2002326日                              

卒業制作                            総合政策学部4

釼持亜希(79903305

 

人はいかに「世界」を引き受ける存在となるか

─村上春樹の“解離的世界”からの出発─

 

<目次>

概要

序論

    0-1.問題意識と研究の目的

    0-2.研究対象

    0-3.先行研究と本研究のオリジナリティ

本論

 1章:解離的世界とその意味

1-1解離的世界とその意味

1-2村上春樹の解離的世界

 2章:『海辺のカフカ』と「世界を引き受けること」

              2-1『海辺のカフカ』の物語

2-2「ひきうけること」と「自由と責任」

結論

 

 

概要

 前期村上作品の世界・登場人物の特徴は、“解離”である。それは“私”が超越論的自己意識と自己に分かれ、超越的自己意識が経験的自己を見ている状態だ。

 これは超越的自己と経験的自己の結び付きが偶然のレベルにまで相対化されている状態で、「私」が「この私」であることも疑いうる地点に立っている。自明性のない世界だ。よって、「〜だから―する」という“当たり前”や、「与えられた世界」を引き受ける、ということに疑問を持ってしまう。また、同時に自分の生き方では他者を損なってしまう、ということも自覚している。ではどのように生きればいいのか?その思考の軌跡=作品の軌跡ととらえることができる。

 第1章で「私」と「この私」の分離のありさまを描き、その意味を分析し、第2章で「引き受けること」がメインテーマとなっている最新作『海辺のカフカ』(新潮社刊)を題材にして、自分の存在を根本まで相対化させた人間が語る「世界を引き受けること」について考察したい。

 

 

序論

0−1.問題意識と研究の目的

 1990年代後半から、「自己責任」「自己決定」の重要性を謳う議論がさかんになっている。最も顕著なのは経済政策の分野においてだが、他に安楽死の問題を考える場合や、ジェンダー論でも性の「自己決定」など論じられている。「自己決定」とは、端的に言うと「おまえに自由を与えよう、そのかわりに結果については自分で責任を負いなさい」という考え方だ。ただ、その前提として自己の選択とその結果とのつながりが明確に見えるような状態を制度的に整えておかなければならない。つまり、「だれに責任があるのか」をはっきりさせておかなければならない。

 ところが、選択した結果の責任の所在を明確にしようとすればするほど責任は拡散し、“帰責ゲーム”に陥ってしまう[1]。因果関係を忠実に追えば追うほど、責任の所在を明確にすることができなくなってしまう。

 「責任」というものの根本を考えてみる。そもそも人は産まれてくる際、生まれるべきか否かや、自分の生まれてくる場所・親・身体の特徴・性・名前等を選ぶことができない。全て“与えられて”その人生が始まる。負うべき責任は、選び取った行動によって決定されるのであれば、この根源的な受動性により人は無垢=イノセント(あらゆる行動の責任をとわれることがない)だ。

 ところがある程度の年齢に達すると、多くの人々はそのようなことを口にだすこと自体を躊躇うようになったり、その問いそのものがでてこなくなる。このとき根源的な受動性はどこへいってしまうのか。つまり私達は、どのように自分で選び取っていないものを受容することができ、またなぜそうするのか。

 その「世界」を引き受けるに至るプロセスを現実的な水準(保護者による承認行為の有無等)で捉えずに、その原理的な構造を明らかにし、人がいかに根源的受動性を超えて行くのかを描き出したい。それにより「責任」について考える一助としたい。

 

 

0−2.研究対象

 題材として村上春樹の著作を取り上げる。なぜならば、その著作には多くの解離的描写、解離的登場人物が登場するからだ。解離とは、根源的な受動性をうまく受け入れられない人々の反応で、自分と自分の身体(与えられたもの)の結びつきが偶然のレベルまでに相対化されている状態といえる。自分に「責任」のない、与えられた身体と自分とがうまく一体化できていない。これはイノセントを表出している状態である。

 しかしまた村上の最近の作品(『神の子ども達はみな踊る』『海辺のカフカ』)では、“デタッチメント”から“アタッチメント”への回帰と評されるように、離人症的状態を経た後の、「与えられたものを引き受けること」がテーマとなっている。その変遷を追う。

 

0−3.先行研究と本研究のオリジナリティ

 村上春樹を論じるのに“解離”をキーワードとする着想は、斎藤環著「解離の技法と歴史的外傷」(ユリイカ3月臨時増刊『村上春樹を読む』所収)から得た。村上作品はファルス不在の制約のない比喩の能力によって解離状態を描き得ていると言う。本論分は、斎藤環が上記論文末に軽く触れた“解離を経た後の同一性”について考察することが目的である。そのため、柄谷行人が「村上春樹の風景」(『終焉をめぐって』所収・講談社学術文庫)で使用した図式を利用する。図式については後述する。最近の村上作品について論じたものは中村三春著「デタッチメントからコミットメントへ」(AERA Mook『村上春樹がわかる』所収)など多数見うけられるが、“村上は変化した”“他者を受け入れるようになった”というばかりで、その変化が持つ意味を追求するものは見当たらない。

 研究手法で、村上の作品を時系列的に追い変遷を見る先行研究は川芝三郎『村上春樹の変容』(評論社刊)が挙げられる。しかしこれは『アンダーグラウンド』までの著作を対象としており、また作品のモチーフと社会との関わりをテーマとしているので、本論文とは異なる切り口である。

 このほかにも作品中のコミュニケーションの変遷や恋愛の扱い方の変遷を追うものが見られるが、“解離”を手がかりに、「責任」や「引き受ける」というテーマで、村上の変化をとらえようとするものは現時点ではみつかっていない。

 

 

 

本論

1章:解離的世界とその意味

 この章では村上春樹を論じる際の手がかりとする“解離”について説明する。1−1で、症状の説明とそれに該当する村上作品での記述を引用し、1−2ではその症状が持つ意味を解説する。

本章の目的は、村上春樹が“解離”の状態にあるということを証明することにあるのではない。村上春樹及びその登場人物がどのような世界に生きているのかを言語化することにある。

 

1−1村上作品と解離的世界

 ‘解離’とは防衛規制の一種で、トラウマやストレスなどから心を保護するためのメカニズムだ。この状態になると、人間の心における時間的・空間的な連続性が失われる。あたかも幽体離脱のように、自分自身の姿をもう一人の自分が外から眺めているような感覚が起こる“離人症”のほかに、“解離性健忘”(いわゆる記憶喪失)や“解離性同一性障害”(いわゆる多重人格)がある。解離は「単一の疾患ではなく、種々の精神病や神経症の“部分症状”として出現しうるもの」[2]で「訴えの主なものは、自我の喪失感、自我の離隔感、感情の喪失感、事物の非実在感、時間的経過や時間そのものの非連続性、自我の非連続感などであり、“現実感の喪失”と総称する」2ことができる。

 解離と総称されるこの現象を単に臨床的精神医学的な症状論の対象とするのではなく、哲学的・心理学的・現象学的に分析している医学者木村敏(1931〜)は、その著作で多くの症例を例に挙げている。

24歳の女性の証言。

「自分というものがまるで感じられない。いまここでこうやっって話しているのは嘘の自分です。なにをしても自分がしているという感じがない。私のからだもまるで自分のものでないみたい。だれか別の人のからだをつけて歩いているみたい。物や景色を見ているとき、自分がそれを見ているのではなくて、物や景色のほうが私の眼の中へ飛び込んできて私を奪ってしまう。音楽を聞いても、いろいろの音が入りこんでくるだけだし、絵を見ていても、いろいろの色や形が眼の中に入りこんでくるだけ。」(1976)

23歳の女子大生の証言。

「距離の感覚が変だ。歩いていると道路や塀が接近してくる。物の判断がつかなくなった。カオスというか、物の扱い方がわからなくて、みんなくしゃくしゃになっている。学校へいっても、本と自分と先生とが一枚の板になってしまう。街を歩いていても、他人を見ていてもその人の背景が消えてしまってロボットのよう。自分が主にならずに物が主になってしまっている。」(1976

35歳の男性患者の証言。

「鏡を見ていると、見ている自分と映っている自分のどちらがどちらを見ているのかわからなくなる。合わせ鏡をすると自分が自分を見ている無限連鎖のようなものができて混乱する。鏡に他人が映っていると自分と他人の区別がつかなくなる。調子が悪くなると、鏡の中だけでなく、鏡の中だけでなく現実の他人との区別がつなかくなってしまう。テレビを見ていて、自分が出演者として喋っていたのか、聞いていたのかわからなくなる。」(1992)

 改めて解離の中核を抜き出すと、

@自我とか自己とかいわれるものの変容感ないし空虚感、あるいは消失感。自己の体験や行動に

 関する自己所属感ないし能動性意識の喪失。感情の疎遠感ないし消失感。

A自己の身体を含めた対象知覚界の変容感ないし疎隔感。対象の実在感の希薄化ないし喪失。非

 現実感。美意識、意味意識の消失。

B時間体験と空間体験の異常。充実感と連続感の喪失。

 とまとめられる。

 

 

 このような症状に該当する個所を村上春樹の著作から抜き出し、必要な部分には解説を加える。

●『ねじまき鳥クロニクル 第2部』(1994)

 「正直に言うと、私にはときどきいろんなことがわからなくなってくるのよ。何が本当で、何が本当じゃないのか。何が実際に起こったことで、何が実際に起こったことじゃないのか。なんと言えばいいのかしら、私が現実だと思っていることと、本当の現実とのあいだに、すこしズレがあるのね。私の中のどこかに、何かちょっとしたものが潜んでいるような気がすることがあるの。ちょうど空き巣が家の中に入ってきて、そのまま押入れに隠れているみたいにね。そしてそれがときどき外に出てきて、私自身のいろんな順序やら論理やらを乱すの」(P104

 

 先に挙げた第1の患者の発言との類似性に気付かされる。「私」が分裂し、もう一つの「私」から疎隔感を感じている。統一的な自己感が崩壊している。また次のような個所も、解離状態にある患者の発言といっても違和感を感じない。ただ、自分の離人的態度を、他者とのコミュニケーションの中で自分を守る一つの戦略として意識している点が、自分がどのような戦略をとっているのか意識できないでいる解離状態の患者とは異なる。

 

●『ノルウェイの森』(1987)

 誰かが僕に話しかけても僕にはうまくきこえなかったし、僕が誰かに話しかけても、彼らはそれを聞き取れなかった。まるで自分の体の周りにぴったりとした膜が張ってしまったような感じだった。その膜のせいで、僕はうまく外界と接する事が出来ないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に手を触れる事が出来ないのだ。僕自身は無力だが、こういう風にしている限り、彼らもまた僕に対しては無力なのだ。

 

意識的という点では、以下の僕の妻の発言ようなものもある。本当の自分だけが知っている「私」と、他者の目から見ることのできる「私についての記憶」とを意識的に分け、「私についての記憶」は本当の私ではないと言うことで、人からの干渉を避けている。

 

●『羊をめぐる冒険』(1982)

別れた僕の妻はセックスの正確な記録を所有していた。(中略)「もし私が死んだら」と彼女はよく言ったものだった。「あのノートは燃やして。石油をたっぷりかけて完全に焼いてから、土に埋めて。一字でも見たら絶対に許さないわよ。」「だって僕は君とずっと寝てるんだぜ。体の隅から隅まで大抵のことは知ってる。今更どうして恥ずかしがるんだ?」「細胞は一ヶ月ごとに入れ替わるのよ。こうしている今でもね。あなたが知っていると思っているものの殆どは私についてのただの記憶にすぎないのよ」(P25)

 

意識的な分裂、本体からの解離を進めることで、その人の存在そのものが偶然的で操作的なものとなる。

 

●『1973年のピンボール』(1980)

 双子をみわける方法はたった一つしかなかった。彼女達が着ているトレーナーシャツである。ひとつは「208」、もうひとつは「209」である。(中略)「オーケー、じゃあこうしよう。」と僕は言った。「君を208と呼ぶ。君は209。それで区別できる。」「無駄よ。」一人が言った。「何故?」二人は黙ってシャツを脱ぎ、それを交換して頭からすっぽりかぶった。「私は208」と209が言った。「私が209」と208が言った。(P37)

 

 僕が彼女達が区別をできないということは、彼女達にとって意外なことらしい。ときに憤慨して、「だって全然似てないじゃない」という。(P52

 

 固有名を否定し、数字という特徴や内面に関わらない記号的なもので判別しようとするので、結局区別することができない。ここまで至ると、「本当の私」が他者から手の届かない位置にある、ということに加え、自分自身からもなにが「本当の私」か区別することができなくなる。

 

1−2解離的世界の意味するもの

 ここでは、解離及び解離状態が持つ意味を分析する。

 文芸批評家の柄谷行人は批評『村上春樹の風景』(1989)で、村上の世界観を以下のように分析している。

 

「この世界には固有名がなく、名前は差異を識別するための示差的な記号にすぎない。」

「主人公は一切の判断を“独断”と“偏見”にすぎないとみなす、ある超越論的な主観である。」

「経験的な主観(自己)を冷ややかに見つめる、超越論的な主観(自己)。超越論的な主観は決して傷つかないし、敗北しない。」

「内面の勝利、闘争の回避。」

「作品中の重要な会話は全てモノローグ(自己対話)であり、“私”を限定する、他者との会話は行われない。」

 

 つまり村上の世界では、「私」が“超越論的自己”と“経験的な自己”に解離していると柄谷は言う。他者と共にある世界にいて、肉体を持って行為や経験を実際に行うのが“経験的自己”で、それを見ている自分の内面にある意識=自分を見ている自分、が“超越論的自己”だ。

図1

    超越論的自己

 

 


 
 (自己対話)

 

 


         経験論的自己

         「固有名」

 それを図示したのが図1である。私は他者と経験的な自己の水準で関わり、他者は超越論的な自己に関わることがない、ということを意味している。であるから他者からの働きかけ(暴力的なものであれ非暴力的なものであれ)は超越論的な自己を傷つけることがないのだ。他者による限定をもたらす会話ではなく、超越論的自己と経験的自己による自己対話が行われ、他者の存在を否応無しに突きつける「固有名」は否定され、外面的な差を示すのみにとどまる数字が多用されていることを指摘している。

 このような状態にある人間をイギリスの精神分析学者RD・レインは以下のように分析し、図式化している。人は身体を媒介して<世界/他者>と接するのであるが、何か問題が生ずると、まず  身体を自己から切り離すことで状況に何とか耐えようとする。この操作によって、「内面の自己」(超越論的自己)は守られることになる。

 

図2

 <自己・身体>⇔<他者・世界>

図3

 <自己>⇔<身体・他者・世界>

 

 図2のように、世界の外、自分の頭の中に逃げ込むことで、内的自己は守られるのであるが、まさに<世界/他者>と接しているところの身体を自己から切り離している。

 では、多くの離人症患者と接してきた木村敏は解離状態をどう意味づけているのか。木村は西田幾多郎『行為的直感の立場』(1965)を足がかりに、解離を“行為的直感の障害”と意味付けている。

 “行為的直感”を説明するために、西田の哲学の前提を理解しておく必要がある。通常だと「私」がいて「もの」を見る、との考え方一般的だが、西田は「もの来りて我を照らす。」という[3]。「私」という存在は世界(もの)の側から照らし出されて明るみに出る。前者の認識は、「自ではないもの」として他を成立させるのに対し、後者は「他ではないもの」として自を成立させると言える。「自己はものの世界から生まれる」のだ[4]。その前提に立つと、自己が自己自身を限定する、とは「自己が絶対の他において自己を見る」[5]ということである。つまり、「他ではないもの」として自を成立させるには、世界の中に多数・無限にある「もの」の中から、「自分」を選びだす必要がある。世界に多数ある「もの」(もう少し一般的な議論に近づけるため「人」といってもよい)の中から、どれが「自分」であるのか、を通常私たちは何の気なしに選び取っている。何故だかわからないが、「これ」が「私」であるということを直観的に選び取っているのだ。その“行為的直観”が働かなくなった、つまり世界の中の無数の「もの」「ひと」から、「私」を選べなくなっている状態が離人症である、と木村はいう。

 1-1で挙げた35歳の男性患者にとっては、鏡を見ている自分と鏡に映っている自分との間に質的な差異はない。そのどちらかが自分なのかは「確率」の問題にすぎない。自分と他人との区別についても同じことで、いまここにいる自分が「たまたま」自分であって他人でないだけのことで、結局は統計的な偶然にすぎない。自己を生きていることの必然性が偶然性にまで相対化されているのだ。

 では、そのような“自己の極度な相対化”という症状は一体何を意味しているのか。

 すべての精神的病と同様に、解離(状態)は「このまま(の状態・環境・関係)では生きていけない」ということを伝えるメッセージであり、生き延びるための戦略だ。彼らの言うことは「自分は世界から疎外されている」、又その裏返しとして「自分がない」ということによる現在自分の置かれている現実を否定することだ。

 外界は自分と関わりなく存在し、自分を害するものとなっている。世界に疎外された「私」は世界(外界)に関わって影響を及ぼすこと・及ぼされることを極度に恐れる。それは解離状態に苦しむ患者が世界に規定・影響されない、孤立した「本当の私」を捜し求めるところから推測される。

 しかし、“私”を外部の規定や他者なしに形成することは不可能なことである。というよりも、外部の規定を無視して自己形成しようとすることこそが現実否定である。離人状態の患者は、世界が“私”を作り、また同時に“私”自身が世界を規定しているのだ、ということを必死に無視しようする。そうすることで、外部からの規定を無視し、他者からの視点がはいることのない自分自身で自己規定することで「あらゆる可能性に開かれた私」、「何物でもありうる私」であることを夢想することを可能にしている。そして同時に、「何物でもありうる私」とは「何物でもない私」であり、世界をひきうけることのできない存在である。

 

 

第2章『海辺のカフカ』と「世界をひきうけること」

 この章では、まず「世界をひきうけること」が明確なテーマとなった最新作『海辺のカフカ』を、引用しながら紹介する(-1)、その後要約を行い、同時に『海辺のカフカ』に対する批評文を通して、与えられたものをひきうけ、世界をひきうけることについて述べる(2-2)

 

2−1『海辺のカフカ』の物語

 主人公は15歳の少年。4歳の頃に母が姉をつれて家を出ていった。少年は自分が母から「ただひときれの言葉さえ残さない」で捨てられた存在であり、父からは、母の子であるという理由で、出ていった母と姉への復讐として、呪詛された存在であることを強く自覚している。

 彼は自分を守るために、生まれたときの名=与えられた名前を棄てる。主人公は3つの呼び名を持つ。与えられた名の「田村」少年、彼の作り出した守護神「カラスと呼ばれる少年」、そしてその守護神に守られ行動する「田村カフカ」だ。自分の中の別人格「カラスと呼ばれる少年」は、自らが作りだした名を持つ「田村カフカ」を、誰からも負けない「世界一タフな少年」になれと力づける。

 彼は自分が選び取ったのではないもの=「与えられたもの」に強く規定されており、そこにとどまることで自分は損なわれ続けると感じている。「与えられたもの」は、物語の中では「予言」や「遺伝子」という形をとっている。

 

「おまえはいつかその手で父親を殺し、いつか母親と交わることになる」(略)「僕には六歳上の姉もいるんだけど、その姉ともいつか交わることになるだろうと父は言った」(上348

 

流し台の鏡に向かい、自分の顔を注意深く眺める。そこには僕が父親と母親から―とはいえ母の顔は全く覚えていないのだけど―遺伝として引き継いだ顔がある。どれだけ強く望んでも、父親から受け継いだとしか思えない二本の濃い長い眉と、その間に寄った深い皺をひきむしってしまうことはできない。そうしようと思えば父親を殺すことはできる(現在の僕の力をもってすれば決して難しいことじゃない)。母親を記憶から抹殺することもできる。でも僕の中にある彼らの遺伝子を追いはらうことはできない。もしそれを追い払いたければ、僕自身を僕の中から追放するしかない。(上17)

 

 少年は15才の誕生日に東京の家から家出をし四国にある私営図書館に住みこみ生活するようになる。司書の大島さんは男装し男が男を愛するように男を好きになる男装した女性だが、生物学的に男ではなく、また男しか罹病しない血友病であるから生物学的女でもない、一般的名称を受け入れない存在として描かれる。図書館の責任者、佐伯さんはカフカ少年の母親である条件を多く持った女性として描かれるが、最後まで仮説は仮説として残り、真実どうかはわからない。彼女も20歳の時に「完全に閉じた・自足した円環」を作りあってきた恋人が殺害されることで、現実の世界から解離して生きるようになった。

 

この人はにこやかに俺たちの顔を見ている。しかし同時に何も見ちゃいない。つまり俺たちをみているんだけど、同時に違うものを見ている。この人は説明をしながら、頭の中でべつのことを考えている。彼女は申し分なく礼儀正しく、親切だった。質問をすれば親切にわかりやすく答えてくれた。しかし彼女の心はそこにはないように見えた。もちろんいやいややっているわけではない、彼女はそのような実際的な役割を的確にこなすことをある部分では喜んでもいる。ただ心がそこにないだけだ。(下271

 

 主人公の記憶がない、まさにその日に父親が四国から遠く離れた東京の自宅でなにものかに殺害された。主人公に残ったのは着ていたTシャツに大量に付着した血だった。困惑する少年を、東京からの長距離バスで知り合った年上の女性、さくらがなだめる。その延長でマスターベーションをしてやるさくらに少年

が言う。

 

「ひとつお願いがあるんだけど」「うん?」「さくらさんの裸を想像していいですか?」彼女は手の動きを止めて僕の顔を見る。「君が、今こうしているときに、私の裸の身体を想像するの?」「そう。さっきから想像する野をやめようと思っているんだけど、どうしてもやめられないんだ。」「やめられない?」「テレビのスイッチが切れないみたいに。」彼女はおかしそうに笑う。「でも、よくわからないな。そんなの黙って勝手にそうぞうしていればいいじゃない。いちいち私の許可をもらわなくたって、君がなにを想像しているかなんて、私にはどうせわかりっこないんだから」「でも気になるんだ。想像するってだいじなことだという気がするし。いちおう断っておいだほうがいいように思ったから。わかるわからないのことじゃなくて」(157)

 

 作品中では「想像」という行為が重要なものとして語られる。

 

僕がなにを想像するかは、この世界にあって恐らくとても大事なことなんだ。(上229

 

 アドルフ・アイヒマンの裁判について書かれた本に触れてもこう述懐する、

 

「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities─まさにそのとおり。逆にいえば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例にみられるように。」(中略)夢の中から責任は始まる。その言葉は僕の胸に響く。(227)

 

人々が僕を非難し、責任を追及している。(略)記憶にないことには責任が持てないんだ、と僕は主張する。そこでほんとうになにが起こったのか、それさえ僕は知らないんだ。でも彼らは言う。「誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中で行われたことに対して君は責任をおわなくてはなない。結局のところその夢は、君の魂の暗い通路を通って忍び込んできたものなのだから」

 ヒットラーの巨大に歪んだ夢の中に否応もなく巻き込まれていった、アドルフ・アイヒマン中佐と同じように。(228)

 

 しかし、責任を考える上で、その責任を発生させる行為を自分が選び取ったか、そうではないのか、ということを考えることを避けられない。

 

「ねえ、大島さん、僕のまわりで次々にいろんなことが起きる。そのうちのあるものは自分で選んだことだし、あるものは全然選んでないことだよ。でもそのふたつのあいだの区別が僕にはよくわからなくなってきているんだ。つまりね、自分で選んだと思っていることだって、じっさいには僕がそれを選ぶ以前から、もうすでに起こると決められていたことみたいに思えるんだよ。僕はただ誰かが前もってどこかできめたことを、ただそのままなぞっているだけなんだって気がするんだ。どれだけ自分で考えて、どれだけがんばって努力したところで、そんなことはまったくの無駄なんだってね。というか、むしろ、がんばればがんばるほど、自分がどんどん自分ではなくなっていくみたいな気さえするんだ。自分が自分自身の軌道から遠ざかっていってしまうような。そしてそれは僕にとってひどくきついことなんだ。いや、怖いっていうほうが近いかもしれない。」(342)

 

 旧作の中でも主人公の独白等の中で見られたこの認識は、以前のように単なる独白で終わることなく、大きな存在感を持ったせた登場人物に仮託して語られる。

「別にわしは善悪は超えてはおらん。ただ関係ないだけだ。何が悪で何が善か、それは私の知ったことではない。私が求めているのはただひとつ、私の扱っている機能を完遂させることだ。私はとてもプラグマティカルな存在なんだ。いうなれば中立的客体だ」(略)「私の役目は世界と世界との間の相関関係の管理だ。ものごとの順番をきちんと揃えることだ。原因のあとに結果がくるようにする。意味と意味とが交じり合わないようにする。現在の前に過去が来るようにする。現在の後に未来が来るようにする。まあ多少の前後はあってもかまわない。世の中に完璧なものなんてありゃしないんだ、ホシノちゃん。結果的に帳尻さえちょんちょんとあえば、私だっていちいちうるさいことは言わない。」(下97

 

「必然性というのは、自立した概念なんだ。それはロジックやモラルや意味性とは別の成り立ちをしたものだ。あくまで役割としての機能が集約されたものだ。役割として必然でないものは、そこに存在するべきではない。役割として必然なものは、そこに存在するべきだ。それがドラマツルギーだ。ロジックやモラルや意味性はそのもの事態にではなく、関連性の中に生ずる」(下103

 

 何が自分の選んだものなのか、何に責任を負うべきなのか迷いつつも、同時に以前の“解離”がメインテーマであった村上自身に言い聞かせるかのような発言が散見する。

 

「目を閉じちゃいけない」ジョニー・ウォーカーはきっぱりとした声で言った。「それも決まりなんだ。目を閉じちゃいけない。目を閉じてもものごとはちっとも良くならない。目を閉じて何かがきえるわけじゃないんだ。それどころか、次に目をあけたときにはものごとはもっと悪くなっている。わたしたちはそういう世界にすんでいるんだよ。しっかりと目を開けるんだ。目を閉じるのは弱虫のやることだ。現実から目をそらすのは卑怯者のやることだ。君が目を閉じ、耳をふさいでいるあいだにも時はきざまれているんだ。コツコツコツとね。」(上252

 

 すでに母なるもの=佐伯さんと交わった少年は、姉なるもの=さくらを夢の中で犯す。予言をすべて実行することで、与えられたものをクリアーしその後に、何物にも規定されない自分自身になろうとする。

 

君はもういろんなものに好き勝手に振りまわされたくない。混乱させられたくない。君はすでに父なるものを殺した。すでに母なるものを犯した。そしてこうして姉なるものの中に入っている。もしそこに呪いがあるのなら、それを進んで引き受けようと思う。そこにある一連のプログラムをさっさと終えてしまいたいと思う。一刻も早くその重荷を背中からおろして、そのあとは誰かの思惑の中に巻き込まれた誰かとしてではなく、まったくの君自身として生きていく。それが君の望んでいることだ(下251

 

 しかし、それは思惑通りにはいかなかったことに後で気付く。

 

「君はそうすることによって、自分にかけられた呪いを乗り越えることができると考えたわけだ。そうだよね?でも果たしてそうなっただろうか?」

でもはたしてそうなっただろうか?君は父なるものを殺し、母なるものを犯し、姉なるものを犯した。君は予言をひととおり実行した。君のつもりでは、それで父親が君にかけた呪いはおわってしまうはずだった。でも実際にはなにひとつとして終わっちゃいない。乗り越えられてもいない。その呪いはむしろ前よりも色濃く君の精神に焼き付けられている。君には今それがわかるはずだ。君の遺伝子は今でもその呪いに満たされている。それは君の吐く息となり、四方から吹く風に乗って、世界にばら撒かれている。君の中の暗い混乱はかわらずそこにある。そうだね?君の抱いてきた恐怖も怒りも不安感も、ぜんぜん消え去っていはいない。それらはまだ君の中にあって、君の心をしつこくさいなんでいる。(下281

 

 絶望し全てを捨てた少年の前に「森」への道が開かれる。15歳の佐伯さんが望んだ「誰の手にもとどかないところ。時の流れのないところ」(下35であり、彼女は15歳のままそこで暮らしている。時間が重要な要素でなく、だれも名前を持たず(「ここでは僕の名前も多分必要ないんだね」彼女はうなずく。「だってあなたはあなたであり、ほかのだれでもないんだもの」下347)。記憶は図書館があつかうことであり、一人一人はその記憶をもっていない。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の言葉を借りて言えば、この「森」に住む人は、記憶を集積し自我の母体となるような“こころ”を持っていない。

 

「いちばん大事なのは、私たちはみんな一人ひとり、ここに自分を溶けこませているということ。そうしているかぎり、なにも問題は起きないのよ」(下374

 

「あなたは森の中にいるとき、あなたはすきまなく森の一部になる。あなたが朝の中にいるとき、あなたはすきまなく朝の一部になる。あなたが雨降りの中にいるとき、あなたはすきまなく雨降りの一部になる。あなたが私の前にいるとき、あなたは私の一部になる。そういうこと」(下375

 

 主人公にとって母は自分を捨てた存在である、というのが厳然たる事実だった。しかし母かもしれない佐伯さんに恋をすることで、佐伯さんという具体的な生をとっかかりに他者への想像力を働かせることができるようになる。そして自分を棄てた母がどのような存在であったのか、について考えはじめる。

 

佐伯さんがどうしてそんなことをしなくてはならないのだろう?彼女がどうして僕を、そして僕の人生を傷つけ損なわなくてはならないのだろう?そこにはきっとなにか、明らかにされていない大事な理由があり、深い意味があったはずだ。彼女がそのときに感じていたことを、同じように感じてみようとする。彼女の立場に寄り添ってみようとする。(下303

 

「君は十分深く傷つきそこなわれてしまった。そして君はこれからもずっとその傷を負い続けることだろう。でもね、それにもかかわらず、君はたぶんこう考えるべきなんだ。君にはまだそれを回復することができるんだってね。君は若いし、タフだ。柔軟性にも富んでいる。傷口をふさぎ、頭をしっかりとあげて、前に進んでいくこともできる。でも彼女にはもうそんなことはできない。彼女はただそのまま失われているしかないんだ。だれがいいとか悪いとか、そういう問題じゃない。現実的なアドバンテージを持っているのは君なんだ。君はそのことを考えてみるべきだ」(下304

 

「いいかい、それはもうすでに起こってしまったことなんだ(略)いまさらとりかえしのつかないことだ。彼女はそのときに君を捨てるべきじゃなかった(略)でも起こってしまったことだ(略)どんなに手を尽くしても、もとどおりにはならない。いいかい、君の母親の中にもやはり激しい恐怖と怒りがあったんだ。今の君と同じようにね。だからこそ彼女はそのとき、君を捨てないわけにはいかなかった」「たとえ僕のことを愛していたとしても?」「そうだよ」「たとえ君を愛していたとしても、君を捨てないわけにはいかなかったんだ。君がやらなくちゃならないのはそんな彼女の心を理解し、受け入れることなんだ。彼女がそのときに感じていた圧倒的な恐怖と怒りを理解し、自分のこととして受け入れるんだ。それを継承し反復するんじゃなくてね。言い換えれば、君は彼女をゆるさなくちゃいけない。それはもちろん簡単なことじゃない。でもそうしなくちゃいけない。それがきみのとっての唯一の救いになる。そしてそれ以外に救いはないんだ。」(下305

 

 物語の最後では、50歳の現在の佐伯さんが「森」に少年に会いに来て、『もとの世界』へ戻るよう主人公に言う。

 

「遅くならないうちにここを出なさい。森を抜けて、ここから出ていってもとの生活に戻るのよ。入り口はそのうちにまた閉じてしまうから。そうするって約束して」僕は首を振る。「ねえ佐伯さん、あなたにはよくわかっていないんだ。僕が戻る世界なんてどこにもないんです。僕は生まれてこのかた、誰かに本当に愛されたり求められたりした覚えがありません。自分自身のほかに誰に頼ればいいのかもわかりません。あなたの言う『もとの生活』なんて、僕には何の意味もないものなんです」「それでもやはりあなたは戻らなくちゃいけないのよ」「たとえそこになにもなくても?だれひとりとして僕がそこにいることを求めていなくても?」「私がそれを求めているのよ。あなたがそこにいることを」「私があなたに求めていることはたったひとつ。あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことをおぼえていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」(下379

 

少年はもとの世界に戻ってくる。そしてこう思う。

 

「逃げまわっても、どこへも行けない」(下410

 

 

 

2−2「ひきうけること」と「自由と責任」

 主人公は多くの与えられたものを背負っている。自分を棄てた母、自分を呪う父、彼らから生まれた自分という存在、また「サウンド・オブ・ミュージックのマリアのような存在」もいない、誰も自分に愛情を注いでくれる存在のない状況など。そこで彼は父や母、与えられた環境とは関わりの無い、自分自身の名前を作り名乗る。庇護し導く存在と、導かれる存在に自分を分裂させ、自分を愛し守っててくれる存在を自分自身で作りだす。福田和也はそのような主人公について、『現実的なもの、具体的なもの』(文学界200211月号掲載)でこう指摘する。主人公においては、「内面的なものと現実的なものの区別はほとんど意味をなさなくなっている(略)夢と現実の区別はもう意味がない」という。しかしそのような状況で生き続けると「自分が修復できないくらい損なわれてしまう」気がしたので、生家(与えられたものの象徴)から逃げ出す。

 しかし彼は最終的には、自分に与えられた自分を損なってきたものを引き受けている。それには想像(力)によるところが大きい。与えられたものを引き受ける想像には二つの段階がある。

 まず第一の段階で、自分に対して理不尽としか思えない仕打ちをした・する存在がなぜ自分に対してそうするのかを想像する。主人公に即して言えば、主人公は自分が父と同じ(であろう)人物に恋をすることで、父の自分にたいする仕打ちを想像し理解できるようになる。

 

「父はあなたのことを愛していたんだと思います。でもどうしてもあなたを自分のところに連れ戻すことはできなかった。というか、そもそも最初からあなをほんとうには手に入れることはできなかったんだ。だから自分の息子でもあり、あなたの息子でもある僕の手にかかって死ぬことを求めたんです」(下111

 

 第二段階で、彼らの経過を理解した上で、自分も同じような立場に置かれたらどうするかを想像する。主人公が母に対して行った想像を加藤典弘は『海辺のカフカと換喩的な世界』(群像20032月号掲載)で以下のように指摘する。「自分を棄てた人間がかつては自分と同じように人に捨てられた人間だったと深く心の底から思い知」り、「自分がもうだれも信じられないと感じる、それとまったく同じ強さでだれをも信じられないと感じ、その結果自分を捨てた」のだと想像し、理解する。自分も同じようにするだろうことを想像し、自分自身は母を責めることのできるようなイノセントな存在ではないのだということを認める。そして母を許す。このように自分の与えられた情況を作り出し、自分自身のイノセンス性を括弧にいれて想像することで、引き受けの土壌ができる。

 また、想像とは異なる視点だが、責任を考えるには運命、宿命、必然性への考察も欠かせない。理不尽な仕打ちをした人間に対して、“そのようにしなくてもよかったのではないのか”、“そのようにすべきではなかったのではないか”、と考えると許しは生まれない。モラルや意味性で考えることなく、「それはもはやそのようにしかならなかったのだ」と認識する必要がある。

 しかし問題は、その「もはやそのようにしかならなかったのだ」という認識を自分自身に適用するかどうかである。主人公は夢で「もはやそのようにしかならない」と、さくらを犯す。しかし、与えられたものを与えられたままにこなすことは、与えられたものをクリアーすることではなく、自分自身が与えられた存在であることを強調することだ。与えられたものを自分で選びなおさなければ、自分という存在を自分で引き受けることはできないのだ。

 「責任は我々が自由である、すなわち自己が原因であると想定した時にのみ存在する。現実にはそんなことはありえない。私がなんらかの意図をもって行動しても現実にはまるで違う結果に終わる場合がある。しかしその時でもあたかも自分が原因であるかのように考える時に責任が生じる。」『倫理21』(柄谷行人・平凡社刊)

 自分でも認識できないくらい複雑な因果性に取り囲まれた人間は自由ではありえない。多くの与えられた規定にしたがって生きている。たしかにそれらは与えられたものだ。しかし、それを自らが選び取っているとし、世界は私が作っている、規定されているその規定さえも自分で選び取っているのだと考える。そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない、でもそうなったのだと受け入れる。そのように自分自身で選んでいるのだとすることにより、はじめて与えられた世界を自分の世界として受け入れることができるようになる。

 

 

結論

 本論文では、まず解離やその状態に在る患者と村上作品の世界・登場人物を比較し、その類似性に注目した。そして解離を超越的自己と経験的自己の結び付きが偶然のレベルにまで相対化されている状態とした。そこには、世界によって“私”が形成され、また同時に“私”自身が世界を規定しているのだ、ということに気付かないようにし、自分を害する可能性を常に持つ他者・外部を排除しようとする意図がある。

 しかし村上の近作『海辺のカフカ』では、やはり解離的世界が描かれるものの、そこからの脱却とその過程が描かれている。与えられた世界を引き受けるには、自分に世界を与えた存在に対する想像力と、自分もその存在と同じことをなし得る存在であるのだという想像力と認識が必要である。また同時に与えられたものを引き受けるには、その受動性を括弧に入れて、他に選ぶ余地のない与えられたものであってもまさに「自分が選んだもの」として、自分自身で選びなおす必要があるのだということをみた。

 

 

参考文献

・村上春樹著作(別紙参照)

・「村上春樹がわかる」AERA Mook

・「解離の技法と歴史的外傷」斎藤環著(ユリイカ3月臨時増刊「村上春樹を読む」所収)

・「村上春樹」日本文学研究論文集成46 若草書房

・「終焉をめぐって」柄谷行人著 講談社学術文庫

・「現代<子ども>暴力論」芹沢俊介著 春秋社

・「精神医学ハンドブック」小此木啓吾編 創元社

・「自覚の精神病理」木村敏著 紀伊国屋書店

・「偶然性の精神病理」木村敏著 紀伊国屋書店

・「引き裂かれた自己」R.D.レイン みすず書房

 



[1] 例えば満員電車の中で私が右隣の人の足を踏んだとしよう。足を踏んだのは私だから、私に足を踏んだ責任がる。しかし、私が足を踏んでしまったのは、私の左隣の人が私を押したからだ。だから私の左隣の人が、足を踏んだ責任がある。しかし私の左隣の人が私を押したのは、その隣の人が左隣の人を押したからだ。このように原因を追求してゆくと延々とその追求が続いてしまう。

[2] 「自己の存在の否定」(1978 木村敏)

 

[3] 「自覚の精神病理」(1978木村)

[4] 「自己の病理と絶対の他」(1987 木村)

[5] 「離人症と行為的直観」(1989 木村)