結論――新しいレトリックの生成




 学童保育は、「子どもにとっての生活の場・親にとっての子育ての場」であり、人々の「生活領域」を担っている。子どもたちの、学校的管理性から離れて、自発的にのびのびと遊び、生活する放課後を守るため、また、親たちが働きながら援助し合い、豊かに子育てしていくためには、“はまっ子”ではなく学童保育が必要である。
 これらを踏まえて、連協のレトリックとして私が提案したいのは次のことである。

「子どもにとって、教育的指導の対象空間である学校と、保護的指導の対象となる生活の場は、分離していなくてはならない。――よって子どもたちが生活を営む学童保育は極力、学校施設の中で行われるべきではなく、また、“はまっ子”が学童保育化していくことは、学校による子どもたちの生活領域の侵害であり、望ましくない」

もちろん、この主張は、一つの立場からの提案に過ぎず、広い合意を得られるものとは考えていない。しかし、それでも尚これを提案する理由は、一つには、現在の状況を分析し、今後の運動の展開を考えたとき、この他に説得力ある論理があるとは思えないからである。もう一つは、言うまでもなく、これが危機的状況にある現代の子どもたちの「最善の利益」と、「働きながら豊かな子育てをしたい」という親たちの願いとを同時に満たすことのできる、当事者たちの経験・実感に根差した論理だと考えるからだ。
横浜の学童保育は開設場所に窮しており、立ち上がり当初から公的施設の利用、中でも小学校の空き教室の利用を行政に対して切実に要請してきた。「学校施設の中で学童保育をやる」ことを、連協自身が求めてきた歴史があるため、“はまっ子”が登場した時に、行政に対して「学校領域と生活領域の分離」という反論を成り立たせる土壌はなかった。連協が成し得た反論は、ただ「学童保育には許さなかった学校施設利用を、“はまっ子”に対しては簡単に許すとは、両事業に対する行政の援助の仕方は不公平だ」ということのみであり、これが結局、突き詰めていくほど論理的に矛盾を来し、親たちとの亀裂をあらわにしていった。
しかし、99年度から、連協はそれまで運動の前面に掲げていた「学校施設の利用」という要請を取り下げ、「公共施設の利用」という文句に変えた。これは、「学校の中で学童保育をやれば、子どもが今までのようにのびのびと過ごすことができなくなる」という親の意見や、「校長やPTAの顔色を伺いながら保育内容を調整しなくてはならないので、規制が増える」という指導員の意見を汲んだものである。学童保育運動が始まって以来、初めて「学童保育は生活の場であり、それは学校とは相容れないものだ」という主張の片鱗が示されたのではないかと感じる。
「学童保育は、学校施設以外の開設場所の保障を求めていく」という運動方針の転換は、学童保育運動が「働きながら豊かな子育てができる環境を整備する」という所期の目的を達成するためには、必然であると感じるのだが、どうだろうか。もっとも、学童保育は深刻に開設場所に困窮しており、学校施設の利用が一時的に必要とされる場合もあることは事実である。その場合は速やかに利用が許可されるべきであって、この限りではないが。
上に示したレトリックを掲げることによって、私たちはようやく「“はまっ子”・学童保育の一本化」に抗し得る論理的根拠を得ることができる。横浜市の長期計画「ゆめはまプラン」に則って、“はまっ子”は2002年までには市内の全小学校で開設される予定である。それは学童保育にとって“はまっ子”に組み込まれる最大の危機になるかもしれない。それを防ぐために、このようなレトリックは戦略的に有効であろうと思われる。また、この方法は、親たちの願いに促し、子どもの権利を守る主張に基づいているため、運動体内部の人々の連帯を可能にするものと考えられる。

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