2000年度卒業論文

 

 

 

短期大学のジェンダー化 〜その変遷と現状

 

総合政策学部4年 79710449

渡辺大輔

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Abstract

 「男子は四大、女子は短大」という高等教育のジェンダー的水路分けは、日本特有のものである。この構図は高度経済成長期に確立し、現在まで維持されている。本研究は、この短期大学のジェンダー化(性差の固定化)の変遷と維持について、特に短期大学の資格教育に注目しつつ考察し、資格教育の背後にひそむ良妻賢母思想によって資格自体がジェンダー化されており、それが短期大学のジェンダー化の維持・再生産につながっていることを示す。

 なお、本研究の分析には教育社会学とジェンダー論を融合した理論を用いる。

 

 

 

 

Key Word.

1.短期大学 2.ジェンダー 3.資格

4.葛藤理論、再生産論 5.良妻賢母

 

 

 


目次

序章.. 3

第1章 選抜の構図 〜教育社会学的知見から... 4

第1節 資格社会の発見と分析... 4

第2節 ニューアプローチ... 6

第3節 再生産と社会閉鎖... 8

第4節 諸理論の関係... 11

第2章 ジェンダー... 12

第1節 ジェンダー概念... 12

第2節 ジェンダーを用いる意義... 14

第3章 ジェンダーと選抜... 16

第1節 階級・階層としてのジェンダー... 16

第2節 葛藤理論の再検討... 17

第2部 短期大学のジェンダー化.. 19

第4章 短期大学史... 19

第1節 短期大学の現状... 19

第2節 短期大学の発足 成立期(1940年代後半〜1950年代前半)... 20

第3節 高度経済成長と良妻賢母志向 成長期(1950年代中頃〜1960年代中頃)... 24

第4節 性格の変化 変質期(1960年代中頃〜1970年代)... 27

第5節 淘汰の時代へ 退潮期(1980年代後半〜現在)... 29

第5章 短期大学と資格... 32

第1節 資格とは何か... 32

第2節 短期大学の資格教育... 33

第3節 秘書教育... 36

第4節 資格とジェンダー... 38

第6章 短期大学と女性化... 40

終章 ジェンダー的公正.. 42

参考文献.. 43


序章

 「短期大学にどういうイメージを持っていますか?」

 このように問われたら、どう応えるだろうか。女子短大であるとか、女性向けの期間が短い大学であるといった「女性が集中」していることを指摘する答えを返す人も多いのではないか。

 「ジェンダー化 gendered」という概念がある。ジェンダー化とは、性差が固定化されている状態を指す。「〜〜は男性向け」であるとか「〜〜は女性用の」といった表現が常に用いられるようになる状態を「ジェンダー化」と表現する。

 この概念を用いると、短期大学はジェンダー化しているといってもよいだろう。しかし、短期大学は戦後に発足した当初から、常に女性向けの大学であるとか花嫁養成学校であるといった語られ方がしていたわけではない。そもそも短期大学の発足当初は、男子学生のほうが多く通っていたのである。それでは、短期大学はなぜジェンダー化したのか。そして、なぜその状況は現在まで変わっていないのだろうか。そして、その構造を維持するキー――短期大学の資格教育にあると考えている――は何であるのか。本論文はこの疑問に、教育社会学の理論やジェンダー概念などを用いることによって、答えることを試みるものである。

 本論文は2部構成をとる。第1部は分析視角の整理を目的とする。短期大学の社会における位置づけを把握するためには、短期大学への「選抜」機構が、何を根拠に、どのように配置されているのかを考察する必要がある。この「選抜」の構図のありかたを教育社会学の理論を用いて考察する。第2章では、「ジェンダー」概念を考察し、本研究において「ジェンダー」概念を導入する意義を説明する。第3章では前二章で行った議論の融合をはかる。「選抜」を考察した教育社会学の議論に「ジェンダー」をあてはめることはできるのか、またその理論的問題点はあるのか考察し、ジェンダー概念による“知”の組み替えを導入した教育社会学理論を提示する。

 第2部は、本論文の主目的である短期大学のジェンダー化の事例を、第1部で提起した分析視角を用いつつ記述してゆく。第4章では短期大学の制度と社会的受容の変遷を、発足から現状に至るまでみる。第5章では短期大学の資格教育の変遷を、個別的な資格を例に挙げつつ考察し、また資格とジェンダーの関係についても考察する。第6章では短期大学のジェンダー化の構造と意味を考える。短期大学がなぜ女性の大学であり続けているのか、その構造を明らかにする。第6章は、本論文の結論ともいえるものである。

 終章は、これまでの短期大学のジェンダー的側面を考察した上で、「ジェンダー的公正」という概念を導入し、短期大学の、ひいては社会全体構造のあるべき姿を論じることを試みる。第7章は分析ではなく、こうあるべきではないかという問題提起でもある。

 

なお、本研究の独自性は、ジェンダーの視点を加えた教育社会学の理論を用いて短期大学における資格の変遷と、それが持つ意味を考察したところにある。
第1部 分析視角

第1章 選抜の構図 〜教育社会学的知見から

 近代社会において、人々は常に評価のまなざしにさらされ、「選抜」される。学校内の試験、高校や大学など教育機関への受験、就職、企業内での評価。実に様々な場面において「選抜」されている。ここではあえて「選抜」という競争を意識した強い表現を用いているが、これは「評価」と言い換えてもよい。常に人々は、学校や企業などの組織や、教師や上司といった個人から「評価され」「選ばれて」いる。

 しかし、この常なる評価・選抜の全てが一様な意味あいを持たされているわけではない。例えば、日本では「一流の有名大学に入れば、いい企業に就職できる」といった言説が横行しているように、ある特定の学歴――この場合は学校歴ともいえる――を得るかどうか、その選抜が重要な意味合いを持ってくることが往々にしてある。この場合、経歴となる教育資格 educational credential[1] が選抜において重要な役割を占めていることになる。このように、ある資格や業績によって評価・選抜される資格社会ともいうべき構図の存在が、近代社会の一つの特徴である。

 また、このとき同時に語られる言説が自由競争の原則である。

 本章では、この「選抜の構図」を教育社会学の先行研究を用いつつ描き出してゆく。なお、特に第1、2節は竹内洋氏の一連の著作から大きな影響を受けた。そのことを、あらかじめ述べておく。

 

 

第1節 資格社会の発見と分析

 1950年代、イギリスの社会学者ヤングは主著『メリトクラシー(原題:The Rise of the Meritocracy)』において、血縁によって身分が決まり最上位階級である王や貴族によって支配される貴族社会から、メリット[2] ――学歴や功績――を持つ人々が社会を支配するようになる様を描いた。[3] ヤングのいうメリトクラシーとは、血縁ではなくメリットを評価・選抜の判断基準とする社会である。『メリトクラシー』の邦訳者である窪田・山元は後書きでメリトクラシーについて次のように述べている。

 

  意味するところは、教育制度として「英才教育制度、成績第一主義」、社会形態として「能力(実力)主義社会、効率主義社会、エリート社会」、政治形態として「エリート階級による支配、エリート政治」、主義・原理として「効率主義、能力主義、エリート支配原理」などである。[4]

 

 1950年代に、ヤングはメリットを持つ人々が社会を支配するようになったと論じたのであるが、注意しなければならない点は、能力主義とエリート支配原理の同居である。すなわち、「エリートは本当に能力を持っているのか」という疑問に突き当たるからである。換言すれば、エリートの指標となる学歴や功績が必ずしも能力とは一致しないのではないか、という疑問である。

 ともあれ、ヤングはメリットに注目することで、社会の支配基盤が血縁などの「属性」から能力に変わったと論じることによって、近代社会のメリトクラシー社会としての性質を暴き出したことには意義がある。

 なお、「メリトクラシー」という用語自体がさまざまな使われ方をしていることは、先ほど紹介したとおりである。本論文では学歴や資格という言説に注目する視点をとるため、メリトクラシーを次のように定義しておく。

  「過去のもしくは現在の学歴・資格による評価基準を支配的に扱う主義」

 この定義に基づいて、「メリトクラシー社会」という表現をすることを断っておく。

 

 それでは、先ほど提出された「学歴や功績と能力は一致するのか」という問題の考察に移ろう。

 アメリカの教育社会学者コリンズは、メリトクラシー社会[5] を説明するために機能理論的説明と、それと全く逆の葛藤理論的説明を行う。前者の機能理論的説明はパーソンズの構造−機能主義を教育社会学の地平におろしたものである。コリンズは産業化による技術 technology の進展と、職務に必要とされる能力について関係から、次のように説明する。

 

  (1)産業社会においては、技術的変化が原因となって、様々な職業の技能上の必要条件が常に上昇する。そして、ここには次のような二つの過程が含まれている。(a)技術水準の低い職業の割合が減少し、それに代わって技能水準の高い職業の割合が増加する。(b)たとえ同じ職業であっても、それに求められる技能水準が上昇する。(2)学校教育は、特定の技能という形であれ、また一般的能力という形であれ、これら技能的用件のより高い職業に必要な訓練を与えている。(3)その結果、就職時に求められる学歴水準は着実に高まり、ますます多くのものが、今まで以上に長い期間、学校で過ごすこととなる。[6]

 

 コリンズはこのような説明を、「技術的機能理論」と呼ぶ。技術的変化により複雑化した社会に適応するための能力を「学校が与え」、その能力を習得したものが社会的に上昇する。そのため能力の判断基準は、能力を与える学校に通った期間となり、すなわち学歴となる。この一見すると、自由競争モデルに見えるこの理論を証明するためには、血縁などの前近代的な属性と、教育的地位の対応が「逸脱」していることを示すこととなる。しかし逆をいえば、逸脱していない、すなわち前近代的な属性と教育的地位が対応している部分をみて、学校は「ただ単に業績主義を確認するだけのものではない」として、学校の属性主義を結論づけることも可能となる。[7] つまり、この議論は「教育は労働に必要な技能を学生に施し、技能は職業上の成功を規定する要因である、ということが一般に自明のこととされてきた」[8] 社会においてのみ成り立つのである。学校で学んだことと業績が一致することを証明することは難しく、この問題が解決されない限り、技術的機能理論では資格社会は説明しきれないとコリンズは断じる。

 

 コリンズがこの問題を解決するために持ち出してきた理論が、葛藤理論である。

 葛藤理論は、社会は様々な階級や身分を持った社会集団の利害闘争(葛藤)によって構成されている、というモデルの下にたつ。これは、これまでの支配集団がその支配力から社会における選別の基準――何を試験にするのか、どのような言語を使うのか――をある程度自由に決められるという認識に基づいている。当然ながら支配集団が自らの不利になる基準を設定するとは考え難く、被支配集団が評価・選別においてハンディキャップを負うことは容易に予想される。

 機能理論的な視点にたち、学校与えた能力が学歴や業績となり、それによって社会を支配できるという見方が表の見方であるとすれば、葛藤理論は裏からの見方である。学校は、「裏からみれば既存の支配集団が自分たちに有利に能力の定義をし、仲間で地位を独占(再生産)するための口実(正当化)であり社会統制装置」[9] となる。資格社会において支配を生み出す学歴や業績という一見無色透明な価値基準は、葛藤理論の視点に立つと、支配者集団が「普遍価値」と「規定した」ものであったといえる。

 コリンズは、この葛藤理論の視点から資格社会における「隠蔽された基準設定」の問題を次のように説明する。

 

  教育は特定集団への帰属(恐らくこれが決定的な特徴となることが多かろう)を証明するしるしみたいなもので、技術的技能とか業績を示すものではない。ある職業にどれだけの学歴水準を要求するかは、それを設定できるだけの権力を持った集団の利害関係を反映している。[10]

 

 葛藤理論は、メリトクラシー社会を「近代社会における試験と教育資格の時代の誕生を支配階級の排除戦略と被支配階級の奪取戦略の対立妥協の結果」[11] と位置づけているのである。

 

 以上、メリトクラシー社会を説明する二つの理論、(技術的)機能理論と葛藤理論を見てきた。ここで、当初の「学歴や業績と能力は一致するのか」という問いに戻ってみよう。この問いに対して機能理論は一致すると答えるし、葛藤理論は一致しないと答える。このような現象は当然起こり得る。なぜなら、この二つの理論はもともと基盤とする次元が違っているからである。機能理論は全てを抽象的かつ平等的にとらえている、言い換えれば理想的な近代の分析をしているのに対し、葛藤理論は社会的地位の階層化に注目し、階層間の権力関係が教育内容を規定し、その上での(けっして平等とはいえない)競争によって階層間の権力関係が再生産されていく様を分析しているからである。現実に階層間格差がある現在の社会を分析する理論としては、葛藤理論の方が優れているといってもよいだろう。

 

メリトクラシー社会における選抜は、決して万人平等な競争ではないということが示された。次節では、この葛藤理論の問題点を検証し、その問題点を克服する新しい理論を紹介する。また、第3節では「階層間の再生産」に注目し、その権力関係と構造をより深く考察する。

 

 

第2節 ニューアプローチ

 第1節で示した機能理論と葛藤理論の説明には、次の二つの問題点を指摘をすることができる。一つは、試験や資格取得による選抜は一度きりではなく、何度も行われるが、その関係性について説明されていないということ。実際に、例えば日本では中学受験、高校受験、大学受験、就職試験などいくつもの選抜が行われている。これは、他の社会にも言えることである。もう一つは、資格社会あるいはメリトクラシー社会はディレンマにあるということである。機能理論にしても葛藤理論にしても、選抜による格差の「正統化」機能が正常に作用していることを前提にしている。このとき、正統化されることによって利益を得る人間(選抜の勝者)は極一部であり、多数は利益を得ないか不利益を被る人間(選抜の敗者)となるにもかかわらず、なぜ万人がその結果を受け入れるのか。これは、選抜がある社会の構造的な問題であるとともに、非常に心理的な問題である。ブルデューは、この問題を前近代(旧システム)と比較しつつ次のように表現している。

 

  旧システムは明確に区切られて社会的アイデンティティを作り出そうとし、社会的夢想にはほとんど余地を残してくれなかったけれども、そうしたアイデンティティを持つために受け入れざるを得なかった断念がどうにも抗しがたいものであったがゆえに、それだけ心地よく安心できるものであった。ところがこれにたいして、新システムに見られる社会的アイデンティティとそこに当然の権利として含まれているさまざまな希望の表象の構造的不安定性とでも行ったものは、なんら個人に帰せられるべきところのない運動によって、行為者たちを社会的な危機(クリーズ)批判(クリティック)の場から個人的な批判と危機の場へと送り返すのである。[12]

 

 この「個人に帰せられるべきところのない運動」によって「エゴイスティックな剥奪」[13] による敗者の不満の爆発が起きないのはなぜなのか。資格社会は、多数の敗者をうむディレンマにあるのにも関わらず、なぜ成立するのか。

 この二つの疑問に、増幅効果論と冷却・再加熱論を用いて答えてゆく。

 

 まず一つ目の疑問である、複数回選抜について考える。この疑問に対してローゼンバウムはメリトクラシー社会における階層移動は競争的であるが、同時に「トーナメント式」であると指摘する。ローゼンバウムは、アメリカのある高校を観察することによって、自由選択による就職トラックと大学トラックの選択をした後、「就職トラックから大学トラックへの移動はほとんどないが、大学進学下級トラックから就職トラックへの移動は少なくない」[14] という移動形式がとられていることに注目する。

 

  勝てば、次の回に進む権利が得られる。だが、負ければもう復活の余地はない。……こういうシステムでは開放性(openess)は下方にだけ開かれているバルブのようなものである」(傍点は引用者)[15]

 

 なぜ複数選抜において、このようなトーナメント方式という現象が起きるのか。それは、試験などメリトクラティックな選抜によって社会化効果(初期選抜に選ばれたものは学習機会が得られ、意欲が増すが、逆に初期選抜に選ばれなかったものは学習機会が剥奪され、意欲も減退してしまう)によるものである。そして、この選抜が何回も行われていくことによって社会化効果は次第に増幅されてゆく。

 さて、ここで指摘しておくべきポイントがある。それは、選抜自体が前節で指摘したように「恣意的である」ことが多いという点である。下位のトラックになったものはやはり社会化効果によってその立場を受容するよう社会化されるため、差異は拡大する一方である。このように社会化されつつ選抜によって配分されていくことで、「配分がそれ自身の正統化(Its own legitimacy)を造り出」[16] してゆくのである。

 

 つづいて二つ目の疑問である、メリトクラシーのディレンマについてである。

 メリトクラシー社会における「試験の点さえよければ」社会的上昇の可能性は誰にでも開けているという言説は、万人を社会的に上昇したいというアスピレーションの達成に向けて「加熱」させる。葛藤理論が示したように「試験の点さえよければ」という点にも様々な問題があるのだが、その論点とは別に、ローゼンバウムの増幅効果論でみたように、「加熱」したが選抜によって負けた人はどうなるのだろうか。増幅効果論では意欲の減退という点に関して「社会化」という言葉で片づけられていた。しかし、それによってその個人のアイデンティティが致命的に傷つけられて社会から脱落してしまっては社会構造が維持できなくなる。なぜならば、増幅効果論が示したように脱落者の方が勝者より明らかに多いからである。そこで、この「社会化」の構造を考えることが、この問題の鍵になることが分かる。

 社会的相互行為理論で知られるゴッフマンは、アスピレーションを切り下げ、とりあえず現時点で妥協する「冷却」(Cool-out)という概念を提示する。[17] また、ホッパーはさらに、冷却・縮小された人がその場にとどまるのではなく、再び新たな選抜に向かわせる「再加熱」という社会構造を指摘する。この、「加熱→選抜→冷却→再加熱→選抜……」という社会構造によって、メリトクラシー社会は多数の敗者を抱えても社会的に破綻しないのである。竹内はこの点を、

 

  われわれの選抜システムは何回もの選抜が行われていることに注目するならば、棄却物(排除されたもの)をさらに精錬(再加熱)し熱源にする再循環構造に着目すべきである[18]

 

と表現している。再循環することで、維持されるということがポイントとなる。

 そして、さらに問題となる点が、選抜などに「「失敗」した人々に、制度よりも自分自身にその原因を求めさせる」[19] 心理的な面にある。選抜におけるトリックがありそれが支配者側に有利になるように設定されていたとしても、失敗した人はそれを自分の責任として受け取らされ、さらに冷却−再加熱されて社会に取り込むという構造になっているのである。そのため、「構造に余儀なくされた失敗を、自分自身で招いたものと納得させられるのである」。[20]

 このように、社会階層の差異を隠しつつ、メリトクラシー社会は成り立っている。葛藤理論的な見地にたてば、「加熱→選抜→冷却→再加熱」の構造は、社会階層の差異を近代においても残すためにメリトクラシーという「覆い」であるともいえる。

 

 

第3節 再生産と社会閉鎖

 前節までは、メリトクラシー社会を説明する構造的な分析を紹介してきた。

 ここで、階層差の再生産という構造に注目したい。マルクスは、このような構造の要因を下部構造すなわち経済に求め、そこから資本主義社会に起きる疎外の問題について論じた。それでは、階層差は全て下部構造に起因しているのであろうか。本節では、マルクスのアプローチはとらず、これまで紹介してきたコリンズとブルデューの再生産理論をより詳しく見ることで、メリトクラシー社会の選抜のあり方をより多層的にことを試みる。

 

 もともと、学歴や資格(メリット)が社会的地位を形成する要因とみる見方、すなわち教育資格に立脚した階層化論は古くからある。例えばウェバーは、次のように論じている。

 

民主制は、名望家支配に代えて、あらゆる社会階層から適格者を「選抜」することを意味しており、あるいは少なくとも意味しているようにみえる。しかし、他方において、それは、試験や教育免状 Bildungspatent によって特権的な「カスト」が成立することをおそれ、従ってそれらに対して闘争している。[21]

  われわれは、整然たる教育課程と専門試験の導入を求める声が、あらゆる分野で高まりつつあるのを聞くのであるが、これは、いうまでもなく、突然「教育熱」が高まったというようなことではなく、教育免状の所持者のために地位の供給を制限し、これらの地位を彼らだけで独占しようとする努力が、その原因をなしているのである。[22]

 

試験や教育免状が、能力を測り自由競争を支えるのではなく、逆に階層を作り出す。ウェーバーは、教育資格が特権的な「カスト」を成立させ、名望家支配の時代とは異なった「社会閉鎖」を引き起こすといっているのである。階層間の入り口は閉鎖されるため、階層は階層内において再生産されてゆくのだと。

 

 第1節の葛藤理論において紹介したコリンズは、試験や教育免状によって作り出される学歴や資格を貨幣とのアナロジーでとらえようとする。文化を財としてとらえ、その需要と供給が教育によっても行われているとみなす。社会において制度化された教育資格は、文化財の需要と供給を媒介する共通の尺度である文化貨幣にほかならない。[23] そして、この文化貨幣はエリート層の文化に該当する。文化財への需要こそが葛藤の場面であり、闘争の場面である。であるからこそ、この葛藤を有利に進めるために、葛藤理論が述べたように選抜に恣意が加えられるのである。

 コリンズのユニークな点は、教育資格を文化貨幣として理解し分析したことにある。そのため、コリンズにとって教育資格は前述したように能力を表すものではなく、階層文化を表すものとなる。就職するときに、必要条件が大卒であるとき、それは大卒であることによる技術力や知識を期待されているというよりは、大卒であることを「当然視する」社会階層の身分文化を身につけていることが期待されているのである。

 このように、教育資格を文化貨幣として理解することは、世界中で起きている学歴インフレ[24] の説明も容易にする。コリンズが批判した技術的機能理論を用いれば、学歴インフレは必要な技術力の向上・多様化によって説明できる。しかし、教育資格を文化貨幣として理解するのであれば、経済における独占市場のアナロジーを用いて次のように説明できる。

 

  この地位集団あるいは身分集団の葛藤が高じると、やがて文化市場全体が硬直を始める。もともと理念の上で、葛藤はフェアな戦いとしてスタートしたはずである。……(中略)……しかし、階層化した集団序列は、特権的社会的ネットワークによって自由な戦いを制限していく。かくして、本来の開かれた市場では労働の値が下げられる方向にあるのに対し、限られた社会的ネットワーク市場では逆に労働の値がつり上げられてゆく。[25]

 

 ただし、コリンズはこのような文化貨幣の基準の独占による社会閉鎖の姿を批判はするが、必ずしも階層の代謝は否定していない。この点がマルクス主義との相違である。葛藤の勝者が必ず支配者層(資本家)であるとはせず、未知の葛藤の結果次第であるとしている。あくまでここで基準となるのはいわゆる資本でも能力でもなく、教育資格による文化貨幣であり、これを身につければ逆転したり、上位に参入したりすることも不可能ではないのである。

 

 コリンズと同様に経済ではなく「文化」に着目し、教育による文化資本(コリンズのいう文化財にあたる)の再生産が階層の再生産へとつながってゆくことを指摘したのがブルデューである。ブルデューは、階級や教育、家族など過去の経験によって形成された心的傾向のシステムをハビトゥスとよぶ。そして、ハビトゥスを経て形成された「ほとんど無意図的に自ずと習得され、当人を学校教育に適応させていく態度あるいは能力」[26] は、学校内において教育とそれに伴う各種選別という形で取捨選択される。上昇するために支配的なハビトゥスを備えていなければならないが、貨幣や称号とは違い、それを持つには長い時間がかかる。そのため、下層におかれた被支配的階層のハビトゥスを身体化しているものは、上昇するために支配的なハビトゥスを身につけるように努力する(ブルジョア化)するか、自ら上昇をあきらめて退却するかしかない。このようにして、階級構造は維持されそして一つの文化的な威信が再生産されてゆくと論じている。

 ブルデューの再生産論の重要な点は、次のように表現できる。

 

  学校内での落第、卒業不能、入試の差異の不合格という形でヴィジブルにあらわれる選別が、

実は目に見えない形で背後に学業以前的な長大な選別のプロセスを隠し持っていることが、これによって示唆されてくるからである。[27]

 

 「これ」とは選別のことであり、背後に潜んでいる支配的なハビトゥスの枠を押しつけてくる制度化された教育によってそれが行われているのである。ブルデューはコリンズと違い、ある意味でよりラディカルに再生産を論じる。それは、コリンズが試験や資格のための検定といった、社会的地位の移動の契機に潜む階層間の権力の不平等なあり方を指摘し、その不平等なあり方が階層の再生産を「結果として」うんだと論じたのに対して、ブルデューは至る所に潜むハビトゥス的なものの再生産を論じることで、教育自体に潜む文化的な再生産と社会的な再生産を同時に論じているのである。そのためブルデューは、教育資格が社会階層の代謝を阻むものであると見なすのである。[28]

 

 コリンズとブルデュー。この二人の社会学者の教育とメリトクラシーに関する議論には違いもあるが、教育それ自体や、その後に行われる試験などによって階層が再生産されることを論じている。この着目は重要であり、それは自由競争という理念が現実に対応していないという無謬性を暴き出している。

 

 

第4節 諸理論の関係

 最後に、第1節〜第3節で行ってきた諸理論の整理をする。

       階級文化の密輸

         (+)

    葛藤理論     統合理論    選抜システムの

(−)               (+) トリックの

  機能理論     増幅効果論     有無

         (−)

竹内、199560頁 図2.2 メリトクラシーをめぐる社会学的説明理論より

 竹内は(技術的)機能理論、葛藤理論、増幅効果論の関係を、「階級文化の密輸」(階級による機会や選抜内容の不平等)・「選抜システムのトリックの有無」(選抜システムに起因する機会の不平等)という二軸を用いて、次のように図式化する。なお、第一象限は階級文化を色濃く残し、選抜システムの恣意的な社会、非常に前近代的な社会であるといえよう。

メリトクラシー社会をいかに分析するかによって、図に示された理論が成り立つ。また、人々を選抜に送り込み、社会構造を維持するために冷却・再加熱理論が示したような社会化が行われる。また、再生産論は

この図の中では葛藤理論の中に位置づけることができるだろう。

 これらの諸理論は、いずれも抽象論であり、その理論通りに社会が動いているわけではないため、必ずしもそのまま当てはめることはできない。その上で、メリトクラシー社会の特徴を考えるのであれば、そのポイントは「能力」をどのように考えるかという点にあるだろう。ここであらためはじめの問いを思い出してもらいたい。はたして「学歴や功績と能力は一致する」だろうか。

 

 メリトクラシー社会の特徴は、メリット有無によって社会的上昇が可能であるか否か、この点にある。逆をいえば、メリットを左右する選抜様式によって、上昇にせよ下降にせよ社会移動が決定する社会であるといえよう。この点が最大のポイントとなる。つまり、アプリオリに「能力」であるとか、その能力を測るための学歴などの資格が存在し、その選抜をいかにするかという発想ではなく、選抜様式が能力観を作り出しその能力を測るための資格を作り出しているのである。

 この能力観をもち、メリトクラシー社会の陥穽を持ちつつ、分析してゆく必要があるだろう。

 また、これは第3章の主題となるが、これまでの諸理論で検討されてきた「主体」は、「学校に入り、いずれは市場で働く人々」として暗黙のうちに想定されていた。支配階層/被支配階層も、例えばコリンズであれば、主に宗教・民族・資本家/労働者を身分集団となる階層に想定していた。そこには、女性の姿は全くないわけではないが、欠けていたといえよう。第3章では、この点について考える。ひとまずその前に、この女性の問題を考えるために、ジェンダーについて第2章で検討する。

 


第2章 ジェンダー

 1970年代、フェミニストの持ち込んだ「ジェンダー」という概念は、社会科学全般にパラダイムシフトをもたらしたといっても過言ではない。それでは、フェミニストらが持ち込んだジェンダーとは果たしてどのような概念であるのだろうか。

本章の目的は、本研究において「ジェンダー」を導入する必要性とその意義を確認することにある。そこで、第1節において、ジェンダー概念自体を検討する。続いて第2節でジェンダー概念を導入する意義を指摘する。

 

 

第1節 ジェンダー概念

 ジェンダーという言葉を説明するとき、よく次のような説明がなされる。生殖器や染色体の違いなどによって決定される生物学的・解剖学的な性がセックス sex であるのに対して、「男らしさ」や「女らしさ」の規範となっているような習慣や態度、役割などによって決定される社会的・文化的な性がジェンダー gender であると。この説明は間違っていない。しかし、概念としてジェンダーを検討するにあたっては不十分である。そこで、まずジェンダー概念の成立と展開を三つの次元に分けて検討する。[29] なお、この三つの次元は、おおむねジェンダー概念の発展の系譜に適応している。

 

○性自認としてのジェンダー

 ジェンダーは、もともとは文法用語として使われてきた。ドイツ語やフランス語などには男性名詞/女性名詞が存在する。この名詞の性を表す用語としてジェンダーが用いられていた。

 このジェンダーを、文法上の用法から切り離して用いた研究者に精神分析学者のストラーがあげられるだろう。ストラーはまず、セックスに対応する性別語彙は male / female (男/女)であり、ジェンダーに対応する性別語彙が masculine / feminine (男らしさ/女らしさ)であるとする。そのうえでストラーは、性同一性障害とよばれる患者の研究によって、男と男らしさ、女と女らしさは必ずしも一致するものではないこと症例をもとに論証した。[30] これは、人間の性自認がセックスという身体からの規定力以上に、ジェンダーからの社会的規定力が強いことを示している。

 換言すれば、次のようになる。生物学的な性別であるセックスが人間の性格や役割、アイデンティティなどを決定するわけではない。社会的・文化的な規範や経験によってえられた性別認識の枠組み、すなわちジェンダーが、人間の性格や役割、アイデンティティなどをより強く決定するのである。このことによって、ジェンダーの概念は文法用語ではなく社会的・文化的な性という新しい地平を与えられた。

 

○社会的・文化的な性としてのジェンダー

 フェミニズムのもっとも有名な標語は、ボーボワールの『第二の性』の冒頭の一節だろう。

 

  人は女に生まれない。女になるのだ。[31]

 

 社会的・文化的な性とは、まさにボーボワールが「女」と表現した意味での性である。節の初めに述べたように、この社会的・文化的な性がジェンダーとしてもっともよく使われている。

 この性は、よく「男らしさ」「女らしさ」と表現され、その社会においてその意味する内容はさまざまである。このような文化的・社会的な性は、特に子供の時期における社会化の過程において作用し、この観念が「後天的に」植え付けられてゆく。それは、家庭の中でも起きるが、特に保育園や学校において規定されてゆく。竹内はその典型的な例として幼児現場の例を紹介している。

 

  幼児教育の現場では、男女をグループ分けし、「男の子はブルー、女の子はピンク」というように、それぞれの性別にステレオタイプ化された色やシンボルを当てはめる行為が日常的に繰り返されている。[32]

 

 このような例は至る所にみいだすことができるだろう。遊び方で、「男の子なんだから、少しは外で遊んできなさい」。「女の子なんだから、外で遊んでばっかりいないでもう少しおしとやかにしていなさい」。さまざまな性に基づく規範を、子供は家庭や学校において次第に内面化してゆくのである。

 社会的・文化的性は非常に強力な規範力を持つ。「スレンダーな女性が美しい」という美しさに関する性の規範は、その規範を内面化した女性たちをダイエットに追い込み、あるいは拒食症に追い込んでゆく。男性にもこのことは言える。「はげたら男はもてない」という頭髪に関する規範は、高価な育毛剤をもとめさせ、また鬘の使用へといざなってゆく。しかし、定義の上からも分かるように、生物学的な性と社会的・文化的な性が一致することはありえない。必ずそこには、ずれが生じているのである。

 

○階層カテゴリーとしてのジェンダー

 階層カテゴリーとしてのジェンダーは、「男性」「女性」というカテゴリーそのもの支配形態、あるいは権力関係を表現する概念である。全てといってもいいかもしれないが、多くの社会は男性と女性をただ異なるカテゴリーとして同じ水準に扱うのではなく、男性が優位になる権力関係にあるとみることができる。この男性と女性のヒエラルキー関係が、階層カテゴリーとしてのジェンダーである。

 上野は、この階層カテゴリーとしてのジェンダーによる差異化という行為そのものが、「政治的なものである」と論じる。そして、デルフィを引用しながら男性/女性というカテゴリーで語ることがいかに無謬であるかを次のように述べている。

 

  ジェンダーの非対称性を語るのに、デルフィの次のような言い方以上に雄弁な表現を

私は知らない。

   ジェンダーの問題枠組みの中に男性を位置づけるなら、男性はまず、何よりも支配するものになる。男性に似るということは、支配するものになるということである。しかし、支配者になるためには、支配するものが必要になってくる。皆が“いちばんの”お金持ちである社会が考えられないように、全員が支配者である社会は考えられない。(Delphy , 1989

  ジェンダーの非対称性がこのようにあらわになると、項を入れ替えただけの全ての「平等化戦略」は無効になる。第一に、「男女が平等になる」とか「女が男に似るようになる」という男なみの「平等化」は、論理的にも定義上もあり得なくなる。[33]

 

 この階層カテゴリーというジェンダーを通して性差をみることによって、男性/女性という一見平等なカテゴリーの中に非常に恣意的な権力関係を見て取ることができる。

 

 以上、性自認、社会的・文化的、階層カテゴリーという3つの次元のジェンダー概念の成立と発展をみてきた。これら3つのジェンダーは独立したものでは決してなく、相互に関係していることは明らかである。それでは、このジェンダーという概念を用いる意義を次節で考察する。

 

 

第2節 ジェンダーを用いる意義

 第1節においてジェンダーは、社会・文化的性差を意味し、それは社会化の過程の中でえられた後天的なものであると指摘した。この後天性は、同時にジェンダーが「社会的に構築された」ことをも意味する。また、階層カテゴリーとしてのジェンダーで指摘したように、男性/女性のカテゴリーはヒエラルキー関係になっている。

 ここから導き出せることは非常に簡潔である。すなわち、「階層化された性による差別は、社会構築的なものである」。[34] ジェンダー概念を用い、その観点から社会をみることは社会組織における権力の関係をリアルにみることにある。

 そのためジェンダーとは第一義的に社会の見方の変換であり、フーコー的な意味の「「知」の組み替え」である。この見方の変換は既成の学問に対しても同様である。既成の学問である歴史学について、このジェンダー概念によって「組み替える」というアイデアを提唱したのは、アメリカの歴史家のスコットである。

 スコットはジェンダーを「性差にかんする知」[35] と明快に定義する。そして、スコットは次のように性差がいかに社会構築的なものであり、かつ可変的なものであるのかを論じる。多少長くなるが、主著『ジェンダーと歴史学』から該当部分を引用する。

 

  知は、たんに観念ばかりでなく制度や構造とも関わっており、特殊化された儀礼であると同時に日常の習慣でもあり、それら全てが社会的関係を作り上げている。知とは世界を秩序だてる方法であり、それゆえ知は社会の組織化に先行するものではなく、社会の組織化と不可分なものである。

  したがって、ジェンダーとは性差の社会的組織化ということになる。……(中略)……ジェンダーとは、肉体的性差に意味を付与する知なのである。……(中略)……私たちは性差を、肉体について私たちがもっている知との相関においてしか見ることができないが、その知とは「純粋」なものではなく、幅広い言説の文脈の中でそれがもっている含意から切り離すことはできない。したがって性差とは、そこから第一義的に社会的組織かを導き出すことのできる始源的根拠などではない。むしろそれは、それ自体が説明を必要とする一つの可変的な社会組織なのである。[36]

 

 スコットは、歴史学が従来規範的であったセックスに基づいた性差の定義を用いてきたため、歴史学自体が性差の固定化(ジェンダー化[37] )をさらに補強し裏書きしていったと批判する。この問題を解決するためには、引用したように性差自体の構築性を解体し、これまでの「知」を「組み替える」ことが必要になるのである。

舘は、このこと次のように述べている。

 

  (概念としてのジェンダーは)「性別が社会構築されている」という思考方式であり、「性別が如何にして社会構築されているか」を分析して課題化し「知」を組み替えていくための概念なのである。(傍点は引用者)[38]

 

 ジェンダーを用いる意義はここにある。ジェンダーを用いてみるとは、ジェンダー概念による知の組み替えに他ならない。そして、この概念は必ずしも性差にかんする知のみならず、言説によって構築された他の知に対しても可能である。

 

 以上から、なぜ本研究がジェンダー概念を用いるかは周知となるだろう。本研究は「ジェンダー概念による知の組み替え」を、短期大学とそれにまつわる資格に関して行う。それは、既存の見方に含まれる性差に関しての階層化・非対称化を否定し、より公正な見方を提示するためである。


第3章 ジェンダーと選抜

 学校における性差の再生産を、豊富な統計資料を用いて分析したフランスの社会学者、デュリュ=ベラは、本来学校のあるべき姿を次のようにいう。

 

  学校は全ての生徒にその社会的出自や人種や性がどうであれ、知的能力を最大限に開花させるものであると同時に、そうしたパラメーターに応じてしばしば非常に異なる社会的役割を受け入れる準備を生徒たちにさせるものであるのだ。[39]

 

 ひどく当たり前のことを述べているように思われるが、あえてこのようなことを述べなければならないのは、現実にはこのような学校はいまだかつて存在していないからである。学校では、第2章第1節において行った社会的・文化的なジェンダーの社会化が、あるものは厳然と、そしてあるものは一見中立を装いながら、「隠れたカリキュラム」[40] として潜んでいる。このことが、第1章で考察した各種選抜にもあてはまることは当然である。

 残念ながら、第1章で紹介した教育社会学の理論は、身分や宗教、人種、国籍、ブルジョア/労働者など階級・階層の違い、あるいはその違いに基づく文化に注目してきたが、性についてはあまり注意を払わず、たとえ注意したとしても男/女という変数としての注目がほとんどであった。[41]

 本研究においてこの問題を克服するため、第1部分析視角の最後の章として、第1章で検討した教育社会学の理論にジェンダーをあてはめる、あるいはジェンダーの観点から見直すことを試みる。

 

 

第1節 階級・階層としてのジェンダー

 階層カテゴリーとしてのジェンダーについては、第2章第1節において指摘した。そこには男性を優位とし、女性を劣位とするヒエラルキー関係が潜んでいる。この関係をそのまま男性(支配階層)、女性(被支配階層)として葛藤理論の枠組みに入れ込むことは可能なように思えるかもしれない。すなわち、支配階層である男性が、女性が選抜において常に負けるような選抜形態をとればよいと。

しかし、これは二重に問題がある。第一に、現実の問題として、選抜形式において女性が明らかに不利になるような選抜形式は現在では非常にとりにくいため、現実に即していないということ。第二に、理論的な問題として、そもそも男性/女性というカテゴリーを設定する思考形態自体がセックスに基づいて性を判断しており、ジェンダーとしての性ではないということである。階層カテゴリーとしてのジェンダーでの部分で引いた上野の言葉を思い出してもらいたい。「男女が平等になる」とか、「女が男に似るようになる」という男なみの平等化は、論理的にも定義的にもありえない。[42]

 たしかに、葛藤理論、あるいはその延長上にある再生産論はジェンダーと親和的なように見える。しかし、それでもぬぐい去れない違和感が生じる。それは、主体は誰であるのかという問いである。葛藤理論が前提として扱った支配階層の文化と被支配階層の文化をそれぞれになう主体は、男性であり社会で働く労働者を将来像に描く学生であった。これらは、階層カテゴリーとしてのジェンダーから見れば結局のところジェンダー・ヒエラルキーの上位に位置する人間でしかなくなる。はじめから女性は蚊帳の外であった。

 そこに、ジェンダーを階層として導入するのであれば、蚊帳の外であった女性がその下層部に取り込まれることになりやはりその関係性は代わらない。もちろん、理論としてはより完成度を増すが、それではその現状をどう解するべきであるか、「社会閉鎖」へたどり着くことになる葛藤理論はこたえてくれないのである。

 あらためて主体の問題に戻ろう。結局のところ、葛藤理論が示していた主体は男性のジェンダーを持たされていた。これをどのように解するべきであるのだろうか。

 

 

第2節 葛藤理論の再検討

 繰り返しになるが葛藤理論は、社会閉鎖の理論である。そこではあらゆる身分・属性が葛藤の末再生産されてゆくことになる。勝ち残るためには初めから支配階層にいるか、あるいは困難をに打ち勝って支配階層に「同化」するしかない。

 しかし先ほども述べたように、ジェンダー視点からみれば「同化――この場合は女性の男性化――」は、ジェンダー・ヒエラルキーに関する根本的な解決にはならない。ただ、その個人がジェンダーとしての男性になっただけで、根本的なヒエラルキーの存在は残ったままである。

 

 メリトクラシー社会の理念は、男性/女性といった属性ではなく普遍的な観点からみた能力の有無によって判断することであった。しかしながら、それは理想でしかなかった。「普遍的な観点」とは支配者文化の観点であることは葛藤理論が指摘したとおりであり、またその文化を手に入れることの難しさは再生産論が指摘している。現在私たちが住んでいる社会は、確かにメリトクラシー的な要素があり、普遍的とはいわないまでもある程度誰もが納得できる受験体制が採用され、その試験によって能力がわけられているように見える。しかし、ジェンダー的な視点からあらためて見直してみよう。本当に、その選抜体制は普遍的な価値感に基づくもので、属性には左右されないものなのだろうか。それが違うことはいうまでもない。なぜならば、何を志望して選抜に受けるのかを決める段階で、すでにその個人の能力うんぬんよりも、社会環境(属性や、その属性に基づく「周囲の期待」など)による制約が大きいからである。能力によって自由に志望できるわけでは内のである。

 私たちは、葛藤理論・再生産論に、ジェンダーの視点を導入する必要性がある。選抜そのものの基準の問題だけではなく、その社会で認識される属性に基づいてその個人にある種の行動をとるよう期待する社会環境も考慮に入れる必要があり、とくに性に関してはジェンダーの視点を導入しなければその性に関する社会環境が見えてこないからである。

 現代社会における選抜は、決して個人の能力のみを測るものではない。そこには、社会環境も含まれている。その社会環境にジェンダー・ヒエラルキーに基づく差別があるのであれば、ジェンダーの視点からそれを指摘する必要があるのである。

 以上から、葛藤理論により説得性を持たせるためにジェンダーの概念を導入する。

 

 

 ここまで考察してきた、ジェンダー概念を導入した教育社会学の理論(とくに葛藤理論・再生産論)は、第2部の分析における視点となる。

 なお第2部では、そのまとめとなる第6章まではこれらの理論による視点を明示的にはしない。それは、社会環境にジェンダー・ヒエラルキーが明示的・非明示的に含まれているのか、実際の文脈の中で感じ取るためである。


第2部 短期大学のジェンダー化

 第2部は、第1部で考察したジェンダーの視点を加えた教育社会学の理論を用いることで、短期大学のジェンダー化の構造を探る。序論でも述べたが、教育社会学の見地から短期大学の研究対象とするときに、資格のもつジェンダー的な意味を加えて考察することは、本研究に独自なものである。この資格に対する考察は第5章において行い、第4章では、短期大学の制度的、社会的変遷をおってゆく。また、第6章では第4、第5章の議論を加味した上で、短期大学のジェンダー化と、それに関わるジェンダーの再生産の構造を解明する。

 

第4章 短期大学史

 1954年に短期大学が発足して以来50年近くがすぎ、短期大学がもつ意味も語られ方も大幅に変化してきた。本章では、この短期大学の制度を発足からおうとともに、短期大学がいかにして女性向けの大学と呼ばれるようになっていったのか、その考察の準備をする。なお、次章では短期大学の教育の中でも特に資格教育に注目し、ジェンダーが再生産され、同時に囲い込まれてゆく様をより詳しく検証する。

 さて、本章は時系列的に短期大学の制度やその量的拡大、短期大学の認識のされ方の歴史をおっていくことになる。そこで、まず「短期大学」の現状を概観した後に、第2節以降、戦後を4つに区分して歴史的変遷をおう。

 

 

第1節 短期大学の現状

 1996(平成8)年は、女子の高等教育において、一つのターニングポイントであったといってもよい。下の図1[43] を見ていただきたい。1996年の女子の四年制大学進学率が24.7%、短期大学進学率が23.7%。42年ぶりに四年制大学進学率が短期大学進学率を上回ったのである。

 これは、一つの事件といってもよい。女子の高等教育が、明らかに短期大学から離れている現象が見えるからである。これ以降、図1で示したように、四年制大学への進学率は伸び続け、短期大学への進学率は落ち続けている。但し、男子の四年制大学への進学率とはいまだ大きな差があることも事実である。

 同時に次のことが言える。図1から、日本の高等教育は拡大――大衆化といってもよい――の過程において「男子は(四年制)大学、女子は短大」という形での「ジェンダーによる水路づけ」がなされてきたという点である。[44]

 

 ここで、短期大学を考察する上でポイントとなる点が二点見いだせる。[45]  一つは、性にまつわる格差の問題である。これは「ジェンダーの公平性の視点」といってもよい。なぜ、男性と女性でジェンダーによる水路づけがなされ、それが40年以上も維持され続けてきたのかという点である。二つ目は、そもそも二年制である短期大学と四年制である大学の違いは何であったのかという点である。これは、「短期高等教育 short-cycle higher education の再検討」という視点である。

 この二つの視点は、制度を考察するさいに常にもっておく必要があるだろう。

 なお歴史的変遷をおう前に、短期高等教育という耳慣れない言葉について説明しておく。ファースは、アメリカのコミュニティカレッジやヨーロッパの短期大学を主たる対象とあげつつ、次のように短期高等教育を定義する。

 

1.  伝統的な大学よりも、能力および関心においてより広い幅の若者たちを収容する。

2.  社会的、地域的、学歴的に差別されてきたグループの人々に、進学の機会を提供する。

3.  雇用者側の要望に応え、地域の必要性を満たすことを目的として構築された、教育プログラムを提供する。

4.  できる限りやすい費用で、なるべく短気に終了するようなコース設定を原則とする。

5.  原則として研究よりも教育に焦点を合わせている。[46]

 

 この定義は、日本とは異なるところもある。欧米諸国の短期高等教育は国立・公立で行われてきた。しかし日本の短期高等教育機関にあたる短期大学・専修学校・高等教育専門学校のうち、前者二者はほとんどが私立によって担われてきた。

1 : 設置者別短期高等教育機関数  2000年度

 

国立

公立

私立

私立の割合

短期大学

20

55

497

86.9

専修学校

139

217

3195

90 %

高等専門学校

54

5

3

48 %

所出)文部省『文部統計要覧』より作成

そのため、1の「より広い幅の若者たち」という点などは、日本の現実とは異なる。

 ただし、異なる点があるにせよ、短期という性格から「(ある層の)機会の拡大」に重点が置かれていることには代わりはない。

 問題は括弧内の「ある層」である。そして日本では、先程述べたように「ある層」とは女性をさしていた。

 それでは、第2節以降、短期大学の成立・発展・変質の歴史をおう。

 

 

第2節 短期大学の発足 成立期(1940年代後半〜1950年代前半)

 戦後、日本の教育制度は米軍による占領政策によって大きく変化した。その変化にもっともさらされた部分が、女子の高等教育であるといっても過言ではない。もともと旧学制において、女子は大学への進学が認められておらず、女子の高等教育機関の最上位には「女子高等専門学校」[47] が位置づけられていた。この制度によって規定された男女差別は、194512月の「女子教育刷新要綱」の発布によって消滅する。この要綱によって、男女の教育の機会均等や女子に対する高等教育機関(大学)への開放、男女共学などが実現する。

 戦後日本の教育制度の根幹をなす部分は、1946年から1952年まで7年間内閣に教育政策審議機関として設置された、「教育刷新委員会(のちに教育刷新審議会と改称)」での議論によって作られていった。戦後の教育理念を謳った教育基本法などもこの委員会で作られた。二・三年制の大学である短期大学の設置に関しても、教育刷新委員会での議論から始まった。

 当初、教育刷新委員会では「二・三年制の大学」を設置するという案はなかった。旧学制における大学・高等専門学校・師範学校などの高等教育機関は、全て「六・三・三・四制」の四の部分に、すなわち「新制大学」に組み込もうとした。ところが、昭和24年に新制大学は発足するが、その際文部省が決めた大学設置基準を満たさない専門学校が50校ほどでてくる事態が発生する。これらの学校をどう扱うか、教育刷新委員会の議論は続いた。

 この議論の中心は、大学設置基準を満たさない学校を二年ないし三年制の大学にするとして、この大学の位置づけをどのようなものとするのかという点にあった。議論のポイントは次の二点に絞られる。一つは、二年ないしは三年の「完成教育」とするのかという点。もう一つは、女子の高等教育の普及対策になるのではないかという、波及効果に対する点である。前者に関しては、完成教育とするのであれば四年制大学への編入を認めるべきではなく、編入を認めないのであれば、二年でできる教育には質的に限界があるので限られた学問のみにするべきだという意見が多勢をしめた。後者に関しては、女子の高等教育の普及のためにも、二年ないしは三年の通常よりも短期の大学を積極的に認めるべきであるという意見がでる。委員会の一人で、東京恵泉女子学園長の河井道は次のように意見を表明する。

 

  私は女の立場からでございますが、女子教職(ママ)は将来のことはともかく、只今のところはどうしても女子というものは別の意味において考えなければならんと存じます。……(中略)……どうしても日本の女子教育のレベルを上げなければだめだと思います。しかしこの専門学校がそれをジニア・カレンジ(ママ)するということは可能性があると思います。それで暫定的に四年の新制大学の代わりに二年で完成できるところのものを欲しいと思います。そうすれば、大勢の女子がそれで完成された教育を受けられるだろうと思います。[48] (傍点は引用者)

   (注)“(ママ)”は原資料の誤字と思われる箇所

 

 河井の発言の意図するところは、教育水準を一気に引き上げるのではなく、(特に女子の)高等教育の「漸進的」普及を意図したものであると解釈できる。議論は紛糾する[49] ものの最終的には、おおむね河井の議論の通りにまとまり、教育刷新委員会は二年ないしは三年制の大学制度は必要との建議をする。この建議を受けて、1949年学校教育法が修正され、四年制大学への移行のための「暫定的措置」[50] として、短期大学の設置が認可される。設置初年度の1951年の短期大学数は、国立4校、公立24校、私立152校であった。なお、この国立4校は全て夜間制の男子学生がほとんど全てをしめるものであった。また、この時期の短期大学は現在われわれがみている短期大学とは違い、男子学生が過半数を占め、夜間の短期大学も先ほどの国立を含めて15%近くを占めていた。このことは、表2を見てもらえばよく分かるだろう。戦前の専門学校からの移行とい

表2:短期大学の昼夜間別開校状況 1953年度

昼夜

国立

0

12

0

12

公立

26

6

5

37

私立

130

23

31

184

156

41

36

233

所出)日本私立短期大学協会『会報 第2号』、195365頁より

う性質を色濃くしていたのである。[51]

 それでは、この時期の短期大学がどのように見られていたかについていくつか資料を紹介しよう。

設置が決まろうとしていた1949年、衆議院文部委員会において女子教育における短期大学の意義について質問を受けた社会党の森戸辰男委員は、

 

  私の二、三聞いたところによりますと、ことに女子の家政学科等では、四年の過程では長すぎるというようなことが父兄たちにもあり、費用の関係等もありまして、四年では大学に行こうというものもいけないような事情があって、かえってこの制度のために向学心を持っておる者の大学への入学を困難にしておるという事情もあるのではないかと心配いたすものであります。[52]

 

と質問に答えている。ここには、女子教育拡大のためには経済的な負担をできるだけ軽減しなければ結局制度倒れになってしまうという危機意識が表明されている。そこで、二年制の短期大学への指示を示している。しかし、同時に「家政学科」は二年程度でもよいと表明していることも注目しなければならない。女子の高等教育拡大と二年程度の家政学科等が結びついている点は、ジェンダーの観点から見過ごせない。

 また、短期大学制度に対するメディアの反応は、この時期はあまり多くない。1940年代後半から1950年代初頭の新聞記事をみてみると、天野文部大臣の「前期大学構想」[53] との関連で語られているものが大半である。一般紙の中では、毎日新聞が社説で取り上げている程度である。[54] また、教職員を対象読者層としている日本教育新聞は社説で短期大学を次のように評している。

 

  短期大学制度は昨年新制大学になれなかった学校の救済のように考えられているが、事実は速成の中間職業人の社会的要求に基づくものなのである。四年制になれなかったから短期大学になるのだということではなく、短期大学には短期大学としての必要があって生まれたのである。特に女子にとっては四年制よりも二年制で職業を身につけられる方が、どれだけ喜ばれるか分からない。[55]

 

この社説からは、短期大学を積極的に肯定する姿勢がうかがえる。しかし、「中間職業人」とは何を示しているのであろうか。この社説をふまえた上で、次の二つの短気大学に対する評価をみていただきたい。

 

  妻は、自活の能力を持たぬと、きめこんで、あえて能力を養おうとせぬのは、自ら卑下するこ

との甚だしいものと云えましょう。

家政は、女子の一つの職業であると考えられぬこともありませんが、この職業は、夫があつて初めて成立する業で、夫が死ねば忽ち、頓挫する仕事であります。……(中略)……いつでも、不幸を最小限にくい止め得る準備をすべきであります。

その準備の第一は、云うまでもなく、専門の技能を身につけることであります。社会に役立ち、自分の好みと力に適合した技能をみつけて、それを磨き上げ、自身と希望を持つて将来にむかい得れば、幸福をかち得ます。

  短期大学こそ、この準備をするために、最も適した施設であると云えましょう。[56]

 

  講話日本の姿を、短期大学を通じて眺めるとき、わたくしたちは隔世の感ある女子教育の発展と、家政科の充実普及に大きな喜びを感ずる。しかしながら、それは大学の数と学生の数が増加したという喜びばかりでなく、短期大学においてはその特徴たる半職業教育的特性により、卒業生には中高の教員資格や、栄養士そのほかの資格が何れも無試験で与えられる制度が確立したがために、女子の社会的立場が強化された喜びでもある。[57]

 

 いずれも日本私立短期大学協会の『会報 第1号』にのせられた協会理事の記事の抜粋である。これらは、女性が家庭から完全に解放されるかたちでの男女平等は想定していないが、従来の良妻賢母観からは一定の距離をとっている。短期大学を卒業した女性は、いずれ家庭にはいるかもしれないが、必ずしも妻としてのみ生きるのではなく、妻以外の生き方の「可能性」を持たせようとしているのであり、その「可能性」を支えるものが専門の技能であるといっているのである。

 しかし、これは先ほどの日本教育新聞の社説と合致するのだろうか。

 日本教育新聞の想定する「中間職業人」の持つ能力は、経済界が必要とする能力ではないのだろうか。すなわち、国立の理科系の短期大学で養成される能力を重視しているのではないか。この齟齬は、次節の専科大学案とも大きく絡んでくる。

 

 以上、短期大学の成立期における制度的側面とその受容に関して考察してきた。この時期の特徴は、短期大学は必ずしも女性向けの大学であるという固定観念は生まれておらず、また女子短期大学側も従来の良妻賢母感から距離をとって女性の可能性をのばそうという発想から、教育を行おうとしていることがみてとれる。しかしながら、その可能性の先が一部資格でしかなかったことは次章で考察する。

 

 

第3節 高度経済成長と良妻賢母志向 成長期(1950年代中頃〜1960年代中頃)

 1954年、短期大学制度の発足からわずか5年後、短期大学の学生数の男女比が逆転する。図2[58]  をみていただきたい。右肩上がりに女子学生の比率が上がっていることが分かる。また、図3[59] は設置者別の短期大学数の推移を示したグラフであるが、国公立の大学・短期大学数が微増しかしていないのに対して、私立の大学・短期大学はともに急増していることが分かる。そこで、成立期を経た後の1950年代中頃から、短期大学が「暫定措置」から恒久制度として認められる1960年代中頃までを「成長期」とよぶ。

 

 この時期の特徴は、産業界から短期大学への批判の急増にあるといってよい。前節において、日本教育新聞の社説と短期大学協会の志向するものが、かたや産業界で通用する能力の養成であるのに対して、もう一方は将来の可能性を高めるための専門技術の育成であり、その専門技術とは家政学や教育などに偏っているため、両者に齟齬があったという点を指摘した。短期大学数が飛躍的に増加してゆく成長期に、この齟齬が原因で産業界から批判がなされてゆく。さて、批判の実例をみる前に、短期大学の性格をどうとらえるかという点からみてゆこう。つまり、短期大学の目的を定めた短期大学設置基準をどう解釈するのかという点である。以下は、短期大学設置基準の「趣旨」と「解釈」である。

 

  短期大学は、高等学校の教育の基礎の上に二年(又は三年)の実際的な専門職業に重きを置く大学教育を施し、よき社会人を育成することを目的とする。短期大学は、一般教養との密接な関連において、職業に必須な専門教育を授ける完成教育機関であり、同時に大学教育の普及と成人教育の充実を目指す新しい使命を持つものであるが、他面四年制大学との連携の役割をも果たすことができる。[60](傍点は引用者)

 

  ここにいう実際的な専門職業とは、いわゆるセミプロフェッショナルの職業を指すのであり、広く社会に有用の職業を三つの段階に分類するならば、たとえば医師、弁護士、高級技術者等のような大学において教授することを必要とする専門職業と、高等学校において教育される程度の農業、工業、商業等に関する職業との中間程度にある専門職業をいうのである。[61](傍点は引用者)

 

 短期大学が養成する「実際的な専門職業」に「必須な専門教育」とは、「セミプロフェッショナルの職業」であるとなる。しかし、このセミプロフェッショナルな職業は具体的には述べられておらず、想定のしようがない。そこで、産業界側は自らの欲しい人材を育成するよう要望する。

 

  現在の短大の制度はこれをいかに扱うべきかについて解決を迫られているが、花嫁大学の如き特殊な目的を持ったものを除き、苟も産業界に卒業生を送らんとする限り現在の短大ではいかにも中途半端な感なきを得ない。[62]

 

 さらに、短期大学の制度自体を批判する。

 

  実業界は短期大学が目的としている「専門」職業人の供給を要求しているのである。ところが、現在の多くの短期大学の実態は、実業家の受容に必ずしも合致していないので、卒業生の就職難という結果が起きるものと考えざるを得ない。……(中略)……

  実業界では、戦前高専が供給していたような適当な専門職業人の不足を痛感し、これを養成する適切な教育機関を要求しているのである。なるほど短期大学には専門職業教育機関として地域社会の要求に合うよう努力しているものもある。しかし一般的にいって、二年の年限では到底戦前の高専に匹敵するような室の「専門」職業人を供給することは不可能といわざるを得ない。[63]

 

 産業界(実業界)は、旧学制における専門学校(四〜五年制の職業学校で主に工業系)のように工業・商業技術者を輩出できる教育機関になるよう短期大学に再三要望し、また政府にも働きかけを行っている。この背景には、深刻な技術者不足に悩む産業界の姿が浮かび上がる。また、産業界は短期大学の役割の変化だけでなく、工業高校の増設や短期大学を廃止して専科大学の設置をするようもとめてゆく。

 このような産業界の動きに対して、政府・与党も専科大学法案を国会に提出するが、最終的には日本私立短期大学協会の猛烈に反対したことで廃案となっている。

 

 それでは、この時期の短期大学のスタンスは成立期と変わらず、学生の将来の「可能性」を高めるべく独自の専門教育を行っていたのであろうか。しかし、そうはいいかねるのがこの時期の特徴である。成立期は性別に関係なく、その個人の選択によっては結婚するとは限らないのであるから、結婚の有無に関わらず役に立つような能力育成を、実際に達成できていたかは別として理念としては試みていた。だが、この時期になると「家庭」が全面に打ち出てくるようになるのである。日本私立短期大学協会の『会報』から、いくつかその事例をひろってみよう。

 

  多くの日本の家庭が短期大学の出現によつて家庭管理の高度な智識や技能を持つ母親にめぐまれることは文化国家としては非常に有利なことである。また母親の高い教養は日本の家庭における妻と母の位置を高めることにどれくらい役立つことになるかもしれない。[64](傍点は引用者)

 

  体力に優れ家庭を離れることの可能な男性と、わけても母としての大切な天職を持つ女性が同様の職能コースを辿ることは至つて不利です。母として妻として天与の愛情に連関を持つ被服、栄養、保母、看護、教育、こうした道が女子の職能として好適であり有利であることは今更言う迄もありません。又それは女性が自己の本分を発揮して社会に最も大きなものを貢献し得る道です。[65]

 

  女子本来の目的は、一家の主婦になつて、それで一家をおさめていくということが女子本来のこれが生命ともいうべきものだ。これをするのには嫁さんにゆくということが一番の根本なのだから、花嫁教育ということは、女子で一番大事なことなのだ。嫁さんになれないところの教育をするがごときは国家の根本に反する、こういう考えております。

……(中略)……およそ男子というものには男子の仕事があり、女子の仕事というものには女子の仕事がある。この区別がはっきりしている以上は、教育というものはそこにおのずから差があつてよろしい。[66]

 

 このような一連の言説は、「良妻賢母」思想そのものに他ならない。女性は家庭に入って主婦となり一家を支える。あたかも「戦後版「良妻賢母教育」」[67] である。「女子の特性=母・妻」という図式を再度内面化してしまったかのようにもみえる。

落合は人口統計や産業構造の変遷をつぶさに分析することで、「戦後、女性は主婦化した」と指摘したが、この短期大学側の変化は経済成長期の「主婦化」の傾向を補完するものであったと位置づけることもできるだろう。[68]

 また、この時期の就職希望者は短大全体の45割程度[69] であり、あまり就職を望まない学生の傾向がこの言説にさらに拍車をかけていったとも考えられる。またこのような傾向は、専門職業技術に特化するのではない、教養型短大を増やすプル要因になったともいえる。

 

 1960年代にはいると、産業界側の養成は次第に短期大学ではなく、工業高校や大学の工学部の増設、工業高等専門学校の設立などへ向いてゆく。また、図3で示したように増加を続ける短期大学は、「暫定的措置」から恒久的制度に向けて文部省などへの働きかけを強めてゆく。逆の見方をすれば、産業界側は短期大学を技術者養成大学へと変質させるよりは新しいもの――高等専門学校――を作った方がよいのではと考えるようになったのであり、短期大学は家政学科を中心とした「女性向きの大学」「花嫁学校」として認知されたことを意味している。ジェンダーによる高等教育の「水路わけ」はここに一応の完成をみることとなる。それは同時に、短期大学がジェンダーによってゲットー化されたといってもよい。

 このなかで、1964年学校教育法が改正され、短期大学は恒久制度となる。

 

 

第4節 性格の変化 変質期(1960年代中頃〜1970年代)

 変質期は、前節の図3で示された量的拡大進むとともに、成長期に強まった良妻賢母志向とは逆に就職志向にむく時期である。その変換をみる前に、短期大学制度が恒久化される時期に前後して話題になった「女子学生亡国論」をまず紹介する。

 

 女子学生亡国論は、1962(昭和38)年3月、早稲田大学教授の暉峻康隆が『婦人公論』に寄稿した「女子学生世にはばかる――彼女らの目的は何か」に端を発する。暉峻でそこで、昭和30年頃までの女子学生は、結果はともあれ「戦後の自覚女性のチャンピオン」という明確な意識を持って進学してきていたが、現在の女子学生はさしたる目的もなく、就職もせず、ただ学校にきているだけであると危惧を表明する。暉峻はさらに、男子学生は女子学生と違って就職欠け今夏の二者択一はできず必ず就職しなければならないのに、学科試験がよいだけで女子学生が男子学生を押しのけて入学してくるため、その数だけ男子がはじき出されてしまうと、共学の構造に批判を向ける。[70]

 さらにこの翌月、慶應義塾大学教授の池田弥三郎が「大学女禍論――女子学生世にはだかる」を『婦人公論』で展開する。池田は暉峻よりもさらにセンセーショナルに論を進める。女子学生が女禍である理由を、女子学生の親の寄付が男子学生に比べて少ない。男子学生は狭く深く学ぶが、女子学生は一般的に広く浅くしか学ばず専門の学府たる大学としては期待できない。女子学生は結婚をもって人生の終点と考えており、社会人になってから社会に対して何も還元しない。女子学生は結婚してしまえば姓が変わるので、母校に対する寄付は期待できない。[71]

 この寄稿をマスコミが「女子学生亡国論」と取り上げられたことで、一気に社会に広がり、女子学生亡国論という言葉は一躍流行語にまでなった。しかし、この時点では賛成・反対といった何らかの運動が起きるわけでもなく、流行になって消えたにすぎない。

 この問題が現実に具体性を帯びるのが、1966年、熊本大学学長の柳本による「激増する女子学生を閉め出す方策を考えたい」という発言である。実際に、柳本は具体的方策として除し入学者の人数制限や性別による二本立て入試の実施など案をあげている。その裏は、熊本大学では薬学部、教育学部で女子学生がそれぞれ7割、5割以上を占めるという状態が発生しており、大学に残ることの少ない女子学生が増えると研究が続けられないという苦情が各教員からあがったための柳本発言であった。この発言に対し、文部省は女子だけ規制することは問題である」との見解を示し、柳本発言は現実には至らなかった。このときも、女子学生亡国論が語られた。

 さて、女子学生亡国論の性差別性はいうまでもないが、女子学生亡国論の持つもう一つの意味を考えてみたい。女子学生亡国論の思想には、大学・短期大学で高い教養を積んで、「良妻賢母」として家庭にいて欲しいという成長期の戦後版良妻賢母思想とは異なるものを見いだすことができる。それは、働くことによる社会への利益還元要求である。女子学生亡国論の根幹をなしている部分は、いずれ社会にでて働く男子学生を、社会にでずに結婚してしまう女子学生が「押しのけている」という危機意識である。それは、女子学生は社会に何も利益を還元していないという一方的で硬直した思考の現れでもあるが、同時に女子学生も社会にでて働いて社会に利益を還元するべきで、そうでないのであれば、いずれ働く人にとってかわって大学に来るべきではないという思想が見いだせる。

 

 この女子学生亡国論以降の時期から、短期大学の性格が変わり始める。それは、高度経済成長による労働力不足と、女子学生亡国論などに先鋭的にあらわれた労働力としての女子学生が融合することで、就職をある程度前提とした四年制大学・短期大学への進学というコースが普通にみられるようになったのである。

この流れから、短期大学はその性格を家政科を中心とした教養習得型大学としての色彩から、「専門技術者」養成型大学としての色彩を放つものへと変化させてゆく。図4をみていただきたい。図4は短期大学に通う女子学生の専攻学科構成比の推移を示したものである。家政科が次第に減少し、教育や人文などに移行していく様子が分かる。なお、ここでいう「専門技術者」とは、高度経済成長以前の産業界が短期大学に要望したような工業系・商業系技術者ではない。この時期の専門技術者とは、図書司書や保母、教員、栄養士などといった限られたものであることは、成立期と比べてもそれほど変わりはない。ただし、この時期以降重要な点は、就職希望者が8割以上を占めるようになったこととともに、就職に際して自分の専門分野とはほとんど関係のない分野に、いわゆるOLとして就職する学生が大半を占めるようになったことである。

 日本私立短期大学協会の会報である『短期大学教育 第21号』において、企業の人事課長は座談会で次のように話している。

 

  それから私どもで入社試験の面接のとき、栄養科、食物科、あるいは児童学科なんかを出られた方も見えますので、「何で場違いなうちの会社を受けるのか。」と聞いてみますと「やっぱり事務がいいのだ。」とおっしゃるのです。「事務ってなんですか。」と聞いてみるとわからない。要するに机にすわって……まあBG……BGというのは最近いわなくなりましたが……。

  (中略)

そのOL、(笑い)それがいいのだとおっしゃるのです。自分のご専攻と仕事との関係がはっきりなさっていないし、われわれのほうでも採用の扱いとして英語以外の学科は全く同じように扱っています。[72]

 

 ここには、短期大学における専門技術教育と学生が実際の社会にでて働くときに必要な技術がほとんど相関していないことが示されている。それでも、専門技術を大学の「うり」にせざるをえないのは、「就職」が目標になっているためである。

 日本私立大学協会の会報に寄稿した京都府立東舞鶴高校の校長は、短期大学に次のような期待を寄せる。

 

  側聞すれば、最近の生徒、特に女子短期大学志望の生徒の多くは、真けんに自分の適性、進路を考え、将来の自活を目指す職業を前提として短期大学を選択しているという。……(中略)……短期大学は短期の二分の一の大学では魅力がない。独自のカリキュラムを用意して新しい大学の使命に徹することである。つまり職業教育なり専門技術教育に徹して欲しい。[73]

 

 就職を前提にした短期大学において、専門技術教育はその存在意義にすらなっていることが分かる。

 この変質期に、短期大学は急速に専門技術教育に力を入れ、特に各種資格・検定の習得がセールス・ポイントになってゆく。また、1980年代に入ると家政学部・家政学科といった学部・学科の名称も生活科学学部・生活科学学科など、良妻賢母志向を匂わせるものでなく実学志向を反映するようなものに改称されるようになる。[74]

 

 変質期は、経済成長による労働力不足と相まって、就職希望者割合が一気に増え教養型短期大学から職業志向の専門技術型短期大学へと移行する時期である。しかし、繰り返しになるが、この「専門技術」自体は従来通りの、「ジェンダー化されたセミ・プロフェッショナルな職業」の軌道上にしかなかったのである。

 

 

第5節 淘汰の時代へ 退潮期(1980年代後半〜現在)

 1990年代以降に起きる18歳人口の急減――いわゆる少子化――によって、大学・短期大学が廃校・改組など統廃合を強いられてゆくと喜多村が論じたのは、1989年である。「大学淘汰の時代」がやってくると。[75] そこで、図5・図6[76] をみていただきたい。図5は、女子の高等教育機関への入学者数の推移を示したグラフである。また、図6は、男女をあわせた高等教育機関への入学者数の推移を示したグラフである。

 1975年、学校教育法の改正によって正式に教育機関として制度化された専修学校――いわゆる、専門学校――は制度発足からわずか15年でほぼ5倍の規模に急成長している。専修学校は、科目内容や年限などの設定に関しての自由度が高いため、実際的で即応力を持った専門技術力の養成を掲げ、急速に高等教育に浸透していったのである。[77]

ここで重要なことは、前節で述べたように短期大学も「専門技術教育」をすでに「うり」にしていたということである。短期高等教育というカテゴリーでは同様に位置づけられる短期大学に、真っ正面から対立することとなるライバル機関が登場したといってもよいだろう。

 この専修学校の発足に対して、短期大学はどのような把握をしたのだろうか。それを示唆する対談が、1976年にだされた日本私立短期大学協会の会報の中においてなされている。多少長くなるが、この対談で把握された専修学校と短期大学の関係は現在にもそのまま適用できると考えているので引用しよう。

 

  大沼「たとえば短期大学とか四年制の大学の被服を習って社会にでていって役立つかというと、スペシャリストとしては全部だめなんです。それは専門家としては役立たないんです。なぜかというと今の職業分化っていうのは、もうそんな大学における学問の分類でやれるようなものではなくなっているんですね。……(中略)……だから、いま専修学校は何で成り立ってるかというと、そういうかたちで社会が変わってくるのにつれて、学校も非常に変化をして、本当のスペシャリストの養成機関へ移っちゃってるわけです。内容がもう全然、今から十年前と今日とでは違ってるわけです。それが自由に変えられるんですね。短期大学は変えられないけれど、専修学校はそういう社会に対する対応の変化がしやすいところがあるんですね。」[78]

 

  大沼「たとえば十年前と十年後の専修学校がやる教育。十年前にはそこでアップ・ツーデートだ、しかし十年後にはそれはもうスクラップだ、こういうことも起こり得るわけです。(以下略)」

  犬丸 (短期大学は)「だから、まさに職業教育と広い意味での人間教育の両方あるから非常におもしろいんじゃないですかね。」[79] (括弧内は引用者)

 

 短期大学は、就職のためにも専門性を持った職業教育を行っていくが、かといって専修学校のようにただその場の要望に適応する専門技術者を作るのではなく、同時に教養ある人間を作る「人間教育」を行ってゆく。このようにいっているのである。

だが、この短期大学で行う専門性を持った職業教育とはいったい何なのか。本章では、再三再四この問いがでてきたように思われる。そして、この問いへの具体的な答えは多少ぶれるが[80]、その思想は成長期以降1990年代に入ってもほとんど変わっていない。先ほどの対談でも、その内容に触れているので、引用しよう。

 

  女子教育の問題で基本的に考えていかなければならないのは、女性のライフサイクルの問題だと思うんです。今の女性の大半は、一生職業人としてやっていくという意識は持たないで大学へ入っている。ところが結婚して、子どもが成長して暇になった、さあ何をやろうかといったら、一般教養だけだった人はお手上げなんですね。……(中略)……だからこそ、女性は若い時代にプロフェッショナルなことをやっておくべきだと思う。

 

 結局のところ、専門性を持った職業教育は、卒業後の就職時に役立てるものである以上に、「一度主婦になることを前提」にした上でのものなのである。次章でも触れるが、1980年代以降、特に退潮期には資格や検定取得を売りにする短期大学が急増する。資格や検定は、就職時に能力を示すという役割だけでなく、前提である主婦をへた後、再就職するときの「安心材」としての役割も果たしている。

 

 再び、本節の冒頭で示した図5、図6をみてみよう。

 短期大学の人間教育と職業教育、専修学校の職業教育は1980年代までは何とか共存してきたが、少子化がはじまった1990年代にはいるとシェア争いが激化し、最終的には短大への新入生が減少していることが見て取れる。

 短期大学の職業教育は、結局のところ市場からは中途半端にしかみられず、また自らが指摘したように「時代遅れの」ものとなっていったため、短期大学は職業教育に特化した専修学校に勝てなかった。

 退潮期の今、短期大学は女性の四年制大学志向とも相まって、志願者が減り続け、その存在意義をも疑われている。そして、喜多村のいう「淘汰」が現実のものとなってきているのである。

 

 

 以上、4つの時期にわけて短期大学の変遷をおってきた。短期大学のいう専門技術者を理科系と区別するため準専門技術者と呼べば、それぞれの特徴を、

   成立期 : 準専門技術者養成型教育

   成長期 : 花嫁教養型教育

   変質期 : 準専門技術者養成型と花嫁教養型教育

   退潮期 : 専門技術者養成型・資格取得型教育

とすることができよう。

 本章から浮かび上がってくる短期大学像は、家庭にはいることを明示的・非明示的に前提にした上での専門技術教育(職業教育)を行ってきた機関であるということである。そしてこの背後には、女子学生=母・妻ともいうべき戦後版良妻賢母主義と、労働力不足による女性の労働化があった。

それでは、実際にその専門技術教育のジェンダー的構造を考察するために、専門技術教育の核となる資格について次章で考察する。

 


第5章 短期大学と資格

 本章は、短期大学における資格教育とは何であったのか、その性格を把握するとともに、短期大学における資格教育がいかにジェンダー・イデオロギー根ざしたものであったのかを把握することにある。本章では、第1節において、「資格」とは何か紹介し、第2節において前章の四つの時期の区分を参照しつつ、短期大学でいかなる資格教育が行われてきたのか、その変遷を概観する。また第3節では資格教育とジェンダーの関係を考察し、その上で個別具体例として、第4節でもっとも短期大学の特色があらわれていると思われる「秘書士」を取り扱う。第5節は、本章のまとめと現在起きている資格教育についてふれる。

 

 

第1節 資格とは何か

 「資格」と一言でいっても、それは非常に多義的な意味を持つ。第1章では、教育資格という言葉が用いられたが、この言葉は「学歴」とほぼ同義である。また、資格=能力として扱われることもある。本章では、資格とは「直接・間接的に職業に関わるもので、かつ誰もが取得可能な称号」としたい。あえて「称号」としたのは、実体的な規定力がないような資格――一般的な知名度が非常に低く、また業務独占をしているわけでもないようなもの――も想定することが可能だからである。

 それでは、資格とは具体的にどのようなものを想定するのか。職業や能力を規定する資格に関しては、今野・下田の分類[81] がわかりやすいので、彼らの分類に従って説明する。今野・下田は「誰が認定するのか」「業務上にどのような機能を持っているのか」をまず想定する。前者は変数として、国や地方自治体などが認定する「国家資格」/国などが管轄する半官民間団体が認定を行う公的資格/民間団体が認定する民間資格が上げられる。後者の変数は、業務独占資格――資格がないと当該業務に従事できない資格――か能力認定資格でわけ、さらに業務独占資格について職種型と職務型を用意する。それぞれが該当する資格は、次の表4[82] のようになる。

 

 

 本節の目的は「資格」それ自体の考察ではなく、資格を社会的状況に即して位置づけることであるので、これ以上資格概念自体やその分類法には立ち入らないが、今野・下田が示したこの分類は念頭に置いておく。業務独占資格のさらに職種型の資格でない限り、ある資格を持っていたとしても、その資格保有者の身分はその資格では決まらないことに注意してもらいたい。職種型業務独占資格である税理士の資格を保有する人は、税理士として働けば職業上の身分が税理士と規定されえるが、職務型業務独占資格である危険物取扱主任者の資格を保有し、またその資格を用いて職務に従事していても、職業上の身分は専門技術者であるとか事務従事者であるとなる。さらにいえば、能力検定資格は職業や職務を規定するものではなく、資格保有者の能力に一定の評価――すくなくともこれだけの技術をもっている――を与えるものである。

 さて次に資格の認定について簡単に紹介する。資格の認定には、主として二つの方法がある。一つは認定試験を受け合格することである。もう一つは、認定資格を持つ機関に通い、その機関を修了後、認定を受けることである。これらは複合されることもあり――たとえば判事、弁護士など――、また認定試験に様々な前提条件(主として、職務従事年数や学歴)がかされることもある。[83]

 最後に、資格の社会的位置に関して一言付け加えておく。業務独占資格のように法律や条令によって職業・職務範囲が規定されているものを除く、能力認定資格は、前述したように保有者の当該技術能力が一定水準に達していることを証明するものである。しかし、その技術能力はその資格を認定する協会や団体が規定するため、資格間でも序列があるばあいもある。たとえば、英語に関する資格には英語検定、TOEFLTOEIC、国連英語検定など実に様々にあるが、これらをある視点から見れば序列化することが可能であるということである。また、逆をいえば、この「ある視点」を共有していなければその能力認定資格は全く意味をなさなくなるということである。この点が、業務独占資格と能力認定資格との大きな相違である。前者が、法という正統性をもって制度的に位置づけられているのに対して、後者は、その保有者を評価する側の裁量と価値観次第であるということである。この点は、後に重要になってくるので強調しておきたい。

 

 以上、資格とは何か、簡単に紹介をした。それでは次節以降で、実際に短期大学における資格教育についてみてゆく。

 

 

第2節 短期大学の資格教育

 本節では、短期大学における資格教育の変遷をみてゆく。また、その際第で第4章で用いた4つの時代区分のうち成立期と成長期を合わせて、3つにして用いる。

 

成立期・成長期

 この時期は、資格制度自体が戦後の再編の過程にあり、ここの資格制度が多少時間差を持ちながら現在の制度のかたちを作っていった時期である。

 短期大学と関連する資格と、その制度化の状況を並べてみると

 

  1947年 栄養士 ……栄養士法の公布

  1949年 教員  ……教育職員免許法の公布

              →1953年、一部改正「過程認定制度」の創設

               1954年、仮免許の廃止

  1950年 司書  ……図書館法の公布

  1951年 保母  ……児童福祉法の改定

 

 短期大学発足当初から取得できた資格は、主に4種類、栄養士、教員(幼稚園・小学校・中学校教諭二級免許[84]、高等学校教諭仮免許)、司書、保母であった。特に、栄養士と教員免許は、戦後直後の混乱期で数が不足しており、資格取得も容易であったようである。また発足当初、これらの資格は該当する学科を経ればいずれも卒業するときに無試験で与えられていた。

 1953年に教育職員免許法が一部改正され、同法が定める単位を修得することが教員資格取得の要件となり、多少資格取得が難しくなっている。また、1954年に仮免許制度が廃止され、以降短期大学では高等学校教諭の資格を取得することはできなくなったのである。

 さて、第4章において成立期は、良妻賢母思想とは一定の距離をとりつつ、「可能性」を支える専門技能の教授を特徴とすると指摘した。この専門技能とは、上記の資格だったのである。

 

  榮養士とか、教員とかは、女子に最適な職業であると信ずる。在学中、努力して免許状を取つておけば、結婚しようとしなかろうと、又は寡婦になろうと、何時でも就職の機会がある。この職業はある種の職業のように容姿や年齢の制限はないし、内職ミシン、音曲教師のように常に時間をかけて高度の技術を維持しおく必要もない。又日雇のように生活不安もない。[85]

 

 資格は、自らの「可能性」を広げるための「安心材」としての見方が強いことがわかる。ただし、この時点では資格はあくまで安心財であって、「資格を活用しないですむにこしたことはないという考え方が支配的であった」[86] のであり、このような傾向は成長期の良妻賢母志向とも親和的だった。「安心財」は良妻賢母志向にとっては「主婦へのライセンス」ともいうべきものでしかなかったのである。

 

変質期

 短期大学における教育の中で、「資格取得」が本格的に組み込まれてゆくのはこの変質期、特に1965年以降である。図7[87] をみていただきたい。1965年頃、高度経済成長真っ盛

の時期から、資格を取得できる短期大学が急増していることが分かる。全国の短期大学で、資格を取得するコースができ、資格認定を行った。また、この時期は短期大学が急増する時期にも重なり、新設された短期大学は当初から「資格教育」を行った。

 さらに、1972年に「衣料管理士」、1974年に「秘書士」があいついで創設される。この二つの資格の創設は、この変質期の最大のポイントとなる。いずれも短期大学が中心となって、この二つの資格を認定する協会「自体」を設立している。衣料管理士を認定する社団法人「衣料管理協会」は衣服系の学部・学科をもつ女子大学と短期大学が集まって設立された。また、秘書士の認定を行う「全国短期大学秘書教育協会」[88] は、秘書教育を行う私立短期大学9校によって設立されたものである。短期大学が、自らセールスポイントとするために「資格」を作り上げたといってもよい。なお、秘書士に関しては第4節で詳しく考察する。

 この時期は、就職率が8割を超える時期であり、卒業後に就職することはほぼ既定の路線であった。そのため、就職活動で付加的な意味をもたらすよう、「職業基礎教育」的な資格が急速に普及したのであり、同時にそれを就職で売り込むために資格が「作られた」のである。

 

短期大学は<専門技術教育=資格教育>の構図を全面に打ち出す方向性へと舵を切った。なお、青島は1960年〜1970年代の「花嫁学校」としての性格と「資格がとれる短大」という特性を明確にした時期が同時期であることに注意を喚起している。この指摘は、短期大学における資格教育の意味を考えるとき、非常に示唆的であろう。[89]

 

 

退潮期・現在

 退潮期の特徴は、前述したとおり、専修学校との競合にある。この競合関係から、ある短期大学はより資格教育に特化し習得できる資格数を増やす、合格率を高めるなど専修学校に対抗するものや、逆に前章でも触れたように人間教育と実務教育の融合をはかるというかたちで短期大学としての独自性を打ち出そうとするものなど多様化が進んでいる。前者は、「秘書士」だけではPR不足と考え、新しい資格として「上級秘書士」(1993年)「情報処理士」「上級情報処理士」(1994年)などを創設し、より多角的な「資格教育」を展開する。[90] 後者に関しては、女性学の開講や留学制度の充実などを「うり」にする短期大学も増えている。[91]

 またこのほかに、1987年に制定された「社会福祉士及び介護福祉士法」によって、福祉の領域に新しい資格が設定されている。短期大学においてもこの社会福祉士を養成する動きは徐々にでてきており、短期大学の資格教育の一角を担うことが予想される。

 退潮期はそれぞれの短期大学で異なった動きをしているため、短期大学全体でみると、図7が表しているように資格教育は停滞しているようにみえるが、実態は短期大学内での多様化が進んでおり、より「資格教育」に特化するものもある。

 短期大学の資格教育全体について、簡単にその変遷を触れた。それでは、実際に取得された資格はどのように扱われたのだろうか。表5[92] は、就職時の資格の活用状況を示したものである。表5は最近の資料であり、歴史的変遷における活用状況は示すことができなかったが、中学校教諭二種

(以前の中学校教諭二級)などの活用率の低さは、すでに20年以上前からあまり変わっていないようである。[93]

 表7から読みとれる現実は、短期大学の資格教育と、その目的であった就職――ひいては社会への還元――とが乖離していることを示している。資格教育はその目的を到達していないにも関わらず拡大をしてきたのである。

 

第3節 秘書教育

 本節では、「秘書士」の資格習得に関する教育――秘書教育――に関して、具体的に考察する。

 前節でも説明したが、資格習得を目的とした秘書教育は、1973年、それまで独自に秘書教育を行っていた有志の私立短期大学数校が、「全国短期大学秘書教育協会」を設立し「秘書士」の称号を認定し始めたことが始まりである。この称号が設定される以前にも、秘書教育は一部短期大学で行われていたが、それはあくまでも一部であった。

 1960年代後半から、高度経済成長の影響で事務職としての女子学生の採用が拡大の一途を辿っていた。企業側としては採用から結婚適齢期までの期間を考えると、高卒女子学生よりは質が高く、四年制大学卒の女子学生と比べて若干長く雇用することができ、また初任給も安くすむ短期大学卒の女子学生に白羽の矢がたち、就職率も7割〜8割と過去に例をみない高水準に達していた。[94]

 そこで、「企業の事務職として働くのに必要な知識や技能を教育する」目的を持つ短期大学増え、この種のいってみれば就職準備教育を「秘書教育」と呼んだのである。この秘書教育の結果――その様な教育を受けたという実績――をより社会にわかりやすくするために称号という資格化に踏み切ったのである。青島は、「その発生時点から「秘書」という特定の職種に従事するものを想定した教育ではなく、企業の補助職に従事する若年短期雇用型の女子社員を想定したものであった」(傍点は引用者)[95] と指摘する。実際に行われている「秘書教育の内容」とは、「マナー教育」であり、「知識技能の習得」であった。[96]

 この「秘書士」の称号は、最低23単位(必須9単位、選択14単位)を履修して申告すれば認定されるものであった。それは、学生にとって手軽に取得できる上就職に有利になる(であろう)資格であり、また学校側にとっても高価な設備の容易などは必要とせず、安価にセールスポイントを作ることができるものであった。第2節の図7で示したように、この手軽さによって「秘書士」資格を習得できる短期大学――つまり、全国短期大学秘書教育協会の会員になった短期大学――は急増した。また、この秘書士の資格が取得できる学科は教養系や社会系の学科だけではなく、家政系や教育系の学科にもみられた。これは、教育系で中学教諭二種免許を取ったとしても、就職できる可能性が低かったため、該当する学科の学生の多くが「民間企業へ就職している状況において、在学中に学習する内容と卒業後の進路との間のギャップを埋めるため」[97]、専門上直接関係のない秘書教育を導入したのである。

 このように、短期大学における秘書教育は、企業秘書を養成するのではなく、企業に「補助職として」就職するため事前訓練であったのである。このことは、文部科学省が認定する「秘書検定」(財団法人 実務教育協会)のウェブ・ページにかかれているキャッチコピーをみるとよく分かる。

 

  スムーズな電話対応ができます。敬語が正しく使えます。ビジネス文章が書けます。職場でのマナーが覚えられます。用件が手際よく伝えられます。

  秘書検定合格証は、よりよい就職へのパスポートです。(傍点は引用者)[98]

 

  秘書検定は、女子一般事務職の職務内容を「秘書技能」という名称に集約したもの。事務職志望の女性ならば誰でも備えているべき、基本的な実務知識です。

  資格検定は、公的な資格を得ることに意義があることはもちろんですが、それによって就職の際に有利な条件をつくること、社会生活の目標にできること、またそれらの学習手段として作用するところにも大きな意義があります。(傍点は引用者)[99]

 

 これらをみれば一目瞭然であるが、秘書教育は専門技術教育というよりは就職準備教育であり、実質的には以前の花嫁学校と呼ばれたときの教養教育に他ならないのである。秘書士の称号とは、対外的には「箔」をつけさせ、対内的には資格を習得するよう自分をたきつけ、あるいは自分自身に資格を所有しているという安心感を与えるものでしかなかったのである。

 さらに、もう一点注意しておくことがある。それは、秘書士という称号は1980年代までは就職などで有効であったようだが、現在では就職にあまり役に立っていないという事実である。次の文章を読んでもらいたい。

 

  資格で重視されるのは、銀行では一番が珠算の級です。珠算の心得のある人は数字への対処の仕方が他の人と違います。そのほかでは英語検定、情報処理技術者、ワープロの資格取得者も有利です。……(中略)……これらの資格以外の資格は取得しても銀行ではメリットを認めていません。[100]

 

 秘書士の称号は、例え事務職など補助職に就職する場合でも、評価されないことがままあることが分かる。これは、秘書士の資格が「能力認定資格」であるにも関わらず、確固たる専門領域が確立されていないことに起因しているといえよう。

「秘書士」という資格をみるとき、私たちはそれを「資格」としてしか認識しない。ましてや、それがジェンダーを固定化させるものだとは思いもしない。しかし、秘書士や秘書教育は前述したように決して中性的なものではない。実際には男性の社会人の「補助」の役割を、「制度として正統性をもたせた上で」、女性に押しつけているものであって、それは職のジェンダー化を促進させる陰の構造を支えていたのである。そして、その基盤は戦後版良妻賢母主義から受け継いだ教養主義であった。このことは、よくよく認識しておく必要があるだろう。

短期大学の3つの特徴、すなわちジェンダー化、戦後版良妻賢母主義の影響、専門技術教育が融合した先にできた資格が、秘書士であったと結論づけられるのではないか。

 

 

第4節 資格とジェンダー

 天野は、社会学者が看護婦や教師、保母など女性比率の高い職業群を「準専門職 semi profession」とよび、医師や弁護士などの専門職と区別している点について、この職業構造と性による差別構造には直接的な反映があるとする。

 

  準専門職が何よりも女性の職業であることは、現代社会における女性の社会的地位と無関係ではあり得ない。

  準専門職は第一に、「準」専門職であるがために女性の職業であり、第二に、女性によって占有される職業であるがために、「準」専門職となる。[101]

 

 準専門職の多くが、女性比率が高いことは図8[102] をみても明らかだろう。さらに天野は、男性が多専門職/女性型(準)専門職は、知性(マインド)と感性(ハート)にそれぞれ基礎がおかれた職業であると指摘する。準専門職と呼ばれる職業群には、「ハート」を重視するという特徴があり、それが「女性の適職」であるという言説をうんでいるというのである。同時に、職業の社会的評価は専門職>準専門職となるが、男性はこの評価を重視して準専門職に就こうとしない。そして、準専門職という空白を女性が埋めることとなるため、よりいっそう準専門職は「女性の適職」とされる。[103]

 ここで、準専門職に女性比率が高いことと、女性の適職であること、どちらが先かを問うても、それは「鶏と卵」の議論であり意味をなさない。むしろ重要なことは、この二つの言説が相互に結びつきお互いを支え合ってきたことである。

 

 さて、ここで短期大学の資格教育に再び視点を戻したい。短期大学の資格教育においてもたらされた公的職業群は、幼稚園・小学校・中学校教師、保母、司書、栄養士である。中学校教師には二種免許を取得してもほとんど就けないという事実を考慮すれば、短期大学の資格教育とは準専門職養成に他ならない。また、後に資格教育の中で重要な位置を占める「秘書士」は公的職業ではなく単なる称号であるが、その位置づけは秘書の専門技能というイメージをかぶっただけで、実質的には男性の補助労働者となることを制度的に規定するものであったことは、前節に説明したとおりである。

 資格教育の重要な点は、過程修了後に「資格」認定を受けることで、学んだ能力が「制度的に正統化される」ことである。それは同時に、その資格によってその人が社会的に位置づけられることも意味している。もし、学んだ能力自体がジェンダー化していたら果たしてどうなるのか。

 天野の指摘したとおり、その職業が女性のジェンダーに色づけられていたら準専門職として、男性のジェンダーに色づけられていたら専門職として把握されたのである。資格とジェンダーはこのように分かち難く結びついていた。資格は決して中性的なものではなかったのである。[104]

 

 


第6章 短期大学と女性化

 短期大学に通い、そこで秘書などの資格を取得し就職。会社ではOLとして、補助労働にいそしむ。数年たって結婚したら会社を辞め、子育てに。とはいえ家計は苦しいので、子どもに手が余りかからなくなってから再びパートとして働く。このときには、短期大学で取った資格は役に立たなくなっていることもある。そして、パートでは安い給料で正社員なみの仕事やらされ、家に帰ると家事が待っている。

 

 このような構図は、彼女の能力による競争の結果という説明だけで終えてしまってよいのだろうか。はたして、彼女個人の合理性や意志、責任に還元してしまってよいのだろうか。

 経済学者のセンは、「功利主義批判」の文脈において、固定化した不平等が存在しているときの人々の行動について、次のように論じる。

 

  永続的な逆境や困窮状態では、その犠牲者は嘆き悲しみ不満を言い続けているわけにはいかないし、状況を急激に変えようと望む動機すら欠いているかもしれない。実際、根絶しえない逆境とうまく付き合い、小さな変化でもありがたく思うようにし、不可能なことやありそうにないことを望まないようにすることの方が、生きていくための戦略としてはよっぽど理にかなっている。[105]

 

 センは、第三世界の貧困層が貧困である原因を、彼らの責任ではなく不平等の状態を維持し続けるシステムに見いだした。不平等の状態を維持するシステムの存在が、先ほどの構図にもあるのではないか。

 第1部において、メリトクラシー社会について論じる教育社会学の諸理論にジェンダー概念を加えた、理論を提示した。この理論を用いることで、短期大学を媒介にした不平等を維持するシステムがみいだせるのではないか。

 

 第4章・第5章でみたように、短期大学の資格教育を左右した軸は二つあった。一つは、良妻賢母思想の影響を色濃く受けた教養主義。もう一つは、妻や母として家にはいるのではない自立志向――あるいは自活志向――とでもいうべきものに支えられた専門技術主義である。この二軸の交わる点は社会の変化とともに動き続けた。だが、重要な点はこの二つともにジェンダーからの影響があったことである。社会環境は、彼女に完全に自立して暮らすことをまず認めず、家庭に入ることを強要した。この文脈の中で、専門技術教育は自立するための技術教育から、秘書教育に代表されるような男性中心の労働環境を補助するための専門技術教育に移っていった。

 葛藤理論は社会閉鎖の理論であると第1章で指摘したが、ここには葛藤理論が説明した状況と同様の状況があらわれているといえる。短期大学に通う学生は、このジェンダーに彩られた、支配階層たる男性に規定された文脈の中でのみ存在が許されたのである。

 この視点からみれば、資格自体もこのジェンダー・イデオロギーの中で、ジェンダー・ヒエラルキーを残すようなかたちでしか存在しえないことが分かる。実際に、資格はその役割を果たしてきたことは前述したとおりである。しかし、資格は同時に短期大学生の目標でもある。資格は、短期大学の中で学生を「加熱」させる働きをし、社会では、この資格しか持っていないのだから準専門職でも仕方がないというかたちで、その人を「冷却」させる働きをしたのである。資格は、その人に可能性を与えるとともに、その可能性を規定してもいたのである。

 

 短期大学が、成長期に女性向けの大学であるとジェンダー化されると、この不平等な構造はより明確になっていった。ジェンダー化した短期大学は、そのままジェンダー的に不平等な状態を維持するシステムとなっていったのである。この構造は今も変わっていない。

 

 短期大学は、女子の高等教育進学率を上昇させたと評価することは可能である。しかし、その背後には、不平等な状態を維持するシステムがあり、常に学生を不平等な状態に送り込んでいたことを見逃してはならない。


終章 ジェンダー的公正

 本章は、短期大学のジェンダー化を説明するものではない。その説明はすでに前章で終えた。本章では、ジェンダー的公正という概念を導入することで、ヒエラルキーの下層に位置づけられた短期大学を、あるいはそこで学ばれた資格を脱構築することはできないか、その試みについて考える。

 

 森田は、資本主義そのものに性差別を生み出す構造が内在していると論じ、このようなジェンダー・ヒエラルキーの構造を解体し、真の男女平等を実現するための戦略的方向性として、「ジェンダー的公正 gender justice 」という概念を提起する。森田は、ジェンダー的公正とは、女性を男性化したり、男性を女性化したりすることによって平等化を達成しようとするものではない。

 

  ジェンダー的公正とはそのどちらでもなく、女性の地位を不断に上昇させて男女の格差を是正しつつ、同時に、男性の現在の生き方・働き方を基準とするのではなく、むしろ女性の社会的・身体的リズムを基準にしようとする。[106]

 

 ジェンダー的公正を達成するには、女性のエンパワーメントによる男女格差の撤廃と、社会のリズムを女性にあわせることが必要であるといっている。私も、この議論には賛成である。

 この議論を短期大学に適用するのであれば、二年制の大学の問題としてではなく、そこで教育される能力が、ジェンダー的公正にかなったものであるのかが問題となるだろう。ジェンダー的公正のポイント一つは、女性のリズムに合わせるというものである。これは逆をいえば、その社会で支配的な層を優先するエリート優先主義の思想を排除するものである。すなわち、ノンエリートの女性のリズムを基準にするのである。

 この部分に資格教育の可能性を見いだすことはできないだろうか。

 それは、短期大学が成立期に模索しようとした自立できる――エンパワーメントする――専門教育から、良妻賢母思想を除いた専門教育を確立することではないのだろうか。ジェンダー的公正を達成するためには、男女の格差を是正する必要があり、そのためには男女が相互に平等に家事・育児・介護などを負担する必要がでてくる。お互いがこの労働を負担することができるのであれば、その負担を考慮に入れた上で安定した職に就くことが、生活の安定をもたらすからである。

 その意味では、成立期の短期大学の資格教育の方向性は間違っていなかったのかもしれない。職業間格差の存在と、それを受け入れる社会的土壌が決定的に欠けていたために、成り立たなかったとも考えられる。

そこで、今後社会的土壌づくりをすることなるときに必要なことは、社会のジェンダー的公正の度合いに柔軟に対応した専門教育プログラムを短期大学が提供することとなろう。

 私たちは、そのようなプログラムを模索し、ジェンダー的公正を達成するための補完的役割を短期大学にも見いだせるよう努力するべきではないのだろうか。

 

 


参考文献

※邦訳書を参照した場合も、原典をあげた

※※引用はしなかったが、特に大きく示唆をえたものも含んでいる

 

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[1] 日本語に訳すとそれぞれ「資格」となるcredential qualification は、意味の範囲が異なる。credential は資格認定状や免許状とも訳され、制度的な認められた資格という色合いを持つのに対して、qualification は技能や能力などより広義な色合いを持っている。本章では前者を対象とすることになる。

[2] ヤングの著書では、メリットとは能力と努力、あるいはそれを証明するものからなるとされているが、詳しい説明にはない。一般的には、職業に貢献できるだけの能力や実力、あるいはそれを証明するものを意味するとされている。ここでは、メリットを能力や実力を証明するものとして学歴・業績とした。

[3] Young,1958 = 窪田・山元訳、1982

[4] 同邦訳書、250

[5] コリンズは、メリトクラシーという表現は用いておらず、資格社会 credential society と表現している。これはコリンズの分析が、学歴・資格のうち、特に学歴(中卒、高卒、大卒など)を重視しこの学歴を educational credential と呼んだからである。

[6] Collins , 1971 = 潮木・天野・藤田訳、1980100

[7] Murphy , 1979 , pp.19. マーフィーは、機能理論に関して次のようにも述べている。「機能理論は職業的成功を果たす社会的出自とか帰属的要因を認めず、またそうした契機と関わりを持つ教育資格を適切に認識していないのである」(傍点引用者)。Murphy , 1988 , pp.31.

[8] Collins , 1979 = 新堀通也監訳、198411

[9] 竹内、199519

[10] Collins , 1971 = 前掲邦訳書、119

[11] 竹内、前掲書、20

[12] Bourdieu , 1979 = 石井訳、1990242

[13] 竹内、前掲書、65

[14] 竹内、前掲書、51

[15] Rosenbaum , 1976 , pp.6.

[16] 竹内、前掲書、52

[17] Goffman , 1952 , pp.453

 なお、ゴッフマンのいう「冷却」とは、ブルデューのいう「社会的老化」とほぼ同様の概念である。ブルデューはこの点を次のように説明する。「社会的老化とはこの緩慢な喪の作用、あるいはこう言ったほうがよければ、(社会的に援助され奨励された)投資縮小 désivestissement の作用にほかならない。この作用によって行為者たちは、自分の願望を今ある客観的可能性に合わせ、そうして自分のおかれている存在状態と折りあいをつけて、自分があるがままのものになろうとし、自分がもっているものだけで満足しようとするようしむけられてゆくのだ。」Bourdieu , 前掲邦訳書、173

[18] 竹内、前掲書、75

[19] Karabel , 1972 = 潮木・天野・藤田編訳、198076

[20] 同上書、76

[21] Weber , 1956 = 世良訳、1960136

[22] 同上書、137

[23] 河野、1991360

[24] Dore , 1976 = 松井訳、1990

[25] 河野、前掲書、360

[26] 宮島、198587

[27] 同上書、88

[28] 河野、199380

[29] この3つの次元に関しては、[森田、1997][舘、1998]を特に参照した上で設定した。

[30] Stoller1968 朝山訳、1973

[31] Beuvoir , 1949 = 生島訳、19599

[32] 竹内、199682頁 また、竹内は教育現場における性によるカテゴリー分けの特異性と問題を、次のように表現する。「人種や階級の場合には、たとえば「黒人はこっち、白人はあっち」もしくは「ブルジョアの子どもは先、労働者階級の子どもは後」といったカテゴリー分けによる行動統制は、現在想定しがたい。しかし、性別の場合は長い間差別とは無関係なものとして容認されてきた」同上書、84

[33] 上野、199513

 なお、引用されているデルフィの所出は、Delphy ,C. 1988, Sexe et Genre , paper presented at the International Conference for Women’s studies at the National Institution for Women’s Education. =「セックスとジェンダー」国立婦人教育会館国際女性学シンポジウム1998『性役割を変える:地球的視点から』

[34] ここでは、言語によって作り上げたという意味を強めるために、あえて「社会構築」という言葉を用いた。これは、P・バーガーらによる社会構成主義に対して、ありとあらゆるものが言語によって構築されるという「言語論的展開」以降の意味あいをこめるためである。(英語では同語の social constractionism)なお、このような使い方に関しては、[上野・竹村、199947]を参照した。

[35] Scott , 1983 = 荻野訳、199216

[36] 同上書、16-17

[37] 「ジェンダー化」とは、この場合「社会制度が性別によって固定化し、秩序化されている様態」をさす。もともと日本語において「ジェンダー化」という表現は、前述の意味と、対象をジェンダーの視点から分析し知を再構築するという二通りの全く逆の使われ方をしているが、ここでは「ジェンダー化」を前者、「ジェンダーによる知の組み替え」を後者の意味で使用する。[舘、前掲書、84]を参照。

[38] 舘、前掲書、87

[39] Duru-Bellat , 1990 = 中野訳、1993pp.

[40] 「隠れたカリキュラム」とは、この場合性差に基づいて男女を異なる目的の下で異なる処遇をもって教育することが公にできない――差別と見なされる――ので、公的には意味を持たない「単なる慣習」「ささいなこと」として隠蔽された差別が制度化したものである。例えば、男女別で男子が先女子が後のクラス名簿など意識されにくい部分から、男女別の制服の様式、女子は家庭科必須/男子は技術科必須といったかなり明瞭なものまで様々にある。これら全てが、社会化を彼/彼女らに及ぼし、性差を内面化したハビトゥスを形成させてゆくのである。[Duru-Bellat、前掲邦訳書、47][竹村、前掲書、88-91][木村、2000]など。

[41] もちろん、第1章であげたコリンズやブルデューらは、性に対して全く論及を行っていないわけではなく、著書の至る所にその痕跡は見受けられる。しかし、それは扱ったとしてもジェンダーとしてではなくセックスとして扱ったのであり、男/女という固定観念に根ざしたものであった。

[42] 上野、199513

[43] 文部省『学校教育基本調査』より作成

[44] 松井、19971-4

[45] 亀井、1986119 などを参考にした

[46] 阿部、199055頁から ファースの引用は、Furth ,D.  1989-1990 “High Education-Alternative to Universities”, The OECD Observer, 161, pp.5.

[47] 戦前においても、すでに日本女子大学や東京女子大学は存在したが、それらはいずれも制度的には女子高等専門学校であり、大学への昇格を目指して「大学」と名乗っていたにすぎない。

[48] 国立教育研究所日本近代教育資料研究会編、1998373頁 なお、ジニア・カレンジはおそらくアメリカの短期高等教育機関の一つである junior college を発音上は指していると思われる。この junior college は、前述したファースの定義で想定されている community college とは違い、高校卒業後の女性を収容する私立の短期大学である。また junior college 1940年代に入ると次第に community college にとって代わられるようになり存在意義を失っていっていった。[伴、1998] なお、河井がこの二つの大学の違いを把握した上での発言かどうかは不明である。

[49] 二年ないし三年制の大学に対する反対意見として特に多かったものが、二年では教養教育しかできず、「電気や工学などはとうていできない」というものであった。[同上書、374] これらの発言は、教育=技術技能などの習得という発想が前提となっている。そして、これらの技能を習得するべきは女子ではなく男子であるという発想が根強い。

[50] 「学校教育法の一部を改正する法律案」(1949年)として提出された改正案の意見書において、「旧制の高等学校および専門学校等のうちには、その人的物的施設の実状にかんがみ、四年制の新制大学に切り替えることが困難なものもあるので、暫定的に二年又は三年制の大学を認め、できる限りすみやかに、新学制の完成をはかる必要がある」としている。 文部省大学学術局技術教育課編「短期大学の現状について」[日本教育委員会、195586]より。

[51] 但し、短期大学の6割が女子短期大学であったことも事実である。

[52] 『第5回衆議院文部委員会議録』 [日本教職員組合、前掲書、86-93]より

[53] 地方の新制国立大学の多くは財政難に陥っているので、これらの大学を二年制のジニア・カレッジにし、さらに学びたい者は後期二年のシニア・コースを他の四年制大学で学ばせることができるようにしようというもの。

[54] 「社説 短期大学の発足」『毎日新聞』1950315

[55] 「社説 短期大学の使命」『日本教育新聞』1950318

[56] 寶生、195123

[57] 森本、195128

[58] 文部省『文部統計要覧』から作成

[59] 文部省『文部統計要覧』から作成

[60] 大学設置委員会 1949『短期大学設置基準 第一趣旨』 [海後、1969262]より

[61] 大学設置委員会 1949『短期大学設置基準 解説』 [海後、前掲書、200]より

[62] 日本経営者団体連盟教育委員会 1956『新時代の養成に対応する技術教育に関する意見(附)補足説明及び参考資料』 [海後、前掲書、236]より

[63] 中山、19568-9頁 なお、著者の中山は当時の日本傾斜団体連盟理事・教育部長

[64] 丸山、195630

[65] 越原、195649

[66] 日本私立短期大学協会編、195924-25頁 本文は「座談会 一九五九年の展望 世界に類のない短期大学の繁栄――会員校の意思尊重し、努力惜しまず――」の採録であり、引用した発言はすべて松本・日本私立短期大学協会会長(当時)によるのもの

[67] 片山・米川、199382

[68] 落合、199419

[69] 向坊、195637

[70] 暉峻、1962

[71] 池田、1962

[72] 日本私立短期大学協会、196773

[73] 伊藤、197350

[74] 牧野、199642-45

[75] 喜多村、1989

[76] ともに、文部省『文部統計要覧』より作成

[77] 専修学校は、「職業若しくは実際生活に必要な能力を育成し、または教養の向上を図ることを目的」とする学校であると定められている。『教育基本法 第八十条の二』

[78] 日本私立短期大学協会編、197697頁 引用部は「特集座談会 高等教育の多様化を考える ――三つの教育制度(短期大学、高等専門学校、専修学校)を中心にして――」においての、大沼淳(文化女子大学短期大学部学長(当時))の発言。

[79] 同上書、100頁 引用部は同上の大沼と、犬丸直(文部省管理局長(当時))の発言。

[80] この「ぶれ」については、次章で詳しく考察する

[81] 今野・下田、1995

[82] 同上書、44頁より

[83] 資格と認定の関係に関しては、歴史的変遷も含めて [辻、2000] に詳しい。

[84] 短期大学、各種学校(幼稚園教諭二級免許が取得可能なもの)において教員免許を取得した場合、二

 

級免許となる。四年制大学において取得した場合は一級免許である。

[85] 森本、195312

[86] 青島、1997b104

[87] 同上書、134頁より作成

[88] 発足当時の名称は、短期大学秘書教育協議会

[89] 青島、前掲書、109

[90] これらの資格を設置したのは、秘書士の資格認定をしてきた全国短期大学秘書教育協会(1994年に全国大学・短期大学実務教育協会と改称)である。なお、このことは全国大学・短期大学実務協会のWebページを参照した。 http://www.jacb.gr.jp/

[91] 松井、1997 松井は、女性学や留学制度による国際化が、女子短大生にどのように受容されているのかをも分析している。

[92] 青島、1997a60頁を参考に、独自に新しいデータを、項目を加えた

[93] 1969年にだされた『短期大学教育 第26号』「短大卒業生の就職戦線」では、「中学教員への道は、音楽とか、体育とか、美術とか、保健衛生とか特殊学科の卒業生を除いては全く閉ざされた職場となってしまった」と報告されている。[田淵、1969337] また、短期大学で習得できる二種免許では教員採用が厳しいことから、学科間でも免許習得に差がでているという報告もなされている。[山本、199533]

[94] 『短期大学教育 第34号』に、月刊リクルートの「短大女子の活用」という記事が紹介されている。「短大卒女子は金の卵になりつつある。……(中略)…… 高卒から短大卒に切りかえてメリットがあるのだろうか。「ある」と多くの企業が指摘する」以下その理由としては、飲み込みがよい、サービスの質が向上する、ムードがある、専門技術の分野へ回すこともできる、専門性を持たせれば高卒なみの雇用期間を確保できる、としている。 下の記事は「月刊リクルート 19769月号」。 [日本私立短期大学編、197647]

[95] 青島、1997b108

[96] 服部、1990193

[97] 藤井、199353

[99] 同上のWebページより

[100] 本多、199490-91

[101] 天野、198258

[102] 総務庁統計局『国勢調査』より作成

[103] 天野、前掲書、92-93

[104] このことを傍証する例としては、「女性のための」と銘打たれた資格ガイドの存在なども上げることができるだろう。

[105] Sen , 1992 = 池本・野上・佐藤訳、1999

[106] 森田、1997259