\documentstyle[ascmac,epsf]{koarticle} 
\pagestyle{empty}
\begin{document} 
\begin{shadebox} 
\begin{center} 
\vspace*{0.5cm}
{\LARGE\mb\bf 「内なる他者」の解体分析\\〜日韓併合期の対朝鮮言説から〜}\\ 
{\large\mb\bf 総合政策学部4年 79604382 佐藤真理} 
1999年度卒業論文
\vspace*{0.5cm} 
\end{center}
\end{shadebox} 
\vspace*{1cm}

\part*{序論}

本稿は、日韓併合期(主に明治43年8月から9月)の新聞における対朝鮮言
説の分析である。明治期から日帝時代にかけて朝鮮がどのように表象されてき
たかについては、過去に多くの先行研究がある。その多くは、戦前の歪んだ朝
鮮観の批判と読み直しという観点から行われている。歪んだ朝鮮観とは、一般
に、朝鮮史には自主的発展がないとする「朝鮮他律性史観」、日本と朝鮮の人
種的起源は同一であるとする「日鮮同祖論」、朝鮮の後進性を主張する「朝鮮
停滞論」に分けられるとされている。それらの虚構性を明らかにして、日本の
植民地主義を批判する、あるいは朝鮮の独自の発展の歴史を描き直そうとする、
といった観点から行われているのが戦後の「朝鮮像」分析の流れであった。

しかし私が分析の中心に置きたいのは、朝鮮がどのように描かれたか、そのも
のではなく、朝鮮が日本との関係においてどう位置付けられたのか、またどの
ような論理によってその位置づけが支えられていたのか、である。近年、ポス
トコロニアル論の流行により、宗主国対植民地という構造そのものが脱構築さ
れ、従来の歴史研究とは異なる視点で、日朝関係に焦点を当てる研究が増えつ
つある。特に、小熊英二『日本人の境界』では、台湾・朝鮮領有等に際しての、
日本の側の主体性のゆらぎを明らかにした。私の分析も、こうした流れをふま
えて、日本というアイデンティティが確立していくプロセスの一端を明らかに
しようとするものであるが、「日本」の境界設定そのものではなく、再び「朝
鮮像」の分析に重点を置くものとしたい。それによって「日本」と「朝鮮」が
どのように位置付けられていたかを明らかにしたいのである。ここでいう「位
置づけ」とは、自己と他者にある一定の価値を付与し、その関係性を明確にし
ていく事である。この場合の自己と他者は、確定不変のものではなく、境界を
設定し、内部において均質化をはかっていくプロセスによって画定していく。
自己と他者の境界を画定する行為と、自己と他者にあるイメージを投影する行
為は、表裏一体のものなのである。それを踏まえた上で、後者のプロセスを新
聞による朝鮮表象の中から読みとっていきたい。

しかし新聞論調の分析のみでは、日本と朝鮮がどう位置付けられていたかの全
貌を描く事は出来ない。本稿の一つの目的は、限られた資料における朝鮮の位
置づけがどのような価値基準に依拠していたかを見ることによって、国民国家
が他者を表象する際に働く力を明らかにする、一つのケーススタディとする事
である。日本の例を選んだのは、よく指摘されることであるが、日本が当時後
発国でありながら植民地を領有していたという特殊な状況の興味深さからであ
る。西洋の植民地主義が、自己と他者を二項対立に位置付け、他者を俯瞰・展
望することで自らの優位性を保っていたとするならば、そうした視線の対象で
もあった日本が、どのように自らを主体化し、なおかつ朝鮮を客体化する事が
出来たのか。これがポストコロニアル的視点から日本を扱う面白さである。

また、日韓併合期を扱ったもう一つの理由は、その特殊な政治的状況ゆえに、
広い意味での権力によって情報が操作され、言説が形成されていった事が最も
分かりやすいからである。植民地領有を正当化するような「朝鮮」像の形成は、
現在では考えられないほど、明らかな政治権力による知の支配を窺わせる。に
も関わらず、そうした表象の際に使われた論理は、現在の国民国家が他者を位
置付け、自己を確認する際にも全く同様に機能しているのではないかと私は考
えている。だとすれば、先行研究によってその虚構性が徹底的に明らかにされ
ている「朝鮮」言説の中に、日本が国民国家としてのアイデンティティを確立
するためのある価値基準を見出すことによって、現代的文脈においては見えに
くいそうした価値基準の非・普遍性、政治性を浮き彫りにすることが出来るの
ではないだろうか。

本稿では、朝鮮を扱った新聞記事を、日本と朝鮮の位置づけという観点から二つ
に類型化して分析する。勿論それらの記事は、「他律性史観」や「停滞論」とも
分類し得るものであり、福田徳三の影響を受けていると思われるものや、喜田貞
吉が論を寄せているものなど、歴史学、経済学、人類学などによる朝鮮について
の研究との関連がある。しかし、ここでの分析では、そうした学問的蓄積との対
応関係にはほとんど触れなかった。何故なら、新聞記事の分析の意義は、無秩序
な表象の総体の中から、観念としての「朝鮮」が形成されていく過程を見ること
であり、論としての整合性よりも、使われる用語とその頻度、文章のニュアンス、
記事の配置などを含めた全体から、一読者がどのように朝鮮像を受容するかを推
測することにあると考えるからである。実際、記事の多くは、きちんとした証拠
を挙げて論を展開しているというよりも、一般読者への呼びかけという形で、様々
な理論を併用しながら、併合への心構えや朝鮮への接し方を説いているものが多
い。学術論文と違い、新聞記事は読者へのメッセージ性が強く、その分緻密性に
欠けるものである。だからこそ、国家的アイデンティティが如何に構築されたか
を見るために、一般の国民への媒体という色彩の強い新聞を分析することに意味
があるのである。

\part*{本論}
\section{後発国のアイデンティティ〜オリエンタリズム的自己形成とその限界〜}

「他者」について語ることは、一つの権威である。それを可能にするのは、「自己」
と「他者」の文化的ヘゲモニーであり、それと結びついた現実の諸制度である事を、
西洋のオリエント表象の分析を通じて明らかにしたのが、E・サイードの『オリエ
ンタリズム』であった。「我々」が「彼ら」に関心を抱き、理解し、把握し、支配
したいと思う。その意志そのものが、様々な権力の交換過程の中で生成されたもの
であり、それが言説としての「他者」を創り出すのである。その場合の「自己」と
「他者」とは、常に二項対立的認識論に基づくものであった。「他者」は、「自己」
を中心とした世界観の中で、「自己」と対置するもの、「自己」を補完するものと
して認識された。従って、表象された「他者」は、「自己」の優越性の意識を投影
したものとなるのである。

この「自己」と「他者」の関係が、日本の植民地に対する視線の中にも存在する
として分析したのが、いわゆる「日本版オリエンタリズム」である。姜尚中が指
摘したように、植民政策学や東洋史学によって、緻密で論理的整合性を持った
「朝鮮」が創り上げられ、それによって日本は「朝鮮」を理解しているという権
威を獲得した。\footnote{姜尚中『オリエンタリズムの彼方へ 近代文化批判』
岩波書店、1996年}次章で取り上げるように、そのような知と権力の相関関
係は、新聞記事の中にも垣間見る事が出来る。しかし、「他者」を再構成するた
めの緻密な制度、学問と政治による「他者」の蓄積のノウハウは同じでも、「他
者」を認識する仕方において、日本と西洋では大きく異なる。

後発国が、中世的世界観から抜け出し、新たな自己認識を獲得しようとすると
き、どのような心象地理が描かれたのか。国民国家としての日本が成立するに
あたって、最も急務だったのが、まず西洋型の政治的制度を整えることが急務
であり、そのために多くの西洋思想が輸入された。そうした状況の中で日本は、
西洋の言葉によってしか、国家としての「自己」を描くことすら出来なかった
と言ってよい。また、西洋においては、「西洋」と「東洋」という大まかな認
識論的区別の中から長い年月をかけて描かれてきた心象地理を、帝国主義的な
「他者の発見」が、より精微で洗練された無機質なものに変え、そうした出来
た近代型オリエンタリズムが政治的支配を正当化するという、国家とオリエン
タリズムの相互依存・同時発生的な関係が見られた。しかし、日本が国民国家
としての体を整えるプロセスにおいて、「西洋」と「アジア」をどう位置付け
るかは、自らの国家的アイデンティティの形成とより緊密な関係を持つ急務の
課題であった。従って、植民地支配という政治的関係における「他者」の位置
づけは、国民国家そのものの性質と深く関わりを持つ。

国民国家として備えなければならない法的・政治的・社会的な制度が自明のものと
して存在する以上、独立国家日本の確立を願った明治初期の知識人は、封建的な慣
習と儒教的思想を捨て、それらを目標として掲げざるを得なかった。進むべき道と
かつての自己の姿が明確に対比されるような世界観の中で、ある種の客観的な優劣
の基準が受け入れられ、それに乗っ取って「自己」と「他者」の位置づけが成され
たのではないか。西洋の圧倒的な優位性を認めつつも、日本を客体として監視する
西洋の視線から逃れるためには、西洋を優位とする価値基準を受け入れつつ、自ら
を主体化するしかあり得ない。そうした試みの一つが、福沢が『文明論の概略』で
提示した、文明ー野蛮の水準によって日本を評する見方であった。逆説的であるが、
ギゾーとバックルを下敷きにしたこの論理の中に「自己」と「他者」を位置付ける
ことによって、日本は初めて「西洋」を相対化出来る。そうすることによって、日
本は、「西洋」そのものではなく、究極の理想状態としての「文明」を目標とする
ことが出来るからである。

\hspace{-1.7cm}
\noindent\null\hfill\begin{minipage}{11cm}
  西洋と「オリエント」の差異は、「我々」と「彼ら」の認識論的区別の中から
生まれたためであった。西洋にとっては、イスラム諸国も新大陸も極東もそれぞ
れ「自己」を投影する「他者」として存在したのであり、西洋と非西洋の区別が
あってこそ、優と劣、洗練と素朴といった価値がそこに見出された。しかし、日
本の場合には、一元的な優劣の基準を受け入れて初めて、「自己」と「他者」の
関係を規定することが出来たのではないだろうか。つまり、朝鮮に対する蔑視の
構造は、あくまでも右図におけるBとC、あるいはCとDのような日本と朝鮮の
位置づけに基づいているとするなら、オリエンタリズムの理論だけでは、朝鮮に
対する視線を解明することは出来ない。また、こうした位置づけでは、植民地支
配を正当化するという現実的な文脈に置いて、オリエンタリズムが果たした役割
を担うことが出来なかったと思われる。より優位なAという存在が有る以上、C
を知り、Cを支配するという権威をBが獲得することは難しいからである。
\end{minipage}\hfill\begin{minipage}{3cm}
\begin{center}
\epsfile{file=/home/s96438ms/chart1-txt.eps,height=7cm}
\end{center}
\end{minipage}
\vspace{0.1cm}
\\

ここで、朝鮮併合時の時代状況を簡単に把握しておきたい。現在の日本通史では、
明治初期から存在した征韓論、日清戦争、朝鮮の保護国化等は一つの流れとして
描かれ、その当然の帰結として日韓併合が理解されがちであるが、この当時の日
本にとって、併合は必ずしも必然の選択肢ではなかった。

1905年11月の第2次日韓協約によって、日本は韓国における外交権を獲得
し、統監府を設置して実質的な内政干渉を行う事が可能になった。この時点で、
初代統監伊藤博文は、保護政治が朝鮮の独立を保障することを明言していた。し
かし、伊藤の保護政治は、反日義兵運動と愛国啓蒙運動と呼ばれる激しい抵抗運
動に会い、ハーグ密使事件をきっかけに、高宗を譲位させ、第三次日韓協約を結
ぶ。これによって日本は、朝鮮内政に関する全権を確立し、実質的な併合を達成
したと言える。では何故、既に傀儡政権だった韓国を廃滅させ、併合に踏み切ら
なければならなかったのか。この点について君島和彦は、日韓併合が反日運動に
対する日本側の勝利ではなく、寧ろ朝鮮における日本の勢力が不足していたから
こそ併合という決断に至った、と指摘している。\footnote{浅田喬二編『「帝国」
日本とアジア』1994,吉川弘文館 p.76}併合前年には、伊藤は朝鮮の反
日感情の激しさを知り、保護政治の失敗を自覚していたという。こうした状況の
鎮圧と同時に、もう一つの併合の目的は列強に対して日本の朝鮮支配権を明示す
ることであった。「韓国」という国号を廃して植民地化を明確にしようとしたの
も、他国の干渉や反日運動への支援を懸念した結果であった。つまり、この時期
の併合の断行はある意味においてはやむを得ずなされたものであり、それを対外
的にも対内的にも、自然な事として納得させるために、日本はいわば必死のアピー
ルをしなければならなかったのである。

しかし併合そのものが、列強の承認なしではなしえなかった事も事実である。1
905年の保護権の確立に際しても、米英が既に同意しているという理由で「今
日ヲ以テ最高ノ時期」だとされているが、併合時にも「露国との事件結了後の最
近時期を以て」という言葉が使われている。\footnote{森山茂徳『日韓併合』平
成四年、吉川弘文館 p.98}伊藤博文の暗殺と共に、第二次日露協約において
ロシアの承認を得られた事が、併合の時期を決める決定的な要因となったのであ
る。このように国際的地位の低さが明らかな日本が朝鮮を併合するにあたって、
併合はどのように報じられ、朝鮮はどのように位置付けられていたのだろうか。

\hspace{-0.8cm}
\noindent\null\hfill\begin{minipage}{9cm}
私の仮説は以下のようなものである。図2の縦軸は、図1のものと同様、文明水
準を表す。これに乗っ取って日本と朝鮮を位置付けた場合の対朝鮮言説は、自己
を朝鮮から疎外化しようとする力が働いていた。既に述べたように、自己/他者
の認識の仕方は違っても、ここにはオリエンタリズムと同じ差異化の構造が見ら
れる。しかし、それだけでは西洋ではなく日本が朝鮮を植民地化することは自明
のこととはなり得ない。そこで使われたのが「東洋」というキーワードであった。
同じ東洋人である日本だからこそ、朝鮮を支配する使命がある、というのである。
『日本人の境界』では、日本版オリエンタリズムの最大の欠点は、朝鮮を日本の
内部に包摂しようとする言説を説明できないことだとしている。つまり、一方
\end{minipage}\hspace{0.2cm}\hfill\begin{minipage}{6cm}
\begin{center}
\epsfile{file=/home/s96438ms/chart2-txt.eps,width=5.3cm}
\end{center}
\end{minipage}\vspace{0.15cm}
では朝鮮を日本の側に引き寄せようとする力が存在したのである。この際、朝鮮
を包摂し、一方で西洋との差異化を図るための別の価値基準が存在したのではな
いか。それによって、図2のように、縦軸に沿って朝鮮からの自己疎外化を、横
軸によって朝鮮との同化を志向するような形で日本と朝鮮が位置付けられていた
のではないだろうか。以下は、この仮説に乗っ取って、差異を強調する朝鮮表象
と、「近さ」を強調する朝鮮表象の二つに分け、二つの表象が繰り返されること
によって、図2のような形で朝鮮が位置付けられていったプロセスを分析する。

\section{自己疎外化プロセスとしての対朝鮮言説}

ここでの自己疎外化とは、サイードの言う「差異の拡張」である。差異の拡張とは、
他者を見慣れないもの、自己とはかけ離れたものとして描くことで、自己のアイデ
ンティティを保とうとする行為とその再生産のプロセスである。その際、自己の優
位性を保つため、他者に負のイメージが投影される。それによって自己と他者との
関係性が、つまり同時に自己自身の境界と位置づけが規定されるのである。従って
差異を拡張する言説は、他者を劣ったものとみなそうとする力と、自己を相手から
引き離そうとする力の両方が働いているのである。従来、差異化という言葉は、他
者の「差異化」という文脈で使われ、それは同時に自己の他者からの「差異化」で
あるという点が強調されてこなかったように思う。従って、ここではその両方をさ
して自己疎外化と呼びたい。

\subsection{併合賛美論 〜「文明化」としての正当化〜}

 併合を賛美する多くの記事で、その主な根拠として挙げられているのが「文明化」
というキーワードである。即ち、日本が劣った国朝鮮を文明に導いてやる、その第
一歩が合併であり、これは日本の使命であるという論理である。代表的なものをい
くつか紹介する。

\begin{quote}
由来韓人は遊惰の民と目せらるも是れ所謂悪政の下に可瞼誅求盛に行はれ国民は
自暴自棄に陥りてまた活動の念なく遂に此国民的弊風を馴致したるなれば今我が
皇化に浴し而も日本人は真に兄たる心を以て彼に臨み之を\.{誘}\.{導}\.{啓}
\.{発}せしむるに於ては必ずや従来の弊風を去り勤勉なる国民と化せしめ得べき
は蓋し疑ひなき所也(中外新報 8.27)
\end{quote}

\begin{quote}
李朝建国以来五百余年の苛政秘法ハ、国民を駆つて悉く遊惰の民と化せしめ、之
れが為めに田畑は枯渇し、山河は荒廃し、殖産興業殆ど一の見るべきものなし...
(中略)...資本及労働力ハ内地より移入して大に其\.{開}\.{発}\.{を}\.{促}
\.{さ}ざるべからず(萬朝報  9.13)
\end{quote}

\begin{quote}
東洋の特質的虐政に代ふるに\.{公}\.{平}\.{な}\.{る}\.{文}\.{明}\.{の}\.
{政}\.{治}を以てせバ、朝鮮人に幾ばくの幸福を増進するや計り知るべからず...
(中略)...日本が\.{東}\.{洋}\.{の}\.{文}\.{明}\.{を}\.{促}\.{進}すべき
使命を有すとせバ、早晩此結果に到着せざるを得ず(萬朝報  8.28)
\end{quote}


こうした記事以外にも、「善導啓開」「誘導啓発」「善導誘掖」「誘導養育」
「扶掖指導」といった言葉が、様々な記事に何気なくちりばめられている。ここ
には明らかに、西洋の啓蒙主義と進歩思想の影響が見られる。啓蒙と進歩の思想
は、18世紀ヨーロッパで形成された。啓蒙主義は、もともと人間の普遍的理性
への信頼をもとに、無知蒙昧な人々を教育によって導くという、フランス革命の
思想的基盤となった思想である。さらに、人間の理性、知性が理想状態に向かっ
て進歩し続け、その結果社会も進歩を続けるという考え方が、進歩史観である。
そこでは、理想状態に向かっての普遍的な進歩の道程というものが想定される。
その理想状態がここでは「文明」であり、啓蒙とは進歩の道程に行き遅れた朝鮮
を教え導くことなのである。また丸山真男は、日本に入ってきた進歩思想は、こ
のような啓蒙主義的進歩観と、社会的ダーウィニズムと呼ばれる進化論的思想が
入り交じって形成されたと指摘している。社会進化論は、社会の進歩の促進要因
として、自然界の適者生存の概念を応用したものであり、時には弱肉強食を正当
化する帝国主義のイデオロギーとしても使われ得る。併合=「文明化」という正
当化の理論的背景となっているこうした思想がより明確に、さらにあからさまな
形で記されているのが、次のような記事である。 

\begin{quote}
智が無智を、愛が不仁を、進めるが後れたるを導びき扶けて、共に倶に進まんとす
るに於て、併合ハ即ち世界の一進化なるにあらずや、進化即ち宇宙の大法なるにあ
らずや...(中略)...今や建国以幾多の奮闘を経て進化の道程を辿り来れる我が日
本ハ、慈に韓国を併せて、彼等をも共に進化の道程に上らしめんとす
(萬朝報 8.27)
\end{quote}

\begin{quote}
強大国が弱小国を併せ其の国民を保全して之れに文明を普及するは国際競争の発生
以来避く可らざる必然の運命にして朝鮮も此の運命を免る能はざりしなり。而して
其の併有は野蛮なる侵略の為めにあらずして国際の平和人類の幸福の意味に於てせ
らる。(読売新聞 8.30)
\end{quote}


ここには、啓蒙主義の論理と、適者生存の進化論的思想が入り交じりながら、社
会が進むべき普遍的道程が示されている。併合は、その道程における必然の一歩
なのである。 進歩思想と啓蒙主義が帝国主義のイデオロギーとして機能してい
く様が、ここに如実に現れている。しかし、西洋の言説では啓蒙される側だった
はずの日本が、同じ論理を逆転させて朝鮮に適用しようとする時、啓蒙する側と
しての日本、されるべき対象としての朝鮮という像を、まず読み手に浸透させな
ければならなかった。この章で扱う記事には、西洋という圧倒的な存在を意識し
ながら、日本/朝鮮のヘゲモニーを構築しようとする意図が見え隠れする。


まず、朝鮮を遅れたもの、劣ったものとして描く表現は、ほぼ全ての記事に登場
するが、既に挙げたものの中にもあるように、その根拠としては李朝の悪政を挙
げるものがほとんどである。ただし、その原因は政治にあるにせよ、その結果怠
惰な国民性は既に朝鮮民族の特質となっている、として差異を強調する。例えば
犬養毅は東京朝日新聞で、韓国は長い間の極端な中央集権の結果、「遊惰の弊風」
が国民性となって定着してしまい、貯蓄心に乏しいため、日本が産業開発をして
導いてやるべし、との論を展開している。\footnote{東京朝日 8.25}専制
政治による社会の停滞を強調するこのような朝鮮観は、西洋のアジア観、東洋観
にぴたりと合致する。こうした記事は、サイードが指摘したバルフォアのエジプ
ト観を私達に想起させる。即ち、「文明に対する彼らの偉大なる貢献はー(中略)ー
すべてかの専制的統治形態のもとでなされたもの」なのであり、「我々が西洋的
観点から自治と名付けているところのもの」を東洋民族は確立できない、従って
「我々」の優れた統治によってかれらの利益増進をはかる、というものだ。

しかし、日本がこうした論理を展開するためには、日本は停滞するアジアから抜
け出て「優れた統治」を出来るだけの文明的存在でなければならない。そうした
自己の優位性の確保を意図した、あるいは結果的にそうした機能を果たす言説は、
主に朝鮮人への慈悲や同情を促す形を取って表れている。例えば次のようなもの
である。

\begin{quote}
在留日本人は動もすれば敵国に来り居るが如き感を懐き今回の如きは早く難を避
けんとするの用意を成す等\.{大}\.{国}\.{民}\.{の}\.{態}\.{度}を失ふものあ
り。...(中略)...吾等国民も亦陛下の聖意を体し常に\.{先}\.{進}\.{国}\.
{民}\.{の}\.{態}\.{度}を以て韓国民を扶掖指導し其福利を増進せしむる義務あ
りとす。(東京朝日新聞 8.29)
\end{quote}

\begin{quote}
多くの韓人中には、日本に対して害心を懐く者無きを保すべからず、此徒固より
不問に付するを得ずと雖、然かも日本国民が此徒の行動に憤激して、韓人其者に
敵意を挟む如きは、断じて非なり、\.{大}\.{国}\.{民}には大襟度有るを要し、
\.{強}\.{者}の眼底には常に弱者に対する同情の涙あるを要す...(中略)...韓
国の国家としての歴史は、価値ありといふを得ず、其の民智は低く其文明は幼稚
なるを以て、其社会は尊敬すべき社会といふことを得ざるなり、然かも之れが為
に其民を蔑視するは甚だ誤れり。(萬朝報 8.19)
\end{quote}


つまり、日本はもはや「大国民」なのだから、朝鮮に侮蔑や敵意を感じる必要は
ないというのである。ここには、「脱亜入欧」を目標として掲げなければならな
いような日本とアジアの位置関係から既に脱却し、ある種の余裕が生まれている
と見ることができる。と同時に、政府とマスコミにとってこの時期は、余裕をい
わば国民に強制する、文明国としての自己イメージを国民に普及しようとしてい
る段階だったのではないだろうか。何故ならこの「大国民」「先進国民」「文明
国」といった言葉によって国民の誇りと愛国心を喚起し、自覚を求める記事が、
ほぼ全ての新聞に見られるからである。「先進国」日本を、「後進国」朝鮮から
疎外しようとする力が働いていると見ることが出来る。そしてそれらの言葉によっ
て日本を朝鮮の優位に位置付けようとするとき、そこでは必ず西洋の存在が意識
されている。

\begin{quote}
宜しく国家百年の計を立て美くしき併合の効果を挙げて大和民族が如何に\.{文}
\.{明}\.{的}\.{植}\.{民}\.{力}\.{あ}\.{る}\.{か}\.{を}\\
\.{列}\.{強} \.{に} \.{証}\.{明}\.{す}\.{る}と共に範を後世に垂るるは真に
現代国民の大責任なり(中外商業新報 8.28)
\end{quote}

\begin{quote}
すべてが予定の通に行はれた、遺憾なく行はれた、而して喜ぶべきは朝鮮合併そ
の事よりも斯の如き大事を当然の事としている大国民的態度である。誰か日本国
民を島国的と言ふ、コセツクといふ、余裕がないと言ふ、明治四十三年八月二十
九日、日本国民に対する斯の如き侮辱は明白に取消された訳である。(大阪朝日
新聞 8.30)
\end{quote}


つまり、日本が強大な「文明国」になった事を西洋に向けてアピールしようと言
うのである。こうした記述は、文明ー野蛮という価値基準そのものが西洋と非西
洋の対比から生まれた以上、西洋に対するコンプレックスとライバル意識の当然
の帰結であると同時に、併合そのものが列強の承認なしにはなしえなかった当時
の日本の国際政治における立場を直接反映していた。従って、併合に際しての列
強諸国の対応には、どの新聞も敏感に反応している。

\begin{quote}
「露紙の併合観」

朝鮮併合問題に対する諸新聞の論調は略同一徹に出で\.{朝}\.{鮮}\.{の}\.{運}
\.{命}\.{は}\.{日}\.{露}\.{講}\.{和}\.{条}\.{約\.{締}\.{結}\.{の}\.{日}
\.{に}\.{決}\\
\.{し}\.{日}
\.{本}\.{は}\.{事}\.{実}\.{上}\.{既}\.{に}\.{朝}
\.{鮮}\.{を}\.{併}\.{合}\.{し}今回は単に形式的に之を発表したるに過ぎず}...
との説に帰一せり。モスクワにて発行の有力なる十月党機関誌は\.{露} \.{国}
\.{は}\.{日}\.{本}\.{と}\.{現}\.{在}\.{同}\.{盟}\.{関}\.{係}\.{に}\.{あ}
\.{る}\.{を}\.{忘}\.{る}\\
\.{べ}\.{か}
\.{ら}\.{ず}\.{と}\.{ま}\.{で}\.{言}
\.{ひ}\.{て}\.{之}\.{に}\.{好}\.{意}\.{を}\.{表}\.{し}...  (傍点筆者)
(大阪朝日 9.1)
\end{quote}

\begin{quote}
「韓国併合と露紙」
今や日本外交は順風に乗じつつあれば列強中一として韓国の併合に反対する者あ
らざるべし。(東京朝日 9.3)
\end{quote}

\begin{quote}
「英国の合併論評」
(二十六日のスタンダードは)日本は今や自国と同じく他国人をも支配すること
を得る国民として宇内の好評を博すべき好個の機会を有せり、而して我英国は友
好的興味を以て之を注視すべしと謂ひ、デーリークロニクルも亦同じ社説を以て
好意的論評を下し居れり(東京朝日新聞 8.30)
\end{quote}

こうした西洋の好反応を横目で確かめつつ、「文明」国であることを宣言しよう
とする日本の姿勢がここに表れていると見ることができる。しかし、興味深いの
は、西洋各国の反応だけでなく、次のような記事が存在することである。

\begin{quote}
「外人の併合観」

ケネデー氏談 /韓国の紛糾錯綜せる問題は一に日本との併合に依りて終了せら
るべく、換言すれば韓半島の解決は日本との併合に依りて美はしく所断せらるる
所ある可し、之に勝るの良法は恐らく外に是無からん。エブラル氏談 /過去数
百年間日韓両国は其風俗に於て其習慣に於て将た其性情に於て同一の潮流に棹し
来れるものにして併合は決して今日に成れる者にあらず否数百年の往古に於て既
に既に相併合し居れる者なり(読売新聞 8.30)
\end{quote}

これは、タイトル通り西洋人の一民間人による併合批評である。こうした記事が
上に挙げた英や仏の併合観と同じ機能、即ち日本が植民地を保持する能力のある
「文明」国であることを「承認」する役割を果たしているのではないか。だとす
れば、日本が自らのアイデンティティを承認してくれる他者として描く「西洋」
とは、国際政治における実質的な超大国としての列強ではなく、牛肉を食べ、汽
車に乗り、洋服を着た西洋人そのものだったのではないだろうか。それは、「遅
れた」国朝鮮と、より「進んだ」国日本という自己/他者像の延長線上に、必然
的に浮かび上がってくるさらに上位な存在としての「文明人」のイメージなので
ある。

中外商業新報の8月25日の記事は、ここまで述べたことを象徴する典型的な例
と言えるかもしれない。これは、今や日本は朝鮮に対して「長者」であり「上者」
である位置に立つ故に、これを侮蔑するのではなく、日本人の「公徳心」を高め
なければならない、という内容のもので、既に指摘したようにこうした表現には
自己疎外化の欲求が働いていると言える。この記事の面白いところは、この「教
訓」をロンドンタイムズの記者の日本批判と結びつけているところである。

\begin{quote}
昨日在京の倫敦タイムス記者余を訪ひ近時日本の商事会社而も其資本及勢力に於
て大なるものの間に貧貧として紛騒起るは何故なりやと質問せられ真に冷汗背を
漏ふすを禁じ得ざりき、思ふに公徳心なく特性高からざるものが営利の業に関る
に於ては所謂儒教の、利を遂ふものは奪はずんば止まずの弊に陥るなきは殆どま
れなり、...  (中略)...今や韓国の併合成り母国先進の国民として我らは彼の
韓国民に対しては長者たり上者たるの位置に立つ、特性高からず公徳心完からざ
るに於ては何を以て彼らを指導し教養の実を収め得可きか余の憂ひ即ち茲にり。
(中外商業新報 8.25)
\end{quote}

西洋人の視線を通して、日本が真の「近代化」「文明化」を果たしていない、と
するこうした主張はつい最近まで日本で繰り返されてきたものと酷似している。
西洋とアジアをそれぞれ正と負の合わせ鏡にしながら自己の姿を描き出す。オリ
エンタリズムの屈折と呼ばれた意識構造をここに見ることが出来るのである。

西洋を意識しながら朝鮮からの自己疎外化を図る言説には、もう一つ別の種類の
レトリックを用いたものがある。それは、日本と朝鮮の関係を西洋諸国と植民地
の関係に例えた表現である。

\begin{quote}
英国は之によりてエジプトを得、エジプトハ之によりて善政を得たれバ、其の結
果ハ相互の利益にして一挙両得と謂はざるべからず、日本の朝鮮に於ける、事情
同じからずと雖も、其の結果相似たるものあり、国家己に二大戦争を経て保護権
を朝鮮半島に確立し、外交、司法、警察及び行政の実権を収む、乃ち朝鮮併合ハ
斎一変して魯に至り、魯一変して道に至るが如く、其の進化ハ自然にして其の結
果ハ相互の利益たり。(萬朝報 8.30)
\end{quote}

この記事は、既に保護国化していることを理由に併合を正当化するごくありふれ
た内容であり、併合による「相互の利益」の具体的説明もない。この記事の説得
力は、英のエジプト保護国化と「相似たる結果」というこの一節に全て集約され
ていると言ってよい。西洋が植民地を保持していることは議論を挟む余地のない
既成事実であり、それと同じように日本も朝鮮を併合するのは当然の成り行きで
ある、というのだ。こうしたレトリックは、併合を正当化すると同時に、自己疎
外化の言説としても機能している。「英国のように」強い日本が「エジプトのよ
うな」か弱い朝鮮を併合する。こうした表現を用いることで、自己を「西洋」に
シンクロさせ、朝鮮を見下ろす視点を確保しようとする書き手の意図があったの
ではないだろうか。

同様の性格を持つ比喩として、おそらくは無意識に使われている分だけ興味深い
のが次の二つである。

\begin{quote}
例へば安南人が仏領となつて以来巴里に行つて東洋人だと云はれるのを嫌ひ強ひ
て巴里っ子を装ふが如く恐らく朝鮮人も東京に来ると東京っ子を気どるだらう。
詰り安南人も朝鮮人も至極無邪気な国民で一部の台湾人のやうに頑固でないだけ
に教育の普及も早いに違ひない(読売新聞 8.29)
\end{quote}

\begin{quote}
日本人に対して一種の敵愾心を抱いて居る者のある如き、丁度開国当時の日本人が
西洋人を睨み付けて通つたと同様である。(東京朝日 8.25)
\end{quote}

前者は、文字通り朝鮮人と安南人を同一視して「無邪気な」子供のような存在と
して描く典型的な自己疎外化の言説であるが、朝鮮人と安南人に例えることで、
さり気なく東京とパリを対置させている。後者は、朝鮮をかつての日本自身に例
えながら、現在の日本を西洋と同じ位置に置いていることが分かる。こうした描
き方には、西洋を日本の「文明」化を「承認」してくれるような上位の存在とし
てでなく、もはや同レベルに達したものとする相対化の働きがあるのである。次
のような極端な例もある。

\begin{quote}
合邦後の日本は\.{欧}\.{羅}\.{巴}\.{に}\.{於}\.{て}露国に次ぐ大国となる訳
で面積及び人工の比較左の如し
の、多くハ朝鮮の帰化人ならざるなく、\.{今}\.{日}\.{の}\end{quote}
\begin{verbatim}
	面積 		人口
露国 一四五一、000 一五、五四三
日本 四三、一四七   六、二五三
襖国 四0、四五七   五、五一七
仏国 三五、四00   三、九二七
(読売新聞 8.24)
\end{verbatim}


日本をヨーロッパの一国として位置付けている、今日から見ると驚くべき記事で
ある。しかし、日本を西洋の一員と位置付けているにせよ、西洋と同レベルと自
負するにせよ、西洋を自己同一化の対象として描いている点では同様と言ってよ
い。誇らしげに「西洋」を騙るそれらの表現に、西洋を目標として掲げた「脱亜
入欧」の精神そのままの意識構造を見ることが出来るのである。そして、この節
で扱った日本についての言説を裏付けているのは、その目標を達成したという自
負とある種の安堵感なのである。東京朝日新聞に紹介された、小学校の教師の言
葉には、当時の日本人のそうした意識が象徴的に表れている。

\begin{quote}
「是れで帝国の版図は大部広まり世界地図を児童に見せるにも心強いです」
(東京朝日 8.30)
\end{quote}

\subsection{「朝鮮」論 〜陳列される「朝鮮」〜}

多くの新聞は、併合に際して特集を組み、併合に関する記事と併せて、様々な形
の「朝鮮論」を載せている。「朝鮮雑話」「朝鮮人の特性」「朝鮮人の性格」
「朝鮮貴族の風俗」などと題したエッセイ調の記事や、多くの写真を掲載してい
る。その多くは、朝鮮人の文化や生活についての、客観性を装った淡々とした叙
述や、一見したところ無意味に思われる風景を撮った写真である。こうした表象
をどう捉えればよいのか。一連の「朝鮮論」は読み手にどのような影響を与えた
のだろうか。

サイードによれば、近代オリエンタリズムの基礎は、曖昧で理解不能な存在であっ
たオリエントを、観察し、分析し、類型化する事によって成立した。一つの類型
は、首尾一貫した固有の完結性を持ったものとして、近代的用語によって語られ、
整理された。それは、オリエントを学問的・理論的な知識の蓄積、一つの体系と
して、再構成していくことだった。こうした再構成は、「軍隊や行政府や官僚組
織が行うことの地ならし」として役立った、とサイードは指摘する。何故なら、
彼らがオリエントを支配するのは、オリエントを東洋人以上によく知っているか
らである。彼らはオリエントを知り、理解しているから、「優れた統治」が出来
る。解体され、陳列化され、保存されたオリエントはもはや自己を語るべき言葉
を奪われているため、異議を唱えることが出来ない。何が東洋人にとっての幸福
であり福利であるかを知っているのは西洋人だけである。学問体系としてのオリ
エンタリズムは、政治的支配の手段ではなく、それに先だって支配を正当化する
役割を担っていたのである。

日本でも、西洋に倣って植民地についての体系的知識の蓄積が試みられた。植民
政策学と東洋史学が、西洋のオリエンタリズムと同様、「朝鮮の再構成」に貢献
したことは姜尚中が指摘した通りである。\footnote{姜尚中『オリエンタリズム
の彼方へ』岩波書店、1996年}アジアについての知識の蓄積は、日本に表象者と
しての特権的地位を与えると同時に、現実のアジアをあるべき他者の姿へと変換
していった。新聞における「朝鮮論」も、韓国を「観察し、注釈を施し、記号化
し、配列し、解説」する\footnote{E・サイード『オリエンタリズム』平凡社、
1993年、p.296}再構成のプロセスの一環として理解できる。実に多様な形で朝鮮
を日本国民に「紹介」している記事の幾つかを取り上げてみる。

\begin{quote}
「朝鮮婦人は怜悧活発」

其の腕力と勇気と弁舌と気概とは柔弱にして意気地なき朝鮮男子を威圧するに足る
の力を有せり。...男子は概して其の妻を恐る可き山の神となること日本のかかあ
天下に異ならず。
(中外商業新報 9.1)
\end{quote}

\begin{quote}
「朝鮮貴族の風俗」

朝鮮上流にて出産の時は別に産婆といふ者なく只経験ある者が産を助くるのみ/
結婚の式は二つに分れて最初は聟が馬に乗り.../死人ある時は数百千の灯籠を
点し...(東京朝日  8.25)
\end{quote}

\begin{quote}
「朝鮮雑話(四)」死人が出来ると親類縁者が寄つて集つて死体を取り巻いて号泣
する、斯て死後約十時間を経過すると遺骸を新調の麻衣に着更へさせ頭を天に向け
て外部に雲形を描いて棺に納める。(東京朝日 8.27)
\end{quote}

\begin{quote}
「韓族の風儀」

韓国の制度を書いた本を見ると、男装は支那宋時代の風に似て居ると記してあるが、
其後は更に一転して明人の衣飾に代た様子が知れる。殊に面白きは女子の服装で、
是は全く蒙古朝廷の風を存して居るのである。(東京朝日 8.28)
\end{quote}

こうした記事とは別に、多くの写真も掲載されている。「大同江畔の洗濯」「朝
鮮の童幼」「朝鮮の人参畠」「水汲みの男女」などと題した、朝鮮庶民の生活を
映したものが多い。これらの叙述や写真は、朝鮮についての体系的な知識そのも
のとは言い難い。むしろその特徴は、脈絡のないような形で紙面にちりばめられ
ているところにあり、内容も断片的で、主観的である。朝鮮の日本人街に数年あ
るいは数ヶ月住んだだけの日本人官僚による朝鮮人批評や、日本に住む朝鮮人留
学生わずか4人の分析から朝鮮人の特徴を述べたものなど、知的権威に裏付けら
れていない事を公言している例もある。

しかし、これらの朝鮮についての諸表象を毎日紙面のどこかで目にすることによっ
て、読者は気軽に、そして無意識のうちに朝鮮を「知る」ことになる。これらの
「知識」は断片的であるがゆえに、誰もが簡単に手に入れることができる。体系
化された学問的表象が、「他者」を陳列ケースに閉じこめる博物館であるならば、
こうした無秩序な表象は、いわば「他者」のバラ売りである。この二つは共謀し
ながら、より多くの人に再構成された「朝鮮」を知らしめる。それを裏付けるの
は併合という政治的権力の作用である。そうして「朝鮮」を知るという、観客あ
るいは監視人の立場を許された人々は、上述の日本人官僚のように、また「朝鮮」
について語り始める。この繰り返しが、「我々は朝鮮を知っている。故に朝鮮を
支配する」という言説を創り出し、支配の正当化に貢献する。正に知と権力の相
互作用をここに見ることが出来るのだ。

 そして、「他者」の表象は、必然的に自己との比較を伴い、差異を認識させる
構造を持つ。

\begin{quote}
矢張り一国一定の国語を有し、風俗習慣を有し、其流脈の無視す可らざるもの無き
にもあらず。近来我国と近接の交際を成すに至りて、其制度文物は自然に多く我国
そのままのものを移植したれども、大抵は皮相を学びたるに止まりて、中中未だ真
を得ず、而して韓国民はやはり一種の韓国民たり。
(東京朝日 8.28)
\end{quote}

ここでは、朝鮮を一貫した固有の特徴を備えたものとして描くことで、他者性を
強調している。また、中外商業新報では、朝鮮人部落と内地人街の写真を並べて
掲載している。高い建物が多く賑わう日本人街と、低い家屋が並ぶ朝鮮人の集落
を比較させる事で、差異をクローズアップさせているのである。ここまで紹介し
たものの多くは、その内容においては中立性、客観性を保っているかに見える。
しかし、他者を他者として表象することそのものが、自己との差異を強調すると
同時に、見る側、語る側の自己、語られる他者というヘゲモニーを創り出す、自
己疎外化の言説なのである。

 しかし同時に、「朝鮮論」の中には、その内容にあからさまな朝鮮蔑視の構造
が見えるものも多い。次にそれらを取り上げてみたい。「文明化」=併合という
論の根拠となるはずの、どのように朝鮮が日本より「劣って」いるのかの答えが
見えてくるはずである。

\begin{quote}
「朝鮮之風俗人情」 
支那人の如く\.{独}\.{立}\.{心}\.{自}\.{尊}\.{心}\.  {が}\.{な}\.{い}だけ、
それだけ\.{依}\.{頼}\.{心}\.{が}\.{多}\.{い}。人に依ると朝鮮人は自尊心が
あつて困ると云ふがそれは自尊心ではなく、一種の依頼心で恰度有力者、金持ち
などに使はれて居る下卑共が主人の威光を笠に着て威張るのと同じ意味だ。(中
外商業新報 8.30)
\end{quote}

\begin{quote}
韓国民は由来\.{猜}\.{疑}\.{心}\.{に}\.{富}\.{め}\.{る}のみならず賄賂等の
授受に頗る巧なるを以て之れに参政権を附興するに於ては恰もパチルス菌を散ず
るが如きものなれば断じて之れを許すべからず。(東京朝日 8.25)
\end{quote}

\begin{quote}
「朝鮮之女学生」

\.{学}\.{問}\.{の}\.{出}\.{来}\.{も}\.{中}\.{中}\.{よ}\.{く}て日本語も話
し日本語も書きます。/驚きましたのは\.{衛}\.{生}\.{思}\.{想}\.{の}\.{幼}
\.{稚}なことで御座います。/一体に幼稚で音楽の如きも好は好ですが微妙なも
のに至つては更に興味を解しませぬ。(東京朝日 8.26)
\end{quote}

\begin{quote
斯く歴史的に社会的に住居財産の自由を有せざりし人民は自然に\.{猜}\.{疑}
\.{心}を養はれたり。此猜疑心の結果として韓国人は虚礼抗弁に生じ表裏相反し
|.{言}\.{行}\.{一}\.{致}\.{せ}\.{ざ}\.{る}もの多し。此点に就ては彼等は世
界一なるべし。(東京朝日8.26)
\end{quote}

\begin{quote}
韓人の特性ともいふべきは\.{模}\.{倣}\.{に}\.{巧}なことである、従つて外面
の開化発達は頗る早い、現に教育に於ては日本風に、社会的には米国風に移りつ
つある...(中略)...  次には打算的で\.{個}\.{人}\.{主}\.{義}\.{利}\.{己}
\.{主}\.{義}である。(東京朝日 8.27)
\end{quote}

\begin{quote}
朝鮮は由来事大主義の国柄であるから美術も亦\.{支}\.{那}\.{に}\.{模}\.{し}
\.{て}国民性を発揮したる独創がない。(東京朝日8.29)
\end{quote}

多様な人間によって無秩序に描かれたこれらの朝鮮人像の中に、ある共通したイ
メージが存在していることが見て取れるのではないだろうか。圧倒的にマイナス
イメージの表現が多いこれらの表象には、明らかに朝鮮に対する侮蔑、軽視の視
線が投影されている。しかし、西洋のオリエンタリズムがオリエントを「非合理
的で、下劣で(堕落していて)、幼稚」なものとして描いたのと比較して、この
時期の朝鮮に投影されたイメージは、それとは少し異なっている。不衛生、幼稚
といった言葉は別にしても、猜疑心に富む、模倣に長けている、自尊心がないと
いった表現は、相手を矮小化する言説にしてはやや奇妙な感じを受ける。ここで
浮かび上がってくるのは、粗野で無知で素朴な未開人の姿ではなく、むしろずる
賢く、疑い深く、強者に依存しながら生きるような人間像である。こうしたイメー
ジはどこから来たのだろうか。

私が注目したいのは、福沢諭吉の『文明論の概略』における「半開」の定義に、
これらとの類似性が見られることである。既に紹介したように、この本では人間
社会の歴史的進歩の究極の状態として「文明」を掲げ、それへの発展段階として
「野蛮」「半開」の状態を挙げている。ここに描かれた「半開」の状態とは次の
ようなものである。

\begin{quote}
農業の道大に開けて移植具わらざるにあらず、家を建て都邑を設け、その外形は
現に一国なれども、その内実を探れば不足するもの甚だ多し。文学盛なれども実
学を勤るもの少く、人間交際に就ては、猜疑嫉妬の心深しといえども、事物の理
を談ずるときには、疑を発して不審を質すの勇なし。模擬の細工は巧なれども、
新に物を造るの工夫に乏しく、旧を修るを知て旧を改るを知らず。人間の交際に
は規則なきにあらざれども、習慣に圧倒せられて規則の体を為さず。これを半開
と名く。いまだ文明に達せざるなり。
\end{quote}

まずこれを読むと、福沢の言う文明の段階が、単に物質文明の進歩や社会制度の
整備の度合いによって規定されるものではないことが分かる。ここで論じられて
いるのはむしろ、個人の気質や考え方の部分、「人民の気風」である。別の箇所
で福沢は、「文明は人の智徳の進歩なり」「文明論とは人の精神発達の議論なり」
と述べている。一国全体の智徳のレベルを高めることによって、文明が生まれる
というのである。例えば民主主義の制度のみを整えるのではなく、一つの価値を
盲信せず「多事争論」を是とする風潮があってこそ真の民主主義であるという事
になる。こうした議論の中では、精神面においても「進歩」の道程が存在し、そ
れが社会の発展につながるとされている。文明論の言説が、個人の価値基準のレ
ベルにまで浸透して、普遍的「文明人」の在り方を規定するようなものだったこ
とが分かる。特にこの「半開」の定義では、「外形」は発達していても精神面に
おいて劣っていることが重要な論点となっている。これは、上に挙げた「朝鮮論」
が主に朝鮮の人々の性格、内面的な資質に焦点を当てている事と合致するのでは
ないか。

では「半開人」の「半開人」たる所以はどこか。まず、「事物の理を談ずるとき
には、疑を発して不審を質すの勇なし」とは、「習慣に圧倒せられて」の部分と
対応していると思われる。つまり、自然の法則にせよ、社会的価値体系にせよ、
今あるものを疑わず、あるいは問いただす勇気がないまま、停滞している状態を
指しているのである。これと対比して、「文明」の状態とは、

\begin{quote}
 天地間の事物を規則の内に籠絡すれども、其の内に在りて自から活動を逞しふ
し、人の気風快発にして旧慣に惑溺せず、身躬から其の身を支配して他の恩威に
依頼せず、躬から徳を脩め躬から智を研き、古を慕はず今を足れりとせず、小安
に安んぜずして未来の大成を謀り、進みて退かず、達して止まらず、学問の道は
虚ならずして発明の基を開き....(後略)
\end{quote}

現状に満足せず、懐疑と批判の精神をもって次の段階へと進んでいく、正に進歩
の思想を体現する人間像(そういう人間が創り出す社会)が描かれている。この
懐疑の精神について福沢は次のように述べている。「新鮮な知識の獲得は社会進
歩の一歩一歩にとって必要な先立つものであるけれども、こうした獲得自体に探
求の精神が、したがってまた懐疑の精神が先行しなければならない。なぜなら懐
疑なくして探求なく、探求なくして知識はないからである」こうした懐疑の姿勢
が、広い意味での「発明」を生み、さらなる社会の発展につながる。引き替え
「半開」の人間は、人間関係においては「猜疑嫉妬の心」が深いにも関わらず、
「事物の理」に対する批判の精神を欠いている、というのである。従って「旧を
脩むるを知りて旧を改るを知らず」、古い習慣に束縛され、既存の権威に頼って
生きることになる。「文明」の定義の中の「旧慣に惑溺せず」「他の恩威に依頼
せず」「古を慕はず」「小安に安んぜず」の部分のアンチとして理解できる。

こうして見てみると、1910年の新聞論調に見られる朝鮮蔑視観は、正に「半
開」としての朝鮮の表象に基づくものと言えるのではないだろうか。猜疑心に富
み、模倣は巧みであるが自ら「発明」をすることはなく、独立心自尊心を持たな
い朝鮮。また、外形は「文明」に近い状態である「半開」として位置付けられて
いるならば、朝鮮人が頭は良く、利己的であると表現されているのも頷ける。そ
れでいて真の批判精神を持たず、旧権威に頼る臆病者、という「半開」のイメー
ジは、併合を正当化する言説の中に描かれている朝鮮像ともぴたりと一致する。
即ち、昔は中国に支配され、今は日本に頼る傀儡国であり、もともと独立国では
ないのだから併合されるのが当然、という朝鮮像である。          
      
ただし、福沢は「半開」の段階に属する国として朝鮮を挙げてはいるが、この時
点では「半開」の表象が朝鮮との差異を強調する言説として機能していたわけで
はなかった。何故なら日本自身が「半開」であるとされていたからである。むし
ろ福沢の「半開」の説明は、維新期の日本に残存する封建的社会体制への批判だっ
たと言われている。しかし、「文明」「半開」「野蛮」が特定の国を指すもので
はなく、歴史の発展段階であり、人類が進むべき普遍的な道程として規定されて
いる以上、それらは同時代における進歩の度合いに拠る差異化に貢献し得た。併
合当時、日本は「文明」への到達(接近)という目標を達成した、少なくとも達
成したという言説が流布した時期であった。そして既に示したように、朝鮮は
「半開」の状態に留まったものとして認識されていたのである。維新当時の「半
開」の状態を脱した日本と、未だ停滞する朝鮮。併合時の朝鮮蔑視観がそうした
図式に基づくものであることを、端的に表す例として、前節でも取り上げたこの
記事を見てみる。

\begin{quote}
日本人に対して一種の敵愾心を抱いて居る者のある如き、丁度開国当時の日本人が
西洋人を睨み付けて通つたと同様である。(東京朝日 8.25)
\end{quote}

開国当時の日本と今の朝鮮を同一視することで、現在の日本の優位性を必然的に
確保するこのレトリックの裏には、朝鮮も日本も西洋も同じ進歩の道程、「文明」
への道を進んでいるはずだという進歩史観が根付いている。

ここまで述べてきた併合に際しての朝鮮表象と、明治初期の『文明論の概略』にお
ける「半開」の定義の類似性は、必ずしも新聞論者が直接福沢に影響されたことを
示しているとは限らない。しかし、私が指摘したいのは、こうした表象が、少なく
とも文明を至上の価値とし、野蛮をその対局に置く一元的な価値基準の内部での日
本と朝鮮の位置づけに基づくものだったのではないか、ということである。おそら
く福沢以後様々な形で再生産されてきた文明論の言説によって、日本は一本の縦軸
の中の西洋とアジアの中間に位置づけられた。従って、朝鮮を差異化しようとする
表象行為は、必然的に文明の発展途上に、日本よりも下に位置するものとしてのそ
れにならざるを得なかった。その論理の中では、日本と朝鮮の関係は決して二項対
立ではあり得ず、より文明的な西洋、より野蛮なアフリカやオーストラリアの中間
に位置する主体としての役割をそれぞれが演じる事を余儀なくされた。つまり、
「猜疑心に富む」「独立心がない」「遊惰で模倣には巧み」という朝鮮人に与えら
れた役割は、日本と朝鮮の関係性の中から生まれてきたものではなく、西洋を基準
とした一元的な価値基準の中で予め決められていたのではないか。西洋にとっての
オリエントが、自己の揺るぎない中心性の内側から生まれた外部=他者だとするな
ら、日本にとっての朝鮮は外部性によって与えられた外部だった、と言える。

\subsection{差異化政策論}

では、具体的な統治政策を論じる際には、朝鮮はどのように位置付けられていた
のだろうか。現実の統治は、朝鮮を日本の一部とする同化の論理と、日本から排
除しようとする差異化の論理の折衷形態が採用された。つまり、後に実施された
創始改名に代表されるように、一方では日本人との制度的同化を図り、一方では
戸籍や参政権について日本人と法的に区別されていたのである。その背景には、
日本内部にも、官庁間対立など様々なアクターの相互に矛盾した要求があった事
を『日本人の境界』は指摘している。

併合時の政府発表では、朝鮮人は日本人と平等に遇するとしながらも、憲法は施
行されず勅令第324号により勅令と政令(朝鮮総督の命令)のみで処理し、1
0年間は兵役も無いとされた。従って、日本議会への参政権も与えられず、朝鮮
議会を持つことも当然許されなかった。新聞上で行われた政策論は、政府が発表
したこうした政策を後付けで正当化するようなものか、実際の統治への影響力は
極めて少なかったと思われる一記者の考察といったものがほとんどである。従っ
て、新聞論調における政策論を取り上げる意義は、むしろ日本の統治政策がどの
ように正当化されたかを見ることにある。同化/差異化のそれぞれの論理が、ど
のような根拠に基づいて展開されていたのか。ここでは、差異化即ち自己疎外化
の言説として見ることの出来る政策論を取り上げ、その中で朝鮮がどのように描
かれていたのかを見てみたい。

啓蒙主義に基づいて植民地支配を正当化する論理は、フランスでは同化主義政策
に帰結した。何故なら、啓蒙主義は人間の普遍的理性への信頼に基づいており、
非合理な習慣に縛られた人々を、教育によって理性的な個人たらしめることが出
来るとされていたからである。従って、唯一普遍の文明たる西洋と同じ法制度や
教育制度によって、社会・文化・政治の全ての面において、彼らを自由、平等と
いった普遍的価値に導かなければならない。そうすることによって彼らの社会を
も、普遍的秩序へ、文明へと導くことが出来るというのである。しかし、日本の
同化政策の論理は、これとは全く異なる根拠によって正当化されている。これに
ついては次章で詳しく述べる。では、日本とは別個の教育制度や法制度を適用し
ようとする差異化政策論、私がここで自己疎外化の言説の一つとして取り上げよ
うとする論は、どのような根拠に基づいていたのだろうか。

\begin{quote}
教育は案外容易なるべきも我現行制度を以て同一の鋳型に教養せんとは至難なれば
其程度を低うするを要す/韓国民は由来猜疑心に富めるのみならず賄賂等の授受に
頗る巧なるを以て之れに参政権を附興するに於ては恰もパチルス菌を散ずるが如き
ものなれば断じて之れを許すべからず。(東京朝日 8.25)
\end{quote}

\begin{quote}
仏国は先に仏領支那の土語を絶滅して、其国語のみを行はんとしたるに、其目的を
達するの頗る困難なりしのみならず、適適多少の結果を得たる所にては、却て土人
に思想の連絡を欠き、其理解力の不足を来して、果は仏国自ら其企図を擲つの己む
を得ざるに至りたるは、植民史上明らかなる床なり。されば朝鮮に我国語を伝播す
るにしても、其方便手段は深く研究を施すべきや勿論なり。斯る事は単に国語其物
の性質のみより軽軽に立論すべきにあらずして、韓国理治の一般大方針より之を編
み出さざるべからず。...(中略)...欧洲の諸国が阿弗利加、亜細亜辺りに植民地
を有すると、日本が台湾朝鮮を領有するとは、自から其関係異なるものあるや勿論
なれども、其歴史を異にし、其風俗、国語を同くせざる、他の国籍に属せる人民を
支配せんとする関係は、即ち相同じ。(東京朝日 12.27)
\end{quote}

このような意見は同化政策を批判し、日本と朝鮮の差異を強調するものではあっ
たが、植民地の社会制度と文化を残存させる「旧慣尊重」の同化主義批判とは全
く異なるものであった。植民地の政治的自治、あるいは文化の保存を旨とする同
化主義批判は、フランスでは人種思想に基づいて19世紀末に台頭した。人種的
優劣を無視して教育を施しても、同じ文明に達する事は出来ず、混乱を招くだけ
だとして英の間接統治政策を賞賛したのである。日本でもこうした流れを受けて、
植民地自治や現地慣習の保存が、植民政策学者らによって唱えられた。こうした
植民地と本国の差異化の主張は、その目的が人種差別に基づく隔離であれ、統治
のコスト削減であれ、現地文化の尊重であれ、植民地社会を「その固有の方向に
従ひて発展せしめんとする」\footnote{矢内原忠雄が自主主義について述べたも
の『日本人の境界』第7章189ページ参照}ものだったと言える。\footnote
{矢内原らが唱えた自治とは、近代的議会制度を独自に持つことであり、現地の
社会制度をそのまま利用した英などの分化政策とは異なっていたが、植民地の文
化的・民族的独自性を認める点でここでは同じものとみなした}しかし、新聞論
調に見られる同化主義批判は、朝鮮固有の制度を保存しようとするするものでは
なかった。では何故、日本と別個の法制度を布かなくてはならないのか。それは
朝鮮固有の発展を容認するからではなく、むしろ唯一普遍の文明への発展段階の
認識に基づいて、「未だ遅れている」からこそであった。つまり、「半開」の朝
鮮には憲法や高等教育はまだ適切でないというのである。少なくともこの時期の
日本において、啓蒙主義と進歩史観は、「誰でも文明に近づける」ことを根拠と
する同化主義ではなく、「現段階で文明化されていない」ことを根拠に差異を強
調する論理へと帰結していったのである。

具体的には、憲法を施行して参政権を与えないことと、内地と同じ高等教育では
なくより実践的な教育をすることが主張されている。

\begin{quote}
吾人が所謂実際的実習的教育なるものハ、斯くの如き\.{程}\.{度}\.{高}\.{き}
教科を廃して、殊更に普通学校と謂ひ、或ハ実業学校と謂ふが如き区別を止めて、
寧ろ朝鮮人の教育所を挙げて、一切之れを内地の徒弟学校乃至補習学校風のもの
に改正しやうとするのである、即ち児童は略ぼ八歳以上十二歳にして学校に入り、
或ハ農業に、商業に、工業に従事すべく仕向けられる間に、多少の数学、修辞、
図画の類を習得し、是等の諸学科の教授と共に、日本語をも併せ学ぶ事が出来る
ならバ、彼等が勤労を厭はず、生業を尚ぶの気風を養成するに於て、更らに特殊
の実業教育を受くる必要もなく、贅沢な外国語学に身を窶すの必要もなささうで
ある(萬朝報 9.13)
\end{quote}

\begin{quote}
(従来の朝鮮教育は)其の教科程度に於てハ、余りに\.{高}\.{尚}\.{に}\.{失}
\.{し}\.{て}\.{居}\.{る}と謂はなけれバならぬ...教科目の如きも略ぼ内地の
小学校に等しく、其の程度に於てハ、却て内地の尋常小学以上に位して居る...
(中略)...吾人の所謂頭脳の教育若しくハ\.{理}\.{論}\.{的}\.{教}\.{育}\.
{を}\.{避}\.{け}\.{て}、手足を動かす為めの実際的、実習的教育を施す制度と
してハ、先づ是等の実業学校、高等学校及び普通学校を合して、一般朝鮮人の教
育所と為し...  (萬朝報 9.6・)
\end{quote}

\begin{quote}
彼等ハ安逸なるが為めに、国家の衰退を見るに至り、遊惰なるが為めに、国土を
挙げて荒廃に委した、乃ち彼等に対する教育の第一歩ハ、正さに彼等の斯の悪風
習を打破することでなからねバならぬ。言ひ換ふれバ、朝鮮人に対してハ、頭脳
を開発する前に、先づ其の\.{手}\.{足}\.{を}\.{働}\.{か}\.{す}習慣を養ふ工
夫が肝要である(萬朝報 9.1)
\end{quote}

\begin{quote}
新聞紙の伝ふる所によれば当分の間朝鮮人には参政権を付与せざる由なるが是頗
る当を得たることにして未だ\.{国}\.{家}\.{観}\.{念}\.{と}\.{智}\.{徳}\.
{倶}\.{に}\.{彼}\.{我}\.{同}\.{一}\.{の}\.{程}\.{度}\.{に}\.{達}\.{せ}
\.{ざ}\.{る}今日なれば漸を追ふて之を興ふる方機宜を得たる処置なりとせん
(読売新聞 8.27)
\end{quote}

\begin{quote}
朝鮮の統治は、他日\.{朝}\.{鮮}\.{の}\.{文}\.{化}\.{が}\.{進}\.{ん}\.{で}
我が内地と同様に憲法が実施せらるるに至るまでは、憲法に依ることを要しない...
(中略)...朝鮮人にも内地人と同様に、兵役義務を課し、参政権を興へ、国会
議員を選出せしむるといふ様になる迄には、まだ余程長い時が必要であらう。
(読売新聞 9.5)
\end{quote}

\begin{quote}
或期間内は朝鮮人に母国人同様の待遇を興ふべからざるは云ふ迄もなき事ながら
追々誘掖指導其効果を奏し\.{文}\.{化}\.{の}\.{程}\.{度}\.{略}\.{母}\.{国}
\.{人}\.{と}\.{相}\.{等}\.{し}\.{き}\.{に}\.{至}\.{り}\.{た}\.{る}暁には
貴族平民ともに参政権を興へ我憲法政治の徳澤に欲せしめざるべからず。(東京
朝日 8.25)
\end{quote}

共通しているのは、それぞれの制度を主張する根拠が、朝鮮の制度・習慣に適し
ているからではなく、日本と同一の制度を布く事が今の朝鮮には適さない、とい
う同化主義批判にあることである。朝鮮を日本とは別個のものとして疎外化しよ
うとする力が働いているように見える。と同時に、「先づ」「しばらく」「……
までは」という表現が使われている事に注目すべきである。制度的区別が必要な
のは、民族の先天的な、あるいは歴史的に形成され変更不可能な性質の違いに拠
るものではなく、現在の文明の程度が異なるからなのだ。論理上は、朝鮮もいず
れは日本と同レベルに進歩し、制度的平等を達成できるというのである。これら
の記事に強調されている日朝間の差異、すなわち「勤労を厭はず生業を尚ぶの気
風」や「国家観念」「智徳」は、どの民族も進歩によってやがて到達するべき普
遍的価値として捉えられていることが分かる。読売新聞では「朝鮮の文化が進ん
で…」という表現を使っているが、ここで指しているのは明らかに、普遍的価値
としての「文明」なのである。

こうして見ていくと、自己疎外化プロセスとしての機能を果たす対朝鮮表象は、
そのほとんどが進歩史観的文明論に基づくものであることが明らかになる。この
文脈の中では、日本も朝鮮もその独自性を主張することが許されず、いわば無色
透明な一元的価値基準の中で数値として表すことの出来るような、文明化の水準
によって表象されていた。そしてその数値に基づいて、日朝間のヘゲモニーが形
成されていたと言える。


\section{包摂プロセスとしての対朝鮮言説}

一方、併合という政治的事実を正当化するに当たって、朝鮮を自己の内部に取り
込もうとする全く正反対の言説が存在した。その中で、日本と朝鮮を同一化する
根拠として挙げられているものは何だったのか、以下に詳しく見ていきたい。オ
リエンタリズム的自己疎外化の視線は、「他者」たるもの全てに投影されるはず
であるから、当然併合や保護国化以前から差異を強調する言説は存在しただろう。
しかし、自己の中に包摂しようとする動きは、日韓併合という現実的な自己のゆ
らぎと密接な関係にあると予想される。その意味で、この時期のこうした言説を
取り上げることは、重要な意味を持つ。2章で取り上げた言説の理論的背景には、
18世紀西洋の思想的潮流を経て、福沢ら明治初期の知識人が準備した文明論が
あり、併合時の論調自体が無意識の再生産としての側面が強かった。しかしここ
では、併合に際して、マスコミがどのような日本/朝鮮像を作り上げようとして
いたのか、より明確な意図を見出すことが出来るのではないかと思われる。

\subsection{併合賛美論 〜「和合」としての正当化〜}

併合を賛美する論調の中に、日朝間の文明水準の差によって啓蒙主義的正当化を
図るものとは全く逆の、もう一つの論理があった。それは、日朝の文化的・地理
的・言語的・人種的な近縁性を強調し、もともと両国は非常に「近い」ために、
併合は当然だとするものである。ここでは、そうした立場からの併合を賛美する
記事を扱い、日本と朝鮮の差異ではなく「近さ」が描き出される過程を分析する。

併合を容認するレトリックの一つに、併合を既成事実化し、その是非を問う事自
体を禁じようとする語り方がある。併合は「確定不変の国是」「帝国規定の大方
針」\footnote{東京朝日 8.26}であり、今さら騒ぎ立てる事ではないとい
う類のものである。このように併合を当然視する姿勢自体は、併合を「文明化」
として正当化する言説も含めて、新聞論調全体に共通するものである。ただし、
既成事実化の根拠が、既に保護国化していること、明治初期から征韓論が存在し
たことに留まらず、両国の歴史の始まりにまで遡っていくと、その意味は大きく
異なってくる。併合は「二千年来の我国是」であるというような語り方である。
こうした表現は、「近さ」を強調する言説に特有のものである。つまり、日本が
「他者」なる朝鮮を併合することが当然なのではなく、日本と朝鮮は元来「他者」
ではなかった故に併合が当然だというのである。この論理においては、日韓の政
治的結合は併合ではなく、「同人種和合」であり、「親子の対面」である。こう
した結論を導くために描かれた、日本と朝鮮の内在的な「近さ」とはどのような
ものだったのだろうか。

まず一つは、日本と朝鮮の歴史的な交流の深さが挙げられる。併合直後に、日韓
交流史を紹介する特集が多くの新聞で組まれている。萬朝報では、「朝鮮の過去」
と題して室町時代の対朝鮮貿易や、秀吉の朝鮮征伐をめぐる逸話などを物語風に
紹介している。読売新聞では、「日韓交通の回顧」として、足利時代の交流と、
秀吉出兵、徳川時代の使節来貢、そして征韓論の4つのエピソードを並べている。
同じく「日韓の交通」では、素戔嗚尊の神話から、崇神天皇のと任那の関係、神
功皇后の「三韓征伐」、そして征韓論までの交流を詳しく述べた後、「彼我交通
の便は日に月に益々開け今や殆んど日韓同国の観を為すに至りたるは実に諸君と
共に語るに興味ある事ならずや」と結んでいる。大阪朝日新聞では、明治以降の
日韓関係を1ページにわたって記した特集の始めに、次のように書いている。
「素戔嗚尊の尊尺茂梨の朝鮮である、孤公の帰化した朝鮮である、武内宿禰の植
民政策を行つた朝鮮である、仁徳天皇が産業開発に心を注がれた朝鮮である、上
代より鎌倉幕府時代に至る迄殆ど朝貢を絶たざりし朝鮮である、一たび之が為に
は神功皇后の親征となつた、二たび之が為に豊太閣の征伐となつた、三たび之が
為に日清戦争となつた、四たび之が為に日露戦争となつた」

このように、その実証性も年代もあまりに異なる歴史的事実あるいは逸話を、一
連の系譜として並べることによって、あたかも日韓併合が歴史的な流れの中の必
然のように思わせる効果を持つ。大阪朝日新聞ではこうしたレトリックを使って、
端的に次のように併合を正当化している。即ち、併合は「神功皇后以来幾十万の
人命と幾億万の国弊を之が為に費したるの結果」であり、「地理的及び人種的関
係に於て二千年来の宿題」だと言うのである。

しかし、日朝の交流を描く記事は、この様な形で直接的に併合を正当化するもの
に留まらない。これらは、日本側の「朝鮮征伐」の歴史を顧みながら、「侵略」
を歴史的に正当化しようとするものである。しかし、私が注目したいのはむしろ、
日朝双方向の交流に着目し、両国が影響を与えあいながら形成されてきた事実を
強調して、併合が「侵略」ではなく「和合」だとする描き方である。

\begin{quote}
「医学は朝鮮が先生」
奈良前後に於ける\.{日}\.{本}\.{の}\.{文}\.{化}\.{は}\.{概}\.{ね}\.{朝}
 \.{鮮}\.{か}\.{ら}\.{渡}\.{来}\.{し}\.{た}もので就中文学、技芸、絵書、
 医薬等此時代に初めて伝へられたものは甚だ多い。日本へ韓方医学の初めて伝
 はつたのは今から千四百九十六年前即ち允恭天皇の三年である。(後略)(東
 京朝日 8.28)
\end{quote}

\begin{quote}
日本及び朝鮮の古塚より発掘される土器には甚しく共通類似の点がある...(中
略) ...斯く日韓共通の土器が共通に両国で発見せられるのは、日本人種が出来
上がつた後に朝鮮より夫等の土器の既製品を輸入したのと、韓人が着て日本で製
作したのと、日本人が製法を習つて作つたのとがあつて夫らが表れてくるのであ
るが更に遠く考へる時は\.{日}\.{本}\.{人}\.{種}\.{の}\.{出}\.{来}\.{上}
\.{が}\.{ら}\.{ざ}\.{り}\.{し}\.{前}\.{か}\.{ら}\.{既}\.{に}\.{韓}\.{人}
\.{が}\.{澤}\.{山}\.{混}\.{入}\.{し}\.{て}\.{て}作つたのもあるだらうと思
はれる。(東京朝日 8.27)
\end{quote}

\begin{quote}
我国は書物と云ふ一点に於ては朝鮮から感化影響を受けた事は少くなかった、此
れは如何なる理由かと云ふに、彼の文禄の役即ち豊太閣の朝鮮征伐の時に...朝
鮮国内にある書物は手あたり次第に持ち帰つて来た、此際に持ち帰つた朝鮮本の
感化が我書物に対して少なからずあつたのだ。...(中略)...朝鮮も文禄の役前
までは書物の種類も多く文化の開けていた国であるから、書物の形式のみならず
其の内容に於ても大に感化を受けたのだ。(読売新聞 9.4)
\end{quote}

これらは、日朝交流における朝鮮側からの影響に言及したものである。このよう
に、古くから相互交流があった事を強調する以上、人種的、あるいは文化的な融
合があったことになる。つまり、日本と朝鮮の「近さ」を示す軸の一つは、人種
であり(いわゆる日鮮同祖論)、またある時は文化であり、言語であった。それ
を端的に表すのが「同文」「同種」「同根」「同教」という言葉である。

\begin{quote}
志士鶴昌七の談
「我々は東洋人なれば此際東洋人なる日本国に合併され、日本人として世界列強
国民と競争するは却て我々の幸福也、\.{異}\.{文}\.{異}\.{種}なる欧洲国の属
邦となるは我らの忍び能はざる所也(中外商業 8.30
\end{quote}

\begin{quote}
世は大資本の世なるが如く、また大国の時代なり。韓国併合の如き、日韓両国に
歴史的兄弟の舊関係無かりしとするも、自然の勢として必ず到達せざる可からざ
る運命なり、況んや民族の起源の\.{同}\.{根}\.{同}\.{種}にして争う可からざ
る\.{兄}\.{弟}\.{姉}\.{妹}の舊誼あるに於てをや。(読売新聞 8.31)
\end{quote}

\begin{quote}
韓国にある日本人も今後一層大量を以て、韓人を宇しみ、\.{同}\.{種}\.{同}
\.{根}\.{同}\.{文}\.{同}\.{人}として、全然融和し去り、宛も我が九州四国若
くは台湾琉球と同じく、同一政府の下にある日本国民として些の障壁を設けず、
相敬し相愛し、以て等しく天皇陛下の御仁慈に浴すべきのみ。(大阪朝日 8.
26)
\end{quote}

これらの言葉は、あらゆる側面から日本と朝鮮が「もとは一つ」であったことが
主張しようとしている事を示している。その各々をより具体的に示しているもの
を次に挙げてみる。

\begin{quote}
日韓の関係は極めて古くから存在したもので素戔嗚尊が新羅曾尺茂梨の地に渡ら
れたを始めとして或学者の如きは古は日本と朝鮮は同一邦で我皇の祖先が新羅を
統治して居られたのであると言つて居る人もあります。...(中略)...\.{朝}
\.{鮮}\.{語}\.{が}\.{日}\.{本}\.{語}\.{と}\.{同}\.{一}\.{分}\.{派}\.{で}
\.{あ}\.{る}と云ふとは古代に於て両国の関係が頻繁であつたにも拘らず言葉の
点に於ては格別の困難が無かつたらしいと云ふとからも推測されます。(東京朝
日 8.26)
\end{quote}

\begin{quote}
...北方よりは韃靼人、南方よりは日本人が移住して終に今日の朝鮮人種を形造
つたので\.{日}\.{本}\.{人}\.{七}\.{分}、\.{韃}\.{靼}\.{人}\.{三}\.{分}
\.{で}\.{出}\.{来}\.{上}\.{つ}\.{て}\.{居}\.{る}のである。斯く大半は日本
人であり且つ古くは日本へ文明を輸入したのも朝鮮であるから朝鮮が独立が出来
難いやうになつた以上は母国同様なる日本に合併するのは自然の数である。(読
売新聞 8.25)
\end{quote}

\begin{quote}
沖縄語は本来日本語の一変体である。同様に\.{朝}\.{鮮}\.{語}\.{も}\.{日}
\.{本}\.{の}\.{土}\.{語}\.{と}\.{起}\.{源}\.{を}\.{同}\.{う}\.{し}、ただ
長い間離れていた為に別な発達をとげて来た丈の事である。(読売新聞 8.2
7)
\end{quote}

\begin{quote}
由来古代朝鮮と古代日本との人種上または交通上の関係は顕著なる事実であるが
神功皇后が三韓征伐をせられて任那に日府が出来てから両国の関係は益々密接と
なり...  (中略)...此等の美術品を日本人が得て独特の大消化力を以て速かに
日本的特徴を発揮せしむるに就ては朝鮮人に負ふところが少くない。...(中略)...
支那本土と直接の交通が開け三韓よりも優れたる文物美術が支那より直接に日本
に入る様になる迄は或意味より云へば\.{韓}\.{人}\.{は}\.{共}\.{同}\.{的}
\.{に}\.{我}\.{美}\.{術}\.{の}\.{根}\.{源}\.{を}\.{作}\.{つ}\.{た}者とも
云ひ得る。(東京朝日 8.29)
\end{quote}

\begin{quote}
所謂審別なるもの、多くハ朝鮮之帰化人ならざるなく、\.{今}\.{日}\.{の}
\.{大}\.{和}\.{民}\.{族}\.{が}\.{大}\.{半}\.{朝}\.{鮮}\.{人}\.{よ}\.{り}
\.{成}\.{る}ハ疑ひ無き事実なり...日本人と朝鮮人とハ本来同一人種なりと称
するを得べし(萬朝報 9.1)
\end{quote}

日本と朝鮮が同源であると主張することによって、朝鮮を「自己」の内部に引き
寄せようとするプロセスが見えてくるのではないだろうか。しかし、そのプロセ
スは「自己」のアイデンティティ自体にも変更を迫るものである。日本と朝鮮が
同源であり、深い交流があったとするなら、当然のことながら、現在の日本自身
に朝鮮人種や朝鮮文化が混在していることになるからである。これらの例は、
「韓人は共同的に我美術の根源を作ったもの」「今日の大和民族が大半朝鮮人よ
り成る」として、それすらも受け入れていることを示している。従って、「朝鮮
人を先天的に劣等視するのは日本人自ら侮辱するものたること」\footnote{大阪
朝日 8.26 天 声人語}ということになる。少なくともこの文脈に於いては、
日本は全く対等な立場で朝鮮との同一化を図ろうとしていると解釈できる。

では、人種、文化、言語的な交流を述べた記事には、朝鮮からの自己疎外化を図
り、ヘゲモニーを確立しようとする力は働いていなかったのだろうか。次の記事
にはそうした意図を見出すことが出来るかもしれない。

\begin{quote}
日本は朝鮮と云ふ橋梁によりて文明の事物を輸入し得たること実に夥しきものなり
しなり。然れども元来朝鮮人と日本人の間には支那と日本との間ほどに文化の相違
無かりしかば日本人の智識開くるに従ひ韓半島は漸く橋梁としての価値を減じ日本
人は直接支那に交通して其文明を直輸入せり。(東京朝日 8.25)
\end{quote}

\begin{quote}
其の当時日本では既に三国の魏の国に使を遣つて、魏の国から文明を直に受取つて
居るが、朝鮮の方の三韓では勿論支那の植民が沢山入り込んで、文明を伝へないこ
とはないけれども、まだ統一した国として文明を其処に形造ると云ふ程にはなつて
居らなかつた、其時は既に日本の方がえらいのである...(中略)...三韓の文明と
云ふものも大抵は支那から持つて来たものを直に取次いだに過ぎないのであるから、
日本が朝鮮の文化の為に進歩を来したと云ふことは、決して断言は出来ぬ。
(大阪朝日 9.4)
\end{quote}

ここでは、交流の深さは認めながら、日本自身の文化に朝鮮が及ぼした影響につ
いては出来る限り矮小化しようとしている。しかし、こうした例はむしろ例外で
あり、多くは既に挙げた例のように、自らのアイデンティティを脅かす危険を冒
しながらも、日本と朝鮮を近く位置付ける事に力点を置いている。そこには、2
章で取り上げたもののように、自己を上位に位置付け朝鮮を劣等視する視線は見
られない。それを象徴的に示すのが次の二つである。

\begin{quote}
日韓両国民は祖先を同うし、且つ同文、同教にして三千年以来相往来せり、朝鮮人
の日本人に対する関係は、決して露国人及びオーストリア人のポーランド人やハン
ガリー人に対すると同一ならず(萬朝報 8.29)
\end{quote}

\begin{quote}
彼等朝鮮人は印度マダガスカル等に於ける土人と同一視すべきものに非らず
(読売新聞 8.31)
\end{quote}

これらは同化主義を唱えるものであるが、後でくわしく述べるように、この文脈
における同化は、日本と朝鮮が「もとは同じ」であることに依拠している。従っ
て、日本と朝鮮の関係は、ロシアとポーランド、オーストリアとハンガリー、英
国とインドの関係とは、違うとされているのである。これは、啓蒙主義の言説が、
日本と朝鮮の関係を西洋と植民地の関係に例えて、文明水準の違いを強調したの
とみごとな好対照をなしている。この文脈に於いては、日本と朝鮮の関係は、西
洋諸国と植民地の関係とは違い、対等な位置に置かれていることになる。その結
果、日本と朝鮮の「近さ」を主張するこうした言説は、「一視同仁」「韓国人を
蔑視してはならない」というスローガンを掲げることになる。既に挙げた例も含
めて、国民に対して「一視同仁」を唱えている部分を列挙してみる。

\begin{quote}
(併合は)即ち強力を以て奪べるにはあらずして、和楽の裡に両国の間に存在する
障壁を撤して、渾然として一家を成せるものなり。...(中略)...新附の民に対し
て障壁を設けず、\.{一}\.{視}\.{同}\.{仁}、能く之を愛撫して...(後略)
(中外商業 8.31)
\end{quote}

\begin{quote}
朝鮮人に対し同情と正義とを以て\.{真}\.{の}\.{同}\.{胞}\.{と}\.{し}\.{て}
待遇せんことを忠告せざるを得ず(萬朝報 8.29)
\end{quote}

\begin{quote}
朝鮮人を先天的に劣等視するのは日本人自ら侮辱するものたること、人種上、歴史
上争ふべからざるところである。(大阪朝日 8.26)
\end{quote}

\begin{quote}
我国民は此際日人及び朝鮮人なる観念は勿論全然脱却し誠心誠意相提携して\.
{純}\.{一}\.{渾}\.{然}たる大国民を形成せざるべからざる也(読売新聞 8.
31)
\end{quote}

\begin{quote}
吾吾は新日本人を決して虐待してはならぬ。朝鮮人は非常に善良なる民である。
(読売新聞 8.25) 
\end{quote}

\begin{quote}
邦人の朝鮮語研究を必要ならずとするものあるやも知れざれど、日韓の関係は云
ふまでも無く対植民地の関係とは趣を異にし、古き兄弟が新しき和合をなしたる
ものなれば、弟が未だ兄の言語に通ぜざるに当りて、\.{兄}\.{が}\.{仮}\.{り}
\.{に}\.{弟}\.{の}\.{言}\.{語}\.{を}\.{も}\.{覚}\.{え}\.{て}、弟が兄の言
語に通ずるの期を早くすること、また兄の慈愛と云ふべきものならん。(読売新
聞 8.27)
\end{quote}

このように、朝鮮を日本と対等に位置付け、国民にも朝鮮蔑視観を払拭すること
を強要している。「指導啓発」や「愛撫」といった表現は、朝鮮対等観とは矛盾
するにせよ、おそらく書き手側はそうした矛盾には無頓着で、あくまで記事の意
図は「一視同仁」を強調することにあると思われる。ここで重要なのは、書き手
が本当に朝鮮を対等視しているのか、それが現実に具現化されたのかを問うこと
ではなく、何故、何のためにこうした表象がなされたのかを分析することである。
しかしここでは、朝鮮を自己の内部に位置付けようとする言説において、同時に
朝鮮を自己の高さにまで引き揚げる試みがなされたことを指摘するにとどめ、次
に同様の論理から展開された政策論を見てみたい。

\subsection{同化政策論}

「一視同仁」の論理の帰結として、政策提言としては当然、同化政策が唱われた。

\begin{quote}
凡そ植民地をして母国に同化せしむるは植民政策上の第一要義に属す、此が為めに
は出来得る丈け両者間の障壁を撤廃し...(後略)(読売新聞 44.1.14)
\end{quote}

\begin{quote}
韓国は誠に奇麗さつぱりと日本に併合せられて、日本の領土となり来りたるなり。
従つて此領土の上に生存せる日本の新臣民を、日本が此より直に同化せんと欲する
は、固より当然の事なる可きが、さて其同化は何よりして起る可き乎。
(東京朝日 9.2)
\end{quote}

「同化」という言葉は、寺内統監の併合に関する発表の中にも登場しており、ま
た「一視同仁」が掲げられている以上、理念的には当然の帰結であるため、この
ように、新聞記事の中では同化は当然の課題として挙げられている。従って、同
化政策の是非を問うのではなく、如何にして同化させるか、またはそもそも朝鮮
人は日本に同化し得る人種なのか、が紙上における主な論点となっている。では、
そこで論じられた同化主義とはどのようなものなのか。

朝鮮人を同化し得るか、という命題に対する答えは、一様に「同文同種」だから
可能であるというものだった。特に明確に述べているものを下に挙げる。

\begin{quote}
英吉利人と印度人となどのやうなのは非常に差異がある、是も昔は言語学の上から
などは同じ人種だと云ふ説もあるけれども兎に角現在では大変違つて居る、それか
ら亜米利加人と黒人と云ふやうな非常な差異のあるものとは違ふ、日本の歴史から
言つても、朝鮮から来た所の人種が日本に帰化して、昔は相当の待遇を受けて、姓
氏禄などに依て見てみると、其の中日本の貴族として取扱はれて居つた者も随分あ
る...(中略)...努めて同化の方法を取つて、日本人と朝鮮人の区別を隠滅して仕
舞ふと云ふやうな事に力を致す必要があるだらうと思ふ。(大阪朝日 9.4)
\end{quote}

\begin{quote}
神話を同うし、語系を同うし、人種を同うする彼等には、立派な日本人となるべき
潜在的能力を有つていると看倣して差支がない。(大阪朝日 8.27)
\end{quote}

\begin{quote}
林薫卿は又儒教に関する限りに於て、本来朝鮮人を以て無宗教と成すに拘らず、同
文同種の上に同教なりと成しつつ、此関係の上よりして同化を進めんとするものの
如くなるが、此事は吾人の可とする所なり。(東京朝日 8.30)
\end{quote}

つまり、日本人と同源であるが故に同化が可能なのであり、絶対普遍の理性を持つ
人間であるためではないのだ。従って、ここでの同化政策とは、普遍的・文明的社
会制度や法制度への移行ではなく、日本的なものへのそれであった。とは言え、
「同化主義に依りて朝鮮一千万の人民を誘掖指導し…」\footnote{東京朝日 8.2
5}という様に、「文明化」のキーワードである「誘掖指導」や「啓発」という言
葉と「同化」が同時に使われていることもある。その際、「同化」は、普遍文明に
朝鮮を導くという啓蒙化の意味も含んでいることになる。しかし、同化主義の根拠
は飽くまでも「同文同種」であり、日本人と同じ人種であるから日本人と同じよう
に文明化できるというものだ。また、具体的な政策として挙げられている同化政策
は、そのほとんどが日本語の普及と儒教主義教育である。従って、フランスの啓蒙
主義的同化政策とは、全く相容れざる思想に基づいたものである事が分かる。ここ
での同化とは、即ち「日本化」であった。

\begin{quote}
日本として歴史上朝鮮の風俗などは大変趣味のあるものである、さう云ふ事は或
る程度までは遺さなければならぬかも知れぬが、それは又国民の同化問題として
は或る程度までは\.{努}\.{め}\.{て}\.{そ}\.{れ}\.{を}\.{無}\.{く}\.{し}
\.{て}\.{仕}\.{舞}\.{ふ}\.{必}\.{要}\.{が}\.{あ}\.{る}であらう。(大阪朝
日 9.4)
\end{quote}

\begin{quote}
儒教ハ多年彼の国民性を涵養し来れるものにして、又我が国民性を形れる一要素
なるを以て、此の儒教を以て導き、同化するハ、法の宜しきを得たるものなり、
我が教育家ハ今後進んで此の教育主義の下に漸次に彼を開発すべく、同時に宗教
家もまた偏屈ならざる思想、\.{我}\.{が}\.{国}\.{民}\.{性}\.{と}\.{背}\.
{反}\.{せ}\.{ざ}\.{る}熱精を以て、振つて朝鮮人を善導するに努むべきなり
(萬朝報 9.2)
\end{quote}

\begin{quote}
朝鮮国は元来儒教国なれば之れに教育を施さんには亦儒教主義即ち孟子の所謂王
道を以て臨むを上策又は至当と信ずるなり。\.{我}\.{国}\.{と}\.{同}\.{文}
\.{同}\.{語}\.{の}\.{国}\.{民}\.{と}\.{な}\.{し}遂には我人民とどうか融合
せしむる方針を採るを以て必要とす。(読売新聞 8.26・)
\end{quote}

\begin{quote}
吾人は朝鮮の日本化に漸進主義を取る外なしと思ひ定め居れども、\.{公}\.{用}
\.{を}\.{日}\.{本}\.{語}\.{日}\.{本}\.{文}\.{と}\.{成}\.{す}ことだけは、
直に之を行ふを得べしと成す。...(中略)...差当りての朝鮮教育には日本語を
教ふうるを以て限度と成す。(東京朝日 10.11)
\end{quote}

\begin{quote}
従来の教科書には未だ\.{韓}\.{国}\.{と}\.{い}\.{ふ}\.{考}\.{へ}が余程残り
居れるを以て今後は更に\.{日}\.{本}\.{国}\.{民}\.{と}\.{し}\.{て}教ゆべき
教科書に改造せざる可からず。又学校に於ける朝鮮語教授も之を廃止するの要あ
る可く漢学の教授も廃止する方或は宜しからん、斯くして之に代はるに日本語の
教授を以てし之に多くの利便を興ふれば彼等も亦進んで自ら日本語を学ぶに至ら
ん(読売新聞 8.31)
\end{quote}

儒教主義を同化の要件として挙げている点は注目に値する。何故なら、儒教は日
本と朝鮮に共通の文化的要素として位置付けられており、ここでの同化は、これ
を媒介にした両国の「融合」を意味するからだ。特に、福沢が儒教を「古を慕う
の病を免れず」として批判し、文明を疎外するものとして儒教的封建制度からの
脱却を目指した事と比較すると、非常に興味深い。文明論的立場からは批判の標
的となった儒教が、日本とアジアの共通点として掲げられていることは、この文
脈では自己疎外化が全く志向されていない事を象徴的に示していると言えるかも
しれない。

しかし、日本と朝鮮の融合は、実質的には朝鮮の一方的な「日本化」であった。
日本語の普及と朝鮮語教育の廃止という政策提言がそれを如実に表している。ま
た、8月31日の読売新聞では、恩赦等によって「韓国民を我が皇化に浴す」こ
とによって融合を図るべきだと述べられている。つまり、同化とは天皇の名の下
に朝鮮人を日本人たらしめることであり、「一視同仁」とは、朝鮮人も「同じく
之陛下の赤子」\footnote{中外商業新報 9.1}であるから「継子扱い」
\footnote{東京朝日 8.25}してはならないということである。従って、
「同文同種同教」が朝鮮を真に平等に遇するためではなく、併合を正当化するた
めのスローガンであったことは明白である。日本と朝鮮が同源であるという論理
は、本来なら朝鮮の「日本化」ではなく、日本と朝鮮の文化・制度的「融合」に
帰結するはずだからだ。さらに、実際に行われた政策では、彼らは「日本化」し
てもなお、別の局面では制度的不平等を強いられたのである。

では何故、これほどまでに平等を唱え、日本と朝鮮の近縁性を主張しなければな
らなかったのか。正当化のための建て前というだけではその理由にならない。関
係の深さを併合の理由にする場合でも、始めに紹介したもののように、日本側が
朝鮮に与えた影響だけを強調したりする選択肢もあったからである。その答えは、
「一視同仁」をこれほど唱えなければならなかった事そのものに見出すことが出
来るのではないか。つまり、国民の間に既に朝鮮蔑視観が定着していたというこ
とである。それを窺わせる記事が次の3つである。

\begin{quote}
「寺内統監の苦言」

統監は厳格なる調子にて序ながら世界を指導する諸君に同意を求めたきことあり
とて新聞雑誌の議論往々軽率に流れ\.{韓}\.{皇}\.{室}\.{を}\.{蔑}\.{視}\.
{し}\.{国}\.{民}\.{を}\.{奴}\.{隷}\.{視}\.{す}\.{る}の字句あり。斯の如き
は平素慎むべきことなるも殊に時局解決後の将来は一層注意しみだりに其功に傲
り彼我共に隔意を生じ衝突を来すが如きは最も避けざる可らず。(東京朝日 8.
29)
\end{quote}

\begin{quote}
「朝鮮統治の要義 寺内統監の談」

統監は曰く\.{元}\.{来}\.{日}\.{本}\.{は}\.{朝}\.{鮮}\.{を}\.{以}\.{て}
\.{劣}\.{等}\.{国}\.{と}\.{な}\.{し}、\.{朝}\.{鮮}\.{人}\.{を}\.{見}\.
{る}\.{こ}\.{と}\.{之}\.{を}\.{奴}\.{隷}\.{の}\.{如}\.{く}\.{す}\.{る}
\.{習}\.{慣}\.{あ}\.{り}て夫の堂々たる言論界の如きは公然斯の如き文字を弄
して顧みざるの弊あり、否独り言論界のみならず、一般日本人の言動皆殆ど然ら
ざるはなし、甚だしき一例を挙ぐれば日本人がヨボの国を勝手にするのに何の不
思議があるものか、相手が若しグズグズ吐かしたら撲きつけて了ふ許りだなどの
事を大威張りに威張つて言ふものさへあり、之は実に怪しからぬ話なり、予の見
るところは之を反対にて日本人は朝鮮人を見ること恰も真の同胞に於けるが如く
飽まで愛撫誘導の精神を以てこれを遇せざるべからざることを信ず。(東京朝日
 9.1)
\end{quote}

\begin{quote}
朝鮮人を知ることの深き者は、その深きだけ其だけ、彼等に同情せざる傾向なき
にあらず、而して或は\.{彼}\.{等}\.{を}\.{視}\.{て}\.{以}\.{て}\.{同}\.
{情}\.{を}\.{価}\.{せ}\.{ず}\.{成}\.{せ}\.{り}。吾人も亦朝鮮人を知らざる
にあらず、而して時として之に同情を致す能はざりしこと有り、更に或は\.{侮}
\.{蔑}\.{の}\.{心}\.{生}\.{じ}\.{た}\.{る}こと有り。然れども翻つて彼等が
如何にして今日の如き状態を成すに至りたるかを思へば、憮然又惻然たらざる能
はず。蓋し彼等は幾世紀を通じての悪政を被りたるに因りて彼の如くなれるなり。
(東京朝日 9.2)
\end{quote}

統監自らが、併合に際して国民に朝鮮を「敵国視」しないよう警告しなければな
らなかった事が、既にこの時朝鮮を日本より下位に位置付ける視線が、国民に浸
透していたことを示しているのではないか。併合前後の時期に朝鮮を訪れた日本
文学者の作品の中にも、そうした視線を見ることができる。\footnote{岡本幸治
『近代日本のアジア観』ミネルヴァ書房、1998}木村幹によれば、高濱虚子と谷
崎潤一郎は併合前後に著した「朝鮮」と「朝鮮雑話」というエッセイの中で、共
に文明論的位置づけに基づく朝鮮観を露呈している。虚子が描いた朝鮮人は、不
潔で怠惰な「半開」的人間像であり、谷崎が見た朝鮮は中世の日本の姿そのまま
だった。自分の朝鮮に対する印象を紀行文のような形で綴ったこれらの作品の中
に、2章で取上げた言説と全く同じ構造において朝鮮との差異が認識されている
事は、文明論的パースペクティブが彼らの中に内面化されていることを示してい
る。

文明論の言説は、日本が停滞した「アジア」から脱却して「文明化」を果たした、
という国家的アイデンティティを創り上げることに、既に成功していたと言える
のではないだろうか。「半開」である朝鮮は、併合時の新聞記事による自己疎外
化機能の効果を待つまでもなく、日本にとって当然「他者」であったのだ。啓蒙
主義の文脈のみで併合を正当化できるのならば、むしろ国民にとっては受け入れ
やすかったかもしれない。しかし、西洋や朝鮮自身に対して、日本が朝鮮を植民
地化することを正当化するには、自己の普遍性だけではなく、独自性を掲げる必
要があった。日本が、東洋的あるいは東アジア的であるからこそ、西洋よりも朝
鮮支配に適していると主張しなければならなかったのだ。そのために、国民に対
して、いわばアイデンティティの変更を迫らざるを得なかった。恐らく当時の日
本人にとって、朝鮮との近縁性を認めることは、ある程度の反発や違和感を伴っ
たのではないだろうか。政府は国民に対して「和合」として併合をアピールする
ため、同種同根を掲げざるを得なかった。日鮮同祖論や言語同一分派論によって、
自己自身を朝鮮に同一化してでも、朝鮮との「近さ」を強調する必要があったの
である。しかし、実際には「一視同仁」は日本人と朝鮮人の区別の完全な撤廃を、
本来意図していいなかった事はその後の政策を見れば明らかだ。にも関わらず、
こうした論理が展開された事は、文明論的尺度による朝鮮との差異化が、人種的・
文化的同一性の主張にも揺らがない程確立していた事を示す、余裕と言えるかも
しれない。その後の日本化政策にも関わらず、「半開」としての朝鮮像は、「汚
い」「ずるい」といったイメージとして、日本人の間に定着し、両者の壁として
機能し続けた事がそれを示している。


\section{論理の交錯 〜「兄弟」という位置づけ〜}

ここまでは、併合時の朝鮮表象に、朝鮮から自己疎外化しようとする力と自己の内
部に取り込もうとする力が働いている事を検証してきた。それぞれの言説における
朝鮮の位置づけは、一見全く矛盾するように見える。しかし、これまで見てきたよ
うに、差異化の根拠である「文明」と同化の根拠である「文化」や「言語」が別の
次元の価値として表象されているならば、二つの論理が両立する交錯点が存在しう
る。「半開」としての朝鮮と「天皇の赤子」としての朝鮮。その二つがどのように
結びつくことによって同時に存在し得たのかをここでは明らかにしたい。

朝鮮の位置づけという点において、同化とも自己疎外化ともとれる興味深い例が、
以下のようなものである。

\begin{quote}
其容貌風俗共に宛がら\.{我}\.{国}\.{の}\.{平}\.{安}\.{奈}\.{良}\.{時}\.
{代}\.{の}\.{人}\.{物}\.{を}\.{見}\.{る}\.{が}\.{如}\.{し}である。(東京
朝日 8.25)
\end{quote}

\begin{quote}
韓人の衣服は我邦で云ば\.{男}\.{子}\.{は}\.{藤}\.{原}\.{期}\.{の}\.{風}
\.{俗}\.{に}\.{似}\.{て}居るし、\.{女}\.{子}\.{は}\.{奈}\.{良}\.{期}\.
{の}\.{有}\.{様}\.{を}\.{眼}\.{前}\.{に}\.{見}\.{る}\.{様}\.{な}\.{心}
\.{地}\.{が}\.{す}\.{る}のである、殊に女子は長衣とて古昔日本に行はれた様
な被衣を着て歩くものが多くあり、其間から厚化粧の白き顔をチラと見せ、涼や
かな眼で恥しさうに眺め行く風抔は宛然六七百年前の絵巻を見るが如き感じがす
る...  (中略)...事実頭上にモリポを戴き身に周衣を着けて立てる姿は牡丹の
艶、桜花の美にも比べつ可き風情がある。(東京朝日 8.29)
\end{quote}

\begin{quote}
「王朝時代と今の朝鮮」

今日\.{朝}\.{鮮}\.{に}\.{現}\.{存}\.{し}\.{て}\.{居}\.{る}\.{制}\.{度}
\.{風}\.{俗}\.{等}\.{に}\.{は}\.{我}\.{国}\.{の}\.{王}\.{朝}\.{時}\.{代}
\.{に}\.{酷}\.{似}\.{し}\.{て}\.{居}\.{る}ものが少なくない。我国でも昔の
習俗では今日朝鮮に於けると同じく必ず上衣と下衣とを別にしたもので王朝時代
の婦人は衣服の配合に非常に注意して漏示は今日の友禅、縞又は格子等の模様は
一切無く一枚一色でそれを幾枚も重ねる慮に工夫を要したのであつたが朝鮮人も
又左様で...(後略)(東京朝日 8.30)
\end{quote}

\begin{quote}
我邦に在りても\.{平}\.{安}\.{朝}\.{時}\.{代}\.{に}\.{於}\.{け}\.{る}\.
{状}\.{態}\.{は}\.{今}\.{日}\.{の}\.{朝}\.{鮮}\.{民}\.{衆}\.{に}\.{酷}
\.{似}\.{し}\.{た}\.{る}風ありたり。朝鮮人と云へども指導宜しきを得ば日本
臣民としての立派なる品格を得しむべきと決して臨みなきことにあらず。(読売
新聞 8.26)
\end{quote}


こうした描き方は、日本と朝鮮の文化的近似性を強調し、読み手にある種の親近
感を抱かせる役割を果たすという点で、一種の同化の言説と見ることが出来る。
その文脈においては、日本と朝鮮の風俗の類似は、西洋に対する独自性、特殊性
という意味合いを持つ。一方で、朝鮮をかつての日本に例えることは、朝鮮を歴
史の発展段階における「遅れた」ものとみなす位置づけに基づいていることも明
白である。この文脈では、一連の記事の中で例外的と言えるほど、一様に朝鮮に
対する好意的な視線が注がれている。ここに見られるノスタルジックな共感と賛
美は、相手を「他者」化して初めて成立する、オリエンタリズム的視線そのもの
である。問題は、何に拠って「他者」化がなされているかである。

現在の私達の目から見れば、中世日本とこの時期の朝鮮の風俗の近似性によって、
発展段階的な位置づけを行うにしても、それは「東洋文明」の枠の中での進歩水
準となるはずだろう。一元的な進歩史観に基づいてこれを解釈すれば、中世以前
に西洋人もチョゴリや十二単のような衣服を着ていることになるからだ。しかし、
東京朝日8月25日の記事は、朝鮮を平安奈良に例えた後、先出のこの文章を続
けているのである。「朝鮮人の日本人への敵対心は、丁度開国当時の日本人が西
洋人をにらみつけたと同じ」朝鮮、日本、西欧を単一の線上に位置付け、だから
朝鮮もいずれ文明化するだろうというのである。現在の朝鮮が日本の中世の段階
にあるという歴史的な視点から見る以上、ここでも普遍的な進歩の道程が潜在的
に想定されているのである。つまり、ここに描かれた日朝共通の風俗は、一方で
は特殊文化として、一方では文明の初期段階の象徴として二重に機能しているの
である。しかしこの矛盾は、実際に「似ている」と感じるその感覚の中に巧妙に
姿を隠してしまう。谷崎潤一郎がこれと全く同様の見方をあらわしていることか
らも、この二重のレトリックが当時の日本人にとって理解しやすいものだったこ
とが窺える。

\begin{quote}
「平安朝を取材にした物語なり歴史畫なりを書かうとする小説家や畫家は、参考
の為に絵巻物を見るよりも寧ろ朝鮮の京城と平壌とを見ることをすすめたい。京
城の光化門あたりをさまようて居ると、嘗て戯曲「鶯姫」を書いた私は、自分が
あの戯曲中の人物になってしまつたやうな気持ちを覚える。」\footnote{岡本幸
治編著 『近代日本のアジア観』ミネルヴァ書房、1998年}
\end{quote}

こうした視線が描き出す「近くて遠い」朝鮮像と日本との関係を、最も的確に言
い表した比喩が「兄弟」である。この言葉は、両国の関係を国民に「正しく」理
解させるためのキーワードとして頻繁に用いられた。これは、併合に際しての日
朝の位置づけを実に巧妙に表す表現であった。「家族」であることを強調して同
胞意識を喚起する一方で、日本人に飽くまでも「兄」としての誇りと優越意識を
再確認させる。同様に「弟」としての朝鮮も、時にその「幼稚さ」が、時に「兄」
との類似性が強調され、同化と自己疎外化の両方の言説において有効に機能した
のである。

\begin{quote}
先づ最も必要なりと感ぜらるるは、日本人の韓人を愛することなり、将さに合併
せられんとする国土の蒼生を待つに、中心より\.{兄}\.{弟}\.{の}\.{観}\.{念}
\.{を}\.{以}\.{て}す可きことなり。(読売新聞 8.19)
\end{quote}

\begin{quote}
(朝鮮人を侮蔑するような)斯の如きは苟くも\.{先}\.{覚}\.{た}\.{り}\.{長}
\.{兄}\.{た}\.{る}\.{我}\.{国}\.{民}の名誉にはあらざる可し。宜ろしく彼ら
に対しては同情と誠実を以て之を慰謝し之を善導するこそ長兄たる我国民の義務
にして亦大国民の襟度ならずや(中外商業新報 9.1)
\end{quote}

\begin{quote}
併合さるべき韓人は直ちに\.{同}\.{伴}\.{同}\.{行}\.{し}\.{得}\.{る}\.{能}
\.{力}\.{あ}\.{る}\.{弟}\.{に}\.{あ}\.{ら}\.{ず}、時には手を引くの必要も
あるべく、時には負うて遣らねばならぬこともあるべし、何分一人前の能力なき
もの故、少なくとも此位の面倒を見るの覚悟なかるべからず(萬朝報 9.3)
\end{quote}	

\begin{quote}
余の憂ふる点は我国民が果して朝鮮人を同胞とし\.{其}\.{幼}\.{弟}\.{と}\.
{し}\.{て}\.{温}\.{情}\.{以}\.{て}之を誘導養育し得るや否やの点なり。(中
外商業 8.26)
\end{quote}

\begin{quote}
(前略)人種も大抵同じ事と思われる。言語と文章とに就て見ると其類似せる点
頗る多く、文法の構成の如きは類似と云ふよりも寧ろ同一と云つた方が適当な位
である。...(中略)...要するに韓民同化の問題は日本の覚悟一つにある。\.
{日}\.{本}\.{人}\.{が}\.{真}\.{に}\.{兄}\.{た}\.{る}\.{の}\.{心}\.{を}
\.{持}\.{し}、大国民の襟度を示し彼の国に臨むならば、韓民の悦服期して待つ
べし。(東京朝日 8.25)
\end{quote}

\begin{quote}
\.{朝}\.{鮮}\.{ハ}\.{本}\.{と}\.{日}\.{本}\.{の}\.{兄}\.{弟}にして、互に
分立して今日に至りたるもの也、然れども\.{此}\.{の}\.{兄}\.{弟}\.{ハ}\.
{分}\.{立}\.{の}\.{結}\.{果}\.{と}\.{し}\.{て}風俗を異にし、人情を異にし、
歴史を異にし、社会組織を異にするが故に、朝相合して一家を成すも、渾然融和
するまでにハ必ずや多くの時日を要すべく...(萬朝報 8.30)
\end{quote}

\begin{quote}
所詮は\.{三}\.{千}\.{年}\.{前}\.{の}\.{兄}\.{弟}\.{が}\.{再}\.{び}\.{同}
\.{胞}\.{と}\.{し}\.{て}\.{握}\.{手}\.{し}\.{た}\.{る}に過ぎざれば之れが
為めに深く憂慮すべき程の事件出来は萬萬あるべからず(読売新聞 8.23)
\end{quote}

\begin{quote}
\.{弟}\.{の}\.{智}\.{兄}\.{に}\.{及}\.{ば}\.{ざ}\.{る}は是れ未だ其の\.
{教}\.{養}\.{の}\.{至}\.{ら}\.{ざ}\.{る}\.{が}\.{為}\.{め}のみ、教養の至
らざるを以て直に軽侮せば、教育感化の事業は一切其の意味を失はん。(大阪朝
日 9.1)
\end{quote}

「兄弟」という位置づけが、2章、3章で取り上げたどの類の言説にも使われう
る実に便利な言葉であることが分かるだろう。逆に言えば、二つの論理はこの言
葉において見事に両立するのである。即ち、文明水準では劣っているが、文化、
言語、人種などその他全てにおいて同源であるという位置づけによって、時に
「近さ」を、時に「遠さ」を強調しながら併合を自在に正当化できる。しかもこ
うした位置づけは、家族でありながら違う境遇で育ったために兄に知恵が及ばな
い弟、という比喩によって国民にも容易に理解できるものとなったのである。特
に、現在は劣っていながらも、朝鮮人には「立派な日本人となるべき潜在的能力
をもつている」\footnote{大阪朝日 8.27}事を分かりやすくした点で、こ
の比喩は特に政策論において効果的であった。何らかの法的差異を設ける政策を
求める記事の多くが、現在の文明水準の違いに拠るものであったことは2章で述
べたが、その意味ではそうした差異化政策論は、「将来は同化が可能な朝鮮」を
否定するものではなかった。むしろ、朝鮮の劣等性は李朝の悪政によるものだと
して、より本質的な人種論による差異の強調は避けようとしていたのである。つ
まり、差異化政策論と同化政策論は、どちらも同じ朝鮮像に基づいていたのだ。
従って、この「弟」としての位置づけは、「今は差異化、いずれは同化」に論理
的に帰結する。こうして「兄弟」というレトリックは、同化を唱いながらも「暫
く」と称して障壁を設ける政府の方針を象徴的に正当化するものとなるのである。

ここで留意したいのは、書き手側の意図としては、「家族」としての「弟」と、
「弱者」としての「弟」のどちらが強調されているかである。私は3章で、「一
視同仁」が声高に唱えられた背景には、文明論に基づく朝鮮蔑視観が既に定着し
ていた事があるのではないかと述べた。ここでも全体に、朝鮮を劣等視する見方
を戒める内容が多いのに気付く。2章では、「啓開」「誘導」や「怠惰」「猜疑
心」などの言葉が用いられている文章を取り上げ、その自己疎外化としての機能
を分析したが、そうした文章を含んでいる記事そのものは、「一視同仁」を説い
ている事も多い。例えば大阪朝日新聞「合併後の用意」では、「朝鮮人は日本の
如く血の環の早き人間」ではないから合併の反応は一ヶ月ほど待たなければなら
ない、また「愚民ども」「遅鈍なる彼等」も合併には多少神経質になるだろうか
ら宗教的感化をするべき、といった表現が使われている。しかしこの記事の結論
の一つは、「先づ断じて『軽侮の心』を去れといふ、是れ予が要求する第一なり。
従来日韓両民の感情を阻害したるは此の『軽侮の心』なりき」なのである。

軽侮の心をなくすべきと説きながら、「幼稚」「愚民」「遅鈍なる彼ら」といっ
た表現が使われていることは、こうした朝鮮像がいわば前提として語られている
事を示しているのではないだろうか。こうした表現が、当然の事として半ば無意
識に使われているのに比べ、「近さ」を強調して朝鮮を対等化しようとする文章
は、国民へのメッセージ、警鐘のような形をとっていることがその大きな特徴な
のである。

これまで見てきたように、文明水準に拠る「他者」としての朝鮮像と、人種、文
化に拠る「自己」あるいは「同胞」としてのそれは、「兄弟」という言葉に収斂
され、その明確な位置が与えられた。そしてこうした位置づけが可能にするため
に、既に「半開」としての朝鮮蔑視観が根強かった国民に対して、これを再生産
しながらも、朝鮮の近親性を強くアピールし、「一視同仁」を説いていかなけれ
ばならなかったのである。


\part*{結論}

ここまで、後発国である日本が他国を植民地化するにあたって、一方では西洋並
の文明基準に達したことを主張し、一方ではその文化的近縁性を盾に朝鮮の宗主
国としての資格をアピールしていった過程を分析した。混沌とした記事の総体の
中で、おそらく「兄弟」という形で国民に理解されていったであろう両国の位置
づけを、あえて二つの論理に分けて分析したのは、こうした位置づけが可能になっ
たのも、「文明」と「文化」が別の次元の価値基準として捉えられたからこそで
あったという点を強調したかったからである。

このプロセスは、後発国が世界秩序の中で自己のアイデンティティを構築してい
く場合に、ある程度共通したものと言えるのではないだろうか。例えばトルコで
は、「文明化」「近代化」「西洋化」がほぼイコールで捉えられ、「オキシデン
タリズム」が自己のアイデンティティを支えている点が非常に日本と類似してい
るのではないか、と青木保は指摘する。こうした状況の中で、「日本的であるこ
と」「トルコ的であること」を主張するためには、それらが「西洋的であること」
と矛盾しない別の価値でなければならなかった。西洋で形作られた国民国家の諸
制度とそれを支える民主主義、人権、富、自立的個人、勤労、平等といった概念
は、帝国主義によって普及していった。そしてその過程で、それらはその地域の
独自性を支える思想、価値、制度との共存可能なものとして表象されていった。
そしてその度ごとに、それらは無色透明な普遍的なものとしての地位を高めていっ
たのである。

併合当時の新聞記事の中では、「文明」は時に「西洋」と同義に使われ、「西洋
的であること」そのものも普遍的なこととして見なされる傾向があったことを示
している。しかし一方で、「西洋」を相対化する事で自己を優位に位置付けよう
とする動きが存在した。そうした行為によって「文明」が「西洋」から切り離さ
れればされるほど、「文明」はその普遍的地位を確固たるものにしていくのであ
る。また、新聞記事では、「東洋の平和と繁栄」を支える指導者としての日本の
位置を掲げてはいるものの、「日本的であること」そのものに普遍性を持たせる
ような表象の仕方はなされていない。「東洋的」であると同時に「文明的」であ
るが故に、日本は東洋のリーダーであったのである。その意味で、日本文化はあ
くまでも特殊的なものとして語られていたと言ってよい。そうして、「普遍文明」
と「特殊文化」は共存し、互いに補完しあう関係に置かれたのである。

勿論、「普遍」と「特殊」、「文明」と「文化」は、時に相反するものとして捉
えられる。非西洋諸国が西洋に対して、あるいはドイツが英や仏に対して、普遍
的な価値に対する特殊的価値として、自らの独自性と優位性を主張する時、「普
遍」と「特殊」は二項対立として掲げられていることになる。日本人のアイデン
ティティを支えてきたのも、自らの「個別性」「特殊性」であり、自らを「中心」
文明を対置させて位置付ける「自民族周辺主義」の思考様式が存在したと、吉野
耕作は指摘する。しかし、少なくとも日韓併合期の日本のアイデンティティを分
析した限りにおいて、西洋に対しても、朝鮮に対しても、普遍性と特殊性はアイ
デンティティを示すカードとして同時に用いられていた。「文明的」である事に
支えられる自己の優位性の意識を前提として、「特殊」な文化を朝鮮と共有して
いることによって、第二のアイデンティティがその上に織り上げられていくプロ
セスを私達は見てきた。

「文明的」である事がアイデンティティの切り札として表象され得たのは、当時、
\.{ま}\.{だ}「普遍文明」に浴して\.{い}\.{な}\.{い}国が存在したからである。
「普遍的価値」は、真にその普遍性を獲得すればするほど、つまり世界に普及す
るに従って、それを内面化する主体のアイデンティティを支えるプロセスは不可
視的になる。アイデンティティは常に他者との差異の認識の中で表象されるから
だ。しかし、明治の日本が、「普遍的」であることによって、「東洋的」である
ことを主張できたように、ますます無色透明になった「普遍性」は、国民国家が
自己の「特殊性」を語る上での一種の前提条件としてアイデンティティを支えて
いるのではないだろうか。政治制度の整備だけでなく、外交におけるコミュニケー
ションの在り方、平和や人類愛、発展といった概念の捉え方など、世界秩序の中
で国家が国家として存在しうるためには、普遍的とされる価値を共有しなければ
ならない。自己の独自性を語る発言権を得るためには、特殊的である前に普遍的
でなければならないのだ。西洋普遍文明対特殊的価値という構図を用いた「アジ
ア主義」や「日本主義」も、日本が普遍的価値基準の中のある基準に達して初め
て主張し得たのかもしれない。

「文明」対「文化」を二項対立で捉える考え方の不毛さについて、佐伯啓思は次
のように説明している。「文明」とはそもそも、意識的に作り出され、どこにで
も適応可能な理念や制度、技術、機構を指し、「文化」とはある集団の人々が無
意識に獲得し、維持してきた生活様式を指す。つまり、「文明」はどの文化に接
合可能な上層として捉えられている。この接合が不完全な時、「文明」と「文化」
が衝突し、西洋「文明」対土着の「文化」という構図が生み出されるのである。
この接合の不全は、そもそも「文明」が普遍的ではないことを表している。「文
明」と「文化」が別々の価値として共存するために、「文明」と「文化」は分離
できるものという前提が存在してきた。しかし実際には、福沢が個人の内面的価
値にまで言及して「文明」を定義したように、この二つは分離できるものではな
い。「文明」と「文化」の対立を生み出すのは、そもそも「文明」が普遍である
という前提なのだと青木は述べている。逆に言えば、両者の接合が偶然成立した
場合には、「文明」の普遍性は決して問われることはない。

しかし、西洋に認められながら植民地を領有することを正当化するという、極め
て政治的な意図から、「文明」と「文化」が別々のものとして表象されたプロセ
スは、我々に「文明」の定義自体の虚構性を考えさせる。これは、国民国家に内
在する問題である。国民国家は、形式的普遍性を備えながら、その存在の独自性
を主張しなければならない存在だからである。と同時に、我々は「普遍性」を志
向する思考様式自体に目を向ける必要がある。ジョン・トムリンソンは、ユネス
コの文化多元主義の言説の前提に、根元的には人類は「同一」であるという普遍
的ヒューマニズムが存在することを指摘している。他者の差異の容認を可能にす
るのは、より深いところで「何か」を共有しているという「絆」なのである。ト
ムリンソンは、この事を暗示するメタファーとして、ユネスコが使う「兄弟愛」
という言葉に着目している。ここでの「兄」と「弟」は、国家だけではなくエス
ニックグループなど全ての文化集団であり、また「兄」の優位性を表しているわ
けでもない。しかし、血の絆によって同一性を、「兄」と「弟」別の人格である
ことによって差異を、比喩している点で、明治日本の自己/他者認識と全く同じ
構造を示している。我々が自己の独自性を確立し、あるいは他者の差異を容認す
るためには、ある「普遍的価値」を共有していなければならないのだ。しかし、
そうする事によって、「普遍的価値」はその権威を高め、同時に何らかの価値が
「特殊」として排除されているはずである。

本稿の分析は、こうした問題に何らの結論を下すものではない。しかし、少なく
とも、「普遍」と「特殊」の二項対立図式の不毛さを、あるいは「普遍」と「特
殊」の共存によって不可視的になってしまう「普遍」の強制力を、現代的な文脈
から抜き出して見ることによって、改めて認識し、再検討するための糧となるの
ではないだろうか。

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\section*{参考文献}
\begin{itemize}

\item エドワード・w・サイード 『オリエンタリズム』平凡社、1993年
\item ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』NTT出版、1997年
\item 小熊英二『<日本人>の境界』新曜社、1998年
\item 旗田巍『朝鮮と日本人』勁草書房、1983年
\item ジョン・トムリンソン『文化帝国主義』青土社、1997年
\item 浅田喬二編『「帝国」日本とアジア』吉川弘文館、1994年
\item 森山茂徳『日韓併合』吉川弘文館、平成四年
\item 岡本幸治編著『近代日本のアジア観』ミネルヴァ書房、1998年
\item 吉野耕作『文化ナショナリズムの社会学ー現代日本のアイデンティティの行方』名古屋大学出版会、1997年
\item 青木保/佐伯啓思編著『「アジア的価値」とは何か』TBSブリタニカ、1998年

\item 姜尚中『オリエンタリズムの彼方へ 近代文化批判』岩波書店、1996年
\item 福沢諭吉『文明論之概略』岩波書店、1997年
\item 丸山真男『文明論之概略を読む』岩波書店、1986年
\item 小笠原弘親ほか著『政治思想史』有斐閣、1987年
 
\end{itemize}

\section*{参考資料}
\begin{itemize}
\item 東京朝日新聞  明治43年8月〜9月
\item 大阪朝日新聞  明治43年8月〜9月
\item 萬朝報 明治43年8月〜9月
\item 中外商業新報 明治43年8月〜9月
\item 読売新聞 明治43年8月〜9月
\end{itemize}

\end{document}