修士論文 2000年度(平成12年度)

 

戦後労働諸立法にみる女性の位置

労働基準法・3つの雇用機会均等法における男女平等論議を中心に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科

山越峰一郎

 

 

 

 


 

修士論文要旨 2000年度(平成12年度)

 

戦後労働諸立法にみる女性の位置

労働基準法・3つの雇用機会均等法における男女平等論議を中心に

 

 

論文要旨

戦後、憲法第14条に象徴されるように、法の下に男女は「平等」になったはずであった。戦後改革の一環として、かなりの程度「理想」的な、労働基準法も制定された。しかし現在に至っても賃金格差が大きいことなどから、事実としては「平等」になっていないという声が多い。そこで本研究では、戦後の労働政策において「平等」とは何であり、いかに実現されるものであるとされたのかを描く。

このことは、雇用機会均等法の改正により導入されたポジティブ・アクションを考える上でも重要である。ポジティブ・アクションは「平等」どころか逆差別という意見もある。ではそもそも「平等」とは何であるとされてきたのか、を考えることでこの問題へのアプローチの参考となるだろう。

本研究においては、国会での法案審議を中心に労働省や経営者団体の発行する資料を主な対象として分析している(「公」の発言)。このことにより、法律の条文上には表われない「男女平等」に関する為政者・経営者の認識を具体的に明示できると考えている。これは決してその他の主体の重要性を軽視しているからではなく、「差別している」と批判されている側(政府・企業)の認識を探るためである。

労働基準法第4条にしても、女性差別撤廃条約署名にしても明確な理念の下に行われたわけではなかった。雇用機会均等法改正もそうだが、政治的な妥協の産物であることが多い。その場しのぎの対応の積み重ねが、現在の労働法制を形作っている。そして、法律の理解の仕方は、つねに後ろ向きなものであった。1980年代までは「平等」は現実的なものではなく、その後も実現に至るための政策に欠けることになる。

 

キーワード

1、平等 2、雇用機会均等法 3、同一労働同一賃金 4、ポジティブ・アクション

5、正義

 

慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科

山越峰一郎

 


 

Abstract of Master’s Thesis Academic Year 2000

 

Women’s Position in Postwar Labor Laws

: Gender Equality in the Labor Standard Law and Three Equal Employment Opportunity Laws

 

 

Summary

After the war, women and men has become “equal” before the law, typically in article 14 of the Constitution. The Diet enacted the Labor Standard Law almost “ideal” under postwar social reforms. However people say labor laws do not make us de facto “equal” because there is a big differential between wages for women and men. This study follows what was considered to be “equal” in postwar labor policies, and how it was thought to be achieved.

It is also important indexamining affirmative action which is introduced into amended equal employment opportunity law. According to some people, affirmative action is far from “equality”, it is reverse discrimination. Therefore it should be instructive to examine what has been considered as "equal", in order to approach to this issue.

This study mainly analyzes “official” discours, deliberations in the Diet, papers of Ministry of Labor and the employers’ associations. It shows understandings of statesmen, bureaucrats, businesspersons about “gender equality”, which is not appeared in a law. It does not mean other actors are less important. This paper aims to sound actors which are said discriminatory.

As for article 4 of the Labor Standard Law or the Convention on the All Forms of Discrimination against Women, the Government did not have any principles. Neither for the equal employment opportunity law. They were political compromise. Present labor laws are made up for ad hoc measures. The interpretations of the laws are always restricted. “Equality” is not practical until 1980s. “Equality” was not thought to be practical.

 

Key Word

1, equality  2, the Equal Employment Opportunity Law  3, equal pay for equal work 

4, affirmative action  5, justice

 

Keio University Graduate School of Media and Governance

Mineichiro YAMAKOSHI

 


 

 

序章... 6

先行研究... 6

女性労働の変化... 7

問いの設定... 7

1部 労働保護の時代

1.        戦後改革の波の中で... 10

東から降ってきた「平等」―――同一労働同一賃金原則... 10

女性の「特性」への配慮―――生理休暇... 11

新しい時代という名の現実―――労務法制審議会での論議... 12

古い皮袋に入った新しい酒―――帝国議会での審議... 14

男女普通選挙を経て――衆議院での審議... 14

占領下での「自由」な審議――衆議院労働基準法案委員会... 15

経営者兼華族への啓蒙――貴族院での審議... 17

女性解放運動家の登板―――労働省の設置... 18

骨抜きのはじまり――労働基準法改正の動き... 19

敗戦国の現実―――労働環境... 19

活発だった活動――労働組合... 20

女工哀史の残滓... 21

内職よりはマシ――パート労働... 22

産休を確実に取れるように――産休補助教員法... 22

小括... 22

2.        高度経済成長期... 24

人権宣言を記念して―――同一労働同一賃金条約... 24

「教員は人手不足だから」―――女子教員等育児休業法... 26

「ウーマン・パワー」の活用―――勤労婦人福祉法... 26

「女性は男性と違って家事もしなければ」... 27

努力義務規定の効果... 28

小括... 29

2部 「保護か平等か」の時代

3.        国連婦人の10年... 31

「女性保護規定は過保護だ」―――過保護論の台頭... 31

同一賃金の分類は保護から「平等」に――変化の兆し... 32

「補助なんだから長くはいらない」――若年定年制をめぐる裁判... 32

ドサクサ紛れの閣議決定―――女性差別撤廃条約の署名... 34

「雇用平等法をつくろう」... 35

ガラス細工の均等法案――法案作成... 36

男と同じになんて、「これは革命だ」――財界の反応... 37

家庭重視の「平等」―――国会での審議... 38

「現実」的な機会均等――保護規定の緩和... 39

「それでも批准はできる」――努力義務規定の効果... 40

新しい皮袋に入った古い酒――議員の女性観... 41

「内助の功」への配慮... 42

「もう障害はない」―――女性差別撤廃条約の批准... 43

小括... 43

4.        均等法の施行以後... 47

「過去の男女別扱いは公序良俗に反しない」―――裁判に与えた影響... 47

1.57ショック... 48

「少子化に歯止めを」――育児休業法... 48

男女の家族的責任... 49

日本的福祉の末路――介護休業法... 49

ひそかなラディカルさ、欠ける実効性―――雇用機会均等法の改正... 50

最後のカード... 50

立ち表われた変化... 51

「男女同一の基盤に」――女性保護規定の撤廃... 51

「意欲と能力に応じて」――女性の位置... 53

自主的で「積極的」な是正策... 53

「開かずの扉」――実行機関... 54

変わったもの、変わらないもの―――施行後... 54

小括... 55

結論... 57

「機会の平等」と「結果の平等」... 57

会社共同体の自主性... 58

これからがはじまり... 58

資料... 60

参考文献... 66

 

 

 


序章

 

 

(同一価値労働同一賃金の原則)

第4条       使用者は同一価値労働に対しては男女同額の賃金を支払わなければならない

 

 労働基準法第4条が、草案の段階では現在とは違い同一価値労働同一賃金の原則をうたっていたことは知られている。しかし、この条項の解釈は決して男女の同じ扱いを志向してはいなかった。

 

男と女とではどうしても違ひます。同じ価値ではありませんから、一つの旗印と考へて、さう神経質に考へなくてもいいのぢやないかと思ひます[1]

 

草案の審議において公益委員の北岡寿逸はこのように解説し、厚生省(労働省はまだない)労政局長の吉武恵市は事実上容認した。すでに男女が違うことが前提とされ、それの改善には消極的であった。

 では、戦後日本の労働立法においては何の「平等」が目指され、それはいかなる要因が背景にあったのか。これが本研究で問いたい主題である。

 

先行研究

 

 その前に、確認しておきたい。

 姫岡とし子によれば、「保護されるべき女性」との認識は1911年の工場法制定当時すでに形成されていたものであった。それは「男性は仕事、女性は家庭」という近代啓蒙的な良妻賢母思想と密接にかかわっていた。だが「女性は保護されるべき存在」との考えは、所与のものであったわけではなく、工場法制定時に明確に男女が差異化されていったという。政府は欧米の保護法規を参考にし、女性は体力が劣ることへの配慮、家庭責任を負うことへの配慮、風紀への配慮から「女工の保護」が必要とした。同時に、女性は子供を産むので、その身体を国家が管理する必要性が言われた。それは1890年代の終わりにはまだ浸透していなかったものだという。1900年頃でも、女性を年少者と同一の分類にすることへの反対があり、政府は「科学」的に女性は弱者で保護が必要であることを根拠づけた。そして、1日11時間労働、深夜業禁止、休日は月2日と定められる。ただしそれは、富国強兵のためのものであった[2]

 また、事務職において「女性」がカテゴリーとして確立してゆくのは、金野美奈子によると、第1次世界大戦後だという。1900年頃から、女性が職場にいることが良妻賢母思想の上から「問題」とされるようになってきた。だが、男性の流動性も高く、また徴兵されることもあり、妊娠して休むことはさほど女性が劣る理由ではなかった。1936年の退職積立金法で結婚退職を優遇する案に、経営者団体は反対していた。第2次世界大戦中には、徴兵や男性の就業を一部禁止したこともあり事務職の過半数は女性となった。しかし、「女性もできるように」仕事を簡素化し、実際には難しくとも女性がやると「あの仕事は簡単」と言われるようになった。そのため「進出」の影響はきわめて限定的であった。また、国策として、「女性性」と労働の両立のための女性の保護・育成も行なわれた。その後、1970年代までには男性内部の身分差が解消され、「判断事務」に対する「作業事務」担当としての「女性」カテゴリーが構造化された。例えば「お茶くみ」は、戦前は給仕(女性もいたが)の仕事であり、「女性」特有の仕事ではなかった。そのような中で、大卒女性は「大学卒(男性)」や「女性」とも区別され、仕事がなかった[3]

 戦後、男性内の雇員(ホワイト・カラー)・工員(ブルー・カラー)の身分差は解消されていったが、男女差が構造化された後に、「平等」がいかなるものであったのだろうか。

 学説上、「平等」とは、まず差別されないこととして理解されている。不利益において差別されないことのみならず、合理的理由なく一部の者を優遇することも差別とされる。日本では、この「形式的平等」をもって「機会の平等」とすることが多い。それ以上の、「事実上の平等」は自由に抵触する「結果の平等」とみなされている。そしてそれは、レースで同時にゴールするような、「悪平等」として忌避される。

 その上で、「合理的理由」とは何かが憲法学者によって議論されてきた。「男女平等」についても、男女の「絶対的平等」ではなく、男女の差異に応じた「相対的平等」を指すのが通説である。裁判所も同様の見解を採用している。そして、その合理性の判断基準は社会通念によるとされ、労働法においても、女性保護規定は「平等」に反しないとの立場がかつては通説であった。民主主義の理念と合致していることも学説上要請された。その合理性の中身は確定されず、どのように認定するかを議論してきた。そのため、アメリカの判例にある、「厳格審査基準」「中間審査基準」などの紹介も積極的に行なわれてきた。「厳格審査基準」は人種問題に適用され、人種に基づく区分は原則として違憲とされている。女性問題には「中間審査基準」が適用されることが多く、性別による区分が必ずしも違憲とはされない。法の利益と手段が合致すれば、性別による区分は合憲とされる。実際には、生物学的性差に基づく男女の取り扱いの差は認められている。一方、例外として、差別解消のための暫定的措置は差別とされないことになっている。

労働基準法に即して言えば、妊産婦保護は自然的相違に基づくので合憲との立場がほとんどである。女性の時間外労働規制等に関しても、日本の労働環境・労働条件は欧米に比べて低いこともあり、1980年代半ばまでは、維持すべきだとする学説が多かった[4]

 

女性労働の変化

 

 女性の労働形態は、戦後大きく変わってきた。まず、女性の就業者は1955年まで農業従事者が過半数を占めていた。そのこともあり、男性とは異なり家族従業者が多かった。ここには、自営業主の夫とともに小さな商店で働くといったものも含まれている。ただし、これらは労働法が対象としないものであり、本研究でも扱われない。また、家事労働も対象としない。

 女性の労働力率は戦後一貫して40%前後で推移するのだが、家族従業の減少とともに雇用者が増え、雇用者中の女性割合は当初25%ほどであったのが現在は40%ほどになっている。

 男女の賃金格差は、1950年頃は女性が男性の40%ほどであったが、現在は60%ほどに増えてきている。しかし、これは正規雇用者に限った場合のことである。現在女性雇用者の3分の1を占めるパートタイムなどを含んだ場合、1980年代以降に賃金格差が増大しており、50%ほどとなっている。

 年齢層も、かつては結婚・出産期に退職するため30歳台以降の就業率は低かったが、1960年代以降、育児終了後に再就職する女性が増え、M字型就業が明確になってきた。また最近では、育児休業に賃金補償がついたこともあり、妊娠・出産によって退職する女性は20%ほどに減っている。(1965年〜1975年頃が最も多く50%弱であった。)

 

問いの設定

 

 「平等」とは差別なく待遇することと一般にみなされている。だが、差別認識には、いくつかの段階がある。第1段階は、女性は劣るからという理由で女性が雇用しないといった、あからさまで意図的な差別。これは誰もが差別だと認識できる。第2段階は、善意から出たものであっても、あるグループの人々を他のグループの人々と区別して扱うこと。結局、固定観念などに基づくもので差別だとされるようになる。第3段階は、中立的な基準を用いることが、実質的には女性に差別をもたらすことが認識される段階。過去にあからさまな差別があったことにより、女性が現在差別的位置にあるならば、中立的な基準は差別を解消しないばかりか逆に差別を再生産するようになる[5]

 それを受け、アメリカでは1965年に大統領令として公共事業を行なう企業にポジティブ・アクションが課されることになった。そしてこのポジティブ・アクションは、日本でも雇用機会均等法の改正にあたり、導入された。

 しかし、アメリカではその後ポジティブ・アクションの中でも「クォータ制(割り当て制)は逆差別だ」との裁判がいくつも起こされた。日本でも本格的にポジティブ・アクションを導入することになれば、「平等」をめぐり同様の事例が出てくるかもしれない。では、日本において「平等」とはなんであったのだろうか。

 そこで本研究では、戦後の労働政策において「平等」とは何であり、いかに実現されるものであるとされたのかが1つ目の問いである。そしてそれはいかなる背景があったのか、これが2つ目の問いである。

 戦後、日本国憲法第14条に象徴されるように、法の下に男女は「平等」になったはずであった。戦後改革の一環として、かなりの程度「理想的」な労働基準法も制定された。近代化により、属性によって一生が決まることはなくなり、差別はなくなるはずであった。しかし、現在に至っても男女の賃金格差が大きいなど「平等」にはなっていないという声が大きい。しかし、労働基準法だけではなく、勤労婦人福祉法(1972年)・雇用機会均等法(1984・85年)・改正雇用機会均等法(1997年)と、女性労働者を対象にした法律はいくつも審議されてきた。そのたびごとに何かが目指されてきたはずである。また、そのたびごとにこの法律では「男女平等」の役には立たないとの批判もでている。そこでは、法律上「平等」とは何であるとされたのだろうか。事実としての「平等」はどう意識されたのだろうかか。これを確認したい。

 「平等」にすべき、とは異なるものの間で言われるものであり、何を「平等」に分けあうのかが問われる。批判の多かった、「平等」ために保護を外すという雇用機会均等法時の政府の対応も、同一水準まで「国家の介入を減らす」という意味において「平等」である。自由が「平等」に与えられることを目指していたとも言える。女性は劣っているから「平等」でなくてよい、と明言していたわけではない。

つまり「平等」とは記述的なものではなく規範的なものである。人は、性別のみならず、年齢・出身地・国籍・階層・家庭環境・能力などにおいて多様である。すべてを考慮すると混乱を生むので、何らかの選択が必要となる。対象も、所得・機会・成果・自由・権利などの変数がある。そして、いずれかの変数の「平等」を志向することは、別の変数における「不平等」を伴うことになる。権利における「平等」は、所得における「不平等」を含意するかもしれない。同じだけ権利を持っていても、出産のために休まなければならない女性は、そのような負担のない男性に比べて、労働における達成度は低くなり、所得に差が出るであろう。

あらかじめ述べておけば、実際の「平等」政策はその折衷であり、漸進的なものであった。

また本研究では、「女性」がいかに位置づけられてきたかも概観する。「女性」が「男性」と別に分類されるからこそ、その「平等」が問題となるからである。

具体的な調査対象としては、国会での法律審議を中心に労働省や経営者団体の発行する資料を分析する(「公」の発言)。このことにより、法律の条文上には表われない「男女平等」に関する為政者・経営者の認識を具体的に提示できると考えている。これは「現実」に影響を与え得るものであるという意味もある。そのため、学説は実際の政策にはあまり影響を与えていないので参照のみに限定する。労働団体・女性団体の主張・行動もそれぞれが独自に「運動史」などをまとめていることもあり同様の扱いとする。これは決してその重要性を軽視しているからではなく、「差別している」と批判されている側(政府・企業)の認識を探るためである。

戦後を一括して扱うと、自らの仮説に都合のよい部分だけを使用して物語を構築する危険性はある。しかし個別の法律や事件のみを精緻に検証するだけでは、戦後を1つの潮流としてどう変化し、変化しなかったのかを見ることができない。

その意味で、本研究は戦後「平等」がいかに選択されたのかの事例研究と言えよう。ただしそれは、政策過程論としてではなく、むしろ思想史の1事例として、と言ったほうが近いかもしれない。

 資料の引用においては適宜、漢字・仮名遣い・数字の表記を改めた。引用中の略は「…」で、改行は「/」で示している。

 

 

 


 


1部 労働保護の時代

 

 

1.       戦後改革の波の中で

 

 

 戦争に敗れGHQの占領下におかれるに至り、労働行政も、財閥解体や農地改革とともに戦後改革の一環として変革していくことになる。戦前から、欧米は日本の低賃金労働をソーシャル・ダンピングとして非難していた。連合国軍最高司令官のマッカーサーが幣原首相に指示した5大改革の中で「労働者を搾取と酷使から防衛すること」としていたため、労働組合の育成と、大日本産業報国会の解体が目指され、労働立法においてまず行なわれたことは旧労働組合法の制定であった。これは、憲法改正、婦人参政権同様、1945年10月11日のマッカーサー指令を受けてなされた。また、工場法戦時特例などが廃止され、総力戦体制下で停止されていた工場法などの労働保護法規が復活した。

産業報国会の解散事務は1946年2月に終了し、4月12日には「労働保護法草案」(当初はこの名称)第1次案が厚生省労政局労働保護課[6](労働管理課より改称)によって作成された。第4次案が作成される少し前には第1次吉田内閣が発足し、厚生大臣の河合良成は閣議において「敗戦国日本が再び世界に仲間入りをするためには、少なくとも戦前のようであってはならず、新労働保護立法は困難を冒しても国際労働条約の水準でゆくべきである」と説明をし、了承を得たとされている。そのことで、労働保護課にとっては「その後の作業に目標も定まり非常にやりやすくなった」という。そして、新しい憲法草案には労働基準に関しては法律で定めるという記載があり、労働関係調整法(1946年6月26日制定)の附帯決議においても、次は労働条件に関する法律を定めるべきだとされていた。これらにより「次は労働保護法だ」という気運が高まっていた。

草案作成はGHQの指示を受ける以前から、当時労働行政を担当していた厚生省労働保護課内で検討が進められていた。官僚たちは、その内容は戦前のような方向ではすまないと考えていた。GHQに女性労働者が炭鉱で全裸に近い姿で働いている写真をつきつけてられ「日本は野蛮国だ」「みっともない」と詰問されたことにより、猶予期間を設けた後に女性の坑内労働を禁止していたことが背景にあった。また厚生省内には、草案作成の参考とされたイギリス工場法、フランス労働法典、アメリカ公正労働基準法、ドイツ労働法、ソ連労働法などの翻訳がすでにあった。4月にはGHQの依頼があり草案を提出していたが、GHQとの初の懇談は「労働保護法草案」第3次案がつくられた後であった。第3条の均等待遇条項はすでにあり「過去に朝鮮人労働者に対して行なわれた差別を除去するための規定である」とGHQに説明していた。生理休暇の規定に関しては、労働組合の要求にもあり頭を悩ませているが、一部の生理に有害な業務に付与を義務づけた、としている。労働保護課課長の寺本広作は後に、あまり指示はされなかったと述べている。

 

東から降ってきた「平等」―――同一労働同一賃金原則

 

現在の第4条にある同一労働同一賃金原則はまだこの時点ではなかった。

 草案の検討は、厚生省労働保護課とGHQの間でのやりとりはあったものの、一般には知られることなく進められていた。しかし、労働関係調整法より労働保護法を先にせよという労働組合の主張に合わせるかのように、7月10日に極東委員会第9回対日理事会において、デレヴィヤンコ・ソヴィエト連邦代表が「現行日本労働法規に関する22の改正項目」を発表した。そこには日本の労働立法の方向性、内容に関しての詳しい勧告がなされており、労働保護法に関するものも17項目含まれていた。GHQはすぐにそれに反論し、数日後には声明も出し、ソヴィエトの提案はすでにあるか、草案に含まれているとした。

 そして、そのデレヴィヤンコ提案において初めて同一労働同一賃金原則を見ることができる。

 

3、技能の等しい女子ならびに男子に対してはその労働に対し同額の賃金を支払ふこと[7]

 

これに対しGHQは

 

7点=同等の技術を持つ男女には、同額の賃金を支払はるべし―現在この点に関しいかなる立法も存在しないが、それは多数労働協約中に含まれてゐる、労働保護法も本件を包含するはずである[8]

 

とし、その他新しいところはないと反論した。しかし、これ以前に作成されていた第4次案にこのような規定はなかった。しかもGHQの反論は、障害補償の日数、時間外割増賃金の割合においても、第4次案にあるものとは食い違っていた。おそらくソヴィエトへの対抗上、このような反論がなされたのであろう[9]。ともかく、この件によって労働保護法の作成作業が広く知られることになり、河合厚相も議会において、労働保護法を早期に制定すると発言した。そしてGHQの後ろ盾も得たため、労働保護法の策定は政府全体にとっての課題との認識も生まれた。

 同一賃金原則としての労働基準法第4条は第5次案(7月26日)で初めて登場する。

 

(同一価値労働同一賃金の原則)

第4条       使用者は同一価値労働に対しては男女同額の賃金を支払わなければならない

 

その文面は現在とは異なり、同一価値労働男女同一賃金の規定であった。これは、デレヴィヤンコ提案に「技能の等しい」とあるのを受けたものであろう。

同一労働同一賃金について、ある大蔵官僚は、「『同一労働同一賃金』は、『生活賃金』と同じく、今日に於いては、民衆の耳に充分に馴染んだ言葉にはなつてゐるが、以上のやうに、その具体的な意義の確定という点については、全くの処女地といつてよい状態である」[10]とした上で、

 

ここにいふ「同一労働」といふのは、例へば、同一産業部内の同一職業に於て、完全に同じであると認められる労働(例へば、男女の電車車掌)のみを指すのではなく、更に範囲を広げ、産業部門なり職業なりを異にして居つても、その労働が類似及至は関係(接近)して居り、且、その労働のために要する努力なり、それから受ける心身上の苦痛(負担)なりが、先づ、同等と思はれる場合をも含む、と解せられるのが、通例であるといふことである。

例へば、同じ裁縫業に従事するもののうち、男子服を扱ふもの(男子)と婦人服を扱ふもの(女子)との間、家庭の日雇婦と道路掃除婦との間、看護婦と男子看護人との間、運転手と車掌、自動車製造業について異なつた部分品を扱ふものの間等等が、その一例である。これ等の労働者は、厳格な意味で、「同一労働」に従事しては居らないが、社会通念からいへば、その労働は、先づ「同等」と認められるので、これに対しては、職業の差異、男女の別を問はず、同一の賃金を与うべしとせられるわけである[11]

 

と現在コンパラティブ・ワースと呼ばれているものに近い見解を示していた。ただし、このような判断を行なえば、問題が紛糾するだろうとも付け加えている。労働組合もスローガンに掲げており、確かにこの言葉は知られてはいた。

労働基準法第4条は、その後少しずつ後退していく。すでに第5次案の修正案では「価値」の文字を削ろうとしている[12]。そして、この「価値」という言葉はこの後多くの疑問を投げかけられることになる。後に見てゆくように、女性を男性と同じ扱いにすることは現実的なものだとは考えられていなかった。

 

女性の「特性」への配慮―――生理休暇

 

生理休暇は労働基準法の中で、企業からの評判が最も悪かったものであるが、これは戦時中に学徒動員する際の女子挺身隊受入側措置要綱[13]に規定されたのが初めてであった。工場法においても女性は守られるべきものであるとされていた上、若い女子学生を劣悪な条件で働かせる際の方便として考え出されたものである。そして、女性の坑内労働禁止を1946年3月に定めたときに、女性労働者保護の1つとして「猶予期間中は坑内女子労働者に生理休暇を保障する」という規定も入れられていた。GHQ内で、即禁止を主張する労働課と経済復興を優先すべきだとする天然資源課との間で対立があり、11ヶ月の猶予期間をもって禁止するという妥協案の一環でもあった。また、生理休暇は労働組合も強く要求していた。そのため4月11日付「労働保護法作成要領」にはすでに「生理休暇及賃金補償」の文字が見られる。

しかし、労働基準法にこの規定を入れるに際してGHQは、

 

いや、アメリカにはこんな法律はありません。むしろスタンダー女史は「こうい  うのをあんまり使うと女子の条件が悪くなるかもしれない。だから私は本当は賛成しないんだけれども、日本人がほしいっていうんなら反対することはない」ということでした[14]

 

という反応であったと、当時労働保護課にいた谷野せつは述べている。

 生理休暇は、「労働基準法は行き過ぎ」であり経済復興の妨げとなることの代名詞とされ、企業の側からの非難が集中した。労働保護課内でも、これのために労働基準法全体が悪く言われるくらいであれば外すべきとの意見もあったが、吉武労政局長が諌めた。労務法制審議会においては、労働者代表の赤松恒子が強く主張したこともあり、削除されなかった。

 その他の女性保護規定は、公聴会において、自分の業界は例外にしてほしいという意見は多かったものの、ほとんど改変はなされなかった。法案自体に表立って反対することは、GHQに敵対するようなものだった。

 それ以外に深夜業禁止・時間外労働規制・坑内労働禁止・妊産婦の危険有害業務制限・産前産後休暇・育児時間・帰郷旅費が女性保護として規定された。これらは

 

この法律が女子の労働条件について特殊の規定を設けてゐるのは専ら女子の生理的特殊性に応ずるためのものであつて、かゝる特殊の規定があつてこそ女子は初めて法律的に男子と平等に取扱はれたものと言ふべく、この規定は正に憲法第14条の規定の趣旨を具体化したものである[15]

 

という理由から設けられたものであった。女性は年少者と同様、健康に対する特段の配慮がなければならなかった。またこの頃は、例えば重量物取り扱い制限も「子宮が下がり、妊娠に影響を及ぼす」との観点から母性保護とされていた。

 女性は劣るので、特別な配慮をする。女性は劣るので、男性と同じ扱いなど想像もできない。いずれも、男女それぞれの「特性」に応じた「平等」であるという点で矛盾はない。女性を男性並みにではなく「女性」として扱うことこそが、このときの「平等」であったのだ。

 

新しい時代という名の現実―――労務法制審議会での論議

 

 第5次案からは、厚生省内の労務法制審議会で論議が始まった。この審議会はメンバーは大きく変わっていたが、旧労働組合法、労働関係調整法の立法審議にも携わっていた。構成メンバーは、学識経験者、使用者代表、労働者代表、そして厚生省の幹部(事務次官、労政局長、労働保護課長など)であった。

 審議会(第1回総会、7月22日)は、厚生大臣の「さて皆様既に御存知の様に、「労働関係調整法」案に関する本審議会の総会や公聴会、各種の労働組合の会合、新聞等で、「労働者に人たるに値する生活を保障するに足る労働条件を定める法律を制定すべきである」と謂ふ事が、盛に論議され、又目下議会で審議中の憲法改正草案にも、『賃金、就業時間その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める』と規定されております」。

 

ところで、労働保護に関する既存の法規としては、工場法、鉱業法、労働者災害扶助法、商店法、工場労働者最低年齢法を始めいろいろの法律や規則がありますが、何れも終戦後の新たな情勢には即応しないやうに思われます

 

「政府と致しましては、このやうな事情を考慮に入れて、次の議会に新憲法附属法の1として、「労働保護に関する法律(仮称)」案を提出したい意向でありまして、その立案、審議方を御願ひするために、本日皆様の御参集を煩はした次第であります」[16]と、新時代を迎えたのでそれに合わせた法律が必要だ、とのあいさつにより始まった。

 最初の総会では、労働基準を標準とするのか最低基準とするのか、肉体労働のみに適用するのか頭脳労働も含めるのか、各種基準の決め方、監督機関の整備など、総論に終始した。

 具体的に条文に即した議論は小委員会において行なわれた。この小委員会では名称も「労働保護法」から「労働基準法」に変わった。慣例から「労働保護」としていたが、新憲法の理念に合わないと考え、「労働条件最低基準法」とすれば正確だが、わざわざ「最低」とするのもおかしいということで「労働基準法」となった。その際、寺本労働保護課長が「標準と誤解されるおそれがある」としたので、第1条第2項に「この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない」と付け加えられた。

4条に関しては「家族手当がなくなった場合男女の差別がなくなってもよいか」という意見が出されたものの、条文に特に変更はなされなかった。労働者代表から、性別だけではなく若年労働者を保護するために年齢も加えるべきだという意見が出た。しかしこれは「年齢の差別を認めないならば定期昇給の原則が行なわれないし現在日本の賃金制度を破壊する」として年功賃金制を理由に通らなかった。

 女性保護規定に関しては「深夜業を禁止すると就業機会の抑制にならないか」といった意見や「労働条件を高くしないと日本の民主化が信用されない」「生理休暇はもう1度研究」との意見があった。

 第2回総会に至り、小委員会を経ていたこともあり、具体的な条文にそった議論がなされている。第4条に関しても、使用者委員から「肉体労働において力の劣る女性にも同じ賃金を払うのであれば就業機会が減るのではないか」との疑問が出された。これに対し、公益委員の北岡寿逸は

 

私が答へるひつようもないのですが、私の顔を見てをられるから・・(笑声)この法律は一寸外国でも少数の人の言ふことで一般的に行なはれてゐませんですよ。私どもあまり感心しないのですけれども、国際労働条約にあるからといふわけで、できたわけですが、その条約だつて行なはれはしません。だからそんなに窮屈に、神経質にお考へにならなくてもよいのぢやないか。男と女とではどうしても違ひます。同じ価値ではありませんから、1つの旗印と考へて、さう神経質に考へなくてもいいのぢやないかと思ひます[17]

 

とし、労政局長の吉武も

 

これは従来のやうに、ただ女だからといふので当然に開きをつけることはいかんといふことです。ですから今お話のやうに実際の働きの分量が違へば、同一価値でないから、差のつくのは已むを得ない。同じ仕事を同じに持つて、同じに能率が上がりながら女だからといふので差をつけてをつたことは、これは従前非常にあることで、これはもういかんといふことです[18]

 

と答え、事実上、女性の待遇が低くなることが容認された。また「同一労働同一賃金であると家族手当は間違っていることになるが」との意見に吉武は、

 

それから男女同額の問題は、私もこれは実に困つてゐるのですが、これをあまり厳格に解釈されると、現在の賃金は実をいふと生活賃金形態で、アメリカのやうに能率賃金でないものですから、それで勢ひ男の方は家族の生活を含めて家族手当といふものはありますけれども、家族手当だけが家族をカヴァーしてゐるかといふと、さうではなくして、…やはり親爺の方の賃金のところに入つてゐる。ですからあまりやかましく言はれると困るので、…まあ女だからといつて当分低くしてはいかんぞ、といふくらゐに解釈して貰はなければならんかと思つてをります[19]

 

とあまりはっきりしない答弁を行なっている。GHQによるソヴィエト代表への反論もあり、大きな変更ができないことは了解されていた。そして、女性の価値は劣ることは当然の前提として、いかにそれに対処するのかを考え、このように解釈で乗り切ることになってゆく。同一賃金というのは現実的なものとは考えられていなかった。

9月に入り、公聴会が開催される。第4条に関しては、「同一労働価値とはいかなる意味か」「同一価値労働の判定は極めて困難である」といった解釈、定義、判定基準は何かという意見が多数出される。またこの条項が成立した場合、「職場より女子を締め出すごとき結果を生じる」「一応もっともと思われるが女子従業員は職場より排除せられる結果を招来するおそれがある」「本案の結果おのずと女子は淘汰されることにならざるを得ないと考えられる」「職場より女子を放逐する結果を見ることなしとしない」などの懸念が示された。女性は安いから雇われていたのであった。労働者代表からは「同一価値労働には年齢を入れたい」との意見、女性代表からは「男女同額になれば職場が狭くなる」との懸念も出された。

 また、第3条に関し、労働者代表や市川房枝ら女性代表から「均等待遇の中に性別を入れよ」という意見が出される。女性保護規定に関しては、生理休暇への反対は医師会が、個人の問題で人によってまちまちである、との立場であったぐらいで、反対はあまりなかった。時間外労働・深夜業規制は、「紙パルプにも除外例がほしい、工員が好む」「出札、改札、駅手を例外として追加したい」「女子や18歳未満は漁業の働き手の中心」「養蚕業は女工を回すときがある。例外とされたい」と自分の業界は例外として欲しいという意見が多く出る。ここでも、GHQの「お墨付き」があるために大きな変更ができないことは共通認識としてあり、その上でいかに規制から逃れるかの方策として「例外規定」が主張されていた。

また、同時期に各官庁からの意見も集めている。大蔵省から「第4条に特に男女同額とうたつてあるが男と男、女の〔と〕女との間は当然同額と心得べきことと思ふがどうか、又家族手当の如き給与は第4条違反となるが本法公布と同時に家族手当は廃止しなければならないか、現在官庁でやつてゐる臨時手当等の地域差の取扱も本法違反となる虞があるが如何」[20]との意見、鉱山局からの「生活賃金の原則と矛盾するものである」との意見などが出された。GHQは「基本能率給だけ同一であればよい」という姿勢であった。

 この時点までは労働保護課と審議会の間でのやりとりが主であったが、労務法制審議会の後半期になると、専門家のゴルダ・スタンダーが9月に来日したこともあり、逐一説明し、指示を受けていた。

 公聴会後、それらを受け、第7次案において第4条は以下のように変更された。

 

同一価値労働【男女】同一賃金の原則

第4条        使用者は同一価値労働に対しては男女同額の賃金を支払わなければならない女子であることを理由として賃金について男子と差別的取扱をしてはならない

 

まず、タイトルから「同一価値労働」という文字が削除され、「男女同一賃金の原則」となった。また、「同一価値労働に対しては男女同額の賃金を支払わなければならない」の代わりに、「女子であることを理由として賃金その他の労働条件について男子より不利な取扱をしてはならない」とされ、さらにこの部分は「賃金について男子と差別的取扱をしてはならない」と修正された。「同一価値」は定義が困難であるために避けられ、これまで労働保護課で理解されていたものに条文が合わされた。この時期、まだアメリカにもこの類の規定はなかった。また、賃金以外の労働条件は、労働基準法内に女性保護規定があるため、整合性の観点から組み入れられなかった。同様に3条にも「性」は入らなかった。

生理休暇は、いったん削除されたが、公益委員が「存続すべきだ」とし残されることになった。

この後、細かな変更を経て帝国議会へ送られる。

 

古い皮袋に入った新しい酒―――帝国議会での審議

 

男女普通選挙を経て――衆議院での審議

 帝国議会との名称とはいえ衆議院は戦後初の選挙、それも男女普通選挙にて選ばれた議員たちによる審議であったため、活発な議論が行なわれた。

 まず、河合厚相が衆議院本会議における提案理由の中で労働基準法の概要を説明している。

 

この法案の作成に当たり、特に政府が考慮いたしました事項の第1点は、労働条件の決定に関する基本原則を明らかにしたいということであります。すでに労働条件について、契約自由の原則を修正いたしまして、国家が基準を決定する以上、その基本原則がさだめらるべきは当然でありまするが、これを法律に明らかにすることによつて、労使双方にとつてその赴くべきところを示さんとするものであります。本法案第1条に、労働条件の原則として、労働条件は労働者が人たるに値する生活を営むための必要を満たすべきものとなることを規定し、以下労働憲章的な規定を設けてあるのは、かゝる趣旨に基くのであります。

2点は、労働関係に残存いたしまする封建的遺制を一層するということであります。労働契約締結の結果として、労働者、使用者の間において、使用という特別関係が設定せられるのは当然のことでありますが、かゝる特別関係は、やゝもすれば労働関係の当事者の間に、身分的な拘束関係を惹起しやすいのであります。いわゆる強制労働に類するがごとき極端な事例はしばらくおくといたしますも、長期労働契約、前借金、強制貯蓄、寄宿舎制度等の所産として現存しつゝある封建的な遺制は、労働条件の基準設定にあたつて、厳にこれを一掃すべきものと考えるのであります。

3点は、1919年以来の国際労働会議で最低基準として採択され、今日広くわが国においても理解されておる8時間労働制、週休制、年次有給制のごとき、基本的な制度を一応の基準として、この法律の最低労働基準を定めたことであります。戦前わが国の労働条件が、他の文明国に劣つていたことは、国際的に顕著な事実でありました。敗戦の結果荒廃に帰せるわが国の産業は、その負担力において著しく弱化しておることはいなめないのでありますが、政府としては、日本再建の重要なる役割を担当する勤労者に対して、国際的に是認されておる基本的な労働条件を保障し、もつて労働者の心からなる協力を期待し〔ま〕することが、日本産業復興と、国際社会への復帰を促進するゆえんであると信ずるものであります[21]

 

新時代の労働条件を国家が規定するとの宣言であった。すでに公布されていた新憲法第27条2項には「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」と規定されていた。そこで、封建制一掃、国際基準の採用という形で労働条件の基本原則を定めた、という。

それに対し日本進歩党(後に自由民主党を形成)の椎熊三郎は、全般には賛同しつつ、経済復興が優先であり中小企業への適用は難しい、最低賃金はインフレの激しい現状では難しい、とした上で、

 

4に、この法案の第4条には、男女同一賃金の原則を規定しているのであります。第6章には、女子の労働時間、深夜業の禁止、産前産後、保育時間、生理休暇等詳細に規定されておりますが、男女の同権、女子の生理的特質に基づく特別の権利が保障されておるということは、まことに画期的な法文でございます。しかしながらこれは今日の状態、不完全なる社会設備の前においてこのことをなしても、実行をあげることはできないと思う。たとえば女子が男子と同様なる完全労働、ほんとうに熱意を込めた労働をせんといたしましても、かくのごとき規定があつたといたしましても、社会設備において託児所の設備もなければ、あるいは保険制度も完備しておらぬという状態であるならば、この法文はむしろ女子の労働者をして、この法文なるがゆえに、かえつて苦痛の生活を味わしめるがごとき状態が醸されぬとも限らぬ。すなわち使用者は、かくのごとき条件下における女子の雇用ということを回避するの傾向に出るでございましよう。

(中略)

すなわち国家の手によつてかくのごとき社会情勢を整備する必要がある。休暇に対する手当等についても、社会保険等の裏づけなくしては――女子労働者に対するこのような特殊の社会設備の裏付けなくしては、労働能率を高揚することができないと私は思うのであります[22]

 

とし、国が社会保険・託児所等の労働環境を整備をしなければならないとする。

 協同民主党(後に自由民主党を形成)からは、労働関係調整法が優先され、労働基準法の提出が遅れたのは政府の怠慢ではないか、労働組合の経営参加が許されるべきではないか、最低賃金に物価スライド制を採用すべきであるとの質疑がなされた。経営参加は「むしろある意味においては非常に歓迎している」との回答が厚生大臣からなされた。敗戦による激しいインフレの中、資材の値上がりを待つために生産をストップする経営者がいた。そのため労働組合が自主的に生産管理を行なう動きがあった。

 国民協同党(後に自由民主党を形成)からは、第4条は同一価値労働同一賃金の原則であるか、また、官庁が自ら率先して「現にアメリカにおいて実施されつゝある、職階制度による同一責任同一賃金の制度を採用なさる御意志はあるか」承りたい、との質疑があった。厚生大臣は「至極御同感でありますが、だんだんこの日本の現状はそういう方向に向かいつつあると私も考えております」と明言を避けた。公務員が男女同一賃金になるのはもう少し先のことである。

 占領下でもあり、戦後改革の波の中にもあり、後に自由民主党を形成する人々も労働基準法の方向性に賛同はしていた。

 

占領下での「自由」な審議――衆議院労働基準法案委員会

 本格的な審議は労働基準法案委員会でなされた。冒頭で河合は「均等待遇、男女同一賃金の原則においては新憲法の揚ぐる平等の理想を労働法の分野において具現することを企図」[23]している、女性と年少者の保護は「社会主義に立脚せる民主国家の当然の責務であります」と述べている。労使の自主性によるのではなく、国家の介入が当然とされた。

 第4条に関しては国民協同党の石田一松が

 

同じ時間労働して、男子の方がまず1の仕事をした場合、女子の方は体力の相違で8分の仕事しかできなかつた。こういう場合にでも、これは女であるからというような理由で、この賃金について男子と差別的取扱いをしてはいけないのかどうか。この同一価値に対する同一賃金という原則がこの中に含まれておるのかどうか[24]

 

との確認をし、もしその点が含まれていないとすると、「今後使用者はあらゆる口実を設けて、女子の労働者の雇用にあたりまして、これを拒否する」だろうし、現在雇用している女性も解雇するのでは、との疑問を呈している。これに対し政府は、吉武労政局長が

 

4条は女子の同一価値労働に対して同一賃金を払うという原則を決めたものであります。従いましてご指摘になつたように、ある仕事をやるのに男子は100の仕事をやる、女子は80の仕事しかやれないというならば、それは同一価値ではございませんから、おのずからそこに差があるのはやむをえないと思います。ただ従来往々にして、男子であつても女子であつても同じ仕事をしておりながら、ただ女子であるというだけでその子に差を設けておりましたので…事実差があるにもかかわらず、男子と女子と同じということになれば、それは逆作用と言いますか、逆選択をいたしまして、それだつたら女子は雇はないということになつて、かえつて女子の保護にならないという場合も想像されるのであります[25]

 

と女性の仕事の成果が低ければ賃金が少ないのはよいとした。このことは後々、女性の労働は劣るので男性と同額を払わなくてもよい、というよりも、実際の成果はどうあれ男女同額でなくともよい、と考えられることにつながってゆく。第4条は同一労働同一賃金の原則であるとされたものの、女性労働は劣っているという前提の下、男女の賃金格差を縮小するための規定ではなかった。しかし、この時は男女の労働が同一の価値を持ち得るとは考えられていなくとも、規定した以上、後々、特に裁判によって男女の賃金差が否定されることになる。

日本社会党の土井直作から、企業の搾取手段として賃金が本給よりも家族手当・通勤手当が多くなる場合がしばしばあり、こうしたものによってかろうじて生活を営むことができる状態になっている。これをなくして基本給に入れるべきではないかとの考えに対し、河合厚相は、

 

御説の通りにだんだん基本給の面を大きくして、家族手当その他を減らすことはいいと思つております。思つておりまするけれども、御承知のこの物価騰貴の現勢からいたしまして、生活が非常な変動を受けて来たものですから、給与が能率給というよりも、生活給の面に非常に重点がかかつて来たというような実情でありまして、家族手当についても、何とかよい方法はないかということも考慮してみましたが、これも事実上困難で、実は当惑しておる次第であります。将来の方針といたしましては、今御説のような面に向かつて進むべきものだということは、御同感でございます[26]

 

と、今後の期待を述べるのみで、現状でどのようにすべきかは明確にならなかった。

同じく社会党の山崎道子からは、「世の中では、女だという蔑視がありますので、初めから女の仕事ということで軽く扱つておる」、繊維産業に働いている女性は男性と比較してどの程度に考える予定なのかとの質問がなされる。これは現在言われるところのコンパラティブ・ワースに通じるものだろう。吉武は

 

女子のやる産業と男子のやる産業といゝますか、部面が全然違つておるものにつきましての比較は、これはなかなか難しいと思います。同じ仕事を男と女がやつておれば、これは能率も表にすぐ出ますから、同一賃金の適用は簡単でありますが、今のように全然違う分野についての比較というものは、これはなかなかつきにくいと思います[27]

 

とだけ答えており、比較の基準の検討はなされなかった。

山崎は生理休暇についても述べていて、病気でないということは認めるが、アメリカにないとはいえ、「アメリカの状態と日本の状態とを比較してみましたときに、この論拠は成り立たないと存じますアメリカのように労働条件が完備しておりまして…日本のように衛生知識もない、労働条件は劣悪である」[28]ので、母性保護の意味からも必要がある人には与えるべきだとしていた。

 法律に書くだけではなく、どう実効性を確保するのだという荒畑勝三(社会党)の質疑に対し

 

従つてこれを施行する際におきましては、相当困難が伴うと思いまするが、これはいわゆる業者の方に対する教育なり、あるいは宣伝と申しますか、指導という点も強くやらなければならぬと思います[29]

 

と吉武は答えている。労働行政はこの後、一時期を除き、実りの少ない「国民の意識の啓蒙」と効力の弱い指導が中心となっていった。

 最後の討論においては、自由党は中小企業保護や一般企業の国際競争力への懸念があるが賛成、日本進歩党は「法律の内容から見ますると、敗戦後の現実の日本から見てすこぶる飛躍的であり、すこぶる実情に適さざるがごとき観を呈する点もなきにしもあらずでございまする」[30]けれども、「満腔の敬意を表して賛成」した。社会党も8項目の修正案を出したものの賛成、国民協同党も社会党の8項目に1項目加えた修正案を出した。占領下で、法案自体に反対ができるような状況ではなかった。

 結局、修正案はともに賛成少数で否決され、政府原案が起立総員で可決される。

 

経営者兼華族への啓蒙――貴族院での審議

 新憲法は成立していたが、まだ施行はされていない時期であったので、労働基準法案は衆議院通過後には貴族院で審議された。ただし、近く廃止されることが分かっていたためにその議論は低調であった。また、GHQのチェックを経ているため、大きな変更ができないことも了解されていた。貴族院での審議はむしろ、議員の多くが企業経営者であるため、政府による情報提供ないし啓蒙が目的であったと言われる。全体には、運用の柔軟性を求める声と、経済復興上の憂慮が示された程度であった。

 めぼしいものを拾うと、種田虎雄が「実はさう云ふやうな問題の起きた時に、或相当規模の大きい会社で、組合の方の主張はよく分つたから、今後は女子はなるべく採用しないやうにすると云ふことを、ちよつと言うたやに聞いて居ります」とし、

 

例へば女には生理の為に相当休暇を与へると云ふやうなことも、是は認められて居るのですが、是は正に其の期間、或程度の労働価値と云ふものは低下すると斯う思ふのです、従つてその意味に於ては差別を設けると云ふことは当然ぢやないか、斯う考へるのですが、さう云ふ点はどうお考へですか[31]

 

という質疑に対して、吉武は

 

今御尋の点は非常に難しいところでありますが、…さう云ふ点を皆差引いて価値が違ふと云ふことになりますと、一応女子に対する保護の点が欠くることになるまするので、其の点は難しいところではありますが女子に対する特別の保護の点を一応マイナスに考へると云ふことは出来るだけ避けたいやうに思ふのですが・・[32]

 

と述べるにとどまっている。生理休暇に関しては畠山一清も、日曜・祭日・盆・暮れ・正月で休日が70日で、有給20日、そこにさらに生理休暇で月3日休むとなると126日と1年の3分の1以上になり、3日に1日の休みでは多いのではと疑問を投げかけている。

その他、「完全雇傭と云ふことがやかましく言はれて居りますが、昨日も申し上げたやうに女子には、男子と比べれば色々と長所もありますけれども、また肉体的に或程度の劣つて居る条件があるやうに思ふのであります、然るに斯う云ふやうな原則が一般に決められ、又他に色々女子保護に関する規定がありますが、今後事業経営者としましては成るべく女子を採用しない、斯う云ふことになるやうな懸念があるのぢやないか、従つて完全雇傭の関係、さう云ふ点に付てどう云ふ風に政府は御考になつて居るのでありませうか、其の点伺ひたい」[33]との質疑に河合は、ここでも、労働能率の問題であるので因習による差別をしてはいけないという意味だとしている。時間外労働の制限と関連して同様の質疑もされているが、逆作用を生んで女性を避ける傾向が出るかもしれないが、いつまでも放置すると女性の労働条件が上がらないから、と吉武が述べ、さらに

 

男子に付いても一定の限度を嵌めるべきぢやないかと云う意見も相当ありましたが、是は余り画一的に致しますれば、無理が出来ますから、男子に付いてはまあ組合の自治制に俟つと云ふことで時間の枠を嵌めていないのであります[34]

 

と付け加えている。男性の時間外労働は、労働組合との協定によりほぼ無制限に行なうことが法律上可能だった。(ただし、この頃の労働組合は強かった。)

衆議院も含め、労働条件向上の必要性は、戦時中に女性が職場進出したこともあり共通認識としてあった。また、公正な国際競争力のための国際水準の確保というGHQからの圧力や労働組合からの圧力も認識されていた。だが結局審議としては、現在でも問題となっている点も出てくるものの、どう解釈しどう対応していくかの説明・検討はなされず、あまり議論は深まらなかった。

貴族院では、工場や寄宿舎の近代化を、罰則つきの法律でやることへの反発があったが、3月27日に労働基準法は本会議でも満場一致で可決され、4月7日に公布された。

 

女性解放運動家の登板―――労働省の設置

 

 労働基準法が衆議院で成立した頃から実施機関の検討が進められていた。労働省の設置は占領開始時からGHQの方針であった。女性問題は労働問題と関係が深いということで、内閣の独立した局とする案もあったが、結局労働省内に婦人局を設置することとしていた。しかし、第1次吉田内閣は厚生省の外局として労働庁を設置する案、厚生省を再編して労働総局を置く案などを提出するが、いずれもGHQに拒否される。婦人局についても、何とか課にとどめようとしたが、認められなかった。

 結局、「2・1ゼネスト」中止の不満をかわすための第2回総選挙(1947年4月25日)で日本社会党が第1党となり、民主党、国民協同党との連立内閣が組まれ、ここで労働省の設置が決まる。女性問題一般を労働省が掌握するのは妥当でないという意見もあったが、まず労働省に婦人少年局を設置し、ここが中心となって関係省庁と連絡をとることになった。ただ社会党内には、独立の局にすべきだという意見や、少年局と統合し相対的に女性の力を抑えようとしたという批判があった。

 1947年9月1日には労働基準法が一部施行された。同日、労働省も設置され、社会党右派の米窪満亮が初代労働大臣に就任し、「労働省は労働者の福祉と職業の確保を図るためのサービス省であり、能率省」であると宣言した。事務次官には労政局長であった吉武(後に自由党代議士となる)が就任。そして、新設の婦人少年局の局長には、片山内閣の依頼により労働運動に携わっていた山川菊栄が引き受け、初の女性局長になった[35]。社会党婦人部が、女性問題に権威があり戦争に協力しなかった人、ということで推薦していた。山川は日本の社会主義女性解放の代表的思想家であり運動家でもあった。1915年の母性保護論争では、女性解放の「根本的解決とは、婦人問題を惹起し盛大ならしめた経済関係その物の改変に求める外ない」と、母性は女性問題の一部にすぎないとしていた。

各都道府県地方職員室(後の婦人少年室、現在の女性少年室)の職員が、主任(室長)も含め全員女性となったのは、山川の強い意向であった。地方職員室は、後の雇用機会均等法とは異なり、労働基準法に基づく企業の調査権を持っていた。そのため、局長の委任があれば、企業の立ち入り調査、帳簿の検査、労使への尋問などもできた。

そして男女同一賃金は、山川が熱心に取り組んだ分野であった。しかし山川をしても、同一労働同一賃金は難しい問題であった。「基準法第4条の男女同一賃金の原則は後者の場合、即ち、同一の仕事に従事している男女間の不当な賃金差の是正にのみ適用される。その意味に於いて十分とは言い難い。前者の場合、即ち、異職種間の男女の賃金差の是正は厳正精密な職務分析や職務評価がなされ、それに基づく真正な同一価値労働同一賃金の実現に邁進せねばならない」[36]と考えてはいたものの、

 

然し、多くの場合は、賃金の差が僅少であるとか、或いは全く男女が同一の業務に従事している事例は少なく、多少でも職務が異れば、そのため、実際に於いては男女同一賃金違反の断定を下すことが相当困難である。又、能力、能率或いは勤惰による賃金差であると釈明された際は客観的にその差異を証明することは現在に於いては殆ど不可能に近い[37]

 

と、例えば紡績工業の女性労働者が雑用をする男性労働者の賃金の4割ということに具体的な手は打てないでいた。すでに事務次官通達として「〔能率技能による差別〕 職務の能率技能等によつて、賃金に個人的差異のあることは、本条に規定する差別待遇ではないこと」[38]との解釈が示されていた。同一賃金のためには同一労働の実現が希求されるようになっていた。しかし後の調査でも、「各産業に男女が混合して働いている職種がみられたが、男女の作業内容がまつたく同一のものは少な」く、同一の職種でもごく一部を除き賃金は「大なり小なり女子が低いというのが実情」であった[39]。その他多くの場合、女性は責任の低い職務につき、賃金も半分ほどであった。そのため、かなりの女性の賃金が半失業水準にあった[40]

その後、社会党首班内閣は1948年2月に倒れた。そして1950年の吉田自由党内閣のときに山川は、官吏試験に通らず「明日が退職期限だ」と通告され、数日後、寺本事務次官に辞表を提出している。労働省は、厚生省から分かれてできたのであるが、その厚生省は内務省から分かれてできていた。そのためかつて内務官僚であった者も多く、後に山川はやりにくかったと語っている。

 婦人少年局自体は、何度も廃止されかかった。まず1949年のドッジ・ライン(経済安定9原則)による緊縮財政によって、吉田内閣が行政機構刷新の際に廃止もしくは格下げしようとした。これには女性団体、労働組合が反対し、労働大臣の諮問機関である婦人少年問題審議会も反対の建議[41]を出した。のみならず、GHQも反対したために、定員の20%削減に落ち着いた。しかし翌年、今度は「行政機構の全面改革に関する答申」により「婦人労働課および年少労働課を労働基準局に吸収し、婦人課は新設予定の文化省に移管する」との方針により廃止されそうになった。このときも女性団体、労働組合は反対、婦人少年問題審議会も再度反対の建議[42]を出し、GHQも反対し断念された。同じ年、「行政機構改革案」において労働省婦人少年局と厚生省児童局を合併するという案もつくられたが、同様の反対から実行はされなかった。

 

骨抜きのはじまり――労働基準法改正の動き

労働基準法はすぐに改正されようとした。まず1949年、女性保護実施状況の届出義務が廃止された。1950年にはすでに、日経連(日本経営者団体連盟)で労働基準法の改正が検討されていた。サンフランシスコ講和条約締結前の1951年5月、占領政策に基いて制定された法律の見直しが許されるとのリッジウェイ声明がGHQ から出された。それを受け、経済界からも女性の時間外労働規制と深夜業の禁止を緩和するようにとの声が出た。翌年、時間外労働の枠が少し緩められ、1954年には深夜業を許される職種が増やされた。このとき日本婦人記者会で、新聞記者は深夜業を許可されることに反対、若い記者の多い放送は賛成と分かれた。そのためマスメディアについては放送プロデューサー・アナウンサーのみ外すことになった。その後、女性アナウンサーは増えたが、プロデューサーは変わらなかった。ただ、諸外国からソーシャル・ダンピングとの非難が起こるのを恐れて、使用者側も国際水準以下に下げると思われてしまう変更は要求しなかった[43]。一方で労働者にも“守れば食えぬ”という声があった[44]

 また、1949年には労働基準監督署は1000件近くも検察庁に送検しており、250件ほどが有罪となっていた。しかし主権回復後、摘発から指導へ、と労働省の方針が転換した。1948年の上半期だけで100万円以上罰金を取っていた婦人少年局関係も例外とはならなかった。

 

敗戦国の現実―――労働環境

 

 戦時中は徴兵の影響に加え、1943年9月の労務調整令施行規則により、一部の職種では男性の就業が禁止ないし制限されていた。そのため、銀行員の過半数は女性であったり、国鉄では女性が6倍に増え4分の1を占めるといった状況であった。そのため、厚生官僚には「諸種の精神能力、及び身体的特性の測定及び検査結果を男女について比較した結果は、なるほど平均値に於いては女子はしばしば男子に劣るけれども、その個人差の分布状況から見ると、必ずしも凡ての女子が凡ての男子に劣るのではなく、各種の点に於いて、男子に優る女子を発見するのに困難を感じない。殊に精神的能力に於いて然りである」[45]ので「従前の如き単に男子の仕事の補助的役割につかしめたり、頭のいらない単調反復作業のみを課したり、或は、作業を故意に分割簡単化して短期養成のみを狙ふといふことは、果たして本邦労働配置の上から見て恒久的方策なりや多大の疑問を感ずる」とする者もあった。女性を使わざるを得ない状況だった。

 従来男性の職業と思われていたような部門にも女性を就労させる必要が生じた結果、男女の就労分野は第2次大戦において各国とも大きく変化したが、それでも、女性の大半は非熟練労働である、とされていた。

 そして女性の低賃金の理由としては、就業期間の短さ、能率の低さ、組織力の弱さ、就業分野、家族負担の少なさが挙げられていた。その背景には「女子の肉体的条件に必然的に伴ふ事情によつて、彼女等が、男子の能率よりも低位にあらざるを得ないことは原則的に否定し得ないところであらうが、かやうな先天的の原因に基くものではなく、後天的の、―例へば、或る職業につくについての事前の訓練―即ち、基礎教育、職業教育、徒弟等―の不足によつて、自然に、男子よりも、非能率、低賃金の分野に向かはざるを得ない結果となる場合が、少なくないことも、当然、認められなければならぬところ」[46]であるとされた。

さらに、そのような低賃金に甘んじていられるのは「即ち、既婚女子は、男子に対する従属性(極言すれば屈従性)に馴れて居り、自ら労働に従事する場合に於ても、男子労働者に対して、兎角、遠慮勝ちの態度となる。賃金が、不当に低くとも、(不平は持ちながらも)これを口に出しては、いひ得ない。また、未婚の女子は、現在の職を、兎角、結婚迄の腰掛け仕事と考へ勝ちである。彼女らにとつて、最も大切なことは、結婚後の生活の設計であつて、現在の職、現在の賃金の多寡ではない場合が多い」[47]とまで言われた。

そして、戦争に敗れ復員兵があふれると、厚生省の方針として「失業者477万と推定 女子は極力家庭へ復帰」[48]と新聞も一面に書いた。厚生省は失業対策において「1,324万人の復員者を生じ、之に対しては極力、前職復帰を図る外、現在就職せる女子等を家庭復帰せしめて、代替就職せしむる」[49]としていた。ただ、それによっても、400万人以上の失業者が出ると推計していた。植民地が解放され、日本の国土はほぼ半減していた。そして、本土のみの人口は7000万人から8000万人に増加した。そして女性を退職させても復員者の職を確保しても、最大600万人が失業者となるであろうと考えていた。戦時中いた200万人の女性労働者は半分に、学徒動員・挺身隊の女性150万人は全員解除となる。その結果、1945年末には農業を除く有職者は前年の半分になっていた。その一方で、女性の失業は売春につながりかねないと懸念され、中央失業対策委員会は、事務や軽工業など女性に向くものには女性を就かせること、同一業務であり男性と同等の能力があれば同等の待遇をすること、と要望していた。

 ただそれでも、戦争により男性の生産年齢人口が少なくなっていたために、就業者中の女性の占める割合は40%ほどで推移した。

 家事労働の時間は、女性雇用者の場合1日平均2時間40分ほど、男性の場合は33分であった。このために結婚と同時に、もしくは出産時に辞める者が多いとされた。この、木炭や井戸が使われていた時代から、雇用労働者の家事時間の男女差は現在に至るまでほとんど変化はない。

 

活発だった活動――労働組合

 旧労働組合法が制定される以前に、女性の労働組合は結成されていた。1946年の、戦後初のメーデー中央大会にも女性は8万人参加し、「母性保護」と「同一労働同一賃金」もスローガンに掲げられた。戦前の大日本労働総同盟友愛会でも「同質労働に対する平等賃金の確立」が要求されていた。厚生省が、最低賃金を男性の3分の1にすることを立案していたこともある。生理休暇も、労働組合の強いところでは実際に取得されていた。

1947年6月には日教組(日本教職員組合)が結成され、11月には文部省通達により教員給与の男女差撤廃の方針を確立させた。それをもとに交渉が始まり、翌年1月に東京都を皮切りに5年後には全国で男女同一賃金になる。戦前は、同じ師範学校を出ていても女性教員は初任給からすでに男性教員より10〜20%低かった。そして、労働基準法第4条ができただけでは男女別賃金体系は改善されなかった。当時の日教組婦人部長(約20年勤務)は、月給が1300円から5200円に増加したと回顧している[50]。また、日教組結成以前の日本教員組合協議会と教員組合全国連盟は1947年の3月に生理休暇3日、産休16週など、労働基準法の規定を上回る条件を得ていた。しかしその後、若い男性教員から「やっていることが同じなのに、給料が高いなんて婆さんのくせにけしからん」という声も出てくるようになる。

 ところが、1948年1月にGHQのスタンダーが「労働組合内において婦人の特殊の要求を考慮する必要があつてはならぬ。組合内で婦人は一個の労働者であつて、結局は男子労働組合員と婦人労働組合員の一般問題や目的に相違があつてはならない。/しかし、…産業における婦人の平等性は、日本においてはいまだ理想の域をでない。婦人が新憲法において平等を保障せられ、かつて『同一仕事に同一賃金』の原則が労働基準法に織込まれたことは事実であるが、まだまだなすべきことはたくさんある。法律によつて保障された原則が具体化せられねばならぬのみならず、職場教育、昇進の平等、団体交渉、組合活動への参加および指導等にかんする平等の機会についても、それに対応する進歩がなされなければならぬ。さらにいわゆる婦人の知的劣等性および能力の劣等性にかんし、男子の持つ古い誤つた態度が改められねばならぬ」[51]とし、青年部や婦人部が自主的な立場を持つことは労働組合の統一という基本原理を破壊することになるから、青年部婦人部は将来廃止されるべきであるということになり、その勢いはそがれた。また、翌年には公務員のスト権と団体交渉権をなくすなど、GHQの労働組合に対する姿勢も変わりつつあった。

 まだ不況期であったこともあり、東京で「職よこせデモ」が行なわれ、東京都も失業対策事業を実施したが、多くの失業者があふれていた。女性の場合さらに、公共職業安定所に子どもを連れて行くと仕事を紹介してもらえなかった。子供連れの女性は職業紹介よりも生活保護を受けるべきとの理由からであった。そのため交代で子供をみていたことがきっかけとなり、託児所要求運動が起こり、1950年には職業安定所の近くにテントの公立保育所が作られた。これが戦後の職場保育所の始まりの1つであった。

 しかしその後、「電産型」賃金(日本電気産業労働組合協議会が要求した、最低生活を保障するために、労働組合が生活費を調査し、それに基づく年齢別最低生活保証給で、年齢とともに上昇する)が主流となったこともあり、同一労働同一賃金は労働組合の主要な課題からは外れていった。総評(日本労働組合総評議会)内部で女性が賃金の男女差別撤廃を要求に加えるよう求めたこともあったが、1964年まで取りあげられることはなかった。

だがこのことが逆に、戦後しばらく男女間の平均賃金の格差を縮めていくことになる。婦人少年局も「戦後、婦人の賃金はかなり向上しました。教育の機会均等や男女同一賃金の原則が法律上確立されたこと、生活給に重点をおいた賃金体系がとられるようになつたことなども、大いに影響していると思われます」[52]とし「1950年ころ男女格差46.5%を境として、男女の給与は再び、わずかづつ開いてくるきざしがみえています。これは戦後の生活給的色彩の強い給与制度から職務給的な要素に重点が切換えられる傾向も1つには影響していると思われます」[53]と分析していた。生活給であるならば家族手当を除き男女同額となる。欧米の研究を参考にしつつ、独立生計の男女の場合、「仮に、女子の食費は、男子のそれの80%即ち20%減として見ると、この20%は、生活費総額の8%強に相当する。この結果、男子の生活費100に対して女子のそれは92といふことになり、その開きの幅は、やや狭められて来ることとなる」[54]とする試算を行なう大蔵官僚もいた。

しかしそうはいっても現実には、この時期の女性の平均賃金は男性の40%強であり、扶養家族数による賃金の増え方も「5人扶養家族を持つ女子は153で0人の場合の約1倍半であるのに対して、男子は198と約2倍を示しています」と女性は低かった[55]

 

女工哀史の残滓

 日本の経済復興を支えたのは繊維産業であり、1960年あたりまでは輸出の主役であった。労働基準法第68条に女性・年少者への帰郷旅費の支払義務が規定されていたのも、農村から紡績工場に出稼ぎ的に来る労働者が主に想定されていたためだ。それどころか「農民達はともすれば法律に反して子供を売買する風習に赴こうとするのです。1949年に、労働省は929件の例をとらえましたが、その中712件は女の子でした」[56]という報告もなされていた。

1950年の朝鮮戦争を契機に、軍需産業を中心として繊維産業も特需に沸いたが、それでもまだ日本の実質国内総生産は戦前の水準には及ばなかった。典型的な女性職場といわれた紡績産業は「インド以下賃金」と言われる状態であった。実際、当時のレートで計算すると「ボンベー及びデリーの最低初任給は82ルピー、6,199円であるが、これも日本の初任給より約2,000円高」[57]く、男女平均賃金もインドの方が上であった。1946年頃の90%以上が農村出身という時期よりは割合は減っていたものの、まだ70%近くは農村からの若い女性労働者で構成されており[58]、2〜3年勤めた後に婚期となると農村へ帰っていった。そのため、扶養家族がなく家計補助にすぎない、年が若いなどの理由から低賃金であった。しかしそれでも「寄宿舎制度を中心とした福利厚生施設が完備している等の繊維産業の特質は、繊維賃金の特異性として、実質的にはむしろ一般工業の平均賃金よりも高位あるいは同水準であるといわれている」[59]とされていた。この頃の町工場の日給は公共職業安定所で紹介されるニコヨンと呼ばれた日雇労働者より安かった。

 1954年には準大手の近江絹糸で「8時間労働、仏教強制反対、結婚の自由、検閲の即時停止」などを掲げた人権ストが起き、新聞も取りあげ、人々に「女工哀史」を想起させた[60]

 一方この頃には、都会への憧れもあり、農村へ帰らず結婚して都市部で共稼ぎをしたいという女性も増えていた。

繊維以外の産業の就職もあったが「非常に残念なことながら、就職は男子でも厳しい現状だから、女子にとってはそれ以上に大変です。その理由として、女子は男子ほど企画性がない、積極性がないため幹部としての要請の目的では雇えないということです。特に女子は平均して勤続年数が短いためにそういう見方がなされるのです。ごく一部の大学卒業の女子には男子もおよばぬ優秀な者もいますが、それは別として高校、中学卒業程度の女子の場合は、補助的な職業につく方が望ましいのです。(日経連 後藤浩)」「ここでは女子の大学出に向くような仕事はないので、全部高校、中学卒業だけです。(大和證券人事部長 古賀義夫)」[61]と言われていた。国鉄では労働基準法で女性の深夜業が禁止されていることを理由に、港湾では重量物取扱制限を理由に、女性の就業が制限されていた。

 

内職よりはマシ――パート労働

 1950年に電気通信省(後の日本電信電話公社、今のNTT)によって結婚して専業主婦となった交換手経験者を対象に募集をしたのが、パートタイム制の始まりであった。その後、1954年に大丸が「お嬢様の 奥様の 3時間の百貨店勤め」としてパートタイムの女性店員を募集し、「パートタイム」という言葉は一挙に知られるようになる。現在では低賃金労働と非難されるパートタイムであるが、当時は内職よりは割がいいとして主婦に好まれた。またこの年の秋には労働省も一部の職安でパートタイムの紹介をはじめた。ただし、まだ実態としては多くはなかった。この頃の婦人少年局の「あなたは生活が苦しいときにはどうしたら一番よいと思いますか」というアンケート[62]で「妻がつとめる」としたのは17.2%で過半数の58.6%の女性は「内職をする」と答えていた。実際に増えてくるのは1950年代に家電製品がある程度普及した後のことである。

 ただし、内職は賃金が安いだけでなく労働環境も悪く、1959年にはヘップサンダル事件が起き、ベンゾール中毒による死者も出た。ベンゾールは労働基準法において女性と年少者の使用は禁じられていたが、内職者は雇用関係にないために対象外であった。また、内職者は労災補償の対象外であった。家内労働法は1970年に公布・施行された。

 

産休を確実に取れるように――産休補助教員法

 女性労働者の中では待遇のよい教員ではあったが、産休で休んだ場合、90%近くが補助教員を採用せず、女性教員の採用拒否も起きていた。そのため日教組が動き、1955年に超党派の共同提案として産休補助教員法が全会一致で成立する。その目的には「当該学校の教職員の職務を行なわせるための、教職員の臨時的任用に関し、必要な事項を定め、もって、女子教職員の母体の保護をはかりつつ、学校の正常な実施を確保する」とされた。しかしこれは、教員は人員不足だからとの理由で制定されたもので、学校に勤める女性であっても事務職員などには適用されなかった。

 このことにより、女性教員が出産退職せず働きつづけやすくなった一方、パート労働に類似した臨時教員との間での格差も生んだ。ただ、進歩的だとされた男性でも、共稼ぎは恥だとされていたこともあり、女性は結婚したら家庭に入るものだという意見が多かった。女性を活用すべしとした者も、例えば「然し乍ら、女子の職場配置を考える上にどうしても此の問題を素通りできないやうに思ふ。即ち、若し、女子の勤労が、其の母性的機能を幾分なりとも障害するものとすれば、女子は結婚と同時に、なるべく勤労から遠ざかるべきであり、あるいは少なくも妊娠後は勤労を離れることを可とするであらう」[63]としていた。そして、「くらしには困らないのですが、妻が自分の仕事を家の外に持つことに賛成ですか反対ですか」という設問[64]に賛成しているのは男女とも10%強であった。

 

小括

 

 新憲法、労働基準法の成立によって、男女は同一の扱いを受けたわけではなかった。女性保護こそが「平等」のために必要であるとされ、男性と同じ賃金を払うことは現実的なものとは考えられてはいなかった。しかし教員のように労働組合が強い場合は、この法律も背景として男女同一賃金になってゆく。それ以外の場合、企業は安く自由に使える労働力を求めており、「中小企業が完全に守り得る程度に緩和する」[65]ことを要望していたように、法律通りになっていたわけではない。また労働者にしても「守れば食えぬ」[66]ということで、時間外労働を規定以上に行なうこともよくあった。労働環境が「理想」を言うことを許さなかった。

 

 


 


2.       高度経済成長期

 

 

1960年に、当時の池田内閣が「所得倍増計画」を打ち出す。高度経済成長期には、日本の就業構造が大きく変わったと言われる。「日本型就労」と呼ばれる、終身雇用、年功序列、企業内組合がこの時期に普及したとされるためだ。首相の池田勇人も1963年に施政方針演説で職務給・能力給の活用を強調し、10月に賃金研究会を発足させている。ただし女性はそもそも「日本的労使関係」には組み入れられていなかった[67]。「従来日本の労務管理の特質と言われた終身雇用や年功賃金、さらには年功昇進等を可能ならしめてきたのは、男性に対して著しく低い女子従業員の特殊な使い方であった」[68]のだ。

 女性労働者の構成は、1956年には農林業従事者が50%を割っており、1960年の時点では女性労働者の内訳は、第1次産業43.1%、第2次産業20.2%、第3次産業36.7%であった。雇用者総数に占める女性の割合は30.3%であり、女性雇用者で結婚している者は4分の1となっており、1975年には半数を超えるようになる。「女性も一生働くべき」「子供が生まれても辞めるべきではない」は敗戦後からあまり変わらず10%程度で推移していたが、子供のいない既婚女性の就労は、1960年代に入りだんだんと認められるようになっていた[69]。しかし一方で、数年で辞めない女性が増えたために、補助的業務なのに年功賃金によって給与が上がることが「問題」と認識されるようになっていた。例えば住友セメント株式会社では1958年から、女性には「結婚又は満35歳に達した時は退職する」との念書を提出させている。日経連は1959年11月に「女子労働者は最近、技術革新の影響もうけ、勤続年数と技術との相関関係がきわめてうすくなってきた。したがって女子の定年はその特殊性に対応する設定を、各企業は個別的に検討してほしい」と容認していた。

 大卒女性は、「補助職(高卒、短大卒)は入社させるが一般職(大卒)は入社させない」[70]と、応募できる企業がまずあまりなかった。採用されるとしても「事務系女子は工員、男子は雇員として採用」と、待遇も大卒男性と同じにすると古くからいる高卒男性が納得しないため、初任給等は高卒女性と同じとされていた。

さすがに、東芝のように給与体系の年齢別調整のなかで、「女子23歳以上は22歳の額を適用する」として、男性は年齢とともに上昇するが、女性については、何歳になっても、年齢調整給は、22歳で頭打ちとなる体系を組んでいるようなところは少なかった(これも1972年に労働基準監督署の勧告により是正される)。しかし、製造業における男性の就業分野への女性の進出に際し、男性から女性に切り替えた理由としては、「男子の仕事の一部を分けて女子がやれるようにしたから」が最も多く、その他「機械化等により女子でもできるようになったから」「最近女子が能力的に向いていることがわかったため」「男子が採用できないからその代替として」等が大きな理由として挙げられていた[71]。あるいは、中国電力のキーパンチャーのように、元来男性の職場だったのに、先の見込みもなく、賃金も安いために女性の仕事となったようなものもある。「第2は昭和34、35から40年にかけての時期で、この頃にはコンベア―の導入やプリント板等、新しい組み立て技術の開発で、組立作業に未熟練の女子の就労が可能となった。また、測定器具の進歩で、機械や素材の検査部門に女性が進出し始めたのもこの時期で、弱電機や精密機械等に大量に女性が就労するようになった。これは男子労働力の絶対的な不足と、素材・工程の軽量化、単純化で、手先の細かい仕事や補助的業務が男子から女子に変わり始めたからである。それと共に電話の自動化やワンマンバスの普及で、今までもっぱら女子特有の仕事とされた電話交換やバスの車掌が減少し、女子の仕事内容が大きく変わり始めた」[72]という時代であった。

この時期の企業の意識としては日本の封建的な労務管理は変更されるべきものとして、従業員の処遇を年功型の身分制から、能力型の職務制ないし職能制に移すべきだと考えていた。実際にそういった制度の導入を試みている。労働省も1955年の春闘を前に、経済復興促進のために生産報奨制度として能率給制度の採用を勧奨していた。(自由党は労働三法の改正、左派社会党・右派社会党は低賃金改善の立場からこれを批判していた。)同年、日本生産性本部も発足している。

 

人権宣言を記念して―――同一労働同一賃金条約

 

 このような中、1967年に同一労働同一賃金条約(同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約、ILO100号条約)が国会で批准される。理由は「最近の日本の雇用労働事情、特に女子の雇用労働者の数の増大あるいは社会的な比重の増大というようなこともありまして、今日の社会の現状から見て、これを取り上げるという意義が積極的にもある」[73]とされたが、実際は、ILOから世界人権宣言20周年を記念して人権関係7条約[74]の中の何か条約を批准できないかとの打診を受けて、この条約なら国内法の改正を必要としないと判断したためのものだった。条約の解釈をそれまでとは変えていた。

 教員も含めた公務員はともかく、一般企業においての賃金格差は生活給の影響もあり一時縮まってきていたものの、また格差が開いてきていた。そして、同じ学歴であっても女性には職種の差をつけて、同一賃金が支払われない、という質疑に対し、

 

雇用主はそういう基準法第4条を知らなかった、同じ高校出で初任給の差をつけまして、いや、そんなことが基準法にあったんかということで、善意の差別待遇。…要するに悪意とはとれない。いわゆる社会慣習による差別というものがたいへん多いわけでございます[75]

 

と、労働大臣の早川崇は答えていた。男女同一賃金原則は空文化していた。この頃の「管理上必要な労務政策は、学歴、勤続、年齢あるいは男女の区分の上におりこまれ、個別管理においてもこの属性を中心に管理されてきた」[76]が、しかし、日経連が広めようとしていた能力主義も「学歴や年齢、勤続年数にとらわれない適材適所の配置と処遇…年功制から能力主義人事管理への転換が課題である」[77]とはされたが、「性別にとらわれない」はそもそも能力主義の想定外であった。

 同一(価値)労働同一賃金の曖昧さは労働基準法の審議で繰り返し指摘された点であるが、この条約の批准にあたっては第3条3項を受けて「客観的な評価において、性別と関係のない報酬率の差異が生じても、これは同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬の原則に反するものでない」[78]ことが強調され、女性の賃金が低い現状を改善することは検討されなかった。

 一方、第3条1項に「行うべき労働を基礎とする職務の客観的な評価を促進する措置がこの条約の規定の実施に役立つ場合には、その措置を執るものとする」とされているとの指摘には、

 

ただいまご指摘になりました条約の第3条に揚げてありまするようなことを規定したものは国内法上はございません。私どもの理解を申し上げまするならば、条文にも書いてございまするように、仕上げるべき仕事に基づく職務の客観的評価がこの条約の規定を実施するのに役立つ場合にはこの客観的評価を促進する措置をとらなければならないと書いてございまして、法律的にそういうことを強制的にやれ、こういう趣旨ではないものと理解をいたしております。なお、先ほど来お話も出ましたが、日本の賃金体系が、学歴でございますとか、年齢でございますとか、勤続年数でございますとか、そういう職務の質、量そのものではない要素できめられておる場合が多かったわけでございます[79]

 

と答え、批准にあたって、「同一労働」の判断基準に関する政策は立てられなかった。だが、ILOでこの条約が採択された後、「わが国は技術的に未解決の問題が残されているために、まだこの条約を批准していません」とし、客観的な価値評価の方法が充分でないとされていた[80]。批准にあたり変えたのは政策ではなく解釈であった。(例えばイギリスでは現在、男女同一賃金法に基づき、400にもおよぶ項目を採点し、どの程度の賃金格差であれば望ましいのかが示されている。)

そして結局のところ、賃金格差の是正は行政指導で今後ともやっていけるという期待を述べ、「婦人少年局のほうではしばしば婦人週間等の機会をとらえまして、男女同一労働同一賃金の問題を取り上げまして、これに対する講習会、講演会あるいはパンフレット、リーフレットの作成その他PRに努めるというようなことをやってまいっております。…この法律(労働基準法)の規定の趣旨は十分徹底もいたし、…おおむねは適正に施行される段階に来ておる」[81]こと及び、「特に労働力不足でございますので、そういう社会的有利な背景もございますから…御指摘のように直ちに即効的に先生のご期待のようになるというよりも、ひとつこういう機会に粘り強く社会全般の風潮として盛り上げてまいりたい」[82]とだけされた。

 なお、この条約批准の審議に際しての現状認識として、

 

最近は、大企業は、単に年とったから賃金が上がるということを是正して、職能給、能力給に移行しつつあるのでございまするが、そもそもILO100号条約というものは、そういうものを背景にして、それを前提とした条約でございまするので、そこに若干の日本の賃金体系とのアダプトといいますか、適用という問題に今後の問題があろうかと存じます[83]

 

という点、及び

 

今後とも労働力不足に進みまするので、職場に入る婦人が安心して、しかも男女の差別なく賃金をもらうという、そういう希望を持って勤労戦線に入っていく、こういう2つの大きい意味で100号条約の批准をお願いしておるわけでございます。…中高年、帰人(ママ)という方が働いてもらわなければ、どうしても外国労働力を大量に入れなければ日本の経済は伸びないという時代が来る。…日本で生産した果実を日本国民の中で分け合っていく

 

という点が、労働大臣から示されている。かつての「期待」とは異なり、20年経っても能率給にはなっていなかった。そして、女性を活用するのは、同じ低賃金労働者でも外国人より安心できるからであった。

 結局のところ、労働基準法第4条があることを理由に批准が可能であるとされたのであるが、同一労働同一賃金の中身は不明なままであった。

またこの頃、力の衰えていた労働基準監督署は、男女別賃金表が労働基準法違反とは認めながら、是正勧告を行なえなくなっていた。そのため裁判[84]でようやく、「扶養家族の有無にかかわらず、男子行員には全部当該年度の(1)表またはA表に掲げる金額が年令に応じ(基準日は4月1日である。以下同じ。)支払われ、女子工員には全部当該年度の(2)表またはB表に掲げる金額が年令に応じ支払われたこと」というように男女で全く別の賃金表を作成しているような明白な場合であれば、法律で扱えるという状況であった。

 

「教員は人手不足だから」―――女子教員等育児休業法

 

 育児休業は、出産後も働く女性が増えた1960年代に労働組合でも検討されるようになった。初めて育児休業制を導入したのは1965年の電電公社(現在のNTT)であった。

同一労働同一賃金条約批准と同じ年、野党から女子教員育児休業法が出されている。これは参議院での可決、衆議院での審議未了廃案を2度繰り返した後に、1975年、自由民主党、日本社会党、日本共産党、公明党、民社党の5党共同提案により、看護婦・保母も加えられ、成立する[85]。ただし、

 

この法律は、義務教育諸学校等の女子教員職員及び医療施設、社会福祉施設等の看護婦、保母等の職務の特殊性等にかんがみ、これらの者について育児休業に関する制度を設け、その継続的な勤務を促進し、もって義務教育諸学校等における教育及び医療施設、社会福祉施設等における業務の円滑な実施を確保することを目的とすること[86]

 

ということで、女性教員のためというより人材確保を表に掲げていた。そのこともあり、対象は女性のみであった。また、自民党の文教部会は30%の有給制という案を出したものの、民間企業への波及を懸念した経済界からの反対もあり、無給ということで落ち着く。対象は「幼稚園から高等学校までの国公立の義務教育諸学校等の女子教職員並びに国及び地方公共団体の運営する医療施設、社会福祉施設等の看護婦、保母等」となる。私立学校は対象外とされ、つまり国や地方公共団体が雇用主であるから成立が可能であった法律であった。

 

「ウーマン・パワー」の活用―――勤労婦人福祉法

 

 前述したように、特に1960年代半ばから高度経済成長と進学率上昇により若年労働者が不足するようになってきていた。それまでは「従来日本経済において、労働力が経済成長の阻害要因となることはほとんどなかつた。それはわが国が豊富な、しかも安価な労働力にめぐまれていた」[87]のであった。

結婚後に再就職する女性が増え始め、1968年版『婦人労働の実情』では「従来のわが国婦人の雇用の型は、その雇用率で見ると、20〜24才層がピークで25才以後は年令とともに低下していたが、最近の動きをみると中高年令層で第2の高まりがあらわれている」[88]とM字型就労が明確になりつつあることを指摘している。1965年には電気洗濯機の普及率が80%を超え、専業主婦の家事負担が軽くなってきていた。また、1953年には実質国内総生産が戦前の水準を突破しており、1956年の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と宣言した。1955年頃からは進学率の上昇や出生率の低下もあり労働力不足になり始め、地方からの集団就職が行なわれ、低賃金の中卒労働者は「金の卵」と呼ばれていた。中卒で就職する人数は1965年から1970年の間に半減しており、求人倍率は5倍を超えていた。60年安保にともない貿易・為替の自由化は行なわれたが、国際競争に勝つための低賃金の若年労働力はまだ足りなかった。1969年の経済審議会「労働力需要の展望と政策の方針」でも1975年までに801万人人手が不足するとされ、中高年女性も低賃金労働力として期待されるようになっていた。経済団体も「中高年の給源として、今後は主婦の労働力に相当依存しなくてはならなくなる事態が早晩出てくると思います。そこで一般的に女性は職場に出た方がぼけないし、健康にも良いのではないかと思います」し「いやらしい姑になるより職場へ出て、子供に人生をかけない生活をするのは望ましいことだと思います。婦人労働力の職場進出を商工会議所では大いに進めたいと思います」[89]としていた。「その回転率の早さが終身雇用の慣行の一般的なわが国では、雇用量に弾力性を与えるものとして、企業に大きな期待を抱かせてきた。また、回転率の早さは年功賃金下では、企業の支払う人件費を安価ならしめ、これがまた婦人雇用に対する企業の魅力となっていたのである。婦人労働力が経済成長期に大きく増加したのは、絶対的ともいえる労働力不足が最大原因であるが、雇用調整が進行した(昭和)50年、51年を除いて再び増勢に転じたのは、企業が低成長時代に対応すべく少数精鋭による能力主義の態勢をとり、基幹従業員はできるだけ少なく抑え、一時的な繁忙や技能のいらない分野は女子労働、それも特にパートタイマーにゆだねる気運が強まったから」[90]である。「経済の高度成長に伴い、迎えた労働力不足の今日、労働力人口の約4割を占める女子労働力を活用することなしに激化する企業競争に打ち勝つことはできない」[91]という理由からであった。公共職業安定所も広報車を使い「移動職業相談所」を各団地で開催し、「奥様も職場へ」と積極的に就職を斡旋していた[92]。ただしあくまで低賃金労働としてであり、高学歴化する女性や結婚退職制のことは不問に付された。

 

「女性は男性と違って家事もしなければ」

このような中、勤労青少年福祉法に続き、1972年に勤労婦人福祉法が誕生する。

 

婦人はわれわれと違って家庭を守らなければいけない。同時に、先ほど申しましたような趣旨からも見られるように、お子さんも育てなければならない。育児と家事という2つの大きな責任と義務を負っておるわけでございまして、こういう働く御婦人のためのそのよりどころを与え、そして、この社会において大きな貢献をしていただくためにはこういう立法措置が必要であろう[93]

 

というのが、この法律の提案理由であった。家事をきちんとこなしているのであれば、主婦が働くことは問題とされなくなっていた。直接的には1970年の自由民主党「勤労婦人福祉対策5カ年計画」を受け、短期間で成立させたものである。「5カ年計画」では、「昭和50年には労働不足は400万人から500万人に達すると見込まれており、今後労働対策として、勤労婦人の有効活用を図る必要がある。とくに最近では25歳以下の勤労青少年は減少しつつある現状では、中高年令婦人を新たな労働力として活用することは緊急なことと考えられる」と、深刻化の一途をたどる労働力不足をやわらげるため、事業所内託児所の設置・中高年婦人職業センターの設置・内職就業への援助等の財政支援によって、中高年女性を活用することが必要であるとしていた。そのため「主婦のかり出しをねらっている」という批判が労働組合からあった。

労働省婦人少年局は婦人参政権25周年記念として、翌年3月から学識経験者で構成する「婦人の就業に関する懇話会」で検討を始めた。そこでは、国民経済的観点からは「婦人労働力に対する需要が高まれば、それに対する社会的コストは増加するであろう」「保育施設については、婦人の雇用を促進する機能としては大きいものではない」「主婦労働が安易に得られることは、生産性向上や労働関係の近代化のための企業努力を鈍らせることにならないか」といった意見が出され、母性・育児・教育の観点からは「密接な母子の信頼関係は、子供の人間形成の上で極めて大切なものである」「今後、就業婦人が増加するならば、人口減少を招く」と指摘された。そして、一般論としては女性の就業を「助長すべき」であるとし、一方で乳幼児がいる場合には「社会的に断定すべきものではない」としている[94]

これを受け労働省は、婦人少年問題審議会(労働大臣の諮問機関)に諮問した。その答申は、働く女性への偏見や働く女性自身の自覚の欠如を考え「勤労婦人が職業生活と育児等の家庭責任とを調和させようとすることから生ずる特殊な問題の解決を図ることから生ずる特殊な問題の解決を図ることを容易にするとともに、勤労婦人の能力を発揮して充実した職業生活を営むことができるようにするために、国、地方公共団体及び事業主が協力して適切な措置を講ずることが必要と考えられる」とした。

そもそも「勤労婦人」という言葉は「これはその内容といたしましては婦人労働者と異なるものではないと考えます。ただ、若干のことばのニュアンスといたしまして、たとえば婦人労働者対策と申します場合には、労働条件であるとかその他職場内における事項が主たる対象となって考えられてまいるようでございます。それに反しまして、勤労婦人対策あるいは勤労婦人問題と言いますときには、働くという役割りをもっている婦人というわけでございまして、職場外の問題も含めた、つまり家庭生活であるとか市民生活等も含めた生活者というようなニュアンスが多少加わってくるのではないか」[95]と、家庭生活を女性が担うことが含まれていた。

これに対し、社会党は実効性のない「ヤマブキ法案」[96]であり労働基準法の形骸化を生むと批判し、「勤労婦人の能力を発揮するための立法であるならば、地域保育所の大量増設であるとか、内容の充実であるとか、労働時間の短縮であるとか、社会保障制度の充実であるとか、こういうようなものがいま不足であるがために婦人に負担が過重」[97]になっているとはしていた。厚生省は1966年に「保育所緊急整備5カ年計画」で不足分を整備するとしたが、それでもこの当時、3年後までに35万人「保育に欠ける児童」が出るだろうと推測していた。しかも、保育所が足りず、希望はせずに子供は自宅で家族がみていることが多かった。加えて、「保育に欠ける」「人工栄養」などということで、(現在でもそうであるが)厚生省は延長保育・深夜保育には消極的であった。労働省は「確かに、内容が物足りないとの声もあるのは事実だが、はじめから規制をつけて強制法規の形をとるよりも事業主などの自主的な努力に期待してゆく道をとった」[98]と腰が引けていた。

だが結局社会党は賛成した。民社党は「女性労働力というものが産業の高度化によって非常に貴重になってきたわけであります…その反面、そうした婦人の職業進出に伴って、家庭におけるところの婦人の責任と言うといささか語弊がありますけれども、婦人の役割と言うものがどうもおろそかになりはしないか、そうした両面から、これを調和させることによってさらによりよい婦人の職場を拡大しよう」[99]と、自民党と共通する認識を持っていた。共産党は採決を棄権している。

 ここでは、家事とともに育児も、働いていても女性が負担であるものとされており、自民党参議院議員の石本茂も、女性が「家庭と労働の二重の責任を果たすには労働基準法では不充分ではないか、という認識から作られた法律なんです」[100]と解説する。別の自民党議員は「勤労婦人は男子にくらべましてまだまだ能力を十分に発揮できるチャンスが少ない」とする一方、「言うまでもなく、育児は勤労婦人の家庭生活の中でもっとも負担の大きいものでございまして、次代の国民の育成という観点から国家、社会にとりましてもきわめて重要なことだと考えます」[101]と国が介入する理由を説明していた。

ただこれは、日本に限ったことではなく、この法律の参考とされた、1965年のILO123号勧告(家庭責任をもつ婦人の雇用に関する勧告)でも、家事は働く女性が負担しているという実態を前提としており、対象は女性のみであった。男女ともに家庭責任を負担することを前提とする条約は1981年のILO156号条約まで待たなければならない。またこの頃、例えば欧州でも結婚すれば女性は家庭に入るものという考え方は広く存在していた。

 当時の自民党の時代認識は「学校を出て就職して、しばらく働いて家庭にはいり、子どもが大きくなるとまた職場へ出てきてずっと働き続けると。これは欧米先進国で最もポピュラーなスタイルです。これを頭に描かれたということは進歩的だったと思いますね」[102]ということで、結婚しても働き続けるというスタイルはまだ先のことであった。

 女性の能力を活かすということも言われていたのだが、「その特性に適応した職業指導」を強化するということで「今後、この法律が制定されまして、男女平等に訓練の機会を与えるようにという趣旨でもございますので、今後そういった婦人向けの職種につきましては、できるだけ訓練種目をふやしまして、婦人が職場に進出される場合に雇用の安定をはかる、このような体制をとってまいりたい」[103]ということであった。この女性向け訓練というのは縫製・事務・製図・美容等の職種のことである。実際、これらの職種に女性訓練生のほとんどが集中していた。

 

努力義務規定の効果

この法案の目玉は育児休業とされていたが、「事業主の負担のもとに有給というふうに規定いたしますることは、育児休業が事業主の責任に帰さない事由によるものであ」[104]ることから、有給とすべきか無給とすべきかは規定せず「まあ労使の自主的な決定にゆだねることが妥当である、このような考えをとっております」[105]とした。また、努力義務規定であったのだが、「国の意思として要請するところの事業所の努力義務、それに対する違反とは言えると思いますので、行政指導を通じてこれは指導してまいるということに相なるかと思います」[106]との立場で、「ベストではないがベター」なものであるとされた。予算は、つかなかった。「日本的福祉」というのは「国民相互の助け合い」であり「家族同士の扶助」であって「政府に多くを期待してはならない」というものであった。

育児休業制度の普及率は1981年に14%と急に前年の倍以上に増えたが、そこまでの時期は微増しているだけだった。また、この年に倍増したのは調査対象に、女子教員等育児休業法により育児休業制度がすでにあった、公立の小中学校なども加えたためであった。そのため、行政指導が効果があったと判断するため材料は見当たらない。

勤労婦人福祉法は、公布された日に施行される、強制力のない訓示規定のみの法律であった。それに対し労働省婦人労働課長高橋久子は、「随時改正を要しない基本理念がこの法律の性格でしょう」[107]と誇る[108]。この法律では、第3条で「勤労婦人は、勤労に従事する者としての自覚をもち、みずからすすんで、その能力を開発し、これを職業生活において発揮するように努めなければならない」と女性の自覚が欠けているとしている。これは雇用機会均等法にも受け継がれた条項である。確かに、1949年の「あなたは婦人の地位をもっと高めるにはどうしたらよいと思いますか」という質問[109]に74%の女性は「婦人が自覚し、積極性をもち教養を高める」を選んでいた。しかし1955年にはすでに30%に減り、「男性の理解と協力」を挙げた人の割合を下回っていた。

同一労働同一賃金に関しては、社会党の川俣健二郎は「同一賃金というのをうたっているのは、同じ仕事についたらどんな人でも賃金は同じだよということなんです。ところが、同じ仕事につけないわけでしょう」[110]と質疑を行なっている。これに対し高橋展子労働省婦人少年局長は平均額の差はあり、職種の差によるものもあるが、労働時間や住宅手当、家族手当による部分が大きいので、もし時間給で計算するならば男女の差はかなり近づいてくるとしている。しかし、平均賃金の差よりは縮まるものの、学卒後同一企業に勤めている「標準労働者」で、勤続年数が同じ者でも、女性の平均賃金は男性の70%ほどであった。またそもそも、ここで問われている男女の職種が分離していることに関しての回答はなかった。

その他、この頃問題になっていた女性の若年定年制・結婚退職制は、「労働基準法では賃金の点は十分規制いたしておりますが、基準法で今のような問題をやることについては、これはちょっと問題がある点だと思っております」[111]と、打つ手がないとした。しかし、すでに内閣法制局は若年定年制は「民法90条に照らして無効となり得る場合がある」としていた。それでも労働省は、若年定年制・結婚退職制は日本的な現象であるとした上で、対応策として「今後この法案が制定を見ました上は、これを根拠にさらに一そう強力な啓発活動というものを行っていくということが予定される」[112]と、ここでもしている。だが指導行政は、指導内容が合理的であると納得して自主的に受け入れてくれるものを期待するという「優秀なるものへの尊敬の原理」をベースにしたものである。そのため、大蔵省の指導などは例外として、従わないと企業が不利益をこうむるものではなく、拒否された場合に打つ手はなかった。そしてこの場合、指導ですらなかった。

 

小括

 

 高度成長期には、「男女平等」をどうこうしようということはあまり話題にのぼらなかった。むしろ、成長を維持する上で必要な、労働力不足の解消が目指された。それは、男女が別のカテゴリーに属するものだという認識が固まった中でのことであるので、例えば家事・育児の負担を前提とした上で、いかに女性を労働力として活用するかが問題とされた。

 制定から20年が過ぎていた同一賃金原則についても、議論の俎上には載ったが、政府が何かを示したわけではなかった。

 



2部 「保護か平等か」の時代

 

 

3.       国連婦人の10年

 

 

1975年の国際婦人年、および1976年から1985年の国連婦人の10年により日本の女性政策も大きく変わったといわれる。しかしその胎動はその10年ほど前から始まっていた。

 1965年に労働省婦人少年局は女性の若年定年制に関し

 

女子のみに適用される若年定年制は、労働基準法上の規定に直接抵触するものではないが、同法の精神に反することは明らかであり、憲法第14条の趣旨に鑑みても好ましくない[113]

 

との解釈を婦人少年室に示していた。婦人少年局は労働省内でも立場が弱く、「無効である」とまでは書けなかった。内閣法制局に照会を求め翌年8月に「合理的な範囲と認められない若年定年制は民法90条によって無効となりうる場合がある」との回答は得ていたが、婦人少年局は、行政指導の姿勢は従来と変わるところはない、と婦人少年室に指示していた。その間、婦人労働課の一般資料「女子の定年制」を通常とは異なり、市販した。この中には諸学説や医学上の知見が盛り込まれ、討議では、婦人少年局長の谷野せつが何とか定年年齢の格差は「合理的ではない」ことを示そうとしていた。それが、最大限できることであった。

ところが、1966年末、結婚退職制は無効であるとの判決が出された[114]

企業側は、補助的な仕事についている女性でも長く勤めると「これよりも責任ある地位についている男子職員(ことに大学卒業者)に比しより高額の賃金を給せられるという不合理が生ずるに至った。そこで、被告の男子職員らの多数から、この不合理の是正を求める要望が強まっていた」ので結婚退職制を導入したとしている。女性の基本給は男性の70%であったのだが、「男女職員の実質的平等を実現するには、女子職員の賃金体系を男子のそれと均衡のとれるように低下させ、女子が他社なみの低賃金で永く勤められるようにするか、女子職員の賃金体系をそのままにして雇入条件につき男子のそれと別異の定めをなし、女子を高賃金で結婚までの短期間に限り特定の職種につき雇うかの2方法が考えられる」が、結婚まで「高賃金」で働かせるほうが合理的である、という理由からであった。

 これに対し東京地方裁判所は、

 

労基法は性別を理由とする労働条件の合理的差別を許容する一方、前示の根本原理に鑑み、性別を理由とする合理性を欠く差別を禁止するものと解せられる。以上述べたことから明らかなとおり、この禁止は労働法の公の秩序を構成し、労働条件に関する性別を理由とする合理性を欠く差別待遇を定める労働協約、就業規則、労働契約は、いずれも民法90条に違反しその効力を生じないというべきである。

 

とし、「結婚退職制は公の秩序に反する」ので無効であると判決を下した。この初めての結婚退職制裁判の後も、豊国産業事件、神戸野田奨学会事件、茂原市役所事件、山一証券事件、三井造船事件と、いずれも同様の判決が出された。しかし、労働省内では表立って歓迎することははばかられたようで、婦人労働課の赤松良子が「青杉優子」というペンネームで「まさに朗報」と書いたもの[115]ですらとがめられ、しばらくして地方に異動させられた。

 

「女性保護規定は過保護だ」―――過保護論の台頭

 

 これらの定年制・退職制を「男女同じに扱え」という判決に反発した経済界から、女性労働者は「過保護」だとの声が出始めた。そのため、1969年に発足した労働基準法研究会も、その理由の1つに「女性は過保護であるといわれているが、果たして過保護か、どうか検討してみたい」という一文がある。

そして1970年10月に東京商工会議所が「労働基準法改正に関する意見」を出す。そこには、パートタイマーには労働基準法とは別の規定が必要であること、女性の時間外労働の制限を緩和すべきであること等が要求されている。そして生理休暇に関し

 

本会議所の調査によってみても、生理休暇の取得に関しては、乱用されているとの主張も少なくなく、女子過保護の典型的規定であると断ずる意見すらある。

 

としていた。同時期の東京商工会議所の意見調査[116]では、深夜業禁止の緩和、時間外労働制限の緩和、生理休暇の廃止などに関し意見を求めており、いずれも「過保護だから」という回答を選択している人の割合が1位ないし2位を占めている。

マスコミもこの意見書を取りあげ、「過保護論」が一気に知られるようになる。

しかし、女性労働行政の場ではこの時点ではまだ少し違っていた。1972年の勤労婦人福祉法の審議においては、東京商工会議所が意見書を出し「やっぱり女性は過保護なんだ」という考え方が出てきている、という質疑に対して、労働大臣は「母性保護を第一義的に考えるべきものであると考えます。したがって、商工会議所から出ましたのは行き過ぎであって、これは改めるべき、考えを改めるべきであると、私は思います」[117]と答えていた。ここでいう「母性保護」は産休のみに限定されておらず、時間外労働規制・深夜業禁止から育児への配慮までが含まれていた。勤労婦人福祉法は、訓示規定のみとはいえ女性保護を前面に打ち出していた。

 

同一賃金の分類は保護から「平等」に――変化の兆し

 一方、労働省の中での変化は起こり始めていた。婦人少年局は『婦人労働の実情』(現在の『女性労働白書』)を毎年作成している。その中の「W 婦人の労働保護と福祉 1 保護法規 (1)労働基準法に定められている婦人の保護」という項目には、1971年版(1972年発行)までは女性保護規定とともに労働基準法第4条の男女同一賃金原則も含まれていた。「労働基準法の中には婦人の労働条件を守るため、特に次のような定めが設けられています」[118]ということであった。しかし翌年からはこの項目自体なくなる。そして、1974年版からは「a.就業における男女平等に関する法規」という項目の下、「従来男子より低位にあった女子労働者の社会的・経済的地位の向上を図るため、労働基準法(4条)では賃金についての男女の差別的取扱を禁止している」と記載されるようになった。女性保護規定は「b.勤労婦人の労働条件の保護に関する法規」という別の項目に納められている。

 また、1971年のILO26号条約(最低賃金条約)の審議には労働基準局長の「やはり最近の女性の職場進出、あるいは職場における女性の地位の向上、確保という要請が非常にございまして、そういう意味では、あるいは管理監督的なものについては、自分の判断によってそういったいわゆる保護規定についての適用もある程度緩和することが望まれるというような意向もございまして、またもう1つには、それとは別の意味でいろいろ例外規定というのは排除して厳密に適用すべきだという両方の意見がございます」[119]と、保護規定の位置づけが変わろうとしていることをうかがわせる説明も見られる。

 勤労婦人福祉法のときにも「一般に婦人の保護とそれから平等というこの2つのまあ二律背反といいますか」[120]という見解もなくはなかった。また、保護と「平等」が両立しないという議論はそれ以前にもあった。労働基準法の審議がまさにそれであるし、例えば1959年の社会政策学会で労働省の赤松良子は

 

けだし保護と平等の二律背反はいわば婦人労働問題のスフィンクスであって、折あるごとに対決しなければならない問題だからである[121]

 

としている。「通奏低音」はあったものの、しかし、「保護と平等」が対立すると広く認知されはじめたのは1970年代に入ってからであろう。

 

「補助なんだから長くはいらない」――若年定年制をめぐる裁判

 判例の方は、結婚退職制だけでなく女性のみの若年定年制も無効であるとされ始めていた。1969年の東急機関事件[122]では、会社は「その業務のうち事務系の業務でしかも特別の技能、経験を必要としない補助的な作業(以下「軽雑作業」という。)に従事させるために、少数の女子従業員を採用しているがこのような女子従業員の賃金が他の本来的業務又は技術、経験を必要とする業務に従事している者の賃金と同様に毎年一律に上昇して行くような状態が継続することは、合理性に欠け従業員の士気を低下させるばかりでなく、経営の合理化を妨げることにもなるので、能率の点等も考慮し、女子従業員については停年を30才とすることによりこの問題を解決しようとした」と主張したが、東京地方裁判所は「…主としてこれらの業務を扱う女子を全員一律に軽雑作業職に格付けするとともに、男子はこれらの業務を扱う者であっても他の業務も扱っていることを理由に、一人もこの職級には格付けしなかった」と、実際には女性が補助的な仕事だけをしていたわけではないとし、賃金に関しても「右に述べた一律上昇方式による賃上げのために、女子も男子と同様に昇給したが、初任給については男子よりも女子の方が低いことなどもあって、学歴、勤続年数等を総合的に判断した場合には、男子よりも女子の賃金の方が低いことは否めない」として

 

本件停年制の内容は、男子の55才に対して、女子は30才と著しく低いものであり、且つ、30才以上の女子であるということから当然に企業貢献度が低くなるとはいえないから、他にこの差別を正当づける特段の事情のない限り、著しく不合理なものとして、公序良俗違反として無効となるものというべきである。

 

と結論づけた。その後も同様の判決が相次いだ。

しかし、25歳差は「著しく低い」としてももっと差が小さい場合の判決は揺れた。まず、1971年に東京地方裁判所で男性55歳女性50歳の定年は合法であるとされた[123]。「女子労働者の定年年令を男子労働者のそれより短縮したからといって、そのことだけで直ちに公序良俗に反するとはいいがたい。しかしながら、女子の定年年令についての差別的取扱が、専ら女子であることのみを理由とする以外に他に合理的理由を見出し得ないようなものであるときは、かかる差別的取扱を定めた労働協約は民法第90条に違反するものとして無効であると解するのが相当である」とした上で、

 

…男女とも筋力・肺活量・動脈硬化と関連する血圧の変化・視力・反応時間・動作の敏速性等各種の生理機能においては、機能の年令的変化の上で男女間に特別の差はないが、一般に女子の生理機能水準自体は男子に劣り、女子50才のそれに匹敵する男子の年令は52才位であり、女子55才のそれに匹敵する男子の年令は70才位となること、我国で従業員の定年制を実施している企業にあっては定年年令を男女一律とするものが大部分であって80パーセント以上に及ぶが、男女別定年制を設けているものも約20パーセント近くあり、そのうち男女に5才の差を設けているものが最も多く11パーセント程度となっている

 

ことから、「以上に認定した男女の生理機能の差異、我国における男女別定年制の実情、被申請会社が男女別定年制を設けるに至った事情などに関する諸事実と男女の定年の差が僅かに5才であって男子従業員に比し女子従業員を著しく不当に差別するものでないことに鑑みれば、被申請会社の就業規則第57条1項に定める男女別定年制は、企業合理化の見地からして合理的な根拠があるものであり、単なる性別のみを理由とする差別取扱ではないと認められる」との判決が下され、仮処分申請は棄却された。女性の生理的機能が劣るのであれば、男女の定年年齢に差があっても男女差別ではないとの判断であった。原告は控訴し、東京高等裁判所でも争われたが、1973年3月に地裁判決と同様の理由から控訴は棄却された[124]

 その11日後、本訴訟の判決で、判断は逆転した。

 

…満55歳から満59歳の女子の生理的機能の点の平均値は満70歳以上の男子のそれにほぼ等しいものとされている。そもそも、知識、経験、体力、職種等労働能率に影響する諸要素のうち、生理的機能だけを抽出して、男女別の労働能力を比較対照することは、一面的であって、事の本質を解明するものではない。のみならず、生理的機能点の評価だけから見ても、満50歳から満54歳までの男女のそれにはほとんど差がないのであるから満50歳に達するときは、女子の労働能率が男子のそれより年齢との相関関係において著しく低下するという結論を導き出すことはできない。したがって、この点からは男子55歳、女子50歳定年制の合理性は論証されない[125]

 

と、男女の能力が一律に異なるとの主張は認めなかった。さらに、男女の従事する業務が違うとの主張も「しかし、他方男子従業員の多くが従事していた生産部門の作用にも特に高度な技能や長い経験を必要とせず、…すなわち、女子従業員の場合は、短期間で業務に習熟するのに対し、男子従業員の場合は、業務に習熟するのに長期間を要するという前提を被告会社の場合に適用することは正当ではない」とした。男性と女性の定年年齢の格差は一切認められなかった。

 生理的機能に関する判断は、この判決も仮処分時の判決も、根拠としたものは労働省婦人少年局が1965年に作成した『女子の定年制』であった。この中で、労働科学の見地から、労働基準法の作成にも携わった医学博士の勝木新次が

 

要するに上記のような生物学的な検査の結果からみるとき、定年を決めるとして男女で差をつけることが適当かどうかとの設問に対し、イエスとの解答ははっきりとは出てこない。しかし他方女子の機能水準は一般に男子より低い傾向があり、そのことからすれば、男女の定年に5才程度の差異があってもそれを不可とするほどの根拠は見出し難いかもしれない[126]

 

という表現をしたために判断が分かれたのであった。しかし、そこで25種類の生理的機能から総合的に判断して作成したグラフとされているものは、1954年に労働科学研究所の大島正光が秋田県の農村で20歳から74歳までの男女計500人を検査した結果を示したものであった。それは、白髪あるいはハゲ上がる度合い、歯の欠け方、皮膚のしわや弾力性の度合い、遠近の視力、筋力の変化、聴力、血圧、歩行速度などが含まれているに過ぎないという。勝木自身は「生物学的な立場から定年制の決め手になるものはない」と判決を受けてコメントしている[127]

 

 

[128]

 

 

 もう1点、この日産自動車事件(本訴訟)で見逃せないのは、東京高等裁判所での陳述において、会社側が「過保護論」を展開していることである。

 

労働基準法自体が、67条生理休暇、61条女子の時間外休日勤務の制限、62条深夜業の禁止のような合理的理由のない男女差別をしているのであって、同法を根拠にすることは自己矛盾であり、同法3条及び4条は、その文言よりみて、賃金以外の労働条件について女子を男子より不利益に取扱うことを禁止していないことは明らかである[129]

 

という主張は、それ以前の他の結婚退職制裁判、若年定年制裁判ではみられないものである。同事件でも1973年までのものにこの論点は見られず、本訴訟地裁判決から1979年の本訴訟高裁判決までの間に新たに追加されている。それは、男女の定年差10歳をめぐって会社側が控訴・上告をした伊豆シャボテン公園事件でも「過保護論」は見られない。おそらくそれまでは女性保護規定が考えられる論点として数えられていなかったが、敗訴によって新たにこの時期広まってきていた論調を取り入れたものと推測される。

 日産自動車事件(本訴訟)は最高裁まで争われたが、1981年に会社の上告は棄却され[130]「5歳の差であっても無効」という判例が確立する[131]

 

ドサクサ紛れの閣議決定―――女性差別撤廃条約の署名

 

 雇用機会均等法の審議までには紆余曲折があった。女性差別撤廃条約も、1980年6月までは新聞には「署名見送り」[132]とするものが相次いだ。雇用の問題だけでなく、高等学校で家庭科が女子のみ必修である点や父系血統主義の国籍法を改正する目途が立たなかったためである。労働省は「労基法改正について研究会報告が出たところで、雇用平等法などを作るとしても時間がかかる」、文部省は「指導要領の改訂は10年ごとで、家庭科についてもすぐカリキュラムはかえられない」、法務省は「国籍法改正は、二重国籍防止のため外国との交渉もあり、すぐにはできない」と各省とも消極的であった[133]

 そのため外務省は、採択には留保つきで賛成したが、「国内体制を条約に合わせて批准できる見通しが立たない以上、署名はできない」[134]と判断したのだ。しかし、1970年代は大都市で革新系首長が誕生していたこともあり、自由民主党にしても1976年からは選挙政策に「職場における婦人の地位の向上」を、1979年からはそれまでの「ガイドライン作成」を一歩進め「男女平等法制の具体化」を言い始めていた。その内容は、党大会で「一方、最近の世論調査によると『主婦も、家事や育児にさしつかえない範囲で社会人としての仕事を持つべきである』と考える人が男女とも多数を占めている。…わが党は、この現状にそって、働く婦人の環境、労働条件、賃金等における男女の格差や不公平の是正につとめているが、引き続き婦人の家庭生活と職業生活との調和を図るための努力を積み重ねていく。さらに婦人の3人のうち1人は貧血という事態を重視し、健康な母体で子供を産み、明るい家庭づくりをすすめるための婦人の健康づくり運動を推進する」[135]としていた。また「自民党が運動方針の中に、労働組合との対話や提携を進めていこうという積極的な方針を打ち出したのは、党の歴史で初めてのことです」[136]と総評・同盟との対談も行なっていた。

そして政府が正式に署名を決定したのは7月15日、総選挙中に大平正芳首相が亡くなった後を一時引き受けた伊藤正義首相臨時代理による閣議決定であった[137]。次期自民党総裁は鈴木善幸に事実上決まっており、同日、正式に選出されている[138]

そして、当時の労働大臣も鈴木内閣の労働大臣も後にこの閣議決定に関して「さっぱり記憶にない」としていた。つまり、この方法であれば、誰も企業などから非難を浴びることなく、責任を曖昧にしたまま、欧米諸国にも顔向けできたのだ。閣議決定の発表はひっそり行なわれた。コペンハーゲンで開かれる「国連婦人の10年世界会議」署名式の2日前のことであった。まだ存命だった市川房枝らの抗議が効いたと言われている[139]

 

「雇用平等法をつくろう」

 

国際婦人年世界会議における決定事項を、国内政策として取り入れるために首相の依頼によって集められた有識者により構成される婦人問題推進会議は1976年11月に、「意見」として「母性は、次の世代を生み出すという社会にとって重要な機能であって、社会的に尊重されるべきもの、婦人がこのことのために不利益を受けるようなことがあってはならない」とし、女性の身体は国家の管理下にあることが暗に示されている。また「婦人の労働を正当に評価し、同一価値労働同一賃金の原則に立って、男女の均等待遇を実現すべきである」ともしていた[140]

そのためには「長期的には、男女平等を確保するに必要な法律・制度を整備するとともに、科学的根拠が認められず、男女平等の阻害要因となるような婦人だけの特別措置は解消されるべきである。したがって、男女労働者の一般的な労働条件の改善を目指しつつ、男女が同じ基盤で就業できるように、男女平等の方向にむかって法規の再検討を行なうことが必要である」ということで、「母性」の範囲はそれまでより狭くなっていた。

 それを受け、首相と関係各省庁の事務次官などで構成する婦人問題企画推進本部は「国内行動計画」を策定した。そこでは

 

雇用における男女平等を徹底するためには、男女が同じ基盤で就労できることが前提要件となるので、現在婦人に対して行なわれている法制上の特別措置について、その合理的範囲を検討し、科学的根拠が認められず男女平等の支障となるようなものの解消を図る[141]

 

とされ、産休等の妊産婦保護以外の女性保護規定の撤廃が志向されていた。

 1969年に発足した労働大臣の諮問機関、労働基準法研究会も「国内行動計画」が策定されたこともあり、1978年に報告書を提出した。そこでは、男女の生理的機能の差から合理的な範囲での特別措置は必要だが、その範囲は、労働条件、科学技術等時代によって変わり得るものであるとした。そして労働基準法制定時には合理的であったものも現在に至ってその理由がなくなったものもあるとした。

    

男女平等を徹底させるためには、できるだけ男女が同じ基盤に立って就業しうるようにすることが必要である。したがって、女子に対する特別措置は母性機能等男女の生理的諸機能の差から規制が最小限とされるものに限ることとし、それ以外の特別措置については基本的には解消を図るべきである[142]

 

「母性保護」の範囲はそれまでよりも限定して解釈されていた。そのため、労働組合・女性団体をはじめ法学者たちからも批判が強かった。

そこでは、1974年の専門委員報告「医学的、専門的立場からみた女子の特質」[143]は言及されなかった。この報告は、医学的立場からは生理休暇を除き女性保護緩和には否定的であった。特に時間外労働・深夜業については「長時間労働や深夜勤務の影響が女子において男子よりも深刻であることを立証している資料が少なくない」としていた[144]。報告当時は、生理休暇に反対する報告と認識されたが、すぐに報告自体忘れ去られ、1978年の報告では「科学的」な見地から女性保護規定は産休を除き撤廃される方向性が示される。

母性保護を除いた後の「平等」の実現方法については「行政指導には法的強制力がないことから自ら限界がある。/したがって、就業の場における性別による差別的取扱いを解消していくには、明文をもって男女差別を禁止し、私法上の救済だけでなく、迅速かつ妥当な解決を図りうる行政上の救済が必要である」[145]としていた。

さらに「労働基準法3条を改正し、『性別』を入れるべきであるとの議論もある。しかし、労働基準法は労働関係存続中の労働者の労働条件いついて規定するものであり、労働基準法上労働条件について性別による差別的取扱いを禁止しても、募集、採用における差別の問題が残る。この問題が同時に解決されなければ労働関係に入る前に女子が排除されるといった傾向がさらに強まるおそれがある」[146]としていた。また、諸外国の事例として、アメリカの「肯定的活動」(ポジティブ・アクションのこと)も紹介されている。

しかし、研究会の報告書は立法過程においてほとんど顧みられることはなかった。

 

ガラス細工の均等法案――法案作成

 労働省の男女平等問題専門家会議(労働大臣の私的諮問機関)は「雇用における男女平等を実現するということは、…機会の均等を確保し個々人の意欲と能力に応じた平等待遇を実現することであり、男女同数を採用すること、管理職の半数は女子とすることなどの枠を当初から設定するような、結果の平等を志向するものではない」[147]が、「機会の均等および待遇の平等を目指す際にも、女子が妊娠出産機能という男子にない機能を有していることを考慮に入れなければならず、この差異を無視して単に男女を全く同一に扱うこと―形式的平等―を志向することは適当ではない。このような男女の本来的な差異を考慮に入れ、そこから生ずる労働のあり方の差異を踏まえた平等―実質的平等―を目指すことが必要である」とした。妊産婦保護以外は男女同一扱いにすることが「平等」とされた。

一般に女性が劣るという理由で女性を低く扱うことは男女平等に反するとしたが、平均勤続年数の差については「機会均等という観点を尊重しつつ、今後、男女平等の実行を確保するための諸方策について法的措置を含めた検討が行なわれる際に、併せてさらに審議が深められることが望まれる」[148]と、企業代表委員もいるため、まとまらなかった。

婦人問題審議会の方は、1983年の終わりに至ってもまとまらず、「中間報告」も「労働者委員は〜」「使用者委員は〜」「公益委員は〜」と3者の意見を並列するばかりであった[149]。使用者委員は「平等」のために保護規定の撤廃を言い、労働者委員は「平等」のためにも保護規定は必要だとした。「平等」という言葉は、保護規定撤廃を目指す使用者委員にも、保護規定存続を目指す労働者委員にも使われた。

婦人少年局の意向を受け、公益委員は翌年2月に妥協案として「たたき台」を出したものの、労使ともにこの内容を批判した。結局、3月に出された建議は3論併記となった。

 

 

 

労働者委員

使用者委員

公益委員

「雇用平等法案」の範囲

労働基準法3条に「性別」を加え、罰則を適用。

法律で一律に扱うのは反対。定年等は判例もあり、罰則なしの禁止規定もやむを得ない[150]

募集・採用は努力義務。それ以外は罰則なしの禁止規定。

女性保護規定

労働時間の短縮等が先。

撤廃すべき。

母性保護を除き本来廃止すべき。ただし段階的に。

生理休暇

母性保護である

母性保護ではない

母性保護ではない

育児休業

必要

反対

行政指導

 

 

 そのため、婦人少年局はこれらを組み合わせ法案を作成し、同審議会に諮問した。新法ではなく、勤労婦人福祉法の改正という形をとり、名称も「雇用平等法」ではなくなっていた。そこでは、募集・採用、配置・昇進は努力義務、教育訓練、福利厚生、定年・退職・解雇は禁止規定とし、女性保護規定は緩和、生理休暇は存続、育児休業の規定は変更しない[151]、とした。ただし、教育は基礎的なものということで新入社員研修のみ、福利厚生は住宅資金貸出に限定された。罰則は、設けなかった。そのため労働者委員は賛成せず、当初は審議会に出席しないとしていたため答申を得られないことが危ぶまれた。結局、婦人少年局長の赤松の「不充分でもつくることが大切」との説得に応じ、出席し、答申は出された。労働者委員としても、女性差別撤廃条約の批准ができなくなることは避けたかったためでもある。赤松は公益委員のたたき台との違いについて「たたき台の場合はより長期的な展望といいますか、あるべき姿という方に重点を置き、法案は現実的な配慮というところに重点を置いたための違い」[152]であるとしている。企業の反対を受けずにすむ、ギリギリの線だと判断したのだ。名称が雇用機会「均等」法であったのも、企業の「平等」アレルギーを緩和するためであった。政府は官僚任せ、労働省は政府をみて「自主規制」と、すくみあっていた。

 

男と同じになんて、「これは革命だ」――財界の反応

 女性差別撤廃条約署名のときもそうであったが、企業からの反応はそれまではあまりなかった。「男女差別がいけない」となっていくことはなんとなく感じていても、具体的に何が差別なのかの認識が広まっていなかった。企業代表も加わっていた「雇用における男女平等の判断基準の考え方について」が1982年5月にまとめられたときも、イメージがわかず、まず内部の研究会でその内容の検討を始めている。そして、「考え方」に挙げられた事例がほぼすべて差別とみなされると感じられ始めた1983年半ばくらいから、反対論が噴き出してくる。

    

一部の人からは『革命ではないか』という声すらあがるぐらいの衝撃を与えたのである。尻に火がついた、という実感をもって受け止めた[153]

 

「考え方」で挙げられている事例とは「女性は一般に就業意識が低い」「女性は一般に必要とされる能力が十分でない」「顧客が女性では相手にしない」「女性は家計補助的である」「女性は産休や家事・育児で欠勤率が高い」などである。これらが差別だとされると「革命」的な変化を必要とする、と考えたのである。例えば、女性は自宅のみとするのは企業エゴではなく、本人が望むからで、それが差別となると女性の雇用の機会をせばめると考えていた[154]。さらに「憲法で定められた国民の権利が、すべてそのまま社会的に権利として保障されるわけではない。例えば、『職業選択の自由』(22条)があるから、法律や社会的規制を無視して勝手に職業に就いたり、契約もない会社で就労することができると考えるのは誤り」[155](傍点原文)であり、一部には「雇用平等法が制定できなくなり、その結果、規制廃止までもたな上げされてはかなわない」[156]という声もあったものの、「悪法も法であり、ひとたび法制化されれば影響は大きい」[157]と反対であった。財界4団体は建議後、「時期尚早」と反対で一致した。

 

1.  男女の別は本来的なもので、…この点に沿った役割、就業形態を直ちに“男女差別”というのは間違いである。

2.  いわゆる男女差別問題は歴史の流れの中で社会的・習慣的につくり出された面が多く、したがって真の男女差別とは何か、それにどう対応するかを明確にするには諸々の要因を総合的に把握し判断する事が必要である。早急な法律の規定によって解決できる性格のものではない

 

のであり、「ここで必要なことは、女性自身が勤労意欲を高め、それによって企業が男女のセグリゲーション(分離)をなくせるような状況を自らつくってゆくことであ」り、「そうした意識を高めることなく、制度のみが先行しても女性の地位向上は困難である」としていた[158]

1980年代、終身雇用等の「日本的経営」はすばらしいものだとされていた。

   

労働は人格実現・人間性の実現を担っているわけであるから、これを退職によって中途で挫折させるということは、本人の人格実現に亀裂を生じさせ…歩合給によって、賃金に刺激を加えることは、人間を動物化させる方向に走ることになる[159]

 

2度のオイルショックに先進国の中でいち早く立ち直り、1979年にはアメリカで『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン?』という本も出版されていた。「企業内の雇用管理は終身雇用慣行の下に長い間かかって築き上げてきた仕組みである。しかもそれは女子自身の職業意識や就業形態、さらに一般の社会通念とも整合性をもったものであって、現在までそれなりの合理性をもってきたものである。試案のように強行規定によって現状の急激な変革を求めることは、企業内に重大かつ無用の混乱を起こし、ひいては企業の活力を減殺するものであって、われわれとしては到底容認できないのである」[160]と、企業にとってそれらを変えるべきであるという意識は薄く、保護規定を残すのは逆差別だとしていた。そして、平均的にみて勤続年数・就業意識の劣る女性をいちいち個別にやる気などを判断するのは非合理であるとされた。いわば「統計的差別理論」と分類されるであろう考え方である。この考え方は「コース制」、つまり事前にやる気のあるなしを決めておく制度という形で具体化してゆく。

 「労使関係において、使用者側はどちらかといえば経営の自由を求める『自由』の立場、労働側は利益の配分を求める『平等』の立場」[161]であるのだが、ここにおいて、「平等」は「自由」のための手段とされた。そして、採用であれば「大卒男子何人、女子何人という採用基準を打ち出すことができなくなり、実力に応じて男女の区別なく採らなくてはならない。男女の合格率に差があれば、不平等として訴えられかねない。現在大卒女子を採用していない企業は7割にのぼっているが、女子不採用を打ち出すことができなくなる」[162]と、「自由」でなくなることを嫌った。

企業にとっては「男女平等というのは、我々の長い間、一種のスローガン的に言われてきたわけでありまして、差別そのものの解消に反対するものではありませんけれども、具体的に見て、男女の別扱いのうち何が差別と言われるものであるかということについては、実ははっきりわかってお」[163]らず、「差別があるとは思っていないというのは現状の話でありまして、この条約なりこの法律なりがねらっているところに照らすならば、明らかに今まで差別でないと思っていたことが差別ということになる」[164]と考えていた。

 大卒を募集している企業で、女性も応募可能だったのは3分の1ほどであった[165]

 

家庭重視の「平等」―――国会での審議

 

雇用機会均等法(雇用の分野における男女の均等な機会および待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律)は勤労婦人福祉法の改正という形をとったためかどうかは分からないが、その提案理由も似たものであった。それは

 

近年、我が国における女子労働社は着実に増加し、約1500万人と全労働者の3分の1を超え、また、あらゆる産業、職場に進出し、我が国の経済、社会の発展は今や女子労働者を抜きにしては考えられなくなってきております[166]

 

とまず女性労働者の量、そしてその貢献度に言及するというものであった。もちろん、すでに女性差別撤廃条約に署名していたので「国の一員として、早期に関係国内法を整備し、条約の批准に備えることが要請されております」という点も法制定の必要性として挙げられている。

 そして、この法律は「コペルニクス的転回」を迎えたものであるという。一方、野党が勤労婦人福祉法と中身が変わっていないと批判したことに対しては、「まずスタート、スロー バット ステディー、この3S主義」で漸進的に行くとしていた。究極における包摂と、当面の排除を両立させたもの、それが漸進主義であった。変わるまで変えないという、実態が法律に先行するのは日本の行政法ではよく見られることだが、この場合もそうであった。差別禁止は今までと180度違うものを、少しずつ変えてゆくということが矛盾を感じずに同居していた。

この審議で強調されたことは「意欲と能力のある女性は男性と同等の扱いを受けるべきである」という点である。それまでの「女性は一般に劣るから、待遇も低くなる」という言い方とは微妙に異なってきている。これは2つの意味を持っていた。まず、職業上平均的に女性は劣るという前提。つまり、全体として女性の待遇が劣ることを事実上容認していた。それから、専業主婦よりも雇用労働をする方が偉いと理解されるのを防ぐ、こういうためであった。

そして、機会均等はこの法律のタイトルにもある通り、女性労働者に対する「福祉」であるとされた。

「社会の現実は非常に厳しいわけでありますから、その平等の成果の前に、まずスタート台が、スタートラインが男性と同じであるということが先に来ると私は思いますね。そういう意味で、やはり男性と同じ機会均等を与えて、そして意欲と能力のある方は結果として平等を与えなければならぬ、私はそういう風に思っております」[167]と、機会均等という「福祉」のためになされたことは、女性保護規定の緩和であった。国家の介入を減らすことが「平等」であった。

意欲と能力に欠ければ、当然扱いに差が生じる。能力主義を掲げることは、企業にとって均等法の規制を実質的にクリアする方策となっていった。

女性保護規定が撤廃ではなく緩和となったのは「本当を言ったら、男まで広げたらこれは大変なことになってしまうから、そこまではできないでしょうということで多少広げた。男なら深夜であろうと休日の時間外であろうと、やろうと思えば無制限、そんなことを女の人に一緒にというわけにはいきませんから、ある程度男に近づくという姿勢をひとつ期待をしたということで、現実にそれが行なわれるような労働行政は私どもは決して望んではおらぬ」[168]と、男女差を内包したものであった。能力主義とは、性別格差を与件としたものにすぎなかった。

女性の進出は男性の雇用を奪わないか、という疑問は自民党から出ていた。しかし政府は、最近増加した女性の進出は女性の就業比率の高い職種で顕著で、男性と女性の代替関係はあまりみられない。将来は雇用機会の均等ということであるかもしれないが、失業率を低下させる政策により、「こういうことによりまして、女性の職場進出によって男性の就業の場が取ってかわられ、そのために男性失業者が増える、こういうような事態は全体としてはないだろう」[169]と説明していた。女性は男性と競合する存在ではなかった。

 

「現実」的な機会均等――保護規定の緩和

雇用機会均等法の審議で強調されるのが、「婦人差別撤廃条約の趣旨に照らせば、女子に対する特別の保護規定は、妊娠、出産にかかる保護規定を除き、究極的には廃止すべきであると考えられております」[170]という点である。

女性差別撤廃条約の第4条2項に、「締約国が母性を保護することを目的とする特別措置をとることは、差別と解してはならない」と妊産婦保護の規定がある。その他の女性保護規定に関して書かれた条項はない。そのため、女性保護規定を残したまま批准した国も多かった。しかしそれでも「女子保護規定は、母性保護規定を除きまして、基本的には同条約に抵触するわけでございまして、究極的にはこれを改廃することが求められている」[171]と繰り返していた。そして、保護規定の緩和は女性の要望でもあるとされた。実際、埼玉の女性タクシー運転手たちだけではあるが、陳情を行なっていた。ただそれも、「でも、本当は深夜に働かなくてすむだけの賃金がもらえれば、それに越したことはない。子どもの世話もできないし、私自身疲れるし。女子保護をいうなら、ちゃんと生活できるだけのことをしてほしい」[172]という理由からであった。長時間働かなければ(相対的に)生活が苦しくなるからであり、その意味で「男性並み」であった。

国際婦人年(1975年)の世界行動計画には「女性のみを対象とする保護立法は、科学的、技術的な見地から再検討を加え、必要に応じ改訂、廃棄又はすべての労働者にその適用を拡大すべきである」とある。また、ILO行動計画「今日の科学的知識と技術の進歩に照らして、女性に関するすべての保護法を再検討し、あるいは、これらの法制を国内の状況に応じて修正、補完、男女すべての労働者への適用拡大、現状維持又は撤廃するなどの措置がとられるべきである。/これらの措置は、生活内容の改善を目指すためのものである」とされている。

では、女性保護規定の水準をを男性へ拡大することは考えられなかったのかというとそうではない。しかし「将来の問題としてこれは別個に切り離して考えていいではないか、これは理論的にはそのとおりかと存じますけれども、来年じゅうにこの婦人差別撤廃条約を批准したいという国際的、国内的な要請がございますので、それを満たすためには将来の問題としてではなく、現段階である程度の女子保護規定の見直しが必要であると考えているわけでございます」[173]ということで、「…女子のほうの保護規定の水準に男子の労働条件を一方的に近づけていくというのは暴論だと思うわけであります」[174]という中では、女性保護規定を緩和する方が「現実」的であったのだ。

しかし「保護がなくなるということと就業機会が増えるということとは、それほど直接的な関係にはないのではないかというふうに思っているわけでございます。…その研究の中でも、(イギリス)工場法と女子の就業機会とは直接関係なく、工場法ができても就業機会は狭くならずに、女子労働者はかえってふえているというその当時の研究がございます」[175]と、それが女性のためになるというわけではなかった。

過保護論が広まった後に審議され、「男女平等と保護規定のバランス」ということで2つは二律背反、二者択一の交換条件とされていた。そのため野党も、「ここで求められているのは男女差別の撤廃であり、女子の労働権の保障であり、平等を名目に女性に対する保護を外すことではないから」[176]であり、「婦人労働者の時間外・休日・深夜労働の規制緩和や解除など母性保護の大幅な後退を図り、女性の就業を一層困難にしようとしていることであります。これでは機会均等どころか、男女平等に逆行するものと言わざるを得ません」[177]と保護規定を残すために応戦してゆく。

 正確に見ると、必ずしも女性保護規定の撤廃自体に反対していたのではなく、欧米並みの労働基準の確立が先だ、としている。男女ともに時間外労働の規制がしかれれば、女性のみの規定は必要ない。しかし、男性の労働時間等に対する規制が現実の政治課題として持ち上がってこない中では、この論理は議論の中心にはならなかった。また現実に家事・育児を負担しているのはほとんど女性であったので、労働組合も女性団体も保護規定の緩和には反対であった。そのため「労働時間の規制が緩和されたり、深夜業の規制が解除されたりしたら、本当に働けなる」[178]として、女性保護の維持という形で論議は「保護か平等か」論に回収されることとなる。保護を主張する根拠は、女性の健康への配慮から、家事・育児負担へと変わっていた。労働条件は、敗戦直後よりは改善されていた。一方、男性労働者を代表する声は、聞こえてこなかった。

 そして撤廃の例外とされた産休も、企業にとってはそれを取った場合「現実の対応としては、昇進・昇格差をつけざるをえないといえます」[179]というものだった。

 欧米では、「平等」法は人権のための法律であった。そしてそれを制定した後に、それと合致しないという理由から女性保護規定は撤廃されていった。日本においては、保護が邪魔だからその解消のために「平等」が持ち出され、問題があっても労使の「自主」的な対応により解決されるものとされた。

 

「それでも批准はできる」――努力義務規定の効果

努力義務というのは日本独特の法概念であるが、「わが国におきましては、性による差別が刑罰をもって禁止さるべきであるというのが共通認識であるとは認められておりません」[180]という理由から採用された。企業が同意しないのは「私どもの感じとしましては、とにかくいまだかつて経験したことのない未曾有の事態が来るわけです。…現在の段階ではどういう事態が起こるか、どんなようになるか分からない、具体的に何が差別であるかということも本当を言うとわからないわけですから。…簡単に言えば時間稼ぎですな、時間稼ぎのために努力義務規定にしておいていただきたいということを前々からお願い申し上げてきたわけでありまして」[181]、という不安からであった。

 外務省国際連合局国際連合調整課長の小西芳三はすべてを禁止規定にすることが女性差別撤廃条約の理念にかなっている、としていた[182]。しかし政府は「これ(努力義務)が婦人に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約に違反するかという点になりますと、これは私どもはそのように考えていないわけでございます。…すべての場合に制裁を含まなければならないという風には理解できない」[183]とした。女性差別撤廃条約第2条(b)に「女性に対するすべての差別を禁止する適当な立法その他の措置(適当な場合には制裁を含む。)をとること」と書かれているためだ。同一賃金条約の場合と同様、政府の重荷となる政策(罰則にしろ禁止規定にしろ)が積極的に採用されることはなかった。

 公益委員案は募集・採用に関しては労働省の働きかけにより努力義務としていたが、配置・昇進の差別は禁止としていた。それでも配置・昇進も努力義務規定にしたのは「平均勤続年数の重さというものは、採用、募集のときに限らず、まず配置をするとき、あるいはその中で昇進をさせたりあるいはさせなかったりという判断をするときにも極めて重要なファクターになるということでございますので、私どもといたしまして、公益委員の御見解にもかかわらず、それをもまた努力義務とした次第でございます」[184]と、企業側の主張を採用したためであった。これは、労働基準法第4条において「女性であることのみを理由とする差別」の労働省解釈「女子労働者が一般的、または平均的に能率が悪いこと、知能が低いこと、勤続年数が短いこと、扶養家族が少ないこと等の理由によって、女子労働者に対し賃金に差別をつけることは違法であること」[185]よりも後退していた。指針でも、「男性10人、女性1人」という募集はやむを得ないとされた。

 平均値を基に判断する「統計的差別」は企業にとっては、合理的であるとされる。将来予測が完璧にできるわけではないので、判断を簡便に行なえるからである。しかし経済学が結論するのは、企業にとっては合理的であっても、国家にとっては有能な人材が活用されないことになるので、何らかの是正策が必要である、というものである。しかし雇用機会均等法の審議を通し、政府は企業の主張を代弁するだけであった。

同一賃金原則は均等法が関与するものではなかった。しかし男女の賃金格差に関して、均等法の審議に先立ち、1984年度の『婦人労働白書』で勤続年数・学歴・職種・職階などを調整すると男女の賃金格差が縮まるとの計算を披露していた。解釈で「問題」を乗り切る腹積もりであった。ただ、それでも20歳台で女性は男性の約90%、40代になると約70%であった。この頃は判例の影響もあり、男女別立ての賃金表というのはまずなかった。だが実質的に女性の職務評価を低くしていたり、女性が多い職種の評価が低い、といった構造的な問題が指摘されるようになっていた。しかし労働省は、身長が低いから女性の処遇を低くする、というものが仮にあった場合でも、合理的ではないかもしれないから検討が必要だが、「でも、女性も特別高ければそれでも通るわけでございますから、男女の差別とはいえない」[186]との立場であった。

定年・退職に関しては禁止規定となったが、判例としては確立していた。そのため、この法律で良くなったわけではないと言われていた。しかし政府は「これまで、例えば若年定年制等につきまして行政指導をしてきた経験がございますが、その場合に特に法律的な根拠というものがないということで、なかなか相手を説得するのに困難をしたという経験がございます」[187]から必要であり、雇用機会均等法における成果であると繰り返された。1980年頃、男女別定年制・結婚退職制等が指導で改善したのは半数ほどであった[188]。しかし、改正法のときにも「今後は積極的に指導に努めたい」とするなど、その後指導姿勢が大きく変わったわけではなかった。この部分を強調するしかこの法律の誇る部分がなかったのだ。しかも労働基準法とは違い、行政指導による紛争解決といっても企業への調査権はなかった。

そして労働省の指導姿勢は均等法施行後も、「女子労働者の雇用管理等に関する各種の実態調査結果等によると、男子のみの募集、男女別定年制等がみられるなど、現在なお同法の趣旨の徹底が不十分となっており」[189]、「婦人少年室の助言、指導等の実施状況を見ると、電話、面談等を繰り返し行っているものの、男女雇用機会均等法等に基づく文書による指導又は勧告はほとんど実施していない」[190]と後に行政監察で指摘されている。そのため、10年経っても解決していない事例すらあった。

 救済方法は、それを司法から行政の手に引き戻すことが企図された。裁判では長期間かかるのも事実であった。しかし調停制度も導入されたが、企業の同意がなければ調停を開始しないとしたため、結局その後10年間で1社について開かれたのみであった。「開かずの扉」と呼ばれた。

 育児休業に関しては、自民党も党大会で「しかし、雇用における男女の機会均等が十分実現されているとはいえない。…『雇用における男女平等法』(仮称)の法制化を推進する。…職種を問わず『育児休業』の制度化をはかる」[191]としていた。しかし「さらに本制度が法制化されれば、女子労働者の職域を狭め、雇用における男女平等もさらに遠のかせる結果となる」[192]といった、経済界の反対に押され、努力義務規定のままであった。

「この法律の施行後適当な時期において、その施行状況を十分勘案して、必要がある場合には検討を加えて、その結果に基づいて必要な措置を講ずる」との異例の附帯決議をつけ、野党はすべて反対の中、可決された。

 

新しい皮袋に入った古い酒――議員の女性観

労働基準法の審議においては、女性が男性より劣っていることは「当然の前提」であった。この年の総理府の世論調査では初めて、「男は仕事、女は家庭」という考え方に「同感しない」が「同感する」を上回っていた。では、雇用機会均等法の審議においてはどうであったのだろうか。

まず、内閣総理大臣の中曽根康弘は女性観を聞かれ

 

私は、天の半分は婦人が支えている、また、よき妻であると同時によき母親であってくれというのが私の念願であります[193]

 

と、女性の家庭内での役割を重視する発言をしている。これは自由民主党の議員に共通してみられる[194]。例えば外務大臣の安倍晋太郎は「機会均等といいますか男女平等に機会は与えなければなりませんけれども、実際の実態面としましてはお互いに話し合って、そしてそれぞれ分担を決めていくということは家庭生活においてはあっていいことじゃないか。例えば妻が家庭を守る、夫が外で働く」[195]と未練をみせる。雇用機会均等法が勤労婦人福祉法の改正であったように、自民党議員の女性観も過去の延長線上にしかなかった。むしろ、一部の例外[196]を除き「男女平等」が広く言われたことへの反動とするべきかもしれない。

自民党の愛知和夫は「私は個人的には女性を尊敬する一人でありまして、特に私ども、ここにいらっしゃる議員の先生方は大体ほとんど同じような経験をもっていらっしゃると思いますが、例えば選挙に当選をするとなりますと、奥さんの力はまことに大きいわけですし、また女性票も大事でございます。そういう点で、私も選挙をやるようになりましてから女性に対する尊敬の念を殊さら深めたわけでございます。/しかし、それだけではなくて、家庭における女性の役割、これも極めて大なるものがあります。」[197]との内助の功を褒め称える女性観を述べ、労働大臣も「なかなかいいお話を聞かしていただきまして、私も愛知さんと同感でございます」と応じた。自由民主党の議員は選挙のときに「男女平等」を感じるらしく、安倍も「私なんか政治家で選挙に出ておりますと、男性の票とまったく同じように女性の票をいただいておるわけですから、男女平等というのはまったく我々は身をもって感じておるわけでございます。」[198]という。

 では、働く女性に関しての認識はというと「例えば公務員試験なんかでも、上級であってもこれは試験だけで採用すれば、現在の局長の半分ぐらいは女子になっちゃうということだってあると思うんです。…しかし、じゃ、そういう立派な成績だからといって、人生、40年全部職業人として、国家公務員として、あるいは地方公務員として住民サービスに奉仕徹底していただけるか」[199]と男性との意識の違いを強調したり、「ただ、我が国の、男は外で働き、女性が家庭を守る、そして育児の終わった人あるいは育児、家事に余裕のある人は、その条件に合った職業を選択していける、そういう状態というのが悪しき状態であって必ず是正されなければならないものであるとは、私は必ずしも思わないわけであります。それは日本の長い伝統に培われてきた男と女が幸せになる一つの形であると私は思うわけでありまして」[200]と、「伝統」を賛美する。労働大臣も「やはり長い歴史と伝統の中で民族の営みがあるわけでありまして、…ペリーが来て、黒船が来て、文明開化をやって近代化をやったときも、これは直訳でやったわけではない。日本は日本なりにやはり立派な道をたどる。戦争に負けたのはこれはまことに大失敗でありましたけれども、しかしその後だって、やはり日本的な民主主義、自由主義というものを日本的な風土に昇華さして、そして立派に世界第2のここまでやってきた。これは事実でありますから、何としたって、やはり自分たちの伝統を離れて理想はない、私はそう思いますね。(発言するものあり)」[201]と「日本的」な改革が必要だとする。この場合「日本的」というのは、男女の違いを前提とし、それに大きな改変を加えない漸進的なものであった。

「伝統」回帰論には、「民主党においても共和党においても家庭の回復が選挙スローガンとして掲げられていることも注目すべきであります。アメリカでは、平等の推進を男性に敵対した女性運動という形をとって進める時代は終わり、男女ともそれぞれの良さを再認識して新しい家庭を創造することとあわせて行なうという第二期に突入していると言われております」[202]とアメリカも「セカンド・ステージ」に入ったのに日本は遅れているという言い方もなされた。アメリカの社会状況や、それまでに確立している制度は頭になかった。実態はともかく、論調としては男女同一であるべきとされていたので、「それぞれの良さ」を言うことは新しい方向だとされたのだ。

女性が雇用労働の場において男性と同一の扱いを受けることを目指した法律であるはずなのだが、その反動か、そこで示される女性像は性別役割分業観を色濃く反映したものであった。強調されるのは、家庭における女性の役割の重要性、それから次代の労働力を確保するために出産は尊重されるべきであるという点であった。

 ただ、30年前なら女性の採用条件に容姿端麗を挙げることは普通に行なわれていたが[203]、前年、紀伊國屋書店が採用基準に「メガネ・ブス・チビ・カッペ」は不可としていたことをマスメディアが取りあげ問題となった。そのため、「女性が劣る」と言える時代ではなかったからこそ「女性は違う」とするしかなかった。また自民党関係にも「第1は、平等にしても実害がないではないか。何も女性を半分採れと言っているわけではない。バカでも女性を採れと言っているわけではない。女だから採らないというのはやめてくださいと言うだけである。男女平等で教育を受けてきて、大学を出た、しかもトップで出た、成績優秀な女性がいる。それを会社が募集もしない、採用もしない、試験も受けさせないというのでは、その女性が反自民、反体制、反企業になるのは当たり前の話ではないか。だから、企業は女性だから採らないと言ってはいけない。しかし、企業はどういう人を採るかは自由だから、『私どもの企業ではそんな頭のいい人は要らないんです』、そんな立派な会社ではありませんので、そういうガリガリな人は要らない、あるいは協調性がないとかなんでもいいのだから、企業が欲しい人を採ればよい」[204]という理由から雇用機会均等法を支持する声があった。

 男女の性別役割分担の賛美は景気の良い間は続いた。日経連会長も1990年の男女雇用機会均等推進全国会議で、個人的見解と断わりつつ、「家庭の大事さということを思い深めていただきたい」とし、『青い鳥』を例に引き、幸せの青い鳥は結局は遠いところではなくて、自分の家にいる、「女性の方も、家庭を犠牲にして男女雇用機会均等法の精神だけを生かすという考えではなくて、家庭の楽しみ、育児の楽しみというものが人生の最大の楽しみではないかということも思い浮かべ」ることが「これは、やはり、均等法の精神を本当に生かす道ではなかろうかと考えております」とあいさつした[205]

 女性保護規定が残り、差別が禁止にならなかったのは労使の妥協の結果ではある。しかし、自民党の国会議員も女性が男性並みに働くことを望んでいるわけではなく、その点では奇妙な一致をみた。

 

「内助の功」への配慮

このような女性観において、専業主婦の「内助の功」に配慮するのは当然なのだろう。配偶者特別控除は、現在では女性の労働意欲を疎外する、と批判されているが、1987年の所得税法改正ではそのようには考えられていなかった。専業主婦控除とも称され、基本的にはマル優制度の廃止によるマイナスを埋めるための減税措置であり、自営業者が家族を従業員として認めるために生まれる、クロヨンと呼ばれる税の補足率の違いを縮小されるための策であるとされていた。国会での論議はほとんどがマル優廃止に関してであり、配偶者特別控除に関してはあまり触れられていない。議論を要さない「自然」な減税策であった。また逆に配偶者控除だけでは、急に税負担が重くなるので女性の労働意欲を疎外するので、段階的に課税するのが合理的とされていた。

配偶者控除の方は、戦前にも例がなくそれまでは、配偶者も扶養親族の1人として、扶養控除の対象となっていた。しかし、「配偶者を生計費の観点から扶養控除の対象としてだけみることは適当でなく、夫婦の所得は一体としてみられるべきこと、夫だけが所得を得ている場合でも妻は家庭管理者としての責任を果たすことにより夫の所得の獲得に大きく貢献しており、妻は夫の得た所得の処分にも大きな発言権を持っていること」[206]などの理由により1951年に実施されていた。

 

「もう障害はない」―――女性差別撤廃条約の批准

 

日本国憲法第14条は性別による差別を禁じている。しかし「憲法上わが国の解釈といたしまして、従来合憲とされておりましたことでもこの条約上は許されなくなるというものがございます」[207]ということで国内法の改正が行なわれた。署名の後、女性差別撤廃条約の批准が「非常に気運が乗ってまいりましたのは、昨年の国会でご承認をいただきました国籍法改正、それから政府が提出いたしました雇用均等法、この辺から」[208]であった。

そもそも政府は女性差別撤廃条約には消極的で、例えば「同一の教育課程」とあるのを「均等の教育課程」と変更する提案をし、欧米からの非難を浴びている。「同一」であると高等学校で女性のみが家庭科必修であることが問題となるが、「均等」ならば改正の必要がないと判断したためだ。結局、条約は「同一」という言葉を選択する。批准にあたって政府は、高等学校における家庭科教育は「漸進的」に改訂することで批准可能と解釈した。具体的には次の臨時教育審議会で取りあげ、数年後のカリキュラム改定時に必修とすることを目指したいということであった。そのため、もう国内法上の障害はないとされた。ここでも、変えられたのは制度ではなく解釈の方であった。労働に関しても最低限必要なのは、母性保護のみで「したがってその他の規定については強行規定でなくても批准可能であると考えられる」[209]と日経連に対して答えており、努力義務規定でも可、とされた。だが後々、国連の女性差別撤廃委員会で「実効性に欠ける」と追及されることになる。

教科書の記述が男女の性別役割を肯定しているとの批判も「教科書の内容には、社会の現実が反映される面もありますので、将来のあるべき姿を考慮しつつ、男女の異なった状況や場面が記述されている場面もあり得ますが、これらの記述は男女差別の観点で記述されているとは考えておりません。」[210]と、これも条約批准に問題がないとされた。

 「そういうお仕事を持っておられると、他の仕事が男性からくらべれば少し手薄になるという面も出てくるでしょう。女性にいろいろな面をすべてやれと言ったって、それはかわいそうな話でありまして、そういう意味において、両性がそれぞれ持っておる特性を生かしながら、調和ある社会をつくっていくというのが望ましいこと」[211]と、女性が出産できる点を基にその「特性」を活かすべきとされていたので、性別役割分業が教科書に残るのも当然であった。

 専業主婦への気づかいはなされ、「誤解を避けるために補足すれば、この条約は集合体ではなく個々人としての女子に着目し、男子と同等の能力を有する女子と男子とを平等に扱うとの考え方に立っているもので」[212]雇用労働にたずさわらない女性がおとしめられることはないことが強調された。

批准自体は「西欧諸国の中には安い女子労働に支えられた日本の集中豪雨的な輸出が貿易摩擦を生んでいると非難する向きがあり、こうした誤解を解くためにも条約加入は意義がある」という点からも、反対の声はなかった。

 

小括

 

 国連婦人の10年によって女性政策は大きく変わったとされている。しかし、雇用機会均等法が(偶然であれ)勤労婦人福祉法の改正法であったように、自民党議員や企業の意識もそれ以前のものの延長であった。女性は男性並みに働いてもらう必要はなく、家庭を守りつつ、労働力不足に低賃金で応えてもらえればよかった。この法律自体が何らかの新たなインパクトを持ったものではなかったのはそのためでもある。男女の違いを前提としつつ、同じ扱いへの「現実」的な1歩を進めるという、過渡的なものであった。雇用機会均等法は、現実社会を変えずに女性差別撤廃条約を批准し、欧米に顔向けするために制定された。対抗勢力である野党や労働組合も、既得権益でもあった女性保護規定を守ることを余儀なくされた。「守るべき」とする理由は、女性の健康への配慮から、女性は家事・育児負担があることへ移り変わっていた。

 一方、同一賃金等をめぐる判決は、政府の意思と関係のない形で進んでいった。労働基準法の効果を政府がどう限定しようとも、裁判においてはそれを最終的に解釈するのは裁判所であった。どのような理由であれ、一度出来た法律(の条文)は、それだけで動き始めていた。


 


4.       均等法の施行以後

 

 

 雇用機会均等法が施行され、「意欲のある」女性は幹部候補として採用される例も稀にだが、みられるようになった。企業の不満は聞かれなくなっていた。多くが努力義務規定であるために、特段の変更が必要ないことが分かったからだ。「要するに、男子研修、女子研修の呼び名をコース別に変えればいいんだ。中身は同じなんだから」と理解されていた[213]。そして、雇用機会均等法の施行によって制度変更を必要とした企業は少なかった。唯一、均等法施行によって男女同一になったと言われるのが、新入社員研修である。女性には今まであいさつ、電話の受け方などの接遇訓練のみであったのが、男性と同じものを受けるようになった。ただし、オン・ザ・ジョブ・トレーニングは労働省の指針により「基礎的な教育」の対象外となっていた。

 男女同一賃金は、同一職種の初任給においても、企業は消極的であった[214]。また「お茶くみ」や「机ふき」、「コピーとり」は女性の仕事のままであった[215]。国会でも「今回の均等法は、事業主の業務命令とか、業務を遂行するに当たっての雇用管理上の問題をとらえているわけで、清掃業務、灰皿の後始末等が、職場の慣行で女子が自主的に行なっているということであれば、それは法律の範囲外のことと考えている」との答弁があった。

 

「過去の男女別扱いは公序良俗に反しない」―――裁判に与えた影響

 

均等法は、想定されていなかった方向で裁判に影響を与えた。全くの男女別コース制は「被告の主張するように、基幹的なものとそうでないものに明確に二分することは不可能であって、たかだか処理の困難性の高いものから低いものまでその程度の異なるものがあり、その困難性の程度も様々のものがあるとしかいうことはできず、基幹的業務とその余の業務といっても相対的な程度の差であり、しかもそれを二分することは、困難性の程度の高さからいうと連続した多数の業務をある点で分割するという不自然なことをあえて行なわなければならないこととなる」としたものの、

 

本件においては、結果的に男女の間に賃金の格差が存在するのであるが、それは、被告が前記のような男女別コース制をとり、事務局職員の採用に際し、幹部職員となるべき職員については男子のみを募集し、女子を募集していないことに起因しているのである。すなわち、本件のような男女別コース制は、従業員の募集、採用について、女子に男子と均等の機会を与えないという点において、男女を差別し、法の下の平等に反しているということができるのであるが、このような募集、採用の機会について男女を差別することが民法90条にいう公の秩序に違反するか否かについて考えると、労働者の募集、採用は労基法3条に定める労働条件ではないこと、雇用における男女の平等は、国内的にも国際的にもそれを目指した関係者の多年にわたる幾多の努力の結果ようやくその実現が図られつつあるのが現状であるということができ、昭和61年4月1日に施行された雇用機会均等法もその1つの成果であるが、同法においても労働者の募集および採用については女子に男子と均等の機会を与えることが使用者の努力義務であるとされているにとどまること、従来労働者の採用については使用者は広い選択の自由を有すると考えられてきたこと等に照らし、少なくとも原告らが被告に採用された昭和44年ないし49年当時においては、使用者が職員の募集、採用について女子に男子と均等の機会を与えなかったことをもって、公の秩序に違反したということはできないものと解するのが相当である。

 

という理由から過去の男女別コース制は合法である、とした。この、均等法が施行された1986年の12月に出された、施行後初の判決を女性団体は失望を持って迎えた。これは雇用機会均等法ができたことが逆に、それ以前の男女別募集による機会の不均等は違法ではないとする根拠とされ、均等法が悪い方向に影響を与えたと考えられた。しかし、施行後に関しては「したがって、現在このような事件が起こったら、判決の内容は相当異なるものとなるだろう。男女雇用機会均等法において努力義務とされている募集・採用、配置、昇格・昇進の機会均等についても、指針に違反すればその行為は公序違反となり無効とされるおそれがあるので、本件におけるような男女別コース制は無効とされ、これに基づく男女の処遇の差は認められない可能性があるからである。複線型労務管理の運用にあたっては、本件判決を他山の石として、差別とされることのないよう配意していかなければならない」[216]と、一律に男女を別コースにすることは違法とされると理解された。そのためか、

 

このコース別管理の考え方は、等しいものは等しく、異なったものは異なった処遇をするというもので、基本的には男・女の問題から出ているのですが、表示としては男・女は使っておりません[217]

 

という、総合職・一般職と呼ばれる分け方のコース制がこの頃、大企業に広まっていく。これは、男女とも募集しているので、差別だと解されないと判断したからだ。

この時期はこの他にも、男女を一律に別扱いにするものが裁判により違法とされていった。

社会保険診療報酬支払基金事件では昇格について、男女の性別によってその適用基準を別にしているわけではないが、「男子職員を一挙に昇格させたにもかかわらず、同一の要件を満たす女子職員については段階的にしか昇格させないというのは、それ自体女性差別であり」[218]違法であるとした。岩手銀行事件では世帯主手当が「男子行員に対しては妻に収入(所得税法上の扶養控除対象限度額を超える所得)があっても、本件手当等を支給してきたが、被控訴人のような共働きの女子行員に対しては、生計維持者であるかどうかにかかわらず、実際に子を扶養するなどしていても夫に収入(右限度額を超える所得)があると本件手当等の支給をしていないというのだから、このような取扱いは男女の性別のみによる賃金の差別扱いであると認めざるをえない」[219]として原告女性への支払を命じた。労働省は「“住民表上の世帯主”とした場合は、これは、「男女異なる基準」ではないのでこの法律の対象とはならないと考えられる」としていた[220]。三陽物産事件[221]では、世帯主は年齢通り、非世帯主は25歳相当で据え置くとしながら男性は非世帯主でも年齢通り支払われていたので、女性であることを理由に賃金を差別したものとされた。

 逆に、例えば幹部候補として女性を募集しさえすれば、あるいは1人でも課長に昇進していない男性がいれば、差別とはされなかった。管理職に門戸を開いている企業は、少なかった[222]

 

1.57ショック

 

「少子化に歯止めを」――育児休業法

女性差別撤廃条約の批准時には、育児は母性保護の一環だと考えられていた。しかし、育児休業法を制定するのは、普及率が14%程度であることを考えると時期尚早、とされていた。

社会党等は1988年には国会に4野党共同で育児休業法案を提出していた。共産党も独自の法案を提出していた。自民党も1980年の衆参同日選挙のときには育児休業制度は選挙公約であり、1989年には労働部会に育児休業問題等検討小委員会というのを設けて本格的に議論を始めていた[223]。そして、翌年の1月には育児休業制度・介護休業制度の普及を図るための法的整備が必要であるという中間報告を出している。

 

…つまり、出生率が今1.57%の状況である、このまま100年いくと日本の人口は5000万ちょっとになってしまう、さらに500年後になると120万の人口になってしまうというような、そういう先々を考えますと、さあ高齢化時代を迎え、あるいはまた、諸々の政策を含めて日本国そのものの存亡の危機さえあるのではないか。

じゃ一体どうするんだということになってきますと、おのずといろいろ御指摘されていきますように、とにかく女性の皆さんが積極的に社会参加をする。社会参加をする背景の中にどうしても働きながら子育てというのには大変きつい部分がある。ならばそこにやはり育児休業制度というものを設けなければいけないのではないか[224]

 

という、認識からであった。「女性のため」ということではなかった。1989年の合計特殊出生率1.57というのは当時「1.57ショック」と呼ばれ、少子化問題の象徴的な数字として扱われていた。そのため、日経連は法制化反対に加え「子供の人格形成期における母親の役割については論を待たないところであるが、適用範囲を父親にまで拡大することは、社会慣行など現実面に照らして慎重な検討を加える必要がある」[225]としていたが、政府は男性にも育児休業を認めた。この点は、マスメディアも「画期的」としていた。一方この頃スウェーデンでは子育て支援策が効き、出生率が1.60から2.13にまで伸びていた。育児休業中の所得補償は90%あった。

 少子化は経済界でもとっても大きな問題とされていて、「将来の企業経営を考えて、日本の子供の数が減っていくことに危機感を感じますか。」との問いに4分の3の経営者が「感じる」とした[226]。それでも「日本的経営」は基本的に続き、女性役員が珍しくなくなるのは数十年先のことと考えているものの、それまでと比べ少しばらつきが出てきている。不況も背景に、「従来の『男性は仕事、女性は家庭』という社会通念としての画一的な役割分担は、効率性を尊ぶ社会では合理的なものであったといえ」るが成熟化社会には合わないと主張されるようになっていた。そのためにはまず「母性保護などの社会的配慮に大きく依存することなく、自己実現を図る意識がまず必要」だが、「健康に配慮した労働時間規制の考え方は男性についても適用できるものであろう」という[227]。その一方で「新聞の夕刊に“女性の社会進出”に関連する記事が目立ちはじめたのはいつ頃からだったろうか。(ほとんどのメンバーは読み飛ばしていたようだ。)経済誌のみならず、様々なメディアに“女性の・・”という話題が頻繁に載りだしている。どのメディアの論調をみても、どうも多くの女性たちは不幸であるらしい」と、他人事のものもある[228]

ただ企業側は、「育児にしても、介護にしても、社会的に支援するシステムが整備されることが不可欠であり、育児あるいは介護について徒らに企業に経済的負担を求めることは適切でない」[229]と国による整備を求めていた。女性労働問題に理解の深いとされる財界人でさえ、保育所を持っている企業は1%強しかないのだが「従来企業が担ってきた企業内保育所機能とか医療や文化・教養などの機能は、コミュニティーにバトンタッチする傾向が今後強まると思います。例えば、英国やカナダには企業内の診療所がありません。緊急の対応はするが、基本的には地域の医療機関が行なうという分担が確立している。つまり、企業は身軽になって、最小限のコストで競争力を確保することをめざすようになります」[230]と今後の方向性について語っている。「私的」な面の支援は会社共同体の関与する部分ではなく、国家・地方自治体が負担するものということだ。

 結局この法律では給与に関する規定はせず、後に育児休業給付として賃金の25%相当が、所得補償として雇用保険から出されることとなった。このことと、中小企業への適用も始まったことにより、妊娠・出産を理由とする退職は10%ポイントほど減った[231]

 

男女の家族的責任

1995年には「我が国がこの条約を締結することは、家族的責任を有する労働者の職業上の責任と家族的責任との両立に関する政策の分野における国際協力に寄与する見地から有意義であると認められる」という理由から、ILO156号条約(男女労働者の家族的責任条約)が批准される。

しかし156号条約に関しても、政府は例えば、without conflict between their employment and family responsibilities は、法学者の間では「雇用と家族的責任」と訳すものと考えられていたが、政府はフランス語のテキストを根拠に「職業上の責任と家族的責任」の両立、とした。「雇用」とすると企業および政府に責任が出てくるが、「職業上の責任」とすると労働者の責任となるからであった。

もともと、ILOでこの条約を審議する際も政府は、結局は賛成したが「家庭責任は各国の社会的、経済的および文化的な慣行と不可分であり、またこれらの責任は各市民によって任意に遂行されるべきものであって、各国の法制によって実行を期することを規定するには不適切である」としていた。

国会での審議でも、転勤は家族的責任を果たす上で問題がないのか[232]、との質疑に「転勤の問題につきましても基本的には労使の話し合いによって取り組んでいただく問題であると考えており」両立に向けた取り組みを期待する、と述べるにとどまり政府としての施策や援助は示されなかった。

 この頃、国連の女性差別撤廃委員会の審査では、日本は女性の地位向上に努力はしているが、先進国にしては足りない、解決策のための分析がない、外国人女性の状況が分からない、雇用機会均等法の導入後も女性差別が続いており間接差別の措置を検討すべきである、などとされていた。また、ILO条約勧告適用専門委員会からは同一労働同一賃金条約に関し、1993年に「客観的基準をもとに、男性と女性が行なうさまざまな職業の価値を評価し、比較するために取られた措置を示すよう」要請されていた[233]。しかし、政府はその後何ら示さず、賃金調査の結果を提出しただけであった。

 

日本的福祉の末路――介護休業法

 1995年には、育児休業法を改正する形で介護休業制度が導入される。当時、労働省の調べでは1993年時点で、育児休業の普及率が50.8%、介護休業制度は16.3%であった。しかし時期尚早とされることはなかった。公的介護は不充分であった上、介護保険等を全面的に採用すると財政の重荷になることが懸念されていた。

提案理由は「介護休業制度は、労働者が介護のために雇用を中断することなく家族の一員としての役割を円滑に果たすことのできる制度であり、労働者はもとより、企業にとっても有意義な制度として普及定着が図られるべきものと考えております」[234]とされ、村山も

「介護休業制度は、高齢化、核家族化が進展する中で、介護を必要とする家族を抱える労働者が働き続けるために重要な制度であると考えております」[235]とはしたが、労働者の権利とは言えなかった。

当時の首相は社会党の村山富市であったが、社会党が3年前に出したものよりも休業期間が短縮されており、1年間ではなく3ヶ月間とされていた。理由としては、介護休業を1年間とすると働く女性の負担がに過重になる、というものであった。だが労働省の調査では、育児休業取得者のうちの男性比率は0.2%であったが、独自に介護休業制度を持っている企業での取得の男性比率は23.1%であった。それでも「本来介護という問題は、歴史的には権利として語られていたのではなくて、家族制度の中で女性の義務として、無償の労働として語られてきてしまっていたわけですね。これを職場での権利ということだけ強調しすぎると、女性の義務が不当に固定化し、正当化してしまう」[236]とされた。野党の新進党は3ヶ月では足りなかった女性が解雇されかねないと批判したが、ジレンマを抱えた。

社会党内からも普及率が低い中導入しようとしているが「家族介護から社会介護への転換が求められている」のではないか、という声があった。一方、新進党は「高齢化社会に関する負担は、自助、共助、公助の調和の原則から、共助の観点に立って企業の負担もお願いをしなければならないわけであります」[237]としたが、企業は反対であった。

企業は法制化自体、雇用維持・時短・育児休業に加えて介護休業も法律で制定するということでは「何か、従業員との話し合いが不要となり、今まで築いてきた従業員と企業との信頼関係がぎくしゃくする感じが否めません」[238]との立場であった。

女性が利用するということに対しても「何というか、女性の場合は派遣さえすれば代替要員ができる。だけれども私は、女性でもそうなんですが、女性でも非常に熟練工的な人は代替要員がきかない、そういう点で中小企業は困るということを言っているのです」[239]という姿勢になっていた。1986年から大企業でも女性が幹部候補として採用される例が若干あったが、中小企業では低賃金により人手不足のため、それ以前から女性労働者に頼る場合も多かったからである。

結局企業側は、負担が「最小限」に設定されたために法案には反対しなかった。

翌年の総選挙で、介護・育児対策は働く女性の環境づくりとして、自民党にとっては「男女平等政策」となった。民法改正、性暴力禁止法とともに、環境ホルモン対策、地球温暖化防止対策も女性政策であるとされた[240]

 

ひそかなラディカルさ、欠ける実効性―――雇用機会均等法の改正

 

 雇用機会均等法から10年、大企業の過半数はコース制を導入しており、そのうちの約80%の企業は総合職を「男女とも募集」としていた。「総合職」という言葉も『広辞苑』(第4版)に載るようになっていた。しかし、その中で実際に女性を採用した企業は30%に満たなかった。大卒を募集する企業の7割近くが男性のみだった時代と実質変わりがなかった。総合職として採用した企業でも、女性の割合は数%であった。その総合職女性も「名誉白人」であった。また一般職は女性のみ募集でも可、と労働省の指針でされたいたので、一部例外はあったがそのほとんどは女性であった。管理職中の女性の割合は、施行前より1%ポイントほど伸びてはいたが、4%弱であった。その意味で、男女の境界を取り払ったのではなく、境界を少しずらし、一部の女性を男性の領域に取り込んだだけであった。

 能力主義も、1960年代には職務給・職能給として企業に導入されていたが、実質的に年功制と変わらない運用がされていた。そのため、日経連は1995年に「新時代の日本的経営」として、賃金を年齢ではなく業績や個人の成果に応じて支払うべきである、と改めて提言していた。

 また、雇用機会均等法の改正に先立ち、総務庁の行政監察では「女性のみの募集・採用等の取扱いについて、均等法においては何も規定されておらず、均等法施行通達においては均等法の関与するところではないとされているため、前記のように、女性を補助的・定型的業務への配置に固定化し、男女平等の理念にそぐわない結果をもたらしている状況がみられる」[241]とされていた。労働省に対しても「これら(結婚退職制・若年定年制)についても、文書による指導又は勧告が行われていないが、均等法の遵守や男女の雇用の均等な取扱いに対する理解の欠ける企業には積極的に強力な行政指導を行うことも必要であると考えられる」[242]と改善を勧告していた。

 

最後のカード

雇用機会均等法は採決にあたり、適当な時期に見直すという附帯決議がなされていた。そのため婦人少年問題審議会で議論することとなっていた。だが、女性保護規定の見直しについては、1995年3月に政府がまとめた「規制緩和推進計画」に盛り込まれ、見直しの検討が約束されていた。この年の終わりに始まった審議会では、女性保護規定の見直しと雇用機会均等法の見直しは一括して扱うことになっていた。しかし、議論は今回も対立し、遅々として進まなかった。半年後、労働者側は最後のカードを切った。条件次第で女性保護規定撤廃してもよいと言い、連合(日本労働組合総連合会)中央委員会でもそれを可決したのだ。経営者側は「剛速球が飛んできた」と称した。ただそれでも、直後は「禁止規定より女性のみ採用の是正が現実的」「まず現行法の普及を徹底することが必要であり、そのための方策を考えるべきだ」としていた。さらにそれが難しいとなると、「均等法の見直しで今求められているのは、募集・採用、配置・昇進の部分であり、今後の均等法の検討では、検討対象をこの点に絞るべきだ」と、罰則規定や時間外労働の男女共通規制に反対する姿勢に転じた。そのため、議論は一気に進んだ。

 

立ち表われた変化

改正法においては

 

男女雇用機会均等法が施行されて10年が経過いたしました。この間、女性の雇用者数の大幅な増加、勤続年数の伸び、職域の拡大が見られ、女性の就業に関する国民一般の意識や企業の取り組みも大きく変化いたしております。…働く女性が性により差別されることなく、その能力を十分に発揮できる雇用環境を整備するとともに、働きながら安心して子供を産む事のできる環境をつくることは、働く女性のためだけでなく、少子・高齢化の一層の進展の中で、今後、引き続き我が国経済社会の活力を維持していくためにも、極めて重要な課題であります[243]

 

と働く女性のため、という理由が先に挙げられるようになっていた。

 内閣総理大臣である橋本龍太郎は女性の社会進出に対する認識を、綿紡績の現場に勤務した経験もあるためか「21世紀に向け、我が国においてますます個々の女性が多様な働き方を主体的に選択できる社会の実現が必要であります。個々の女性の人生の進路は、これは男性の場合でも同じことでありますけれども、みずからの意思で決定すべきでありまして、その上で雇用の分野における男女の均等な取り扱いの確保のための対策を積極的に推進し、働く女性がその能力を十分に発揮できる雇用環境を整備してまいりたいと考えております」[244]とその進出はある程度当然のものとして述べた。

 この法律において、法律の中心的内容が雇用の分野における男女の均等な機会および待遇の確保を図ることになるとのことで、女性労働者の福祉の増進と地位の向上を目的規定から削除していた。また、女性労働者の職業生活と家庭生活の調和を図るとの規定も、家族的責任というのは男女がともに担うものというILO156号条約にもそぐわず、残すことはかえって男女の役割分担を固定化する弊害が生ずるおそれがあるとして、法の目的から削除された。職業生活と家庭生活の両立については、育児・介護休業法等で対応するとのことであった。また逆に、育児・介護休業法があること、時短も進んできたとされていることがそれらを削除する理由になった。

雇用機会均等法においては、女性のみを募集することは違反ではなかったが、改正法では女性が受付とか細かい手作業に向いているとか、女性には特有の感性とか特性があるというような理由から、補助的、定型的業務などを女性のみ募集・採用することは、女性の職種を限定したり、女性と男性の職務分離という弊害をもたらすため、女性全体の地位の向上を阻害するということで、禁止された。また、単に女性であることを理由として女性についてのみ転勤の対象から外すことは、配置に関しまして女性が排除されていることになるので、配置に関する差別的取り扱いの禁止に違反するとされ、コース制は、各コースの職務内容や待遇が明確に定められ、各コースが男女ともに開かれており、各コース内における配置・昇進の雇用管理も男女公平に実施されている限り、均等法上の問題ないものと変更された。そのため例えば、女性のみに制服を貸与することも改正法の趣旨からは合理的な理由は認められない、としていた。

そのためか、今回の改正も大きな変革であり、後戻りできない「ルビコンを一歩渡るものだ」と労働大臣の岡野裕はしていた。その理由として、岡野は「例えて言いますならば子供のころ、おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯にというような、物語の中でもやはり洗濯、つまり家庭におばあちゃんはとどまるのだな、おじいちゃんは外へ出てしば刈りをしたりなんかするのだなと。あるいは古事記だとか日本書紀を考えましても、アマテラスオオミカミという人物が神話として出てきます。スサノオノミコトという男の神様も出てきます。そうして、アマテラスオオミカミは機織りを家でやっていたところが、スサノオノミコトが生きた馬の皮をはいでそれをアマテラスオオミカミにぶん投げた。それでスサノオノミコトは出雲の国に追放されたというような、もう、2、3000年前の話からそういった差ができている中で我々の民族というのは今日に至ったというようなことからも、我々が男女雇用の面において均等扱いをしようというのは、私は革命的な大仕事」[245]であると考える、としていた。閣僚クラスの議員の差別認識はあまり現実味のあるものではなく、大仰な比喩がなされることが多いのは、前回の審議と変わらない。

 

「男女同一の基盤に」――女性保護規定の撤廃

自民党は1996年の規制緩和推進計画で、女性の時間外労働・深夜業規制もその対象にしていた。日経連や経済同友会、日本自動車工業会、日本鉄鋼連盟の要請によるものであった。

そして「働く女性がその能力を十分に発揮できる雇用環境」とは、「男女雇用均等法というものの精神は、女性であるがゆえの差別というものをやめようということででき上がっている案であります。したがいまして、女性であるがゆえに深夜業を今お話をしたような規定以外の理由をもって断るというわけにはまいらない、これが均等だということであると存じます」[246]と、保護規定の撤廃のことであった。ここに至り、「属性を問わない」という近代的な価値観が法律の理念において徹底されるようになった。

妊産婦保護に関しては、日経連が紹介する「女性の声」にすら「なお、私は現在育児休業中ですが、身をもって妊娠、出産、育児を体験した結果、母性保護については更なる充実の必要性をひしひしと感じております。両性の責任であるこれらの事態に、女性だけがすべてを背負うことはもはやできません。これからますます社会システム全体の理解と支援が、真実に平等な社会のために必要とされているのです」[247]とその重要性が強調されるようになっていた[248]。「国際潮流」の観点から女性のみの時間外労働規制等を否定するには、そこで例外とされている妊産婦保護は認めなければならない。加えて、前述したように少子化は経済界にとっても問題であると認識されていた。

そのことは、「昨年10月に母性保護に係る専門家会議の報告をいただいたわけでございますけれども、ここの中におきまして、『妊産婦以外の女子の妊娠・出産機能に影響があるという医学的知見は見当たらない。』というふうに報告されているところでございまして、深夜業が及ぼす一般女性への影響につきましては、これを妊娠・出産機能の問題としてとらえることができないというのがその専門家会議の報告の趣旨でございます」[249]と「科学的」に補強され、産休以外は母性保護とは認められないとしてその他の女性保護は撤廃された。しかし「母性保護に係る専門家会議報告書」では、時間外労働や休日労働が長時間に及ぶ場合、及び深夜労働は、労働者の疲労蓄積を媒介として、疾病、災害、能力低下と関連するだけでなく、健全な労働者生活の維持を図る上でも問題が多く、労働者に対して何らかの生理的影響があるとされていると書かれていた。妊娠・出産機能に影響はしないが、長時間労働や深夜労働が労働者の健康一般にとって好ましくないとされており、むしろ男女共通規制が意図されていた。

家事・育児負担に関しての状況が変わっていたわけではなく、1994年に時間外労働規制の例外に弁理士と社会保険労務士を加えたが[250]、それを一定の範囲を加えるにとどめたのは、家事・育児負担が女性により重くかかっている現実を考慮したためであるとしていた。総務庁の社会生活基本調査では、共稼ぎであっても、男女の家事時間の平均は、女性が1日3時間11分、男性が1日13分であった。

自民党は、女性保護規定の解消は「グローバル・スタンダード」であり、「企業活動のグローバル化が進む中で、国際的に見た公正な競争の確保という観点から、雇用・労働の分野においてもグローバルスタンダードという考え方が重要であります。我が国の法制が企業活動を阻害するものでないかどうか、改めて検討していく必要がある」との考えであった。その方向性は、欧州並みの労働基準の確立ではなかった。女性が家事・育児を負担しているとの意見には「そういったものを前提にして法による規制を行なうということは、むしろ法律をもってそういった固定観念的な状況というものを、枠をはめるといいますか、さらに固定をさせてしまうような心配があると考える」としていた。「固定観念的な状況」を解消する策は、とられなかった。雇用機会均等法の強化も時代の要請である、という点を除いては。

日経連は「この女子保護規定の解消は、仮にこれを男女均等の家づくりというふうに例えたとしますと、いわばその土台となるものが女子保護規定の解消ということではないかと思います。…意欲のある女性に対し、法がそれを不可能としてはいけないということであろうと思います」[251]として、育児や介護については、36協定等により労使の自主的な対応が可能であるという立場であった。労働基準法第36条による協定は、法定時間外労働の延長には労使の合意が必要というものであった。法律の定める範囲に関しては、時間外労働を拒否した場合解雇することも判例上適法であった。

 連合は、組合員の要求としても女性保護規定の存続よりも男女共通規制が必要とするものが多くなってきていた。労働省の調査でも、家庭責任は男女がともに担うべきであるから女性のみの保護は解消して男女ともに規制すべきであるという意見が一番多く、単に女性保護規定をなくすべきだという割合は0.08%であった。そもそも施行が翌年4月からではなく2年後になったのも連合の要求からであった。そして、1999年の施行までの間に「食い逃げ」をすることなく新たな時間外労働・深夜労働の規制が必要だ、というのが連合の意見であった。欧州でも、女性のみ深夜業禁止にしていたものは「男女平等」に反するとされた際、各国は男女共通の規制を敷いていた。

共産党のみ女性保護規定撤廃に反対し、採決の際にも反対票を投じている。

しかし、企業側はあくまでも労使の自主的な判断にゆだねるべきであるとし、新たな法的規制には反対であった。また「規制緩和が時代の流れ」とされており、政府の「6分野経済構造改革」は高コスト体質の是正の1つとして女性保護規定を挙げていた。そして、連合の考えとは裏腹に政府も「男女共通の法的規制ということを今考えてはおりません」[252]ということで、1998年に強制力のない時間外労働のガイドライン[253]が示されるにとどまった。そしてその中身はすでに労働基準法に規定されているものとほとんど変わりのないものであった。その間の社会民主党の提案も通らなかった。日本の時間外労働の賃金割増は労働基準法では25%であるが、実際に適用されている実効割増率はマイナス5%であり、逆に残業を促進していた[254]

 結果、日経連にとっては「思ってもいない御質問だったものですから心の準備ができておりませんが、私は今回の法に臨むに当たりまして、ずばり申し上げまして女子保護規定の部分につきましてこれが解消されたということにつきましては一応10点満点を差し上げていこうと思っています。/均等法につきましては、本来10点と言うべきところではありますが、企業側が格差解消あるいは機会均等の推進ということを標榜しながら取り組みをする過程にすべて到達できるかどうかというような不安な部分が今回の項目にまだたくさんございまして、少し内容的には先を走ったんではないかなというふうな気がいたしまして、その意味では使用者側から見て8点といったようなところかなと思います」[255]と高い評価を与えられるものであった。対照的に、野党推薦の参考人はすべてマイナス点をつけていた。

 

「意欲と能力に応じて」――女性の位置

国会議員の「男女平等」理解には若手でも「古いタイプの人間といたしましては、そういう形でかみさんが外へ出て行って、自分も家事をするのかと思うと、正直いってぞっとする部分はもちろんあるのですけれども」[256]というようなものもあったが、あくまで例外となっていた。

基本的には「男女雇用機会均等法というものの精神は、女性であるがゆえの差別というものをやめようということででき上がっている案であります。したがいまして、女性であるがゆえに深夜業を今お話したような規定以外の理由を持って断わるというわけにはまいらない、これが均等だということであると存じます」[257]とされていた。保護規定は女性の可能性を奪っており、法の規制を男女同一のものにする。これが「平等」とされた。

つまり、「女性労働者に対する差別を禁止する規定の趣旨は、これは女性労働者が雇用の分野で均等な機会を得、その意欲と能力に応じて均等な待遇を受けられるようにすることでございます。個々の労働者が現実にどのような取り扱いを受けるかというのは、その意欲と能力にかかっているもので」[258]あり、「個々の労働者の意欲、能力を適正に評価した結果、男性が多く採用されるということは均等法に違反するものではない」[259]ということである。「意欲と能力に応じて」との枕詞が必要なのは、つまり、何らかの形で劣ることが認定されれば、女性の待遇を男性並みにしなくてすむからであった。

法律の規定で差別を禁止した後は、個々の労働者の責任となった。この考え方はパート労働法により顕著で、労働組合に入っているパートタイマーがほとんどいないとしても、使用者と個別に話し合えるのだから問題がないとされた。

差別とされるものの範囲は広がり「労働者が女性であることのみを理由として、または社会通念として女性労働者が一般的または平均的に高度な能力を有するものが少ないとか、職業意識が低いとか勤続年数が短いとか、それからまた主たる家計の生計の維持者でないことを理由とするもの」は差別とみなされるようになった。

改正均等法により、「公」的な面での「平等」は徹底された。それは、男性と女性をグループとして見た場合の格差は考慮しないものであった。「私」的な面を強調することは男女が違うとされることを固定化しかねないが、差がないとすることも、実態を見ない教条主義になりかねなかった。

 

自主的で「積極的」な是正策

 企業側は罰則やポジティブ・アクションの導入には反対だった。労働者側が切れるカードはもうなかった。改正法では政府はポジティブ・アクションを支援する、とした。努力義務よりもさらに一段効力のないものであるが、導入されたこと自体は労働組合、女性団体ともに歓迎していた。

ただ、自民党内ではその内容はあまり理解されておらず、労働大臣でさえ「ポジティブアクションの定義は、ポジティブアクションは簡単に言うとポジティブアクションで、…まあ20年前だったらパソコンなどというのはわからぬと思うのです。…今日、パソコン、ワープロ、あああれだな、マルチメディア、これだなとだんだんわかってまいりました。そういう意味合いで、ポジティブアクションはほかにも、中小企業あたりで労働者諸君をより多く採用する、そのために省力化装置を設けるというようなのも、いわば積極的に雇用者をふやそうという意味でのポジティブアクションに当たるのだ」[260]と述べるような状況であった。

支援に限定したのは「ポジティブアクションというポジティブは、義務だからしょうがない、受け身でやるというものではなくて、みずから積極的に自主的にということでポジティブアクションということに相なっておりますので、義務とするのはポジティブアクションと違うのではないかな、こう思っております」[261]と説明している。しかし実際には、企業がポジティブ・アクションはあくまで「自主的に取り組むもの」で、法律で義務づける性格のものではないとしていたためであった。アメリカでは、公共事業を一定額以上請け負う企業は差別解消(男女に限らない)の計画書の提出、実施状況の報告を義務づけられている。しかし、それに対し逆差別との意見も根強くある。そのような対立に巻き込まれることを避けたといえる。

政府の支援というのは、「ポジティブアクションといいますものにつきましては、やっぱり均等法にもとるようなことがあったならば企業名を公表するというようなことで、言いますならばそちらで押していくわけであります。同時に、ポジティブアクション、これは立派なことだと表彰をするというようなことで、今度はエンヤコラということで前から引っ張るというような、二つの機能を我々は十分活用をして定着を図ってまい」[262]ることで「男女平等」の実効性を挙げられるとされた。その後行われたのは、企業への講習会と表彰であり、それが政府のポジティブ・アクション支援策であった。初年度は女性管理職を4倍にする方針を打ち立てたIBMなど、数社が労働省から表彰された。ただ企業にとっては、法律とは関係のなく、労働力不足に備えて優秀な女性を確保するためのものであった。啓発は個別企業訪問が重視され、予算も1998年度は23億円計上された。

 

「開かずの扉」――実行機関

 ただ、禁止規定となっても企業はあまり変わらないとみていた。罰則規定は見送りになっており、公表制度も実行されるものとは考えられていなかった。自民党にとっては「企業の中の問題は当事者でよく話し合って解決することが基本」[263]であったが、労働者の側が対等に話し合える要件が整理されていたわけではない。

指導も「実際には、その職場における男女の差別的取り扱いについての相談は、人間関係をおもんぱかりまして、御相談に来られた女性労働者が、婦人少年室で対応いたしまして企業名を公表してくださいと申し上げてもなかなか、特に地域が狭いような場合はなおのこと、企業の名前も出さず、また御本人の名前も言わないというような匿名で行われることが多いものですから、法第14条の紛争解決に結びつかない事例が多くなっている」[264]ということで、あまり行なわれていなかった。その上、「企業名の公表は、これは伝家の宝刀というようなものとして事業主に強く法の遵守を求めるものでございますので、この新しい制度を背景といたしまして、助言、指導、勧告といった行政指導の効果を高め、法律の実効性を十分に確保していきたいと思っております」[265]と実際には抜かれないものでしかなかった。企業名公表制度は障害者雇用促進法にすでにあったが、30年間で1回行なわれたのみであった。では、法にそった処置が行なわれているのかといえば、達成企業は半数ほどであった。そして、この法は具体的な数値目標があったが、改正均等法にはなく、労働省が個別に差別を認定しなければならず、より適用が難しいものであった。

制度それ自体としては、罰則はなく機会均等調停委員会が対応する、というのはアメリカのそれに酷似している。ではなぜ「実効性に欠ける」という批判があるのかといえば、前述の通りそれを活用してゆくつもりが元々ないからであろう。改正前に1度だけ行なわれた調停も結局、労働者側が調停案が受諾せず、裁判で争われていた。

結局今回も、将来「男女双方に対する差別を禁止するいわゆる『性差別禁止法』の実現を目指すこと。また、いわゆる『間接差別』については、何が差別的取り扱いであるかについて引き続き検討すること」「この法律の施行後適当な時期に、この法律の施行状況を勘案し、必要があると認めるときは、この法律の規定について検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずるものとすること」との附帯決議がなされ、共産党以外の賛成で可決した。

 

変わったもの、変わらないもの―――施行後

 

実証研究によって旧雇用機会均等法の効果を、経済的要因を除いて測定することは現段階ではまだ難しいとのことだ[266]。ただ、一般的な傾向としては正規雇用者の勤続年数・男性と比べた賃金ともに伸びてはきていた。女性のみ募集が禁止されたが、女性雇用者のうちの正規従業員も旧均等法と改正均等法の間では10%ポイントほど減っていた。一般職の仕事を派遣社員に回したためである。勤続年数が長くなる「高給」な一般職女性は必要ないとの判断からだ。旧均等法と同時期に制定された労働者派遣法も、「従来終身継続雇用というのは、あくまでも男子労働者を前提にしておるわけでございます。しかしながら、女子は、継続して雇用し、継続して就労、1日たりともあるいは1年たりとも断続なく続けて雇用しうる条件を満たしているのはごく少数だろう」[267]ということで「終身雇用というものを基本にしながら、そういう派遣制度というようなもので他の特定分野における需要と供給を賄う」[268]という、男性の雇用を補完するものであった。

ただ、1996年には同じ仕事であるのに臨時社員ということで賃金格差が大きいのは違法との判決が出されていた。そこでは「同一(価値)労働同一賃金の原則が、労働関係を規律する一般的な法規範として存在していると認めることはできない」としつつも、「同一(価値)労働同一賃金の原則の基礎にある均等待遇の理念は、賃金格差の違法性判断において、一つの重要な判断要素として考慮されるべきものであって、その理念に反する賃金格差は、使用者に許された裁量の範囲を逸脱したものとして、公序良俗違反の違法を招来する場合があると言うべきである」とした[269]。「原告らの賃金が、同じ勤務年数の女性正社員の8割以下となるときは、許容される賃金格差の範囲を明らかに越え、その限度において被告の裁量が公序良俗違反として違法となると判断すべきである」というのが結論であった。

もちろん日経連は「契約内容が異なれば、外見的には同じ仕事についていても賃金や処遇が異なるのは当然である。…それにしても裁判所が「同一労働同一賃金」の原則は公序でないとしながら、公序より曖昧な理念を持ち出し、公序良俗違反とし、しかも、その公序は8割までとする論理展開には納得できない」[270]と批判していた。欧州のように、同一の職種であれば、時間あたり賃金に差がないものとは異なり、この事件のような勤続年数の長いフルタイム・パートであっても臨時社員であれば、賃金は安くて当然とされた。

 1999年夏には裁判で、男女同一労働同一賃金の原則が示されている[271]

 

同じ職種を同じ量および同じ質で担当させる以上は原則として同等の賃金を支払うべきであり…結局は是正に至らなかったのである。これによれば、本件格差は、採用時における職務担当における男女の区別に起因するものであり、右是正義務を果たさないことによって生じた格差は、男女の差によって生じた不合理なものといわなければならず、即ち原告の賃金を女性であることのみをもって格差を設けた男女差別と評価しなければならないものである。

 

労働基準法第4条により、企業は同一労働に対しての賃金格差を是正する義務があるとして、「その他諸般の事情を考慮すれば、差別がなければ原告に支払われたはずの賃金額は、原告主張の同期男性5名の能力平均額の9割に相当する額と認めるのを相当とする」とした。

 もちろんこれに対しても日経連は批判をしている。

 

しかし、右判断には疑問を禁じえない。昭和54年6月に男性と同職種にし、同じ質・量の仕事を担当させたとしても、その時点で男性と同等な賃金にするよう格差を是正する義務が生じるとする根拠はない。本判決のような見解に立てば、女性の職種を変更するつど、同職種で同等な仕事を担当させる男性の賃金と同等にするように是正しなければならないことになり、はなはだ不合理である[272]

 

つまり、同じ仕事を同じ質・量で行なっても、年功賃金制にそぐわないので同じ額の賃金を払えないということである。年功賃金制からの転換をうたいつつ、結局のところ何も変わっていなかった。

 

小括

 

 雇用機会均等法の改正は、1991年から続く長い不況の中、行なわれた。この時期、年功制などの「日本的経営」は批判されており、変革の必要性が言われていた。この法律によって、女性への差別はすべて禁止され、保護規定も妊産婦保護を除き撤廃された。その意味では、前回よりラディカルなのだが、改正はさしてもめなかった。実施を担保する機能に欠けていたこともある。だがこの法律の施行により、女性は法律的には属性を問われない、裸の個人として「自由に」競争することとなった。

 



結論

 

 

 労働行政においては、1971年頃まで労働基準法第4条は「保護法規」に分類されているが、1975年頃からはそれとは別立てで「男女平等に関する法規」に分類される。通奏低音としては、保護は「平等」と相いれないとする議論は常にあった。その一方で、既得権としても女性保護規定を守りたかった労働組合や野党の主張も、「保護か平等か」という「与えられた」議論の枠内に収まっていった。「法の下の平等」は、条文では分からないが、審議をみると現実の格差を正当化するためのレトリックであった。「同一価値労働同一賃金」の可能性があった、と肯定的な論じられるが、しかし、審議過程をみるとそうではない。

 労働基準法制定時には、保護こそが「平等」であり、同一賃金は現実の問題としては認識されていなかった。現在問題となっているような点もほとんどこの審議で出ている。しかしその後も、法案審議のたびに同じ論点が出され、同じような答弁がなされ、議論は深まらなかった。ただ、敗戦後しばらくは労働組合が強かったこともあり、一部では男女同一賃金が実現した。高度成長期には「平等」よりもパイの拡大が大切であり、そもそも労働問題は自民党の関心事ではなかった。1970年代に入り、保護と「平等」が対立するものとされるようになる。その影響下で成立した旧均等法は保護の緩和と欧米への顔向けのための産物であった。その後、雇用機会均等法の改正により、妊産婦保護以外の女性保護規定が撤廃され、「保護か平等か」の対立も決着をみた。

 「平等」という言葉は非常に幅が広く、そのため、1970年代以降、「自由」ではなく「平等」の名の下に規制緩和を主張することも可能であった。

 

「機会の平等」と「結果の平等」

 

政府・自民党が参考にする、アメリカにおける「平等」政策は一般に理解されているものとは異なる。「自由の国」であるから「機会の平等」しか政策として行なわないというのは半分しか正しくない。自由のための競争条件の整備が行われるからだ。個人の社会的背景に格差があるままで「能力に応じて」と言うことも、それを解消した後に「能力に応じて」と言うことも、ともに「平等」ということになるが、アメリカでも後者の「結果の平等」が(時に)目指されてきた。つまり、「結果の平等」というのは「機会の平等」と対立するものというより、むしろそれを補完するものなのだ。そうでなければ「不平等」が再生産されてしまうという理解が背景にある。「機会の平等」は、単なる自由ではなく、グループとしての結果という意味での「平等」の要求であった。

 グループ間比較において差があり、「機会の平等が守られているかどうかは後からしかわからない[273](傍点原文)のだから、政策としては補償的なものが必要とされるのだ。日本で「機会の平等」が法律の条文上の「平等」であると土着化して理解されているのとは異なる。土着化の結果日本では、「機会」とは何であり、いかにして「機会」という門を通り抜けられるようになるのかは一顧だにされない。

 しかし「平等」という言葉は幅が広く、これ以外でも「平等」ではある。

旧雇用機会均等法をめぐる「平等」の本家争いは、政府が勝利を収めた。それは政府の言う「平等」が正統だから、ということではない。「皆、本質的には平等主義者であり、各々のアプローチにとって極めて重要とみなすものを全ての人が平等にもっていなければならないと主張する点で共通している」[274]のだ。政府がこの議論を意識していたわけではないが、奇妙な一致をみる。つまり「平等」の形は1つではなく、自由という点において「平等」であったからこそ、一分の理があった。それこそ、飢えて死ぬのも自由が「平等」に与えられたのである。初期には折衷的であったが、雇用機会均等法の改正において徹底された。それは、近代化の徹底であった。

近代化とは、同時に、「平等」が「公」的な面でしか考えられていないということでもあった。24時間働けるということは、当然誰かが「私」的な面での負担をしなければならない。その部分は、政府は関与しない。「裸の個人」として「適者」が生存すれば良かった。

旧均等法において野党は「私」的な面での男女格差を前提としたまま、「公」的な面での同一扱いを求めるという腰の砕けた状態だったので、政府もやりやすかった。そして、現実的な「平等」で押し切ることができた。

だが、女性の採用・待遇に関しては平均値を基に扱われ、その壁を打ち破る責任は個人に還元されてきた。政府は労使の自主的な対応を言うが、日本の会社組織における「中間的共同体の専制」にそれをゆだねることはできるのだろうか。

 

会社共同体の自主性

 

労働法の審議では「労使で自主的に」対応すべき、とされることが多かった。しかし、過労死が起こるような「人間的経営」の下では、共同体主義の理念にみられるような状態を期待できない。労働組合も過労死の裁判において「中立」を標榜し、労働者の支援をしない。また各種の裁判が示しているのは、労働組合が男女の待遇の格差を容認したり、時には要求しているという事実である。そして、労働者も「自主的に」サービス残業を行なうようになっている。その意味からも、「平等という汚れた聖杯」として、「平等」の名の下に所得の格差を政治的に除去することが、統治者と被治者の権力の格差を生み出し、神聖な建前とは裏腹に自由を損なう強制を伴う、という批判はあたらないだろう。日本では国家権力の強さよりも、「中間的共同体の専制」が問われるべき状況にある[275]。会社などの中間的共同体の持つ非公式的統制力が強く、それを国家が抑制しない。そのため、個人の権利や他者への配慮といった共同性も失われている。

研究者の理解にしても同様だろう。「コミュニタリアニズムを「近代的自我への根本的な反省」として紹介した政治思想研究者が、「公共心、連帯心の欠如」の例として挙げたのが、「運動部の先輩」の命令に後輩が口答えをしたというものだったという逸話は、もはや一編の悲喜劇といえる」[276]ような状況だ。その中で、日米の、理念としての企業は相当異なり、安易に輸入することは、過労死などの「中間的共同体の専制」を正当化しかねない。

 ただ、変化も表われてきた。

男女共同参画ビジョン(1996年)に向けた議論では、有識者も「わが国のような高学歴社会で『人権』ということを前面に出すと、逆に男性の側から何だという気持ちになるのではないかという意見も出ております」「個人的には、『人権』、『権利』というから据わりが悪くなるわけで、法律的な権利だけでなく、『人間らしく生きる状態を実現する努力』といった書き方ならば、北京会議とかそういうことは気にしなくてもよいと思うのです。」「今回のビジョンの中で一番大切なのは、一般の人、特に男性に対してこういう男女共同参画社会の形成が得だと理解してもらうことだと私は思います」[277]と遠慮がちであった。しかし男女共同参画社会基本法では、訓示規定のみの基本法とはいえ、自民党の閣僚が「人々の意識の中に形成された、性別による固定的役割分担意識等が男女共同参画社会の実現を妨げていることを考えますと、国民一人一人のこの問題についての理解を深め、各自の取り組みを促していかなければなりません。…この法律案は、男女の人権が尊重され、豊かで活力ある社会を実現し、女性も男性も、みずからの個性を発揮しながら、生き生きと充実した生活を送ることができることを目指すものであり、21世紀の日本社会を決定する大きなかぎとなる意義を持つものと考えます」[278]と、人権をうたうようになった。ポジティブ・アクションも「積極的改善措置」として明記され、間接差別も「ここで言います差別的取り扱いにつきましては、先生おっしゃるような間接差別をも含んでおると当方としては考えております」[279]と変化した。

 

これからがはじま

 

今後どうなるのかはわからない。未来予測は過去の延長で行われるわけだが、変化する可能性があるからだ。「自民党は不利なときだけ女性政策を出す」とも言われる。

法律的には、コンパラティブ・ワースとしても使える同一賃金やポジティブ・アクションがある。この方向性の異なる道具を使うことは可能だ。ヨーロッパでは、臨時雇用者やパートタイムであっても時間あたり給与は低いわけではない。女性が「好んで」パートタイマーになるとしても、低賃金にあえがないようにはできる。女性に向かないという職種でも、進出により考えが変わることはあり得る。1970年代の通訳のように[280]。残された問題は「ガラスの天井」だろうか。男女同一賃金が実施され待遇の良い小学校教員でも、「ガラスの天井」がある。女性の割合が過半数を超えるが、管理職はほとんど男性である。欧米で起きている問題が繰り返されている。

雇用機会均等法は改正された。男女共同参画社会基本法も制定された。その意味で、いま、準備体操が終わったのだ。



資料

 

 

労働基準法

 

提案理由

 終戦以来労働組合法と労働関係調整法の制定に依り我が国の労働法制は漸次整備されて来たのであります。これらの労働法制は、労働条件の決定を公正ならしめる為に如何なる方法をとるかの手段を規定するものでありまして、未だ労働条件其物の実体を規定する法律は制定されて居ないのであります。工場法、商店法、労働者災害扶助法、工業労働者最低年齢法等の従来の労働保護法は、特定の労働者を対象とし、特定の事項について断片的に労働条件の内容を規定して居りますが、そのねらひは女子及び年少者の保護或は産業災害の犠牲者に対する生活の扶助ということが目的でありまして、全面的に労働条件の基準を定めることを目的とした法律ではないのであります。

 新憲法は、その第27条第2項において、「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は法律でこれを定める。」と規定して居ります。凡そ契約の自由が絶対の原則であると前提すれば、労働条件の決定は、団体協約によると個人契約によるとの別なく、労働関係の当事者の自由に委されるべきでありまして、その関係は労働組合法と労働関係調整法の規定する方法と範囲内においては、専ら力の問題として解決されることになるのでありますが、新憲法は労働条件についてはかゝる契約自由の原則を修正し、法律が労働条件について一定の基準を設くべきことを義務づけて居るのであります。御承知の如く近時における労働不安につきましては、その原因は一にして止まらないのでありますが、若し労働条件が労働者の最低生活を保障するに足るものであるならば、かかる労働不安の原因を解消するに貢献する所少なからざるものがあると断定されるのであります。

(中略)

 今日の労働情勢は誠に憂ふべきものがあります。今日までの政府の施策の必ずしも充分でないものがあつたことも率直に認めねばならぬが、何分敗戦国の国情として万事意の如く参らぬ客観的事態に在ることも事実である。又一方思想の転換期に於いて労働者がその権利の主張に急にして義務と責任を怠り、規律と自覚とに欠けるところがあつたといふ事実も否定する訳には行かぬのであります。併し一切の過去をして過去たらしめよ。今回の労働基準法制定を機とし労働者も経営者も、はた又一般国民も心機一転御互に兄弟として手を携へて日本再建の為、民族の平和的発展の為、立ち上がらんことを希望して止まぬのであります。

 

条文(抄)

1章 総則

(労働條件の原則)

1條 労働條件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を満たすべきものでなければならない。

この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者はこの基準を理由として労働條件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。

(労働條件の決定)

2條 労働條件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものであるが労働者及び使用者は、労働協約、就業規則および労働契約を遵守し、誠実に各々その義務を履行しなければならない。

(均等待遇)

3條 使用者は、労働者の國籍信條又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働條件について、差別的取扱をしてはならない。

(男女同一賃金の原則)

4條 使用者は、労働者が女子であることを理由として、賃金について、男子と差別的取扱をしてはならない。

6章 女子及び年少者

(女子の労働時間及び休日)

61條 使用者は、満18才以上の女子については、第36条の協定による場合においても、1日について2時間、1週間について6時間、1年について150時間を超えて時間外労働をさせ、又は休日に労働させてはならない。

(深夜業)

62條 使用者は、満18才に満たない者又は女子を午後10時から午前5時までの間において使用してはならない。ただし、交代制によつて使用する満16才以上の男子については、この限りでない。

(危険有害業務の就業制限)

63條 使用者は、満18才に満たない者又は女子を第49條の規定による危険業務に就かせ、又は命令で定める重量物を取り扱う業務に就かせてはならない。

(坑内労働の禁止)

64條 使用者は、満18才に満たない者又は女子を坑内で労働させてはならない。

(産前産後)

65條 使用者は、6週間以内に出産する予定の女子が休業を申請した場合においては、その者を就業させてはならない。

     使用者は、産後6週間を経過しない女子を就業させてはならない。ただし、産後5週間を経過した女子が請求した場合において、その者について医師が支障ないと認めた業務に就かせることは、差し支えない。

     使用者は、妊娠中の女子が請求した場合においては、他の軽易な業務に転換させなければならない。

(育児時間)

66條 生後満1年に達しない生児を育てる女子は、第34条の休憩時間のほか1日2回各々少なくとも30分、その生児を育てるための時間を請求することができる。

(生理休暇)

67條 使用者は、生理日の就業が著しく困難な女子又は生理に有害な業務に従事する女子が生理休暇を請求したときは、その者を就業させてはならない。

(帰郷旅費)

68條 満18才に満たない者又は女子が解雇の日から14日以内に帰郷する場合においては、使用者は、必要な旅費を負担しなければならない。ただし、満18才に満たない者又は女子がその責に帰すべき事由に基いて解雇され、使用者がその事由について行政官庁の認定を受けたときは、この限りでない。

 

 

勤労婦人福祉法

 

提案理由

 御承知のとおり、近年、婦人の職場進出は著しく、雇用者総数の3分の1、約1100万人に達し、特に、既婚婦人がその過半数を占めるに至っており、今後とも勤労婦人の経済及び社会に果たす役割は大きくなるとともに、婦人の生涯における職業生活の意義もますます高まるものと思われます。

 これら勤労婦人が職業生活と家庭生活の調和をはかるとともに、その能力を有効に発揮して充実した職業生活を営むことができるようにすることは、勤労婦人自身のためばかりでなく、国家・社会にとりましても大変重要であると存じます。

 

条文(抄)

(目的)

1条 この法律は、勤労婦人の福祉に関する原理を明らかにするとともに、勤労婦人について、職業指導の充実、職業訓練の奨励、職業生活と育児、家事その他の家庭生活との調和の促進、福祉施設の設置等の措置を推進し、もつて勤労婦人の福祉の増進と地位の向上を図ることを目的とする。

(基本的理念)

2条 勤労婦人は、時代をになう者の生育について重大な役割を有するとともに、経済及び社会の発展に寄与するものであることにかんがみ、勤労婦人が職業生活と家庭生活との調和を図り、及び母性を尊重されつつしかも性別により差別されることなくその能力を有効に発揮して充実した職業生活を営むことができるように配慮されるものとする。

3条 勤労婦人は、勤労に従事する者としての自覚をもち、みずからすすんで、その能力を開発し、これを職業生活において発揮するように努めなければならない。

(関係者の責務)

4条1 事業主は、その雇用する勤労婦人の福祉を増進するように努めなければならない。

   2 國及び地方公共団体は、勤労婦人の福祉を増進するように努めなければならない。

(啓発活動)

5条 国及び地方公共団体は、勤労婦人の福祉について国民の関心と理解を深め、かつ、勤労婦人の勤労に従事する者としての意識を高めるとともに、とくに、勤労婦人の能力の有効な発揮を妨げている諸要因の解消を図るため、必要な啓発活動を行なうものとする。

(職業指導等)

7条 職業安定機関は、勤労婦人がその適性、能力、経験、技能の程度にふさわしい職業を選択し、及び職業に適応することを容易にするため、勤労婦人その他の関係者に対して雇用情報、職業に関する調査研究の成果等を提供し、勤労婦人の特性に適応した職業指導を行なう等必要な措置を講ずるものとする。

(妊娠中及び出産後の健康管理に関する配慮及び措置)

9条 事業主は、その雇用する勤労婦人が母子保健法の規定による保険指導又は健康診査を受けるために必要な時間を確保することができるような配慮をするように努めなければならない。

(育児に関する便宜の供与)

11条 事業主は、その雇用する勤労婦人について、必要に応じ、育児休業の実施その他の育児に関する便宜の供与を行なうように努めなければならない。

 

 

雇用機会均等法

(雇用の分野における男女の均等な機会および待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律)

 

提案理由

 近年、我が国における女子労働者は着実に増加し、約1500万人と全労働者の3分の1を超え、また、あらゆる産業、職業に進出し、我が国の経済、社会の発展は今や女子労働者を抜きにしては考えられなくなってきております。女子の職業に対する意識も高まり、その生涯における職業生活の比重も増大しております。しかしながら、我が国の経済、社会の実体は、意欲と能力のある女子労働者がそれを充分に発揮し得る環境が整えられているとは必ずしも言えない状況にあり、そのような環境を整えることが大きな課題となってきております。

 また、昭和50年の国際婦人年を契機として、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇を確保することが国際的潮流となっている中で、我が国は、国際連合総会において採択された婦人に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約を昭和55年に署名したところであり、先進国の一員として、早期に関係国内法を整備し、条約の批准に備えることが要請されております。

 このような内外の情勢を考慮に入れますと、我が国においても、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇が確保されるよう、新たな立法措置を講ずる一方、労働基準法の女子保護規定については、女子の就業分野の拡大に資するとともに、時代の変化に即したものとなるよう見直すことが必要となっております。また、これらに加えて、既婚女子労働者の増加等に伴い、女子労働者自身の健康と福祉、さらには次代を担う国民の健全な育成という観点から、母性保護等についての施策の拡充が求められているところであります。

(中略)

 もとより、雇用の分野において男女の均等な機会及び待遇が現実に確保されるためには、このような法制の整備と相まって、女子自身が労働に従事する者としての自覚のもとにその能力を発揮すると同時に、女子の就労についての国民全体の理解を深めることが必要でありますので、政府といたしましてはこれらの気運の醸成を図ってまいることといたしております。

 

条文(抄)

(目的)

1条 この法律は、法の下の平等を保障する日本国憲法の理念にのつとり雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇が確保されることを促進するとともに、女子労働者について、職業能力の開発及び向上、再就職の援助並びに職業生活と家庭生活との調和を図る等の措置を推進し、もつて女子労働者の福祉の増進と地位の向上を図ることを目的とする。

(基本的理念)

2条 女子労働者は経済及び社会の発展に寄与する者であり、かつ、家庭の一員として次代を担う者の生育について重要な役割を有するものであることにかんがみ、この法律の規定による女子労働者の福祉の増進は、女子労働者が母性を尊重されつつしかも性別により差別されることなくその能力を有効に発揮して充実した職業生活を営み、及び職業生活と家庭生活との調和を図ることができるようにすることをその本旨とする。

3条 女子労働者は、労働に従事する者としての自覚の下に、自ら進んで、その能力の開発および向上を図り、これを職業生活において発揮するように努めなければならない。

(募集及び採用)

7条 事業主は、労働者の募集及び採用について、女子に対して男子と均等な機会を与えるように努めなければならない。

(配置及び昇進)

8条 事業主は、労働者の配置及び昇進について、女子労働者に対して男子労働者と均等な取扱いをするように努めなければならない。

(教育訓練)

9条 事業主は、労働者の業務の遂行に必要な基礎的な能力を付与するためのものとして労働省令で定める教育訓練について、労働者が女子であることを理由として、男子と差別的取扱いをしてはならない。

(福利厚生)

10条 事業主は、住宅資金の貸付けその他これに準ずる福利厚生の措置であつて労働省令で定めるものについて、労働者が女子であることを理由として、男子と差別的取扱いをしてはならない。

(定年、退職及び解雇)

11条1 事業主は、労働者の定年および解雇について、労働者が女子であることを理由として、男子と差別的取扱いをしてはならない。

    2 事業主は、女子労働者が婚姻し、妊娠し、又は出産したことを退職理由として予定する定めをしてはならない。

    3 事業主は、女子労働者が婚姻し、妊娠し、出産し、又は労働基準法第65条第1項もしくは第2項の規定による休業をしたことを理由として、解雇してはならない。

(苦情の自主的解決)

13条 事業主は、第8条から第11条までの規定に定める事項に関し、女子労働者から苦情の申出を受けたときは、苦情処理機関(事業主を代表するもの及び当該事業場の労働者を代表するものを構成員とする当該事業場の労働者の苦情を処理するための機関をいう。)に対し当該苦情の処理をゆだねる等その自主的な解決を図るように努めなければならない。

(紛争の解決の援助)

14条 都道府県婦人少年室は、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇に関する事業主の措置で労働省令で定めるものについての女子労働者と事業主(以下「関係当事者」という。)との間の紛争に関し、関係当事者の双方又は一方からその解決につき援助を求められた場合には、当該関係当事者に対し、必要な助言、指導又は勧告をすることができる。

(調停の委任)

15条 都道府県婦人少年室は、前条に規定する紛争(第7条に定める事項についての紛争を除く。)について、関係当事者の双方又は一方からの調停の申請があつた場合において当該紛争の解決のために必要があると認めるとき(関係当事者の一方から調停の申請があつた場合にあつては、他の関係当事者が調停を行なうことを同意したときに限る。)は、機会均等調停委員会に調停を行なわせるものとする。

 

 

改正雇用機会均等法

(雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律)

 

提案理由

 男女雇用機会均等法が施行されて10年が経過しました。この間、女性の雇用者数の大幅な増加、勤続年数の伸び、職域の拡大が見られ、女性の就業に関する国民一般の意識や企業の取り組みも大きく変化しております。

 また、週40時間労働制の実施などにより、年間実労働時間も着実に減少しており、育児休業制度や介護休業制度の法制化に代表される職業生活と家庭生活の両立を可能にするための条件整備も進展しております。

 しかしながら、女子学生の就職問題に見られますように、雇用の分野において女性が男性と均等な取り扱いを受けていない事例が依然として見受けられ、近年、企業における女性の雇用管理の改善は足踏み状態にあります。

 働く女性が性により差別されることなく、その能力を十分に発揮できる雇用環境を整備するとともに、働きながら安心して子供を産むことができる環境をつくることは、働く女性のためだけでなく、少子・高齢化の一層の進展の中で、今後、引き続き我が国経済社会の活力を維持していくためにも、極めて重要な課題であります。

 

条文(抄)

(目的)

1条 この法律は、法の下の平等を保障する日本国憲法の理念にのっとり雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を図るとともに、女性労働者の就業に関して妊娠中及び出産後の健康の確保を図る等の措置を推進することを目的とする。

(基本的理念)

2条1 この法律においては、女性労働者が性別により差別されることなく、かつ、母性を尊重されつつ充実した職業生活を営むことができるようにすることをその基本的理念とする。

2 事業主並びに国及び地方公共団体は、前項に規定する基本的理念に従って、女性労働者の職業生活の充実が図られるように努めなければならない。

(募集及び採用)

5条 事業主は、労働者の募集及び採用について、女性に対して男性と均等な機会を与えなければならない。

(配置、昇進及び教育訓練)

6条 事業主は、労働者の配置、昇進及び教育訓練について、労働者が女性であることを理由として、男性と差別的取扱いをしてはならない。

(女性労働者に係る措置に関する特例)

9条 第5条から前条までの規定は、事業主が雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保の支障となっている事情を改善することを目的として女性労働者に関して行う措置を講ずることを妨げるものではない。

(調停の委任)

13条1  都道府県女性少年室長は、前条第1項に規定する紛争(第5条に定める事項についての紛争を除く。)について、関係当事者の双方又は一方から調停の申請があった場合において当該紛争の解決のために必要があると認めるときは、機会均等調停委員会に調停を行わせるものとする。

3節 事業主の講ずる措置に対する国の援助

20条 国は、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇が確保されることを促進するため、事業主が雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保の支障となっている事情を改善することを目的とする次に掲げる措置を講じ、又は講じようとする場合には、当該事業主に対し、相談その他の援助を行うことができる。

    1.その雇用する女性労働者の配置その他雇用に関する状況の分析

     2.前号の分析に基づき雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保の支障となっている事情を改善するに当たって必要となる措置に関する計画の作成

     3.前号の計画で定める措置の実施

     4.前3号の措置を実施するために必要な体制の整備

 

 


参考文献

 

 

     赤松良子(労働省職業安定課)「婦人労働者の保護」〜社会政策学会(編)『婦人労働』社会政策学会年報(第9集)、有斐閣、1961年

     赤松良子『日本婦人問題資料集成 第3巻 労働』ドメス出版、1977年

     赤松良子『詳説 男女雇用機会均等法及び労働基準法(女子関係) 改訂版』女性職業財団、1990年

     浅倉むつ子『男女雇用平等法論 イギリスと日本』ドメス出版、1991年

     浅倉むつ子「男女雇用平等論」〜籾井常喜(編)『労働法学説史』労働旬報社、1996年

     石山文彦「『逆差別論争』と平等の概念」〜森際康友ほか(編)『人間的秩序』木鐸社、1987年

     伊藤康子「日本における男女平等要求の変化と特徴」〜「中京女子大学紀要」第15号(1981年)

     井上達夫「個人権と共同性―『悩める経済大国』の倫理的再編」〜加藤寛孝(編)『自由経済と倫理』成文堂、1995年

     岩井八郎(編)「ジェンダーとライフコース」1995年SSM調査研究会、1998年

     江原由美子『女性解放という思想』勁草書房、1985年

     大河内一男(編)『資料・戦後二十年史 第4巻 労働』日本評論社、1966年

     大沢真知子『新しい家族のための経済学』中公新書、1998年

     大沢真理『企業中心社会を超えて――現代日本を<ジェンダー>で読む』時事通信社、1993年

     大沢真理「労働のジェンダー化」〜瀬地山角ほか(編)『ジェンダーの社会学』岩波講座 現代社会学第11巻、岩波書店、1995年

     大橋由香子ほか(編著)『働く/働かない/フェミニズム 家事労働と賃労働の呪縛?!』青弓社、1991年

     大羽綾子(労働省婦人少年局婦人労働課長)『変わりゆく婦人労働』東洋経済新報社、1965年

     大羽綾子『男女雇用機会均等法前史』未来社、1988年

     小熊英二「『日本型』近代国家における公共性」〜『社会学評論』第50号4巻(2000年)

     尾嶋史章(編)「ジェンダーと階層意識」1995年SSM調査研究会、1998年

     外務省外務報道官『女子差別撤廃条約』外務省国内広報課、1985年10月

     鹿嶋敬『男と女 変わる力学』岩波新書、1989年

     鹿嶋敬『男女摩擦』岩波書店、2000年

     狩野広之(厚生省職業局)『女子勤労管理全書第三巻 女子の職場配置』東洋書館、1942年

     川本隆史『現代倫理学の冒険』創文社、1995年

     喜多村浩、日本経営者団体連盟労務管理部長「終身雇用制のなかの男女雇用平等法(仮称)」〜『労働の科学』1984年5月号

     喜多村浩、山野和子、渡辺道子、佐藤ギン子「座談会 雇用における男女の機会の均等および待遇の確保のための法的整備について」〜『労働時報』1984年5月号

     金城清子『法女性学 第2版』日本評論社、1996年

     熊沢誠『女性労働と企業社会』岩波新書、2000年

     黒川俊雄ほか(編)『男女平等と母性保護』講座 現代の婦人労働 第2巻、労働旬報社、1978年

     黒崎勲『教育と不平等』新曜社、1989年

     経団連 女性の社会進出に関する部会「社会が変わる、会社も変わろう、男女の働き方を変えていこう――働きたい人が力いっぱい、はつらつと働ける社会をめざして」1995年2月

     経団連・女性の社会進出に関する部会「『女性の働き方に関するアンケート調査(経営者、人事部長、社員)』結果」1995年2月

     経済同友会「男と女のいい関係 建前と本音の間で揺れる中堅サラリーマンからのメッセージ」1994年(漫画付き)

     小西芳三「国連婦人差別撤廃条約とILO111号差別待遇条約」〜『婦人労働研究会会報』8号、1982年

     金野美奈子『OLの創造』勁草書房、2000年

     坂本福子『婦人の権利』法律文化社、1973年

     阪本昌成「優先処遇と平等原則」〜『Law School』1981年1月号

     佐藤俊樹『不平等社会日本』中公新書、2000年

     篠塚英子(編)「雇用均等法の影響と企業の対応」日本経済研究センター 研究報告No.58(1987年5月)

     嶋津千利世『女子労働者』岩波新書、1953年

     『社会政策叢書』編集委員会(編)『婦人労働における保護と平等』社会政策学会研究大会 社会政策叢書第9集、啓文社、1985年

     自由民主党『月刊自由民主』

     女性ジャーナリスト・ペン検証と研究の会(編)「女性記者の記事にみる戦後50年」1996年

     女性と職業に関する研究会「女性と職業に関する予備的研究」トヨタ財団助成研究報告書、1982年

     鈴木舜一『今日の勤労問題』東京講演会出版部、1943年

     隅谷三喜男「日本的労使関係論の再構成」〜『日本労働協会雑誌』1984年4・5月号

     盛山和夫ほか(編)「女性のキャリア構造とその変化」1995年SSM調査研究会、1998年

     盛山和夫(編)『日本の階層システム 4 ジェンダー・市場・家族』東京大学出版会、2000年

     瀬地山角ほか(編)『フェミニズム・コレクション T 制度と達成』勁草書房、1993年

     アマルティア・セン「社会的コミットメントとしての個人の自由」〜川本隆史(訳)『みすず』1991年1月号(原著1990年)

     アマルティア・セン『不平等の再検討』池本幸生ほか(訳)岩波書店、1999年(原著1992年)

     全国中小企業団体中央会「婦人労働者・パートタイマー雇用の実態と方向」(中小企業労働福祉問題調査研究報告)(昭和57年度中小企業庁委託事業)1983年3月

     総務庁行政監察局「婦人就業対策等に関する行政監察 結果報告書」1991年

     総務庁行政監察局『女性の能力発揮を目指して』1997年4月

     竹前栄治『戦後労働改革』東京大学出版会、1982年

     竹内康江「平等原則についての覚書―学説の現況と問題点」〜『法律時報』54巻10号(1982年)

     竹中恵美子『戦後女子労働史論』有斐閣、1989年

     男女雇用機会均等確保のための雇用管理のあり方に関する研究会「男女雇用機会均等確保のための雇用管理のあり方に関する研究会報告書」財団法人労働問題リサーチセンター委託研究、1992年11月

     男女雇用機会均等法の見直しを求める集会実行委員会「男女平等に関する政党アンケート 回答集」1995年6月

     男女平等問題専門家会議(労働大臣の私的諮問機関)「雇用における男女平等の判断基準の考え方について」1982年5月

     千本暁子「日本における女性保護規定の成立―1911年工場法成立前史―」〜『阪南論集 人文・自然科学編』1995年1月号

     中小企業事業団・中小企業大学校 中小企業研究所「中小企業における女性管理者等の登用の実態と問題点」1991年

     通産省機械情報産業局「S家の一日 T氏の場合」産業構造審議会情報産業部会答申 付属資料、1981年8月

     寺本広作『労働基準法解説』時事通信社、1948年(日本立法資料全集別巻46、信山社、1998年復刊)

     東京商工会議所「労働基準法の再検討に関する意見調査」1970年10月

     東京商工会議所「10年後の雇用労働に関する経営者の予測」1982年

     東京女性財団『世界のアファーマティブ・アクション―諸外国におけるアファーマティブ・アクション法制(資料集)―』東京女性財団、1995年

     東京女性財団『諸外国のアファーマティブ・アクション法制―雇用の分野にみる法制度とその運用実態―』東京女性財団、1996年

     東京女性財団(編)『都民女性の戦後50年―通史』東京女性財団、1997年

     戸松秀典「性における平等―男女平等の新しい展開と憲法論議」〜『ジュリスト』1987年5月3日号

     長沼弘毅(大蔵省管理局長)『同一価値労働同一賃金論について』生活賃金全書第4巻、ダイヤモンド社、1947年

     日本経営者団体連盟『日本における職務評価と職務給』日本経営者団体連盟弘報部、1965年

     日本経営者団体連盟『能力主義管理の実際』日本経営者団体連盟弘報部、1968年

     日本経営者団体連盟労務管理部「雇用における男女平等問題」1984年11月

     日本経営者団体連盟事務局『男女雇用機会均等法早わかり』日本経営者団体連盟弘報部、1986年

     日経連事務局『労働経済判例速報』

     日本社会党「働く権利の確立」1978年

     日本女性学研究会教育者会議「国会議員における男女平等に関する意識調査」1984年3月

     日本生産性本部雇用処遇研究センター「女子労働新時代と雇用管理の指針」女子労働化と賃金雇用問題研究委員会報告書、日本生産性本部、1985年

     日本労働組合総連合会女性局(編著)『作ろう!男女雇用平等法』1996年

     野中俊彦「『合理性の基準』の再検討」〜『Law School』1981年1月号

     野村総合研究所「諸外国における男女共同参画に関する調査研究報告書」1995年度総理府委託調査、1996年3月

     野村平爾(編)『婦人労働』講座 労働問題と労働法 第6巻、弘文堂、1956年

     花見忠『現代の雇用平等』三省堂、1986年

     姫岡とし子「労働者のジェンダー化――日独における女性保護規定――」〜『思想』1999年4月号

     婦人少年問題審議会婦人労働部会「婦少審男女雇用平等法審議『中間報告』」1983年12月21日

     婦人問題企画推進会議「意見」1976年11月

     婦人問題企画推進本部「国内行動計画」1977年1月

     北京JAC「政党の女性政策アンケート調査報告」1998年7月

     法学セミナー増刊『女性そして男性』日本評論社、1985年

     松岡三郎『現代日本の労働法』弘文堂、1964年

     松本岩吉『労働基準法が世に出るまで』労務行政研究所、1981年

     三谷直紀「均等法施行後の女性雇用」〜『日本労働研究雑誌』1996年5月号

     山下泰子『女性差別撤廃条約の研究』尚学社、1996年

     横田耕一「平等原理の現代的展開」〜現代憲法学研究会(編)『現代国家と憲法の原理』有斐閣、1983年

     労働基準法研究会第2小委員会専門委員報告「医学的・専門的立場からみた女子の特質」1974年10月

     労働基準法研究会第2小委員会「報告(女子関係)」1978年11月20日

     労働経済専門家会議(日経連系)「『男女雇用平等法』の企業への影響予測調査≡緊急報告と提言≡」1984年

     労働市場における女子労働者の将来展望に関する研究会「労働市場における女子労働者の将来展望に関する研究会報告書」財団法人労働問題リサーチセンター委託研究、1990年9月

     労働省「国際労働総会報告書」

     労働省婦人少年局「婦人労働」調査資料第2号、1949年6月

     労働省婦人少年局「男女同一労働同一賃金について」1950年

     労働省婦人少年局「綿紡績工場の女子労働者」1952年4月

     労働省婦人少年局「婦人の職務内容と賃金の実情」1958年8月

     労働省婦人少年局「女子事務職員」1961年5月

     労働省婦人少年局「男女同一価値労働同一賃金はどのようにして実現することができるか」1961年9月

     労働省婦人少年局「男女同一賃金についてのアンケート結果」1962年4月

     労働省婦人少年局「女子労働者の雇用の状況」1963年6月

     労働省婦人少年局「家庭責任をもつ女子労働者」1964年6月

     労働省婦人少年局(編)『女子の定年制』日本労働協会、1965年

     労働省婦人少年局(編)『判例にみる 婦人の能力評価と労働権』労働法令協会、1970年

     労働省婦人少年局「女子労働者の就労状況の変化に関する調査」1970年6月

     労働省婦人少年局『勤労婦人福祉法早わかり』1973年

     労働省婦人少年局『婦人の歩み30年』労働法令協会、1975年

     労働省婦人少年局『婦人労働法制の課題と方向―労働基準法研究会報告―』日刊労働通信社、1978年

     労働省婦人少年局「婦人労働の実情」

     労働省労政記者会『新しい労働常識』労務行政研究所、1948年

     ジョン・ロールズ『正義論』矢島鈞次(監訳)、紀伊國屋書店、1979年(原著1971年)

     ジョン・ロールズ「『正義論』フランス語版序文」〜川本隆史(訳)『みすず』1993年4月号

     渡辺章(編)『労働基準法〔昭和22年〕』(1)〜(3)下、日本立法資料全集51〜54、信山社、1996〜1998年



[1] 労務法制審議会(第2回)議事速記録、1946年8月7日(渡辺章(編)『労働基準法〔昭和22年〕』(2)、日本立法資料全集52、信山社、1998年、p518)

[2] 姫岡とし子「労働者のジェンダー化――日独における女性保護規定――」〜『思想』1999年4月号

[3] 金野美奈子『OLの創造』勁草書房、2000年

[4] 浅倉むつ子「男女雇用平等論」〜籾井常喜(編)『労働法学説史』労働旬報社、1996年

[5] 横田耕一「平等原理の現代的展開」〜現代憲法学研究会(編)『現代国家と憲法の原理』有斐閣、1983年

[6] 「いまでこそ課の名は「すぐやる課」とか「なんでも聞く課」とかいって手軽につけますが、あの頃は課名は3字名だった。労政課とか調査課とか賃金課とか管理課とか3字名に決まっていた。労働保護課という5字名にするには大変な抵抗がありました。」(寺本広作「労働行政の今昔」(1977年9月1日講演))(松本岩吉『労働基準法が世に出るまで』労務行政研究所、1981年、p314)

[7] 対日理事会におけるソ連代表勧告、日本経済新聞、1946年7月11日(渡辺章(編)『労働基準法〔昭和22年〕』(3)上、日本立法資料全集53、信山社、1997年、p307)

[8] 「労働組織の礎成る ソ連の勧告、織込みずみ 司令部声明」朝日新聞、1946年7月16日

[9] 中窪裕也は、6月3日から7月10日の間までに第4次案の修正案があったとすれば説明がつく、と推測している。ただし根拠となる資料はなく、今後の解明を待つべきであるとしている。(渡辺、前掲書、(2)、1998年、p20)

[10] 長沼弘毅(大蔵省管理局長)『同一価値労働同一賃金論について』生活賃金全書第4巻、ダイヤモンド社、1947年、p19

[11] 同上、p24

[12] 渡辺、前掲書、(1)、1996年、p254

[13] 1944年6月12日、次官会議決定(赤松良子(編)『日本婦人問題資料集成 第3巻 労働』ドメス出版、1977年、p484)

[14] 労働省労働基準局(編著)『月刊労働基準』20周年座談会(松本、前掲書、p242)

[15] 寺本広作『労働基準法解説』時事通信社、1948年、p162(日本立法資料全集別巻46、信山社、1998年復刊)

[16] 渡辺、前掲書、(2)、1998年、p443

[17] 労務法制審議会(第2回)議事速記録、1946年8月7日(渡辺、前掲書、(2)p518)

[18] 同上、p518

[19] 同上、p529

[20] 大蔵省給与局第3課長「労働基準法に関する意見」(渡辺、前掲書、(2)p746)(角括弧内渡辺)

[21] 第一読会、衆議院議事速記録第13号、1947年3月7日(渡辺、前掲書、(3)下p588)

[22] 同上、p592

[23] 第92回帝国議会衆議院労働基準法案委員会議録(速記)第2回、1947年3月12日、p3

[24] 同上、p11

[25] 同上、p11

[26] 同上、第3回、1947年3月13日、p20

[27] 同上、p30

[28] 同上、p32−33

[29] 同上、第4回、p38

[30] 椎熊三郎、同上、第6回、1947年3月17日、p63

[31] 貴族院労働基準法案特別委員会議事速記録第1号、1947年3月20日(渡辺、前掲書、(3)下p838)

[32] 同上、p838

[33] 種田、同上、第2号、1947年3月22日(同上、p852)

[34] 同上、p885

[35] 課長クラスでは、6月に厚生省労働基準局婦人児童課長に就任した谷野せつが、中央官庁初の女性課長であった。これは、前年11月の「労働パージ」により、労働行政に警察官が就任できなくなり、またその範囲が産業報国会や大政翼賛会の役員・職員にも拡大していたため、人材不足であったことも背景にある。

[36] 労働省婦人少年局「婦人労働」調査資料第2号、p7、1949年6月

[37] 同上、p6

[38] 1947年9月13日、発基17号

[39] 労働省婦人少年局「婦人の職務内容と賃金の実情」1958年8月

[40] 竹中恵美子『戦後女子労働史論』有斐閣、1989年、p200

[41] 婦人少年問題審議会「婦人少年局の廃止反対に関する建議書」1949年3月

[42] 婦人少年問題審議会「婦人少年局の機構改革及び解体反対に関する建議書」1950年9月

[43] 「労働基準法の改正に望む」朝日新聞、1952年3月17日

[44] 「ゆらぐ労働基準法」朝日新聞、1954年2月4日

[45] 狩野広之(厚生省職業局)『女子勤労管理全書第三巻 女子の職場配置』東洋書館、1942年、p156

[46] 長沼、前掲書、p128−129

[47] 同上、p166

[48]失業者477万と推定 女子は極力家庭へ復帰」朝日新聞、1945年10月4日

[49] 「厚生大臣閣議要望事項:復員および失業者の推定に関する注」(1945年12月26日)〜大河内一男(編)『資料・戦後二十年史』日本評論社、1966年、p1(読点追加)

[50] 「婦人教師の闘いの序章」読売新聞、1976年11月3日

[51] 時事通信、1948年1月17日(野村平爾(編)『婦人労働』講座 労働問題と労働法 第6巻、弘文堂、1956年、p80)

[52] 労働省婦人少年局『婦人労働の実情』1953年版、1954年、p23

[53] 同上、p27

[54] 長沼、前掲書、p92

[55] 労働省婦人少年局『婦人労働の実情』1952年版、1953年、p18

[56] 労働省婦人少年局「日本婦人の現状」(1951年4月30日)(『婦人関係資料』第28号、1951年5月)

[57] 嶋津千利世『女子労働者』岩波新書、1953年、p61

[58] 労働省婦人少年局『綿紡績工場の女子労働者』1947年4月

[59] 全国繊維業産業労働組合同盟『賃金白書』1952年(嶋津、前掲書、p63)

[60] 死者4名、精神異常者10名を出した後、中央労働委員会の3度にわたる斡旋により事態は収拾された。

[61] 「近づく就職試験(上)――どんな婦人が採用されるか」共同通信配信記事、1955年9月14日(女性ジャーナリスト・ペン検証と研究の会(編)「女性記者の記事にみる戦後50年」1996年、p19)

[62] 労働省婦人少年局「労働者の主婦の意見調査」1951年(労働省婦人少年局『婦人の歩み30年』労働法令協会、1975年、p222)

[63] 狩野、前掲書、p139

[64] 労働省婦人少年局「封建制についての調査」1950年。反対は男女とも44%、仕事(場合)によるとしたのが40%強であった。

[65] 「業界からの3つの要望」朝日新聞、1953年6月19日

[66] 「ゆらぐ労働基準法」朝日新聞、1954年2月4日

[67] 隅谷三喜男「日本的労使関係論の再構成」〜『日本労働協会雑誌』1984年4・5月号

[68] 全国中小企業団体中央会『婦人労働者・パートタイマー雇用の実態と方向』(中小企業労働福祉問題調査研究報告)(昭和57年度中小企業庁委託事業)1983年3月、p16

[69] 総理府広報室「既婚婦人の就労に関する世論調査」(1971年)によれば、「結婚して子供がない婦人が、外へ勤めに出ることは望ましいことだと思いますか。望ましいことではないと思いますか。」との設問に、男性の43%は「望ましいことだ」とし「望ましいことではないは27%であった。女性は55%が賛成で、反対は17%であった。また、「結婚した婦人が、勤めに出ることは、今後ふえると思う」としたのは、男女計で71%であった。

[70] 「女性の条件」週刊労働ニュース、1960年3月28日

[71] 労働省婦人少年局「女子労働者の就労状況の変化に関する調査」1970年6月

[72] 全国中小企業団体中央会、前掲書、p3

[73] 辻英雄労働大臣官房長、第54回国会衆議院外務委員会会議録16号p2、1967年6月30日

[74] 強制労働条約、強制労働廃止条約、結社の自由・団結権保護条約、団結権・団交権条約、結社権(農業)条約、差別待遇(雇用・職業)条約、同一価値労働同一賃金条約

[75] 同上、p3

[76] 日本経営者団体連盟『日本における職務評価と職務給』日本経営者団体連盟弘報部、1965年、p314

[77] 日本経営者団体連盟『能力主義管理の実際』日本経営者団体連盟弘報部、1968年、p2

[78] 外務委員会報告書、第54回国会衆議院会議録第32号(2)p911、1967年7月4日

[79] 辻、第54回国会衆議院外務委員会会議録16号p6、1967年6月30日

[80] 労働省婦人少年局「婦人の職務内容と賃金の実情」1958年8月

[81] 辻、第54回国会衆議院外務委員会会議録16号、p2(括弧内引用者)

[82] 早川崇、労働大臣、同上、p4

[83] 早川、同上、p4

[84] 秋田相互銀行事件(1975年4月10日判決)、秋田地方昭和46年(ワ)第210号

[85] 義務教育諸学校等の女子教育職員の及び医療施設、社会福祉施設等の看護婦、保母等の育児休業に関する法律

[86] 久保田円次、自由民主党、第75回国会衆議院会議録第32号p3、1975年6月27日

[87] 経済審議会『経済発展における人的能力開発の課題と対策』1963年

[88] 労働省婦人少年局『婦人労働の実情』1968年版、1969年

[89] 伊沢実、東京商工会議所労働課長(労働省婦人少年局(編)『女子の定年制』日本労働協会、1965年、p39、45)

[90] 全国中小企業団体中央会、前掲書、p7(括弧内引用者)

[91] 日本経営者団体連盟関東経営者協会「女子従業員の能力開発と活用の現状」1968年10月

[92] 「奥さまも職場へいかが!」週刊労働ニュース、1964年3月16日

[93] 塚原俊郎、労働大臣、第67回国会衆議院、社会労働委員会議録第23号p8、1972年5月9日

[94] 「婦人の就業に関する懇話会報告書」1971年6月

[95] 高橋展子、労働省婦人少年局長、第67回国会衆議院、社会労働委員会議録第23号p8、1972年5月9日

[96] 七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞかなしき

[97] 島本虎三、日本社会党、第67回国会衆議院、社会労働委員会議録第23号、p17

[98] 「働く婦人に『福祉法案』」朝日新聞、1972年3月14日

[99] 西田八郎、民社党、第67回国会衆議院、社会労働委員会議録第30号p10、1972年5月25日

[100] 「勤労婦人福祉法の前線をゆく 花も実もある“3本柱”をめぐって」〜『月刊自由民主』1977年2月号、p155

[101] 別川悠紀夫、自民党、第67回国会衆議院、社会労働委員会議録第23号p11

[102] 影山裕子「てい談 ライフ・サイクル計画と女性」〜『月刊自由民主』1975年12月号、p107

[103] 遠藤政夫、労働省職業訓練局長、第67回国会参議院、社会労働委員会会議録第21号p9、1972年6月8日

[104] 塚原、衆議院社会労働委員会議録第23号p12

[105] 高橋展子、労働省婦人少年局長、第67回国会、参議院社会労働委員会会議録第21号p17

[106] 高橋、第67回国会、衆議院社会労働委員会議録第23号p18。育児休業制度を義務づけることは雇用機会均等法の審議においても、普及率が10%台であることを理由に時期尚早とされた。

[107] 「勤労婦人福祉法の前線をゆく 花も実もある“3本柱”をめぐって」〜前掲書、p157

[108] 12年後、雇用機会均等法の審議においては労働省幹部から「今となっては時代錯誤」とされた。

[109] 労働省婦人少年局「婦人の地位についての調査」1949年(労働省婦人少年局『婦人の歩み30年』労働法令協会、1975年、p404)

[110] 第67回国会、衆議院社会労働委員会議録第34号p5

[111] 塚原、参議院社会労働委員会会議録第21号p4

[112] 高橋、同上、p5

[113] 婦収第206号、1965年4月24日

[114] 住友セメント事件(1966年12月20日判決)、東京地方昭和39年(ワ)第10401号

[115] 青杉優子「結婚退職制度は違憲―住友セメント事件の判決を巡って」〜『婦人展望』1967年2月号

[116] 東京商工会議所「労働基準法の再検討に関する意見調査」1970年10月

[117] 塚原俊郎、労働大臣、第68回国会参議院、社会労働委員会会議録第21号、1972年6月8日、p19

[118] 労働省婦人少年局『婦人労働の実情』1959年版、1960年

[119] 岡部實夫、労働省労働基準局長、第65回国会参議院、外務委員会会議録第10号p4、1971年3月26日

[120] 高橋展子、労働省婦人少年局長、第68回国会参議院、社会労働委員会会議録第21号p21、1972年6月8日

[121] 赤松良子(労働省職業安定課)「婦人労働者の保護」〜社会政策学会(編)『婦人労働』社会政策学会年報(第9集)、有斐閣、1961年

[122] 東急機関事件(1969年7月1日判決)、東京地方昭和42年(ヨ)第2262号

[123] 日産自動車事件(仮処分)(1971年4月8日判決)、東京地方昭和44年(ヨ)第2210号

[124] 日産自動車事件(仮処分)(1973年3月12日判決)、東京高等民事第11部昭和46年(ネ)第1114号

[125] 日産自動車事件(本訴訟)(1973年3月23日判決)、東京地方裁判所民事第11部昭和28年(ワ)第481号

[126] 労働省婦人少年局(編)『女子の定年制』日本労働協会、1965年、p17

[127] 「働く女性たち憤慨 『50歳定年』の判決めぐり」朝日新聞、1973年3月15日。ただし、大島はかつて、定年制は「男女別、職能別などで科学的に決める必要がある」としている。(「“一律退職”は不合理」東京新聞、1959年11月9日)

[128] 労働省婦人少年局、前掲書、p19 図10をもとに近似的に作成した。

[129] 日産自動車事件(本訴訟)(1979年3月12日民3部判決)、東京高裁昭和48(ネ)675号・702号・1886号

[130] 日産自動車事件(1981年3月24日最高裁第3小法廷判決)、昭和54年(オ)第750号

[131] それまでの間には「女子は50歳から55歳までの間において生理的機能が著しく低下し、55歳の女子の機能は70歳以上の男子のそれにほぼ等しいものとされていることが認められる」ので男性60歳、女性55歳という定年制は合法であるという判例も出ている。(唐津赤十字病院事件(1977年11月8日判決)、佐賀地方裁判所唐津支部昭和45年(ワ)第19号)

[132] 例えば、「婦人差別撤廃条約 署名見送り」朝日新聞、1980年6月7日

[133] 同上

[134] 同上

[135] 第34回自由民主党大会『月刊自由民主』1978年3月号p239

[136] 安倍晋太郎、政調会長「80年代の幕あけ 労働界との対話」〜『月刊自由民主』1980年5月号p32

[137] これは後に日経連が公開質問状を出し、政府は口頭で「昭和55年6月になって婦人団体を中心に本条約に署名せよとの意見がたかまったのであるが、労働省はもちろん、各省とも条約の持つ重大性については重々認識しており、署名については、事前に検討すべき種々の問題があるという態度であった。しかしこの頃は、5月19日に大平内閣による衆議院の解散、6月22日の衆参同時選挙、しかも6月12日大平首相の急死という政局混迷のさ中にあり、政府としても本条約署名について時間をかけて討議する雰囲気にはなかった。労働省事務当局としても、本条約に署名することが簡単に決定されることはあるまいとの観測が強く、したがって事前に日経連はもちろん、労使双方に連絡はしなかった。」と回答したとされている。(日本経営者団体連盟労務管理部「雇用における男女平等問題」1984年11月、p3)

[138] 1984年3月1日付け『日経連タイムス』の社説には、「署名は政府の行為として昭和55年7月15日の伊藤正義首相臨時代理での閣議に基き、同17日に「国連婦人の10年世界会議」で行われている。同日、鈴木内閣が発足しているが、閣議決定に際しても関係各省の抵抗が強くて署名は見送る方向だったのを、婦人団体の強い働きかけで政府も決意したと聞いている。」との記載がある。

[139] 「今回は署名を見送る方向にあったが、国内の婦人団体が強力に働きかけを行ない、政府も署名を決意した。」(「婦人差別撤廃条約 あす署名を決定」日本経済新聞、1980年7月14日)

[140] 婦人問題企画推進会議「意見」1976年11月6日

[141] 婦人問題企画推進本部「国内行動計画」1977年1月

[142] 「労働基準法研究会第2小委員会報告(女子関係)」1978年11月20日、p39

[143] 労働基準法研究会第2小委員会専門委員報告「医学的・専門的立場からみた女子の特質」1974年10月

[144] 同上、p68

[145] 「労働基準法研究会第2小委員会報告(女子関係)」1978年11月20日、p41

[146] 同上、p43

[147] 男女平等問題専門家会議「雇用における男女平等の判断基準の考え方について」1982年5月p2

[148] 同上、p6

[149] 婦人少年問題審議会婦人労働部会「婦少審男女雇用平等法審議『中間報告』」1983年12月21日

[150] とはいえ「我が国の経済・社会の現状を踏まえながら、あまり無理な変革を避けて、せいぜい努力規定程度でも、条約批准の要件は満たされるのではないか。/雇用管理の諸段階のうち、出口に当る定年・退職については、最高裁の判決が出ていることもあって、ある程度強行規定でもやむをえないと考えられているが、これとても条約批准のための要件としては、必ずしも強行規定にする必要はないのではないか。」としていた。(日経連タイムス、1984年3月15日)

[151] 自民党は、「雇用における男女の機会均等が十分実現されているとはいえない。…『雇用における男女平等法』(仮称)の法制化を推進する。…職種を問わず「育児休業」の制度化をはかる」と、してはいた。(「第42回党大会/運動方針」〜『月刊自由民主』1983年3月号p238)

[152] 第102回国会参議院、社会労働委員会会議録第13号、1985年4月11日、p31

[153] 喜多村浩、日本経営者団体連盟労務管理部長「終身雇用制のなかの男女雇用平等法(仮称)」〜『労働の科学』1984年5月号、p11

[154] 「『男女雇用平等法』の企業への影響予測調査≡緊急報告と提言≡」労働経済専門家会議(日経連系)、1984年

[155] 同上、p12

[156] 「日経連が反対する気持ちもわかるが、雇用平等法が制定できなくなり、その結果、規制廃止までもたな上げにされてはかなわないというのが私たちの本音です。」(小野功、東京商工会議所労働部長、「女子保護規定は外せ」日本経済新聞、1983年11月16日)

[157] 「『男女雇用平等法』の企業への影響予測調査≡緊急報告と提言≡」労働経済専門家会議(日経連系)、1984年、p16(原文太字)

[158] 経済同友会「『男女雇用平等法(仮称)』に対する考え方」1984年3月

[159] 日本生産性本部雇用処遇研究センター『女子労働新時代と雇用管理の指針』女子労働化と賃金雇用問題研究委員会報告書、日本生産性本部、1985年、p48、p51

[160] 「容認できぬ『男女平等』試案」日経連タイムス、1984年3月1日

[161] 根本二郎、日経連会長「『博愛』精神の重要性を強調」日経連タイムス、1995年6月15日

[162] 「男女雇用平等法 日経連が反対」毎日新聞、1983年9月28日

[163] 喜多村浩、日本経営者団体連盟労務管理部長、101回国会衆議院、社会労働委員会議録25号p5、1984年7月17日

[164] 喜多村、同上、p22

[165] 労働省婦人局「女子労働者の雇用管理に関する調査」1984年版、1985年7月

[166] 坂本三十次、労働大臣、第101回国会、衆議院会議録第32号p2、1984年6月26日

[167] 坂本、101回国会衆議院、社会労働委員会議録第20号p9、1984年7月3日

[168] 坂本、101回国会衆議院、社会労働委員会議録25号p36、1984年7月17日

[169] 加藤孝、労働省職業安定局長、101回国会衆議院、社会労働委員会議録第20号p5、

[170] 中曽根康弘、内閣総理大臣、第101回国会、参議院会議録第26号p9、1984年8月1日

[171] 望月三郎、労働省労働基準局長、101回国会衆議院、社会労働委員会議録第23号p23、1984年7月10日

[172] 「マイナス多い?女性側」朝日新聞、1984年3月27日

[173] 斉藤邦彦、外務大臣官房審議官、101回国会衆議院、社会労働委員会議録25号p51

[174] 浜田卓二郎、自由民主党、101回国会衆議院、社会労働委員会議録第20号p53、1984年7月10日

[175] 赤松良子、労働省婦人局長、101回国会衆議院、社会労働委員会議録25号p47(括弧内引用者)

[176] 土井たか子、日本社会党、第101回国会、衆議院会議録第32号p4、1984年6月26日

[177] 藤田スミ、日本共産党、同上、p11

[178] 中西珠子、公明党、第102回国会参議院、社会労働委員会会議録第13号、1985年4月11日

[179] 日本経営者団体連盟事務局『男女雇用機会均等法早わかり』日本経営者団体連盟弘報部、1986年

[180] 坂本、第101回国会、衆議院会議録第32号p10、1984年6月26日

[181] 喜多村、101回国会衆議院、社会労働委員会議録25号p20

[182] 小西芳三「国連婦人差別撤廃条約とILO111号差別待遇条約」〜『婦人労働研究会会報』8号、1982年

[183] 赤松、第101回国会衆議院、社会労働委員会議録第20号p13(括弧内引用者)

[184] 赤松、第101回国会衆議院、社会労働委員会議録第27号p14、1984年7月24日

[185] 解釈例規、1947年9月13日、発基17号

[186] 赤松、第102回国会、参議院社会労働委員会会議録第13号p10、1985年4月11日

[187] 赤松、第102回国会衆議院外務委員会議録第15号p13、1985年5月24日

[188] 労働省婦人少年局「婦人の地位」1981年9月

[189] 『婦人就業対策等に関する行政監察 結果報告書』総務庁行政監察局、1991年、p2

[190] 同上、p4

[191] 「第42回党大会/運動方針」〜『月刊自由民主』1983年3月号p238

[192] 日本経営者団体連盟「育児休業制度法制化反対について」1981年9月

[193] 101回国会、衆議院会議録第32号p4、1984年6月26日

[194] 「男は仕事 女は家庭」という考えに同感する議員は各政党の中で一番多かった。(日本女性学研究会教育者会議「国会議員における男女平等に関する意識調査」1984年3月)

[195] 102回国会衆議院、外務委員会議録第15号p9、1985年5月24日

[196] 長谷川三千子(主婦・教員)「『男女雇用平等法』は文化の生態系を破壊する」〜『中央公論』1984年5月号。尾山太郎(政治評論家)「『男女雇用平等法』は日本を潰す」〜『諸君!』1984年5月号。ただ表立っては発言しなくとも、保守系の人々にとっては共有された考えのようで、名前は売れている評論家も「この間、竹村健一さんが私のところへやってきて、賛成の立場かどうかはそうでもなさそうだったけれども、こんなことをやったら日本の男性はかわいい女房、子どものために今まで命がけでやってきたという意欲がなくなるのではないか、生態系が破壊されるというようない感じのことも言われておりまして、この問題は君、一番大きな問題だよ、あと30年、50年たって大失敗したといったら労働大臣、一体どうしてくれるのだ」と要望した。(101回国会衆議院、社会労働委員会議録25号p39、1984年7月17日)

[197] 101回国会衆議院、社会労働委員会議録第20号p2

[198] 第102回国会衆議院、外務委員会議録第15号p13、1985年5月24日

[199] 山口敏夫、労働大臣、第102回国会参議院、社会労働委員会会議録第18号(その1)p8、1985年4月25日

[200] 浜田卓二郎、自由民主党、101回国会衆議院、社会労働委員会議録第20号p53

[201] 坂本、101回国会衆議院、社会労働委員会議録第20号p54

[202] 愛知和男、自由民主党、第101回国会、衆議院会議録第38号p5、1984年7月29日

[203] 「ここではほとんど高校卒業生。…第1に健康、第2に容姿端麗、第3に家庭環境、第4に学力、ことに第1は絶対条件です。…勤続年数は4年くらい。結婚までの修行の場として働いていただきたい。(三越人事課長 岩波東平)」共同通信配信記事、1955年9月14日(女性ジャーナリスト・ペン検証と研究の会(編)「女性記者の記事にみる戦後50年」1996年、p19)

[204] 佐藤欣子「男女雇用平等に向けて いま「女性」と「政治」を考える」〜『月間自由民主』1984年7月号p95

[205] 鈴木永二、日本経営者団体連盟会長、1990年7月6日(労働省婦人局「第5回男女雇用機会均等推進全国会議録」1991年)

[206] 政府税制調査会「当面実施すべき税制に関する答申」1950年12月

[207] 斉藤邦彦、外務大臣官房審議官、第102回国会衆議院、外務委員会議録第15号p2、1985年5月24日

[208] 山田中正、外務省国際連合局長、同上、p1

[209] 日本経営者団体連盟労務管理部「雇用における男女平等問題」1984年11月、p3

[210] 森喜朗、文部大臣、第101回国会、衆議院会議録第32号p8、1984年6月26日

[211] 中曽根、102回国会衆議院、外務委員会議録第17号p8、1985年5月31日

[212] 外務省外務報道官『女子差別撤廃条約』外務省国内広報課、1985年10月、p6

[213] 「塗りかえ」朝日新聞、1985年12月7日

[214] 日本リクルートセンター「男女雇用機会均等法に関する企業の意見調査」1985年9月3日

[215] リクルートリサーチ「女性社員の処遇と制度に関する調査」1991年。経済団体連合会広報委員会「女性が働くことと男性・社会が受け入れること」(1993年)でも、「女性(総合職を含む)」が38.9%と一番多く、「一般職(男女不問)」は11.0%と、職種別より男女別であった。

[216] 「賃金に関する男女差別」〜『労働経済判例速報』日経連事務局1986年12月20日号、p2

[217] 『相互銀行』1985年10月号

[218] 社会保険診療報酬支払基金事件(1990年7月4日民19部判決)、東京地裁昭55(ワ)1866号、同56(ワ)15293号

[219] 岩手銀行事件(1992年1月10日民2部判決)、仙台高裁昭60(ネ)248号・同61(ネ)119号(地方判決は1985年3月28日)

[220] 日本経営者団体連盟労務管理部「雇用における男女平等問題」1984年11月、p14

[221] 三陽物産事件(1994年6月16日民事第11部判決)、東京地裁平3(ワ)第5511号、平4(ワ)第14509号

[222] リクルートリサーチ「女性社員の処遇と制度に関する調査」1991年

[223] それ以前にも、1982年には自由民主党内に早川試案というものがあった。元労働大臣の早川崇が欧州視察を経て、「…こういったことが第2の黄禍論となり、がめつく働きすぎの日本人、働く女性を奴隷扱いする日本となってマスコミに登場する。その場合、日本の福祉の後進性、その例として育児休業制度の欠如が指摘される」ので育児休業法の早期制定が必要だとしていた。

[224] 前島英三郎、自由民主党、第119回国会参議院、社会労働委員会育児休業制度検討小委員会会議録第1号p3、1990年11月1日

[225] 日本経営者団体連盟「育児休業問題に関する見解」1990年6月

[226] 経団連・女性の社会進出に関する部会「『女性の働き方に関するアンケート調査(経営者、人事部長、社員)』結果」1995年2月、p3

[227] 経団連 女性の社会進出に関する部会「社会が変わる、会社も変わろう、男女の働き方を変えていこう――働きたい人が力いっぱい、はつらつと働ける社会をめざして」1995年2月

[228] 経済同友会「男と女のいい関係 建前と本音の間で揺れる中堅サラリーマンからのメッセージ」1994年

[229] 「第二次女子労働者福祉対策基本方針の策定」〜『労働経済判例速報』日経連事務局1992年7月10日号p2

[230] 鹿嶋敬『男女摩擦』岩波書店、2000年p266

[231] 育児休業法は1992年に一部施行されたが、この時点では大企業に対してのみであった。1994年の妊娠・出産による退職者割合は1991年の数値とほぼ変わらず31.6%であった。1995年に給付制度が施行されたこともあり、1997年の割合は19.0%となった。(労働省女性局「女性雇用管理基本調査」1997年度版、1998年

[232] 現在、転勤があるとする企業は1000人以上の大企業で91%の一方、女性が多い、従業員99人以下の中小企業で16%である。

[233] 日本労働組合総連合会女性局(編著)『作ろう!男女雇用平等法』1996年

[234] 浜本万三労働大臣、日本社会党、第132回国会衆議院会議録第17号p3、1995年3月24日

[235] 村山富市内閣総理大臣、日本社会党、同上、p6

[236] 佐藤謙一郎、新党さきがけ、与党、同上、p20

[237] 松岡満壽男、新進党、第132回国会衆議院、労働委員会議録第11号p7、1995年4月28日

[238] 山本貢、全国中小企業団体中央会常務理事、第132回国会衆議院、労働委員会議録第12号(その1)p2、1995年5月11日

[239] 富田和夫、名古屋商工会議所中堅・中小企業委員会委員長、同上、p18

[240] 北京JAC「政党の女性政策アンケート調査報告」1998年7月

[241] 総務庁行政監察局『女性の能力発揮を目指して』1997年4月、p10

[242] 同上、p193(括弧内引用者)

[243] 岡野裕、労働大臣、140回国会、衆議院会議録第31号p2、1997年5月6日

[244] 第140回国会、衆議院会議録第31号p4

[245] 第140回国会衆議院、労働委員会議録第10号p18、1997年5月9日

[246] 岡野、第140回国会衆議院、労働委員会議録第9号p29、1997年5月7日

[247] 荒川春、日本経営者団体連盟労務法制部長、140回国会、参議院会議録第15号p1、1997年6月3日

[248] かつては、「女子は生休、産休のため業務能率が低下するので労働に対する報酬としての賃金はその分だけ男子より低くせざるを得ない」といった声があった。(労働省婦人少年局「男女同一賃金についてのアンケート結果」1962年4月)

[249] 太田芳枝、労働省婦人局長、140回国会、参議院会議録第14号p35、1997年5月29日

[250] 「女子労働基準規則の一部を改正する省令」労働省令第8号、1994年3月11日

[251] 荒川、第140回国会衆議院、労働委員会議録第11号p1、1997年5月14日

[252] 岡野、第140回国会衆議院、労働委員会議録第12号p23、1997年5月16日

[253] 労働省告示第154号、1998年12月28日

[254] 「残業規制の強化が必要」日本経済新聞、1997年6月30日

[255] 荒川、第140回国会参議院、労働委員会議録第15号p15、1997年6月3日

[256] 吉田治、新進党、35歳、第140回国会衆議院、労働委員会議録第9号p7、1997年5月7日(吉田は、「このごろは、機会均等法ができたおかげかどうかわかりませんが、どうも大みそかと言われておるようでございまして、カウントダウンという形で、29、30、31は当たり前、その後はないというふうな。やはり法律というようなものが、徐々にではありますが、この10年間で社会というものを大きく変えたという認識も私は持っております」と、間の抜けた答弁も行なっている。この場合、女性にのみ「適齢期」があることが問われるべきだろう。)

[257] 岡野、第140回国会衆議院、労働委員会議録第9号p29

[258] 太田芳枝、労働省婦人局長、140回国会、参議院会議録第14号p18

[259] 太田、第140回国会衆議院、労働委員会議録第9号p16

[260] 第140回国会衆議院、労働委員会議録第9号p9

[261] 岡野、140回国会、衆議院会議録第31号p7

[262] 岡野、140回国会、参議院会議録第28号p5、1997年5月26日

[263] 男女雇用機会均等法の見直しを求める集会実行委員会「男女平等に関する政党アンケート 回答集」1995年6月

[264] 太田、140回国会、参議院会議録第14号p16

[265] 太田、第140回国会参議院、労働委員会議録第16号p12、1997年6月10日

[266] 盛山和夫(編)『日本の階層システム 4 ジェンダー・市場・家族』東京大学出版会、2000年、p82

[267] 小野功、東京商工会議所理事・事務局長、第102回国会衆議院、社会労働委員会議録第17号p10、1985年4月19日

[268] 加藤孝、労働省職業安定局長、同上、p23

[269] 丸子警報器事件(1996年3月15日判決)、長野県地方裁判所上田支部平成5年(ワ)第109号

[270] 「臨時社員の賃金格差問題」〜『労働経済判例速報』日経連事務局、1996年4月20日号p2

[271] 塩野義製薬事件(1999年7月28日判決)、大阪地方裁判所第5民事部平成7年(ワ)第9553号

[272] 「男性と同職種への変更と男女賃金格差」〜『労働経済判例速報』日経連事務局、1999年9月30日号、p2

[273] 佐藤俊樹『不平等社会日本』中公新書、2000年、p168

[274] アマルティア・セン『不平等の再検討』岩波書店、1999年、p

[275] 井上達夫「個人権と共同性―『悩める経済大国』の倫理的再編」〜加藤寛孝(編)『自由経済と倫理』成文堂、1995年

[276] 小熊英二「『日本型』近代国家における公共性」〜『社会学評論』第50号4巻(2000年)

[277] 男女共同参画審議会第2部会第8回議事録、1995年12月12日

[278] 野中広務、内閣官房長官、第145回国会、衆議院会議録第35号、p3、1999年6月3日

[279] 佐藤正紀、内閣総理大臣官房審議官、第145回国会衆議院、内閣委員会議録第5号、p9、1999年6月8日

[280] 1970年代に女性通訳が出てきた頃は「女性には向かない」と言われ、仕事がなかなか回ってこなかったという。しかし、実際に使われる中で偏見が解消されてゆき、今ではむしろ女性の通訳が多くなっている。