卒業論文 1999年度 (平成11年度)

 

 

 

 

 

『「老い」と近代』

――労働と「生きがい」を通して――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

慶應義塾大学 総合政策学部 4年 79607241

服部 友紀子

 


【はじめに】(要約)

 

              「老い」、というわたしたちにとってあまりにも身近なものを脱与件化したとき、「近代」という社会はいったいどのような社会として浮かび上がってくるのだろうか。

 

              資本制を一つの軸として成立している「近代」において、「老い」は、<労働の質が変化することによって(家内労働から賃金労働になることによって)、労働者がある年齢に達するとみずからの労働力の買い手を失い、その結果「働けなくなること」である>、と定義することができる。日本では、戦後の高度経済成長という近代化の中で、「老い」が「豊かさ」の実現とともに「定年」という構造として具現化した。21世紀を迎えようとしている今まさに、「老い」に直面しなければならない人間が急増している。

 

              実際に「老い」を迎えた多くの人間は、経済的豊かさを保障されていながら、自分の「居場所」を失い、「生きがい」を求めなければ(与えられなければ)ならない存在となった。対高齢者の福祉・労働政策としての「シルバー人材センター」は、福祉的側面を色濃く有した「生きがい」対策である。戦後の朝日新聞の紙面では、「生きがい」ということばを含む記事が、経済成長に呼応するように増加した。

 

              「近代」は、わたしたちの生活の中心に「市場」を据えることによって、結果的に「市場」に近づけない人間が何らかの「生きがい」を求めなくては生きていくことのできない社会を作り出してしまった。「老い」は「高齢者」や「老人」だけの問題ではない。「老い」を政策の対象として「問題」視するのをやめたとき、「老い」が<彼ら>の問題ではなく<わたしたち>の問題であることが見えてくるのだ。

 

 

 


【目次】

序章.............................................................................................................................................. 4

1 問題意識.............................................................................................................................. 4

1章 近代における「老い」の発見 ――研究の理論的枠組――....................................................... 6

1 「老い」の定義.................................................................................................................... 6

2 資本制と近代....................................................................................................................... 6

3 労働と疎外.......................................................................................................................... 7

4 近代家族と「老い」............................................................................................................. 8

5 近代の「老い」とは............................................................................................................ 10

2章 戦後日本社会と「老い」...................................................................................................... 11

1 戦後の労働環境の変化 ――「サラリーマン」の大衆化――................................................. 11

2 サラリーマン大衆化を担った移行期世代.............................................................................. 13

3 「定年」という名の、移行期世代の「老い」........................................................................ 14

4 定年――<働なくなる>構造――..................................................................................... 16

5 <働けなくなる>=<働かなくてもよい>構造..................................................................... 17

3章 高齢者就業の現実................................................................................................................ 20

1 シルバー人材センターとは.................................................................................................. 20

@ シルバー人材センターの変遷........................................................................................... 20

A シルバー人材センター事業の概要..................................................................................... 21

2 シルバー人材センターを通した就業..................................................................................... 21

3 シルバー人材センター設立の意図――なぜ雇用関係がないのか――....................................... 22

4 高齢者就業の実態............................................................................................................... 23

@ 「臨時的かつ短期的」な高齢者就業................................................................................. 23

A 活かされていない「豊かな経験と知識」........................................................................... 23

B 会員は「労働者」なのか.................................................................................................. 24

5 「生きがい」対策としてのシルバー人材センター................................................................. 25

4章 「生きがい」という言葉...................................................................................................... 26

5章 働く老人の声..................................................................................................................... 28

1 インタビューの概要............................................................................................................ 28

2 西川孝さん 67歳 世田谷シルバー人材センター会員.......................................................... 28

@ はじめに........................................................................................................................ 28

A シルバー人材センター加入の目的..................................................................................... 29

B 余暇のすごし方............................................................................................................... 30

C 妻との関係..................................................................................................................... 31

D 「働く」ということについて........................................................................................... 32

3 丸山道夫さん 64歳 江戸川区シルバー人材センター.......................................................... 34

@ はじめに........................................................................................................................ 34

B 妻との関係..................................................................................................................... 35

4 山本周造さん 72歳 江戸川区シルバー人材センター.......................................................... 36

@ はじめに........................................................................................................................ 36

A 山本さんの趣味............................................................................................................... 36

B 働く目的........................................................................................................................ 38

C 生きがい........................................................................................................................ 39

4 インタビューを終えて........................................................................................................ 39

終章............................................................................................................................................ 42

参考文献...................................................................................................................................... 44

 

 


序章

 

 

1 問題意識

 

              この論文の目的は、「なぜ近代において「老い」は否定的に受け止められるのか」、「そもそも、近代の「老い」とはいったい何なのか」という問いを立てることによって、わたしたちが生きる「近代」という社会そのものを批判的に検討することである。

 

              「歳をとる」または「老いる」という言葉をきいたときに、明るいイメージより暗いイメージばかりが浮かんでくるのはなぜだろうか。むろん、年齢に対する価値観は個人によって大きく異なる。中には「歳をとる」ことに対して前向きな姿勢の人もいるだろう。または一人の人間が持っている価値観の中にも、「歳をとればそれだけ多くの人生経験を得られるから人間としての幅が広がる」という考えと、「でもやっぱり若くありたい」という相反する考えが混在しているかもしれない。しかし世間一般には、やはり「老いている」ことよりも「若くあること」により多くの価値がおかれているようである。そうでなければ、「しわ」を気にしたり、「はげ」を隠すために高額をはたいてかつらを買ったりしないはずである。スキンケアやヘアケアの広告を見れば、世の中に「若さ」を重視する風潮があることがよくわかる。なぜ、「しわ」や「はげ」はこんなにも多くの人に嫌われるのだろうか。なぜ人は、「歳をとる」ことを嫌がり、いつまでも「若く」ありたいと願うのだろうか。「歳をとるのは誰だっていやなものだ」と言ってしまえば、それまでかもしれない。しかし、「歳をとりたくない」という気持ちは、必ずしも時代を超えて人間が共有しなければならない意識なのだろうか。「若くありたい」と願うことは、人間にとって本当に自然な欲求なのだろうか。

 

              「歳をとる」こと、つまり加齢は、生命体である人間にとってあまりにも自然なことゆえに、誰もそのことについてあらたまった疑問をさしはさんだりはしない。それと同じように、「歳をとりたくない」という気持ちを持つのはなぜなのか、などということを普段の生活の中で真剣に考えることはまずない。そんなことは「当たり前」だからだ。普段、わたしたちが関心を向けるのは、「目立つこと」や「いつもと違ったこと」である。わたしたちが「当たり前」だと感じることには、注意が払われたり意識されたりすることすらない。しかし、わたしたちが今日「当たり前」だと思っていることは、ほんとうにいつの時代にもどこの社会でも「当たり前」のことだったのだろうか。もしそうでないとしたら、わたしたちは自分たちだけが「当たり前」だと思って意識すらしないものごとに、実は一番大きく左右されているのかもしれない。なぜなら「問題解決」をはかるとき、わたしたちが「当たり前」だと思っているものごとは、「問題」の前提としてわたしたちの目には見えなくなってしまっているからである。

 

              「歳はとりたくない」と感じるのを「当たり前だ」と言ってしまわずに、どうしてそう感じるのか疑ってかかってみる。そう言うと、あたかもイメージに関する漠然とした話がはじまるように聞こえるかもしれない。しかしわたしは、「「老い」を否定的に受け止める」ということは、イメージの問題だけではなく、多分に実体を伴う具体的な話だと考えている。たとえば、「老人問題」について少し考えてみよう。そもそも「老人問題」は、なぜ「問題」なのだろうか。社会学の事典を開いてみると、「老人問題」という項目が出てくる。そこでは「老人問題」とは大きく分けて、@貧困問題、A介護問題、B孤独苦や老人性痴呆の問題、であると説明されている。発想の根底にあるのは、「老人」をわたしたちあるいは社会が対処しなければならない「問題」として捉える視点だ。また、今日おおいに世間の注目をあびている「老人問題」の一つに、介護保険制度が挙げられる。新聞やテレビの報道で、介護保険にまつわるトッピックが出てこない日など、1日もないほどだ。それらの報道の中で「介護保険」が議論されるとき、「問題」とされるのは、「介護保険の財源に消費税を当てるべきか」、「要介護認定のシステムの公平性をどう保つか」、といった内容がほとんどである。認定の際に要介護のレベルをどう判断するかについて議論されることはあっても、そもそもなぜ高齢者が「要介護」にならなければならないのかが議論されることはない。高齢者が介護保険の対象となることに関しては、誰も疑いをはさまないのだ。ここに「問題」の前提としてあるのは、「老人が介護の対象となるのは当然だ」という無意識の意識である。では、老人の面倒を看ることを「介護」と呼ぶようになったのは、いったいいつからなのだろうか。老人の面倒を看るのは、太古の昔から「嫁の仕事」だったのだろうか。または、「ホームヘルパー」という名の見ず知らずの人間だったのだろうか。面倒を看てもらうことに対してお金を払う。しかも「日本人」というとてつもなく大きな人口を分母にして、そのリスクヘッジをする。こんなことを大勢の人間が「不自然でない」と感じるようになったのは、実はごくごく最近のことなのではないだろうか。そう考えると、保険の財源やシステムについての議論は、問題全体のほんの表層しかとらえていないようにわたしには思える。「なぜ高齢者が介護の対象となるのか」という視点から話をはじめなければ、本当の意味での問題解決には近づけないのだ。

 

              わたしたちが持っている「老いる」ことに対する否定的なイメージや、「老人問題」という発想の前提にある意識。これらの価値観を、「近代」という時間の枠組みの中で位置付けたとき、「老い」とはいったい何なのだろうか。そして逆に、「老い」を否定的なものとして位置付けている「近代」とは、いったいどんな社会なのだろうか。ことは、イメージや意識だけの問題ではなく、むしろそうしたイメージや意識を作り出している土台の問題である。わたしたちにとってあまりにも身近すぎるがゆえに、かえってわたしたちの目には見えにくくなってしまっている「近代」という社会。その「近代」を、「老い」という視点から映し出すことが、本論分の目的なのである。

 

 

 


1章 近代における「老い」の発見 ――研究の理論的枠組――

 

 

              本章では、「老い」についての具体的な分析の前段階として、本論分であつかう「老い」という言葉の定義と、「老い」分析のための理論的枠組を明確にする。

 

 

1 「老い」の定義

 

 

              わたしが本研究において扱おうとしている「老い」とは、時間と空間によって限定された社会によって「意味付け」された「老い」のことである。

              わたしは、「老い」には大きく分けて二つのレベルがあると考えている。生物学的なレベルでの老いと、社会的なレベルでの「老い」である。前者の生物学的な老いは、単純に加齢とそれに伴う身体的な変化のみを指す。どんな人間であっても、ヒトである限りは歳を重ねるとともにその生理機能が低下する。どんな時代のどんな場所であっても、生物学的な老いは必ず存在するし、老人もいる。これに対して後者の社会的な「老い」とは、生物学的な加齢が社会によって意味付けされた、社会現象、もしくは文化現象としての「老い」である。人が「老い」ているかどうかはその社会の価値基準をもとに判断されるので、「老い」は社会によって異なるし、「老人」とされる人間の幅も異なる。わたしが本研究の中でとらえようとする社会的な「老い」とは、限定された時間と空間の中で意味付けされた「老い」のことである。

 

わたしたちが生きる社会を少し大きく「近代社会」ととらえたとき、近代という時間と空間の中で意味付けされてきた「老い」とは、いったいどのようなものなのだろうか。そこで次に、「近代社会」とそこで意味付けされる「老い」を分析するための枠組みとして、「資本制」「労働」「近代家族」について順を追って簡単に整理する。

 

 

2 資本制と近代

 

              資本制という視点から歴史を考えるとき、前近代と近代の分岐点となるのは、自給自足の地域共同体の崩壊と市場の成立である。市場の成立は経済構造を大きく変えただけでなく、それに伴うさまざまな面での変革を人々の生活にもたらした。

 

              前近代、つまり自給自足が成り立っている地域共同体の中では、家内労働は全て生活に必要なものを生産するための労働であった。そこでは、「生産」と「消費」の明確な区別というものは存在しない。たとえば、田植えをして稲を育て、それを刈り取り脱穀して火を通して口にするまでの一連の作業の中で、いったいどこまでが「生産」で、どこからが「消費」なのかを明確に区切ることはできない。共同体に暮らす人間のそれぞれに役割分担があったとしても、全ての労働はみなひとしく生産にかかわるものであった。ところが自給自足の地域共同体が崩壊し、人々の経済活動に市場が介入するようになると、自体は一変した。生産された商品を市場に持ちこむまでの作業が「生産労働」と呼ばれるようになり、それ以外は全て消費活動に格下げされた。つまり、市場において交換価値をもつ商品を生み出す労働<生産労働>だけが、「労働」として認められるようになったのである。工業化が進むと、当然「労働」として認められるのは、賃金労働になる。賃金を得ることができる「労働」、言い換えれば労働市場において交換価値をもつ労働だけが近代の「労働」なのである。代価が支払われない労働<非生産労働>は「労働」ではないのだ。しかも、<生産労働>/<非生産労働>の区別は、個々の労働が潜在的に持っている特質によって判断されるわけではなく、つねに市場の側からの線引きによって区別がつけられてきた。クリーニング屋や、レストラン、保育園での労働は賃金が支払われるので「生産」だが、同じことを主婦がしたら、それは「消費」として片付けられる。市場の成立によって引かれた「生産」と「消費」の境界線は、いつでも市場の要求によって移動するのである。

 

「生産」と「消費」が明確に区切られることに付随して、前近代的な地域共同体の中では存在しなかったさまざまな区別が生じた。「生産」にかかわる領域が「市場」であるのに対し、「消費」にかかわる領域として家庭が生まれた。市場という「公領域」と、家庭という「私領域」の区別ができたのも近代になってからである。その結果、公領域で「労働」に従事する「夫」と、私領域で家事という名の「消費」活動に従事する「妻」、という性別役割分担ができあがった。これら、市場/家族、公/私、生産/消費、の区別と左右の対応をもとにして成り立っている社会のシステムを「資本制」と呼ぶ。

 

              さて、産業化がすすむと市場がおおう社会領域はいよいよ拡大した。ついには市場が人間社会の中心にすえられ、わたしたちの生き方までをもさまざまなかたちで支配するようになった。ときには目に見えるかたちで、またときには目に見えないかたちで。それが「近代」である。「近代」は、市場の領域で「労働者」として働く人間だけを「人間」として認めている。ライフコースは、「人間」予備軍としての子供時代、現役「人間」としての成年時代、「人間」引退後の老後、というながれで設定される。フィリップ・アリエスは<子供>は近代になってはじめて誕生したと言っているが、同じように<老後>という人生の一期間も、近代という時代に特有のあり方なのではないだろうか。どんな社会にも歳をとった人間はいるが、今わたしたちが頭に思い描く「老人」は、実は近代になってから誕生したのかもしれない。そして近代の「老人」「女性」「子供」は、つねに市場とそこで活躍する「人間」の周辺に位置付けられてきたのである。「人間」を生産するための機関としての教育制度、「人間」という労働力を再生産する場としての近代家族、労働力としては使えない人間の受け皿としての福祉制度、これらの制度と近代的価値観とが、資本制を軸にして回る「近代」という社会を支えてきたのである。

 

 

3 労働と疎外

 

              次に、近代の労働をとらえるために、マルクスの「疎外された労働」について考えてみる。

              疎外とは、哲学的な意味で用いられるときには、「人間が作り出したものや考えが、その人間の手を離れて生命をあたえられ、逆にその人間を支配するようになる」ことを意味する。マルクスはこの疎外という概念をつかって、私有財産制のもとでの労働を説明した。マルクスによれば「疎外された労働」とは、「私有財産制のもとで、他人(財産所有者)のたてた目的にしたがって、他人(財産所有者)の生産手段をつかって行われる労働」のことである。そもそも人間は生きていくために、何か道具(生産手段)をつかって自然界に働きかけ、そこから生産物を得て生活をする。自分で何を作るかという目的をたて、それにしたがって行われる労働は、人間にとって生きていくための本質的な活動であり、本来ならば喜ばしいものであるはずだ。ところが、私有財産制のもとでは、財産(生産手段)を持たない人間はみずからの労働力を他人(財産所有者)に売って生活をしなくてはならない。当然労働者は自分で目的をたてる自由を持たないので、他人(財産所有者)のたてた目的にしたがって、つまりは他人から命令を受けて労働をしなければならない。すると途端に、本来は人間にとって本質的で喜ばしいものであったはずの労働が、労働者自身を苦しめるものになってしまう。それが、「疎外された労働」である。資本主義のもとでは労働者は資本家に労働を売るしかなく、生産の目的と手段を所有できないだけでなく、生産物までもが資本家のもとにわたってしまい、労働者の手に残るのは「賃金」だけである。

 

 

4 近代家族と「老い」

 

              近代における「老い」について考えるうえでの重要なキーワードとして、私領域としての「家族」があげられる。老人の「居場所」の問題を、「家庭」を抜きにして考えることはできない。そして、その老人と「家庭」との関係がさまざまな問題をはらんでいるのは、老人の生活する「家庭」が「近代家族」としての特質を色濃く有しているからである。

 

              社会史的アプローチからの家族史研究は、わたしたちが理想的かつ自然なものと思い込んできた家族が実は近代になってから登場したことを発見し、それを「近代家族」と名づけた。近代家族とは、資本制の成立にともなって、労働力を再生産するための場として市場の外部につくられた私的領域である。落合恵美子は、近代家族の要件を以下の8つに整理している。[1]

@ 家内領域と公共領域の分離

A 家族構成員相互の強い情緒的関係

B 子ども中心主義

C 男は公共領域・女は家内領域という性別分業

D 家族の集団性の強化

E 社交の衰退とプライバシーの成立

F 非親族の排除

(G 核家族)

近代家族は、資本制や市場の登場とそれにともなう労働の変化に起因しており、これらの要件はそこから導き出される。ただ、わたしがこれから「老い」についての話を進めていく上で、疑問を持たざるをえない要件が一つだけある。それが、8番目の「核家族」という要件である。落合自身もこれはカッコに入れていて、その理由を「祖父母と同居していても、質的には近代家族的な性格をもっていることがありうるかもしれませんから」と説明している。また上野千鶴子も、落合の「核家族」の条件をカッコに入れることによって「『戦前家族と戦後家族の連続性』を強調することで、第一に戦前家族の近代的性格と、第二に戦後家族の家父長制的性格とを、同時に論ずることができるようになる」と言っている。[2] 両者の意見は、「三世代同居の家族を近代家族と呼べないと困るから」核家族という条件は入れなくてよい、という点で共通している。しかしわたしは、核家族を近代家族の要件としないことに、もっと積極的な理由があるように思う。それは、核家族よりもむしろ三世代同居のほうが、じつは近代家族の要件としての妥当性を持つ、という点である。近代家族とは、資本制のもとで市場へ供給する労働力を再生産する場にほかならない。近代家族が「夫」という労働力の再生産と「子ども」という未来の労働力を再生産する場として機能するのだとしたら、「老人」という労働力にカウントされなくなった人間の生活の場でもあるはずである。または、動けなくなった「老人」の「介護」という仕事も近代家族は担わされているはずである。そう考えれば、封建的な「家」制度として理解されていた戦前家族が、実は近代家族の出発点であったと言える。つまり、核家族は近代家族の必要条件ではなく、近代家族のバージョンのひとつなのだ。そして、三世代同居も核家族も同様に近代家族のバージョンであると考えると、もうひとつバージョンとして加えるべきものがあることに気がつく。それが、子供が独立したあとの老夫婦世帯である。

 

 

近代家族についての文献を読んでいると、議論の前提に父・母・子からなる核家族があることに気がつく。対象とされているのは、つねに「子供」のいる時点での家族である。当然、時がたてば「子ども」は独立し、夫婦だけが家族の中に残される時期がやってくる。ところが、近代家族論の中に老夫婦が出てくることはほとんどない。議論の中に「老人」が出てくるのは、介護が必要となった親をどの家族が引き取るのか、という時だけだ。しかし実際には、「子供」が独立してから介護が必要になるまでにはかなりの年月がある。もし仮に平均寿命80歳という世代が30歳で末子を生み、その子が25歳で独立したとしたら、最後の5年間は介護を必要としてどこかに引き取られたとしても、約20年もの歳月を老夫婦世帯で送ることになる。この期間は実に人生の4分の1にあたる。その20年間は、近代家族の「例外」なのだろうか。わたしはそうは思わない。老夫婦だけになったその期間も、やはり近代家族のバージョンの一つなのである。なぜなら、近代家族を規定しているのはその構成員ではなく、生産関係の変化によって生じた構成員の性別・年齢別役割分担だからである。

 

落合は「21世紀家族へ」の中で、核家族を次のように定義している。「核家族の核というのは、核爆弾の核、原子核の核で、これ以上分割できないものという意味です。核家族とは、夫婦と未婚の子どもからなる家族です。」(80ページ) わたしには、まだ分割できるように見えてならない。そもそも、三世代同居を二つに分割した時点で二つの核家族ができているのだから、若い世代の夫婦とその子どもだけを取り上げて「核家族だ」と言うこと自体が、近代家族イデオロギーであると言ってもよい。落合は、核家族を人類に普遍的な単位であると主張するマードックは「近代家族の特性を、家族一般の特性と思い違えた」(106ページ)と言っているが、それでもなお核家族は「家族」の最小単位に見えたのだろうか。

 

              家族というあまりにも自然な領域を脱与件化した社会史と、さらにその中にジェンダーという枠組みを発見したフェミニズムは、わたしが研究を進めるうえでの非常に重要な道しるべである。ただし「近代家族」という議論の中にも、まだ依然として「自然なもの」にとどまっているものがある。それが「老い」である。戦後日本社会の「老い」を分析しようとするとき、そこに見えてくるのは老夫婦世帯の持つ近代家族性なのである。

 

 

5 近代の「老い」とは

 

              最後に、以上の理論を前提として、本研究における近代の「老い」を定義してく。身体的な変化という側面から「老い」をはかるのではなく、資本制を軸にする「近代」という社会のなかで意味付けられた「老い」を探ると、次のように言うことができる。すなわち近代の「老い」とは、労働が家内労働から賃金労働に変わることによって、労働者がある年齢に達すると労働市場でみずからの労働を売ることができなくなってしまうこと、つまり「働けなくなること」である。ただし、「働けなくなる」のは加齢によって働く体力がなくなるからではなく、あくまでも労働市場での買い手を失うことによって「働けなくなる」のである。市場は、これまで「人間」として「労働」に従事してきた人々を、ある年齢になると市場の都合で労働市場の外部へと追いやる。具体的な例をあげれば、定年や中高年のリストラが、市場の側からの労働者の締め出しにあたる。あるいは、常雇用者でない日雇い労働者にとっては、労働市場の外部への線引きはもっと流動的にしかも露骨に表れるのかもしれない。

 

              労働者が年齢を理由に市場から追い出される構造は、実際にはどのようにして出来上がってきたのか。追い出された「高齢者」たちが向かう「家庭」という近代家族。彼らはそこでそのような問題をかかえ、何を必要としているのか。それを知るために、次章以降では時間と場所を戦後の日本社会に限定し、具体的なデータをたどっていくことにする。

 

 


2章 戦後日本社会と「老い」

 

 

              本章では、戦後の日本社会という一つの近代社会の中で(もしくは一つの近代化の過程において)、前章で定義した「老い」がどのような現象として進行したのかを、統計を用いてマクロの視点から探っていく。

 

1 戦後の労働環境の変化 ――「サラリーマン」の大衆化――

 

第一次産業、つまり農業に従事する人間が減り、第二次・第三次産業に従事する人間が増えていく過程は、まさに近代化の過程だと言える。第二次・第三次産業に従事する人間の多くは、工場や会社などに雇われて働く労働者、つまり「賃金労働者」となるからだ。資料@は、20世紀に入ってからの日本の産業構造の変化を就業者割合によって表したグラフである。

[3]

このグラフを見ると、第一次産業から第二次・第三次産業への労働力のシフトが、1950年を契機にして一気に加速していることがわかる。1920年から50年にかけても変化は見られるが、1950年以降、特に70年にかけては著しい変化の傾向が見られる。ほぼ1対1だった第一次と第二次・第三次産業従事者の割合は、このわずか20年の間に1対4になっている。

 

この産業構造の変化を、就業者数の割合ではなく実数で見てみると、資料Aのようになる。実数の変化を見てみると、産業構造のシフトに加担しているのは第一次産業従事者の減少数よりも、第二次・第三次産業従事者の増加数のほうだということに気がつく。つまり、農業従事者の数が減少したというよりは、非農業従事者の数が爆発的に増加したのが戦後日本の近代化の特徴だったのだ。1950年から70年にかけて、第一次産業従事者の減少が700万だったのに対して、第二次・第三次産業従事者の増加は2400万人である。第二次・第三次産業だけに注目してみても、1930年から50年にかけての20年間の増加がたったの300万人であるのに対して、50年から70年にかけての20年間にはその8倍に当たる2400万人もの増加が見られる。これは、戦後約25年間にかけて増加した労働力人口が、ほとんどそのまま非農業従事者となったことを意味する。ここに、戦後日本の近代化の担い手となった世代層の影が見えてくる。

[4]

 

次に資料Bは、雇用者比率の変化、つまり全就業者数に占める雇用者数の割合の変化をグラフにしたものである。[5]これを見ると、戦後一貫している雇用者比率の上昇の中でも、特に1955年から65年にかけての10年間に、著しい上昇があることがわかる。1960年には雇用者比率が50%を超えている。まさに、「サラリーマン」が大衆化した時代と言っていいだろう。そしてこれはちょうど、女性の労働力率が50%を下回る、つまり「主婦」が大衆化した1970年に遡ることちょうど10年である。

[6]

 

 

2 サラリーマン大衆化を担った移行期世代

 

              では、1950年代から60年代にかけての第二次・第三次産業における労働力の爆発的増加の担い手であり、雇用者としてサラリーマン大衆化時代の主役となったのは、具体的にはどのような人間だったのだろうか。

 

              落合恵美子は『21世紀家族へ』の中で、人口学的に見た移行期世代がつくった近代家族を「家族の戦後体制」と呼んでいる。人口学の移行期世代とは、いわゆる近代化以前の三角形の人口ピラミッドが、近代化された釣鐘形の人口ピラミッドへと移行する過程で生じる世代のことを指す。前者は多産多死の社会で、後者は少産少死の社会である。多産多死から少産少死への移行の理由は、主に食糧や衛生状態の改善と養育費の高騰があげられる。ただし近代化はある程度の年月をかけて徐々に進行するので、死亡率は低下しているのに出生率はそれまでとたいして変わらないという状態が一時生じることになる。その多産少死の世代を、移行期世代と呼ぶのだ。当然、移行期世代はその前後の世代に比べて人口が多いので、彼らのとる行動は社会に大きな影響を与える。日本の場合、この移行期世代は1925年生まれから1950年生まれにあたる。落合は、この世代が1950年代から70年代にかけての戦後に、非常に変化の少ない安定した家族体制を築いたのだと説明している。そしてその世代の具体的な担い手とは、農家に生まれた次男三男である。彼らが都市に出てきて雇用者となって結婚し、専業主婦の妻とともに核家族型近代家族をつくったのだ。この世代の特徴は、自分たちの兄弟姉妹は多いのに、自分たちが生んだ子どもは少ないという点だ。つまり彼らのつくった核家族こそが、今わたしたちの多くが頭に描くいわゆる「理想の家族」像なのである。

 

              上にあげた資料が示していたことは、落合の「戦後家族」説と一致する。農業従事者数の減少ではなく非農業従事者数の爆発的な増加という現象が起き得たのは、農家の次男三男という移行期世代がいたからなのだ。そしてその移行期世代こそが、第一次産業から第二次・第三次産業への労働力シフトの波に乗って新たな雇用者層をつくり出した、戦後日本の近代化の担い手だったのである。

 

              次にこの移行期世代に注目して、雇用者比率を出生コーホート別に見てみる。1925年生まれから1950年生まれまでの移行期世代をもう少し細かく分けると、「昭和一ケタ世代」(192534年生まれ)「昭和二ケタ世代」(193544年生まれ)そして「団塊の世代」(194549年生まれ)の三つに分けることができる。さらに移行期世代以前の一世代を「大正世代」(191024年生まれ)と呼ぶことにする。[7]資料Cは、1965年当時の雇用者比率を各世代ごとに調べたものである。これを見ると、「大正世代」から「昭和一ケタ世代」に移行するところで雇用者率が5割を超え、サラリーマンが大衆化していることがわかる。さらに「昭和二ケタ世代」「団塊世代」に進むにつれて、その割合は急速に増していく。[8]移行期世代は、まさに「サラリーマンの世代」であると言える。

[9]

 

 

3 「定年」という名の、移行期世代の「老い」

 

              このサラリーマン大衆化を担った移行期世代が、歳をとって労働市場から締め出されるきっかけとなるもの、それが「定年」である。資料Dは、一律定年制の普及をグラフにしたものである。

[10]

定年制には、一般には職能別定年制や職階別定年制、男女別定年制がある。一律定年制とは、それら職種や性別に関係なく、ひとつの企業の中で一律の定年年齢を設けた定年制のことである。全企業を100としたときに一律定年制を採用している企業の割合は、80年に入った頃から増加し、80年代後半には7割を超え、90年代初頭に今の8割前後の水準に達している。

[11]

また資料Eは、定年年齢の変遷をあらわしている。戦後の定年制は55歳が一般的だったが、1984年には60歳以上定年の企業が59歳以下定年の企業に逆転して上回っている。1986年には60歳以上定年が法律によって義務化されたので、それ以降は60歳以上が一般的な定年年齢となった。[12]ちなみに60歳以上定年制と言っても、そのほとんどは60歳ちょうどが定年年齢である。98年の段階で、一律定年制を採用している企業を100としたときに、60歳を定年年齢にしている企業は867%になる。

 

さて、先ほどの移行期世代のトップバッターが60歳に到達するのはちょうど1985年である。そうすると、企業と国によって整備され、今日もっとも一般的となった「60歳定年制」にぴったりと当てはまるのも、実はこの移行期世代なのである。移行期世代の特徴は、それ以前に比べて非常に人口が多く、しかもその多くが雇用者となっていることだ。つまり、1960年代が「サラリーマン」大衆化の時代で70年代が「主婦」大衆化の時代なら、80年代後半から90年にかけては「定年」大衆化の時代に向けてのちょうど入り口なのである。そして2000年を迎えた今、まさに「定年」大衆化は急速に進行し、5年後に控えた「団塊の世代」というとてつもなく大きな人口の定年年齢到達に向けてまっしぐらに道を進んでいる。「定年」の大衆化は、1章で述べた近代の「老い」が日本社会において大衆レベルで定着していく過程でもある。大勢の人間が、「賃金労働者」となり「雇用者」として誰かに雇われて働くようになる。その結果、労働力が交換価値をもたない年齢に達したとき、彼らはいっせいに労働市場の中心から周辺へと追いやられるのだ。日本が高齢化のピークを迎えようとそのする頃、そこに暮らす「高齢者」のほとんどは、「定年」という「老い」を迎えた老人たちなのである。

 


4 定年――<働けなくなる>構造――

 

              では、定年を迎えた高齢者をとりかこむ労働環境はどうなっているのだろうか。

法律では、定年後も65歳までの継続雇用や再雇用を奨励している。[13]しかし現実には、定年後も65歳まで同じ職場で働くことができるケースは決して多くない。

資料F[14]

資料Fを見てみると、一律定年制を採用している企業の中で、65歳以上定年制を採用しているのは、わずか51%に過ぎない。60歳から64歳までの定年制の企業のうち、希望者全員に継続雇用や再雇用を認めている企業は152%だから、希望した社員全員が65歳まで働くことのできる企業は、203%しかない。また、たとえ再雇用されたとしても、ほとんどの場合それまでの仕事からは大幅なポストオフになり、賃金も下がる。そこにあるのはやはり「定年」という労働市場の境界線なのである。

 

              次に資料Gは、ここ数年の年齢別有効求人倍率である。98年の有効求人倍率を見ると、60歳以上は0.07倍とほかの年代に比べてきわめて低い。というよりほとんど求人がないと言っても過言ではない。92年から98年にかけての6年間の動向を見ても、90年代に入ってからの不況の影響で、生産年齢全体でも有効求人倍率は2分の1に減少しているが、年齢別に見た場合、60歳以上の倍率は6年間に3分の1になっている。不況で労働市場が縮小しようとするとき、市場の外部として調整の対象となるのは高年齢者であることがよくわかる。いずれにしても、現在の状況では定年退職した労働者が新しい職を得ることは限りなく不可能に近いと言える。

資料G                          [15]

              つまり、移行期世代にとっての戦後の労働環境とは、賃金労働者となって誰かに雇用されて働くという就業構造と、「定年」という年齢を理由に雇用者を労働市場の外部に追い出す制度が組み合わされた<働けなくなる>構造であった。1章でも述べたように、「働けなくなる」のは決して体力が衰退して肉体的に働けなくなるのではなく、年齢を理由に労働の買い手がいなくなるために「働けなくなる」のである。

 

 

5 <働けなくなる>=<働かなくてもよい>構造

 

              ここまでは、戦後の日本社会を、雇用者が大衆化した世代が定年年齢に到達することによって「働けなくなる」人間が大勢生まれる社会として振り返ってきた。しかし実は、<働けなくなる>構造は<働かなくてもよい>構造とコインのように裏表一体になって出来上がった。

 

              日本の戦後は、前述の産業構造のシフトによって、世界でもまれに見るほどのスピードで経済成長を遂げた時代であった。約20年に及ぶ「高度成長」の間に、経済成長率が10%を越える年が続いた好景気が2度も訪れ、「所得倍増計画」が現実のものとなったことは周知の通りである。資料Hは、勤労者世帯の実質可処分所得の増減率をグラフにしたものである。これを見ると、60年代から73年のオイルショックにいたるまでの期間、実質化処分所得がほぼ毎年6%以上も増加していることがわかる。農家を出て賃金労働者となって働くということは、毎年のような昇給と貯蓄、それによって実現する「豊かな生活」へのステップでもあった。「三種の神器」と呼ばれた洗濯機、冷蔵庫、テレビも、農村より都市から先に普及した。[16]サラリーマンになるということは、社会的地位の向上でもあったのだ。

[17]

 

              戦後の高度成長に支えられて急速に発展したもの、それが各種の社会保障制度である。国民一人当たりの社会保障給付費[18]は、1951年度の1900円から1996年度の536600円へと、実に280倍にもなっている。そして96年度の段階で、社会保障給付費の約5割を占めているのが年金である。公的年金制度は大きくわけて、全国民が加入する国民年金(基礎年金)、民間雇用者が加入する厚生年金保険と、公務員等が加入する共済年金とにわけられる。98年の段階で、国民年金の平均年金月額は47千円であるのに対し、厚生年金保険は172千円である。これに加えて、多くの企業が退職金制度を採用している。言うまでもなく、これらの手厚い老後保障が実現したのは戦後の高度成長があったからであり、高度成長を担った労働者がいたからである。つまり、移行期世代の労働者たちは、雇用者として働きつづけた結果「定年」によって労働市場から追い出されてしまったが、それは同時に、定年退職によって得られる退職金と年金に支えられた「ゆとりある老後」の獲得でもあったのだ。社会保障の拡充という<働かなくてもよい>構造は、高度成長とそれを支えた戦後の就業構造(=<働けなくなる>構造)によって可能になった。しかし同時に、<働けなくなる>構造を可能にしているのは<働かなくてよい>構造でもあるのだ。

 

              戦後の厳しい経済状況の中で生活保護の対象となる老人が大勢いた状況において、当然「ゆとりある老後」とは「理想の老後」であったはずだ。都市に住んでサラリーマンとして働き、専業主婦の守る家庭という近代家族の中で、毎年拡大する所得によって「豊かな生活」を実現し、「定年」を迎えて「ゆとりある老後」を送る。ある意味では戦後の日本人にとって<理想>とされていた生活を、多くの人間にとって<現実>のものとしたのが移行期世代であった。しかしその<理想>が<現実>となったとき、サラリーマン化した移行期世代が今まさに直面しているのはまさに近代の「老い」でもあったのだ。「定年」という「老い」は、利己的な企業による切捨てだけが原因で生じるのではない。したがって、企業が心を入れ替えて高齢者を65歳まで採用したところで、どうにかなる問題ではない。雇用延長や再雇用の要求は、高齢就労者にとっての当面の事態を好転させるかもしれないが、それは決して本質的な問題解決にはつながらない。「定年」を成立可能にしているのは、彼ら自身が獲得した「豊かさ」でもあり、「老い」はその複雑に入り組んだ構造の中に組み込まれているのだ。

 

 

そして、定年後の高齢者たちが帰ってくる場所、それが老夫婦世帯となった「近代家族」なのである。落合は日本の戦後を、経済から振り返れば高度成長の時代であり、政治から振り返れば55年体制の時代であったが、「家族」という視点から見れば「家族の戦後体制」の時代だったと言っている。その「家族の戦後体制」は、移行期世代という特徴的な世代によって担われた結果、歴史的にもまれなほど安定した家族をつくり、その家族像をわたしたちの意識の中にしっかりと植えこんだ。にもかかわらず、現実には「戦後の家族体制」はわたしたちにその家族像だけを残したまま、過去のものになろうとしている。崩れ去ろうとしている「理想の家族」の先には、まだわたしたちにはつかみ得ない多様化した家族が待ち構えており、その『21世紀家族へ』向けての展望を開くために落合はこの本を書いたと言っている。その多様化した「21世紀家族」の中に、子どもがすでに独立し、定年を迎えた老夫婦世帯が一つの位置を占めていることは、おそらく間違いないとわたしは考える。「子どもを生んでこそ家族の機能を果たしているのであって、子どもが独立してしまったらもはや家族ではない」という反論があるかもしれない。たしかに、老夫婦世帯は子どもの再生産という家族の機能は果たし終えた。そのうえ、「定年」を迎えた夫婦は、夫の労働力を再生産するという機能も果たし終えてしまっている。それでもなおわたしが老夫婦世帯を「近代家族」と呼ぶのは、老夫婦世帯は労働力の再生産という目的を持った「家族」として構成され機能し続けてきたのであって、子どもが独立して夫が「定年」を迎えたからと言って、その構造を急に変えることはできないからである。老夫婦世帯とは、「家族」という機能を果たし終えてしまった家族なのである。

 


3章 高齢者就業の現実

 

              本章からは、前章で統計を用いて概観した戦後日本における「老い」を、より具体的に検証する。実際に「定年」を迎えた高齢者達をめぐって、現実には何が起こっているのだろうか。調査の対象として取り上げたのは、対高齢者の福祉・労働政策としての「シルバー人材センター」である。シルバー人材センターとは、簡単に言えば高齢者向けの職業紹介所のようなものである。本研究において、わたしがシルバー人材センターに注目した目的は二つある。第一の目的は、高齢者に対する就労政策について知ることである。高齢者に就労の機会を提供する目的とは何なのだろうか。そして実際にそこで提供されている就労の内容はいかなるものなのだろうか。第二の目的は、シルバー人材センターを通して実際に就労している高齢者について知ることである。年金を受給している高齢者にとっては、老後は「働かなくてよい」時期である。おそらく生活費に苦労することはないであろう高齢者は、なぜそれでも働こうとするのだろうか。

 

そこでまず本章では「シルバー人材センター」という政策に注目し、その設立経緯と現状から、高齢者就業の実態について明らかにする。そして5章で、シルバー人材センターを通して働く高齢者の意識を、「生きがい」という言葉をキーワードにして分析する。

 

 

 

1 シルバー人材センターとは

 

 

@ シルバー人材センターの変遷

 

              シルバー人材センター(以下、本文中は「センター」と略す)は、多様化する高齢者の就業に対するニーズにこたえるために、東京都が主体となって、東京都高齢者事業団として1974年に設立された。それまでの高齢者の就業施策が労働行政と福祉行政それぞれの側面から別個になされてきたのに対し、高齢者事業団は労働と福祉の両面を包括する新しい就業システムとして構想された。就業を通じた高齢者の社会参加と、地域を中心とした高齢者自身の自主的な行動による組織が、新しいシステムの理念であった。75年には、地区高齢者事業団(地域で実際の事業を行う団体)のモデルとして江戸川区高齢者事業団が発足。以降、各区市町村を単位として地区高齢者事業団が順次設立された。70年代後半には、都内だけにとどまらず全国各地の都市にも地区高齢者事業団が設立されるようになる。それに伴い、80年には労働省によって「高年齢者労働能力活用事業(シルバー人材センター)」として補助制度が創設された。同年、補助制度の要件を満たすために、任意団体から社団法人へと移行している。さらに86年には、「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」によってシルバー人材センター事業は法制化された。地区ごとのセンター(旧地区高齢者事業団から改名)はその後も全国的な拡大を続け、98年度末までには全国に約800のセンターが設立され、会員数も47.6万人に上っている。

 

 

A シルバー人材センター事業の概要

 

              各地区のセンターには、その地区に居住するおおむね60歳以上の男女の希望者が会員として加入している。各センターは、そのほとんどが、それぞれの区市町村が所有している建物(たとえば公民館など)の中に事務局を持っており、おおかたの日常業務はそこで行われている。事務局では、社団法人としてのシルバー人材センターによって雇われている事務員が働いており、会員のための事務処理に当たっている。具体的には、事務局の運営、会員に対する就業機会の確保、会員の能力開発のための研修などが事務局で行われている。ただし、シルバー人材センターの事業全体の目標や計画を立てたり、課題や問題の解決に当たったりするのはセンターの会員である。年に2回、会員全体が参加する総会が開かれ、そこで理事や役員が選出され、運営の方針などが決定されている。そこで決定された運営方針は、理事会によって執行される流れとなっている。

 

 

2 シルバー人材センターを通した就業

 

 

              本章の冒頭で、「シルバー人材センターとは、簡単に言えば高齢者向けの職業紹介所のようなものである。」と書いたが、正確にはセンターは「職業紹介所」ではない。「職業紹介所」というのは、いわゆるハローワーク(職業安定所)のようなもので、求職者に対して求人を紹介するだけの機能しか持たない。求職者は紹介所で紹介された職場にみずから出向いていって、そこで求人側から採用の判断がなされる。これに対してセンターでは、センター自体が企業や公共団体、一般家庭などの「発注者」から仕事の発注を受け、それを会員に提供している。具体的な仕組みは、次のようになっている。@まず発注者からセンターに仕事の発注があり、両者の間で契約が交わされる。A次に発注された仕事が、あらかじめセンターに登録していた会員にセンターから提供される。B会員が実際に就業する。C発注者からセンターに契約金が支払われる。Dこの契約金から手数料5%を引いた配分金が、センターから会員に支払われる。

 

              このシステムは一見すると一般の「人材派遣」のように見えるが、センターは「人材派遣」とも違っている。人材派遣会社を通して働く就業者の場合は、派遣先の企業との間には雇用関係はないが、派遣会社との間に雇用関係がある。これに対してセンターの会員は、発注者との間にもセンターとの間にも雇用関係が成立していない。仕事の契約が交わされているのは発注者とセンターの間だけなのだ。契約された仕事を会員に提供することは、「再委任」または「再請負」と呼ばれている。センターは「職業紹介」でもなければ、「人材派遣」でもないのだ。このセンターの会員の微妙な立場に、シルバー人材センターが意図する高齢者就業システムの「理想」が秘められている。しかし同時に、この複雑な就業システムのかげには、高齢者就業の「実態」そのものが露呈しているのだ。

 


 

3 シルバー人材センター設立の意図――なぜ雇用関係がないのか――

 

              シルバー人材センターが、高齢者のための「職業紹介所」でもなく「人材派遣」でもなく、雇用関係を成立させないという複雑な就業システムを持つ組織として誕生したのはなぜか。それを探るために、高齢者事業団発足当時の会長であり、高齢者事業の理念の提唱者である大河内一男の文書に注目してみる。大河内は、シルバー人材センターでの就業に関して、長期的な雇用関係を前提としなかったことの理由を次のように述べている。

「(高齢者のための就労施策が)高齢者の長期的な継続雇用を前提とするものであったり、(中略)『配分金』によってのみ高齢者がその生活を支えていかなければならないとするなら、それはおのずから雇用保障の要求と結びつくことになるだろうし、そうなれば、それは戦後の労働諸立法、たとえば労働基準法や労災保険法や労働組合法の枠の中での団体行動となってしまい、高齢者事業団の精神とは遠くはなれたものになってしまう。」

『東京都高齢者事業振興財団の基本計画のための覚書』より

大河内は、高齢者の就業が雇用関係を有してしまうと、結局は労使間の闘争に巻き込まれるだけになってしまうのではないか、ということを危惧していたようだ。特に、高齢者が配分金によって生計を立てるような状況になってしまったのでは、余生を賃金闘争に費やすことにもなりかねない、ということだ。もっと言えば、「雇用関係」を持たないということは、高齢者の労働を「疎外された労働」にしないということでもあった。高齢者が「それぞれの地域におけるさまざまなニーズに応じて、自主的・自発的に仕事を引き受け、それぞれの能力に応じて働き、そのことを通じて社会活動に参加し、そこに生き甲斐を見出す」[19]ためには、高齢者の就労が生産手段と生産目的を奪われてしまった「疎外された労働」であってはならないのだ。70年代に入った頃の高齢者というのは、戦争直後の生活保護の対象とならざるを得なかった高齢者とは違い、年金や貯蓄によって充分に生活できる。だから、何も雇用者となって賃金のために働く必要はない。大河内はそのように考えて、社会参加のひとつのあり方として、雇用を前提としない就業を提案したのである。彼が理想とした高齢者就業のあり方が、次の文章にまとめられている。

「高齢者事業と呼ばれるものは、労使間の雇用関係を前提とした上での高齢者就労ではなく、あくまで地域の高齢者たちが自主的に働こうとするところの互助と共働のための就労活動であり、むしろおおよそ六十歳以上の高齢者たちが、自分の長い人生の中で身につけた経験と技能と生活の智慧とでもいうべきものを地域のために提供することに、老後の積極的生きがいを見つけ出そうとする運動なのである。」(傍線は筆者によるもの)

『東京都高齢者事業振興財団の基本計画のための覚書』より

 

              大河内が労働経済学の専門家であり、しかもマルキストであることを考えれば、彼の意図していたことは充分に理解できる。理念的には、高齢者就業のひとつの「理想」であるとわたしも考える。しかし現実には、大河内が提唱して実現した「雇用関係を前提としない労働」は、「高齢者の雇用がない」という高齢者就業の実態ととなりあわせだった。

 

 

4 高齢者就業の実態

 

 

@ 「臨時的かつ短期的」な高齢者就業

 

              まずはじめに、「シルバー人材センター」という政策の中で高齢者就業がどのように捉えられているのかを知るために、センターの事業を法制化している「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」に注目してみる。第46条で、シルバー人材センターの業務が規定されている。

第四十六条

「都道府県知事は、定年退職者その他の高年齢退職者の希望に応じた臨時的かつ短期的な就業の機会を確保し、及びこれらの者に対して組織的に提供することにより、その就業を援助して、これらの者の能力の積極的な活用を図ることができるようにし、もつて高年齢者の福祉の増進に資することを目的として設立された民法第三十四条の法人(次項及び第四十八条の二第一項において「高年齢者就業援助法人」という。)であって...」

つまりシルバー人材センターとは、「臨時的かつ短期的な就業」を提供することを目的とした政策であって、高齢者が長期的な職を見つけるということは前提とされていないのである。大河内に言わせれば、「臨時的かつ短期的な就業」こそが体力的にも多様化する高齢者のニーズにこたえた結果、ということなのだろう。しかしこれは裏を返せば、高齢者は「長期的な雇用」の対象にはならない、ということである。またこの法律では、第四条で「60歳以上定年の義務化」をし、65歳までの「継続雇用制度の導入」を奨励している。その点をあわせて考えると、60歳までは企業に雇用を継続することを義務化し、さらに65歳まではなるべく継続雇用制度や再雇用制度を導入することを奨励するが、それ以降の高齢者に対して「長期的な雇用」を提供する必要はない、「臨時的かつ短期的な就業」でよい、ということになる。実際に、ある県庁でシルバー人材センターを担当している職員にわたしがインタビューをしたとき、彼は次のように答えた。

筆者「では、65歳を過ぎた人たちに対してはあくまでも臨時的かつ短期的な職を提供するだけ、ということですか。」

職員「そりゃあそうですよ、だって65歳になったら年金払ってるわけですから。」(傍線筆者)

「年金をもらっている人間に対して、行政が税金をつかってまで、長期的な雇用を前提とした職を提供するための施策をとる必要はない」ということである。確かに、「高齢者=社会的弱者=社会の負担」「政策=救済事業」という思考法のもとでは、非常に論理的な発想である。

 

 

A 活かされていない「豊かな経験と知識」

 

              下の表は、目黒区シルバー人材センターの主な事業内容である。これを見ると、センターに発注される仕事のほとんどが、単純作業であることがわかる。

 

公共

公園清掃、駅前自転車整理、公共施設管理、

民間

マンション管理・清掃、毛筆・筆耕、室内系作業、駐車場管理、美術館監視

家庭

植木の剪定、ふすまのはりかえ、大工作業、家事援助サービス、

独自事業

学習教室、家具のリサイクル、和・洋服のリフォーム、書道教室、日本画教室

 

シルバー人材センターを含めて、高齢者就業のために作られたパンフレットやチラシを見ると、しばしば「高齢者の豊かな経験と知識を活かして」というフレーズを目にする。上で引用した大河内一男の言葉の中にも、「長い人生の中で身につけた経験と技能と生活の智慧とでもいうべきものを地域のために提供する」というフレーズが登場する。しかし仕事内容のほとんどが上の表のような単純作業では、高齢者がそれまでの人生で培ってきた「豊かな経験と知識」が活かされているとは到底言えない。また、植木の剪定やふすまのはりかえと言ったような、一見すると技術が生かされているかのように見える作業も、実はそうではない。それらに携わる高齢者のほとんどは、シルバー人材センターに来るまでに植木の剪定やふすまのはりかえをやったことはない。センターに来てから研修を受けて仕事をしているのだ。

 

たしかに、センターの会員には元サラリーマンだった人が大勢いる。これまでの日本企業の労働内容が専門技術・知識の習得を前提としていないとすれば、定年後の高齢者がそれまでの仕事で培ってきた経験や知識を地域社会の中で活かしていくことは難しい。問題の原因が高齢者就業政策としてのシルバー人材センターにあるのか、はたまた日本企業に勤めるサラリーマンの労働内容にあるのか。それを問うことは本論分の中ではしない。ただしいずれにしても、大河内が理想としていたような「豊かな経験と知識」が活かされる高齢者就業は、現実には成立していない。

 

 

B 会員は「労働者」なのか

 

              大河内一男が雇用関係を前提としない労働を提案したのは、高齢者就業を「疎外された労働」にしないためであった。しかし現実には、雇用関係がないということは、同時に雇用者としての権利がないということでもあった。たとえば、センターの会員には労災が適用されない。シルバー人材センターでは、独自のシルバー保険というものを作って就労中の事故やけがに対応している。しかしこれは、労災ほどの補償ではない。現実に、この労災適応をめぐって裁判になっているケースがある。綾瀬市シルバー人材センターを通して働いていたある会員は、工場でほかの職員と同じ仕事をしているときに、事故で指を失ってしまった。ところが彼には労災が適応されなかった。[20]センターの会員が、職場で他の職員と同じ仕事をしていても、事故の際の補償は他の職員とは違う、という現実があるのだ。さらに、会員が受け取る配当金は雇用関係が成立していないので「賃金」ではないが、「雑所得」という名目で所得税の課税対象にはなっている。

 

              また、センターの会員が受け取っている配当金は、通常の賃金に比べて低いと推測できる。同じ仕事内容に対するセンターの配当金と一般の賃金を比べることは実質的には不可能だ。しかし現実に、センターに仕事を発注してくる企業や公共団体は、他ではなくセンターに依頼する大きな理由として、「センターが安い」ことをあげている。センターに限らず、一般に高齢者が企業に雇われる一番の理由は低賃金で雇えるからである。わたしがインタビューをした東京都内の高齢者職業相談所の職員は、高齢者の仕事のほとんどが単純労働で低賃金であると断言していた。高齢者の賃金が低い一番大きな理由は、彼らが年金を受け取って生活していることにある。一般の労働者であれば、受け取った賃金で生計を立てなくてはならないから、雇い主も当然それに見合った賃金を支払わなくてはならない。それに対して、高齢者は年金で生計を立てているために、雇主は高齢者の労働力再生産にかかる費用をすべて支払う必要がないのだ。これはパートタイム労働とよく似ている。大河内一男は、高齢者が年金をもらって生活しているからこそ賃上げ交渉に走る必要がないのだ、と言っていた。しかし現実には、彼らが年金生活者であるというその事実が、彼らの労働を低賃金なものにしてしまっているのである。大河内が目指した「疎外されない労働」は、結果としては「低賃金の単純労働」であり、そこでそこで働く高齢者たちは言わば「半プロレタリア化」された周辺労働者なのである。

 

 

 

5 「生きがい」対策としてのシルバー人材センター

 

 

              結局のところ、シルバー人材センターとはいったい何のための組織なのだろうか。この章のはじめに、高齢者事業団発足の目的は「労働と福祉の両面を包括する新しい就業システム」を構築するためだった、と書いた。これは東京都高齢者事業振興財団の年報に記されている。「労働を通じて地域社会に参加する」というコンセプトは、たしかに労働と福祉の両領域にまたがっている。センターの業績や会員の満足度を正確に判断することは、到底わたしの手に余る。しかし調査を進める上で、現実にセンターが色濃く有しているのは福祉の側面なのではないか、という印象を強く受けた。センターの仕事の内容や会員のおかれている法的立場を考えれば、シルバー人材センター事業が労働政策として成功しているとは言いがたい。むしろセンターは、高齢者就業対策ではなく高齢者のための「生きがい」対策として機能している。シルバー人材センターが出している刊行物や各種のパンフレットを見ていると、「働くことで生きがいを」という内容のフレーズが数多く出てくることに気がつく。会員が寄せている手記の中にも、シルバー人材センターで働くことは自分にとっての「生きがい」だ、という意見が頻繁に出てくる。さらに、センターの福祉的側面に重視が置かれていることを示す一例として、区役所内でのセンターの扱いがあげられる。江戸川区役所の中でシルバー人材センターを担当しているのは、高齢福祉課の「生きがい係り」なのである。これらの点を考え合わせると、シルバー人材センターとは「定年」を迎えた高齢者の老後に働くことを通じて「生きがい」を与える福祉政策なのである。そしてここでも、シルバー人材センターという発想の根底にあるのは、「働くことは生きることである」というこれまた非常に近代的な価値観なのだ。シルバー人材センターという政策の前に立ちはだかっているのは、対高齢者就労政策が成立し得ない現実である。

 

 


4章 「生きがい」という言葉

 

 

              この章では、高齢者就業の調査の過程で出てきた「生きがい」という言葉について、少し詳しく見てみることにする。通常「生きがい」という言葉は、「生きていてよかった」という実感をもっている精神状態(生きがい感)や、そのような精神状態の源泉となっている対象を示す。さらに細かく見ていくと、生きがいの対象や種類にはさまざまな定義がなされている。しかしここでは、「生きがい」という言葉が何をさすのか、という言葉の定義を詳しく追い求めることはしない。言葉の定義ではなく、@「生きがい」という言葉が戦後の日本社会の中でどのように使われてきたのか、A「生きがい」という言葉を通して人々が求めているものはいったい何なのか、の2点に注目する。

 

              では、戦後の日本社会の中で、「生きがい」という言葉はどのように使われてきたのだろうか。それを知るために、1950年から90年にかけての朝日新聞の中で、見出しに「生きがい」を含む記事を数えて見た。資料Jはその結果である。 記事数は、戦後約50年間を通して増加してきた。そしておそらくその増加傾向は、戦後日本の経済発展と大きく関係していたのだろうということが推測できる。戦争直後から50年代にかけては、「生きがい」という言葉が見出しに含まれる記事はたった1件しかなかった。経済的困窮の中で、「生きがい」を考える余裕などなかったのだろう。60年代後半になって、ようやく毎年数件の記事が掲載されている。そしてその数がいっきに19件にのぼるのが1970年、ちょうど大阪で万博が開かれた年である。最長記録を有した「いざなぎ景気」が終わる年、三大都市圏への転入人口が激減する直前の年が、70年であった。高度成長もほぼ終焉に近づき、多くの日本人が戦争直後に夢に描いた「豊かさ」をみずからの手にした頃である。そしてその「豊かさ」を手にもって自分たちの歩調を少し緩めようとしたとき、そこに問われ始めたのが「生きがい」だったのではないだろうか。

[21]

 

 

「豊かさ」について議論されるとき、「わたしたちは物質的『豊かさ』は手に入れたが、『本当の豊かさ』を失ってしまった。わたしたちが本当に手に入れなければならないのは『失われた豊かさ』のほうなのに。」という論調をよく耳にする。「生きがい」について論じられるときも、よく似た論調がある。「わたしたち日本人はこれまで必死に働くことを『生きがい』としてきた。けれど『豊かさ』を実現した今、もっと『本当の生きがい』を見つけなければならない」と。しかしこのグラフを見ていると、「豊かさ」や「生きがい」に対する問い自体が、「豊か」にならなければ出てこないものであることがよくわかる。「豊かさ」や「生きがい」という発想は、まさに「豊かさ」の産物なのだ。そう考えると、豊かになる以前はわたしたちが有していたとされる「本当の豊かさ」や「本当の生きがい」というのも、実は「豊かさ」を実現してはじめて作り出される概念なのではないだろうか。

 

              さて、実際にこれらの記事の見出しに目を通していると、さらにもう一つの事実に気がつく。見出しの多くは、『○○にとっての生きがいとは』というような形をとっている。そして、その○○の部分に登場するのは、多くが「女性」と「老人」と「障害者」なのである。なぜ彼らの「生きがい」はこんなにも問われなければならないのだろうか。彼らは、他の人間よりも「生きがい」を必要としなければならないのだろうか。そして、彼らは「生きがい」という言葉を通していったい何を求めているのだろうか。

 


5章 働く老人の声

 

 

              本章では、シルバー人材センターの会員に対して行ったインタビューの結果の一部と、それに対する分析を行う。

 

              インタビューの対象者は、いずれも移行期世代に属する年齢であり、地方から上京して就職、結婚し、定年を迎えてからシルバー人材センターに会員登録している。彼らは、戦後の就業構造の変化と高度成長の結果できあがった<働かなくてよい>=<働けなくなる>構造の中で、今まさに「老い」に直面している人たちである。彼らは、「老い」をいかに受容したのか。「働けない」そして「働かなくてよい」環境にあって、それでもシルバーに加入した目的とは何か。彼らは、「生きがい」という言葉を通して一体何を求めているのだろうか。

 

 

1 インタビューの概要

 

              今回のインタビューは、1999年の11月から12月にかけて、3人の対象者に行った。それぞれのインタビューは、対象者の職場の一部を拝借して、それぞれ1時間から2時間程度の時間をかけて行われた。本論文ではインタビューの中から抜粋した一部を載せ、それに対する分析をしていく。対象者の言葉には一切の手を加えていないが、抜粋や途中の省略など最小限の編集だけを行った。その結果微妙なニュアンスのずれが生じてしまうかもしれないが、その責任はすべて調査者にある。

 

              インタビューの本文中に出てくる(カッコ)内の言葉は、状況説明のためにわたしが後から加筆したものである。(.....)は中略である。本文中の傍線は、すべて筆者によるものである。また、本論文はインターネットのホームページ上に載せるため、対象者の名前はすべて仮名にしてある。

 

 

 

2 西川孝さん 67歳 世田谷シルバー人材センター会員

 

@ はじめに

 

              西川さんは、昭和7年生まれの67歳、静岡県の出身である。昭和25年に大学進学のため上京し、卒業後は某地方銀行に入社した。その15年後に転職し、2番目の会社ではシカゴ、ニューヨーク、ハンブルク、ロンドンと海外転勤を繰り返した。さらにその会社も15年で退職し、52歳のときに3番目の会社に移った。3番目の会社を63歳で定年退職になり、その後は失業保険を受けながら雇用促進事業団の職業学校に通ったが、就職はしなかった。64歳の時にふとしたきっかけでシルバー人材センターの仕事を手伝うことになり、現在までその仕事を続けている。家族は妻と二人で、子どもはいない。現在は世田谷区に在住。シルバー人材センターでの仕事は、区から委託された駅前駐輪所の管理をしている。仕事は週に4日ほど。西川さんは、仕事をはじめてすぐの頃に駐輪所に導入されたコンピュータの扱いをマスターし、今では他の駐輪所で働く会員に指導をする立場でもある。

 

 

A シルバー人材センター加入の目的

 

 

―――西川さんがシルバーセンターに入られた目的は何ですか。

西川:促進事業団(職業学校)にいたころに夏休みがありましてね、このときは毎日図書館に通ったりしたんですけど、どうも仕事がないと生活のリズムが壊れてしまって。やらなきゃいけないことがなくって、やりたいことだけやっているようになると、だめになってしまうんですよね。次の日朝早く仕事があれば、遊びに行ってても早く帰ろうとか終電があるうちにっていうことになりますけど、次の日何にもないとなるといつまで遊んでてもいいじゃないかっていうことになって、帰れなくなったら近くのホテルに泊まればいいじゃないかっていう風になっちゃって。実際そういうこともあったんですよ。

―――そうすると、西川さんが働く目的っていうのはどういうことになりますか。

西川:そうですね、まず健康。それから副収入。これはお小遣いですね。やっぱり自分が自由になるお金があるっていうのはぜんぜん違いますから。それから、人とのふれあいですね。

―――それはここの駐輪所に来る人と、それからいっしょに働いている人たちっていうことですか。

西川:ここの駐輪所に来る人のことです。私はここに来てからずっと励行していることがあるんですが、必ず駐輪所に来た人に挨拶をするっていうことなんです。

―――いっしょに働いている人同士はどうですか。

西川:それもありますよ。月一回連絡会っていうのがセンターのほうであるんです。でもそれはもう本当に事務的なことだけで、用事が終わったらみんなとっとと帰っちゃうんです。私はそういうのももっと交流を深めるためにいろいろなことをやったらいいと思ってるんですよ。

 

 

              西川さんにとって働く目的は、@健康、A副収入、B人とのふれあいの三つである。

健康に関して西川さんは、仕事なくなった時期に「生活のリズムが壊れて」しまった、と述べていた。それまでの長い人生の生活サイクルが、「仕事」を中心にして成り立ってきたのだから、当たり前といえば当たり前である。ひたすら「しなければならないこと」をこなし続けてきた人間が突然「何もしなくていい」状態に置かれても、そう簡単に「するべきこと」を見つけることはできない。これはおそらく、定年退職後の高齢者が共通して直面している問題であろう。退職以前から地域の自治に深くかかわっていた、または息子(娘)夫婦と同居していて孫の面倒をみている、などの状況にない限り、「何をしたらいいのか」は重要な問題だ。

 

西川さんはインタビュー全体を通して、とにかく「人とのふれあい」を大事にすることが自分にとってとても大切なことなのだ、ということを繰り返し強調していた。特に、仕事を通して触れ合う駐輪所の利用者への挨拶や会話をとても大事にしている。実際にわたしが駐輪所でインタビューをしている間にも、詰め所の前を通る利用者には必ず「おはようございます」と声をかけ、顔見知りの利用者とは簡単な世間話をしていた。駐輪所で働く同僚とのコミュニケーションに関しても、「もっと交流を深めるためにいろいろなことをやったらいい」と、積極的な姿勢を見せている。

 

 

B 余暇のすごし方

 

―――仕事以外の時間はどんなことをなさっているんですか。

西川:仕事以外ですか。そうですね―、私はマンションの理事もしているんで、そっちのほうも結構忙しいんですよね。今年の5月には改装工事しましてね、1億5千万かけてやったんですよ。ゼネコン選んだりすることからはじめてね、計画に3年ぐらいかかりましたから。

―――お休みの日とかはどんなことなさってるんですか。

西川:そうですね、スポーツクラブに行ったり、ゴルフに行ったり。ゴルフも良く行きますよ、今度もシルバーコンペって言うのがあるんです。

―――じゃあそのいま西川さんがお付き合いされてる友人の方っていうのは、結構シルバーを通した方も大勢いらっしゃるんですね。

西川:おりますね。わたしはあの、出会いっていうのを非常に大切にしてるんですよ。人との出会いを。この前も先々週大阪で結婚式あったんですけど、そのスピーチでも出会いっていうことをテーマに話をしたんですけどね。

 

 

              仕事以外の時間に関しても一貫しているのは、「人とのふれあい」である。主な余暇の過ごし方は、@マンションの理事、Aスポーツクラブのようだ。

 

駐輪所の仕事は週に4日。そのほかにもセンターでの連絡会があったり、世田谷区全体の駐輪所の管理の仕事にも携わっているので、決して暇なわけではない。それに加えて、マンションの理事の仕事にもかなり熱心なのである。

 

さらに興味深いのは、西川さんの通っているスポーツクラブである。西川さんによると、この某スポーツクラブは港区内にあり、芸能人やスポーツ選手も多くいるらしい。入会金100万円、年会費185千円、入場料1000円、さらに食事をして23000円。この金額は実際にスポーツクラブに問い合わせていないのでどこまで正確な数字かはわからない。しかし少なくとも、あまたあるスポーツクラブの中でもかなり高額な方であることは間違いない。そして何よりも、西川さん自身が「高額なスポーツクラブに通っている」ことを一つの精神的なよりどころとしている。西川さんのマンションに住んでいる知人はみんな世田谷区内のスポーツクラブに通っており、西川さんに対して「そんないいとこもったいない」と言うそうだ。しかし彼は、「でもそれはやはり、私がこういうふうに仕事してるから行けるんですよね」と、インタビューの中で語っていた。さらに、駐輪所の利用者との日常会話の中で、西川さんがその某スポーツクラブに通っていることを話すと、「相手が顔色変わる」そうだ。西川さんは、駐輪所で働いている自分が、利用客から「低レベルな人」というランクつけて見られることがしばしばあると言う。その偏見を打破するために、スポーツクラブの話をするのだそうだ。つまり西川さんにとって、高額な費用を払って有名なスポーツクラブに通うことは、「豊かな老後」というステータスであると同時に、他者とのコミュニケーションの一方法でもあるのだ。

 

そして、当然このスポーツクラブのための費用は、センターの仕事で得た収入によって賄われている。西川さんは、働く目的の二番目に「副収入」をあげていた。生活費は年金でまかなわれている。おそらく今日の日本社会で、年金だけでは文字通り「食べていけない」、という人間は非常に少ないだろう。むしろ、住宅ローンが終了していてさらに子どもが独立していれば、年金だけでもある程度以上の暮らしができる。しかしそれでも、有り余るほどの時間を消費するためには、「それ以上のお金」がどうしても必要になってくる。特に、都市に住んでいればレジャーや交際費にかかる金額は決して少なくない。「副収入」は、決して贅沢ではないのだ。西川さんは、そのような「副収入」があることが、非常に重要なのだ、と話していた。西川さんぐらいの年齢になって、つまり高齢者と呼ばれる年齢になって「自分の自由になるお金」がないというのは、「とても惨めなこと」だそうだ。生活がやっとの収入しかなければ、交友関係を維持していくことも難しい。さらに西川さんにとっては、「高額なスポーツクラブに通う」ということが、単に運動をするということを超えて大きな意味を持っているのだ。西川さんにとって働くことは、決して食べるためのお金を稼ぐことではない。

 

 

C 妻との関係

 

―――奥様は何かお仕事とかなさってるんですか。

西川:いや、仕事一切、っていうか働いたことないんです。(.....)お稽古事ばっかりしてるんです。たくさん行ってるから。まず月曜日はですね、水墨画やってます。水曜日にですね、お皿に絵を描いて。(.....)それから金曜日はですね、ロンドンにいるときの刺繍やってます。ロンドンにいるときのお友達がみんな集まってね、やってますから。銀行の支店長さんとか、商社の重役とかの奥さんばっかり。

―――じゃあ、奥様のほうはそういったお集まりが毎日あって忙しい。で、西川さんご自身はこちらに出かけてらして忙しいっていう感じですね。

―――なるほど。でも土日とかは一緒に出かけられたりするんですか。

西川:いや全く。趣味は全く違うもんですから、行動はともにすることはありません。

西川:家でいろいろ行かないときは、勉強しなきゃいけないでしょ。水墨画行く時は水墨画描いてかなきゃならないし。お皿行くときはお皿自分で絵を描いて。(.....)ですから私がいると、いろんな事をしなきゃいけないんですよ。いないほうが。それはあるんですよ。働く一つのあれは。家庭円満の一つのね。私は出てるの好きですから。家にいるの大嫌いですからね。ですから公然と出て歩けるわけですよ。

―――一緒に旅行行かれたりとかはないんですか。

西川:旅行。いや、家内は旅行行きますけどね。私は私のグループで旅行行きます。夫婦でっていうのはないですね。私も家内もね、旅行したいっていうことではなくて、お友達とお付き合いしたいっていうことで旅行してるみたいなんですね。私もね、旅行っていうのは、行けば必ず帰ってこなきゃならないでしょ。帰ってくるのがいやなんですよ。わざわざ楽しみに行ったのにまた家に帰ってくるなんて。

 

 

              一般的な「定年後の夫婦生活」のイメージというと、夫婦そろっての旅行がある。定年を間近に控えたサラリーマンの中には、「定年後は妻とゆっくり旅行でもしよう」と考えている人が少なくない。しかし実際にインタビューをしてみると、対象者3人の中で妻と一緒に出かけたり旅行に行ったりすると答えた人は一人もいなかった。西川さんの場合も、旅行には行くが、お互いそれぞれの友人と一緒に行くのだ。妻は妻で趣味を通じての交友関係が構築されており、そこに自分の居場所がある。西川さん自身もシルバー人材センターの仕事とその仲間同士の中に居場所がある。西川さんは、自分が働いて外に出ていることが「夫婦円満の(秘訣の)1つ」であるとさえ言っている。興味深いのは、定年後になってもやはり、「妻」は「趣味」の世界、「夫」は「仕事」の世界、という区分である。

 

 

 

D 「働く」ということについて

 

―――ここで働いていて一番楽しいことって何ですか

西川:平凡ではあるけれども、11日が過ごしていかれることですね。あっという間に1日終わっちゃいますよ。これ何もないといろんなことを考えたりね、くよくよしたり、いろんなことで、

―――働いていて、これはつらいって思うようなことはありますか。

西川:(しばらく考えて)そうですね、この仕事に入ってからは、つらいということはないですね。ただあれやろうこれやろうっていう、この駐輪所についてのね、ことで、もう少し就労の規約でもね、自分で作ってみようかと。もうすこしその、130人の駐輪所の人をうまくまとめてね、えーなんとか一つのね、いや組織じゃないですけど。人事権わたしもってないですから。そういう何かこういうのを作れたらなあという。

(.....)

―――以前勤めていた会社での仕事と今の仕事との違いってなんですか。

西川:あの―、今までの仕事っていうのは全部ノルマがありました。ノルマがあって、日々精進しなきゃいけないですよね。現状維持じゃだめですから、会社っていうのは。利益を追求していますからね。常にいろいろ自分で考えたり勉強したりしなくちゃいけない。ここはそういうことありませんもんね。あまり積極的なことをやれば、むしろ異端視されますからね。ですからそれをされないようなルールを作らなければいけないわけですよ。たとえばこの、この地区(西川さんが担当している駐輪所)でやっている仕事っていうのは、私としてはパーフェクトだと思うんですよ、駐輪所の管理としては。だからこれをですね、他の駐輪所に全部お願いするっていうことはできないと思うんですよね。できないから、規約を作って、それに準じて皆さんなびいてもらえれば、少なくとも3〜4年の間にはこの地区の形式になるのではというふうに。(.....)

―――じゃあ、いまはそういうノルマではなく、何でしょう、自分がこうしたいって思うような仕事を自分で創っていけるっていうところが。

西川:そうですね! ええ。あの、命令されてやるんじゃなくてね。それとあの、利害関係がないからいいですよ、全く。同級会やってるようなもんですから。たとえばここの中にいる17、8人の方とはお付き合いしてますけどね、ゴルフに行ったり、飲みに行ったり、映画鑑賞会に行ったり。いろいろしてますけどね。(.....)それとね、会話が多くなりますね。しゃべることが多くなりますよ。

 

 

              駐輪所の仕事は、西川さんにとってまさに「疎外されない労働」である。西川さんは、コンピュータの使い方のマニュアルを現在製作中で、わたしにも見せてくれた。さらに彼の目下の目標は、世田谷区内にある駐輪所をまとめて、一つの緩やかな組織のようなものを作ることだ。それらの仕事は、決して世田谷区やシルバー人材センターから要求されたことではなく、西川さんが自主的に行っていることである。企業に勤めていた頃のような「ノルマ」がないこと、駐輪所を自分の思うように仕切ることができること、コンピュータの導入によって「いなくては困る人」になったことなどが、(インタビューの最後に話してくれたように)駐輪所での仕事を彼にとっての「生きがい」にしているのだ。

 

 

―――西川さんにとって、働くことっていうのは生きがいですか。

西川:生きがいって言うと、ちょっとあれですね、かっこ良すぎますね。言葉に表すとね、生きがいとかいろいろ言いますけど、実際にはそうじゃないと思いますよ、わたしは。表現できないからそう言ってるだけであって、その言葉が一番身近な言葉だからそう言ってるけれども。やっぱりね、

―――あえて言葉にしようとすると何ですか。

西川:(沈黙) うーん、仕事持ってることがやはり人生の一つ支えになるんじゃないですか。それだと思いますよ。それがですね、枝葉に分かれてね、健康であり、副収入であり、それから人との対話とか、そういうものが出てきますからね。

(.....)

ですからそういうところを総合していくとね、この仕事が生きがいになってるんですね。もう今の時点では、お金でも、健康でも、余暇の過ごし方でもなんでもないんですよ。駐輪場ってこと自体が、私は非常に大好きな仕事になっちゃったんですよ。はじめてね、この歳にしてね、自分にやってみたい仕事がぶつかってきたんですよ。

 

              西川さんにとって「生きがい」とは、言葉の表面にまとわりついている「かっこ良さ」ではない。彼にとって「生きがい」は、仕事を持つことであり、その仕事によって得られる健康、副収入、人とのふれあいであり、さらにそれらがもたらす他者とのコミュニケーションなのである。

 

 

 

3 丸山道夫さん 64歳 江戸川区シルバー人材センター

 

@ はじめに

 

              丸山さんは、昭和10年生まれ、64歳の男性。出身は、鹿児島県奄美大島の喜界島。喜界島は、島の周囲が48キロという非常に小さな島である。姉二人と弟二人の長男として生まれた。小学校5年生のときにお父さんを亡くしたこともあって、19歳のときに職を求めて上京した。剛性建具を製造する会社で職人として15年ほど働いた後、独立して自分の会社を設立した。ところが平成になってからの不況のあおりを受け、30年ほど続いた会社は97年に倒産してしまった。負債の清算を済ませ、99年の4月からシルバー人材センターでドライバーとして働いている。現在は妻と二人暮らしで、長男と長女はすでに独立している。

 

 

A 働く目的、生きがい

 

―――シルバーセンターで働いている目的は何ですか。

丸山:・・・働く理由か。もちろん生活のためもありますよね。だけど自分が一生働けていただけるところっていうとやっぱりシルバー人材センターしかありませんね。

―――今生活なさってるのは、こちらの収入で生活なさってるんですか。

丸山:とあと年金です。

―――年金だけでも生活できるけれども、それにプラスするためにこちらで働いているということですか。

丸山:そうね、こちらは69歳で退職ですから、いずれ年金だけの生活になりますけれども。[22]

―――ここで働くのは、生活のためというわけではないんですか。

丸山:全部がそれじゃないっていうことですね。(.....)まああとは…まあ生きがいって言うと大げさになりますからね。(.....) 朝起きて、おんなじ時間に起きて、おんなじ時間に行くところがあるっていうことですよね。自分が。まずそれがないと、家でね、ぼっとしていないといけないし。精神的にも、肉体的にもだめになっていくんじゃないですかね。

(.....)

―――そうすると働くことっていうのは、「生きがい」ですか。

丸山:生きがいっていうのはね、大きすぎて、何が生きがいですか。人生の目的とか、何ですか、生きがいって。(.....)それは、あることに没頭することじゃないでしょうか。でも生きがいっていうのは日々を楽しく生きることじゃないでしょうかね。生きがいを求めてって言われても、具体的に何が生きがいだって言われても、

―――これとは言えない、

丸山:と思います。

―――でもやっぱり仕事を続けていくことは大切、

丸山:そうです。

 

 

              丸山さんの場合も、生活のために働いているのではない。インタビューをした3人の対象者全員が、年金で生活をしていくことはできるが、それ以外の収入を得るために働いている、とこたえていた。高齢者の就業理由についての意識調査の結果を見ると、「経済的な理由」という選択肢を選んでいる人は少なくない。しかしおそらく、その中の多くの人にとって「経済的な」というのは、生活費を稼ぐというよりはむしろ趣味や交際、生活の中でのちょっとした贅沢のために「経済的な理由」で働いていることが推測できる。

 

              さらに西川さんと同様、丸山さんも働くことによって生活のリズムが保たれている。朝起きて「行くところがある」ことが、精神的にも肉体的にも支えになっているのだ。「するべきことがある」「誰かに必要とされている」という実感がなく、ただあてなく生きていくことは難しい。

 

              西川さんの場合もそうだったが、丸山さんも「働くことは生きがいですか」と聞かれると、すぐにはそれに解答しなかった。彼らにとって「生きがい」というのは、「これ」や「あれ」と指せるような具体的なものではないようだ。むしろ「言葉にはしづらい」ものなのである。また、インタビューの中で「生きがいは何ですか」「働くことは生きがいですか」という質問をすることは、調査者のわたしも少し躊躇した。たずねれたほうも、最初は戸惑いながら、少しずつ自分の「生きがい」について語ってくれた。彼らにとって「生きがい」ということは、漠然としたものであると同時に、そんなに簡単に他人に話せるようなことではない。

 

 

B 妻との関係

 

             

丸山:(.....)たとえば毎日同じ時間に帰ってきて、「ただいま」って帰れるのとね。「いってきます」って出てって「ただいま」って帰ってくると「はいご苦労様、寒かったでしょう」って言ってくれるじゃないですか。それが行く場所がなくてね、家でごろごろして散歩だけして帰ってくるか。

―――奥さんはずっと家にいるんですか。

丸山:専業主婦です。

―――何か趣味があるんですか。

丸山:何かやってるんじゃないですか。

―――何か集まりみたいなのはあるんですか。

丸山:あるみたいですよ。

―――そうですか。じゃあ奥さんはそちらで楽しく1日を過ごして、丸山さんはお仕事をなさって。

丸山:そうですね、それでないと、やっぱり、年寄り二人でうちにいたら、家庭生活がね、ほんとに、ギクシャクしてくるものがあると思いますよ。

―――なるほど。それはたとえば、前の会社がなくなって、シルバーに来るまでの間に、そういうことっていうのはありました?

丸山:あります。口には出さないけど、たとえば冬過ごしましたけれども、「どっか散歩でもしてくれば」って言われるんですけれども「そのうちあったかくなったら行くよ」って言っているうちに。肉体的にも精神的にもね、だめになっていきますね。

 

 

              西川さんと同様、丸山さんにとっても家庭は「1日中いられる場所」ではない。世間ではしばしば、「家庭」とは「安らぎの場」であり「最後のよりどころ」である、という認識がなされている。たしかに近代家族は、精神的な結びつきを一つの特徴としている。しかしやはり、そこは「帰ってくる場所」であって、(特に男性にとっては)「ずっといられる場所」ではないのだ。「定年」を迎えて、「家庭」に永久帰宅をしたとき、そこには「夫」の居場所はない。丸山さんの言葉の中から、仕事をしていなかった時期の家庭の気詰まりがよく伝わってきた。

 

 

 

4 山本周造さん 72歳 江戸川区シルバー人材センター

 

@ はじめに

 

              山本さんは、昭和2年生まれ、72歳の男性である。出身は新潟県南蒲原。8人兄弟の上から4番目に生まれた。15歳のときに、満州開拓義勇軍として満州へわたり、そこで終戦を迎えてシベリアへ送られ、3年後に日本に帰ってきた。その後腎臓結石をわずらい、手術を受け、療養しながら新潟の温泉旅館に勤めていたが、1961年、先に上京していた親戚を頼りに江戸川区に移り住んだ。江戸川区役所の土木課に勤め、河川の排水などの仕事をしていた。60歳で定年を迎えたが、再雇用制度で総務の文書係にもう6年ほど勤務し、その後退職した。退職後は1年ほど何もしていなかったが、94年にシルバー人材センターに加入し、現在まで自転車のリサイクルの仕事をしてる。現在は妻と二人暮しで、インタビューのちょうど1週間前に、すでに独立している長男の孫が生まれた。

 

 

A 山本さんの趣味

 

―――山本さんの趣味は何ですか。

山本:私はね、水墨画をやってるんですよ。

―――いつごろ始められたんですか。

山本:6年ぐらい前かな。

―――どういうところでやってるんですか。

山本:サークルっていうか、そういうのがあって。いろんなそういうことをやる会っていうか、そういうのがありますよね。そういうとこ入って、習ってるわけ。

―――週に何回ですか。

山本:これは、月に2回ですよ。

―――それは江戸川区内でやってるんですか。

山本:そう、江戸川区内で、各地区っていうのがあってね、私は小岩記念館っていうとこ行ってるんです。

―――そこのお友達とは仲がいいんですか。

山本:そう、結局ね、女の人多いですよ。そこで俺たちがやってるのはね、夜やってるんですよ。だから仕事終わってから行くわけ。なかなか忙しいんですよ。

―――家でも描いたりするんですか。

山本:そう。描かなきゃいけないんだけど、現在あんまり時間がなくてね、時々は描くんですけどね。

―――山本さんの趣味っていうと水墨画なんですね。

山本:うん、一番楽しみは水墨画ですよね。その他にね、男だけの料理教室っていうのがあるんです。そこへね、月1回行くんですよ。

―――どんなお料理作るんですか。

山本:いやまあ、その時でいろいろね、教える人がその日、「今日はこういうメニュー」っていうことで。

―――それはどういう教室なんですか。

山本:いやこれはね、江戸川区でね、保健所関係でやり始めたんですよね。これはもう、5年ぐらいたつんです。これに行くとね、材料の仕入れから始まるわけです。どうやって仕入れたらいいかっていうことでね。それから今度は大根の切り方とかね。そういう順序で、最初から教えてくれるんですよね。

―――それは男性だけを対象にしているんですか。

山本:これはね、65歳以上の男性だけっていうことになってるんです。教えるほうは女の人ですけどね。

―――じゃあそこで習ったのを、お家に帰ってきて次の日作ってみたりとか。

山本:まあそういうこともやりますけどね。まあずいぶんためになりますよね。野菜の切り方とか皮のむき方とか。

―――そうですよね、これまでは全然やられなかったですよね。

山本:いや、時々はやってたんですけどね、それでもね、家内がほれ倒れたりなんかしたとき、自分ができなかったら困るなっていうことで、まあ入ったわけなんですけどね。

―――じゃあこれもけっこう楽しみですか。

山本:そう、これも楽しみのひとつでね。

―――ほかに何かスポーツみたいなことは、

山本:そういうことはやってないですね。

 

 

              山本さんは、対象者3人の中でも趣味と呼べるものがいくつかあり、交際関係も多様だ。水墨画のサークルや料理教室に積極的に通い、交友関係も、センターの職場での同僚、区役所の退職者の会、満州時代の友人などがあげられ、その交際費にセンターでの収入があてられている。

              興味深いのは、山本さんの通っている料理教室である。男性向けの料理教室ができてきたという話は昨今よく耳にするが、「65歳以上男性限定」の料理教室というのは珍しい。しかも料理教室は、山本さんによれば、江戸川区によって提供されているらしい。当然そこには、住民の間にニーズがあるのだ。

 

 

B 働く目的

 

―――山本さんがシルバーに入った目的は何ですか。

山本:働く理由、結局ね、人間はさ、何もやらないでさ、家いるとね、どうしたって体がなまになるって言うかね、何もやる気が起きなくなっちゃうね、あんまりぶらぶらしてるとね。だからそれを、それをまがうためにはやはりね、毎日ほれ自分の好きな仕事をやっていればね、生きがいになるんじゃないかっていうことでね。(.....)やはり、毎日働けることと、やはり働いている仲間ね、仲間とのコミュニケーション、そういうのが、やはりね、生きがいのあれになるんじゃないですか。来て何だかんだって話をするだけでもね、ずいぶん違いますよ。

―――ここの仕事仲間とは、仕事場以外でも食事に行ったりしますか。

山本:そういうことはあんまりないですけども、それでもね、事業団ではね、年間たった1回だけれどもね、旅行があるんですよ。それに行ったりするでしょ。

―――生活費は、年金で賄っているんですか。

山本:ええそうですよ。

―――じゃあ、ここでの収入っていうのは、どんなことに使ってるんですか。

山本:大体はだから、水墨画やってるでしょ、そういうとこへ多少の金はかかりますよね。それとまあ、人との付き合いがね。それとね、やはり役所やめてから退職者の会っていうのがあるんですよ。そこでも結構、新年会とかそういう会があって、そういうとこへ使うんですよ。

―――人との付き合いにお金がかかるんですね。

山本:そうそう。付き合いに金がかかる。

―――そういうのはやっぱり年金だけだと無理ですか。

山本:そう、無理になることになりますね。だからここで働いてる分は、そちらへ使うっていうことにね。

―――じゃあ、プラスアルファの収入っていうことですか。

山本:そうそう、そういう格好で使ってます。

 

              山本さんも、働く目的は他の二人の対象者と似ている。まず第一に生活のサイクルを整えることであり、第二に職場で得られる他者とのコミュニケーション、そして第三に副収入である。その副収入は、山本さんの場合も、趣味のサークルや交際費に当てられるなど、更なるコミュニケーションのために費やされている。

             

 

C 生きがい

 

―――働くことは、生きがいですか。

山本:生きがいだよね、やはり働くことっていうのはね。働いているとやはりさ、生きがいもあり、健康状態もよろしいっていうことでね。

―――区役所に勤めていたとき、3040代の頃も、そのように考えてましたか。

山本:あの頃はそんなに考えてなかったですよ。こういうことを考えるようになったのは定年後ですよね。定年後、結局ね、収入は少なくなるし、「あれこれどうして生きたらいいか」っていうことで。そうするとね、やはり健康が第一番だなあという風に私は思うんですよね。

―――再雇用されて、66歳で区役所を辞めた時はどんな感じでしたか。

山本:これでだからね、人生は終わりになるのかなと思ったけれど、それでもね、それからまたやることはあるんだろうということでね、気を取り戻してさ。そうしたらこの事業団っていうのがあるから、じゃあここで働けばいいんじゃないかなっていうことで。

―――定年になる前、区役所に勤めていた頃は、定年後はこんなことをしようという希望はありましたか。

山本:いやいやそんなことは全然考えてなかった。まあ再雇用して、再雇用がもう終わりだ何だかんだっていうことになったら、「これから何をやったらいいのか」っていうことは考え出しましたけどね。

―――じゃあその再雇用が終わってからセンターに来るまでは、毎日家にいたんですか。

山本:そう。

―――水墨画を始めたのも、ちょうどその頃ですか。

山本:いや、その前だったかな、水墨画をやったのは。いやもう再雇用終わる頃だね。ああそう言えば、「水墨画をやってれば、これ生きがいのあれになるんじゃないか」っていうことでね。それから始めたわけなんですよ。

 

 

              山本さんは「働くことは生きがいだ」といっているが、そう考えるようになったのは定年後になってからである。3040代の頃、つまり現役で働いていたときには、働くことをあらためて「生きがい」だとは考えていない。立ち止まることのできない速さで流れていく日々の中で、「生きがい」などとは言っていられない。考える必要もない。ところが「定年」を迎えて、山本さんは「人生は終わりになるのかなと思った」。そういう状況に置かれてはじめて、「どうしたらいいだろうか」と考えるようになった。そしてシルバー人材センターの門をくぐったのだ。趣味の水墨画をはじめたのも、再雇用の期間が終わる頃になってからだ。

 

 

 

4 インタビューを終えて

   

 

              章を閉じる前に、3人のインタビューから共通して得られた結果について、ここで少し整理しておく。

 

              まず第一に、彼らが定年後も働こうとする目的は、生活のためではない。前述のように、3人とも基礎的な生活費はすべて年金で賄われている。彼らの目的は大きく分けて、@健康維持(生活のリズムを保つこと)、A他者とのコミュニケーション、B生活費以外のプラスアルファとしての副収入、の三つである。

 

「健康維持」に関して、もし純粋に健康を維持することが目的であるのならば、働く以外にも他に方法がいくらでもあるはずだ。ところがインタビューの対象者3人が共通して回答していたことは、「仕事がないと生活のリズムが崩れてしまう」ということだった。長年雇用者として働いてきた人間の生活サイクルは、「毎朝同じ時間に起きて出勤し、だいたい同じ時間に帰宅。それが月曜日から金曜ないしは土曜日まで続く」というリズムに固定されている。つまり、生活サイクルは「労働」を中心にして回転しており、その状態が数十年にわたって維持されてきた。その結果、彼らは「働いていないと」もはや健康でいることすら難しくなってしまった。しかし一方で、仕事がないと健康が維持できないという問題は、彼らが雇用者としての人生を歩んできた、という点にだけ原因があるのではない。「定年」によって会社人間を引退したとき、もし彼らにとって真に「帰る場所」があり、またそこで次に「するべきこと」があるのならば、問題は生じていないはずである。このことは、後で述べる「家庭」や地域社会の問題と密接にかかわっている。

 

              対象者が「健康維持」のほかにあげていた目的は、人とのふれあい、つまり「他者とのコミュニケーション」である。当然、ここでの他者とは職場での同僚やお客さんのことである。そしてここでもう一つ重要なことは、働く目的の3番目である「副収入」も、実は「他者とのコミュニケーション」という目的に直結している点である。対象者の3人は、みな一様に「副収入」の大切さを強調していたが、その使途はほとんどがレジャー費と交際費である。年金で生活はできるが、働いて得たお金があるから、趣味を通じての人間関係を維持したり、友人と食事や旅行に行ったりすることができるのだ。都市に生活しながら、ある程度以上の金額を支払わずして余暇を消費することは難しい。そしてここでも、人間関係の構築と維持という問題と深くかかわってくるのが、「家庭」や地域社会である。

 

 

              第二に、対象者の「居場所」が、「家庭」や地域社会にない、という点があげられる。対象者は、定年後に家にいた時期を振り返って、「することがない」「ギクシャクしてくる」と言っていた。

 

              都内のシルバー人材センターの事務局で働く職員にインタビューした際に、男性高齢者がシルバー人材センターに加入する理由に付いて、次のように述べていた。「女性は家にいてもやらなければならないことがたくさんありますけど、男性はいてもお茶を飲むぐらいしかすることがないんです。」そこのセンターに加入する男性の多くが、その職員に「とにかく家にいられない」ということを相談してくるそうだ。「とにかく家にいたくないので、何でもいいから何か仕事はないですか」と言って、センターへの加入を希望してくるのである。さらにその職員の方は、たいへん示唆的な話をしてくれた。彼はある日、1日ずっとスーパーマーケットの中に立って買い物客を観察したことがあるそうだ。すると、女性客の多くは買い物途中に知り合いに会った場合そこで長々と話し込むのに対して、男性客は知り合いにあっても挨拶をするだけなのだそうだ。彼は次のように解説していた。「女性はその地域にもいろいろなネットワークの広がりがありますけど、男性は会社社会でずっと働いてきましたから、家庭だけじゃなくて地域社会にも居場所がないんですね。」 

 

              おそらくこのことは、彼らの「家庭」、つまり老夫婦世帯が「近代家族」としての特質を持っていることに起因している。本論分の1章で説明したように、近代家族を規定しているのはその構成員ではなく、生産関係の変化によって生じた構成員の性別・年齢別役割分担である。対象者3人は、もともと子供を産んでいなかったりすでに子どもが独立していたりで、現在は妻と二人で生活している。会社も定年退職してしまった。すでに「夫」「妻」、もしくは「父親」「母親」という役割は果たし終えてしまったのに、人間関係の枠組みと「家族」という入れ物はなくならない。「近代家族」は、「市場・公領域・男」/「家族・私領域・女」、という区分をベースにしている。したがって、市場から引き上げてきた男性にとって「家庭」は居場所ではないのだ。加えて、地方から上京して就職、結婚をした彼らにとっては、密接な地域社会とのかかわりもない。その結果、家にいても「することがない」し、「ギクシャクしてくる」のである。夫婦の関係は生産関係を基盤にして成り立っているから、定年後の「気持ちの切り替え」などでかたがつく問題ではない。そこで定年後の「夫」は、新たなる自分の「居場所」を求めてシルバー人材センターへとやってくるのである。「居場所」とは、その人間をとりまく安定した人間関係のことであり、その人間にとって「するべきこと」のある場所なのである。

 

 


終章

 

 

              本論分の目的は、「近代」という社会を「老い」という視点を通して批判的に再検討することであった。調査の結果、「近代」とは「生きがい」を求めなければならない人間を大量に生み出してしまった社会なのではないか、との結論に達した。

 

              本論文では、まず「資本制」という理論的枠ぐみから、「近代」の「老い」を、労働の質が変化することによって(家内労働から賃金労働になることによって)、労働者がある年齢に達するとみずからの労働の買い手を失い、その結果「働けなくなること」である、と定義した。戦後の日本社会においてこの「老い」は、移行期世代という莫大な人口によって大衆化された構造となった。産業構造の急速な変化により雇用者比率が上昇し、さらに定年制度が普及した結果、80年代後半から「定年」という「老い」を迎える人間が増大したのだ。21世紀を迎えようとしている今、まさに「老い」に直面しなければならない人間が急増している。

 

              実際に「定年」を迎えた多くの高齢者は、みずからの労働によって手に入れた「ゆとりある老後」のただなかで、「生きがい」ということを考えざるを得なかった。福祉・労働政策としてのシルバー人材センターが、現実には主に「生きがい」対策として機能していること。朝日新聞の「生きがい」記事が経済成長とともに増加し、その多くが「老人」の「生きがい」を問うていること。これらの事実が、少なからず高齢者が「生きがい」という問題に直面していることを証明している。

 

              「定年」引退後の高齢者は、「居場所」を失う。労働力再生産のための場であった「家庭」は、彼らが余生を遅れる「居場所」ではない。地方から上京して就職した世代には、定年後の彼らを受け入れてくれる地域社会もない。もはや働かなくとも手に入る年金、保障されている生活。理想とされていた「ゆとりある老後」は現実のものとなったにもかかわらず、彼らは「居場所」や「生きがい」を探し求めなければ長すぎる老後を生きられないのだ。おそらく彼らは、「生きがい」ということばを通して、自分を必要としてくれる人間や、自分のなすべきことを探している。

 

              しかし、「老い」は<彼ら>の問題ではない。

 

近代化(資本制の成立=市場経済の成立)と、それに伴う生活や役割分担、ライフサイクルの変化。その結果生み出されたのが、「働くこと」を中心にして形成された制度や価値観によって支えられる「近代」という社会であった。それゆえ「近代」は、働かない人間、働くことのできない人間を「問題」の対象としてきた。「老人問題」も、その典型であると言える。いわゆる市場の中心から周辺へと追いやられている「老人」、または「女性」や「障害者」。彼らは「問題」の対象であり、「生きがい」を付与される対象である。「働くこと」が中心に据えられてしまった結果、働かない人間や働けない人間が、「働くこと」以外の選択肢を選ぶことは非常に困難な状況になってしまった。働かないでいるためには、「生きがい」を求めなくてはならない。

 

市場は、経済発展に伴って、それまで「外部」だったものを順次「内部化」していく。たとえば「女性問題」に関しては、日本でもこれまでに男女の平等を図るためのさまざまな措置がなされてきた。たしかに、女性にとって「生き方」の選択肢が増えることは望ましい。しかし男女平等を達成していくことは、「問題」を解決しているように見えて、実は「問題」の陰にひそんでいるもっと根幹的な<問題>から目をそらしがちだ。そのもっと根幹的な<問題>に再び別の角度から手をのばすために、「老い」について考えた。女性が市場の中心への道を手にしたとしても(「女性問題」がなくなっても)、<問題>は解決しない。なぜなら、市場の「外部」は決してなくならないからだ。そしてその「外部」が、世界システムの周辺や在日外国人労働者にとっての「問題」としてだけ残されているのではなく、実は市場の中心にいる人間一人一人の生涯の中にあるのだということを、「老い」はわたし達におしえてくれる。市場の中心にいる人間はこれまで、老人を「問題」の対象として見てきた。しかし、「老い」は<彼ら>の問題ではなく、つねに<わたしたち>の問題なのである。

 

 


参考文献

 

『近代家族の成立と終焉』

上野千鶴子

1994

岩波書店

21世紀家族へ』

落合恵美子

1994

有斐閣

『家父長制と資本制』

上野千鶴子

1990

岩波書店

『経済学・哲学草稿』

マルクス

1964

岩波書店

『資本論の世界』

内田義彦

1966

岩波書店

『フィールドワーク』

佐藤郁哉

1992

新曜社

『社会調査の基礎』

岩永雅也 大塚雄作 高橋一男 編

1996

放送大学教育振興会

『社会学小辞典』[新版]

濱嶋朗 竹内郁郎 石川晃弘 編

1997

有斐閣

20世紀の日本6 高度成長』

吉川洋

1997

読売新聞社

『日本老人福祉史』

百瀬孝

1997

中央法規

現代のエスプリ『現代の生きがい』

 

1990

至文堂

『定年からの家族元年』

加藤仁

1996

文芸春秋

『妻たちの思秋期』

斎藤茂男

1994

講談社

『労働白書』

 

 

 

『厚生白書』

 

 

 

『国民生活白書』

 

 

 

『雇用管理調査』

 

 

 

『労働基本調査』

 

 

 

『高齢者就業の実態』

 

 

 

 

 

 



[1] 21世紀家族へ』 落合恵美子

[2] 『近代家族の成立と終焉』 上野千鶴子

[3] グラフは『数字でみる日本の100年』をもとに作成

[4] 同上

[5] 就業者数は、労働力人口から完全失業者数を引いたものです。

[6] グラフは『労働白書』をもとに作成したものです。

[7] 厳密には、各世代の呼び名と年代が一致していないところもありますが、統計の便宜上このような区別にしました。

[8] 団塊世代が就業年齢に達する1975年の時点で、団塊世代の雇用者比率は8割を超えます。

[9] グラフは『労働力調査』をもとに作成。

[10] グラフは『雇用管理調査』をもとに作成。

[11] 同上

[12] 「高年齢者の雇用の安定等に関する法律」1986

[13] 「高年齢者の雇用の安定等に関する法律」1986

[14] 『雇用管理調査』より引用

[15] 『高齢生活白書』より引用

[16] 『高度成長』吉川洋

[17] グラフは『国民生活白書』をもとに作成。

[18] 社会保障給付費とは、「社会保険や社会福祉等の社会保障制度を通じて、1年間に国民に給付される金銭またはサービスの合計額」のことです。(『厚生白書』)

[19] 『高齢化社会に生きる』1ページ

[20] このケースについて東京都高齢者事業振興財団の職員にインタビューした際、「問題なのは、会員が他の職員(当然そこの企業の雇用者)と同じ仕事をしていたということなんです。」と説明してくれた。彼の主張はわかるが、やはり本質的な問題は違うところにあるとわたしは考える。

[21] グラフは、朝日新聞のCD-ROMデータベースをもとに作成。

[22] 円山さんは、センターの会員ではなく、センターに直に雇われた形を取っている。