慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科卒業論文                             2005/04/10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マンガ表現における児童ポルノ規制問題の基礎研究

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊藤 尭

慶應義塾大学総合政策学部4年

学籍番号 70100935

 

[本稿の要約]

 

 我が国では1999年に児童買春・児童ポルノ禁止法が施行されたが、その前年に提出された同法案には「絵」が規制対象に含まれていた。この「絵」という文言にはマンガ表現が含まれる可能性が秘められている。マンガ表現における児童ポルノは法規制を受けようとしていたのである。また同法改正を経ることで、今現在も法規制を受ける可能性は残っている。このことを本稿では「マンガ表現における児童ポルノ規制問題」と名付け、それに対する世論、規制推進派、規制反対派、購買者の立場の分析を行っていく。

 第一章ではこの問題の概要と、90年代前半に起きた有害コミック問題との接点について説明している。そして有害コミック問題の時に、すでにマンガ表現における児童ポルノ規制のきざしはあったのだと結論づけている。

 第二章では世論、規制推進派、規制反対派の分析を行っている。世論は、規制賛成とも反対ともいえないような状態にあり、公権力の介入について識者とは異なる感覚をもっていることを指摘している。規制推進派としては児童の人権団体やフェミニズム団体が挙げられるが、ここではそれら団体がなぜ/どのようなロジックに基づいて規制を訴えているか等を調べている。規制反対派には一部の児童の人権団体と出版関連団体、マンガ表現の自由を求める団体があるが、ここではそれらが規制に反対している動機等を論述し、さらに後一者についてはインタビュー調査を行うことで、その特徴をより詳細に調べている。

 第三章では独自に行ったアンケート調査の結果をふまえ、現在のマンガ表現における児童ポルノの購買者の実態を探ると同時に、彼らのメンタリティについて議論している。彼らは自らを小児性愛者とは別種の集団として解釈し、しかも性ではなく文化を基礎にした集団と見なしていると結論づけている。

 結論にあたる第四章では、それまでの議論のまとめを行っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[キーワード]

 

児童ポルノ、マンガ表現規制、ロリコン、オタク、小児性愛、有害コミック

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[目次]

 

1.マンガ表現における児童ポルノ規制問題とは

 1−1.児童ポルノ規制問題の概要

1−2.マンガ表現規制における児童ポルノ

2.世論、規制推進派、規制反対派

 2−1.世論

 2−2.規制推進派

 2−3.規制反対派

3.購買者たち

 3−1.購買者の置かれている立場/アンケート調査の説明

 3−2.調査結果の分析

4.おわりに

 

 

 

 

 

 

 

1.マンガ表現における児童ポルノ規制問題とは

 

1−1.児童ポルノ規制問題の概要

 

 児童ポルノとはchild pornoの訳語で、子どもが登場するポルノグラフィー――この中には写真だけでなくビデオ、絵画、ゲームなども含まれる――のことを広範に指し示す言葉である。児童ポルノの消費者は、子どもを性的対象とする小児性愛者/ペドファイル(pedophile)とほぼ一致すると考えられている。この点について異論を唱えることは可能だが、そういった検討は後に細かく行っていくので、さしあたっては用語のみ覚えていただければ結構である。[1]本稿では、児童ポルノのメディアとしてマンガを中心に扱っている。

我が国では、1980年代以降の児童買春ツアーの問題化を背景としつつ、96年にストックホルムで開かれた「子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」で国際的な非難を浴びたことをきっかけとして、児童買春や児童ポルノの法規制の声が高まった。98年に国際刑事警察機構(ICPO)が、子どもサイバーポルノの80%が日本から発信されていると指摘したこともこうした外圧を強めるのに一役買っている。[2]その結果、99年の十一月一日に正式名称「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」、一般的には児童買春・児童ポルノ禁止法または児童買春・児童ポルノ処罰法(以下、児童ポルノ禁止法)と略称される法律が施行されることとなった。

 他の多くの法律と同様に、同法の制定も一筋縄ではいかなかった。98年に法案が発表されて以降、各種団体により児童買春や児童ポルノの規制の是非を巡る論争が勃発したのである。その中の一つに、マンガ表現に関するものがあった。[3]これは当時の法案の規制対象に「絵」が含まれていたことで、一部の児童の人権団体や出版の自主規制団体、マンガ表現規制反対を訴える団体の側から反論が出されて生じた論争である。この論争の構図をおおまかに描くとするなら、規制反対派が「表現の自由」を訴え、規制推進派が「児童の人権保護」を訴えて、両陣営がそこから派生する細かい論点を巡って対立するという形になっていた。

 表現の自由、児童の人権保護。両陣営が用いていた二つの大義の衝突は、マンガという表現ならではのいささか奇妙な様相を見せたといえよう。舞台が他のどのメディアでもなくマンガであったことが、この論争を複雑化させていく最大の要因となったのだ。マンガというキャラクターを通して描かれる表現には、実在の児童が描かれることはないから人権侵害はない、と規制反対派は主張する。それに対抗して、しかしそこで描かれているのも児童には違いないではないか、と規制反対派は主張する。どちらの言い分にも一理あるが、これはマンガという表現形態の特殊性が対立点として表出した結果なのである。この問題がここまではっきりと浮かび上がったケースは、おそらく世界中を見渡してみても稀ではないだろうか。

本稿の意義はここにある。すなわち、大規模なマンガ市場が確立している我が国において、世界に先駆けてあるいは世界で例外的に起こった表現規制問題を分析することで、セクシュアリティ研究をはじめとする様々な研究上に活用可能な独自の問題系を導き出すことができるかもしれない。本稿のタイトルに記された「マンガ表現における児童ポルノ規制問題」とは、ようするにマンガという特殊表現を巡って起こった児童ポルノ規制に関する論争のことだが、そこに存する独自性は十分に研究に値するものである。

 ただし、ここでは論争と書いたものの、実際に規制推進派と規制反対派の間で活発な意見交換や討論が行なわれていたわけではない。2002年の横浜会議――これについては後述する――などいくつかの例外を除けば、各々が単独で法案に対する意見書の提出やメディアへの意見の掲載を行なっており、両陣営の間で一つ一つの論点を巡って文字通りの論争があったわけではなかった。ただ本稿では、それぞれの立場から提示された論理の全体像をよりはっきりさせるために、あえて論争という言葉を用いているのである。

この論争の影響――より詳しくいえば幾つかの団体から提出された意見書等の論点が与党案に対抗する形でつくられた民主党案に盛り込まれたこと――もあって、99年の施行時には「絵」は規制対象の例示から外れることとなった。しかしその後、2001年ごろから始まった同法の改正論議の時にも似たような動きがあり、20047月の改正では規制は免れたものの、マンガ表現における児童ポルノの規制はいまだに論争の的となっている。[4]

この間に起きた大きな出来事といえば、2002年の4月にアメリカの「児童ポルノ防止法」が絵を規制対象にしたことで違憲判決を受けたこと、同年5月に日本政府が「子どもの権利条約」の選択議定書の中の児童買春、売買、ポルノを禁じたものに署名したこと、同年12月に「子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」が横浜で開かれたことが挙げられる。これらは法改正に多大な影響を与えたが、こうしてみると、本件がほとんど海外との関係で動いていることがよく分かる。しかし本稿では、研究対象を絞り込みたかったため、国際問題として児童ポルノ規制問題を論じることはしない。

 本稿では、この問題を国内に限定し、それに関わる様々な立場の分析を試みたい。その立場は世論、規制推進派、規制反対派、購買者の四つに大別されている。この問題と直接関係のない世論、規制推進に動く団体、それに反対する団体、そしてマンガ表現における児童ポルノの購買者たちの四つである。本稿で中心的に扱っているのが最後の購買者という立場であり、これについては独自のアンケート調査も行っている。

 先行研究についてふれておくと、これまで社会学の領域でマンガ表現における児童ポルノ規制問題を題材に扱った研究は、筆者が調べた限りでは存在しない。関連する研究として、赤川学によって書かれた90年代前半に起きた有害コミック問題を題材する論文がある。[5] 赤川はそこで1990年代前半の有害コミック問題を取り上げつつ、性表現規制の論争が子どもの人権を巡る対立として表出していることを指摘し、その言説秩序こそがそれ以前の類似の論争との最大の相違点であるとしている。この議論は、本稿のテーマである「マンガ表現における児童ポルノ規制問題」にもぴたりと適合する。「児童の人権保護」が本件の最大の論点となっていたことは先述したが、この事実を赤川の議論に接合させていうなら、本件は有害コミック問題の時に顕在化しはじめた子どもの人権対立という言説秩序がより露骨に表出した問題だとまとめられる。この意味からも、この問題に有害コミック問題とひきつけて考えてみる価値があることは明らかだが、本稿では本章の第二節を中心として、そのような考察を幾度か試みている。

 ところで、児童ポルノ禁止法の規制対象であるところの「児童ポルノ」とは何だろうか。ここで先立って注意を促しておきたい事が一つある。それは、ここで言われている「児童」は一般的な用法としての児童とは異なるということだ。同法において児童は「18歳に満たない者」と定義されている。したがって、これは児童=小学生という我々が持っているイメージとは異なり、乳幼児から中高生までを対象に含む一種の専門用語だと解すべき言葉である。

例えば近年、我が国では、「女子高生」という社会的属性がポルノ産業において決して小さくない市場を開拓しているが、児童ポルノ禁止法の規制対象にはこのような市場が含まれる。[6]そのように考えてみると、法的な児童ポルノというのはポルノ産業において決してマイナージャンルとは言い切れないものだ。ましてや子ども向けメディアとして出発したマンガならば尚更である。

 それでは、なにゆえにマンガ表現における児童ポルノは規制されねばならないのか。児童ポルノ禁止法の条文には「児童の権利を著しく侵害することの重要性にかんがみ」云々とあるが、実在の児童をもたないマンガ表現においては児童の権利侵害はありえない。[7]したがって、同法によってマンガ表現を規制することはできない。実写性の高い絵画などを別にすると、写真やビデオなどとは異なり、マンガには規制を受ける正当な理由が存在しないのである。ところが、一見完璧に思われるこのロジックだけでは、規制の渦の発生を食い止めることはできなかった。なぜだろうか。児童ポルノはそれを消費した人間に悪影響を与えるという信念が存在するためである。[8]

 一般に、人がポルノグラフィーを消費することで生じる影響については複数の説がある。代表的なものとして浄化効用(カタルシス)説、模倣説などがあるが、それらのうちどれが正しいのかについては研究者の間で定まった評価があるわけではない。[9]ポルノグラフィーの解禁が社会全体にとって利益をもたらすのか不利益をもたらすのかについては、実のところよく分かっていないのである。しかしこのような科学的根拠の有無にかかわりなく、ポルノ消費は悪徳であり犯罪を招き易いと見なされる傾向をもっている。本件についても、「児童の人権保護」というスローガンの背後に、このようなポルノ有害論の潮流の影響が薄っすらと見え隠れしているのが分かる。マンガ表現が規制の対象に含められようとしたのも、こうした潮流の影響があってのことだと考えてよいだろう。

 ともあれ、99年より施行された児童買春・児童ポルノ禁止法で、200312月までに5000人近くの人間が検挙されている。ここから児童買春で検挙されたものを除き、内容を児童ポルノだけに限ってみても、毎年およそ100件から200件ほどの検挙が行なわれていることになる。また警察庁の発表によれば、その間の児童ポルノの被害児童数は429人とある。[10]この数値を見る限りでは、同法は規制のためにそれなりに活用されているといえるだろう。

次にマスメディアや報道について見ていこう。新聞その他のマスメディアは、同法の成立や改正をどのように報道していただろうか。筆者は、インターネット上の検索エンジン「聞蔵」(朝日新聞)「ヨミダス文書館」(読売新聞)で「児童ポルノ」という言葉を含む新聞記事を検索し、そこでヒットした記事群から逮捕記事などを除いたものに一通り目を通してみた。すると以下に述べる事柄をおおよそ把握することができた。各々の記事は複数の論点が渾然一体となっており、援助交際、国際的な児童買春、マンガ等の表現規制、海外事情といった位相の異なる問題に同時に言及していることが多い。なかでも同法成立以前には、援助交際と結び付けられることが少なくなく、同法の「児童買春禁止」の側面が強調されることが多かったようだ。とはいえ、本稿が取り上げている表現規制というテーマも、まったく取り上げられていないわけではなかった。[11]

 一方、雑誌メディアの報道はどうであったかというと、残念ながら、同法が話題になることはほとんどなかったといってよい。雑誌記事のデータベースとして国内有数の蔵書数を誇る大宅壮一文庫の雑誌記事索引を利用して、先程と同じように「児童ポルノ」という言葉で引っ掛かる記事を逐一チェックしていくと、週刊誌に記載されていた「ロリコン」の実態に迫ったルポルタージュといった手合いのものに出くわすことが多く、法律に対する言及やその問題点を論じたものはほとんど見あたらなかった。[12]ほとんど唯一の例外といえるのがメディア批評誌の『創』であるが、こういった雑誌が同法を取り上げる理由は、同法が「表現の自由」に対する阻害要因となるため、メディアの送り手として看過できなかったからだと考えられる。

 さて最後に、インターネットではどのような反響があったのかについて記しておきたい。厄介なことに、インターネットはその特性上、その反響の全体像や規模を客観的に示すことが容易ではない。したがってあくまで筆者個人の見解になってしまうのだが、それを承知で述べるなら、インターネットではこの問題に対する関心が比較的大きな広がりを見せたものと感じられる。規制反対派を中心として、数多くの専用のウェブサイトが開設され、児童ポルノという言葉自体が多くのネットユーザーの間で知れ渡ることになった。かくいう筆者自身もインターネットを通じて本件を知り、関心を深めていったのである。

 インターネットで関心が高まった理由としては、いくつかの仮説が考えられる。コアなインターネット利用者の年齢層と、規制によって被害を被りそうなマンガ消費者の年齢層との一致。インターネットという匿名的な場が性表現規制という正面切って論じ難い問題を扱いやすかったこと。P2P(ピア・ツー・ピア)規制の児童ポルノ規制という名目による合理化が行われていたこと。以上、三点をあげてみたわけだが、このうち特に解説を要するのは最後のP2P規制についてだろう。[13]

これは特にアメリカなど海外で強く見られる動きなのだが、P2Pネットワークによる違法ファイルの共有に業を煮やした企業や団体が、P2Pの違法性を訴えるために「児童ポルノを流通させる温床となっている」という主旨の発言をすることが少なくない。[14]P2P以外にも、IRCというチャットシステムなど、児童ポルノと先端的なIT技術は度々結び付けられている。こういったつながりが、インターネットでの関心の高まりを呼び起こした可能性は少なくないものと思われる。

ちなみにこの時、児童ポルノは許されざる悪事の代表格として槍玉にあげられていることになる。ここから勘付いて欲しいのは、欧米では児童ポルノという存在が世間一般レベルで社会悪として認知されているのではないかということなのだが、この点の検証は本稿の射程を超えているため、はっきりしたことは言わないでおく。

 以上が、児童ポルノ規制問題の概要である。次節ではマンガ表現という観点からこの問題の概観を照らし出すことにしよう。

 

 

1−2.マンガ表現規制における児童ポルノ

 

 マンガ表現を規制する動きは戦後の日本社会において連綿として存在している。1950年代の悪所追放運動、1990年代前半の有害コミック問題などがその代表である。ここではこの系譜の中に児童ポルノ規制問題を位置づけるとともに、より一般的に、マンガ表現全体における児童ポルノの位置づけや、関連する法律等について見ていきたい。

 最初に、子どもを性的対象として描いたマンガのマンガ表現における位置づけについて記していく。注意しなくてはならないのは、マンガ表現の分類としては、年齢的に子どもを性的対象としているか否かはさほど問題ではないということだ。

 数多く出版されている雑誌の中でも、『週刊少年マガジン』『週刊少年ジャンプ』などの少年漫画誌が最大の部数を発行していることはよく知られている。[15]そこに掲載されている漫画は、小学校から高校までの学校が舞台となっていることが多い。それらのマンガを原典として性描写を加えて生み出される同人誌は、必然的に18歳に満たない者が描かれたポルノグラフィー――すなわち文字通りの児童ポルノ―になってしまう。それに加えて、かなりの成年向けマンガが中学校や高校に通う生徒を――「学園」という言葉を用いるなどして巧妙に隠してはいるものの――性的対象として描いている。法律によってそう区分されるところのマンガ媒体の児童ポルノが生まれるメカニズムについては、この程度の認識をもっていただければ、本稿を読み進める上では十分である。端的にいうと、現在刊行されているマンガの多くが、「実在の児童を描いていない児童ポルノ」という枠組みの中におさまってしまうということだ。

 ところが厄介なのは次のことである。ややこしいことに、これらの多くはマンガ表現の分類としての「児童ポルノ」には含まれていない。ロリコンものショタコンものと呼ばれるマンガ表現における「児童ポルノ」は、そういった法的かつ社会的に児童ポルノに分類されるものとは別の枠組みによって存在している。なぜなら、マンガの読み手や描き手の意識上では、登場人物の年齢が何歳であるかということはたいした問題ではなく、登場人物の絵柄が幼くみえるかどうかということが重要だからである。[16]したがって、マンガの読み手や描き手といった当事者たちがもつ「児童ポルノ」の認識と、法的に分類される児童ポルノの認識との間には相当なずれが生じている。どちらかといえば、法的に分類される児童ポルノの方が、当事者たちの考える「児童ポルノ」よりも広域に及んでいることが多いようだ。

 このような認識をふまえた上でいうなら、法的な分類に従う限りでのマンガ表現における児童ポルノは、けっしてマンガ市場においてマイナーというわけではない。とあるウェブサイトの表現を借りれば、「『ドラえもん』のしずかちゃんの入浴シーンさえ禁止」という事態を招きかねないほどに、法的に分類される絵媒体の児童ポルノの定義は広大なのである。[17]それら全てが法的な規制を受けたならば、マンガ業界に与える打撃は致命的なものとなりかねない。

論点を先取りすることになるが、この事実が、出版業界における本件への態度を決定していくことになる。出版業界は、児童ポルノ禁止法によって大きな利益をあげているマンガ市場が縮小してしまうことを危惧し、同法の改正を求める意見書を提出するなどの対策を講じることになるのである。

マンガ表現における児童ポルノの一般的な説明はこれくらいにしておこう。なお狭義のマンガ表現における児童ポルノ、すなわちロリコンものショタコンものについては、第三章の方で細かく説明しているので、ここでは名前を出す程度に留めておく。

一方、外部からの視線を見ると、オタク=ロリコン=犯罪者というイメージの連鎖は今日においても強く存在する。週刊誌などで小児性愛者を取り上げた記事は、多くの場合、同時にマンガ等のオタク文化にも言及している。にわかには信じ難いことだが、我が国においてロリコンといえばオタクであることが多いのだ。[18]これは89年の幼女連続誘拐殺人事件などの報道によって、じわじわと社会全体に浸透したイメージであると考えられる。[19]

この観念は、ある種の盲目性を前提としている。マンガやアニメなどのオタク文化の中で子どもの性描写を含むものがごく一部であることや、ロリコンマンガの消費者全体からみれば実際に性犯罪をおかした人物など極わずか過ぎないことなどは、この観念に対する論理的な反証となるにもかかわらず、けっして意識されることはない。したがってこれは、事実関係から作り出された観念ではなく、例えばテレビ番組の報道の背景画像にロリコンマンガ誌が写されるといったような形で、無根拠な結びつけによって作り出された観念だと考えた方が自然であろう。

整理すると、ここでは二つのことが起こった。一つはロリコンを犯罪者と見なすネガティブなイメージの浸透。もう一つはマンガというメディアがロリコン文化において重要な役割を担っていると考えられるようになったこと。前者は先進国の共通事情といえるが、後者はおそらくわが国特有の連想に違いない。そして両者が結びつくことで、マンガ好きであるとオタクと見なされ、オタクであるとロリコンと見なされ、ロリコンであると犯罪者予備軍と見なされるようになったのだ。このようなイメージの連鎖がメディアを通して作られたことは、本稿のテーマにも大きく影響する。もしかすると、児童ポルノを規制する際にマンガが一つの焦点になったこと自体、このイメージの産物といえるのかもしれない。

 次に、マンガの性表現を規制できる法律や条例をみていこう。マンガの性表現を規制する法としては、刑法第175条、各都道府県に設けられた青少年健全育成条例の二種類がある。前者は「わいせつ」という概念をめぐる性道徳保護の観点から、後者は青少年を有害な表現から遠ざけて非行に走らないようにすべきだという観点から規制を正当化している。児童ポルノ禁止法は、「児童の人権保護」という観点を前面に押し出してる点でこれらとは異なるが、先述したように、この法律は現時点ではマンガ表現を規制することはできない。

実のところ、これらの法律は実際の規制の場面にはあまり用いられない。出倫協(出版倫理協議会)やソフ倫(コンピュータソフトウェア倫理機構)など、メディアごとに設置された業界団体による自主規制という形で、規制は進められているからだ。本稿では法改正をめぐる対立を主軸としているが、実際には、我が国においては法律による規制だけが社会的状況を変える全ての要因ではない。それどころか、出版社などの業界側と自治体や圧力団体などの規制側の間でおこなわれる折衝の方が、法律以上に実際の規制に大きな影響を与えていると考える向きもある。残念ながら、筆者はその辺りの事情を正確に把握しているわけではない。しかし児童ポルノ禁止法ひとつを例にとってみても、同法の制定によって状況が大きく変化したことは事実であるため、本稿が法律を主軸とすることにそれほどの問題はないものと思われる。

続いて、有害コミック問題と児童ポルノ規制問題との連続性について説明をおこなう。有害コミック問題との比較という観点は、本稿に度々表れるモチーフであるから、ここでそれがどのようなものであったかおさえておいてもらいたい。

有害コミック問題というのは、1990年から始まった成年向けマンガ規制のキャンペーンのことである。きっかけの一つに東京都生活文化局が発表した「性の商品化に関する調査研究」があったことで、フェミニズムにおける反ポルノ運動の影響から説明されることもあるが、その元にあったのは青少年を持つ親世代による草の根的な住民運動であった。つまりこの運動は、ありていにいえば、子どもを持つ母親たちによる悪質な性表現から子どもを守るための運動である。

 このとき焦点となっていたのは、「子どもにポルノコミックを見せてよいものか」ということであった。このように書くと、一見、「子どもがポルノグラフィーになってよいか」という児童ポルノ規制の文脈と重なる部分はないかのように思える。しかし事実はそうではなかった。児童ポルノという言葉こそ出ていないものの、この時点で既に「マンガにおいて子どもが性的対象となること」を非難する視点は存在していたのである。 

 例えば有害コミック問題のきっかけとなった、和歌山県田辺市の住民運動の担当者は次のように語っている。

 

  福本 結局、私らは何も難しいこと言ってるんじゃないんです。少年少女をモデルにした、ああいう本だけは親として何とかしてもらいたい。

 

  丁子 とにかく、大人が保護しなければならない子供をモデルにセックスさせることだけはやめてほしい。[20]

 

 一読して明らかなように、少年少女がモデルとなっている性描写を規制したいという気持ちが露骨に表れている。これは子どもの健全育成という観点とはあまり関係のない、子どもを性的な領域に引き込むことそのものへの反発である。「子どもは無垢でなければならない」いうイデオロギーがそのまま表出したもの、と表現することも可能だろう。客観的に見ると、「子どもが成年向けマンガを消費してよいか」という問題と「成年向けマンガにおいて子どもが描かれてよいか」という問題とは、別々に論じられるべきもののように思われる。しかし両者は「子どもを性から排除する」という観点から見れば同種の問題であり、実際そのような見方によってこの二つの規制運動が生じた可能性も考えられる。[21]有害コミック問題と児童ポルノ規制問題とは同根なのかもしれないのだ。

ここで強調したかったのは、「児童の人権保護」という観点による子どもを描いたマンガの性表現規制が現実味を帯びてきたのは90年代後半からだったとしても、90年の時点で既にその流れを生み出すようなメンタリティが存在していたという事実である。このことをふまえるなら、マンガ表現規制の歴史において児童ポルノ規制問題というのは、けっして周辺に位置してきたわけではなかったといえよう。90年代後半に受けた外圧がきっかけとなって法案が生まれ、その法案を叩き台とする具体的な論争がはじまったとしても、その火種は我が国の内部にすでに眠っていたのである。

 

 

2.世論、推進派、反対派

 

 2−1.世論

 

 第二章と第三章では、具体的にそれぞれの立場がこの問題に対してどのように関わってきたのか、どのような態度を示しているのかといった論題を扱っていく。まずは世論の分析から始めよう。

 内閣府大臣官房政府広報室は20028月に「児童の性的搾取に関する世論調査」を行っている。20028月というのは、ちょうど児童ポルノ禁止法の改正論議が進められている時期でもある。この調査を参考にすることで、この問題に関する世論をおおまかに把握することが可能だ。

この調査によると、絵画やイラストとして表された「児童ポルノ」――モデルが存在するものとしないものがあります、という断り書きが付してある――を規制すべきかという設問に対して、「規制すべきだと思う」または「どちらかといえば規制すべきだと思う」と答えた者が76.2%存在したという。対象を15~17歳の男性に限定すれば48.2%まで下がるが、以前として多くの人々が絵画における児童ポルノの規制を支持していることが分かる。しかし、絵画とマンガとではモデルの有無という大きな差異が存在するために、マンガ表現という枠組みでの世論をここから明らかにすることはできない。

 そこでこの調査では、上記の設問で「規制すべきだと思う」または「どちらかといえば規制すべきだと思う」と答えた回答者に対して、規制すべき内容についての追加質問を行っている。回答項目としてはやや長文だが、「見る者にとって、児童を描いたものと分かるものであれば、たとえモデルが存在しない空想上のものでも規制すべきである」「見る者にとって、誰をモデルにしたのか分からなくても、実際にモデルとなった児童が存在するなら規制すべきである」「見る者にとって、モデルとなった児童が誰であるか分かるのであれば規制すべきである」「分からない」の四つが設けられている。

マンガ表現における児童ポルノという括りでいえば、四つのうち最初の一つか、あるいは二つ目までの選択肢が規制賛成の意見にあたると見ていいだろう。結果は、一つ目を選んだ人だけで57.4%、二つ目までをあわせるとこれらの選択肢を選んだ人は86.6%にまでのぼった。規制賛成と答えた人の過半数が、マンガのような実在のモデルを持たない表現も規制すべきだと考えているようである。ということはつまり、回答者の過半数は規制賛成に傾いているといえるのだろうか。実はそうではない。

なぜならば、規制について肯定的な回答をしていてなおかつ空想上のものでも規制すべきだと答えた者は、全体の43.7%に留まるため、過半数は越えていないとする見方も可能であるからだ。結局のところ、世論は規制賛成/反対のいずれに傾いているともいえない状態にあるといえるのだ。[22]

ところで、「見る者にとって、児童を描いたものと分かるものであれば、たとえモデルが存在しない空想上のものでも規制すべきである」という回答項目をえらんだ人が過半数を占めていたことから何がいえるだろうか。

先述した通り、実在のモデルを模写するような形で行われる写実的な絵画と、実在のモデルなどが端から存在しない抽象的なイラストとでは、同一のロジックを用いて規制することができない。前者は写真を規制する論理をそのまま用いて規制することが可能だが、後者はそれとは別の論理が必要となるからだ。しかしながらこの調査結果を見る限り、多くの人々はそのことに対して無自覚である可能性が高いと思われる。無自覚であるからこそ、なぜ規制できるかを問わずして、「規制反対だからマンガも全て規制すべきだ」という徹底した立場を選択してしまうのである。

 またこの手の調査の特徴として、年齢や性別によって回答の傾向に大きな違いが出ることが知られている。男性に比べて女性の方が規制に賛成する傾向があり、また年齢が高くなるにつれて規制賛成と答える割合が高くなっていく。ところが、なぜ年齢による違いがこれほどまでにはっきり表れるのかについては、見かけほど簡単に説明することができない。というのも、子どもの頃にマンガを読んで育った世代は規制に反対するが、子どもの頃にマンガを読む機会がなかった世代は規制に賛成するといった、マンガ読書経験による態度の変化が表れているのであれば話は簡単なのだが……残念なことに、そうなってはいないからだ。

日本性教育協会が1974年に行った調査である「青少年の性行動」第一回を見れば、その当時、高校生や大学生だった人々の性行動をある程度把握することができる。この当時の高校生、大学生というのは、現在における40代後半から50歳前後の中年層と一致するはずである。この調査を利用して、現在規制に賛成しがちな中年層のマンガ読書経験を探ってみよう。

この調査では、「いままでに、性的な興奮を感じたことがあるか」という設問に「はい」と答えたサンプルに対して、「何が動機となって性的興奮を感じたか」という追加質問を行っている。そこでは「週刊誌・雑誌などで性的な漫画・劇画をみていて」という項目を選んだ回答者が男性11.7%、女性10.7%も存在する。これは全体でみても第四位にあたり、当時の高校生、大学生にとってマンガで性的に興奮することはさほど珍しくなかったという事実が浮かび上がる。

 ということはつまり、現在規制に賛成している中年層が子どもであった頃には、すでに性的なマンガが存在しており、しかも子ども時代にそうしたマンガを読んでいた可能性が少なくないということだ。したがって、年齢が高くなるにつれて規制賛成と答える割合が高くなっている事実は、年齢が高くなるほど子どもの頃の性的なマンガに対する接触度が低かったことに起因する、という単純な推論には説得力がない。たしかにマンガ読者の多くが若者であることを考えれば、歳を負うごとにマンガを読まなくなってからの年月は長くなっているのだから、そういった意味で、マンガというメディアに対する愛着は弱くなっていくのかもしれない。だが残念なことに、そうした事実はこの統計からでは明らかにすることができない。

 またこれは児童ポルノの問題という枠組みからは離れるが、どうやらマンガ性表現規制についての親世代の一般的な考えは、雑誌などで発言をする識者たちの考えとずれているらしいということも強調しておきたい。有害コミック問題の時、識者の発言としてよくみられたのは、規制は各家庭内の教育に留めるべきであり、公権力に委ねるべきではないというものだった。[23]青少年が成年向けコミックを読むのが嫌だというのなら、親が直々に家庭内の指導としてやめさせればいいのであり、何も条例や法律をつくってやめさせる必要はないだろうというのである。しかし親世代一般の考えは、この識者たちの感覚とどうも対極にあるらしい。

 93年に総務庁青少年対策本部が発表した「青少年とポルノコミックを中心とする社会環境に関する調査研究報告書」では、中高生の保護者である親が調査対象となっているため、この調査結果を参照することで親世代の姿勢を把握することができる。結論からいうと、親世代は、規制それ自体にはさほど積極的ではないが、条例等をつくって取り締まるのには賛成するという他人行儀な態度を示している。つまり、直接子どもを叱ってマンガを取り上げるということはしないが、公権力が介入して規制するのならば賛成だというのである。[24]家庭での教育と公権力の介入という二つの選択肢でいえば、識者が前者を後者より軽いものと見なしていたのに対し、親世代一般は後者の方が前者より軽いものと見なしているのである。ここから明らかなように、雑誌などで発言をする識者たちと世論を形成している中年層の意見は、その前提からして大きくずれこんでいるといえよう。

 

 

 2−2.規制推進派

 

 第一章でも触れたように、児童ポルノ禁止法制定の最大の動因となったのは外圧であった。96年に開かれた「子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」では、日本の児童ポルノ輸出国としての性格が各国から非難を浴びると同時に、写真誌に載っていたロリコンマンガが俎上にのぼることとなった。

 このように本稿に関わるテーマのうち、法律の立案などの比較的大きな流れは、海外との関係に端を発しているケースが多いことは前述した通りである。しかし最初に提示された法案が修正される過程や、法律が施行された後の改正論議については、国内の圧力団体の影響もけっして小さくなかっただろうと推測される。そもそも外圧によって法律が生まれたことは確かだとしても、その外圧があったことを広めたのは新聞その他のメディアや圧力団体である。その過程にすでに国内の各種団体の影響が入り込む隙があるのだ。ここではそうした圧力団体について見ていくことにしよう。まずは規制推進派の側からである。

 上述した通り、90年代前半に起きた有害コミック問題は、田辺市の住民運動がきっかけであったといわれている。これは各地方の草の根レベルから始まった、子どもを持つ親達による性的なマンガの規制運動であった。もちろんそれ以前に警察や行政団体や宗教団体が関与していた可能性はあるが、仮にそうであったとしても、全国レベルのうねりを見せつつ地域的な住民運動という形で規制の渦が広まっていったことは確かだろう。[25]

これに比してみると、児童ポルノ規制問題ではこのような運動が存在しなかったという点で大きな違いがみられる。もともと外圧によって生まれた法案に対して、一部の児童の人権団体などが絡み合いながら発展していった問題であるから、あまり一般社会で話題になることはなかったのだ。その意味で、児童ポルノ規制関連の騒動は比較的マイナーなトピックであったことは確かなのだが、少なくない国会議員が動く程度の政治的な重大性をもっていたこともまた確かである。いずれにしても、ここでの要点は、本件に関係する団体とはある種の専門的な団体――特殊な目的をもった団体――のことであって、決して有害コミック問題の時のような烏合の衆ではないということである。

 規制推進派として、最初に児童の人権団体について見ていきたいのだが、これについてはやや複雑な説明が必要となる。児童の人権団体を一括りにして規制推進派に入れてしまうのは誤りである。正確を期して言うならば、一部の児童の人権団体が規制推進にまわり、一部の児童の人権団体が規制反対にまわった、という迂遠な言い回しをせねばならない。つまり、ある種の児童の人権団体は規制推進に大きな影響を与えたが、全ての児童の人権団体が規制推進に動いたわけではないし、逆に規制推進に動いたケースさえあるということだ。もちろんここでの推進/反対というのは、マンガ表現規制についてのもので、児童ポルノ全体の規制のことではない。

 規制推進派といえる児童の人権団体としては、「エクパット/ストップ子ども買春の会」、「日本ユニセフ協会」、「国際子ども権利センター」などが挙げられる。このうち「エクパット/ストップ子ども買春の会」はバンコクに本部を置く国際的なNGOの公式関連団体であり、「日本ユニセフ協会」はユニセフの支援団体という位置づけをとっている。「国際子ども権利センター」は、そのような国際団体の下部組織というわけではないようだが、他と同じく海外との関係の強いNGOである。これらの団体は子どもを守るということを本義としているため、マンガ表現とのつながりは直接的には存在しない。また団体の目的はあくまで児童保護にあるため、児童ポルノよりむしろ児童買春に対する関心が大きなウェイトを占めており、さらに児童ポルノに向けられる関心もどちらかといえば写真やビデオを中心としているから、マンガ表現における児童ポルノに対する関心はさほど高くないものと思われる。

 したがってこれらの団体は、マンガ表現における児童ポルノに対して、写真やビデオ等のメディアとの明確な区別なしに規制賛成の立場をとることが多い。ところが、全ての団体がそうだというわけではない。例えば「エクパット/ストップ子ども買春の会」と同じエクパット関連の団体として、「エクパットジャパン関西」があるが、この団体はマンガ等については児童ポルノ禁止法で規制することはできないので外すべきだという立場をとっている。[26]つまり児童ポルノそのものは規制すべきであるが、マンガ表現に限っては実在の被害者をもたないのでこの法律では規制すべきでないというのである。このような団体については、一概に規制推進/規制反対のいずれかの立場に加えることは難しい。

 無論、規制推進派に加えられる児童の人権団体も、他のメディアとマンガとをまったく区別していないわけではない。規制反対派の主張に対抗すべく、これらの団体もマンガ表現の規制を肯定するために独自のロジックを持ち出しているのだ。

 例えば、とあるゲーム雑誌に掲載された「エクパット/ストップ子ども買春の会」共同代表へのインタビューでは、「実在する児童が存在しないマンガでは人権侵害が起きない」という規制推進派のロジックに対する反論が示されている。

 

「もうひとつは、実在する子どもの権利を守るものと同時に、集団としての子供の権利を守るという点について、我々は大変関心があったのですが、残念ながらいまの日本では法理論的に一般的でないこともあり、具体的な条文にできませんでしたし、実際の運用面でも守られていないと思います。」

「表現されている子供が実在しているかどうかではなく、子供を性的な対象=モノとして扱うべきではないということです。もちろん子どもの性的な自己決定権は当然の権利として認めますが、そのことと子供を描いたポルノ作品が世に出回ることとは別の問題です。子供を性的虐待の対象として描いた児童ポルノは、子供をそういう対象として使用していいんだという意識を一般化したり助長することにもなりますので、そうした表現は、実在の子供を対象としたものに限定することなく禁止するべきだと思います。」[27]

 

 ここでは二つの発言を引っ張ってきたが、それぞれの発言から興味深い思考が読み取られる。まず前者の引用では、「実在する子ども」に対する「集団としての子ども」という言葉が提案されている。「集団としての子ども」とは、おそらく実在する集団としての子どものことではなく、万人の意識の中にある子ども像のことを指すのであろう。権利を守る対象にこれを含めることによって、実在する児童が描かれていないマンガも規制することができるようになる。それが実現可能かどうかはともかくとして、この発言がそういう狙いを持っていたことは確かだろう。後者の引用では、子どもに実害を与えていなくても、虐待してもよいという意識を一般化させるためにマンガも規制すべきだと主張している。これはマンガ読書体験の二次的影響についての問題であり、すでに第一章で軽く触れておいた事柄であるから詳しくは触れない。繰り返しになるが、二次的影響についての説は様々であり、その社会的効果がはっきりしてない以上何ともいえないのである。

 しかしそのロジックの中身はともかくとして、これら児童の人権団体の中に、マンガを規制するための独自のロジックが存在することは確認しておく必要があるだろう。かなりあいまいな部分はあるものの、マンガを他のメディアとまったく区別せずに規制を主張しているというわけではないのである。

 そして詳しく分かっていないという留保付きで述べておきたいのだが、これら児童の人権団体の一部は、宗教団体との結びつきがあるように思われる。例えばエクパット・ジャパンが監修している『アジアの子どもと買春』という書籍には、「この「ストップ児童買春」の会には、日本カトリック移住協議会が組織参加している」との記述がある。[28]文中の「ストップ児童買春」の会とは、「ストップ子ども買春の会」のことだろうが、そこにカトリック系の団体がかかわっているということである。この問題については、この節の末尾で再び触れることにする。

 他の規制推進派としては、フェミニズム団体がある。とはいえこれも児童の人権団体と同じように、全てのフェミニズム団体が規制推進派というではないという点に注意する必要がある。

 この種の団体の代表としてあげておきたいのが「ポルノ・買春問題研究会」(以下、APP研)である。APP研はポルノグラフィーに反対するラディカル・フェミニスト達の団体であるが、主として70年代後半のアメリカから始まった反ポルノ運動の流れを汲んでいるものと思われる。[29]そのこともあって、児童の人権団体に比べれば、ポルノグラフィーそれ自体に対する関心は高いといえる。

 本旨からは外れるが、ここで反ポルノ運動の性格について要点を説明しておきたい。反ポルノ運動の論客としてはC.マッキノンとA.ドウォーキンが有名だが、彼女たちは、ポルノグラフィーは女性を客体化する装置であり、男性に暴力的な性欲を植え付けるとともに男性による暴力そのものであると主張した。このロジックに従う限りでは、第一章で触れたポルノグラフィーを消費することの影響云々といった問題は無視できる。なぜならこのロジックは、ポルノグラフィーを消費すると性犯罪が増えるから悪いというのではなく、ポルノグラフィーが流通し、女性が劣位に置かれることそれ自体が悪いというものであるために、二次的な影響の如何に関わらず批判することが可能であるからだ。

 したがって、これらフェミニズム団体によるマンガ表現における児童ポルノ規制賛成の主張は、児童の人権団体のそれに比べれば論理的に矛盾していない。もちろんその場合は、あくまでもポルノグラフィー全体に反対していくことの一環という位置づけに留まってしまうのであるが。[30]

 さらにマッキノンとドウォーキンは、『ポルノグラフィと性差別』という著書の中で、彼女たちが提案する「反ポルノ公民権条例」というものの詳細を語っているのだが、彼女たちはそこで条例で規制されるべきポルノグラフィーを次のように定義づけしている。「ポルノグラフィとは、図画および/または文書を通じて、性的にあからさまな形で女性を従属させる写実的なものであり」云々。[31]この定義に対して、APP研は論文・資料集の中で次のようにコメントしている。

 

[この条例では]写真やビデオのような実写ものだけでなく、小説や漫画のようなバーチャルなものもポルノグラフィの範疇に入っている。(中略)ポルノ定義の第4の要素である「写実的なもの」という規定も一定の意味を持っている。たとえ図画や文書を通じて性的なあからさまな形で女性を従属させるものであっても、抽象的な表現や著しくデフォルメされたような表現はこの定義からはずれるということである。[32]

 

 APP研がまとめるところでは、マッキノン等は小説やマンガも規制対象に含めたが、その表現が写実的でなければならないという条件を設けたということになっている。この解釈を敷衍させると、仮にそれが女性差別的であったとしても写実性がない表現は規制対象から外れるのだ、ということになる。ところがそもそものところ、筆者が同書を読む限りでは、マッキノン等が本当に表現媒体においてマンガと写真を区別するような明確な視点を打ち出したかどうかは、非常に疑わしいように思われる。にもかかわらず、彼女たちがあえてこのような発言をするのは、我が国のポルノグラフィー規制の文脈においてマンガの規制が問題化していることを意識してのことではないだろうか。

 だとすると、仮にAPP研の立場がマッキノン等のそれと同一であるとするならば、彼女たちの立場は、写実的なマンガは規制すべきだが写実的でないマンガは規制すべきでない、というものになる。ようするに彼女たちは、マンガも含む広義のポルノグラフィーを根絶しようとしているわけではないのだ。

ただしそう一筋縄にはいかない事情もある。そういった意見表明をする一方で、彼女たちは「表現の自由」を擁護する立場を繰り返し批判している。例えばAPP研が発行する論文・資料集の第2号では、暴力AVで行われている性暴力が「表現の自由」の名のもとで規制を免れていることを厳しく批判しているし、性現象における自由を重視する性的リベラリズムの潮流を著名な社会学者、宮台真司の名に代表させながら幾度も批判している。

このような発言を読む限りでの推測でいえば、彼女たちからすれば、後述するマンガ表現者による団体などは批判すべき性的リベラリストたちとうつるのかもしれない。筆者の読む限りでは、彼女たちの活動の力点は、マンガを規制するという具体的成果よりもむしろ性的リベラリズムという思想潮流の批判ないしは超克に置かれているように感じられるのだ。

ところで、APP研のようなフェミニズム団体にとって、児童ポルノは単にポルノグラフィーの一ジャンルに留まるものではない。その理由は簡単であり、小児性愛というセクシュアリティ自体が男性による女性の支配という図式にあてはまりやすいからである。小児性愛が、ちょうど「強い男性が弱い女性を搾取する」という文章の「男性/女性」という部分を「大人/子ども」に入れ換えたようなものとして映るからである。その意味で、小児性愛は家父長制を象徴する性的指向とされているのだ。[33]

 また先に断り書きをしておいたように、フェミニズム全体としてみればポルノグラフィーについての意識は二分している。海外の流れをみても、反ポルノ運動を批判するP.カリフィア等の論客がおり、いまだにポルノグラフィーの是非をめぐって論議が続けられている。反ポルノ運動を批判するフェミニストたちは、反ポルノ運動が宗教保守層に受け入れられることで、フェミニストが保守派と同種の主張をもってしまうこと――すなわち保守派と同化してしまうこと――を恐れ、批判しているのである。よって、本件においてフェミニズム団体が規制賛成にまわっていると短絡するのは、国際的な視野で見てもまったくの間違いである。

 最後に、表立って声をあげているわけではないものの、規制推進派の一つに宗教関連の団体が存在することを付言しておかねばならない。もともと性道徳関連の問題については、我が国においてもキリスト教系を中心とする宗教団体が多分にかかわってきた歴史がある。児童ポルノ規制問題もその中の一つとして捉えることが可能である。

 ところが問題は、このような宗教関連の団体も、レトリックという観点からみれば、これまでに述べてきたような児童の人権や女性差別といった切り口から批判を行っているということである。これらの団体もマジョリティーに受け入れられるために戦略的にレトリックを変えているのである。そのような事情により、規制推進勢力の一体どこまでが宗教と結びついているのか正確に把握することは難しい。

 推進派に加えても差し障りないと思われるのが日本キリスト教婦人矯風会である。1999519日付の読売新聞朝刊には、「日本キリスト教婦人矯風会(東京)では今秋にも全国の書店で児童ポルノの調査を(中略)検討中である」という文面が残っている。とはいえ、このような団体が児童ポルノの規制にどれだけ積極的なのかは、筆者の調査からでは明らかにすることができなかった。

 

 

 2−3.規制反対派

 

 一方、マンガ表現における児童ポルノ規制の流れに反対する団体にはどのようなものがあるのだろうか。

 まず前節で述べたように、児童の人権団体の一部が規制反対の動きを見せている。「エクパットジャパン関西」(以下、エクパット関西)はその一例である。こういった団体は、規制そのものには賛成しているが、マンガ表現はそこから除くべきだという立場をとっている。エクパット関西は、児童ポルノ禁止法の成立前の98年に絵の例示を取り除くべきだという主張を盛り込んだ対案を発表している。[34]「児童の人権保護」という児童ポルノ禁止法の大義名分を支援している団体からこのような意見が出たことは、成立時の法文から絵を取り除くのにそれなりの影響を与えたものと思われる。[35]

 また出版倫理協議会のような出版関係の自主規制団体も規制反対派に加えてよいだろう。例えば出版倫理協議会は98年に児童ポルノ禁止法に対して批判的見解を発表している。これらの団体は、当時の法案に絵が規制対象として盛り込まれていたのを受けて、そのことを取り下げるよう求め、「表現の自由」を訴えていく姿勢をとった。マンガの市場が出版界全体で見ても小さくないことを考えれば、こうした擁護が出てくることも納得がいく。

 それだけではなく、同年には日本弁護士連合会――通称、日弁連――による児童ポルノ法に対する意見書が提出されている。当時の新聞によれば、日弁連は児童ポルノの定義の不明確さや、絵の項目が目的にそぐわないことなどを批判し、修正を求める意見書を提出した。この意見書が法律の修正に与えた影響は大きっただろうと思われる。[36]

 それ以外には、マンガ表現の送り手を中心とする、表現の自由を守ることを目的とした団体がある。これは元々は有害コミック問題のときに発足した「コミック表現の自由を守る会」がきっかけとなっている。ここから「マンガ部会」という下部組織が誕生し、「マンガ防衛同盟/『有害コミック』問題を考える会」という形で続いていくことになる。98年前後の児童ポルノ禁止法の成立論議が交わされている時には、この「マンガ防衛同盟」が絵を規制対象から外すように働きかけを行っていた。2001年には児童ポルノ禁止法の改正を見越して、「マンガ防衛同盟」とも多少つながりを持つ「連絡網AMI」(以下、AMI)という団体が立ち上がった。

 AMIはマンガ家やマンガ評論家を中心として結成されている。ようするにマンガ表現が規制されることで職にあぶれる可能性のある人達が、表現の自由を守るために作り上げた組織である。AMIのメンバーの中には直接職とは関係のない者――この場合は読者と記すのが一番よいだろう――も多少はいるようだが、あくまで中心は表現者の側にある。AMIは情報の共有を目的とした団体だが、一部のメンバーはロビー活動なども積極的に行っている。

 AMIの政治的側面における主な活動内容は、署名活動、ロビー活動の二つである。署名活動では、コミケットやウェブを通じて、一般のマンガ読者から広く署名を集めている。[37]コミケットとは年に二回開かれる同人誌即売会のことであり、その参加者のほとんどはマンガ多読層である。彼らに対して規制反対を訴えかけ、その場で署名活動を行っているのだ。2002年から2003年にかけて行われた「児童保護に名を借りた創作物の規制に反対する請願署名」では、二万筆を超える署名を獲得している。

 またロビー活動では、国会議員に向けて児童ポルノ法の改正時に絵を規制対象にすることの危険性を訴えている。そこで一つ興味深い現象が生まれているのだが、それは、内容に理解を示す議員の所属政党が比較的ばらばらであるということ、言い換えれば、この問題に対する議員の反応が政党ごとに分かれていないということである。民主党議員、社民党議員には比較的支持者が多いという程度のことは言えるが、かといって民主党議員ならば必ずマンガ表現規制に反対だというわけではない。なぜこのような現象が生じたのか。

 AMIの中心メンバーであるマンガ家のY氏は、筆者が行ったインタビューで次のように語る。

 

 筆者:あれ(同じ政党の議員における賛成反対)はなんで分かれるんですか? 議員がマンガ好きかどうか?

 Y氏:これは僕の予想なんですけど、おぼろげに見えてきたことからいうと、女性票田を気にするようなフェミニスト系の議員などは、推進派におもねるんですよ。それに対して僕らの方に好意的だったグループは、一つの傾向としていえるのはですね、法曹関係出身――弁護士、裁判官その辺の方々が多い。つまり今回の法規制が法律としての整合性に見合わないということで、僕ら側の意見を聞いてくれる人が多い。例えば福島瑞穂さんは、フェミニストですけど、どちらかというと僕ら寄りなんですよ。あの人は弁護士出身だから。

 

 もちろんこれが事実であると実証されたわけではないが、現場で動いていた人間の実感としてこのような意見があるということは紹介しておきたい。

 AMIの活動のうち、もっとも議論全体に与える影響が大きかったのは、200112月に行われた「第二回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」(通称、横浜会議)でのワークショップ「マンガはCSEC(児童の商業的性的搾取)ではない」である。

 このワークショップは先に取り上げたエクパット関西とAMIとの共同主催という形で催され、国内での議論の流れを多少なりとも変えるきっかけとなった。このワークショップでは、絵という表現の持つ特性から年齢軸で規制するのが困難であること、マンガ表現が性犯罪の増加に影響を与えていることを示す事実がないこと等が発表された。当時は児童ポルノ禁止法の改正が間近に迫っており、改正時には規制対象の例示に絵が加わるだろうということが水面下でささやかれていた。そのことを懸念してこのワークショップは開かれたのだが、ここでの発表が児童ポルノ禁止法の改正に与えた影響は小さくなかっただろう。

 さて、ここでAMIを含むマンガ表現規制反対団体が持ついくつかの特徴をまとめていきたい。一つ目の特徴は、規制推進派の団体とは異なり、なにか問題が生じてから結成されていることである。「コミック表現の自由を守る会」は有害コミック問題が起きてからであるし、AMIは児童ポルノ禁止法の改正論議や青少年有害社会環境対策基本法案の発案によって生み出された。規制されるかもしれないという危険性が伝わった後に、それに対して反対アクションを行おうとする人物が現れ、団体が組織されていくのである。

 また、そのような具体的な目的のもとに形成された団体であるから、人数もさほど多くない。AMIの場合でいえば、どこからが正規メンバーかという線引きが曖昧になっているようだが、実際に活動しているメンバーは数十人である。マンガ文化のもつポテンシャルに比べれば、驚くほど小規模になっているように感じられる。

二つ目の特徴は、表現の自由の保護をスローガンにかかげているため、セクシュアリティそのものに対する訴えかけはしていないということである。つまり、表現者としてマンガ表現の規制に反対するために組織された団体であり、小児性愛という特殊なセクシュアリティの承認を訴える団体ではないというのである。このような立場をとっているためか、彼らは実在の児童が登場する児童ポルノの規制には一様に賛同している。これがもし小児性愛というセクシュアリティそのものに意識が向かっている団体であったならば、マンガ表現でなければ規制されても已む無しと主張することはできなかったのではないだろうか。

 三つ目の特徴は、一般の読者はほとんど運動に取り込まれていないということである。表現の送り手ではない読者は、送り手を中心とするこのような団体には受け入れられ難い。しかし一章で述べた通り、法的な児童ポルノの括りに収まってしまうマンガの読者というのは、相当な数にのぼるのである。たしかに署名という形で間接的には運動に参加しているものの、そのほとんどが直接的な運動には携わっていないのが現状である。団体が小規模であるということも、とどのつまり一般の読者が取り込まれていなという事実を示しているに過ぎないといえなくもない。ただしこの特徴は、あくまでもAMIに限った特徴であり、例えば「マンガ防衛同盟」には当てはまらない。

 ではなぜAMIは表現者を中心とする団体となったのか。換言すれば、なぜAMIは受け手である読者を巻き込んでいないのか。これにはいくつかの理由がある。先述のインタビューでY氏が語るところによれば、AMIのメンバーが表現者中心となったのには以下の四つの事情があったという。

 

@マンガ家の側が読者に住所や電話番号など明かすことを避けたかった

A「AMIは小児性愛者の集団だ」というネガティブ・キャンペーンに対抗したかった

Bマンガ家には組合等の横のつながりがなかったために、規制反対運動を通して実現したかった

C運動に関わるには、ある程度時間に余裕のある人――例えば自営業者――でなくてはならなかったため、会社員等が省かれた

 

 Aは具体的な政治状況から生じたものであるが、@とBはマンガ表現特有の事情であるといえる。Cはこの手の社会運動全てに共通するものだろう。

 本稿で注目したいのはAである。次章で詳述している通り、これまで小児性愛者の集団がセクシュアル・マイノリティというよりも犯罪的な団体として見られてきた経緯を考えれば、意見に説得性をもたせるために「小児性愛者の集団ではない」という断りをいれる必要があったことは容易に予測できる。そしてAMIは、小児性愛者ではなく表現者なのだというアイデンティファイによって「表現の自由」を訴えていく方策をとったのである。

 ということは、逆にいえば、マンガ表現における児童ポルノ規制反対をこの観点から訴えるにあたっては、実在の子どもが登場する児童ポルノの規制を容認し、自らは小児性愛者とは別のセクシュアリティをもつものだと位置付ける必要性が生じているといえないだろうか。この論点は、次章で行う購買者の分析を通してみるとよりはっきりすることだろう。

 

 

3.購買者たち

 

3−1.購買者の置かれている立場/アンケート調査の説明

 

本章では、マンガ表現における児童ポルノの購買者の分析を進めていく。第一章の冒頭で述べたように、児童ポルノの購買者たちは一般的に小児性愛者であると考えられ、そのように見なされている。ところが、我が国特有の事情から、児童ポルノであってもマンガ表現に限定するとそのコンセンサスが大きく揺らいでしまう。しかし当面は、あえてそこに目を向けずに小児性愛者という枠組みで話を進めていこう。

小児性愛は、精神医学の世界で辞典的役割を果たしている『精神疾患の分類と診断の手引き』(通称、DSM−W)において、16歳以上で、5歳以上年下の思春期前の子どもに性的衝動を抱き、そのことが社会生活に支障をきたしている状態と定義されている。今現在、小児性愛は精神疾患の一つに数えられており、その意味では小児性愛者は精神障害者なのである。小児性愛者はこのように医学的に定義された存在だが、日常的には違った方面から捉えられている。それはようするに、小児性愛者=児童虐待者というレイベリングである。

児童虐待に対する関心は世界各国において非常に高い。この問題から小児性愛者を描く場合は、単なる特定の性的指向をもつ存在ではなく、子どもを虐待する存在として描かれることになる。つまるところ、子どもがマイノリティであるために、小児性愛者はそれを迫害するものという位置づけに追いやられてしまうのだ。そのため彼らは、セクシュアル・マイノリティとしての真っ当な扱いを受けることさえ難しい。有名なミーガン法(メーガン法)の存在が、その事実を端的に示しているといえるだろう。[38]

ミーガン法は、94年にアメリカのニュージャージー州で最初に制定され、後にいくつかの地域や国に広まっていった法律である。詳しい経緯は省略するが、アメリカで、過去に同種の犯罪の前科をもった人物による児童の誘拐・強姦・殺害事件が話題を呼んで、そのような再犯を防止するための手立ての模索が活発化したことを受けて、執行猶予や刑期満了によって一般社会に復帰した性犯罪者の情報を地域社会に公開してはどうかという提案がなされた。こうして生まれたのがミーガン法である。我が国でもこのミーガン法を採用すべしとの声が一部からあがっている。

なぜ殺人でなく、強盗でもなく、性犯罪――とくに小児性愛者による性犯罪――だけが個人情報を一般公開されるという報いを受けねばならないのか。性犯罪の再犯率が高いためいうのが公式見解だが、しかしそれだけでなく、ここには性犯罪者に対する憎悪、とりわけ小児性愛に対する憎悪がこめられているのではないか、などと筆者は邪推したくなる。その邪推を裏づけるかのように、2000年にアメリカで行われた聞き取り調査によれば、ミーガン法の対象となった前科者の多くが住居から追い出されたり地域住民から嫌がらせを受けるなどの被害にあっているそうだ。[39]

小児性愛者たちは、児童虐待に対する憎悪を一身に浴びることで、非常に強い抑圧を受けているのだ。そのことを別の角度から伝えているのが次の文章である。

 

   同性愛を大人と子どもとの性的関係に結びつけて考えるのは正しいとはいえないが、ゲイの権利と子どもの権利とは類似した点をもつ。「ゲイ」という言葉を使うことで、今まで同性愛につきまとっていた罪深くて、不健全なイメージが払拭された。同様に、子どもの権利運動は、子どもは無垢だというステレオタイプを拒否し、子どもは選択の権利を持つ個人であるとする思想へと一歩踏み出したのである。この点で、ゲイの活動家が示唆する通り、ゲイの運動は子どもにとって重要な意味を持ったといえよう。[40]

 

 この引用文の著者であるJ.エニューはイギリスの社会人類学者だが、彼女はここでゲイというセクシュアル・マイノリティを子どもと結び付けている。ゲイと同じセクシュアル・マイノリティである小児性愛者ではなく、その小児性愛者の性的対象であるところの子どもをゲイのアナロジーで見ているのだ。この見方が続く限り、小児性愛者はマイノリティを擁護する立場からも子どもの無垢性を信じる立場からも同時に非難されてしまう。

小児性愛者はこのような事情もあって、セクシュアル・マイノリティの中でも強烈なスティグマを背負っているものの一つだといってよい。例えば、ロン・オグレディ(1992)は自著の中で、国際レズビアン・ゲイ青年組織世界会議においてレズビアンのソーシャルワーカーが少年愛者を批判し、ゲイのコミュニティから少年愛者のコミュニティが締め出されていったというエピソードを紹介している。[41]説明するまでもないだろうが、これは小児性愛者の方がゲイよりも反社会的な立場にたたされていることを示す一例である。依然として小児性愛がDSM−Wによって精神疾患とされているのに対して、同性愛が86年に精神疾患のリストから削除されたことを考えれば、そのスティグマの重みもぼんやりと伝わってくるように感じられよう。

そのような事情もあって、国際的な小児性愛者の団体は、社会運動を行う団体というより犯罪者集団として見られているようだ。[42]筆者の浅薄な知識では、小児性愛者の置かれている立場を国内と国外で比較した時にどちらがより厳しいのか断言することはできないが、幾つかの文献から伝わってくるところでは、一部の先進国では日本より厳しい視線に晒されているように思われる。

多少余談めくが、国内でいえば、89年の幼女連続誘拐殺人事件をきっかけとして、小児性愛者やロリコンに対する世間の目が厳しくなったという風に述懐している者もいるようだ。[43]89年をターニングポイントと見なすことが妥当かどうかはともかくとして、抑圧が厳しくなったのが我が国においては比較的最近のことだという事実は記憶に留めておいてよいだろう。

マンガ媒体の児童ポルノの購買者たちも、このような小児性愛者の立場と無関係ではいられない。いまだ規制されていないとはいえ、犯罪性の高い領域の近くに身を置かねばならない彼らは、そこで自らのセクシュアリティについての説明を迫られるのである。とくに外部に向けては、自らをその犯罪性から縁遠いものとして説明せざるをえなくなる。

このような推論を裏付けるために、私はマンガ表現における児童ポルノ規制問題を題材としつつ、彼らの実態調査を行うことにした。マンガ表現とはいえ、児童ポルノの購買者である彼らは、自分たちをどのような者としてアイデンティファイしているのだろうか。また規制問題についてどの程度認知しており、どのような形で規制反対の運動にコミットしているのだろうか。私が知りたかったのはこのような点である。

そこで今回、200455日に東京都立産業貿易センターで開かれた「ショタケット」第9回と同年59日に大田区産業プラザPIOで開かれた「ぷにケット」第9回にて来場者調査を行った。「ショタケット」「ぷにケット」はマンガ表現における児童ポルノの同人誌即売会である。「ショタケット」では40個、「ぷにケット」では41個の標本を集めることができたが、一回目と二回目で2つほど項目を変えてしまったので、ものによっては全体の半分程度しか標本数がないことになる。

 来場者の特性について、どのようなことがいえるだろうか。今回のアンケート調査の対象は、マンガ表現における児童ポルノの購買者であったわけだが、実際にはそれに完璧に適合するサンプルが得られたとは考えていない。まずマンガ表現における児童ポルノを購買するには、このような即売会で入手する以外にも、他の経路があるという点に注意する必要がある。他の入手経路としては通信販売、店頭での販売があるが、これらのいずれの経路で入手しているかによって少なからぬ偏りが生じるはずである。その偏りを正確に知る手立てはないが、まったくの憶測でいえば、わざわざ同人誌即売会にまで足を運ぶ人々は、他の経路に比べて量的にも多くのマンガ媒体の児童ポルノを読んでおり、この表現への愛着も強いものと思われる。

それ以外にも、サンプリングに偏りが生じる要素はあった。会場のエントランスから出てきた人に対して、アンケート調査の協力を依頼したのだが、アンケートを引き受けていただけたのは全体の半数程度であった。したがって、アンケートの回収率は50%ほどになるのだが、このとき断った人と引き受けた人の間で偏りが生じてしまった可能性は高い。年齢層や性別などは極力ランダムになるように配慮したつもりだが、やはり私と同世代の人――つまり二〇代前半の者――の方がアンケートを引き受けてくれる割合が高かったように思われる。

次に調査会場となったイベントの特性について説明する。先にアンケートを配った「ショタケット」はショタコン向けの同人誌即売会とされている。ショタコンとは漫画メディアにおける少年愛のことであり、ロリコンという言葉の対義語とされている。ショタコンの消費者は男性女性どちらも存在する。ただ実際、私の見る限りでは、会場に来ている人の七、八割は男性だったので、男性客が中心となっているものと思われる。そこで売られているマンガのほとんどは性表現を含むものだった。

後にアンケートを配った「ぷにケット」はロリコン向けの同人誌即売会である。とはいえ、第一章でも触れたように、実在の少女幼女を性的対象にするのと同じようにマンガの少女幼女を性的対象にしているわけではない。「ぷにケット」のテーマはロリコンという年齢軸にあるのではなく、ぷに系と呼ばれる絵柄にある。キャラクターの設定年齢がどうであるかというよりも、キャラクターの絵柄がどうであるかという点に基準が置かれているのである。したがって、ここで売られているマンガをそのまま児童ポルノと見なしてよいかについては疑問が残る。「ぷにケット」で売られているマンガもそのほとんどは性表現を含むものであった。以降、調査結果に対する分析に踏み込んでいく。

 

 

3−2.調査結果の分析

 

 まずこの問題に関する彼らの関心の度合いを計るため、どの程度「児童買春・児童ポルノ禁止法」を認知しているかを尋ねた。結果は次表の通り、「内容まで知っている」と答えた者が大半を占めた(表3-1、表3-2)。全体の7割を占める人間が内容まで知っていると答えたのだから、この問題の認知度は極めて高いといえるだろう。

 また、「これまでマンガ表現規制反対の署名(コミックマーケット会場で行われているもの等)に参加したことがありますか」という項目では、「ある」と答えた者が18名、「ない」と答えた者が22名であった。約半数の人間が署名に参加していた事実が明らかになったのである。このことからも、購買者たちの児童ポルノ禁止法その他の法規制に対する関心が高いことがうかがえる。

 しかしながら、これらの結果については留保を加える必要がある。アンケートを引き受けてくれた人は、来場者全体の中でも比較的この問題に対する政治的関心が高い層に偏ってしまった可能性があるからである。サンプリングが完全に無作為にならなかったことの影響が、ここに表れてしまったのかもしれない。

 

(%)

知らない

2  (2)

内容まで知っている

56 (70)

名前だけ知っている

22 (27)

(空白)

      1 (1)

総計

81(100)

3-1.「児童買春・児童ポルノ禁止法」を知っていますか? ()内は%

 

 

(%)

ある

   18 (45)

ない

   22 (55)

総計

    40 (100)

3-2.マンガ表現規制反対の

署名経験の有無 ()内は%

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 次に購買者たちが自らをどのような存在と位置づけているか――いわゆるアイデンティティの問題を探りたい。自らの社会的位置づけを指し示す言葉には肯定的なものも否定的なものも存在するが、ここで私が探りたかったのは、とくに肯定的なニュアンスを与えられた言葉の方である。例えばゲイ・ムーブメントでいうところの「ゲイ」という言葉は、「ホモ」という悪いイメージを払拭するために当事者によって積極的に用いられた。彼らにとって、この「ゲイ」にあたるような言葉を探ろうというのである。

 それについて知るために、今回はいくつかの言葉に対するイメージをやや変則的な文章で尋ねた。「以下の言葉のうちであなたが他人からそう呼ばれたとき、不快に感じるものに×を、自分の呼び名としてふさわしいと感じるものに○を、特に不快ではないが自分とは無関係だと感じるものに△をつけてください。」(図3-1)この質問項目に対して、○をつけられたものが肯定的なアイデンティティだということになる。×をつけられた言葉の中にも、否定的であれ自らをそう見なすような側面をもっている可能性はあるが、それらは外部からレイベリングされたイメージに過ぎないと見てよいだろう。回答項目にはオタク、おたく、マニア、ロリコン、ショタコン、ペドファイル/小児性愛者の六つを設けた。

 この項目に対する注意事項としては、質問文が複雑すぎたこともあって、回答者が内容を理解できずに正しく答えられなかった可能性があるということと、無記入の割合が著しく高いということである。したがって、この結果の信憑性はさほど高くないことを申し述べておきたい。

テキスト ボックス:  
図3-1.あなたが次の言葉で呼ばれたとき、どう感じるか? 数値は%

結論からいうと、どの言葉にもあまり肯定的なイメージを持っていなかったようである。オタク、おたく、ロリコン、ショタコン、ペドファイル/小児性愛者、マニアという言葉のうちで、最も「呼び名としてふさわしい」とされた率が高いのがマニアであったが、それでも45%であり、無関係とされた率も23%と低くない。その次に「呼び名としてふさわしい」とされたのはオタク、ロリコンであるが、これらの言葉に抵抗を感じている者も少なくない。

 ただし今回の調査は、一回目と二回目で調査会場を変えている。一回目が「ショタケット」、二回目が「ぷにケット」であり、その会場ごとの違いは大きい。先述した通り、「ショタケット」はショタコンを対象としており、「ぷにケット」はロリコンを対象としているが、前者にとってロリコン、後者にとってショタコンはそのイベントの対象に含まれていない。したがってロリコン、ショタコンの二項目については、会場ごとにデータを分けるべきではないかと考えた。

 そこで両者を別々にして、「ショタケット」参加者におけるショタコン、「ぷにケット」参加者におけるロリコンの反応を示したのが次の表である(表3-3)。予想通り、両者を一緒くたにした状態に比べて変化があったが、しかしそれでも「呼び名としてふさわしい」を選んだ比率は50%を超えることはなかった。「ショタケット」の参加者にとっても、ショタコンは自分とは無関係な言葉であったり、端的に不快な言葉であったりする割合はけっして低くないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


呼び名として支持されることが最も少なかったのはペドファイル/小児性愛者であるが、これについては41%もの人が「不快に感じる」と答えていることから、はっきりと否定的なニュアンスを生んでいるといえよう。ペドファイルについては「自分とは無関係だ」と答えた率も33%と高いが、ここには後述するような「二次元限定」の発想がかかわっているのかもしれない。すなわち、「現実の少年少女を対象とするペドファイルとは違って、私たちはマンガとして描かれた少年少女だけが好きな存在なのだ」という風に自己規定している可能性が考えられる。そのような人々にとっては、ペドファイルの定義は現実の少年少女を性的対象とする人ということになる。ところが、それに対立する形で生み出された、マンガ、アニメ、ゲームなどの少年少女のみを性的対象とする人を総称する適切な言葉があるかというと、それはまだ存在しないのである。[44]

 またオタク、マニアなどの文化集団と見なす言葉の支持率が高く、ペドファイルなどのセクシュアル・マイノリティと見なす言葉の支持率が低いことから、マンガ媒体の児童ポルノの購買者たちは自らの特徴を「性」ではなく「文化」の上に置いている事実が浮かび上がる。彼らは自らを特殊な性的指向をもった集団ではなく、特殊な表現を享受する集団と位置づけているのである。さらに踏み込んでみると、このことは彼らが「性」から離れたがっている事実を示しているともいえる。

 続いて、彼らの性的指向の流動性をみていきたい。この性的指向の流動性とは、なんのことはない、彼らの性的指向が変わりやすいかどうかということである。このことを明るみに出すために、ここでは彼らの性的指向はいつ頃に定まったのかを調べていく。

一般に性的指向は一生涯不変的なものだと考えられている。ロリコンに生まれたら死ぬまでロリコンのままだというのである。しかしマンガ表現においては、ロリコンマンガは80年代半ばにピークを迎えた一つのモードとして存在しており、流行り廃りを持つ文化的潮流に過ぎない。彼らの性的指向と見なされうるものも、そのようなモードにある程度左右されている可能性が高いと考えられる。

 そこで今回は、上述したアイデンティティについての問いでロリコン、ショタコン、ペドファイル/小児性愛者の項目に○をつけた、つまり「呼び名としてふさわしい」とした回答者に対して、「これらの嗜好をもったのはいつごろのことですか」という質問をした。指向ではなく嗜好という言葉を使っているのは、こちらの方が意味が通じ易いと判断したためである。

この質問も他の質問と一貫性を持たせるために記述式ではなく選択式にした。半年以内、半年〜1年以内、2〜5年以内、5年以上の四つの選択肢を設けて、そのいずれかに○をつけてもらったのだ。[45]

結果は次項の図の通りである(図3-2)。「5年以上」と答えた者が大半を占めている。80年代前半からロリコンマンガ/美少女マンガのマーケットは存在しているが、少なくとも今現在ロリコンマンガを同人誌即売会で買っている人々は、その多くが古くから読者を続けているという事実が明らかとなった。もちろんこの事実は、即座に「1年や2年の短いスパンでロリコン属性を持ったり失ったりすることは少ない」という結論を導き出すものではない。そもそもかつての購買者がこの種のマンガに対する興味を失ったのなら、今回の調査会場に足を運ぶことはないだろうからである。しかし、この種のマンガの消費は短いスパンで消費者がほとんど入れ替わってしまうようなブームとしての消費とは違う、という程度のことはいえると思われる。

テキスト ボックス:  
    図3-2.ロリコン、ショタコンという性的指向の流動性 
(ロリコン、ショタコン、ペドファイル/小児性愛者のいずれか一つ
以上に○をつけた回答者に対する質問) 数値は回答者の数

 ところが、全ての読者がブームと無関係に消費しているかというと、そうとも思えない。この質問に「半年以内」「半年〜1年以内」と答えた者も、両者を合わせると5名存在する。これらの人々は思春期を迎えてから長時間が経過した時点ではじめてロリコン、ショタコンのマンガに興味を抱いたのであるから、この場合は一生涯不変のセクシュアリティとしてマンガを消費しているのではなく、一時的な興味によって消費していると見ていいだろう。

 したがって、マンガ表現における児童ポルノの読まれ方は、一定不変の性的指向をもつ限られた者たちが一生涯読むという形だけではない。オタク文化に興味を持つ者たち全体に開かれており、ある時期にある人がある作品をきっかけとして興味をもち、またそのうち興味を失って去っていくという事態を許すものだと捉えるべきである。1年や2年でほとんどの人間が入れ替わるというわけではないが、多少ともそのような流動性を持っていることは指摘しておく必要があるだろう。

アンケートの末尾には、「最後にこれまでの設問に関する事柄で、何かご意見があればお書きください」という文章とともに、回答者による自由記述の欄を設けた。そこに記された三人の回答者の意見から、彼らがある言葉に大きな役割を与えていることに思い当たった。「せめて二次元だけはゆるしてほすぃね」「二次元と三次元は別で考えて欲しい」「ロリ・ショタといっても二次元限定なので」。これらに共通する言葉とは「二次元」である。

二次元とは、マンガ、アニメ、ゲームなどでキャラクターが平面に描かれることを受けて、これらのメディアにおけるキャラクターの世界を実在の人間の世界から切り離すことを意図して用いる言葉である。もちろん実在の人間を撮った写真も二次元であるし、マンガのキャラクターのフィギュアは三次元であるし、写実的に描いたマンガの絵は写真と遜色がない場合もあるから、マンガ等の表現をひとえに二次元と言い切り、他の表現との接触が原理的にありえないかのように振舞うことは問題がある。ただ現実には、二次元、三次元という分け方は、マンガやアニメにおける表現と実写映画や写真の表現との間に一線を画したい時には割合用いやすいらしく、それなりに普及しているようだ。

先に紹介した「ロリ・ショタといっても二次元限定なので」というコメントは、私は現実の少年少女やすでに規制されているビデオや写真などの表現媒体におけるロリコンものショタコンものには興味がなく、マンガやアニメで描かれた少年少女にしか性的に興奮しないのだ、というアピールである。これは一見するとただ単に自分の性癖を説明しているだけのような気がするが、実は注目すべき点がある。

考えてみてほしい。彼らのいうところの「二次元」と「三次元」の境界線は、今回の問題でいえば、法的に規制されているものとされていないものの境界線とほとんど重なっている。したがって「二次元限定である」という自己説明は、自らを犯罪者ではないとするアピールになっているのだ。だから逆にいえば、自らを三次元の少年少女も好きな存在と説明するのは相応のリスクがともなう。このような背景もあって、彼らは自らを二次元限定と説明するのではないだろうか。筆者はついそう邪推したくなってしまうのである。

 ところで、ここでの二次元、三次元という語の用い方は古くから存在する。たとえば赤木旭は1992年に次のように書いている。

 

   このように、世間体や社会的な立場に対するタブーが原動力になり、娘のような年頃の少女を愛してしまうとか、チャイルド・ポルノ的なエロスの趣味をロリコンと言っていたのですが、まんが・アニメファンの周辺のロリコンとは、現実的なものよりも二次元(まんが・アニメ)のイメージを求める存在、と言うと一番近いと思います。その対象は、少女そのものというより、可愛らしさに象徴される少女性に向けられています。[46]

 

 この言い分を発展させると、「マンガ媒体の児童ポルノを買う者たちは、マンガとして描かれた少年少女のみを性的対象としているのであり、現実の少年少女は性的対象にしていない」という主張になる。このような主張は、ある程度事実に即した正当化と呼びうるのは確かである。しかし同時に、二次元限定ではない読者を締め出すものでもある。

実をいうと、これに類するレトリックがまったく別の場面で用いられたことがある。それはどこか。裁判である。

2002年に、刑法第175条わいせつ図画販売の容疑で出版社社長、編集局長、作家が逮捕されるという事件が発生した。このときわいせつの罪に問われたのは、通常の商業ルートを通して販売された成年向けマンガであった。これが後々裁判にまで発展し、識者やマスコミの関心を集めることとなった。この裁判は通称、松文館裁判と呼ばれている。そこで弁護側が提示したロジックの一つに、「オタク的性表現の非現実性」というものがあった。[47]マンガの世界に存在するキャラクターは、現実の世界に存在する人間とはまったく別物であり、両者は厳密に区別されるべきだというのである。

今回の調査で見られた「二次元限定」という自己説明は、この裁判で語られたような「オタク的性表現の非現実性」という物言いと親和的な関係にあると考えられる。つまり「オタク的性表現は非現実的なものだから、性的対象は二次元に限定される、よって現実の性犯罪とは無関係だ」という一連のロジックを形成しているのではないかと思うのだ。ほとんどのロリコンマンガが実在のモデルを用いていないことは、マンガ表現を法規制から逃れさせるだけでなく、マンガの読み手を小児性愛者という括りから離脱させることを可能にした。自らを積極的に括る言葉こそ存在していないものの、彼らは自らを小児性愛者とは別の集団と見なしているのである。

裁判の時も、自己説明として語られる時も、このレトリックはマンガ表現における児童ポルノの読み手や描き手を犯罪的な領域から切り離すために用いられている。その意味で、このレトリックは彼らにとって政治的に必要なものであったことは確実だろう。

 

 

4.おわりに

 

最後に、前章までのまとめという意味も込めつつ、各章でとくに強調したかった点を確認しながら、マンガ表現における児童ポルノ規制問題を振り返っていきたい。

 まず本件は、性表現規制問題の中でも、以下の二つの点で特殊だったといえる。一つは小児性愛という抑圧の激しいセクシュアリティを規制の中心としていたこと。もう一つはマンガという表現の是非が対立点の中心となっていたこと。この二点が本件を特徴付けているように感じられる。

前者については、小児性愛というセクシュアリティが高い違法性をもつゆえに、セクシュアリティの承認を求める形での規制反対を掲げる運動が封殺された。また後者については、マンガというものが実在の児童の人権にいかに関係するのか、実社会にいかなる影響を与えるのかといった新奇な論点を生むこととなった。ゆえに規制に反対する場合でも、けっしてセクシュアリティを前面に押し出すことなく、マンガならば「表現の自由」という観点から擁護されていいはずだ、という主張を訴えることになるのである。

これらは単に規制の是非をめぐる言論上の争いだけに留まらず、規制対象となる表現の購買者たちのメンタリティにも、一定の影響を与えていくこととなる。購買者たちの間で、自分たちはロリコンではなく二次元限定の特殊なセクシュアリティなのだ、といったように自己規定する者が増えたのである。

こういう風にまとめてみると、本件がただの性表現規制の問題でなくマンガの表現規制の問題でもあったことが、いかに重大事であったかが痛感できよう。だからこそ本稿では、第一章第二節で、本件とマンガ表現規制の文脈――とりわけ有害コミック問題――との接合を試みたのである。

実際この問題は、有害コミック問題の延長として捉えることができるかもしれない。規制反対派の団体は直接つながっているし、両陣営におけるものの語り方も明確に継承しているところがある。したがって、有害コミック問題と本件を一つにまとめて、89年以降のオタク=ロリコン=犯罪者というイメージの連鎖から生まれる恐怖心が、「青少年の健全育成」(→有害コミック問題)と「児童の保護」(→児童ポルノ規制問題)という別の形をとって表れてきた同根のものだと説明することも不可能ではない。また一部の人にとって、規制推進の原動力になっているのは、これらのレトリックの源泉にあたるような「子どもを性から遠ざける」ことであると見てよい。「子どもを性から遠ざける」という巨大な潮流の中に本件を位置づけるとするなら、本件は、マンガ表現という特殊な枠組みによってその潮流が苦戦を強いられた珍しいケースと捉えることができるだろう。

以上が本稿全体のまとめであり、以後は第二部以降の世論、推進派、反対派、購買者といった個別的な対象のまとめに入っていく。これらについては、とくに難しく考える必要はない。事実関係を正しく把握することが第一であり、筆者もいかに正確な記述を残すかに全力を注いだつもりである。

 世論については、行政による統計を参考にしながら、規制に賛成しているとも反対しているとも呼べないような状態にあるという見解をとった。一方で、識者が熱心に反対する「公権力の介入」を、一般の親世代は家庭教育よりも手軽なものとして賛成しているということも指摘しておいた。本件が大きな社会的関心を集めなかったこともあるのだろうが、いずれにしても世論という枠組みから見えてくるものはあまり多くはない。世論よりもむしろ規制推進、規制反対の二手に分かれた専門的な論争に注目した方が得るものも多そうである。

規制推進には、児童の人権団体やフェミニズム団体が活発に動いている。これらの団体は「児童の人権」「女性差別」といった規制を肯定する強力な理念をもっており、その理念を実現するために活動を行っている。この理念あるいは良心こそが原動力になっていると見てよいだろう。内部に生じる細かい矛盾については、その理念の重要性によって無視されてしまうことも少なくない。とくに児童の人権団体については、場合によっては宗教団体とも結びつきがあるようだ。

規制反対派には、一部の児童の人権団体と、マンガ表現に携わる人々の団体とがある(意見書の提出程度ならばここに出版業界団体や日弁連等も含むことができる)。前者に関して述べると、規制推進に向かう児童の人権団体との違いがどこに存するのかについては分かっていない。

後者のタイプの団体で、書店、印刷会社、出版社、漫画家、はては読者に至るまでを覆うような規模にまで成長したものはなかった。あくまでもマンガ家、編集者などの実際に職を失う可能性のある人たちが中心となっている。例えばAMIというマンガ表現者の団体は、あまり読者を取り込むことに積極的ではないが、仮に読者が取り込まれていたら、多少ともロリコン、ショタコン等々のセクシュアリティの承認を求める運動という色彩を帯びていたのかもしれない。読者たちは、署名に参加するなどの形で、この運動に関心を持ちつつも部分的にしか関わることができなかったのである。

 そのような立場の読者あるいは購買者たちは、一つの肯定的な言葉を自らに託して運動をするということがなかったためか、オタク、ロリコンなどのイメージ一つをとってみてもばらつきがある。また一部のモードとして消費している購買者からすれば、ロリコン等のアイデンティティを自らに付与すること自体が当人の実感からずれていたのかもしれない。もともと彼ら自身が、自らを性的少数者ではなく文化集団と見なしているということもあり、セクシュアリティの運動には発展し難かったという側面もあるだろう。

さらに購買者たちは、先述した通り、端的にいって自らを小児性愛者ではないものと位置づけていることが多い。マンガ、アニメ、ゲーム等のメディアの特殊性もあり、そのメディア内部に閉じこもった別種のセクシュアル・マイノリティであると主張する。この発想は「二次元限定」という言葉で表されることもしばしばあるようだ。ただし二次元と三次元という区分には、現実的な犯罪性の有無が関わっている点に注意する必要があるだろう。法規制の内容が、彼らの自己説明のレトリックに意識的あるいは無意識的に影響を与えている可能性は高いと思われる。

また彼らのメンタリティとしては、性と文化とが極めて曖昧模糊としている点が特徴的である。オタクやマニアは文化を軸にした集団であり、ロリコンやショタコンは性を軸にした集団であるというように、言葉の上では両者を区別することは可能だが、しかし彼らは自らの性的指向を文化の言葉で説明してしまうことがある。それだけでなく、実際にマンガ表現における児童ポルノを流行り文化として消費してしまうことも少なくない。

 今後の展開について具体的な予測を立てることは差し控えるが、マンガが大量消費される我が国において、マンガ表現における児童ポルノ規制問題は、これからも他国には見られない特異的な動きを見せていくものと思われる。事実、筆者が研究している最中にも、奈良女児誘拐殺人事件が起きたり、ロリコンを主人公に扱った阿部和重の小説『グランド・フィナーレ』が芥川賞を受賞したりといった、本件に対する世間の関心の高まりを肌で感じる機会には事欠かなかった。同時に、状況の変化がめまぐるしかったため、本稿の発表が遅れるにつれて部分的な修正を迫られることも多かった。おそらく五年後になれば、本稿で述べられている事柄のほとんどが過去のものになってしまっていることだろう(特にマンガ表現規制に関しては、ここ数年、児童ポルノ規制以上に地方自治体の青少年健全育成条例による規制問題が過熱化している)。

だからというわけではないが、これから紡ぎ出されていく言説を丹念に追っていくことで、我が国を出発点とするセクシュアリティ研究、あるいは他の研究史上の重要な論点が浮かび上がることもありうると筆者は考えている。本稿のタイトルに「基礎研究」という言葉を加えたのは、そうした発展を願ってのことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1]用語の説明については、本文では必要最低限に留めさせていただいたが、ここで本稿でも度々登場するロリコンという言葉について説明しておこう。ロリコンというのは、ロリータ・コンプレックスの略語であり、ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』に由来する我が国独自の俗語である。意味としては思春期前後の主に少女に対して性的欲望を抱くこと、あるいは抱く人のことをさす。小児性愛者という言葉は、我が国においてしばしばロリコンという言葉の同義語とみなされていることがある。しかし小児性愛者の方がどちらかといえば硬い言葉であり、また精神医学の世界で小児性愛者に「思春期前の子どもに性的衝動を抱くこと」が条件下されていることをふまえれば、年齢的にも多少のずれがあることは明らかだろう(小児性愛者の方がより低い子どもを性的対象とする人に対する言葉である)。しかし本稿では、そういった定義のずれはさほど重視せず、俗語的な側面を出したい場合に「ロリコン」を、公式的なニュアンスを出したい場合に「小児性愛者」を用いることで、その場の文脈によって適宜使い分けていくことにする。

[2] ただしこの調査結果の信憑性には疑いがもたれている。そもそも違法なポルノグラフィーの流通実態を定量的に計測することが非常に困難なのはいうまでもない。また2004119日付けのHOT WIRED JAPANの記事によれば、イタリアの児童保護団体、テレフォノ・アルコバレーノの行った同種の調査では、日本のインターネット上の児童ポルノの構成比はたったの0.97%に留まっている。さらにいえば、児童ポルノの定義自体が国によって異なることをかんがみれば、日本において児童ポルノが多いか少ないかというのは容易に結論を下せる命題ではないといえる。

[3] 本稿ではマンガという言葉は、厳密なマンガ表現のみではなく、アニメやゲームといった関連メディアの表現も含む幅広い意味で用いている。

[4] 当時、児童ポルノ禁止法の改正は200211月に予定されていた。

[5]赤川学「差異をめぐる闘争」(中河 伸俊・永井 良和編『子どもというレトリック:無垢の誘惑』青弓社、1993年)

[6] いささか余談めくが、2001年、1212日付の読売新聞の朝刊に、児童ポルノ禁止法が禁止された後、アダルトビデオのキャッチフレーズから「女子生」が減少し、そのかわりに「女子生」になったというエピソードが載せられている。こういったエピソードは、同法が及ぼした滑稽な影響として記録されてもよいだろう。

[7] 「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」条文、第一条

[8] 例えば「アブナイ・アブナイ・・・・・・ 児童買春・ポルノ禁止法案」(『諸君』1月号、1999年)において、小玉美意子はこの問題について次のように語る。「・・・たとえ「絵」であっても、観客に対して謝った社会的現実感を与えて、その結果、その観客が児童に対して何らかの虐待をするという可能性はやはりあると思うんです。」(193項)ここから分かる通り、「絵」の規制理由として消費者への心理的影響をあげることは一つの定石となっている。

[9] 安部哲夫『青少年保護法』(尚学社、2002年)参照。ところで、マンガの場合はどうだろうか。ここで性描写のあるマンガ――以下ではあえて世俗的なエロマンガという言葉を用いる――が人にどのような影響を与えるのかという一般的な議論を行っておこう。なおこの問題は福島章『マンガと日本人―"有害"コミック亡国論を斬る 』(日本文芸社、1992年)で詳しく論じられている。

 日本性教育協会が19926月に行った調査(「青少年とマンガコミックスに関する調査報告書」)によると、「マンガ雑誌読書量と婚前性交についての意識」の変化は相関関係にある。マンガ雑誌を月に1冊も読まないと答えた集団では「愛がなくても性交してよい」とする割合が4.9%だったのに対して、マンガ雑誌を月に6冊以上読むと答えた集団ではその割合が16.7%にまで上昇する。元々性に対して開放的な考え方をしていたからマンガ雑誌を読んでいるのか、マンガ雑誌を読むことによって性に対して開放的な考えをもったのかは定かではないが、少なくともマンガが読者の道徳観にまったく影響を与えないと論じることは強引だろうと思われる。したがって、エロマンガは読者の性道徳の形成に少なからぬ影響力を持つのであり、さらにいえば、児童ポルノと見なされるようなロリコンマンガは実在のロリコンに影響力を持つのだ、と推論する方がよほど自然なのである。

[10] 「「児童買春・児童ポルノ法違反」の施行後の検挙状況について」『警察時報』2004年参照

[11] 例えば200281日付の朝日新聞朝刊の記事では、漫画やアニメの規制というテーマが最大の分量を占めている

[12] ルポルタージュ的色彩を持った雑誌記事の典型的なものとして、「大逆境! ロリコン業界のそれでも懲りない人々」(「SPA!200038日号)、「プチ「炉」男、ボクたちってビョーキっすか!?」(「SPA!2002730日号)がある

[13] P2P(ピア・ツー・ピア)とはインターネットのネットワーク・モデルであり、クライアント・サーバ型とは異なって各々がクライアントにもサーバにもなるノードと呼ばれる単位の集合体のことを指す。この技術は、Winnyなどのファイル共有ネットワークに応用され、そこで行われているファイルの共有/交換が著作権ビジネスに大きな影響を与えている。なおP2Pの解説については、ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/)を参考にした。

[14] 例えば20039月の全米レコード協会会長によるの発言など。CNET News.comの記事参照(http://news.com.com/2100-1028-5073817.html)。

[15] 日本雑誌協会による雑誌の発行部数の調査によれば、2004年において、『週刊少年ジャンプ』が2994897部、『週刊少年マガジン』が2721633部と、他ジャンルの雑誌では考えられないほどの発行部数を記録している。マンガ以外で100万部を超えている雑誌といえば、『月刊ザテレビジョン』くらいである。

[16] この点を敷衍すると次のような結論を導くことができるかもしれない。マンガ表現に限れば、児童ポルノ禁止法のように年齢を規制の絶対軸とすることは誤りであり、絵柄という不安定なものを軸にとるべきだ。実際、マンガやゲーム等の表現においては、見た目は小学生程度でも年齢は十八歳以上というキャラクターが少なくない。これはその作品の作者が、法的に問題が出てこないようにあらかじめ設定しているからだ。一方の消費者は、このような配慮に慣れているため、たとえプロフィールに十八歳と書かれていても不思議に思うことはない。法の網の目をくぐる形で、送り手と受け手とが確信犯的にエンコーディング/デコーディングを行っているのである。

[17] 文中のとあるウェブサイトとはジポネット(http://jipo.kir.jp/)のこと

[18] この観念は、現在においては多少薄れてきているように思われるものの、まだはっきりと残っているし、マスメディアによる報道等によって維持されてもいる。ごく最近の例でいえば、20051月に話題になった奈良女児誘拐殺害事件においても、「フィギュア萌え族」という言葉によってオタクとロリコンと犯罪とが結びつけがなされようとした。とはいえ、これはマスコミ全体の反応ではなく、一部にそういった反応を示す人がいたということに過ぎない。

[19] 論旨からは外れるが、この事件の影響は青少年健全育成を語る上では大きかったことを付言しておく。本稿のテーマであるマンガも確かにターゲットとなってはいるのだが、このとき最大のターゲットとなったメディアはおそらくビデオだろう。この事件を受けて、青少年健全育成を目的とするビデオ規制の条例化が進められていったのである。

[20] 「田辺市の規制運動はこうして広がった」『「有害」コミック問題を考える』創出版、1991年、103

[21] この点については、有害コミック問題における規制運動の関係者と児童ポルノ規制におけるそれとがどの程度重なっているか、ということを調べれば明らかになる。しかし現時点ではそのような研究には着手できていない。

[22]参考までに、前章で扱った有害コミック問題の時の世論についても触れておこう。結論からいうと、このときも世論がどっちつかずであった点については変わりがない。本論でも触れたが、93年に総務庁青少年対策本部が出した「青少年とポルノコミックを中心とする社会環境に関する調査研究報告書」では、中高生の保護者である親の調査がされている。親世代というと、規制賛成に傾いているように思われるしれないが、そうではない。そこでは男子の保護者の約6割、女子の保護者の約4~5割がポルノコミックに「接触しても、かまわない」ないし「良くないが仕方ない」と答えている。ただしここでのポルノコミックは一般的な性描写のある漫画全般を指しており、性描写そのものにほとんどの価値が置かれている成人向けマンガとは区別されている。

[23]鴻上尚史「鴻上の知恵」(『週刊朝日』91.4.19、『「有害」コミック問題を考える』所収)はその典型と呼べるかもしれない。「僕が怒っているのは、はっきりしています。まず、良識派(?)と呼ばれる主婦が、いきなり、「お上」に物申したこと。これです。そして、いきなり、「お上」にいくから、どんなことが起こるかというと、今回の、「マンガ専門店」の店長さんの逮捕という信じられない事態が起こるのです。」この発言にみられる通り、公権力の介入という事態を重く受け止めるのは当時多くの識者がとっていたスタンスである。

[24] 同調査によれば、「(ポルノコミックを)見るか見ないかは、子どもの自由に任せておいても問題はないか」という質問に対して、「そう思う」が29%、「そうは思わない」が31%であった。しかしそうかと思えば、「条例などによる規制をすすめる」という対策について、「必要がある」と答えたのが46.4%、「必要がない」と答えたのが18.0%であった。このように家庭レベルでの放任を半数の親が承認する一方、公権力による規制は承認してしまうという矛盾するような立場を多くの親がとっているのだ。

[25] 宗教団体との接触について述べておくと、次に引用するような田辺市規制運動の担当者の発言を読む限りでは、早い時期から接触があったのは確かなようだ。「私らが和歌山で署名活動していたら、「署名用紙もらっていって向こうでコピーしてやらせてもらいます」と京都のキリスト教関係者の人が言ってくださった。」(「田辺市の規制運動はこうして広がった」『「有害」コミック問題を考える』創出版、1991年、101項)

[26] エクパットとは、End Child Prostitution in Asian Tourismの略であり、東南アジアを中心とした国際的な児童買春ツアーを無くそうという運動である。

[27] 「「子どもの権利」を守るため…」(『P−MATE』、20031月号、宙出版)ただし傍点は引用者による。

[28] ロン・オグレディ『アジアの子どもと買春』明石書店、1993年、212

[29] 筆者はAPP研の詳細について知らないが、彼女たちの発行する『論文資料集』第2号「映像と暴力」の記述を読む限りでは、最初は弁護士や学者からなる研究会としてスタートしているようである。

[30] ただしこの場合問題になってくるのが、マンガ表現においては女性が性的対象として登場しないポルノグラフィーが少なくないこと、すなわち、「やおい」や「ボーイズラブ」などと呼ばれる男性同性愛が描かれたポルノグラフィーの存在である。なぜならポルノグラフィーが男性支配の原理であるという前提が、男性が客体化されている文化の存在によってぐらついてしまうからだ。これらの市場はマンガ産業全体でみてもけっして小さいものではないから、例外として片付けることはできないだろう。

[31] キャサリン・マッキノン、アンドレア・ドウォーキン『ポルノグラフィと性差別』、青木書店、2002年、48項、ただし傍点は引用者による

[32] ポルノ・買春問題研究会『論文資料集』第4号「ポルノ被害の実態と分析」ポルノ・買春問題研究会、2003年、11

[33] 例えば先述したポルノ・買春問題研究会の公式サイトには、次のような文章が掲載されている。「現代社会の男性の支配的セクシュアリティは、支配と従属を核心としています。とするならば、最も無力で受動的(とくに男性の妄想の中では)で抵抗力が弱く支配しやすい対象としての少女との性的行為を妄想することは、この支配的セクシュアリティの核心部分と完全に合致しており、その意味で、「潜在的には成人男性のかなりの割合を占めている」とみなすのは、きわめて合理的な推論であると思います。」(APPの公式サイトより http://www.app-jp.org/voice/2002/02.08.06.html)これは現代社会における男性のセクシュアリティが、必然的に小児性愛へと向かうベクトルをもっているという指摘である。

[34] 987月に発表された対案では、「アニメなどでの「子ども」の性的描写をめぐっては、それが子どもへの性的虐待を助長するという主張と、逆に子どもへの性的虐待を抑制するという主張があります。心情的に問題を感じていても、被害を証明できないのであれば、これを規制の対象にすることには慎重であらざるをえません。(中略)私達としては、現在の段階でこれを禁止の対象とすることには反対せざるをえません」との記述がある。この文章はhttp://homepage3.nifty.com/ecpat/ECPAT/law/horitsu_an.htmにアクセスすることでインターネット上から閲覧可能である。

[35] このエクパット関西の対案で興味深いのは、そもそも児童買春・児童ポルノ禁止法はアジアの途上国に住む子どもたちの人権被害をいかに無くすかという問題意識から出発しているはずなのに、「援助交際」といった国内の若者の性行動を規制するような法案になってしまっているのはなぜか、といった批判である。

[36] 1998618日付、朝日新聞朝刊を参照

[37] 実際にはAMIは署名活動を行っておらず、本稿で取り上げている署名活動は「児童保護に名を借りた創作物の規制に反対する市民有志」によるものだが、しかしこの団体はAMIのメンバーによって組織されているため、ここではこのような書き方をしている。

[38] ミーガン法の説明については、http://macska.org/meg/(ミーガン法のまとめ @ macska dot org)の記述を参考にした。

[39] この調査は、アメリカ連邦司法局の一部門であるNational Institute of Justiceが行ったもので、ネット上で一般公開されている(http://www.ncjrs.org/pdffiles1/nij/179992.pdf)。それによると、調査対象者において「住居からの追い出し、入居の拒否」を経験した者が全体の83%、「脅迫/嫌がらせ」が77%と、非常に高い割合を示している。

[40]J.エニュー『狙われる子どもの性』啓文社、1991年、77

[41]ロン・オグレディ『アジアの子どもと買春』明石書店、1993年、87項参照

[42] 前掲書、7682項参照

[43] 斉田石也「ロリコン・メディアはこんなにつらいよ」(『別冊宝島二四〇号 性メディアの50年』宝島社、1995年)参照

[44] 存在しないと記したものの、今後普及するかもしれないマイナーな言葉はいくつか生まれているようだ。その候補の筆頭にあげられるのが「ロリオタ」である。オタクという語はアニメ、マンガなどを好む集団を幅広く指す言葉であるため、性的なニュアンスは含まれていない。一方のロリコン、ショタコンという言葉は逆にメディアを限定しない印象を与える。そこでこれらの語をドッキングした「ロリオタ」「ロリヲタ」という言葉が用いられるようになったのだと思われる。もちろんこの言葉もレイベリングされたことにより広まった感じを受けるが、一方で当事者たちがこの語を納得して使っている可能性も高い。ちなみに2004726日現在、Googleで「ロリオタ」を検索すると1270件、「ロリヲタ」を検索すると813件のヒットがある。同環境で「ロリコン」を検索すると129000件であったから、このことから現時点での知名度は高くないことがうかがえる。また似たような候補として「二次ロリ」などもある。

[45] この設問について、5年以上を全てひとまとまりにするのは強引ではないかという意見もあるかもしれない。しかし参加者の中には、10代後半や20代前半の者が少なからず存在する。彼らが思春期を迎えてからの年月は10年に満たないと思われるが、その場合は10年以上という選択肢は取りえない。よって全ての世代で選択肢の意味合いを一貫させるため、5年以上をひとまとまりとしたのである。

[46] 赤木旭「ロリコンという欲望 美少女症候群」『ニュー・フェミニズム・レビュー3』、学陽書房、1992年、230

[47]弁護側の持ち出した「オタク的性表現の非現実性」というロジックは、次の文章によく表れている。「マンガで描かれる「人間を演じるキャラクター」が「人間」ではない以上、マンガで描かれる「性器」は「人間の性器」ではなく、「キャラクターという、架空の概念的存在の一部」でしかない。」長岡 義幸『「わいせつコミック」裁判―松文館事件の全貌!』(道出版、2004年)132

 

 

 

 

 

■参考文献

 

赤川 学『性への自由/性からの自由:ポルノグラフィーの歴史社会学』青弓社、1996

赤木 旭「ロリコンという欲望 美少女症候群」『ニュー・フェミニズム・レビュー3』学陽書房、1992

安部 哲夫『青少年保護法』尚学社、2002

NHK放送研究所編『NHK日本人の性行動・性意識』日本放送出版協会、2002

J.エニュー『狙われるこどもの性』啓文社、1991

江原 由美子編『性の商品化』勁草書房、1995

O’grady, Ron 1992, The Child and the Tourist(ロン・オグレディ『アジアの子どもと買春』明石書店、1993年)

加藤正志「マンガの社会的評価についての一考察」富山大学人文学部人文学科卒業論文、1997

月刊『創』編集部編『「有害」コミック問題を考える』創出版、1991

斉田 石也「ロリコン・メディアはこんなにつらいよ」『別冊宝島二四〇号 性メディアの50年』宝島社、1995

斎藤義房「青少年保護条例「改正」の現状とその背景」『法と民主主義』6月号、日本民主法律家協会、1992

清水 英夫 他「アブナイ、アブナイ 児童買春・ポルノ禁止法案」『諸君』1月号、1999

清水 英夫・秋吉 健次編『青少年条例 自由と規制の争点』三省堂、1992

鈴木 晶「搾取される子供たちの性」『イマーゴ』2月号、1990

Sbutiw, Ann & Cakufua, Pat 1986, 1988, 1992, 1995, CAUGHT LOOKING feminism, pornography & censorship, Caught Looking Inc.(アン・スニトウ, パット・カリフィア他『ポルノと検閲』青弓社、2002年)

総務庁青少年対策本部「青少年とポルノコミックを中心とする社会環境に関する調査研究報告書」1993

土本亜理子「架空の美少女に託された共同幻想!」『別冊宝島一〇四号 おたくの本』、1989

内閣府大臣官房政府広報室「児童の性的搾取に関する世論調査」2002

長岡 義幸『「わいせつコミック」裁判―松文館事件の全貌!』道出版、2004

中河 伸俊・永井 良和編『子どもというレトリック:無垢の誘惑』青弓社、1993

日本性教育協会編「青少年の性行動」1975

――――――――「青少年とマンガコミックスに関する調査報告書」1992

橋本 健午『有害図書と青少年問題―大人のオモチャだった“青少年”』明石書店、2002

福島 章『マンガと日本人―"有害"コミック亡国論を斬る 』日本文芸社、1992

ポルノ・買春問題研究会『論文資料集』第2号「映像と暴力」ポルノ・買春問題研究会、2001

―――――――――――『論文資料集』第4号「ポルノ被害の実態と分析」ポルノ・買春問題研究会、2003

MacKinnon, Catharine A. & Dworkin, Andrea 1988, In Harm’s Way: The Pornography Civil Rights Hearings , Harvard Univercity Press(キャサリン・マッキノン, アンドレア・ドウォーキン『ポルノグラフィと性差別』青木書店、2002年)

森山 眞弓『よくわかる児童買春・児童ポルノ禁止法』ぎょうせい、1999

湯浅 俊彦「批判噴出!児童ポルノ禁止法案のどこが問題か」『創 987月号』創出版、1998

Levine, Judith 2002, HARMFUL TO MINORS, Univercity of Minnesota Press(ジュディス・レヴァイン『青少年に有害!』河出書房、2004年)

 

     本稿の執筆にあたっては、上記の文献だけではなく、多数のウェブサイトのテキストも参考にさせていただきましたが、それらは一覧化せず、その都度、脚注にURLを記載することにさせていただきました