「<日本>教育のイデオロギー装置」

ルイ・アルチュセールの思想から演繹したカリキュラム分析

小熊研究会T(1)最終レポート

総合政策学部政策管理コース3 石野純也

79700729  s97072ji@sfc.keio.ac.jp

 

 

1.       序論

 

「古い支配的な国家のイデオロギー装置に対して、荒々しい政治的、イデオロギー的階級闘争のあと成熟してきた資本主義的社会構成体において支配的地位にあるのは、学校のイデオロギー装置だ、」[1]。これはフランスの思想家[2]ルイ・アルチュセールが指摘した諸教育機関の国家内における位置づけである。この彼の言葉が端的に示すように、「学級崩壊」に代表される教育現場の乱れ、高等学校中退者の増加、少年犯罪の増加などの様々な教育問題を抱えている今日の社会的状況を省みても、その思想内容を検討することは非常に示唆的である。この小論では、以下第2章には分析の枠組みとしてのアルチュセールの思想の概略、3章には実際の教育運営に用いられている学習指導要領の分析をすることでアルチュセールの思想内容が現在の社会において如何なる意義を有しているのかを検討したい。以下、この第1章では私がアルチュセール分析をするに至った理由を明確にしていきたい。

私がアルチュセールの思想をこの様な形で分析しようと思い至ったのには大きく分類して三つの理由がある。以下にその三つの理由を順に記していきたい。まず一つ目は、アルチュセールは教育のイデオロギー装置の意義をその著書の中で十分に認めながら実際にはその分析の精緻化を怠っていたのではないか、という私の疑問を解消するためである。確かにアルチュセールは上記の引用文の通り、教育のイデオロギー装置の支配的役割を認めてはいる。だが、実際の彼の著書においてはイデオロギーの働きの例証は専ら宗教(更に限定して述べればキリスト教)に依拠しており、彼自身、宗教を分析すればその他の国家のイデオロギー装置に対する分析も容易に演繹できるといったような旨のことの述べている。しかしながら、それでは、複雑化した現代の教育に対する分析としては不十分ではないか、と私は考えた。それが、上記で私が、分析の精緻化を怠ったと考えている所以である。二つ目の理由は現代日本社会において「国家の抑圧装置」、「国家のイデオロギー装置」の姿が顕在化してきた、ということが挙げられる。おりしも小渕恵三内閣[3]において大した議論も沸かないまま、それこそいつのまにか「通信傍受法案」が可決され、この小論を執筆している今現在も「日の丸・君が代」の法制化が企てられている。この様な時代にこそ「国家のイデオロギー装置」を批判的に検討することに意義があるのではないかと私は思う。そして、最後の理由は、非常に個人的なものである。それは、我々が受けてきた(あるいは受けている)「教育」というものの現場で作用している力学を批判的に再検討することで自分自身の社会化の過程を再検討しておきたい、という事である。つまり、これをすることによって自分自身に対する洞察を深めていきたいという意図があるのである。大学生活も半ばを過ぎた私がもう一度自己の人生を再検討する事で、未来に対する展望を広げることが出来るのではないだろうか。また、そうすることで上述したような教育現場で起こっている様々な「問題」に対する手掛かりを掴めるのではないか。

最後になってしまったが、本小論のタイトルの意味を若干説明しておきたい。何故、日本という単語が<>に括られてしまっているかということについて若干の補足が必要だろうと思う。結論から言ってしまうと、日本の教育などといったものは捉えようがない。日本の教育といってみた所でそれは一体どのようなものなのか。上級学校への結合システムや教育内容にある程度の共通の傾向があってなおかつ法律で定められた<日本>の領土内にある学校のことか?であるならば、朝鮮人学校やアメリカンスクールの位置づけは?というふうに、具体的に突き詰めていくとこれらの疑問に対する回答を導き出すのは不可能なように思われる。そこで、私は本小論においては通常、一般的に日本と思われているもの、つまり想像の共同体<日本>を創出する基盤となっている(その中でも比較的強固な基盤となっているように思われる)教育に限定して論を展開していく意味を込めて日本という単語を<>に括ってみた次第である[4]

以上が、私がこの小論を執筆していく上での基本的なスタンスである。それでは、以下の章で、具体的な内容に踏み込んでいきたい。

 

 

2.       ルイ・アルチュセールの思想概略

 

この章では、第一章で挙げた問題意識に則しながら、ルイ・アルチュセールの思想を簡単にではあるが要約していきたい。上記の問題意識に則すために、こので取り上げるアルチュセールの思想とは彼の代表的著書「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」を主として指している。

アルチュセールはマルクスの「社会構成体は生産を行うと同時に生産諸条件の再生産を行わない限り、一章たりとも生きながらえることはできない」[5]という命題を「子供でも知っていること」と、肯定しながらも、生産諸条件の再生産が十分に分析されていないと考えている。ここで言う、生産諸条件の再生産とは、アルチュセールによると、生産諸力の再生産と生産諸関係の再生産の二つに分類される。

ここでは、まず、生産諸力の再生産から考えていく。生産諸力の再生産にも、二つの下位分類が存在する。それは、物質的なものと、そうではないもの、という区分である。物質的な生産諸力の再生産とは、一言で表すと、労働者を再び労働に駆り立てる要因の中で比較的明示的なものである。例えば、生活し、なおかつ子供を教育するだけの最低限の賃金がこの物質的な生産諸力の再生産にあたる。これは想像に難くないと思うが、もし、次世代の教育をするだけの賃金が労働者に保証されていなければ、今の世代で労働者はついえてしまい、労働者を次世代に向けて再生産することは出来ない。また、労働者を翌日の労働に駆り立てるという意味では、ビール等の奢侈品も物質的な生産諸力の再生産といえるだろう。それでは、物質的なもの以外の生産諸力の再生産とは如何なる物か。複雑化した資本主義社会では、労働者はある程度の専門性を有していなければ仕事を行うことは不可能である。文章読解能力や、論理的に会話する能力、また計算能力や社会情勢を知ること、更には科学的知識等を身につける必要があるのである。つまり、次世代の労働者を再生産するために必要なことは労働者の資格付けである。また、資格付けのみならず支配者は被支配者をコントロールする能力、被支配者は支配者に対して従属することが必要とされる。このような非物質的な生産諸力の再生産は如何にしてそれが保証されているのか。それは、軍隊であったり、教会であったり、そして、学校であったりするのである。

次に、話を生産諸関係の再生産に移したい。生産諸関係の再生産とは、例えば、資本家と労働者と中間層という階級間の関係を再生産する[6]、ということである。それでは、これは何によって保証され得るのか。結論から述べると、それは、国家の抑圧装置、及び、国家のイデオロギー装置である。国家の抑圧装置とは最終的に暴力によって生産諸関係の再生産を保持する。労働者が革命を起こし、現存する階級を揺るがそうとした時に警察や軍隊が出動することによってその革命運動を鎮圧する、といったような情景を思い浮かべていただければ国家の抑圧装置は理解に難くないだろう。つまり、国家の抑圧装置とは軍隊や、警察、裁判所、監獄等の諸機関をさす。次に、国家のイデオロギー装置は国家の抑圧装置と違い平常時から常にその機能を果たしている。国家のイデオロギー装置には、宗教、学校、家族、法律、政治、組合、情報、文化、等が含まれる。国家のイデオロギー装置にも二次的に抑圧的な機能が備わっているがその主たる機能はイデオロギーによって主体を調教(ドレサージュ)し、主体を支配的なイデオロギーに従属させることである。卑近な例を挙げるならば、我々が入学試験を受ける時のことを考えれば、わかりやすいと思う。我々が、入学試験で小論文を受ける時にまず最初に行う対策は、その入試の過去の問題から一定の傾向を導き出すことである。ここで注目に値するのは、主体はその時点において思考方法を入試の過去の問題に近づけようと努力していることである。つまり、入学試験によって主体は調教(ドレサージュ)されているのである。この様に、国家のイデオロギー装置によって、諸主体は支配階級のイデオロギーに知らず知らずのうちに従属し、もし、従属しない場合も、国家の抑圧装置によって暴力的に支配階級のイデオロギーに従属させられる。この様にして、生産諸関係は再生産されていくのである。

それでは、ここまでほぼ無定義状態で表記されていたイデオロギーとは一体どのようなものなのかを以下に記していきたい。アルチュセールの言い方に従えば「イデオロギーは歴史を持たない」[7]であり、「イデオロギーは諸個人が彼らの存在の現実的諸条件に対してもつ想像上の関係の≪表象≫である」[8]であり、「イデオロギーは物質的な存在である」[9]さらに「イデオロギーは主体としての諸個人に呼びかける」[10]である。つまり、イデオロギーとは、一定の構造を備えており、(歴史を持たない)、「想像上」の世界観であり(想像上の諸関係の≪表象≫)、日常的な慣習儀礼(pratique)によって形成され(物質的な存在)、各個人を主体としてその内部に引きずり込む、つまり、イデオロギーをそれとは気付かずにそれを所与のものとして認識させてしまう(主体として諸個人に呼びかける)ようなものと定義することが出来る。つまり、本小論で述べられているイデオロギーとは、例えば冷戦期のイデオロギーやポスト冷戦期のイデオロギーといったような一般にいわれる所のマクロな社会的集合意識のようなものとは違い、より広義でミクロな構造を備えたものと言うことが出来る。上記の国家のイデオロギー装置の内部ではこの様にイデオロギーが作用しているのである。

しかしながら、ここまで見てきたように、アルチュセールは学校のイデオロギー装置の重要性を強調しながらもその装置の内部で如何に各個人が主体として形成されるかを具体的に記述してはいない。また、彼自身がマルクス主義者であることから階級の概念が若干現代日本社会に対応していない様に思われる。近代化が急速に進展する中で、特に、第二次世界大戦後に階級差は急速に縮小していったからである。ここまでで、非常に簡単にではあるが、アルチュセールの思想の要点を記述してきた。以下の章では上記の問題点をふまえながら、現代の<日本>教育のイデオロギー装置がどのように働いているかを、主に学習指導要領を分析することによって明らかにしていきたい。

 

 

3.       カリキュラム分析と<日本>教育のイデオロギー装置

 

I.      支配的イデオロギー

具体的な指導要領を分析する前に二章の最後に挙げた問題を若干ながら解決しなければいけない。学校のイデオロギー装置内部の構造は指導要領を分析すれば自ずと分かることであるので、ここでは、階級差が縮小し複雑な「階層」が形成された後に、何が支配「階級」の役割を代替したかに、答えたい。旧来のような形の資本家がそのまま学校のイデオロギー装置を支配することはないとしても確かに財界の力は根強く残っている。戦後日本では財界の強い要望と、政府の「経済力向上」「国力充実」などの考えがマッチし、その結果として中央教育審議会(中教審)が設置されたのはそのことを如実に表している[11]1960年には関西経済連合会が文・教・農学部の縮小を求めた要望書を提出したこともそうだろう。また、現在もなお声高に叫ばれている大学改革等の実状を省みると、その改革案は専ら、大学教育と企業での実務の直結であることが分かる[12]。このように見ると、ここで支配的な「階層」は上層に位置する「階層」、つまり、「階層」を構成する諸変数がことごとく高い値を示しているいわゆる「財界のトップ」である。「財界のトップ」が欲しているもの、それは企業に「使いやすい」人材が多く提供されることであり、その使いやすい人材とは企業実務を予め身につけており、さらに企業に従順な主体であることは言わずもがなである。高度経済成長期に、理科系の大学、学部の二万人規模の増募計画が出されたり、高等専門学校が19校新設されたこと、さらには中教審によって「期待される人間像」等が発表されたことなどは、そのことをまざまざと例証している、分かり易すぎるぐらい分かり易い計画と言えるのではないだろうか。

それでは、以下には、教育によって「各個人」が「諸主体」、つまり支配的な「階層」のイデオロギーに従う「主体」に変容していくメカニズムを分析していく[13]。まず、図表1に注目していただきたい。これは小学校の学習指導要領に記載されている各授業の時間から主要なものを抜粋してグラフ化したものである。これを見れば明らかなように第一学年から第六学年にかけて最も長い時間が割かれているのは「国語」である。次に「算数」、「社会」、「理科」(第一、二学年は「生活科」)「道徳」という順番である。必ずしも、授業時間数の多さがそのまま授業の重要度になるとは限らないが、ここではそのように見なし、上記の順番で分析を進めていきたい。

II.        「国語」

では、まず小学校の「国語」の分析をしてみよう。「国語」の学習指導要領を俯瞰すると「国語」の目的は大きく二つに分類できることが分かる。その事が端的に表れているのが学習指導要領の最初に掲げられている「目標」の部分である。

 「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力及び言語感覚を養い、国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。」(文部省編 『小学校学習指導要領』第二章第一節 国語  1998

と書かれているが、この文章の前半部は技能としての「国語」を身につけることを目標としてかかげており、後半部は「国語」を尊重することを是としているイデオロギーが見え隠れしている。アルチュセールの枠組みに従うならば技能を身につけることによって生産諸力を再生産すると共にそれを尊重させることによって、「国語」を身につけるということが疑いようもないぐらいに明白で所与の事実とされてしまっている。まさに彼の言う所のイデオロギーである。上述の「目標」の前半部、つまり技能的な側面は学年が進むに従ってより高度なものとなってくる。以下、例を挙げれば第一、二学年では「大事なことを落とさない様に聞く」[14]「順序が分かるように」話したり文章を書いたりする、「順序や場面の様子などに気付きながら読むことができるようにする」である。それが、第三、四学年になると、「道筋を立てて話すことや話の中心に気を付けて聞くことができるようにする」、「段落相互の関係などを工夫して文章を書くことが出来る」、「段落相互の関係を考えたりしながら読むことができるようにする」となる。そして、第五、六学年になると「考えた事や伝えたい事などを的確に話すことや相手の意図をつかみながら聞くこと」が出来るようにならなければならず、「道筋を立てて文章を書くこと」をしなければならず、「内容や論旨を把握しながら読む事ができるように」ならなければならないのである。この様に、年齢が上がっていくに従って順次高度な技術を身につけていく。確かに、意志を伝達しようとする者が的確に話しを聞く能力を有していなければ支配者層からみると「使えない人材」であるし、また的確に話す事が出来なければそれもまた「使えない人材」である。ここにおいて合理的に読み、聞き、話し、書くことの出来ない各個人は合理的に読み、聞き、話し、書くことの出来る諸主体へと変容させられるのである。そして、いつのまにかこの様な合理的「国語」能力の必要性は所与のものとなってしまうのだ。

  次に、敬語に関して若干の分析を加えたい。これも第一、二学年から徐々に相手を尊ぶ言葉に慣れ最終的に第五、六学年では敬語に慣れることが目標とされている。目上の者には言葉の面からは絶対的に服従する事が良いとされる。これも、アルチュセールの枠組みから説明すると、生産諸関係の再生産、と言えるのではないだろうか。つまり、この「世の中」には厳然とした身分格差が存在するという事を身に付けさせていると言えるのである。更に言葉づかいに関して言えば「共通語と方言との違いを理解し、また、必要に応じて共通語で話すこと。」が必要とされている。ここにも学校のイデオロギー装置を通して支配者層のイデオロギーが諸主体を組み立てている。それは、統一された「共通」の言語を話す事で意思疎通に齟齬を来さないことが当然な事にされてしまったり、「共通」の言葉が話される「日本国家」を意識することで「国家」としての一体感が正当化されている、というような意味においてである。上記のような事項を重視しその結果、教材の選別に際しては「我が国の文化と伝統に対する理解と愛情を育てるのに役立つこと。」や「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家、社会の発展を願う態度を育てるのに役立つこと。」が必要になってくるのである。

 「国語」に関してまとめられることは、つまり、支配者層にとっては現存する秩序を維持する事が最優先であり、そのロジックから諸主体は「日本国家」を尊重しなければいけないし、経済的な観点からはある程度の「国語」の技能を有していなければいけないということである。生産諸力を中心に生産諸関係をも見事に再生産しているのである。そして、上記の分析からそのことがカリキュラムにも如実に反映されていることが分かる。

III.      「算数」と「理科」

つぎに、「算数」と「理科」の学習指導要領を分析していきたい。一見すると「算数」や「理科」は支配者層のイデオロギーを反映していない様に見えるかもしれないが、注意深く分析するとここにもまた如実に支配者層のイデオロギーが反映し、諸主体を組み立てることに一役買っている。学習指導要領[15]を俯瞰してみると「算数」が、加法、減法、乗法、除法等の計算技術を身に付けさせるための教科である事は明白である。これが、支配者層のイデオロギーにマッチしている事も容易に理解できる。簡単な計算が出来なければレジ打ちのアルバイトすら出来ないのが、高度に資本主義の発達した現代社会だからだ。しかし、「算数」はただ単に計算技術等の技能を生徒に身につけさせ、それを資格付けする(生産諸力の再生産をする)ためだけの教科ではない。「算数」の節には「量と測定」という項が含まれている。実は、この部分が各個人をイデオロギーによって調教(ドレサージュ)し、諸主体に変容させている事を暗示している。第一学年では、「身近にあるものの長さを単位として」物を量る(計る、測る)のであるが、第二学年に進級すると「長さの単位(ミリメートル(mm)、センチメートル(cm)、及びメートル(m))について知ること。」が挙げられている。しかし、何故、単位としてメートル法を用いなければならないのか確固とした理由は示されていない。長さを測る単位の国際基準がメートル法だからなのだろうか。しかし、フィートであっても物を計る単位としては問題ないのであって、実際アメリカ合衆国では車の速度計までフィート表示である。つまり、長さの単位とメートル法との結びつきは極めて恣意的なものなのである。これも、現在メートル法を用いている支配者層のイデオロギーが明示的、黙示的に作用しているように思われる。例えば、ある会社で測量をメートル法で行っているのに、フィートで物の長さを測る人間が入社してきても「使えない」。それだけならばいいのだが、自分の身長を尋ねられたらメートル法を用いて答えるのであって決してフィートを用いて答えるものはいない。そうすることによって意思の疎通に齟齬を来すからだ。その結果、自己同一性の形成にまでもこの尺度の問題が関わってくるのである。このように、測量の単位というものも主体形成に大きく関わってきてしまっているのである。更に学年を進めていくと、リットル(l)、グラム(g)、平方センチメートル等の単位を学習していき平面のものだけでなく立体物をもある尺度から見る事が明証性を持った「常識」となるのである。

次に、「理科」について記述していきたい。「理科」は「算数」と比べると更に、上記のような再生産との関わりが暗示的である。「理科」では第三学年から第六学年にかけて「生物とその環境」「物質とエネルギー」「地球と宇宙」という三つの大きな分野を体系的に学習していくようにカリキュラムが組まれている。たとえば、生物とその周りの環境のことについて学習する事のどこがイデオロギー的なのか理解に難いかもしれないが、上記の「算数」の測量の部分を思い出していただきたい。「算数」で習った測量の尺度は一体どこで用いるのか。勿論、「算数」の教科書の中にも例題として幾つかの問題が掲載されてはいるが、より日常に則してそのような尺度を用いるのは「理科」という教科なのである。例えば、ある物質Aが10gである、という記述があれば各主体は自らが学習した単位が実際に物質を量るのに用いられていると実感するはずである。

IV.       「社会」

社会の学習指導要領[16]では、社会の秩序維持を目論む支配者層のイデオロギーが露骨な形で表象されている。「国語」同様、学習指導要領の「目標」というところにその事が端的に表れている。その「目標」は

「社会生活についての理解を図り、我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て、国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」(文部省編 前掲書 第二章第二節 社会  1998

である。第三、四学年には「地域の産業や消費生活の様子、人々の健康な生活や安全を守るための諸活動について理解できるようにし、地域社会の一員としての自覚をもつようにする。」のであるが、それが第五学年になると「我が国の国土の様子について理解できるようにし、環境の保全の重要性について関心を深めるようにするとともに、国土に対する愛情を育てるようにする。」となり、いつのまにか愛着の対象が地域社会という公から、国家という公にすりかえられている。そして、第六学年になると「国家・社会の発展に大きな働きをした先人の業績や優れた文化遺産について興味・関心と理解を深めるようにするとともに、我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする。」という記述が見受けられ、国家の重要性の根拠がその歴史や伝統に求められている。更に、その歴史や、伝統を正当化するためにここでは次のような偉業を挙げた人物が挙げられている。

「卑弥呼、聖徳太子、小野妹子、中大兄皇子、中臣鎌足、聖武天皇、行基、鑑真、藤原道長、紫式部、清少納言、平清盛、源頼朝、源義経、北条時宗、足利義満、足利義政、雪舟、ザビエル、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川家光、近松門左衛門、歌川(安藤)広重、本居宣長、杉田玄白、伊能忠敬、ペリー、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、明治天皇、福沢諭吉、大隈重信、板垣退助、伊藤博文、陸奥宗光、東郷平八郎、小村寿太郎、野口英世」(文部省編 前掲書)

この様に、「日本」が「日本」という認識をされる以前の人物(そもそもいたかいなかったかも分からないような人物まで)まで取りあげて現在の「日本」という国家の歴史的正当性を証明しようとしているのである。

上記のような論理で現存する国家の社会秩序を維持する事の明証性を無意識的に刷り込まれるのである。この様に、「社会」においてもまた、一見中立無色な知識を教授すると見せかけて、イデオロギーによる調教(ドレサージュ)を行っているのである。

V.          「道徳」

最後に授業時間は最も少ないがそのイデオロギー性が露骨な「道徳」を挙げておく。「道徳」教育も第一学年から第六学年までで徐々に高い基準を要求しているが、一貫しているのは以下の点である[17]。まず「社会」以上に国やら郷土やらを愛する事を要求している。また、働く事の大切さ、即ち「勤労イデオロギー」[18]を肯定している点も見逃せない。さらには「規律」の内面化、自分よりも上の立場の者には敬意を払うといった生産諸関係の再生産を行う事をも目標としている。それらを端的に表している一文が学習指導要領に記されているので以下に引用しておく。

「各学校においては、特に低学年では基本的な生活習慣や善悪の判断、社会生活上のルールを身に付けること、中学年では自主性、協力し助け合う態度を育てること、高学年では自立心、国家・社会の一員としての自覚を育てることなどに配慮し、児童や学校の実態に応じた指導を行うよう工夫すること。また、高学年においては、悩みや心の揺れ、葛藤等の課題を積極的に取り上げ、考えを深められるよう指導を工夫すること。」(文部省編 前掲書)

 以上を持って学習指導要領の分析とかえさせていただく[19]

 

 

結論

 

上記の分析の結果を敷衍して、序論の問いに順に答えていきたい。まず、最初の問い「アルチュセールの述べた学校のイデオロギー装置の精緻化」であるが、私は、第3章においてそれはある程度の水準まで達成できたと考えている。二つ目の問い「イデオロギー装置の顕在化」についてであるが、既に現時点でもかなりの程度イデオロギー装置は顕在化していることが分かった。政府は今以上に学校現場をイデオロギー装置に仕立て上げたいのだろうか。そして、三つ目の問い「自分自身の受けてきた「教育」というものをふりかえる」という問いに対して答えるのならば、今まで、所与のものとして受けていた教育がアルチュセールの思想というフィルターを通す事によってこれほどイデオロギーに塗れていたという事実に改めて気付かされた、とでも言ったら良いだろうか。私自身の認識がいかに教育によって形成されていたかを問い直すことによって、自らの中で所与としてしまっているもの、「常識」を脱構築するのに幾分か役に立つのではないかと思う。また、そうする事によって無知による偏見を縮減する方向に向かえれば私の意図した事の大半は達成されている。更に「学級崩壊」等に代表される教育問題に対してどの様な解答が得られたのだろうかか。上記の分析に従うと、学級崩壊という現象は、生徒が上記のようなイデオロギーに調教(ドレサージュ)されないどころかむしろその様なイデオロギーを非常に「馬鹿らしい」ものと考え、アンチ・イデオロギー的な行動をとっていることの現われ、と考えられる。なぜ、その様な現象が現代において突発的に噴出したのか。私は、家庭のイデオロギー装置から学校のイデオロギー装置への受け渡しが十分に出来ていないことにその原因を帰することが出来ると考えている。つまり、学校以前のより調教(ドレサージュ)し易い環境でそれを十分に行っていないので、学校におけるイデオロギーの主体形成が困難になっている、ということである[20]。更にその原因は何かと問われれば、少子化の進展に伴う「甘やかし」、地域コミュニティーのゲゼルシャフト化、家庭における家父長制的色合いが薄まっていること等、分析の興味は尽きない。しかし、そこまでの分析はこの小論の範疇を越えているのでまたの機会にこれを譲りたい。本小論では、学級崩壊という現象をイデオロギー論的な観点からえることが出来れば私の目的は十分に達したことになるのだから。

図表1

『学校教育法施行規則別表第1』を筆者がグラフ化したものである。


参考文献

アンソニー・ギデンズ著 松尾精文訳 『社会学 改訂新版』(而立書房、1993

今村仁司 『現代思想の冒険者達22アルチュセール』(講談社、1997

小坂修平 竹田青嗣 志賀隆生 永澤哲 西研 『別冊宝島44現代思想・入門』(宝島社、1984

富永健一 『近代化の理論』(講談社学術文庫、1996

文部省編 『我が国の文教施策』(1997

文部省編 『我が国の文教施策』(1998

文部省編 『小学校学習指導要領』(1998

文部省編 『中学校学習指導要領』(1998

ルイ・アルチュセール 柳内隆 山本哲士著 柳内隆訳 『アルチュセールのイデオロギー論』(三交社、1993

山住正己 『日本教育小史 −近・現代−』(岩波新書、1987



[1] ルイ・アルチュセール   柳内隆 「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」『アルチュセールの<イデオロギー>論』(三交社、1993)の49項を参照のこと。なお、アルチュセールの思想、概念等は後の章で要約、論評を加えるのでそちらも共に参照されたい。

[2] アルチュセールの職業を一言で表現するのは難しい。また、彼を紹介している文献においても彼に対する説明はまちまちである。ここでは、マルクス主義社会学者として彼を紹介している アンソニー・ギデンズ 『社会学 改訂新版』(而立書房、1993)を挙げるに止めておく。

[3] 実際、小渕政権下において、彼の支持率の漸増と共に、マスメディア各紙からのこれらの法案に対して批判的検討を為さないままに法案が国会を通過してしまった。この事からもこれらの諸装置が潜在的で<あった>と、言えるのではないだろうか。

[4] 無論、教育は想像の共同体の基盤である。但し、〜の国の教育といった語られ方はその想像の共同体なしでは有り得ないのではないか。この点から、私は、想像の共同体と集合体としての教育は相互依存関係にあると考えている。

[5] アルチュセール、前掲書、9項。なおこの第二章は主に彼の前掲書の他に、今村仁司『現代思想の冒険者達22アルチュセール』(講談社、1997)に依拠している。また、前掲書に同時に掲載されている 山本哲士「ルイ・アルチュセールのプラチック論」と 柳内隆 「アルチュセールの読解」もこの小論を執筆する際に参考になった。

[6] 日本社会階層の事例を考えてみれば分かるように、現代社会はそれほど単純な階級関係から成り立ってはいない。例えば、現代においては、学歴、職業威信、収入などがそれぞれ非一貫しており複雑な階層関係をなしている(例えば収入は低いが学歴、職業威信は高い等)。このことは富永健一 『近代化の理論』(講談社学術文庫、1996)を参照のこと。

[7] ルイ・アルチュセール、前掲書、60

[8] ルイ・アルチュセール、前掲書、66

[9] ルイ・アルチュセール、前掲書、71

[10] ルイ・アルチュセール、前掲書、81

[11] 山住正己 『日本教育小史 −近・現代−』(岩波新書、1987196200項を参照されたし。

[12] 平成8年、平成9年の文部省編『我が国の文教施策』を参照した。ここで言う企業の実務に直結した教育とは、情報処理技術であったり、グローバリゼーションの名の元に行われている外国語学習等のことである。

[13] ただし、必ずしも各個人全員が諸主体に変容させられるとは限らない。その事については後で述べることにする。

[14] 以下、「」内の文章は小学校学習指導要領からの引用である。

[15] 以下、この節では学習指導要領とは『小学校学習指導要領』(1998)第三節 算数 第四節 理科の事を指している。

[16] 以下、この節の学習指導要領とは『小学校学習指導要領』(1998)第二節 社会 を指す。

[17] 文部省編 前掲書 第三章 道徳 を参照した。

[18] 勤労イデオロギーについては 佐口和郎 産業報国会の歴史的位置 山之内靖 ヴィクター・コンシュマン 成田龍一 『パルマケイア叢書4 総力戦と現代化』第三部  (柏書房、1995) を参照していただきたい。

[19] 勿論、今回の分析には若干の方法論的問題点が存在している事は筆者も認識している。まず、取り上げたのが小学校の学習指導要領だけであり、義務教育すら分析し終えていない。また、学習指導要領を分析したからと言ってそれが即カリキュラムの分析に繋がるかというとそれも若干の考察を施さねばならなかっただろう。以上のことは紙幅が許す限り行おうと思っていたのだが、当初の予想通り紙面が足りなくなりそれも不可能となってしまった。だが、私は今回の分析でもある程度の結果は得られたのではないかと考えている。

[20] 親類を尊敬できないものにどうして他人である教師や天皇、日本国家を尊敬できよう。