小熊研究会「近代社会研究」二〇〇〇年度版 講評 小熊英二

 

 本書は、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の小熊英二ゼミにおける、二〇〇〇年度卒業生たちの論文集である。SFCでは卒業論文を必修とはしていないが、このゼミナールでは研究論文の作成を指導している。

 ゼミの担当教員である小熊は、基本的に社会学や近代史を研究分野としているが、社会学的なメソッドで近代社会を問いなおすという大枠だけを示し、学生にはテーマは自由に選ばせている。そして学部学生にたいする指導理念は、「研究したいことを研究しなさい」ということに尽きている。しかし実際に学生たちが研究に着手してみると、「研究したいことを研究する」ことが、なかなか困難であることが明らかになる。

 まず、「自由にやれ」といわれても、「研究したいこと」が定まらないという学生が多い。 学生のなかには、大学生になるまで、学校とは「命令された課題をこなす場所」であるという感覚を持っている者もいる。そうした者は、「やりたいことを自由にやっていい」といわれると、とまどってしまう。

 テーマが思いついても、次にはそれを学問的なメソッドに結びつける作業がある。その作業を可能にするためには、社会学をはじめとした諸理論を学ぶ必要がある。しかし、いくら思想家や理論の名称を知っていても、現実の問題を解くためにそれを使いこなす応用力がなければ、ただの学問オタクにすぎない。たいていの場合、知っている理論の数十分の一程度しか、それを使いこなす段階までは進めないものだ。

 次の段階では、テーマを「研究」という形態に仕上げることの困難がある。学生は当初、レポートと研究の区別がついていないことも少なくない。「研究」というからには、いかに小さくとも調査事実や分析にオリジナリティが必要である。それを達成するためには、抽象的で大きな問題意識を、具体的で調査可能な形態に整えてゆくことが不可欠である。

 こうした過程で、学生たちは、まず「やりたいこと」を見つけなければならない。さらに、問題を解くための知識を身につけ、知識を使いこなす段階まで進まねばならない。次には、それを学問的に具体的なかたちにするという作業を行なわなくてはならない。そして、「やりたいこと」と「できること」のギャップを、いかに埋めるかといった経験を積まねばならない。テーマの変更や、構想の挫折という問題にも直面したりする。

 研究を仕上げるという作業は、単に学問を知識として学ぶということではない。それは、こうした全過程を通して、問題を発見し、それを解決するべく努力する体験である。私としては、大学院生はいざしらず、学部学生に「学者の卵」になるための研究指導を行なうつもりはない。それよりも、このような体験を経ることによって、単なる知識の蓄積をこえた何かを、学生がつかむことのほうがはるかに重要ではないかと思っている。

 本書は、そうした学生たちの研究成果を集めたものである。「やりたいことをやれ」と伝えた結果、各自のテーマは分散している。学問的完成度や論文作法よりも、テーマの発見と取組みという部分を重視するように述べてきたので、学界的な「論文」としては洗練されていないものもある。しかしなお、これらの論文には、彼ら一人ひとりの試行錯誤と努力が結晶している。そのようなものとして一読いただければ、幸いに思う。

 それでは、以下それぞれの論文について、講評を述べる。

 

 相澤真一「近代学校制度の整備と『劣等』の発見、問題化」は、明治大正期の学校教育において、「劣等」な生徒が「発見」されていった経緯の分析にとりくんだものである。

 明治初期においては、小学校は進級試験による等級制をとっており、試験に通過しない生徒は上の等級に進むことができなかった。逆にいえば、そこでは学習進度が一定以下の生徒ははじめから除外されており、それゆえ「劣等」という分類枠が存在しえなかった。また進級年齢は個人差があり、等級は多様な年齢の生徒で構成されていたため、多少の偏差は目立たなかったのである。しかし、学校経営や教員養成といった経済的・政策的理由から、等級制が学年制に切りかわり、同年齢の生徒に一斉授業を行なう均質な「学級」が編成されたとき、そうした均質性をかきみだす「劣等」な生徒が「発見」されるに至ったというのである。相澤はこうした過程を当時の就学率や政策的変遷から追跡する一方、教育雑誌『児童研究』の分析から、こうした「劣等」児童がいかに「科学的」に把握され、表象され、問題化されていったかを分析している。

 本稿の特長は、「劣等」の発見を問うという問題を設定するにあたって、相澤がとった手法にある。分類枠の発生を問うというアプローチそのものは、フーコーやアリエスの研究に刺激を受けた近年の歴史研究では盛んになりつつあり、すでに「優等生」の発見については先行研究も存在する。しかし相澤の場合、単に言説分析としてそれを行なうのではなく、同時代の政策的変遷や就学事情といった政治的背景も重視している。また教育雑誌の言説分析においても、ヨーロッパの教育学の輸入や優生学との関係といった、「外部」からの影響が言説編成にもたらす影響を重視している。さらに、「劣等」の意味とカテゴリーが確定してゆくまでの揺らぎや複雑さをていねいに追跡しており、こうした視点の多様さが、論述に厚みを添えている。

 しかし反面、政策的変化による「学級」の出現が「劣等」の発見に結びついたという仮説の立証は、史料的にいまだ十分とはいえない水準である。さらに後半の言説分析においては、相澤が「発見」を想定した「劣等」と、当時における「劣等」の意味のずれが見られ、前者が後者から分離し、確定してゆく過程の説明がいま一つ不分明である。そうした意味で、本論文は着想と方法論に工夫と才覚がみられるが、仮説の立証という点において完成したものとはいえず、将来に課題を残すものといえよう。

 

 石野純也「<浪人生>の誕生」は、相澤論文とおなじく、「浪人」というカテゴリーの成立を明治期からの教育関係言説から研究している。

 石野によれば、「浪人生」というカテゴリーは、高等教育のメリットが人々に強く認識されるようになった明治30年代以前には存在しなかった。この時期以後、高等教育進学率の急激な膨張とともに、「浪人生」が発見される。しかも、当初は一種の「社会問題」として「不良学生」と同一視されていた「浪人生」は、やがて「『現役生』と差異化した受験生」として独自の同一性を獲得しはじめ、「浪人経験は人生の幅を広げる」といった対抗言説も生産されてゆく。

 石野論文の長所は、なんといっても「浪人」というカテゴリーの誕生をあつかった初の論文であるという点にある。明治期を中心に、戦後までの受験・学生生活関係の資料を調査し、「浪人」の発生について一定の回答を提出したことが評価できよう。また、「浪人」カテゴリーが成立するまでの差異化の各種パターンやその変遷、対抗言説の出現などを追跡しようとしたところに、努力が感じられる。さらに、明治期においては士族層が学生のなかで高い割合を占め、その士族文化が「浪人」という言葉の形成におよぼした影響を示唆している点や、徴兵制度との関連といった微細な要素にも目が届いている。

 しかしこの論文では、肝心の「浪人生」という言葉の発生現場を押えることができず、いわば状況証拠的な分析にとどまっている。また明治期の分析の充実度にくらべ、大正期・昭和前期は最小限の言及のみであり、戦後の分析もやや厚みを欠く。着想はおもしろく、分析や論述にも素質を感じさせるが、史料的裏づけと研究の展開において未完成にとどまった論文といえる。

 

 貴戸理恵「横浜の学童保育のゆくえ」は、学童保育施設のフィールドワークを通して、横浜を中心に学童保育の現状と展望を考察したものである。

 この論文では、設営母体と地域などが異なる各種の学童保育施設が、比較検討されている。学童保育は、働く親たちの共同保育として自然発生的にはじまった歴史をもつが、近年は少子化対策などで政策的に注目され、横浜市をはじめ既存の学校内に公営で設立する動きがある。そのなかで、いわば自治的に運営されてきた民間委託施設の側では、管理的な公営施設に整理統合されるのではないかという危機感が発生している。貴戸はまず、横浜の民間委託施設のうち成功例と限定例を調査し、さらに横浜市が学校内に設立した「はまっ子ふれあいスクール」、東京都品川区の公設公営施設、東京都世田谷区の学校内公営施設「新BOP」、さらに公設公営への整理統合に反対する横浜市学童保育連絡協議会(連協)などを調査した。それらの調査を経て、最終章では横浜市への政策提言を行なっている。

 この論文の長所は、比較検討のために選ばれた調査対象の適切さ、それによる論文全体の構築力、さらにフィールドワーカーとしての視点と感性の豊かさにある。とくに著者が臨時指導員として働きつつ参与観察を行なった横浜の民間委託施設「めだか学童クラブ」の調査記録は、指導員の意識と労働条件・その背景である女子労働市場の狭さ・市財政の問題・親たちの施設運営への参加意識・地元コミュニティとの関係・子どもの反応など、多様な視点がうまく盛り込まれ、フィールドワークの成功例であると同時に、自治的民間機関がいかなる形態で運営しうるかという問題にも大きな示唆を与えている。もともと著者の問題意識は、論文副題である「家庭でも学校でもない、子どもの居場所として」が示すように、最大の利用者でありながらその声が無視されがちな「子どもの視点」からこの問題を見直すというものである。そこにフェミニズムの理論や行政的な視点も取り入れられ、近代社会全体の問題を縮図的に問う内容となっている。

 この論文の不足点としては、比較的長期の参与観察を行なった「めだか学童クラブ」の調査と比較して、他の調査にやや厚みと愛情が欠けていることが挙げられる。調査対象の選択は適切であるが、学生による個人調査の限界も感じられる。また、フィールドワークで示された感性と、フェミニズムをはじめとした社会学的理論、そして政策提言を目標とした行政的視点が、必ずしも完全に調和しているとはいえない部分がある。しかし著者の能力は十分に示されており、今後の活動が期待できる内容の論文といえる。

 

 林綾乃「トイレ及び糞尿における身体の位置づけ」は、トイレと糞尿に関する諸議論を、身体論や衛生論などの観点から見直すことで、近代社会の再検討を図ったものである。

 糞尿は、汗や切り取られた毛髪などとおなじく、身体と外部の境界に位置する存在である。トイレはまた、古代や中世においては人々の邂逅の場であったり、アジールであったりした。しかし近代以後、農業などへの糞尿利用を「野蛮」「不衛生」とみなす視線が形成され、トイレも国家衛生の見地から改良の対象とされてゆく。著者はこうした医学・衛生関係の議論や政策のみならず、近代日本の住宅建築史や犯罪鑑定学、さらに軍隊および学校という日本近代化の尖兵役を担った公共機関におけるトイレ・糞尿関係の史料を調査した。それにより、近代化のなかで何が排除され、それにともなって身体がいかに再編成されたかが描写されている。

 この論文の長所としては、ほとんど先行研究のないテーマに独自の視点から挑戦し、多量の関係史料を発掘したことが挙げられる。関係史料の引用が豊富であり、その部分だけでも一読の価値がある内容といえる。史料調査の選択も広範であり、それらに対する位置づけも適切になされている。

 とはいえ、発掘された多くの史料は、個別の位置づけが為されてはいるものの、やや未整理なまま並べられている。衛生医学や学校など、それぞれの章は興味深い内容をもっているが、論文全体における相互の連関性は整理が不分明であり、全体の構成は十分とはいえない。視点はおもしろく、発掘した史料は興味深いが、全体を構成する枠を組みたてる前に時間切れとなった、という感がある研究といえよう。しかし、未整理ながら可能性を感じさせる内容の論文といえる。

 

 山里亜紀子「沖縄復帰後の教育に関する研究」は、沖縄における復帰後の教育理念を、新聞記事や関係者へのインタビューで探ったものである。

 一九六〇年代の沖縄復帰運動では、意識面での「日本国民化」をめざす教育が行なわれていた。七二年の復帰前後から、こうした教育方針は放棄されるが、次には教育施設充実での「本土なみ」指向が発生する。それがほぼ達成された七〇年代後半には、進学競争における「本土なみ」指向が表れ、塾の急増と学力論争が起こる。そして一九八六年には、全県から成績優秀者を集めた進学校である県立開邦高校が設立される。この八〇年代半ばは、本土側では臨教審による教育政策の転換と、文部省の指導による「日の丸」掲揚が推進された時期でもあった。しかし一方で同じ八六年には、沖縄伝統芸術を学ぶことができる沖縄県立芸術大学の開学が行なわれている。著者はこうした「本土なみ」指向と「沖縄独自」指向の関係を、当時の県教育長や芸大教員などへのインタビューをまじえて考察している。

 この論文が描き出しているのは、一見対立関係にみえがちな沖縄教育の「本土化」と「沖縄独自」という二つのベクトルが、複雑な交錯を織り成していることである。「本土なみ」の進学競争をめざして設立された「開邦高校」の名称は、琉球王国が設立した大学課程の遍額からとられたものであった。すなわち、「本土なみ」の進学競争推進は、同時に沖縄ナショナリズムの表現でもあったわけである。またこの「開邦」の名称を考案した当時の県教育長は、沖縄戦体験世代であると同時に、「日の丸」掲揚指導の先頭に立った人物でもあった。また著者が指摘しているように、「本土なみ」と「沖縄独自」はほぼ同時並行で出現しており、「沖縄の独自性」も「『本土』という他者があって」のものであった。こうした複雑さをよく描き出していることが、この論文の長所といえる。

 とはいえ、論文全体の構成、調査の厚み、理論的枠組みなどは、いずれも十分とはいいがたい水準である。あつかったテーマそのものの豊かさと、インタビューの努力によって、これらの弱点がカバーされている論文といえる。継続的な調査が望まれるテーマであり、今後の取組みが期待される。

 

 山越峰一郎「労働基準法・三つの雇用機会均等法における『平等』」は、戦後の労働法規や男女雇用機会均等法などの議会審議を中心に、女子保護規定や平等促進に関する議論を調査したものである。

 敗戦後に制定された労働基準法には、性別による賃金差別を禁ずる条項があった。しかしその審議過程における議論は、この規定が運営による事実上の差別を黙認するものであったことを示している。その後、高度経済成長下で労働市場の変質とともに雇用差別裁判が続々と起こり、国際条約という「外圧」もくわわって一九八五年の男女雇用機会均等法制定まで進むが、その間の議会審議や省庁の見解なども、内外からの圧力を糊塗しつつ、実質的な差別を温存することを指向していた。九〇年代の改正均等法におけるポジティブ・アクションの採用と保護規定撤廃をめぐる議論においても、同様の傾向がみられる。

 この論文の最大の長所は、戦後労働立法における男女平等や女子保護にかんする各種の法案審議や、裁判などにおける議論を、網羅的に調査している点にある。「保護か平等か」をめぐる議論というテーマは、ともすれば出口のみえにくい抽象論に陥りがちである。しかしそこに、同時代の労働市場の変化、制度面や実態面における変遷、政府や経済界などの場当たり的な対応ぶりなどを背景に置くことで、より立体的かつ複雑な実情が浮かび上がり、議論の位置と性格も複眼的に見渡せるようになってくる。

 だがこの論文は、資料面での調査の充実ぶりに比較して、分析や構成はやや弱い。著者はこの問題を、ポジティブ・アクションにおける「機会の平等」「結果の平等」や、公共性をめぐる議論などに結びつけようと努めているが、それが十分に成功しているとは言い難い。むしろ著者の調査によって明らかになった事実は、日本における女性の雇用平等に関する議論が、原理的レベルの思想とはほとんど無縁なものだったのではないかという疑念さえ起こさせるものである。その点に著者もまた気づいていると思われるが、調査事実をより深く分析し、次の展望を開くための位置付けを行なうための努力が、今後望まれるといえよう。

 

 渡辺大輔「短期大学のジェンダー化」は、短大の「女性化」という現象を事例に、メリトクラシー社会における低位集団の再生産の問題を、ジェンダーの視点を交えて論じたものである。

 短大は、太平洋戦争後に暫定的な短期高等教育の場として設けられたが、初期には男性のほうが多く通っていた。短大生の男女比が逆転するのは一九五〇年代であり、日本社会全体が高学歴化してゆくなかで、しだいに男性は四年制大学に上昇し、短大は学歴的な低位集団というべき女性が通う場所となった。そこから、「短大生=女性」というイメージも形成されたのである。さらに、初期の女子短大生は教養教育を目的とした富裕層出身者が多く、就職は例外的だったのに対し、一九六〇年代の短大設置数の急膨張とともに、低所得層の女性が多数進学するなかで、就職に有利な資格取得を掲げる短大が増加する。しかし短大で取得できる資格は、実際にはその後のキャリアに役立つものは少なく、実質的には資格取得の幻想を与えることで、女性がメリトクラシー社会における低位集団として再生産される傾向を固定化しているというのである。

 この論文の優れた点は、ジェンダー的差異による階層の再生産を、非常に具体的な問題において立証したことにある。短大生に占める女性の増加という現象そのものは、すでに知られていたことであるが、それをジェンダー的視点から「問題化」し、教育社会学における再生産論や葛藤理論と融合させて分析を試みた点が、著者の貢献といえる。論文における実証過程も堅実でバランスがとれており、力量を感じさせる出来映えである。

 反面、この論文においては、メリトクラシー社会をあつかう教育社会学の葛藤理論と、ジェンダー関係の理論との融合が、いまだ十分とはいえない感がある。現時点においては、ジェンダー論的な視点といっても、再生産される低位集団が「女性」であるという点を意識した、という段階にとどまりがちといえる。近年のジェンダー関係の理論と真の融合を目指すなら、短大をめぐる「女性」の差異化が、社会的な言説や「短大生」自身のアイデンティティにおいて形成されてくる場面の分析に、踏みこむ必要が出てくると思われる。また、ジェンダー的公正をうたった結論は、実証部分にくらべ議論が不充分である。とはいえ、将来の展望を感じさせる研究内容ということができる。

 

 以上、収録論文の要約と、講評を行なった。いささか厳しい論評を行なったが、収録論文はいずれもそれぞれに力作であり、注目すべき調査内容を含んでいる。読者は、これらの論文の未熟さよりも、可能性を重視してお読みいただきたい。これらの研究をなしとげた各学生に敬意を表すると同時に、ここでつかんだ成果と経験をもとに、今後の発展と研鑚を期待する次第である。