論文要旨

古来より「祗園祭」は、それぞれの時代の変遷とともにその伝統の形を変化させてきた。しかし、戦後以降の変化は、「観光産業」がその形を変えるのに重要なファクターとなった点で、従来の変更とは一線を画している。本稿では、観光が生み出した独自文化創出に焦点をおいて、祗園祭を対象に史的研究(主に文献調査)を実施する。戦後復興の中で、「国際文化観光都市」とのスローガンをあげて観光産業をメインに発展してきた京都における、観光と伝統のつながりを明らかにしたい。

4章では、祗園祭がどのようにして発生し進化してきたかという概史を追う。八坂神社氏子の繊維商人(町衆)が結成する各町が、祗園祭山鉾の母体となった。この発展経緯は、続章の山鉾町民の意識を理解する上で非常に重要となる。明治維新期、戦前と2つの変革期があることが明らかとなる。

5章では、祗園祭を続けてきた第3期目の変革期、19501960年代における祗園祭を追う。観光客の急激な増加によって、祗園祭は巡行ルート変更など大きな変革を遂げた。祭の中心となる山鉾町民も大幅な変化にさらされてきた。「山鉾町民にとっての祗園祭とは」との命題の下、彼らの心の変遷を『山町鉾町』から追う。

6章では、観光客が集中するようになった京都の観光戦略をひもとく。日本初の「国際文化観光都市法案」を持った京都の自己演出戦略を当時の資料を軸に明らかにしたい。

78章では、実際の伝統変革事例を二つ取りあげて、現代では新たな「伝統」として固定した形の経緯を追う。市観光当局の思惑と、山鉾町民の思惑がそれぞれ複雑に絡み合っての変更を、それぞれの立場から追う。

10章では、創られた現代の祗園祭の現状を俯瞰する。6070年代に変化した祗園祭だが、その後、現代ではどのようになっているのか。1990年半ばからは減少しているとはいえ、日本の一大観光都市として多くの観光客を集めるようになった京都。その伝統をめぐる観光戦略を「おこしやすプラン」から探る。

 

 

 

 

 

キーワード

「伝統の創造」、「観光戦略」、「都市祭礼」、「国際観光文化都市」、「祗園祭」

 

 

 

 


1.     問題設定とその背景

 

 観光産業によって日本の「伝統」祭事である祗園祭はその姿を変えてきたのではないか。

本論はまずこの問いを設定し、戦後の祗園祭の変遷を調査することによって、観光産業が「伝統」を変革させる大きな要因となり得ることを明らかにする。「もはや戦後ではない」ということばが1957年前後に流行したが、そのころから京都の市民生活および景観は大きな変革期を迎えた。また、戦後はこの流れに並行して、祗園祭が「伝統復活」との号令の下その姿を大幅に変えた時期でもある。

伝統とは、「昔からうけ伝えてきた、有形・無形の風習・しきたり・傾向・様式。特に、その精神的な面[1](傍点:引用者)」と定義されている。しかし、私達が常日頃、日本古来の伝統だと信じている行事や風習などのいくつかは、近代化にともなって新たに創られた可能性が高い。ホブズボウム[1992]は「創られた伝統」を「顕在と潜在とを問わず容認された規則によって統括される一連の慣習であり、反復によってある特定の行為の価値や規範を教え込もうとし、必然的に過去からの連続性を暗示する一連の儀礼的ないし象徴的特質[2]」だと規定したうえで、「歴史的な過去との連続性がおおかた架空のもの[3]」であることを指摘している。本稿では、現在の形の祗園祭を完全な「創られた伝統」ならずも、彼が言う「新たな伝統が挿入された」ものとして位置づけることで、時代の変遷にともないその形を変容させてきたとの最初の仮説を検証する。

研究を進めるにあたっては、観光とはいかなるものかとの前提が必要となる。見せ物(ページェント)としての意味合いを持つ「祗園祭」を研究主題とする上で、重要な課題であるとも言えよう。「観光」に関しての先行研究への言及は次章にまわすが、ここでは、本稿が観光をどのように位置づけているかをジョン・アーリの言葉を引用することによって端的に示しておく。彼は、「ツーリストである、ということは『近代的』な経験の特徴の一つである」[J.アーリ[4]1995]と述べ、観光産業自体が近代化に付随して起こったとのスタンスを明らかにする。本稿も彼の議論の上にたつことで、観光を近代以降に起こった現象として位置づけ、祗園祭への影響に関しても、近代以降(本稿では特に戦後以降)を主体に検証する。

観光人類学の分野においては、観光によって新たな伝統が再発見されているという認識を軸に議論が展開している。「当事者は保存と観光のはざまで試行錯誤しながらも、依然として自己の存在理由を獲得するべく(…中略…)(その伝統芸能を)解釈/再解釈しようとしている」[5][橋本:1996]との言葉は、本稿のテーマ「祗園祭の変遷」を最もよく表している。観光の仕掛けを近代化に求め、先達らの広範な近代性の研究と観光産業の研究からヒントを得ることによって、「観光」が伝統にもたらす影響を追究してゆきたい。

また、補足視点として、観光客に向けて主体的に打ち出した京都のイメージを観光人類学の観点を用いて明らかにすることにより、観光客が持つイメージに寄り添う形での伝統の形を為すようになった事実を追究する。「京都に対して持っている雅び、優雅というブランドは、近代、1890年以降にできてくる」[6][高木:2001]との指摘もあるように、京都イメージを最大限に活用した京都市文化観光局の戦略、その戦略の一大要素となった祗園祭を追う。言うなれば、祭りの変容と相互に関係しあう京都の「自己演出」を探り出すことを第二の視点として明らかにする。

 

 

2.     調査対象および調査方法

 

前述で示した問題意識に基づき、調査対象と調査方法を本章では明確にしておく。本稿では、祗園祭に関する歴史書(主に祗園祭山鉾連合会が編纂)や戦後以降の京都新聞、また、祗園祭山鉾連合会が毎年17月に発刊している『山町鉾町』[7]による文献調査を主としている。時代別としては特に、戦後以降の1960年代から1980年代までの文献を中心に調査を進めている。

また、現在の祗園祭は観光産業の影響により多分に変化したものであるとの視点から、具体的な調査対象は以下のように大別した。まず、京都と観光産業の関係性を明らかにするため、@各種歴史文献、A各種統計データ(主に京都文化観光局編集のもの)を用いている。時期的には、祗園祭の最も大きな変更が為された1960年代を軸に追っている。この時期を選んだ理由としては、高度成長経済により観光客の数が激増する時代として、観光が盛んになり始めた時期とも言えるからである。

次に、第二の視点として、祗園祭に関わる人々の意識を探るために、祗園祭に強い思い入れを持つ人々が寄稿する『山町鉾町』を中心としたB各種雑誌類や、山鉾町が独自に編纂した各町のC歴史資料集等を対象として検証を進めている。祗園祭に最も深く関わっているとも言える人々が、観光産業となりゆく祭りは疎いながらも観光化へと突き進む試行錯誤を表す最も端的な例として、ここでは彼らの声がそのまま記されている各種冊子を選定した。また、これらの対象時期としても、1960年〜1970年代のものを中心的に検証している。

さらに、各種の文化財や伝統芸能をウリにする「観光」収入がどれほど戦後復興の中の京都にとって貴重な財源とされたかを示すとともに、日本初の「国際文化観光都市」となりゆく京都とその時代に波にのろうとした祗園祭を追うため、当時のD地方新聞の論調を用いて、議論を深めてゆきたい。

上記で述べた文献を使うことにより、現在では巨大な観光産業となった祗園祭の変遷と、その流れに反発しながらも、「自己の存在理由を獲得すべく(…中略…)伝統を再解釈する」[橋本:1996]山鉾町民の心の一端を追うことができればと考えている。

 

 

3.     先行研究の批判的検討

 

本稿は複合的な二つの視点を軸に展開されている。観光によって変容した祗園祭を明らかにするため、祗園祭の中心的存在とも言える山鉾町民らの観光化にともなう心の変化と、京都市当局の観光戦略がその二つである。先行研究の検討も、上記の二つの要素を念頭においた上で整理してゆく必要があるだろう。以下、どのような研究がこの二点においてなされているかを、拙見した範囲内で検討してゆきたい。

まず、一般的な「祗園祭」をキーワードとした研究は、文化人類学を基調とした「都市祭礼」の観点から実に多く行われている。こうした研究の最たるものとして、京都大学文化人類学教授の米山俊直が行った大規模調査[8]や、増井正哉(奈良女子大学生活環境学部助教授(1994年当時))の調査があげられるだろう。これら二つの研究は、各大学によって編隊された調査グループが長期(主に1[9])にわたって祗園祭の現状を克明に調査する手法をとっており、祭りに関わる人々(主に山鉾町民)を中心として、現状の京都の都市構成および都市環境がどのようなものかを明らかすることを目的としている。

調査対象とする祗園祭の形態、およびその歴史的変遷は上記の米山[19861989]の調査に詳しい。米山が特に追おうとしたのは、現代の京都で祇園祭はどのように実施されているのかという問題であり、伝統行事を受け継ぐ京都町人らの共同体の在り方を検証したものである。彼の「ある国の文化は、その国の都市の文化を理解しない限かぎり、十分に理解したとはいえない[10]」との思いから、都市文化としての祭りの実態を克明に調査したことは、特筆に値する。同じようなスタンスでは、谷・増井[1993]や、田中[1992]、左近・中田[1991]らが、都市空間という視点から祗園祭に関する研究を発表している。上述の研究は、本稿の「観光と伝統祭礼」との問題意識とは多少異なる視点から調査されているが、実際の祗園祭がどのように行われているのかという点で参照した。

これらの研究に共通しているのは、都市空間、都市共同体の変化の検証が、何故そのような形態になったのかとの疑問に対しては、必ずしも充分な説明が為されていないというところである。もちろんこれは、学問分野そのものの研究のスタンスが違うため、上記のような疑問を設定する必要がないからだとも言えるだろうが、吉沢[1999]が指摘するように、観光と伝統祭事のつながりを日本国内で見いだす研究が少なかったことにも起因しているように思われる。

また他にも本稿は、祗園祭が大規模な観光産業化への道を歩み始めた1970年代前半の状況を把握することを目的として増井[1993]らの研究を、一大観光都市である京都を「観光」の視点から研究したものとしての読み直しが可能だと位置づけた。したがって、京都を「観光都市」と見た観点からも、本稿は増井[1993]らの研究を先行研究として参照した。このため、本章でも俎上にのせることとする。その他にも、脇田[1999]の各種文献調査の手法は、祗園祭という伝統祭事をどのように調査してゆくかとの点で大いに参考にした。また、京都のイメージ戦略という観点においては、高木[2001]の議論が的確である。

京都に関しては、各町の政策のとり方や観光による町の移り変わり、京都伝統を概論として俯瞰したものや個々の伝統技能・建築物の探求などの研究が数多く存在する。祗園祭ひとつとってみても、山鉾の由来や装飾品の歴史整理、各資料文献の整理などは既にあらかた行われている。これらは政策的視点や歴史学的観点から為された研究であり、ほとんど言及の余地を残していないとも言えるだろう。ただ、本稿が提起する「観光と祭礼の関係性」を祗園祭から追ったものはまだ見受けられない。観光と祭礼を結びつける形に本稿のオリジナリティを見いだしたいと考えている。

ちなみに、本稿と最も近いところで「観光」の観点から祭事を検討したものには、上記の吉沢[1999]の他に寒川[1999]などの研究があるが、このどちらも新しく創られた祭りを調査対象としており、本稿が目的とする既存祭礼の変遷とは若干異なる。しかし、彼らの用いた「観光産業がいかに伝統ものを創り出すか」との視点は、本稿においても有用なものであり、特に吉沢[1999]の「YOSAKOIソーラン祭り[11]」で使用されている観光当局の政策は、本稿でも活用してゆきたいと考える視点である。

 また、祗園祭とは離れたところで、観光人類学においての「観光」議論を整理することで、本稿の主題となる「観光」の線引きを明確にしておきたい。観光人類学の分野でも諸説ある観光概念を、本稿にどのようにして取り込んでゆくか。こうした課題を念頭に、参考としたのが以下の研究である。

「観光」の定義に関しては、近代以降に発生したものとのJ.デュマズディエ[1981]の議論を拠点とするつもりである。彼は「@余暇が個々人の自由な選択に委ねられることと、A自由時間が労働から明確に切り離されること[12]」の2点を挙げ、産業社会独自のものとして「余暇」の範疇に観光をいれる。

その一方、古代ギリシア、ローマ時代の貴族の田舎散策や、中世社会の巡礼にも観光の要素が見出せるとして、観光を人間本来の「社会・文化複合のあらゆるレベルで、『旅行[13]をともなう余暇行動』として定義される[14]」[D.ナッシュ:●]活動とし捉える動きもある。ただ、この場合、ナッシュの論点はあまりにも多くの社会的行動を「観光」の範疇に入れてしまうため、本稿においては区別して考えたい。本稿においての「観光」は「ある土地の伝統・文化・生活を知るために出かけて行き、現地で何らかの消費行動をすること」と定義する。むろん、観光産業における「伝統創造」過程をより深く追究することが目的となっているからである。

 

 

4.     祗園祭の概史

 

4-1.祗園祭の歴史的変遷

 

4-1-1疫病神を祀る

 祗園祭は、中世京都の町を荒らした疫病退散のための祭りとして始められた。疫病で亡くなった人々の怨念が更なる疫病をもたらすとして、彼らの霊を歌舞芸能の限りを尽くして昇天させようと祇園御霊会と称して始まったという。朝廷が主催した御霊会の最も古い記録は、『三代実録』の中にある863(貞観5)年に神泉苑で行われた御霊会の既述だと言われている[15]。ただ、霊を鎮める御霊会自体は、各地の僧と民衆が一体となって行っており、それが朝廷にまで及んだのが、863年だと考えるのが妥当かもしれない。民間や神社で当時から行われていた御霊会のどれを起源とするかでは、諸説あってまだ定かではない。

祗園御霊絵として始まった祗園祭は、現在はあまり知られていないが、祇園社にいる疫病の神[16](=疫病退散の神)が一年に一度「御旅所」と呼ばれる町中の神社に出てくることを歓迎して、洛下の町々から一体ずつ山や鉾を出し練り歩くのが本来の姿となっている。祭り自体は、「三期の神輿と、それらに付き従った十三本の馬上鉾、五匹の神馬、そのほか獅子舞、巫女の神楽・田楽などからなる[17]」神幸祭が主で、現在のような町々からでる立派な山鉾は南北朝時代まで存在していなかった。最近では、何故か、町々の山鉾が午前9時から練り歩いてから、八坂神社の神が午後4時頃になって町に降りて神幸祭が行われるのが現状である。

現在のような勇壮な山鉾が出現するのは、14世紀半ばの南北朝時代のことである。戦乱期において、町人は自衛の必要に迫られ、結束力を高めるために町ごとの共同体を結成した。後年には、町ごとの共同体は「町組」と呼ばれ、1536(天文5)年の天文法華の乱後には町人達が「町組」を組織したとの記述が、1537(天文6)年の資料によって明らかとなっている[18]。こうした町の結束の象徴として、南北朝時代に山鉾が競ってつくられ、結果として山鉾巡行につながったと考えられている。

脇田は『師守記』という南北朝時代の公卿の日記[19]を取りあげ、「今日祗園御輿迎えなり、定鉾(しずめほこ)例のごとし、御行酉に始まると云々、洪水により浮橋叶わざるの間…」との記述から、当時、既に鉾が巡行するために準備されていたことを指摘している。こうした山鉾の数はだんだんと増加し、応仁の乱の前には前後の祭りあわせて58基にもおよび、足利尊氏はじめ当時の高貴なひとびとも見物に訪れたという。このころから、町人の山鉾巡行は、八坂神社での神幸祭とは離れ出して、「次第に自立した祭礼行事として定着していった」[米山 19863]と言われている。その顕著な例が、天文の法華経一揆の際の町人の要求に表れている。「神事無之共、山鉾渡度」との要求には、山や鉾を建てて町々を巡行する行為は、一切神事ではないとする町人らの思いが込められている。現在の祗園祭の形がこのころから固まりだしたとも言えるのである。

『祗園祭礼図』屏風(大阪市立博物館蔵)には、当時の山鉾巡行の様子が活き活きと描かれている。人が幾人ものってお囃子を奏でている山や鉾が幾体も街路にあふれ、人々は下からその勇壮な姿を見物している。現在の私達が考える祗園祭たる姿がここには描かれている。

 

4-1-2.初めての中断と復興

京都を中心として行われた大戦乱、応仁の乱によって祇園会は中断を強いられた。戦乱自体は10年続いたが、その後の町の復興の遅れなどから、祗園祭の再興は大幅に遅れたという。ようやく祗園祭が復活したのは1500(明応9)年のことであり、この年の巡行には38[20]が参加したというが、応仁の乱前に比べれば極端に少ない。応仁の乱以前の祗園祭の盛況は町に根ざした呉服、材木、生魚などの業者達がつくる座の積極的な参加があってこそだった。しかし、乱後は従来の形態と直結する通りをはさんだ家々を中心とする、下京一円(六十六町とも言われる)の町人主催の祭りとなる。前述の「町組」が姿を現わすのもこの頃であり、京都の町単位の自治・自衛組織はこうして発生してきたのである。

 応仁の乱後、山鉾の形態や山鉾上で行われる出し物は多分に変化した[21]。長刀鉾や白楽天山などは乱後も変わらず同じ町が同様の山鉾を出しているが、現在も続いている油天神山(天神山)や鯉山(龍門山)など、乱後に新しく開発されたものも数多い[22]。当然、無くなった鉾もあれば、同じテーマで全く違う山鉾を出した町もいくつか存在している。

 また、応仁の乱後に新しく始まって現在も続く神事の一つとして、「籤取り」が挙げられる。籤取りは、応仁の乱後初めて行われた山鉾巡行の順番を巡って諍いがおきたため、当時の侍所の役人であった松田頼亮の私宅で籤取りを行ったのが初めとされている。現在もこの神事は、当代の京都市長が裃姿の松田頼亮役として参加するもととして続いている。

 

4-1-3.伝統の始まり

江戸時代にはいると、山鉾の形態や神事などが現在残っているものとほぼ同じものとなり、一定の行事内容に固定されることとなる。山鉾の数も33基と決まり、「大型化や細部・装飾等の洗練が進んだものの、基本的には近世末まで大きな変化は見られなかった」と米山[23]が記すように、現在の祗園祭の基礎となる形が江戸時期にできあがっていることとなる。近世の祗園祭をもっとも詳細に解説しているのは、『祇園御霊会細記』である。ちなみに、本稿の論拠ともなっている脇山の議論はこの細記を軸に行われているものが多い。

比較的平和な江戸時代、祗園祭は日程の変動や少しの行事の変容を別にすれば、毎年滞りなく行われてきた。しかし、そうして行われてきた祗園祭は、幕末から明治維新にかけて、応仁の乱後から初めてかつ最大の危機をむかえることとなる。1864(元治元)年の蛤御門の変に際して、京都の町を焼き尽くすいわゆる「どんどん焼き」が勃発。それにより、多くの山鉾が焼失し、長い間復興できない大きな傷跡を残すこととなった。

また、明治初年に発布された廃仏毀釈の法により、天照(アマテラスノ)大神(オオノカミ)を祀る八坂神社と仏教系の祗園感神院[24]が一体となっていた大社も分裂を強いられ、祭りの伝統は混乱を極める。祭りが復興され始めたのは、その後しばらく経った明治5年からとなった。

 

4-2.祗園祭の現状

1960年代後半から70年代にかけての観光ブームで、祗園祭の集客数は一気に増加することとなった。1989年には祭りが最高潮となる宵山の一日だけで、60万人の人出があり、その期間だけでも祭りは150億円以上の経済効果を生み出す[25]と考えられた。高度経済成長で物質的生活が豊かになってゆくにつれ心の豊かさをも求めようとした社会心理と、人々のニーズに呼応する形でうまれた旧国鉄の「ディスカバー・ジャパン[26]」キャンペーンの存在が、当時の観光ブームの背景にある。「ディスカバー・ジャパン」は、「古き良き日本の発掘」とのキーワードを掲げて、各地に「小京都」を創り出したことでも有名なキャンペーンである[27]。(これらの観光ブームが祗園祭にどのような変容をもたらしたかについての詳細は、次章以降を参照)

 197080年代は盛況だった祗園祭も、90年代の経済低成長によって徐々に停滞の途をたどるようになる。2002717日までの祗園祭全体の集客数は、雨の影響もあってか調査を始めた1970年以降過去最低のたった7万人だったという[28]。(この調査は日本経済新聞が独自に行ったものと思われる。京都府警が調査した公的記録は1968年からである) 

観光収入が減り続けても、祭りにかかる莫大な費用は変わらない。大正から昭和期にかけて好景気だった呉服問屋が多額の寄付をすることでまかなわれていた山鉾町らの財源も、戦後は多くの地元有力企業の寄付金にシフトした。しかし、1990年以降の不況によって寄付金をカットする地元企業も増えた。寄付に代わる新たな財源確保の手段として、山鉾連合会の財団法人化[29]が進められてきた。現在では、全部で32ある山鉾町全てが財団法人となって、その会計状況や会計システムを明らかにしている。

 また、現代では大多数の山鉾町において、古い町並みに代わり高層ビルやマンションが建ち並んでいる。そのため、祗園祭にちなんで屏風を飾る町家を覗いてめぐる屏風祭も、ごく少数の古町家を除いては姿を消してしまった[30]。開発志向の京都市当局の意向と共に、1980年代初めには京都の酒蔵や染工場をつぶして高層ビルに建て替える事業が流行し、祗園祭が依拠する京都の町並みは徐々に変貌していった。

鉄筋ビル建築の流れに山鉾町住民が対抗する例[31]もあったが時代の波に押され、現在は古い町家が一軒も残っていない町も数多い。夜間人口が0の町も少なくなく、こうした町並みの変化[32]からも、町に多数所在するようになった各種企業が中心となって、祗園祭を執り行う例も出てきた。京都の地元企業とも言える京都中央信用金庫と函谷鉾の関係がその好例である。京都中央信用金庫では、祗園祭の専門家を社内に育てるつもりで一体となって祗園祭のバックアップをしているとも言う。

鉾の強制疎開や修理再建、各町の財団法人化などの要因を経て、今もなお、祗園祭を守り抜こうとする山鉾町民の思いは強い。しかし、その「強さ」も近年では多少変化しているのが実情である。加速度的に進む町内の少子化や祭りにかかる費用の莫大さ、町内人口数の減少、マンション建築などで流入してくる外部者の増加などがその要因としてあげられる。山鉾町民の言う「信仰心からの奉仕」だけではとても立ちゆかなくなっている現実がここにはある。こうした山鉾町民らの現実を、米山の1974年のフィールドワークで集められたインタビューをもとに以下に簡単に記しておきたい。

「私らはあくまで信仰のつもりでやってるんですわ。すくなくとも町内に鉾がある間はそうですな。観光(事業)のつもりでするんじゃ、やる気も起こらない。アホらしくて」[33]と、町の古老は話す。しかし、「正直いって、ほんとうに祭りがやりたくてたまらないというような人は千人に一人もおらんでしょう。昔の人にしても、せにゃならんという感じでみなやった。いまは(の若い者は)、もうしたくない、といって手を引いてあっさりやめる。私らみたいなバカがいないとできんことですな(括弧内:引用者)」というような側面も、観光産業化するにつれて出てきているのは確かである。安易な気持ちで参加する(見物する)祭りとしての需要は年々高まっているが、それに反して、伝統の祭りを支える側の意識はかなり変化しているとも言えるだろう。このような声が山鉾町民古老の中からも聞かれるということは、各町の若者の間でも同様の意識が持たれているということだとも言える。

祗園祭に参加するには莫大な費用がかかる。巡行の一日だけでも山鉾を動かすために数千万円[34]かかるとも言われ、山鉾町および保存会の負担は大きい。常に緊迫した財政状況からも、山鉾町民の中には祗園祭を疎む声も出ているという。増井[1999]は、祭実行のため財源確保の目的で設立された町内会および保存会をタイプT、タイプUと分け、町そのものが変化している中で変わりゆく活動形態を調査している。祭りへの思い入れだけでは運営困難な現状がここにも表れている。

菊水鉾[35]を昭和28年に再興した松本元治は雑誌『京都』[36]の中で、いかに山鉾町の負担が大きいかとの例として次のように語っている。「前々から鉾のある町に住みたくてね。それでとうとう室町に住むようになったのですが、ところがその町内には鉾が焼けてなかった。(…中略…)昭和25年だったと思いますが、その(菊水鉾再建の)趣旨を町内の人に話をしたのですが、何しろ大変な金もかかるし、言うなれば気狂い扱いで、なかなか素直に協力してもらえない状況でした。(括弧内:引用者)」山鉾町民には重い負担となる鉾の現実がここにもあると言えるだろう。

米山[1974]のフィールドワークに参加した学生は、「僕自身も、若者の祭りへの参加に対しては、悲観的である。今の祗園祭は、観光客の関心はかっても、(山鉾町内の)若者の関心をとらえるとは思えないのからである(括弧内:引用者)」[37]と語り、祗園祭の未来を案じている。祗園祭の未来に関しては、谷[1991]の議論が詳しいが、現在の姿をそのまま維持してゆくことの難しさが、随所に感じられるものとなっている。

 

 

5.     「信仰か観光か」―信仰としての行事と祭りとしての行事の間で―

 

本章では、祭りの観光産業としての側面を、祭りを担う人々がどのような思いで捉えているかを扱う。現在、祗園祭には約1万人の人々が祭りの実行に関わっている(本論では観光行為自体も参加するととらえているため、ここでは区別することとする)と、言われている。膨大な数の参加者の中でもその関わり方・年齢によって祭りのとらえ方は様々だが、本章では特に最も深く祭りに携わる山鉾町の人々(「長老」)の思いを、雑誌『山町鉾町』[38]から分析する。山鉾町民の中には「観光のために(祗園祭が)犠牲になった」[39]との思いを持つ者も多く、観光産業と形容されることへの抵抗感も根強い。しかし、観光収入無くしては運営困難な状況の下、毎年数多く集い観光客には複雑な思いを抱いていることが明らかとなる。[40]

 

5-1.山鉾町民にとっての祗園祭

 祗園祭は、各通りをはさんで向かいあった「町」と呼ばれる組織が基盤となって行われている。例えば、毎回「籤取らず」で最初に巡行する長刀鉾町は、四条通東洞院西入という四条通をはさんだ町に存在する。各通りが碁盤の目のように配置されている京都では、古来から自宅の前の通りが生活の場となり、その通りをはさんだ「お向かいさん」とのつながりが深かった。こうした町組織が、町の威信にかけて壮麗な「山」や「鉾」を出すことで、祗園祭は彩られてきた。従って、日本三大祭りのうちの一つ祗園祭は、山鉾を何百年も保存受け継いできた「山鉾町民」の力で行われてきたとも言えるのである。事実、山鉾を持つ町の人々(以降「山鉾町民」)の山鉾町民としての意識は強く、祗園祭への思い入れは、町への強い思いへとつながっている。祗園祭は、山鉾町民ぬきには語ることのできない行事である。

その彼らにとって祗園祭とはどのようなものだったのか。これまで述べてきたように、元来、祗園祭は京都町衆の結束の現れとして誕生した。したがって、祗園祭に込める彼ら山鉾町民の思いは非常に強いと思われる。鉾を不思議なものでも見るようにじっと見つめる3才の男の子に、父親が「おまえも大きうなったら、これにのんのやで」と語りかける姿が米山[1974]らの調査によってレポートされている。また、「生まれた時から長老や親から脳味噌にすり込まれて、自分たちの山鉾のみが日本最高のもので、他の町内の山鉾など問題にもならない、と信じ切っていましたし、事実、他の町内の山鉾をうっかり褒めようものなら、ひどく叱られた」[41]との深見茂(現祗園祭山鉾連合会会長)との弁もある

このように山鉾町では、祗園祭を京都町衆の祭りとして、自分たちで運営・継続してゆかなければならいと、幼い頃から教えられた。現在もいくつかの山鉾町では、そのようにいわれている。増井[1999]のデータ[42]によると、各山鉾町は少子化が進むにともなって深刻な高齢化に悩まされている。しかし、祗園祭にかける思いは各町の範囲拡大や町外者の加入など手を変えて、綿々と受け継がれてきた。1992年に京都中央信用金庫がまとめたアンケート結果[43]でも、「祇園祭を身近に見て京都に住んで良かったと思う」「祇園祭は京都にとどまらず日本の誇りである」と八割近い市民が答えている。

 京都に人々の祭りに対する思いは熱く、明治19年コレラ流行のため、祇園会が中止になったときの状況を西岡[1994]が記しているが、人々はお千度と称して毎夜各組から紅提灯を子供に持たせ、行列を繰り出してわいわいと騒ぎ立て、踊り狂ったという。祗園会が中止になったために、これに代わるものが自然に民衆の間から発生したという例で、京都の人々の祗園祭にかける思いを表している例でもある。また、西口[1961]の小説でも描かれるように、「神事これなくとも山鉾渡したし」の心が山鉾町民の誇りとなっている。

 

5-2.信仰のかたち

1960年代後半から70年代にかけて日本では観光が大きなブームとなった。当時の観光ブームの背景には、高度経済成長で物質的生活が豊かになるにつれて心の豊かさを求めようとした社会背景がある。こうした人々のニーズに呼応する形で生まれた旧国鉄の「ディスカバー・ジャパン」[44]キャンペーンの存在も、観光ブームに拍車をかけた。添付資料でも明らかなように、祗園祭の集客数も1970年代半ばから一気に増加することとなる。

 観光客の増大に伴って、祗園祭は徐々にその姿を変えてゆく。その姿は、@観光産業としての直面する問題の解決(第7章)と、A純粋な祭りの復興(第8章)との観点という2点が複雑に絡み合うことによって変更されてゆく。

より完全な形での祭りの復活として、菊水鉾や綾傘鉾、蟷螂山等の再興が次々となされ[45]、純粋な神事に基づくものとして後の祭りに代わり、「花笠巡行」が創られた。こうした祭りの復興は、当事者としての山鉾町民らの努力はもちろんだが、京都市観光連盟からの補助金や、国からの予算補助、また、祗園祭山鉾連合会による巡行経費捻出のための諸施策によるところも大きい。また、観客が多くなることで、安全面や事故時の補償問題に配慮して、粽投げの中止や巡行コースの変更がなされた。

しかし、このような祭りの変化に、山鉾町民は複雑な思いを抱く。そこに著しいのは、「祗園祭は『観光』ではなく信仰である」との意識である。それは、ひいては「祇園祭はあくまで信仰。ショー化には抵抗を感じる」[46]1974/7/16)との囃子方の言葉にもつながっている。ただ、このように山鉾町民が「信仰」と言う際の信仰は、一般で考えられているような宗教信仰の類ではないようだ(もちろん宗教的要素も多分に含むが、ここで強調したいのはそれ以外のものである)。1973年から担当ゼミ生と共に祗園祭を調査し『祗園祭』を出版した米山[1976]が「広い意味の信仰」と形容するように、祭りそのものへの愛着、義務感、祭りに携わる者としての誇り、そして自分の町への強い思いいれが、特殊形態としての「信仰」となり山鉾町民の中に息づいているのである。

このような山鉾町民独特の信仰観が、『山町鉾町』創刊号で行われた座談会には顕著にあらわれている。「子供の頃からまつりのお手伝いをしているが、それを支えているものは、やはり、信仰の力である。町内の大多数も、信仰によって、まつりを行っていると思う。最近、まつりも観光化したといわれるが、十三日の曳き始めの時などは、町内のまつりであるという感じが強くします」[47]というように、信仰と形容されつつも「町内のまつり」としての連帯感が強調されている。また、「義務感というか、にげられないというか、とにかく、このまつりをどうしても全うしなければならないと思って」[48]との思いや、「神さんごとですので(…中略…)よその山鉾に負けないように、落ちないように、毎年、年老いた少ない人数で、がんばって」[49]との神さんごとだからこそ、町をあげて他町に負けぬように奉仕するとの心理がうかがい知れる。

また、長老が「信仰についても、今の若い人も信仰がないかも知れんが、私らの若い頃もほとんど信仰とは無縁であった」[50]と回想するように、彼らの信仰心は若い頃には表れず「年をとってくると、信仰というか、まつりへの信念みたいなものが、自然に身について」くると、していることからも、彼らのまつりへの思いの中心は、宗教信仰よりも祗園祭が体現する町の在り方にあるのかもしれない。実際、『山町鉾町』第2号の「若い人のみた祇園祭」という座談会では、山鉾町に生まれた2030代前後の若者が、祭りに携わっている理由として「まつりが好き」「とりあえずしなければならないといった使命感」と口々に答えている。そこには、長老が持つ奉仕との意識ではなく「まつりへの愛着と逃れられないといった使命感」[51]との、未だ「信仰」には至らない思いが見え隠れする。「三十代になってはじめて、信仰が少しわかりかけてきたような気がしますね。それだけ年をとってきたのかもしれませんが」[52]との言葉が、最もよくその心理を表しているのではないだろうか。

以上のような、山鉾町民の思いが、観光化が著しい祗園祭の在り方に疑問を呈してゆく。「(各地で行政や商工団体などが行う祭りに関して)これらのまつりが、いろいろな問題を何故かかえざるを得ないのかと考えるとやはり、信仰というバック・グラウンドがないからだと思いますね。(…中略…)ショウ的なまつりになってしまう」[53]との発言にあるように、「観光」に対峙する形での「信仰」が、山鉾町民の中にしっかり根をおろすこととなるのである。

 

5-3.「観光のために犠牲になった」

祗園祭の当事者とも言える山鉾町民は、自分たちの祭りである祗園祭が観光ショー化することに対しては、強い不満を持っている。また、観光のために様々な行事が中止され、変更が加えられることに対して、何らかの不服を感じているようだ。それは、彼ら自身の「町のまつり」が全国から来る観光客のために変えられざるを得ない時局への、ある種の抵抗なのかもしれない。彼らの言質を山鉾町民の会誌である『山町鉾町』から更に追って行きたい。

大観衆が押し合って危険だというので1952年に中止された粽投げに関して、山鉾町民の一人はこう語る。「最初、みんな(山鉾町民)のための祭りで、みんなが喜ぶから粽を投げたということがあったわけですけど、規模が大きくなって、観光客が多くなって、規制せざるを得なくなっているということは、何かしら方向が逆な方へ動いているような気がします。全く見せるだけの祭りになってしまったら今後続いていかないのではないかと思うのですけどね。その点からもう一度、原点から洗い直す必要があると思います(括弧内:引用者)」[54] 。この発言は、規模が大きくなるにつれ自分たちの手を離れて観光客のための祭りとなってゆく祗園祭への疑問と言えるかもしれない。ここに民衆(山鉾町民)の祭りと、ページェントとしての(観光客向けの)見せ物の祭りの間で揺れる山鉾町民の姿が浮かび上がるのではないだろうか。

他にも、「観光客がいようがいまいが、高価な裃が今日一日で駄目になろうが、そんなことは念頭をよぎりもしないのです」[55]との発言や、「(祭りには金がかかる。鉦方十年余つとめて笛方になるには最低数万から10万円以上かかる。毎年新調する浴衣や粽の代金など自費に頼らざるを得ない)まして、近年のように京都市の観光行事として祭事とはほど遠いショー的な祭りとして人々がこれを見る時、なおさらこの矛盾は深まるばかり」[56] との意見も、観光産業化する祗園祭と山鉾町民がまつりに対して抱く「信仰」の溝を際だたせる。

事実、「京都以外の人々に対しての宣伝活動は?」との問いに対して、現在の祗園祭山鉾連合会事務局長は「(どちらかと言うと人がいすぎるから観光客を)スムーズに流すため、およびより良く祭りを知ってもらうためのパンフレットづくりが基本。自分たちは『神事』というつもりでやっているのであって、観光事業と言われるとこちらは『違う』という思いがある。」とも答えている。

こうした観光に対する思いは、そのまま町民以外の人々に対する思いにもつながっているようにも感じられる。鉾を曳く学生アルバイトの代わりに、山鉾町民ではない市民からのボランティア参加はどうかとの提案に関して一人の山鉾町民は以下のように答えている。「鉾をひっぱってもらうようなことも必要であるが、その基盤には、やはりお互いに信頼関係をもった組織がなければ意味がないように思います。鉾をひっぱってもらうにしても、雨が降ったら、途中で放り出して逃げてしまうような人では困るわけです」[57]。祭りは自分たち山鉾町人のものであり、「よそ者」の参入には一線ひいておきたいとの意識構図が垣間見られる。そこには、山鉾町民たる誇りと、他の京都市民に「やっぱり本音は『うらやましいなあ』というのがね−。(…中略…)わたしたち、自分のお祭りというものを持ってないから、自分の子供達にもそういう『想い』を持たせてやることもできませんしね」[58]と言わしめる祭りの特別意識も働いていると言えよう。

 

5-4.観光産業を必要とする祭運営の実情

1968年、円山公園内にかねてからの懸案であった山鉾会館が誕生した。山鉾会館内には10室の山鉾所蔵庫の他にショーウィンドー形式の展示室(65u)が設置されている。また、市文化財保護課が観光客や市民に文化財としての理解を深めてもらおうと、1971年から毎シーズンごとに趣向を凝らした展示を催しているのも山鉾会館のウリの一つとなっている。この山鉾会館の観覧料は、各山鉾の修理や再建のためにプールされる。山鉾の重要な装飾品でもある打掛修理ひとつに数千万円かかるため、各山鉾町には寄付金はいくらあっても足りないというのが現状である。

7章で詳しく述べることとなるが、祭のクライマックスとも言える山鉾巡行の観覧券の売り上げも、祭運営の重要な財源である。より多くの席をより高く売るために、京都市観光当局や観光連盟が主体となって、祗園祭の宣伝を繰り広げる。各山鉾町の連合体である祗園祭山鉾連合会は、京都市や観光連盟の要請に応えての「お手伝い」との形をとっているが、観光客集客に重要性を認めている。

 

 

6.     国際観光都市となるまで

 

6-1.大改造から文化観光都市へ

1950年元旦の京都新聞は「この一年、大京都の観光計画」との特集を組み、唯一の非戦災大都市である京都の観光事業活発化を訴えた。ここで問題とされているのは、「天然の環境だけに頼り、人工的にも精神的にも戦後に施策のうたれたものはほとんど見られず旧態依然たる在り方のまま1950年の講和の年の外人に接しようとしている」[59]京都の姿勢である。こうした問題意識のもと行われた座談会では、京都観光連盟会長に始まり京都電鉄社長や大手ホテルオーナーなど、京都の財界人がこれからの観光都市としての京都の姿を論じ合うこととなった。彼らの論議の焦点となったのは、観光都市として大きな収入が見込まれる京都をどのように「改造」してゆくかである。「結局國際観光都市の基本となるものは道路、ホテル、交通機関の拡充整備ということになる」との京都市当局勤務u随クの意見に代表されるように、奈良・滋賀と結ぶ観光道路の完成や、鉄道各路線の更なる充実、そして外国からの観光客を対象とした立派なホテルの建設など、具体的な構想が次々と飛び出すこととなる。

では、京都が目指す観光都市は、いったい誰に向けてうちだされたものなのか。1950年から始まった朝鮮戦争による経済特需で、日本は好景気に沸いていた。「もはや戦後ではない」ということばが流行したのも、このころである。しかし、国民の生活が完全に軌道に乗っていたわけでもない。日本全国が「生きている廃墟」[60]となった戦後復興の中で、国民は日々の生活を取り戻すことに必死であったとも言えよう。J.デュマズディエ[1981]が唱えたように、元来、観光とは生活の中の余暇活動として発生するとすれば、戦後の日本国民の生活の中には、未だ「観光」が可能となる要素が少なかったとも言えるだろう。しかれば、京都が目指す観光都市は、誰に向けられたものなのだろうか。

京都府当局勤務長沢史郎は1950年当時、次のように語っている。「政府はあつちこつちの観光、観光とやかましくいうがわれわれが急いでやる観光は外貨の獲得にあるのだから内知人向の施設は後回しにし(…中略…)西では京都、奈良、滋賀の三縣に重点を置いて(海外からの観光客向けの)一週間や十日はゆつくり遊べるナイトクラブのようなもの、あるいはモンテカルロのようなものを作つていけばいくら金をかけてもすぐ返ってくる」(括弧内:引用者)[61]。また、当時の各路線の観光招致プランも、全て海外からの観光客向けのものばかりとなっている。新京阪・阪急は、「何といってもパン・アメリカン、カナディアン、パシフィック、BOACなど世界有数の航空会社とタイアップした強みで、このルートによる外客誘致は自信満々。(…中略…)港都神戸と観光京都を結ぶ直通特急の実現、これは外客団体には特に快適スピードと乗心地で京都へ運ぶ」と海外向けの事業を展開している。近畿鉄道も同じく、「豪華版志摩観光ホテルの出現だ(…中略…)日本一の魚介料理で純アメリカホテルにする理想だ」と、海外からの渡航客に向けたホテル戦略で、観光都市京都に始まる外貨獲得を狙っている。

1950年当時の京都新聞の紙面には、元旦の特集を受けてか、毎日のように「観光都市」との文字が踊っている。このような観光都市への議論の高まりは、京都を日本初の「国際観光都市」たらしめんとした「京都観光都市法案」の影響が大きいと考えられる。「京都国際都市法案」とは、「(京都は)…延暦十三年遷都以來千年の傳統を持っている古く美しい都である。しかして、修学の機関としては…十指に余る最高学府を有し、人文、自然科学において世界の水準に比して劣りぬものがあり、…あまたの~社佛閣がもつ古美術、國宝など多臼の歴史的美術文化財が存在している」として、「米國の國境を越えたはからいにより戦禍より残された國際観光文化都市であり、これを永遠に建設保存し世界平和に貢献するため」[62]の法律的措置のことを指す。

1950722日、高山京都市長(当時)や一部の熱心な代議士[63]らの働きかけによって、「京都観光都市法案」がGHQ総司令部の多少の修正を経て衆議院に提出された[64]。当日の京都新聞は、その経緯を以下のように記している。「1950720日、総司令部ウィリアムス議会課長と折衡の結果、法案は一部修正の必要があり、京都市側では田中(伊)代議士を中心に急ぎ第三(ママ)の『京都国際文化観光都市の事業計画は本法に基き京都市長これを執行する』及び同條第二項『自治の精神に則り京都市長は前項の計画実現につき不断の努力を携うべきものとする』の事項を追加、一躍自治体の自主性を強調した修正法案を作成(…中略…)ウ課長から『世界的に大切な文化財を焼くな、京都を世界的に美しい都にするため不断の努力をせよ』の激励の言葉と共に承認を得た」(傍点:引用者)。

ここで注目したいことは、総司令部の意向がいかに微細なところにまで及んだという点と共に、「京都観光都市法案」として総司令部に提出された法案が、「京都国際文化観光都市法案」(傍点:引用者)と名を変えている点である。これは、同法案の推進者となった田中伊三次代議士も後に述べているように、最初はレジャー感覚の観光を主軸とした国際的な観光都市構想が、総司令部の意向により文化財を観光の中心と据えた「文化都市と観光都市を併立させた」[65]文化観光都市構想へと変化していったことを示している。同法案構想が練られる以前は、文化財等はさほど重要視されず、手っ取り早い外貨取得を狙う「京都大改造」計画が経済界を占めていた。海外からの観光客に受ける「モンテカルロのような施設建設」[66]が、その思想を端的に示している。しかし、総司令部によって京都大改造構想は修正され、現在の京都が打ち出すような文化都市としての観光戦略をはかるようになったのである。今日の観光都市京都の目玉として、祗園祭が観光産業化しながらもその形を変化させ時代と共に息づいている一端は、当時の総司令部の意向にあったかもしれない。

1950728日午前1015分に開幕した第8回臨時国会によって、第七号議案の京都国際文化観光都市法案はほぼ原案通り[67]可決成立した。超党派[68]の賛成多数をもって大きな議論もないまま、「京都国際文化観光都市法案」は725日の衆議院本会議提出後、「京都国際文化観光都市建設法」となってたった3日でスピード成立したのである。この後、同法は憲法第九十五条による住民投票を経て成立し[69]、同年10月に交付施行された。同法により、緑地地域の指定(19551971、「新都市計画法規定(1968年)」により有名無実となる)や京都会館の建設などが行われた。

 

6-2.ハード面での「国際文化観光都市」へ

京都国際文化観光都市建設法成立を受け、高山義三市長は官民エキスパートを集めた「京都国際文化観光都市建設審議会」を設けた。「都市計画」「文化」「観光」の三部会から構成され、従来の観光計画を総合的に再検討したうえで、新計画を立案し国からの予算を得るため働きだすつもりであった。法案提出時の予算構想としては、「百年計画五千億円の計画」[70]を京都市は有しており、その第一次経費として大まかにみて300億円の経費を見込んでいた。こうした観光経費の財源は、諸税の内外収入や観光収入を当て込んでいたが、それでは足らず、1956年には早くも観光対象となっている社寺等に課す観光税の制定が取りざたされることとなる。

また、法案成立当初はこれからどのような「観光文化」都市を建設してゆくかとの論議が分かれることとなる。人々の抱いていた「観光都市」と「文化都市」が微妙に食い違い、それぞれをどのように両立させてゆくのかが、今後の京都を決めるうえで大きな問題となった。

法案推進者代表であった田中伊三次代議士は、「現在の京都市の姿を最高文化の水準にして行くためにまず数学を最高水準にもって行く事が第一で次に衛生的にも世界にはずかしくない京都にする必要がある。例えば京都に来れば良い音楽も聞ける、蚊やハエもおらず衛生環境も高度で観光、文化両面において世界の誇りである資質を具備することが最後の大きな目標である」と、語り、高山京都市長(当時)も「第一次は十年計画として約三百億円を要する見込み、次第次第にそのスケールを大きくする。最初は総合グラウンド、音楽堂、図書館、動物園など健全な文化娯楽面からやって行くのも好ましい」と、述べている。そこには、文化財修復のための予算や経費は考えられておらず、総司令部の意向とはまた違った形での「文化」と「観光」による混乱が生まれているとも言えるだろう。

一方、市民はこの法案をどう見ていたのか。京都新聞は、「あけすけに言えば、この法案は世論がわき上って市理事者や市議が動いたのではなく、上ででっちあげたというのが真相に近いのであって、事柄が事柄だからまずまず市民も目をつぶって無言の賛意を表しているというのが正しいであろう」と定義づけ、当面の緊急事項は失業者対策であると観光事業を真っ先に削った高山義三市長の方針に、新たに出来た法案は「床の間に据えて模造の菓子でも供えておかずばなるまい」[71]とする。また、当時の各種資料を見ても、京都国際文化観光都市法案が出来て市民が何か行動を起こしたとの記述は未だ見つからない。

「大体、観光というものの考え方がおかしいんで、文化観光都市という言葉自体が気にくわない。こんなことを言ってはしかられるかもしれぬが、われわれは人間がぜいたくにできているよ。湯川君など一食をぬいても、山を見ていたいというゆとりをもっているだろう。(…中略…)泥グツで一日アクセク働かなければならないという立場から見るものとはだいぶん違いますよ」[72] との発言も一部の知識人の間に見られるように、市民は観光とはまったく無縁の状態にいたのかもしれない。

「戦後貧乏なわが國では観光々々とネコもシャク子も唱え、然もその内容はほとんどネオンサイン的な厚化粧と遊興を意味して心ある外客からはむしろ避難の声が起こっている」事実や、「ドル欲しさからしばしば風致を害するような観光計画がみられ」[73]る市の観光事業対策に、市民はようやく無言の賛意を示すだけに留まったのかもしれない。もしくは、日々の生活に追われる者たちにそれほど関係のない事柄として、文化観光都市法案への興味をなくしていたのかもしれない。

民間路線やホテルなどの建設は、時代の流れも受けて、京都国際文化観光都市法案成立以降さらに進んだ。しかし、肝心の市当局の文化観光都市事業は急速には進まず、1952年頃から市民の間で「一向に進まぬ国際文化都市建設」と形容されることとなる。こうした声を受け、1952年度から京都市は本格的に道路舗装事業に乗りだし、堀川、御池、五条の三疎開道路を始めとして未舗装の重要幹線道路の舗装計画を打ち出した。これにより、市電やバス、トラックが往来する幹線道路が舗装され、京都は文化観光都市としての第一歩を踏み出した。

 

6-3.市民憲章制定

京都のハード的な歩みは前節の通りである。しかし、市民は文化観光都市民としての意識を内面化できていたのだろうか。1956年の第二回京都市会議録第四号には、「一面において文化観光都市らしい施設を作ると同時に、そこに住んでいる住民がその文化の香り高い街にふさわしいような市民にならなければ、本当の文化観光都市とは言えない」との高山義三市長の答弁が載っている。戦後、京都は常に世界の文化都市と自らを比較してきた。京都市はパリ・ボストン・ケルン・フィレンチェ・キエフ・西安(提携順)と姉妹都市盟約を結ぶが、これらの都市と同等以上でありたいとの「外部からの目」が、市長を始めとした京都市に市民を教育する焦りを生ませたとも言える。「常に市民に情操を高めていく、そうしてその市民が知らず知らずのうちにだんだん立派な市民になっていくという大きな希望」[74]を実現するため、市長率先の下、市民憲章案が打ち出される。

市民憲章構想は裏返せば、当時の市民がそれだけ「国際文化観光都市の市民」からは遠く離れたところに位置していたことの表れでもある。19562月当時の『市民しんぶん』には、市民憲章成案化にむけての背景が描かれている。市民にイヤな思いをさせない「エチケット」として市民憲章を位置づけ、イヤな思いをさせる行為を対峙して次の様に列挙する。「@通行妨害の自転車 A乱棄されたゴミ B汚された道路 C汚れた公園 D文化財を汚す落書 E質問に不親切な応待 F集会時刻が厳守されないこと G酔っぱらい H立ち小便 Iタンツバの吐き捨て」。以上のような行為が並ぶということは、当時の市民がこのような現状だったということでもある。実際、当時の『京都新聞』や『市民しんぶん』には、連日のように文化財への落書きや、生ゴミの不法投棄による悪臭被害、汚濁した道路で遊ぶ子供、酔っぱらいや商業従事者のごまかし問題が記事を賑わしている。

「世界でも有数の文観都市、京都市の市民としての礼儀―社会的なしつけ―を身につけるには、市民の皆さんの一人一人が勇気と自省心と自尊心を持てば、そうむずかしいものではない」[75]と市民を鼓舞し、海外からの観光客の視線に耐えうるものにしようとした京都市。同年53日に市は市民憲章全文(資料4参照)を制定した。「わたくしたち京都市民は、『美しい町をきずきましょう』『清潔な環境をつくりましょう』『良い風習をそだてましょう』『文化財の愛護につとめましょう』『旅行者をあたたかくむかえましょう』」[76]との五ヶ条からなる憲章は、制定以降、毎年一つの憲章が特化推進テーマとして定められ、市民生活に浸透してゆくことなる。

市民憲章ができるにあたり、「市民憲章に関する懸賞募集」も京都市主催で実施された。ポスター図案や放送劇脚本、標語、クイズなどを賞金をつけて募集し、より市民の間に市民憲章が浸透するように努力した。結果、1959年の正月には、「市電のガラスが一枚も割れなかった」という「京都に市電が走った開闢以来の」快挙を示し、市役所近所の外科医が「今年の正月はケガ人がなくてのんびり過ごせた」との言葉を発するほどになる[77]

市民の間には「おまえら(市が)精神運動なんかやって、東条みたいに思想統制をやらかそうというつもりじゃないか」[78]との声も一部聞かれた。市が構想したという性質上当然の反応かもしれないが、「役所が言い出すからって、内容をみずに逆をとるのは京都に多いケチな根性だ」などという有識者の反論によってその後は声をひそめる。「戦後十年経って(…中略…)そろそろこの辺で市民がこういった(文化観光都市民としての)問題を考えるべきときじゃないか、また市民に考えさすべきときじゃないか」[79]という京都市長の弁から始まった市民憲章は、しかし、市の「押しつけ道徳じゃなく『市民の約束ごと』」との意識にすり替わって市民の間に浸透していった。強いて言うとすれば、京都市民はこのようにして、上(京都市当局)から下りてきた市民憲章によって、京都市民としての定義付けを付されたとも言えるだろう。

 

 

7.     巡行コースの変化―見られる祭りへの変化1

 

 1956年から1971年にかけて、祗園祭の巡行形態は大きな変革を遂げる[80]。祭りのクライマックスとも言える山鉾巡行のコース変更である。また同年、巡行通り沿いに有料観覧席が設けられた[81]。古来からの狭い通りよりもより広くてより集客力のある通りを使うことで、祗園祭は「見られる祭り」としての意識を内面化したともいえる。こうした意識の変化はどのようなプロセスを経て為されたのか、コース変更という政策決定に至るプロセスを山鉾町民の言質から研究することで、「山鉾町の祗園祭」から「世界の祗園祭」[82]としてのプライドを持つまでの経緯を明らかにする。また、そこに含まれる観光客への複雑な思いを前章と関連づける形で分析する。

 

7-1.巡行コース変更までの経緯

1955年、狭い松原通りを巡行中の際、鉾が人家に接触した。記録には詳しく記されていないが、台風の余波で真木が湾曲した放下鉾が接触したとも考えられる[83]。予測できない事故発生の可能性が山鉾町民の間で懸念されることとなった。何らかの事故が起こった際に支払わなければならない補償等が、緊迫した財政状況下にある山鉾町民の不安要素となったのである。

また、「甚大な観光者収容上」[84]の問題もあり、御池通り[85]へのコース変更は急を要するものでもあった。1955年の祗園祭は過去最高の人出でにぎわい、約80万人が巡行を見物したと1955718日付け京都新聞は報じている。観客は異様な熱気に包まれ、巡行に付随してばらまかれた粽は総計30万個、照りつける暑さと人並みに卒倒者も出たという。当時の京都新聞(1955718日夕刊)一面には、押し寄せる観客の波にもまれて巡行する山鉾の姿が紙面上半分を使って掲載されている。その写真を見ても、巡行する山鉾から一定の距離をあけて見物する観客の姿はどこにも見あたらない。誰もが手を伸ばせばすぐ触れるような場所を、人混みの中をかき分けるように山鉾は進んでいるのである。巡行は困難を極め、「多大の労苦と時刻の遅延を来して」[86]いたとも祗園祭山鉾連合会は記す。

こうした熱狂には当然、事故がつきものだ。巡行前日の宵山に関して、京都新聞紙上は「宵山―交通地獄と化す」との記事を載せた。京都各所で、宵山の混雑に伴う交通事故(主に自動車関連)が起きていたのである。山鉾町を管轄内に持つ五条署では全署員を動員して、警戒および整理にあたっていたが、完全にはくい止められなかった。

以上のような要因が重なり、従来の巡行コースの一部であった松原通りをより広い御池通りへとするコース変更の議論が起こったのは当然とも言えるかもしれない。『近世山鉾巡行誌』では、次のようにその経緯をまとめている。「巡行道路の狭隘と観覧者蝟集のため鉾の曳行が著しく困難で事故発生の危険もあり(…中略…)時刻の遅延を来していた」[87]

 古来より「四条烏丸→四条寺町→寺町松原→松原東洞院」と巡行してきた前祭のコースは、1955年に行われた長い論議の末、松原通は通らず御池通りに北上するコースに変更された。しかし、巡行コース変更の決定をしていたにも関わらず、同年1955年にはこのコース変更は実現できなかった。八坂神社清々館において開催された山鉾連合会総会の席上で、このコース変更は山鉾町民による多数意見[88]で決定されながらも同年中には実現ず、祗園祭山鉾連合会の最大の課題ともなった。実現できなかった最大の原因は、神事に重きをおく八坂神社側の意向と、やはり山鉾町民の意識にあったようである。

 「観光行事か宗教行事か」[89]という議論をめぐって激しい議論がたたかわされた1955年を経て、19562月の山鉾連合会総会で17日の巡行コース変更が決定した。事実、その年の7月から山鉾は従来の松原通ではなく、御池通りを北上するようになる。

7-2.祗園祭関係者の思い

1956年の初の御池通巡行は、「600年を誇る巡行の伝統が変えられる」との不安を人々に抱かせた。山鉾の巡行を明日に控えた1956716日の朝には、「新巡行路御池通の途中で殊更に事故を起こそうという動きがある」[90]との噂がとんだ。この噂は、「(旧巡行路巡行に固執する一部の人々が)新巡行路に賛成した山鉾町代表へのイヤガラセにとばした」[91]ものと見られた。山鉾連合会は黙視するわけにもいかず、各山鉾町代表に会長名でガリ版刷りの「緊急通知」を出した。万一の場合に備えて、鉾車の両側には町内の付添者もつくような対策を講じた。

山鉾町民の一人の奏興兵衛(太子山、元祗園祭山鉾連合会副会長)は次のように述懐する。「粽投げの中止と、観覧席の増加のための山の帰町コース変更等、伝統の一つが消え去ることの割り切れなさと、ぶつけ本番でやらねばならない新しい試みに対する気重さもあって、巡行日が近づくにつれ、正直なところ、いま一つ気晴れしないものがありました」[92]しかし、その後、雨にもうたれ山鉾にビニールカバーをかけながらも誰一人巡行をやめようとしない山鉾町民の熱い想いを感じることで、彼は以下のように続ける。「一つ一つ形而された伝統の形式は、それ自体固執するべきではないのです。(…中略…)単に過去の歴史上のものとしてののみ価値づけ、固くなになっていたのでは、失った形式のあとに新しい芽吹きはありますまい。いくたの災害に遭っても、不死鳥のように甦った祇園祭の歴史は、よくそれを私達に教えていると思うのです」

観光客への安全性などの観点から変更された巡行コースや、その流れに伴った観覧席の出現により、多くの山鉾町民が祗園祭の伝統がねじ曲げられたと感じていた。しかし、その反面、巡行行路変更による巡行時間の著しい短縮(23時間)にともなう中食休憩の廃止など、彼らにとってもこのコース変更は有利なものでもあったのである。彼らの中に起こった新たな伝統への理解が、こうした変化を自身に引きつけ内面化することにより、新しい伝統を担う者としての意識をより強くさせたと言えるかもしれない。それは、橋本が指摘する、存在意義を確認するための伝統の再解釈がここでも行われているのである。

 

7-3.市観光当局の思惑

戦後、日本初の国際文化観光都市を目指してその歩みを進めてゆくとき、京都にとって観光産業のさらなる充足は最大の課題となっていた。京都市観光課は19305月に設置され、それ以降1951年成立の京都観光連盟、1960年からは京都市観光協会が発足し、今日の京都の観光戦略をそれぞれ府と市の両面から担っている。このような京都市観光当局の努力は、祗園祭にも及ぶこととなる。「いかにして客を京都に誘引するか、入洛客がいかに満足して離京するか」[93]との命題を抱えて、京都市観光局は観光戦略を繰り広げる。

京都を代表する祗園祭を、京都市民だけではなく全国区に広げることで、その近辺の宿泊や飲食業者、そして土産物屋などの財政状況が緩和される。それらは、ひいては京都市の財政がうるおうことの表れであり、巡りめぐって、祭りへのさらなる援助を可能にさせる狙いで、山鉾町民以下多くの市民と協力して観光戦略を進めていく。

1956年の松原通りから御池通りへの巡行コース変更は、山鉾町民の間でも提案され議論されたが、京都市観光当局としても一考の価値あるものだった。1950年代半ば当時、日本は朝鮮戦争の好景気に沸き、京都および祗園祭への集客数は年々増加の一途をたどっていた(資料89参照)。また、この年には、高山義三市長の熱心な働きがみのって観光税が条令化した。観光補助規則改正もあり、市は広く文化観光財への補助行政に取り組む結果となった。こうした動きの中で、1953年には50万円だった祗園祭協賛会への交付金は、山・鉾全部に5011万円を加えた額が交付され山鉾保存との観点で大いに役立てられることとなる。

 

7-3-1.有料観覧席の設置

増え続ける観光客を迅速かつ安全に誘導するには、従来の松原通りは狭すぎ、新たな観光収入を得る策を練るのも困難な事態となっていたのが当時の現状であった。

巡行コースの変化に伴って、京都市観光連盟は、御池通り南側(烏丸〜寺町間)に天幕ばりの有料観覧席を3,900[94]設けた。当時京都市観光局宣伝課長だった清水千里は、当時の状況をふりかえり次のように述べている。「当時の高山市長の発案を、観光課長の山本稔さんや施設係長の長田繁義さん等が、大変なご苦労の末、実現されたものですが、どうしたことか、宣伝部長だった私には一切の相談がなく、祭りの前日になって、突然、『監督をやれ』という命令でした。(…中略…)アルバイトの学生がちっとも真面目に働かないので、大声でどなりあげたりして八つ当たりしたのを覚えています」[95]。初めての試みでもあり、京都市観光局側でも充分な対応がとれなかったようである。

 19567月発刊の『市民しんぶん』には有料観覧席の広告が大きく掲載された。祗園祭初の公的観覧席は、京都観光連盟を始めに各百貨店、プレイ・ガイド、市観光課、京阪観光社および京都観光社で前月の23日から1200円で前売りされ、当日券は混雑が予想されるため用意されなかった。観覧席そのものは宣伝不足のため、あまり売れなかったが、巡行当日は観覧券を持っていない人々までもが観覧席に押し寄せ、大変な人混みになったと京都新聞は報じている。(観覧券は資料7参照)

初年度は試行錯誤の設置となった有料観覧席も、その後は急速に増え続け1985年には12,000席とまでなって多くの観光客の目を楽しませている。また、最初は観覧席だけの販売だったものが、パンフレットやハガキなどのセットと共に売られるようになり、2,300円で販売されるようになった。

 

7-3-2.祇園まつり音頭

他にも、祗園祭をより京都府民の間に浸透させ府内での観光促進を図るため、1957年に島倉千代子吹き込みによる祇園まつり音頭が作曲された。71日から一枚300円で発売され、「京の新名物に」と市観光当局が牽引役となってその普及に努めている。「『祇園音頭』(資料6参照)のレコードが完成し、その普及をやれという事になりました。そこで、講師に榊原千枝子先生をお願いし、地域婦人会のご協力を得て、今日は左京、明日は伏見と踊りの講習会を続け(…中略…)。最後には、市役所前広場に大きな櫓をくみ、『祇園音頭』による盆踊り大会をやり、非常な盛況でした(括弧内:引用者)」[96]

1957年の『市民しんぶん』は、一夏中、祇園まつり音頭の振り付けを簡単な絵とともに解説したものを載せた。また、清水が言うように、市観光課は主婦を集めた「祇園まつり音頭、盆踊り講習会」を何度も開催した。京都府全域で祇園まつり音頭を用いた盆踊りが踊られ、こども祇園音頭など様々なバージョンを加えて、府民の間に浸透されたが、その後いつの間にか謳われることもなくなり廃止の途をたどることとなる。

 

7-3-3.全国へ向けて

全国へ向けての祗園祭の宣伝も何度か行われた。1954年には、年間観光客数が700万人に増加してきていたが、更なる誘致の手段として、京都市は「祗園祭ポスター3000枚を全国主要都市に掲出方を依頼」[97]し、祗園祭の普及を狙った。

1955610日〜20日には、京都市主催の名目で「東京駅八重洲口広場に月簿子を建て、(大丸百貨店東京店)店内会場では重要文化財の『鯉山飾毛綴』をはじめ、山鉾関係の美術工芸品約70点や、鉾のミニチュアや衣装人形等を展示、店内には祇園囃子を流し(括弧内:引用者)」、また、「宣伝カーに祇園の舞妓さんを乗せ祇園小唄を流して東京市内を宣伝」[98]し、盛況裡に終了したという。このような山鉾の装飾品や技術工芸を山鉾の模型とともに展示する策は、その後も数多く実行され、1970年代前半には、京都駅構内、新幹線ホームに長刀鉾のミニチュアが展示されている。そのホームを通って京都に出入りする修学旅行生がミニチュアとともに記念撮影をすることで有名となり、彼らに京都の祗園祭を強く印象づける一因ともなった。

京都市観光当局は祗園祭に関連した多くのグッズも販売している(現在もいくつかのものが祗園祭グッズとして残っている)。これは、祗園祭遂行にかかる経費捻出の一策として実施された。先ず、1957年の寄付金付き郵便ハガキ(100万枚)が池田遙邨画伯の挿絵付きで、1枚通常5円のところ6円で売り出された。1957年には、復活記念のタバコ150万個が売り出され、前述の祗園祭音頭のレコード(コロンビアより発売)も各地で行われた盆踊り大会の成果あってかかなりの枚数が販売された。

必ずしも京都市観光当局の主催ではないが、その他にも、祗園祭を特集したラジオやテレビ番組が放送されている。これらは、徐々に「完全な伝統」の形を整えつつあった祗園祭の後押しをしたとも考えられる。1955年には京都新聞社が「ミュージカル・バラエティショゥ『ラジオ・メリー・ゴーランド 祗園祭特集公開録音』」[99]を開催している。このような催事はその後も続けられ、1958年には同様の「ミュージカル・お笑いバラエティー『京都はそれをがまんできない』祗園祭特別番組公開記録」[100]を開催、アチャコや江利チエミなど人気どころを集めて盛況を極めた。また、同年のNHKラジオでは「話の手帳 祗園祭のみどころ・ききどころ(AM7:15〜)」が三輪晃勢画伯によって放送されており、717日正午半からはNHKテレビが初めて「ホコ巡行の実況」を放映した。

こうした京都観光当局による観光客増大へ向けての祗園祭の宣伝は、1955年から1961年の巡行コースの変化にともなって最も盛んに行われた。高度経済成長の初期段階に、全国に向けて祗園祭ひいては京都の宣伝をしておくことで、その後の観光客の増大を見込んだのは明らかで、「祭りを盛大に斎行することによって大いに観光客を招来し、旅館をはじめとして多くの観光関係事業者の方々に潤いをもたらしたい」[101]との意図に沿ったかたちで行われたと言えよう。

 

 

8.     「合同巡行&花笠巡行」へ―見られる祭りへの変化2

 

1966年に「先祭(17日)後祭(24日)」と行われていた巡行が一本化され、「合同巡行」として17日に行われることとなった。先祭の山鉾の後に後祭の山鉾が続く形となり、全38基が集合する。一本化の要因としては、一度に全ての山鉾が巡行することで得る更なる観光客の増大[102]、長期にわたる交通規制の改善の2点が主に挙げられる。しかし、古くからの山鉾町の中には一本化に対する根強い抵抗があり、初年度には2基の山鉾が巡行を中止した。後祭に代わり、24日には新しく創られた「花笠巡行」がご神体を八坂神社に帰すためにあくまでも神事として[103]行われることとなった。この新たな巡行は、それまでの町会組織ではなく職能組織で出す花笠や、再発見された鷺舞など芸能中心のものとなっている。この変化を決めることとなった議論を分析することで、いかに観光が祗園祭の基本的形態を変容せしめたのかを追う。

 

8-1.「先の祭り&後の祭り」を一体化した合同巡行への経緯

 

8-2.押し寄せる時代の波と共存する−山鉾町民の思い−

 

8-3.花笠巡行の登場

 

 

9.     観光戦略その後の変遷

 

本章では、京都市が練る観光戦略を分析することで、全国の隠れた観光客に対して祗園祭がどのような形で打ち出されていったのかを、京都市発行のパンフレットを中心に検討する。また、現在、京都市がまとめた「おこしやすプラン」[104]にのって京都の町は変貌している。京都の観光パンフレットも「おこしやすプラン」の流れにのって『ほんもの』を謳い、観光客を集めている。観光客が内包する「ほんもの志向」と、観光される側の「イメージ戦略」の関係性を上記対象物から研究したい。

 

 9-1.変化する山鉾町民の言質

 1980年代に入ると、「信仰」という語に表された伝統にこだわる山鉾町民は数少なくなってきている。毎号のように組まれている座談会でも、発言者が新しい伝統の創造としての祗園祭の変革を自明視しているのが明らかである。第11号(19821月号)で組まれた「ヤングレディーと祗園祭」との座談会の出席者は口々に、新しい鉾の創造や山鉾の女人禁制の廃止[105]、会社組織など部外者の参加などを呼びかけている。また、この座談会で司会を務めた奏祗園祭山鉾連合会副会長も「飾りものも従来の型にとらわれずに、いろんな方面からの芸術を集めて、(…中略…)時代を最高に表現したものを考える。現在の文化財の山鉾も、創造されたときはその時代の最高のものと斬新さを求めた」と新しい祗園祭の姿に対するコメントしている。

 また、山鉾町民自身の中にも変化が見られる。「閉鎖的になったらあかんと思います。祗園祭というのを『私の祭り』という感じでとらえてしまっていて、よその人がきやはっても、ただ観光で見にきやはったというような感じで、一つの枠をつくってしまって、『これは京都人の祭り、町衆がずっと昔からつくりあげてきた祭り』やからという意識があると思います。そこらへんを変えていかんと、祗園祭事態がより小さくなっていくというか、見た目には華やかでたくさんの人がいらっしゃいますけども、なんか、内に籠ってしまうようになってはあかんと思う」[106]という発言はその典型と言えるかもしれない。「信仰か観光か」との大議論の後、山鉾町の若者らは、祭の変化に合わせて自身等の思い入れを変化させてきた。祗園祭の存続との観点で今後の継承を考えたときに、このような思考形態になるのは必至なのかもしれない。

「後がなくなったから、さびしいでしょうと言ったら『いや、私等はこれでいいと思います』と若い方がいわれた。なぜかというと、いまはみな外へ勤めに出ている。後の町は、前の祭のときもだいたい休む。そして後の祭のときにまた休む。サラリーマンではそんなに休みはとれません。それが一回になった、だから自分等はそれでいいんだというわけです」[107]

 

9-2.京都市の観光戦略「おこしやすプラン」

京都市は、「京都独自の観光資源を活用して,更なる創意工夫による飛躍的な展開」を求め、「京都市基本計画」(平成131策定)をまとめた。その中の観光振興のための政策を戦略的に具体化していくため、前期5年間の行動計画として「おこしやすプラン」[108](資料7参照)を策定した。プランには、2005年(平成17年)までに実施又は着手する施策・事業を掲げ、京都市の観光に対する戦略を明らかにしている。
 計画の目標として、
京都市は「建都1200年の歴史と伝統と豊かな自然を守り、次世代に引き継ぎ、これらを背景に文化資源の魅力を活用、創造して21世紀初頭(2010)に年間5000万人の観光客が訪れる我が国を代表する「5000万人観光都市」を実現する」と謳いあげ、このような京都の持つ「『ほんもの』の魅力の再発見,向上を図るとともに,季節に影響されることなく集客できる新しい観光の魅力を創出することによって,一年を通してにぎわいのある観光地の創出」(傍点引用者)をはかることを目的としている。

「おこしやすプラン」の趣旨に沿って、現在の京都は変貌している。京都の各自治体が出版する観光パンフレットなども「おこしやすプラン」の流れにのって『ほんもの』を謳い、観光客を集めている。観光客が内包する「ほんもの志向」と、観光される側の「イメージ戦略」の関係は観光人類学者において盛んに議論されているが、「疑似イベント[109]」ではない形での伝統芸能観光が、京都の祗園祭においては行われている。

 

9-3.「(略称)地域伝統芸能等活用法」(1994(平成4)年施行)

「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律(略称 地域伝統芸能等活用法)」(資料6参照)が平成4626日に施行された。「地域伝統芸能等の実演、地域伝統芸能等に用いられる衣服、器具等の展示その他の方法により、地域伝統芸能等をその主題として活用するもののうち、国内観光および国際観光並びに特定地域商工業の振興に相当程度寄与すると認められるもの[110]」を行事として認定し特別の賛助を与え、更なる観光振興をはかろうという目的で制定された。具体的には、地域に伝統的に受け継がれている神楽、踊り、太鼓、祭礼などの地域伝統芸能等を活用した祭りなどの行事その他の行事を行うことである。

 「地域伝統芸能活用法」が実施されることにより、観光に特化した形での伝統芸能の活用が積極的にされるようになった。宮崎県高千穂町の夜神楽のように、一つのものが「神事」「観光用」に分かれて催される例も増えている[111]。だが、観光と伝統芸能はそもそも切っても切り離せない関係にあり、こうした法律を待たなくても、伝統芸能が近代的な観光活動を通して対象化されたことは明らかな事実である。したがって、この法律が制定されたという事実よりも、伝統芸能を観光資源として対象化する現代の視点そのものが重要となってくる。

 かつて観光ブームの中で「観光資源化してしまうことはよろしくない、文化財として保存しなければならない[112]」とされていた伝統芸能も、一転、観光資源としての活用が奨励されるようになったということは、伝統芸能のより根本に近づいてきたと言うことも出来るかもしれないのである。

 

9-4.形骸化する祭礼形態

 

 

10. 結論

11-1.仮説に対する結論(仮説の実証)

11-2.祗園祭の今後に対する考察

本稿では、観光産業によって変遷せざるを得なかった祗園祭の実態を、中心的役割を担う山鉾町民の言質を軸に追ってきた。純粋な祭りの復活との観点で祭りを復興し、より大きくしていきたいとの当事者の思い。しかし、その思いを維持するためには観光化せざるを得ないとの逆説的な構図が存在する。山鉾町民の「伝統の祭か、観光の糧か」との葛藤は、「山鉾町民」たる彼ら自身の存在理由の根拠を得るため、しばしば「伝統の再解釈」という手法で解決されようとしてきた。また、行政(京都市当局)が京都のイメージ戦略に祗園祭を取り込むことで、祭の伝統を変容させた経緯も明らかにできたかと思う。本稿で俯瞰した変遷も、現在では一つの伝統の形として立派に祗園祭に取り入れられている。巡行コースの変化や花笠巡行、有料観覧席の販売なども、今では「伝統のかたち」として位置づけられているのである。

祗園祭はいったいどのようなものだったのか。「観光か信仰かという競争の前に人間が本来もっているみる・みられるという意識がある、(…中略…)昔だって信仰の中に観光があったわけで、それがなければだれも来ないわけです。観光も広い意味での信仰と考えていただければよいわけです」[森谷:1980]との指摘のように、「観光」か「信仰」かとの葛藤を越えた現代の祭として位置づけてもいいかもしれない。観光の持つ意味と、信仰の持つ意味が重なった祭が、現代になるとどのような経過をたどるかとの好例がこの祗園祭だったのではないだろうか。

1980年代に入ってからは、山鉾町民の間からも祭りの変革を望む声が出ている。1981年の『山町鉾町』の投稿欄「鉾の辻」には、「祗園祭再考」[113]と題する次のような投稿が載った。彼は、「あまりにも伝統を無視した飛躍的な考えと思われるが」と注意書きしたうえで、「町衆の祭(氏子を中心とした)の姿から京都市の観光事業と化した現在、商業地域の長期の交通渋滞もさることながら、(…中略…)四日間で終了できるような方法はないか(…中略…)現在の日程ではあまりにも長すぎ、それだけ費用の面でも人出の面でも負担が多い」と訴える。

どんなに負担が重くても続けていかなければならない祭のため、少しくらいの変更があってもいい、続けてゆくことに意味があるとの意識に、近年の山鉾町民はシフトしている。こうした彼らの意識変化が、今後の祗園祭運営に大きく関わってくることは確かである。「何が伝統のかたちなのか」、この問いはこれからも祗園祭にその答えを求め続けてゆくだろう。その度ごとに、当事者とも言える山鉾町民は「新たな伝統の再解釈」をしながら、祭を変容させてゆくのかもしれない。そして、それが現代における「伝統芸能」のかたちなのである。

 

11-3.本稿の意義と今後の課題

 近年、観光振興を積極的に推進すると共に観光産業をより重要なものにしてゆこうとの動きが盛んになってきた。1994年に施行された「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律」(略称「地域伝統芸能等活用法」)は、各地域に根付いた特定伝統芸能を観光を主題として活用するものには積極的な賛助を与えると定めている。本法律により、観光に特化した形での伝統芸能の活用が積極的にされるようになった。

 観光マーケティングの理論づくりも盛んにされている[114]が、まだ充分ではない。もちろん、こうした研究は本論の問題意識とは異なる視点からなされているが、観光という社会現象が、その目的である「伝統芸能」をいかにして変容させてゆくかというパラドックスを分析することで、これからの観光学に寄与できたのではないかと考えている。ホンモノを求める思考・行動が、いかにホンモノをホンモノではなくならせてゆくのか。その転換を祗園祭を題材に追ったところに意義を見いだせるのではないかと思う。

 しかし、本稿がとった文献調査という手法に関しては不満が残る。山鉾町民の言質から彼らの意識構造を探るとのスタンスにおいては、現状の手法では不足があるだろう。より詳細な言質は、やはりフィールドワークによって得られるものだ。最も明らかにしたい対象が、最も不明瞭なかたちとなって本稿には表されていると言っても良いかもしれない。今後の調査では、違った手法をとることで、より彼らの現実に迫ってゆきたい。

 


 

11.  参考文献

アレン・チュン「国民の創造から想像の国民へ」『思想』岩波書店 19931月号

石森秀三編『二○世紀における諸民族文化の伝統と変容3』ドメス出版 1996

エリック・ホブズボウム/テレンス・レンジャー『創られた伝統』紀伊国屋書店 1992

函谷鉾保存会『函谷鉾町百年史(明治・大正そして昭和)』(財)函谷鉾保存会 2001

『月刊観光』調査部「守る・見せる・楽しむ高千穂の夜神楽」『観光』日本観光協会 19971月号

祗園祭山鉾町の景観を守る会/木賊山町マンション建設対策委員会『京町衆のマンション撃退法』かもがわ出版 1987

祗園祭山鉾連合会『祇園祭』祗園祭山鉾連合会/祗園祭編纂委員会 1976

祗園祭山鉾連合会『近世山鉾巡行誌』祗園祭山鉾連合会 1968

祗園祭山鉾連合会『講座記録祗園祭』祗園祭山鉾連合会 1981

祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 19767月〜19911月終刊

祗園祭山鉾連合会『山町鉾町 特別記念号』祗園祭山鉾連合会 1991

京都市観光局『世論はいかに観光事業および観光産業を見たか』京都市観光局 1948年〜1959

京都市『京都市議会記録』19551957

京都市文化観光局『祗園祭―戦後の歩み―』京都市文化観光局 1967

京都府教育委員会/祗園祭協賛会『祗園祭』不明(自費出版・製本)1962

小松和彦『京都魔界案内』光文社 2002

左近重和/川口純代「京都祇園祭会所飾りの研究」大阪市立大学生活科学部住居学科卒業論文 1991

寒川恒夫「民族スポーツの観光人類学」『体育の科学』日本体育学会 19997月号

佐和隆研/奈良本辰也/吉田光邦他編『京都大辞典』淡交社 1984年初版

白幡洋三郎『旅行ノススメ』中央公論社 1996

進士五十八「『田舎』観光の意義と魅力」『観光』日本観光協会 20017月号

高木博志「京都のイメージはどのようにつくられたか」『伝統の都の近代』(同志社大学人文科学研究所第46回講演会記録)木村桂文社 2001

谷直樹/増井正哉編『まち祗園祭すまい』思文閣出版 1994

谷直樹/増井正哉「都市祭礼にみる伝統とその変容」『都市問題研究』 1993505

玉山あかね「観光とバイオレンス」『体育の科学』日本体育学会 19997月号

丁野朗「近代化産業遺産(モダンヘリティージ)と観光まちづくり」『観光(特集産業観光の発展のために)』日本観光協会 20026月号

デュマズディエ・ジョフリ『レジャー社会学』社会思想社 1981

電通京都支社『祗園祭(年間パンフレット)』京都市観光協会/祗園祭山鉾連合会

西口克巳『祗園祭』中央公論社 1961

日本観光協会『全国観光動向』昭和61年〜平成11年版

橋本和也『観光人類学の戦略』世界思想社 1999

林屋辰三郎『京都文化の座標』人文書院 1985

林屋辰三郎『歴史・京都の芸能』朝日選書

長谷政弘「観光マーケティングの理論と実践」『観光』日本観光協会 20004月号

羽田耕治「産業観光への期待」『観光』日本観光協会 20026月号

ベネディクト・アンダーソン『増補創造の共同体』NTT出版 1997

増井正哉/谷直樹/新谷昭夫/田中敏宏/中村淳「歴史的都心における伝統的共用施設の現代的機能に関する研究」『第27回日本都市計画学会学術研究論文集』1991

松井一郎「観光資源を『売り込む』」『観光』日本観光協会 20025月号

望月照彦「フォーク・ツーリズムの時代が始まった」『観光』日本観光協会 19971月号

山下晋司編『観光人類学』新曜社 2001年(1996年初版)

山上徹『京都観光学』法律文化社 2000

吉沢友雅「創られた観光の踊り(YOSAKOIソーラン祭り)」『体育の科学』日本体育学会 19997月号

米山俊直『祗園祭』中央公論社 1989年(1974年初版)

米山俊直『ドキュメント祗園祭』日本放送出版協会 1983

李承洙「観光にともなうバイオレンス変容」『体育の科学』日本体育学会 19997月号脇田晴子『中世京都と祇園祭』中央公論社 1999

CDI編『京都庶民生活史』京都信用金庫 1973

―――――

『朝日新聞』 昭和元年〜1980年まで

『日本経済新聞』および『日本経済産業新聞』 1975年〜現在まで

『京都新聞』 1950年〜1974

京都市役所『市民しんぶん』(月刊)1953年〜1958年 

その他、読売・産経新聞を検索した結果を要所において

 


12. 資料

 

【資料1】山鉾町の老齢化(元明倫学区内での調査より所収)

 

1980

1985

15歳未満の比率(対 総人口)

14.9%

11.4%

65歳以上の比率(対 総人口)

18.9%

21.4%

     15歳未満の比率に関して言えば、元明倫学区内で1ヶ町あたり7人弱の減少

 

 

【資料2】京都市推計人口

2000年は国勢調査による実績値 2005年から2030年のデータは推計値

(増井のデータを参照して作成)

 

 

【資料3】祗園祭の楽しみなところ(複数回答) 日本経済新聞1992716日夕刊

祭りの雰囲気

54.5%

お囃子

24.4%

浴衣を着ることが出来る

15.5%

アンケート総数386人
※ちなみに、「やってみたいこと」の項目では、お囃子の人気が高い。

 

【資料4】市民憲章全文(『市民しんぶん』19564月号より所収)

わたくしたち市民は、国際文化観光都市の市民である誇をもって、わたくしたちの京都を美しく豊かにするために、市民の守るべき規範として、ここにこの憲章を定めます。

 この憲章は、わたくしたち市民が、他人に迷惑をかけないという自覚に立ってお互に反省し、自分の行動を規律しようとするものであります。

一、 わたくしたち京都市民は美しい町をきずきましょう。

道路・公園などの樹木や草花を大切にして、緑の都をつくるようにすること。まちの調和をみだす広告・看板などを無くして、都市の美観を保つようにすること。道路、広場などをむやみに私用に使わないで、まちの形を整えるようにすることなど。

一、 わたくしたち京都市民は、清潔な環境をつくりましょう。

みだりに汚物を捨てたり、ごみ箱を放置したりなどしないで、蚊やはえの発生を防ぐようにすること。道路・公園などでたん・つばを吐いたりして、まちを不潔にしないようにすること。近隣に迷惑をかける騒音・ばい煙・臭気を出さないようにすることなど。

一、 わたくしたち京都市民は、良い風習を育てましょう。

定められた時間を正しく守り、会合などには遅刻しないようにすること。人の込み合う場所や道路では、秩序を保ち、老幼にはいたわりの心をもって、事故をおこさないようにすること。酔っぱらってまちをうろついたりして、ひとに不快感をあたえないようにすることなど。

一、 わたくしたち京都市民は、文化財の愛護につとめましょう。

伝統文化の理解につとめ、大切に受けつぐ心を養うようにすること。落書などいたずらをして、貴重な文化財に汚損をしないようにすること。たき火やたばこの吸いがらなどの始末をよくして、文化財を火災から守るようにすることなど。

一、 わたくしたち京都市民は、旅行者をあたたかくむかえましょう。

旅行者には親切に応待し、楽しい京都の印象がのこるようにすること。旅行者につきまとったり、不良な土産品を売ったりなどしないようにすることなど。

 

 

【資料5】京都市民憲章の歌(『市民しんぶん』19564月号より所収)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【資料6】祇園まつり音頭(『市民しんぶん』19577月号より所収)

@  姉さん六角たこ錦 祇園囃子がコンチキチン コンコンチキチン コンチキチン

都大路に人並みゆれりゃ 加茂の瀬音も うきうきと ハア うきうきと

A  夜風そよそよ青すだれ 祇園囃子がコンチキチン コンコンチキチン コンチキチン

  稚児によう似た箱入り娘 ちらり宵宮の屏風かげ ハア 屏風かげ

B  魔よけ厄よけ病よけ 祇園囃子がコンチキチン コンコンチキチン コンチキチン

  二十九山鉾十九はあの娘 恋の病はどうどすえ ハア どうどすえ

C  まねく扇で鉾がゆく 祇園囃子がコンチキチン コンコンチキチン コンチキチン

  可愛い舞妓は袂で招く 花の祇園は灯で招く ハア 灯で招く

 

 

【資料71956年の祗園祭巡行観覧券

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【資料8】年間入洛観光客数の推移 

1948年〜1957年の推移は、『市民しんぶん』195810月号より所収

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1986年〜1999年の推移は『おこしやすプラン』より所収

 

 

 

【資料9】祗園祭の人出の推移(京都府警察調べを基に作成

以下、京都市警察調べの現状(『読売新聞』1947/7/18朝刊より)

「『祭りの人出?宵山では、一平方b当たりの人数を、警備の各班長が一時間ごとに調べ、それに全道路面積をかけた上、四条烏丸の監視塔に経ったベテラン警察官が“カン”で修正します。巡行では、道路わきに並んだ人の列をざっと数え、これもベテランが修正して出すんです。一見、科学的だが、実は経験主義にたよっています。人混みの数を正確につかむことは難しい。何かいい方法があったら教えて欲しい。』白井敬一 五条署外勤課長」

 

【資料10巡行コースの変化

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【資料11「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律」抜粋

第1章 総則

(目的)第1条 この法律は、地域伝統芸能等を活用した行事の実施が、地域の特色を生かした観光の多様化による国民及び外国人観光旅客の観光の魅力の増進に資するとともに、消費生活等の変化に対応するための地域の特性に即した特定地域商工業の活性化に資することにかんがみ、当該行事の確実かつ効果的な実施を支援するための措置を講ずることにより、観光及び特定地域商工業の振興を図り、もってゆとりのある国民生活及び地域の固有の文化等を生かした個性豊かな地域社会の実現、国民経済の健全な発展並びに国際相互理解の増進に寄与することを目的とする。

(定義)第2条 この法律において「地域伝統芸能等」とは、地域の民衆の生活の中で受け継がれ、当該地域の固有の歴史、文化等を色濃く反映した伝統的な芸能及び風俗慣習をいう。

2 この法律において「活用行事」とは、観光及び特定地域商工業の振興を目的として実施される行事であって、地域伝統芸能等の実演、地域伝統芸能等に用いられる衣服、器具等の展示その他の方法により、地域伝統芸能等をその主題として活用するもののうち、国内観光及び国際観光並びに特定地域商工業の振興に相当程度寄与すると認められるものをいう。

3 この法律において「特定事業等」とは、地域伝統芸能等の実演等に係る人材の確保、地域伝統芸能等に係る実演等を行うための施設の確保、地域伝統芸能等に用いられる物品の確保、活用製品、宣伝、観光旅行者及び顧客の利便の増進等に関する事業又は措置であって活用行事に係るもののうち、活用行事の確実かつ効果的な実施を図るため、活用行事に関連して実施されるものをいう。

4 この法律において「特定地域商工業」とは、活用行事が実施される市町村(特別区を含む。以下同じ。)の区域における小売業、当該小売業に対し商品を販売する卸売業であって当該活用行事が実施される都道府県の区域におけるもの並びに当該活用行事に係る地域伝統芸能等に用いられる衣服、器具その他の物品及び当該地域伝統芸能等に係る活用製品の製造業であって当該活用行事が実施される都道府県の区域におけるものをいう。

5 この法律において「活用製品」とは、地域伝統芸能等の特徴又は地域伝統芸能等に用いられる衣服、器具その他の物品の特徴を活用して機能及び効用を高めた製品をいう。

 

2章 活用行事の実施等

(基本方針)第3条  国土交通大臣、経済産業大臣、農林水産大臣、文部科学大臣及び総務大臣(以下「主務大臣」という。)は、活用行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する基本方針(以下「基本方針」という。)を定めなければならない。《改正》平11160

2 基本方針においては、次に掲げる事項につき、次条第1項の基本計画の指針となるべきものを定めるものとする。

1.括用行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する基本的な事項

2.活用行事の実施に関する事項

3.特定事業等の実施に関する事項

4.文化財である地域伝統芸能等の保存に関する事項、農山漁村の活性化に関する施策との連携に関する事項その他活用行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する重要事項

3 主務大臣は、情勢の推移により必要が生じたときは、基本方針を変更するものとする。

4 主務大臣は、基本方針を定め、又はこれを変更しようとするときは、関係行政機関の長に協議しなければならない。

5 主務大臣は、基本方針を定め、又はこれを変更したときは、遅滞なく、これを公表しなければならない。

(基本計画)第4条 都道府県は、当該都道府県における活用行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する基本計画(以下「基本計画」という。)を定めることができる。

2 基本計画においては、次に掲げる事項について定めるものとする。

1.当該都道府県における活用行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する基本的な方針

2.活用行事において活用される地域伝統芸能等に関する事項

3.活用行事の実施主体、実施場所、実施期間及び実施内容に関する基本的な事項

4.特定事業等に関する基本的な事項

5.活用行事において活用される地域伝統芸能等のうち文化財であるものの保存に関する事項

6.農山漁村の活性化に関する施策との連携に関する事項

7.その他活用行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する事項

3 基本計画は、基本方針に即するものでなければならない。

4 都道府県は、基本計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、主務大臣に協議しなければならない。

5 都道府県は、前項の規定により主務大臣に協議しようとするときは、あらかじめ関係市町村に協議しなければならない。

6         都道府県は、基本計画を定め、又はこれを変更したときは、遅滞なく、これを公表しなければならない。

 

 

【資料12「おこしやすプラン」(京都市)抜粋

1章 計画の趣旨

観光のグローバル化に伴い,観光振興は国内外において大競争時代に突入している。これまでの京都は,我が国を代表する一大観光中枢拠点を形成してきたが,21世紀においては,京都独自の観光資源を活用して,更なる創意工夫による飛躍的な展開が求められている。
 本計画は,「京都市基本計画」(平成13年1月策定)に示した観光振興のための政策を戦略的に具体化していくための前期5年間の行動計画として策定するもので,2005年(平成17年)までに実施又は着手する施策・事業を掲げるものとする。

計画の目標
京都市は,建都1200年の歴史と伝統と豊かな自然を守り,次世代に引き継ぎ,これらを背景に文化資源の魅力を活用,創造して,21世紀初頭(2010年)に年間5000万人の観光客が訪れる我が国を代表する「5000万人観光都市」を実現する。



[1] 西尾実、岩淵悦太郎、水谷静夫編『国語辞典第四版』(初版:1963年)岩波書店、1992年 p.777

[2] エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャー『創られた伝統』(1992)紀伊國屋書店、2001年 p.10

[3] 前掲書 同ページ

[4] ジョン.アーリ『観光のまなざし −現代社会におけるレジャーと旅行−』平文社、1995年:ブーアスティン、マッカネルらの議論を深め、ポスト・ツーリストのまなざしを手がかりに、観光を生み出すしかけ、まなざしの対象とされた「場所」の変容過程を記している。

[5] 橋本裕之「保存と観光のはざまで」『観光人類学』新曜社 2001年(1996年初版)p.179

[6] 高木博志「京都のイメージはどのようにつくられたか」『伝統の都の近代』木村桂文社 2001年 p.31

[7] 祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 1976年〜1991年(特別記念号含)

[8] 米山が率いる京都大学チームは、1963年〜1966年、そして、1983年〜1986年の二回にわたり祗園祭を調査した。チームを構成したのは、米山の教える「文化人類学実習」クラスを履修した学部生であり、指導のため数名の院生も加わっていた。

[9] 神戸大学の調査では2年にわたった。

[10] 米山俊直『祗園祭 ―都市人類学ことはじめ―』中央公論社 1989年(1974年初版) p.10

[11] 吉沢友雅「創られた観光の踊り ―YOSAKOIソーラン祭り―」『体育の科学』日本体育学会 1999年7月号収録

[12] デュマズディエ・ジョフリ『レジャー社会学』社会思想社 1981年

[13] 旅行に関する研究も数多い。白幡[1996]は「観光」「旅行」「旅」を全て区別し、旅行の時代性を描くことで「大正末期頃から姿を見せはじめた、明るく軽快なイメージをもつ『新文化』だった。旅行は、昭和とともに歩みを始めたそれまでにない新しい文化、人が見つけ、つくり出す生きがい」と定義づける。また、「日本の近代、とくに昭和という時代を捉えてみようとするとき、この時代を映す鏡となり、分析の道具ともなる」とも記している。

[14] 橋本和也『観光人類学の戦略』世界思想社 1999年 p.23

[15] もっとも発生時期については諸説ある。京都大学文化人類学習チームの調査(1986年)によると、960(元禄元)年が最も古いとされている。また、祇園社側の記録では、974(天延2)年からだという。しかし本レポートでは、京都府京都文化博物館常設展示の記述および中世祗園祭に関する論文で最も新しい(1999年)と思われる脇田晴子の記述を用いることとした。

[16] 疫病そのものの神「牛頭天王」が祀られていたが、後世、転じて疫病退散の神となった。その経緯は小松和彦『魔界案内』(光文社、2002年)にも詳しい。

[17] 米山俊直編著『ドキュメント祗園祭』[日本放送出版協会 1986年 p.4] ちなみに、この中の「十三本の馬上鉾」は、現在の山鉾とは異質なものだとされている。詳細な鉾の形態や数などにはまだ議論があるが、それが、馬上役と呼ばれる人々が持ったため必ずしも馬上で掲げられた鉾ではないということは確かである。詳しくは祗園祭山鉾連合会[1968]と五味文彦[1984]の議論を参照にされたい。

[18] 京都府京都文化博物館の常設展示記述より

[19] 南北朝期の1345(康永4)年、祇園会神輿迎え日である6月7日の日記から

[20] 米山俊直著『祗園祭』中央公論社 1989年(1974年初版、引用書は第4版) p.208より

[21] 脇田晴子の研究によれば、大多数の町が同様の山鉾を再興したことが分かっている。しかし、応仁の乱前の山鉾の形態は確実には分からないものも多く、議論の余地が残されている。詳しくは脇田晴子の議論を参考にされたい。

[22] これらに関しては、脇田[1999]が詳しい。

[23] 京都大学文化人類学習レポート、米山俊直編『ドキュメント祗園祭―都市と祭りと民衆と―』1986年 日本放送出版協会 p.5

[24] 祗園感神院に祀られていた仏像などは洛下の京都市中にばらまかれることなった。その詳細は小松和彦の議論(『京都魔界案内』2002年)を参照されたい。

[25] 日本経済新聞データ(日本経済新聞WEBサイトhttp://www.nikkei.co.jpより入手)経済効果に関しては、地元の京都信用金庫が1992年のデータをもとに算出したものを使用

[26] 大阪万国博覧会終了後の1970(昭和45)年から足かけ6年続いた長期キャンペーンである。

[27] 望月照彦「フォ−ク・ツーリズムの時代が始まった―民族観光の可能性を探る―」『観光』日本観光協会1997年1月号所収より参照

[28] 日本経済新聞2002718日号

[29] 祇園祭の財源に関する課題の一つは企業のバックアップの仕組みをいかにつくり出していくかにあった。従来は京都に進出した他府県の企業は祭りに参加しにくいケースが多く、寄付金も集まりにくかった。また、それ以上に深刻な問題だったのが、寄付金の受け手が町単位の任意団体だった点である。任意団体への寄付には税金がかかるため、これが企業の寄付行為を阻み祭りの財政基盤がもろくなる最大の原因だったと考えられ、財団法人化が進められることとなる。

[30] 屏風祭りに関しての詳細は、岩間[1999]に詳しい。

[31] 9階建て27mの高層マンションを建てようとしたリクルートコスモスに対し、木賊山町住民が反対運動を起こし、とうとう白紙撤回まで持ち込んだ希有な例だと言える。翌年、「祗園祭山鉾町の景観を守る会・準備会」が、木賊山町の反対運動で活躍した人々に大学教授や弁護士を加えて発足した。

[32] 京の町並みの変化に関する論文、議論は数多い。増井その他[1992]や、石島・川口[1994]らがその一例である。

[33] 米山[198947

[34] 山鉾の補修などの維持費、巡行費は一つ当たり年間5,000万〜6,000万円かかると言われている。(日本経済産業新聞1992812朝刊)

[35] 蛤御門の変に焼失して以来、長い間存在していなかったものを昭和時代に再建したため、鉾の中でも新しいものとして別名「昭和鉾」とも呼ばれている。

[36] 月刊『京都』1973年7月号(米山『祗園祭』収録)

[37] 米山俊直[1989:35]

[38] 祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』1976年〜1991年 祗園祭山鉾連合会

[39] 林屋辰三郎『講座記録 祗園祭』 祗園祭山鉾連合会 1981年 p.14

[40] 祗園祭山鉾連合会のスタンスとしても、山鉾町の人々の組合(のようなもの?)であって、対外的な運動を対象にしているわけではない。どちらかというとうちうちの集まりであると言える。

[41] 「祗園祭山鉾連合会を支える心」京都市資料情報館WEBサイト(http://www.kyobunka.or.jp)より

[42] 資料1および資料2参照。また、1991年のヒアリング調査では、中学生以下の子供が町内に一人もいないとする町がいくつもあったと言う。(増井[1999]参照)

[43] アンケート総数386人 その他の回答に関しては資料3参照 

[44] 大阪万国博覧会終了後の1970年から足かけ6年続いた長期キャンペーンであった。「古き良き日本の発掘」とのキーワードを掲げて、多くの「小京都」を生み出したことでも知られている。(望月昭彦「フォーク・ツーリズムの時代が始まった」『観光』日本観光協会 19971月号所収より参照)

[45] このような祭りの復活・復興は、更なる観光客の増大を生み出した。山鉾町民は古来の祭りの復活を命題としていても、結果としてそれは祭りをより観光産業たるものとして、京都の中に位置づけたとも言える。「観光」としての祭りに戸惑う山鉾町民の思いも、純粋な祭りの復活という行動を進めていくならば、「観光」たる祭りの在り方と相反することにはならない。これは、第8章でより詳しく述べることとなる。

[46] 宵宵山の囃子方として、囃子が終わり一服した長刀鉾祇園囃子保存会長 石和一夫さん(50)『京都新聞』(1974/7/16朝刊)

[47] 船鉾役員 中西兼治郎(祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 創刊号) p.23

[48] 祗園祭山鉾連合会監事、長刀鉾 土橋治(同上参照) p.23

[49] 祗園祭山鉾連合会理事、月鉾 斉藤慎一(同上参照) p.24

[50] 祗園祭山鉾連合会会長、郭巨山 田中常雄(同上参照)p.24

[51] 孟宗山 佐藤征司(祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 第2号)p.26

[52] 同上参照 p.29

[53] 京都大学学生 川上隆史(祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 第2号)p.29

[54] 猛宗山 佐藤征司(同上参照)p.31

[55] 太子山 秦興兵衛(同上参照)p.41

[56] 長刀鉾囃子方保存会 石和和雄(同上参照)p.49

[57] 南観音山 小島敏郎(祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会19781月号)p.32

[58] 草川八重子(長岡京市・作家・主婦)(同上参照)19787月号 p.22

[59] 『京都新聞』(1950/1/1朝刊 「特集 この年・大京都の観光計画」)

[60] ブルーノ・タウト

[61] 『京都新聞』(1950/1/1朝刊 「特集 この年・大京都の観光計画」)

[62] 田中伊三次(京都自由党代議士)『京都新聞』1950/7/23 第一面

[63] 東井三代治(自、奈良)、田中伊三次(自、京都)ら。京都国際文化観光都市法案が提出されると同時に、奈良の奈良国際文化観光都市法案も提出された。それぞれの推進者が、東井代議士(奈良)であり、田中(京都)である。両県は、協力しながら国際文化観光都市法案の制定を推し進めたのである。

[64] 「京都および奈良国際文化観光都市法案を審議する衆院建設委員会」に提出。22日午後1:00から開かれ、矢島建設省都市局長や吉田大蔵省管財局長、田中角栄代議士(全て肩書き“当時”)の出席を得て可決され、25日の本会議上程をみることとなる。

[65] 田中伊三次代議士『京都新聞』(1950/7/25朝刊 第一面)

[66] 脚注46参照

[67] ここで言う「原案」とは、総司令部とともに折衝し、修正された後の法案のことを指す。

[68] 京都国際文化観光都市法案は、国会では「大モテにモテて」(『京都新聞』1950/7/25)、ワンマン総理として名高い吉田茂首相(当時)も法案成立賛成の署名をしたと言われている。

[69] 投票数193,018票のうち69.5%の賛成(『京都の歴史 第9巻』 p.371

[70] 田中伊三次代議士『京都新聞』(1950/7/23朝刊 第一面)

[71] 『京都新聞』(1950/7/25朝刊 第一面「時言」欄より)

[72] 井島務京大教授(当時) (『京都新聞』1957/1/4 「湯川秀樹(京大教授)との対談特集」

[73] 『京都新聞』(1950/7/24夕刊 第一面)

[74] 『京都市議会記録』第四号(1956/3/10

[75] 『市民しんぶん』19562月号

[76] 『京都新聞』(1956/7/1朝刊 一面広告より)新聞の一面を使って市民憲章を市民にアピールする広告はこの後何度も出てくる。

[77] 『市民しんぶん』(19591月号)

[78] 同上参照

[79] 脚注74参照

[80] 10資料参照

[81] 京都市観光当局が高山京都市長(当時)の発案でつくられる。詳しくは添付資料を参照されたい。

[82] この時期の山鉾町民の議論には、「世界の祭り」としての言論が頻出する。彼らの祗園祭の誇りが世界に対する誇りに変わった時期だとも言えるのではないだろうか。

[83] 祗園祭山鉾連合会『近世山鉾巡行誌』祗園祭山鉾連合会 1968

[84] 福武昇(元京都市助役・観光局長)(祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 第5号)p.8

[85] 1951年から舗装工事が本格的に着手され、1954年には文化観光都市建設の最初のメインストリートとして完成した。その後、疎水路も整理、駐車場も設置される。

[86] 祗園祭山鉾連合会『近世山鉾巡行誌』祗園祭山鉾連合会 1968

[87] 脚注84参照

[88] 祗園祭山鉾連合会[1991]によると、この時の総会では「『時代の要請』ということで、満場一致」と記されている。

[89] 祗園祭山鉾連合会/祗園祭編纂委員会『祗園祭』祗園祭山鉾連合会 1976年 p.31

[90] 『京都新聞』1956/7/17夕刊 

[91] 同上参照

[92] 祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 第2号 p.42

[93] 園部健吉(元市観光局事業課勤務)(同上参照 第9号)p.12

[94] 米山俊直[1983]と清水千里[1976]によると、観覧席は3,900席用意されたいう、しかし、当時の『市民しんぶん』では3,500席となっているため、京都しんぶんに広告を出した後に増席したのかもしれない。

[95] 祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 創刊号 p.23

[96] 清水千里(元市文化観光局長)(祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 創刊号)p.23

[97] 同上参照 p.9

[98] 祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 第5号 p.8 この話には後日談がある。ちょうど宣伝が浅草祭りと重なったため浅草祭りの見物人が宣伝カーの舞妓に群がってしまった。そのため浅草祭りを取りしきる「親分さん」らが、長刀鉾模型を焼き討ちにするといきり立ったというものである。観光当局は必死で火消し衆に取りなしを頼み、何とか事なきを得たとのこと。京都の舞妓が東京のものに負けなかったとの自慢もしくは自負がうかがい知れる談話ではないだろうか。

[99] 『京都新聞』(1955/7/18朝刊)

[100] 『京都新聞』(19587/7/11 広告・告知欄)

[101] 祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 第5号 p.6

[102] 後祭は、宣伝広報も少なく観光客の少ない寂しい祭りであり、山鉾町の多くを占める繊維業者が7月後半から忙しくなるため、先祭に吸収されることとなった。

[103] 合同巡行に強く反対した八坂神社の要請で、神事としての花笠巡行が創られた。合併により観光化してしまった山鉾巡行(合同巡行)へのアンチテーゼであるとも言える。

[104] 「京都独自の観光資源を活用して、更なる創意工夫による飛躍的な展開」を求め、「京都基本計画」(19991月策定)をまとめ、その政策を戦略的に具現化するため、前期5年間の行動指針として「おこしやすプラン」を策定した。

[105] 2001年からは、各山鉾町の判断で祗園祭山鉾連合会に届ければ女性の巡行参加が可能となった。

[106] 祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 第11号 p.31

[107] 祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 第7号 p.21

[108] 「京都独自の観光資源を活用して、更なる創意工夫による飛躍的な展開」を求め、「京都基本計画」(19991月策定)をまとめ、その政策を戦略的に具現化するため、前期5年間の行動指針として「おこしやすプラン」が策定された。

[109] 吉見俊哉「観光の誕生―疑似イベント論を越えて―」『観光人類学』新曜社 2001年 p.25

[110] 資料6参照

[111] 月刊『観光』調査部「守る・見せる・楽しむ高千穂の夜神楽―伝統芸能の保存と観光活用の可能性―」『観光』 日本観光協会 1997年1月号

[112] 橋本裕之「保存と観光のはざまで」『観光人類学』新曜社 2001年 p.181

[113] 木崎泰一(岩戸山)(祗園祭山鉾連合会『山町鉾町』祗園祭山鉾連合会 第9号)p.26

[114] 長谷政弘「観光マーケティングの理論と実践」『観光』日本観光協会 20004月号