問題設定
「横浜は子育てに冷たい」と言われている。「保育園の数が少なくて、入れない子どもがいる」とか、「市の援助が足りないから学童保育指導員の待遇が悪い」などといった声を、私もよく耳にする。
横浜の学童保育は、そんな冷淡な行政を相手に、児童福祉の改善を強く訴えてきた。
学童保育というのは、「共働き・母子・父子家庭の小学生の子どもたちの放課後及び春・夏・冬休みなどの学校休業日の生活を保障することを通して、働く親の生活と権利を守る」集団保育の場である。[連協:1999]親が働いている子どもたちは、放課後家に帰っても、「おかえり」と迎えてくれる家の人がいない。その代わり子どもたちは、古い民家や安アパートの一室などに開設されている学童保育に行くのだ。そこでは20〜50人くらいの子どもたちと、2〜3人の指導員が待っていて、遊んだり、おやつを食べたり、のびのびと生活している。
学童保育は、重大な保護者負担、指導員の待遇の悪さなど、様々な問題を抱えている。「横浜市学童保育連絡協議会」を中心に、毎年45万の署名を集めて運動を繰り広げているが、行政の対応は芳しくない。
ところが、学童保育や保育園の改善に対して消極的だった行政が、1993年、小学校児童を対象にした「はまっ子ふれあいスクール」という新たな児童福祉事業を出してきた。遊び友だちや遊び場の少ない現代の子どもたちのために、小学校の空き教室や体育館・グランドなどを開放して集団の遊びを育てるというのが、「はまっ子ふれあいスクール」(以下、“はまっ子”)の事業目的である。
学童保育と“はまっ子”は、ともに「小学校の子どもたちの放課後の居場所」であり、競合せざるをえない1面を持っている。「横浜市学童保育連絡協議会」(以下、連協)は、“はまっ子”の開設当初から、「学童保育つぶしの事業になる可能性がある」という危機感を持って、対策を立ててきた。
“はまっ子”をめぐっては、93年開設、94年夏休み試験的実施、95年運営方法の変更、97年自民党による「学童保育との一本化」提言、99年拡充実施など、さまざまな動きがあった。それは明に暗に、“はまっ子”が留守家庭児童をも考慮した事業内容へと変革することによって学童保育の内容へ近づき、学童保育事業を形骸化することを示していた。これらの動きに対して、連協は毎年見解と運動方針を打ち出し、「同じ児童福祉事業でありながら、“はまっ子”の改善ばかりが優遇されるのは不公平だ。学童保育にも、もっと行政の援助を」という強い態度で臨んできた。
しかし、そこに見られる論理は時に強引であり、内在する矛盾から目を逸らそうとするなど、違和感を持たざるをえない点がある。連協が、「学童保育は留守家庭児童対策、“はまっ子”は全児童対策であるため、親が働いている子どもの福祉には、“はまっ子”では不充分である」としながら、“はまっ子”が事業内容の拡充によって留守家庭児童対策をも目的の射程に含もうとすると、「“はまっ子”は学童保育の内容を侵害すべきでない。なぜなら、“はまっ子”は全児童対策であり、学童保育は留守家庭児童対策だからである」とし、同語反復に陥っている点は、明らかにおかしい。
連協の論理矛盾は、以下2つの点で望ましくないといえる。
第1には、もちろん運動の有効性の問題である。連協は、「なぜ学童保育が必要なのか、なぜ“はまっ子”では代わりにならないのか」という問いに、本質的な解答を与えていない。連協の運動は、学童保育の発展と改善を求めて行政に働きかけていくという点で一貫しているが、それを正当化する有効なレトリックを持っていないように見える。
第2に、実際に子どもを学童保育に入れている親たちとの連帯が難しい側面がある点である。連協の強引な論理展開は、現場の親たちに「親たちの利益を無視した連協のエゴイズムではないか」といった不信感を抱かせている。「なぜそこまで“はまっ子”対策に躍起にならなくてはいけないのか?“はまっ子”が無料で学童保育のような内容を提供してくれれば、それが一番よいではないか」という一部の(もしかしたら大部分の)親たちの素朴な関心は、運動体の看板の下に押し付けられるべきではない。
このような問題を孕みながらも、人々は学童保育にこだわり続けている。それは、「働きながら豊かな子育てをするために、学童保育は必要だ」という、実感と経験に基づいた共通認識があるからだ。行政に対抗するための不完全な論理武装を解いてしまえば、連協の姿勢は市民の声を反映した、説得力のある運動となり得る。
このレポートでは、“はまっ子”問題に対する連協の運動方針と対抗論理を分析することを通して、現在の連協の限界を指摘し、学童保育の所期の目的を達成する上でより有効な、新たな運動の方向性を検討したい。その過程で、様々に語られてきた「“はまっ子”と学童保育の違い」を、これまで連協が固執してきた対行政上の「公式な違い」(タテマエ)と、人々の実感と経験に根差した「非公式な違い」(ホンネ)に分類し、「非公式な違い」を言語化することを試みる。また、そのために不可欠な「学校と生活の場の違い」についても、「学校領域」「生活領域」というキーワードを提示し論じたい。そして最終的に、これらを踏まえて、運動体としての新しいレトリックを提案することを目的とする。
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