2001 秋学期 小熊研究会2 卒業論文

「独身男性」に対するまなざしの変化

1986年の「シングル」という言葉の導入時前後の言説の変動を手がかりとして―

環境情報学部4

学籍番号:79854185

アドレス:t98418ys@sfc.keio.ac.jp

名前:坂田 理成

 

 

 

 

タイトル:「独身男性」に対するまなざしの変化

     ―1986年の「シングル」という言葉の導入時前後の言説の変動を手がかりとして―

<主題>

 主問:1986年に「シングル」という言葉が、男性独身者を名指す言葉となることによって、

独身者に関する言説の変動(独身者に対する評価の変動)が起こったのか?

 仮説:「独身男性」に関する言説の変動が、「シングル」という言葉の導入を契機にして起こる。

<要約>

本稿の目的は、マス・メディアに登場する著名人や一部の家族社会学・人口学方面の研究者が主張する「独身者に対する社会的ラベリングが好意的あるいはニュートラルなものに変わった」という俗説を、1980年以降の新聞記事と雑誌記事の言説分析によって反証することにある。

さて、本研究の仮説だが、先の目的に基づき、『独身男性に関する言説の変動が、「シングル」という言葉の導入を契機にして起こる』という命題を立てた。「シングル」という言葉が独身男性に適用される「以前」と「導入時」と「以後」の3区分に時系列を区切り、新聞・雑誌記事を調査対象として構築主義の立場から言説分析をすることで、仮説の検証を試みた。

その結果、独身男性に関する言説の変動のメガトレンドが分かった。まず、「シングル」導入前の1980年代前半においては、「単身赴任=みじめ」と「独身=悠々自適」の対立構図で語られており、むしろ既婚者と比べて独身者の方が羨望の対象とされていたことが明らかとなった。次に、「シングル」が独身男性に適用され始めた86年〜90年になると、「シングル=結婚しない」と「独身=結婚できない」という構図に置き換わり、独身者内での比較あるいは語られ方の階層分化がなされるようになり、同じ独身者であっても、「シングル」に好意的なイメージが付与された反面、「独身」という言葉には結婚難などのネガティブイメージが付与される結果となった。さらに、「シングル」という言葉が定着した(「シングル」という言葉に用語説明がなされなくなった)91年以降は、独身者との「シングル=都心居住者・若年・第三次産業従事者」と「独身=過疎地域居住者・中年以上・自営業」のように、独身者に対する語られ方が居住地・年齢・職業によって階層分化している事実が明らかとなった。

したがって、上記の命題は真であると言える。しかし、その実態は「独身者に対する社会的ラベリングが好意的あるいはニュートラルなものに変わった」のではなく、独身者に対する社会的ラベリングが、年齢・職業・居住地域によって否定的なものと好意的なものに分化しただけなのである。

<キーワード>

 独身男性、男性シングル、構築主義アプローチ、社会意識

目次

タイトル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本稿の要旨キーワード・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

序論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

0−1:問題意識の表明

0−2:仮設の主張

0−3:調査対象の設定

 0−3−1:調査対象の領域

 0−3−2:調査要素

0−4:調査方法

本論

第1章:先行研究の批判的検討と本研究の位置付け・・・・・・・・・・・・・・13

1−1:独身者研究の概略と批判的検討

1−2:俗説に正当性を与える根拠への批判的検討

1−3:社会構築主義的アプローチの先行研究と本研究の位置付け

1−4:小括

第2章:独身男性の現状・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17

2−1:「生涯未婚率」の変動(国勢調査より)

2−2:「単独世帯」数の変動(国勢調査より)

2−3:「『一生結婚しない』と思う人」の数の変動(生産力調査と意識調査より)

2−4:「独身でいること」への偏見(世論調査と日本大学の調査より)

2−5:小括

第3章:「シングル」という言葉が男性独身者に適用される以前の言説・・・・・23

3−1:「独身男性」に対する語られ方

3−2:「単身赴任」に対する語られ方

3−3:小括

第4章:「シングル」が男性独身者に適用され始めた時期(1986年〜1990年)・・28

4−1:日本における「シングル」という言葉の誕生

4−2:「シングル」が独身男性にも適用

4−3:「シングル男性」に対する語られ方

4−4:「独身男性」に対する語られ方

4−5:小括

第5章:「シングル」浸透後(1991年以後)・・・・・・・・・・・・・・・・・33

5−1:「シングル」という言葉の一般化

5−2:「シングル男性」と「独身男性」の語られ方の分化の現実

5−2−1:年齢による語られ方の分化

5−2−2:居住地域による語られ方の分化

5−2−3:職業による語られ方の分化

5−3:言葉による「まなざし」の固定化

5−4:「独身男性」の語られ方の将来展望

5−5:小括

結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47

6−1:仮説の検証と本論のまとめ

6−2:本研究の意義

6−3:本研究の限界と将来の課題

参考文献一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

序論

0−1…問題意識の表明

 

 最近、マス・メディア上の自称評論家だけではなく、人口学や家族社会学を専門としている学者の一部までもが、「独身者の数が増えてきたのは、独身者に対する社会的な視線が以前ほど厳しくなくなったことの証明だ」という趣旨の発言をするようになった。

しかし、¥本当にそうなのだろうか。確かに「国勢調査」などの統計を見ていても、生涯未婚率・単身世帯の割合はいずれも近年増え続けている。したがって、上記の説の前提である「独身者の数が増えた」のは間違いないだろう。だが、それが「独身者に対する社会的な視線を和らげる」根拠となっているのだろうか。

その問いに対する答えを出す前に、まず以下に挙げる新聞記事を見ていただきたい。

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C[男と女と]毎日新聞社世論調査 シングルライフに理解 様変わり「結婚観」

1999/01/24 毎日新聞 朝刊 社会 26ページ

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◇「役割分担」は否定的 結婚にとらわれない「シングルライフ」を理解する人が徐々に増える一方、「夫は仕事、妻は家庭」という役割分担への支持が減っている――。

 毎日新聞が昨年12月に行った世論調査(面接)で、男女間の意識が変わりつつある実態が浮き彫りになった。この傾向は特に男女雇用機会均等法の施行(1986年)後に社会人になった20代後半から30代前半の世代で目立ち、「結婚離れ」や晩婚化、離婚率の上昇という社会の潮流を裏付けた形だ。

 結婚にとらわれずに一人で暮らす生き方に「賛成できる」とする人は、88年4月の調査で48%、93年12月の調査で49%だったが、今回はさらに4ポイント増えて53%に上った。男女別でみると、男性は賛否がほぼ同率の5割弱だが、女性は58%が賛成し、シングルライフに対する女性の理解の高さが目立った。  

 また、「女性の結婚」については、「独り立ちできればあえて結婚しなくてもよい」が35%で、93年12月調査と比べて7ポイント増えた。年代別では30代で51%、20代で48%を占め、いずれも「結婚した方がよい」を大きく上回った。未婚の男女では45%に上った。  

 一方、「男性の結婚」については、72%が「した方がよい」と回答。「一人で生活に不自由しないから結婚する必要はない」「結婚は男の自由を束縛するから、一生結婚しない方がよい」は計12%にとどまった。女性とは対照的に、男性の「非婚」「未婚」に否定的な見方が根強かった。

 「夫は仕事、妻は家庭」という夫婦の役割分担に反対する人は、93年12月調査と比べ10ポイント増の37%。賛成は10ポイント減の50%になった。30代前半の女性では反対63%に対し、賛成は24%にとどまり、役割分担に否定的な意識が主流を占めた。  

調査は昨年12月上旬の3日間、全国の有権者2010人を対象に直接面接して聞いた。回収率は71%。

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 この世論調査を見る限りは、確かに「シングルライフに対する理解度は高まった」ようだ。だが、女性が「独身でいる」ことには寛容となってきた反面、男性が「独身でいる」ことに対してはいまだに根強い偏見があるようである。つまり、男性の独身者に対する社会的な視線はまだまだ厳しいと言えるのではないだろうか。これでは、先に述べた俗説のように、「独身者に対する社会的視線が以前ほど厳しくなくなった」わけではなさそうである。

さらに、もう一つの問いを発すれば、本当に昔は独身者に対する視線が厳しかったのだろうか。「以前ほど独身者に対する社会的視線が厳しくなくなった」と言うからには、現在に比べて以前は「独身者に対する社会的な視線は厳しかった」はずである。しかし、それに対しても疑問符をつけざるを得ないような証拠が出てきた。次の雑誌記事を見て頂きたい。

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○大型連載企画 情報こすもろじい 「シングルライフを快適に」

「サンデー毎日」(198547日号)

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 「ルンルン」独身 「寂しい」中年単身族 自炊・掃除は週一、万年床も6人に1人

 単身族の休日はテレビながめごろ寝とは… 暮らしの工夫こそパフォーマンス

 ……大正海上火災とタイガー魔法瓶は、ほぼ同じ時期に、シングルライフについてのレポートをまとめている。

 大正海上火災は、「単身生活者のライフスタイル調査」と題するアンケートもの。東京都内に住むサラリーマン、OL、単身赴任者各一〇〇人を対象としている。

 まず、シングルライフに対して彼らが抱いているイメージが興味深い。

独身男性が、@自由62% A気楽53% B楽しい36

 独身女性も、@自由62% A気楽61% B楽しい41% と、ルンルン気分なのに、

 単身赴任者だけは、@面倒48% A自由32% B寂しい30% と、暗さが前面に出ている。

 男女独身族の「悲しい」はたった一%なのに、単身赴任者はその十二倍もいる。独身女性には一人もいない「つらい」が六人に一人。

 このほか、「暗い」「むなしい」「みじめ」といったイメージが、単身赴任者には断然多い。

 独身男性に目立つのは「愉快」「生き生き」、独身女性は「不安」がかなりある……。

 シングルライフをこれからも続けたいか、の質問に、独身男性、独身女性の半数以上が「続けたい」、単身赴任者の八五%が「続けたくない」……。

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 確かに、母集団がわずか100人しかいないので、上記の「単身生活者のライフスタイル調査」は意識調査としての信頼性には欠けるかもしれない。しかし、「『暗い』『むなしい』『みじめ』といったイメージが、単身赴任者には断然多い」という言説が掲載されていること、独身の男女が共に独身生活を続けていきたいとしているのが半数に到達する反面、「単身赴任」の男性の8割以上が「単身赴任」の生活を続けたくないと答えたという言説を載せていることからも明らかなように、「単身赴任」のそれと比較される形で、「独身男性」の生活は好意的な評価を受けていたことはわかるだろう。

このように、ほんの約20年前においては、同じ一人暮らしであっても、「暗い」「むなしい」「みじめ」と思われている「単身赴任」の男性とは対照的に、「独身男性」は自らの可処分所得の大きさ故に消費を楽しむことができる「自由気ままな男性」という羨望のまなざしを受ける存在だったのである。

つまり、この二つの記事を見る限りは、「独身者に対する視線が以前よりも和らいだ」というよりは、「独身者に対する視線が約15年前よりも厳しくなった」と言ったほうが良いだろう。従って、「独身者に対する視線が以前よりも厳しくなくなった」という主張の正当性は疑わしいと言える。

ただ、毎日新聞の世論調査で「シングルライフへの理解度は高まっている」ことがわかっている。従って、「独身者に対する『全ての』視線が以前よりも厳しくなった」とは言えないだろう。

「シングル」への理解度は高まったが、独身者に対する視線は厳しくなった。同じ独身であっても、「独身」と「シングル」という言葉の違いで、その評価は正反対なものとなっている。

このように、名指す言葉が変われば、同じライフスタイルを営んでいても視線が変わるのではないだろうか。かつて、「独身男性」は「チョンガー」と呼ばれて揶揄された時期もあったが、先の雑誌記事の例のように、「単身赴任」との比較においては「独身でいること」が羨望の対象とされた時期もある。このように、同じ「独身」というライフスタイルを歩んでいたとしても、それを名指す言葉によって、社会からの評価が正反対のものになることがあるのではないだろうか。このような問題意識に基づき、本稿では以下で述べる仮設の検証を研究の目的とする。

0−2…仮設の主張

 

今節では、本稿がこれから論証する仮説について述べる。本研究における仮説は、「『シングル』という言葉が、独身の男性を名指す言葉として、1986年から87年頃に適用されはじめたことによって、『独身男性』に対する言説が変動した」というものである。

 より普遍化すれば、「同一のライフスタイルを採用した人々に対する社会意識が、そのライフスタイルを名指す言葉が変わることによって変動する」という仮説を立証することに本稿の目的があると言ってもよい。

本研究では、「独身男性」と「男性シングル」の語られ方の対立の構図を中心にして、「独身男性」に関する言説の変動を新聞記事と雑誌記事の言説分析によって明らかにする予定である。

0−3…調査対象の設定

0−3−1:調査対象の領域

 

今節の目的は、調査対象とその選定理由を述べることにある。

まず、調査対象の領域をマス・メディアに設定した理由を述べる。マス・メディアは、人々の社会的意識の投影の一形態であると同時に、人々が共有する社会的意識を形成するための情報源ともなっている。

さらに踏み込んで言えば、人々が現代社会の中で生きるためには、様々なメディアから得た情報を基にして「(カギカッコつきの)現実」を判断せざるを得ない。つまり、マス・メディアから提供された情報が事実であろうとそうでなかろうとも、人々はそれを頼りにして「現実」を認識せざるを得ない。すなわち、マス・メディアの報道内容を元にして、自分たちで「現実」を構築せざるを得ないのである。

このことを、本研究の事例で当てはめてみる。すると、マス・メディアの報道内容は、当事者(独身の男性)以外の人が、「独身男性」や「男性シングル」について知ることができるきっかけでもあると同時に、それらについて語ることができる場所でもある。言い換えれば、当事者以外の人たちが「独身男性」や「男性シングル」に対して抱いているイメージが付与する「場」であるとも言える。このように、マス・メディアの報道を通じて、人々は「独身男性」の「(かぎかっこ付きの)現実」を構成し、それを既成事実として判断した結果、各自の「独身男性」像を作りあげていくのである。

すでに述べたように、本稿の目的は、「シングル」という言葉の導入を契機として、「独身男性」に関する言説がどのように変動したかを明らかにすることにある。したがって、「独身男性」に関する言説の変動の過程、すなわちマス・メディアの報道内容を元にして、人々が「独身男性」に関する「現実」を構築していく過程を追わなければならない。

だからこそ、今回私はメディアを媒体に持ってきたのである。そして、その中でも新聞と雑誌を選んだ。以下でその理由を述べる。

 まず、調査対象に新聞記事を選んだのは、マス・メディアの中で最もアクセスする人数が多い

からである。また、その中でも全国紙4紙のみを調査対象とした。その理由は、日本国内において地域に差が無く、全国に同じ内容の記事が届くのは、全国紙だけだからである。さらに言えば、特定の階層や特定地域の社会意識の反映の媒体ではなく、日本国内の人々全体の社会意識の反映の代表例の一つとして取り挙げるにふさわしい媒体と考えられるからである。もちろん、地域や階層による社会意識の差異を意識していないわけではない。しかし、日本国内の人々がマスメディア上で構築する「独身男性」像、すなわち「独身男性」に対する社会意識を明らかにするという目的には適合しないであろうから、敢えて外したことを付記しておく。

確かに、「本当に全国紙を調査対象としたからと言って、必ずしも日本国内の人々の社会意識の反映と言い切れない」という反論もあるかもしれない。また、坂本佳鶴恵が新聞投書を研究対象としなかった理由に挙げているように、新聞記事に関しては、記事の内容や投書の内容が新聞紙自体の政治的偏向などによって、記事や投書の採用基準が左右されてしまう可能性は否定できない。従って、本稿ではそのような可能性を極力排除するために、今回は、敢えて全国紙4紙をすべて調査対象に含めることにした。調査対象とする新聞紙を一つの新聞に限定することなく、他の全国紙も調査対象に含めることで、新聞自体の政治的偏向の影響を最小限に抑えられると考えられる。

次に、雑誌記事を調査対象に含めた理由を述べる。新聞記事を調査対象にした理由のところで述べたとおり、雑誌も含めて新聞以外のマス・メディアでは全国紙とは異なり、読者層が限定されてしまうのではないかという危惧はある。確かに雑誌では、新聞とは異なり、読者の階層が限定されるが故に特定の階層の社会意識の反映にならざるを得ない。しかし、雑誌には新聞にはない利点があるから、本研究の調査対象に含めた。

では、雑誌記事の利点とは何か。その利点とは、新聞とは異なり、差別的表現に近い言説まで載せていることである。言い換えれば、雑誌はより本音に近い形で「独身男性」に対する社会意識が言説の形で反映されている媒体とも言える。そのため、上記の雑誌記事の利点を考慮して、本研究の調査対象の中に雑誌も含めることにしたのである。

0−3−2…調査要素

 

今節では、調査要素について述べる。本研究の調査対象が新聞記事と雑誌記事であることはすでに述べたが、その記事の選定基準については触れなかったので、ここで述べておく。

 まず、新聞記事の選定基準だが、1980年から2000年までの4紙の新聞記事の中でWEB上でデータベース化されたものの中から、見出しに「独身and男」あるいは「シングルand男」の項目が含まれるすべての新聞記事を抽出した。さらに、新聞記事の本文に「独身」ないしは「シングル」に言及している記事に関しても、一部対象に含めている。

確かに、「見出しだけでは不十分であるから、記事本文に上記の用語が含まれ全ての記事も調査対象に含めるべき」という指摘があるかもしれないが、記事のトピックが「独身」あるいは「シングル」についての言及であるかは、見出し項目に「独身」か「シングル」という項目が入っているだけでも十分であろう。なぜならば、見出しに「独身」か「シングル」が含まれているということは、「独身」や「シングル」に関する問題そのものが、記事の内容あるいは大意であることを証明しているからである。

 だが、これだけでは選定基準としてはまだ不十分である。「シングル」という言葉は、かならずしも「独身」や「一人暮らし」などを指す用語として用いられているとは限らないからである。特に新聞記事のデータベース検索を利用した場合に顕著だが、「シングル」という検索語を設定した場合にヒットする記事の大半は、スポーツに関する記事で使われる「シングル」である。したがって、当然スポーツにおける「シングル」に関する記事は、調査対象からは外している。また同様に、音楽のヒットチャートに関する記事などで、「CDシングル」という意味で「シングル」が使われることもあるので、これも分析対象からはずしている。その結果として、各新聞紙の記事の中で分析対象とした記事数は以下のようになった。

検索欄

見出し

本文

見出し

本文

検索項目

「シングル」&「男」

「シングル」&「男」

「独身」&「男」

「独身」&「男」

朝日新聞

18件

64件

23件

166件

産経新聞

0件

11件

0件

323件

日本経済新聞

4件

80件

21件

372件

毎日新聞

2件

32件

14件

60件

読売新聞

8件

47件

28件

453件

 

 次に、雑誌記事の選定基準について述べる。雑誌記事の選定基準に関しては、新聞記事のような見出しによる選定ではなく、大宅壮一文庫文庫目録(19882000)の分類基準である「独身男性の生態」に適合したものの中で、1980年〜2000年の間に発行された雑誌記事を選定した。その結果、記事件数は全部で90件となった。(記事件数の年代別内訳は、次のページの表を参照。)なお、「男性シングル」に言及している記事もこの中に含まれている。したがって、この90件の記事を本研究の分析対象とする。

 ところで、後の本論では、「独身男性」に関する言説の変動を調べる目的で、本論の構成方法に時系列分析を採用している。その時系列区分は、「『シングル』という言葉が導入される前(1980年前半)」「『シングル』が独身の男性に適用され始めた時期(1986年〜1990年)」「『シングル』を独身の男性を名指す言葉として一般的になった時期(1991年以降)」の3区分に分けている。

この最たる理由は、後に述べるように1986年の海老坂武の『シングルライフ』の出版を契機として、翌年頃から「シングル」という言葉が、独身の男性にも適用されたためであるが、それを裏付ける資料としても「大宅壮一文庫文庫目録」の雑誌記事件数を採用している。

具体的に言えば、雑誌で「独身男性の生態」が取り上げられた件数が他の年代と比較して多い年代が、「シングル」という言葉が独身男性に適用され始めた時期に当たる1988年と1989年なのである。つまり、「シングル」という言葉を独身の男性に適用することがブームとなったのが、この1988年と1989年であったと言える。

大宅壮一文庫文庫目録内の「独身男性の生態」に適合する雑誌記事の年代別件数

0−4…研究方法

今節では、研究方法について述べる。方法は、言説分析を採用した。しかし、言説分析と言っても、その内容は研究者ごとに多様であり、統一した定義が必ずしもあるわけではない。そのため、本研究における言説分析の意味は、「談話を中心とした広義の『言説』を分析対象とする研究法」という田渕の定義を採用する。

では、なぜ研究方法として言説分析を採用したのか。

独身の男性が、実際にどのような生活を営み、どのような問題を現実に抱えているのかということを明らかにするためには、調査対象を絞り込んで「聞き取り調査」や「アンケート調査」を行うぐらいしか方法はない。だが、このアプローチでは、少数の独身の男性の生活実態や彼らが抱える問題には肉迫することはできても、不特定多数の独身の男性の生活や問題のメガトレンドに迫ることは困難である。つまりこの方法では、「独身男性」に関する人々の社会意識を知ることはできないのである。

しかし、不特定多数の独身の男性がどのような生活をする存在として見られているか、あるいは彼らがどのような問題を抱えているかについて、人々は推測や自己の経験に基づいて「言説」という形で語っている。また、既に述べた定義にもあるように、「言説」は会話だけに限定されるのではない。会話であれば、テープレコーダーなどで録音しない限り記録されないため、過去の会話を研究対象とすることは困難だが、「言説」には、以前の本や新聞などに文字として記録されているものも含まれるため、過去の記述を研究対象に含めることも可能である。

したがって、人々が独身の男性に関して語っている「言説」の中でも、文字として残っている「言説」を手がかりにすれば、不特定多数の「男性シングル」と「独身男性」の生活や彼らが抱える問題それ自体ではなくても、それに近づくことは可能である。また、同時代的な問題だけではなく、通時的な問題あるいは「独身男性」言説のメガ・トレンドとでもいうべきものに近づくことも出来る。だから、本研究の研究手法として、言説分析を採用したのである。

<本論>

第1章:先行研究の批判的検討と本研究の位置づけ

 

本章の目的は、先行研究の批判的検討と研究における本稿の位置付けを行うことにある。具体的に言えば、まず、過去の独身者研究の概略を説明すると共に、先行の独身者研究に対する批判的検討を行う。次に、俗説を主張する先行研究が指摘する俗説と統計調査の結果の連関性を批判的に検討し、俗説が偽であることを立証するために必要な構築主義的アプローチの概略を説明し、本稿においてそれを採用した理由も合わせて説明する。

1−1…独身者研究の概略と批判的検討

独身者研究の先行研究に関しては、戦前における家族研究の中の独身者研究、戦後の家族社会学における独身者研究、シングルという用語が登場して意味の転換が図られた後の1980年以降の独身者研究の3つの時期に大別される。

最初の戦前における家族研究の中の独身者研究は、主として家族の範囲内に独身者を含めるか否かという問題提起と、家族の周期的変化との関連性に注目した研究が主であった。

次の戦後の家族社会学における独身者研究としては、核家族論争との関連から、核家族を分割不可能な最小ユニットとするか、あるいは独身者という最小ユニットを新たにもうけるかという論争が中心であり、独身者の当事者性は重視されないものであった。

最後の「シングル」という用語が登場した1980年以後の独身者研究は、主としてシングル生活を営む人々の実践に関する記述やインタビューのように研究とは異なるものか、あるいは家族多様化論の形態の一つとして列挙されるに過ぎなかった。

このように、これまでの独身者研究では、独身者を研究対象とはするものの、その当事者性を対象とした研究は少なかったのである。

さらに、独身者の当事者性を研究対象とした研究であっても、独身の女性が研究対象となることが非常に多い反面、独身の男性が研究の対象となることはほとんどなかったと言ってよい。例えば、先に挙げた[池岡義孝・木戸功・志田哲之・中正樹,1999]の研究のように、「単身生活者が誰に『家族』というラベルを付与するのか」ということを考察する研究であっても、調査対象とした単身生活者のうち男性はたったの一人だけである。

そこで、本稿では、これまでの家族社会学の先行研究のように、独身の男性を研究の対象とするにしても周辺的扱いにとどめるようなことをせず、人々から語られる存在として、すなわち社会からのまなざしを受ける「当事者」として、独身の男性を研究対象の中心に据えている。

もちろん、独身の男性を「当事者」として研究対象にしている先行研究は、先に述べた[池岡義孝・木戸功・志田哲之・中正樹,1999の他にも少数ではあるが、すでに存在している。例えば、[伊田,1998a][伊田,1998b][村田,2000]を挙げることができるが、伊田の著書は二冊とも「シングル単位論の提唱」という「社会変革のための政策提言」の色合いが強く、村田の論文は「中年シングル男性が阻害される『空間』がいかなる場所であるか」という「空間」に研究対象が限定されている。これらは、本研究の「問い」とは無関係とは言わないまでも、マス・メディア空間における「独身男性」に関する言説の変動を考察するという本稿の目的には適合しているとは言えないので、厳密な意味での先行研究とは異なると言わざるを得ない。

従って、先行研究としての独身者研究の中における本研究の位置づけとしては、先に述べたように、「当事者」としての「独身男性」を扱った数少ない研究のひとつであること、そして、「独身男性」に関する言説の変動を考察するという点に、他の独身者に関する先行研究と比較して、オリジナリティがあることを主張する。

1−2…俗説に正当性を与える根拠への批判的検討

 

今節では、本稿執筆の動機の一端ともなった俗説の根拠に対する批判的検討を行う。

 すでに述べたことだが、本稿執筆の動機は「『独身男性』に対する社会的な視線が、ポジティブとはいえないまでも、ニュートラルなものにはなった」という俗説に対する懐疑であった。従って、本稿の目的は上記の俗説を反証すること、言い換えれば、「『独身男性』に対する社会的な視線が、以前と比べてニュートラルになったわけではない」と主張することにある。もちろん、俗説を反証するためには俗説が誤りであることの証拠を挙げなくてはならない。そこで、本稿では、その証拠として新聞記事と雑誌記事を用いてこれから反証することになる。

 しかし、俗説を反証するためには証拠が必要であるのと同様に、俗説が俗説として正当性を獲得するためにも証拠が必要である。従って、俗説を反証するためには、俗説に正当性を与える根拠に対して批判的検討を加えなければならない。では、俗説に正当性を与える根拠とはいかなるものであろうか。それは、研究者や公的機関が行う「社会調査」の結果である。具体的に言えば、本稿でこれから批判的検討を加える対象であるところの、人口問題研究所による「独身者調査」の結果分析である。

 [阿藤,高橋,中野,渡邉,小島,金子,三田:1994]では、厚生省人口問題研究所が19927月に行った「第10回出生動向基本調査」の調査結果に基づき、1987年の前回の調査結果と比較することで、「従来の結婚が、若者が社会的に一人前になるための通過儀礼的側面をもち、未婚者の結婚に対する一種の社会的抑圧として存在していたのに対し、今日の結婚はそのような側面が弱まり、結婚の『私性』が強まったと解釈することができよう。」と結論づけられている。その結論の根拠としては、「結婚の利点の理由」として挙げられた回答項目の中から、「社会的信用を得られる」あるいは「親や周囲の期待に答えられる」と回答する未婚男女の数が減少したことと、「結婚の利益」としてあげられた回答項目の中から、「精神的安らぎ」「子供や家族を持てる」と回答した数が増えたことを挙げている。

 しかし、これだけの理由から「未婚者の結婚に対する一種の社会的圧力の側面が弱まった」と言えるだろうか。

[阿藤,高橋,中野,渡邉,小島,金子,三田:1994]にもあるように、依然として「未婚者の圧倒的多数(男女とも約9割)は『いずれ結婚するつもり』であり、結婚を当然のこととして意識している」のである。[阿藤,高橋,中野,渡邉,小島,金子,三田:1994]では、この後に「しかしながら、前回ならびに前々回調査に比較し、長期的には低下傾向にある」として、「未婚者の結婚に対する一種の社会的圧力の側面が弱まった」という主張を補強しているが、それは論理の飛躍である。

 仮に皆婚規範が揺らいだことが事実だとしても、それを独身でいることに対する差別的視線がなくなった根拠とすることはできない。冒頭の世論調査の結果にも現れているように、「シングルライフ」に対する理解度が高まっている一方でも、男性が未婚でいることに対する社会的な視線は依然として厳しいものがある。

 また、[阿藤,高橋,中野,渡邉,小島,金子,三田:1994]以外でも、「独身の男性の数が増えている」という「国勢調査」などのデータを元にして、「独身に対する社会的な視線の厳しさが弱まった結果である」と結論づけている研究もあるが、独身の男性に数が増えたという事実が、独身に対する社会的視線の厳しさが弱まったことの根拠にはならない。これも論理の飛躍であろう。また反対に、独身でいることに対して社会的な視線の厳しさが弱まったことが、独身の男性の数が増えた原因とは限らないのである。

 このように、「国勢調査」などの定量的データを俗説に正当性を与える証拠とするのは、論理の飛躍である。「独身者の数が増えた」という統計結果と、「独身者に対する社会の視線の厳しさが弱まった」という俗説の間の関係が、因果関係になるわけではない。反対に、冒頭の問題意識で挙げたように、「世論調査」のような「意識調査」では、先の俗説の正当性を揺るがす結果を示すものさえもある。従って、「国勢調査」などのデータが俗説を正当化するための根拠とはなり得ないのである。よって、俗説が正当である根拠は現時点では何もないといわざるを得ない。

1−3…社会構築主義アプローチの先行研究と本研究の位置付け

 

 本稿で検証する仮説が、「『シングル』という言葉の導入を契機として、独身の男性に関する言説が変動する」であることはすでに述べた。さらに、1980年以降の新聞・雑誌記事と調査対象として、独身の男性に関する言説の変動を分析する予定であることも述べた。このように、言説分析を研究手法として採用したことはすでに述べたが、本稿の研究アプローチである「社会構築主義」を採用した理由をまだ述べていない。従って、ここでそれを述べる。

まず、本研究の研究アプローチである「社会構築主義」の先行研究であるが、最も代表的なものはJF・グブリアム&JA・ホルスタイン著(中川・湯川・鮎川訳)『家族とは何か』であろう。人々が日常生活の中で「家族を語る」ことに注目し、インタビュー、新聞記事、精神病院におけるフィールドワークなどから得られた質的データをもとにして、実際に人々が「兄弟」「家庭」「両親」といった家族に関する用語を、自分の生活の中の状況や関係に付与する過程を追った、「社会構築主義」の先駆けとなっている研究である。

社会構築主義アプローチでは、家族に限らず日常生活に関する「もの」に対する解釈過程を考察することになる。従って、社会構築主義アプローチを採用する利点としては、「現実が構築されるダイナミックな過程を記述する」ことができることを挙げられる。このことを本稿の事例で言いかえると、社会構築主義アプローチを採用することによって、人々の言説の実践過程を通じて「独身男性」像が構築されていくまさにその過程を追うことができるのである。だから、この構築主義アプローチを本稿の分析の視角として採用した。「独身男性」言説の変動の過程を追うことができるからである。

 では、構築主義アプローチを採用した他の先行研究と本稿の相違点は、どこにあるのか。確かに、これまで家族社会学における先行研究の中で、構築主義アプローチを採用したものは確かに数多くある。しかし、その大多数は、先に挙げた[GuburiumHolstein,中川・湯川・鮎川訳,1990]のように家族に関する言説に焦点を当てたものであり、独身者に関する言説に焦点を当てた先行研究は非常に少なく、[池岡義孝・木戸功・志田哲之・中正樹,1999]しかないのが現状である。

つまり、他の研究のように『「独身男性」がどのように語られたのか』という点に着目して、構築主義アプローチに立脚して言説分析を行った先行研究は現時点では一つもないのである。従って、この点が、家族社会学において構築主義アプローチを採用した先行研究との相違点であり、本研究のオリジナリティでもあると言える。

1−4:小括

以上まとめると、先行研究に対する批判的検討としては、以下の二点が挙げられる。第一点は、過去の独身者研究と構築主義アプローチの研究の中に独身の男性を研究対象(当事者)とするものが少なく不十分という点である。第二点は、「国勢調査」などのデータをもとにして、「独身者に対する語られ方が否定的ではなくなった」という俗説を展開する先行研究は、語られ方と独身者の増加の関連性が記述されておらず、論理の飛躍であるという点である。

また、独身者研究の中における本研究の位置づけとしては、先に述べたように、「当事者」として独身男性を扱った数少ない研究のひとつであることを挙げると共に、従来の俗説の正当性を失わせるものとして、「独身男性」に関する言説の変動を考察するという点に、他の先行の独身者研究と比較して、オリジナリティがあることを主張する。

第2章:独身の男性の現在

 本章では、1980年から2000年までの独身の男性の状況がどのようなものであるかということを、統計調査と意識調査の結果を元にして見ていくことにする。先に述べたように、「独身の男性に対する評価が否定的でなくなってきた」という俗説と統計データの関連性は確かに薄い。しかし、これから反証する俗説の根拠である「男性独身者の数が増えてきた」という事実を確認する必要があり、また、意識調査の結果を元にすれば、「男性独身者に対する社会的視線」の傾向は把握できるため、統計調査と意識調査の結果を見る必要があると考えられる。

2−1:「生涯未婚率」の変動(国勢調査より)

 

まず、独身の男性の中で、一生独身を貫く人が現在どの程度いるかを確認する。現在生涯独身を貫く人がどれぐらいいるかを明らかにする統計指標としては、国立社会保障・人口問題研究所が算出する生涯未婚率が用いられることが多い。なお、生涯未婚率とは、50歳時の未婚率の事を指す。すなわち、50歳の段階で未婚の人は、将来的にも結婚する予定がなく生涯独身を貫く人だと認識されているわけである。では、早速下のグラフで確認することにする。

総務省統計局・統計センター「国勢調査」に基づいて作成

上記のグラフから判断できる事実を挙げると、@1960年から80年までは女性の生涯未婚率が男性の生涯未婚率を上回っていたこと、A男性の生涯未婚率が女性のそれを上回ったのは1990年の国勢調査からであること、B1950年から80年までは男性の生涯未婚率の伸びは低調であったが、80年以降に急激に上昇したこと、などがある。

このように、生涯未婚率の推移を見る限りでは、1980年頃から独身の男性が増えてきたと言える。確かに、俗説の前提である「独身男性の数が増えた」ことは間違いない事実である。

2−2:「単独世帯」数の変動(国勢調査より)

 

次は、単独世帯数の変動を見る。独身の男性の数がどのように変化したのかを確認するためには、生涯未婚率の変動を調べるだけでは不十分である。なぜならば、生涯未婚率だけでは、親族と同居している場合「独身男性」は、「独身男性」としてカウントされても、「男性シングル」としてカウントされることはないからである。それでは、次のグラフを見ていただきたい。

 上記のグラフは、五年ごとに行われる「国勢調査」を元にして作成したものである。この結果を分析すると、男・単独世帯割合の傾きは1980年から2000年にかけて、緩やかな右肩上がりになっている。すなわち、男・単独世帯割合は、最近20年間で少しずつ上昇していると言ってよい。

また、その上昇の度合いが高いのは、1985年から1995年の10年間であり、それ以前とそれ以後に関しては、上昇の度合いはほぼ横ばいである。従って、男の単独世帯の割合が増えたのは、1985年から1995年の10年間と言ってよいだろう。ちなみに、すでに指摘したように、この10年間は、「シングル」という言葉が独身の男性を指す言葉となった直後からの10年間でもある。「独身男性の生態」に関する雑誌記事が増えてきた時期とも合致しており、「独身男性の生態」に人々の関心が強まったのは、このように男・単独世帯割合が増えてきたという社会的背景を元にしていると考えられる。

従って、男・単独世帯割合が増えてきたという結果からも、俗説の前提である「独身男性の数が増えた」ことは間違いないと言える。

2−3:「『一生結婚しない』と思う人」の数の変動(出産力調査と意識調査より)

 

それでは、男性の中で生涯を通して独身でいようと考えている人は、どれぐらいいるのであろうか。以下の「生涯独身志向」の割合を示したグラフを見ていただきたい。

 上記のグラフは、国立社会保障・人口問題研究所が行った「出産動向基本調査」と「人口問題に関する意識調査」を元にして作成したものである。18歳から49歳までの未婚者に対して、「いずれ結婚するつもり」と「一生結婚するつもりはない」という答えのどちらを選ぶかを二者択一で尋ね、「一生結婚しない」と答えた未婚者の割合を上記のグラフに記載した。

 上記のグラフを見る限り、生涯独身志向は、いずれの時期においても、またいずれの性別においても10%を超えていない。したがって、生涯独身志向である未婚者は、男女ともにきわめて少ないと言える。つまり、生涯独身志向の人々は男女共に少数派なのである。

2−4:「独身でいること」への偏見(世論調査と日本大学の調査より)

これまで見てきたように、男性独身者の数が1980年から急増している一方で、生涯独身志向である未婚男性は少なかった。これは、現在独身の男性が仕方なく独身となっているということを意味する。では、この仕方なく独身になっていると考えられる男性に対して、世論はどう見ているのであろうか。以下の調査を見ていただきたい。

まず、1986年に当時の総理府が行った「家族・家庭に関する世論調査」を見ていただきたい。この世論調査の中のQ21において以下のような質問項目が挙がっている。

Q21〔回答票22〕ところで、人の暮らし方として、次のようなスタイルが話題になることがありますが、あなたはどのようにお考えですか。この中ではどうでしょうか。

(1)一生独身で暮らす…()賛成、()どちらかと言えば賛成、()どちらかと言えば反対、

()反対、一概に言えない、わからない

<*(2)〜(4)は本稿とは無関係の質問項目なので省略>

このQ21では、「一生独身で暮らすことに対してどう思うか」を尋ねたわけであるが、結果は以下のグラフのようになった。(表の中の数字の単位とグラフの縦軸はいずれも「%」を示す)

 上記のグラフのように、「一生独身でいる」ことに対して賛成と答えた人が男女共に10%に満たない反面、反対と答えた人は7割近くに達している。この結果を踏まえると、1986年の時期においては、生涯独身志向に対しては反対を唱える人が多いようである。

また、時期をずらして行われた同種の調査も見てみたい。次の調査は、日本大学総合研究所が1994年に行った『「現代家族に関する全国調査」報告書―進行する静かな家族革命―』である。

この調査の中で、「男は結婚しなくても充実した人生を送ることができる」と「女は結婚しなくても充実した人生を送ることができる」という二つの質問に対して、「賛成」「どちらかと言えば賛成」「どちらとも言えない」「どちらかと言えば反対」「反対」という五つの解答項目から選んで答えてもらうという質問があった。

この調査の結果よると、男性の回答者は、「男は結婚しなくても充実した人生を送ることができる」という質問に対して、15.9%の人が「賛成」もしくは「どちらかと言えば賛成」と答えた。一方、「女は結婚しなくても充実した人生を送ることができる」という質問に対しては、19.3%の人が「反対」もしくは「どちらかと言えば反対」と答えた。

 また、同様に女性の回答者は、「男は結婚しなくても充実した人生を送ることができる」という質問に対して、4.2%の人が「賛成」もしくは「どちらかと言えば賛成」と答えた。一方、「女は結婚しなくても充実した人生を送ることができる」という質問に対して、27.3%の人が「反対」もしくは「どちらかと言えば反対」と答えた。

この結果から、男女共に女性の結婚の必然性よりも男性の結婚の必然性を支持する傾向があることが良く分かる。言い換えれば、女性に対する皆婚規範よりも、男性に対する皆婚規範が強いということになる。特に、男性よりも女性の方が、男性の結婚の必然性を支持する傾向が強いことが分かる。

このような結果の裏を返せば、男性が生涯独身でいることに対しては、女性を中心として社会からの視線が非常に厳しいものであると言える。この傾向は1986年の「家族・家庭に関する世論調査」においても、また、1994年の日本大学の「現代家族に関する全国調査」においても変わっていない。従って、依然として男性が生涯独身でいることに対する社会の視線は厳しいと言わざるを得ない。

つまり、一部の家族社会学者が指摘しているように、「単身者や独身者に対する社会的な視線がポジティブと言わないまでもニュートラルになってきた」になっているわけではなさそうである。俗説の正当性に対する疑念は深まったと言わざるを得ない。

2−5:小括

 

では、これまで第2章で見てきたさまざまな調査結果を簡単にまとめておく。

まず、男性の「生涯未婚率」に関しては、1980年以降急増していることがわかった。次に、男性の「単独世帯数」の割合だが、その割合は最近20年間で徐々に増えており、特に1985年から1995年の10年間にかけてその伸び率が高くなっている。この2つの結果から、1980年以降、独身の男性の数が増え続けているのは間違いないと言える。

しかし、独身の男性の数が増え続けている反面、生涯独身志向をもつ男性の数は、漸増しているものの依然として10%を超えるに至っていない。このことから、仕方なく独身でいる男性が、独身の男性の中の大半を占めていることがわかった。

さらに、世論調査などに基づき、独身の男性に対する社会的意識がどのようなものであるかを探ってみると、依然として男性が独身でいることに対しては快く思っていないことがわかった。つまり、独身の男性の数が増えているという事実にもかかわらず、独身の男性に対する社会的な視線はネガティブなままだったのである。従って、「独身者の数が増えたから、彼らに対する社会的視線がネガティブではなくなった」という俗説は誤りであると考えられる。

第3章:「シングル」が男性独身者に適用される以前の言説(1980年〜1985年)

 すでに第2章の小括で述べたように、統計調査と意識調査の結果からは、独身の男性の数自体は徐々に増え続けている反面、彼らに対する社会的な視線は、1986年以降から今日までネガティブなままであるということがわかった。しかし、上記の結果は、果たして独身の男性に対する社会の視線の実態を適切に反映したものであろうか。

以後の章では、第2章で得られた結果を再度検証するための材料として、新聞・雑誌記事を用いることによって、意識調査や統計調査では見ることのできない「独身男性」への社会の視線の実態を明らかにしていくことにする。

最初の第3章では、「シングル」という言葉が独身の男性を指す言葉とされる以前の「独身男性」言説を取り上げる。また、「独身男性」に関する言説の特徴を際立たせるために、「単身赴任」に関する言説と比較している。

3−1:「単身赴任」に対する語られ方

 「シングル」という言葉が導入される前の「独身男性」に関する言説を見ていただく前に、それと対照的な評価がなされている「単身赴任」の男性に関する言説を見ていただく。

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「単身赴任」、明るく充実――札幌の「札チョン共和国」訪問記(日曜版)

1995/11/26 日本経済新聞・朝刊 日曜版 23ページ

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今、男にとっての単身赴任が変わろうとしている。長いサラリーマン人生、「これも出世の登竜門」と耐え忍んでいたのは昔のこと。料理、旅行、スポーツと趣味を持ち、社外に友人も作り、妻や子ともうまく語り合えるようになったりと、さながら「男の人生教育プログラム」になっているようだ。リストラ、熟年離婚と中高年を取り巻く環境は厳しいが、単身赴任に付加価値を見いだし、けなげにも強く生き抜く男たちを北海道にみた。

 ここは札幌。雪も舞い始めるこの季節、思わずコートの襟を立てる冷たい風が肌をさす。一番の繁華街すすきのにある、おでんと郷土料理の店「三代」に集まってきたのは、札幌単身赴任族の会「札チョン共和国」のメンバーだ。……たった一つの共通項は、遠くに家族を残し一人で札幌に赴任しているということ。

 共和国は今月でちょうど”建国”十周年になる。「当時単身赴任は暗い社会問題として扱われていた」と世話役の沢井聲伺さん。酒におぼれ体を壊したうえに、精神もぼろぼろになっていくサラリーマンがニュースで伝えられていたし、沢井さん自身もその一人だった。

 ……共和国は今月でちょうど”建国”十周年になる。

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単身赴任の当事者の男性が、10年前の「共和国」設立当時(*つまり設立は1985年だった)を振り返って、「当時単身赴任は暗い社会問題として扱われていた」と振り返っていることが象徴的なように、1985年当時の「単身赴任」男性に対する言説は、非常にネガティブなものが多かった。この新聞記事一例だけでは説得力に欠けるので、次の新聞記事も見ていただきたい。

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心配の種尽きぬ単身赴任、「オフィス論壇」投書から――夫の健康、子供の情緒(婦人)

1982/11/02 日本経済新聞・夕刊 婦人 13ページ

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 「つらいねえ、宮仕えの身」――本紙「オフィス論壇」十月のテーマ「単身赴任」には多数の当初が寄せられたが、その大部分が単身赴任経験者とその留守を預かった主婦からの体験談。その文面にはサラリーマンならではの哀歓がにじむ……。

 子供たちとの別離は多くの単身赴任サラリーマンをしんみりとさせる……。

 そんなさびしい身の上で気がかりなのは健康問題……。

 単身赴任は残された家族にもさまざまな影を落とす。宮城県岩沼市の磯部優子さん(39)は「まるで母子家庭同然」という。「留守を預かる私は、万一事故が起きてはと気を使う毎日。私自身はそういた日々にすぐ慣れたが、子供にとって父親不在は大きな問題だった。子供がぜんそくで通院するようになったのも、その影響かもしれない。さびしい思いをさせたくないから、ついつい過保護にもなる。一日も早く正常な家庭に戻すべき、と夫と話し合いはするけれど、会社あっての今の生活では何とも仕方がない」。

 投書から単身赴任を決めた理由を探ると、住宅問題や親の面倒を見るためという事情以上に子供の進学問題が大きなウエートを占めている。だが、そうした風潮に疑問を投げかける意見も合った。

 教育の現場から「父親が単身赴任、母親がガリ勉主義という家庭の子供は、多くが情緒不安定なのが気になる。一方、家族そろって転勤し三年たって戻ってきたような子供は適応性があり、円満な人柄を身につけている。学力も劣りはしない」と書いてきたのは、東京都の小学校の先生、野沢清子さん(43)……。

 単身赴任はさびしくてつらい、とマイナス面を強調する投書が多数を占めた中で、一人暮らしを有効に使っている、という人も少なくない……。

 とは言え、そんなうらやましい生活がだれにも可能というわけにはいかない。通算十三年間という長い単身赴任生活を送った東京との白仁治人さん(62)は、その経験から「一人暮らしもまた楽し、といった期待は次々と打ち砕かれる。自己管理に自信のもてない人には家族同伴での赴任をすすめたい」とアドバイス。そして「家族は仲よく同じ家で生活するのが最も望ましい家庭の基礎だ」と結んでいる。どうやらこれが多くの投書者の偽らざる心境と言えそうだ。

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 この新聞記事の引用を見ていただければわかるように、「単身赴任」の人たちがいかに多くの問題を抱えているかということが、繰り返して語られている。「単身赴任」であることを理由に、本人はさびしさと健康問題で苦しむ姿が語られると共に、残された家庭に関しては、子供の人格形成に問題があると指摘されてしまう。

確かに、「単身赴任」による一人暮らしのプラス面を強調する投書が一部存在するものの、結論としては「そんなうらやましい生活がだれにも可能というわけにはいかない」から、「家族は仲よく同じ家で生活するのが最も望ましい家庭の基礎だ」と結んでいる。つまり、「『単身赴任』はできる限りしたくない」というのが本音だとされているのである。

このような「単身赴任」の人たちの姿は、冒頭の序論で紹介した雑誌記事上の「独身男性」の姿とはあまりに対照的である。同じ一人暮らしであっても、「独身男性」が自由で気楽だから一人暮らしを続けたいと願う一方で、「単身赴任」は家族とはなれてさびしいが故に早く一人暮らしをやめたいと願う。1980年代の前半においては、このように「単身赴任」がネガティブに語られる一方で、「独身男性」は対照的に肯定的に描かれていたのである。それを象徴しているのが、以下の「独身貴族」に関する新聞記事である。

3−2:「独身男性」に対する語られ方

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男と女の家庭論(72)わが家の居候息子めっ――食事・洗濯うんざり(婦人)

1982/10/27 日本経済新聞・夕刊 婦人 13ページ

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 世間では結婚年齢が遅くなっているそうだけど、うちの息子も実はそのくち。「早く結婚して安心させて」と口を酸っぱくして頼んでも馬耳東風。いっこうに重い腰を上げようとしない。食事や洗濯の世話にうんざりすることもしばしば。こんなぼやきの種を抱える母親族、最近、増えているのではないかしら。

 息子は三十半ば。勤め始めてもう十年以上になるかしら、ずっと私たちと同居して勤めに通っている。大の男がいつまでも家にいるのは、亭主が二人いるようなもの。何が大変て、まず食事の世話。夕食の支度が一回で済むことはまずない。

 夫は勤め先が近いこともあって、毎夕六時きっかりに帰宅して晩ごはん。通勤に一時間かかる息子が、早くて八時か九時に帰ってきて二回目の夕食となる。しかも晩酌つきで、やれ量が足りないの、品数が少ないのと、手のかかること。全く定食屋のおばさんと間違えないでほしいわ。

 そんなグータラ息子も、外に出れば華麗な独身貴族とかで幅をきかせているらしい。それはそうだと思う。うちの息子もゴルフだテニスだと遊びは夫以上。そのくせマイホームのローンは親まかせ、食費を月々入れるだけで残りは全部遊びに使い、蓄えも少ないらしい。ある百貨店の調べでは、結婚式費用の半額以上を負担している親が三分の二もいたそうよ。自分で稼ぐようになっても親の財布をあてにできるなんて、全くいいご身分。親が甘やかしすぎるって?

 そうかもしれないわね……。

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 現在で言えば「パラサイト・シングル」と呼ばれるであろう、親と同居する「独身男性」について述べられた記事である。冒頭の雑誌記事では、一人暮らしをしている「独身男性」にとって、独身生活が自由で快適であると述べられていたが、この親同居の「独身男性」に関する日経の記事に関しても、それは同様である。

 親同居の「独身男性」は、母親に家事労働を依存し、父親には住居費を依存することによって、自らの可処分時間と可処分所得の増大に成功して遊びまわる。甘やかしすぎるという批判も指摘されるが、無理やり実家からたたき出すわけでもなく、結局まわりは「独身貴族」の特権を羨むと共に承認している。これによって、ますます親同居の「独身男性」は、「独身貴族」としての生活を謳歌することになる。

3−3:小括

このように、1980年代前半においては、「暗いイメージが付きまとう」としてネガティブに語られる「単身赴任」と好対照を成す形で、「独身男性」は「ルンルン気分でシングルライフを楽しんでいる」というように、ポジティブに語られていたのである。

 しかし、「独身男性」に関する語られ方が180度変わる転換点が訪れる。それが「シングル」という言葉の導入であった。

第4章:「シングル」が男性独身者に適用され始めた時期(1986年〜1990年)

 これまで見てきたように、「単身赴任」言説と比較される形で、1980年代前半の「独身男性」言説は好意的なものが多かった。しかし、「独身男性」を名指す言葉として「シングル」という言葉が用いられるにつれて、彼らに対する評価は変化する。かつての「単身赴任」と「独身男性」という語られ方の対立構造から、「独身男性」と「男性シングル」という語られ方の対立構造へと変化することになる。つまり、これまでは既婚者の一部である「単身赴任」と比較されることによって好意的な語られ方をされた「独身男性」が、独身の男性の数の増加に伴ってその語られ方が多様なものとなり、その結果として、「独身男性」と「男性シングル」という形で語られ方が二極分化していくことになったのである。この章では、上記の語られ方の二極分化がどのような形で起こったかということを、新聞記事と雑誌記事を用いて明らかにする。

4−1:日本における「シングル」という言葉の誕生

 

ところで、「シングル」という言葉が、「独身」を指す言葉とされたのはいつごろであろうか。これには、1980年ごろに外国から輸入されたものだとする説がある。この説を主張する青木やよひは、その根拠として、1980年が、千野境子の『ワシントン・シングルウーマン』が出版された年であり、ドイツ人のヘルマン・シュライバーの『シングルズ』が訳出された年であることを挙げ、海外からこの年に「シングル」という言葉が輸入されたのだと結論づけている。

確かに、青木の説には妥当性がある。なぜならば、新聞記事に関しても同じことが言えるからである。例えば、「シングル」という用語が「配偶者を持たないこと」という意味で適用されたことを示す新聞記事は、終戦時から1999年までの朝日新聞の記事の見出しを収録している「朝日新聞戦後見出しデータベース19451999」を見る限り、1980年以前には存在していない。初めて「シングル」が上記の意味で適用されるのは、1983年になってからのことである。従って、青木の説を採用し、日本において「配偶者を持たない」という意味を持つ言葉である「シングル」の誕生は1980年頃としても良いだろう。

しかし、「シングル」が日本に輸入されたのが1980年ごろだったとしても、それが男性に適用されるまでには若干の時間を要している。輸入当初は、「シングル」という言葉は、あくまでも女性にしか適用されなかったのである。例えば、先に挙げた千野境子の『ワシントン・シングルウーマン』にしても、1980年代前半に出版された他の「シングル」関連の本にしても、そこで取り上げられている「シングル」はすべて女性である。これは本だけではない、新聞記事に関しても同様である。

4−2:「シングル」が独身の男性にも適用

 

では、「シングル」が男性にも適用されるようになったのは、いつごろであろうか。それは1986年ごろからであると考えられる。

その根拠だが、第一には、独身の男性の立場からみずからの「シングルライフ」について語った、仏文学者・海老坂武の『シングル・ライフ』が出版された年が、1986年であることを挙げることが出来る。既に述べたように、これまでの「シングル」関連の本はすべて、女性の「シングル」を対象としているものであった。これに対して、『シングル・ライフ』は日本初めての男性の「シングル」をメインテーマとした本であった。そのせいもあり、新聞に書評が掲載され、その結果として「シングル」が独身の男性を指す言葉であると、社会から認知を受け始めるようになったと考えられる。

また、もう一つの根拠は、既に述べたように「大宅壮一文庫文庫目録」内の「独身男性の生態」という項目に含まれる雑誌記事の件数が、1988年と1989年に急増していることが挙げられる。つまり、『シングル・ライフ』が出版された影響が拡大した結果、雑誌にも「男性シングル」と銘打って、独身の男性に関する記事が特集で組まれるようになったのである。

このように、1986年に「シングル」という言葉が、独身の男性を指す言葉として用いられ始めるになったわけだが。1980年代後期においては、「シングル」という言葉がまだ一般化したという段階まで言っておらず、「シングル」という言葉が新聞記事で使われる際には、カッコつきで「未婚」あるいは「独身」という説明書きが一筆入ることが多かった。例えば、以下の日本経済新聞の記事でも、「シングル」という言葉に対する説明書きがなされている。

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脱結婚で自分を磨く(男のルネサンス)

1986/08/21 日本経済新聞・夕刊 13ページ

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 ……シングル・ライフ、つまり脱結婚化は今、世界中の都市生活者を中心に地球規模で起きている現象である。その傾向が最も顕著であるといわれる西ドイツでは総世帯数の三分の一近くがシングルの家庭で占められているといわれるし、アメリカではすでに七十年代初頭からこうした”拒婚者”たちが社会的にも大きな力を持ち始め、特に彼らに”クリエイティブ・シングル”という名称が与えられているほどである……。

 シングルとは厳密にいえば独身者ではなく、単身者である。日本では独身者と言葉にはどうしても結婚を目前に控えた男という意味が強くこもっているが、単身者とはあらかじめ結婚というスタイルを拒否する男たちのことである。男が結婚しないと、あいつはホモだとか、生活能力がないだらしないやつだとかいわれてしまう風潮が日本にはあるが、しかし考えてみればもともと男とは結婚によって「なる」ことができる存在ではなく、逆に一人で「いる」ことにより磨かれ続けてきた存在だったのではないだろうか……。

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 この記事では、「シングル・ライフ」は世界の都市生活者の流行であるにもかかわらず、日本では「ホモ」だとか「生活能力がないだらしない奴」と揶揄されていると語られている。

 また、「シングル・ライフ」に「脱結婚化」という説明書きが一筆加わったことからもわかるとおり、この記事が書かれた1986年は、まだ「シングル・ライフ」という言葉が一般性を獲得していない時期、すなわち「シングル」という言葉が「独身男性」に適用されはじめた段階であると言うことが出来る。もし、「独身男性」に「シングル」という言葉が適用されることが一般化しているならば、説明書きを加える必要はないだろう。

4−3:「シングル」に対する語られ方

 では、「シングル」という言葉が、独身の男性を指す言葉として導入されるようになってから、「独身男性」に関する言説はどのように変動したのであろうか。まず、新しい「男性シングル」に関する言説から見ていただきたい。

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独身選ぶのも一つの道(男のルネサンス)

1989/03/17 日本経済新聞・夕刊 婦人 17ページ

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 昨年七月から日本列島を飛び回り、結婚していないシングルの男性六十七人にインタビューをした。『男たちの非婚時代』(三省堂)として単行本にまとめるのが目的で、今月はじめ原稿を書き終えた…。

 会社や役所は既婚者が多数派であっても、シングルもいるから、職場で孤立感を味わうことも少ない。たまに上司から「結婚しろよ」と言われても、その場限りで主観の相違と受け止める。

 彼らが楽しみを見いだしているのは、趣味の世界で、その種類の多さとマニヤックなまでに熱心なことには驚かされるほどであった。シングルの男性はひとりで、あるいは趣味の仲間と行動することで個性を発揮している。

 さらに、現在はひとり暮らしをしても、衣食住が産業化され、その利便性を享受すれば、日常生活もさして不便ではない。男性は生活も消費行動の一つにしてしまっている人が多い。そして、恋人や異性の友人と適当に交流を計っている。

 私は彼らの話を聞いて、シングルであること、つまり、家庭の呪縛から逃げられるという生活形態上の自由だけが男性の開放になるとは思わなかったが、子供が欲しいという人以外は納得の上でシングル・ライフを選んでいることがわかり、男性の生き方にもバリエーションが出てきていることを強く印象付けられた。シングルの男性が増えているという事実は、三十九歳以下では男性の人口が女性を上回っていることもあるが、ひとりひとりに話を聞くと、それぞれは自分の人生を選んでいる結果でもある。

 これまで、男性の生き方は、学校を卒業して就職、結婚とあまりにも型にはまりすぎて、まるで人生のコースは一本しかないと決められていると思われていたのではなかろうか。シングル・ライフはバイパスかバトンタッチのないコース、あるいは自ら設けた主観的ルートとは言えまいか。いずれにしても、コースが増えれば、男性も生き方のバリエーションを考えるようになることであろう。それを互いに認め合う社会に変化していくことを期待したい。(フリーライター)

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 この新聞記事は、「男性シングル」に対するインタビューを終えた後、インタビュアーが「男性シングル」に対して抱いた印象について語ったものである。

 この記事における「男性シングル」に対する評価としては、おおむね好意的な評価であると言って良いだろう。例えば、「シングルの男性はひとりで、あるいは趣味の仲間と行動することで個性を発揮している」のように、自分の趣味を楽しんでいる「男性シングル」像を描いている。また、「恋人や異性の友人と適当に交流を計っている」のように、人付き合いをしない「寂しい」

人間関係を形成しているのではなく、「男性シングル」は適度に距離をおきながらも人付き合いには不自由していないとみなされている。さらには、「男性シングル」の増加は、男性のライフコースのバリエーション拡大の象徴であるというように、好意的な評価がなされているのである。

 今見てきたような「男性シングル」に対する好意的な評価は、1980年代前半の「独身男性

」言説と非常に良く似ている。例えば、「自分の趣味を楽しんでいる」「ライフコースを自由に選択する」などといった内容は、冒頭で挙げた雑誌記事における「自由」で「気楽」な「独身男性」像とも合致している。

 このように、独身の男性に「シングル」という言葉が付与され始めた時期においては、これまで好意的な評価を受けてきた対象である「独身男性」という言葉に代わって、「男性シングル」という言葉が好意的な評価を受ける対象として台頭したのである。では、一方の「独身男性」という言葉に対する評価はいかなるものになったのだろうか。次の節を見ていただきたい。

4−4:「独身男性」に対する語られ方

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結婚は男の栄養剤――人生の墓場とは言うけれど・・・既婚、独身(婦人)

1989/12/13 日本経済新聞・夕刊 婦人 17ページ

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「早く身を固めろ」とは、独身男性に言う常套(常套)句。所帯を持って落ち着かないと、社会的な信用もつかない、という社会通念があるらしい。「独身のどこが悪い」と反発する人もいようが、二つの研究機関の分析によると、独身男性は心のゆとりや安定の面で既婚男性に”差”をつけられている実態が浮き彫りになった。特に結婚適齢期を過ぎた中年層で最も格差が目立つ。データが裏付けた独身男性の”弱点”とは――。

 「結婚は男性に明らかに、心の安定やゆとりをもたらす効果がある」。日本生産性本部メンタル・ヘルス研究所所長の久保田浩也氏はこう切り出す。同研究所は「働く人の心の定期健康診断」(JIM健康調査)事業を実施しているが、これまで蓄積したデータをもとに、未婚、及び既婚男性を比べたら、精神面ではっきり差があることが浮き彫りになった……。

 これは同一人物での比較だが、未婚男性と既婚男性とを比べてみた。各種業種にまたがる約十一万六千人を対象に、既婚者グループ九万人と未婚者グループ二万六千人とにわけて比較したところ、全般的に既婚者の方が未婚者より良い結果になった。

 特に差が大きかったのは三、四十歳代。五十の指標のうち、基準値を下回った指標がいくつあるかを数えたら、二十歳代では未婚者が十七に対し既婚者が九、三十歳代では未婚十九、既婚四、四十歳代では未婚十三、既婚ゼロといった具合。五十歳代はどちらも三つずつだった。

 特に三十歳代の場合は「上司との関係」「同僚との関係」「(仕事に対する)評価への満足度」といった職場での適応度でも既婚者と未婚者との差が開いた。昔から言われている「独身男に大事な仕事は任せられない」といった”定評”を裏づける結果となった……。

 ともあれ、未婚者は既婚者と比べて精神面でハンディを背負っていることが、データで裏づけられたことは確かだ。このハンディを解消するには、早く結婚するのが一番なわけだが、世はまさに男の結婚難時代。久保田氏は、「職場と家を往復するだけでなく、つとめてたくさんの人との接点をつくるよう心掛けてほしい」とアドバイスするのだが――。

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 具体的な調査結果に基づいて、「独身男性が既婚男性に比べて精神的に劣っている」という言説と、「独身男性には仕事を任せられないという”定説”を裏づける結果となった」という言説を流されている。特にその中でも、「三十歳代、四十歳代の中年『独身男性』は、同世代の既婚者に比べて劣っている」とみなされていることが、この記事から明らかとなった。これまでのように、「単身赴任」の男性(既婚者の一部)との比較において、好意的な評価を受けてきた「独身男性」ではなく、今度は「既婚男性」との比較によって、「『独身男性』は精神的に劣る存在である」と、この時期からみなされるようになったのである。

 「シングル」という言葉が、「独身女性」だけではなく「独身男性」にも適用されるようになったこの時期においては、「シングル」という言葉が「独身男性」に適用されなかったこれまでとは異なり、「独身男性」に対する評価は、ポジティブなものからネガティブなものへと転落したことになる。

4−5:小括

 では、最後に第4章の内容をまとめておく。まず、「シングル」という言葉が、独身の男性を指す言葉として用いられ始めたのは、1986年頃からであった。「シングル」という言葉が日本に輸入されたのは1980年代の初頭であったが、それ以前は独身の女性を指す言葉に限定されていたため、男性に適用されるのが女性よりも遅れたのである。

 次に、「シングル」という言葉が独身の男性を指す言葉として用いられ始めたことによって、「独身男性」に関する言説の変動が見られた。これまでは「単身赴任」と比較される形で、好意的に評価されていた「独身男性」に対する評価がネガティブになったのである。反面、同じ独身であっても、「男性シングル」に対する評価は「新しいライフスタイルを実践する人」として好意的に評価されるようになった。こうして、同じ独身の男性であっても、名指される言葉が変わることによって、彼らに対する評価が分化したのである。

第5章:「シングル」浸透後(1991年以後)

 前章ですでに述べたように、「シングル」という言葉の導入を契機として、「独身男性」に関する言説の変動が起こった。繰り返して言えば、「シングル」導入前は、「独身男性」に対する評価は「単身赴任」とは対照的に好意的であったが、「シングル」導入後になってその評価は一変し、「既婚男性」と比較され劣等の評価を受けた。だが、これは、全ての独身の男性に対する評価が下がったのではなく、否定的な評価を受けた「独身男性」と好意的な評価を受けた「男性シングル」との語られ方の分化の結果であった。

 では、「シングル」という言葉が定着した後は、どうなったのであろうか。「シングル」導入時と変わらず、「独身男性」に対しては否定的な評価がなされる反面、「男性シングル」に対しては好意的な評価がなされると構図で語られ方が分化したままなのであろうか。

 また、なぜ同じ独身の男性であっても、「男性シングル」と「独身男性」という形で、付与される言葉とそれに付随するイメージが分化したのであろうか。「男性シングル」を「男性シングル」と呼ぶ根拠は何か。また、「独身男性」を「独身男性」と呼ぶ根拠は何か。

 以上の2つの疑問に対しての回答を、新聞記事と雑誌記事の言説分析をすることによって、この章で明らかにしていきたい。

5−1:「シングル」という言葉の一般化

 

1986年頃になって初めて、「シングル」という言葉が、独身の男性を指す言葉として用いられたことはすでに述べた。では、「シングル」という言葉が、独身の男性を指す言葉ないしは彼らのライフスタイルを指す用語として定着したのは、およそいつごろであろうか。正確に言えば、本稿の調査対象である新聞記事や雑誌記事において「シングル」という言葉が、独身の男性を指す言葉として定着したのはいつ頃であろうか。

 その疑問に答える前に、何をもって「定着した」と言えるのかという疑問に答えなければならない。したがって、まず「シングル」が「定着した」状態がどのような状態であるかを定義しておく。前章では、「シングル」が独身の男性を指す言葉として用いられた1986年頃は、「シングル」という言葉に対して説明書きが付与されていることから、「シングル」という言葉が独身の男性を指す言葉としては一般化していないと述べた。裏を返せば、「シングル」が独身の男性を指す言葉として用いられた場合に、説明書きが付与されなくなった状態が、「シングル」が独身の男性を指す言葉として、社会的に認知された状態と言える。

 では、「シングル」という言葉に対して、説明書きが付与されなくなったのはいつであろうか。それは、大体1991年頃であると考えられる。これは、以下の1990716日の毎日新聞の記事と1991227日の日本経済新聞の記事を比較すれば分かる。

例えば、1990年の毎日新聞の記事では、「結婚にとらわれず独身生活をエンジョイする“シングル族”の生き方が社会風俗の新しい潮流として登場、数年前にはそうした生き方を活写した小説がベストセラーにもなった。」と書かれている。“シングル族”について「結婚にとらわれず独身生活をエンジョイする」という説明書きが付記されていることに加え、「シングル」という言葉に「“ ”」がついていることからも、新聞記者が「この記事を載せる時期では、まだ『シングル』という言葉が一般的ではない」と判断したことをうかがわせる。

これに対して、1991年の日本経済新聞の記事では、「シングルが結集し始めた。次々と単身者の会が産声をあげ、話題を呼んでいる。……こうした会の最近の特徴は男性が目立ってきた点……。」というように、記事の冒頭から「シングル」という言葉が説明書きも括弧もなく使われている。従って、この段階で「シングル」という言葉が男性独身者を指す言葉として「定着した」と考えても良いだろう。

5−2:「男性シングル」と「独身男性」の語られ方の分化の現実

 この節の目的は、同じ独身の男性であっても、「男性シングル」と「独身男性」という形で語られ方の分化が起こった理由を説明することにある。いや、正確には、「男性シングル」が「男性シングル」と呼ばれる条件と、「独身男性」が「独身男性」と呼ばれる条件を明らかにすることにある。

結論を先に述べてしまえば、「独身男性」と「男性シングル」の分化の条件は、年齢と居住地域と職業である。「独身男性」と呼ばれる人たちは独身の男性の中でも、概して「中高年以上」「過疎地域居住」「自営業」という属性を持つ男性たちである。一方、「男性シングル」と呼ばれる独身の男性は、概して「若年層」「都市部居住」「第三次産業従事者」であることが多い。つまり、男性独身者本人の階層によって、彼らに対する評価が分化しているのである。この節では、その事実を新聞記事と雑誌記事の言説分析をすることによって明らかにしていきたい。

5−2−1:年齢による語られ方の分化

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損害保険特集――損保代理店担当者座談会、保障設計、きめ細かく提案

1991/11/17 日本経済新聞・朝刊 日曜版 31ページ

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高齢化の進展、生活様式の多様化、契約者の金利選別強化――。こうした社会構造や消費者意識の変化が損害保険の営業の最前線を揺さぶっている。契約者のニーズに合わせた商品を売り込むには、時代の変化に敏感でなければならないからだ。各代理店で活躍するセールスマン、セールスレディに営業の最前線の苦心を語ってもらった……。

 司会 若いカップルなどでダブルインカムの人たちも増えてきましたが、ライフスタイルの変化が損保に影響を与えていますか。

 浅田 価値観の多様化によってライフスタイルも多様化している。お仕着せ的なプランを当てはめていくのではなくて、個人個人のライフスタイルにあった保障設計を提案していくような営業をしていかないと、なかなか契約に結びつかないのではないかという気がします。特に二十代、三十代のシングルライフをエンジョイしておられる方とか、長い独身生活もエンジョイしたい、その代わりしっかり貯蓄もしていきたいという、しっかりしたライフスタイルを持っておられる人たちをターゲットに、……。

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 この記事では、「シングルライフ」と「独身生活」が使い分けて語られている。「シングルライフ」は二十代・三十代の人々がエンジョイするものであると語られる反面、三十代以上と推定される独身者の生活は「シングルライフ」ではなく「長い独身生活」なのである。

 このことからもわかるように、同じ独身者であっても、二十代・三十代の若年層には「シングル」という言葉が付与される反面、それ以上の世代の独身者は「独身」という言葉が付与されているのである。このように、独身者集団内において、年齢によって名指される言葉の階層分化が起こったのである。

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50男に独身が1割もいるって?」

「婦人公論」 19933月号

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 ……別れた理由

 Bさんは五十七歳。電気関係の部品のメーカーに勤めるサラリーマンだ。こざっぱりしたスーツ姿で、何もいわなければ、誰も独身だとは思わないだろう……。

 ご主人と二人で居酒屋を経営する四十四歳のUさんは、五十代で独身と聞くと、それだけで「気持悪い」というイメージがわくのだという。

 「うちに来るお客さんにも、けっこういるのよ。でも、その人たちはみんな変わり者だったり、わがままだったり、まともに稼いでいなかったり、男として魅力のない人ばっかりで、これじゃ結婚できないのもわかるなって感じなのよね」

 女の意見

 なかなか手厳しい感想だ。五十代独身者と聞くと、一般に女性はどう思うのだろうか。

 企画会社に勤める三十歳のKさんは、数人の部下を持ち、バリバリ仕事をこなしている独身女性だ。「自分で独身を選択しているんだし、都会では不自由もないだろうから、本人はそうでもないのかもしれないけど、まわりから見ると、何かうら悲しいものを感じるな。」

 ……大手出版社に勤めるSさんは二十六歳。恋人はいるが、まだ結婚は考えていない。

「でも、五十代で独身の人とかって、みんな自由業の人が多いんじゃないんですか。やっぱり会社とかだと、そんな年で結婚しないと信用がないみたいなところがあると思いますよ。」

 ……日本では、家庭を持って初めて自立だという考えがある。が、妻や夫に依存している自律できない夫婦は、たくさんいると思う。私も三十三歳の独身で、結婚の予定もない。が、未婚でも既婚でも自立していたいなと思う。あとは、成り行きでもかまわない。

 ただ、まだまだ今の社会では家庭というのは重要な信用なのだ。とくに自由業の場合、社会的地位か、莫大な収入でもないかぎり、ほかに信用がない。アパート一つ借りようと思っても四十歳を過ぎた独身者には難しくなる。

 結婚するもしないも、自由に選択できるはずなのに、まだまだ五十代で独身でいるには、覚悟を必要とする社会なんだなと、しみじみ感じた。

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 独身者本人が自分の生活を告白する発言とは裏腹に形成されていく独身者像の姿が、この記事であらわになっている。実際には「独身でいるがゆえに家事も覚えて、自分の部屋や格好もきちんとできる」と「独身男性」は主張するが、「独身」と聞いただけで、「独身男性」以外の人は彼らのことを「気持ち悪い」「信用がない」「変わり者」という色眼鏡で見てしまう現実があることがこの雑誌記事からも読みとれる。

 その中でも、50代の「独身男性」に対しては、「何かうら悲しいものを感じる」「気持ち悪い」など、「独身男性」に対する中傷の言葉もより露骨になってくる。このように、中高年以上の「独身男性」に対する社会の視線は、若年の「男性シングル」に対するものよりも厳しくなっていくのである。

5−2−2:居住地域による語られ方の分化

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第5話シングル派宣言(1)自分を曲げる結婚はイヤ(家族はいま)

日本経済新聞 1992-06-29、夕刊18

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「『結婚して一人前』『独身では社会的信用がない』という考え方には疑問ですね」と東京都千代田区の百貨店に勤める山田正樹さんはさらりと言う。

 山田さんは三十二歳。東京都小金井市の2DKのマンションでシングルライフを送る。

「妻子があるために保身に走って言いたいことを言えず、妥協して仕事をしている人も見かける。僕にはそういう人の方がとてもじゃないけれど信用できない」。「自分を曲げてしまう結婚ならしたくない」……。

 離婚した友人がすでに六人いるが、皆、「価値観が違った。こんなはずじゃなかった」と言う。そんな状況が「結婚がすべてではない」と思わせる。

 「結婚して当たり前」という既存の社会通念にとらわれない人たちが男女を問わず増えている、と専門家は口をそろえる。そういう人たちにとって結婚はあくまでも生き方の選択肢の一つに過ぎない。

 自らの価値基準、行動基準に照らしシングルライフを志向する人たちの生き方をリポートする。

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この記事に登場する山田さんは三十二歳の「シングル男性」であり、結婚に対する期待感が薄いが故にシングルライフを続けている。

 1987年の日経の記事では「二十九歳の独身生活までがシングルライフ」とされていたのに対し、1992年のこの日経の記事では「三十二歳の独身男性の生活もシングルライフの範疇に含まれている」ことが明らかとなっている。つまり、言説における「シングル」の範囲が「二十代まで」から「三十代」までに拡大したのである。

 さらに、山田さんの居住地域は、東京都小金井市である。このように東京という都心部に一人で住む人のことを「シングル」と呼び、その生活が「シングルライフ」と呼ばれる。つまり、「シングル」は都会の特権なのである。そのことを明らかにするためには、都会とは対照的な「過疎地域居住」の男性独身者がどうよばれているのかを見る必要がある。では、次の新聞記事を見ていただきたい。

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26日「トキメキ出逢いの広場」 早くも1.5倍の応募

毎日新聞 1997-10-10、夕刊21

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トキメキたい人、集まれ――。松江、安来市など県東部17市町村で消防や廃棄物処理などの広域行政事務に当たっている松江地区広域行政組合は、市町村の枠を超えて若者の交流を図るイベント「トキメキ出逢いの広場」を26日に開くが、早くも定員の1・5倍の応募者があり、くじ引きで参加者を選ばねばならないほどの人気。「トキメキ」を得るのも、かなりの狭き門になりそうだ。

 「出逢いの広場」は今年2月に第1回を行い、今回が2回目。26日はJR安来、松江、木次駅から広瀬町や八雲村などの主な観光地を周遊。その後、カクテルパーティーを松江市千鳥町のホテルで開き、最後はテレビで人気を得た「ねるとん形式」のゲームも。

 同じようなコースで行った前回のイベントでは男女30人ずつを募集したところ、応募者は約200人に達し、抽選で参加者を決めた。このため今回は男女40人ずつに増やしたが、9日現在で男性約80人、女性約30人の計約110人が申し込んでいるという。

 同行政組合企画振興係の中村展明さんは「県外に出ていく若者が多いため、日ごろはどうしても少ない出会いの場を提供したい。このイベントは定期的に開いていくので、初めての方はもちろん、前回参加してくれた方も、どんどん応募してほしい」と語り、交流が進むだけでなく、若者の定住化につながることを期待している。

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このように、「結婚難→少子化→将来的な税収不足」という経路を予測した過疎地域の自治体は、公費を使ってまで、若い男女の「出会いの場」を設定したり、中高年独身男性に対しては沖縄や東南アジアへの「お見合いツアー」を企画するなど、対策に躍起になっている。さらには「お見合いツアー」の実現を選挙後の公約とした議員もいた。

もちろん、自治体だけではなく、過疎地域に住む「独身男性」は、結婚難という現実に対して当事者として相当な危機感を抱いている。それは、上記のように「トキメキ出会いの広場」に対して、定員の1.5倍の応募が殺到している事実からも明らかである。

このように、過疎地域に住む「独身男性」は、年齢層を問わずに強い結婚志向の考えを有している。先に挙げた都市部の「男性シングル」とは好対照を成していることがわかる。

 

5−2−3:職業による語られ方の分化

 

これまで、年齢による語られ方の分化と、居住地域による語られ方の分化を見てきたが、この節では、職業によっても語られ方が分化していくことを示していく。同じ独身の男性であっても、独身の男性会社員達が「男性シングル」と呼ばれるのに対して、農家などの独身の男性自営業者たちは「独身男性」と呼ばれるようになる。

年齢と居住地域による語られ方の分化と同様に、「男性シングル」と呼ばれる会社員達に対しては、新しいライフスタイルを実践する人々として好意的に評価されるのに対し、「独身男性」と呼ばれる自営業者たちには結婚難に悩んでいる人々して否定的に評価される構図を新聞記事を用いて明らかにする。

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「世代の素顔(4)40代・華麗にシングル――大人の文化は自然体(生活家庭)」

1999-01-07 日本経済新聞 夕刊13

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 四十代、独身――。男性のシングルライフはもはや珍しくない。「なぜ結婚しないのか」などの外圧は依然として根強いが、肩肘張らずに仕事も余暇も自分流で突き進むタイプが増えている。生涯未婚率がアップするなかで、不惑を過ぎての優雅な独身ライフは、成熟した大人の文化として定着するのか。

 「休日前の夕方になると、天気予報が気になりますね」と語るのは、東京・原宿で美容師を営む矢沢勉氏(43)。趣味は二十歳のころから始めたサーフィンだ。天気図を見て良い波が来ると踏めば、仕事を終えた夜の九時過ぎ、海辺にある神奈川県鎌倉市の実家へとオープンカーを飛ばす……。

 外資家広告代理店のマッキャンエリクソン(東京・青山)で働く独身の三宅和夫氏(45)の場合、休日の過ごし方は大まかに分けると三つ。ゴルフのほかに、テニスクラブで汗を流し、二百五十ccのオフロードバイクを駆って伊豆や河口湖にツーリングに出かけバーべキューを楽しむ……。

ただ、既存の結婚制度にはどこかに違和感を覚えるのだ。「結婚が社会的な信用力になるという見方は、商品の中身を問わずに包装紙にこだわっているようなもの」(矢沢氏)「今ある生活がそこそこ快適である限り、あえて無理して結婚したいとは思わない。」(三宅氏)

彼らは同世代の既婚者から、うらやましがられたり、逆になぜ結婚しないんだと問いただされたりすることも少なくない。「結婚生活に不満を感じている人ほど、私が独身であることに、こだわっているようだ。」とは矢沢氏の観察だ。自信を持ってシングルライフを送る姿がそこにはある。

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 この記事で取り上げられた2人の40代の独身の男性のライフスタイルは、独身でいることによる時間・金銭面での自由を十分に生かした生活をしている。ただし、このように「華麗にシングル」と呼ばれるような生活は、第三次産業に従事し、都市部に居住しているが故にできるライフスタイルなのである。このことは、彼らのライフスタイルを分析すればわかる。

 彼らのライフスタイルは、平日は会社員として働き、休日はゴルフやサーフィンを楽しんでいるようだ。だが、農家であれば、作物を育てるために毎日働かざるを得ないため、平日と休日の使い分けはできないだろう。つまり、このように平日と休日の使い分けができる職業は、第二次あるいは第三次産業従事者に限られるのである。また、独身であるが故に可処分所得が多いというだけで、休日にゴルフやサーフィンに行くことができるわけではない。年功序列賃金制を採用する会社に勤めているからこそ、40代になってようやくその恩恵を受けることができるようになったのである。従って、このような賃金体系を導入している企業に勤める独身サラリーマンでなければ、このような「華麗なシングルライフ」を送ることはできないのである。

なお、このことは、次の記事と比較して検討すればより明確となる。

第三次産業に産業に従事していない「独身男性」は、社会からどのような生活を送る存在として見られているのであろうか。次の記事を見て欲しい。

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講座で改造、即席いい男?! 男のド根性どこへやら 独身対象に学校

朝日新聞 1992-05-28 朝刊 19

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……肥後もっこす(頑固一徹で無骨な人物、性格)の言葉がある九州・熊本では、90年度と91年度の2年間、独身男性を対象に「九州男児恥かき大学」が開かれた。副題は「新しい時代のいい男になるために」。熊本県農協青壮年部協議会などが主催した。

その開催要項に、こうあった。「昨今の九州男児も地に堕(お)ちたものです。義理・人情はおろか、男のド根性までどこ吹く風となりました。加えて、女性に弱いときたんじゃ九州男児の呼称が泣いています」「今後は、全力を挙げて農産物輸入自由化に断固戦わなければならないのに女性に弱いようでは…」

「大学」が開かれたのは、それぞれ年2回の計3日間。毎回50人近い男性が参加、自己紹介から始まり、互いに胸のうちを語り合う討論会、農家の若妻の話を聞いたり、女性の心と体について学ぶ講義などが続いた。県単位の催しは、この2年間で終了。主催者は、これから市町村や郡単位で開かれることを期待している。

「花嫁不足」に泣く山形県余目町は、今年度から、独身男女が学ぶ「ふれ合い交流事業」を始めた。講義や催しの内容は、これから順次決めるが、30歳を超えて独身でいる男性が同じ女性の5倍近くもいることから、男性の生き方を中心にした内容が多くなりそうだという。

この事業では、前段として、結婚前の若者を抱える親を対象とした講義が開かれ、約100人が若者世代の結婚観と親の世代の結婚観の違いを学んでいる。

今後は1カ月に1回の割合で、独身男女が参加する講座を開く計画。女性の地位が低かったこれまでの農村社会を見直そうという熱意が、少しずつ農村地帯にも広まっているようだ……。

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 この記事は、農村社会における結婚難という現状を踏まえ、それに対する対策として「独身男性」を対象にした「花婿学校」を開いている地域を紹介したものである。「花婿学校」を開催する主体が農協や自治体であることからも分かるように、「結婚難」の問題を抱えている「独身男性」は農家の男性である。

 この記事が書かれた当時の「独身男性」に対する評価としては、「地に堕(お)ちたもの」や「女性に弱い」など否定的な評価がなされている。もちろん、「花嫁学校」という男性を改造する講座を設置したという事実からも分かるように、「独身男性」は「いい男ではない=改造される対象」と社会から見られていることがわかる。

 このように、「独身男性」と呼ばれる、独身の自営業男性に対する社会的な視線はネガティブなものとなり、先の「華麗にシングル」の人々とは対照的な語られ方がなされるのである。

 

5−3:言葉による「まなざし」の固定化

これまで見てきたように、同じ「独身」であっても、「独身男性」と「男性シングル」の形で名指される言葉とそれに対する評価が変化する条件は、「年齢」「職業」「居住地域」であった。

これがさらに進むと、次のように、単に名指しされる言葉が上記の条件によって階層分化するだけでなく、名指される言葉によって付与されるイメージまでもが分化する言説も生まれてくる。つまり、「独身男性」と呼ばれる時は彼らについて否定的に語られることになり、「男性シングル」と呼ばれるときは彼らについて好意的に語られるようになる。そのことを以下の新聞記事と雑誌記事の分析から明らかにしていきたい。

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世代の素顔(4)40代・華麗にシングル――大人の文化は自然体(生活家庭)

1999/01/07 日本経済新聞・夕刊 生活家庭 13ページ

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……「独身ですと自己紹介して、日本人から一瞬、不審な目で見られることには慣れっこになりました」と笑うのは、フランスのチーズ製造販売大手ボングランの日本法人社長、フィリップ・ティアール氏(39)。全体の印象として「日本人の中年の独身男性は寂しげに見える」という。

 ティアール氏によると、フランスでは結婚していても、共同生活のうち何パーセントかは「自分だけの時間」として確保するのが夫婦とも当たり前。だからシングル男性に対しても単に「自分のために多くの時間を使いたいタイプ」と理解するだけで、決して変わった人とは見ない。

 「まだまだ独身でいることに”圧力”がかかる日本社会では、余暇時間の過ごし方にも、追い詰められたものを感じる。他人の目を気にして、必要以上にその充実振りをアピールする独身男性が周りにいるが、どこかつらそう」と語る……。

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 この記事は「独身」と「シングル」の使い分けがなされている典型的な例である。

 「独身」について語られる場合、「寂しげに見える」「余暇時間のすごし方を必要以上にその充実振りをアピールするほど追い詰められた存在」のように、ネガティブに語っている。

 一方、「シングル」について語られる場合、「単に自分のために時間を使いたい人」「決して変わった人とは見られない」というコメントから、ネガティブに語られているわけではないことがわかる。このように、「独身」という言葉と「シングル」という言葉に与えられるイメージは、好意的なものと否定的なものにはっきりと分化しているのである。

ちなみに、この傾向は新聞記事だけの傾向ではない。雑誌記事も同様である。その証拠として、以下の「AERA」の記事を見ていただきたい。

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開きなおれない独身男 「所帯を持って一人前の内なる拘束」

AERA 1998810日号

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 シングル女性は元気なのに、一人身男はなぜか肩身が狭い。いろいろな生き方があるのに……。

自分でも煮え切らない

 「あいつが結婚しないのは、幼女趣味だからだろ」

 大手マスコミに勤務するBさん(36)は職場の上司に、陰でそんな噂を立てられた体験を持つ。そういう目で見られていると思うとショックだったし、腹も立った……。

 気楽な一人暮らしだが、問題は、他人の視線が気になり始めたときに起きる。

 例えば、ちょっと気の利いたレストランなどに、一人で出かけるのは勇気がいるという。そういう店は大抵、カップルで賑わっており、ひどくわびしい食事にならざるをえない。既婚の友人たちを誘うにしても、可処分所得の低い彼らは大衆居酒屋に行きたがったりして、好みが合わない。

 国内の一人旅もつらい。どこの観光地に出かけても、家族連れやカップルがあふれているからだ。そこで海外で休みを過ごすことが増えたが、一度失敗したことがある。初めてツアーを申し込んだところ、一人部屋の追加料金を上乗せされ、一人者の悲劇を味わった。

周囲が認めてくれない

 今春、十年間勤めた出版社を辞めたCさん(41)が気にするのも、やはり他人の視線だ。

40代で独身、しかも無職ということになれば典型的な犯罪者像ですよね」

フリーのグラフィックデザイナーとして独立するという長年の希望をかなえるための退職だったが、実家で親と同居しているため、昼間は近所を出歩くこともはばかられるのだ。(以下略)

NHKアナウンサー・住田功一さんに聞く 未婚男性は揶揄されやすい

 一人もんだから、夜更かし、不摂生。不摂生だから体が弱い――「生活ほっとモーニング」でコンビを組んで4年目を迎える黒田(あゆみ)さんから、独身ネタでいろいろ突っ込まれるようになったのは、大体こんなパターンからだったと思います……。

 黒田さんだけでもないんですよね。独身男の話っていうのは、日常でも格好の話題みたいで、私が席をはずしたすきに、その話で盛り上がっていたりする。女性にはみな気を使うのに、男の場合は、「言われているうちが花」で済まされてしまう。

 既婚の男性アナが独身の女性アナを揶揄したりしたら、視聴者から抗議が殺到すると思うんですよ。不思議ですね……。

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タイトルの副題には、「シングル女性は元気なのに、一人身男はなぜか肩身が狭い」という言説が入っている。この記事では、「独身男性」は独身の女性に比べて否定的な評価を受けている。さらに、「元気」だとされている独身の女性に対しては、「シングル女性」という名前がつけられているのに対し、「肩身が狭い」とされている独身の男性に対しては、「シングル」とは名づけられていない。このように、独身生活に対して、好意的な評価がなされるときは「シングル」と呼ばれ、反対に否定的な評価がなされるときは「シングル」とは呼ばれないのである。

また、この記事からわかることはそれだけではない。最後に引用したNHKアナウンサーの指摘にもあるとおり、同じ独身であっても、「独身男」であると言うだけで揶揄されることが当然視されるという現実、言い換えれば「独身男性=異常」という社会認識がいかに当然視されているかが分かる。

 同様に、その前のBさんの指摘では、独身差別に対する言及がなされている。既婚者からは「結婚しない独身者=異常者(幼女趣味)」であると蔑視され、旅行や食事においても「既婚者=正常」であるという社会の前提を目の当たりにした現実を語っている。「シングル」という言葉が導入される以前は、「既婚男性」から自由気ままな生活がうらやましいという「独身男性」に対する評価であったのに、この記事が掲載された1998年の段階では、正反対の蔑視される存在へと転落しているのである。

 さらに、Cさんも、無職の「中年独身男性」は典型的な犯罪者像という社会の認識があると自覚している。そのため、昼間に外を歩くことさえもできないと愚痴をこぼすほど、独身である自分が蔑視されているという視線を内面化していることが明らかとなっている。

また、次の新聞記事のように、何らかの社会的な問題の責任主体として、「独身男性」が批判の槍玉に揚げられる例もある。

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進むシングル化の矛先、”男性原因説”へ――人口動態統計

1995/06/05 毎日新聞・朝刊 社会面 3ページ

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……少子化は女性の高学歴化や就労の増加、家事・育児費用の増大、生活水準が上がり独身生活の魅力が増したこと度などが原因とされ、「女性の問題」とする傾向が強い。厚生省が進める対策も、女性が安心して出産できる環境づくりに向けられている。だが、最近は矛先が男性にも向き始めた。

 「出生率の低下は気弱な男性のせい」。財団法人・母子衛生研究会が発行する「母子保健」三月号にこんな記事が載った。苫米地孝之助・東京家政大学理事長が「女性は進んで結婚を遅らせているわけではない。口でいうほど彼女たちが選(え)り好みをしているわけではなく、女性に結婚の意欲を起こさせない原因が男性にある……」などと”男性原因説”を展開している……。

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この記事では、これまで少子化の原因が主に女性に帰結されていたが、現在は「独身男性」に女性の結婚意欲を減退させる原因があるのだというように、「独身男性」の問題であると指摘している。つまり、「独身男性」は、日本の未来に影を落とす「少子化」の原因であり、その存在が問題視されるまでになったのである。

このように、「独身」という言葉に対するネガティブなイメージが、「独身男性」と「男性シングル」に対する社会的評価の階層分化の一端となっているのである。

5−4:「独身男性」の語られ方の将来展望

 

 確かに、これまで見てきたように、現時点では「男性シングル」に対しては好意的な評価がなされる反面、「独身男性」に対しては否定的な評価がなされるという形で、語られ方の分化が起こっていることは事実である。

 しかし、このような語られ方の分化の構図が、これから10年先まで続いていくとはまったく限らない。すでに指摘したように、「独身男性」でさえも、わずか20年前ぐらいまでは、「単身赴任」との対立構造の中で、羨望のまなざしを社会から受ける存在であったのに、10年もたたないうちにその評価は正反対のものとなった。これと同じことが、現在好意的な評価を社会から受けている「男性シングル」に関しても起こらないとは限らないのである。

 いや、すでにその萌芽が見られると言ってもよい。「男性シングル」に対して、否定的なまなざしを向けていることを指示する用語がすでに出てきている。それは、家族社会学者の山田昌弘の「パラサイト・シングル」論である。

 山田の定義によれば、「パラサイト・シングル」とは、「学卒後もなお、親と同居し、基礎的生活条件を親に依存している未婚者」のことを指す。また、「パラサイト・シングル」は「男女かかわりなく、親と同居し、リッチな生活をする未婚者」であり、「シングル」が日本に流入してきた当初のように、女性だけを指す言葉ではない。

 山田は、このような「パラサイト・シングル」に対して手厳しい指摘をしている。「パラサイト・シングル」は、「自立して苦労することを厭い、私生活の豊かさを求め、現状が続くことを願う」存在であり、そんな彼らが「近年の日本社会の停滞感をもたらす存在」であると断罪している。

 山田が「パラサイト・シングル」論で展開したように、「男性シングル」に対しても否定的なまなざしを社会から向けられる日も近いかもしれない。

5−5:小括

 第5章では、「シングル」という言葉が独身の男性を指す言葉として適用されることが一般的になった時期、すなわち1991年以降の新聞記事と雑誌記事の言説分析を通して、「独身男性」と「男性シングル」の語られ方の分化の現実と、そのような分化の条件が「年齢」「居住地域」「職業」という男性独身者自身のパーソナリティによるものであることが判明した。

 同じ男性独身者であっても、「男性シングル」と呼ばれて好意的なまなざしを受ける人たちは、「若年層」「都市部居住」「第三次産業従事者」が主であるのに対し、「独身男性」と呼ばれて差別的なまなざしを受けている人たちは、「中高年」「過疎地域居住」「自営業」の男性独身者が中心となっているのである。

 しかし、このような「男性シングル」と「独身男性」の二項対立的な語られ方の構図が今後も続くがどうかは分からない。家族社会学者の山田昌弘が提唱する「パラサイト・シングル」論のように、「親同居若年未婚者」である「パラサイト・シングル」は親に経済的に寄生する「パラサイト」であるとして、また日本経済を停滞させる存在として、社会から厳しい評価を受けている。このように、「男性シングル」に対する否定的な評価の萌芽がすでに出始めているのだから、「独身男性」と「男性シングル」の二項対立的な語られ方の構図が崩れる可能性は十分にあると考えられるだろう。

結論

6−1:仮説の検証と本論のまとめ

 

結論としては、「独身男性」に関する言説はすでに本論で見てきたように変動したので、仮説は立証されたと考えられる。

「シングル」という言葉が「独身男性」に適用される以前(1980年から1985年まで)は、「単身赴任」と比較されることによって、「独身男性」は対照的にポジティブに語られた。しかし、「シングル」という言葉が「独身男性」に適用され始める(1986年から1990年頃まで)と、「独身男性」と「男性シングル」という形で独身の男性に関する語られ方が分化し始め、「独身男性」に対する語られ方が否定的なものへと変化した。さらに、「シングル」が「独身男性」を指す言葉として定着する(1991年以降)と、年齢・居住地・職業という彼らのパーソナリティによって、「独身男性=否定的」と「男性シングル=肯定的」という語られ方の分化の構図が鮮明になった。上記のように、「シングル」という言葉の導入を契機として、「独身男性」の語られ方(「独身男性」言説)は確かに変動したのである。

また、「独身男性」に関する言説が上記のように変動したことが明らかになったことで、これまでの俗説であった「『独身男性』に対する社会的視線がニュートラルになった」という命題は偽であることが明らかとなった。確かに、「男性シングル」に対しては好意的なまなざしが社会から向けられている。しかしその一方で、「独身男性」に対する社会的視線は非常に厳しい。同じ男性独身者であっても、「社会的視線がニュートラルになった」のは「男性シングル」に対してだけであり、「独身男性」に対しては「社会的視線がニュートラルになった」わけではないのである。ただ、独身の男性の数の増加に伴って、「独身男性」に関する語られ方が多様化した結果、語られる対象の属性によって、彼らに対する語られ方が分化しただけなのである。

従って、俗説のように、男性独身者に対する社会からの視線が、以前と比べてニュートラルになったわけでも、ポジティブになったわけでもない。実は、1980年代前半当時の男性独身者に対する視線は好意的なものだったのだが、以後の男性独身者の数の増加傾向とそれに伴う語られ方の多様化によって、男性独身者に対する語られ方が以前の画一的なものから、当事者の属性によって肯定的なものと否定的なものに分化したに過ぎなかったのである。つまり、一部の「独身男性」にとっては、返って彼らに対する社会からの視線が厳しくなったとも言えるのである。

6−2:本研究の意義 

そもそも本稿執筆の動機には、「独身男性に対する社会的な視線が以前ほど厳しくなくなった」という俗説に対する懐疑心があった。また、この俗説を信じることによって、「独身男性に対する差別が解消した」という思い込みが人々に共有されてしまうことを恐れていた。つまり、解決していないのに、この社会問題があたかも解決したかのごとき言説が流布することを恐れていたのである。だから、本稿を執筆して、俗説を反証しようと考えたのである。

 約20年間の「独身男性」に関する言説の変動を追うことによって、実際には「独身男性」の語られ方が分化しただけであり、「独身男性」に関する差別的な社会意識が消えたわけでないことがわかった。また、1980年代前半における「単身赴任」との語られ方と対比することで、今よりも「独身男性」に対する社会的な評価が高かった時期があったこともわかった。いずれの内容も、俗説を反証するには十分な証拠であろう。

 このように、約20年間の「独身男性」言説のメガトレンドを提示することによって、俗説に対する反証ができたことが、本研究の意義である。また、俗説の反証をすることによって、「独身男性」が受けている差別的視線が現在においても存在していることを主張し、彼が抱えている困難の一端を読者の方に知っていただけたことが、本研究の社会的意義と言っても良いだろう。

6−3:本研究の限界と将来の課題

最後に、本研究の限界と将来に残された課題について言及しておく。

まず、本研究では、1980年から2000年までの新聞記事と雑誌記事の言説を分析の対象としたため、実証的に「独身男性」の「実態」がどのように変動してきたのかということを分析するには至っていない。

言説によって作られる「独身男性」と「男性シングル」に対する評価は、「実態」を反映しているというよりも、むしろ「かぎカッコつきの『実態』」と言った方が正確かもしれない。したがって、当然将来的には、言説上の「独身男性」と「男性シングル」に対する評価と、独身の男性の実態とのずれに迫る必要がある。

また、同様に「独身男性」に関するマス・メディア上の「言説」を分析の対象としたがゆえに、「言説」化されなかった事例、つまり報道されなかった「独身男性」の事例に対する視点が抜け落ちている。このようなものとして考えられるものの例をいくつか挙げると、「ホームレス」「独居老人」「地方中核都市に居住する独身男性」などがあるだろう。この点も次回の研究の課題としたい。

 次に、本研究では、分析の対象を独身の男性に関する記事に制限したために、独身の女性との評価の比較が不十分であったことが挙げられる。すなわち、ジェンダーに対する視点の不徹底である。比較の視点が不十分であるため、本研究で見られたような「独身」に対する評価が、ジェンダー的特性によるものなのか、あるいは「独身男性」の特性によるものかの判別がつきにくい。これも次回の研究の課題としたい。

 最後に、階層差と地域差を意識する視点を導入する必要性を挙げることができる。本研究においては、「独身」ないしは「シングル」であるか、そうでないかで分析の対象に取り入れるかどうかで判断したわけだが、「独身」も「シングル」も実際は多様な人々の集合体であり、一元的に「独身」や「シングル」と認識できるものではない。結婚していないことよりも、階層差の方が、本人に対する評価に対して与える影響が大きい可能性も考えられる。

また、地域差に関しても同様である。本研究では、研究対象を雑誌と全国紙に限定しているため、特定地域の「独身」や「シングル」に対する評価や、彼らが抱える問題の地域による独自性に対する視点が不十分であることは承知している。都道府県によっては、地域紙のほうが全国紙よりも購読者が多い地域もあるし、実際に東京都以外にも、独身者の割合が全国平均と差が開いている地域もあるため、地域差に目を向ける必要もある。

上記の視点の欠落を自覚した上で、大学院入学後の研究を進めて行きたいと考えている。

参考文献一覧(本文中で引用したもののみ掲載)

<引用統計一覧>

<引用新聞・雑誌紙面一覧>