2001年度春学期テクニカルライティング最終課題

 

 

 

在日コリアン民族学校の研究

−同化主義と国民化教育の狭間で−

 

 

 

総合政策学部二年 小山田守忠

学籍番号:70002308

E-mails00230mo@sfc.keio.ac.jp

 

 

 

 

キーワード

「在日コリアン」、「民族学校」、「同化主義」、「国民化教育」

 

 

要旨

 現在の在日民族学校は本国との同質性を追求する国民化教育の場であり、必ずしも「在日としての誇り」が育成されうる場ではない。また、日本政府及び文部省の戦後一貫した同化主義のなかで、在日民族学校は制度的抑圧を受けつづけており、そうした教育内容への不満と制度的な不利が、在日コリアンを民族学校から遠ざける要因になってきた。

 本稿では以上の仮説に基づいた上で、各民族学校を三つの類型に分類し、各校のおかれている社会的状況、カリキュラム、学生・教員の構成などについての比較検討を行った。その結果、見えてきたのは在日コリアンの生活の実態にそぐわない「本国志向」の民族学校の現状と、日本側の一貫した民族学校に対する差別、抑圧政策であった。そうした、在日社会、日本社会双方の問題点を指摘した上で、これからの在日コリアン民族学校のあるべき姿についての展望を行ってみたい。

 

 

目次

 

 

1.問題設定

2.先行研究の批判的検討

3.調査対象と研究方法

4.在日民族学校の歩み

4−1.第一期 帰国事業の一環としての民族教育

4−2.第二期 本国の代理戦としての民族教育と外部からの弾圧

4−3.第三期 帰還から定住志向へ

5.現在の在日民族教育の状況とその類型化

5−1.各民族学校の沿革

5−1−1.金剛学園沿革

      5−1−2.白頭学院建国学校沿革

      5−1−3.京都韓国学校沿革

    5−1−4.東京韓国学校沿革

5−2.各民族学校の類型化

5−2−1.民団系か総連系か

5−2−2.一条校か各種学校か

6.各民族学校の比較

6−1.各民族学校のカリキュラムの比較

    6−1−1.金剛学園のカリキュラムの特徴

    6−1−2.東京韓国学校のカリキュラムの特徴

    6−1−3.朝鮮学校のカリキュラムの特徴

6−3.各民族学校の学生・教員の構成

7.仮説の検証

  7−1.国民化教育と在日としての誇り

  7−2.民族学校の衰退

  7−3.これからの在日民族学校の展望

8.本研究の意義とこれからの課題

 

参考文献及び参考URL

 

 

 

1.問題設定

 

本研究の主題は、在日コリアン[1]民族学校衰退の現状を探ることで日本社会と在日社会双方の問題点を明らかにし、今後の在日民族学校のあり方を模索するというものである。

 現在、日本国内に約6万人いると言われる在日コリアンの小・中学校生のうち、約1%が在日本大韓民国民団系の韓国学校に、約10%が在日本朝鮮人総連合会系の朝鮮学校に通っている[2]。従来、在日コリアン児童の民族教育(祖国の言語、歴史、文化の教育)はこうした民族学校と各家庭が担ってきた。だが、「祖国を知らない」2・3世の親が増える中、家庭だけでは十分な民族教育の機会が得られていないのが実情である。こうした中、民族学校の充実が求められてはいるものの[3]、各民族学校への就学者数、及び在日子弟全体に対する就学率は減少の一途を辿っている[金賛汀:1994][4]。これには様々な要因が考えられるが、最大の要因は在日コリアンのニーズに合わない教育内容と、進学に不利な教育環境にあると言える[朴一:1999]。定住という現実に対して進学を優先させるか、差別という現実に対して「民族の誇り」を優先させるかというジレンマの中で、在日の父母達は常に苦悩してきたのである。

現在の在日民族学校で行われている民族教育は、そうした在日コリアンの実情を反映しない、本国との同一性を追求する「海外公民」「居留民」教育(国民化・愛国教育)であり、「在日としての誇り」が必ずしも育成されるものではないのではないだろうか。また、そうした教育内容への不満と、日本政府の同化政策下での制度的不利が今日の在日民族学校衰退の大きな要因になっているのではないだろうか。以上の仮説について、以下考察を行っていきたい。

 

 

2.先行研究の批判的検討

 

在日の民族教育及び民族学校の研究は多数存在する[5]。その大半は総連系朝鮮学校の研究であり、民団系韓国学校の研究を行ったものは少なく、その内容も古さが目立つものが多い。京都の民団系学校である京都韓国学校を扱った姜永祐『日本の中の韓国人民族学校教育』(明石書店、1995)は筆者の教師時代の体験談を綴ったものである。これは学校紹介と日本社会に対する啓蒙的な内容で終始しており、何かしらの研究を行ったものとは言いがたい。また、閔寛植『在日韓国人の現状と未来』(白帝社、1994)は在日韓国人の民族教育全般を扱ってはいるが、在日朝鮮人の民族教育にはほとんど触れられていない。また、掲載されているデータ類がかなり古く、現在の民族学校をとりまく状況の変化に対応しきれているとは言いがたい。黄賛侑『国際化時代の民族教育』(東方出版、1996)は民団系韓国学校と総連系朝鮮学校の両者を扱っており、データも比較的新しい。しかし、全体が「日本政府・文部省=悪、民族学校=善」という構図で描かれており、民族学校側の様々な問題点については言及されていない。

 本研究が仮説として取り上げている「現在の在日民族学校、民族教育は「海外公民」「居留民」教育である」という意見は、金賛汀『在日という感動』(三五館、1994)や朴一『<在日>という生き方』(講談社選書メチエ、1999)などで繰り返し主張されている。だが、その根拠となっている各種データの古さが目立ち、ここ数年の在日・日本・韓国社会の変化に対応しきれているとは言いがたい[6]。また、これらの先行研究は在日民族学校と日本社会の問題点の指摘にとどまっており、具体的な在日民族学校の方向性を示したものではない。ここ数年の在日・日本社会の変化を考慮したうえで在日民族教育の現状を明らかにし、今後の在日民族学校のあり方を模索するという点で本研究には意義があるものと言える。

 

 

3.調査対象と研究方法

 

 本研究では主に民団系韓国学校と総連系朝鮮学校についての調査を行う。民団系韓国学校4校(東京韓国学校、京都韓国学校、金剛学園、白頭学院建国学校)については、各学校ホームページ(以下HP)やその他関係HP[7]に掲載されている学生・教員数やその構成(在日か駐日か、現時採用か本国より派遣か)、カリキュラム構成、沿革などを調査した。朝鮮学校については全国に140校あり、これを今回個人で調査することは不可能と判断し、先行研究などからカリキュラム構成についてのみの調査を行った[8]。なお、HP上からでは入手できなかった詳しいデータや、過去の状況などに関しては実際に学校関係者や民団関係者への聞き取り調査も行った。

 研究方法としては、調査して得られた学生・教員の構成、カリキュラム構成(小・中学校のみ)を後述する民族学校の3類型ごとに比較する(「5.現在の在日民族教育の状況」参照)。カリキュラムの比較は比較対照として日本の義務教育課程のものをもってきているが、国によって同名の教科でも著しくその内容が違う場合があることを初めにお断りしておく。なお、京都韓国学校に関しては小学部が存在しないため、今回のカリキュラム構成の比較からは除外した。白頭学院に関してはカリキュラム編成のデータが入手できなかったため、これも比較対照から除外した。また、朝鮮学校に関しては学生数を公開していないため、各韓国学校との学生・教員の構成の比較対象から除外した。

 

 

4.在日民族教育の歩み

 

 今日の在日韓国・朝鮮人の民族学校の現状を見る前に、現在に至るまでの在日民族教育の歴史を簡単に概観してみたい。45年の終戦から現在に至るまで、在日の民族教育は様々な遍歴を遂げてきた。その流れは大きく分けて以下のような三つの時期に分けられる。第一期は1945年の解放から朝鮮戦争までの期間、帰国事業の一環としての民族教育が始まった時期である。第二期は朝鮮戦争後から60年代の北朝鮮帰還運動までの期間、在日の民族教育が分断した本国の代理戦としての様相を強めていき、外部からの弾圧が始まる時期である。第三期は70年代以降、在日社会全体が日本における定住志向を強めていくなか、民族学校が衰退していく時期である。

 

4−1.第一期 帰国事業の一環としての民族教育

1945815日、日本の敗戦によって解放を迎えた在日朝鮮人たちは夢にまで見た帰国を開始した。終戦当時、日本国内に230万人いたと言われる在日朝鮮人たちは、帰国の準備として日本の言語と歴史しか知らない子女達に民族的な自尊心と誇りを抱かせるための国語、歴史教育をはじめた。同年9月10日には現在の在日本朝鮮人総連合会(総連)の前身である在日本朝鮮人連盟(朝連)が結成され[9]、この朝連を中心にして各地で民族教育が始まる。この背景の一つとして、帰還事業の遅れがあげられる。敗戦後の混乱が深まる中で起こった朝鮮人の帰国問題は日本政府の手に余る問題であったため、帰還事業は事実上朝連の主導下で行われた。だが、帰還船の確保などが難航し、帰還事業が長引くにつれ民族教育が各地で本格的に行われるようになる。しかし、本格的な民族教育を行ったといっても、当時は施設、教師、教材などが不十分な状態であった。そんな困難な状況を克服したのは在日朝鮮人の教師、父系等の血のにじむような努力によってであった[閔寛植:1994]

46年に入って日本の学校の遊休施設を利用しての国語、国史などの教科を主とする教育が、大阪、東京などの大都市で行われはじめ、学校制のもとになっていく。その後、1943年に大阪で設立された建国小・中・高校をその代表例として、各地に民族教育機関が設立されていく。194710月の段階では日本全国で、小学校541校、中等学校7校、青年学校22校、学院が3校存在し、総学生数6万2000名、教員1500名に達した[閔寛植:1994]

こうした民族教育熱は解放直後の新国家建設に期待する在日朝鮮人の民族意識高揚の現れであった。そしてこれらの民族教育は、いずれ建国される新国家に帰ることを前提にした教育でもあった。反共を掲げ、朝連と対立する関係にあった在日本朝鮮居留民団(後の大韓民国居留民団)などの他の団体も、在日朝鮮人が戦前から切望し、つねに念願としてきた朝鮮の独立という流れを踏み外すことはなかった。朝鮮半島での独立国家の建設に多大なる感心を寄せ、民族の独立、新国家建設という思いは在日朝鮮人共通であり、そのための民族教育にかける思いもまた共通であった。そのため、この時期の民族学校の多くは左右どちらの陣営にも属さない中立の立場をとることが多かった。

 

4−2.第二期 本国の代理戦としての民族教育と外部からの弾圧

GHQと日本政府は激化する冷戦の対立構図の中、左傾化していく在日朝鮮人民族教育に対する弾圧を強めていく。日本政府は47年に「外国人登録令」を公布し、在日朝鮮人、台湾人を「当分の間」「外国人とみなす」こととし、差別化を図る一方、教育面においては「日本国民」であるという理由から民族教育に対する介入を行い始める[10]。さらに日本政府は48年の「朝鮮学校設立の取り扱いについて」において「在日朝鮮人の学校教育は、日本の学校教育法に従って行われるべき」であるとし、朝鮮学校の教育の基本である朝鮮語による教育や、朝鮮語教科を正科からはずし、課外教育として取り扱うように求めた。また、その直後に「朝鮮人学校の朝鮮人教職員の適格審査を日本の学校教育法の規定に従って行い」、「適格審査の条件を満たしていない朝鮮人教職員が教壇に立つことは罰則規定の適用を受ける」との通達を出した。これは、要するに文部省の発行した教員免許を持たないものが教壇に立つことを禁ずる処置である。朝鮮語や朝鮮史を教育の基本とする朝鮮学校においては教職員のほとんどが文部省の教員免許を持っていなかったため、この通達に従うことは即、朝鮮学校の閉鎖を意味した。朝鮮学校側はこれに応じず、激しく反発し、48年の「阪神教育闘争」に代表されるような民族教育擁護運動を展開していく。日本政府はこれに対し武力による鎮圧を図るが、激しい抵抗を抑えきれず、朝鮮人教育対策委員会代表と当時の文部大臣森戸辰男の間で「覚書」を交換することで事態の鎮静化が図られた。

 しかし、その後も在日民族教育に対する弾圧は続く。朝連を解散させた日本政府は49年に「学校閉鎖令」を発令し、民族学校の改組、閉鎖方針を明確化、92校の閉鎖と245校の改組を命じ、閉鎖した学校の土地、建物、学校財産を没収した。また、日本政府は52年に「外国人登録法」によって在日朝鮮人の日本国籍を一方的に剥奪し、国籍を喪失した在日朝鮮人には義務教育履行の督促も、義務教育無償の原則も適応されないが、日本政府の「恩恵」として日本の公立学校教育を受けさせることは出来るとの通達を出した[11]。この「合法」的な朝鮮学校の閉鎖措置に対し、在日社会側も「合法」的に民族学校の存続を図る運動を展開していく。それは民族学校を事実上、文部省の管轄外である「各種学校[12]」扱いにすることによって存続させていこうというものであった。朝鮮語=外国語による授業は学校教育法にのっとる正規の小・中・高校では実施できないが、英語学校のような各種学校では禁止されておらず、また、正規の学校では教員免許がない教師の授業、採用は禁じられているが、各種学校では必要としないという点を利用したのである。さらに、義務教育履行の督促を受けないという文部省の通達を逆手にとって、就学年齢に達した在日子弟の公立等正規の学校への就学拒否が法律違反に当たらなくなった。そのため、在日子弟が各種学校の教育をうけることは法的に何の問題もなくなったのである。

 一方、48年以降、本国が北の北朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と南の大韓民国(韓国)に分断され、両者の対立が明らかになるにつれ、在日朝鮮人社会の「分断」も明確になっていく。それまで思想・政治的に中立の立場をとっていた民族学校の多くは、当時在日朝鮮人社会の多数派であった朝連の傘下に入り、民団など南系の団体との対立を深めていく[13]。もはや解放直後に見られた民族教育など在日社会全体の利益に対する両団体の協働といった姿は失われ、以後、民族教育は本国の政策遂行の手段としての色彩を強めていくことになる[金賛汀:1994]

 

4−3.第三期 帰還から定住志向へ

在日の民族教育が解放後に次ぐピークを迎えるのが59年からの北朝鮮への帰還事業が始まるころである。当時、貧困と差別の中で苦しむ在日朝鮮人に対し、北朝鮮政府と総連は「地上の楽園」の素晴らしさを訴え、70年代までに約9万人を北朝鮮に送り込んだ[14]。しかし、北朝鮮国内の悲惨な実情が明らかになっていくにつれ、帰還者は激減する。北朝鮮は帰るところではないという実感を深めていくなかで、在日朝鮮人は必然的に日本での定着ということを強く意識させられていく[金賛汀:1997][15]

 一方、65年に「日韓基本条約及諸協定」が締結され同時に「在日韓国人の法的地位および待遇協定」が締結される。この協定によって韓国籍の人間に協定永住権(国民健康保険への加入権、国外強制退去事由の変更など)が与えられるようになると、36万人が朝鮮籍から韓国籍に切り替え、両者の比率はほぼ11になっていく。

これは冷戦の対立構図の中で西側陣営である韓国が北朝鮮に対し有利になるようにし、当時在日社会の多数派であった総連を分断するという意図をもったものであった。それは、一般の外国人と若干の違いを認めるという微々たる「恩恵」ではあったが、法制度的に無権利状態のもとで得た「権利」であったため、多くの在日朝鮮人が韓国籍に切り替えていった。

しかし、この協定が結ばれたことによって、逆に在日の諸権利が分野によっては悪化するという状況が生じていた。なかでも悪化が一番顕著だったのが民族教育の分野である。民族教育は在日社会が強く要望し、教育の充実に力を入れてきた分野であったが、この協定において韓国政府側は日本政府側に何の保証も求めなかった[16]。そのため本国の「了承」を得る形になった日本政府は同年に「文管三一〇号」通達を出し、公立学校内で行われていた民族学級の中止と各種学校としての民族学校も認可すべきでないとした。これはその後66年に「外国人学校法案」となって現れてくるが、内外の批判にあって廃案となった[黄賛侑:1996]

こうした日本政府の一貫した民族教育に対する弾圧、同化教育の推進という傾向は65年に内閣調査室が発表した以下の論文のなかで端的にあらわされている。

「わが国に永住する異民族が、何時までも異民族として留まることは、一種の少数民族問題として将来困難深刻な社会問題となることは明らかである。彼我双方の将来における生活の安定と幸福のために、これらの人達にたいする同化政策が強調されるゆえんである。すなわち、大いに、帰化してもらうことである。帰化人そのものは、たとえば半日本人として日韓双方から白い眼で見られることもあり、大いに悩むであろう。しかし、二世、三世と先にいくに従って全く問題ではなくなる。」[17]

この発言から読み取れるのは「日本で平等になりたいなら帰化して同化しろ」、「嫌なら北朝鮮、韓国に帰れ」という戦後一貫した日本政府の立場である。1910年と1952年に二度も国籍、及びその選択権を奪われた在日にとって、帰化が容易には受け入れがたいものであることは明らかである。また、「帰化すれば差別がなくなる」という見解も疑わしいものであり、実際に帰化する前に押捺した指紋が帰化後も保存されつづけていたことに対する訴訟も起きている。また、実際には帰化が容易ではないこと、日本政府の都合の良い人間だけしか受理されないなど、帰化条項に関する問題も多い。何より問題なのは、どんどん在日に帰化を勧めていけばそのうちに「全く問題ではなくなる」かもしれないが、それだけではいつまでたっても日本社会の根深い差別の構造は全く問題にはされないという点である。その後日本の高度経済成長が在日社会の定着、定住志向を実質的に支えるようになる一方、こうした日本社会側の問題は触れられることなく、現在に至る。

 

 

5.現在の在日民族教育の状況とその類型化

 

 現在、日本全国で様々な在日子弟のための民族教育の試みが行われているが、その中で質、量共に最も充実した教育を行っているのが総連と民団の運営する民族学校であるとされる[朴一:1999][18]。こうした在日民族学校には大きく分けて3タイプ存在する。まず一つ目は総連系の各種学校である。これは現在全国に140校存在する朝鮮学校のことで、93年の段階で小・中学生にあたる在日子弟の約13%が通学しているとされている(前述のように現在では約10%が通学)[金賛汀:1994][19]2つ目は民団系の一条校である。これは大阪市内にある白頭学院建国学校(幼・小・中・高)と金剛学園(幼・小・中・高)の2校が存在する(後述するが、同じ民族学校として位置付けられる学校でも一条校か各種学校かで内容面に相当な違いが発生する)。3つ目は民団系の各種学校であり、東京の東京韓国学校(小・中・高)と京都の京都韓国学校(中・高)の2校がこれにあたる。以下では、各民族学校の沿革とそれぞれの属性(民団系・総連系、一条校・各種学校)の特徴について考えてみたい。

 

5−1.各民族学校の沿革

 

5−1−1.金剛学園沿革

 大阪市西成区にある民団系民族学校、金剛学園(幼・小・中・高)は小・中・高が一条校の認可をうけており、96年に開校50周年を迎えた。しかし、同校が歩んできた道は、まさに茨に満ちたものであった。1945年に祖国が解放されると10月に朝連が結成され、11月には在日朝鮮人の密集地であった西成区にも朝連西成支部が設けられた。同支部では民族教育についての討議を重ね、当時好況であった同胞の石鹸業者などから寄付金を募った。区内の日本人小学校の一部を借用し、464月に「朝鮮人小学校」を開校し、寺子屋式授業の民族教育を開始した。一方、同年10月には在日本朝鮮人居留民団が結成され、西成区においても支部が結成される。同支部で寄付金約230余万円を集め、12月に現在の位置で800坪の用地を買収するが、両団体の対立の中、学校運営においても暴力事件などの問題が頻発していく。その後、同校は「左右いずれにも偏しない厳正中立な教育を実施する」方針を打ち出すが、494月、に朝連系の教師と青年らが国旗掲揚台に「人民共和国旗」を掲揚し、学園の占拠を宣言する事件がおきる。民団側は実力をもってこれを排除、以後「中立教育」を破棄して韓国の文教施策を遵守する韓国学校としての路線を確立する。

そうした、在日団体での内紛を尻目に日本政府は同年10月に「朝鮮人学校閉鎖令」によって同校を閉鎖させる。学校閉鎖後、学園と民団側は当局に財団法人校認可の申請を出し、503月に学校法人金剛学園設立と金剛小学校(一条校)設置の認可を得た。校名は「西成朝鮮人小学校」から「金剛学園・金剛小学校」に改称され、保育園も併設される。しかし、日本の経済が徐々に復興していくのに反比例して、在日同胞の石鹸業界は大不況に陥る。その結果、寄付金が激減し財政が悪化、同校は「バラック学校」、「ボロ学校」の異名に耐えなくてはならない情況におかれる。その後本国政府の資金援助を受け、中学部を新設するが生徒数は増加せず、学校運営は行き詰まる。その後、阪本紡績社長の徐甲虎氏が理事長に就任、学園の必要経費の不足分(約2億円)を個人で全額負担し、財政危機を解消する。その後60年に高等部を新設するが、阪本紡績が74年に倒産、76年に徐理事長がソウルで急逝すると、学園は再び深刻な財政危機に陥る。その後、慢性的な資金難を理由に8511月に中高校が一条校の認可を得、校名も現在の名称に変更され、現在に至る。

 

5−1−2.白頭学院建国学校沿革

 大阪市住吉区にある白頭学院建国学校は、民団系民族学校のなかで最も長い歴史をもち、民族学校としては最初に一条校の認可を受けた学校である。戦時中、大阪や神戸に住んでいた同胞達が集まって出来た「白頭同志会」という団体が、戦後廃校になりかけた日本の工業高校を買い取り学校法人の名称を「白頭学院」と名づけたのが本校の始まりであった。463月に建国工業学校と建国高等女学校が創立されたのち、翌年47年に建国高校、49年に建国小学校が設立される。そして同年5月に文部省から財団法人の認可を受けたことにより、この日を創立記念日とした。513月には学校法人の認可を得て学校教育法第一条による法的資格を取った。

 同校は創立以来、中立の立場に立ち、理事会には民団系、総連系の人々が一緒に参加していたが、丁度30年目に入った頃から重大な転機を迎えることになる。そして769月に理事会は韓国学校としての教育路線を確立することを決議し、10月には白頭学院正常化推進五ヵ年計画にもとづいて韓国政府から第一次年度の資金が送られる[20]。翌77年には韓国の国旗である太極旗が掲揚され、78年からは韓国政府から教師も派遣されるようになる。

韓国色を鮮明にしていくにつれて、他の民団系学校と同様に、学生や教師の構成にも変化があらわれはじめる。総連系をはじめ、在日コリアンの生徒が減少する一方、韓国から来ている駐日子弟の比率が年々高まっていく。また、60年代までは頻繁に行われていた朝鮮学校との交流も、同校の体制が変化した時期からぷっつり途絶えてしまう。しかし、近年の南北関係の変化により、朝鮮学校とのスポーツなどを通じた交流が再会されているという。

 

5−1−3.京都韓国学校沿革

 京都韓国学校の歩みも他の民族学校に劣らない苦難の行程であった。同校は469月に有志によって京都朝鮮人教育会が設立された日を起源とする。翌47年まず、京都朝鮮中学校が開校され、9月に京都府知事の認可を受けた。校舎は左京区北白川にあった木造二階建て、740坪の予備校を借りたもので、後日学校側が購入した。

48年にGHQと日本政府が朝鮮学校閉鎖令を出した時期には、京大・立命館大・同志社大の学長や宗教人、文化人らが結集して学校を守る運動を繰り広げたため閉鎖を免れることができた。同校は創立当初から民団系の民族学校としてスタートし、当初は立場の異なる子弟の子も通い、一時は中立系の教育をしようと試みたこともあったが、次第に韓国系民族学校の立場が鮮明になっていく。

朝鮮戦争が勃発した翌年の5111月に社団法人「東邦学院」が設立されたのに伴って「東邦学院中学校」に改称。さらに584月に学校法人「京都韓国学園」が設立されたときに「京都韓国中学校」と改められた。60年代に入り、韓国で四・十九学生革命が起こった頃から本国との関係が深まり、同年8月、韓国文教部は同校に対する模範学校建設計画を承認し、翌61年に正式に学校として認可した。634月には同じ敷地内に京都韓国高等学校が2学級73名で開校され、韓国文教部長官が認可を与えた。

このころ、学校理事会は校舎が手狭になったので移転する方針を決め、同じ北白川で3000坪の土地を入手した。だが、地域の住民が建設反対運動を起こし、ブルドーザーを挟んで学校側と住民側が対峙するという事態に発展する。建設反対の理由としては環境の保全などがあげられていたが、その根底には根強い民族差別意識があったことが当時の資料などから伺われる[黄賛侑:1996]。ブルドーザーの搬入に成功し、9割がた工事が進んだ段階になって住民側の反対運動におされた京都市は突然の工事の中止命令を出した。その後2、3年続いた膠着状態の末、学校側は移転を考えなおし、市も代替用の土地を提供するために努力した。

構想は一変し、西京区に6000坪の土地を入手することになったが、今度は校門に通ずる道の所有者が土地の売却を拒否した。これは、図面上では購入した土地にその部分も含まれていたのだが、実際の所有権が異なっていたために起こったことであるが、そのため計画は三度目の変更を余儀なくされた。その後、現在の東山区今熊野本多山町に設立しようとしたが、ここでも「環境問題」などが出てきた結果、裁判闘争にまで発展した。問題があまりにも長期化したため、学校側では79年に老朽化した元の校舎を三階建てに改築して使用せざるを得なかった。

しかし、日本人のなかで同校の窮状を見かねた学者、宗教人、学生などが「京都外国人教育を守る会」を結成し支援運動を展開、裁判もようやく勝利を得ることができた。こうして移転計画が出てから20余年が経過した848月になってようやく新校舎の竣工式を迎えることになった。その後も地元との確執は続いたが、学校側は地元の住民や日本人学校に施設を貸したり、相互で文化祭に賛助出演するなどの地道な交流を辛抱強く続け、現在では地元住民から「非常に好感が持てる」という評価を受ける程までになっている[姜永祐:1995]

 

5−1−4.東京韓国学校沿革

 東京都新宿区にある東京韓国学校は544月に民団中央本部の指導のもと創立された。新宿区若松町にあった元日本陸軍経理学校の木造二階建ての校舎を民団側が買い取り、そこを民団中央本部と共同で使用するという形でのスタートであった。学生数は開校当時、初・中等部あわせて26名と少なく、その多くも教職員による団員宅への地道な個別訪問によって通学するようになった子弟達であったという[21]。地道な教職員たちの努力の結果、学生数は開校二年目にして100名をこえるようになったが、教職員の給料の遅配が恒常化するなど経営状況は悲惨な状況であった。そのため、一時は毎月平均2名程度の教師が辞めていくという異常事態に陥るが、本国からの教師の派遣により難局を乗り切る。55年には初・中等部が東京都の認可(各種学校)を受け、56年に高等部を設置する。その後、61年に本国政府の全額補助によって四階建ての校舎に改築され、翌623月には韓国文教部より正規学校としての認可をうけた。

 一方、80年代に入り本国の経済成長に伴い韓国企業の海外進出が活発になるなかで、公務員や本国駐在商社員の子弟の就学が急増する。その結果、駐日学生数が在日学生数を上回り、全体の学生数の9割を占めるに至る[22]。一番のピーク時であった80年代後半には同校への入学、編入を待つ「待機生」が150人以上もでる事態が発生した。そうした状況に対応するため、91年には本国政府の資金援助(約12億円)を得て現在の校舎に改築し、派遣教師も大幅に増加された。こうした在日が民族学校の中で「マイノリティ」になる状況は90年代半ばまで続くが、97年以降、事態は急変する。タイのバーツ危機に端を発した「アジア通貨危機」の影響は韓国にも及び、97年を機に韓国経済は失速、IMF(国際通貨基金)の管理体制下に入ることになる。本国経済悪化は韓国企業の経営規模縮小に直結し、日本駐在商社員などの子弟の多くが本国に帰還してしまう。そうした状況は多かれ少なかれ民団系民族学校に共通するものであったが、同校では学生数の大多数を駐日子弟が占めていたため、その影響は大きかった。現在も学生数は漸減傾向にあり、金龍満校長自らが民団の各支部を巡回し在日子弟の勧誘を行うという苦しい状況におかれている。

 

5−2.各民族学校の類型化

 

5−2−1.民団系か総連系か

 民団系民族学校と総連系民族学校では教えられるカリキュラムの相違がある。双方とも自国の国民を育成する教育であるという点では変わらないが、その「国民」観が民主主義国家と社会主義国家で相当異なるため、言語(韓国語、朝鮮語)を教えるという以外の共通点はほぼないといってよい。特に総連系学校では金日成・金正日親子を絶対視するイデオロギー教育があらゆる教科にちりばめられており、在日子弟の朝鮮学校離れの一因になっている。一方、民団系学校では全体として親の仕事の都合上日本にやってきた駐日子弟の全体の生徒数に占める比率が非常に高いという傾向がある。その結果、カリキュラム等も本国と同じか、それとほぼ同じものになるという現象が起きている(このことの問題点については後述する)。

 

5−2−2.一条校か各種学校か

 一条校か各種学校かの相違はその民族学校としての性格に決定的に影響する。一条校であることのメリットとして@財政難の解決とA大学受験差別からの解放があげられる。元来、政府、及び文部省からの資金援助をうけられない民族学校は慢性的な資金難におちいっているところが大半であった。また、文部省の認定を受けていないため、日本の学校への進学は法制度上不可能であった[23]。そのため、民族学校を存続させるために一条校に「昇格」する学校が出たのはやむをえないことであった。逆に、一条校になることのデメリットとしては@日本の教育課程に従って授業を行うため、民族科目(言語・歴史)は許容された範囲内でしかできない、A公的には日本語を「国語」と呼ぶように求められる、B文部省の検定を通った教科書以外は使用できない、C文部省の発行した教員免許を持たない人間が教壇に立つことはできない、といった問題が発生する。これは事実上、民族教育の質的な崩壊、日本の同化主義に対する在日民族教育の敗北を意味するものであるため、現在でも資金難に苦しむ多くの学校は一条校への「昇格」申請要求を出さずにいる[24]

 一方、各種学校であることのメリットは@文部省の規定にとらわれず、自由にカリキュラムの編成ができる、A検定を通っていない教科書でも使用できる、B教員免許をもたない教員でも採用できる、などがある。しかし、デメリットとしては、@慢性的な学校運営資金の不足に悩む、A卒業生の日本の学校への進学が法制度上不可能になる、などが存在する。一条校とは逆に民族教育の質は確保されるが、学校運営上の問題が常につきまとうことになり、横須賀の朝鮮学校のように廃校においこまれるケースも出てくることになる。

 

 

6.各民族学校の比較

 

 それでは次に実際の各民族学校の状況を見ていきたい。今回取り上げるのは、金剛学園(民団系一条校)と白頭学院建国学校(民団系一条校)、京都韓国学校(民団系各種学校)東京韓国学校(民団系各種学校)の4校と朝鮮学校(総連系各種学校)である[25]

以上の対象に対し比較検討するのは、@学生、教師の構成、Aカリキュラムの2点である。@学生、教師の構成は、在日子弟と本国から来ている駐日子弟の比率、及び本国より派遣された教師と現地採用の教師(在日であることが多い)の比率を見るためのものである。後述するように、在日子弟と駐日子弟のどちらのほうが多いかによって、民族学校としての性格が大きく変化する。特に民団系民族学校では前述したように80年代以降の韓国経済の急成長に伴い、日本の大都市に各企業の駐在員が急増し、その子弟が各民族学校に大量に流入したことが民族学校としての性格に大きく影響している。Aカリキュラムは民族学校としての性格を決定する最重要ファクターである。このカリキュラム編成の如何によって、国民化教育を重視する教育になるか、現地における適応を重視する教育であるかが決定される。

 

6−1.各民族学校のカリキュラム比較

 それでは、具体的な各校のカリキュラム構成を比較してみたい。表1は各学校の日本の義務教育期間(小・中)における系列科目の年間の配当時間とその比率を示したものである。今回、具体的な比較の対象として取り上げたのは民団系一条校の金剛学園と民団系各種学校の東京韓国学校、総連系各種学校の朝鮮学校と一般の日本一条校のカリキュラムである[26]。ここで問題になるのは民族教育(韓国・朝鮮の言葉と歴史)に相当する科目の時間数と、日本の学校に進学する上で問題になる主要5科目(国数英社理)の時間数である。先に述べたように民族学校に子女を入学させる在日父兄の最大の関心は、日本の学校への進学のための準備(学力、制度面)と民族教育の充実の2点にあるといえる。定住を考えたときに、先には就職という現実がある以上、日本の大学への進学を選択せざるを得ない。だが、民族名、国籍など在日としてのエスニック・シンボルを差別と抑圧のなかで埋没させたくないという思いが、民族学校への進学という形であらわれているのである[27]。こうした在日の父兄のニーズに対して民族学校側はどのようなカリキュラム編成によって答えているのであろうか。表1は各学校における民族教育科目の割合を、表2では各学校のカリキュラムが学力的な面で進学にどの程度有利、不利になるかを見ることを主眼としている。以下、民団系一条校、民団系各種学校、総連系各種学校のカリキュラムを在日子弟の9割近くが通うとされる一般の日本の小・中学校のカリキュラムと比較してみた。

 

<表1 各学校の義務教育期間における系列科目の年間配当時間とその比率>

表1−1 金剛学園小・中学校(民団系1条校)

 

比率(%)

国語(韓)

974

315

1,289

12.3

社会(韓)

105

105

210

2.0

理科

420

385

805

7.6

算数・数学

1,045

455

1,500

14.3

日本語

1,601

525

2,126

20.3

社会(日)

420

420

840

8.0

英語

105

420

525

5.0

芸術・体育

1,463

630

2,093

19.3

技術・家庭

347

210

457

4.3

道徳

104

105

209

1.9

特別活動

313

313

2.9

6,897

3,570

10,467

100.0

(単位 時限)

 

表1−2 東京韓国小・中学校(民団系各種学校)

 

比率(%)

国語(韓)

1,365

490

1,855

17.6

社会(韓)

490

385

875

8.3

理科

525

385

910

8.6

算数・数学

840

420

1,260

11.9

日本語

910

420

1,330

12.6

社会(日)

70

0(70)

70(140)

0.6(1.3)

英語

490

560

1,050

9.9

芸術・体育

1,260

630

1,890

17.9

技術・家庭

245

210

455

4.3

道徳

210

105

315

2.9

特別活動

315

210

525

4.9

6,720

3,815

10,535

100.0

(単位 時限)

 

表1−3 朝鮮初・中級学校(総連系各種学校)

 

比率(%)

国語(朝鮮)

1,763

665

2,428

26.6

社会(朝鮮)

385

420

805

8.8

算数・数学

1,050

455

1,505

16.5

理科

420

420

840

9.2

日本語

897

525

1,422

15.6

英語

 

420

420

4.6

芸術・体育

1,260

455

1,715

18.8

技術・家庭

5,775

3,360

9,135

100.0

(単位 時限)

 

1−4 日本の小・中学校(1条校)

 

比率(%)

日本語

1,532

455

1,987

22.2

社会・道徳

767

490

1,257

14.1

算数・数学

1,011

385

1,396

15.6

理科

558

350

908

10.2

英語

350

350

3.9

芸術・体育

1,463

665

2,188

23.8

技術・家庭

140

245

385

4.3

特別活動

314

210

524

5.9

5,785

3,150

8,935

100.0

(単位 時限)

(『いま朝鮮学校で−なぜ民族教育か−』183ページ、および各学校WEBページより作成)

 

<表2 各小・中学校の主要5科目(国数英社理)の就学時間とその比率>

 

5科目時間数

総時間数

比率(%)

金剛学園

5,796

10,467

55.3

東京韓国学校

4,567

10,535

43.4

朝鮮学校

4,187

9,135

45.8

日本の学校

5,898

8,935

66.0

(単位 時限)

(卞喜載・全哲男『いま朝鮮学校で−なぜ民族教育か−』183ページ、および各学校WEBページより作成)

 

6−2−1.金剛学園のカリキュラムの特徴

民団系一条校である金剛学園のカリキュラムの特徴は、一条校としての規制から民族教育科目の比率が低くなっていることにある。先に述べたように同校は一条校であるため、文部省の管轄下にあり、民族教育科目は限られた範囲内でしか行うことができない。そのため、民族教育を行っているといっても不十分なレベルであり、9年間通っても韓国語で通常の会話を行えるようにはなかなかならないという[28]。その分、主要5科目の占める割合は他の民族学校に比べ多く、また日本の学校への進学が法的に問題にならないため、民族学校の中では比較的進学に有利な環境にあるといえる。また、日本の社会科などの時間もある程度は設けられているため、他の民族学校の卒業生に言われるような「非常識」「現地での適応性を持たない教育」といったことはなさそうである[29]。だが、一般の日本の学校と比較すると主要5科目の割合は低く、総就学時間が一般の日本の学校に比べ1000時限ほど多いため学生はかなりの負担を負うことになる。

以上のように同校のカリキュラム構成は、好意的に解釈すれば「平均的」「中間的」と言え、やや厳しい言い方をすると、どの要素をとっても「中途半端」になりうるカリキュラムであるといえるだろう。

 

6−2−2.東京韓国学校のカリキュラムの特徴

 民団系各種学校である東京韓国学校のカリキュラムは、本国との連動性を最重視している点が最大の特徴であると言える。以前に比べその数は激減したとはいえ、今だ駐日子弟は同校の「マジョリティ」であるため、カリキュラムもその要望にそったものになっているといえる。主要5科目の比率は43%と今回比較した民族学校中で最も低い数値となっているが、韓国の学校に進学する上での主要5科目(日本と同じく国数英社理が受験で用いられる)の比率は56%とそこそこの水準を保っていることからもそれが伺われる。また、英語に関しては一般日本学校の2倍以上の時間を割くなど重点的に行っている事がわかる。また、同校では本国とものと同じ教科書を用いて日本語の教科(日本語、社会(日))以外は全て韓国語で教えるため、日本の学校への進学を考える学生は自分自身で足りない部分をキャッチアップする必要に迫られる。また、総就学時間も今回比較した学校のなかでは最も多く、生徒は多大な負担を負うことになる。

さらに民族教育科目である韓国語、社会(社会)は本国の受験用科目としての傾向が非常に強いという点が指摘できる。駐日子弟の多くは「本国の上流層に属する」子女達であり、「みな優秀」で両親の教育熱も高いため[30]、同校のカリキュラムもそうした要望にそったものと考えられる。こうした状態のため、中学から編入してきた在日の学生などが全く授業についていけなくなる事態が起きるなど、在日と駐日の間で学力に大きな差がつきやすい。また、本国の歴史教科書には在日に関する記述はほとんどなく、在日が「自分達の」歴史を学ぶという機会はほとんどないといってよい。さらに、日本の社会科の比率が最高でも1.3%しかないなど極端に低くなっており、日本社会への適応という面で難があるといえる。また、各種学校である以上、法的には日本の学校への進学は不可能であることは言うまでもない。以上のように同校は「在日韓国人のための民族学校」であると言うことがためらわれるほど、本国との連動性が高いということが言える。これは暗に在日韓国人に対して「本国を志向しろ」「韓国に留学しろ」といっているようなものである[31]。もちろんそのような選択肢が用意されていること自体は素晴らしいことだと思うが、在日の大多数の現実が「定住」である以上、もうすこし日本社会への適応を考えたカリキュラム編成にすべきであろう。

こうした同校の「本国の方を向いた」性質はその母体である民団中央本部の「在日韓国人の大韓民国国民化」の基本方針を受け継いだものであるといえる。在日韓国人を「居留民」であると見なし、日本における反共、反北の基地として利用するという韓国政府と民団の性格は、以上のような現地への適応性を持たない教育というものに如実に反映されているといえる。こうした点が民団やその系列の民族学校全体が在日社会から敬遠される一番の理由であるのだが([金賛汀:1994])、それについては後述する。

 

6−2−3.朝鮮学校のカリキュラムの特徴

 総連系各種学校である朝鮮学校のカリキュラムは、民族教育科目の充実度とは反比例して、全く日本社会への適応性に欠けた教育であると言える。民族教育科目の全体に占める割合は35%と今回比較した民族学校中で最も高い数値になっており、ほとんどの授業が朝鮮語で行われるため、卒業生は簡単な会話程度なら全く問題ないレベルになるという[32]。しかし、主要5科目の占める割合は45%と東京韓国学校に次いで低く、社会(日本)に至っては全く存在しない。朝鮮学校の卒業生がしばし「非常識である」などといわれるのは、このことに一因があると思われる。また、東京韓国学校同様に本国のカリキュラムにそった学習を行うため、日本の受験の範囲とはズレが出てくる。また、ほぼ全ての科目に金日成・金正日親子に対する忠誠教育がちりばめられており、在日社会から朝鮮学校が敬遠される要因になっている。

同校で「民族教育」がある程度以上行われているという点は評価できるが、同校のカリキュラムでは日本の学校への進学にも、現実の生活への適応にも難があるといわざるを得ない。在日朝鮮人にとって北朝鮮への帰還は在日韓国人のそれ以上に現実ではなくなっている現状を鑑みた場合、もう少し定住という現実をふまえたカリキュラムを構成する必要があるのではないだろうか。在日朝鮮人を「海外公民」とみなし、対南工作の道具として扱ってきた北朝鮮政府、総連側の基本姿勢は、在日朝鮮人の定住という現状をあまり考慮に入れないこうしたカリキュラム構成の中にも貫徹していると言えるだろう。

 

 以上の素描からわかるように、基本的に在日民族学校は現地への適応性を持った教育と民族教育を限られた条件のもとで両立させる必要に迫られるという非常に困難な状況におかれている。そのどちらを重視するかが、その民族学校の性格を大きく左右することになる。結果から言って、現在の民族学校においては、進学しようとしても制度的、学力的不利は常につきまとい、民族教育をしようとしても、制限が設けられたり、「海外公民」「居留民」教育(国民化教育)になりがちだと言える。そのため、在日父兄のニーズ――そもそもそれは「二兎を追うものは一兎をも得ず」である可能性が非常に高いのだが――に応えられず、敬遠されているのが各民族学校の現状であるといえる。

 

6−2.各民族学校の学生・教員の構成

 次に、各学校の学生と教員の構成を見てみよう。表3は民団系民族学校4校の学生数と教員数、そしてその構成――在日か駐日か、現地採用か本国からの派遣か――をあらわしたものである[33]

 

<表3 民団系民族学校の学生数と教員数及びその構成>

(学校名)

(データ年数)

学生数(下段:在日学生数)

総教員数

合計

派遣

現地

講師

金剛学園

95、00

39

98

54

42

233

33

24

56

43

24

167

4

23

6

白頭学院

94、99

50

213

178

206

647

52

20

120

143

170

453

5

35

12

東京韓国学校

95、00

405

220

206

831

60

36

21

147

204

10

22

28

京都韓国学校

99、99

46

32

78

27

76

76

2

10

13

(単位 人) 

[黄賛侑:1996]、及び各学校WEBページより作成)

 

 この表によると各学校における在日子弟の全体の学生数に占める割合は、金剛学園が72%、白頭学院建国学校が70%、東京韓国学校が24%、京都韓国学校が97%となっている[34]。この中で目立つのはやはり東京韓国学校の在日子弟比率の際立った低さである。同校の高等部に関してのみ在日子弟の比率が70%と高くなっているが、これは在日子弟に対する本国有名大学への推薦の特別枠が存在し、それに在日子弟が殺到しているためであると思われる。彼らの多くは高校から同校に入学しており、語学力の不足が顕著であり本国の一流大学へ進学した後、大学の講義についていけないものが少なくないという。日本の大学に進学できない分、他の韓国人子弟と同じように本国の大学へ進学させようというのが、同校の一貫した方針であるが、それは裏を返せば「日本の大学にはいけないものである」という現状を追認したものであるともいえる。それも一つの選択肢でありうるということは先に述べたが、やはり、在日の現実は日本にある以上、日本の大学への進学の道を何かしらの方法で探っていくべきではないだろうか[35]

 また、教師の構成に関しても東京韓国学校の派遣教師の多さが際立つ。これは同校の学生の大半がその後本国での受験戦争に参加する駐日子弟であるという事態への対処策であるともいえる。しかし、そうした教師の中には「在日」の存在を全く知らずに日本に来たものもおり、(!)彼らが「お前は韓国人なのに何故韓国語が下手なのか」ということを平気で在日子弟に言うこともしばしである。在日民族学校の教員の現地採用は民団系学校では難しく[36]、派遣教師の存在なくしては民族学校が立ち行かないのもまた事実ではあるが、そうした学校が一体何の目的でつくられたものであるのかを忘れるようでは在日父兄の信頼をこれから勝ち取ってゆくことは困難であるだろう。

 

 

7.仮説の検証

 

それでは最後に本研究における仮説を検証してみたい。そして、その当否を判定すると共に、これからの在日民族学校のありうる姿についての簡単な考察を行ってみたいと思う。

 

7−1.国民化教育と在日としての誇り

 本研究における第一の仮説は「現在の在日民族教育は本国との同質性を追求する国民化教育であり、「在日としての誇り」が必ずしも育成されうるものではないのではないか」というものであった。現在の在日民族教育が本国との同質性を追求するものであるという点については、東京韓国学校や朝鮮学校のカリキュラム編成を見る限り明らかである。金剛学園は一条校であるため、そこまで顕著な傾向を示しはしないが、「韓国人としての自覚をもつ教育」を目指し、行事のたびに韓国の国歌である「愛国歌」の斉唱を義務付けられるなど、本国の韓国人との同質性を追求するという姿勢に変わりはない[37]。こうした民族学校の傾向はその出資母体である民団・総連の「本国志向」を如実に表したものであるといえる。

 では、そうした国民化教育の問題点とは一体何であるのであろうか。確かに在日韓国・朝鮮人は国籍的にはそれぞれ韓国・朝鮮人であり、一見本国と同様の教育をうけることに何ら問題はないように思われる。しかし、朴一は前掲書『<在日>という生き方』のなかでそうした国民化教育には二つの問題点があると述べている[38]

第一に、国民化教育において、祖国の韓国・朝鮮人が理想的な民族の範型として想定されている限り、言語・文化・生活様式の面で脱「民族化」している在日コリアンは、彼らよりも民族的に「劣った存在」としていつまでも認識されることになるという問題が発生する。ここでは在日コリアン自身のエスニックな存在意義は問われることはなく、祖国の韓国・朝鮮人とは違った独自の生き方も否定されることになる。しかし、民族紛争が多発する昨今の多民族国家のケースを見ても分かるように、多用な民族やエスニック集団を一つの「国民」という枠組みで統合しようという試みには限界がある。在日コリアンにはすでに半世紀近い固有の歴史があり、彼らの民族的特質は世代変遷につれ日本社会の影響を受けながら、本国のそれとは大きく変化したものとなった。その結果、在日コリアンは本国の朝鮮民族とは必ずしも同一視できない独自のエスニック集団に変貌したといえる。そのような彼らを本国の国民と統合しようとする現在の民族教育では、彼らの「日本人でも韓国・朝鮮人でもない」エスニシティとしてのオリジナリティを損ないかねないと朴は述べる。第2に、国民化教育では対象が該当国の国民に限定されてしまうという問題が発生する。国民化教育の対象が韓国・朝鮮籍を有する人々を指す限り、その民族教育は韓国・朝鮮籍の堅持を前提として行われる。この結果、民族教育の対象は韓国・朝鮮籍を有する在日コリアンに限定され、17万人にのぼる帰化者=日本籍コリアンやコリアン・ジャパニーズ(韓国・朝鮮系日本人)はそこから抜け落ちてしまう。これでは、毎年数万人規模で膨張を続ける日本籍コリアンやコリアン・ジャパニーズなど多様化する在日コリアンの実態には対応できないと朴は述べる。

 このような意味において、本国との同一性を追求する国民化教育では在日のエスニックな存在意義――「在日としての誇り」――は必ずしも育成されえないということができるだろう。

 

7−2.民族学校の衰退

 次に第2の仮説である「教育内容への不満と制度的不利が今日の在日民族学校衰退の大きな要因になっているのではないか」という点を検証してみたい。繰り返し述べてきたように、現地への適応性を持たないカリキュラムと場合によっては9年間通っても簡単な会話さえ出来ないこともある民族教育に対する在日父兄の失望は大きく、民族学校が在日社会から敬遠される大きな要因になってきた。また、同化主義の観点に立った日本政府及び文部省の在日民族学校に対する抑圧的な政策が、「定住」という言葉と共に在日父兄に重くのしかかり、民族学校が敬遠される要因になってきたこともまた事実である。

 

7−3.これからの在日民族学校の展望

 ではこれからの在日民族学校のあるべき姿とは一体どのようなものでありうるのだろうか。第一に、それは「日本人でも韓国・朝鮮人でもない」在日のエスニックな存在意義をも肯定できるような形のものでなくてはならない。そのための具体策としては、「在日の歴史」教育を行うことが有効であると思われる。先に述べたように在日コリアンはすでに半世紀近い固有の歴史をもっており、それを編纂し教育することは在日コリアン達が「在日としての誇り」を持つための一つの立脚点になりうるであろう。そして、第二に在日の定住・進学という現実を踏まえたカリキュラム編成を行える必要があるであろう。そのための一つの方策としては、韓国・朝鮮語を選択科目にするということが考えられる。言語教育は民族教育の大切な柱の一つではあるが、その習得には多大なる労力と時間がかかる。今までは、言語教育と進学教育を両立させようとしてどちらも中途半端になるといったケースが多かったが、これを選択科目にすることで個別のニーズにあった言語教育と進学教育を行うことが可能になるかもしれない。第三には、日本の地域社会との連帯性をもった教育が行われなくてはならない。今までの民族教育は日本社会から「隔離」された環境下で行われてきたという傾向が強い[朴一:1999]。このやり方は、自民族の誇りを生徒に植え付けるという点では有効であるが、外界に対する抵抗力が育たず、卒業後に日本社会への適応が困難になることが多い。また、何よりも在日コリアンが「隔離」教育されている限り、彼らを取り巻く日本人の意識改革が出来るはずがない。結局問題は、在日コリアンの子供達に日本人の前で自らの出自を隠さない姿勢を養うと共に、それを迎え入れる日本社会との異文化理解を進めていかなければ、在日コリアンの受け皿である日本社会は変わらないということである。そのために何よりも求められるのは本国志向が強く、在日コリアンの現状から目を逸らしつづけてきた民団・総連の両団体の体質変化である。

 また、日本政府および文部省側の改善が必要とされる点は、やはり民族学校に対する補助金の交付と国立大学への入学規制の撤廃など、一連の同化主義政策の見直しである。在日民族学校がこれから在日社会の中で支持を得て、日本社会によりいっそう根付いていくためには、在日社会・日本社会双方の以上のような点に関する改善努力が必要になるであろう。

 

8.本研究の意義とこれからの課題

 本研究は、在日コリアン民族学校衰退の現状から日本社会と在日社会双方の問題点を明らかにし、今後の在日民族学校のあり方に対し一定の解答を出したという点で意義があるものといえる。しかし、京都韓国学校、白頭学院建国学校、そして各朝鮮学校に関しては調査が不十分であったため、本研究は在日民族学校の大雑把な傾向をつかむに留まった。また、本研究では民族学校以外の在日民族教育[39]には言及されていないため、在日民族教育

全体の概観はできなかった。また日本政府の同化主義傾向も在日に対する側面からしかフォローしていないため、これを必ずしも日本政府一般の傾向と位置付けることはできなかった。以後は、今回調べきれなかった各種データ類の収集、民族学校以外の在日民族教育との比較、在日以外の日本のエスニック・マイノリティ民族教育との比較、日本以外の在外コリアン民族教育との比較などを行っていきたいと思う。

 

 

 

参考文献及び参考URL

 

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     朴一『<在日>という生き方−差異と平等のジレンマ−』講談社選書メチエ、1999

     黄賛侑『国際化時代の民族教育−子どもたちは虹の橋をかける−』東方出版、1996

     徐暎喜『朝鮮学校の二ヶ国語教育』湘南藤沢学会、2000

     姜永祐『日本のなかの韓国人民族教育−民族教育四十年の体験が語る−』明石書店、1995

     仲尾宏『Q&A在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識』明石書店、1997

     梁泰昊『在日韓国・朝鮮人読本−リラックスした関係を求めて』緑風出版、1996

     韓国兵庫青年会議所『親と子が見た在日韓国・朝鮮人白書−在日韓国・朝鮮人と日本人の三つの意識調査−』明石書店、1994

     鄭早苗、朴一、金英達、仲原良二、藤井幸之助『全国自治体在日外国人教育方針・指針集成』明石書店、1995

     朴慶植、張錠寿、梁永厚、姜在彦『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター出版部、1989

     福岡安則『在日韓国・朝鮮人−若い世代のアイデンティティ−』中央公論社、1993

     禹在植『ヨンルン(年輪)』東京韓国学校編纂室、1992

     卞喜載・全哲男『いま朝鮮学校で−なぜ民族教育か−』朝鮮青年社、1998

     在日本大韓民国民団中央本部組織局『図表で見る韓国民団50年の歩み』五月書房、1997

     在日本大韓民国民団中央本部組織局『Q&A100北韓・総連−韓国民団は、いま、こう考えている−』五月書房、1996

     姜徹『在日朝鮮人史年表』雄山閣、1983

     黄長Y著、萩原遼訳『黄長Y回顧録−金正日への宣戦布告』文藝春秋、2001

     朴三石『日本のなかの朝鮮学校−21世紀にはばたく−』朝鮮青年社、1997

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・朝鮮新報 http://www.korea-np.co.jp/

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HAN http://www.han.org/a/

・その他多数のHP参照



[1] 在日コリアンとは韓国籍を持つ在日韓国人、朝鮮籍をもつ在日朝鮮人の総称である。

[2] http://www.asc-net.or.jp/koreatown/zainichi.htm、各民族学校HPなどの資料より推定。

[3] http://www.geocities.co.jp/Athlete-Sparta/9571/index.htmなど参照。

[4] 金賛汀「在日という感動」三五館(1994)、139ページ、各民族学校HPなど参照。

[5] むしろ「在日」を扱った研究なり書籍で、民族教育に言及していないものの方が稀である。

[6] ここ数年の大きな変化としては、韓国がIMFの監察下に入ったことと、それによって韓国国内経済が停滞したことがあげられる。その結果、韓国企業の日本駐在員や韓国学校に通う駐在員の子弟数が激減し、東京韓国学校など駐日子弟の比率が高い韓国学校の経営が悪化してきている。

[7] 参考URL参照。

[8] 主に徐暎喜「朝鮮学校の二ヶ国語教育」湘南藤沢学会(2000)、卞喜載・全哲男『いま朝鮮学校で−なぜ民族学校か−』朝鮮青年社(1988)などを参照。

[9] 左右合作の唯一の在日組織。結成当初は民族主義者・社会主義者・対日協力者・協和会幹部など思想的に雑多な集団であったが、後に左派グループの社会主義者・元労働運動活動家たちによって主導権が握られていく。

[10] 1947年4月の文部省学校教育局長名で通達された「朝鮮児童の就学義務に関する件」において「在日朝鮮人が日本の法令に服する以上、日本人同様の就学義務がある」とした。

[11] 19532月、文部省「朝鮮人子女の就学について」。

[12] 学校教育法83条の「各種学校」規定に相当する学校のこと。各種学校の認可権は文部省でなく都道府県にあるため、1953年の京都朝鮮学園の認可を初め、各地の都道府県も各種学校として民族学校の設置を認可していく。

[13] 当時、民団は右派、親日派(戦争協力者)の集まりであると認識されており、在日朝鮮人の多くが彼等に嫌悪感を抱いていたため、在日社会の多数派にはなりえなかった。民族教育の規模でも、朝連系民族学校が初級学校541校、中学校7校、高校7校(47年当時)であったのに対し、民団系民族学校は小学校52校、中学校2校(48年当時)と朝連系の十分の一の規模であった[金賛汀:1997]

[14] 北への帰還者達のその後については黄長Y「黄長Y回顧録 金正日への宣戦布告」文藝春秋(2001)に詳しい。彼らの多くは「悲惨な状況」の中で死んでいったという。

[15] 金賛汀「在日コリアン百年史」三五館(1997)。

[16] この協定を締結する上での韓国政府の立場は前掲書[金賛汀:1997]に詳しい。

[17] 内閣調査室「調査月報」19657

[18] 朴一『<在日>という生き方』講談社選書メチエ(1999231232ページ参照。その他の民族教育については閔寛植『在日韓国人の現状と未来』白帝社(1994)に詳しい。

[19] 金賛汀『在日という感動』三五館(1994139140ページ参照。朝鮮学校は生徒総数を公開しておらず、この数字も内部資料からの推計である。最近では在日の父兄の民族学校、総連離れが進んでおり、生徒数はさらに減少しているとされている。

[20] 76年というのは朝鮮半島において緊迫した情勢が続く時期であった。韓国では朴正煕政権と学生・民主陣営の間で激しい衝突が繰り返され、また8月には板門店で共和国側警備員と米軍人のあいだで乱闘となった「ポプラ事件」などが発生した。同校に限らず、そうした本国の緊張関係が在日社会に強い影響を与え続けた時期に、中立を標榜する民族学校はいずれかの陣営に属していくのだった[黄賛侑:1996]

[21] 東京韓国学校の過去の状況に関しては、同校が毎年発刊している「ヨンルン(年輪)」の33号(1992年)と、民団・同校関係者への聞き取り調査の結果をもとに記述を行った。

[22] その結果、カリキュラムも本国と同一のものになっていくことになるのだが、これについては「6−3.各民族学校のカリキュラムの比較」で述べるのでここでは省略する。

[23] 実際は「学校教育法施行規則(第63条)」の第5項(「その他大学において相当の年齢に達し、高等学校を卒業した者と同等以上の学力があると認めたもの」)を法的根拠として公私立大学では在日民族学校の卒業者に対しての入学を許可している(97年の段階で公立大学57校中30校、私立大学431校中220校が門戸を開いている)。

[24] 現在、いくつかの総連系朝鮮学校は資金難を理由に一条校への認可申請を出している。

これに対し文部省側は朝鮮学校は教育法上の学校ではないと断定したうえで、一条校としての認可は与えないという方針を現在でも貫いている。

[25]朝鮮学校に関しては全国で同じカリキュラムを行っているものとして扱っているため、特定地域の朝鮮学校を比較しているのではないことをお断りしておく。そのため、朝鮮学校の沿革については割愛した。

[26] 白頭学院建国学校と京都韓国学校に関してはカリキュラム関係の資料の入手が完全ではなかったので今回は割愛した。

[27] 民団新聞2000816日「民族学校振興を考える」など参照。

[28] 民団新聞2000816日「民族学校振興を考える」参照。

[29] [徐暎喜:2000]12ページ参照。

[30] 『ヨンルン(年輪)』33号(1992年)107108ページ。

[31] 同校の教育目標からしてすでに「世界化の主役となる他の人の役に立ち尊敬される韓国人の育成」である。

[32] 民団新聞2000816日「民族学校振興を考える」参照。

[33] 朝鮮学校に関しては基本的に学生が「本国からやってくる」ことがないため、在日子弟の比率は100%であるとされている。

[34] データの年数が学生の構成で9495年と古いのは在日、駐日の構成が分かるデータを学校側が公表していないためである。

[35] 同校では一部の日本の私立校への推薦枠も存在することをお断りしておく。

[36] 総連系学校では朝鮮大学という高等教育機関が存在するため教員の確保は比較的楽であるという。

[37] 金剛学園HP参照。

[38] 前掲書終章参照。

[39] 地方ごとの民族学級、土曜学校など。