1999年度 小熊英二研究会 論文(仮提出)
総合政策学部4年 平野貴之(79607646)

T はじめに
 1999(平成11)年10月19日、『北海道新聞』に、「アイヌ民族の誇りかける/共有財産訴訟 21日に初弁論」という記事が掲載された。1997(平成9)年7月1日に北海道旧土人保護法(以下、旧土人保護法)が廃止されたのに伴い、同法第十条に規定されていた、旧土人共有財産(以下、共有財産)の北海道知事による管理が終了した。その返還をめぐって、共有者や相続人24人が道知事を相手取り、行政訴訟を起こしていた。
 「土地が返還済みというのはおかしい。アイヌは、地方の役人と組んだ商人らにだまされたりして、土地を取り上げられてきた。共有財産は広大な北海道の土地を奪われた代償として、生活支援の名目で与えられた。しかし、そのわずかな土地も奪われたのだ」(北海道新聞1999.10.19)と、原告団の小川隆吉代表がインタビューに答えている。
 この問題は、1997(平成9)年の旧土人保護法廃止当時からすでに返還をめぐって動きを見せ始めていた。アイヌ民族が、新たに設立されたアイヌ文化振興・研究機構*が、民族ではなく研究者のためのものになっているとして、理事長の辞任を要求、北海道もこの要求を受け入れ、またアイヌ民族主体で返還することとなった。

* アイヌ文化振興法(正式名:アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律)第七条により、アイヌ文化の振興等を図るために指定された法人。機構の理事長には学識経験者があてられる予定だった。

 また、1998(平成10)年6月には、釧路市に住むアイヌ民族の男性が、共有財産指定を受けていた土地を道が無断で売却、また波浪により海没としたのは不当であるとして、知事に返還請求書を提出していた。
 この男性、三田一良さんは、旧土人保護法廃止前の1985(昭和60)年以来、共有財産を不法に奪われたとして道に真相解明を求めていた。これについては、堀内光一『消されたアイヌ地』(1998、三一書房)がある。厚岸町小島2番地と17番地の二筆の土地が、新しく発見された法務局の公図によると、島の中央にあり、水没するような位置にはなかった。三田氏の父、良吉氏が北海道釧路支庁に実地調査を求めたところ、「本件はすでに道知事の管理を解いているので、道庁には関係ない」と担当の職員は「逃げ腰」だった。また、農地改革に際し、同町門静5番地1号と178番地1号の二筆の土地が、「担当係の判が押されているだけで、その上司にあたる主任、事務局長、会長のいずれの押印もない」起案書で、「公告もされないまま、違法なやり方で政府に買収されていた」ことを指摘、1998年の共有財産返還によって「北海道庁は管理責任追及の矛先をかわ」し、「あわよくばこの問題を歴史の闇に永久に葬り去」ろうとしていると厳しく追及している。
 小松豊は、『歴史地理教育』(1999年4月号)で、共有財産の問題点に触れている。財産の件数、発生・指定・管理の経過が不明朗、返還金額が戦前の指定当時のままであることなどだ。「道は『古いことで資料はありません(後略)』と自己弁護」しており、「管理者(筆者註:知事)の責任の重さを考えると、謝罪と補償を求められて当然」と主張する。また、共有財産をおのおの請求代表者に全額返還し、共有者全員の合意の下で分配する返還方法を「共有財産を私有財産にしてしまうこと、道(知事)の責務をアイヌ請求者個人に転化させる」二つの過ちを犯していると批判している。
 平田剛士も、『週刊金曜日』(1997年9月26日号)で、「カネは郵便局や銀行に預けられっぱなし」で、「明治時代の一円が現在も同じ一円のままである」と返還金額が戦前の指定当時のままであることを指摘している。他に、樺太から北海道対雁村(現・江別市)に移住したアイヌの共有財産を清算する際に、33,654円のうち21,600円しか返還されなかった*ことをあげ、「当時のこのような行政ぶりからは、賠償とか謝罪とかの気持ちはカケラもみられない」と評している。

*1905(明治38)年、彼らのほとんどが樺太に戻ったために清算された。残額のうち、9,242円が北海道社会事業協会に寄付され、2,804円が道内に残った移住アイヌに分配された。

 1996年には、山川力が『明治期アイヌ民族政策論』(未来社)の中で共有財産に言及している。「指定も管理も、そしておそらくは利用もすべて北海道庁長官の権限下におかれている」ものとし、「過去のその法律(筆者註:旧土人保護法)がそのままいまも放置」される日本の「このぶざまさ」を、記している。
 共有財産について触れられた文献を、管見の限りでここに列挙したわけだが、アイヌ民族問題としてはあまり扱われて来なかったテーマであるといえる。前述の先行文献は、共有財産の問題点を指摘してはいるが、引用された表現からも読み取れるように、やや観念的であることは否定できない。また、資料が豊富にある、樺太から移住してきたアイヌの共有財産以外は、財産の管理者である北海道発行の資料集*に頼るほかない。その資料も、1936(昭和11)年を最後に発行されていないという現状である。

*河野常吉『北海道旧土人』1911、北海道庁『旧土人に関する調査』1922、北海道庁『北海道旧土人概況』1936など。また、北海道庁『旧土人保護沿革史』1934、高倉新一郎『新版アイヌ政策史』1972では、やや踏み込んで財産造成の沿革や、管理方法などが記述されている。河野本道『対アイヌ政策法規類集』1981は、共有財産指定や改正の過程を、不完全ながらも見ることのできる、貴重な資料集である。

 本稿では、1899(明治32)年施行の旧土人保護法により、共有財産が北海道庁長官(当時)の管理下におかれるようになってからを調査対象の時期としているが、昭和30年代以降については目下調査中のため、記述に限界があることをお断りしておく。資料としては、北海道の布令式である『北海道公報』などの公文書、新聞・雑誌記事、関連市町村史、を主体として利用、場合により、登記書類にも目を通していく予定である。これにより、共有財産がどこにどれだけ、どのくらいの期間存在し(少なくとも、道に管理され)たことが明らかになるばかりでなく、その管理をめぐる政策の変化を追うことができ、それは適正に管理されたのか、また、共有されていた目的通りに使用され、共有者が利益を得ていたかも知ることができる。さらにその上で、共有財産についての再評価をすることができればと考えている。

U共有財産とは
 <アイヌの財産所有>
 アイヌは、北海道、樺太(サハリン)、千島列島、東北に、最大時50万人程在住していた。狩猟・採集生活を送っており、土地に対する権利関係等は存在しなかった*。ごく限られた地域では農耕が補助的に行われていた。無肥料で連作を嫌う粟や稗を耕作していたにもかかわらず、規模が小さく土地も豊富だったため「所有の観念は未だ発達せず、(中略)収穫が済めば土地は耕作者の権利を離れて無主地とな」(高倉,1932)り、耕作中しか所有権はなかった。また宅地も、居住している間のみ所有権を主張することができた。

*とはいえ、熊を捕獲するための仕掛弓のある川筋は、設置した家が所有している。またまた川を遡上する鮭鱒を捕獲する場所も、家族が占有するものであり(泉,1952)、厳密に言うとこの説明があてはまるものではない。

 動産についても、アイヌは「財産に関する欲望極めて薄く、(中略)資産を所有する必要を生じたりといえども、(中略)貯蓄心は一朝にして養成すること能はざる」(河野常吉,1911)といった状況で、「数十日間労働して得たるものを一夜の酒のために之を失い、或いは数項の土地を一樽の酒に換えたるの例」(河野常吉,1911)も少なくなかった。
 
 <共有財産とは>
 共有財産とは、全道もしくはある地域のアイヌが共同で権利者となる財産で、大別して三種類のものがある。第一が現金・預金・公債証書で、利殖を図っていくもの。第二が畑や海産干場、宅地、建物などの不動産で、地域のアイヌが共同で使用したり、あるいは在来日本人(以下、和人)に貸与して使用させ、使用料収入を得るもの。第三が漁場(漁業権)で、畑・海産干場同様にアイヌが自ら使用し、あるいは和人に貸与し、使用料収入を得るものである。
 この共有財産は、毎年分配されるもの、生業扶助・医療費・学資金として利益の一部を給与されるもの、支出せずに蓄積されるものがあり(貫塩,1934)、旧土人保護法施行までは、組合組織単位、あるいはアイヌの代表者、町村の役場で管理されていた。
 財源は、漁業の収益、天皇からの下賜、開拓使以来給与してきた救恤米の余剰分を蓄積したものに分けられる。漁業収益であるが、これは1869(明治2)年に、漁場請負制度が廃止され、アイヌの働き口がなくなったため、開拓使援助の下で漁業を行い、その剰余金を共有財産として積み立てていった(北海道庁,1934)。天皇からの下賜とは、1881(明治14)年、北海道巡幸の際に、白老・勇払・沙流各郡在住のアイヌ一戸につき25銭、合計925円25銭が下賜され、それが各町村ごとに分配されたものが財源となったものである。この他、1883(明治16)年、札幌県、函館県、根室県の稟請をうけ、宮内省より1,000円、翌年文部省より2,000円下付されており、これは全道旧土人教育資金として管理されていた。

 <旧土人保護法以前の共有財産>
これら共有財産は、その目的通りに順調に利殖、活用され、アイヌの生活向上に貢献したとはとても言えない結果となっていた。
 『新北海道史』によると、宮内省と文部省から下付された全道旧土人教育資金は、「三県で使用方法について意見が一致しない」まま預金され、1898(明治31)年には約6,000円となっていた。また、1881(明治14)年、天皇巡幸の際に下賜された925円25銭にいたっては「むなしく保管され、一部は学校・病院などの建築費などに寄付されて」しまった。さらに、十勝国広尾・当縁・十勝・上川・中川・河西・河東各郡のアイヌが参加していた漁業組合が1880(明治13)年に解散した際に返還された40,750円余の管理を官に委託していた。官庁はその資金の一部で共同運輸会社(後の日本郵船)株を買い、それを札幌製糖・北海道製麻両社の株に買い替えたのだが、両社が破綻したことによって「共有財産をいちじるしく減殺」する結果となった。このうち河西・河東両郡では、1880(明治13)年の約22,060円から、1894(明治27)年の13,279円に大きく減少した(帯広市史編纂委員会,1984)。
 1893(明治26)年の第5回帝国議会では、当時北海新聞主筆を務めていた加藤政之助衆院議員(埼玉県選出)が、十勝国のアイヌ共有財産について「知らず識らずの間に北海道の殆ど衰滅に垂んとして居る所の製麻会社、若くは製糖会社の株に此三万余円の郵船会社の株が変って仕舞」い、「今日彼等土人の共有金は如何になったか、分配も碌々受けることは出来ないと云う憫れ散果ない所の境界になって居る」(衆議院議事速記録第5号)と、「北海道土人保護法案」(廃案)の提出理由の中で述べている。
 これに続き1895(明治28)年の第8回帝国議会では、日高国サルコタン(沙流郡)のアイヌ、鍋沢サンロッテー氏の陳情を受けた議員六人が「北海道旧土人に関する質問主意書」を提出した。中心となった鈴木充美衆院議員(三重県選出)は、全道旧土人教育資金について、「是等の金は今何処に往って仕舞ったか、土人の手には一文も是等の金に依って共益の利益を得たこともない、殖産の利益も得たことはない」(衆議院議事速記録第8号)と、また加藤議員同様、十勝アイヌの共有財産については「折角自分等が種々の物を売払って、三万有余円の金を拵えて、之を道庁に預けたが、道庁に於ては此金をどう処分したか、今日は一文もない有様になって居ると云うことは、実に不審なる話である」と演説している。さらに日高国沙流郡紫雲古津村のアイヌ共有財産1,600円を戸長が使い込み、勝手に家屋を建て、残った300円も「今は全くなくなって仕舞って酋長等には幾らも与えない」でいる*と指摘、「斯の如き残虐なることをすると云うのは、実に人類たる者の為すに忍びず、捨置くに忍びぬこと」であるとし、のちに「北海道土人保護法案」(廃案)を提出している**。

*『新北海道史』では、この1,600円は「当局の弁明もあって、必ずしも他への恣意的な流用と言いきることはできない」としているが、どのような弁明がなされたかについての記述はない。

* *この質問に対し、野村靖内務大臣は「目下調査中につき答えられない」と答弁した。調査結果は11月27日付で北垣国道・道長官から内務省の江木千之・県治局長に送られたが「質問の要点にはほとんど正面から答えず、ただ管理責任者を羅列しているだけで、事実の核心に迫るものではな」かった(富田,1990)。

共 有財産は、その管理について何ら規程をもたず、委託先も道、町村、組合と様々に分かれていたため、監視もままならない状況であった。また、800円の授産金を、漁業により1年で3,800円以上にし、元手の800円は貯金として保管し、残りは備荒準備米の購入や各戸への分配にあてられた、厚岸地方のような例(1888.2.4北海毎日新聞)もあった。とはいえ『新北海道史』が指摘するように「共有財産を確実に保全しアイヌの福祉に活用するための制度と誠意を欠いていた」ということは否定できず、「なんらかの保護制度が必要であるとする主張もまた強まって」くるのであった。

V旧土人保護法による管理
 <旧土人保護法の施行まで>
 旧土人保護法は、共有財産の規定(第十条)のほか、土地の下付など農耕に関する規定(第一条から第四条)、救療に関する規定(第五条から第六条)などが盛り込まれている。保護法施行に至るまで、アイヌが窮乏せざるを得なくなった歴史を振り返ってみる。
 アイヌと和人の交流は、遠く鎌倉時代にさかのぼるといわれている。江戸時代には交易が盛んに行われていた。しかし、漁場での酷使により疲弊し、鮭や熊などの食料は乱獲され生活が困窮していった。1869(明治2)年には開拓使をおき、蝦夷地を北海道と改称し、北海道の奥地にいたるまで日本の支配を確立させようとした。
 1872(明治5)年には、「地所規則」が公布された。第七条で「山林沼沢従来土人等漁猟採仕来し地と雖更に区分相立持主或は村請に改て是又地券を渡」と、また第八条では「原野山林等一切の土地、官属及従前拝借の分目下私有たらしむる地を除の外都て売下地券を渡永く私有地に申付る事」と、土地私有を認めている。この規則はアイヌを排除していないが、アイヌが日本の戸籍に編入されたのは1875,76年にかけてであり、また手続きの煩雑さ、アイヌの識字力を考えて、これによりアイヌが土地を私有できたかは疑わしい。
 そのため、1877(明治10)年の「北海道地券発行条例」において「旧蝦夷人住居地所は其種類を問わず当分総て官有地第三種に編入すべし」(第十六条)と定め、アイヌが従来利用していた土地は開拓使で管理し、アイヌに所有権はないものの、地租を免除され、自由に使用できるようになった。この土地は『北海道庁統計書』によると、1886(明治19)年には21万坪(約69万u)を数えていた。結果的に、1889(明治32)年の旧土人保護法まで、官有地第三種として、アイヌが使用していた。しかし「年月を経るに従って係役人が変り、次第にこうした沿革が忘れられて普通の官有地と誤認し、一般和人に払い下げる」(旭川市史編集委員会,1981)事態も起きていた。

 <旧土人保護法による管理>
 1899(明治32)年4月1日より施行された旧土人保護法の第十条に「北海道庁長官は北海道旧土人共有財産を管理することを得」と規定された。同年10月には、「北海道旧土人共有財産管理規程」が制定され、二つ以上の支庁にまたがるものは道が、一つの支庁にあるものは支庁が、一つの戸長役場にあるものは戸長が管理することができるとしている。また、共有財産は現金のまま保管せず、預貯金または公債証書で利殖をはかるとしている。
旧土人保護法施行の年に、道庁長官が管理する共有財産に指定されたものは、「全道旧土人教育資金」(6,206円)、「天塩国天塩郡、中川郡、上川郡旧土人教育資金」(266円)、「胆振国勇払郡鵡川、井目戸、萌別、生亀、似湾、累標、穂別、辺富内村旧土人共有」(1,039円)、「胆振国勇払郡苫小牧、樽前、覚生、錦多峰、小糸魚、勇払、植苗、厚真村旧土人共有」(191円)、「胆振国白老郡各村旧土人共有」(135円)、「沙流郡各村旧土人共有」(349円、建物2棟)の6件であった。これに続き、1903(明治35)年には、樺太から移住したアイヌの海産干場(3筆)、宅地(8筆)、漁場(8箇所)が指定された。また同年、それまでアイヌの自主組織によって管理されていた「十勝国中川郡各村旧土人共有」(漁場3箇所、海産干場1筆、宅地1筆、倉庫1棟、北海道製麻株90株、現金213円33銭)と「十勝国河西郡伏古村、芽室村、河東郡音更村旧土人共有」(漁場1箇所、宅地2筆、家屋1棟、北海道製麻株80株、現金346円93銭4厘)も道の管理となった。この他明治年間では、1904(明治36)年に、「胆振国白老敷生両村旧土人共有」(100円)が指定されている。

 <指定を受けない共有財産>
 明治年間に、旧土人保護法による指定を受けた共有財産は6件のみであったが、指定を受けない共有財産が多数存在していた。後に指定を受け、道管理となるものが多いが、最後まで指定を受けなかったものを『北海道庁統計書 第二十三回(1911(明治44)年12月現在)』の記述に従い列記する。「静内郡旧土人共有」(613円)、「留萌郡留萌町旧土人共有」(畑2,287坪)、「十勝郡生剛村旧土人共有」(漁場5箇所)、「十勝郡大津村旧土人共有」(漁場5箇所、海産干場12箇所)、「網走郡美幌村旧土人共有」(馬3頭)。このうち、「十勝郡生剛村」、「網走郡美幌村」の記述は、翌年の統計には見られず、永遠に姿を消すこととなった。

 <管理方法の変化>
 当初共有財産の目的は「備荒のため儲蓄する」ものであったが、1923(大正12)年に、十勝国の共有財産の目的が「土人救護の為儲蓄する」に改められ、アイヌにとっての利用の幅がやや広がった。翌年には、十勝国以外の共有財産でも目的が改正された。
1934(昭和9)年には、和人に貸与していた旭川市のアイヌ給与予定地の一部が共有財産となり、アイヌの手に渡った*ことに伴い、北海道庁長官や旭川市長、そして旭川アイヌら11人をメンバーとする共有地管理委員会が発足、また新たに北海道旧土人共有財産土地貸付規程が施行された。また北海道旧土人共有財産管理規程も第一条に不動産の条項が追加されるなど全面改正された。

* いわゆる、近文アイヌ地問題については、運動の中心となって活躍し、その後も言論活動を続けた旭川アイヌの長老、荒井源次郎の『続 アイヌの叫び』(北海道出版企画センター)などを参照のこと。

W共有財産の管理をめぐって
 <消えた財産>
 共有財産は、北海道の庁令によって定められたものであり、その改廃も、庁令などの布令をもって行わなければならない。実際、1934(昭和9)年に庁令84号で指定された「旭川市旧土人50人共有」の土地の一部で面積が変更となったが、それは1942(昭和17)年の庁令99号に告知された。また、1931(昭和6)年庁令44号で指定された「河西郡帯広町旧土人共有」の宅地2筆は、1948(昭和23)年の規則29号で管理が廃止されている。それでは、次の例を見ていただきたい。1899(明治32)年、庁令93号で指定された「沙流郡各村旧土人共有」には、「現金349円、建物2棟」とある。1924(大正13)年、改めて指定される(庁令19号)が、この時にも「現金349円、建物2棟」とある。しかし、1926(大正15)年発行の『北海道旧土人概況』を見ると、「現金456円」となっている。「沙流郡…」はじめいくつかの共有財産は、1931(昭和6)年に改正されるが、このときに初めて建物の記述が消えている。仮にこのとき建物2棟の指定を廃止する形で庁令が改正されたとしても、1926年には現金のみとなっているのだから、5年以上改正を放置したことになる。70年以上前のことであり、どんな事情で建物がなくなったのか知るすべもないが、これではどのような管理をしていたのか疑われても仕方があるまい。
 また、数十年にわたって、金額が据え置かれていることも誤解を招く原因となっている。「沙流郡…」の金額は、庁令だけを見ていると、数十年にわたって一円の変化もないと読まれてしまう。実際には順調に利殖し、1909(明治32)年には1,070円に、1916(大正5)年には1,650円にも達している。アイヌに関する資料をたどれば、こうした経緯がつかめるのだが、それすら1935(昭和10)年を過ぎると記述がなくなり、管理法は闇のなかに閉じ込められてしまう。この点が、共有権者やその相続者の不信感を増幅させている。

<消えた規則>
 1934(昭和9)年、庁令92号により、「音更村旧土人中村要吉外二十三名共有」が指定された。音更村字下音更東一線二番地ノ二所在の宅地1,413坪と、同番地ノ一所在の雑種地3町9反7畝7歩が、その内訳である。1948(昭和23)年4月15日、規則29号により、この二筆の管理は終了した。ところが、6月9日に、規則43号でも全く同じ「音更村字下音更東一線二番地ノ二所在の宅地1,413坪」と、「同番地ノ一所在の雑種地3町9反7畝7歩」の管理廃止を宣告しているのである。4月15日から6月9日までの間に、管理が復活した形跡は見られない。訂正の訓令または告示が出ているかまでは調査できなかったが、同じ規則を二度も、しかもわずか二ヶ月の間に出してしまう北海道は、管理がずさんだったと言われても反論ができまい。

 <売られた共有財産…旭川と厚岸の比較>
 戦後の農地改革で、アイヌは大きな打撃を受ける。アイヌが旧土人保護法によって給付をうけた土地も、自作農創設特別措置法(自創法)により小作人に売り渡さねばならなかった。借金のかたに99年という半永久的な小作契約を結ばされた例もあり、地主として力を持っていなかったのにもかかわらず、「自創法は旧土人保護法に優先する」との見解がなされたためであった。1934(昭和9)年に指定された共有地のうち、学校、鉄道等に提供された敷地を除いた87町2反7畝6歩(約26万坪)を、1949(昭和24)年に67万円で売却した。しかし、登記手続はなされたものの、道からの布令は行われず、売却益は引き続き共有財産として管理された。1997(平成9)年9月5日の「官報」に掲載された北海道知事の「公告」には、返還額754,519円とともに、「現在管理している金額の中には、昭和9年11月1日北海道庁令第84号及び昭和9年11月13日北海道庁令第92号により指定した土地に係る収益が含まれていますが、当該土地については昭和24年に共有者に返還済みです」とある。「返還」とは、どのような意味だろうか。
 1924(大正13)年に指定された「厚岸郡厚岸町土人共有」には、雑種地/海産干場15筆、畑7筆、宅地2筆が存在していた。1952(昭和27)年の規則174号で、この指定は廃止され、共有者に分配、土地は売りわたされる。さきの「公告」では「左記土地は、昭和27年9月13日北海道規則第174号により指定を廃止し、共有者に返還済みです」と書かれている。土地を共有者に「返還」したと言うのなら、旭川でも指定を廃止しなければ、つじつまが合わない。旭川では、売却益を引き続き共有財産として管理したから、指定を廃止する必要がないとでも言うのだろうか。さらに、厚岸の場合は、共有財産の指定を廃止したにもかかわらず、「当該土地から生じた収益」が原資となった、共有財産28,342円が存在していたのだ。この2万8千円について、なぜ1952年の段階で布令を出さなかったのだろうか。ないはずの土地が規則上では存在し、規則上では存在しない共有財産が実際に残されている。この矛盾を、道は説明したことは、未だにない。

Xむすびと今後の展望
 以上のように、道の布令をたどっていくだけでも、共有財産の管理に対する道の姿勢が浮き彫りになっている。「アイヌには財産管理能力がない」として共有化し、無責任な管理を続けていながら、法律が廃止されたのを好機として、すべて返還することで問題を終結させようとするやり方は、全くもってアイヌを差別しているとしか言いようがない。
 しかしながら、この問題の根底にあるのは、すでに時代錯誤的なものとなっていた共有財産制度、ひいては旧土人保護法を長い間存置しておいたことである。すでに1946(昭和21)年には、「アイヌ新聞」で山本多助が「共有財産を悪官僚からウタリーに返さす事が必要だ」(第3号)と述べている。また憲法14条の財産権に照らし合わせ、行政がアイヌの共有財産を管理・処分する権限をもつのは疑義ありとの質問が国会でも出されていた(山川,1995)。
また、差別や財産権侵害という観点ばかりでなく、共有財産の制度そのものが死んでしまったということからも、早期に廃止すべきだったということが論じられる。アイヌの救療、奨学など、共有財産を原資としていた事業に、和人と共通の法律や、別の財源ができたこと。道は1937(昭和12)年に、旧土人保護法改正に際して「本法に規定なき事項は勿論、本法に規定ある事項と雖も救助、救療等の如く一般法例に規定ある事項は法第六条の趣旨を体し成るべく一般法例により救護し(後略)」(丑社1132)と通達を出している。また1922(大正11)年には、恩賜旧土人教育資金管理規則が定められ、旧土人教育の新しい財源が生まれた。また1972(昭和47)年度の「ウタリ実態調査」の結果をうけて、北海道で「ウタリ福祉対策」が始まり、さらに共有財産の必要性が薄れていくのである。
 共有財産の返還が開始された今、アイヌ民族は、「共有財産が現金だけになった経緯など、財産の管理状況が不明、官報の公告に応じて請求した人だけを返還対象にしている」(北海道新聞1999.10.19)などと主張し、返還の無効確認を求めている。第一回口頭弁論では、アイヌ語での意見陳述が認められるという、初めてのできごともあった。裁判の進行とともに明らかになっていく事実もあることだろう。
 以上、共有財産について北海道の政策を中心に振り返ってきたが、「ずさんな管理」を証拠づけるにはまだ不十分な面も多かろう。また、史料をまとめる途上ということもあり、おのおのの共有財産についての流れを記すことすらできなかった。また、戦後や戦中の史料は、まだ収集しきれていない部分がある。土地については、登記簿から歴史を知ることも可能だ。日本の他の植民地や、先住民族が住むアメリカ合衆国、オーストラリア、ニュージーランドでは同じような政策が取られていたのか。調べるべきことは枚挙に暇がない。今後最終発表までには、さらに調べ上げていきたいと考えている。

参考文献
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貫塩法枕 1934 アイヌの同化と先蹤 北海小群更生団(→1986サッポロ堂書店)
平田剛士 1997 アイヌ民族への返還共有財産「一四八万円」の背後にあるもの 週刊金曜日(1997.9.26) 金曜日
北海道新聞社 北海道新聞(1998.6.3)(1999.10.19)
北海道庁 1922 旧土人に関する調査(→河野本道選 1980 アイヌ史資料集 第一巻 一般概況編)
北海道庁 1926・1933・1936 北海道旧土人概況(→河野本道選 1980 アイヌ史資料集 第一巻 一般概況編)
北海道庁 1929 土人概要(→河野本道選 1980 アイヌ史資料集 第一巻 一般概況編)
北海道庁 1934 旧土人保護沿革史(→1981第一書房)
北海道庁 北海道統計書 第一回〜第四回、第二十三回〜第二十四回
北海道庁 新北海道史
北海毎日新聞社 北海毎日新聞(1888.2.4)(→北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会編 アイヌ史 北海道出版企画センター)
堀内光一 1998 消されたアイヌ地 三一書房
山川力 1995 いま、「アイヌ新法」を考える 未来社
山川力 1996 政治とアイヌ民族 未来社