「国民国家の向こう側」

国民国家論総括と、その後の展開

小熊研究会T(2)最終レポート

総合政策学部政策管理コース3  石野純也

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1.       序論

 

この序論では、私がこの小論で取り組みたい問いを掲げることによって以下の章の流れを明確にしていきたい。

今日、我々の何気ない会話の中にも「日本人って〜な気質があるよね」や、「アメリカ人と日本人って〜が違うよね」といったフレーズが聞かれることがある。国民国家論を学び、この様な「日本人」[1]としての同一性、「日本人」と「アメリカ人」の差異といったものが如何に曖昧で、また恣意的なものであることを理解している我々はその様な言説に強い違和感を感ぜざるを得ない。しかしながら、そうした事を知った上でその曖昧性、恣意性を徹底的に考え抜かなければならないはずの我々もまた、無意識的にそういったフレーズを多用している。例えば、1998年のフランスサッカーワールドカップ決勝リーグでは「日本代表」の試合の勝敗に一喜一憂していたし、野茂、長谷川、伊良部に代表される野球選手がアメリカのメジャーリーグで活躍するたびに自然とブラウン管に目が移ってしまう、といった日常的な現象から、北朝鮮がテポドンの発射準備が完了したというニュースを聞いて「日本人」として危機意識の高まりを感じるといった政治的な現象まで枚挙に暇がない。

上述した例を省みると、我々は日常的にも国民国家の枠組みに囚われながら思考していることに気付かされる。何故、その様に国民国家というものは我々の思考を無意識的に方向づけしているのだろうか。本小論ではこの問いを念等において分析を進めていきたい。更に、社会学者の上野千鶴子が「「女性」こそは近代=市民社会=国民国家がつくりだした当の「創作」である。」[2]と述べ、「「女性」の解体を」と訴えているように、近代国民国家は超克しなければならない存在なのだろうか。歴史学者の牧原憲夫も「今のわたし(たち)は、現前する国民国家の共同性に眼をつむることなく、しかもそこから普段に乖離するように努める、いいかえれば自らの存在非拘束性に対峙しつづける、そんな自覚的・自律的な客分であることが求められているように思われる。」[3]と述べ、国民国家を越えなければならない事を示唆している。私の二つ目の問いは、上記のように国民国家を超えることは本当に可能なのか、ということである。その様なことを理論的、実際的に検証してきたいのである。

本小論では、以下の第2章に、国民国家論を総合的にまとめることで上記の問いに対する活路を見出し、第3章では国民国家の再生産装置としての教育制度[4]を特に戦後[5]のそれに対して分析をしていきたい。その結果として第4章では国民国家は如何にして無意識的に我々に内在化されいくのかという問いと、国民国家を乗り越えられるのかという問いに対して、理論的な回答を与えたい。

  この様な事象を検証していくことは、北朝鮮のテポドン発射準備問題や、日の丸・君が代法制化といったイシューでマスメディアが賑わっている現代社会においても大きな意義を有していると確信している。

 

 

2.       国民国家とは

 

国民国家の特徴とは何か。西川長夫の「日本型国民国家の形成」『幕末・明治の国民国家形成と文化変容』(新曜社、1995)に三つの特徴が箇条書きされているので多少長くなるが、以下に引用してみたい。

「第一に、国民国家と呼ばれているものは、原理的には、国民主権と国家主権によって特徴づけられるということ。じっさいにどのような政治がおこなわれていようと、その国家を担う主体は国民であることが前提とされるであろう。また国際的に現実にどのような地位に置かれていようと、他国によって主権国家と認められていることが必要だろう。」

「第二に、国民国家には国家統合のための様々な装置(議会、政府、軍隊、警察、等々といった支配・抑圧装置から家族、学校、ジャーナリズム、宗教、等々といったイデオロギー装置までを含む)が必要であると同時に、国民統合のための強力なイデオロギーが不可欠となる」

「第三に、国民国家は、他の国民国家との関連において存在するのであって、単独では存在しえない。つまり国民国家は世界的な国民国家システム(国家間システム)のなかに位置づけされ、それぞれに自国の独自性を主張しながらも、相互に模倣し類似的になるけいこうがある。」

上記の引用からも分かるように、国民国家を形成するためには「国民」の存在が必要である。その「国民」 を作り出すためにルイ・アルチュセールの言うところの「国家の抑圧装置」と「国家のイデオロギー装置」が必要となってくる。「国家のイデオロギー装置」、例えば、家族や学校や新聞等によって各個人を「国民」と呼ばれる諸主体に変容させ、それが不可能な場合に限り「国家の抑圧装置」を発動させるといった具合にだ。そして、アメリカ−日本といった関係、宗主国−植民地、といったような中核−半辺境−辺境の世界システムが国民国家を作り出す。『近代世界システムT・U』(岩波選書、1981)の著者、イマニュエル・ウォーラステインの概念を私なりに解釈すると、「帝国」はそれ自体で完結した世界であり、「世界システム」の形成と共に中核諸国はその眼差しを「外」に対して向けていく。その結果として中核諸国としてのアイデンティティーが必要になり、それが中核諸国の「国民国家化」を進展させる。以上が、西川氏の三番目の定義を私なりに解釈したものである。以上のことから分かることは、国民国家が包摂−排除の構造を有していることである。つまり、「国民」には平等を、「非国民」は排除をといった構造のことである。この「国民」/「非国民」の境界線は簡単には同定され得ないが、一般的に「総力戦体制」において、「国民」の範囲が拡大することになる[6]。それを『総力戦と現代化』(柏書房、1995)で、その著者、山之内靖氏は「階級社会からシステム社会への移行」と呼んでいる。それに対し、西川長夫氏は「帝国の形成と国民化」『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』(柏書房、1999)において「総力戦体制によって国民国家の本来の特徴がより明確にされた」と述べて、山之内氏の定義に異議を唱えている。ここで、私がどちらかの考えを擁護し論を展開していくことはないが、どちらにしろ、上記で私が述べたように、「国民」の範囲の拡大という現象は最大公約数的に導き出すことが出来る、と言えるのではないだろうか。そして、その総力戦体制で出来上がった国民国家は現在もなお存続しているのである。

しかしながら、上記に述べてきたことはあくまでも「理念型」[7]としての国民国家であり、実際には「モジュール」として諸装置を輸入してきただけではそうスムーズには国民国家を創出することは出来ない。以下には、国民国家の形成において、どの様な葛藤があったのかを記していきたい。

例えば明治の時代になり1872年、「学制」によって大学8、中学256、小学53760校が設置される予定であったが、それは机上の計画と終わった。また、1885年に内閣制度が発足し、初代文部大臣に森有礼が就任した。そこで、森有礼は1886年小学校の義務化、教科書の検定制を導入した。しかしながら、初等教育の実質就学率[8]は明治13年(1880年)29.0%、明治18年(1885年)31.3%、明治23年(1900年)35.5%、明治28年(1905年)48.5%、明治33年(1910年)67.8%、明治38年(1915年)85.1%、明治43年(1920年)90.6[9]という推移を見せているように、明治40年代に入り、ようやくその就学率が90%を超えた。「理念型」通りに教育制度を諸外国から「モジュール」として輸入し、「国民」を創出するのだったらば、就学率が低くてはいけないのであるが、実際の統計をみてみると、必ずしも、当初からそれが達成されていないことが分かる。また、実際に学校に通っていた階級の内訳は、教育制度が確立された当初は他に何も食べるための術を持たない元武士階級である士族階級であり、そうでないものも官庁や専門技能労働者といった所謂「近代セクター」に積極的に参入していこうといった志を持った人物以外は教育を受けるということに消極的であった。

また、「国語」の確立に関しても、そこには様々な葛藤が存在した[10]。ここでも、森有礼が出てくるのだが、彼は、日本で使われている話言葉と書き言葉の間の絶望的な断絶を省みて、「簡易英語・商業英語」を「国語」とすることを提唱したが、それに対して、馬場辰猪は上から外国語を導入することによって階級間の言語の隔たりが生まれそれによって、階級格差が再生産されてしまうといった論理から、それに反対した。また、「国字問題」「言文一致問題」に端的に表されているように、国字というものをローマ字にするのか、それとも平仮名にするのかといった対立や、話言葉を書き言葉に一致させるのか、それとも買い言葉を話言葉に一致させるのかといった言文一致問題等が存在した。現代我々が良く知っている「日本語文法」のようなものは、第二次大戦中に朝鮮で実験的に用いられていた「折衷的仮名遣い」であり[11]、「国語」という同一性を持った言語を作り出すのにもかなりの労を要した。「国語」という統一された日本の言葉を「モジュール」として持ってきただけでは、それが簡単には定着しないのである。

また、上記のように、教育を受けて「国民」となるものもいれば、教育を受けずに「国民」となるものもいる。その様な「非正常コース」をたどっている人間つまり「客分」を「国民」にするために、「国民統合の四点セット」、「万歳」「日の丸」「御真影」「君が代」が考案され、お祭り騒ぎののりで「客分」を「客分」のままで「国民」としていった[12]

他にもシンボルとしての「ソメイヨシノ」が如何にして形成されたとか、天皇就任儀礼の互換性が確立されていく過程等を検証することによって、「日本文化」の「モジュール性」を露にしている。しかし、「モジュール」として国家の諸装置を輸入してくる際にもそれを定着させる過程で幾らかの葛藤・対立が生じるのである。そうした葛藤・対立を経ながら形成されいった国民国家は総力戦体制において「その本来の特徴が明確化」されるのである。

それでは、戦後を迎えてこれらの国民国家は解体されたのか。否、国民国家は未だ解体されていない。『総力戦と現代化』(柏書房、1995)に掲載されている各論文が示しているように、現代まで確固として残存している諸制度の多くは総力戦体制の名残なのである。以上で非常に簡単にではあるが、国民国家論の要約とかえさせていただく。以下の章で、私は、その様に総力戦体制で確立された教育制度が戦後の国民国家の形成に如何なる影響を与えたのかを構造的に解明していきたい。また、そうした「国家のイデオロギー装置」を分析することで国民国家を超える可能性を模索できるのではないかと思っている。

 

 

3.       戦後教育と国民国家

 

1900年に制定された市町村小学校国庫補助法が1918年、市町村義務教育費国庫負担法に移行した[13]。この法律は義務教育費の国の負担を明確化し、市町村の経済格差から派生する教育の不平等を解消するという意義を持っていた。しかし、個別補助金制度の本来の性格上その機能は十分に果たされていなかった。1940年には義務教育費国庫負担法が制定され、教員給与負担が市町村・国から道府県・国へと移行した。更に、国庫の定額負担方式から、給与実績の二分の一負担という定率負担方式へ移行し安定した教育費の供給が実現した。また、中等教育の拡張もこの時期に行われた。例えば、中学校に就職に対応した第一種過程の設置や、実業補習学校と青年訓練所を統合した青年学校を中等教育機関に格上げしたこと等がそれに当たる。1945年に第二次世界大戦が終わり、その後の1947年に教育基本法・学校教育法が公布され、6334制が実現し、6・3の部分、つまり小学校と中学校の義務教育制度が実現した。それを如実に表すように、昭和25年(1950年)には義務教育就学率が99%を超え限りなく100%に近い数字を示している[14]。ここにおいて、既に中学校教育の大衆化が実現していたと言える。

1970年代に入り高校全入運動が起こることとなるのだが、それに対応すかのごとく、昭和45年(1970年)には高等学校への進学率が82.1%を超えることとなる。そして、昭和55年(1980年)においては高等学校への進学率が94.2%という数字を示している。この現象をさして、高等学校の大衆化が実現したと言っても過言ではないと思う。更に、この間に大学・短期大学の進学率も徐々に増し、平成8年(1997年)には、46%近い進学率を示している。つまり、大学教育の大衆化も徐々に進展してきているのである。さらに大学の増設、少子化の進展などがあいまって今後は更に大学教育の大衆化が進展していくのではないかという予測をすることは容易である。

この結果、明治時代に確立された「学歴社会」は、徐々に縦の「学歴」から横の「学校歴」へとその構造を変化させていった。つまり、明治時代には大学や高等学校などへ行くことが即「近代化セクター」への仲間入りをすることを示していたのに対し、戦後の教育では、上記の結果「学校間格差」というものがより強調され、例え大学を出て学士号を習得したとしてもそれだけでは就職することも出来ない時代が到来してしまったのである。

国民国家論的にはこの事が如何なる意味を持っているのか。戦前は、画一化された初等教育を受けることにより、日本の「国民」として統合されていたのに対し戦後になってからは少なくとも高等学校までの教育を受けなければ「国民」として統合されなくなった、と考えるのが適切ではないだろうか。なぜ、この様になったかは戦後における社会変動と関連付けると理解が容易になる。例えば、急速な経済復興の過程で高度な理科系の新卒が要求されることとなる。その結果として、理科系の大学が増設されたことは有名である。つまり、戦後において、経済諸活動が高度経済成長等の経済的成長に伴って、より分業化が進むと共に、その内容自体も高度化し「国民」に対してはより高いレベルの教育が必要となったのである。働けないもの、つまり、資本主義のエートスを備えていない者は「国民」という主体ではないのであって、排除されるべき対象になってしまう。それは戦前も戦後も代わらない。現代社会においてもホームレスがたびたび問題視され新聞、TV等のマスメディアで議論の対象となるのもそもそも、「国民」は働いて納税することが当然の義務とされてしまっているからである。そうした、排除されるべき対象とならないために各個人は「国民」となるために、教育を受ける。そして、「国民」になるために要求されいる教育水準が戦後は経済活動の複雑化によって高くなったのである。仮に、高等学校で教育を受けていなくても労働することは可能である。しかし、現在中学校卒業で与えられる職業は高卒や大卒のそれに比べ著しく制限されており、あたかも「二流市民」の烙印を押されたかのごとくである。高等学校が普遍化していく過程で新たな平等/排除の構造が誕生したといえる。

上記のことは法律、とりわけ、戦後に制定された最高法規である日本国憲法によっても保証されいる。憲法第30条で「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」[15]となっている。つまり、労働を通じて納税をしなければ「国民」の資格を得ることは出来ない。また教育に関しては第26条で「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」となっている。また第二項では「すべての国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と書かれている。既に「国民」として保証されている親はその子供に対して教育を与えなければならない。換言すれば親は子供に教育を与えることで勤労的な主体「国民」を再生産しなければならないのである。

上記のように、戦前は「教育を受けたもの」/「受けざるもの」という図式だったものが、戦後においてその図式は、「高等教育を受けたもの」/「高等教育を受けざるもの」というものに、取って代わり、さらに「高等教育を受けたもの」の内部においても、学校間格差によって重層的な構造を為しているのである。

 

 

4.       国民国家を超える可能性

 

この章では、国民国家論を超える可能性を考察していきたい。その様なことをしようと思い至ったのには上記の上野千鶴子氏の著書、牧原憲夫氏の著書、それに加え山之内靖氏の資本主義システムの範囲外にその立場を求めている「新しい社会運動」=受苦者連帯型の社会運動に期待していること[16]に触発されたからである。

国民国家は乗り越えられなければならない近代の産物である。例えば、国民国家が本来的に備えている同一化/排除の構造によってマイノリティーが排除されていく過程は見逃すことは出来ない。上記の学校歴社会のことに関して言えば、中卒であるが為に例え能力があったとしても社会から「二流市民」としてのレッテルを貼られているのは異常な状況である。また、「男性=市民」の国民国家においては「女性=二流市民」というレッテルが貼られてしまうのも、上野千鶴子氏が述べている通り[17]である。国民国家というものはそれら排除という前提があって我々に同一性、平等というものを提供している。しかし、一体どのようにしてそれを超えるべきなのかという具体的な視点を上記の書は提供していない。果たしてどの様にすべきなのか。例えば、「客分」というスタンスを保持することを考えてみたい。しかし、現代社会における「客分」とは一体何か。政治的無関心の「若者」は現代では批判される対象であるし、上記のように義務教育が一般化してしまっている現代では、その様なスタンスを保持すること自体が難しい。義務教育によってある一定数の「若者」が政治的関心のある主体として構成されてしまうからだ。また「国語」という創られた共通の言語を話しているといってもそれを使わないと、コミュニケーションが取れなくなってしまうという現状がある。これも、学校のイデオロギー装置という再生産装置があるが為に、「国語」以外を話す者と齟齬を来すようになってしまう。例えば、テレビのインタビューで青森の老人が話している時に字幕が入っているといった事例はそのことを端的に示していると言える。如何にしてこの「再生産」の環を断ち切るのか、ここが国民国家を超克する際の問題になってくるのではないだろうか。しかし、たとえ再生産の機能を断ち切るためと言っても教育を解体してしまうことは考えずらい。例えば、我々がイ・ヨンスク氏の意図を汲み取ることが出来るのも氏が学校教育によって習った「国語」という共通のフォーマットに従ってその著書を記しているからであり、もしそれが「国語」、つまり「共通語」のフォーマットなしに書かれていたのならばそれを理解するのに非常な困難を伴うだろう。また、教育によって「国語」を身につけず、政治に対する関心を持たぬまま生活していたのならば我々が国民国家論自体を学ぶ機会がなかったというような矛盾をも孕んでいる。更には、そういった色合いを含んでいる教育を改革せよと声高に叫んだところで結局はその改革の担い手を文部省、つまり国家に求めているのであり、大局で見ると結局は国民国家の手の内にある事になってしまう。

上記のように国民国家の諸装置は我々の生活にまでも深く根づいてしまっているためによほど意識しないとそれを乗り越えるという思想自体生まれてこない。上記から導き出せることは国民国家とは乗り越えるべきものであるとしても実際問題それが可能かどうかは定かではない、ということである。しかし、国民国家というものの暴力性を意識することによってその内部からそれと拮抗しながら生きていくことは可能なのではないか。山之内流に言えばシステム内部からシステムに対しての抵抗を試みるその行為自体が国民国家の暴力性を緩和することになるのではないか、と考えている。

 

 

5.       終わりに

 

以上を持って国民国家論のレポートとかえさせていただく。紙面の制約、及び時間的制約からオリジナルなデータを用いての分析がまったく出来なかった。これは分析対象が研究会1(1)の小論と重複してしまうことを避けるために仕方がなかった。また、第4章は多少主観的に筆を進めてしまったきらいがあることは否めない。多少言い分けがましくなってしまったがここまでこの小論を読み進めてくださった、またこの小論を書くきっかけ与えてくださった小熊先生にはこの場を借りて謝辞を表したい。

 

 

参考文献

天野郁夫『試験の社会史』(東京大学出版会、1983

天野郁夫『学歴の社会史 −教育と日本の近代−』(新潮選書、1992

イ・ヨンスク『「国語」という思想』(岩波書店、1996

上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社、1998

小熊英二『<日本人>の境界』(新曜社、1998

高木博志『近代天皇制の文化史的研究』(校倉書房、1997

西川長夫・松宮秀治編『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』(新曜社、1995

西川長夫・渡辺公三編『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』(柏書房、1999

牧原憲夫『客分と国民のあいだ』(吉川弘文館、1998

文部省『我が国の文教施策』(1997

山之内靖・ヴィクター・コシュマン・成田龍一編『パルマケイア叢書4 総力戦と現代化』(柏書房、1995

ルイ・アルチュセール・柳内隆・山本哲士著 柳内隆訳 『アルチュセールのイデオロギー論』(三交社、1993



[1] 本小論において日本人を「」で括ったのは 小熊英二『<日本人>の境界』(新曜社、1998)とほぼ同様の理由からである。詳しくは同書の序章を参照されたい。

[2] 上野千鶴子 『ナショナリズムとジェンダー』(青土社、1998

[3] 牧原憲夫 『客分と国民のあいだ』(吉川弘文館、1998

[4] 学校制度をこの様に捉える視点は ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」『アルチュセールの<イデオロギー>論』(三交社、1993)に大いに負っている。

[5] 戦前の教育に対しては牧原の前掲書203204項で簡単に考察されている。なお、それを補強する形で、天野郁夫『学歴の社会史』(新潮選書、1992)、天野郁夫『試験の社会史』(東京大学出版会、1983)も参照されたい。

[6] 例えば、総力戦体制化の「女性」を扱ったものとして上野千鶴子の前掲書を参照のこと。また総力戦一般に関しては山之内靖 ヴィクター・コンシュマン 成田龍一 『パルマケイア叢書4 総力戦と現代化』 (柏書房、1995)を参照されたし。

[7] マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(岩波新書、1998

[8] 実質就学率=就学率×日々出席率

[9] これらの数字は 天野郁夫 前掲書の123項を参照した。

[10] イ・ヨンスク『「国語」という思想』(岩波書店、1996)を参照した。

[11] 小熊英二 「崩壊する日本語」『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』(柏書房、1999

[12] 牧原憲夫 前掲書

[13] 大内裕和「教育における戦前・戦時・戦後」『総力戦と現代化』(柏書房、1995

[14] 文部省 『学校基本調査』(1997

[15] 三省堂『新六法』(1997

[16] 山之内靖「方法論的序論」前掲書

[17] 上野千鶴子 前掲書95