序章

 

「若者」がいつ頃から「政治的無関心」と言われるようになったのかという問いに対して、諸説存在する。そもそも、「政治的無関心」という言説だけを取り出せば、近代国家成立時点において既にそれが問題にされていたことは歴史学の中では報告されている[1]。また、「若者」という文脈で考えても、戦後、「政治的無関心」から「〈再関心〉」という流れが政治運動の再燃する過程で見られる。そして、全共闘運動の時点でも「政治的無関心」を「バネ」に活動が展開されたという側面は存在したと言えよう。しかしながら、ここでは論文の冒頭で引用した「.jp」の理念の中で使われている意味での「政治的無関心」という言説がいつ頃誕生したのか、この点を重視して考えていく。即ち、現在の文脈に繋がる意味での「政治的無関心」の出発点がどこにあるのかという問いである。

 こうした点を踏まえて考えると1970年代後半というのが重要な転換期となったと筆者は考える。1970年代後半、1968年の全共闘運動から約10年で若者はどのように変わったのだろうか。以下では現在の文脈に通ずる1970年代後半の「若者」の変化と、それを支えた同時代的な背景を追いながら「政治的無関心」の誕生と現在への流れを追っていきたい。こうした点を見ていくことで、「議員インターンシップ」に関わる人々がどういった言説を「バネ」に活動しているのかを想像することができる。

 

 全共闘運動から10年後

 1970年代後半に、若者を表象する多くの言葉が生まれた、それらは、「しらけ」、「やさしさ」、「モラトリアム」である。この中でも「モラトリアム人間」は、1978年の流行語となった。この言葉は、社会心理学者の小此木啓吾が書いた『モラトリアム人間の時代』[2]において、いつまでも大人になることなく、自分のアイデンティティを未決のままに留めておこうとする心理であると説明されている。例えば、1977年の「青少年白書」[3]では、「金や名誉を考えずに、趣味にあった暮らし方をする」と答えた20-24歳の若者が1953年には34%だったのに対して、この年には53%に上昇している、また、「世の中の不正を押しのけて、どこまでも清く正しく暮らす」と答えた若者は77%(1953年)から1973年には46%と減少した。こうした特徴は、現在の大枠での「若者論」や「フリーター論」及び「ニート論」と呼ばれるものに通ずる基本的な若者の表象であり、それらを支えているのは、やはり他者への「やさしさ」なのである。

 こうしたように、この時代から「若者」は全共闘世代とは違う新奇なものとして「発見」されるようになった。即ち、彼らは、全共闘運動という大きな時代的な「事件」から対比される形で論じられるようになったのである。

 しかしながら、「全共闘運動」世代の若者を70年代後半に生まれた、「モラトリアム人間」とは全く違った、「政治的関心」を強く持った、「素晴らしい」若者と表象すること自体も間違っている。そうではなく、全共闘運動以降の学生に共通するメンタリティを形成させる要因は既に全共闘運動の時代に形勢されていたのである。そうした点に関しては小熊英二の『民主と愛国』[4]の中からも読み取れる。「この全共闘運動は多くの場合、『革命』や『疎外』といった、マルクス主義の言葉によって行われていた。しかしその背景にあったのは、学生のマス化と旧来型の大学組織のミスマッチであり、(中略)マス化してゆく大学と社会のなかで『人間としての真実をとりかえしたいという欲求』だった。」こうしたように、1960年に10.6%だった大学進学率が、1970年には、23.6%、1975年には37.5%と現在の水準とほぼ同じくし、大学の大衆化進んだ中、それらに対する強い批判精神が彼らを動かしたのである。即ち、彼らは単に「革命」や「疎外」を謳って活動したのではなく、この時代に訪れた社会的な波に対するある種の「違和感」が根底に存在していたというのである。また、大学のマス化以外にも、現代の問題に通ずる多く視点が既に、この時代にその芽が育まれていたと指摘する声も多い。[5]

 しかしながら、大学の大衆化に対するアンチと「政治」に対する批判が同時的に起こった「全共闘運動」を主導した学生たちがそれ以降の学生よりも、「政治的なもの」に対してエネルギーを注いだという事実も確かである。「全共闘運動」から続いた「世の中」に対する否定的な心情は、何故、1970年代後半になると「しらけ」へと変貌していったのであろうか。

 小谷敏の『若者たちの変貌』[6]の中で、そうした点に対して以下のような指摘がされている。「全共闘運動が、『理想』を掲げた運動であったことは疑いない。だが同時にこの運動のなかには、『理想』に対するシニシズム[7]が胚胎していた。大学の、左翼の、そして広く大人たちのなかにある『建前と本音』の乖離を撃つという性格が、60年代末の若者たちの反乱のなかにはあった。(中略)しかし後続の世代は、全共闘が抱いていた「理想」に対するアンビバレントのなかから、シニシズムのみを受け取った。『理想』を掲げて闘った全共闘運動は、連合赤軍事件が象徴するように、テロルとリンチの果てに自壊してしまったのだ。この挫折が、後続の世代の『理想』への不信と絶望とを決定的なものにしたことは否めない。」「学生運動」は1965年の日韓会談反対闘争以来、停滞を続けていたが、1967年、68年に盛り返しを見せた、そして「全共闘運動」に参加した学生は、活発に自分たちの主張はしたものの、その中には「シニシズム」の感覚を持ちながら活動していたのである。それ以降の学生には大学のマス化とそれに伴う、「エリート」意識の喪失、そして「シニシズム」が残され、「しらけ」というオルターナティブな表現方法で、そうした心情を実践していくことになる。

 

 1970年代後半という出発点

 冒頭で述べたように、1970年代後半は現代の「政治的無関心」という言説が生まれたスタートラインであった。また、「政治的無関心」以外にも、現代に通ずる多くの要素がこの時期に顕在化していったことが指摘できる。以下では、そうした点をいくつかに分けてそれぞれ簡単に論じていきたい。

 まず、大枠から述べるために、思想的な背景を述べていきたい。もちろん思想史は本論文の主要な議論ではないが、思想が時代をリードすると同時に、思想はその時代に必要なものが受け取られるものである。そのため、ここでは簡単に、その時代に受け入れられた思想を紹介していきたい。1980年代に生まれた「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる一流派の基礎となる文献のその多くは1970年代後半から80年代初頭に日本に輸入された。フーコー、ボードリヤール、リオタール、ドゥルーズやデリダなど、所謂「ポスト・モダニズム」思想家と呼ばれる人々の著書はこの時代近辺に輸入されたものが多い。[8]もちろんこれらは、日本全土を席巻するほどの影響力を全国民に与えたわけではないが、文字通りの「近代以降」の思想が、「ポスト・フォーディズム」や「脱工業化社会」と呼ばれる時代に突入した日本の同時代に輸入されたという視点は忘れてはならない。また、これらの思想は、「全共闘運動」以降の「新しい市民運動」や「ウーマンリブ運動」の理論的支柱として活躍していった点も見逃せないのである。

 こうした、「ポスト・モダニズム」思想が輸入される一方で、大学キャンパス内では、若者の「保守化」が目立ち始めていた。社会党が発刊していた、『国民政治年鑑』の「青年・学生運動」に関する記事の中で、このような文章がある。「青年層の保守化が問題になりはじめたのは、一体いつごろからだろうか?日本においてその時期は1978年頃からだと言われている」[9]、そして、その理由としては、「高度経済成長から低成長の日本経済の基調の転換が与えたインパクト、戦後の“平和と民主主義”に象徴される革新勢力の相対的退潮(新しい価値を創造しつづけ、目標に希望をもたせるような努力の喪失)、とりわけ70年代の新左翼、過激派の動向に見られたような“内ゲバ”に代表されるような荒廃に対する反作用」[10]といった視点を挙げている。

 1981年の朝日新聞による安全保障問題に関する世論調査[11]においても、「日本はいずれは核武装した方がよいか」、「憲法第9条の改正意見に賛成か」、「資源の大半を海外に頼っている日本はその海上輸送の安全保障のために武力を使うことに賛成か」などの問いに対して、いずれも20代前半の賛成率が平均を上回っており、「武力行使に賛成か」という問いに対しては、21.3%が賛成で、各世代中一番高いという結果が出ている。また、政党支持率に関しては、自民党支持率の上昇が指摘されていると同時に、「支持政党なし」が74.7%にものぼるという結果が82年の全国学生新聞連合による1350人の学生を対象としたアンケートによって出された。こうしたように、革新系政党への支持離れは、「全共闘運動」を経てさらに進み、「保守化」の傾向を辿っていった。

 こうした「保守化」は、同時代的な政治的状況抜きにしては語ることはできない。日本の政治にとって重要国であった国々が相次いで「新保守主義的」、「新自由主義的」政策へと転換していったのもこうした時期であった。イギリスのマーガレット・サッチャーが79年に、そしてアメリカのロナルド・レーガンが81年に、日本では遅れて中曽根康弘がそれぞれ国のトップへと躍り出た。こうした、「保守主義」の台頭も、やはり60年代までの革新系政党に対するアンチとして生まれてきた。そして彼らの、「新自由主義的」な観念は、人々の「保守化」を煽る一方で80年代に活発化する「高度消費社会」への大きな後押しとなったのである。

 当時の大学生像において、「保守化」と同時に「クリスタル世代」という言葉で表される。この言葉は現在、長野県知事になっている小説家、田中康夫の主著『何となくクリスタル』から生まれたものであるが、彼らは物質的豊かさにドップリつかった青春を謳歌している人々として、上の世代からはある種批判的な眼差しを浴びせられていた。また、81年の『国民政治年鑑』[12]では、当時の若者の特徴として、「現状肯定的」、「おとなしい」、「社会的関心が希薄」、「個人生活中心」という言葉で表現している。こうした傾向は、即ち、「高度消費社会」への突入したことを物語っており、80年代になると本格化していく。

 こうしたような「高度消費社会」の訪れは、当時の経済状況に大きく起因していた。いわゆる、高度経済成長と呼ばれる社会状況は、1973年の第一次オイルショックを期に落ち着くようになる。高度経済成長が始まる1955年から終わりを告げる1973年までの間に年率10%の成長を遂げ、18年間の間にGDPは名目でいうと13倍、実質5倍ほど経済の規模が大きくなったのである。即ち、こうした急激な伸びも1973年に一旦落ち着き、一時的には失業率の増大をもたらしたが、低成長、安定時期に突入したのである。そして、「後期資本主義社会」に突入した日本は、その他、多くの先進諸国と同様に「高度消費社会」へと進んでいく一方で、豊かさに対する反発もこの頃から浮上してくるようになる。「くたばれGDP」や「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」といったステッカーも1970年代に貼り出された。そして、こうした近代資本主義社会に対するアンチが「高度消費社会」の中で「情報化」と結びつきながら複雑化していくのが、1980年代以降の社会であった。

 ここで、「情報化社会」についても少し述べておきたい。「情報化」という言葉は1960年代頃から使われるようになった。1953年にNHKが最初のテレビ放送を開始してから皇太子の成婚と東京オリンピックという二つの大きな「メディア・イベント」を機に全国の家庭へとテレビは普及していったのである。そして、「情報化社会」という言葉が世に浸透していったのが、70年大阪万博を契機として70年代中頃から後半にかけてである。カナダ人のメディア論研究者であり、「メディアはメッセージである」や「地球村」といったキャッチーなコピーで知られるM.マクルーハンも丁度こうした時期にもてはやされた学者の一人である。そして、コンピューターに関しては、1983年の「ファミコン」(任天堂)発売によって家庭内へと浸透していくようになる。こうしたコンピュータの人々の浸透に関して、雑誌『世界』の19846月号「マイコン少年の想像力」と題された記事でこのように書かれている。[13]「最近では、日本でもコンピュータへの神格化はうすれてきて、単なる道具とみる人々が増えてきた。(中略)文房具と同じようにマイコンを使いこなす時代にきたと言えよう。」

 こうしたように、70年代後半という時代は、「保守化」、「しらけ」、「高度消費社会」、「情報化社会」など現代の若者論に通ずる様々な要素が生まれてきた時代であった。そして、何よりも重要なのは80年代になると当然視されてくるこうした点が、この70年代後半には、60年代的要素と混在しながら存在していた点である。当然のことながら多くの歴史的な物語は、ある瞬間からパラダイム転換を迎えるわけではない、そうではなく、数年、時には数十年もの間に様々なせめぎ合いを起こしながら変化していくのである。ただ、一点指摘できることは、やはり時代的な変化というものはそれまでの社会的な問題に耐えられなくなって、それに対するアンチとして生まれてくるのである。そういった点からも、1968年時点で既に存在していた人々の中の不平や不満が、70年代後半に実際の社会的な変容という形で現れてくるようになったのである。現在、言われている「政治的無関心」というオルターナティブな表現も、70年代後半に起きた様々な変化の中の一つとして現れてきたものだといえるのではないだろうか。

 

 80年代以降―「趣向の多様化」、「細分化」の道へ

 「新人類」、「差異化」、「オタク」。70年代末に萌芽が育まれた要素は、こうした言葉に表される形で80年代には本格的に出現してくる。特に「新人類」は83年に誕生し、86年には流行語大賞を取るほどのインパクトのあるものとして発見された。「新人類」に対する説明としては、前述した小谷敏はこのように書いている。「『新人類』は、浅田彰に象徴される先端的なセンスエリートを指示する言葉であった。(中略)『若者たちの神』と呼ばれた人々は、ことさらにカタカナ言葉を乱舞させ、『わけのわからなさ』を自己演出したきらいがある。多数者の理解を拒むことが、先端性の証としてもてはやされる。そんな錯綜した空気が、この時代にはあった。そして、受け手(読み手)の側も、センスエリートたちの発する難解な符号を理解しうる自分を、『ダサイ』周囲とは異なる知的でハイセンスな存在とみなして自己満足を感じていた。」こうした説明は一部の人間に対象を絞りすぎているようなイメージは否めないが、こうした雰囲気が都市部の大学生を中心に存在していたことは事実であろう。

 また、「新人類」たちの自己表象は、やはり一世代前である「全共闘世代」に対するアンチとして生まれている。当時、出版業界の急激な拡大に伴い、「新人類」を奇怪なものとして否定的に分析する「上の世代」からの出版物や、逆に「おちゃらけて」自らを「新人類」と名乗りながら「自分たち」を分析した本などが多数出版されている。その中の一つに、『新人類読本』[14]といったものがある。この本は、新人類研究会という団体によって編集された、「新人類」を説明するものである。本著の中で、自らを説明する言葉としてこのように語られている。「自称旧人類のボヤキに耳を傾けてみましょう。『全く、何なんだ、あのダブダブ、クシャクシャしたファッションは。男のくせに、カッコばっか気にしやがって。俺達の頃は、ビートルズとか全共闘とか、大人社会に対抗する文化に夢中になったもんだ』なるほど、DCブランドVSビートルズ。それらの社会性の有無を議論することは、またの機会に譲るとして、もし、ビートルズには社会性があったとするならば、その当時、社会性のあることが流行だったに過ぎません。今の新人類にとっては、社会性のない方がイマいことなのかもしれないのです。」こうしたように彼らも「上の世代」を「旧人類」という形で表象して、自らの立場を確立していったのである。

 そして、彼ら「新人類」を中心として、都市化、そして「高度消費社会」、「ポスト工業化社会」という社会的な流れは、急速に発展し、その後の90年代までを形成していくことになる。そして、70年代後半に語られていた若者の「モラトリアム性」はこの時代になると当然視されてくるようになる。

 その後、政治的には冷戦構造の崩壊を迎え、社会問題では、いじめや校内暴力などが世間を大きく賑わすことになる。また、「M」事件や、90年代のオウム真理教など若い世代が当事者となる「イビツ」な事件が多発した。若者が担っていた文化自体も高度消費社会の中で、「消費」の対象として、テレビや広告などの「マスコミ」を中心とした制度の中に取り込まれていく傾向が本格化していく。そして、90年代になっても、経済的な低迷によりスピードは緩まったものの、そうした流れの延長線上にあった。

 しかしながら、一方では、95年の阪神大震災が「ボランティア元年」となったように、消費社会の中では満たされない人々のある部分を充足させようとする動きも顕在化してくるようになる。そして「世紀末」、未だ消費社会真っ只中の中、「新たな社会」を志向する動きが政治“界”、経済“界”などでインターネットという新たな技術を利用、翻弄されながら展開された。

 

 「ポスト以降」の若者たち

 ここまで、70年代後半を中心に、「全共闘運動」以降から現在まで社会状況を「若者」を中心に述べてきた。もちろん、70年代以降の社会を分析することは本論文の主題ではないため極簡単に説明するに留めたが、こうした物語は現代史の中で一般的な捉えられ方であろう。

 さて、1970年代後半という設定にもう一度戻ってみると、本論文の「議員インターンシップ」に参加する「若者」にとって1970年代後半という時代は特別な意味合いが含まれる。それは、彼らはまさに、1970年代以降に生まれた人々なのである。筆者が行ったアンケート調査によると、「.jp」の「第13期議員インターンシップ」参加者の平均年齢は20.7歳。[15]即ち、1984年前後に生まれた人々が大半である。これまで述べてきたように70年代末は、「ポスト新左翼」の時代であり、「ポスト高度経済成長」の時代であり、「ポスト工業化社会」の幕開けとなった時代でもあった。そして、「高度消費社会」、「情報化社会」のスタートラインでもあるこうした時代に彼らは生を受けたのである。逆に言えば、彼らはそれ以外の時代を知らず、そうした生活様式のみが内面化された「ポスト新人類」なのである。

 「政治的無関心」という言葉、本論文の冒頭に引用したように、彼らが「ポスト云々」の社会を脱するためには、1970年代末に生まれたこうした言説を飛び越えなければならなかったのである。本論文は、「議員インターンシップ」に対する実地調査である。しかしながら、それ以上に、「ポスト以降」の世代がどのようにしてそれを乗り越えようとし、何を未来に志向しているのか、そうした点を「政治意識」を通してみていきたい。それによって、現在における「政治的〈再関心〉」の実態が浮かび上がってくるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] 明治政府設立期の民衆の政治意識を扱った『客分と国民の間』では、民衆の「客分」意識の存在を明らかにしている。(牧原宣夫 1998 『客分と国民の間』 吉川弘文館)

 

[2] 小此木啓吾 1990 『モラトリアム人間の時代』 中央公論

 

[3] 総理府青少年対策本部編集 1977 『青少年白書』

 

[4] 小熊英二 2002 『民主と愛国』 新曜社

 

[5]「フォーディズム」から「ポスト・フォーディズム」への流れ、「工業化社会」から「ポスト工業化社会」への流れなども1968年に既に問題視されていた点であると指摘する声は多い。

 

[6] 小谷敏 1998 『若者の変貌』 世界思想社

 

[7] こうした「シニシズム」は1968年に永山則夫が起こした連続殺人事件にも通ずるものがある。「金の卵」として上京した永山は、貧困と同時に都会での孤立感による冷笑的感覚が事件の原因であると指摘されている。

 

[8] ポストモダン思想の源流として構造主義の思想とマルクス主義が重なり合って生まれた思想であると言われ、その象徴的な例が1968年の五月革命が挙げられることが多い。そういった点から考えると、1968年を一つのターニングポイントとして挙げることができるが、もう少し詳しく見てみると、フーコーの『性の歴史T』の中の「性の科学」の章が日本で紹介されたのが、1977年であった。また、その他の思想家の有名な著書もこの近辺に日本においては紹介されている。

 

[9] 国民政治年鑑編集委員会 日本社会党中央本部機関紙局 1982 『国民政治年鑑』 885

 

[10]国民政治年鑑編集委員会 日本社会党中央本部機関紙局 1981 『国民政治年鑑』 1033

 

[11] 「世論調査から見た現代青年像」(『朝日新聞』1981829日)

 

[12]国民政治年鑑編集委員会 日本社会党中央本部機関紙局 1981 『国民政治年鑑』 1033

 

[13] 奥野卓司「マイコン少年の想像力」(『世界』19846月号)

 

[14] 新人類研究会編 『新人類読本』 1986 日本能率協会 2

 

[15] 筆者が行ったアンケート調査は、「最終報告会」参加者の79名のみであり、「13期」の参加者の総数161名全てを対象としたものではないが、そこまでの大きな違いはないと思われる。