2000年度卒業論文 小熊研究会2 最終原稿

 

 

 

近代学校制度の整備と「劣等」の発見、問題化

―― 明治大正期における「学級」「学年」「一斉授業」の成立に関する教育実践史の視点を加味した制度史的な考察と雑誌『児童研究』を中心とした「劣等」の問題化に関する構築主義的立場を中心とした歴史社会学的考察 ――

総合政策学部四年  相澤 真一

 

論文要旨

  近代の学校が「劣等児」を発見するためには、「学級」、「学年」、「一斉授業」の成立が必要であった。その仮説に基づいた上で、制度史的再検討を行なった。更にこれらの制度が成立した後、雑誌『児童研究』を対象として、「劣等」が盛んに議論され始め、曖昧に問題化され、学術研究と関わるかを主に構築主義的な立場から考察した上で、近代日本において、特殊教育の対象である「低能児」と勉強ができなくて問題の「劣等児」の意味が確定する点までを論じた。

 

キーワード

「劣等・低能」、「制度的前提」、「構築主義」、「問題化」、「『児童研究』」


目次

問題設定とその背景、視点の設定... 3

本論における調査対象と調査方法... 4

先行研究の批判的検討と本論のスタンス... 5

義務教育制度と学級制度の整備  制度史的視点から... 7

4−1 視点の設定... 7

4−2 第二次小学校令以前の教育環境 −「等級」を中心として... 8

4−3 第二次小学校令前後における変化「等級」から「学級」へ... 10

4−4 新しい「学級」における教育実践とその問題... 12

「合級」と「単級」... 12

困難な学級運営... 13

質、量の両面で不足した教員... 15

第二次小学校令下の時期における制度的な変化と問題点の総括... 17

4−5第三次小学校令における変化 −学年と一斉授業の成立−... 18

学年の成立... 18

就学率の急上昇とその要因... 19

「定型」化した一斉授業の成立へ... 20

第三次小学校令下における制度的な変化と問題点の総括... 21

「劣等」の発見と問題化... 22

5−1 制度整備以前の「劣等」の問題化... 22

5−2 「劣等児・低能児」問題に関する先行研究の検討... 23

5−3 「劣等」の問題化へ... 25

盛んに論じられる「劣等」... 26

鈴木治太郎の劣等児調査における「問題化」... 26

岩内誠一の劣等児調査における「問題化」... 31

岩内の「問題化」の総括... 38

5−4 国内における「問題化」から『児童研究』を介した欧米の研究の摂取へ... 39

特殊教育の場面で使われていない場合の「劣等」の言い換え... 40

特殊教育の場面で使用される「低能児」... 41

特殊教育の研究成果において明らかになる他の語の位置づけ... 46

「低能」と試験法 −ビネー・シモン法の導入−... 48

5−5 日本における「劣等」の意味の確定... 51

社会学的考察と結論... 53

6−1 社会の近代化または近代化論と本論の事例との比較検討... 53

6−2 構築主義的な分析によって明らかにされたこととその考察... 55

参考文献(言及した文献のみを掲載)... 57

 

 

問題設定とその背景、視点の設定

 

児童の「優劣」はいつ、どのように、どうやって決められたのか。

本論はこの問題を設定し、これを明治大正期の言論資料を調査することによって明らかにすることを目的とする。

我々は日常、他人に関する「優劣」を意識的、無意識的に関わらず把握し、それによって他人を分類している。この行為はその二人の関係によってはある権力関係の問題として実体化する。その最たる例が学校における教師−児童(生徒)の関係であろう。教師によって決められた生徒の「優劣」は、現在では内申書という形で生徒の進路すら確定する力を持っている。この関係において、設定されている「優劣」は一見、利用に価する客観的評価基準、または主観的であっても評価されうるに値する基準として定められているように思われる。

しかし、冷静に考えてみれば、このような「優劣」はそれほどまでに固定的なものであるのだろうか。例えば、現在の多くの中学校の内申書作成において行われる評価基準は相対評価である。重視される成績はペーパーテストの結果や提出物の結果を相対的に並べたものにすぎないし、特記事項が運動部の大会の全国第一位であったとしても、それも相対的な結果にすぎない。その相対性は現在の教育現場の議論においても、「この中学校は非常に出来がよいがゆえに、生徒全体の成績は同じ達成度でも低くなってしまう」というような指摘によって、問題化することもあるが、基本的にそれらの相対性の問題は不問とされている。また、何らかのペーパーテストの「絶対的基準」によって、判断しているにしても、そのペーパーテストが人間の「優劣」の評価を行なうことに関する妥当性に関しては不問とされている。不問とされているのは実際には不思議なのであるが、それでも我々は便宜上、「優劣」の評価を行ないつづけている。

このそれでも便宜上、行なっている「優劣」や「個性」の評価に関する営みが近年、「総合的な学習」の導入などの様に、新たに問われようとしている。ここにおける制度の変革可能性を議論する場合の視点として、助けになるのが、歴史的視点である。歴史的視点を導入することによって、我々はこれらの「優劣」を評価するという作業がどのようにして可能になったのかを見ることができる。この作業がどれだけの前提を必要とし、どのような作業を通じることによって可能になったのかも理解することができよう。

 

この作業を振り返るにあたり、何に目を向けるべきなのか、視点の整理が必要である。まず、我々はこの営みを行なう上での「前提」に注目しなければならない。「前提」とは制度的基盤である。つまり、我々は評価する営みの「前提」として、定められた制度的基盤を把握する必要がある。この制度史的視点が必要と考えうる最初の視点である。

この制度的基盤としての「前提」を踏まえた上で、学校における「優劣」や「個性」を評価するという作業を行なっている主体に注目する必要がある。この主体として、最初に思い浮かぶであろう者は教師である。まず、教師が行なおうとした営みを教育実践として把握する必要がある。この視点が本論において必要な視点の第二点目である。また教師と共にこれらの評価を行なうための知識を提供した営みに注目しなければならない。そこで研究の領域における営みを研究史として把握する必要がある。この視点が本論における第三点目として必要な視点である。もちろんこの二つの視点は相互補完的であるし、教育者であり研究者であるというような立場を取った人間も数少なくないので、厳密には区別することはできない。

 

 

本論における調査対象と調査方法

 

上記の問題意識と視点の整理に基き、調査対象と調査方法を明確化する。本論は言説分析の方法を取っている。本論は明治二十年代から大正期の言論資料を調査対象とした。学校における児童に対する評価の定められ方を問うという本論の視点から、調査対象は次のように限定した。@実際に児童を研究することによって、分類枠組を定めることとなった児童研究の文献資料(第三の視点の具体化)とA研究と問題意識を相互補完する上で重要な現場における教育実践や学級経営に関する文献資料(第二の視点の具体化)である。

これらを調査、分析するにあたり、中心に据えたのは1889(明治31年)年に日本児童学会から発行された研究誌『児童研究』である。児童研究は[1]研究誌という性格を強く持ち、現在でも心理学や医学、または児童、子どもに関する様々な学問領域において歴史的に大きな影響力を残したと評価される当時の研究者達が顔を揃えており[2]、@の調査対象としてはきわめて適切なものであると考える。またAにおいても、実際に本誌を閲覧すればわかるように、当時の教師や親達の意見も寄せられた形で雑誌が構成されている。その点でAの調査対象としても決して的外れなものではないと考える。本論、特に後半ではこの『児童研究』を中心として論を展開している。『児童研究』に関しては発刊から、1921年(大正10年)までを調査[3]した。またAの視点としては、研究が成立する前の視点を考察するという目的も合わせて1885年(明治18年)から明治37年(1904年)まで計656号発刊された雑誌『教育報知』も総目次検索から記事を調査した。

  第一の視点の具体化としては、これまでの制度史的研究の先行研究を素材として、今回の問題に関する制度史の再検討、再編成を行なうことを努めた。必要と思われるものには政府の文書も確認した。

 

 

先行研究の批判的検討と本論のスタンス

 

本論では、すでに述べたように複数の視点を統合させた形の叙述を行なっているため、先行研究の検討もそのような視点別に整理して行なう必要がある。以下、どのような研究があるのかを拙見の範囲で検討していきたい。第一の視点である制度史的な俯瞰としては国立教育研究所編刊(1974)の研究が様々な制度史的アプローチへの基礎研究となっており[4]、本論でもこの記述を大いに参考にした。また義務教育がどのようにして定着したかという点は、天野(1997)に詳しい。

学級や学年が制度的にどのように成立したかを概論として俯瞰したものや学級経営の問題に関しては非常に多く論じられている[5]。しかし、これらの研究は以上の問題に関しては言及の余地をあまり残さないものの、児童観の問題とも絡んだ第二の視点、第三の視点とのつながりはほとんどなく、本論はその点で意義のあるものとなるはずである。

 

当時の教育言論を分析した研究としては、佐藤(1995)のように「個性」がどのように語られてきたかという研究や片桐(1995)のように「優等生」が誕生し、変容していく過程を論じた研究もある。これらの研究は本論で導入した第二の視点に関しての言及はかなり行われている。しかし、第一点の視点で現われる学級の制度的問題とのつながりに関する言及が少なく、また当時、盛んになってきた第三の研究の視点との関連はほとんど論じられていない。この点は極めて盛んな教育史研究や教育の歴史社会学的な研究に比して、『児童研究』の成果を主に引き継いだ心理学、児童心理学の分野においては、大泉(1987)他で指摘されているように、日本における心理学史研究が少なかった[6]ことにも起因しているように思われる[7]。このため、とりわけ第三の視点が第一の視点、第二の視点とどう影響するのかに関しての研究は拙見の範囲で見ることができなかった。

だが、本研究のこのような視点は決して新奇なものである訳ではない。このように「研究」を歴史的、批判的に考察する研究は日本においてもフーコーの影響下で盛んに行なわれてきたものである。ただそのような近代科学批判に終始しがちなフーコーの影響を受けた研究に対して、本研究はさらに視点を進めるために、それとは別のスタンスで考察を行なっている。

 

本論は教育史の分野の研究としてではなく、教育の歴史社会学的研究であると考えている。それは教育問題へのスタンスの取り方によるものである。本論は構築主義的な立場を取り、いかにして「問題」が問題として認識されるようになったのかという点に注目している[8]。本論ではそれを「問題化」として定義し、その周辺状況を記述することを試みた。ただし、現在の問題に対して構築主義的なアプローチをかける場合は、同時期の周辺状況の記述に終始するきらいもある。本論ではそのようなアプローチを取るのではなく、「問題化」を鍵として、その前提条件に迫るための前史としての史的考察にもかなり紙数を割いている。そしてこの前提条件が成立した結果、どのように「問題化」したのか、またその「問題化」の内容についてを問うている。

このような作業を行なった結果、ある歴史的な事象を見るために、ある歴史的な前提を確認することになった。そしてその目的であった歴史的な事象は先述したように、現在における問題意識によって支えられているのである。つまり、歴史は歴史として完結するものではなく、現在を見るために歴史を考察するのである。

このような手法は珍奇なものではない。むしろ現在、隆盛であり先行研究も多々あり[9]、方法の有効性も認知されるようになってきた[10]。しかし、このようなスタンスに基いた研究において、とりわけ「劣等・低能」に関しての研究は拙見の限り、見当たらない。特殊教育史、障害者教育史の分野で特に「劣等児・低能児」の問題への言及は見られるが、以上のようなスタンスからこれらの事象は、依然、分析の余地を残しているように思われる。本論はこの分野に分け入っていくものである。

 

  最後に本論の構成を簡単に説明しよう。本論はこれまでの視点の設定、先行研究とのスタンスを踏まえた上で、まず制度史の分析を行なっている。これによって、優劣を行なうためにはどのような制度的前提を必要としたかを考察した。その上で、「児童研究」を中心とした「問題化」の契機に迫っている。「問題化」はとりわけ深刻に扱われた「劣等・低能」の側の問題に紙数を割き、「優等」に関する分析はその問題との距離で論じられる範囲で論じた。このようにして「問題化」した「劣等・低能」がどのようなものであったのかということを見た上で、最後にこれらの歴史的な分析を踏まえた社会学的な考察を行ない、まとめることによって、結論としている。前置きが長くなったが、これより、本事象に対する史的考察を見ていこう。

 

 

義務教育制度と学級制度の整備  制度史的視点から

4−1 視点の設定

  本章では教育史、特に教育制度史の分野の先行研究や当時の公文書を対象として、本研究に関連する問題点を中心に制度史の再解釈、再検討、再編成を行なうことにした。関連する問題点とは以下のようなものである。

 

1.        学校運営の側にとって、「学級」や「学年」をどのように位置づけようとしたのか。

2.        その位置づけに基き、どのような学級編制の枠組みが作られ、その結果、児童はどのように分類されることになったのか。

3.        位置づけ、分類に基いた上で、どのような教育実践が計画され、行われたのか。

4.        これらの変化と問題の変化

 

  以上、この四点の視点を基本として本章は構成されている。この視点を基本に第二次小学校令(1890)から第三次小学校令(1900)にかけての制度的な変化[11]を考察している。この作業を通じて、1890年代に「学級」という場がどのような形で成立したかを明らかにし、それが後述する優劣の問題化とどのように関わるかを議論する上での礎石としたい。結論を先取りして言えば、これらの教育問題が「問題化」された時に学級が持っていた「均質性の想定」の確定への過程が明らかにされることになろう。

 

4−2 第二次小学校令以前の教育環境 −「等級」を中心として

まず、「学級」の位置づけに関して見ていきたい[12]。改めて指摘するならば、学級というのは、学制発布による近代的な学校の成立と同時にできたものではなく、初期の学校では学級(クラス)ではなく等級(グレイド)が採用されていた。そして「学制」において想定する学校は、等級概念や進級試験を導入したきわめて個人主義的な教育を営んでいた。当時、福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず人の下に造らず」という平等概念を謳いながら、それが「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできる」[13]という奨学と平等の能力による競争とが表裏一体であったように、初期の就学制度は個々人が学び始めることに重点が置かれ、それに応じた制度となっていた[14]

この個人主義的な制度に対応していたのが等級制(グレイド)である。等級制(グレイド)の下では、標準的に1級の修行期間を6ヶ月と定めた上で、全部で15前後の等級に分け、それを個々人が個々の学力水準に応じて進級していくものであった。そこで、進級では個々人によってまちまちであったし、そのことは問題になるべくもなかった。このような指導形態は受容している階層は必ずしも一致しないものの、それ以前の教育機関の一端を担っていた寺子屋も、このような個人主義的な教育を営んでいた[15]

この等級制の下では、どのような教授形態が想定されていたのであろうか。理想として想定されていたのは、「一等級一教師」制による集団授業であった[16]。しかし、この実施には多くの困難が伴った。「一等級一教師」制を採用するためには、次の二つの条件を充たすことが必要である。一つには各等級ごとにほぼ均等に児童が存在することであり、また第二点として、各等級ごとに教員がいるということが必要である。しかし、第一点目においては、教育課程、教育内容の未整備ということもあり、在籍児童数の著しい不均衡が生じていた。つまり下位等級に児童は集中し、上位等級に在籍する児童は1879年時点で下位等級児童の一割前後にとどまっていた[17]

また、第二点目に関する問題として、決して、教員数は財政上の問題もあり、すべての等級を充たすほどの教員を確保することはできなかった。留意したい点は、当時の小学校が、現在から比べれば、はるかに小さい小学校像が想定されており、生徒数も教員数も大変に少なかった点にある。下記表を見ればわかる通り、1880年代までを通じて、一学校あたり、一人の正教員を含む三人程度の教職者と日々の出席者百人弱の児童から構成されていた。

 

表1

年号    西暦              就学者           出席者

M

19

1886

107.2694

63.98386

M

20

1887

118.806

71.39522

M

21

1888

126.2856

76.6496

M

22

1889

130.6575

83.32806

M

23

1890

135.3237

86.4062

M

24

1891

143.1486

91.98798

M

25

1892

171.6791

101.0234

(Mは「明治」の元号を表し、「就学者」、「出席者」は一学校あたりの人数である。「『明治以降教育制度発達史』巻末統計資料より、相澤が算出して表を作成。)

 

そのため、「一等級一教師」という理想は成立するまでもなく、当時、取られたのは等級をまたいで複式授業を行なう「合級制」が取られるようになった。この状況に対応して、合級教授術が当時の重要な教育実践における研究課題として位置づけられた[18]。「合級制」については後述するが、ここで改めて確認したいのは、合級制という形で授業が企図されたにしろ、あくまでも合級制は当時の等級制の変容形態であり、個人主義的な教育であったことには、変わりはなかったことである。

 

4−3 第二次小学校令前後における変化 「等級」から「学級」へ

このような個人主義的な等級制の教育に対し、「学級」という概念が「等級」に変わって明確に規定されてくる。学級の最初の位置づけは、「一人ノ本科正教員ノ一教室ニ於テ同時ニ教授スヘキ一団ノ児童」という形で定義され、不特定多数の児童を一定人数、教授集団として囲い込むための定員数としての位置づけに過ぎなかった。これは教育的観点に基づいた政策というよりはむしろ先述もしたような財政難と教員不足の中で、いかに学校を維持するかという観点から作られたという方が色濃い。1886年の小学校令に基いて文部省が定めた省令「小学校ノ学科及其程度」において、「学級」という言葉がはじめて使われ、その中において、定員は尋常小学校においては80人以下、高等小学校においては60人以下に定められた。この規定は1891年の文部省訓令第12号「学級編制等ニ関スル規則」によって、70人未満(ただし、70人以上100人未満の学校の場合、一学級に定めることができる)とした[19]

 

まず先述した「学級編制等ニ関スル規則」は1890年(明治23年)に制定された第二次小学校令施行上の規則の一つとして、1891年(明治24年)に制定されている。第二次小学校令はそれまで施行されていた全16ヶ条しかない旧小学校令を一新し、全896ヶ条からなる体系性を備えていた[20]。第二次小学校令は大規模であった点で様々な特徴があるが、本論に関連していえば、まず、学校の管理、運営の面を強調されていた。更に第二次小学校令の施行にあたり、それをより具体化する規則が数多く定められた。一端を示せば、「小学校ノ毎週教授時間ノ制限」「小学校教科用図書審査等ニ関スル規則」のような教育の形式や内容に踏み込んだものから、「小学校長及教員ノ任用解職其他進退ニ関スル規則」「小学校長及教員職務及服務規則」等の小学校教員の待遇まで含まれている。このような制度的な規定は校務の分担、つまり学校内における近代的な分業が起り始めるきっかけとなった。学校が徐々に規模を増していくことによって、校務一切を一人で取り仕切ることが不可能になり、それぞれの職務規則が制定されることによって、この流れに拍車をかけることになったのである。この小学校における学校管理という考えが校長とその他の職員の職務の確定、これらの職員達による職員会議の発生、校務の分担という形で学校が集団化、近代的な組織化という変動の中にあった[21]

この点で、学級も近代的な組織化の中に位置づける主張もあるが[22]、しかし、実際に、就学者の増加によって学校が「集団化」し、その中の変動の一つに位置づけとして、「学級」も成立したという考え方には疑問が残る。確かに初期段階からすれば、当時の就学者数は倍程度にはなっているものの、就学率は50%前後でしばらく低迷した時期である(下記表参照)。むしろ先述したような教員不足と財政難という経済的な要因を政策として正当化したという見方の方が合理的である。第二次小学校令はこのように学校という組織が持つに至るであろう近代性を見据えながらも、学校教育が直面する人的、経済的な資源不足の中でどのように学校を運営するかという点に対する現状への対応を具体化するものであった。

 

表2

元号年

M19

M20

M21

M22

M23

M24

M25

M26

M27

M28

M29

M30

M31

M32

M33

西暦

就学率

出席率

1886

46.33

59.648

1887

45

60.094

1888

47.36

60.695

1889

48.18

63.776

1890

48.93

63.851

1891

50.31

64.26

1892

55.14

58.844

1893

58.73

59.524

1894

61.72

59.518

1895

61.24

65.227

1896

64.22

65.993

1897

66.65

65.993

1898

68.91

66.153

1899

72.75

67.034

1900

81.48

72.593

(Mは明治であることを示す。表は『明治以降教育制度発達史』の巻末統計資料より相澤が作成)

 

このようにして、学級は現状において、いかに学校を運営するかという問題に関して人的、経済的に対応可能な範囲の回答として提案されたものであったが、一方で、「学級」の導入は教育実践上は以下の二点のようなメリットがあると考えられていた[23]。まず、等級制における「一教師一等級」という理想が、教員数の面でも施設の面でも到底、不可能であることはこれまでに見てきた。それに対して、大規模単級の学級制度の導入は「単なる必要悪としてではなく大衆に最低限必要な簡単で「器械」的な知識を教授するにはむしろ効率的な編成」[24]と捉えられた点にある。また、それまでの個人主義的な教育、また「知育偏重批判」の系譜を引き継ぎ、新たな小学校教育の「本旨」を定まった。新たな小学校教育の「本旨」とは「行ヒノ善イ人ト為ルヘキ土台」としての道徳教育、「適当ナル日本人トナルヘキ土台」としての国民教育、「治産営業ニ堪ユヘキ土台」としての普通知識技能教育の三者から構成されていた。これを並立させるのではなく、道徳教育と国民教育を軸に据えた上で、生活に必須な知育、技能教育を位置づける構成を取っていた[25]。この道徳精神と国民精神を養うという教育政策の志向の上でも、個人の等級に重点を置かれる等級制度から、集団を基本とし、集団精神を学ぶことができる「学級」の方がより適していると考えられたのである。このようにして、教授単位、学習単位としての「学級」が成立することになった。

 

4−4 新しい「学級」における教育実践とその問題

「合級」と「単級」

「学級」という制度の成立によって、学校の授業形態はどのように変化したのであろうか。それまでが「一教師一等級制」の理想を体現できずに「合級制」による授業が事実上、行なわれていたことはこれまで見てきたが、「学級」は定められた時点においては、それまでの等級(グレイド)や進度とは関係なく一教師が教えることのできる最大限の定員数を定めたものであったため、その定員数に応じた学級編成がなされた。その結果、一学校あたりの就学者が100超、出席者が100弱(9頁表1を参照)という当時においては、多くの学校においては一学校に対して、一学級の「単級学校」または、複数の学級がある「多級学校」であるとしても、現在の考え方でいえば、複数の学年を同時に収容する形の学級編成が取られることとなった。具体的な数は本論末の表のように、1890年代は学級編成としては単級が最も多く、「多級学校」であったにしろ、1920年頃まで、半数近くの学校が複数学年[26]を同時に授業する複式授業が余儀なくされていた。

 

それではこのような単級または多級の中での複式授業において、どのような授業形態が取られ、それが学年別の変容によって、どのように変化したのかについて見ていきたい。まず、学級という制度がそれまでの等級との比較において、どのように受容されたのかについて見よう。

第一に、煎じ詰めて考えた場合、複数の等級を合わせた「合級」と複数の学級を合わせて「単級」や「多級」とした二つの考え方は実質的には同じように考えられるかもしれないが、当事者の間では次のように考えられていた。

 

「合級教授ナルモノハ元来分裂シアル数団体を仮リニ集合シテ教授スルモノナレハ一人ノ教師ニテ教授スト雖モ其形ハ数教師数団体ヲ教授スル有様ナリ単級教授ハ然ラス元来一団体タルモノヲ教授上ノ便宜ヨリ仮リニ分割シタルモノナレハ数組合ニ分カルト雖モ其形ハ一団体を教授スル有様ナリ一団体ト見倣スカ故ニ差問ナキ以上ハ同一事項ヲ授ケ同一材料ヲ用フルルモアルヘシ」[27]

 

ここに等級(グレイド)と学級(クラス)という意識の違いが伺える。等級は最終的には個人に帰属するものであり、等級が複数合わさったとしても、それは「仮リニ集合」したものであって、共同性をもって扱われるべき存在ではないのに対し、学級というものはその中で括られる限り、たとえどんな多様性を抱えたとしても、「元来一団体」であることが強調され、実際の教授は「数組合ニ分カル」としても、それは「便宜ヨリ仮リニ分割シタルモノ」であると位置づけられる。単なる定員という位置づけに本来は過ぎないはずの学級は教授面において、便宜上、分割が行なわれたとしても、「同一」であることが強調されていくのである。

 

困難な学級運営

このように「同一」であることを強調する「学級」が教授集団としてうまく機能するまでの道のりは決して平坦ではなかった。話は若干、ずれるように思われるが、我々は学校というのは静かに先生のいうことを聴き、授業を受けるところであるというイメージがある。そしてそのイメージは学校に普遍的なものであり、そのイメージとのずれに対して非常に敏感である。そのような例として次のようなものが挙げられる。

 

「高学年でのこれまでの「古い学級崩壊」に比べますと、低学年のそれは、日本がこれまでに経験したことがない「新しい現象」といえます。しかも、私の調査では一九九七年に入って、ほとんど全国一斉に小学一年生の担任が「今年の一年生はおかしい」と認識し始めました。やや大げさに言えば、明治五年の学制以来、質の高い初等教育を保障しつづけてきた日本の小学校教育が、ここに至って初めて直面した類の困難だといってよいと思います。」[28]

 

しかし、実際には、当時、決して「質の高い初等教育」を保障できた訳ではなかった。財政的理由で定められた定員が最大で100人という過大学級は劣悪な教育環境と決して達成度が高いとはいえない教育の温床となっていた。例えば、教育環境は次のようなものであった。

 

「最熟練ノ教師ニテモ是レヨリ多クハ教授スベカラスト云ヘル数ヨリ多クノ生徒ヲ教ヘ得ルモノアルカ無理ニ児童ヲ一室ニ壓入シ炭酸場ニ充て突然入ルトキハ臭気鼻ヲ衝キ嘔吐ヲ催サシムル者ハ今日公立校ニ於テ僂逢フ所ナリ」[29]

 

劣悪な教室、そこに押し込められる大量の児童、むろんこのような中で、教室運営がスムーズになされるはずがない。その上、単級学校や複数級を含む多級学校の複式授業は先述したように、「元来一団体」として捉えられながらも、「便宜」上であれ、分担されて授業されることが企図されていた。それは政策策定者である文部省の側でも十分、了解されていることであった。

 

「最も容易なる標準は文部省の規定によるに如かす

即ち明治廿四年文部省令第十二号の説明に

単級尋常小学校に於ては児童の年齢学力の等差により之を三部に区分して教授するを適当とす而して之を区分する方法は修業年限三ヶ年の学校に於ては各学年の児童を各一部とし修業年限四ヶ年の学校に於ては第一学年と第二学年とは各一部とし第三学年第四学年の児童を合して一部とするを通例となす」[30]

 

そしてこのような要請に応じて様々な単級教授[31]の実践方法が議論された。この議論において、特に重点を置かれたのが、身体的訓馴の強化である。自分に対する指示をきちんと聴いて、黙って静かに自分の与えられた作業をこなし、他の者への指示には目もくれない、単級学級におけるスムーズな授業運営のためには、児童個々がこのような態度で臨むことが不可欠であった。そのような要求は次のように述べられる。

 

「厳重ナル躾方ヲ施セリ 各組ヘ各種ノ事ヲ一人ニテ教授スル者ナレハ教師ノ力ハ各組ニ配当セラレテ次第ニ減シ各組共ニ適当ニ教師ノ監督ヲ施スヲ能ス故ニ生徒ニハ教師ノ勧誘ヲ待タス自ラ進ンテ注意業ニ従ハシメサルヘカラス故ニ深ク其躾方ニ注意シ最初ハ必スシモ学業ヲ授クルルヲ勉メス是躾方不十分ナレハ教授ハ決シテ出来サレハナリ例ヘハ教師或ル一組ニ事ヲ命スレハ其生徒ハ一心不乱ニ其事ニ注意シ己ノ課セラレタル業ヲ為シ終ルマテ決シテ他ノ組ノ事ニハ意ヲ向ケサル様ニシ而シテ教師一言発スル時ハ如何ナル業ヲ取ルトモ如何ナル場合ナリトモ業ヲ置キ謹聴セシムル様ニ躾タリ

又各組ノ生徒ハ教師ノ一言ヲ己ノ組ニ向テ発スルヤ他ノ組ニ向テ発スルヤヲ鋭敏ニ聴キ分ケ己ノ組ノ為ニスル時ハ能ク他組ノ音声ニ妨ケラレスシテ之ヲ聴キ取ル様慣レシメタリ」[32]

 

このような要求が達せられなければ、単級教授はうまく運営されることが難しかったのは確かであろう。しかし、多い場合は100人という過大学級において、四六時中、このような集中力を児童に要求するのは難しいといわざるをえない。特に教授の仕方については児童の混乱を避けるために「毎日ノ教授法ハ余リ変化アルヲ貴ハズ」[33]としていたため、日々の教育実践は自習中心の単調なものになりがちであったし、それぞれの「組」に対しての指示をコンパクトに行なうために、教授内容に興味深く児童を惹きつけさせるようなことは甚だ難しかった。そのため、「概シテ教師ヨリ興味ヲ与フル事ハ難クシテ生徒自ラ進ンデ興味ヲ得サルヘカラス」[34]と述べるより他なかった。このように、授業内容が日々、単調で教師の目も多くは行き届かないというような状況では、単級教授は静かに落ち着いて授業を受けるという状況にならないことは容易に想像がつく。

そのため、教室は決して静かに落ち着いて授業を聴くというような状態ではなく、むしろ「擾乱」状態に近いものも少なからずあった[35]

 

このように当時の学校は年齢も進度も全然違う児童が今では想像もつかないような過大学級の下にあった。学級制度に移行し、一斉授業は企図されたものの、進度の違う大量の児童を抱える状況では、一斉に教えるということは事実上、不可能であった。つまり、当時、教室の中では単級学級あるいは少数の学級内で、さまざまな年齢や進度の生徒を押し込め、複式授業によって、何とかそれらに対応しようと努力をするという過重な負担を教師は背負い込んでいた。

 

質、量の両面で不足した教員

一方で、このような負担を担う教師も知識が豊富で経験豊かであるという訳にはいかなかった。後に私立成城小学校を建てたことでも有名な文部官僚の沢柳政太郎[36]は第三次小学校令(1900)が出て二年後に次のように論じている。

 

「従来は全国八千の単級小学校中殆ど其の半数は准教員若しくは代用教員が担当して居り甚しきに至りては二学級又は三学級の小学校に於ても尚一人の正教員を有せぬ処も多かつたのである。」[37]

 

下記表を参照すれば、わかるように、第二次小学校令制定の時点(1890)で正教員は4割以下であった。翌年に第二次小学校令施行の上で、「小学校教員検定等ニ関スル規則」を定め直し教員免許制度も整えられ、師範学校のカリキュラムも整備されるものの[38]、正教員が主に都市部に集中していたこともあり、教員任用、とりわけ地方農村の教員任用には実際には補助的な教務のみを行なう准教員が多く存在していた。むしろ補助的な教務を行なうのみであるはずの准教員や代用教員にも沢柳が述べたような過重な負担が課せられていたのである。しかし、当時はこのような准教員や代用教員が重要な役割を占めることが期待されており、むしろ、このように数の少ない正教員のみで学校教育を行なっていくことは想像もつかないことであったのである。それは次のような記述でも明らかになる。

 

「今仮リニ本科正教員ナレハ其ノ適任者ナリトスルトシ之ヲ以テ日本全国ノ学齢児童ヲ単級ノ編制ト成シテ受持タシムルコハ幾年ニシテ其ノ数ノ充足スルニ至ルヘキカヲ余ノ計算スル所ニ依レハ現在ヨリ就学者ノ増ササルモノトシテ十三年ヲ要シ又学齢児童ハ残ラス就学スルモノトスレハ四十九年ヲ要スルナリ然リ然ラハ本科正教員ヲ得ルヲ待チテ然ル後単級ノ編制ヲ成サントスルハ何ソソレ黄河ノ清ムヲ待ツト異ナルモノアランヤ」[39]

 

この正教員が不足している状況は数年を経た沢柳も同じ認識である。沢柳はこの記事の七年後に「正教員が不足といういふことは今后尚十数年の間は我邦に現存する事実と認めなければならぬ」[40]とした。かくして、正教員の占める割合は1890年代後半以降は就学率の急上昇もあったため、漸増状態のまま推移し、明治を通じて6割台、大正を通じてほぼ7割台にとどまることとなった[41]

 

3

元号年

西暦

正教員数(合計)

教員数(合計)

正教員の割合

M19

1886

27368

79676

34.35

M20

1887

22457

56836

39.51

M21

1888

24400

62516

39.03

M22

1889

25575

65665

38.95

M23

1890

27079

67730

39.98

M24

1891

28186

69608

40.49

M25

1892

32794

59796

54.84

M26

1893

34799

61556

56.53

M27

1894

36281

63034

57.56

M28

1895

38074

73182

52.03

M29

1896

41645

76093

54.73

M30

1897

43681

79299

55.08

M31

1898

45469

83566

54.41

M32

1899

47551

88660

53.63

M33

1900

50907

92899

54.80

M34

1901

57181

102700

55.68

M35

1902

62456

109118

57.24

M36

1903

66364

108360

61.24

M37

1904

68319

115301

59.25

M38

1905

72317

109975

65.76

(Mは明治であることを示す。表は『明治以降教育制度発達史』の巻末統計資料より相澤が作成)

 

第二次小学校令下の時期における制度的な変化と問題点の総括

以上、第二次小学校令下における制度面または教育実践面における述べてきた変化や問題点を総括しよう。「学級」は主に財政的な理由から、「第二次小学校令」や「学級編制等に関する規則」等の諸法令によって、教授集団として一教員が最大限教えられる定員数を「学級」として定められた。政策上は「等級」の言い換えに過ぎない部分も多々あったが、徐々にこれが等級(グレイド)とは違う一つの共同性を持った学級(クラス)として受容されていく。しかし、一学校に対して、一学級の単級も認めたことによって、単級学校の増加や過大学級などが問題とされるようになった[42]。このように様々な進度の児童を含めた非常に大きな学級の上、更に劣悪な教室環境や教員不足等の問題もあり、スムーズな教授が行われていたとは言い難い状況であった。このような問題が「劣等児・低能児」や「優等児」が「問題化」する明治三十年代後半以降に向けて更にもう一度、「第三次小学校令」という制度的な変化によって、これまでの問題に変化が生じることになる。このことについては次項で考察する。

 

4−5第三次小学校令における変化 −学年と一斉授業の成立−

学年の成立

前項では主に第二次小学校令において、主に「学級」を我々が見ていこうとする問題との関連で見てきた。

さて、「学級」に加えて我々が考察すべき「劣等児・低能児」及び「優等児」の教育問題が「構築」される上で必要な制度的要因がもう一つある。それが「学年」である。学年が成立するためには第二次小学校令による学級の制定と共にその後に定められる第三次小学校令[43]1900年、明治33年制定)における進級方法の変化を待たなければならなかった[44]。第二次小学校令の下では、等級制度下と進級方法に大きな変更はなく、試験による進級方法が取られていた。試験による進級方法が取られ、また単級または多級であっても試験によって計られた学習達成度をまたいだ学級編成を取っている以上、明確に学年が確定することはなかった。しかし、第三次小学校令において、進級制度は「各学年ノ課程ノ修了若クハ全教科ノ卒業ヲ認ムルニハ別ニ試験ヲ用フルコトナク児童平素ノ成績ヲ考査シテ之ヲ定ム」(第二三条)と定められ、「試験」による進級と落第はなくなり、それまでの個人の進歩を意味する等級の言い換えにすぎなかった学級が同一年齢の学習集団を意味するものへと変化した[45]

ただし、ここで注意しなければならないのは、等級制を廃止し、試験による進級、落第の制度をなくしたということは、決して進級、落第を決める制度をなくしたということにはならないということである。進級、落第は「児童平素ノ成績ヲ考査シテ之ヲ定ム」ものであり、これによって、第二次世界大戦以前の日本の教育制度では厳然として進級、落第の制度があった。この第三次小学校令で「劣等」を定める装置としての役割の一端を担うことになる。それについては後で述べることになろう。

 

なお、当初、年齢による学級編成は根強い反対があった。同一年齢においては。同一年齢の発達段階をするという主張よりは、むしろ発達段階は同じではないという主張が第二次小学校令下から第三次小学校令当初、多く見られる。

 

年齢を標準として区分するは独米にも実施されつつあるなり然れとも年齢は元来組分に大なる価値ある一般の標準となるべきものに非す何となれば教授を区分するに活力の統計に年齢を標準とするが如くなすべからさればなり即若児童の心意の発達は同一にして各心意の能力は各同時に於て同一の発作をなし同一に活動し来るものならば年齢を以て組分の標準となすも可ならんとされとも児童の心意の発達は決して右に述べし如くなるものにあらざるなり故に年齢は組分の一般の標準とは為すべからざるなり」[46]

 

だが、第三次小学校令によって、進級法が確定するにつれて、年齢別の学級編成が優勢となっていく。その主たる要因は当時は就学率の急上昇期であった[47]。以下、若干、この就学率の急上昇の要因とそれに誘発されたことが何であったのかを見ていく。

 

就学率の急上昇とその要因

就学率の急上昇の要因として何よりも重要なのは、義務教育の無償化である。市町村立尋常小学校の授業料は徴収しないということが第三次小学校令では明記[48]された。また、義務教育の無償化と共に、第三次小学校令は就学督促の強化を行ない、違反者には罰金10円という当時においてはきわめて高額な罰金も定めた。これによって、伸び始めていた就学率は最終段階に到達し、90%を超えるに至る(下表参照)[49]

 

4

元号年

西暦

就学率

出席率

M31

1898

68.91

66.153

M32

1899

72.75

67.034

M33

1900

81.48

72.593

M34

1901

88.05

73.881

M35

1902

91.57

74.692

M36

1903

93.23

74.755

M37

1904

94.43

74.646

M38

1905

95.62

75.532

M39

1906

96.28

76.393

M40

1907

97.38

77.124

M41

1908

97.8

78.533

M42

1909

98.1

82.176

M43

1910

98.14

87.052

M44

1911

98.2

90.973

M45

1912

98.23

91.008

(Mは明治であることを示す。表は『明治以降教育制度発達史』の巻末統計資料より相澤が作成)

 

「定型」化した一斉授業の成立へ

  このような制度の整備と就学者の上昇によって、単級学級も徐々に減り、多級学校が増えていく(本論末表1参照)。これにより複数学級の設定が可能になり、今度は単式授業をいかに行なうか、という問いに変化する。

  稲垣(1995)はこのように複数学級による教授が可能になっていく状況下で、単純に教え込むことを中心にするのではなく、日本型に変容した「ヘルバルト主義」を基礎とした問答中心の授業の形態に「定型化」することを明らかにした[50]。このような問答式の授業は先駆的な授業方法として明治期後半に後半に浸透していくことになる。しかし、このような問答式の授業は、問答という形式であるものの、それがある一定の価値規範、世界観の押し付けであることや帰納法の矮小化であった点はこれまでの先行研究においても指摘される通り[51]である。そのような点で明治期の「教授」法は学級を教師の「専制的集団」であるという批判的な捉え方もされている。専制的な立場に立った教師からの一方的な過程によるコミュニケーションが行われていたと指摘される点[52]では、単級教授の時の高圧的な態度と大差はない[53]

 

第三次小学校令下における制度的な変化と問題点の総括

  ともあれ、学級はこの第三次小学校令を経ることによって、ほぼ同年齢の児童によってのみ構成され、そのまま階梯として、一緒に同年齢の者が上がっていくという学年の中に位置付けられていくことになった。年齢が発達段階に応じていないという批判にはさらされるものの、単級教授や複式授業の時のような多様性からは解放され、問答式の一斉授業を学級一体となって行なっていくことが可能になった。また、この時期には教授内容も段階的に整備されてきており、その点でも、教師は複式授業の過重な負担から解放されていくはずであった。ところが、このように制度や教育実践が固まっていく時期は、就学者数の増大期とも重なることになった。これによって、これまでとは別の多様性を抱え込むこととなった。

実際に全人口の90%以上を超える就学率を達成するためには極度の貧困層までを学校制度の中に取り込むことによって初めて達成されるものである[54]。教師達はこのような貧困層やこれまで通っていなかった児童に直面することになる。授業料の払えない貧困層というのの他にこれまでどのような児童が通っていなかったのかも若干、見てみよう。第二次小学校令下では、就学督促の外されていた児童として、次のような児童が想定されていた。伝染病にかかっているか、またはその恐れのある児童、不良の行為のある児童、課業に堪えざる児童である。これに対して、第三次小学校令下の就学督促の強化は就学義務免除と就学義務猶予に分けた上で、義務を遂行させるためにも、これらの区別を明確に打ち出すことになった。就学義務免除には「瘋癩白痴若クハ不具」と貧窮がある。つまり、明らかに通常の学校運営においては差し障りのある児童はすでに外されていた。その上でたとえ授業料が無償であっても通えない貧窮に苦しむ場合は免除とされた。この場合も当時は罰則の伴った就学督促であったため、役場等に不就学申請を行なう手筈が整えられていた[55]。また、就学義務猶予には「病弱若クハ発育不全」があった。これらの者達は就学の猶予であり、「病弱」または「発育不全」が学校に耐えうるものであれば、学校に通うことになった。このような点で第二次小学校令から第三次小学校令への変化は貧困層と共にこれまで通っていなかった病弱または発育不全の者達も徐々に学校に通わせて行く契機となった。

 

 

「劣等」の発見と問題化

5−1 制度整備以前の「劣等」の問題化

本論では「劣等、低能」や「優等」「個性」といったものが、制度的要因と深く関わっているという仮説を設定した上で、ここまで制度史的な考察をしてきた。それによると、「劣等」は「学級」「学年」という制度が整ったことと就学率の著しい上昇が必要であると考えてきている。

それでは本当にそれまでは「劣等」という存在は全く問題ではなかったのであろうか。それについて若干の考察を試みることは必要な作業であろう。

まず、言及すべき事は「劣等」という存在自体の「発見」は決してこれらの制度が整うまで現われなかったということではないということである。すでに明治二十年代においては現在で述べられる特殊、障害者教育の文脈とは別に次のような記事が現われている。

 

「難題……実ニ難題熟熟平均ノ文字ヲ接スルニ甲ノ物ト乙ノトヲ相混シテ丙ナル新物ヲ生セシムルヲ平均ト云フ甲数五ト乙数三トヲ平均シテ丙数四ヲ生スルカ如シ今算術科ニ於テ全級三分一ノ劣等生ト三分二ノ優等生及中等生トノ力ヲ平均セシメントスルニハ仮ニ優等生ノ力ヲ十、中等生ノ力ヲ五劣等生ノ力ヲ一ト見倣セハ優等生ノ力ヲハ十中五ヲ退歩セシメ劣等生ノ力ヲハ進ムルル四ニシテ始メテ平均スヘキナリ(中略)優等生ノ力ハ汽車ノ如ク劣等生ノ力ハ馬車ノ如シ同時ニ同所ヲ発スルモ久シカラスシテ其ノ相距ルル甚タ遠キニ至ヘシ」[56]

 

以上のように述べられるように、児童個々の能力差は教壇に立つ者達の間には次第に明確に可視化されるようになった。しかし、当時はこのような問題が決定的に問題化することはなかった。その理由の一つが進級制度と密接な関わりがある。

 

「多人数ノ級ニ於テハ才智ノ優劣学力ノ差異アルルハ言ヲ俟タズ之ヲ教授スルニハ劣等生徒ニ力ヲ盡シ可成一様ニ併進セシメザルベカラズ是授業上管理上困難ナル点ナリト雖小学ノ四年学級ニシテ其一級中ノ優劣差等ハ決シテ甚シキモノニアラズ論者ハ非常ニ隔絶アルカ如ク云ハレタレモ若シモ頗ル優等ナルモノアレハ上学級ニ編入スル可ナリ最モ劣等ナルモノハ下ノ学級ニアルヘキナリ決シテ同一期内ニ同一ノ学科ヲ修ムルルヲ得ルモノニアラズ」[57]

 

このように試験による進級制度が明確に機能をしている状況下では、個々の児童の能力差に応じて、年齢と進度が必ずしも一致せず、学級内の能力面における多様性は縮減されていたと考えられる。そのため、第二次小学校令期の学級運営においては、「同一」であるはずの「学級」自体の多様性をいかに克服して、授業を行なうかに焦点が当てられ、「便宜」の上で分けられた各「組合」は同等の能力を持った人々が集まっているという仮定で学級の運営や授業実践が計画されることの方が多かった。この点で「劣等児」や「優等児」が大きく教育問題化されることはなかったと考えてよい。しかし、それから制度が変動してきたのを我々は確認してきた。貧困層や若干の病弱な者も含んだ多数の就学者を学校は抱え、学級を編制し、一斉授業を行なおうとするのである。この事実は実際に、多くの授業についていけない児童や落第する児童を生み、尋常小学校において、これまでの卒業率が維持できなくなったことも示されている[58]。そのような時期に授業についていけない児童、落第する児童が、「劣等児・低能児」問題として「問題化」する契機に迫る。まず、しなければならない作業は先行研究の検討である。

 

5−2 「劣等児・低能児」問題に関する先行研究の検討

  このような教育上様々な面で一緒に取り扱うことのできない児童の問題 前章までで「劣等児・低能児」問題 に関して、かなり踏み込んだ調査を行なっているのが特殊教育史または障害児教育史である。特殊教育、障害者教育の歴史的先行研究の多くは明治中期以降の制度的、社会的な変化をきっかけとした「劣等」への注目から、それらを分断していく学級編制や教育実践の問題について考察が行なわれている。ここで注目すべき視点は、「劣等」や「低能」という概念が非常に混沌とした概念であり、それらの言葉は軽度の成績不良児から現在では一般の学校には多くの場合、見られないような重度の障害児までを含んでいたことが指摘されている。[59]そしてこれらの研究は特殊教育、障害者教育の歴史を分析するという使命を背負っている以上、やむを得ないことであるが、一緒に教育すること自体の問題を強調し、とりわけ現在の特殊教育の対象となっている人々が、現在のように教育対象となっていく方向性を志向する。

だが、我々はこのような視点に対して、もっと自由な立場を取れるはずである。「すべての人々が一緒に教育されるべきである」という考え方に対しても疑問を投げかけて分析を迫る必要があるが、一方で、現在の特殊教育の形を無批判に取りいれる必要もない。とにかく分けられていく実態を分析対象としてそれらの見方のいずれかを絶対視することなく、相対化していくことを本論における目標として定めていきたい。

 

さて、制度論までの章においては、「劣等・低能」という並列を無批判に同列に論じてきた。しかし、本章からは、「発見」されたこれらの問題に対してより詳しいアプローチをかけるためにも、この二つの言葉がどのような意味を持っていたのかについて雑誌『児童研究』を対象として詳しく検討したい。なお、本論では、とりわけ「劣等」という言葉の方を中心に考察していく。その理由は「低能児」という言葉の方が「素質的あるいは病的な原因によって著しい成績不良を来たしていると捉えられる児童」[60]、つまり現在における特殊教育、障害児教育の対象としている児童である場合が多く、これまである特殊教育史、障害児教育史の成果との距離とを論じる上でもその方が実りあるものであると考えたからである。

 

先述もしたように、当時、「劣等児・低能児」の問題に関して注目が集まったものの、「劣等」や「低能」がどのようなものであるのかという点についての共通理解はなされていなかった[61]。例えば、戸崎(1993)では、文部省訓令でも言及されている「発育不完全なる児童」についての意味が、「成績不良児(劣等生)を意味したのか、または知的な能力に著しい遅れを有する低能児を意味したのか定かではない。」とし、「こうした用語の厳格な意味へのこだわりが感じられない」(38頁)と指摘する。確かにそのような意味の混乱はこのような記事を通じても明らかになる。

 

「日本橋区有馬小学校に於ては、頃日一級六十人の定員中より各低能児童を選出して、一週一回特別教授をなすこととなせし由なるが、その結果によれば、尋常科三年以上の生徒三百人中、算術の劣等なる者五十人あり、次は読方の劣りたる者三十人、その他は書方、図書等の低位なる者二十人を算し、(後略)」[62]

 

  この記事において、「低能児童」を選出しているという点で、戸崎の指摘からみれば、低能児を意味するようにも思えるが、その実態はそれぞれの科目が「できない」ということを示している。またその「できない」という言葉に与えられているのは「劣等」であり、「低位」であって「劣等」と「低能」の間に言葉の「厳格な意味へのこだわり」は確かに感じられない。

しかし、後述することによって、明らかになるが、むしろ当時、これらの「厳格な意味」は誰も理解しているはずもなかった。「発見」されたばかり、「問題化」されたばかりの「劣等児・低能児」の一群を把握する言葉は、「発見」、「問題化」されたばかりであるがゆえに、当時において、混乱している状況であったのである。この言葉の内容が実際に検討されていくのは、日本が欧米のそのような教育問題と同じ問題意識を共有し、それらの研究が受容され始めてからである。つまり、「問題化」当時において、用語の混乱が生じていたのはむしろ当然であった。

 

5−3 「劣等」の問題化へ

  我々は先行研究の検討において、「問題化」時の用語の混乱について見てきた。それでは、我々の側でも、改めて明確な「問題化」の時期を確認していこう。それは1900年(明治33年)の第三次小学校令以降のことである。『児童研究』にも「問題化」した「劣等」の児童を指す言葉が現われたのは1901年(明治34年)のことであった。『児童研究』誌上にて、次のような「研究法」を望む声が掲載された。

 

「劣等なる児童はなるべく多数を集めて、之に注意する時は、能く其の特徴を発見し易し。即ち身体上の著るしき特徴及び精神作用の特質に注意し、諸点を列挙するを要す。而して取扱上特に参考となるべき要項を記述せられんことを望む。」[63]

 

すでに「劣等なる児童」が教室内で顕在化しており、それについての特徴の記述を求めている。しかし、多くの場合、この記事に現われるような「劣等なる児童」が問題として可視化するのは明治四十年代以降であった。第三次小学校令発布直後の時期において、学年別の単式授業への移行が完全に行ない得ている学校はこれまでの史料で示してきたように、それほど多くなかった。そのこともあり、この記事に起因して行われたと予想される「劣等なる児童」に関する調査報告は二年後の一点だけである[64]

以下、この記事に関して、若干、見ていこう。この記事を執筆した樋口は「此の頃尋常一学年女子の最劣等生四十余名を受け持」(同15頁)ったけ経験を紹介している。若干、繰り返しになるが、樋口は「遅鈍児教授の経験に就きて」と題し、「此の鈍児四十余名に、今日まで教授した経験」(三個所下線は全て相澤)について述べているのである。ここまでの言葉の使われ方において了解できるように、樋口は「遅鈍児」、「最劣等生」、「鈍児」という言葉を全く同義において使用している。この「遅鈍」=「劣等」という図式は今後、「劣等」という言葉を考察する上で、大いに取り入れられてくる考え方であった。

一斉授業、またそれが先行研究が提示するような教師中心の専制的な一斉授業やある一定の方向性を志向する問答式の授業[65]であるがゆえに、その学級内における理解の「遅鈍」は、教師にとって大変な問題であったと思われる。では、更に、樋口の論じるこれらの児童の特徴についてみていこう。

 

「劣等生の多くは、発育不充分、栄養不良、従つて心身萎縮、挙動不活発である。其の家庭は如何にといふに、多くは、くさとり、土方、車引等の日雇稼ぎのものであるから、家庭教育等は、一寸もないと云うて差支ないのみならず、常に卑き事のみ見聞して居る為め、極めて利己的で、他愛心等は極めて乏しい。」(同15頁)

 

就学率の急上昇期において、貧困層までを学校に取り込むことによって、どのような生徒が集まったかという点についてきわめて明確な視点を与えている。「日雇」であるがゆえに、家庭教育はなく、栄養不良であり、発育が不十分であるという極めて一貫した視点を取っており、樋口はこれに対して、「寛大の態度」(同)を取り、「自信力を養成する事」(同)を目標とさせることによって、これらの児童の教授を行なえるようにしようと努力している。

しかし、繰り返しになるが、このような一群の「できない」児童を集めて、その特徴を論じるということは、まだ多くの教育者に共有されうる問題意識ではなかった。このような議論が再燃するのは1906年(明治39年)以降のことである。我々もそのような「劣等」と呼ばれる児童について盛んに議論が行なわれる1906年(明治39年)以降に時期を動かそう。

 

盛んに論じられる「劣等」

  1906年(明治39年)という時期は、本論末の図表においても参照されるように、樋口が行なっていたような特別学級の開設が行なわれ始めた時期であった。特別学級の必要性が教育関係者の間で議論され、1908年(明治41年)にはそのピークを迎えていた。このような時期に研究誌である『児童研究』も盛んにこれらの問題に関して、記事を取り上げられるようになる。

 

鈴木治太郎の劣等児調査における「問題化」

具体的な巻数で述べれば、児童研究の第10巻{1906年(明治39年)後半から1907年(明治40年)発行}において、「劣等児」に関して盛んに議論されている。これらの記事を分析することによって、「劣等」の意味を把握しよう。「劣等」以外の言葉の距離を記事によって考察しながら、「劣等」自体の意味について考察していくこととする。

まず、劣等がどのような実態として観察するために、児童研究第10巻第10号に所収されている「劣等児教育の方法」における「劣等」の使われ方について考察する。この記事は大阪府師範学校教諭兼訓導の鈴木治太郎が「劣等生特殊教育」に関しての実験報告として文部省に提出したものである。第10号にはその中でも、調査結果の考察と教育方法について個別事例7ケースに分けて論じており、それらの事例を見ることによって、「劣等」が個別事例において、どのようなものであったかを把握する機会とする。

 

まず、「劣等」どのような位置付けにある言葉であったのであろうか。それはまず「普通」との比較の観点において論じられる。

 

「此児童の感覚器及精神作用を観察するに感覚器に就きては器質的に異状あるを認めず其作用は一般に鈍き方なれども是れ又教育を施すに大なる障害ありと云ふ程にはあらず(中略)注意状態以下記憶、想像、思考等の作用を概観するに其元来の質に於ては著しく普通児に劣れりと云ふ程にはあらず唯量に於て大に劣れる結果質的劣等来したるものの如し心身共に其「エネルギー」非常に乏しく為に普通児と同一の仕事を為すことは此児の堪ふる所にあらず此事は一覧表を一見したるものの明に認め得る所なるべし斯る状態のものが是まで普通教室に於て他児童と共に学ひ居たるを以て時間を与へ分量を減せは彼れ必しも理解不能と云ふ程にあらざる事柄も勢力の及ばぬ勝となり漸次自信を失ひ自ら劣れりと為し言ふことも疑懼して言はす遅々として為すことなく彼をして益々劣等の度を高めたるものなりと信す」(其三のH某女児九年十一箇月の事例、下線は相澤)

 

  第一に、明らかにされるのは樋口の事例でも用いられていた「遅鈍」=「劣等」の図式である。「普通児」よりも「遅鈍」であることは「劣等」の最たる特徴である。このH某女児の事例は「遅鈍」であること以外には、顕著に「劣等」であることは示されていないにも関わらず、授業に「「鈍き」ゆえについていけないことが、劣等の契機となっている。またこの事例で注目すべきなのは、そのような「劣等」の内面化を日々の教育実践が繰り返し喚起することになり、それによって、益々「劣等」であることが顕著になっていくことがこの事例を通じてわかる。つまり、「劣等」は「発見」されたものだけでなく、日々、作られていくものであることを示している。また、更に明らかにされるのは、「劣等」ということが「普通」からの完全なる「劣等」として、通常の教育実践が全く行なえないような存在とは記述されない点が多いことにある。次の事例を見てみよう。

 

「此児童の感覚器及精神作用を観察するに感覚器其ものには器質的異常を認むるに至らず其作用の如きは普通児童より稍稍鈍き方なれども之がために学習に大なる障害を与ふる程にあらず(中略)次に運動状態なるが此児童はT児(其一の事例)に比して外形不活発なれとも割合に手先の運動怜悧にして稍稍確実なり(中略)認知作用及ひ単なる器械的記憶(例へば乗算九九の如し)は割合に良し然れ共思考作用に至てはT児程にはあらざるも非常に劣等なり此児童の意志薄弱にして断行力に乏しきは児童の断片的不定的なるに比して如何に面白き現象なるかを知るべし学科の成績中裁縫のみか普通児以上の成績を有することも注意すべき事に属す」(其二K某女児十年三箇月の事例、下線は相澤)

 

  この事例で理解されるのは、全ての面において、普通児よりも劣っているという考え方で「劣等児」を捉えているというよりは、得意なもの、良好なものもあるが、非常に劣等なものがあるという捉え方をされることが多いという点にある。同様の事例と見なすことができるのが、次の事例である。

 

此児童は甚しき劣等生と云ふ程にあらず普通の学級に置くとも教師少しく注意すれば劣等なからにも普通児と共に学ふことを得べしと信す然れとも昨年四月の際算術の力到底他の児童と共に学ふこと能はざる程後れたるを以て特別扱を為したるのみ故に特別学級中の優物にして其の後の進歩も著しく来年度よりは元級に復すべき見込みあり故に其調査表に就きて其事情を考ふるも他の六児とは大に其趣を異にす」(其五の事例 S某女児八年一箇月、下線は相澤)

 

  算術ができなかったがゆえに、劣等児として教育されていたが、劣等における境界線に位置づけられていた事例として理解されうるであろう。だが、このS某女児の事例を見て、改めてわかるのは、「特別扱」されている劣等児が普通児との比較において、これまで見てきた二つの事例においても、それほど違わない点も多くあるということが繰り返し指摘されながら、劣等児が通常の学級において扱われることが極めて難しかったと考えられている点にある。この点は其六の事例を通しても確認されうることである。其六の男児(十年十一箇月)に関しては「身体に就きては先づ普通なり精神作用劣等にして其上気侭なる程困るものなし。」と精神作用に関しては問題視されながらも、身体に関してはそれほど問題視されていない。しかし、「運動状態に就きては劣等児としては先づ普通なり」(下線は相澤)という位置づけがなされている。つまり、劣等児は普通児と別の基準で考察されており、それがS某女児の事例からもわかるように、劣等児が最終的に通常の学級において扱われることが難しかったことが伺える。

  それでは、「劣等」は「できない」というニュアンスにおいては、相当に強い意味を持った言葉であったのだろうか。その点においては、これらの事例においては次のケースでそうでないことが示されうる。

 

「運動状態に就きては一般に劣等児が有する状態の特質を有すれども比較的活発なる点は稍稍其趣を異にす注意状態の散漫なるは最も注意すべきなり一時的の認知を誤らさる点に至りては普通児と異ならず記憶、思考、想像等知的作用の複雑なる者(ママ)[ユーザー1] に至りては其劣等なると先づ白痴状態なり茲に猶ほ一つ特記すへきは発音状態なり。(中略)此発音状態の不完全は劣等生否寧ろ白痴の其れに類するものあり」(其一T某男児の事例、年齢満十二年、下線は相澤)

 

運動状態の「劣等」に関する記述おいて、「劣等児」というのが「普通児」とは違う特質を持っていると想定される点はこれまで見てきた通りである。そして、ここのケースではその「一般的な劣等児」と「一般的な普通児」との違いがあることも了解されている。しかし、「劣等」よりも更に極度の「不完全」なる状態、「劣等」の状態として「白痴」が想定されている。当時において、「白痴」とは、第三次小学校令下において、「瘋癩白痴若クハ不具」と一括されて、就学義務免除とされる人々のことを指していた[66]

 

ここまでの考察によって、「劣等」というのが、この調査の文脈において、どのような程度で扱われているかが、明らかになった。それに関して、まとめてみよう。

まず、第一に「劣等」は「普通」よりも明らかに「できない」存在であった。それは普通学級において、取り扱うことは極めて難しいと考えられた程度においてである。その主たる理由は「遅鈍」であり、通常の授業形態において、「ついていくこと」ができないということが問題であった。しかし、「ついていくこと」ができないという程度の「遅鈍」は、それらの存在が学校から排除すべきであるという考えにつながらないことは確かであった。就学義務免除の対象である「白痴」に近いと位置付けられる者も事例の中で見られたが、一般的には、教育する見込みがあり、それに関して、努力していかなければならない、また評価できる部分は積極的に評価していこうという姿がこれらの事例を通じて伺える。ただし、その積極的評価も多くの場合は「劣等児」の中において、という断り書き付きであった。その点で、「白痴」ほどの程度はないにしても、「劣等」は「普通」よりも明らかにできないことは確かであった。

だが、このような明らかにできないということに対して自覚的にさせないようにすることをこれらの事例では度々、主張してきている。例えば、次のような事例である。

 

「(前略)此の児はK児と等しく其兄弟は精神作用優等の方なるを以て家庭に於て馬鹿扱せらるる事情あり」(其四N某男児十年五箇月の事例)

 

  そして、K児の事例では、次のように論じられているのである。

 

総て家族中にて特種の一人が精神劣等なるときは周囲の人々より所謂馬鹿扱をせらるる傾あり

斯の如く周囲の人々より馬鹿と見倣すときは其子自身も終に馬鹿を以て任し漸次自信を失ひ己の力にて為し得ることも自ら疑ひて為ささるに至る此の如くにして本人をして益々劣等ならしむることあり此児童は家庭に於て確かに斯る種類の弊に罹り居るものの如し」(其二の事例、下線は相澤)

 

「劣等」が当時からある種の差別用語として使用されていたと想定される「馬鹿」との比較において、差別的な用語で使っていないことを示した上で、「劣等」は内面化させてはいけないという教授上の工夫が語られている。とりわけ、家庭において「劣等」を自覚的にさせることは本人をますます劣等にさせるものであると主張している。この内面化を拒否しようとする実践は教員の中で数多く持たれていた考え方であった。しかし、実際にこのように自覚的ならしめない実践を行なうことは難しかったようである。それはこの事例がそのまま次に次のように論じている。

 

「斯る事情の児童は学校に於ても之と同一の弊に陥り易きものなり勿論教師は斯る弊に陥らぬ様に充分に注意すと雖も尚ほ或る程度まで致方なきことなり総て痛く自信を失はしたる児童程憐なるものはなし。」(同上、其二の事例)

 

実際には「劣等」であることは学校の集団を介することによって、経験する「致方な」いものであることに対して自覚的である。

 

  また、いかなるものが「劣等」であるかという問いからは少し離れるが、今後の分析と関連して注目すべきなのが、「劣等」の原因として、血縁関係における「病気」、つまり遺伝の関係と「飲酒」に関する論じ方である。当時の言論においてはこの事例が示すように、その原因が直接的であれ、間接的であれ遺伝と飲酒の問題は必ずといっていいほど、論じられている。明らかに直接的な関係があるものとして示される事例としては、

 

劣等なる根本的原因は両親の精神劣等及父の大酒、生後間もなくして頭脳に関する病に罹りしこと等にあるか然れども現今の処にては身体健康」(其一の事例、下線は相澤)

 

このように親の劣等と大酒に有力な原因を見た上で、本人の病気に関して付け加えることもあれば、

 

「父母の病的事情父の大酒両親の精神劣等は最も注意すべき点なりとす」(其七SU某女児の事例)

 

と述べるように、本人の病気等の原因は全くなく、親の病気、精神劣等、飲酒を直接的な原因とすることもある。しかし、このような病気、精神劣等、飲酒への注目は両親だけにとどまらない。

 

「此児童の遺伝的身体的方面に就きて見るに父母の精神、生活の程度は先づ普通なり其主なる原因として認むべきは両祖父の大酒之と関係して父の兄弟の神経系統に関する病気、父の病気、母の病身、血族結婚等は児をして身体を弱からしむ精神生活をして劣等ならしめたるものの如し」(其三の事例、下線は相澤)

 

この事例は両親は精神面、生活面においては普通であるが、両祖父の大酒と親戚の病気、両親の病気によって、子どもの身体面の弱さを指摘するだけでなく、精神生活までも劣等にさせていると指摘する。この説明を論理的に解釈するならば、精神面における劣等は両親の全く精神的には関係のない身体的な病気と直接は血のつながっていない親戚の神経系統の病気が遺伝したこと、または両親にはその傾向は出なかったにも関わらず、両祖父の大酒は孫に遺伝するということになる。このようなレベルにまで劣等の原因はあるのではないかと、「遺伝」、「飲酒」と「劣等」との関係に関しては執拗に論じられている。

 

最後に、全般を通して「劣等」に関して、論じられるのは、本人を一見した観察上においては、あまり異状が発見されないという点にある。明らかに見たところ「劣等」という例はそれほど多くない。例えば、「白痴」状態に近い要素も持っていると論じる其一の事例の場合、「稍稍強き近視」が注意されているものの、「其感覚器及精神状態に就きて見るに感覚器其物に就きては別に器質的に異常あるを認めず又其作用の如きも普通児に比して非常に不都合なりと云ふ程にもあらず」として、観察上の不都合は発見されていないし、他の事例においても一見した観察においては、其四の事例において、「近視眼」、「耳の遠きこと」「味覚作用に異常あること」が指摘された以外には、他の事例において、これらの劣等児において観察上の問題は論じられていない。

  むしろ一定期間、学校に通わせることによって、日々の教育実践を通じて、「劣等」は可視化していく。「劣等」はこのように、観察上は可視的でないがゆえに、様々な形の原因調査が行なわれることになる。当時、行われたその大規模な調査の例が第10巻第1号から第?号までに収録されている岩内誠一の「劣等児童につきての調査」である。

 

岩内誠一の劣等児調査における「問題化」

岩内は「最近二三年間に聞ける教育上の問題中、劣等児取扱方法は各地に於ける最も重要な問題たりし」と「劣等児」が「問題化」してきたことを示した上で、次のような形で調査を行なったことを報告した。

 

 「曾て不完全なる心意を有する児童に就きての報告を数十個の小学校に求めたり。報告せられたるもの数百件、実に卓上堆をなせりしが、予は之を分類し総合して某種の統計を作成しき其中、心力の発達著るしく遅鈍なるものなる項あり。予が今ここに述べむとする所は即ち全く之によれるものにして、要するに心力の発達著るしく遅鈍なるもの−即ち劣等児−に関する報告により、各項毎に帰納的に得たる結果是なり。」

 

数十の小学校に報告を求めた結果、やはり劣等児として注目されたのは「遅鈍」であった。岩内は更に「盗癖ありて心力遅鈍なり」「執拗にして遅鈍」といったものを除き、「唯心力の劣等なるもののみ」を算入する形で報告を処理した。このような児童を岩内は「普通より以上[67]に−即ち目立つだけに劣等なるもの」と位置付けた上で、調査報告を行なっている。以下、この調査報告の内容をみていくが、前に取り上げた「劣等児教育の方法」が定質的な調査であれば、この調査は定量的な調査である。統計調査としての正確さとしては疑わしき面もあるが、「劣等」の特徴を考察するという点では有益な史料である。

この史料に関して、まず「劣等児童」の身体的な特徴について概観する。「劣等児教育の方法」において、それほど違わないという点が強調された劣等児の身体的な特徴であるが、この調査ではその特徴について次の表のように詳細に示されている。

 

表5

劣等児童につきての調査

 

 

本人の身体面に関するもの

 

発育

 

 

完全

9

眼の凹凸

 

通常

15

2

不完全

25

11

 

 

眼の大小

 

肥瘠

 

4

4

7

肥満

7

細し

3

膨れたる如し

1

眼の質、光鈍し

11

 

 

眼のその他[68]

 

頭の大小[69]

 

眼球黒子あり

1

15

瞳孔反応普通

1

16

斜視

3

頭の形

 

丸し

1

全体扁平

3

稍近視

1

前後共に扁平

1

虫目

1

後頭部特に扁平

6

両眼距離甚し

3

前額狭小

2

涙液多し

1

前頭骨発育不良

1

白色部多し

2

前頭大に出つ

2

目つきしまりなし

1

後頭部凹

2

 

 

後頭部凸

2

 

凹凸多く後頭突起

1

全体常に開きて涎を垂る

7

頭上著く凹

1

舌を出す

1

頭上著く凸

1

しまりあり

1

頭顱縦径短し

1

唇突出す

13

圓し

2

上唇厚し

3

長し

1

唇厚し

4

右方顳   部突出、後頭結節扁平

1

口小なり

2

左顱頂部突出

1

 

 

頭部瘢痕あり

1

 

前額血管あらはる

1

鼻液、常に垂る

6

 

 

低し

2

頭髪の色

 

 

 

21

 

5

耳翼至て小

2

頭髪の質

 

耳翼著く前方に湾曲す

1

薄し

18

外聴道狭小

1

濃し

3

4

細し

1

耳漏

4

 

 

 

 

顔容

 

身長[70]

 

面長、面圓し、面凹、面凸

1

長し

3

普通

7

短小

15

痴呆状

6

 

 

 

 

 

顔色

 

脊柱後彎右肩胛骨突出し胸部異状あり(鳩胸)

2

蒼白

13

胸部扁平甚しく、胸骨の下端著く陥没す、其深一寸五分許、凹部円形径凡四寸

1

白し

6

腹頗る大なり

1

蒼黒

9

両足   に隆起部を有し長距離の歩行には痛みを感じ又疾走に困難なり

1

黒し

17

疾走及労力不能

1

赭黒

2

五六歳迄歩行し得ず

1

2

腰部骨格異状あり

1

黄色を帯ふ

1

神経遅鈍負傷の際痛苦を感すると薄し

1

頬赤

1

貧血(印刷不鮮明で数不明)

 

 

元気殆どなし

3

{表は「劣等児童につきての調査  第十二  身体発育の状態」(同2号12頁から15頁)の統計を参考に相澤が作成した。)

 

岩内はこれらの結果を基に、「試みに右の特点を抽出し之を綜合して、ここに一の心力遅鈍なる児童のタイプを構想」してみている。それによると、

 

「発育不完全にして身体矮小筋肉肥満、頭は著るしく大(小)にて、前額頗る狭小に後頭特に扁下に一種異形なり。之に生ふる毛髪は細くして其色赭く、顔色は蒼黒(又は蒼白)にして容貌、痴呆状を免れず。眼窩凹みて眼球殊に、眼光鈍よりとして曇れるが如く、常に鼻汁を垂らし、口角緊りなくて垂涎を絶たず。唇厚くして突出し寡黙低声にして且明晰ならず。耳漏ありて少しく聾なり。又脚力微弱にして歩行調節を欠き疾走困難」(同2号17頁、18頁)

 

としている。実際には140名ほどの身体的な特徴の列挙から岩内が抽出したものであるので、データ採集や岩内の分析において、多分の恣意性が含まれていることは確かである。むしろその部分に注目することが、「劣等」と身体的な要素との関連をどのような形で分析していたかを見る上でも意義があろう。

 

  そのような観点から見た場合、「劣等」ととりわけ注目されているのは、発育と頭や顔に関する問題との問題化である。改めて当時の小学校には、発育不完全の者が多く通学していたかが、ここに明らかになる。またその発育不完全の数と共に頭や顔において形態状の問題が、例えば、眼が近視であるといった現在、直接的に注目されるような器官の機能的な問題と同列または、むしろ大きく取り上げられている点が注目される。この点に関しては本人の現在の状況として、注目されているだけでなく、周辺の環境においても様々に注目されている。例えば、生活の程度である。本調査では、生活の程度は次のように報告されている。

 

表6

生活の程度

32

中以下

3

59

8

稍富

4

其他計上し難きもの若干

{表は「劣等児童につきての調査  第十  生活の程度」(同118頁、19頁)の統計を参考に相澤が作成した。}

 

尺度が一定していない形の報告であることは、岩内も「此程度に関しては標準なければ甚茫漠たるべし」と認めている。しかし、その上で、「兎に角貧家には家庭の教育も行届かず、其父母の知識品性も下劣なるを免れず、又食物も不良なるべく、一般に其児子の境遇上(生前より)教育的勢力の甚微弱なる」点に注目し、これを「劣等」の原因の一半とみなしている。「劣等」と本人の身体面の問題との関連に注目し、これが生活の程度とつながりがあるという形の認識を示している。

また、岩内が重要視しているのは、過去における疾病である。「過去の疾病は劣等児研究中最も注意すべきものなり」として、その疾病を48事例、挙げている。以下、列挙すると次のようになる[71]

 

幼時脳膜炎腹膜炎を患ひたり。

生後六ヶ月脳膜炎にかかれり。

生後一ヶ年烈しき脳膜炎にかかれり。

三才のとき脳膜炎にかかり一時危篤なりき。

五時のとき脳膜炎にかかり殆危かりき。

幼時烈しき脳膜炎にかかり為に精神に異状あるやうに見受るとありき。

生後五十日脳膜炎にかかり後屡痙攣を起せり。

生後百日脳膜炎にかかり危篤なりき。

三四回脳病にかかりたりき。

10 幼時保護の不注意より再三地に落し頭部を打ちしとあり四歳のとき脳膜炎と心臓病を併発し一時気絶し四ヶ月許足萎え歩行し能はず、[72]

11 五才まで痙攣屡なりき。

12 幼時癇癪を起せり。

13 幼時時々気絶せり。

14 六年前馬痺風に罹り殆と死せり。

15 幼時熱病に罹れり。

16 生後三十日頃全身異常に肥満し治療を受けしに俄然非常に痩せ四五才迄は発育大に悪しかりき。

17 二才の頃脳膜炎に罹り為に五管全く萎微し唯食物を口に持行けば食ひ与へざれば敢て本人より空腹を告ぐるとなき程なりき、而して六才にして漸く視力生じ九才にしてして漸く不完全ながら歩むに至れり。

18 出生後間もなく脱腸今日に至る。

19 頭に腫物を発生せしと七年

20 出生後母病気にて乳の分泌量を減し為めに身体衰弱したる上、猶頭部及首に腫物を患ひ其結果五才迄歩まざりき。

21 三四才の頃頭部を病み所々に穴を生じ膿汁を分泌し且折々死骨を出すとあり、且五才初めて歩行せり。

22 五才の時頭部に腫物を生じ切解して二ヶ月間枕につけり。

23 九才の時左股に瘡を生じ、四十日程苦みたり。

24 四五才迄医師にかかり三四才迄歩行たしかならず。言語通ぜず今に至る。

25 月不足の生にして発育不完全体質虚弱なりしが幼時瀕死の大患にかかれり。

26 幼時より逆上すると屡にして三四才の頃は最烈しく当時稍可。

27 五才の時足疾を発し十才の時突然気絶せり。

28 三才の時痺癇に罹り死に瀕せり。

29 三四才迄常に病めり。

30 三四才のとき大患に罹れり。

31 六才の時膓胃加答児のため全身膨れしとあり。

32 耳漏にかかれり。

33 幼時多病耳漏今に至るも治せず為めに聾にして発言を厭ひ言語不明。

34 幼時永く瘡毒に罹り又耳漏あり。

35 全身瘡を病む。

36 六才の時腎臓病にかかれり。

37 流行性感冒。

38 麻疹。

39 三才に至るも言語を発せず、歩行自由ならず、且傴屡鳩胸なりしが、継父母愍みて非常の愛育を加へ療養を怠らざること二年始めて言語を発し遂に傴屡鳩胸も目立たざるに至り聊か痕跡を認むるのみとはなれり。

40 二才の時火傷をなし右足の二指全く不具。

41 鼻汁を垂すは祖父の遺伝ならん。

42 六七才迄甚しく鼻汁を垂せり。

43 一二才の頃二階より落ちき。

44 四才の時井中に落ち脳を打ち為めに当時頭痛を起こしたり。

45 七才の時屋上より瓦落来りて頭部を傷けたり。

46 三四才の時池中に陥りて気絶し七才のとき高所より落ちて気絶せり。

47 幼時屡縁側より落ちたり。

48 病なきも早産児なり。

 

必ずしも、「劣等」との結びつきという点では不明確なものも見受けられるが、この48事例のうち、脳膜炎または脳病と示される事例が11事例、その他の脳の外傷も含めた頭の怪我を含めると17例となり、全体の三分の一を占めることになる。当時、脳膜炎は「幼児の生命に於ける一大難関にして之に罹りて死亡するものの夥多なるとは医師の常に警告する所」[73](同2号22頁)であった。この点に岩内も注目し、「該病が亦実に心力をして生れもつかぬ遅鈍児たらしむるものの最も甚しきものたるを知る。」(同上)と指摘している。頭の疾病も含め、確かに命を左右するような病気、怪我を経た結果として、「劣等」に至るという形が了解されている。この点と劣等児の身体的な特徴が目に見える形で結びついていることが明らかになろう。

  だが、実際にはこのような疾病と身体的な特徴との関連で「劣等」が把握されることはそれほど多くなかった。岩内の調査では、各報告者に劣等原因の「考定」を求めた項がある。「劣等」を目の当たりにする人々が考える劣等の原因とは実際には以下のようなものであった。

 

7

「劣等原因の考定」

 

 

遺伝により

父母

13

 

49

19

15

祖父母

2

近親結婚により

叔姪

2

4

従兄妹

2

親の大酒による

7

 

10

1

祖父

1

祖母

1

    先天的

12

12

生理的

幼児の疾病

24

 

 

54

栄養不十分

9

身体薄弱

6[74]

胎児中発育不良なりし故

3[75]

胸の不完全

2

身体の異状

3[76]

負傷

7

家庭上

養育の不完全又は放任

12

 

 

19

父母の溺愛

2

祖父の溺愛

2

父母叱責の過度

1

呵責によりて

1

伯父母に養はるるとによりて

1

父老後の出生

2

 

 

9

仲間の度外視

2

妊娠前後母の心身を過労せしにより

1

父の死亡と母の肺患とによる

1

母精神病に罹りしとありしによる

1

職業上(娼家)の影響

1

幼時の恐怖

1

合計

 

157

157

{表は「劣等児童につきての調査  第十九  考定」(同320頁から22頁)の統計を参考に相澤が作成した。}

 

これらの事例は、岩内は「殆ど誤りなきを信ず。(固より例外は免れざるも)」と書いているが、あくまで劣等の原因を何に起因させていたのかという考え方の調査として見ていきたい。全事例157のうち、劣等を本人の生理的または先天的なものと帰する考え方は合わせて66事例であり、この点で、「劣等」は生まれつきのもの、または発育の過程における生理的な原因に帰せられていることが多い。だが、それと共に注目されるのは遺伝である。遺伝は「報告一一五の中何等の原因を認めざるもの二六に過ぎ」(同第115頁)ないにも関わらず、実際に報告者にリアリティを持って捉えられる事例として、遺伝は49事例を数え、三分の一に昇っている。またこれと家庭環境の問題として親に責任を帰す19事例を合計すると68事例を数える。以上から考察すると、「遅鈍」としての「劣等」は基本的にすでに身についてしまったものであり、これが努力によって学校がカバーすることができるという考えは全く見られない。

むしろ岩内はこれらの統計における遺伝や飲酒の問題に着目した上で、以下のように結論づけている。

 

「若し夫れ如上の調査によりて其原因の大なるものを見よ。遺伝の恐るべく、親の大酒の恐るべきを知らば、親の子に対する義務の重大なる所以を解すべく、而して結婚法の改善が社会上に必要なるのみならずして、教育上亦大に考究を要すべきかを解するに難からざるべし。其他脳膜炎の襲撃の如き亦尤も恐るべき所にして、父母たるものの一日も戒心を怠るべからざるを知るべく、胸部の打撲或は驚愕等亦其一因をなすといふに至りては母たる者の保育上片時も油断あるべからざるを見るべし。」(同324頁)

 

  岩内はこのようにして、「劣等」の問題化を契機に、遺伝と衛生、躾の問題に関して言及を行なった上で、論を終えている。

 

岩内の「問題化」の総括

以上の考察を通じて、岩内の調査を通じた「劣等」の姿を確認しよう。「劣等児童」とは、まず明らかに「遅鈍」な者達であった。その容貌は一見して特徴的であり、「発育不完全」で頭の形は概して、異形であり、顔色は悪く、眼、鼻、口、耳は明晰な印象を与えるものではなく、運動能力も全般的に低いということが特徴として挙げられてきた。またこれらの身体的な特徴と結び付けられる形で過去の疾病、とりわけ脳膜炎等の頭の疾病と結び付けられることは見てきた通りである。岩内が明らかにしてきた「劣等児童」は各小学校の「遅鈍」であるものを中心に取り上げてきたが、これらを一覧すると、一斉授業では取り扱うことがまず不可能であり、その点で各小学校の教師達が非常に苦労を重ねてきた児童達の姿が浮かび上がってくる。また、これらの児童の中には、「聾」であったり、運動能力が授業に耐えうるとは考え難いというような現在の通常学級では扱われないことの多い児童も多数、含んでいたことも明らかになる。それは例えば、岩内が「「劣等児救済」若くは特殊教育の研究等」という形で、現在では、明らかに区別されている劣等児救済の問題と特殊教育が並列に用いられている点でも当時の認識として、「劣等児」というのは特殊教育の対象であるというようなものであったということが示されるであろう。

 

さて、鈴木の報告でも、岩内の報告においても共通するのは、第三次小学校令以降、就学率が急上昇する中で、これまでは就学されることもなかった貧困層の家庭の児童や第二次小学校令下では就学することのなかった「不良ノ行為ノアル児童」、「課業ニ堪エザル児童」、例えばこれまで就学を見送っていたような疾病を抱えた児童も学校に通うことになったため、このような児童の「遅鈍」であり「劣等」である点、そのために一緒に通常学級において教授を行なっていくことが難しいという点が大変に問題化し、教師達の間で問題意識として共有されるようになった。これらの調査はそのような表面化した問題意識が強く現われている。この問題意識に対して、鈴木は大阪府師範学校教諭兼訓導という立場もあり、粘り強くこのような児童に対して接していくかということについて研究していくことになる。それに対して岩内は報告を締めくくりにあたり、次のように述べている。

 

「予輩今日「劣等児救済」若くば特殊教育の研究等の行はるるを見て深く世の教育者の熱心と其情の篤きに感じ、而して其功果の着々現はるるを信ずと雖も、而も之に原因に溯り之を根本的に撲滅するの策を講ぜずむば或は恐る労多くして之に伴ふ功果の甚少からむことを。」(同325頁)

 

  様々な要因を糾弾し、遺伝から家庭の躾まで論じ、これらの教育が効果が現われることは信じながらも、決して一度、問題化した「劣等児」問題が根本的には解決されないことを岩内は説いている。

 

5−4 国内における「問題化」から『児童研究』を介した欧米の研究の摂取へ

これまでの作業を通じて、『児童研究』において問題化した劣等の姿を見てきた。これらの事例は制度の変化、教育実践の変化、そして就学者の変化によって、可視化してきた「劣等児」がどのようなものであるのかを国内の教育現場からの報告を通じてみてきた。この「問題化」を契機として、日本の児童研究において、「劣等児」問題は大きなトピックとして推移していくように思われる。しかし、実際には『児童研究』において「劣等児」という言葉はこれまで見てきた10巻前後数年よりも後になると、全く確認されなくなる。その一例として巻末の図1を参照するとよいだろう。この図は『児童研究』において、「劣等」「低能」「精神薄弱」「白痴」「優等」とそれに類する言葉が題名となっている記事名を並べたものである。「劣等児」問題という問題意識が共有された後、『児童研究』ではこの分野における欧米 とりわけ医学の分野で研究成果の摂取が盛んであったドイツからの の研究成果の摂取が盛んに行なわれるようになる[77]。その中で、注目すべきなのは、「劣等」という言葉が第10巻以降、ほとんど現われない点である。特に第12巻以降に斜字、太字で示した海外からの研究成果を取り入れた記事では一度も「劣等」という言葉が扱われていない。ここにこれまで把握した「劣等」の概念の推移が現われてくる。

まず、それではどのような言葉を使ってこれまで把握していた「劣等」という言葉が欧米の記事では取り入れられてくるのか、この点に注目して、この欧米からの研究成果が盛んに行なわれた時期の記事を見てみよう[78]

 

特殊教育の場面で使われていない場合の「劣等」の言い換え

まず、特殊教育の場面では使われていない場合の「劣等」の言い換えの記述である。学校教育内で、成績不良であり、落第する児童がいるという状況は他国でも見られ、それらの児童を表現する言葉が散見される。それらは主に「劣等」と曖昧にできないことを示すのではなく、次のように、「成績不良」と明確に何が出来ないかを示すものであった。

 

「学校生徒ノ中ニ成績不良ニシテ、シバシバ落第シテ進級シ得ザルモノアリ、医家及ビ教員ノ共同シテ、ソノ原因ヲ研究シタル所ニ依レバ、此ノ如キ児童ノ多数ニ在リテハ、其身体及ビ精神ノ尋常ナラザルヲ認ムベシトイフ。(中略)

 精神ノ尋常ナラザル原因ハ、神経衰弱、歇私的里、舞踏病及ビ癇癪等ノ神経病的素因アルカ、又ハ身体薄弱ノ存スルニ由ル。」[79]

 

「伯林市学校児童に就て、シヤウエル氏が、調査せる所に依れば成績不良にて、落第したる児童六十五名の内、他の事故に由るもの四名を除き、その多数のもの、即ち五十三名にありては、生理的著しくは病理的の原因た本づきて(ママ)、成績不良を致せるものなることを証明したり、而して家庭の不良のために、成績不良のものは僅に七名に過ぎざりしといふ。」[80]

 

これらの史料から明らかになるのは、通常の学校、学級で扱われていた児童であったとしても、成績不良であることや落第することは、病理的な原因、生理的な原因との関連で把握されていたことが分かる。家庭の不良のためというのは、わずかな原因に過ぎず、先天的に普通に学校に通えないほどではないが、成績不良であることや落第することが決定付けられた存在として「成績不良の児童」が認識されていた。

成績不良の児童は、日本において論じられていた「劣等」の存在と比較すると、「遅鈍」であることは強調されず、成績が悪い、落第するということが強調される。またそのような落第する時点の問題化である。それに対して、日本における劣等とは、第三次小学校令で試験による進級制度が廃止されたのにも伴い、一緒に学ぶことができないということが問題化の対象となる。例えば、先述した鈴木の事例で見れば、「算術の力到底他の児童と共に学ふこと能はざる程後れたる」[81]ということが特別扱に至る経緯として述べられている。このように日々に行動によって、進級を決定するがゆえに、日々の行動の中で特定の児童が「劣等」であるという意識が日本においては、教師によって把握されるのに対し、これらのドイツの事例では「何が出来ないか」が明確になる制度の下で、明確になった上で、その出来ないことに関して、「○○不良」というレッテルを貼る作業が行なわれていることが伺える。

 

特殊教育の場面で使用される「低能児」

  これらの事例に対して、日本の「劣等児」の認識にも扱われていた「特別扱」または「特別学級」の方面で認識されてきた「劣等」が欧米の研究ではどのように把握されていたのかを検討する。其の点で鍵になるのは、これまで検討してこなかった「低能児」という言葉である。「低能児」という言葉はドイツの補助学校で取り扱われている児童として主に導入されてくる。その点について、まず補助学校とはいかなる存在であり、そこでどのような児童が扱われていたかについて見てみよう。

 

「教育病理学の研究の結果として、輓近教育治療上に必要と認めらるるものは補助学校なり。

補助学校といふは独逸語のHilfsschuleヒルフスシューレを訳せるものにして、精神低能のものにして、他の健全なる児童と共に、教育を施すこと能はざるものを収容して、特殊の教育を施す所とす。故に補助学校は国民学校(小学校)と白痴院との中間に位し、教育家と医家との協力によりて、身体に異常ある児童(而かも尚ほ被教化力の存する)に、教育的治療を施すを趣旨とす」[82]

 

 「回顧スレバ、今ヲ去ルコト四十一年前、ケルン、エルンストステェツネル及ビツェー、ウェー、ストイエルノ三教師ガ、低能児ノ一階級ヲ公ニシタル以来、独逸ノ諸都市ニ於テハ多数ノ教育家之レガ研究ニ従事スルニ至レリ、次デ千八百九十四年プロイセン王国ニテハ文部省ヨリ布告ヲ発シテ此ノ如キ小児ニ対スル補助級ノ制度ヲ緊要ナル問題トナセリ、(中略)千九百五年ニハ百四十三ヶ市ニ之(補助学校)ヲ設クルニ至レリ、」(傍線は人名であることを示すために紙面に振られている)[83]

 

ドイツでもこのような低能児が「発見」されたのが、41年前、つまり明治初期であることが示された上で、この40年間の成果として、多数の「補助学校」(ヒルフスシューレ、英語で言えばヘルプスクール)が設けられたことが示されている。ドイツではこのように多数の「補助学校」が設けられたが故に、「補助学校に通う児童」=「低能児」という認識枠組が日本がこのような学問を摂取する際には固定的になっていた[84]。このため、ドイツの補助学校の成果が導入されるにつれて、「低能児」という言葉も同時に定着する。例えば、このような形で日本では「補助学校」という言葉が導入されていき、その結果、日本においても補助学級、特別学級が設立されるにつれて、そのような学級において扱われている児童に対して「低能児」という言葉が使用されるようになってくる。その点で、日本に導入された形の「低能」がどのようなものであったかを見ていこう。

 

「特別学級ヲ開始シテ、二個年ヲ経タリ、現在収容ノ児童ハ十名、内八名ハ尋常四年、他ハ尋常三年、男子ハ六名、女子四名アリ。普通ノ学校ニテ、幾度モ落第シテ、一年級ニ居リシ児童ヲ二年ニ入学セシメ、一個年後三年ニ進メ、又一年後四年ニ昇ラシメ、落第ヲナサシメズ、此等ノ学級ハ、勿論普通ノモノト程度ヲ異ニス、且ツ教科目ニヨリテ、児童ノ能力ニ従テ組ヲ分ツ(中略)

児童ニ自己ガ劣等者ナルコトヲ自覚セシメザルコト。成ルベク普通ノ児童ト同ジク行動ヲ共ニセシムルコト、例ヘバ、遊戯、運動、通学等ノ如シ。」[85]

 

この東京高等師範附属小学校に設けられた「特別学級」は1908年(明治41年)に設立され、1912年(明治45年)には一学級増設され、上級、下級の2学級で運営されるようになり、名称も「特別学級」からドイツのように、「補助学校」に改名した事例である。何度も落第した児童というのの中でも普通の学校においては見込みがないと見なされた児童が集められた。設立当時は周辺地域の中の1000人の中から選ばれた7人の個人の能力自体に問題を持つと思われる児童が集められている。これらの児童は年齢8才から13才で、「下流に位する」家庭の児童が多く、知的方面は「至って発達して居らぬ」「一と二の和すら知らぬもの」が集められた[86]。東京高等師範附属小学校という小学校の中では恵まれた環境を持つ場所で、紹介されたような補助学校の実践を取りいれようと試みられたのである[87]

またこの記事の中で注目すべきは「低能児」として集められた児童に関して「自己ガ劣等者ナルコトヲ自覚セシメザルコト」と書いてある点である。この文脈に沿って、この言葉を理解すれば、「低能児」は個人の能力自体に問題を持つと思われる児童であり、特別学級、補助学校の対象として扱われていたことは了解される。それに対して、「劣等」ということは単純に「できない」全般の意味を指す言葉として使われていることがわかる。

 

このようにドイツの補助学校の成果を取り入れることによって、日本でも補助学校を設立すべきだという気運が高まりを見せる。また、ドイツの低能児統計と類似して把握される日本の低能児統計調査も行なわれてくる。そのような例についても見てみよう。

 

「我邦学齢児童の中此種の児童(精神薄弱にして智力の程度低き児童)は実際上は其数十数万以上ありと註せらる。独逸国に於ける調査によれば精神薄弱児童の数は学齢期児童の一・五乃至二%に達すと称せらる。」[88]

 

ドイツの事例を参考にして、補助学校の設立はこのような記事によって促される。また、一般の学校において扱うことはできず、補助学校で扱うべしとした具体的な人数としてドイツ国内では、1.5%から2%という数値が表されているのに対して、日本においても同様の観点から調査が実施され、具体的な数値となって表われてくる。例えば、1910(明治44年)年に行われた「大阪市低能児調査」(下記表参照)によると[89]、同じ教室内で当時は扱われていながらも、同程度の進度を設定することが難しいと考えられていたものが尋常小学校において、3%程度いたと考えられる[90]

 

 

全児童

低能

白痴

癇癪

不具

合計

割合

尋常

88965

 

 

 

 

2850

3.203507

 

1204

67

19

201

1491

 

 

1101

85

13

160

1359

 

高等

7023

 

 

 

 

103

1.46661

 

43

0

1

11

55

 

 

43

0

0

5

48

 

(不具は盲唖以外のものという但し書きがついている。)

 

これに対して、大阪市はこの調査と同時にどのような教育的な配慮を行なっているかということについても調査している。それを「大同小異にして之を総合すれば」、「座席を教壇に近づけ優等生と席を列せしめ」る、「低能児のみの学級を編成」、補習等の「特別指導」等の処置が取られていた[91]。このようになんとかして同じ学校内で同じ教育内容を教えようと取られた努力であったが、実際にはこれまで見てきたように、それがうまくいかなかった。そのため、先述したような形で補助学校を設立し、それによって別にすべきであるというような主張が高まってきている。

以上の考察によって、「低能」=「補助学校に通う児童」という考え方と、それとは別に「できない」一般の意味で使われてきた「劣等」という言葉の変遷を見てきた。このような変化や学問的成果の導入によって、学術用語における「劣等」という言葉の使用は少なくなってくる。例えば、次のような記事がある。同著者による記事であるが、児童の分類においてどのような言葉を充てているかに注意しながら見てほしい。

 

「そこで我国の学齢児童が五百万余ある此の五百万の児童を三つに大別したら適当ではないかと思ふ。即ち其の第一は普通児、第二は中間児、第三は変態児である。一々について説明すると普通児といふのは常識を以て区別する事が出来るもので著しき身心の欠陥なきものであつて、小学教育を受けても甚だしき劣等生でないといふ所のもの以上である。第二は現今称へられておる所の低能児である。余は茲に一言のべておきたい事がある。そは低能児といふ事が甚だ不適当であると思ふ。何となれば低能児といえば白痴も低能児、盲児も唖児も低能児である。然るに落第生であるとか劣等生であるとかをも同様に低能児といふのは不都合と思ふ。元より落第生といひ劣等生といふのは低能児には相違ない、故に余は低能児でないといふのではない、低能児といふ事が余り範囲が広いために混雑を来す憂がる。故に余は中間児と称へたいと思ふ。」[92]

 

「普通児は普通教育学の範囲に属し、中間児及び変態児は特殊教育学の範囲に属するものである。而して現今教育者、医学者、心理学者、社会学者等より低能児といはれつつあるものは、普通児中にある成績の不良児及び中間児を総称したもののやうである。併しこの成績不良児といふ児童を、低能児といふは甚だ無責任な事であらうと思ふ。何ぜならば低能児といへば、再早其児童の人格に下等なものであるといふ検印をしたやうな理屈になる訳で、同情を以て教育するものの、余り心地よしとしない所である。(中略)故に普通小学校にて教育し得べき程度にあるものは、全然低能児といふ名を廃して、成績不良児といつて貰ひたい。さうして真に低能児といふのは中間児であらうと思ふ。」[93]

 

脇田は低能児教育の教育施設京都白川学園の園長も務め、低能児教育の実践者として書も著した人物である。彼の論旨は至って明確である。彼は普通児、中間児、変態児と分け、自分の行なうべき教育は中間児に対する教育であると考えている。彼が普通児と変態児の間を中間児と呼ぶかと言えば、普通児と変態児の間の存在として、彼が意識しているからである。彼は1908年の段階の記事では、「劣等生は低能児に相違ない」としているものの、低能児という言葉の意味が広すぎるため、中間児と呼ぶことによって、概念を整理しようとしている。それに対して、1911年の段階では、「劣等」という言葉は消え、普通児の枠組内に収まる成績不良児と中間児を総称して低能児と呼ぶが、そのようなまとめ方に対して不満を抱き、改めて中間児という名称を与えて、それらの区別を行なおうとする。

この記事は「劣等」と「低能」という言葉が持っている問題を浮き彫りにする。「劣等」は曖昧に「できない」ということを指すがゆえに最初の「問題化」の時点では多用される言葉であったが、欧米(特にドイツ)の学問成果を輸入したときにそのような曖昧さを残した言葉ではなかったため、学術用語としての定着はほとんどされなくなってくる。それに対して、「低能児」という言葉はドイツの補助学校の学問的な成果を導入した結果、「補助学校に通う児童」=「低能児」という言葉が定着することになった。

しかし、この点に「低能児」という言葉は問題を抱えていた。「補助学校に通う児童」であるがゆえに、本当は補助学校が存在し、通常の学校と補助学校との間を分ける区別が明確にならなければ、「低能」という言葉の意味も正確な意味では明確化しないのである。ところが、日本にはそのような補助学校が一律に決められた制度として存在しなかったがゆえに「低能」という言葉もそのような意味の言葉ととして「雰囲気」だけは理解されたものの、実際の用語の使用には混乱が生じてくる。脇田はそのような混乱の中で、非常に広い意味で使われてしまう「低能」の問題を浮き上がらせたと言えよう。

それでは、「低能」は「補助学校に通う児童」という他にどのような形で理解されたのか、その他の特殊教育の場面で使用される言葉との違いに注目しながら、その点に注目しよう。

 

特殊教育の研究成果において明らかになる他の語の位置づけ

特殊教育の場面で明らかになる他の言葉の位置づけの代表的なものは次のようなものである。

 

「精神薄弱ハ、ソノ智力ノ度ニ従ヒテ、白痴、痴愚及ビ魯鈍ノ三類ニ別ツ、ソノ魯鈍ハ精神薄弱ノ度ノ最モ軽キモノニシテ、白痴ハソノ度ノ最モ重キモノナリ。」[94]

 

「精神薄弱」という言葉をこれらの問題の全般的な総称として位置付け、薄弱の度合いの重い方から「白痴」「痴愚」「魯鈍」という言葉を充てている。時期的にもこのような形の導入がまずなされた。まず、このような導入において、影響力を持ったのは、補助学校の研究成果同様、ドイツであった。

 

「生来性精神発育不良ニ基ク低能者ノ中最モ程度ノ軽キ精神病学上、魯頓者(ママ)Deblitatト名ヅケラルル(中略)元来、精神病学上コノ生来性精神発育不良者ヲ、ソノ智力欠損ノ程度ニヨリテ、白痴、痴愚、魯鈍ノ三類ニ分ツ」[95]

 

Deblitat”の単語からも伺えるように、これもドイツから精神病学を取り込んできた例である。これによれば、「生来性精神発育不良ニ基ク低能者」という形でもわかるように、「精神薄弱」という精神病を抱えた者達のことを総称して、「低能者」という言葉が使用されていた。同様の使用がなされる言葉として「低格」という言葉もあるが、これに関しては「低格と低能とは言語Minderwertigkeitの同訳なり」という説明が他の記事で為されている[96]。つまり、当時のドイツの精神病学においては「白痴」「痴愚」「愚鈍」が基本認識であり、それらの総体として語る言葉は主に精神薄弱であった。そしてこの精神薄弱を抱える者達を総称して「低能」または「低格」という形で語っていたことがわかる。だが、留意しなければならないのは、あくまでこの総称は実際には「精神薄弱者」または「精神薄弱児」の「通称語」であった[97]。その点で、使われ方に曖昧さが出てくるのは当然であった。例えば、次のような違った形の定着のされ方の例もある[98]。若干、引用が長くなるが見てみよう。

 

「仮りに東京市中の凡ての児童を集めて、其脳力を、最も進んだ実験心理の方法によつて、最も熟練した学者が各児童を試験し、其出来工合によつて二十の段階をつける[99]其れを図に現はす為めに横線を引き物指して目の様に二十に等分する、今度は各段に属する児童の人類を調べる[100]而して、横線の各段の上に縦線を引いて、其線の高さによつて、其れに属して居る人数を現はすと仮定しませう。すると大抵の場合に富士山の様な形のものが出来る。(中略)第四段から、第十七段辺り迄の脳力を持て居る児童は、普通の児童で学校へ行つても勉強さへすれば難なく進級して行かれる。大学も卒業し様と思へば出来る。(中略)第一、第二段に属して居る少数の児童は、英語で所謂「スーパーノーマル、チルドレン」で学校ではどの級に遣つても、余り出来すぎて困ると云ふ様な風で、行く行くは社会を率ゐ、人間全体の境遇を開拓し得る脳力を有して居るものであります。之れは英語で所謂「サブノーマル、チルドレン」(普通以下の児童)で、即ち、本研究の目的物であります。

(中略)

精神薄弱の程度によつて、此種の児童を三種に分つ事が出来ます。最下等の脳力を有して居るものをIdiot(白痴)と云ひ、其れより少し良いのを指してImbecile(遅鈍)と云ひます。此二種類は、普通、誰れが見ても馬鹿である事が解りますが、其上のFeeble minded children(直訳で、脳力の弱い者)になると、一見、普通の児童と区別する事が難かしい。何かさせて見て、初めて其普通以下である事が解ります。」[101]

 

  このように、重度の精神薄弱を「白痴」と呼ぶ点は変わらない。それに対して、ここではImbecileは遅鈍と訳され、Feeble minded childrenの訳が定まっていない。見れば、わかると思うが、これらは英語である。このように英語圏からの研究成果の導入は同じような言葉の導入であっても、別の訳語がなされてくることが往々にして見られる。その例として次のようなものも見てみよう。

 

「精神薄弱児の分類法としては、白痴(Idiot)、低能児(Imbecile)軽愚(Morton)と云ふ様に別けますが、心理学の上から分類して居る様です。

(中略)

米国にては精神薄弱児教養所を一般にInstitationと云ふ言葉を用ゐて居りますが、この内に医学、生理学の上よりも分類したるものと心理学的に分類されたものと二つがあります、一方をThe medical institation と申ますし、他は即ちThe feeble minded instation と申ます。此等の二ツの方面に収容さるるものの児童の性質が違ひます。The medical institationには全く半患者です、是が医学、生理学の欠陥のある現在患者であるものの収容所であります、The feeble minded instationの方はこれは病身ではない。」[102]

 

ここにおいて、ますます議論が混乱するのがわかる。これまで精神薄弱児の分類においては全般的な意味を指すと考えられていた「低能児」という言葉が、白痴と軽愚の間の精神薄弱の一分類としても導入されてくるからである。また“The feeble minded”という言葉に関しても記事とは若干、扱いが違うのがわかるであろう。軽度であることは伺えるが、片方では精神薄弱の分類用語の一部となっており、川田の例ではなっていないのである。

「低能児」または「低能」という言葉はこのように「補助学校に通う児童」または「特殊教育の対象者」というある雰囲気をもった言葉としては語られていたが、厳密な意味においては様々なずれが研究者達の中でもあった。しかし、この雰囲気だけが先行して、今後「低能」という言葉は数多く使用されていくのである[103]

 

「低能」と試験法 −ビネー・シモン法の導入−

一方で、この曖昧な雰囲気だけでなくきちんとした形で「低能」を語る方法も明らかになってきた。それが知能試験である。「劣等」が「問題化」した時点、つまり「問題化」の初期の段階ではこれらの児童の能力を測る試験は観察法中心のものであり、試験法自体も基準の曖昧なものであった。例えば、初期の試験方法としては次のようなものがある。

 

「大阪市明治小学校長土岐達氏は、明治三十九年の入学生徒六十名に就き、入学後二週間を経たる時、各生徒に直径六分の円と及び長さ一寸の直線とを各別に書きたる一枚の紙を与へ、而して各生徒は鉛筆を以て紙の円と直線との中央と思ふ所に点を附せしむる所の方法を試み、次の成績を得たりといふ。

一、               精神の比較的よく発達せる者は、多くは円及び直線の中央に点を附す。

一、               知力の稍劣りたる者は、其の点を真中に附すること能はず。」[104]

 

このような単純な試験法、または観察法によって、児童の能力を考察していた。例えば、前述した詳細な「劣等児童」に関する報告を残した鈴木の調査は「運動の速さ」以外の項目の「運動状態」、「注意状態」「記憶以下習慣欄まての記載事項」はすべて、児童の観察による調査であった[105]。しかし、このような単純な試験法や観察法も欧米の研究成果の導入で急速な変容を見せる。折しも当時は、フランスにおいて、ビネーとシモンが「精神低能」に関する測定法の研究を進めている時期と時を同じくしていた。ドイツの補助学校の事例を導入するためには義務教育制度のある程度の整備を行なうことによって、問題意識の共有が日本においてなされなければならなかったのに対し、すでに「劣等」や「低能」に関して問題意識を共有していた当時の日本は驚くほど早くこのビネー・シモンの研究成果を取り入れていった。

ビネーとシモンはまず、30の知能検査法を考案し、1905年に「異常児の知的水準を測定する新しい方法」として発表し、更に1908年には検査項目の難度を年齢ごとの期待値に一致させた知能年齢の概念を導入したビネー=シモン検査法を確立し、更に1911年にもこれを改良している[106]

これに対して、「児童研究」において、まず1907年の段階でビネー・シモンの心理学的な「精神低能の測知法」が紹介されている。しかし、非常に大きな影響力を持ったのは知能年齢の概念を導入した1908年の研究成果である。このビネー・シモンの検査方法は次のような形で1912年に紹介された。

 

「低能児、異常児ノ精神試験ニ使用セラレテ正確且簡便ナリトイハル、ビネーノ精神試験ナルモノハ、近時欧州ニ於テ行ハレツツアル所ナル(中略)其法ハ、多数ノ尋常智力ヲ有スル尋常児ニ就テ、之ヲ三歳ヨリ十二歳迄ノ年齢別ニヨリ群別ノ各群ノ児童ニ漸次易ヨリ難ニ進ム三十ノ問答即チ試験ヲ施シ、同年齢ノ平均成績ヲ以テ、其年齢ニ於ケル尋常児智力ノ標準トシ、同問題ヲ異常児ニ与ヘ、其成績ヲ前者ト比較シテ茲ニ異常児智力ノ標準ヲ得タルナリ。」

 

  とまず、通常、研究方法が紹介されるものと同様にして報告している。この研究方法の理解のされ方は先述したビネー・シモン法の研究の流れにおいては1908年以降のものであることがわかる。その上で、実際に行なった試験の結果を例に挙げ、この試験法の長短についての報告も行なっている。

 

「之ニ就テヂクロイ及ビデガン両氏ハ実地ニ応用上ノ確否ヲ試験シテソノ結果ヲ報告セリ、

(中略、観察的分類とほとんど異ならないことを示した上で)

而して両氏は、結論シテ次ノ如クイヘリ。

一、               大体ニ就テビネー及ビシモンノ試験法ハ智的観察点ヨリ異常智性ノ段級ヲ確定スルニハ十分ニ完全ナルモノナリ。

二、併シ、尋常ト異常トノ中間ニ在ル児童智能ヲ分類スルニハ前者程ノ効力ヲ有セズ。

三、聾唖児童ノ智能ヲ分類スルニハ不完全ナリ。(質問を聴き取ることが出来ないためと、この前の実験法のところで説明されている、相澤注)」[107]

 

このように導入初期の段階では、ビネー・シモン法にも長所、短所があるという認識がなされていた[108]。すでに日本でもビネー・シモンやその他の検査方法を導入することによって、大規模な精神能力調査が行なわれており[109]、そのような調査法の一例として埋もれていく可能性も在った。しかし、このビネー・シモンの方法は画期的であった。数年の間に欧米でも使用されているが[110]、日本でもこの知能年齢との比較において、知能を測定する方法はこの後、急速に普及する。やはり、ビネー・シモン法は、これまでの数値の差でしか表せなかった「低能」の程度を「何歳」レベルの知能であるという形で明確な言語化を可能にした点で究めて画期的な点にあった。これによって、日本でも求められる年齢段階よりも明確に能力が低いことを示す「低能」の姿が浮かび上がる営みがされた点は注目されて良いだろう[111]

 

5−5 日本における「劣等」の意味の確定

以上のように、試験法の進展によってその形が明確になりながらも名称の点で曖昧さを残した「低能」に関して、「問題化」の契機では多用されながらも、学術用語としての定着を見なかった「劣等児」または「劣等」という言葉はどうなるのであろうか。話をこの点に戻そう。

「低能児」という言葉が流通されるに従って、先述したような「補助学校に通う児童」または初期の段階で扱っていた「特別扱をする児童」という文脈での使用は避けられてくる(若干の混乱があることは否めないものの)。そこで、主に「劣等」が扱われるのはまず「優等」との対比においてである。そのような例を若干見てみよう[112]

 

「我々ハ劣等児ニ注意ヲ向クルニ至ツタ此ノ学界ノ進歩ヲ目撃スルト、更ニ一歩進ンダ要求ヲ我ガ学界ニ提出シ度イトイフ感ヲ禁ジ得ナイ。其要求トハ何ゾヤ即チ劣等児童ノ反対タル優等児童ノ方向ニ向ツテモ、我ガ医家及ビ教育家ガ注意ヲ向ケルニ至ツテイタダキ度イトイフ事是レデアル」(同上47頁)

 

このように、「劣等児童」の反対としての「優等児童」の教育の方に注意を向けるべきだという形で論旨を展開する。

 

「維新以前ノ寺子屋流ノ詰メ込ミ主義ノ反動トシテ、開発主義ト云フヤウナ事ヲ教育学者ガ唱ヘルニ至リ、教授ノ方法ガ盛ンニ研究セラレ、又劣等児童ノ事ナドガ注意ヲ惹クヤウニナツテカラ、我ガ邦ノ教育ノ方法ハ著シク劣等児童的ニナツテ居ル」(同上47頁、下線は野上の傍点。)

 

そして、このように現在の教育実践が「劣等児童的」であるという批判を行なっている。

前半の制度史との関連、そしてこれまで見てきた「劣等」の「問題化」の観点から見れば、この指摘はきわめて興味深い。我々は主に「劣等」であることが授業についていけず、そのために落第する児童が出現してきたことによって、「問題化」してきたことに注目してきた。しかし、そのような教育実践は決して「優等」の児童の側も満足のできるものではなかったことを示している。

話を元に戻せば、このような形で「劣等」は「優等」の比較において、「劣等」であるということになった。または「普通」との比較において、若干の「劣等」として意識されてくる。次の例もそのような例の一つである。

 

「右人員を細別すれば優等生六人、女生十一人合て十七人、中等生男九人、女十三人合計二十二人、劣等生男一人女十四人合て十五人なり茲に劣等と称するは決して補助学校生徒又は特別級生徒の意味にあらすして主系統に属する即ち普通学級の生徒なり而して本調査報告には主系統なる優、中、劣の三組の生徒と特別級、補助級生徒との能力測定の結果は常に相並列し掲載するを以て各生徒の能力か如何に優劣あるかは該表に就きて見るべし。」[113]

 

このように、「劣等」は特殊教育の学術用語として規定されなかったために、補助学校や特別学級との関わりにおける意味を失ってくる。いわゆる成績不良の意味に集約されてくるのである。しかし、「劣等」は学術用語としての規定をされなかったために、「できない」ということに関してきわめて曖昧な意味合いをもつ言葉としても存在することになる。それは次のような例である。

 

「教育事業は殊に人格の仕事で不純な自分には絶対に不可能なことなのである。内でも劣等児教育は純真な人格と経験と学識を要する、或る書物に「茲に教育家の資格のない教師にどうしても誤魔化せないものが一つある夫れは低能児教育である」」[114]

 

  この記事を書いた柴崎は東京市養育院巣鴨分院において、発育上の異常のある「劣等児童」を集めて「異常児」と称して一つの合級を編成していた。柴崎はこのような者達を必ずしも「低能児教育」の対象者とは考えていなかったようであるが、彼の扱う「異常児」が「優等」との反対語として容易に称されるような存在ではなかった。育児院に何らかの理由で収容されることになったという点で様々な問題を抱える児童も少なくなかった。このように「劣等」は学術的な規定がないために、その曖昧さを「低能」よりも、より深める形で使用されていくこととなる。

 

ここまでの考察で「劣等」の位置づけも明らかになった。「劣等」はこれまでの考察の結果、与えられた地位は

@「普通よりできない」という「優等」や「普通」との比較において、容易にラベリングすることが可能な言葉としての「劣等」

A特殊教育の方面から導入された輸入概念とは区別することによって、特殊教育の対象者ではないけれども、普通よりできないという意味ではかなり問題を抱えた意味が含まれる「劣等」

のどちらかである。どちらにしろ「劣等」は一般的で、曖昧で、そして「補助学校に通う」「特殊教育の対象である」という意味を含む「低能」よりも扱いやすい言葉であった。このような曖昧さと扱いやすさゆえに使いやすい言葉として、「劣等」というラベリングは定着していくことになる[115]

 

 

社会学的考察と結論

6−1 社会の近代化または近代化論と本論の事例との比較検討

これまでの変化を社会学的に考察してみよう。まずはマクロな社会の近代化とこれらの事例がどのように関わるかを考察しよう。

近代化の流れにおいて、「年齢」が重要な概念となっていくことに関してはアメリカ社会の近代化において、明らかにしたチュダコフ(1994)の研究がある。チュダコフはアメリカ社会を対象として、年齢意識と年齢による行動や慣行の段階づけは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて発生したと主張する。この時期は、科学、産業、交通機関、メディアの発達が革命的な影響を与えた時期でもあり、またそれまでの時代では不可能であった広く大衆にまでこのような規範を広めることに成功した時代でもあるとも述べている。

 

「能率と生産性を重視するようになった結果、人間の生活と環境に秩序と予測可能性を与える手段として計測値の数量的表現を強調するようになった。科学者や技術者や企業経営者は、専門家と専門知識を適用することで制度と管理を目指した。同じ努力が制度や人間活動に適用されて生まれたのが学校であり、医療であり、社会組織であり、余暇である。合理性と計測への弾みには、正確な理解と分析を促進する整然たるカテゴリーの確立が含まれている。こうした分類化の過程において、年齢は際立った基準になるのだ。」[116]

 

  このように、チュダコフは近代化の過程において、年齢が「官僚的見地」から有効な分類のカテゴリーとして、位置づけられると主張する。だが、実はチュダコフの論旨には「官僚的見地」に関する言及は行われていない。あえて社会学的にこの言葉を考察するならば、当時の時代認識としても論じられているウェーバー的な意味で把握されるのではなかろうか。

ウェーバーは近代化を官僚制化でもあると見なしていた。それは組織の「大規模化」であり、作業の「文書化」であり、「非人間化」である。このような近代化の過程の中で大きな役割を果たした学校教育はこれまでの教育制度と比較しても官僚化の最たるものであった。国民統合の機関にまでつながる大規模な組織であり、日本で言えば、文部省であるような官僚制組織が中枢部を担っていた。このような特性はアメリカ社会の学校も保持していたのであろう。チュダコフが「官僚的見地」から年齢が有効な分類のカテゴリーとして機能し始めたと論じる最初の分野は教育と医療である[117]。この分類のカテゴリーとなった年齢はその後、近代化の過程における管理において、基準となった年齢が、やがて規範となり、「年相応」という行動様式を作り出すことになる。

我々が見てきた過程もこのような過程であった。「学級」が「学年」で編成されるようになった。その中で「年相応」に教えられる内容というものも明確化されていった。ビネー・シモン法はそれまでの「実質年齢」があってから、「知能年齢」が定められるという形から考案されたものであったが、この試験法が開発されたことによって、「智能年齢」に「実質年齢」をあてはめていく倒錯へと我々は入っていくことになったのである。近代化の中で大規模な組織による運営が迫られる中で、「年齢」というのをある一定の基準としてどれだけ重要視しているかはこの考察を通じても明らかになったであろう。また実際に現在の教育問題を考察する上でもこの年齢とその発達段階を自明視するかしないかという点は大きく見方を変えることが出来るだろう。現在は年齢で一括りするから、優劣が発生するのであり、そうでなければこのような優劣は発生しない。今でも例えば、学校教育以外の場での音楽では何歳でこの段階をこなすというものはない。たとえ年齢に差があったとしても、技術のあることが認められる条件である。集団が形成されても、年齢との比較によって優劣の評価はなされるものではない。

それに対して、学校教育は年齢によって集団を分け、階梯上に評価を定めていくのである。また当時はその負の役割も指摘されながらも、落第が存在していたのである。この若干ながら、落第を残したということは年齢集団を分けながらも、そこからこぼれる可能性がある。また万が一、こぼれた場合は追いつく機会の方はなかなかなかった。このような状況下で、自分の属していた年齢集団から落ちこぼれた児童個々は、「劣等」であるという意識を植え付ける可能性は個人的な教育の行われた等級制度の頃よりも高かったはずである。教師もこのような可能性をより理解し、それを避けようという努力がなされていたことはここまで見てきた通りだったが、その努力とは裏腹に学校というのが年齢規範を強化する装置として、日本においても重要な役割を占めたことがわかるであろう。

 

また、年齢意識、年齢規範の浸透とも関係のあるのが、近代的な時間意識の浸透が挙げられる。学校と言う組織は「速さ」を身につけさせる組織でもあった。その点は「遅鈍」が「劣等」の問題化の最も大きな契機であった点から考えても、明らかである。「一定の生活の速度は一定の生活の型を要求するはずである。」[118]という指摘にも顕われるように、近代化の中で我々は無意識に一定の速度を要求されてきたのである。それがスタートの時点ではどれだけ難しかったのかという点は今回の「劣等」の「問題化」においても繰り返し見られてきた。このような「遅い」ということが一緒の作業を行なわせる上でどれだけ負担であるか、それを実感したがゆえに、優劣の「劣」の側が定まってきたのであるが、この「一定の生活の速度」の要求は、早熟に対する批判でもあった。一斉授業である速度を要求するということはそれよりもきわめて「速い(または早い)」ことに対しても寛容ではいられなくなったのである[119]。ただ、この点もすでに指摘されている点なので、以上のように学校教育が大規模な集団化した過程は時間意識の浸透とも関わっていたという点の確認にとどめよう。

 

6−2 構築主義的な分析によって明らかにされたこととその考察

本論では構築主義的な分析によって、問題化される契機というのを見てきた。その中で、「劣等」や「低能」が構築される問題の中で曖昧さを残して使用されることによって、単純に何にでも結び付けられるような意味合いでも使われてきた(本事例で言えば、とりわけ「劣等」がそうである)ことも見てきた。確かに最初は曖昧な言葉で語るしかない。そして、我々は言語は曖昧だから、使用できるという点もある。だが、その曖昧さについて問い掛ける姿勢が必要である。そのような議論が行なわれていくことは、ましてや社会問題として語る場合、政策問題として語る場合、研究していく場合、このような場合において、言葉の曖昧さや両義性を残す場合、我々はある一つの紋切り型の言葉によって、対象や問題を矮小化してはならない。

現在の問題との関連においていえば、「基礎を徹底させる新学習指導要領を施行させることによって、できない子や落ちこぼれはいなくなる」という主張がある。本当にそうなのだろうか。我々が「劣等」や「低能」という言葉を通じてみてきた作業は現在の様々な学校教育の前提がむしろこのような問題を構築させているのであることがわかった。学年、学級、一斉授業そのようなものと「できない」ということが無関係でないことを改めて確認してきた。

 

このように考えた場合、構築主義的な分析を政策に生かす方法が考案できるのではないだろうか。我々は構築主義的な方法を徹底させることによって、問題になる状況がどのような状況であるのかという点を詳細に調査、考察した。そのような作業を経たからこそ、問題にならない状況がどのようであるのかも見ていくことができるのである。我々は問題という言葉も負のニュアンスとして一義的に解釈してはならない。このような作業を経るからこそ、もう一つの問いかけが可能になる。まず、問題にならない状況では、どのような別の問題が生まれてくるのかという点である。そして、また問題になった状況と問題にならなかった状況では人々にとってどちらがよかったのかを政策担当者は見ていくべきである。もちろん、一律に一方がよかったと決め付けられる問題ではない。一長一短ある問題である。だが、そのような視点を切り開く作業こそ、この研究方法は可能にするのではないか。

この点を本論に即して考えてみよう。我々は「優劣」とりわけ「劣等」が問題になる状況がどのようなものかを見てきた。繰り返しになるが、制度的前提としては「学年」や「学級」ができることであり、「一斉授業」が行われることにあった。就学率の上昇によって、様々な階層の児童が学校に通ったことも見落としてはいけない。このような過程を経ることによって、それまでの個人主義的な習熟度を問題とする等級制度下の教育から、集団中心の教育へと変化していき、その結果、集団中心であるがゆえに、その集団からの逸脱が問題視されるようになったことを確認してきた。

それでは問題視される前の状況はどうであっただろうか。単級で教授が行われていた時代の教育実践の難しさ、習熟度の低さはこれまで見てきた通りである。それでは等級制度はどのようであったのだろうか。等級制度下では学校の維持存続の面でのコストの点で、それを維持することはできなかった。もし、充分な教員と施設を確保した上で(例えば、現在、教室や教員が余り始めた現在ではそのようなことも可能であろう)、等級制度を導入したらどうなるのか。そのシナリオについても、歴史はすでに物語っている。例えば、年齢範囲の中での優劣が問われなくなれば、劣等のラベリングを初期の段階でされたとしても、それは年齢とは別の個々の能力差に還元される。その場合と学年制度の場合とどちらが「劣等」の意識を持たずにすむか。その点では等級制度の方が「劣等」の意識を持たずにすむのではないかというのは、本論でこれまで見てきたものである。しかし、一方で、等級によって、原級留置や落第の制度があれば、そのような結果となった児童は学校に居づらくなるだろうし[120]、飛び級があれば、新たな優劣の指標を生むことも予測できよう。

このように視点を増やし、選択肢を増やしながら、政策は企画されていくべきである。「できる子」「できない子」という現代の問題は、明治、大正期に「劣等児・低能児」問題を抱えたことでもわかるように多様な選択肢の中から、一つを選び出した結果としてある問題が生まれたのである。それに対する対処の方法は一元的な方法で解決する訳ではない。このような多様な要因が加味されているのである。社会学のようにきわめて多様な視点を提供できる学問から問題を論じるときはこのような視点から、単純な言説を分析していくことが可能であり、そのことこそ、なさなければならないのである。

 

  結論として述べることは、あと一つである。我々は問題意識がなければ、問題は把握できないということである。劣等や低能に関する問題がすでに研究されていたとしても、それを摂取するためには問題意識が必要であったこと、また問題意識があったゆえにビネー・シモン法は驚くほど早く導入された点は今まで見てきた通りである。構築主義はつねに注目している「クレイム申し立て」

には多くの要因、契機が必要なのであるが、最終的に何が重要であるかといえば、その「クレイム」を申し立てる行為である。「劣等児」と呼ばれなくたって、勉強のできない者は常に存在するし、できる者も常に存在する。問題が「問題」として発生する前から、すでにそのように存在していることは多いのである。問題はそれにいかに気づくかである。気づけばそこから芋蔓式で情報を入手し、実態を観察することは可能であるが、気づかなければそのままである。そのままであることは当人達にとっても幸せであるかもしれないが、もしかしたら、不幸せであるかもしれないのである。しかし、気づいて言語化可能になることは人を楽にすることの方が多いであろうし、そうであると信じたい。だから、研究や調査を志すものは常にこの問題意識に敏感でなければならない。いや、このことは社会生活を営む上で誰にとっても敏感であって欲しい。自分への自戒も込めて、このことを改めて確認した上で、これを卒業論文として締めくくりたい。

 

 

参考文献(言及した文献のみを掲載)

天野郁夫「初等義務教育の制度化−ウェステージの視点から」『教育と近代化』(1997)所収

赤川学『セクシュアリティの歴史社会学』(1999 勁草書房)

稲垣忠彦『明治教授理論史研究』増補版(1995 評論社)

梅根悟、海老原治善、中野光『資料 日本教育実践史1』(1979 三省堂)

大泉溥「近代日本の心理学に関する問題史的考察(1)」『日本福祉大学研究紀要第71号第二分冊』(1987)所収

尾木直樹『子供の危機をどう見るか』(2000 岩波書店)

片岡徳雄「「教授」法と「学習」法の人間関係」『学習集団の構造』(1979 黎明書房)所収

片桐芳雄「優等生の社会史」(1995a)『叢書<産む・育てる・教える−匿名の教育史>5 社会規範−タブーと褒賞』所収

片桐芳雄(1995b)「日本における「個性」と教育・素描」森田尚人、藤田英典、黒崎勲、片桐芳雄、佐藤学編教育学年報4『個性という幻想』所収

苅谷剛彦、濱名陽子、木村涼子、酒井朗『教育の社会学』(2000 有斐閣)

国立教育研究所編刊『日本近代教育百年史3巻学校教育(1)、4巻学校教育(2)、5巻学校教育(3)』(1974

桜井哲夫『不良少年』(1997 筑摩書房)

佐藤秀夫「明治期における「学級」の成立過程」『教育』(19706月号 国土社)所収

佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』(1987

佐藤学「「個性化」幻想の成立」(1995)森田尚人、藤田英典、黒崎勲、片桐芳雄、佐藤学編教育学年報4『個性という幻想』所収

佐藤学「学校という装置」『越境する知4 装置:壊し築く』(2000 東京大学出版会)所収

志村廣明『学級経営の歴史』(1994三省堂)

下川耿史、家庭総合研究会編『明治・大正家庭史年表』(2000 河出書房新社)

大門正克『民衆の教育経験』(2000 青木書店)

戸崎敬子『特別学級史研究』(1993 多賀出版)

中野光、志村鏡一郎編『教育思想史』(1978 有斐閣)

濱名陽子「我が国における『学級制』の成立と学級の実態の変化に関する研究」『教育社会学研究』第38集(1983)所収

Howard P. Chudacoff  ”HOW OLD ARE YOU?  Age Consciousness in American Culture” (1989 by Princeton University press)(邦訳工藤政司、藤田栄祐訳『年齢意識の社会学』(1994 法政大学出版会))

土方苑子「『文部省年報』就学率の再検討」(1987)『教育学研究』544巻所収

広田照幸『教育言説の歴史社会学』(2000 名古屋大学出版会)

真木悠介『時間の比較社会学』(1997 岩波書店)

溝口謙三「学習集団としての学級の成立過程」(1953)『山形大学紀要(教育科学)第一巻第二号』所収

宮坂哲文「日本における学級経営の歴史」(1975)『宮坂哲文著作集第V巻』所収

文部省内教育史編纂会『明治以降 教育制度発達史』(1939

山本敏子「明治期・大正前期の心理学と教育(学)」(1987)東京大学教育学部教育哲学・教育史研究室『研究室紀要』第13号所収

『教育報知』『児童研究』の各雑誌

 

巻末表1


巻末図1



[1] 以下の『児童研究』の位置づけに関する記述は赤川(1999399頁を参考にした。

[2] 具体的な名前を挙げれば、高島平三郎、富士川遊、三田谷啓、三宅鉱一といった当時、児童学、児童心理学、精神病理学、医学等の分野の研究者達である。

[3] この時期を設定した理由は波多野完治の1935年における次のような指摘を参考にした。

 「児童研究が最近再び盛んになつて来た様である。日本には今まで児童研究の盛な時代が二度あつた。それは明治30年代と大正5、6年以後の数年間であるが、この二つの時代の児童研究熱がいかに旺盛なものであつたかは当時の文書をしらべながら感慨にたえないものである。」(波多野完治『子どもとはどんなものか』(1935、刀江書房)、引用に当たり、山本(198792頁を参考にした。山本はこの指摘を手がかりにこの二つの時代の心理学と教育について山本(1987)で論じている。

[4] この研究を基礎資料として依拠した論文は多数見られる。例えば、濱名(1983)参照。

[5] 学級、学年の制度的成立の俯瞰に関しては、溝口(1953)、佐藤(1970)、宮坂(1975)、濱名(1983)、志村(1994)、佐藤(2000)などを参照。学級経営の問題は、この中でも特に宮坂(1975)、志村(1994)、佐藤(2000)などを参照とした。

[6] 近年、このような要求に応えて佐藤達哉、溝口元編著『通史 日本の心理学』(北大路書房1997)のように、心理学全体の通史が描かれるようになった。しかし、教育史のような形で微細な問題まで分け入った形の心理学史という営みはまだ手が付けられていない状態にある。

[7] また本研究の調査対象とした教育関係の雑誌『教育報知』と『児童研究』はすべて復刻版が刊行されているが、『児童研究』のみ解題や別巻解説資料の存在を確かめることができなかった。この点も学問分野における歴史的資料の分析への関心の差が生まれているのではないかと思われる。

[8] 構築主義の立場を一貫させることは、厳密な方法論の問題から言えば、人々が問題だとする状態や内容に対する評価に無関心な態度を取ることが求められる。本論でもそのような立場を取ることには留意したが、批判的考察が評価に無関心な態度とは相反するものであるようにも見えるかもしれない。しかし、それは記述の結果、論理的に導かれたことについて記述したに過ぎない。批判を覚悟で敢えて言えば、その問題に対してコミットメントする限り、どのような手法を取るにしろ、人はその問題に対する評価に完全なる無関心を突き通せるはずはない。その点で、本論の記述は構築主義の立場を取ったと主張して問題のあるものではないと考える。またこのような構築主義に関する記述は苅谷、濱名、木村、酒井(200066頁を特に参考にした。

[9] 網羅しているわけではないが、このような先行研究の紹介としては広田(2000)の1頁から19頁に詳しい。

[10] しかし、一方で、このような手法に関する問題点についても論じられている。例えば、「近代の産物」であるというような新たな物語の形式に陥っているという点や現在の問題を解決する上での政策的有効性を持ち得ないという点である。このような点は広田(2000)の5頁から10頁で議論されている。本論もこのような問題点を充分に意識した上で、記述は試みている。

[11] 本論では、1886年に出された小学校令を第一次と考え、後の1890年に出された改正小学校令を第二次小学校令、1900年に出された改正小学校令を第三次小学校令として表記を統一している。

[12] 「学級」の位置づけに関する研究としては、溝口(1953)、佐藤(1970)、濱名(1983)、志村(1994)、佐藤(2000)が詳しい。

[13] 福沢諭吉著「学問のすすめ」日本の名著33『福沢諭吉』所収、51頁より参照

[14] 濱名(1983148,149頁参照

[15] 佐藤(2000268頁参照。但し佐藤は寺子屋や藩校と学制下における学校との大きな違いは「科目と等級制および等級制による試験」の導入であると指摘している。

[16]  前掲の国立教育研究所編『日本近代教育百年史 4学校教育(2)』によると、一斉教授法の採用は187312月に刊行された師範学校初代の校長諸葛信澄著『小学教師必携』にはじめて現われる。この本は師範学校の教授法を最もよく代表し、その後長く全国の小学校教授の模範書となったと前掲書は指摘する。また佐藤(2000)では、一斉授業の紹介とは矛盾する「等級」の序列化に関する記述があることも指摘されている。佐藤(2000275頁参照のこと。

[17] 国立教育研究所編『日本近代教育百年史 3学校教育(1)』997頁参照。ただし、このように上位等級の生徒がきわめて少ない状況によって、ピラミッド型になっていた等級構成は学校規模の拡大によって、徐々に梯子型に変化したという指摘もある。このような指摘に関しては稲垣(199537頁を参照のこと。

[18] 稲垣(199538頁参照

[19] 志村(19941頁から3頁参照

[20] 国立教育研究所編『日本近代教育百年史 4学校教育(2)』57頁参照

[21] これに関して付言すれば、あくまで第二次小学校令は変動の中にあったという位置づけである。実質的に学校がこのような集団性や近代的な組織性を帯びてくるのは第三次小学校令以降である。この事に関しては国立教育研究所前掲書や佐藤(2000)を参照のこと。

[22] このような主張は溝口(1953)を参照。溝口(1953)学級の成立過程を就学者数の増大によって、大規模な集団性が、学校の根本的特質となり、必然的にこのような教育の集団化が、教授単位、学習単位の下位集団を必要としたこと、そしてその結果、学校集団の内部に単位集団としての学級が成立するようになったと指摘する。そして、溝口(1953)はこの変化の要因を第二次小学校令と前後する時期の上記のような学校教育の集団化、大規模化と教育の経済化、能率化にあったと指摘する。

[23] この教育実践上のメリットは、文部当局者達が安価に教育を普及させる手段としたものを、実際の単級学校実践を指導した人々の間から教育上の意義が付け加えられたという指摘もある。前掲書153頁参照のこと。(下線は相澤)

[24] 国立教育研究所編『日本近代教育百年史 4学校教育(2)』154頁、155頁参照

[25] 前掲書59頁参照

[26] ここで複数学年という形で学年について言及したが、「学年」の成立は概念的には「学級」の後ということになった。このことに関しては第三次小学校令以降の変化のところで考察している。4−5以降を参照のこと。

[27] 槇山栄次(1892)「単級教授ト合級教授トノ別」『教育報知』第3004頁より

[28] 尾木(200020頁より

[29] 三楽天民「一日参看紀行」『教育報知』第2977頁より。また引用にあたり志村(19944頁を参照した。

[30] 川口孫治郎、宮本孫太郎(1895)「単級教授法」『教育報知』5005頁より

[31] 以後、この説で論じる実践のあり方は複数級を含んだ多級における教育実践も含んでいる。まとめて言ってしまえば、複式授業のあり方についての議論を整理している。

[32] 勝田松太郎「高等師範学校附属学校単級教場報告」(1892)『教育報知』30611頁より。なおこの記事について付言すれば、この報告は「当単級教場ハ貧民ノ子弟ヲ集メテ単級教授ノ方法ヲ研究シ兼テ本校生徒ヲシテ単級教授法ヲ練習セシムル所トス」と述べられており、貧困家庭の子弟を教授の中心に据えていたことが推測される。

[33] 同上書同頁より。

[34] 同上書同頁より。

[35] 例えば、雑誌『教育報知』にはそのような「擾乱」状態を沈めるために、「教室ノ擾乱セルヲ恢復スル方法」と題し、様々な方法が議論されている。教育報知(1891から1892)第266号、268号、269号、272号、274号、277号、283号、295号、308号等を参照。

[36] 沢柳については多くの言及がなされているが、本論では中野、志村(1978)の140頁、146頁を参照した。

[37] 沢柳政太郎(1902)「改正小学校令及施行規則実施の結果に就いて」より。引用にあたり、梅根、海老原、中野(1979177頁を参照。

[38] これに関しては稲垣(1995)、特に193頁から207頁を参照のこと。稲垣はこの時期からすでに「公教授形態は、オフィシャルなネット・ワークを通じて、その形成と同時に、急速な浸透をもたらしたのである。」と論じるが、この浸透がそのような「オフィシャルな」ルートで行われる限り、限界があることは下記表にも示した正教員の割合から見ても、明らかであろう。

[39] 「単級ノ編制(二)」(1892)『教育報知』第31614頁より。

[40] 沢柳(1902)前掲と同じ引用。176頁を参照。

[41] 表で使用した統計資料に寄れば、正教員の割合が8割代に突入するのは大正14年のことであり、厳密に記せば、大正の後半には8割台に入っている。

[42] なお、付言すれば、必ずしも単級学校は批判にさらされていたばかりではない。例えば、宮坂(1975)において、加納友市が『尋常高等単級学校教育』(1879)において単級学校論を展開し、その後も加納が単級学校の長所と多級学校の短所を挙げて単級学校を支持し続けていた。子のことに関しては宮坂(1975253頁から255頁参照。

[43] 本論では後半の問題との関連において、学年や進級制度の変化と就学督促の強化に焦点を当てて論じているが、佐藤(2000)では、この第三次小学校令が社会の学校化に向けて大きな変化の契機となったことを論じている。具体的には、教育の内容と制度を詳細に規定し、均質化したこと、学校建築、行事に関する法令も合わせて定まったことなどを挙げている。この点は佐藤(2000276頁参照のこと。

[44] 濱名(1983151,152頁、参照

[45] 佐藤(2000276頁参照

[46] 川口孫治郎、宮本孫太郎(1895)「単級教授法」『教育報知』5005頁より。下線は川口、宮本が付した傍点である。

[47] これがストレートに全員の就学に結びついたかに関しては異論もある。文部統計上の問題を捉えた土方(1987)の研究や学校に残る一次史料から検討した大門(2000)の研究がある。例えば、大門(200016頁、17頁を参照のこと。ただし、学級数の検討において、明らかにされるように、第三次小学校令以降、単級学校が減ったことと学級数の増加とが合わせて語られている点に本論では注目し、それによって学年別学級と一斉授業が成立していく点に本論では注目している。

[48] 「第三次小学校令第五十七条」より。引用にあたり、梅根、海老原、中野(1979175頁を参照した。

[49] この当時であっても、完全なる就学に至らなかったという指摘はいくつかの研究でなされている。例えば、大門(2000)序章、第一章を参照のこと。

[50] このような「ヘルバルト主義」を基礎とした定型化した教授が第三次小学校令下において突然、現われたものではなく、明治十年代後半から明治二十年代前半にかけて正統的な地位を占めた「開発主義」教授法から、後に摂取され、そして変容した「ヘルバルト主義」へと二十年代後半において移行していく過程は稲垣(1995115頁から184頁において述べられている。本論では問題の構築における契機として、稲垣(1995)で主に論じている明治三十年代以降に浸透、普及する「ヘルバルト主義」の教授実践に取りたてて注目している。

[51] そのような実態の具体例に関しては稲垣(1995243頁から296頁に詳しい。

[52] 片岡(1979206頁から215頁を参照のこと。

[53] これが定型の「弊」に陥った教授法と認識され、大正時代には「自由教育」の名の下に様々な実践が試みられることとなる。このことに関しては教育史の通説として多くの文献に言及があれば、本論と通じる問題意識で組み立てられたものとしては相澤「学校空間という存在」『小熊研究会論文集』(2000 湘南藤沢学会)がある。

[54] 天野(199762頁から63頁参照。この部分で天野は雇用によって、就学を妨げることはできないということ定めた第三次小学校令第35条の規定を取り上げることによって、当時、こうした労働のために教育を受けることができない学齢児童が無視し得ない数、存在したことを明らかにしている。

[55] 大門(2000)はこのような児童が「本人を要す」という言葉で就学が免除されていた実態を明らかにしている。もちろん、これに対して役場や首長が就学督励を行なっていたことも明らかにしている。この点に関しては33頁から36頁を参照のこと。

[56] 和田伊太郎「算術科ニ於ル全級中三分一ノ劣等アルトキ全級生徒ノ力ヲ平均セシムル方法」(1892)『教育報知』3105頁より

[57] 古川澄「多人数ノ級ヲ各組ニ分ツトキ上半下半ニ分ツト奇偶ニテ分ツトノ利害」(1892)『教育報知』3068頁より

[58] このことに関しては天野(199763頁から65頁参照のこと。

[59] 例えば、戸崎(1993151頁から174頁参照のこと。

[60] 戸崎前掲書19頁を参照。

[61] 例えば、戸崎前掲書38頁を参照のこと。

[62] 『児童研究』第1043頁「低能児童と特別教授」より、下線は相澤。

[63] 「劣等なる児童に就きて」(1889)『児童研究』第3巻第419頁より

[64] 樋口かね子「遅鈍児教授の経験に就きて」『児童研究』第5巻第115頁より。以下、同と示すものは同じ史料からの引用を示す。

[65] 「教師中心の専制的な一斉授業」に関しては片岡(1979206頁から215頁を参照のこと。「ある一定の方向性を志向する問答式の授業」は例えば、稲垣(1995262頁から275頁を参照のこと。

[66] また当時、東京高等師範附属小学校に1908年(明治41年)に設置された特別学級において、低能児童の中でも、更にその程度の著しい「イムベシル(軽白痴)」に近いものを扱った教授が行われたという指摘がある。これに関しては戸崎(199345頁から50頁参照。

[67] 文脈上、「異常」のミスではないかという疑いも持ったが、史料のまま記載した。

[68] 史料中では、岩内によって「雑」と示されている。

[69] 岩内によって「この中には著しく大、または小や稍大、稍小といふもの共に算入す」という断り書きがある。

[70] 著るしくといふものと稍といふものと共に算入す

[71] 『児童研究』第10巻第218頁から22頁より列挙した。

[72] 前後文脈から推測すると、「。」であると思われる。

[73] 下川(2000)によると、1923年(大正12年)に平井毓太郎が小児の脳膜炎を母親の白粉による鉛中毒と証明したという記述(466頁参照)がある。脳膜炎と「劣等」の関わり方についても更に考察が必要であるが、この証明が行われた結果、このような事例がどのように変化していくかは今後の研究の課題となろう。

[74] 算入した一例として「中に父の薄待によりてといふものあり」という記述がある。

[75] 算入した一例として「母肉を食せず注意せさりし故心身共に不十分といふものあり」という記述がある。

[76] 算入した一例に「中に耳漏○(ママ)頭部大腺病にして少くし聾鼻汁をたれ三四年迄病めりといふものあり」という記述がある。

[77] この分野に限らず、雑誌『児童研究』では欧米の研究成果を紹介する「摘録」の部門がこの後、発達し、盛んに研究成果が摂取されている。

[78] この主張の補助として、全く「劣等」という言葉が使われていなかった訳ではないということも示しておけば、次のような形で「劣等」という言葉が使用された記事もある。「近時、補助学校トイフモノ設ケテ、小学児童ノ精神能力ノ微弱ナルモノヲ特別ニ教育スベシトイフコト、教育家及ビ有識者ノ注意ヲ惹クニ至リテヨリ、独リ小学校ノミナラズ、高等ノ学校ニ於ケル学生ノ精神能力ノ劣等ナルモノモ亦、特別ノ学級ヲ設ケテ、コレヲ教育スルノ必要アリトノ説アリ。」(ゲー、ヒュツトネル述、富士川遊抄訳「高等学校ノ特別学級」第1250頁より、1909年)のような使い方である。この場合においては「小学児童」の「精神薄弱」、「学生」の「劣等」という形の対句の構造になっており、ほぼ「精神薄弱」と同意義で「劣等」という言葉が使用されている。このような劣等も含めて、劣等が当時、どのような意味を持ったかに関しては、後で考察している。ただ、このように欧米からの研究成果を導入した記事中における「劣等」という言葉を捜しても『児童研究』の中にもまず見当たらない。その点は改めて確認しておきたい。

[79] リーフエンハイメル述、富士川遊抄訳「成績不良ノ児童」(第1227頁)(1909年)。以下、これらの引用は雑誌名の断り書きがない限り全て雑誌『児童研究』を指す。また第12巻以降は頁数が通し番号で振られているため、号数は省略した。

[80] 「成績不良の児童」(第14200頁)(1911年)

[81] 引用箇所に関しては前掲に記載。

[82] 「補助学校」(第10729頁より)(1907年)

[83] 沢木伊重「伯林小学校ニ於ケル低能児ノ検査成績」(第12121頁より)(1909年)

[84] 「低能児」以外にこのような意味を示した言葉の例として「精神薄弱の児童」という言い方もある。例えば、シュレージンゲル述、富士川遊抄訳の「精神薄弱の児童」(第11巻第5号23頁、1908年)では、「補助学校の生徒(精神薄弱の児童)百三十八名に就きてその精神薄弱を致せる原因、及びその精神薄弱の度を増すべき調査し、その成績を、第七十八回独逸万有学士及医士会小児科部会に報告したり。」との記述がある。

[85] 樋口長市述(日本ノ小学教師第145号初出)、三田谷啓抄「低能児教育実験談」(第14245頁)(1911年)

[86] この部分の記述においては、戸崎(199345頁から50頁を参考とした。

[87] しかし、実際にはこの試みがうまくいかず、戸崎の言う「劣等児学級」つまり成績不良の児童を対象とした学級に後に移行していくことを戸崎前掲で指摘している。

[88]「補助学校設立の急務」(第19346頁)(1916年)

[89] 『児童研究』第15巻6号187頁(1912年)参照にし、表は著者がそれを基にして作成した。

[90] この3%という人数は現在との統計的比較が可能である。現在、特殊教育自体を対象とする学校と学校教育法第75条において定められた普通学校において営まれる特殊学級に通う児童を合計すれば、約1%となる。この人数のずれがどのような点にあるのかということに関する検討は今後の課題ともなろう。

参考  現在の学校教育法75

@     小学校、中学校及び高等学校には、次の各号の一に該当する児童及び生徒のために、特殊学級を置くことができる。

精神薄弱者、二 肢体不自由者、三 身体虚弱者、四 弱視者、五 難聴者、六 その他心身に故障のある者で、特殊学級において教育を行なうことが適当なもの

@     前項に掲げる学校は、疾病により療養中の児童及び生徒に対して、特殊学級を設け、又は教員を派遣して、教育を行なうことが出来る。

[91] 引用は前掲同上書と同じ。

[92] 脇田良吉「教育上より観たる児童の分類」(第11巻第611頁)(1908年)

[93] 脇田良吉「低能児教育の実験談」(第14360頁より)(1911年)

[94] チーヘン述、ドクトル富士川遊抄訳「精神病性児童及ビ精神薄弱児童ノ性欲異常」(第14212頁)(1911年)

[95] 三宅鉱一「病的魯鈍者ニ就テ」(第14336頁)(1911年)(初出は教育学術界第23巻第2号)

[96] 石川貞吉「精神及び身体低格児童の保護」(第1840頁)(1915年)

[97] 同上前掲記事参照。

[98] 本論には取り込まなかったが、ドイツからの影響を受けながら、「精神薄弱」という総称の「通称語」が「低格」または「低能」であるとする本論の記述とは全く別の見解を取るものもある。桜井(199773頁、74頁を参照のこと。ただしこの桜井の見解は富士川の議論をどう整理することによって、明らかにしたかに関して明確でない。

[99] 括弧内の記述は省略。

[100] 上と同様に括弧内の記述は省略。

[101] 原口つる子「精神薄弱児の心理学的研究」(第16139頁)(1913年)

[102] 川田貞治郎「米国に於ける精神薄弱児の研究」(第2057頁)(1917年)。この記事は在米の時に書かれたことが記載されている。また、Institationという用語は本文そのままの記載であるが、その正誤は確認していない。

[103] 付言すれば、前掲した脇田の記事もそのような視点に位置付けることも可能であろう。

[104] 「初学年の生徒の智力検査」(第12116頁より)(1909年)

[105] 「劣等生の心身現状調査」(児童研究第10巻第10号)(1907年)この記事は先述した「劣等児教育の方法」に関する調査方法について論じた記事である。

[106] チュダコフ(1994110頁を参照。

[107] 蠣瀬彦蔵「異常児ノ精神試験」(第1585頁より)(1912年)(初出は教育学術界第23巻第3号)

[108] この点に関して、引用史料のビネー・シモン法の評価における二の部分の前者がビネーの方法と観察法のどちらを指すかは文脈上、不明である。実験に関する資料もそれほど詳しくないため、どちらであるかは判断がつかなかった。この点に関する正確性を指摘できれば、ご教示頂きたい。

[109] 例えば、榊保三郎「小学校児童精神能力測定調査成績」(第1495頁から)(1911年)を参照のこと。

[110] この点に関してはチュダコフ(1994111頁を参照。

[111] このビネー・シモン法を具体的に導入した検査の例として、渡邊耕治「児童智力検査成績」(第19277頁から)(1916年)がある。

[112] 以下の引用は断りがあるまで、野上俊夫「優等児童ニ就イテ」(第1346頁より)(1910年)

[113] 榊保三郎「小学校児童精神能力測定調査成績」(第1496頁)(1911年)

[114] 柴崎壽松「育児院に於ける異常児学級」(第21105頁)(1918年)(初出は日本児童学会第12回総会演説)

[115] このような形で「劣等」のラベリングが逸脱行動と結びついたことを報告する研究は『児童研究』の中でも見られる。例えば、第17241頁からは「在姫路陸軍懲治隊懲治卒ノ精神状態視察報告書」といった形で「劣等」と逸脱行動の例が取り上げられている。しかし、このような事例を詳細に分析していくためには、新たに「不良」という概念についても、これまで「劣等」や「低能」に関して行なってきたことと同様の考察を試みなければならない。このような作業は「優劣」に関して考察する本論の範囲外の作業である。改めて論じる機会があったら、論じたい。

[116] チュダコフ(1989)の邦訳(19944頁より。

[117] チュダコフ前掲書39頁を参照のこと。

[118] 真木(1997285頁を参照。下線は真木が付した傍点である。

[119] この点は本論内でそれほど言及することが出来なかったので、この程度にとどめる。いずれ論じる機会があったら、論じたい。

[120] 雑誌『児童研究』においてもこのような記事があるが、具体的な研究例としては戸崎(199379頁から133頁を参照のこと。


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