第1章―「議員インターンシップ」とは何か?

 

 「議員インターンシップ」を運営する団体は、1990年代末に立て続けに設立された。97年の「STATESMAN」(ステイツマン)を皮切りに、98年には「I-cas」(アイカス)がそして99年に「.jp」(ドットジェイピー)が誕生した。

 この「議員インターンシップ運営団体」という言葉を分解して見てみると、そこには、三つの要素が含まれる。まず「議員/政治業界」、次に「インターンシップ」そして、「STATESMAN」以外の2団体は、「NPO」(特定非営利活動法人)として団体を運営しているため「NPO法人」。これら三つの要素から読み取れるのは、「議員インターンシップ団体」とは、「何らかの形で、議員及び政治業界に対して、インターンシップを実施する非営利活動法人」ということである。

 そしてこのように分類してみると、何故これら諸団体が相次いでこの時期に設立されたのかは決して偶然ではないことが明確に分かる。「序章」で述べた70年代末からの時代背景は、「ポスト高度成長」時代への突入であった。そして、80年代後半からは、「豊かさへの疑問」が世間を覆う。そして、「新しい道」としての未来を志向する風潮が90年代に入ると西欧諸国に追従する形で日本においても整備されるようになる。インターネットの普及と相まって「ネットワーク型社会」などという言葉が普及したのもこうした流れの典型であった。

 特定非営利法人法(以下NPO法)の設立は1998年、そして、インターンシップという言葉が、旧来の「医師・理容師・美容師などの志望者が修学後免許を得るための要件として職場で行う実習または実習生。」という広辞苑の説明ではなく、新たな意味が付与されて再登場したのも丁度1997年頃からであった。[1]

 こうした点を踏まえると、「インターンを運営するNPO法人」というのは、日本の文脈で言うならば、「ポスト高度成長」以後に志向された未来型社会の一モデルとして理解することができる。

 それでは、続いて「議員/政治業界」という要素はどのように絡んでくるのであろうか。90年代に入ると、55年体制の崩壊、そして「無党派層」の増加や「多党化」など次第に戦後の政治体制の基盤が大きく崩れてくる。そして、それらに伴い、制度自体も、橋本政権時の「省庁再編」に代表されるような組織編制が敷かれてくるようになる。即ち、極めて楽観的に述べるならば、21世紀の新たな社会に向けての下準備が整えられた時代であり、もっと現実的に述べるならば、従来の制度が制度疲労を起こし、政治家にとっての新たな「市場」である「無党派層」を取り込むことができなくなる状況が生まれた時代であるとも言える。

 こうした背景を踏まえた上で、以下「第1節」では、「議員インターンシップ」とは何なのかを明らかにしていく。そして、「第2節」では、先に挙げた、「議員インターンシップ」の三つの団体、「STATESMAN」(ステイツマン)、「I-cas」(アイカス)、「.jp」(ドットジェイピー)の設立及び、各団体の特徴を挙げて説明していきたい。

 

第1節―「議員/インターンシップ/NPO」

 

 特定非営利活動法人「NPO」

 「NPO」(Non Profit Organization もしくはNot for Profit Organization)は一般には市民のボランティア活動をする人々が集まって結成した非営利法人、または民間非営利団体などと理解されている。つまりは、その団体や組織がそれぞれ活動することによって得た利益は、一般の企業と異なり、組織内で配分しない。[2]

 NPOという用語が世間を賑わすようになるのは、阪神淡路大震災を契機とした「ボランティア元年」と同じ1995年である。それまでは、平和活動や環境問題などに国際的に取り組む団体・運動としての印象が強かった、NGOが認知度としては高かった。[3]しかしながら、阪神淡路大震災を契機とした国内的な「ボランティア」活動、また98年に成立する特定非営利活動法人法(NPO法)に関する議論の盛り上がりが呼び名としてのNPOを世間に印象付ける結果となった。

 こうした「ボランティア」や「NPO」といった用語の普及の背景には、「社会奉仕」的な活動への「再注目」と共に、従来使われていた用語、例えば、「社会奉仕」や「奉仕活動」、または「慈善活動」などといった言葉が人々に与えるニュアンスと実際の活動に若干の乖離が生じてきたからであろう。それまで使われてきた用語には「自己犠牲的で、禁欲的なニュアンス」があるかどうかは別としても、ある「古さ」を与えるものには違いなかった。

 また、団体としての「NPO」のもう一つの側面としては、時として「市民運動」や「住民運動」などと呼ばれている活動に近いものがある。しかしながら、「左翼」とは違ったものとして自己を表象する場合の「新左翼」や、従来型の「市民運動」とは違うものとして自らを位置づける「新しい市民運動」、そして「NPO」もそうした「新しい市民運動」よりもさらに〈新しい〉ものとしての「NPO活動/法人」といった「過去を忌避する」とは言わないまでも、距離を保つための手段として定着した要因がそこにはある。

 こうしたように、多くの呼び名が時代と共に変化するように、「NPO」も新鮮なイメージが付与されることによって、多くの支持者を獲得する契機となった。

 しかしながら、90年代半ばから後半にかけてこれだけ「NPO」という言葉が普及し、多くの「NPO」が生まれた理由はそうしたイメージの問題だけではなかった。「NPO」が法律として整備されたのはそれまで活動してきた多くの団体にとってもメリットのある制度となったからである。そもそも、NPO制度の中身は、ボランティア・市民団体が簡単に法人格を確保できるようにすること、そしてその法人格を取得した団体に税制上の優遇措置をすることの二点であった。[4]それまでも多くの「市民活動家」などが、「慈善活動」や「奉仕活動」をおこなっていたが、そうした団体が国に認められ一定の信用を得て活動していくには規模を大きくして認知度を上げていく他は難しいのが現状であった。そういった状況の中で、国、地方自治体のお墨付きをもらい、さらには税制上の優遇まで受けられる「NPO法人格」は魅力的な制度であったことには違いない。

 そして、設立側の政府にとってもこうした「NPO」といった民間主体の運動のうねりは推進するに価するものであった。後に詳しく述べる「インターンシップ制度」推進の理由と同じように、バブル経済以降の日本の政治は制度疲労を起こしていた。また、長年続いた福祉国家的な政策によって、巨大化した政府は多額の赤字を抱え込むことになり、いわゆる「政府の失敗」がいっそうはっきりしてきたのである。こうした、従来国家がやるべきものとされていた福祉的なサーヴィスをNPOや非営利セクターなどが担っていくことは政府にとっても大きなメリットとなったのである。

 ただ、こうした「国家のお墨付き」としての「NPO法人格」はその認証基準などが幅広い故に、時として捕らえどころのないものとなってしまうことも少なくない。従来型の「市民活動」の延長線上のもの、または、ベンチャー企業的志向を孕んだ営利的要素が強いもの、そして税制上の優遇を狙った企業の税金対策として利用されるケースなど同じ「NPO」でも実際の活動にはかなりの違いがあるのが実情である。

 

 「インターンシップ制度」

 本章の冒頭で述べたように、インターンシップという言葉は、医師、理容師、美容師などの専門的職業訓練を行う教育機関で利用される言葉であった。しかしながら、アメリカを中心とした先進諸国の高等教育機関でそうした専門的人材を育成するためではなく、企業人を養成するために導入された「インターンシップ制度」が90年代末になると日本にも導入されるようになる。これが、本論文で扱う「インターンシップ制度」の位置づけである。

 もともと「インターン(intern)」という語には、「一定の区域に拘禁、拘留する」という意味が含まれている。それが、「泊り込む」や「所属する」といったニュアンスに変化していったようである。そして「インターンシップ先進国」であるアメリカでは、「企業が主催し、そこに学生が参加する形態」としての「Internship」と、「大学と企業が提携し、大学教育の一環として行う」「Co-op Program」という制度が作られようになる。日本では、この両者二つが混在して「インターンシップ」という名前で語られているのが現状である。

 そもそも、旧文部省、通産省、労働省の定義によると、インターンシップは「学生が在学中に自らの専攻、将来のキャリアに関連した就業体験を行うこと」[5]ということになっている。しかしながら、この定義には「旧来型のインターンシップ」の定義の様相が多分に含まれているように感じられる。実際は、自らの専攻に関係なく、将来のキャリアを模索するためにインターンシップを利用する学生が多い。そうした意味で、現在のインターンシップの定義としては、「学生が在学中に、教育の一環として、企業等で、企業等の指導のもと、一定の期間行う職業体験およびその機会を与える制度」[6]と考える方が妥当であろう。

 日本における、こうした「インターンシップ制度」導入の背景には、アメリカ、イギリス等の先進諸外国からの影響の他に、それを受け入れた社会的な事情もあった。本章冒頭で述べたように、冷戦構造の崩壊と55年体制の崩壊、またバブル経済の崩壊を迎えた日本にとって、それは従来型の制度の崩壊を意味していた。即ち、そうした崩壊を目の当たりにした日本は、新たな制度を導入し、立て直しを図る必要性が生じたのである。政府は、19975月に「経済構造の変革と創造のための行動計画」を閣議決定した。その中で「新しい産業構造に対応する人材の育成、具体的にはベンチャー企業の育成および起業家の養成およびインターンシップの推進」が方策として決定され、同時に文部省、通産省、労働省によって「インターン・シップ推進のための三省連絡会議」というものも設置された。また、具体的な方針として、文部省が19971月に発表した「教育改革プログラム」では、インターンシップを推進する旨を明記し、小学校から大学までの教育機関に対して、インターンシップの推進を促す方針を打ち出している。こうしたように、日本においては経済構造の制度疲労の解決策として、「インターンシップ」は「ベンチャー企業の育成」、「企業家の養成」と並列なものとして21世紀を目の前に控えた90年代末に急速に導入の方針が打ち出された。先ほど述べたようにNPOもこうした文脈の中の一つとして位置づけられる。

 しかしながら、インターンシップ制度の急激な発展は、特に日本においては、そうした政府主導の政策によってのみ普及したものとは必ずしも言えない。そこには、「若者」と「就業」に関わる根深い問題が存在するのである。80年代以降、時代の転換と共に、若者の「ライフコース」も変化していった。「若者」と「シティズンシップ」の関係が日本よりも早期に深刻な社会問題として発見されたイギリスでは、60年代から70年代にかけて既に若者が成人期へとスムーズに以降できるとする機能主義的な考え方は信用を失った。[7]即ち、家族と教育などの国家制度の下で、若者が一定の教育・訓練を受けた後に、スムーズに社会へとその場を移行していく、といった旧来型のライフコースが説得力を持たなくなっていったのである。そして、日本においても「新人類」の出現と同時に、若者の自立を考える議論が活発になった。[8]1980年代の後半になると経済の状況の中で自らの意志で定着に就かずアルバイト・パートタイム的な仕事を続ける若者が急増する。こうしたいわゆる「フリーター」の増加は従来のライフコースでは想定し得なかった、「脱青年期」とも呼べる新しい段階を生んだ。[9]そして、近年、「フリーター」とも違う「NEET(ニート)」(Not in Education Employment, or Training)と呼ばれる、文字通り「働こうともしてない、学校にも通ってない、仕事につくための専門的な訓練も受けていない」[10]「若者」の群に注目が当てられている。

 こうしたように、政府の言う「雇用のミスマッチ」では解決し得ない問題が近年「若者」と「就業」の問題には存在する。そして、「若者」の側も決してこうした状態に無頓着でいるわけではない。事実、「第二章」で詳しく論じるように「議員インターンシップ」に参加する彼らもそうした「就業」に対する強い意識の下、そうした場に足を踏み入れているのである。

 「インターンシップ制度」は、基本的に以上述べてきた政府側による制度の改善と、参加者側のニーズという二つの大きな柱から急激に普及した。更に、もう少し付け加えておくならば、企業側からの若手社員離職率の増加を防ぐための方法として、そして、80年代後半から議論が活発になってきた大学の「実学教育」の一環として、国(政府)、実施側(企業等)、推進側(教育機関等)そして、参加者(学生)のニーズが合致したことにより90年代末から現在にかけて急速に普及したのである。しかしながら、「インターンシップ」はここで挙げた四つの当事者だけでは成立し得ない。そこには、「運営側」が必要になってくる。時には、大学側が運営サイドに回るケースもあるが、多くは「人事コンサルティング会社」と呼ばれるものや、「人材派遣会社」が運営しているケースがほとんどである。そして、本論文が扱う、「議員インターンシップ」運営団体はこの「運営側」に位置づけられる。即ち、「.jp」をはじめとした「議員インターンシップ」運営団体は、こうした社会背景の下、学生を「議員」または「政治業界」へのインターンシップ(就労体験)へと橋渡しすることを「仕事」としている団体なのである。

 

「議員/政治業界」

 「NPO」も団体を運営するためには資金が必要であり、「インターンシップ制度」も受け入れ先がなければ成立し得ない。「議員インターンシップ」という制度が存在するのは、やはり、「議員/政治業界」側からもニーズが存在するからであろう。

 冷戦構造の崩壊と55年体制の崩壊が日本の政界にもたらしたものは、幾度の政界再編成であった。これまで何度も述べてきたように、90年代の日本は、旧態依然とした様々な制度の見直しを図られた時期である。そうした中、93年の自民党分裂によって日本新党、新生党、新党さきがけなどの新しい政党が生まれ、国民的人気を誇った細川護熙政権が同年誕生する。イデオロギー対立を脱した後のこうした新しい政権の樹立は、若手の議員を多く生む結果となった。そして、1996年の民主党結党によって、若手議員を生む地盤はさらに固まり、「二大政党制」を望む声の高まりと共に自民党対民主党といった対立構図が次第に定着していく。

 93年以降に生まれた20代から40代の「若手議員」は中央省庁やマスコミなどの民間企業、はたまたNPOやシンクタンクといった90年代に生まれた新しい産業を前職とする「しがらみ」のない議員が多かった。そうした、二世、三世でもなく、政治業界に「太いパイプ」を持たない彼らを政界へと導いたのは、やはり「情報化社会」の大きな流れであった。彼らはインターネットなどの新しい技術やテレビなどのマス・メディアを使ったイメージ戦略によって、80年代末から生まれつつあった都市部の「無党派層」と呼ばれる有権者の民意を掴んでいったのである。

 しかしながら、そうした「しがらみ」のない若手議員たちは逆に言えばそれまで政治活動をするために必要であるとされてきたいわゆる、「地盤・看板・鞄」(3バン)[11]を持たない者であった。いくら彼らが55年体制とは違った「新しい政治」を渇望して政治家になったからとはいえ、全体の一割も満たない若手議員が全く新しいルールを一気に打ち立てるのは不可能であった。そのため、いつ訪れるか分からない次の選挙で再選を果たすためには、「地盤・看板・鞄」を新しい形で整備しなければならなかったのである。

 ただ、そうした「地盤・看板・鞄」を旧態依然の制度の中に求めるのは、現実的にも自らのイメージを守るためにもできなかった。そこで彼らが求めたのは、安価で優秀な人材と新しいことへチャレンジしていくといったイメージであった。そこで注目が集まったのがNPO法人によって運営されている「議員インターンシップ」といった制度の出現である。高等教育において訓練を受けている参加学生は事務所の人材として「安価で優秀」な労働力を提供する。また、「インターンシップ」や「NPO」といった90年代後半に出現した「古い」政治家には馴染みのない制度を利用することは、「新しい政治家」として世間に売り出すには格好の材料となった。

 こうしたように、「議員インターンシップ」といった制度が実現したのは、学生といった一方の顧客と、政治家といった他方の顧客のニーズが合致したことによって生まれたのである。ただ、ここで一点付け加えなくてはならないのは、受け入れ議員側は必ずしもそういった「利己心」のみによって、学生を受け入れているのではないということである。冷戦構造が崩壊し、イデオロギー対立が希薄になった現在、彼らが持ち出す対立構図というのは、「保守VS革新」ではなく、「古い世代VS新しい世代」というものである。そういった意味で、積極的に政治業界へと足を踏み入れようとする「新しい世代」の学生達は彼らにとっては「仲間」であり、そうした「仲間」を一方で教育し、一方で彼らから学びたいという思いもそこには存在するのである。

 

「議員/インターンシップ/運営団体(NPO)」

 これまで述べてきたように、NPO法人によって運営されている「議員インターンシップ」事業は、90年代に起きた様々な制度の見直しや、市場によるニーズに応える形で成立、発展してきた。それでは、参加学生は議員事務所でどのような就労体験を行っているのであろうか。それに関しては、ルールが決まっていないというのが現状のようである。基本的に、「議員インターンシップ」運営団体は、あくまでも制度を運営するためのものであり、何をインターンシップの中でやるかを決定するものではない。そのため就労体験の具体的な作業は各々の議員事務所によって決定される。そうした、具体的な活動に関しては「第2章・第2節」において、参加者の生の声を拾いながら紹介していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2―各団体の成立と特徴

 本章の冒頭で述べたように、現在「議員インターンシップ」を運営する団体は三つほど存在する。「第2章」以降では、その中でも「.jp」(ドットジェイピー)を具体例に論じていくことになるが、その前にここでは、その他の団体を含めて各々の団体の特徴や設立経緯を紹介していきたい。それによって、これまで述べてきた社会的な背景がどのように団体の特徴として具現化されているのかが明確化されるものと思われる。

 

 「政治理念型」―「STATESMAN」(ステイツマン)

 「1996年秋、数人の学生がある若手の新人候補者の選挙をボランティアで初めて手伝った。政治の現場を初めて体験して、『政治を身近に感じること』『一票の重み』を肌で感じることができた。(中略)半年後の1997年5月、大学4年生だった佐野哲史前代表を中心に有志の学生が集まり、自分たちで政治家(候補者)を選び、ボランティアで支援をするために、『信頼できる政治家を創るNPO』を立ち上げる。

 私腹を肥やす『政治屋(ポリティシャン)』ではなく、社会のことを本当に考える『政治家(ステイツマン)』を自分たちの手で創り出そうと思い、団体の名前を『STATESMAN(ステイツマン)』として、行動をはじめる」[12]

 以上、「STATESMAN」のホームページより抜粋した言葉である。一節からも読み取れるように、「STATESMAN」は「理想の政治家」を生み出すことを目的とした団体である。従って、組織の仕組みや運営方法に関しても他の二団体とは異なる側面を持つ。「STATESMAN」にとって、「人々に議員インターンシップを経験させる」ことが最大の目的ではなく、自分たちの理想に合った政治家を輩出することであるため、参加する議員は「お客様」ではない。そのため、応援する政治家を「STATESMAN」側が審査し決定するという方針を採っている。

 そうした「審査基準」は、「T.人物・能力・独創性」、「U.アイディア・計画」に分かれており、特に「T.」は興味深い。「T.」はさらに「1.動機は明確で公共性があるか」、「2.創造性のある人物か」、「3.信念・粘り強さ・行動力のある人物か」、「4.市民と政治の架け橋となる姿勢と能力のある人物か」、「5.直感的に信じることができる人物か」と続き、またそれぞれの下にさらなる細かい基準が設けられている。

 こうした「審査基準」はまさに彼らの「政治家としての理想像」が反映されたものである。それを要約してみると、「政治家になるためのしっかりとした理念に基づいた動機があり、粘り強く、公益のためになるようなアイディアを持ち、それを実行する能力がある。」ということになる。

このような考え方は、その独特の運営方法にも表れている。他の二団体が「議員」を顧客として扱っているのに対して「STATESMAN」はそうした「審査基準」を通過した者のみを「認められる政治家」として支援していく。彼らは、こうした方法で政治家を「育てる」ことによって世の中を良く出来ると考え、日々の活動に励んでいるのである。

 こうした「政治家」を「清く・正しく・美しく」しいものとする理想の背景には、逆に言えば、「政治家」が「不誠実で正しくなく汚い」ものであるといった「政治家」を巡る言説が根底に存在するからであろう。「情報化社会」に突入し、「政治の腐敗」がメディア等で日々の情報として与えられるようになった今日であるからこそ、「如何に政治は腐敗してしまったのか」という言説に〈再関心〉が集められ、それを脱することが新しい社会の幕開けとする考えが生まれたのである。

 「STATESMAN」を立ち上げた前代表は、現在引退し、今はベンチャー企業の副社長として働いている。

 

 「地方政治型」―「I-CAS」(アイカス)

 「地方政治型」として位置づけられるのは、「NPO法人I-CAS」(以下I-CAS)である。その理由は、地方議員限定に学生を送り込むという運営形態を採っていることによる。

 1990年代から「地方分権」という言葉が政治学の分野から端を発し、マスコミ、世論を賑わすようになった。それと平行して現場の政治においても、若手議員が相次いで誕生している。20034月の統一地方選挙都道府県議選では、2014名、30162名が、また、統一地方選挙市区町村議選でも多くの地域で「若者」の当選が相次いだ。

 こうしたように、近年「地方政治」というのは、従来の「商店街のオヤジ」や「地元の地主」というイメージから若手政治家の登竜門的な位置づけとして注目されている。こうしたところに目をつけた点に「I-CAS」の特徴があると言えるだろう。

 「I-CAS」ホームページ[13]において、何故地方議会に対象を絞っているかについてこうしたコメントが記載されている。

 「国会議員のインターンシップの場合、議員本人について研修をするというよりも、議員秘書、ないしは事務所スタッフの下働き的な活動になってしまってしまう危険性があり、『議員』が日々何を言ったり、考えているのかに直接触れることが大変困難です。地方議会議員の場合、秘書がいないか、いてもごく少数の場合がほとんどなため、逆に議員本人と共に行動し、作業し、意見交換する機会を格段に多く得ることができます。」

 80年代は、若者文化を中心に東京一極集中の時代であった。その背景には、60年代の工業化の発展に伴う、「人材不足」があった。「金の卵」と呼ばれた若い労働力は、重宝され、多くの若者が東京へとその生活の基盤を移すことによって都市部の若年層人口が増大した。また、経済的な発展に伴う都市部の機能拡充や、さらに冷戦構造の崩壊は地方自治を解体し、中央集権的な一元的支配体制の確立を促す要因となった。そして、文化的にはマス・メディアを中心とした東京発信型の消費文化もこうした「東京一極集中型」の社会を生み出す一因としてはたらいた。

 しかしながら、1990年以降、EUなど主権国家の枠を越えた統合が進められる一方で、アジア各国においても地方分権化が推進されてきた。韓国、タイ、インド、インドネシア、フィリピンなど多くの国々で地方分権化の波が吹き始めた。日本においても例外ではなく1999年には「地方分権推進一括法」が制定され、多くの地域で「改革派知事」と呼ばれる地方分権を推進する知事が誕生した。

 こうした流れの中で、地方議会にも注目が集まり始める。「I-CAS」の試みも、地方分権化に注目が集まり始めた今日であるからこそ、成立し、運営できていると言えるのではないだろうか。

 

 「ベンチャー政治型」―「.jp」(ドットジェイピー)

 この「ベンチャー政治型」という分類は、現在の「議員インターンシップ」制度を端的に表す言葉であると言えよう。そもそも、日本における「ベンチャー企業」という用語は、バブル経済崩壊後に「行き詰った状況を打破する冒険的(ベンチャー的)精神を持った企業」というかたちで〈再発見〉された帰来がある。そして、実際、本章の「第1節」で述べたように、政府は19975月の「経済構造の変革と創造のための行動計画」の中で「新しい産業構造に対応する人材の育成、具体的にはベンチャー企業の育成および起業家の養成およびインターンシップの推進」を方策として決定している。こうしたように、行き詰った産業構造を活性化するための打開策の一つして政界、産業界ならずに、生活者の中にも「明るい希望」として受け入れられた。即ち、「ベンチャー」といったような言葉が使われる以前から起業する際には大なり小なり当然必要とされた「冒険性」を改めて強調された形で生まれたものなのである。

政治の世界においても、80年代の「新自由主義」や近年よく聞かれる「新保守主義」なるものの枠内での保守的志向を有した若手政治家を指す言葉として「ベンチャー政治家」というものがある。彼らは「現在日本に蔓延している閉塞感を打破するために経済からではなく政治からの革命」といったことを主張している。そしてその多くは、日本における政治の〈革命期〉である明治維新に対する強いシンパシーを持つケースが目立つ。「失われた10年」といった標語や「閉塞感」などといった言葉が蔓延した世紀末にそれを打破しようとする「革命精神」や「冒険性」が「維新」という言葉を〈再発見〉しながら生まれつつあった。

 

 「19世紀の半ば、山口県萩市の小さな塾でおこなわれた教育は、時代の閉塞を打ち破り、新しい日本のかたちを作りました。近代日本の原型を作った志士が集まった吉田松陰の『松下村塾』。この一つの小さな場所は、新しい時代を創る萌芽を育みました。

松下村塾から約150年、再び日本は行き詰まりつつあります。そんないまこそ、分野を越え、地域を越え、世代を越えて、新しい価値を創造できる真のプロデューサーが求められています。」[14]

 

 以上、「.jp」の「団体理念」の中の一節である。

 「.jp」は「Japan Produce」の頭文字から取った略語である。この団体は、3000人規模のイベント・サークルを母体としたベンチャー企業の一事業を分離独立したかたちで生まれた。

 当初は企業インターンシップから始まった会社であったが、代表がある市議会議員と出会ったことで「議員インターンシップ」というものが誕生したのである。

 こうしたように、「.jp」という団体は、事実、「ベンチャー企業」を母体として生まれた団体である。そして、上に挙げたように、彼らによる言説は正に現代の保守的志向性を持った議員と同様に、「明治維新」が一つのキーワードとなっているのである。

 

 「政治理念」/「地方政治」/「ベンチャー政治」

 以上、これまで述べてきたようにこれらの「議員インターンシップ」運営団体は、90年代以降の時代的な流れに影響される形で生まれてきた。「政治理念」を重視したり、「地方政治」に特化したり、「ベンチャー」的な志向から始まったなどの特徴はあるが、やはり、90年代に入り急激に押し寄せてきた都市化、グローバル化、技術的な進歩、そしてそれに対応するために敷かれた法的な整備に後押しされる形で発展していった。

 それでは、実際に「議員インターンシップ」はどのように運営され、どのような活動をしているのか。その点を「.jp」を事例に「第2章」で詳しく論じていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] 古閑博美 2001 『インターンシップ−職業教育の理論と実践−』9頁

 

[2] 田中弥生 1999 『「NPO」幻想と現実―それは本当に人々を幸福にしているのだろうか―』 同友館 10

 

[3] 田尾雅夫 川野祐二編 2004 『ボランティア・NPOの組織論―非営利の経営を考える―』 学陽書房 40

 

[4] 田中尚樹 1998 『ボランティアの時代』 岩波書店 18

 

[5] 文部省・通商産業省・労働省 1997 『インターンシップの推進に当たっての基本的な考え方』

 

[6]古閑博美 2001 『インターンシップ−職業教育の理論と実践−』10

 

[7]G・ジョーンズ C・ウォーレス著 宮本みち子監修 鈴木宏訳 1996 『若者はなぜ大人になれないのか』新評論  30

 

[8]柴野昌山 1980 『現代社会の青少年―自立への挑戦と援助―』 学文社

 

[9]G・ジョーンズ C・ウォーレス著 宮本みち子監修 鈴木宏訳 1996 『若者はなぜ大人になれないのか』新評論  289

 

[10] 玄田有史 曲沼美恵 2004 『ニート フリーターでもなく失業者でもなく』 10

 

[11] 「地盤・鞄・看板」別名「3バン」とはそれぞれ、地盤−支持者(後援会)、鞄−資金、看板−知名度(人気)を指す。

 

[12] 「ステイツマン」ホームページ 20047月 http://www.statesman.jp/history/index.html 

 

[13] I-CAS」ホームページ 20047 http://www.i-cas.org

 

[14] .jp」ホームページ 20047月 http://www.dot-jp.or.jp