における日本語」　『国際社会に対する「日本語」のあり方（２０００年１２月８日答申）』所収http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/12/12/001217b.htm

[21] イ・ヨンスク　『「国語」という思想　近代日本の言語認識』　岩波書店　１９９６　ｐ１６８