2000年度卒業論文 小熊英二研究会U 2000年度卒業制作

小熊英二研究会U 2000年度卒業制作

トイレ及び糞尿における身体の位置づけ

環境情報学部4年

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林綾乃

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目次

序章

 問題設定

第T章:民俗学的に見る近代以前のトイレ及び糞尿

 1:邂逅の場としてのトイレ

  2:糞尿を溜め置く場としてのトイレ

  3:「糞尿利用は進歩である」

 第U章:糞尿観における近代化

    1:<糞尿利用=野蛮>への反発

    2:糞尿の「科学的」利用法

第V章:トイレにおける近代化―改良便所と水洗便所

 1:「国家的」衛生組織の確立

  2:衛生観念と糞尿処理システムとしての便所―水槽便所

  3:欧米という他者

   高野六郎/藤原九十郎/『台所、便所、湯殿及井戸』

 4:国家対策としての便所―改良便所

  5:軍隊に於ける用紙研究

  6:糞尿処理の実状

第W章:住宅史の変遷に見るトイレ

 1:事例で見る、洋風住宅の導入―「文化」の証としてのトイレ

  2:住宅論に見る中廊下式住宅

   家族本位論/中廊下型住宅におけるトイレの位置づけ

  3:同潤会資料を読む

   「住宅改良運動」略史/「住宅改良」の困難―同潤会資料から

   住宅改良運動におけるトイレの位置づけ

  4:簡略戦後住宅史

   敗戦後の住宅不足/「HOW TO掃除」本の登場/DKという表示法

   高度経済成長の波と低成長時代

第X章:学校衛生におけるトイレ

  1:「学校衛生」が意味するもの

   学校衛生=国家の栄枯盛衰/操作可能物体としての児童の身体/「奇形」の 

   無用者/衛生という“欧米産”コードの中で/有為者の「適当」なる身体

   規格化される身体―体の序列化と測定の精密化

  2:「学校衛生」における便所

   清潔法とコレラ/規格化される便所

終章:トイレ及び糞尿に見る近代と身体の関係

序章

 問題設定

まず一つ目に、学術的な分野の興味として身体論があった。近代西欧の論理によってヒエラルキーの中に治められてしまった視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という人間の知覚機能は、現代に於いてどのような様相を呈するのかに、興味があったからである。自らの肉体―眼・耳・鼻・舌・皮膚と、それが覆う身体―がそのような順でランク付けされていることに驚きがあったと同時に、そういった近代的身体観はどのようにして創られていったのかを具体的素材を通して見てみたかったのである。

そしてまた同時に、日常生活を送る上での漠然とした興味としてトイレがあった。幼い頃、トイレのきれいなうちは、おうち全体がいつもキレイなのよ、とかトイレをキレイにする人は心もお顔もキレイになるのよ、だとか言ったように母に言われ、妙にトイレ掃除と縁があったせいか、飲食店に行ったときなどは料理や雰囲気と同じくらい、トイレに注意を払ってしまう。「汚い」が故にこそ、「キレイ」が強調されるのか、そうだとして、何故そこまでトイレは「不潔」視されるのか。そして「不潔」なことはなぜ「悪い」ことなのか。

次々に沸いてくる疑問の中で、トイレは近代的身体を考察するのに適したテーマをたくさん孕んでいるのではないかと考えた。そして、それには「身体」にも「トイレ」にも内包される「糞尿」という所在不特定の存在を見逃すことができない。

従って、主にトイレの近代における歴史的変遷をみることで、身体に於ける糞尿の位置や、あるいはそこから更に見えてくる身体そのものについての考察ができれば、と考えた。様々な角度からトイレが持つ意味を分析することで、少しでも近代的身体が持つ意味を、すなわち、近代という時代が包括し、その一方で排除した物が見えてくることを目的とする。

市川浩氏は『<身>の構造』の中で、次のように言う。

 

  …上が特権的な価値を持つようになります。それは多くの植物が上へ生長し、衰

退すると下へ崩れ落ちて枯死すること、感覚器官や言語器官のある頭が上にあるこ

と、主体的なものがもっとも意識的に表現される顔が上にあることと無関係ではな

いでしょう。それに対して足は、最近でこそ露わにしますが、昔は見せなかったも

のです。これは大地に接触するという意味で、非常にエネルギッシュなものである

けれども、闇につらなる部分であり、マイナスの価値である。また下の方向は排泄

の方向でもある。(中略)人間だけが排泄物をきたながるということも、上下の価値

づけと関係があるのではないでしょうか。

   (『<身>の構造』市川浩 1993p.151p. 152

 

 市川氏はこの原本のあとがきで「心身二元論を超え、皮膚のうちに閉ざされた身体という固定観念をとりはらうことは、私のかねてからの関心であった。」と言っているのだが、この観点かに立ったとき、上に引用した部分に関して言えば今一つ説得力にかけるように感じてしまう。

多くの植物が太陽の光に向かって伸びて行くのは確かな事ではあるが、全てがそうであるとは断言でない。日の当たらない場所を好む植物とて多く存在するであろう。また枯れて元気がなくなって「下」へ向かうのは重力との関係によるものにすぎない、と言い方もできる。単に、人間がそういった自然現象に「意味」を見出す存在であるという事以上のものはないのだ。

それよりも、「主体的なもの」が意識的に表現されることの重要性の是非や、「下の方向は排泄の方向でもある」から「下の方向はマイナス」である、のは何故か、と問うて始めて「心身二元論」を超え出る事ができのではないだろうか。人間が「下」にマイナスイメージを持つことは確かであるにしても、それは所与のものとして、客観的事実としてあるのではなく、人間自身が創り上げた恣意的な「イメージ」にすぎないのだ、という事を自覚することから始めればならないのであろう。

そういった自覚を持つこと、あるいは現在私たちにとって「当たり前」であることは永遠不変に「当たり前」のことなのか、一体いつからどのようにして「当たり前」になっていったのかを知ること。本研究のめざすところはそれである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第T章:民俗学的に見る近代以前のトイレ及び糞尿

1:邂逅の場としてのトイレ

 

 近代以前の、日本のトイレの在り方をざっと見てみよう。

まず、古代からである。奈良時代に撰上された「古事記」の様々な神話の中には、便所に関するものもある。一例を挙げよう。

あるところに身分の低い男がいて、高貴な女に懸想してしまった。会うことすら叶わぬ恋だが、そこで活躍したのが “川便所”であったという[1]。美人が用を足すその溝を逆流していって陰部へ突きささるという最も原始的な「妻問い」がここに描かれている。ここでは、便所=異質の者同士が出会う異界(=アジール)なのである。

 

 次に、平安後期の絵巻物「飢餓草子」を見てみよう。飢えて道ばたにうずくまり、糞尿を垂れ流しにする人々が描かれているが、排泄行為をしている人の中に、高下駄をはいている人が数人いる。強いて言うならば、この時代に最も普及した“便所”は高下駄だったのかもしれない。自然浄化力が働く時代、戸外での排泄は常識だったということが伺える。ここでは人間と自然の摂理が一体となっている。

 

さて、中世にはいると、民衆仏教の浸透が広く見られるようになってくる。農村では、厠でも路上でも「糞尿」は、流し去るものから溜め置くものへと変化し[2]、それに伴い便所はそれを糞尿の溜め場所としての機能を果たすようになる。また、都市においては人口集中による自然浄化の限界に達し、公共便所の誕生をみることとなる。

 

では、鎌倉・室町時代以降はどうだろう。まず、私的便所から見てみよう。禅の世界では、便所においても宗教的不浄感――神聖と汚れ、という観念――が色濃くでてくるようになる。禅の生活に準じて、排泄の場というのは、聖所であった。聖所で汚れを祓い、再び清浄な者となって現世に立ち戻る。不浄な物を清めるには、便所そのものが清いものでなくてはならない、というのである。ここでは便所=産屋であり、排泄=出産の隠喩であった、という。一方武士の家は寝殿造りに伴い、便所が母屋に設置されるようになる。これは便所の居住空間への同化・世俗化とも言える。身分の差によって便所の位置づけもだいぶ違ったようである。

 

 以上みてきたように、古代から中世のはじめ辺りまで、人々にとって便所というのは、特別な意味を持つ、邂逅の場であったようである。便所にまつわる神話や妖怪話をあげてゆけばきりがない為割愛するが、神と妖怪は表裏一体であり、糞尿とそれを受け入れる便所に対する畏敬の念があったようである。病気にかからないように、治すように行われる赤ん坊の便所詣りや願掛けといったものが行われていたのもそう昔の話ではないし、――扉越しに声を替えることは聖域や決壊の破壊へつながるという戒めが強く働いているか否かはわからないが――咳払い(関、境界)や扉ノックといった、境界を越えて行う無言のコミュニュケーションは今でも行われるものである。

 

また、時代は少し飛ぶが近世・江戸時代には川柳に詠われたりもしたようである。恋人達にとってトイレは、「雪隠の戸押さえ不義者見付けた」「踏み板が外れて二人どさら落ち」といううたに見られるように密会の場所であり、娼婦にとってトイレは、「垂れながらそこへ寄りなと顎でいひ」というように、場所代のかからない商売空間であったようである。

 

2:糞尿を溜め置く場としてのトイレ

 

 室町時代の「洛中洛外図屏風」をみると、柄杓で桶の人糞尿を水田に撒いている様子が描かれている。草を刈って田に敷き込む刈敷や草木灰(草木を焼いて灰にしたもの)という肥料に加えて、下肥と呼ばれる人糞尿が貴重な堆肥として利用されたのであった。

 農業大革命により、二毛作や連作はより豊かな肥やしを必要としたため、糞尿は“魔術的”肥料という商品であり、取引の対象だったのである[3]

さて、これに伴って便所の在り方も変わってきた。糞尿を溜め置くものとしての機能がより明確になってきたのである。便所=肥を集め、蓄える装置であった。

少し時代は前後するが、鎌倉時代後期には京都や大阪で新しい“誘便装置”とでもいうようなものが考え出された。門脇便所・軒便所の誕生である。家の正面に小便器を設置し、通行人の尿をもらう、というものであった。

ここで行われていたのは、自然との共生=自然への還元排泄物(廃棄物)を蓄積しないエコロジー・システムであったのだ、と金塚貞文氏はその著書『人工身体論』[4]の中で主張する。(p.16p.18)動物にあっては、食物の食べ残しも、排泄物も、屍も、全てそのまま生態系という自然のサイクルに委ねられている。人間も又動物的生命の一種属である以上、この同じ生態系の一環を構成し、自然環境の中に組み込まれているはずであるが、人間は完全に自然に埋没してはいない。人間は自然から抜け出し、人工的な循環を構築してきたが、それを可能にしたのは生産である、ということは今更強調するまでもなく、人間が食物を採集する動物から、食物の生産者となることによって、自然の食物連鎖から抜けだし、新しい食物連鎖を人工的に作り上げたのである、と金塚氏は言うのである。

しかし、と彼は続ける。新しい人工的な食物連鎖の構築は、単にそこに植物を作物として、あるいは動物を家畜として取り込むということによる自然生物界の改変をもたらしただけでなく、人間の動物的な在りようの全体までも変えた。生産する動物は、同時に廃棄物の処理をする動物でもなくてはならない。人間は自然から自立すると同時に、直接自然には還らない、自然から自立した廃棄物を作り出したからだ。このような観点からいって、鎌倉・室町時代以降に行われた糞尿の肥料としての使用は、エコロジカルなシステムに沿った物であった、というのである。そしてそのシステムを支えたのが――その廃棄物を自然に還元するために、請け負い、溜め置くという役割を果たしたのが――便所であったのである。

 

3:「糞用利用は進歩である」

 

 また、進歩という視点からこの循環を誉める者もいた。『犯罪科学』1931年(昭和6年)、9月号に掲載された「厠に関する習俗」「(金城朝永[5]による)という論文と、同じく『犯罪科学』7月号に掲載された「排泄の民俗学」についての論文、「屎尿雑記」を以下に引いてみたい。(一部漢字を新字体で表した。)

まず、「厠に関する習俗」[6]の中で金城氏は、糞尿と並んで髪や爪について言及している。

 

  原始民族は自分の体に付随した髪、爪は勿論の事、其排泄物さえ体の一部である

と考へているので、之を通じて呪術の効果を上げる事が出来ると信じているのであ 

る。

(『糞尿の民俗学』所収 『犯罪科学』19319月号所載「厠に関する習俗」p.167

 

どこまでが自分か?自分と他者の明確な境界はどこか?といったアイデンティティの問題は、現在でも例えば人工生殖による母と子の問題や臓器移植の問題等に於いて問われることであり、クリステヴァはその著書『恐怖の権力<アブジェクシオン>試論』(法政大学出版局・1984年・p.103)の中で言うように、元自分であったものであって現在自分でないものの位置というのは非常に難しいものがある。

 

  肉体の開口部にも、肉体の領土を切断―構成する同じだけの指標にも常時関連を

持ちながら、図式的には汚染する物質は糞便と経血の二つの模型に属する。たとえ

ば涙も精液も、肉体の境界部に関係を持ってはいるが、汚染力をもってはいない。

  糞便とそれに匹敵するもの(腐敗、感染、病い、死体等)は同一性の外部から来

る危険を表す。たとえば、自我は非=自我から、社会はその外部から、生は死から

脅威を受ける。逆に、経血は(社会的、あるいは性的)同一性の内部に由来する危

険を表す。それは社会総体のうちで男女の両性の関係に、および内面化されると、

性差に直面したそれぞれの同一性に、脅威を与える。

 

 自己と外部世界との境界上にある糞尿という存在は非常に複雑なものがある。クリステヴァによれば、外部からの恐怖を表すというのである。こういった「恐怖」の感覚は、金城氏の言う「原始民族」のそれと全くの無縁ではないと思われるが、ここでの金城氏の認識としては、一旦体から離れたものは、もはや「自分のものではない」ようである。

では次に、「屎尿雑記」の方を見てみよう。

 

 人類がその排泄物を肥料に使用するようになったのは、農業史上から云っても一

つの大きな発見である。が、他面から観ると又人類生活史上に於ける進歩の一例で

ある。と云ふのは、これも亦人間の実利観念が彼らの心理を、そして又その生活を

も永い間支配していた信仰、と云ふよりも一種の迷信に打ち勝った一つの例証を示

しているからである。古代人に就いては後に述べるが、原始民族の信仰並びに生活

面の種々相を多量に保有していると称される現今のいはゆる未開人種の間には今尚

人体の排泄物即ち糞尿にさえも一種の呪力があると信じていて、例えばタイチ島の

土民は糞尿を垂れると必ず其の上に土を覆い被せる風がある。それは若しも、巫女

や或いは自分を憎んでいる者又は敵に之を持ち去られて、呪術を施されると、禍が

身に降り掛かる畏れがあると云ふ俗信の為であって、つまり未開人は自身の髪、爪

は勿論の事、その排泄物も体の一部であると考えているので、之を通じて呪術の効

果を上げることが出来ると信じているからである。(中略)日本の太古に於いては、 

今まで述べたのとは別の意味から、人糞その物の中に一種の邪気があるとして畏れ 

ていて、(中略)かように人糞は近づくべからざるものと云ふ信仰があったとすれば、 

生命をつなぐ穀類の肥料として之を用いることは我が太古にはなかったと考えた方 

がよいかもしれない。

(『糞尿の民俗学』所収 『犯罪科学』19317月号掲載「屎尿雑記」p.44p.45

 

 金城氏が二つの論文を通して「さっきまで付随していたものを自分の一部と見なすのは未開の人間のすることである」とはっきり述べていることが興味深い。

そして彼によれば、一旦自分から離れたものを利用することが、進歩的人間のすることなのである。糞尿を糞尿を肥料として使うようになったのは人類の進歩の証であり、喜ばしいことであると彼は言う。興味深いのは、糞尿に呪術があると信じるのは未開人であるとし、それは日本の太古であり、土人の現今である、と述べているところだ。西洋の視点から「進歩」か「未開」かを測り、未だ未開である土人と違い、日本は(昔は未開であったが)今は進歩しているのだ、と喜ぶのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第U章:糞尿観における近代化

 

しかしながら、“進歩の証”であった糞尿の利用が今度は、”野蛮“であるとされる時代へ突入する。文明開化の明治時代である。19世紀の列強のせめぎ合いの中で、先進国への仲間入りは近代国家の絶対条件であった。外国人の目(西欧近代)を意識した新政府は条例によって個々人を国民全体として、国家という有機体として近代化へと”導いて“ゆく。

 

1:<糞尿利用=野蛮>への反発

 

 在野の経済人類学者である安田徳太郎の著書「肥料と女の風習」を、少し長くなるが見てみよう。ここには、「糞尿を肥料とすることが如何に野蛮か」という論に対する彼の反発がある。

 

  人間の大小便を肥料にするのは、南アジアの水田耕作民だけの特徴であって、ヨ

ーロッパでは、大昔からそういうきたないものは畑につかわなかったという意見が

ひろくおこなわれている。たとえば、リヒトホーフェンが、1868年(明治元年) 

の11月1日の早朝に、汽船からボートに乗り移って、杭州湾の寧波に上陸したと

きに、農民が、臭いくさい肥えたごをかついで、ぞろぞろ畑にいくのにでくわして、

びっくり仰天した。

「農家の前にいくと、どこでも、肥たごや肥ツボがならんでいた。百姓は、だいじ

なだいじな糞尿を発酵さすために、それをタゴやツボのなかへ、たくわえておくと

いう。(中略)通りがかりの人たちが、この家の百姓たちから、近所の田にまくため

に、旦那、ひと小便めぐんでくれんか、といわんばかりに、引っ張られているでは

ないか。これは、日本よりも、もっとすごい光景である。百姓と経済学者にとって、

これ以上に底抜けの節約はなかろう。たしかにこれは、シナ人が上品な感情を失っ

てしまったしるしであるし、また、臭いと感じる、大事な嗅神経を鈍らしてしまっ

た証拠でもある。」と書いている。

 このドイツ人は、中国南部の有名な糞尿肥料によほどまいったらしく、さかんに

下等だ、下等だ、と連発している。もし、この先生が、明治元年に江戸にしばらく

滞在して、日本の百姓が肥えたごを満載した肥料車を引きながら、江戸市内から知

覚の農村に帰っていく行列を見たなら、日本人に対して、どういう言葉を残しただ

ろうか。(中略)アジアの水田耕作民だけが、人間さまの大小便を肥料にしていると 

いうのは、大いにでたらめである。ド・カンドルも、はっきり、ヨーロッパの農民

は大昔から、家畜の糞尿だけでなく、人間さまの大小便をも、さかんに肥料につか

っていたと述べている。

(『糞尿の民俗学』所収 『人間の歴史』1951年〜1957年「肥料と女の風習」

p.87p.88

 

彼は、大小便を汚いというのは、農業をやったことのない都会人だけであり、またこの「糞尿は汚いものである」と感じるのは、人間の持って生まれた本能であると言う人もいるが、それは子どもを育てたことのない人の言うことであって、なんでも口に入れる赤ん坊は、うっかりしていると自分の糞を食べて平気でいるのであって、これこそが「糞尿は汚い」という感覚が本能とは全く関係のないものであるということの何よりの証拠である、と主張する。「汚い」という感情は、その母親の「それはばっちいでしょ」という教育によるものなのである、と。

臭い汚いという判断は相対的なものにすぎず、それを忌み嫌うからこそ、臭く汚いものに感じる、という逆の因果関係の可能性を否定することはできない。否、むしろ近代的分類の暴力とは、このようにしてなされてきたといっても過言ではないかもしれない。人間の価値基準・判断基準はその人の育った環境に大きく依存する。彼の言うように“絶対”の先天性などは、ありえないことを認識すべきなのだろう。

 さらにここには、他者を排除することによって自我を確立するという近代的理論の構図が見え隠れして興味深い。糞尿を臭いと感じるのが上品な感覚、すなわち、優れていて、正しい感覚なのだ、糞尿を臭いと感じない奴らは異常で下等なのだ、という二項対立の図式である。糞尿に対する正常な感覚、不浄、不潔、不快といった感覚は、それを不快と感じない者、あるいは愛着を感じる感覚を「異常」とし、抑圧されるべきものとして論理かすることによってはじめてその正常性を論理的に正当化しうるというわけである。「愚鈍」な嗅覚を「悪しきもの」として外部化し、孤立化し、周縁に追いやり、異端視すること、それは正常者の正常な感覚、その自己正当化の作業に他ならないのである。

 

 更に安田は、「先進国・ヨーロッパ」の視点からみた、「未開の国・日本」という構図憤慨する。

 

 わたくしは、二十二歳のときに、イギリスのハヴロック・エリス(Havelock Ellis

18591939)の本2を読んだことがある。その中に、つぎのような、おもしろい記

事があった。

  「動物はみなうしろへ小便をひっかける。これと同じように、女も立ってうしろ

へ小便した。これは動物的であるが、こういうかたちは、こんにちの未開族にも、

あまり見受けられない。前に向かって小便するのは、人類の直立の姿勢が、最高に

達した何よりの証拠である。ところが、ドイツ人のヴェルニヒ(Wernich)による

と、日本の女は立って後ろへ小便するという、いちばん動物的なかたちを、こんに

ちでもまだ保存している。」

  この一節につきあたって、私は思わず面くらった。たしかに、犬は電柱にむかっ

 て、うしろへ小便をひっかける。

  ところが、その当時、関西地方の女たちは、ヴェルニヒがいうとおり、みな立っ

 てうしろへ小便をしていたし、便所の構造も、それに都合のよいようにできていた。

 (中略)

  西洋人から、これこそは世界にも珍しい動物型の、いわば、いちばん原始的な小

便の仕方であるぞ、これから見ても、日本の女は、世界のどの民族よりもサルに近

いぞ、ときめつけられて、いままで気にもとめなかった女の小便のしかたを、観察

するようになった。

 (中略)

  したがって、日本の女が立って小便をするのは、西洋人のいうように、日本の女

がとくにサルに近いという証拠ではなく、むしろ日本の糞尿肥料と封建的な借家制

度に結びつく、あくまでも、社会史的な背景をもっていた。

 (『糞尿の民俗学』所収『人間の歴史』1951年〜1957年「肥料と女の風習」

 p.91p.93

 

 安田は脚注の部分でも「エリスは、こんにちの未開人の小便のしかたを少しあげているが、ヨーロッパ人については、歴史的に全然ふれてない。つまりあまりほじくると、ヨーロッパ人も日本人も人間としては結局同じになって、ヨーロッパ人に叱られるからである。ここに有名なエリスの科学的限界があった。」と述べている。先進国であるヨーロッパの人間は元来優れており、未開国日本の人間は野蛮であるという明治期において西欧近代が主張した構図に憤慨するのである。

 しかし、こういった主張を受け入れられるほどの土壌はまだなかったらしく、本文中で安田は、「以上はその昔わたくしが、西洋人の意見に憤慨してつつきまくった結論であった。わたくしは、じぶんの結論に大いに天狗になって、日本人の名誉のためにと、ひとにも吹聴してみたが、みんな、わたくしをばかにして、ぜんぜん相手にしてくれなかった。」と嘆いてもいる。

 

 

2:糞尿の「科学的」利用法

糞尿観における近代化を見るうえで、ここに実に興味深い本があるので紹介しておきたい。戦前における犯罪科学の中に、宝来正芳が記した『犯罪捜査技術論』3という本がある。同書の第四編「犯罪捜査鑑識技術」の中の第四章、「犯罪現場遺留物鑑識法」の第三節に「糞尿鑑識法」というのがある。

 

  第一款

 往昔から犯罪と脱糞とは附き物とせられている程、犯罪現場には能く脱糞を見る

ものである。而して此の事実は世界各国に共通するからおもしろい。

 犯罪と脱糞に就いては大いに研究する価値がある。併して脱糞や尿は臭気があり、

且つ浮上物である関係上、人の好んで取り扱いはない代物であるのと、従前は科学

的知識の進歩発達していない所から捜査官は之等に関し、余り重きを置かず、単に

「又糞を垂れて置いた」位で見向きもしなかった。而し今日では科学知識の進歩に

連れ、一塊の脱糞一滴の尿と雖も鑑識することに由りて捜査上重要な資料と成る。

即ち犯人の身分、生活状態、職業、質病、健康状態、最近の行動等を物語るもので

ある。故に捜査官は現場に於いて発見したる糞尿に対しては貴重品扱いこそすれ、

汚物扱ひを為し採取を疎んじてはならぬ。

 (中略)

  第三款

 糞尿の鑑識は拡大鏡又は顕微鏡を以て行ふのであるが、肉眼を以てするも、犯人 

が前日に飲食した食べ物の固形や残滓や寄生虫等を認むることが出来る。尚此の外

糞便を篩に入れて水洗いするときは種々の固形物、其の他腸又は胆汁より出ずる石

の如き形成物、即ち胆石等を発見することもある。更に顕微鏡検査を行ふときは腸

粘膜の剥ぐ片或いは内蔵虫の卵、寄生虫等を見出すことが出来る。従って糞便虫の

含有物に由って犯人の特性、生活態度、疾患等を鑑別し得る。

(『糞尿の民俗学』所収 『犯罪捜査技術論』1940年「糞尿鑑識法」p.426p.429

 

第二款においては、脱糞と犯罪関係について詳しく述べられており、犯罪現場と脱糞の因果関係や、脱糞及び放尿の如何による習性があるのに対し、欧米人は同時にしない、であるとか、尿が地面に穿った凹の深浅によって男女の違いが分かるとか、壁・塀に男子が放尿する際にはその垂れかけの高さによって身長が割り出せる、などである。

扉や障子、襖などの開閉で生じる軋音を防ぐために溝内に放尿しているのは常習犯である、というような分析にも頭が下がるが、ここで最も興味深いのは長年の経験による智恵の集積、というよりもむしろ、糞尿と対峙する時の姿勢、それへ働きかける手法である。つまり、ここで糞尿は分析の「対象」なのである。分析を施す主体に対して糞尿は「客体」であり、観察対象なのである。自分を主体としてまず置き、対象を客体として引き離し、分節化し、把握する、というあの近代的手法を彷彿とさせる。糞尿の細分化は身体の、すなわち身体の保有者としての個人の細分化を意味する。科学的手法が身体を操作可能な客体として捉え、細分化し、解体し、管理下におき、支配する。ここで糞尿の存在意義は、かんべつのに役立つ範囲においてのみ「不浄物」を越え出て、科学的手法による観察対象である「貴重品」として成り立つのである。


第V章:トイレにおける近代化―改良便所と水洗便所

 

都市化に伴い、次々と“産出”され、便所から溢れ出す糞尿はコレラやチフス、赤痢と言った消化器系感染症、及び、寄生虫病を招くとして、“衛生的な”水洗トイレの普及が叫ばれるようになる。西欧の技術を取り入れることは西欧の人々の往来を受け入れることであり、それは単に概念としての文化を受け入れる、というだけでなく、物理的なものをも受け入れることであった。病原菌も、例外ではなかったのである。物質文明の国で生まれた病原菌には物質文明で対抗するのが一番であるわけで、雪だるま式に近代化が奨励されてゆくのである。

 

1:「国家的」衛生組織の確立

 

 衛生と便所及び糞尿の関係を見る前にまず、国家が衛生に対して取り組んだ歩みをざっと概観しておこう。

 政府の政策としては、1875年(明治8年)中央に内務省「衛生局」、その諮問機関として中央衛生会が発足する。主にコレラなどの伝染病対策としてである。その後、この衛生局は紆余曲折を経る。1879年(明治12年)、中央に対応して地方に衛生課を設置、その諮問機関として地方衛生会を発足させ、網の目のような組織作りを目指す。ところが、1886年(明治19年)、地方官制公布―衛生事務は警察の管轄下へ渡る。伝染病大流行という非常時の国民教育には、衛生の専門知識を持たない役人より、機動力を持ち、上下下達方式の警察官吏の性質がうってつけだった、というわけだ。これはドイツ・フランスにならった制度であった。

 しかしこれにはさすがに憤慨した衛生局サイドからは批判の声があがる。後藤新平[7]は1890年(明治23年)の「衛生制度論」のなかで、「今日自治制を施行しようとしているのに、自治体に必要な衛生事務を全て警察に委ねるのは施政方針に反する。かつ各人の自衛の医師を減じて依頼心を起こさせる。協同自治の事務を一国の官治に集中するのは不得策」といい、また、長与専斎[8]も1890年(明治23年)「流行地の実況をみると(警察官吏は)形式にこだわって民情をくみ取ることにいきとどかない。事理にうとい人民はただあわて恐れるばかりで、ついにはその筋の指図を忌み嫌い包み隠す」弊害がみられる、と主張する。そこで1890年(明治23年)、地方官制改正があり、地方庁に内務部を置き、衛生事務を担当させることとなる。が1893年(明治26年)、事態はまた一転する。地方官制再改正で衛生行政の執行権が再び警察部へ移り、これが1942年(昭和17年)の改正まで続いたのである。“近代的”組織作りに、政府も四苦八苦していた様子がうかがえる。

 

2:衛生観念と糞尿処理システムとしての便所―水槽便所

 

このような衛生観念の輸入とも相まって、衛生的なトイレが目指されて行くわけなのだがしかし、ここで見落とせないのは、「水洗」便所と「汲み取り式」便所の二極化である。

 

1920年代(大正10年代)に内務省衛生局による浄化槽研究が行われ、糞の中の菌が完全に死ぬのを待ってから肥料として使うなり、捨てるなりする為の浄化槽付き便所が誕生する。また大正10年、警視庁令第13号で水槽便所取締規則が定められ(ここで水槽便所とは、水洗トイレのことである)、その内容は浄化装置の構造、排出汚水の検査などであった。

注目すべきは、この水槽便所取締規則にある水槽便所より流出する汚水に関する部分が、英国河川汚染防止会(Rivers Pollution Commissioners)が推奨したという基準をそのまま採用しているという点である。(英国河川汚染防止会の基準について紹介している論文が大正6年に出ており、水槽便所取締規則が大正10年に規定されている事を考えれば、順序的に考えて、警視庁の水槽便所取締規則の方が後だと考えられる。)流出物内の成分量について細かに数値化して標準を示しているのだが、欧米の「基準」をそのまま輸入して事足れりとしていたようである。

 

 さて、この水槽便所取締規則は不完全だとして改良便所の重要性を説く論文は少なくない。以下に参照してみよう。

 

357        衛生的屎尿処置法(改良便所)に就いて 飯田佐三『日本医事新報』

                               大正十五年四月

  従来行はれたる浄化装置は実に不完全なるものにして警視庁及び各府県水槽便所

取締規則は酸化槽及び消毒槽に重きを置き、腐敗槽を軽視し、其の大きさのみを規

定している。これ誤れるも甚だしといふべく、有害微生物の死滅如何は腐敗槽の構

造如何によるものである。(中略)熟知の如く殊に屎尿を密封放置すれば、短時日に

して病原菌及び寄生虫卵を消毒撲滅し得るものである。

 (『同潤会基礎資料U 第4巻』所収『住宅衛生文献集』[9]p.283・昭和11年)

 

 つまり当時においては、「衛生的に糞尿を処理すること」=「虫や菌が死ぬまで溜めておくこと」に他ならなかったのである。現在の「衛生的に糞尿を処理すること」=「水で流し去り、見えなくすること」を考えると、「衛生と糞尿」と一口に言ってもだいぶ観念にズレが在ることに驚かされる。

又、一体どれくらいの期間「溜め置」けばよいのか、各々の菌に関して四季における生存期間を割り出した研究も存在する。以下に一例を挙げるが、例えば「チフス」菌がどれくらい棲息し続けるかについての期間は各論文によって様々であり(中には、冬を越すのなら半年以上は持つ、などという記述もあった)、努めて「科学的」に規定しようとはしているものの、統一的見解は得られていなかったようである。

 

358        水槽便所に関する衛生学的研究(二) 山口静夫 『国民衛生』

                                                                                                  昭和二年二月

    腐敗槽の浄化作用と季節的関係に就いて

  水槽便所の腐敗槽の機能に関しては未だ統一的研究を見ない。従って筆者は之が

 機能と季節的関係に就いて研究せしに次の結果を得た。

(1)      腐敗槽内に於ける病原菌の消長は冬季に於いて「チフス」菌は2633日間、「コレラ」菌は1416日間生存し、夏にありては「コレラ」菌1日間、「チフス」菌は36日間生存し、春秋に於いては「コレラ」菌27日間、「チフス」菌815日間の生存期間を有すのを見た。

(2)      春夏に於いて之等病原菌は下層に於けるよりも上層に於いて早く死滅し、秋冬に於いては下層は上層より早く死滅す。即ち槽内温度に依って左右せられるのである。

(中略)

(4) 腐敗槽内の温度は季節に依り多大の差ありと雖、冬季5.18.8℃、春季15.3

   〜16.8℃、夏季27.220.8℃、秋季17.519℃である。而して冬季は下部ほど

   温度高く、夏は下部ほど温度が低い。要之その腐敗機能は槽内温度に依って左

   右せられ、且汚泥菌に接する部に於て必ずしも旺盛ではないのである。

(『同潤会基礎資料U 第4巻』所収『住宅衛生文献集』・p.284・昭和11年)

 

3:欧米という他者

 

このようにして衛生大国日本の創出が便所という範疇においても叫ばれるわけであるが、ここで見逃せないのは「欧米」という他者への対抗意識による、日本という「自我」形成の視点である。欧米の近代的理論に魅了され、同化と異化とで日本というアイデンティティを形成しようとする、当時のそういった時代の気分とでもいうべきものをまさに体現した男がいた。高野六郎である。再び、同潤会から引こう。

 

高野六郎

 

 356 便所はどうすればよいか    高野六郎 『都市問題』 昭和五年三月

 日本の都市には屎尿を放流して差し支えない下水道はまだ殆ど無いと言ってよい。 

僅かに東京市内の下谷、浅草両国の下水道が、漸く首から出来上がって目下頭部の 

完成を急いで居るといふのが日本としては例外的進歩なのである。過去は屎尿の合 

流する下水道が各都市に出来るであらうと思ふけれども、仮に下水の処分場が完成

し、下水の幹線、街路管が埋設されても、凡ての建築物の便所が水洗式となって下

水管と連結を了するのは容易の業ではあるまいと思はれる。(中略)そこで都市とし

ては屎尿に対して如何なる態度を取るべきかを考へて見ると、其の行くべき方針が

自ら三となる。

1.下水道工事の促進

  2.自家用浄化装置の設備

  3.汲取便所の改善

  此の三の方針の一を選むで直進するか、三者を適宜に取捨併用するかは其の都市

の実状によって制定せねばなるまい。若し左ほどの困難がなくて下水道が築造し得

るなれば之を促進するのが第一策であって、衛生上の上からも清潔の上からも、或

いは又経済の上から言っても最善の方法であらうと思ふ。

(『同潤会基礎資料U 第4巻』所収『住宅衛生文献集』・p.282283・昭和11年)

 

この資料集は、U章で詳しく解説する同潤会(住宅関係の財団法人)が住宅の衛生方面に関する文献(論文)を『住宅衛生文献集』[10]として昭和11年に編纂したものなのだが、その中にこの高野六郎の論文が載っているのである。論文を書くような「有識者」の間では、昭和の初期には既に衛生のための水洗トイレ化と、それに伴う下水道の必要性が相当強く意識されていた事が分かる。

この資料の時点ではさほど欧米のまなざしは意識されていないのだが、ここで興味深いのは、この高野が医学博士である、という点なのである。現在では医師が下水道の是非について語る、というのはなかなか聞かないが、当時においてはそれがごく自然であったように受け取れる。この「医師」と「下水道」を結ぶものこそが、「衛生」であり、「近代」であり、「欧米」であったとはいえまいか。

実は高野は『台所、便所、湯殿及井戸』(大澤一郎、櫻井省吾著・昭和2年)という本の「序」の部分において、この本に対する祝辞のようなものを寄せており、そこに以下のような文章が残っている。少し長くなるが非常に興味深いので「序」のほぼ全文を引用したいと思う。

 

 糞尿といふ排泄物ほど汚くて、臭くて、危険なものはない。或いは日本人は糞尿

の汚さと臭みと危険さとにすっかり慣れてしまっていて、殆ど無感覚になって居る

かも知れないが、是などは決して誇るべき訓練ではない。便所を清潔無臭安全にす

べきは敢えて他国の文明批評家の説をもって始めて知るべきではあるまい。

(中略)

 我々の生活が科学的に改善されることの緩慢なのは世間の人が善く之を了解しな

いからであると思ふ。改善の必要がよく呑み込めれば早速実行に着手するに相違な

い。先づ以て此点を懇切に説明し、同時に其実行方法までも詳細に理解させてやる

必要がある。

 この書物には便所、台所、浴場、井戸の改善などが平易簡明に説かれて在るが、

何れも緊要な課題である。余専門の衛生の立場から考へて見ても、排泄物の処理、

飲料水の安全、食物調理所の衛生施設、皮膚の清潔等は日常生活を健全にする為に

必要欠く可らざる事項である。近代科学の粋を抜いて以上の問題を取り扱った本書

は現代人に最も歓迎され最も感謝さるべきであらうと思ふ。

        (『台所、便所、湯殿及井戸』・大澤一郎、櫻井省吾著・昭和2年)

 

この高野の言葉からは、「健康と衛生」という西洋医学の観点、すなわち近代的思考を読みとる事ができる。「糞尿は不潔で危険である→不潔を感じられないようでは他国に野蛮視される→先進国として近代化的・科学的方法で清潔を目指さねばならねばならない→その為に我々知識人が国民に分かりやすく教えてやらねばならない」という因果関係がこれほど明瞭に読みとれる資料も珍しい。そしてもう一つ、高野の問題意識がよく表れている論文を参照したい。

 

  374 都市の屎尿及塵芥処置     高野六郎 『公衆衛生』昭和三年二月

  実際焼却法に就いては日本中で模範的に行はれている都市はまだ一つもない様で

 ある。兎に角斯様な実際問題は我国は総て欧米に遅れていることは遺憾に堪へない。

  (中略)

  注意すべきはその上公衆衛生思想を一般に普及することであって、農家ではだい

たい糞便は自給自足であるから自分丈が注意すればそれで済むが、都会はそうでは

なく一個人の無責任な不始末が多数の禍ひを醸すのであるから、そこで一方市民に

公衆衛生を理解せしむることが必要なのであって、然らざれば水槽便所が出来ても

恐らく赤痢、チフス等は絶えまいと思はれる。

(『同潤会基礎資料U 第4巻』所収『住宅衛生文献集』・p.298299・昭和11年)

 

藤原九十郎

 

このような、あたかもダーウィンの進化論のような事を唱えたのは高野だけに限らない。以下に藤原九十郎の論文を参照してみよう。 

 

   373本邦都市に於ける屎尿処分の現状と将来 藤原九十郎 『国民衛生』

昭和二年〜四年

(1)                    本邦都市に於ける屎尿処分難は近世の文化進展と都市の膨張とに原因する

もので、このまま放任すれば今後先ず増す募りこそすれ、いやしくも緩和の見込みはないものとせねばならぬ。

  (4)以上の屎尿及び汲み取り料金並びに伝染病発生、死亡に因する市民の損害

  を考慮に入れるならば、屎尿は都市人に対しては明らかに無償物であり、有害物  

  であるから、一刻も早く之を住宅より排除し、衛生的に処理し放流しなければ」

  ならぬ。その為には屎尿を下水管内に放流し下水と共に完全処分するのが最も合

  理的なる理想案であるが、残念ながら各都市の現状並びに本邦家屋の構造等この

  案の急速実施を許さぬ事実がある。

  (6)汲取方法が余りに原始的である。かくも科学の進んだ時代によくこんな非

  文化的方法が行はれ得るものだと不思議に耐へぬまでに原始的方法に終始して居

  る。今少し科学的機械的方法によってこの作業を行はしめる事にしたい。又同様

  に其の運搬方法に就いても、鉄道、軌道の利用等を考慮するならば、比較的容易

  に経済的に行はるる事と思ふ。

 (『同潤会基礎資料U 第4巻』所収『住宅衛生文献集』・p.296297・昭和11年)

 

このようにして、糞尿は危険で野蛮なものとして捉えられ、除外され、周辺へとおいやられてゆく存在、あるいは無菌で無害なものに手をくわえるべき存在、という認識が広がって行く。そして糞尿及びそれを留め置く場としての便所の「清潔と衛生」が説かれてゆくのである。

 

『台所、便所、湯殿及井戸』

先にも例に挙げた、大澤一郎・櫻井省吾によって1927年(昭和2年)に出版された『台所、便所、湯殿及井戸』にも、「衛生大国日本」としての意識が鮮明に表れている。以下に参照したい。

  <便所改善の目標>吾々人類を他の動物に比して優越なりとする理由に少なくとも二

つある。一つは調理した食物を取る為の台所設備をする事と今一つは吾々の排泄物を清

潔に処理すると云ふ事である。実に台所と便所は吾々生活の源泉地で其如何は以って直

ちに其人民の文化の程度を語ると云ふても敢て差支へなからう。

(『台所、便所、湯殿及井戸』大澤一郎・櫻井省吾著 1927年(昭和2年)

                    便所篇 十七:便所の沿革 p.79

 

 ここで注目すべきは二点ある。まず、人間が他の動物より優れているのは糞尿処理の方法が清潔であるからだ、としている点である。そもそも動物は排泄物を「汚い」とか「綺麗」だとかいった感覚で捉えているのか、という議論はここでは重要ではない。仮にそのような問いがなされたとしても、「清潔」の観念がある人間こそが、“優れて”いるとされるのであろう。人間と他の動物との、単純な差異に優劣をつける事の不毛性はここでは考慮されない。二つ目に、便所が、文化程度を図るモノとして定義されていることである。これは第W章でみた、「洋風便器」とも関わってゆくことであろう。そしてやはりここでも、「文化に優劣がつけられるのか?」という問いは全く無視されるのである。

 この章の終わりは、「以上は便所の名前を成るべく不潔の感から遠ざかるが如くに務めつつあるものである。選ぶ所は何れにせよ此をより清潔にし眞に其名に恥ぢざる内容とするのが現代文明人の当になすべき所と深く感ずるものである」で締められている。

 

しかし、この本の記述において意外、と感じたものがあった。殊に第W章でみるように、住宅史の変遷としては大正から昭和にかけて各部屋が機能別に個別化・自立化の傾向を見せ、各々が「プライベートを守る為」と称して閉ざされた空間として成立してゆき、便所とてその例外ではない、といったような印象を受けた。が、この『台所、便所、湯殿及井戸』においては、「欧米の便所のように、開け放し出来る程度にするべきだ」と説いているのである。以下に本文を引く。

 

 欧米都市の生活上近代の一特徴としては浴室と便所を兼ねた点である。即ち住宅にあ

りては浴室は使用時以外は開け放しとしている。云ひ換へれば便所を開け放しと為し得

る程度の清潔を保ち得る域に進んでいると見てよい。「臭いものには蓋をしろ」と教わ

って居る吾々にも、住居の一室を占めている便所を斯くの如く開け放しが出来たらば

吾々の生活は如何に心持のよい事であらう。

 便所改善の目標は此の開け放し出来る程度であらねばならぬが之に到達するには吾々

の便所は尚相当の距離のある事を思はせられる。 

(『台所、便所、湯殿及井戸』大澤一郎・櫻井省吾著 1927年(昭和2年)

                        便所篇 十七:便所の沿革 p.80

 

 住居の近代化・欧米化に伴って空間は個別化し、閉ざされた空間へ向かった、とされる事の多い中で、このような記述も残る事は非常に興味深い。空間的把握として、「欧米=閉じこめ」「日本=開放」という図式に一概に押し込めることはできないようであるが、このようにして欧米の清潔規準に同化・異化を繰り返しながら、便所の近代化が勧められて行くのであった。

 

4:国家対策としての便所―改良便所

 

「衛生的な便所」の理想形態が水洗便所であることが認識されつつあったとはいえ、下水道などの実状を考えればまずは汲み取り式便所の「衛生」化から取りかかるほかなかったようで、内務省が考案した改良便所は汲み取り式便所(いわゆるボットン便所)についてのものであった。如何なるものであったかを見てみよう。上述した「衛生」観念が便所にも浸透している事が伝わってくる資料である。

 

354        改良便所        内務省実験所考案 『国民衛生』昭和二年四月

  日本人の糞尿処分は極めて非衛生的である。其のため腸「チフス」「パラチフス」、

赤痢等の消化器系伝染病が年々流行し、回虫、十二指腸、其他多数の寄生虫が日本

人の大部分に寄生している。世界中で糞尿処分の完全に行われている地方のみが以

上の病気の被害を免れて居るのである。

 日本から消化器系伝染病と寄生虫とを駆逐するには先づ以て糞尿処分衛生的にせ

ねばならなぬ。之を充分衛生的に処置して糞尿を安全かすることが改良便所の目的

である。

 内務省考案改良便所は此の目的を達するために考案されたもので、此の便所から

くみ出される糞尿は充分に消毒済みとなる様に工夫されて居る。此の改良便所が普

及すれば消化器系伝染病と寄生虫病とを略々根絶することが出来る見込みである。

 改良便所には以上の効能がある外に、従来の便所に比して遙かに清潔であり、臭

気少なく、蠅の出入りを防ぎ易く、汲み取りも無臭清潔に行はれ、肥料としては一

層優良となり、邪魔になるほどの大きさではなく、盗難の具を絶ち、堅牢で永久に

使用出来る等の特色がある。

 此はコンクリート製の長方形の箱で、糞尿投入口との外は密閉されて居る。内部

に4枚の中隔を設けてTUVWXの五室(附図参照)とし、第1、第3中隔は底面

から5寸すかし、第2中隔は天井から3寸、第4中隔は天井から4寸隔て、T室に

落下した糞尿は液化してU室に移り、越えてV室に入り、潜りてW室に至り、溢れ

てX室に流れ出すやうになっている。

 使用中は、TUVWの四室は常に糞尿液で満たされて居り、1室中に新たに糞尿

が落下するに応じて夫れと同一量の古き糞尿液がW室よりX室に溢れ出るのである。

  (『同潤会基礎資料U 第4巻』所収『住宅衛生文献集』・p.278・昭和11年)

 

これは一家十人の農家ように考案された汲み取り式便所なのだが、この後も「改良便所附図説明」として、標準便所(便池)の寸法(長さ・幅・深さ=容積など)や、便池の壁の厚みから素材指定まで実に事細かに指定されているのが興味深い。

昭和の初期と言えば、第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた、日本が軍事国家たりえんとしていた時期である。健康的で丈夫な国民・世界と戦うための剛健な兵士を育むためには病気は大敵であり、その病原菌駆除の為には国の隅々までが「衛生的」であらねばならなかったのである。つまりあくまで衛生のため、が第一目的であって、寄生虫の駆除と清潔がテーマなのだった。西洋の排泄処理システム(衛生思想)に学び、こうして改良便所の普及が呼びかけられて行った。

(図1:『同潤会基礎資料U 第4巻』所収『住宅衛生文献集』・p.279・昭和11年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5:軍隊に於ける用紙研究

 

 衛生と糞尿、便所が密接に結びついて行く中で、軍医へ向けた雑誌においてはなんと便所用紙(トイレットペーパー)に関する研究までもが行われていた。先進国と肩を並べて戦う兵士の清潔と安全は最も優先されるべき課題であったことを伺わせる資料である。

 

  361 採便用紙(器)に関する研究      西村盛腸 『軍医国雑誌』

                              昭和五年十二月

 本研究は大正十四年六月佐倉歩兵第五十七部隊に於けるB型「パラチフス」流行

に際し、患者に就き、実験したる成績であって、桐油紙一枚を使用する時軟便に在

りては一時間以内にB型「パラチフス」菌を通過し、普通大腸菌の通過は元より少

し後るる様である。その後再び「セロファン」紙に関する同様の実験を試みたるに

次の如き結果であった。

(1)                           仏国製「セロファン」紙は採便様として最も適している。

(2)                           官製ハガキ又国産「セロファン」紙薄型のものは2枚、「パラフィン」紙、「ヴィスコイド」紙、蝋紙は三枚、硫酸紙は三枚又は四枚を用ふれば採便用として用ふるに足る。

(3)                           桐油紙、亜麻仁油紙及び新聞紙は採便用紙とするに不適当である。

  (後略)

 (『同潤会基礎資料U 第4巻』所収『住宅衛生文献集』・p.285・昭和11年)

 

 更にもう一つ、用便紙に関する研究を見てみよう。

 

  360 各種便所用紙の細菌通過に関する実験  坂巻良介 『海軍々医会雑誌』 

                                                                                         昭和七年十月

 

 腸管伝染性疾患の菌保有者がその蔓延の伝染源となることは一般に認めらるる所

である。而してその伝播は多種多様なる可きも用便時に於ける手指を介して来るこ

とも考慮しなければならない。然るに便所用紙に就き細菌通過程度の実験報告は未

だ之を見ないのである。依って筆者は之に関して小実験を行ひたるに次の如き結論

を得た。

 便所用紙の細菌通過力は下痢便、普通便、に依って差異あり、下痢便の通過性は

普通便のそれに比して大である。又便所用紙細菌通過力は紙質により大差があり、

其の最も困難なるは硫酸紙及改良半紙なるも実際紙質の関係上使用に耐えない。而

して実際使用に於いては横綱、奉天、王様、及花車は最も優秀にして、其の重畳紙

数の最小限度は四枚を必要とするのである。従って排便後の手指消毒方法の改良の

必要を感ずるのである。而して従来行はれ居る手指消毒方法は排便後被服を整へ、

便所外に出で昇香水又は「クレゾール」石鹸液等の消毒薬を以て手指を消毒するを

普通とするも、既に便所内に於ける未消毒の手指を介して被服又は便所の「ドアー」

等を汚染して伝染性腸管内細菌を他に撒布し蔓延せしむる媒介の主因なりとも認め

らる。故に改良方法としては便所内に消毒薬液を置き排便糞便清拭直後に薬液を以

て手指を充分消毒したる後被服整へば、自己の被服「ドアー」等を汚染する恐れな

く完全に消毒の目的を達するものである。

  (『同潤会基礎資料U 第4巻』所収『住宅衛生文献集』・p.284・昭和11年)

 

 まず使用する紙の指定にも驚かされたが、それ以上に興味深かったのは、外へ出てから手を洗ったのでは遅いのであって、便所内に手洗い場を設けよ、被服を整える前に手を清めよ、と言う点である。明らかに行きすぎた清潔管理ではないかと思えるのだが、国の存亡がこの順序にかかっていると思えば当時の軍医達も必死だったのかもしれない。この規則がどれほど兵士達の間に浸透していたのかが未知数なのが残念であるが、科学的なのか非科学的でないのか分からなくなるようなこの類の研究が、確かにいくつか存在していたことが確認できた。

 

6:糞尿処理の実状

 

しかしながら、こういう努力が重ねられて行く一方で、先にみてきたような糞尿観のいわば“上からの”近代化と、化学肥料の進出に伴って、糞尿の肥料としての商品価値は失われてゆくことになる。それに伴い、便所の「商品溜め置き場」としての役割も失われていく、否、というよりも「一時的」溜め置き場としての便所では、「永遠に溜め」くだけの許容量がなかったのである。

当時の糞尿処理事情を東京都清掃局長(当時)が記した本があるので、少し長くなるが以下に参照したい。

 

   屎尿価値の下落と過剰

  明治期後期のころの屎尿汲取り処分作業を業者の手から市営に移そうとの試みも遂に

実現をみないで大正を迎えたが、日露戦争後は急速に西欧文明が取り入れられて社会、

経済など各方面にこの影響があらわれた。

 大正三年第一次世界大戦が起こり、その後わが国はかってないほどの好景気に恵まれ、

市民生活は向上し都市の人口は急速に膨張したが、その反面、政治外交の面ではシベリ

ヤ出兵、挑戦の万才事件、上海の排日事件などが相次ぎ、国内の軍国思想の駘蕩と共に

二十五師団、八十八の歓待の新国防法案などがきめられ軍備拡大の方向へ発展した。

 このころの東京は、東京市電のストライキをはじめとして各企業にようやく労働者の

組織が生まれ、友愛会(鈴木文治ら)、日本労働党(福田狂二ら)などを中心に各地に

企業別の労働組合が八時間制を要求してストライキに入るなど、新しい息吹が市民生活

をゆり動かしていた。また農村壮丁の徴兵、労働賃金をはじめ諸物価の高騰、都市人口

の集中から郊外の宅地化による農地の減少、近代工業の発達などで農業人口は減少しつ

つあった。

 さて、こういう社会情勢と農家の実状からいままでとくに重要視されていた人屎尿も、

運搬や施肥に手のかからない比較的安い化学肥料が歓迎されるようになり、近代農業へ

の脱皮と同時に化学肥料の使い方も経験を積んで年と共に需要が多くなってきた。

  このように時代の移り変わりによって、屎尿の需要は少なくなり従ってその値段はだ

んだん下落し、今までの貴重品扱いが、逆さまに厄介物になってしまった。ところが、

そんな事情にはおかまいなく人口増による排泄量は年々増加し、とくに都心部はくみ取

りの停滞から町内の不満が強まってきた。

 一方、汲み取り農民、業者ともに衛生上の取締が厳しくなり、その用具等、運搬な

どにも出費が多くなり、なお売値の下落、賃銀の高騰などから今まで通り地主、差配人

に汲み取り代を支払っては専業者は営業として成り立たないほど下落し、運賃や手間

のかかるところはどうしても手を抜く結果となり、大正七年ころになるとこまった市民

は便壺の底に穴を空けて地下に流したり、夜になってこっそり下水に棄てたりするもの

が多くなって市、区役所へ毎日のように苦情がくるようになった。

 (『糞尿の民俗学』所収 『東京都における屎尿処理の変遷』 「大正期の混乱」

                            1961年・p.161p.163

 

 先に挙げた『台所、便所、湯殿及井戸』(大澤一郎、櫻井省吾著・1927年(昭和2年)・汎工出版部)にも、「(借地證借家證に所属権の記入をするのに)貸主と借主の転倒を生じてしまった[11]。此の間接の原因は欧州大戦で、直接の原因は労銀の昇騰である。この堺は東京市は大凡大正七年を以てする。」とある。「何時とはなく汲み取り人の来ない為何所も糞攻めに会ひ、各区はその年の十月から臨時汲取受け持ちを開始したが到底一般の要求を満たす事は出来ないので汲取料金の不自然な騰貴を防ぐ為市営として直接汲取りを始め大正十一年、三河島処分場の完成と、共に汲取糞尿の一部を此所に流入せしむる事となった。」という程、事は深刻を極めたようである。

 

 

 さて、先に述べた1937年登場の政府による厚生省式改良便所は、国民体力向上を目的に1939年からモデル地区が各府県に作られ、水洗便所と共にその普及が図られたが、第二次大戦のためにその計画も中断せざるを得なくなった。

昭和のオリンピックを機に都民の和式便所がこの改良便所へと変身し、戦後、上流階級にのみであるが水洗便所が普及する。昭和30年代入ってようやく、団地建設開始に伴い狭い日本のアパートに適した洋式便所の、草の根レベルでの普及が見られるようになるのである。

以上見てきたようにトイレの変遷の歴史を通して、当たり前のように水洗便所を使って「目の前から」「一瞬にして」自らの糞尿を長し去り、「とりあえず」身の回りから汚物をなくし、清潔を保持する事の出来る現在と比較すると、大正から昭和初期にかけては、如何に直接的に自らの糞尿と対峙せざるを得なかったかを感じた。

 それまでは生態系の自然システムの中に、流したり肥料として還元することで己の糞尿を埋没させていればよかったものを、人口の都市集中や肥料の化学化などによって、糞尿処理は以前のシステムからはみ出す存在となってしまったようである。食欲や睡眠、性欲と並ぶこの抗いがたい生理現象を持て余していたようだ。


第W章 住宅史の変遷に見るトイレ

 

 さて、ここまではトイレ、そしてトイレと身体をつなぐものとして糞尿を取り上げ、主にトイレの歴史的変遷をみることで、身体における糞尿の位置や、あるいはそこから更に見えてくる身体そのものについての考察を試みてきた。

この章では、トイレの持つ空間的意味を把握すること、すなわち住まいにおけるトレイの位置の変遷を見る事で更に研究を深めるため、築学的アプローチを取る事とする。

 

トイレの空間的変遷を追うに当たってはまず、住宅の歴史を見なければならないと考える。故に、主に近代以降、日本の住宅界はどのような変遷を見せているのかを把握し、その中でトイレはどのように扱われてきたのかを見てみることとしたい。

まず、住宅史については先行研究などを基にその概要を把握しつつ、その中での「トイレの位置」に着目する。(“トイレの設置位置”という事を考える上で重要な、汲み取り式から水洗への変化や共同から各戸トイレへの変化、屋内に内部化されてゆく過程など、トイレの形態そのものの変化にも着目する。)

第二に、住宅史において登場する「住宅に関する様々な言説」におけるトイレの語られ方を見てみたい。

 

1:事例でみる、洋風住宅の導入―「文化」の証としてのトイレ

 

ここではまず、比較的変化の波をかぶりやすかったと考えられる、上流階級(=官僚や

財界人など、俸給生活者)の住宅を見てみることとしよう。

 文明開化に伴い、明治初期には“床座から椅子座へ”のスローガンが掲げられ、上流階級が「和洋折衷」の形で洋風を導入し始めるのがこのころである。例えば1878年(明治11年)に作られたという京都御所の東隣にある新島襄旧邸などは、現存する最古の洋風腰掛け便器(汲み取り式)を有している。(新島襄邸は昭和613月に京都指定文化財になり、保存の措置が講ぜられることとなった。)

 「洋風化した建物に住む」ということが当時の上流階級層の一つのステイタス・シンボルであったようだが、その中でもトイレは「洋風」「和風」の違いが著しかったため、分かりやすい指標として機能していたと考えられる。

その一方で都市の長屋(=下層階級)は人口の流動に伴い過密化し、スラムと化した劣悪な住環境であり、井戸・便所は共同であったという。

 

1910年(明治43年)、我が国最初のサラリーマン向けアパートが誕生する。上野にで

きた木造5階建てアパート、上野倶楽部である。『文明開化と明治の住まい』の中でその著者中村圭介氏は、資本主義の発展で東京に流入する人が急増し、住宅の不足が生じたこと、5階建てのアパートに必要なインフラ=多くの人間に供給するだけの水が充分にある事、という条件を備えていたため実現できたアパートだといい、以下のように主張する。

 

各階に共同便所と洗面所があったが、水洗か汲み取り式かは不明だ。だが明治27年(1894)の建築雑誌には、水洗便所の設計図が掲載されているので、設計者の吉岡・羽田は知っていたと思われるし、居住者が比較的ハイレベルなので、水洗の可能性は高い。もし水洗なら、汚水を在る程度浄化して不忍池に流したのではないだろうか。

(『文明開化と明治の住まい』p.128

 ついで1910年(明治43年)、高所得層向け文化アパートが発祥する。現在も残る麹町の佐藤別館が有名である。1Fが煉瓦造、23Fが木造、12戸収容の小ぶりながら水洗便所で人気を博したということだ。

 

2:住宅論に見る中廊下式住宅

家族本位論

明治の終わり頃から第二次世界大戦の前あたりまで、中廊下型住宅が新たな社会階層である都市の給与生活者層=中流階級の住まいとして成立、第二次世界大戦前の日本住宅の典型と言われる。

中廊下型住宅とは、台所・浴室・便所などを、座敷や茶の間など家族が生活する部屋から分離しその間に東西に廊下を渡した平面であり、座敷・茶の間の南面が強調される、という。(図2:対訳 日本人のすまい・平井聖・市ヶ谷出版社・1998年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

住宅史関連の書物では、欧米からの「プライバシー」観念の影響が強いというような記述が多いが、しかしこの時点での「プライバシー」とはあくまで、女中等使用人と家族の間に境界を設ける程度のものに留まり、いわゆる欧米の「個人個人のプライバシー」とは別の意味を持つものであった、ということが後世の住宅史観の主流のようである。

 

1908年(明治41年)、建築家田辺淳吉が、プライバシー確保の観点から中廊下型住宅

の有用性について論文を発表。これまでの「接客本位論」を排し、「家族本位論」を重視すべきだという流れが住宅界の中におこる。

明治の皇国史観と、西洋を模範とする近代化理論の台頭によって、政治・文化・技術な

ど、それまでの幕藩社会の産物は、封建的で古くて有害なものであるとみなされてゆく。

 さらに1916年(大正5年)、雑誌『婦人の友』において伊藤忠太が「中流の階級を如何に設計すべきか」という論を唱える。

 

  現今の中流住宅に就いて云へば、間取りは儀式を本位にした、昔時の武家の邸宅の型 

を取ったもので、あまり便利でもない式台付きの玄関を取ったり、住居の最も上等の部

分を客間に使ったり、家族の住む所はその割に日当たりの悪い第二の場所に取り、子供

などは殆ど一定の部屋を与へられず、而も客間にでも来て飛びはねて遊んでは叱られる

と云ふやうに、主としてお客を迎接するに都合のよいやうに建ててあります。(中略)

即ちこれからの住宅は儀式本位を去って家族本位にならねばならぬのであります。その

結果は従来客間に使った、日当たりのよい展望のよい主なる部分を家族の住まひに充て、

子供部屋の如きも、いわゆる第二の国民を健全にする意味から、成るべく良い位置を選

び、一家の生命の源たる大事な台所を優遇して、光線や空気を十分に入れ、且つ便利に

改良を加へ、湯殿や便所も一層注意を要することになります。この主義から云へば、客

間は第二の位置でよい訳で、殊に一寸した立話で済む応接間などは、何も良い場所を選

ぶの必要なく、一番悪い位置をこれに充てても我慢できないこともありません。

 伊藤もまた、「家族本位論」の重要性を説くのであった。

 

中廊下型住宅におけるトイレの位置づけ

 

では、この中廊下型住宅の中で、トイレの位置はどのようなものであったのか以下に参照してみよう。昭和7年、雑誌『建築雑誌』に掲載された山田醇による「間取りの作り方」という論文である。(一部、漢字を新字体で表記した。)

 

  日本に建てる住宅はどんな風にしたら宜しいかと言ふ事を色々研究した結果から見れ

ば、西の方に居住にあまり必要でない部屋を置き、眞ん中を居間として東の方に寝室、

食堂、女中部屋、台所等を置き、北側に便所、納戸、風呂場等を設けることが望ましい。

要するに西の方に玄関を、其の西側に客間を取り、玄関の北側に予備室又は女中部屋を

取り、中央に居間を、南に縁側を、北に便所、納戸、浴室などを取って、中央に交通路

である中廊下を取り、東又は南側に食堂を、東南隅に寝室を、東北に台所を、其の脇に

出来るなら女中部屋を取ることが理想的である。すると此の中心が凡ゆる部屋のコミュ

ニケーションが一番良い所で、之が居間になる。

(同潤会基礎資料U 第4巻収蔵 『住宅衛生文献集』・昭和11年 p.246

 

ここでもトイレはあくまで建物の「付属物」にすぎず、中心の「居間」から始まる序列の中で、常に周辺においやられている存在のようである。

また、大正時代には「文化住宅」が大都市郊外に多く建設された。玄関脇の洋風応接間、ガス・水道完備が特徴。1916(大正5年)には文化普及会による、文化アパートの先駆け「古石場共同住宅」が造られる。低所得者層向き、便所は各階で共有であった。文化普及会は都市問題を背景としたアパートメントハウスまで含む、公の機関である。

3:同潤会資料を読む

 

「住宅改良運動」略史

 

第一次世界大戦後、ヨーロッパの住宅難を背景におこった生活改善運動の影響を受け、日本でも大正時代に入って住宅改良運動・生活改良運動が盛んになる。これはほぼ和風住宅批判であった。ざっと略史を見てみよう。

1916(大正5年)、住宅改良会が発足(民間団体)される。これは上述した文化普及会

と、後述する「生活改善同盟会」(戸建て住宅を主とした、公)と並んで、大正期から戦前の昭和初期まで盛んになった住宅改良運動(=生活改善運動)の推進役を果たした。機関誌『住宅』において、家族本位・椅子式生活・台所改善を唱える。建築学の側からの住宅改良論と家政学の側からの住宅改良論という異なった立場からの改良論が一体化されているのが特徴である。

続いて1920年(大正9年)、生活改善同盟会が結成される。上の住宅改良会に対して、内務省による「官」としての性格の強い物であった。1921年(大正10年)にはこの生活改善同盟会が「生活改善の方針」を『建築雑誌』404号の中で発表。椅子式導入、台所の改良、主婦室・子供部屋・家族団らんの居間設置を掲げ、先にも見た「接客本位→家族本位」を提唱たのであった。

1922年(大正11年)啓蒙のための「平和記念東京博覧会」が建築学会によって開催さ

れる。ここでの展示住宅は「文化住宅」。居間中心(=家族本位)+全て椅子座の主張であった。

 

「住宅改良」の困難―同潤会資料から

 

「住宅改良会」「「生活改善同盟会」「文化普及会」の他にもう一つ、重要な団体がある。

1924年(大正13年)に設立された、財団法人「同潤会」である。現在では表参道などに残る「同潤会アパート」で名前を聞く位であるが、始まりは東京と横浜の関東大震災の後早急に住宅を建設することが必要となり、震災の義捐金1000万円を交付されて設立された住宅供給組織であった。

やがて昭和5年前後の時期に震災復興も一段落すると、同潤会は震災復興関連組織としての性格を変え、一般的な公的住宅供給組織として機能するようになり、アパートメント建設などにも貢献するようになる。同潤会はこのアパートの各戸に水洗便所を設置するなどして、理想的「文化住宅」の体現であるとされた。以下に資料を引用する。

 

  …さらに住んでみて、列車型の一穴便所であったが、小さな住宅にくっついている便

所が清潔な水洗であったことである。(中略)同潤会アパートはたしかに当時の日本人

一般の住む木造建築住宅の水準を上まわる「文化的生活」を体現したもので、本格的ア

 パートのよさをデモンストレートするものであった。『日本のすまい・T』・西山卯三)

 

 水洗トイレが「文化的」であるかどうかの分かりやすい指標となっていたことは、なかなか興味深い事実であると言えよう。

 

更に、昭和の10年代後半に入り戦雲の濃い時期に入ると、全国のいなかの農村や漁村の住宅問題にも手を出すようになる。

『近代庶民生活誌E食・住』に収録されている「東北地方漁村住宅改善要旨」(同潤会・昭和16年)にその詳細が残るのだが、『近代庶民生活誌E食・住』の編者の一人である藤森照信氏は解説において以下のように述べている。

 

  なぜ、農村漁村の住宅改善の必要が叫ばれるようになったのかというと、もちろん  

一般的にいって当時の村の住宅の貧困があるわけだが、とくにこの時期にその改善が求

められたのは、徴兵制によって集められてくる兵士の体の劣化が目立ち、とりわけ優れ

た兵士の主要供給源であった東北地方出身者の劣化が昭和の大飢饉を境に意識されるよ

うになり、その改良のためには東北地方の住生活の向上が不可欠であったからである。  

(『近代庶民生活誌E食・住』p.544

 

「住宅」という住まいの領域にまで「闘う」国家のイデオロギーが持ち込まれるようになるのである。そして富国強兵思想はまた、第X章で詳しく述べるが、「衛生」「健康」概念とも強く結びつくものであった。

しかしながら「建築」という巨大な物に変化を加えようとする事…否、実際にそこで生活する人々をして建築に変化を加えさせる、という事が如何に大変であったか当時の苦労がひしひしと伝わってくる文面の数々が残っている。

以下に「東北地方漁村住宅改善要旨」の一部を見てみよう。一・住み良い住宅、二・住宅改善の意義、三・改善の急務、四・指導者の使命、五・改善の機会、と項目が進む中で延々と、分かりやすく・懇切丁寧に・細部に至るまで、住宅改善の必要性が説かれるのである。

  六・改善は贅沢に非ず

  昔から普請といへば贅沢事と考へられている傾向がある。その頃の普請は接客の為か、

財力を誇って見せる為かが主な目的だったからであるが、しかし今日、台所や寝間を改

善するのは、家族の健康の為であり、又作業場や漁具の置き場などを改善するのは生産

のためであって、益々生活力を増し、又益々収入を豊かにするための普請だと考へたい。

常に病弱だった身体が丈夫になり、これまで一日かかった仕事が半日で済むやうになっ

たとしたら、住宅改善も決して贅沢ではない。

(中略)

 八・先づ欠点を知ること

 あらたまって改善といふからむずかしいので、要は自分の住んでいる住宅の欠点を知

り、それを直して住み良くすることが即ち改善なのであるが、漁村の住宅は住居の中に

作業場が入り込んで出来ているので、月給取りの住宅よりも欠点を知ることが一層厄介

である。だからこの欠点を先づ念頭に置いて、漁村は漁村相応に、長年の経験で自ら工

合よく出来ているところはそのまま生かし、古いしきたりで室の配置が悪いとか、湿っ

ぽい場所や暗い部屋、其他衛生上不良な個所、乃至は焚物が徒に不経済な竈とか、押入

が無いので物が片づかないとか、又は暴風雨の度に家が揺れて困るとかいふやうな大小

色々の欠点があらう。それらを診察し、そして改善方法を考へなければならないのであ

る。

(『近代庶民生活誌E食・住』 所蔵『東北地方漁村住宅改善要旨』p.441p.442

 こうした指針が果たしてどこまで現実を動かしたかはわからない、と藤森氏も指摘する通り、この文面が平易な口調で住宅改善は「良いこと」で「簡単なのだ」と語れば語りかけるほど、当時の理想と現実の乖離を強く感じずにはいられない。

 戦時下における物資不足の日本において大量の金を必要とする(=贅沢事とみなされる)「普請」を勧めることは政府としても(同潤会は、先にも述べたとおり「官」としての立場である)安易に叫びにくい事であり、且つそれを人々に、「衛生的」で「合理的」な近代建築に変化させようとする事は相当の困難を伴ったのではないかと推測できる。

 「普請=贅沢事」という図式は「健康」「生産」「作業能率」「衛生」という近代的価値観に基づく大義名分によって、「普請=正当な営み」として書き換えられ、正当化されてゆく。そして同時に、そこで「普請の正しさ」の基準となる「健康」や「衛生」の「正当性」もまた「正当化」しなければならなかった所に、当時の苦労を伺い知ることができよう。

 

住宅改良運動におけるトイレの位置づけ

 

 ではこのような状況の中で、便所はどのように言及されているのだろうか。引き続き資料を見てみたい。

 

 一・住み良い住宅

  4 便所や物置、納屋、作業場のような附属家が都合良く配置され、作業は気持ちよ

 く出来るやうになっていること。

 (『近代庶民生活誌E食・住』所蔵 『東北地方漁村住宅改善要旨』p.440

 

まず注目すべきは、便所が物置や納屋と同列の「附属家」と明記されているところである。現在では「水周り空間」として風呂場や台所と同類として括られることが多いのに対し、ここで便所はあくまで「附属物」に過ぎない。しかし同時に、「附属物」にすぎないものに関してまで、詳細に渡りその改善方法――「都合良く・気持ちよく」、すなわち「便利で快適(=衛生的)に」――が事細かに記されているというのがまた二重に興味深いと言える。

 この先に土間・茶の間、客座敷、台所、作業場・加工場、漁具置場、構造、材料、窓、炉と竈、飲料水と下水、神棚と仏壇、押入と戸棚、子供の勉強場、風呂場・洗面所、など項目に分けられ、実に細かくその「欠点と改善」の指導が続く。便所についての言及も例外ではない。

 

 二十七・便所の問題

 汚水溜めと同様、漁家では便所を衛生的にしなければならぬことをあまり考へない向

がある。殊に密集した漁村では便所を共同にしているが、これなどは特に不潔に陥り易

い。

1 位置は井戸や炊事場に余り近く取らないこと。

2 溜は甕又はモルタル仕上げのコンクリートにすること。

3 内外を常に清潔に保持し得るやう工夫すること。

(『近代庶民生活誌E食・住』所蔵『東北地方漁村住宅改善要旨』p.448

4:簡略住宅史

 

敗戦後の住宅不足

 

 当時の総世帯数が2000万戸と言われる中で420万戸不足していた。戦争による大量破壊は、画一的に造り直すことができるという点において日本の住居に大変革をもたらした。「家族本位」が真に実現してゆくと共に、女中の存在の減少=“主婦”数の増加により、台所に対する考え方(=家事労働の軽減)が大きく変わる。

 1948年(昭和23年)には、最初の鉄筋コンクリート造公営アパートが作られ、これは壁式住宅を試みたものであった。障子などで“ワンルーム”をしきっていた、続き間が基本の日本家屋が、壁によってはっきりと区切られた部屋の構成から成る西洋建築の影響を受けている様が見られる。ここへ来て初めて家族内に於ける個人の“プライバシー”の確保が実現するのである。個別化された個室の誕生である。

また、1935年(昭和10年)あたりからコルビュジェ等の影響を受けて構造主義の考え方が採り入れられるようになっていたが、この壁式住宅はその影響を強く受けていると考えられる。構造主義とは建築を機能毎に分解し、そのつながりを考えて構成しようという計画学の試みである。各部屋の機能にふさわしい独立性のある住空間を確保することを目的とした。これによって住宅は空間による規定性の強いものに変化したのである。

そして1950年代、軍国主義から自由への思想の転換は建築家に多くのテーマを与える。「封建制の象徴としての玄関、客間、畳」などの追放、男女平等、主婦労働の軽減、合理的生活が追求されてゆくのであった。

 

HOW TO掃除」本の登場

 

1943年(昭和18年)、すなわち終戦の2年前『住宅の掃除方法』という本が、木下けいによって書かれる。ここに時代状況と「衛生」とが色濃く結びついた著述が残っている。「まへがき」より引用したい。

 

家庭の営みも、国民としての生活も、すべて此の中に行はれる。このやうな生活環境としての住居を整へ浄める意識も亦重要である。

掃除は住宅の汚れ、即ち塵芥、汚水及び不用物又は我々の生活をなす上に害を及ぼす有機物の除去を意味するから、よき掃除は住む人々の衛生、保健に寄与するところが大である。

住宅の衛生状態が住む人々の羅病率、死亡率に関係すると言ふことは調査の結果明らかである。掃除のよく為されているかどうかが、どの程度病気、死亡に関係するか否かといふ事は決定出来ないが、少なくとも掃除の行きとどいている、いないはその家の衛生状態の良不良を定める一つの規準となると云って過言ではあるまい。

今や決戦下に於ける生産拡充のため、生活物資は極度に制限を受けてきた。我々はよき掃除、よき手入りにより我が家の寿命を延し、且つ家具計器類の使用年限を延ばして、生活用具としての能力、価値を高めなければならぬ。

掃除を営む心は、物の生命を尊び、清浄を悦び、秩序を愛する心である。

明るく、浄く、直くと希ふ日本人固来の民族性は掃除の上にも見出しうる。

又掃除の行きとどいた家は、勤労を悦ぶ家庭である。勤労を除いて生活はない。一日の勤めを終へ、我が家へ急ぐ人々を迎へる浄められた住まひ、かく迎へる暖かい、床しい真情は家族をうるほし、やがて堅実な家風を育むのであり。

かくして、国を挙げての聖戦に勝ち抜くのである。

 (『近代庶民生活誌E食・住』所蔵 『住宅の掃除方法』 p.460p.464

 

 衛生と秩序を愛し、勤労を貴び、潤いに溢れる「家族像」が、ナショナルアイデンティティとして「掃除」を通して説かれているばかりでなく、なんと民族論まで持ち出して「日本人古来の民族性」を掃除に見いだそうとしているこの「まへがき」には、明らかに掃除のイデオロギー化を認めることが出来る。聖戦と掃除が結びついてしまうというこの因果関係は、富国強兵と衛生とが結びつくあの図式のアナロジーと言えよう。

ここで目に付くのは、『東北地方漁村住宅改善要旨』にも見られたような、「合理的」「計画性」「掃除という一種の家事労働」といった語句である。更に興味深いのは、「主婦一日の生活時間」という表があり、そこには食事用意後始末から洗濯など、家事全般と、その他と称した身支度から入浴までが、二十四時間の中で分刻みで指定されている事である。

この数値化は工場労働者達のフォード形式を彷彿とさせる。個人の持つ時間を切り売りする、あの時間感覚である。これは、万物の始源としての神に始まり、神の意志としての世界の終末に向かうというキリスト教的な世界観から来ていると考えられる。過去から現在、そして未来へと進む、いわば矢印のような、不可逆の直線的時間である。今日より明日、明日よりあさってという、ある種の楽観的進歩主義を表しているわけだが、こういった世界観が戦時下における「欲しがりません勝つまでは」的なスローガンへとつながっていった事は否めないであろう。ここで主婦は時間を売っているわけではないのだが、時間はその行為によって「分割」しうるものである、と認識されているという点において、ここでも近代的時間概念が持ち込まれている事を認めることが出来よう。

 

そしてこれに続くのは、「毎日掃除表」「週掃除表」「月掃除表」「季節掃除表」だ。「日」と「月」において、主にすぐに汚れてしまうような場所が指定されているのだが、そこには家族がどの場所を分担するかも明確に記されている。そして便所はやはり、主婦の仕事なのであった。第V章で詳しく見た『台所、便所、湯殿及井戸』[12]には、「其家の主婦の如何は便所を見れば分かるとは古今東西同一であらう。」という記述もある。この文は筆者が現在において良く耳にする「トイレは家の顔である」というような、「トイレは文化的なものである」という語られ方以上の意味を持つ。つまりここでは、家屋という建築のヒエラルキーと、家族という集合体のヒエラルキーとが一致させられてゆくという、極めて政治的な意味を持つものなのである。

そして西川祐子氏が『日本女性生活史 第四巻 近代』所収「住まいの変遷と「家庭」の成立」の中で指摘するように、「家」という空間での生活問題は近代家族の問題であり、「近代家族」が近代国民国家の単位として育成されている以上、それはすぐれて政治の問題、すなわち国家の問題へと修練されてゆくのである。(「住まいの変遷と「家庭」の成立」西川祐子 東京大学出版会 1990年 p.48

 

目次を見るとこれに続いて、三・屋内掃除方という項目があり、1部屋の一般的掃除法法 2・床間 3・床 4・建具雑作類 5・玄関 6・台所 7・浴室及洗面所 8・便所 というように、こと細かに細分化されている。残念ながらこの本そのものを入手することができず、「便所」の項目で一体どんな掃除方法が示されているのかを確認することは出来なかったのだが、「便所の隅は塵埃がたまらず掃除しやすいやう丸みをつける。」

であるとか、「はたき」や「ちりとり」や「雑巾」の項目において、「部屋用、台所用、便所用、外回り用、各一本(あるいは、一枚等)宛備へたいものである」と記してある事を確認した。

 

 DKという表示法

 

話を元へ戻し、ここではDKという表示方法について記したいと思う。建坪が「何坪である」という表現で、家の大きさ・広さを把握していた戦前から変化し、戦後の公営住宅の中で定着した「DK」という平面計画。部屋の連なりとして住居を把握し、表示する方法である。間仕切りによって住居を“計量”するという意識の展開を現している。日本の戦後の住宅・アパートを象徴するようになる。

例えば、建設省が公営住宅のために標準設計を1948年から作成、1951年(昭和26年)

に完成を見る。例えば 51C型といえば、それは食堂に台所を併せ持つ、ダイニングキッチンの原型である。和室の居室の中に板敷き・椅子式の食堂を入れ、南面させるものであった。

 ついで1955年(昭和30年)、日本住宅公団(現・都市整備公団)発足が発足する。公営アパートが椅子式のDKによって食寝分離=「合理的」生活を狙う。洋風の居間・ダイニングキッチン・スチール製のドアと精密な錠の開発・洋風水洗便所が標準となり、この団地建設開始に伴い洋式水洗便所の草の根レベルでの普及が見られるようになる。(糞尿の堆肥としての商品価値が低下する。)

 

 高度経済成長の波と低成長時代

 

1960年代、第一期マンションブームを迎える。住宅産業の台頭により、企業の利潤性

と合理性で住宅の画一化が進むことになる。1961年(昭和36年)には住宅公団が欧米各国で開発されたそれまでの屎尿浄化槽から、活性汚泥法採用(水洗便所に欠かせない汚水処理法式)に切り替える。1963年(昭和38年)には、下水道整備五カ年計画スタートする。(図3:トイレの研究・日本トイレ協会編・地域交流センター)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1970年代住宅の高層化/工業化。住宅の設備設置の性能をあげ、台所・浴室・洗面・

便所などの衛生部分に力が入り始める。動線の重視により「水まわり」空間はひと括りにされる。ついで1979年(昭和54年)EC(欧州共同体)委員会が対日経済戦略報告の中で、「日本は欧米ならウサギ小屋としか思えないような所に住む仕事中毒の国」と表現→貧困な住宅事情を示す。

 その中で、「排泄」という単一の行為のみに対応するシンプルな空間であるという理由で」トイレは最も小さく切りつめられて行く。(例えば、成人の大便に要する広さは洋式で「80cm120cm」が最低限と言われているのに「80cm80cm」=畳三分の一くらいの「文化住宅」が関西にあった。)

 

 

 以上、住宅史の変遷におけるトイレの位置づけをざっとみてきたが、トイレが「モダンの指標」「近代家族」「近代的時間」「数値化」「聖戦イデオロギー」と少なからず結びついていたことが大変興味深かった。


第X章 学校衛生におけるトイレ

 

身体が「近代化」されてゆく過程を見る上で無視できないのが、「学校」における教育である。この章では、学校衛生とトイレの関係を追っていきたいと考える。(但し、入手できた資料の関係上、明治期における学校衛生に限って参照することとする。)

 本研究の唯一の先行研究であると思われる横山(http://www.win.ne.jp/~yokoyama)氏は、その「1996年のスカトロジー」の中で、日本の学校衛生の歴史はドイツの学校保健思想の導入から始まった、と指摘している。学校医を中心として児童の発育や健康の障害を「治療」し「予防」することを主眼として、兵力増強的な目的のもとに明治30年代は文部省内に学校衛生課が設置され、公立学校の学校医師制度が公布されたという。学校身体検査、学校伝染病の予防、学校清潔方法などが行われるようになった。

 

1:「学校衛生」が意味するもの

 

 ではここで、『学校衛生学』を見てみよう。

この本の著者である三島は、文部省学校衛生主事兼高等師範学校教授であった。明治24年、文部省普通学務局より学校衛生事項取り調べを嘱託され、毎年四方を巡回して諸学校における衛生上の現状を視察した、という。

 三島がその「序」の部分において「斯ノ如ク各種学校生徒カ、衰弱、萎縮シタル、其原因ヲ推究セハ、(中略)尚教育方法ノ沿革、学校衛生ノ不備、大イニ馴致シテ然ラシムルモノアリト云フヘシ。(中略)我国ヲシテ、東洋ニ起立セシメント欲スル者ハ、深ク之ヲ既往ニ鑑ミ、将来ニ企国セサルヘケンヤ。」と明確に述べているように、明らかに学校衛生教育を「日本を東洋に起立させ」るべきものとして位置づけており、軍事的目的的な匂いを漂わせている。「而君子国ノ民種、今ヤ将ニ志気衰弱ニ陥ラントス。」故に、まず「学校ニ於ケル衛生之道ヲ矯正完備スル」事が必須だと言うのである。

(『近代体育文献集成』第28巻 保健・衛生 所収 『学校衛生学』博文館 

                                                         1893年(明治26年) 三島通良 序p.4p.5

 

学校衛生=国家の栄枯盛衰

 

  人若し本書によりて、学校衛生一般の要領を得、熱心之か振作実行に拮据せは、盖し

学校衛生をして、普及発達せしめ、健全強壮なる青年を得民種の魁偉と、堅忍不抜の気

象とを有する国民を組織し、国富み兵強く学術愈進み、雄を寰宇に争ひ、遂に天下の盟

主たるに至らんこと亦難きに非さるなり。国家の盛衰栄枯一に其学の普及すると否とに

あり、其学の盛衰、即ち其国の栄枯を卜すへし。

(『近代体育文献集成』第28巻 保健・衛生 所収 『学校衛生学』博文館 

                                                              1893年(明治26年)三島通良 総論p.28

 

すなわち、学校衛生は健全強壮なる青年を育み、それが国家・強兵を創り出し、結果日本が世界の盟主たらんことに貢献する、というのである。つまり、学校衛生の如何が、国の栄枯盛衰を握る、と。

 この「衛生」と「富国強兵」の因果関係は、よく指摘されることである。例えば『<清潔>の近代』の著者、小野芳郎氏もその中で指摘するように、三島は健全な精神は健全な肉体に宿る、としている。「健全な肉体」への賞賛という包括は一方で「不健康な肉体」はろくな精神を持ってはいないという軽視・差別…すなわち、排除へとつながってゆく。小野氏は「ある意味では一元的な価値観、つまり、運動ができる丈夫な体こそ望ましい、という考え方が、明治日本の富国強兵策から生まれた衛生システムの中で、国民に植え付けられていったようである(『<衛生>の近代』p.227p.228)」と指摘する。

 

 又更に、明治36年、片山国嘉と關以雄識が『学校衛生及学校医』という本を残している。その序の部分には、「衛生上ノ知識ニ乏シキ邦土ハ之ヲ開明国ト称スベカラズ、衛生的素養ニ缺クル國民ハ之ヲ教育アルノ民ト謂フベカラズ。衛生ト教育トハ識ト是レ國家経綸ノ大本ニシテ富國強兵ノ淵源実ニ此ニ存スト謂フベキナリ、聞ク、教育ト衛視得トハ國家的タラザルベカラズト」とある。ここではより鮮明に、衛生教育と国家の存亡との関わりが説かれている。「開明国」の条件は「衛生」国家であること、から始まるのだ。

(『近代体育文献集成』第29巻 保健・衛生 『学校衛生及校医』

                           明治36年 序p.1p.2

 

操作可能物体としての児童の身体

 

続く総論も以下に参照してみよう。三島は延々28ページにも及んで「学校衛生」の持つ意義をこの総論において述べているのである。

 

 児童は、実に第二の国民を編成すへき、最大要素成れば、須らく之を有為の者たらし

めさるへからす、之をして有為の者たらしむるは、只之を教育するにあるのみ。(中略)

凡そ児童の身体は、恰も軟泥、熔鉱の如く模型と作業との如何によりて、随意の形態と

なす事を得へし

(『近代体育文献集成』第28巻 保健・衛生 所収 『学校衛生学』博文館

1893年(明治26年) 三島通良 総論p.2

 

 ここで児童の身体は、支配可能・操作可能な従順な身体として捉えられている。泥の

ように柔らかなそれは、それが目指す規範と教え込む作業さえしっかりしていれば、如何様にも変形可能なのである、と。そして児童の身体に施されるべきは、「第二の国民」として国にとって「有為」なものとしての変形と加工なのである。

 

  即ち其骨格未た全く化骨せす、其筋肉、今より将に発育せんとするを以て若し之をし

て不適当なる位置に据え、或いは教養其宜きに適せさるとあらしめは、終に先天にも受

けさる、奇形となりて、終身、之を恢復すること、能はさるに至る。

(『近代体育文献集成』第28巻 保健・衛生 所収 『学校衛生学』博文館

                                                   1893年(明治26年) 三島通良 総論p.2

 

 つまり、児童の身体は操作可能なだけに、方法を間違えれば「奇形」になり、それは「有為」に対置される「無為者」となる恐れもあるから気をつけよ、というのである。

 

「奇形」の無為者

 

ここで「奇形」とは具体的に何を指すか。上記の文章からすると、まず骨や筋肉などが「不適当」な位置についていることが挙げられるのだが、更に興味深いのは「視力」に関しての記述なのである。「奇形」の具体例を三島は以下に続ける。

 

  机の比較的高きものに対し読書し、或いは書記し、漸しく脊髄の湾曲を来たし、之と

同時に左肩挙昇して、身体左方に傾斜するに至り、慣習の久しき、遂に治すること能は

さるに到るか如き。或いは光線の射入不足なるか、又は書籍の文字細微に過ぎ、紙質粗

造印刷不明にして之を熟視せんか為に、眼を書籍に近接せさるへからすを以て、近視眼

となるか如き、智育徳育(心育)を奨励して、躰育を惚にしたる結果、心躰の衰弱、疲

衰を来たし、遂に夭死するに至ることあるか如き。

(『近代体育文献集成』第28巻 保健・衛生 所収 『学校衛生学』博文館

 1893年(明治26年) 三島通良 総論p.2p.3

 

ここで見られるような「脊髄の湾曲」と「近視眼」等の奇形、という記述はこの後の文章にも数回出てくる。「脊髄の湾曲」という記述は背筋が真っ直ぐに伸びた、若く逞しい肉体への憧憬を感じさせる。19世紀後半、イギリスの帝国主義の時代に生まれた、「スポーツ」という近代の思想そのものが持つ、健康神話と規格化された身体への信仰を思い出すのは深読みのしすぎだろうか。

また「近眼」についても、実はこの「学校衛生学」以外にも学校衛生についての資料において「視覚」に関しての記述が存在し、かなり事細かに記されているのである。「視力」の善し悪しが「正常」か「異常=奇形」かの判断になるということ、ここに、人間の五感を視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の順でランク付けする、あの近代的身体観のヒエラルキーを垣間見る事ができる、とはいえまいか。すなわち、人間の五感の中で最も優れているのは「視覚」であって、「眼」に見えるものが確かであり、「眼」こそが正確な世界像把握をしうるものである、というあの「視覚」神話とでもいうべきものである。

主体・客体を分離するデカルトの心身二元論は、全体性としての人間の精神をロゴスとパトスという二つの領域にわけ、理性こそが人間を支配しているとしてパトス的なもの・本能的なものを退けるわけであるが、この五感のヒエラルキーは上に行けばいくほど、崇高で人間的な感覚、下に行けばいくほど野蛮で動物的な感覚となる、とされるのである。

つまり、ここで第二の国民たる幼児は、優れた「視力」を持つことを要求される。その一方で、勉強のしすぎで視力が低下した者は「奇形」であり、国家にとって「無為」の者である、とされたのである。

 

衛生という“欧米産”コードの中で

 

さらに続いて、三島は以下のように述べる。

 

  創業急進の際に当たり、万事欧米の方法を模倣して、之を風俗習慣、全く彼と異なる

我国に擧行せんとしたる事、大いに衛生の原則に反戻せり。(中略)遂に蒼顔織手を以

て、学者の模型と為し、近眼痩衰せる者を以て、学士の雛形と為すに至り、学生の徴兵   

検査に合 格する能はさる者、極めて多数を占むるに至れり。軽率に欧米の外面を講じ、

其富強の由て起りたる所以を究めす、教育の基礎たる学校衛生を忽諸にしたる結果、国

民をして殆ど悉く病身奇形ならしめ、従ひて国力を衰耗し、元気を沮喪したるもの果し

て幾許そ、豈憤慨に堪ふへけんや。

(『近代体育文献集成』第28巻 保健・衛生 所収 『学校衛生学』博文館

                                       1893年(明治26年) 三島通良 総論p.11p.12

 

意外にも、三島はここで西欧への反発を見せる。この日本男児の脆弱っぷりを生みだしたのは、欧米のやり方をそのまま導入したからであって、欧米の風習に心酔した熱病者の妄想を採用している限りは、徴兵制の規準に満たす身体を持った日本男児は創出できないのである、と。

いくら「日本の風土文化にあった」「日本らしい」やり方で近代化しようとしたところで、「清潔をして近代国家たること」が欧米の規準=コードである以上変わりはないのだが、こうして欧米の規準への同化と、規準を満たすための方法としての「日本らしさ」という異化とをもって、「日本」としてのidentityを形成しようとしていた様が伝わってくる。つまり三島に言わせれば、これを救えるのは日本に適した形での「学校衛生」に他ならないのであった。

 

有為者の「適当」なる身体

 

 では、国の為に「有為」なる者の身体は、どのように描写されているのであろうか。

 

  去年来遊したる、伯林大学教授ヒルシュベルグ氏の如きは、吾日本国青年学生の躰体、

脆弱にして夭死する者多きを歎て、其原因は、全く学校衛生の普及せさるに由ることを

説けり。氏の説によるに日本の民主は、決して脆弱なる者にあらす。彼の海岸に立ちて、

荷物を運搬し、一葉の扁舟を以て、漁猟を業とする者の如き、兵士車夫の如き、其躰格

の偉大にして正規なるは、以て彫刻家、及解剖家の模型となすを得へし。

『近代体育文献集成』第28巻 保健・衛生 所収 『学校衛生学』博文館

 1893年(明治26年) 三島通良 総論  p.4p.5

 

ここで語られている青年学生の肉体とは、彫刻家や解剖家の模型となりうるような、筋肉隆々たる健康で正常な身体なのだ。異民族や労働者階級の身体を差別化・周縁化し、健康で高潔な肉体を持つ英国紳士を社会的優位において中心化する、適正存在の社会理論である社会ダーウィン主義のイデオロギーを彷彿とさせまいか。「健康で正常な肉体がすばらしい」というルールは、植民地に領土を拡大する近代ブルジョア社会の、きわめて差別的な階級的・民族的優越感に裏打ちされた「身体観」であったが、この三島の文章にはそういった「身体観」が反映されているように感じずにはいられない。

 

規格化される身体―体の序列化と測定の精密化

 

 さらに注目すべきは、身体の規格化という点である。

 

毎年期を定めて体重、身長、視力、聴力を計測し、之を帳簿に記載して前回に比較し、

其増減如何を察し、尚児童の疾病を観察する為のみならず、衛生学に通暁せる者を聘し

て、顧問となし

『近代体育文献集成』第28巻 保健・衛生 所収 『学校衛生学』博文館

 1893年(明治26年) 三島通良 総論  p.26

 

 児童の生身の身体は数値という形に換算され、計測され、記録され、継続性をもって管理されてゆく。この「身体検査」は今も学校に残る身体管理の証であるが、「身体検査」の歴史を振り返り、その意味を考えると恐ろしくなる。児童の健康の為、疾病を防ぐ為、という大義名分のもとに行われる「身体検査」は、兵士としての身体足りうるかどうかを計測することへとつながってゆくものであったのだ。そこでは一人一人の人間が持つ身体の固有性といったものは抹殺され、いくらでも代替可能な兵士のフラットな身体―恐ろしく強靱な―としてまなざされるのである。

 

2:「学校衛生」における便所

 

清潔法とコレラ

 

 このような「学校衛生」の場において、トイレはどのように位置づけられていたのだろうか。明治30年1月11日、文部省訓令第一號によっての各学校の清潔を保つため、清潔方法の標準が定められたという。そこでは、甲:日常清潔法、乙:定期清潔法、丙:浸水後清潔法の三種類が定められたのだが、その甲:日常清潔法の中に、便所に関する規定が載っている。以下に参照してみたい。

 

 (6)便所ノ尿溝、及注壁等ハ毎日一回水ヲ以テ洗ヒ、 房ハ濕布ヲ以テ拭フベシ、

    樋箱ニハ成ルベク葢ヲ設クベシ。

 (7)糞壺内ニハ防臭薬トシテ粗製過滿俺酸加里、粗製格魯兒滿俺、(以上百倍乃至

    三百倍)硫酸鐵、泥炭末、木炭末、乾燥土粉、灰等ヲ撒ク布シ、期ヲ愆ラズ汲

    取ヲシムベシ。

  

衛生が学校の隅々まで管理されて行く中で、その一環としてトイレも対象と成っていたようである。

このように学校における衛生とその中での便所の管理が叫ばれるようになった事は、コレラと無関係ではない。近代以降の病気においてこれほど忌みきらわらた病気は他に例を見ない、と小野芳郎氏は『<清潔>の近代』の中で指摘する(p.64)。「虎列刺は衛生の母なり」という言葉に象徴されるように、特効薬のない、いわゆる死病の急速な流行は、検疫制度、隔離病院、警察制度を含めた衛生行政機構、公衆衛生学・予防学の発展、細菌学の進歩と薬品の開発、大日本私立衛生会のような啓蒙機関、衛生組合のような町組織などの様々なシステムを生みだしていった、と小野氏は言うのである。

氏によれば、コレラによる死亡者数の全国的統計が残っているのは、1877年(明治10年)以降である。伝染病は戦争などによって運ばれてくることがあり、1877の西南戦争の帰還兵が全国にコレラを蔓延させ、明治維新後、初めての大流行となったそうであるが、その後の大流行年と死者の数を下に記す。

 

   1877年(明治10年)  8000 人

   1879年(明治12年) 105786

     1882年(明治15年)  33784

     1886年(明治19年) 108405

     1890年(明治23年)  35227

     1895年(明治28年)  40150

 

そして「コレラ」にかかることが恐ろしかったのは、感染すると高熱、吐瀉、下痢を繰り返し、脱水状態、血行障害、血圧低下、虚脱状態となってわずか三日で死に至るという病状の恐怖だけではなく、患者への差別観であった、と小野氏は続ける。

コレラ患者は「コレラ患者あり」と大書した紙を門戸に張り、避病院には黄色の布にQの字を墨書にした旗印をたてることが政府によって求められたという。さらにコレラ患者は、彼等から伝染することを防ぐために実名で新聞に掲載されたのであって、こうなると新聞で指名された患者は、たとえ生還したとしても地域社会での差別の視線を浴びなければならなかった、というのである。自分はコレラ患者である、という記しづけ、名指し、そして隔離。害あるものはこのようにして中心から周辺へと追いやられてゆくのであった。

 このようなコレラの恐怖がミスアマ説[13]によってこのようにして雪だるま式に加速し、蔓延していった事は、便所に於ける「清潔」が言われるようになった時代背景として踏まえておかねばなるまい。

例えば1881年(明治14年)、宇田川準一によって編述された『小学生理訓蒙附養生法 第2巻』では、このコレラに関する「予防法」が説かれている。そこでは<傅染病預防法>と題して、「夫疫熱或ハ虎列拉ノ如キ病症タルヤ其勢甚タ猛烈ニシテ甚シキニ至リテハ僅カニ三十四ジカンニ不慮ノ死ヲ致スノミナラス或ハ其病毒ヲ他ニ傅播シテ停止ス可ラサルニ至ル者ナリ因テ其預防法ヲ列記シテ以テ参観ニ供ス」と言っており、

「一 便所、塵芥及ヒ下水等ハ防臭薬ヲ撒布シテ時々掃除スヘシ若シ再ヒ臭気ヲ放ツニ至ルトキハ直ニ之ヲ撒布シテ其発散ヲ防クヘシ」として便所の掃除と臭気の薬対策につて述べ、また下痢・便秘と腹の虫については以下のように言及している。「一 気分異常ナルカ或ハ下痢又ハ便秘スルトキハ直ニ医者ニ乞テ預防薬ヲ服用スヘシ又蛔虫、 虫等ヲ生スル習慣アル人ハ此際殊ニ注意スヘシ」

 

ただし、現在においては異論もあることも踏まえて置かねばなるまい。金塚貞文氏はその『人工身体論』の中で、以下のように指摘する。

 

  水洗トイレの普及と軌を一にして、コレラ、チフス、赤痢といった消化器系感染症、

及び、寄生虫が減ったというのは、疑いようのない事実のように思われる。しかし、そ

れとて、直接的な因果関係で結ばれるかどうかは大いにあやしいし、水洗トイレ以外の

形態でも、病原菌の伝染阻止は充分に可能であったはずである(ヴァン・デア・リン前掲書[14]、三木和郎『都市と川』等参照)。

 (『人工身体論』・金塚貞文・青弓社・1990年・p.33p.34

 

規格化される便所

 

 では次に、先にも挙げた三島の資料を参考に見てみよう。

 

  第十二章 便所

  便所は、亦校舎の一部分にして、殊に学校の如く多数の人を一堂の元に、群衆せひむ

る所にありては、其構造の如何は、全建築の衛生に影響すること、頗る大なり、而して

便所は、必ず校舎より可及的遠く隔離するを可とし、校舎との距離愈大なれば、衛生上

良なりとす。

(中略)

 而して其校舎との距離は、果たして幾許を隔つへきやは、一定の標準なしと雖も、少

なくとも、三間を隔てさるへからす。且つ常風と日向きとを査し、之を風源に建築すへ

からす。

 

多くの人間が群集まる所は不潔である、故に便所は校舎から隔離せよ、というのだが、この汚くて危険なものは「隔離」せよ、という思想はコレラ患者排除の隔離を彷彿とさせる。糞臭から逃れるために、「一定の基準はないが、離れていれば離れているほど良い、、、とりあえず三間は離せ」というなんともいい加減な設定がなされているのだ。

 

  学校、若し男女両性を教授するものにありては、便所は全く之を分離し、加之教員と

生徒とも亦其便所を異にすへし。而して便所の雪隠の数は、生徒の数に従いて之を造る

へし。バーセル府に於いて開設したる学校衛生会議の決議に依れば十二人乃至十五人の

児童に、一個の雪隠を要し、中学校以上にありては、二十人毎に一個を以て足れりとす。

然れども、予は之を左の如く定めたり。

 

  男生徒百人に付 大便所三ヶ所 小便所 四ヶ所

  女生徒百人に付 便所五ヶ所

 

  其戸窓は、内より鎖鑰すへきものにして、其閉鎖厳密ならさるへからす。且つ天井は、

可及的高きを要するのみならす、高き煙突状物を建設して、臭気を速やかに上方に吸出

し、窓は如何なる場合に於けるも閉鎖すへからす。

 

この人数に対してこの便器の数の割り当てはミュンヘン大学に従ったようであるが、他の資料に於いても、この人数と便器数の規定は見ることができる。1887年(明治20年)に英国医学士アルサル・ニウスホルム氏によって書かれたものを小林義直が翻訳した『学校衛生論』という資料には、「厠数ハ女子毎十五名ニ一箇男子毎二十五名ニ一箇トシ、其後架台ハ、大約小児ノ身大ニ適セシムベシ、教師用ノ厠ハ別ニ設ケ且ツ男女用ヲ区別スベシ。」とある。また、「尿盤ノ数ハ、小児毎百名ニ五箇タルベシ」(『近代体育文献集成』27巻 保健・衛生 所収『学校衛生論』第八章 廃用水排泄方 p.80)ともある。三島によれば、便器一つ当たりの人数は、女子20人、男子(大便器)33人、(小便器)25人、であったのに対し、アウサス・ニウルスホルムによれば女子15人、男子(大便器)25人、(小便器)20人であるから、数の統一はさほど厳しくなされていなかったようである。(二つの資料の間には6年程の差があるにしても。)

ただ、便器の数に限らず、便器の大きさや寸法を事細かに数字として明らかにしようとする姿勢に、均一化・単一化という「近代」の一つの指標を見るようで大変興味深い。

 

  男生小便所の便溝は剰り深くなすへからす、大抵三寸勾配を以て通例とす、而して最も其

流去に注意し、且つ一人つつの仕切り板を設け、踏み石より二尺乃至二尺五寸(帯の邊)の

所に於いて、横に杉の細材又は竹を以て手欄を設くへし、然らされば、格子を以て便溝

を蔽い、以て児童の墜落するものを予防すへし。

  其他便所の周囲には、杜、松、松、杉等の寿器を植うへし。

(『近代体育文献集成』第28巻 保健・衛生 所収 『学校衛生学』博文館 

                 1893年(明治26年)三島通良 総論p.80p.85

 

しかしこのように綿密な指導の必要性が叫ばれる一方で、明治35年2月6日、文部省訓令第三号中学校教授要目に基づいて書かれた『中学理衛生教科書』を見てみると、その差に驚かされる。その中に「第八編 排泄 第十八章 排泄器官及び其衛生」というのがあるのだが、「衛生」という項目の記述はたった四行で終わっている。「老廃物ノ排泄ヲ防碍セラルレバ体内ニ蓄積シテ健康ヲソコナフガ故ニ、常ニ此機能ヲ全カラシメザルベカラズ、飲料ノ盲用、飲酒ノ如キハ賢臓ヲ病マシメ、排泄機能ヲ害スルノ原因トナルコト多シ、」

(『近代体育文献集成』第29巻 保健・衛生 『中学理衛生教科書』文部省訓令 

         明治35年「第八編 排泄 第十八章 排泄器官及び其衛生」 p.79

 

三島が衛生教育の持つ国家的意義について切々と述べていたのに比べ、ここでは「衛生」の項目が、「飲み過ぎはよくない」で終わってしまっているのである。衛生観念はの浸透は予想以上に遅々としたものであったのかもしれない。

 

 

 以上みてきたように、学校衛生においては、便所も在る程度以上管理の対象となっていた事が確認できた。しかしながら、「身体検査」の項目では、「身長・体重・胸囲・肺活量・脊髄・体格・視力・眼疾・聴力・耳疾・歯牙、其他」くらいにしかお目にかかれなかった。検尿や蟯虫検査といった個人単位での糞尿管理の項目が登場するまでには、もう少し時期を待たねばならないようである。また別の機会に見てみたい。


終章:トイレ及び糞尿を通してみた近代と身体の関係

以上、トイレが近代化されてゆく中での「便所」観、及び糞尿観を概観してきた。トイレという一つの物体の中にまで様々な形で近代化を確認することができ、逆照射のような形で近代的身体を見ることができたのは非常に興味深かった。しかし同時に又これは、近代が創り上げた言説を暴こうとして、自らが新たに新しい言説を創り上げてしまいそうになっている事に気づかされる作業でもあった。研究を始めてしばらくの頃は、便所観及び糞尿観はフローチャートの矢印で表せるような歴史的変遷を見せているに違いないと決めつけていたのである。

しかし実際に資料に目を通してゆく過程で、便所や糞尿について語る、あるいは取り組む人々の、実に様々な表情に出くわし非常に驚かされた。水洗便所が文化の証とされることもあればその不潔さが文明に遅れている事の証であることもあった。神や妖怪の住まう空間として畏敬の念をかけられることもあれば、戦争や近代家族というイデオロギッシュなものに組み込まれる事もある。又糞尿に関して言えば、第V章で取り上げたような、「清潔に処理すべき対象」としての糞尿観が相当量の論文に一律な捉えられ方で記されている一方で、第U章でみた安田徳太郎のような「前提疑う」冷静な糞尿分析もある。単純な図式では括れない便所観や糞尿観が繰り広げられていたのである。

しかしそれでもまだ、私がここで描き出したものも氷山の一角にすぎず、釈迦の手のひらの上で懸命に飛び跳ねる孫悟空のような無力さを感じずには居られない。どこまで行っても自らの手で新たなる「言説」を創り上げてしまうのではないか、という恐怖は拭い去れないのである。

ただここで救いとなるのは、先にも挙げた安田のような研究スタンスである。彼の『人間の歴史』所収「肥料と女の風習」を再びひいてみたい。

「したがって、日本の女が立って小便をするのは、西洋人のいうように、日本の女がとくにサルに近いという証拠ではなく、むしろ日本の糞尿肥料と封建的な借家制度に結びつく、あくまでも、社会史的な背景をもっていた。」

「したがって、日本の女が立って小便したのは、母権制とか女王国とかいうむずかしいイデオロギーに結びつかずに、第一に、日本の糞尿肥料、第二に、日本の封建的な借家制度、第三に、小便代でもかせごうという、小市民階級の経済的理由に基づいていた」

 (『糞尿の民俗学』所収『人間の歴史』1951年〜1957年「肥料と女の風習」

 p.93p.94

 

この二つの文章は、安田が「肥料と女の風習」の中で記していることなのだが、我々が持つべきなのは実はこういった視点なのではないかと感じる。つまり、「日本女の立ち小便はサルに近い証拠」である、という偏見に基づいたとしか言いのない様な言説に対して憤慨し、「日本女の立ち小便は母権制というイデオロギーに結びつく証拠」である、という崇高な論をそれらしく持ってきたところで事態は何も変わらない、という事なのである。重要なのは、安田のようにもっと現実に即した人間の生の営みを直視することなのではないだろうか。糞尿=野蛮であるという図式の時代、あるいは単に好奇の対象として語られる事の多かった時代のただ中においてこのような視点を以て糞尿に取り組んだ学者がいたことは、非常に心強い事のように感じるのである。

 

しかし振り返ってみて、便所や糞尿に関して、こんなにも多くの人々が頭を悩ませ、その生きる時間を研究に費やしていたことに正直驚いた。こういった資料に対峙するのが「おもしろい」のは、「技術が未発達であった頃」の人々の奮闘振りを「未開だ」と言って笑うという意味においてでは決してない。当時の「常識」や「当然のこと」に対峙してそこに違和を感じ、自分が今当然であると考えていることの「自明性」の歴史が如何に浅いものか、つまり「自明性」の観念とは社会による所産にすぎないものだという事を、思い知る作業であるという意味において「おもしろい」のである。 

現に筆者は「衛生観念は近代の産物なのではないか?」「衛生が排除したものは何であったのか?」と言うことを考えながら一次資料に目を通しているはずが、「国民のために健康を」「子供のために衛生を」という文字に幾度と無く遭遇しているうちに、「衛生は無条件に、全てにとってよいことだ」という考えにマヒさせられそうになってしまった程である。人間の意識などというものはかように簡単に操作され得るものなのかもしれない。ここでまた、「意識」や「能動性」や「主体性」といったものの絶対性の危うさに、気づかされるのである。

金塚氏のように、水洗便所は身体の負性を流しさる隠蔽装置であり、現代文明の功罪を背負ったものであるという主張も最もではあるが、事はなかなか複雑だ。現に便所や糞尿の「衛生問題」は当時の農村の人々にとって死活問題であり、有識者にとって国の存亡問題であった事を知った。現在から見ればかなり危険な要素をも持つこういった「近代的思考(=衛生、合理性等)」が、現在我々が持つ「無臭志向」や「行きすぎた衛生観念」に通じていると言って現在の我々が彼等を責める事はできまい。思えばこのような「一括りにできないもの」の存在を思い知らされるための研究であったと言えるのかも知れない。


参考文献及び参考資料

 

序章・第T章・第U章

糞尿の民俗学―礫川全次―批評社―1996

・トイレの研究―日本トイレ協会編―地域交流センター

・日本トイレ博物誌―荒俣宏他―INAX

・女のトイレ事件簿―小野清美―TOTO出版

・<清潔>の近代―小野芳郎―講談社選書メチエ―1997

・身体の零度―三浦雅士―講談社選書メチエ―1994

・匂いの身体論―鈴木隆―八坂書房―1998

においの歴史―アラン・コルバン―藤原書房―1990

<身>の構造―市川浩―講談社学術文庫―1993

・恐怖の権力<アブジェクシオン>試論―ジュリア・クリステヴァ―1984

 

第V章

同潤会基礎資料U第4巻―柏書房―1998

台所、便所、湯殿及井戸―汎工社出版部―1944

 

第W章 

日本人のすまい―平井聖―市ヶ谷出版社―1998

目で見る住まいの歴史―山口廣―井上書院―1984

住まいを読む〜現代日本住居論―鈴木成文―建築思潮研究所―1999

日本の風土文化とすまい〜すまいの近世と近代―大岡敏昭―相模書房―1999

日本女性生活史第4巻・近代―女性史総合研究会―東京大学出版会―1990

絵とき日本人の住まい―光藤俊夫―丸善―1982

「住まい」へのまなざし―住まいと文化懇談会―住宅金融普及協会―2000

・便所の話―山田幸監修―鹿島出版会―1982

近代庶民生活誌第E巻 食・住―三一書房―1987

 

第X章

人工身体論〜あるいは糞をひらない身体の考察―青弓社―1990

近代体育文献集成第2829巻―日本図書センター―1987

 



[1] 日本に於ける便所の名称は、関所や雪隠、川隅など実に多彩であるが、今でも目にする機会が多いのは、「かわや」かもしれない。これは「川=河」そのものをトイレとしていたことからくる「河屋」であるという説と、母屋の外に離れ、すなわち「側屋」をトイレとして作ったことからくるとする説とがあるが、年代や地方によって違うようである。

 

[2] 糞も屍も仏教の鏡に照らせば同類であって、人間もいつかは朽ち果てる。従って放っておけばよいのだ、という諸行無常の観念からくる。

[3] 明治25年(1892年)には福岡で市民と農民が糞尿代をめぐって抗争する事件が発生した。糞尿の「堆肥的」価値は、階級差(食生活の差)によってつけられた。糞尿は階級のいわば鏡であった。

[4] 『人工身体論―あるいは糞をひらない身体の考察―』青弓社・1990

[5] 沖縄出身の民俗学者であり、言語学者でもある。

[6] 「犯罪科学」19319月号掲載。

「人間の歴史」全六巻(1951年〜1957年、光文社)の中の第三巻(1953年)、第一章の第三節。

2 1914年(大正3年)に、イギリスのハヴロック・エリス(Havelock Ellis18591939)によって「男と女、人類の第二性特徴の研究」という本が記された。

 

3 1940年、博正社出版部。

[7] 1859−1929。衛生システムの先駆者。衛生を制度として、そして国家という有機体の観点から考えた。

[8] 1838−1902。衛生行政の先駆者。岩倉具視使節団に随行。

[9] 同潤会創立10周年の記念事業の一つとして編纂された、小住宅の衛生方面に関する文献集。「第七編 家屋設備 第四節 便所」より。

 

[10] 同潤会が住宅の衛生方面に関する文献を『住宅衛生文献集』として昭和11年に編纂。この文献集は、同潤会創立10周年を記念事業の一つとして、住宅(主に、当時関心が高まっていた小住宅)の衛生方面に関する文献が少数である不便さを解消すべく、この種の研究者の研究に役立てるため編集されたものである。

[11] 糞尿に肥料的価値があった頃は、店主は店子の糞尿代だけでメシが食えるとまで言われていたが、その価値がなくなって糞尿をひきとってもらうのに金がかかるようになった為、家主(店主)が記入したがらなくなった、と言う意味。

[12] 1927年(昭和2年)・大澤一郎、櫻井省吾・汎工出版部 二十六:便所の間取り構造掃除等<便所の掃除及便器の取扱ひ方>p.140より

[13] 何かの毒気、陰気、毒質、すなわち瘴気(=ミスアマ)を浴びると病気になるのだ、という説。ヨーロッパでも誇大から病因の一説として存在した。

[14] 『トイレットからの発想』