文教政策者たちのハビトゥス

戦後教育政策の再検討−

小熊研究会 最終論文

石野純也 総合政策学部3 79700729

 

 

1.       序論

 

この序論では、本論文の研究テーマ、仮説、研究方法、そしてその研究の意義を示していきたい。

本論文のタイトルが「文教政策者たちのハビトゥス」となっていることからもある程度明らかなように、ここで私が主として分析の俎上に載せるのは戦後の教育改革政策の政策立案過程である。戦後の教育の歴史を顧みると、戦後間もなくの米国教育使節団や教育刷新委員会に代表されるような機関、団体から、臨時教育審議会の様な機関に至るまで様々な政策を立案してきた。そして、それらの文教政策は時にはマスメディアから、時には日教組から国家主義の教育として叩かれてきたことは周知の通りである。しかしながら、そういった政策の是非はともかくとして、それは確実に教育実践の現場に採用されてきているのである。例えば、現在でも声高に主張されている情報処理教育などは臨時教育審議会の時代に既に懸案の事項となっていたしゆとりある教育というスローガン[1]も現在でこそ当然のごとく唱えられているがこれも今になって突然のように現れてきた概念ではなく臨教審の時代あたりから何度も審議されてきたことである。この様にして考えていくと、教育政策を審議している官僚や政治家、教育家達が盛んに口にする[2]「国家のための教育」といった類の文言をそのまま文字どおりに受け止めとも良いのだろうか、という懐疑の念を抱かざるを得ない。彼らの実現しようと訴えている政策と彼らが当然のように用いている「国家のため」というタームには根本的に相矛盾するようなものではないのだろうか。そうだとすると彼らが自らの教育政策を正当化している「国家のため」という大上段に構えた教育の目的は一体何なのだろうか。私の仮説は、これらの国家主義的なボキャブラリーは彼らの望む政策を実現するために半ば無意識的に発せられたものではないだろうか、というものである。換言すると、上述したような国家主義的なボキャブラリーは文教政策担当者たちにある程度「ハビトゥス」[3]の様なものとして備わっているいるのではないか、ということである。

以下の本論では上記の仮説を実証的に検証していきたいと考えている。実証的に検証するといっても、言葉が半ば無意識的に発せられているかどうかなどということはどの様にして判別するのか。史料としての音声データでも残っていればハビトゥスとしての分析はより容易になるとは思うが、残念ながら資料として残されているのは審議録、議事録や法案、上申書の様なペーパーメディアのものだけである。そこで、それらの資料の中で議論されている政策と国家主義的なボキャブラリーが如何に関連していないか、ということを論理的に突き詰めていきたい。また、彼ら政策担当者達が提案した政策が、提案当時は国家主義的な語彙に塗れていたとしてもそれが教育現場で採用された時に国家主義とは無縁のものとなって受容されていたとしたら、そこで用いられていた語彙は、彼らの普段の口癖として特に深い考えもなく全く無意味に近く用いられていたか、その政策を実現させるための戦略として用いられているような気がしてならない。とにかく、その様にして以下の章では分析を進めていきたい。

次に、この研究の意義を述べていきたい。本研究は、上記の分析を施すことによって一体どのような意義があるのか。私は、本研究の意義は、従来、国粋主義的というただそれだけの理由で拒絶されてきた政策も上記の視座から見直してみればそれなりに評価出来るものは評価することが出来るのではないだろうか、と考えている。また社会科学としての教育分析を顧みると、教育を国家のイデオロギー装置と見なすアルチュセールの思想や、再生産を黙示的に行っている機関として描写しているブルデューの社会学のような見方も確かに一面では成り立っており説得力を有しているのだが、その教育が国家によって立案、検討される過程ではそれほどその様な教育の側面、つまりイデオロギー装置としての教育[4]や再生産を行うための機関としての教育[5]、が意識されいるとは思えない、と私は考えている。本論文にはその様な、従来から存在する教育観をある程度相対化したいという目論見がある。私の力量でそれらが達成されるかどうかは読者の判断に委ねたいが、上記が本論文の意義である。

本論に突入する前に、若干ではあるがここまでにたびたび本論文で用いられてきた「ハビトゥス」という用語の説明、本論文上の概念の限定を施しておきたい。フランスの社会学者、ピエール・ブルデューによるとハビトゥスとは「(部分的あるいは全体的に同一性をもった)知覚、思考、評価、行為のシェーマ」[6]であり、また「構造の所産であり、慣習行動の生産者であり、構造の再生産者」[7]である。つまり、ハビトゥスとは人間の思考する方向性の前提となっているものであり、その前提は人間の慣習行動にまで影響を及ぼし、またその思考は(相互作用などの結果)自らを再構造化する、つまり自己変革していくようなものである。ピエール・ブルデュー、ジャン=クロード・パスロン『再生産』(藤原書店、1991)に従うと、例えば、言語の用い方というものがハビトゥスというものの概念を端的に示しているものの一例、と言えるだろう。ブルデュー・パスロン(1991)では、具体例として「言語をあやつる様式に関するもろもろの指標(正確さ、なまり、言葉づかい、話しぶり、等々)」[8]や「教授への関係の様式とか、態度、しぐさ、服装、化粧、身振り」などが挙げられる。また、それらもろもろのハビトゥスは階級によって異なっており学校によって求められるものは上流階級のハビトゥスである。従って学校という機関は上流階級の学生に常に有利に働きその生産諸関係を再生産する方向に作用している、というのがブルデューの再生産論の大まかな議論である。本論文では再生産論はその照準から外れているので議論をハビトゥス論に戻そう。上記の様なハビトゥスの差異はブルデュー、パスロン(1991)によると文章表現のテストにも容易に表象される。ブルデュー、パスロンが行った調査の中に語彙定義のテストがある。このテストの中にはいくつかの難解な抽象的言語に混じって「ジェロファジー」というあたかも専門用語のようだが実際には存在しない用語が載せられており、それに対する定義も求められている。その問いに対して、例えば民衆階級、パリ出身の男子学生は「自分は定義を知らない」[9]等いったように非常に簡明であり尚且つ正直な答え方が典型的であるのに対し、上層階級、パリ出身の女子学生は「もしgerogerasすなわち老人から来ているならば、gerophagieとは、ある集団X内の高齢者成員への特別な嗜好へとむけられた食人の一形態を指す」[10]といったように複雑且つ抽象的な言語を文字どおり駆使して定義するのが典型的なのである。ここで重要なのは、その内容ではなく(もともと存在しない語彙なのだから)言語の組み合わせによって醸し出される雰囲気、晦渋さでありそれ故に、上層階級の学生は他と自らを差異化しているのである。さて、ここまで述べてきたように、ハビトゥスが言語活動にも関連しているということが分かった。それでは次に、上述した教育政策担当者達の国家主義的な発言云々の件と如何なる関係があるか、ということの説明を試みたい。パリの上層階級出身の学生がそのハビトゥスを身に付けていることによって試験を楽々及第点を得ることが出来たりその他の学校生活を謳歌できたりしたように、教委政策を担当している者たちもあるハビトゥスを身に付けていることによって法案がスムーズに通ったり意見が容易に認められたりするような恩恵があるように思える。例えば、議員が日教組の成員の如き態度で教育政策を立案したらその案がどうなってしまうかを考えてみればこのことは容易に理解できるであろう。また、ハビトゥスが上述したように「構造の再生産者」、つまり「構造化する構造」であるということはある決定的な時期においてハビトゥスは転換する可能性がある、ということである。私が、散見した限りでは、教育政策担当者達の頻繁に用いるボキャブラリーもまたある時期を境に徐々に移り変わってきていて、最近では国家主義的側面をそれほど強くは見せていない。後に分析を加えていくことになるので、ここでは詳述しないが、教育政策担当者達が頻繁に用いる「国家」と言った類のタームはハビトゥスとして用いられている可能性もあることをここでは指摘しておくに止めておく。

以上が序論であり、私の研究のテーマ、仮説、方法、意義、そしてそれがハビトゥスとどう関係があるのかということをある程度開陳してきた。以下の章では具体的な分析に踏み込んでいきたい。

 

 

2.       戦後の教育政策から逆コースの時代までの概略的歴史

 

1945815日、日本はポツダム宣言を受諾した。長らく続いていた第二次世界大戦に日本が敗戦したことが決定した日である。この日を境に日本の教育政策も所謂GHQが言うところの民主化の方向を辿ることになる[11]GHQはアメリカから教育の専門家の集団である使節団を招聘し、報告書を提出させることとなった。そしてその使節団が1946年にGHQに提出したのが有名な「第一次米国教育使節団報告書」[12]である。この報告書には理念的なことを中心にカリキュラムについてや国語国字問題、それに教師の育成についてまで、教育についての本当に様々な事柄が幅広く日本側に提案されている。そして、その米国教育使節団の理念を教育の現場に反映させていくためにGHQは日本政府に「日本側教育家委員会」を組織するように勧告しそれが組織された。しかしこの「日本側教育家委員会」は組織されてまもなくの19468月に「教育刷新委員会」に改組されることとなる。「日本側教育家委員会」がこれほど早く改組されてしまった理由は本論文の趣旨から外れるので簡単に述べるに止めておくが、一つは「日本側教育家委員会」の人選の問題であり、もう一つは「日本側教育家委員会」とGHQCI&ECivil Information and Education Section民間情報教育局)との連絡が上手くいっていなかったというものが挙げられる[13]。前者は、「CI&Eから過去の極端な国家主義的教育の『元凶』と見なされていた文部省行政官・元担当官や公職追放該当者を含めるような、日本側の安易な人事選考の態度が、占領軍からは先ず批判の対象となっていた考えられる。」[14]といったことであり、後者は、「日本側教育家委員会」の報告書も実は「米国教育使節団報告書」とほぼ同時期に文部大臣に提出されていたのだがそれはCI&E側には全く知らされていなかった、といったような事例に端的に示されている連絡の不十分さである。とにかく、その様な事があって「日本側教育家委員会」はGHQCI&Eにはあまり気に入られなかったようである。そしてその結果として誕生したのが「教育刷新委員会」である。「教育刷新委員会」「教育刷新審議会」の改革提案は現在では一定の評価を得るに至っている。例えば「教育刷新委員会」「教育刷新審議会」の改革提案に基づいて「六三三四制の学校体系、教育行政の地方分権化、ことに教育委員会制度の導入[15]、社会科の誕生をはじめ、新しい教育課程、教科書の発行・採択制度がつくられていった。」[16]つまり、「教育刷新委員会・審議会」の提案は現在我々が受けているような教育の骨格を形作っているのである。そして「教育刷新委員会・審議会」は195266日についにその任務を終え、中央教育審議会に「これら(教育刷新委員会)の教育改革の基礎の上に、民主的教育の完全な実施と、広く国民文化の向上をはかるために文部省に恒常的な諮問機関として」(括弧 引用者)[17]その任を引き継がれていくこととなる。因みに中央教育審議会は後に「教員の政治的中立に関する答申」や「期待される人間像」など経済界の要望を強く反映しているように見える各種答申を出していくことなる[18]。以上が、戦後の「米国教育使節団」から所謂「逆コース」と呼ばれる時代までの大まかな歴史的な流れである。以下には「教育刷新委員会・審議会」がどのような議論をしていたのかをその議事録から引用することによって具体的に示し分析していきたい。

 

 

3.       教育刷新委員会・教育刷新審議会

 

「教育刷新委員会・審議会」で議論されていた当時の教育の理念はどのようなものだったのか、またそれはどの様に語られているのだろう。「教育刷新委員会」の第2回、第3回の総会では「教育の基本理念、義務教育と教育制度、地方分権化と教育行政、私立学校、教員養成と教員再教育」など、主として理念的、枠組み的なことが議論されている。それでは、以下にその議論を見ていくことにしよう。

まず、この審議会の議論を、時代状況というフィルターを取り除いた視点で見てしまうと、大変国家主義的なものに感じられてしまう。例えば、「教育刷新委員会第二回総会」(昭和21年9月13日)では、

13番(羽渓委員)「(前略)勿論既に新教育は個人の人格の完成とか、真理と平和とを好愛(ママ)する人物の養成であるとか、目的は掲げられて居りますが、それだけでは余りに抽象的、又他面から見ると戦時中の軍事主義、愛国主義の反動といったように受取られて居る側も見受ける。殊に我が国伝統の忠孝という道徳を此の新時代の教育に更に活かして行くということに付ては、大多数の教育者が惑うて居るのであります。」[19]

という発言や、

19番(渡辺委員)「(前略)是は米国教育使節団の報告書の中にも明かに言って居られる。忠誠愛国というものが決して悪いことではない。」[20]

  5番(芦田委員)「(前略)それから国民教育は必要だと思う。国民教育をやると言っても、今迄の師範教育を受けたような者に自分の子供を任して置いては一人前になれる筈がない。」[21]

といった委員たちの発言が散見される。また同様に「教育刷新委員会第三回総会」(昭和21年9月20日)においても、

23番(竹下委員)「私の申し上げることは、教育の根本理念という言葉に当嵌るかどうか疑問に思って居りますが、結論を申しますれば、日本国民としての矜持を十分保つような点を入れて戴きたい。敗戦になりましてからの状態を見ますと、国民としての、日本民族としての矜持というものが非常に失われかかって居る、ということを憂えざるを得ないのであります。」[22]

といった発言が見られる。時が多少前後してしまうが、第24回国会衆議院の文教委員会公聴会においても教育刷新委員会の副委員長である南原繁は、

「何よりもまずわれわれ国民の一人々々は、ほんとうに自由と責任とを持って、人間の尊厳を尊ぶ、そういう国民によって組織された国家が世界のほんとうの文化と平和に寄与するものと思う。そういう国であって、初めて心から国を愛し、愛国心が油然として青少年の間にわくのである。これが新しい日本の戦後の教育改革の使命であると思う。」[23]

と述べている。上に引用した発言に端的に示されているように、どの委員も「日本国家」や「日本国民」又は「日本民族」といったものの重要性を説いていたり、そのための教育理念を訴えたりしているのが分かるであろう。そして、彼らがその様な発言をする根拠の一つに米国教育使節団報告書が挙げられる。例えば上に引用した渡辺委員の言葉の中にも「米国教育使節団報告書の中にも…(後略)」とあるように、彼は明らかにそれ以下の発言の根拠を米国教育使節団報告書に求めているし、既述の羽渓委員も自らの「米国使節団に協力されました日本側教育委員会の報告に教育勅語に対する御意見が出て居りました。(後略)」とあるように彼の教育勅語をもう一度新教育の理念の中に盛り込んでいくという主張の補強するために日本側教育家委員会を持ち出し、その委員会が米国使節団に協力していたとすることで、更にその主張を正当なものにしようとしている努力が伺える[24]。また同じく羽渓委員が

「米国教育使節団の報告書の中にも、新時代の教育と雖も民族伝統の特殊な文化と切離してはならない、切離すことは出来ないという意味合いことが再三入って居ったように記憶致します。」[25]

と述べていることも注目に値する。このように、戦後すぐの時期には戦中の反動から少々言いにくいような内容のことも、米国教育使節団の報告書に書かれてあればそれを根拠に堂々と発言できてしまうようである。恐らく、彼らが根拠にしている米国教育使節団報告書の中の文言は第1章、日本の教育の目的および内容に記載されている、

「忠誠心と愛国心がいかなる国家においても望ましくない、と言うのではない。」[26]

のあたりであろう。以下は若干私の推測が交じってしまうのだが米国教育使節団はアメリカの様な民主主義が実現された国家であれば上述したような忠誠心や愛国心は望ましくないわけではない、と言いたかったのではないだろうか。そうだとすると、これから民主主義的な国家を再建していこうとしている終戦直後という時代に、忠誠心だの愛国心だのを日本の教育に盛り込むか否かを米国教育使節団報告書に基づいて議論することは本末転倒と言えるのではないだろうか。

しかしながら、それだけの理由で彼ら全員をナショナリストと断定してしまうのは勇み足である。彼らには、他に実現にこぎつけたかった政策があったのではないか。そうでなかったら、教育刷新委員会・審議会の議論を下地に戦後教育の骨組みなど作られようがなかったし、もし本心から愛国新教育の様なものの実現を願いそれに向かって邁進していたとするならば日本側教育家委員会の様にGHQCI&Eの逆鱗に触れそれと同様の道を辿り改組されられてしまう恐れもあったからである。そう考えると、教育刷新委員会の成員が「国家」「国民」「日本民族」の様な単語を頻繁に用いるのは上述したようなハビトゥスとも考えられるしそれらの政策を実現させるためのある種の戦略でもあるような気がしてならない。仮にそれらがハビトゥスだとすれば彼らが発している国家主義的に聞こえる単語には実質的な意味内容は伴っていないわけであるから、彼らの主張の根幹と矛盾をきたしている可能性がある。この事は教育刷新委員会第三回総会での当時の文部大臣、田中耕太郎の発言にも表れている。田中は教育の理念についてその当時の問題を逐次的に挙げていき、最後にその他の問題を述べるところで体育教育の問題に関しては次の様なことを発言している。

「体育に付きましては、人格の完成という教育の目的の中に織り込むに致しましても、体育の問題は人格という中には或は入らないように解される惧れがありますから、特にそれを織込んだ方が宜しくはないかという風に考えて、教育の目的或は理念とも申すべきものと致しては真理の探究と人格の完成が目的であり、民主的、文化的な国家及び社会の成員としての責任を果たすことができる心身共に健全な国民を育成するということを一応書いてみたのであります[27](傍線部 引用者)

つまり、体育は真理の探究とか人格の完成といったその当時決定しかかっていた教育の目的に収まりきらないので一応上記の様な目標を書いた、ということである。真理の探究とか人格の完成とかいったような曖昧模糊とした目標にはすっきりと収まりきらないが何とかして実現させたい項目を、国家や健全な国民といったものを一応、大上段に翳すことで実現させようとする試みが見て取れる。一瞥するだけであると国家主義的に見えてしまう委員たちの発言の真意も実はこの様なところにあるのではないだろうか。それを確認するために、以下に詳細に分析していきたい。

それでは、彼ら教育刷新委員会の委員たちの発言をより掘り下げて分析していきたい。手始めに、上に引用した芦田委員の発言を以下に引用したい。

5番(芦田委員)「教育すべき理念と思想がある限り、材料を集めさえすれば出来る…それならばどうして子供を育てるかということになるならば、自分の子供を育てる積りで他人の子供を育てればそれで教育は出来る。」[28]

と述べている。それではこの発言は、その前に引用した、芦田の「国民教育は必要だと思う…」という発言にどういう風に繋がっていくのか。芦田は、戦後の教師はどうあるべきかという問いを立てその回答として「おやじ教育」というものを提唱している。そして、国民教育について述べる前まではその「おやじ教育」とやらについて、とうとうと語っているがそれに一段落つくと取って付けたように「それから」と述べ、国民教育について語り出したのである。その結果芦田の発言からは国民教育の意図が伝わってこないし、芦田自身国民教育というものの内実を全く語っていない。それに加えて芦田自らが述べているように、彼は教育の専門家ではないので「我々素人の教育観」という風にあくまでも非専門家の立場から発言している。それらを考慮に入れると、彼は国民教育というものを漠然と考えていたきらいがあるのではないだろうか。芦田はあくまでも戦後の教育方法を論じたかったのである、と考える方が彼の主張を理路整然と捉えることが出来る。

次に、他の委員の発言にも注目してみよう。第3回総会で、戸田貞三が前述した羽渓委員の発言に対して

「そういうことを教育の理念とする場合には、何故我々はそういうことが極めて大切であるか根拠を明らかにしなければ…」[29]

と述べている。そして彼の挙げる理由は、

「ネクストゼネレーションは単独個人ではあり得ない。これは常に社会人であり、協同生活をなして居る人間生活に相応しい資格を持つものでなければならぬ、即ち協同生活、団体生活をなすのに最も相応しい素質を養って行くのが教育の根本の目的でなければならぬ。」[30]

という発言に要約されている。次世代は協同生活を重んじそれをするための資質を教育で養っていかなければならない。そして、それを達成するために教育の根本的な理念は道徳的なものを強調しなければならない。大まかに要約してしまうと羽渓から戸田への議論の流れはこういったようなものである。確かに論理としては筋が通っているし、このようにまとめてしまうと全く国家主義的な香りすら感じられない。ただし、彼らは社会を国家と同等なものと想定し[31]、道徳的なものの典拠を忠孝の思想に求めているので、上述したように彼らの議論を一瞥しただけでは彼らが非常に国家主義的なことを議論してしまうように読めてしまうのである。戦後直後の状況を考えると、彼らが、荒廃した日本をどうしても建て直していかなければならないという使命に駆られて社会=国家、倫理=忠孝といった論理展開で議論をしてしまうことは十分に考えられることである。また、彼らが日本の今後の教育の命運を掌握していたという事実も十分考慮に入れるべきであろう。その点で彼が社会を語る時に国家という語り方になってしまうのも仕方がないのかもしれない。しかし、上記のように彼らの真意は、利己主義が跋扈する状況、荒廃が激しい社会に対して何らかの対策を施す、といった所にあるように思えるのでここで彼らが言う「国家」というタームはあまり内実が伴ったものではないと判断するのが適当であろう。

また、学校の科目に対する総括的な意見を述べている佐野利器も

「唯、国の為になるとか社会の為になるとかいうことでなく、如何なる国家如何なる社会に対してなすべきかという点の見透しの上から基本的なものが選び出されて来る。」[32]

ということを提唱したすぐ後に

「その基本的なものが選び出されて参りますれば、学校の教科目というものは非常に簡素化されて参りまして、従ってそこに力を入れることが出来ますから、そういう基本的なものを学生生徒にしっかり身に附けてやることが出来るだろうと思います。」[33]

と言っている。彼の議論の全体を見渡してみると、再三再四、学校で扱われる学科の簡素化が訴えられている。つまり、実利的な教育ではなく基礎的な教育をしっかり行うべきである、という主張である。これは現在でも頻繁に観察される事であるが、基礎的教育の強化の様な事を主張している人が、それに対しての理由を求められると何故か「国家のために」とか「技術立国再生のために」とかいった語り方をしてしまうのに非常に類似している。こういった主張をする人たちが本当に国家のことを第一に優先して基礎的教育の重視を訴えているかといったらそれは疑わしい。彼らの論法からすると本来なら「国家のため」の手段である基礎教育の充実という図式になるはずなのだが、どうも基礎教育を充実させるための手段としての「国家」が出てくる様に思えてしまうのは邪推であろうか。そうだとすると、佐野もまた同様に学科の簡素化を主張するための手段として「国家のために」とか「社会のために」などいった理由付けを行っているのである。ここでも国家主義的に見えるタームがハビトゥス的に用いられているのである。

城戸幡太郎の議論はどうだろう。彼の議論も全体を俯瞰すると分かることだが、城戸もまたその主張の根幹に「中等教育の機会を拡大させる」というものがあることが分かる。この事は城戸の、

「中等教育を全国民に普及して行くという立場を取ることを教育の理念として考えて戴きたいと思うのであります。」[34]

という発言に端的に表れている。しかし、その様な城戸もまた、

「殊に民主主義的な国家を作るということになりますと、政治というものは輿論の政治になります。政治の文化的水準というものは輿論の如何に依って決る訳でありますから、教育は矢張り輿論を形成し指導して行くということに考えて見ますと、どうしても国民の教育は成人になる迄…」[35]

という様な事を言っている。彼の議論は既述の羽渓や佐野とは若干異なり民主主義的な国家の形成、世論の政治、教育、という論法を取ってはいるが民主主義的な国家も近代国民国家のバリエーションと見なすならば羽渓や佐野たちと同様その枠内に収まってしまっていると言わざるを得ない。しかしながら、城戸の教育研修所長という立場や教育刷新委員会という場を考慮するとこの発言も佐野のそれと同様に世論の形成のための教育という文言はあくまでも手段であり、どの様に教育で世論を形成していくかといったところまでは考えてはいないし事実彼はそういった類の発言は一切していない。つまり、世論の形成するための教育という概念は佐野からすれば自らの議論を補強するためのレトリックに過ぎないのではないだろうか。断言してしまうには佐野の他で発表している教育論のようなものを検討しなければならないだろうが、ここで言えるのは上記の様にレトリックとして国家だの政治だのを持ち出すのはこれもまたハビトゥスである可能性が否めないのだ。

彼らは表面上は一見すると国家主義的に見える語を用いることもあったが実際は新時代の教育を模索していこうと必死であったのだと思う。それは、教育刷新委員会の委員長である阿部能成の第3回総会の締めの言葉からも伺える。阿部は当時日本が抱えている教育の問題を一通り延べ挙げた後に以下のように言っている。

「(前略)我々は中央行政の面、或は教育の持って居る使命というものから考えて見まして、教育を少しでも良くするというような方向に向かって進まなければならぬものであると考えて居ります。」[36]

と。これが阿部の、そして教育刷新委員会の委員たちの本音だったのではないだろうか。

この様に教育刷新委員会は様々な事柄を議論し、1947331日に教育基本法と同時に学校教育法が公布されこれによって旧学制から6334制を基本とする新学制に移行した。現在、我々が受けている教育の根幹はこの時点で出来上がっていったのである。その後も例えば1948年教育委員会法や1949年の社会教育法などをはじめ教育刷新委員会の建議を参考に次々と教育関連の法律が制定されていった。そして既述のように1952年教育刷新審議会はその任務を終え中央教育審議会にその役目を委譲した。それと時を前後して所謂「逆コース」の時代に突入していくこととなる。「逆コース」とは天野文相が天皇を道徳の中心におくといったことを定めた「国民実践要領」[37]を提出し、その直後に制令改正諮問委員会が「国力と国情に適合した教育制度」の確立として、「画一性打破・実社会の要求」を理由に、中学校からの複線化、職業教育の導入、教員養成大学の改組、国作成による標準教科書、公選教育委員会の任命化、文相の権限強化、教育行政全般に渡る単一最高の審議機関設置、大学研究費の重点的配分等、中央権力の管理強化による教育政策反動化基本路線の確立を目指した動きのことをいう[38]。私が検証してきたように、教育刷新委員会は国ための教育とは言いつつもその真意は別のところにあったのだが、この逆コースの場合は国家のため教育といった思想が政治の表舞台にまで姿を現すことになった、と言えるのかもしれない。その後、教育行政の諮問行政という性格を巧みに利用して経済界の答申、例えば、「高等教育における産業教育のありかたについて」(中央産業教育審議会)や「専科大学制度創設に関する要望」(日経連)等が教育政策に強い影響を与える。その背景にあったのは経済面では神武景気、岩戸景気と続く日本の急速な成長、政治面では55年体制の確立で政局が安定したことなどは言うまでもないだろう。高度経済成長に伴う学校数の増大。学校歴社会の進展。そしてそれに伴った進学熱の上昇。その様な教育の事情を背景に、いじめ、登校拒否などの問題が徐々に世間に認識され始める。そして1984年、「臨時教育審議会設置法」が公布されることとなる。以下の章では臨時教育審議会(臨教審)に焦点を絞って議論を進めていきたい。その際に、教育刷新委員会では自らの教育論理を正当化するための手段であった「国家」というタームがどのように変容したのかそしてそれは何故なのかを検証していきたい。

 

 

4.       臨時教育審議会

 

1984年、既述の通り当時の中曽根総理大臣の判断で臨時教育審議会(臨教審)が発足した。これは、「学校や教育制度そのものが『制度疲労』をおこしているのではないか、という認識」[39]が広範に広がったための教育改革である、とされている。しかし、臨教審はその委員の構成の面や、その答申に対して当然批判があったことも事実である。例えば従来から文部省の政策に対して批判的である日教組は、

「憲法・教育基本法に背反する臨教審には、反対であり、委員の選出についても、いっさい関知しない立場をとってきた。委員構成は、国民的合意を求められるものとはいえない。父母の代表は一人もなく、教職員の代表も付け足しにすぎない。それに比して財界・官界の代表は十人にのぼり、さらに首相の私的諮問機関である文教懇メンバーや政策ブレーンといわれる学者・文化人が多数を占めている。とくに、特定政党の機関紙に常に登場し特定利益の代表として活動してきた学者・文化人が含まれていることは見逃すことができない。」[40]

として、当然のごとく臨教審に対しては反対の意を表明していた。確かに臨教審の岡本会長が

「基本法の目的の中にある『平和的な国家』『心身ともに健康な国民』という言葉に、極端な国家主義でなく、バランスのとれた国家を大事にする、という新しい意味の愛国心がこめられている」[41]

等といっていることを鑑みても上記の日教組の様な反対意見が噴出しても無理なからぬことではないかと思う。

それでは、臨教審の内部でどの様な議論が為されていたのか。残念ながら今回の論文を執筆するに当たってその速記録などが手に入らずその内情を詳しくは分析することは出来ない。しかしながら第一次答申から第四次答申(最終答申)までと、臨教審委員の新聞インタービュー等からある程度その雰囲気をつかむことは出来ると思うので、それらを用いて分析を進めていきたい。まず、臨教審の目指していたものは個性化、多様化、国際化、情報化、の四点に概ね収斂している、ということを把握しておく必要がある。この四つのキーワードは一見するだけでは、耳ざわりも良く抵抗感なく受け入れ易い。但し答申を詳細に読んでいくと、これら四つのキーワードは条件付きであることが分かる。例えば、第四次答申では個性の尊重とセットになって

「個々人は、一人で存在するものではなく、国家社会の形成者としての責任を果たす自覚が求められる。」[42]

といった文言が付されているし国際化について述べているところでも、

「日本人として、国を愛する心をもつとともに、…」[43]

とした後に、

「国旗・国家のもつ意味を理解し尊重する心情と態度を養うことが重要であり…」[44]

とまで述べている。「個性化」や「国際化」の様な華々しい言葉の元で、「良い愛国心」が唱えられる構図は「米国教育使節団報告書」を根拠にして「良い愛国心」を唱えるのと類似した構造を持っている。それでは、「国際化」を例にとって実際の文教政策面でこの答申がどの様な影響を与えたのか、そしてその政策は臨教審の答申が唱えるように国民国家の形成者たる国民を育成するためのものなのか。まず臨教審最終答申後の1989年の学習指導要領の改訂で外国語(英語)の週あたりの授業時間数が一時間増加させられた。「またコミュニケーション重視ということで外国語指導助手として、アメリカなどから3800余人の『ネイティブ・スピーカー』を招聘し」[45]た。その他、大学の「国際関係」学科の創設、学術・文化交流等々、枚挙に暇がない。これが、臨教審のいう国際化の実態である。国際化といってもそれはほぼ外国語教育の強化に近い意味で理解しても間違いはない。そうだとすると、英語の授業時間数を増加させることと愛国心を持つことは相関関係にあることになってしまうが、これでは妄想の域をも越えていない。むしろ、留学生総数の増加や帰国子女数の増加など実際的な要因が教育改革の必要性を迫り、臨教審を動かし、それが政策として結実した、と見る方が現実的であろう。その事は、臨教審の委員の新聞インタービューからも伺える。例えば、水上は朝日新聞の「教育とは」という題材のインタビューで

「自分の頭で考え、自分の意思で行動し、自分の力で未来を切り開き、つかみとっていく。そういう生きる力を、どの子にもきちんと身につけさせてやるのが義務教育ではないか」[46]

と述べている。また、慶應大学塾長や日本私大連盟の会長を歴任した会長代理である石川忠夫も

「戦後も四十年過ぎて、社会は複雑で流動的で不透明になっている。こうした社会はまだ何十年も続くし、そこで必要なのは、自分の頭でモノを考える力だ。知識習得型の教育は日本の近代化には意味があったが、これからはそれだけでは役に立たない。大きな変革が必要です」

等と、述べているように臨教審委員個人個人の言葉を見ていくと特に国家主義的なものは感じられない。しかし、例えば自民党の政調会長は

「教育改革は六・三・三制改革に終わらせてはならない。戦後、国民の秩序は乱れてきており、教育勅語の教える道徳律を復活させて、精神の秩序をとりもどすべきだ」[47]

「歴史と伝統にもとづく民族の心をとりもどし、戦後築きあげた国際性と合理性の上に、新しい理想像を築くべきだ」[48]

等といった臨教審の答申に似た発言を繰り返している。また、臨教審を発足させた中曽根総理大臣本人も臨教審発足の挨拶の中で

「教育改革は、我が国固有の伝統文化を維持発展させるとともに、日本人としての自覚に立って国際社会に貢献する国民の育成を期し、普遍的人間社会の生活規範を身につけながら、高い理想と強健な体力、豊かな個性と想像力を育むことを目標として行われるべきものと考えます。」

と述べている。

臨教審が内閣直属の諮問機関であったことや、この様な中曽根の政治的ポジションなどを考慮に入れると臨教審の答申が上述したもののようになってしまうのも仕方がないのかもしれない。しかし、それが、今回の論文の目的であるハビトゥスであるかどうかは今回の研究で収集した資料だけからは残念ながら何も言えない。

 

 

5.       結論

 

以上を持って分析とかえさせていただく。今回の論文では教育刷新委員会・教育刷新審議会についてはある程度資料が集まりそれなりに分析をすることが出来たが臨教審に関しては結果としてそれが十分には出来なかったことが心残りである。ここで、上記の本論から得られた結論をまとめておきたい。

教育刷新委員会の議論の中では、「米国教育使節団報告書」や「国家」などのタームが散見されたが、それはハビトゥスである可能性が高いこと、つまり委員たちも無意識的にその深い意味など特に考えずに用いている可能性が高い、ということである。委員たちの本音としては教師の育成であったり基礎的な教科の教科であったりと実際的な提案として表れてきている。もし私が「では、何故その政策を実施しなければならないのか」と問われたならば教育刷新委員会の委員たちと似たような答え方をしてしまう可能性は否定できない。つまり、「国家のために」や「社会のために」というタームはそれを無意識的に正当化するために用いられているのではないか、というのが私の出した結論である。

次に、臨教審であるが再三繰り返すことになるが今回の論文ではその分析を満足に行うことが出来なかった。しかし、今回の論文で分かったことは、臨教審で議論された項目が実際の政策に移される時には、当初は国家主義的なタームと結びついた「国際化」や「個性化」といった言葉が、国家主義的なタームとは切り離された形で政策化していったということである。臨教審についてはよりいっそう調査をして議論を精密にしていくことが必要であることが痛感させられた。

以上の結果から序論で述べたように、議論や答申といった形のもので表れている国家主義的なものもそれが実際の教育政策として結実していく時にはその様な国家主義的な色彩は薄らいでいく。上述のように教育が「再生産」を行う機関であったり「イデオロギー装置」であることは一面では確かなのであるが、教育政策を担当している政策家たちがその政策を作っていく過程ではその様なことは決して意識してはいないのではないか、と言うことが出来る。

以上で、序論で取り上げた問いに、ある程度答えることが出来たのではないか、と考えている。以上を持って「文教政策者たちのハビトゥス」とかえさせていただく。今回の論文の内容には必ずしも満足してはいないが、とりあえずでも、この様な形で論文を執筆してみたのは今後の研究に向けての良い経験となったことは確かである。今回、その様な論文を書く機会を与えて下さった小熊先生、研究発表の際に様々なアイディアを提起してくれた研究会の仲間にはこの場をかりて感謝の意を表したい。

 

 

参考文献

『教育刷新委員会 教育刷新審議会 会議録 第一巻(総会1)』(岩波書店、1996

『教育刷新委員会 教育刷新審議会 会議録 第七巻(特別委員会2)』(岩波書店、1997

『第5集「第4次答申(最終答申)」をめぐって』(ぎょうせい、1987

『戦後日本教育史』(戦後日本教育史刊行会、1966

大森和夫『臨時教育審議会3年間の記録』(朝日新聞社、1987

尾崎ムゲン 『日本の教育改革』(中公新書、1999

海後宗臣 清水幾太郎 『資料 戦後二十年史 教育 社会』(日本評論社、1966

長浜功 編『史料 国家と教育 −近現代日本教育政策史』(明石書房、1994

ピエール・ブルデュー&ジャン=クロード・パスロン 宮島喬 『再生産』(藤原書店、1991

ピエール・ブルデュー&ジャン=クロード・パスロン 石井洋次郎 監訳 『遺産相続者たち』(藤原書店、1997

ピエール・ブルデュー 『ピエール・ブルデュー』(藤原書店、1990

ピエール・ブルデュー&リュク・ボルタンスキー 「教育システムと経済」『現代思想11 vol.13-12』(青土社、1985

宮島喬 「再生産論としての教育論の構造」『現代思想11 vol.13-12』(青土社、1985

村井実 『アメリカ教育使節団報告書』(講談社学術文庫、1979

山住正己 『日本教育小史 −近・現代−』(岩波新書、1987年)

 

 



[1] ただし、その是非をここで問うつもりはない。

[2] これらの語がどのくらい頻繁に用いられているかは後述する分析の章を参照されたい。

[3] ハビトゥスについても後述する。

[4] ルイ・アルチュセール   柳内隆 「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」『アルチュセールの<イデオロギー>論』(三交社、1993)を参照のこと。

[5] ピエール・ブルデュー ジャン=クロード・パスロン 宮島喬 『再生産』(藤原書店、1991)を参照されたし。

[6] ブルデュー、パスロン(199157

[7] ブルデュー、パスロン(1991222

[8] ブルデュー、パスロン(1991149

[9] ブルデュー、パスロン(1991251

[10] ブルデュー、パスロン(1991251

[11] このあたりの大まかな歴史については 尾崎ムゲン 『日本の教育改革』(中公新書、1999 山住正己 『日本教育小史 −近・現代−』(岩波新書、1987年) を参照されたい。

[12] 詳しくは 村井実 全訳解説 『アメリカ教育使節団報告書』(講談社学術文庫、1979)を参照されたし。

[13] このあたりの事情は、『教育刷新委員会 教育刷新審議会 会議録 第一巻(総会1)』(岩波書店、1996)の解題の部分に詳しい。尚、本論文では委員会などの構成員を一々列挙することはしないのでもし必要ならばその都度参考文献に当たられたい。

[14] 『教育刷新委員会 教育刷新審議会 会議録 第一巻(総会1)』(岩波書店、19955

[15] 尚、教育委員会といっても「教育刷新委員会」が提案したそれは現在のように中央集権型で、その成員が任命制になっている教育委員会ではなく、あくまでも教育の地方分権推進のための機関であった。当時の議論の状況は『教育刷新委員会 教育刷新審議会 会議録 第七巻(特別委員会2)』(岩波書店、1997)に詳しい。また教育委員会の歴史的変遷等については 平賀元晃 「教育行政の政府間・機関間関係」進藤宗幸 編『自治体の政府間関係』(学陽書房、1989 を参照されたい。

[16] 尾崎(1999161

[17]「中央教育審議会について」 教育刷新審議会第35回建議事項 45回総会採択(1951 長浜功 編『史料 国家と教育 −近現代日本教育政策史』(明石書房、1994

[18] また、この時期には非公式な内閣総理大臣の諮問機関、制令諮問委員会も教育についての答申を出していた。

[19] 教育刷新委員会第二回総会議事速記録」『教育刷新委員会 教育刷新審議会 会議録 第一巻(総会1)』(岩波書店、1995

[20] 同上

[21] 同上

[22] 岩波書店(1995)中の教育刷新委員会第三回議事速記録より引用

[23] 『戦後日本教育史』(戦後日本教育史刊行会、1966)中の第二十四回国会衆議院文教委員会公聴会議録第一号より引用

[24] しかし、現状は本文中に既述したように日本側教育委員会はGHQ側にあまり信頼されていたとは言えず、米国教育使節団に協力したと断言してしまって良いものかは非常に疑わしい。

[25] 岩波書店(1995)の第二回議事速記録より引用

[26] 村井 訳(197928

[27] 岩波書店(1995)中の教育刷新委員会第三回議事速記録より引用

[28] 同上の第二回議事速記録より引用

[29] 同上の第三解議事速記録より引用

[30] 同上

[31] 社会=国家という等式は成り立たない。社会という語は国家を始め様々な小集団をも包含する上位概念だからである。

[32] 同上

[33] 同上

[34] 同上

[35] 同上

[36] 同上

[37] これは結局世論の反対で白紙撤回することとなる。

[38] 当然、日教組をはじめとする各種団体や世論から強い反発があったことは言うまでもない。

[39] 尾崎(1999223

[40] 1982821日朝日新聞朝刊

[41] 大森和夫『臨時教育審議会3年間の記録』(朝日新聞社、1987)の178項より引用した。

[42] 『第5集「第4次答申(最終答申)」をめぐって』(ぎょうせい、1987)中の第四次答申より引用した。

[43] 同上

[44] 同上

[45] 尾崎(1999228

[46] 1984829日朝日新聞朝刊

[47] 1984828日朝日新聞朝刊

[48] 同上