慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科
2004年度卒業論文
平和問題談話会と戦後知識人
〜敗戦直後における知識人の思想的分岐〜
指導教授:小熊英二
氏名:谷野直庸
学籍番号:70105665
〈要約〉
本論文は、敗戦の1948年に結成された(正式な結成は1949年)平和問題談話会と、それに参加した知識人の思想を検証するものである。平和問題談話会は、結成いらい三回の声明を発表し、大きな反響を与えた。とりわけ、1950年の声明で「全面講和・中立・軍事基地反対・再軍備反対」の平和四原則を唱えて以来、講和論争の一翼を担ったことでよくしられている。そして、平談会と社会党左派や総評が結びつくことで、平和運動の一大勢力を築くこととなった。しかし、その後1950年の12月に「三たび平和について」を発表の後、急速にその活動の活発さは失われていくことになる。
そして、平談会に参加した知識人は丸山眞男や久野収・清水幾太郎など、50年代以降に著名となった者が多い。また、丸山らだけでなく安倍能成や大内兵衛・和辻哲郎など、より年長の人々も参加するという幅の広いものであった。このような中で、平談会内部の思想的・世代的な相違を検証し、その分岐過程を追うことが本論文の目的である。
まず、一章では、平和問題談話会結成に至るまでの前史を扱う。ここでは、平談会の組織者である吉野源三郎の戦中から戦後の動きを軸として、吉野と岩波書店との関係、平談会が主な声明発表の場となる『世界』創刊の経緯と「同心会」との関係などを中心として見て行く。また、具体的に平談会結成の経緯を見るとともに、当時の知的状況も合わせて概観する。
そして、二章では、平談会に参加した知識人を「世代的背景」「思想的背景」などの観点に注目しつつ、どのように平談会に関わったのか、あるいは関わりかたに変化があったのかを検証するものである。その上で、各知識人の様々な相違が平談会の活動にどういった影響を与えていったのかという点も合わせて検証する。具体的には、丸山眞男・安倍能成・久野収を軸としながら、合わせて末川博・恒藤恭・清水幾太郎の動向も適宜言及してある。
三章では、二章で検証した知識人の思想の多様性や差異が、平談会の活動のどのような影響をあたえ、知識人の分岐の契機とその過程が、大まかではあるが検証してある。具体的には、平談会とその後の平和運動の流れの中で、知識人の分岐を見るようにしてある。
結論の章では、以上の検証過程をもう一度確認し、本研究から導き出せる結論を述べている。
〈目次〉
序論
問題意識
仮説
研究対象
研究手法
先行研究
本論
1.平和問題談話会前史
1−1.吉野源三郎と岩波書店
1−2.『世界』と同心会
1−3.平和問題談話会の構想と結成
1−4.吉野の戦後
2.戦後知識人と平和問題談話会
2−1.丸山眞男の思想
2−1−1.「現実」と「主体性」
2−1−2.「知識人の連帯」と「民衆」
2−1−3.オールド・リベラリストと世代論的発想
2−2.安倍能成とオールド・リベラリスト
2−3.久野収・清水幾太郎と平和問題談話会
2−3−1.レジスタンスの思想
2−3−2.平和論と市民主義
2−3−3.清水幾太郎と平和運動
2−4.議事録・部会報告における平和問題談話会
2−4−1.学者と民衆との連帯
2−4−2.末川博と平和問題談話会
2−5.平和問題談話会の声明
2−5−1.「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」
2−5−2.「講和問題についての平和問題談話会声明」
2−5−3.「三たび平和について」
3.平和問題談話会の分岐
4.結論
4−1.知識人の多様性
4−2.「悔恨」という紐帯
4−3.「進歩的文化人」という呼称
註
参考文献
謝辞
〈序章〉
問題意識
戦後すぐの1948年、平和問題談話会という名の研究団体が結成された。(当初は、平和問題討議会。また、この他にもユネスコの会や平和問題懇談会と言った呼称が存在したが、後正式に平和問題談話会と名乗る)この平談会には、丸山眞男・久野収・都留重人・清水幾太郎・安倍能成など、著名な戦後知識人たちが50名以上参加したものであることで知られている。それに加えて、サンフランシスコ講和条約の締結に関する論争が活発な時期に、「全面講和・中立・再軍備反対・軍事基地反対」というテーゼを打ち出したことでもよく知られている。この平和四原則は、後に社会党左派や総評に受け継がれていき、平和運動の先駆的な役割を果したと位置づけることも可能である。しかし、平談会自体の活動のピークは1949年から1951年の間と言ってよく、その後は組織自体は残ってはいるものの、実質的な活動は急速に終息していくことになる。
その大きな背景の一つとなるものが、平談会内部の知識人間の種々の相違である。これは度々言及されることであるが、平談会には思想的な背景や世代的な相違という点から見た場合、その正確はかなり多様性に富んでいると言える。そして、平談会に参加した知識人の中でも、丸山眞男や久野収・清水幾太郎等のような知識人はおよそ1950年代以降に著名になったと言えるだろう。[1]
以上のような点を踏まえて本論文では、平談会が結成され、その活動がピークに達し、やがて衰退に向かう流れの中で、平談会内部の思想的・世代的な相違を検証し、知識人の分岐の過程を検証していくことを目的とする。
仮説
まず一点目は、前述の通り、平談会が結成され、その活動がピークに達し、やがて衰退に向かう流れの中で、平談会内部の思想的・世代的な相違を検証し、知識人相互の分岐の過程を追うことができるのではないかという点である。逆に言えば、後々検証していくように、平談会に参加した知識人相互の思想的な差が明確であるにも関わらず、なぜ研究団体を結成し、短期間ではあるものの真摯な活動を行っていくことができたのかという疑問も成り立つ。さらに、この平談会が活動していた当時は「戦後民主主義者」や「進歩的文化人」といったイメージは未だ形成されてはいなかった。知識人の集団が結合から分離へと向かう過程は、各々の知識人の性格規定やイメージが明確になっていく過程であるとも言える。そういう意味では、「戦後民主主義者」や「進歩的文化人」といったイメージが形成されていく過程にも部分的ではあるが検証できると考える。[2]
研究対象
本論文の研究対象は以下のようになる。
@ 敗戦直後から平談会終息に至るまでの、丸山眞男・清水幾太郎・安倍能成・久野収・末
川博・恒藤恭の著作類(座談会やエッセイも含む)A平談会の声明や討議会の議事録
B 平談会の組織者である吉野源三郎を中心とする平談会関係者の回想類や、平談会が主な
発表の場としてきた雑誌『世界』創刊の経緯。まず、@に関しては東京平談会と京都平談会の思想的な差異や平談会における思想的背景及び世代的背景などの差異と多様性を検証するためである。そしてAに関しては、主に平談会の議事録を中心に見ていくことにする。三回の声明の分析は先行研究においても、検証されていることであり、本論文の文脈でいえば公式的な声明よりも議事録のほうが検証する価値は大きいと考えた。Bについては、平談会の前史や、平談会の主な組織者である吉野源三郎の活動を踏まえるため。
研究手法
本研究では、主に歴史学とりわけ思想史のアプローチを採用する。各々の知識人の思想と行動が平談会の活動とどのように関連しているのかという点と、平談会の内部の思想的な多様性を検証するという主に二点にかんして各知識人の著作を検証していく。その際、検証する知識人としては、丸山眞男・安倍能成・久野収・清水幾太郎・末川博・恒等恭を中心に見ていくことにする。前述したように平談会には50名以上の知識人が参加しており、その全員の同時代における著作を検証するのは不可能とは言わないが、どこまで意義があるのかという点で疑問が残る。であるので、上述の知識人を@東京平談会か京都平談会かA年齢・世代的な背景B大衆にたいする態度や知識人観という三点を中心に見ていくことにする。
先行研究
平談会を主に扱った先行研究としては以下のものが挙げられる。
@関寛治「平和の政治学」(『日本政治学会年報』「行動論以後の政治学」岩波書店,1977)
A五十嵐武士『対日講和と冷戦』(東京大学出版会、1986)
B小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社、2002)
C矢崎彰「『世界』と平和問題談話会」(『民衆史研究第』第45号、民衆史研究会、1993)
D黒川みどり「戦後知識人と平和運動の出発」(『年報日本現代史』第8号、「戦後日本の民衆意識と知識人」、現代史料出版、2002)
E都築勉『戦後日本の知識人』(世織書房、1995)
Fグレン・フック「戦後日本の平和の思想の源流」(『国際政治』第69号、「国際関係思想」、日本国際政治学会、1982)
このうち@・Fは主に「平和学」という理論的な視点から平談会の声明を論じたもの。Aは、主に平談会と左派社会党や総評との影響関係を論じている。Bは、平談会と民衆の平和意識や平和運動を中心としている。Cは、日本平和を守る会会長の大山郁夫や雑誌『平和』を中心に、平談会と対比させながら論じている。DとFは知識人の思想と平談会との関連を述べているが、知識人の分裂過程を中心としているわけではない。総じて平談会の研究は80年代においては、平和学あるいは平和研究という視点から主に扱われていた。そのご90年代後半から現在に至るまでは、思想史的なアプローチの一環として論じられている傾向が強い。その意味では、本論文もまた思想史的なアプローチを採用してはいるが、知識人の思想的な分岐過程に着目している点が特徴と言える。
〈本論〉
1.平和問題談話会前史
1−1.吉野源三郎と岩波書店
・・・自分では、いわゆるくろうと意識をもったことはついになく、いつもしろうとのような気持ちと、しろうとだからかえって世間普通のくろうとよりは少しましな仕事ができるのだという、ひそかな自負をもちつづけて今日に至りました・・・[3]
吉野源三郎と言えば、岩波書店の総合雑誌『世界』の編集長として知られているだけでなく、『君たちはどう生きるか』の著作でも有名である。[4]しかし、上記の回想からも分かるとおり、1899年生まれの吉野は、当初から編集者の仕事をしていたわけでも、編集者を目指していたわけでもない。この節では、吉野の生い立ちと戦中の経緯を追い、編集者となっていく過程を検証することとする。
吉野は、旧制一校から東大経済学部に入るが、その後すぐに文学部哲学科に転じ、以後カントの認識論やヘーゲルの歴史哲学に一貫して関心を持ち続けた。元『世界』編集長の緑川亮も、「吉野さんは、一言で言えば哲学者でした」と述べているほどである。[5]
吉野が中学三年の時に、第一次世界大戦が勃発し、一校入学の前年にロシア革命が起こる中で、現実の社会問題に関心を強めていった。この時吉野が切実に感じたことは、「現実がけっして正しい世の中ではないということ、自分の責任でもないのに不幸な目にあっている人がいかに多いか」という問題意識だった。[6]この現実に対する問題意識は、戦中戦後と吉野の中に存在し続けていき、とりわけ戦後の活動における思想的基盤となっていくものである。
1925年に東京大学文学部哲学科を卒業した後、兵役を経験したり、三省堂の編集部
や東大図書館の司書の仕事を続けながらも、大学入学以来取り組んできたカント哲学の
勉強を続けた。カントやヘーゲルを終生の課題としていたことは前述の通りである。現
実に対する問題意識と同様、吉野の思想的背景として看過できないものは、こういった
哲学、とりわけ歴史哲学に対する関心である。この点も、戦後の活動を支える基盤とし
て位置づけることができる。吉野は後年、戦後の編集者時代の活動の動機を、現実に対
する問題意識と哲学的関心という二点から回想している。
・・・その忙しい仕事に(戦後の編集者の仕事―引用者補)私がどうにかやって来られたのは、一つには私の哲学的興味が歴史哲学にあったためではないかと思われます。しあわせにも、私が生きて眼前に迎えているのは、世界歴史はじまって以来、前例もないほど大規模な、壮大な転換でした。どんな書物にも書かれていない歴史の大きな意味が現実の私の前に展開している。これが読みとれないで、なんの歴史哲学があろう、という気持が、私の眼を日々の事件に集中させてくれました。もう一つには、こういう時代に生きている同時代の日本人にとって、まず第一の問題は、この新しい現実をどう捉えたらいいかという問題であって、出版の仕事はそれに答えなければならない、という考えが私を励ましてくれました・・・[7]
一方で、1931年の予備将校時代には、当時非合法であった共産党との関係から検挙
され、軍法会議にかけられるという経験をしていた。軍法会議の判決は執行猶予三年であり、刑務所で一年半を過ごす経験をしている。
本稿の内容を先取りして述べれば、平和問題談話会は、冷戦が激化する中で、米ソ両
陣営の積極的共存を打ち出すために、「革命」と「平和」を切り離した思考様式を打ち
出していた。平和問題談話会に積極的にかかわり、安保闘争やベ平連の実践活動にも参
加した哲学者の久野収は、「革命」と「平和」を切り離した考えは丸山眞男や都留重人、
清水幾太郎にはあったが、吉野は「かつては強い左翼」であり、平和問題談話会の結成
当初も「左翼同情型」だったと回想している。[8]軍法会議にかけられ、刑務所で過ごし
たことからも容易に理解できるように、この時期の吉野は強い左翼であった。
これも後に詳述することであるが、吉野が平和問題談話会の結成を成し遂げるにあた
って、社会党と共産党との対立や産別会議と民同派との分裂を非常に憂慮していたこと
が大きな問題意識として存在した。この問題意識もやはり戦中の経緯に求めるべきであ
ることがわかる。
陸軍刑務所から出所後、およそ三年間の失業状態が続くことになる。その後、山本有三との関係から、「日本少国民文庫」の編集主任を引き受け、自身も『君たちはどう生きるか』を出版した。時は、言論弾圧と反動が激しくなり始めた1937年の五月であり、山本のような自由主義的立場の人間でも、自由な執筆が困難となっていた。この「日本少国民文庫」は、ファシズムが激しくなる時代に「偏狭な国粋主義や反動的な思想を超えた、自由で豊かな文化」を次世代に伝えるという目的で刊行されたものである。[9]当時としては、限界ぎりぎりの抵抗であったと言える。
実際、『君たちはどう生きるか』という少年少女向けの小説の中にも、主人公のコペル君が粉ミルクという商品を考察し、その背後には多種多様な人々の結びつきが存在することを発見する場面がある。そのことに対して、もう一方の主人公である「おじさん」は、それを「生産関係」と呼び、経済学の基本であると説く場面がある。これは、一個の商品の考察から初めて全生産関係へと考察する『資本論』を連想させるものである。ここにも、吉野の戦時中の抵抗、すなわち「現実がけっして正しい世の中ではない」という問題意識を読み取ることが出来る。
そのような意味では、戦時下の言論弾圧と反動の中で、少年たちに託した著『君たちはどう生きるか』は、吉野の自身に対する「どう生きるか」という問いかけの書でもあったと言えよう。吉野の「どう生きるか」という問題は、1938年の岩波新書創刊で、ひとつの答えが示されることになるだろう。
この「どう生きるか」という問題と関連して、悔恨の問題も触れられている。たとえば、以下のような記述がある。[10]
・・・しかし、そういう苦しみの中でも、一番僕たちの心に突き入り、僕たちの眼から一番つらい涙をしぼりだすものは、―自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分の行動を振り返って見て、損得からではなく、道義心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、恐らく他にはないだろうと思う・・・僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することも出来たのに―、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに―、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう・・・
以上のような発言から、戦時中の吉野の思想的態度がいかなるものであったのかということは理解できるであろう。
そして、上述の「日本少国民文庫」の編集主任を引き受けたことがきっかけとなり、岩波茂雄の誘いで岩波書店に入社することになる。ここから、本格的に編集者としての吉野が始まった。それ以来、戦時下で岩波新書の創刊に携わり、戦後は現在でも販売を続けている総合雑誌『世界』の編集長として一貫して編集の任を負うことになる。
1938年に世に出た岩波新書は、大成功を収め、「発売と同時にたいへんな歓迎を受け
て、たちまち版を重ねるようになった」という。[11]しかし、岩波新書が発売された当
時は、日中戦争が開始され、太平洋戦争にいたる戦時体制だった。それは同時に、言論
や出版の自由が奪われていった時期でもあることは言うまでもない。
そのような情勢下で、岩波新書を創刊しようとしていた吉野の動機は、前述の「現実
は決して正しい世の中ではない」という問題意識だった。吉野は岩波新書創刊に携わっ
ている当時を以下のように回想している。
・
・・岩波新書は、この時期の日本を支配しようとしていた神がかりな国粋主義
や中国蔑視その他の帝国主義的な思想に抵抗して、国民の間に科学的な考え方や世界的なものの見方を広め、中国に対する日本の軍事行動を反省し批判する資料を提供しようという考えから出発した・・・[12]
このような問題意識を支えていたのは、岩波茂雄の影響が大きかった。岩波新書の発刊を決断し、吉野を影で支えていた岩波は、戦時下の中でも、「日中戦争についても、これは日本人の犯した大きな誤りであって、日本人は中国人にその罪をあやまらねばならない」[13]と、常に主張していた。それゆえ、太平洋戦争が勃発し、国家総動員法にもとづく新聞紙掲載制限令や、言論出版集会結社等臨時取締法などが出され、各種出版社や新聞社は、用紙の確保のために戦争協力の企画を立てる中で、岩波書店は戦争協力の企画を一度も立てず、戦後追放に会う人間もいなかった。
1−2. 『世界』と同心会
以上のような「現実に対する問題意識」や「歴史哲学」に対する関心、そして強い左
翼であったという点が渾然一体となりつつ吉野は戦後を迎えることになる。この節では、戦後の吉野の活動を検証することとする。結論から言えば、こういった思想的基盤に加え、戦後の吉野の活動のバネとなっていたものは、「悔恨」の問題と「敗戦の記憶」であった。吉野は、前述した『君たちはどう生きるか』の中で、以下のように書いている。
・・・僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから誤りを犯すこともある。
僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから、誤りから立ち直ることもできるのだ・・・[14]
平和問題談話会が主な活動の場としていた『世界』の創刊号が発売されたのは、終
戦の年の12月であった。もともと総合雑誌は、岩波書店としては未開拓の分野であったが、『世界』の出版を強く願ったのは岩波茂雄だった。その背景には、岩波なりの戦争体験に基づく「悔恨」の念が存在した。岩波は、敗戦直後に新たな総合雑誌の創刊の必要性を力説する中で、日本が戦争をしている間にも「その経過を心外のことと考え、これを否定していたすぐれた学者や思想家」が皆無とは思わないが、最終的には「日本が今日のような悲惨な状態に落ち込んでいくのを喰いとめることができなかった」と述べた。[15]
それゆえ、岩波は文化と大衆との結びつきを主眼にした仕事として、新たな総合雑誌
を創刊する提案をした。そして、「こんどの戦争でたくさんの青年たちを死なせたのも、一つには自分たち年輩の者が臆病で、いわねばならぬことを、いうべきときにいわずにいたせいだ」と付け加えるのを忘れなかった。[16]
このような心情は、「同心会」のメンバーであり、後に平和問題談話会の議長を務め
る安倍能成などのいわゆるオールド・リベラリストに共通であったと吉野は回想している。[17]そしてまた、このような感情は当の吉野にも存在していた。終戦の日の前日、すでに宮中で「重大会議」が開かれていることを密かに知っていた吉野は、ラジオで空襲を受けている情報を聞いていた。
・・・もはや全く無意味となった抵抗を軍部や政府がつづけているばかりに、国民の悲惨が、こうしてとめどもなくひろがってゆく。・・・自分たちのおかれている運命を知らずにただ忍従をつづけている何百万、何千万の人々と、それを少しは知りながら何ひとつできないでいるこの自分と――、私には、それが苦しいほどあわれだった・・・[18]
このような心情を背景として、吉野は『世界』の創刊に携わることになる。吉野にとって、この仕事は「日本の再建」にとって大切な役割を果たすものであり、古い価値体系が敗戦や占領とともに崩壊していく中で、「日本の再建」のために自由な言論機関を建設するという意味以上に、自由な言論機関の再建それ自身が重要な再建なのであった。
平和問題談話会で中心的な役割を果たした清水幾太郎も、「言論の自由は、『無料』のものでなく、惨めな敗戦および独立の喪失という代償を払ったものであること」を痛感していた。[19]そうであればこそ、言論の自由及び民主主義の権利を「自分のものと認め、先人たちの努力を自分たちが継承」することによって、「与えられた自由」から「つかみかえした自由」に転換することが大切である。[20]であるから、民主主義の権利を「こんどこそ強権の前に萎縮することなく、面をあげて使用してゆくのでなければ意味がない」という決心を吉野はしている。[21]つまり、吉野や清水の中には、戦後直後の「開放感」とともに、ある種の「緊張感」が同居していたと言える。吉野は、「新しい雑誌が創られるのは新しい時代のためであった。しかし、いま私たちが迎えようとしている時代は、なまやさしい時代ではなかった。」とも感じていた。[22]後年から見た場合、この時期のことを指して「バラ色の啓蒙時代」と呼ばれることがある。部分的にはそういった側面があったにせよ、いわゆるバラ色の啓蒙主義の時代という呼称には一括できない、複雑な感情が割拠していたと述べるほうが適切であろう。
一方で、吉野は戦中の時期における反省の念を岩波や安倍らと共有しつつも、岩波の「文化と大衆を結びつける」という「啓蒙主義的な」仕事としての『世界』には、やや疑問を抱いていた。吉野の考えでは、戦時中に「文化の無力や文化人の弱さ」を感じていたため、ただ単に「文化と大衆を結びつける」のみならず、それよりはむしろ「文化が大衆の運命を問題とするようになること、すぐれた学者や思想家が大衆の運命にかかわる問題を心にかけ、大衆にかわってでもその問題と格闘するようになること」の方が必要であった。
また、『世界』は当初、前述の「同心会」の同人雑誌としてスタートした。「同心会」とは、岩波茂雄の関係を中心に、安倍能成・志賀直哉・武者小路実篤・山本有三などを擁するいわゆる「オールド・リベラリスト」集団である。この中では、安倍能成や大内兵衛、田中耕太郎らが、後に見ていく平和問題談話会に参加することになる。
彼らの多くは、戦後復活した文化人たちであり、「文化国家論」の担い手でもあった。[23]これも後述するが、後に平和運動に積極的にコミットし、社会党左派や総評とも関係を深めていく清水幾太郎や久野収が平和問題談話会に参加することもポイントとなるが、かれら「オールド・リベラリスト」が平和問題談話会に参加したことも一つのポイントとなる。
ここで確認しておく必要があることは、二点ある。一点目は、「オールド・リベラリスト」と吉野との思想的距離の遠さである。このことを端的に示すのは、「同心会」が『世界』という執筆の場を離れ、新たに雑誌『心』を創刊したということである。同心会と『世界』の分離に関しては、吉野は「国際的、国内的状況が激しく動いてきて、雑誌としては、急速に現実に接近してゆかねばならず、文化国家の理念だけではやってゆけなくなってきたから」だと説明している。[24]吉野はまた、暗に戦前のリベラリストを指して、「ファシズムに対して眉をひそめるのは、それが学者や芸術家を圧迫し、彼らの自由を奪うからで、労働者の団結権を奪ったり、市民の自由を犯したりすることには、そう実感として憤りを抱いておられるようには見受けられなかった」と述べている。[25]逆に、後の平和問題談話会の議長である安倍能成功も、吉野の真面目さという点では信頼しているが、「吉野の思想と行動には同意しかねる」と述べている。[26]
このように、丸山や清水と比べて年長である吉野から見ても、「オールド・リベラリスト」との思想的距離は離れていると言える。
二点目としては、一点目の関連で吉野だけでなく丸山を始めとするより若い世代の知識人も、「オールド・リベラリスト」との思想的・精神的距離を感じていたことである。
とりわけ目立つのは、丸山眞男の言動である。丸山は「座談会の名手」と言われている程であるが、敗戦直後から1950年前後における座談会においても、「オールド・リベラリスト」に対する痛烈な批判を述べている。例えば、1949年における雑誌『人間』12月号「インテリゲンツィアと歴史的立場」という座談会の中で以下のように述べている。
…いわゆるオールド・リベラリストといわれる人達が戦争にたいして、かえってそれより若い人達よりも毅然たる態度をとりえたということが、もしある程度言えるなら、むしろそういう人達は、歴史意識がなかったから、トルストイや理想主義で育って、なまじ客観情勢とか歴史的条件とかを問題にしなかったからだ…[27]
このように、戦時中に対する何らかの反省や悔恨の念を共有しつつも、「オールド・リベラリスト」と、より若い年長世代との思想的対立、あるいはより若い世代の「オールド・リベラリスト」への反発という複雑な要素を含みながら、『世界』及び平和問題談話会はスタートを切ることになる。この点は改めて述べるが、旧世代と新世代との対立関係というのは戦後思想史の研究においても比較的よく言及される点である。[28]
そうであるから、吉野の意図としては「一流の役者による一流の芝居を、久しぶりで2本の観客にみせるような気持であった。そして、やがて、演しものと役者を交替」していくというものだった。[29]ここにも、オールド・リベラリストからより若い世代へとバトンタッチしていくという含意が認められる。
そうして、1945年の12月『世界』は創刊された。『世界』の新たな船出は順調で、八万部刷って、たちまちに売り切れた。[30]「金ボタンの秀才のような雑誌」とか「保守党左派」といった評価であった。[31]当初の執筆陣を考慮すれば、こういった保守的であるという評価もある意味では当然の帰結であった。
1−3. 平和問題談話会の構想と結成
この節では、『世界』が創刊され、1948年の7月18日にユネスコから発表された六カ国八人の社会科学者によって出された声明「ユネスコ発表八社会科学者の声明」に吉野が触発され、平和問題談話会を組織するに至った経緯を検証する。
吉野がユネスコから発表された八人の社会科学者による声明を手に入れることができたのは、半ばは偶然であった。もともと、このユネスコの声明は、ユネスコの総会で、戦争の原因の一つとして相互的な国際理解が欠けているという問題意識のもとに、戦争を引き起こす緊迫の原因を研究することが決議されたことを端緒として討議・発表されたものであった。この声明は前述の通り、六ヶ国八名の社会科学者によって作成されたものであるが、この声明を作成したメンバーは以下の通りである。
・ゴードン・W・オールポルト ハーヴァード大学心理学教授
・ジルベルト・フレイレ ブラジル、バヒア大学社会学部教授、アルゼンチン、ブエノスアイレス大学社会学研究所教授
・ジョルジュ・ギュルヴィッチ ストラスブール大学社会学教授、パリ社会学研究所理事
・マクス・ホルクハイマ− ニューヨーク市、社会研究所理事
・アルネ・ナエス オスロー大学、哲学教授
・ジョン・リックマン医博 「英国医学的心理学雑誌」 “British Journal
of Medical Psychology”主幹
・
ハリー・スタック・サリヴァン医博 ワシントン精神病学専門学校評議会議長、
「精神病学誌」主幹
・アレキサンダー・ソロイ ブタペスト大学社会学教授、ハンガリー外交問題研究所長
なぜ、この声明に吉野が触発されて、平和問題談話会の結成に至ったのか。ここを確
認しておくことは、当時の国際情勢や知的状況を理解する上でも大切な点である。つまり、簡潔に述べれば吉野や清水らは、この声明に唯一「東」側の国から参加しているアレキサンダー・ソロイの存在に注目したのだ。戦後直後の1946年に、英国の首相チャーチルが「鉄のカーテン」演説を行い、その二年後にはベルリン封鎖が行われる。「冷戦」が「熱戦」の一歩手前の状態にまで進んでいくのである。例えば、『世界』の1948年4月号の前書きで吉野はこのように述べている。[32]
・・・1945年日本の降伏の直後に、「われわれの生涯に再び大戦があると思うか。と
いう質問に対し、「あると思う」と答えたアメリカ市民は100人中38人であったの
に、その後わずか一年で同じ調査は、米ソ両国の協力を可能と信ずる者が一人もな
く、・・・65パーセントに達する多数が「今後25年のうちにアメリカは再び戦争に
捲きこまれるであろう。」と信じていることを明らかにした・・・
つまり、この当時でさえ冷戦から熱戦へという事に対して、非常なる緊迫感を持って
いたということが言える。
また一方で、日本国内の知的状況に目を移せば、この当時「平和」という言葉はやや
偏った響きを持っていた。その当時、将来に向けての「平和」という問題に対しては、とりわけ共産主義者やマルクス主義は冷淡であった。なぜならば、彼らにとっての「平和」は「民主主義革命」と不可分の問題であり、「平和」の問題それ自体を独立させて考えるというよりも、まずは「民主主義革命」をおこし、その上で「平和」は達成されるという考え方であった。
それに加え、当時の日本共産党は徳田球一や志賀義雄ら「獄中非転向幹部」を中心に
絶大な権威を保持していたことは言うまでもない。丸山の言葉を借りれば、「当時、知的に問題になっていたのはマルクス主義であり、マルクス主義における革命の問題であった。」[33]とも述べているし、さらに「民主主義」ということの含意にかんしては「今日では考えられないほど…共産党を解放するようなものも含んだような民主化」であったと回想している。[34]当時の共産党は民主主義革命の後社会主義革命へと至るという、いわゆる二段階革命説を掲げていた。それゆえ、「戦争と平和の問題というものは、社会主義革命の前提としての民主主義革命の問題のなかに包含されてしまう」というものだった。[35]
以上のような状況を背景として、吉野はユネスコの声明を手に入れることになる。占
領下当時は、海外で発行される出版物も自由に手に入れることが出来ない状態だった。GHQのCIE(民間情報教育局)の出版課から配給される物を手に入れることが出来る程度であった。そうであるから、吉野がCIEを通じてユネスコ声明を入手出来たのは、半ば偶然であったが、吉野自身の問題意識としては、その声明に触発されたという点で言えば必然であった。吉野は、前述の国際的及び国内的状況に加えて、野坂参三の帰国前後における、社・共民主戦線の失敗の連続に落胆していた。[36]この統一戦線への期待は相当強く、それだけに落胆も強いものがあった。1967年の文章において、「私はいまでも、「あのとき、もしも野坂氏や山川氏の提唱したような統一戦線がてきて、一九四七年ごろからははっきりと出て来た占領政策の右転回以前に日本の政権を担当していたら…」と考えることがある」と述べているほどである。[37]なので、『世界』1947年7月号に掲載された、J・ハックスリー「ユネスコ、その目的と哲学」に対するまえがきで、「広汎な民主的統一戦線を必要としているわが国の知識人にとって」、ハックスリーの論文は示唆に富むものと高く評している。[38]
だからこそ、共産圏からソロイがユネスコ声明に参加したという事実は、吉野や平和
問題談話会のメンバーに非常な勇気を与えた。日本の学者が戦争及び平和の問題に関して共同して研究するという「必要性」は、吉野や清水などにも議論の余地のないものであった。が、それが「可能」かという問題は別問題であることもまた、議論の余地のないことであった。しかし、繰り返しになるが、ソロイの存在はその「可能性」に対する吉野たちの不安を一掃する程の影響があったのだ。吉野から、ユネスコ声明を受け取った清水は、「ソロイの名が私たちの困難の一部分を除いてくれるように思われた。」[39]と回想している。清水はまた、「ユネスコの文書の価値は、ソロイという一人の人物に煮つめられて来たように思えた。パリで可能なことは、東京でも可能ではないのか。」と述べている。[40]
一方で、1948年の9月にユネスコ声明を入手した吉野は、当初は学者だけの会合だ
けでなく、政党人をも含めた組織を構想していた。平和問題談話会の実質の組織者は、吉野や清水、に加え、安倍能成や大内兵衛、仁科芳雄、京都では久野収らであったが、安倍のところに吉野が相談に行く前に、小泉信三のもとを訪れていた。
当初は、「保守派の人々と最もラディカルな立場の左翼の人々との間で話し合ってみ
る」組織を構想していた。[41]そして吉野は野坂参三らの政党人の参加を促すために、野坂の大学時代の師である小泉のもとを訪れた。しかし、小泉の返答は消極的なものだった。「共産党だけではない、およそ公党の責任者が出てきたときに、個人的な見解を腹蔵なく述べることは望みがたいことだ・・・公党から発表されている公式の見解以上のことは述べないようになっているから無意味だろう」というのが、小泉の返答であった。
忌憚なく議論が出来ないと意味がないと考えた吉野は、学者だけの組織にすることに
決定した。そこで、安倍、仁科、大内の呼びかけで平和問題談話会が組織されることになる。当初から、安倍や和辻らから、丸山や都留などの世代的に幅の広いものを吉野は構想していた。そこにも、「演しものと役者とを交替していって、・・・そのバトンタッチの中に戦後の思想の本流を記録していく」という吉野の意図が存在したのである。
またある意味では、岩波の「文化と大衆を結びつける」ものではなく、「すぐれた学
者や思想家が大衆の運命にかかわる問題を心にかけ、大衆にかわってでもその問題と格闘するようになること」という吉野の『世界』発刊時の思いが実現されようとしていたとも言えるだろう。前述の通り、安倍と吉野とでは「思想と行動」の点が大きく異なるという点は確認した。しかしながら、安倍が平談会に参加したのは、吉野の熱心な勧誘と、日本が再び軍国主義に陥ることの不可能不合理性を痛感していたからであった。[42]安倍の回想によれば、吉野や平談会のメンバーの思想的な差というものを実感していたにもかかわらず、平談会に参加し代表役を務めた動機は上記のものであった。
前述の通り、吉野がユネスコ声明を入手したのは、1948年の9月(座談会によって
は、8月とも述べている)であり、その後知識人の専門別に、法律政治部会、経済部会、文科部会が東京と京都でそれぞれ組織されていく。10月から11月にかけてのことである。ちなみに、仁科の呼びかけで東京だけに、自然科学部会も設立されている。各部会単位で、ユネスコ声明に応えるかたちで報告がなされ、その報告をもとに1948年の12月12日、東京の明治記念館で総会が開かれる。ここで、ユネスコ声明をうけて、日本の社会科学者及び自然科学者によって「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」が決定され、1949年の『世界』三月号に掲載されることになる。
後述するが、この段階では平和問題談話会は一学者グループであり、学究団体にとどまっていた。参加者の大半が学者であることからも容易に理解はできる。実際、丸山は後年になって平談会を「最初はアクチュアルな時事問題を扱うのではなくて、とにかくやっと戦争から解放されたから、平和問題を科学的に考えよう」という点から始まったと述べている。[43]
しかし、イールズ博士事件やレッドパージ・朝鮮戦争の勃発といった事件を経る中で、平和問題談話会の「声明」に対する非常に厳しい政治状況が現出してきた。そのため、第二回目の声明以降、あくまで学究団体というスタンスを守りながらも、事実上政治的な問題にコミットしていくことになるのである。逆に言えば、平談会結成当初は基本的なスタンスとして一研究団体という認識があるから、メンバー相互の差があってもなんとか研究をしていくことは可能だったであろう。
安易な推測はできないが、レッド・パージや朝鮮戦争といった国内状況の急速な変化がなければ平談会は一研究団体としての活動に終始したという可能性も考えられる。しかし、平談会を一研究団体に留めず、政治的なコミットをせざるを得ない程に国内情況の変化は急速であったとも言える。実際、丸山も「こんなに早く国内状況が変わるとは思わなかった」と述べている。[44]
1−4.吉野の戦後
このように、『世界』や「平和問題談話会」は吉野との関わりの中で結成されることとなる。吉野自身は編集者の仕事に専心していたため、めだった著作活動をしているわけではないが、『世界』の創刊や「平和問題談話会」の結成の時期にどのような発言をしていたのかということを確認することは重要である。
吉野は前述したような「現実に対する問題意識」や「歴史哲学」に対する関心、そし
て強い左翼であったという点が渾然一体となりつつ戦後を迎えることになる。この節
では、戦後の吉野の思想を検証することとする。結論から言えば、前述した思想的基
盤に加え、戦後の吉野の活動のバネとなっていたものは、「悔恨」の問題と「敗戦の
記憶」であった。吉野は、前述した『君たちはどう生きるか』の中で、以下のように
書いている。
・・・僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから誤りを犯すこともある。
僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
だから、誤りから立ち直ることもできるのだ・・・[45]
ここでは、「自分で自分を決定する力」を持つがゆえに、「悔恨」をバネとして「誤りから立ち直ること」が可能であるという意味が読み取れる。この文章自体は戦中に書かれたものではあるものの、戦後においても、その基本的な発想形態に大きな変化は見られない。ただ、「自分で自分を決定する力」を「独立」や「自主性」という言葉に置き換えていることは見逃せない。また前述したように、「過去への反省」や「悔恨」を行動のバネにしている点も、戦後の発言の中で散見されるものである。
吉野の思想を検証する上で、「自主性」や「過去への反省」という言葉が散見されるが、前述したとおり戦中と戦後での思想的断絶は明確には認識できない。このことは、敗戦時に46歳であり、戦前の段階で一定の思想形成を成し遂げている点が大きいであろう。また、敗戦の年の4月の時点で、日本の敗戦を予測し、戦後への準備をしていることからも、上記の事柄は傍証できるのではないだろうか。
前節で、吉野の平和問題談話会構想の経緯を取り上げたが、もともと「強い左翼」であり、戦後は革命的な労組連合である産別所属の印刷出版労組の書記局主任を担当していた。当然のことながら、戦後初期においては、「これからの日本の真の主体となるべき大衆」という発言からもわかるとおり、大衆への期待を強く保持していた。[46]
しかしながら、こういった「大衆への期待」を強く持ちつつも、平和問題談話会を組織する上では、一編集者あるいは組織者として非常に巧妙な人選をしていることも注目に値する。
これも前節で見たことだが、平和問題談話会結成に至るまでの吉野は、野坂参三帰国後の、民主戦線の失敗を非常に憂慮していた。後年の回想では、中国の共産党と国民党との統一戦線に日本が敗れたということに触れながら、「日本の敗戦後にはそういう失敗と成功の経験が生かされ」ることはなく、獄中から復帰した戦後の共産党系の人々の指導は、「それ以前の戦術」であり、それゆえ「人民戦線の統一戦線はずっと提唱されながらもだめ」であったという。[47]
こういった憂慮の中で、統一戦線のような構想を模索していた吉野に示唆を与えたものは、コミンフォルムの「恒久平和と人民民主主義」という機関紙であった。その機関紙に掲載されている論文の中では、「かつてぼくたちが若くて勉強しておりましたころは、もっとも批判されたような「人類の名において」とか、そういう言葉」が散見されていた。[48]
そして、こういった思想傾向を、人選の段階においては、オールド・リベラリストの田中耕太郎や安倍能成には伝えず、逆に実践的な運動論という点において吉野と近い位置にいる久野収には、数度にわたり話をしたという。[49]この当時の久野はまた、実践的な志向の強い当時の清水と親しい間柄にあったことも付け加えておこう。さらに、実践的な運動論的志向を保持しない丸山眞男は、「そこまでの吉野さんの底意は残念ながら読めなかった」と回想している。[50]
以上の事にくわえ、平和問題談話会に政治家を加えるべきか否かを討議している岩波の役員室には、その当時の出版労組の書記長である安藤次郎が同席していた。[51]
ここからわかることは、「大衆への期待」を強く持ちながらも、平和問題談話会を組織するにあたって、吉野と運動論において共鳴する久野と、そうではない田中や安倍、丸山とに対する接し方の微妙ではあるか巧妙な決定的違いである。そして、当初から出版労組の安藤が平和問題談話会の構想時の会議に同席していることからもわかるとおり、吉野の中では平和問題談話会と労働組合との連携を模索することは、規定の路線であったということである。ある意味で言えば、吉野のこうした対応は、後に平和問題談話会に参加した知識人の中で分岐が目立っていくことを予期しているかのようなものである。本論文は、この分岐過程を検証するものであるが、分岐を後押しする決定的な契機の指摘以上に、当初から分岐の萌芽が内包されていたという指摘の方がより適切であろう。
次に『世界』のあとがき等から分かる、吉野の思想として顕著な傾向は、幾度と無く「過去への反省」や「悔恨」を表明していることである。例えば、1950年4月号の『世界』所収「読者へ訴う」の中で、以下のように述べられている。[52]
・・・かつてわれわれの多くは、日本が満洲に侵出し、中国を侵し、太平洋戦争に突入してゆくのを、やはり抗しがたい大勢として見過ごさなかったろうか。われわれは再びあの大きな過失を犯したくない。われわれは、むしろ戦争と平和とに対するわれわれのあの実感を、素朴に信じようではないか。そして、その実感の上に立って、われわれが極度にみじめな状態の中から漸くにして築き上げて来たものを再び戦火の中に投じるかも知れない一切の危険に対し、大胆に問いかけようではないか―「何故か何のためか」と。およそ、われわれ自身道理に訴えて承服できることだけを承服し、道理に訴えて納得できない事柄に対しては率直に抗議すること・・・いまこそ、この自主的な精神をふるい起こし、かつて全国民の運命にかかわる問題の決定を、少数無能の政治家や無思慮の軍人の手にゆだねてしまったあの過ちを、二度とふたたび繰りかえさないようにしようではないか・・・
ここでは、「過去への反省」や「悔恨」といった感情と、それを思想のバネとして「道理に訴えて納得できない事柄に対しては率直に抗議する」「自主的な精神」が率直に表明されている。戦後思想において、「主体性」がキーワードになることは度々言及されることである。吉野の思想もこの例に漏れることはないと言ってよいだろう。
そして、「私たちが雑誌の編集にたずさわって、何よりも心に銘じているものは、この過去の経験である」というように、過去の経験が戦後の行動のバネになっているというだけではない。こういった過去の経験をバネにするという発言は、講和論争が喧しくなるにつれて何度も言及されることになる。
さらに、こういった「悔恨」や「過去への反省」をよりどころとして、講和論争が盛り上がる中で、「自分で自分を決定する力」を「自主性」や「独立」と言う言葉に転換しつつ、ナショナリズムを表現していく面をも持っていた。
吉野によれば、戦後の数年間を、「自分たちの自主的な事業としてのみ回顧できないことが、私たち日本人にとっては何よりも辛いことではないだろうか」と述べ、しかしながら、「真面目な青年」や「多くの質実な、頼もしい勤労者」の匿名の思想に期待をかけるとともに、こういった「潜在的なエネルギーがある以上、私たち日本人はいつか自分の自主性を取り戻すであろう」[53]あるいは、「自己の運命にかかわる事柄を直視し、自己の判断と決意とによってこれに対処すること、これを失ってどこにわれわれは、今日の窮状から立ちあがる足場をもつことができよう。このような気骨を失って、どこにわれわれ日本人の独立があり得よう。」と述べている。[54]
「私たちが日本を愛し、自分を愛し、民族と自己との自主性を失うまい」[55]という発言からもわかるとおり、あるいは「私たちひとりひとりの人間にとっても、全体としての民族にとっても、すべて日本人にとっては、今日の問題がみんなあの十年前の八月十五日につながっている」[56]とする発言からもわかるとおり、吉野にとっては、「自主性」を追求することがナショナリズムへと繋がっていく回路であった。「君たちはどう生きるか」という言葉は、敗戦直後の吉野にとってナショナリズムへと接続する言葉であったに違いない。編集者としての吉野自身が「どう生きるか」という問題が、敗戦国あるいは当時四等国とも呼ばれていた「日本」や「日本民族」が「どう生きるか」という問題と重複していたというように述べることもできる。
平和問題談話会の一組織者として、日本が「どう生きるか」を模索し続けた吉野にとって、「過去への反省」や「悔恨」を基盤とした「自主性」「独立」という経路は一体不可分のものだっただろう。統一戦線の失敗を憂慮し、イデオロギー間の壁を乗り越えて「平和」を模索する試みをなした吉野であったが、根底には以上のような思想が内在していた。改めて言うまでもなく、戦後の吉野は『君たちはどう生きるか』で少年たちに投げかけた問いを自身に投影するかたちで、活動の軌跡を描いていった。終始、平和の問題、実践運動に拘り続けた吉野だが、その意識の中には「僕たちは自分で自分を決定する力をもっている。だから誤りから立ち直ることもできるのだ」という言葉が響いていたことであろう。
2.戦後知識人と平和問題談話会
2−1.丸山眞男の思想
2−1−1.「現実」と「主体性」
丸山眞男が同時代において平談会に関して述べているものは決して多くはない。後年になってからの回想の類は少なからず存在する。本章では、同時代の丸山の著作や座談会などを俯瞰的に見て、丸山の思想がどのようなものであり、それが平談会とどのような関連性を見出せるかという点から検証していくことにする。
まずは、1950年八月「平和の問題と文学」における丸山の発言を見ていく。
…ただ、ぼくは平和問題談話会には関与しておるから、つい弁護になるわけですが、二つのことを申し上げたい。つまり一つは、どうかこういうことをお考え願いたい。というのは、ああいうことをやると、すぐ、ただ声明をだしてもしようがないじゃないか、現実的には何ら力のない声明を出していい気になっているだけだ、こういう嘲笑というか、単なるシニカルな嘲笑だけが、一般の新聞、とくに反動的な側から非常に浴びせられます。ところが、奇妙なことに、一部の左翼の人も、意図は反対でありながら全く同じ言葉で非難を浴びせるのです。日本人というものは大体、そんなことはただの理想で現実的じゃないというような言い方が好きです。その場合の現実というのは与えられた環境のことなんですね。で、現実的現実的ということによって、既成事実にどんどん屈服してしまう。屈服するだけならまだよいけれども、まだ既成事実になっていないことまで、みずから進んで既成事実にしてしまってあきらめてしまう。…むしろ理想とかイデーの力をもっともっと強調すべきなんじゃないか。それが、ある場合には正しい意味でもっとも現実的な効果をもつということだってある。単に現実的じゃないといって水をぶっかけることが、はたして、本当に平和運動を協力に推進して行く上に有効かどうか。僕は疑うのです。…もう一つの点は、学者の立場から貢献するということは、何も学者の役割を過大評価するということでは全然ないということです。…その場合に組織労働者との結びつきということは、誰も反対できないような当然のことですが、そういうことをぱっと持ってきて、現実にそれを実践しようとすると、僕は現在の段階では大部分の知識人は、率直に言って離れると思います[57]
この引用は当時の丸山の思想を探る上で興味深い。ここで丸山が強調していることは、「現実」あるいは「現実認識」に対する考えかたである。通常言われる「現実」あるいは「現実的」というものは、ほとんどの場合上から「与えられた」「所与」の「環境」や「秩序」を意味し、その結果「全体的秩序への責任なき依存」という態度を生み出す。[58]この態度が瀰漫してくると、「既成事実」に屈服することが「現実的な認識」だという帰結になり、あるいは「権限への逃避」が生まれ「無責任の体系」が形成される。[59]
では丸山が理想とする「現実」への接し方はいかなるものか。それはつまり「現実」とは「既に創られた」ものである反面、「新たに作り出される」面がある。端的に言えば、「現実」とは「未来への主体的形成」として捉えるべきという、いわゆる「主体性」の提唱と不可分の関係にある。[60]
この思想は敗戦直後から丸山が最も強調した事の一つである。例えば、「超国家主義の論理と心理」や「軍国支配者の精神形態」・「「現実」主義の陥穽」など枚挙に暇がない。さらに言えば、敗戦直後というのは不正確で1943年の「福沢に於ける秩序と人間」でも同様のテーゼが流れており、以下のように述べられている。[61]
…秩序を単に外的所与として受け取る人間から、秩序に能動的に参与する人間への転換は個人の主体的自由を契機としてのみ成就される。「独立自尊」がなにより個人的自主性を意味するのは当然である。福沢が我が国の伝統的な国民意識に於いてなにより欠けていると見たのは自主的人格の精神であった。…いわゆる官尊民卑、また役人内部での権力の下に向かっての「膨張」、上に向かっての「収縮」。…こうした現象はいづれも自主的人格の精神の欠乏を証示するものにほかならなかった。…その意味で「独立自尊」は決してなまなかに安易なものではなく、却ってそこには容易ならぬ峻厳さが含まれている。安易といえば、全体的秩序への責任なき依存のほうがはるかに安易なのである…
戦後思想において、「主体性」という用語は核となる言葉である。主体的な個人を確立する上で、あるいは戦前の前近代的な「雰囲気の支配」に呑まれた人々を批判する上で、丸山が述べる「現実」という名の思考様式は欠かせないものであった。後述するが、この思想は平和問題談話会の思想とも矛盾しないものであった。
また、前述の座談会では、理想やイデ−を重視し、これらを「主体的」「現実的」に堅持することで最も現実的な効果を持つと述べている。つまり「理想主義的」な思考が最も「現実的」な効果につながる可能性があるということである。細かいようだが、この言い方も敗戦直後から丸山が言っていたことである。例えば、敗戦直後の1945年11月4日の日記には「イデアールなものこそ最もレアールである」という件がある。[62]この思想も平和問題談話会の思想と矛盾しないものである。たとえば、丸山眞男が執筆した第三回目の声明「三たび平和について」の中で「戦争を最大の悪とし、平和を最大の価値と考える理想主義的な立場は、戦争が原子力戦争の段階に到達したことによって、同時に高度の現実主義的な意味を帯びるに至った」と述べられている。[63]
相当程度なラフスケッチではあるが、敗戦直後から丸山が述べていた「主体性」と「現実」への態度は、平和問題談話会との活動と共鳴した部分があったと言えよう。前述したように平和問題談話会は、関係者の証言を総合すると当初は、「全面講和・中立・軍事基地反対・再軍備反対」といった現実政治にコミットするようなグループではなかった。あくまで、学問的に平和問題を考える団体だったのである。
しかしながら、占領軍の方針転換以降、イールズ博士事件やレッド・パージ、朝鮮戦争といった政治的事件が次々と起こる。つまり、平和問題談話会の原理に現実政治が挑戦してきたとも言えるだろう。丸山も実際「正直に言って、全面講和問題あたりを契機にして、コミットしたわけですよ。戦争直後の世相に対して、多少、斜めに見ていた考え方から、もっと積極的にというか、…現実政治の動向の一つにコミットするようになってきた」と述べている。[64]
そういう意味で言えば、敗戦直後から「主体性」や「作り上げる現実」を胸に抱いていた丸山が、平談会を媒介として、あるいは平談会を通して実際の政治動向に本格的に対峙したと考えられる。
2−1−2 「知識人の連帯」と「民衆」
次に平和問題談話会との関連において、この当時丸山が頻繁に述べていることの一つに「知識人の連帯」が挙げられる。戦時中に良心的な知識人がバラバラの状態にされ、まともな連帯と抵抗が出来なかったということはよく指摘されることである。
…戦争に反対して辛い目にあった少数の知識人でさえも、自分たちのやったことはせいぜい消極的な抵抗ではないか、…我々の国にはほとんどいうに足るレジスタンスの動きが無かったことを、知識人の社会的責任の問題として反省せねばならない…[65]
このように知識人としての身の処し方に対する痛烈な反省が広汎に広がることになる。このような中から、敗戦直後には、「知識人とはいかにあるべきか」とか「学問と生活」などのテーマに関する著作や座談会が急増する。そしてまた、知識人の役割との関連で、「民衆」へいかに対峙するかということも大きなテーマとなる。ある意味で言えば、こういった「知識人観」や「学問観」・「民衆観」などは、知識人として戦中の身の処し方の反省と不可分の関係である。以下では、大まかではあるが丸山の「知識人観」や「学問観」・「民衆観」を概観していく。いうまでもなく「知識人観」そして「知識人の連帯」というテーマは、平和問題談話会という「知識人集団」とも直結するテーマである。そして、本稿の内容を先に述べれば、それぞれの知識人によって「民衆」への啓蒙に徹するのか、それとも学問の世界にこだわったうえで「民衆」とのつながりを求めるのかといった「民衆観」の相違も、平和問題談話会の分裂の契機となるのである。
後年、丸山眞男は大塚久雄や川島武宣とともに「戦後啓蒙思想の三羽ガラス」的な捉え方をされることが多い。[66]しかしながら、丸山は敗戦直後から「知識人の連帯」を説くとともに、「啓蒙活動」に対しては批判的なスタンスをとっていた。例えば、1947年1月『潮流』の「新学問論」という座談会の中で以下のように述べている。
…つまり、学者の実践とか、学者とマッセとの結びつきが、観念的には分かるが、どのようにやったらいいのかということが現実にはいろいろの問題があると思う。それは簡単に言うと、民衆の問題というのは、むしろやはり自分の中にある内面的意識の問題で、やたらに民衆民衆という問題じゃないのではないか。やたらに方々に講演して歩いたり、ジャーナリズムに書いたりするんではなくして、最も本格的な仕事をすること、それがはるかに民衆のためであるということも考えられる。もう一つ日本の学界の問題としては本当のアカデミズムというものが欠けているのではないか。…学問の行き方として、最高水準というようなものは、やはり現実問題として普通の生産労働に追われている民衆には、理解に困難があると思う。それかといって学者がみな啓蒙活動に出ていってしまったら本当に活動は出来ない。[67]
この発言は丸山の「知識人観」と「啓蒙活動」への批判的スタンスが如実に現れている。
いわば、丸山にとっての理想の知識人とは、知性の独自な次元の価値を認め、民衆や生活と学問が異なる次元(無関係ではなく)にあることを、真摯に「自覚」しつつ学問・研究に徹するというものであった。そういった知識人一人一人が、戦中のごとくバラバラになるのではなく、連帯していくということ。そして、民衆との関係で言えば、安易に啓蒙活動に走るのではなく、あくまで学問的な仕事に徹することで結果的に民衆とつながることができるというものであった。逆に言えば、学問以外のものでも果しうるような仕事に学問が振り回されてしまうのは、社会的な浪費であるという。[68]このような考え方は、敗戦直後から著作や座談会で頻繁に述べられていることである。そして、この「啓蒙活動」への批判的なスタンスは、部分的に吉野とも通底しているものであった。吉野の場合、「啓蒙
活動」そのものに対する批判的な発言は見出せないが、オールド・リベラリストの言う「文化を大衆に結びつける」かたちでの「啓蒙」に対しては批判的であった。
一方で、丸山の「学問観」を考える上で興味深いのは、この当時において、「人間をトータルに把握する」ことの大切さを強調していることである。ユネスコの八人の社会科学者による声明の中に「人間の学としての社会科学」という件があるが、これに対して丸山は「今更のように感動した」と述べている。[69]
以上のような思想と平和問題談話会との関係も矛盾したものではなかった。ある意味で、
丸山は以上のような思想を、実践に移す場として平和問題談話会との関わりをもったとも言える。たとえば、1948年の12月に行われた平和問題談話会(当初は討議会)の総会においても、「社会科学者のコミュニケーション」とか「社会科学者の横の団結」を、知識人が民衆と結合する以前の重要な問題として提起しているのである。また、朝鮮戦争勃発後の「三たび平和について」において、丸山はいわゆる「二つの世界」の積極的共存の可能性を論じた。が、それは一方で比較的左派のメンバーが多かった京都の学者と、東京の学者との連帯をいかに維持していくかという問題とも繋がるものであった。「二つの世界」の積極的共存のみならず、平談会内部における思想的な相違の積極的共存を計るという問題意識が汲み取れる。いかに丸山が「知識人の連帯」を真摯に模索したかということの明示である。
前述の通り、平和問題談話会の組織者吉野も平和の問題に対する知識人の連帯ということを構想していたが、こういった意識も丸山と共通していたことが分かる。そして、丸山が頻繁に「知識人の連帯」を説いた背景には、知識人としての、学問に携わる者としての戦中の反省意識があったことは言うまでもない。
また、「知識人としての反省」が「知識人の連帯」への強い願望と結びつくとともに、同時に「知識人の役割の模索」への願望とも結びつくものだった。敗戦直後には「学者」とか「知識人」という存在はいまだ風化してはいなかった。風化していないからこそ、知識人の役割の模索が真剣に行われる。
その結果、「知識人としての反省」が「平和」への意志と結びつく。知識人というものは一体何で社会に貢献できるのかという意識とそれは平和しかないのではないかという意識が共存することで、平和問題談話会における知識人の連帯意識が保たれていたといっていいだろう。[70]
そして繰り返すが、「知識人としての役割」観の相違あるいは「民衆観」が、後々平和問題談話会の分裂に微妙な影響をも与えることになる。
2−1−3.オールド・リベラリストと世代論的発想
先ほども、吉野の例や丸山の発言で見たとおり、この時期の丸山の思想の特徴として挙げられるのはいわゆる「オールド・リベラリスト」への批判である。前述のように、オールド・リベラリストと、それより若い世代との対立といったものは戦後思想史研究のなかでは、比較的よく取り上げられるものである。ここでは、丸山がこの当時、オールド・リベラリストに対してどのような事を述べていたのかという点をまず確認する。しかしながら、思想的には分離していたとしても、実際平和問題談話会は世代的・思想的相違を乗り越える形で一致した声明を出していく。
前述のように、敗戦直後に復活した戦前の「文化人」たちは、「道義国家」や「文化国家論」を提唱していた。たとえば、安倍能成は『世界』の創刊号における巻頭論文で、道義の再建をといていた。こういった保守論壇の思潮に対して、丸山は「学生や青年層に対する上すべりした「道義」や「秩序」」と位置づけ、オールド・リベラリストに対しては以下のように述べている。[71]
…終戦後、旧軍閥ないし極端なる国家主義勢力の退場のあとを受けて、政治・経済・文化のあらゆる面で一斉にヘゲモニーを握った古い世代の「自由主義者」たちにしても、もとより八・一五以後の激変は並々ならぬ驚きであったとはいえ、彼等は、それを以って彼らの「ありしよかりし日」への――ただ多少ラディカルな形態での――復帰と考えることによって、環境との新たな均衡状態を比較的容易にとりもどす事ができた…
こういった旧世代への批判は前述の通り吉野にも見受けられる態度である。そして、オールド・リベラリストの「ありしよかりし日」への「復帰」という批判それ自体も、ある程度的を得ていたと言える。大まかに言って、旧世代の知識人は天皇制擁護の立場をとっていたし、吉田内閣で文相を務めた田中耕太郎は、当時問題となっていた教育勅語問題に対して、教育勅語は「世界人類の道義的な核心に合致する」ものであり「自然法とも言うべき」ものと評していたほどである。[72]
以上の丸山の批判は平和問題談話会に参加する以前の発言であるが、平和問題談話会が結成され第一回目の声明を出した後も相当程度痛烈な旧世代批判をなしている。
…一体明治以後の「近代化」は知識階級と国民大衆との間に非常なギャップがあったんじゃないかと思います。知識階級だけを考えてみると、ある意味ではヨーロッパのインテリが問題にしておったようなテーマを、やはり絶えず日本のインテリが問題にしておったと思います。漱石とか鴎外とかの思想的レベルは、当時のヨーロッパの水準に比してもけっして恥ずかしくない。現代の明治的な人間といわれている人は、日本の最近のウルトラ・ナショナリズムが明治以後の国家ないし社会体制の必然的な発展として出てきたものだということを、どうしても承認しません。津田左右吉先生なんかがいい例ですね。かつては日本はもっと近代化されておったが、横合いから不意に乱暴な軍部や右翼が出てきたものだからこういうことになってしまったんだ。以前は、日本にも自由があったし批判的精神もあったということを強調しておりますね。なぜ明治のインテリがこういう感じを持ったかという点が面白いのです。たしかに知識人の住んでいた世界は観念的にはかなり近代的だったのですが、そうした観念の世界は一般国民の生活を規定している「思想」からは遠くかけへだたっていて、国民生活そのものの近代化の程度との間に非常な不均衡があった。ところが知識社会に住んで、その社会の空気を知っておった人には、どうしても最近の神がかり的ファシズムの出現が突発現象としてしか受け止められない。…実はむしろ逆にそういう人の住んでおった知識社会が特別の社会なので、一般の国民層は全くそれと隔絶された環境と社会意識の中におった。…ぼくは明治的な知識人というような人は、重臣層的な意識と共通したものをもっていると思う。つまりリベラルだがデモクラティックでない。そういう重臣リベラリズムは国民的な基礎がなかったので無力だったのじゃないかと思います…[73]
このように、当時比較的若手であった丸山の旧世代に対する批判は厳しいものがあった。そしてこういった意識は一人丸山のものというわけではなかったのである。
また、通常の場合、平和問題談話会が語られる時には、「思想的にも世代的にも幅の広い知識人集団」といった表現のしかたが縷々散見される。しかしながら、注視すべきことは、「思想的」にも「世代的」にも幅の広いということは、それだけ対立点も多いということである。何度か述べてきたことだが、東京の談話会と京都の談話会とでは思想的雰囲気が大きくことなる。かなり卑近な言い方であるが、東京の談話会のボスは安倍や和辻であり、京都の談話会のボスは進歩派の末川であった。こういう思想的雰囲気の中で、意見の一致を見ることは困難なことであり、丸山や清水、久野ら若手知識人は意見の調整のために何度か東京と京都とを往復している。つまりは、大きくわけて「思想的差異」・「世代的差異」・「空間的差異」といったファクターが複雑に絡み合いながら談話会の中に存在しつつも、何度かの声明を出したということを重く見る必要がある。
2−2. 安倍能成とオールド・リベラリスト
当初、岩波書店の雑誌『世界』は「同心会」の同人誌として出発したことは前述した。そして、この「同心会」は徐々に『世界』から離れていくことになり、『世界』は当時30代から40代程度の若手がその執筆者の中心となっていく。そして、この「同心会」は、「生成会」を結成して、1948年の7月に『心』を創刊することになる。この「心」グループは、その参加者のほとんどがオールド・リベラリストで占められており、平談会の会員とも重複している者が多い。
例えば、「心」グループには安倍を始めとして、天野貞祐・小泉信三・田中耕太郎・和辻哲郎・武者小路実篤・大内兵衛らが参加し戦後の保守論壇を形成していった。[74]「心」グループを分析した久野収によれば、戦後の「心」の活動動機は主にふたつあるという。一つ目としては、「戦争責任」の問題。「心」グループの参加者は敗戦当時でもかなり年長であり、卑近な言い方をすれば「大先生」と呼ばれるべき人たちで構成されていた。その「大先生」は、「大先生」なりに「自分たちがまずかった」という考えはあったのである。[75]そして、二つ目には、戦後の熱に浮かされたように見えた左翼的風潮に対する深刻な不満があった。[76]
そうであるから、この「心」グループには例え同世代であっても戦争に便乗したような人は参加していない。さらに、実践的に戦後の保守思想を再建しようとする人々も参加はしていなかった。これが、前述の二つの動機からくる参加者の構成である。であるから、敗戦当時53歳の末川博や、同じく敗戦当時57歳の恒藤恭も、この「心」グループには参加していないのである。
以上の点を踏まえた上で、安倍を中心に平談会との関連を検証していくことにしたい。安倍は1883年生まれで、敗戦時に62歳という年齢である。安倍は戦後文部大臣や学習院の院長を務めている。この安倍が平談会に参加したきっかけは、吉野の熱心な誘いがあったからだった。安部は平談会に参加してから、2・3年の間は平和問題に非常に熱心であり、平談会の主張にも基本的には同意していたと言える。例えば、平談会が全面講和などの平和四原則を打ち出したあとにも、以下のように述べている。[77]
…けっきょく世界の平和とこれに繋がる日本の平和とは、両大国の対抗と緊張とによっては望まれずして、両方の妥協と同調とによってのみ期待し得るのである。だから我々は、両方の対立を終局的なものと見ずして、殊に両強国自身が努めてその共通な利害を見出して、相妥協し相同調することを熱望するとともに、アメリカは単独講和でソ連は全面講和であり、単独講和を取ればアメリカに味方してソ連を敵とするものであり、全面講和を取ればソ連に与してアメリカを敵とするものだということを、簡単にきめてしまいたくないのである。
以上の発言は、ある意味でいえば平談会の公式見解をそのまま繰り返しているとも言える。この同じ文章中においても、「世界平和の根本は米ソの対立」にあり、「消極的にこの強調を妨げぬ」ように努める「平和問題談話会の所説に大体同感」と述べている。[78]安倍は、この後、平談会が「三たび平和について」を発表し、サンフランシスコ講和が調印されたあとも同様の趣旨の文章を述べている。全面講和や再軍備を主張し、平和国家・文化国家を主張しているのである。そういう意味では、安倍自身の「平和論」にそれほどの独自性があるわけではない。
しかし、このように安倍自身は平談会の公式見解に沿った発言を維持したが、平談会に対する関わり方には、それとは異なる面が存在することを見逃してはならない。ここでまず、注目しておくべき点は、前述の『心』創刊の時期と、平談会結成の時期がほぼ同時期ということである。清水の回想によれば、平談会の正式なメンバーが決定したのは、1948年の11月15日である。[79]つまり、安倍はほぼ同時期に『心』で執筆しつつ、平談会に参加しその代表役を務めたということである。「心」グループと平談会とでは、およそその思想背景は異なる。先ほども述べたとおり、「心」グループは戦後の左派的な風潮に批判的であった。実際安倍自身も、「平和問題の集合に呼ばれたが、そこに集まった労働者風の気負ったソ連中心見たやうな平和の叫びには、一向同感ができなかった。」と回想している。[80]
そしてまた、後に平談会の全面講和論に理論的な批判を加えていく小泉信三が「心」に参加し、ほぼ同世代であり平談会に参加する末川や恒藤が「心」には参加していないことも興味深い。実際、末川は平談会の第一回声明作成の討議会の中で、国内の大衆組織の必要性を繰り返し強調していることからも、ほぼ同世代とはいえ安倍と末川とでは、その思想傾向に差異が見受けられる。
そしてまた、安倍の回想によると、平談会に熱心に誘った吉野の思想と行動には「同意しかねる」と述べている。[81]吉野の思想的な背景に関しては前述したとおりである。そして、吉野及び彼と同調の戦後の岩波書店の著者たちとは、その思想傾向が離れているという回想をしているのも前述の通りである。ここでいう「戦後の岩波書店の著者」が、どういった人々なのか、説明するまでもないであろう。そして、丸山たちより若手の世代の知識人たちは、この安倍らの世代に対する批判意識を抱いていたのも前述した。
さらに丸山の回想によると、全面講和を始めとした平和四原則を唱える第二回声明を唱えた頃から、平談会内部で「あたりさわりが出てきた」。[82]加えて、清水の回想によると、「安倍能成、和辻哲郎、田中耕太郎」といったオールドリベラリストたちは「単独講和に高い評価を与えていた」。[83]実際、第二回声明時で、田中耕太郎や津田左右吉、鈴木大拙らは単独講和の意義を認め、平談会を抜けている。
このように見てくると、安倍と平談会との関わり、安倍と丸山や久野、末川といった人たちとの関係も見えてくる。まず、安倍と平談会とのかかわりに関して述べると、「平和」を求めるという点では一致しているし、戦争に対する徹底した忌避感が安倍が平談会に参加した動機の最も大きなものであったろう。そして、平談会の代表役という立場上、平談会の公式見解を述べていたというのも半分は当たっているのではないか。しかしながら、世代的な相違・思想的な相違では大きくかけ離れているという点もまた事実であるし、「心」グループと比べてみることでより一層はっきりするだろう。末川も久野も清水も、後々まで平和運動にコミットしていったメンバーであり、当初からこういった思想的な多様性と差異が内包されたものが平談会の実際像であったのではないか。
以上のように、安倍と平談会との関わり、あるいは安倍と末川や久野等の談話会会員との関係は、およそ両義的なものであったといえる。安倍は平談会のことを回想して以下のように述べている。「この会合によって私が新たな友を得ることができなかったのは、年齢や世代の隔たりにもよるが、私のこの会の主体性の不足が主原因であったろう」。「主体性」を全面的に発揮できないアンビバレントな感情を示したこの回想は、安倍と平談会との関係を最も的確に表しているのかもしれない。
2−3 久野収・清水幾太郎と平和問題談話会
久野収は1910年生まれ、敗戦時には35歳の若手知識人であった。[84]今まで述べてきた丸山や安倍とはまた異なる思想傾向を持ち、平談会の思想的多様性の一翼を担っていたと位置づけることができる。そういう意味では、丸山や安倍とはことなる事例として検証できる。
結論から言えば、敗戦時に35歳という若さの点では丸山と共通する部分がある。つまり、世代的な相違という点でもそうであるし、丸山や清水と同様久野も、平談会の実質的な働き手として東京と京都の間を往復するといった活動をしているのである。そして、思想的な背景という点では、久野はより実践的な平和運動を志向していた。後年、久野は「市民主義の成立」を記し、砂川闘争や警職法反対闘争、60年安保、べ平連にも関わっていくことになるが、こういった「実践的な」運動を重視する傾向は敗戦直後から久野の中には存在した。
さらに言えば、久野のこういった「実践運動」を重視する志向は戦中の経験に求めるべきであろう。久野は同人誌『世界文化』や週刊新聞『土曜日』の関連で治安維持法により、投獄されるという経験を持っている。後年の回想では、「釈放されて命永らえたら、運動に身を入れよう」と決心したという。[85]あるいは京大滝川事件で運動を経験しているのも大きいであろう。このように、京大滝川事件、『世界文化』・『土曜日』・投獄経験などを基盤として戦後の久野収の活動が始まったと位置づけるのは間違いではないであろう。
以上述べてきたとおり、久野はその生涯において一貫して平和運動や反戦運動、あるいは市民運動に拘っていった知識人である。現在において、久野は「市民」の立場から行動した知識人といった評価がなされることが多い。その反面、平和運動にも一貫してコミットを続けていった。
言い換えるならば、「市民運動」の側面と、「平和運動」の側面の二重性を備えた知識人と言うことができる。そして、久野が「平和運動」に関わりだしたのは、敗戦直後からであり、「市民主義の成立」を記して「市民運動」に関わりだしたのは、警職法反対運動から60年安保に至る流れである。
しかし、「市民運動」と「平和運動」の二重性という表現は正確なものではない。むしろ、両者は重なり合っているものと位置づけることの方が適切である。そして、後述することであるが、久野における「市民運動」と「平和運動」とは、久野に内在する根本思想に注目した場合、その根は同一であると位置づけることができる。この根本思想にあたるもの、これこそ前述した京大滝川事件などの戦中の体験なのであった。
2−3−1.レジスタンスの思想
京大滝川事件は、京大刑法学の滝川幸辰教授の罪刑法定論の思想を反動右翼らが危険思想であるとみなし、1933年、当時の鳩山一郎文相が、総長や教授会を無視して滝川を休職処分にし、かつその著作『刑法読本』を発禁にしたことから始まる。
この処分に対して、法学部教授会も総辞職を決定した。学生たちは、この滝川に対する処分に真っ向から反対運動を行ったが、運動自体は孤立し、法学部教授も全員が辞職するという当初の決定を覆したかたちで終息していったものである。[86]
この当時、久野は京都大学の三回生であり、卒論を控えた身であるため、「法学部の学生運動を支持はするけれども、中心周囲の一人になって退学をかけてまでたたかう意思はなかった」。[87]当時の文学部の卒業論文の成績に対する比重は、非常に重いものがあり、久野は卒論に集中するつもりであったようである。
卒論を書くにあたって、久野は民族論をテーマにしようと考えていた。その問題意識は、日本においては、「自発的個人単位の近代的任意団体、自発結社、あるいは契約組織といった社会集団が国家機関の統制を排して、自主、多様な姿で出てきていない」。であるから、「そういう近代社会の成立と民族の発展との関係を調べる民族論」を構想していたらしい。[88]結論からいえば、日本において「近代的任意団体」や「自発的結社」、「契約組織」が国家機関の統制に服すことなく、レジスタンスの形で出現することがなかったという問題意識は久野に一貫したものである。
たとえば、1930年代前半の学生時代の問題意識が、後年の久野とどのように一貫しているのかは以下の発言を見ればわかる。[89]
・・・日本の一番の政治的、文化的貧しさは、自治能力のなさから発しているのではないか。自由は自由でも、自治の背景を持たない自由だから、自治能力のない集団や個人があとからあとから現れて、自由の奪い合いをくり広げている。…ドイツ流の個人の自律は日本にも定着しつつあるようだけれど、自治というのは、やはり家や村や町の自治から始まらないと本物にはならないんです・・・
この発言は、1996年3月号『広告批評』掲載の文章の一部である。ここでも、「自治」や「自主」を背景とする組織を持たない日本の文化的・歴史的特殊性が強調されていることがわかる。あわせて、学生時代の久野の問題意識とも見事に接続されていることを理解するのは容易であろう。
以上のような、後年にまで一貫した問題意識を持った久野であったが、前述したように、当初は京大事件とは距離を取っていた。その久野の意識が大きく変わる契機となったのは、総辞職する教授全員が学生に辞職を告げる法学部学生大会への出席であった。この大会には2千人にものぼる学生が半ばすし詰め状態で参加し、辞職する滝川を他の法学部教授が取り囲みながら、当時の宮本学部長が次のような有名な訣別の挨拶を行った。
・・・総辞職は法学部教授団が採用せざるをえなくなった学生諸君にたいする最後の教育手段である。われわれはこのような行動でしか諸君を教育できなくなった非力を深く恥じ入っている・・・[90]
この声明が読まれる中、学生大会が開かれている教室の至るところで、学生たちのむせび泣きが響いていたという。[91]
この大会を傍聴していた久野は、卒論に集中し京大事件とは距離を置いていた姿勢を改め、運動に力を入れることとなる。この時の心境は以下のようなものであった。
・・・これは卒業論文どころの話ではないぞ。ここにはマスプロ化した大学でもうなくなってしまったかに見えた教えるものと教えられるものとのほんとうの対話、ほんとうの学びあいが復活しているではないか。この精神をよみがえらせるためには、京大学生として引き下がっているべきではない・・・[92]
こうして久野は京大事件に全力を注ぐことになる。結果的には、前述したように、この学生たちの運動は終息していき、目だった成果というものは得られなかった。久野は、当初予定していた民族論ではなく、ヘーゲルをテーマとした卒業論文を書いて大学を卒業することになる。
しかしながら、久野にとってこの京大事件は、その思想形成において重要な契機となった。京大事件は、簡潔に言えば、「学問の自由」のための闘いであった。国家機関が、本来侵すべきではない「学問の自由」を明確に侵犯したことに対する批判的意識が久野の中で植え付けられる。しかし、それ以上に久野にとって大きかったのは、大学における「就学の自由」の欠落であった。後年を回想して久野は、「ぼくは滝川事件で大学生の自由にひそむ欠陥にも痛感させられました」と述べている。[93]
「学問の自由」とは、本来、「教える自由」と「学ぶ自由」の二つに分けられる。しかし、久野によれば、日本の大学には「学ぶ自由」など存在しない。「学ぶ自由」とは、「就学の自由」であり、卒業論文を提出した大学が卒業大学として認定されるようなことである。しかも、大学の自由と言っても方一方だけの自由であるし、その片一方の自由も他のさまざまな市民的自由によって支えられて初めて機能するものであろう。[94]
そして、その「さまざまな市民的自由」というものが日本には見出せない。なぜなら、本来、近代というものは、「自主」「自律」を背景とした「自由」な組織が国家や正統派教会に対してプロテストする形で生まれるものであるからである。都市やギルドなどは、そういた「自主」「自治」的組織であり、本来の大学もその例に漏れない。
そうとすれば、日本において、いかにして「自主」「自治」を根幹とする組織、それの上にたつ「市民的自由」は成し遂げられるのか。以上のような問題意識が久野の中で醸成されていくことになる。京大滝川事件が久野に与えたものは、以上のような問題意識であった。この京大滝川事件での「レジスタンス」の経験が、後年の平和論や市民主義のテーゼに大きな影響を与えることになる。
この「レジスタンス」の思想は、1934年に大学を卒業した久野が、その翌年の1935年に民主戦線の雑誌『世界文化』や『土曜日』を発刊することに繋がっていく。『世界文化』は、フランスの民主戦線に大きな示唆を得て発刊した反ファシズムの書であった。ここでその内容の分析までには立ち入らないが、京大事件で培った問題意識と直結したものであったという点を強調しておく。
さらに、久野が大学を卒業した年は、ヒトラーが政権を奪取した翌年であった。その後、日本はナチスと防共同盟を結んでいく。この時、久野は「政府の上からつくり出す方向に、文化界も庶民大衆もなぜこれほど従順なのかという問題を、現実から突きつけられた」という。[95]こういった問題意識もまた、後述するが戦後の久野へと受け継がれていくものである。
そして、前述したように、久野はこの『世界文化』や『土曜日』の関連で投獄される。この投獄体験も悲惨なものであった。投獄時の状況を久野は以下のように回想している。
・・・警察の留置場時代、折からのシャバは、南京陥落の大チョウチン行列の大騒ぎでね。そりゃ、未決刑務所より、各警察を三ヶ月くらいずつ、ずっと、タライ回しされるほうがずっとしんどかったですよ。ノミ、シラミ、南京虫にたかられ、風呂や散髪は全く許されず、ひどいモッソウ飯で、接見はすべて禁止。十畳じきぐらいの部屋に二五人ぐらいつめこまれて寝るのですから、一部はまわりに立ちつづけなければならない。その上、何ヶ月も取り調べもなくブタ箱に座わされるわけですからね・・・[96]
その後は、昭和高商や、大阪女子経済専門学校で教員をしながら、戦中を過ごすこととなる。その当時、久野がファシズムに抵抗する中で、貪るように読んだのが、ジョン・デューイであった。デューイの『論理学』や『自由と文化』『哲学と文明』『新旧個人主義』に深く影響された。このデューイから、久野は本来の個人主義というものを吸収していく。
久野によると、日本においては、「個人主義」は「個人エゴイズム」と解釈されがちであるが、本来の「個人主義」は、「他人の身になって考え、他人を理解し、他人と共同の行動を考え出す態度によって自分の個性を深め、ひろめるスタイル」であり、「他者への理解と寛容」を示すスタイルである。さらにくわえて、「社会をつねに新しく形成し直すのが個人主義である」という。[97]
以上見てきたように、戦中の久野の体験は様々なレベルで久野に影響を与えた。とりわけ、京大滝川事件や『世界文化』『土曜日』の発刊は大きな契機であった。このような体験を培った久野が、「戦後」に出会って以降の軌跡を次節で検証する。
2−3−2.平和論と市民主義
久野は、どのような思想をもって「戦後」と対峙したのだろうか。一つ目は、ファシズムに抵抗し続けた久野にとって、大衆がいとも簡単に政府や天皇といった「上の」組織や個人に追随していったことである。それにともなって、大衆というものに大きな期待をもつ反面、大衆に対する疑義を呈してもいた。たとえば、久野は戦後直後を以下のように回顧している。
・・・とにかく、上からの誘導や周囲の顔色の動きに従いながら、それに応じてモノを言い、行動する日本人の大勢追随的惰性は、こんな大敗戦になっても、天皇の詔書でケリをつけるのですから、あまり変わっていない。天皇の詔書で突然挙国一致で、戦争に入り、いままた詔書で挙国一致で、ケリをつける日本人の思考様式、行動様式をどう考えるのか。それを改めるためには、ぼくはこう考えるという態度をまず出そうを思ったのです。とにかくぼくは、大衆の、上から指導された運動の激しい動きを、革命的大衆としてまるまる信頼する気持ちにはなかなかなれなかったのは事実ですね。[98]
二点目は、上からの指導に従順な大衆ではなく、各人が明確な問題意識を持つとともに、その連帯を模索するというものであった。
・・・みんなが、めいめい下からの問題意識や考えかたを持つようにする。それから、他人の意識や考え方の理解を深め、大筋で一致した考え方で実行に移していく。「行動の一致」を自分たちの存在のほうから考えないで、あくまでも考えかたのレベルの問題として扱っていく。[99]
これは、京大滝川事件で培った問題意識とやはり結びつくものである。「自主」「自治」の組織を背景とした、「自由」な個人が、自分の存在規定や制度に従うのではなく、自発的に「行動の一致」を求めていく。あるいはデューイの影響を受けたことを鑑みれば、「他者への理解と寛容」と示すとともに、「他者との協同」を模索することで「個人」を認識していく「個人主義」ということであろう。
この後、久野は平和問題談話会に参加し、久野独自の平和論を模索していくことになる。しかしながら、繰り返し述べるように、久野の平和論もまた、「自主的な組織」やデューイ流の個人主義の接合の中から、あるいは京大滝川事件の体験の中から発生することになる。そしてまた、後述するが、60年代以降の久野の「市民主義」もまた、その発想形態は変わらないものである。
加えて、ファシズムに抵抗した久野であるが、戦後の解放感とともに「悔恨」の意識もまた持ち合わせていた。
・・・もう戦争は終わったんだという解放感は、たまらなかった。ただその後、戦争遂行に、どうしてもっと賢く抵抗し続けなかったか、という悔恨があとからあとから噴き出してきて、ぼくは心の痛みに悩まされました。抵抗の足りなかった自分の中の「日本人的同調性」への悔恨が深くあとを引いていました・・・[100]
久野の悔恨も深いものがあった。自己自身の中に存在する「日本人的同調性」を克服するために、前述の問題意識をさらに発展させていったのであろう。そういう意味では、久野の戦後の軌跡もまた、久野自身へ向けられていたのかもしれない。
また、久野は敗戦直後から京都人文学園の講師として新しい民主主義教育を行ったり、大阪の社会党左派の講師として労働講座を受け持ったりしていた。この当時から、後の社会党左派の委員長となる鈴木茂三郎とも関係を持っていたという事実は示唆的である。その後、清水幾太郎の誘いで平談会に参加することになる。久野が平談会に参加した直接の動機は、ユネスコ声明に知己のホルクハイマ−が参加していたことだった。
前述のように、久野の大きな特徴はその実践的な運動を志向していたということであった。実際、1949年から1951年の間にかけて、「左派社会党と『総評』の全面講和運動に全力投球していた」と述べている。[101]しかしながら、久野が単純な実践活動家であったという評価はいささか一面的である。確かに実践活動を重視していたのは誰しもが認めることであるが、その反面、「戦争と平和」に関する理論的な分析も欠かさなかった。
久野は『世界』の1949年11月号で「平和の論理と戦争の論理」という論文を書き、「平和」の問題と「革命」の問題を切り離す視点を打ち出した。なぜこのような思考様式をなしたのか、あるいはこのような思考形態を取る必要があったのかという点の背景は一章で言及した。この「平和」と「革命」とを分離したテーゼは、この後の平談会の声明に反映されていくことになる。丸山も「革命と平和の問題をはっきりと切り離して議論をすすめ、運動をすすめなければだめだと始めて主張したのは久野さんたちだった」と述べている。[102]
この「平和の論理と戦争の論理」において、戦争に対する宿命観という論理を斥け、「暴力の挑戦に応じて直ちに暴力的反撃をくわえることは、あくまで自戒するが、他方では、その挑戦に徹頭徹尾、抵抗してゆく」という態度の必要性を述べる。[103]それゆえ、「戦争に対する積極的嫌悪の感覚」と、「戦争の反価値性を憎悪する信念」に裏打ちされた、組織が大切であると説く。[104]
この組織もまた「上から」のものではない。戦争に対する不服従・非協力の「信念に発する各人の思想と行動が、みずからの一連の運動と組織を結果として形づくるか、既存の運動と組織を、この目的のために有効に活用するかによって、平和の防波堤の役割を果すのであって、その逆ではない」(傍点、筆者)という。[105]
つまり、「個人」が「平和に対する強い願望」を持ち、「自主的」「自発的」に「他者との協同」を模索していく。その結果、「下から」組織が形成されなければならず、上からの指導に従うのではないということを強調している。この思想が、戦中の体験に基づく久野の根本思想であることは言うまでもない。
また、戦争に対する不服従・非協力による受動的抵抗の運動の歴史を概観した後に、「これらの運動がすべて、近代の市民的価値を守る立場を重要な動機として、出発しているかぎり、それは市民的平和の論理」として、共通のものであるとする。[106]
そして、戦争に対する最大の有効な抵抗が、組織された労働階級のゼネラル・ストライキであり、その抵抗運動である。[107]「戦争に対する受動的抵抗の運動は、ここにいたって、強固な組織を獲得し、戦争の組織と暴力に対抗する組織と実力を始めて獲得する」ことになる。[108]
このような労働組合が、戦争への抵抗を首尾よくなしとげるためにはいくつかの前提条件が存在する。一つ目は、広汎な一般民衆の中に、戦争への憎悪が広がっているということである。[109]
二つ目は、戦争への最大の保塁として役立つことが、労働者の組織の最も重要な任務の一つに属するという点の自覚が、労働者の中に行きわたっていることである。[110]このようなことを前提とすれば、戦争の危機が深刻なものとなってきたとき、「他の動機や他の目的遂行上の相違、或いは対立を即刻度外視して、戦争に対する受動的抵抗の運動に、一致して立ち上がる用意が、一人一人の労働者の中に」生まれるという。[111]
さらに関連して、「一致して立ち上がる」という事態は、「一人一人の労働者の深い認識と固い決断から生じるのであって、指導者による一方向への統一のための策動や論難から生じるのではない」(傍点、筆者)[112]ここにも、組織がまずあり、その指導者の指示によって労働者や一般民衆が動くような組織ではなく、一人一人の「自主的」「自律的」判断が、広汎な連帯と組織を生み出すべきであるという、久野の思想が伺える。
三つ目に、戦争の条件及び帰結に関する理論的認識が労働者の一人一人に浸透し、労働者のこうした行動を支持する世論の必要性が存在する。[113]そのために、戦争に対する抵抗の権利が、憲法の基本的人権の最高の部分として確保されなければならないという。そして、人間は戦争に「構造付けられている」わけではなく、「条件付けられている」のであり、その条件の探求こそが大切である。[114]
この抵抗の権利の確認したうえで、国内の自主的な組織を防衛する必要を説いて久野は以下のように述べる。
・・・それぞれの自主的組織、例えば近代的教会、近代的労働組合及びその他の組合、近代的学校、或いは学会のような諸団体が、それぞれ自己の職能に応じて、戦争への抵抗と、平和の確保のための運動を力強く展開する時、平和の論理は、自己を実現する有力な保障をもつこととなるであろう・・・[115]
こういった考えかたは、後の「市民主義の成立」以降も一貫しているものであることは前述した。
結論として、「平和の論理」を認識し、「戦争の論理」に徹底的に抵抗していく主体は社会的存在によって一義的に決定されるわけではないということである。ここから、労働者だから平和の味方であり、ブルジョワ階級だから平和の敵であり悪魔の勢力であるという「公式」以外の、「平和」に関する新たな思考の地平が開けてくるのである。
逆に言えば、平談会もこのような論理を必要としていたとも言える。とりわけ、京都平談会は「左派」的な思考の持ち主が多く、東京平談会と京都平談会との間の議論で、「平和」の問題に関して一致させるためにはこのような論理が不可欠であった。そういう意味でも、久野の「平和の論理と戦争の論理」が平談会に与えた影響は大きいと位置づけることは間違いではないであろう。
こういった、「平和」と「革命」をいったん分離して、思考することも、やはり戦中の体験が大きく影響していた。
・・・当時、こういう考えかたはぼくにも第二次大戦の経験を通じて深く浸透していました。・・・ただそうなると、運動の主体は、社会的存在による決定の論理だけに頼ってはいられなくなる。労働者だから平和の味方であり、ブルジョワジーだから平和の敵であるというふうな公式だけではあまり有効でなくなるのですね。もし、平和について人々の意思や行動の統一を大きく図ろうとするなら、すべての人々が自分の存在だけから引き出される平和論というものを、いったん断ち切らなければならないのではないか。これは、有名なフランス民主戦線のスローガン「ユニテ・ド・ラクション・ア・トゥプリ(あらゆる犠牲を払った行動の統一)」(一九三四年)を貫く論理でもあったと思います。ぼくの説では、平和のための行動というのは、“にもかかわらず”という、いわば実存的契機を生かして成り立つとも言えるでしょう・・・[116]
しかしながら、こういった「革命」が「平和」の前提であるという考えを拒絶し、「平和」を独立した問題として捉える思考様式は決して当時の知的状況の中で市民権を得ていたとは言いがたい。周知の通りユネスコの憲章は、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなくてはならない」という宣言から出発しているものである。
こういった、戦争の根源が人間の心にあるという説をめぐって、久野はラディカル左翼のヘーゲル学者松村一人と以下のような対話をしたという。
・・・久野さん、あんな観念論のアホダラ経をあなたまで信じているのですか
・・・ぼくは出発点として信じています[117]
戦争と平和の問題を、社会体制や経済的条件の問題として考える松村には、およそ現実味のない問題設定だと受け止められたのであろう。
この論文の後、久野は実践活動に従事していくことになる。久野は、その当時のことを以下のように回顧している。
・・・談話会の中でぼくは、やはり実践活動派の道を選ばないわけにはいかなかった。もっとも、それ以前も以後も、市民運動に長くかかわったのですから、これは当然といえば当然でしょう・・・[118]
清水幾太郎の回想によると、1949年の5月には、すでに日教組と平談会との協力関係が形成されつつあった。この日教組との連携に、もちろん久野は全力を注いだ。久野以外にも清水や吉野らが中心となっていたようである。[119]このように見てみると、久野は実践運動家というイメージだけではないことに気づく。この後も、砂川闘争や警職法反対運動、『改造』廃刊反対運動、60年安保、べ平連と「市民」の立場からの運動に参加していくことになるが、その都度理論的な貢献も果している。そういう意味では、この当時、「平和の論理と戦争の論理」で説いた如く、「理論的認識を足場にして実践運動」をするというテーゼを自身で実行したとも考えられる。
そして、何度も述べたとおり、久野における「平和論」と「市民主義」は、久野に内在する根本思想という同一の根から出てきているものである。しかし、ある時期まで、久野自身はこのことに自覚的ではなかった。「パッシブ・レジスタンスというものこそが平和の論理である。それがほんとうに自覚されてきたのは、・・・六〇年以後ずっと市民運動をやりつづけて、そこから市民運動と平和運動が初めて、レジスタンスとして結びついてくる点が自覚されて」きたらしい。[120]
受動的レジスタンスとしての平和論や平和運動と市民運動の根本思想は同一である。そして、このレジスタンスの前提として、「自主」「自治」を背景とする国家機関と対抗的な諸集団・諸組織の発生が考えられる。そういった「自主」的な組織を創り上げる個人とは、「他者との一致」や「他者との連帯」を志向し、その「連帯」を模索する中で自分の個性を深める「個人主義」的人間である。そして、「連帯」を求める時は、社会的存在規定や制度など「にもかかわらず」個人が連帯するのである。
後年の、「市民主義の成立」では、久野は「市民」を以下のように定義している。
・・・“市民”とは、“職業”を通じて生活をたてている“人間”という定義になるだろう。・・・まず、職業と生活との分離が必要だ。どこからどこまでが自分の職業で、どこからどこまでが自分の生活かが分離していない生き方からは、身分的人間が生まれても、市民的人間は生まれてこない。職業と生活とか分離していれば、農民も市民の有力な一部分だが、農民が市民とよばれにくいのは、日本の農村では、この両方がごちゃまぜなりがちで、戦後の改革をまって、この分離がやっと地につきだしたからだった。・・・いまは職業の第二の特質にうつろう。その特質とは、職業組織は本来国家権力とは無関係だということだ。国家権力からの遠近、国家権力のテコいれの度合いによって職業の高低をきめ、国家権力の国策決定にはアプリオリに弱い日本の国策会社的職人の習慣からすると、この特質はなかなかわかりにくいし、自覚されにくい、しかし職業人の自主的組織であるギルド(同業者組合)やツンフトを考えれば、この特質は実にはっきりしている。ギルドは自分たちの職業を国家権力とは無関係にやれる権利を金をだして国家権力から買いとって、自主と自治と自由の母体になった。国家をこえる社会が、国家の中にでてくるということ、これが近代だ。・・・[121]
久野本人が自覚しえずとも、戦中の体験から派生した根本思想が無意識的に受け継がれていったのであろう。久野のレジスタンス思想は、根本思想であり、かつ自分へのメッセージでもある。戦中戦後と一貫して「レジスタンス」の「思想と行動」を記した軌跡が遺した問題は依然として未解決なのかもしれない。
2−3−3.清水幾太郎と平和運動
そして、前述の久野とともに、平和問題談話会内部で実践運動に積極的であったのが、清水幾太郎である。[122]清水は、平和問題談話会会員の中でも、最も熱心に活動を行った一人である。しかし、その活動には、清水独特と言える事柄がいくつか指摘できよう。
結論から先に言えば、清水は談話会の中で東京と京都との調整役のような働きをしていた。もちろん、この調整役には久野や丸山があたることもあったが、交通事情が未整備のなか、清水と久野は何度も東京と京都を往復している。ちなみに、平和問題談話会の活動期間中、清水と久野は相当に親密な間柄であったことを付け加えておこう。
また、平和問題談話会の三つの声明のうち、最初の二つの起草の任を清水が負い、「三たび平和について」では、その総論を担当している。そしてまた、第一回声明段階においても、清水は各部会に出席していることからも、その熱心さが伺える。
こうして平和問題談話会の活動に極めて熱心であった清水は、安倍や丸山とはことなり、当初から実践的な活動を念頭においていたことも述べなければならない。この点が、理論的に平和活動に寄与しようとする丸山とも、そして労働組合に対して距離を取っていた安倍とも、その「実践運動に対する志向」や「大衆観」といった点で大きく異なるものがあった。
そして、前述したように、「実践運動に対する志向」や「大衆観」という点で、清水に近い位置にいたのが久野であった。ある意味、図式的に言えば、こと「大衆観」という点では末川とも近い位置にいたとも言える。
清水幾太郎を研究した小熊英二によれば、清水の「原思想」にあたるものを、こう評している。「「高い地点」から抽象的な概念を説く「インテリ」に反発しながらも憧憬する。こうしたアンビバレントな姿勢は、清水のなかで〈西洋的な知識人〉と〈日本の庶民大衆〉という対立図式をつくり、やがて彼のナショナリズムの根底をなしていく」[123]
この「西洋的な知識人」と「日本の庶民大衆」という図式は、清水の平和運動を検証する上でも欠かせない。そしてまた、「庶民」に好感をしめすという点でも、アメリカ哲学を知的背景としているという点でも久野との共通性を指摘できる。久野がデューイに大きな影響を受けたことは前述したが、清水もまたデューイの哲学に大きな影響を受けているのである。そして、久野は「大衆」というものに「100%信頼はできない」という気持ちを抱いてはいたものの、基本的には期待をかけていた面が強い。
さらに、敗戦直後に清水が所長を務めた20世紀研究所でも、宮城音弥、大河内一男、中野好夫、林健太郎といったメンバーに加えて、清水の勧めで久野も参加している。久野が回想しているように、その当時の久野と清水は「肝胆相照らす関係」であった。平和問題談話会が結成される以前の時期には、久野の京都にある人文学園と20世紀研究所が、合同で民間大学講座を開催している。
平和問題談話会結成以前に、清水と久野の「肝胆相照らす関係」が形成されていたことが、のちのち平和問題談話会結成に大きな役目を果すことになる。同時に、平和問題談話会が結成される以前に、清水は吉野から『世界』の嘱託(海外文化情報担当)を以来されていた。この敗戦の年に吉野と『世界』の話し合いをしたことが、結果的には清水を談話会の活動に導いていくことになる。清水は、『わが人生の断片』のなかで、「後から考えると、敗戦の年の秋に吉野氏に会い、『世界』について話を聞いたことは、戦後の私の生活の或る部分を決定する結果になった」と述べている。[124]「戦後」の「或る部分」が何を指すかは言うまでもないだろう。
このように、平和問題談話会に関わった知識人の中で、清水は一種独特の要素を含んだ存在である。繰り返しになるが、そのことは、やはり、戦中・戦時の体験や、出身階層やその経歴等から醸成されていった「原思想」の意識的・無意識的影響が大きい。そして、平和問題談話会内部の分岐が顕在化していく過程を検証していく上で、重要な人物であることは疑い得ない。以上述べたことから、以下では清水がどのように平和問題談話会に関わったのかという点、そして「三たび平和について」以後、実践運動に傾斜していくまでの過程を見ていくこととする。そうすることで、久野や丸山、安倍や吉野などとの複合的な関係性もより理解しやすくなるとも思われる。
清水の平和問題談話会との出会いは、吉野からの依頼であった。1948年の9月、既にユネスコ声明を入手していた吉野は、岩波別荘へ清水を訪ねている。清水は、夕刻、吉野から手渡されたユネスコ声明を読み、ユネスコ声明の中に東欧圏からサライが参加していることに大きな衝撃を受ける。
清水は、そのときのことをこう記している。サライのことを詳しくは知らなかった清水だが、「偉い学者か否か、私は知らない。しかし、偉くても、偉くなくても、彼がハンガリアの人間であることが大切」である。なぜかといえば、「ハンガリア」は「共産圏の国」であり、「ロシアの属国のような国の学者が、ロシアの承認なしに、パリへ出かけて来て、しかも、こういう重大な問題について西側の学者と自由に共同声明など出来る筈はない」からである。ということは、「ロシアにも脈がある」ということも考えられ、どこかに「東西の一致点」「平和が成り立つ一点」があるということなのではないか。
そして、この吉野を媒介としたユネスコ声明との出会いが、「それから十数年に亙る私の生活の多くの部分を決定すること」となった。[125]
この当時はすでに、ベルリンの封鎖や、中国の内戦の問題など、冷戦に対する危機感が増大しつつあった時期でもある。清水は同じく後に平和問題談話会に参加する中野好夫と、今後「五年以内に第三次世界大戦が起るか否か」という賭けをしたという。[126]事態は、それほど深刻であったということであろう。
であるからこそ、清水は先のユネスコ声明に東欧圏から唯一参加したサライの存在に非常に勇気づけられた。清水の半生を回想した『わが人生の断片』のなかでは、「サライの名が私たちの困難の一部分を除いてくれるように思われた」「ユネスコの文書の価値は、サライという一人の人物に煮つめられて来たように思われた」というように、サライの存在を強調している箇所が散見される。
談話会の組織化の段階にあっては、安部能成、大内兵衛、仁科芳雄が主唱者ということであった。しかしそれはある程度まで形式的なもので、人選や東京と京都との意見調整などは、東京では清水、京都では久野が中心になって進められた。実際、組織化の段階では、吉野とともに京都と東京との間を往復している。ある意味で、実際に活動した人物が清水と久野であるという点もまた、吉野の巧妙さの証左であると言えるのではないだろうか。
さらに思想的な態度の点では、「革命」を「平和」の前提と考えるというものではなく、「平和」を独立した問題として考える路線を清水も共有していた。久野の回顧によれば、清水も左翼的な革命を通じない平和論を丸山とともに共有していたと述べている。[127]
そして、組織化を終えた談話会は、各部会の会合を順次開いていくことになる。しかしこの会合に出席した清水は、東京の経済部会の会合を記した日記のなかで、「みんなobjectivistsとでもいふのか、シニックな口調ばかり。ガッカリする」と書いている。[128]
このように、談話会に参加した知識人に対する批判的言辞は、『わが人生の断片』のなかで散見されるものである。ここに「庶民」に好感を示す清水が、およそ「庶民」とは程遠い「知識人」に反感を感じたことが理解できる。さらに、こういった「知識人」に対する批判や幻滅が常に清水の中でつきまといながらも、談話会から脱会するどころか、粉骨砕身して平和問題に集中したことは、清水の平和問題に対する熱心さを指摘することもできるであろう。こういった清水の「熱心さ」は、談話会の学者への嫌悪という感情を含みながらも、それを上回るものであったと言うことができないであろうか。
そして、1948年の12月に行われた総会では、清水がまとめた草案が、前文を挿入する以外大きな修正を施されず、承認された。前述の通り、清水は多くの部会に出席していたことから、吉野のこれもまた依頼で総会に、草案を提出することとなった。談話会の知識人に対する反発からか、この草案を「一所懸命書いているうち、文書は私の主張のようなものになった」と思われた。[129]「あの文章は、この総会でどのように扱われるのであろう。それは私自身の運命のように思われた」とも記されている。[130]
総会のなかで、清水が徹夜で「熱心に」書いた草案を読み上げたとき、談話会の会員は、清水から見れば面白くないと感じたようである。各部会でまとめた論点が、清水が「熱心に」書いた草案で折衷的なものになっていると感じられたからであろう。「皆堅い表情」になり、清水に「敵意のようなもの」さえ感じられたという。[131]これ以外にも、敵意を感じたといった記述が見受けられる。清水が談話会会員に対して抱いていた嫌悪感が必要以上に、敵意を感じさせたのかもしれない。
そして、羽仁による「学者の戦争責任」を問う発言に対しても、「一体、どの部会の誰が自己反省や自己批判を行ったのであろうか」「それが多くの部会で行われていたら、私は必ずそれを記述したであろう」「こん畜生、自分の書いた十項目だけは何が何でも守ってやろう」とかなり批判的に感じられたようである。[132]
総会のあと、仕事はそこでは終わらず、清水は声明の起草を行っている。この時も、相当批判的な意識で声明起草の仕事をなしていた。たとえば、「大いに疲れる」「ひどい苦労なり」「散々なり」と記されている。清水は、羽仁発言を発端とした、「前文」にたいしても、「あの席で声高く叫んだ人たちが書けばよいものを」と日記に書いている。[133]
しかし一方で、これほど談話会に批判的な感情を抱いていた清水であるが、談話会の作業に熱心に取り掛かっていたことも指摘される。実際、第一回声明「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」は清水が書いたものと言ってよい。そして、清水は声明に対してこのように言っている。[134]「私がそれを自分で書き、それを自分で擁護したことによって、何時か、私という人間の一部分になった。私は、それを自分で書かなかった人間、自分で擁護しなかった人間とは、何時か、少し別の人間になった」
「庶民」とはおよそ距離のある「知識人」に対する反抗を示す一方で、その「知識人」たちから「敵意」をもってまなざれた「声明」を擁護することで、平和問題に専心する清水が存在した。「知識人」との対抗関係を意識し強調しながらも、その「知識人」たちの意見を集約して声明を起草する任をおうことで、逆説的ながらも「少し別の人間」となっていくのである。前述したように、久野によれば、「声明」とは「現実への訴えかけ」であり「具体的な実践活動を伴うべきもの」である。そして、これ以降、「少し別の人間」となった清水は、声明活動だけでは飽き足らず、久野らと協同しながら、「現実への訴えかけ」と「具体的な実践運動」を追求していくことになる。
清水は、誰よりも熱心に活動した談話会会員の一人ということが言えるであろうし、実際これ以降の清水は多忙を極めていた。であるから、「十数年に亙って、静かな勉強の時間が失われてしまった」と日記に記している。[135]実際、清水は日教組と連携して講演会を何度も行うなど、実践活動に専心していったため、清水の平和論そのものには独自性があるとは言えない。たとえば、清水の手で「再軍備はいけない」「講和会議に寄す」といった時事論文が書かれている。これは、再軍備問題や講和論争が激しくなって以後の論文であるが、内容的には平和問題談話会の公式見解の焼き直しに限りなく近いと言える。目立つのは、清水独特の「熱心さ」の表れであろうか、再軍備の問題については「心がいろいろと乱れ、胸が痛くなる」「私はこの気持ちをどうすることもできない」「私はこの痛みを何と表現したらよいのであろうか」「人間は何度悔恨したらよいのであろうか」といった情緒的な文章が散見される。かなり熱さのこもった文章であることは間違いないが、内容的には凡庸な平和論であるともいえる。[136]
この点は、実践運動を志向しながらも、それの前提として「理論的分析」を欠かさなかった久野との違いであろう。久野は前述したように、実践運動にコミットするものの、『戦争の論理と平和の論理』という理論的な寄与も忘れなかった。「三たび平和について」の後、清水は内灘闘争などの反基地運動にも骨身を削ってコミットするが、こういったコミットのしかたは、久野によれば、「インテリの自己放棄」と厳しく批判されている。[137]
そして、1949年の五月には、日教組との連携が清水や吉野、久野らを中心として始まっている。こういった、組合との連携は吉野の当初の構想からも考えられていたものであったことは前述した。そして、日教組との連携のなかで平和問題についての講演会が各地で開かれることとなる。北海道、青森、岩手、山形、愛知、和歌山、兵庫、山口の各都道府県で講習会は行われたという。[138]
こうした中、講和問題が活発な議論として取り上げられ、平和問題談話会も第二回声明のための総会を1949年12月に開催した。このときも、清水の日記には「うまく行かぬ」と記されている。[139]これは第一回声明と違い、「全面講和」か「単独講和」かという判断をすることは、政治的な重大な意味を持っているものであり、平和問題談話会の「性格規定」にかかわるものでもあった。この時、オールド・リベラリストたちは、単独講和を高く評価していた。この詳細は後述することになろう。
今回の声明も、第一回声明と同様、清水の起草により完成された。その内容は、「全面講和」「中立」「軍事基地提供反対」という有名なものである。この声明起草のときの心境を清水は以下のように回想している。[140]
・・・第一回の声明と同じように、講和問題に関する声明も、何時の間にか、当然のことのように、私の仕事になっていた。声明は、大道芸人のようなジャーナリストとして暮して来た私などの書くべきものではなかった、と前に述べたが、幾らか味方を変えると、そういう私であったから敢えて起草者に選ばれたのかとも思う。私は、言論の自由が日を遂って失われて行く時期に、文章を書く以外に生活の方法のない人間として生きて来た。また、多少の意地があったので、謂わゆる時局に便乗して派手に振舞うことも恥ずかしく、そのため、内部の要求と外部の要求とを文章の上で調和させるテクニックというか、それが大道芸人の処世法であるが、それを身につけていたので、いろいろな立場の人たちから成る平和問題談話会の声明の起草には、そのテクニックが少しは役に立ったのであろう・・・
「知識人」に対抗しつつ「平和問題」に非常に熱心に取り組んだ清水にとって、「庶民」的である「ジャーナリスト」「大道芸人」としてのアイデンティティは強いものがあった。
この第二回声明「講和問題についての平和問題談話会声明」が決定されると、UPやAPなどの海外通信社に送付したり、国内の主要新聞や雑誌相手に説明会を開くという活動をしている。と同時に、清水は地方に講演会に出かけたり、京都の平和問題談話会の会合へ出席をするなど、かなり精力的に平和問題に取り組んでいることがわかる。[141]
このように、第二回声明が発表された1950年の6月、朝鮮戦争が始まる。これは、平和問題談話会にとって、大きな打撃であった。談話会会員は、いま一度、談話会としての立場を確認しなければならない状況に追い込まれた。1950年の8月31日に、第三回声明のための総会が開かれている。第三回声明「三たび平和について」の内容とその意義に関しては後述することとする。
声明を次々と発表する中で、当初の一般的・抽象的な「平和論」の段階から、徐々に政治的にコミットせざるを得ないような独自の「性格規定」が行われるようになると、その分、談話会の中での意見調整も困難な作業になる。
実際、清水もこの当時のことを回想して、「立場の違うメンバーの意見調整が大きな仕事」であり、東京と京都との意見調整の作業もまた「煩わしい」と述べている。このときには、清水は東京と京都との間を二度ほど往復して、さらに会合に出席という多忙のなかにあった。[142]
このように、第三回声明(正確に言えば、「研究報告」であることは前述した)起草のために、談話会会員の誰よりもその活動に専心した清水であったが、一方で談話会会員に対する批判的意識はいよいよ強まっていった。たとえば、『わが人生の断片』では、このように書かれている。[143]「何も彼も判り切ったことを一々議論せねばならなぬバカらしさ。つすづく嫌になる。早く軽薄なjournalistに戻ろう。田舎者は嫌いだ」「田舎者多く、イライラするのみ」というような発言である。
このような談話会の「知識人」に対する嫌悪だけではなく、清水はとうとう平和問題談話会の解散提起まで行うに至る。結局、その時点では解散しないことになったが、二回に渡って解散の提起をした意味は大きい。前述した清水の時事論文を見ると、平和問題談話会の根本原理に対しては、賛同の意を表明している。これについては、清水の「本心」であると判断してよいであろう。しかし、平和問題談話会の「原理」「思想」には同意しつつも、平和問題談話会という組織自体に対しては、参加者の多様性ということや、「庶民」とは距離を置き、書斎にこもって研究する穏健な「知識人」が多いということからも、清水の平和論とは距離があるものと映ったのであろう。いずれにしても、ただ「声明」をするだけで、穏健な談話会には飽き足らなかったという点は確実であろう。
この当時の心境を清水は以下のように述べている。[144]
・・・平和問題談話会の生命は尽きた、と私は考えていた。内外の政局は、談話会の見解や理想とは無関係に動いて行くもので、その動きをチェックする力が私たちにあるわけではない。勝手に動いて行く政局を追って、何か有意味な発言をするためには、談話会は、略々同じ立場の人々で構成されていなければならない。しかし、談話会の価値は、右から左まで、いろいろな立場の人々を含んでいるところにある。いろいろな立場の人々を含みながら、切迫した問題について共通の見解を持とうとすれば、言っても言わなくても同じような抽象的な結論になってしまうであろう。そういう気の抜けたもの―ナンセンスなもの―を纏め上げるためにも、調整の苦労は愈々大きくなるであろう。先ずボールがなければフットボールが始まらないように、これからも、先ず私の書いた文書があって、それがみんなに蹴られなければ、調整や声明の作業は進まないであろう。私は、もうボールになるのは沢山であった・・・
同時に、談話会は「外部に向う活動は殆ど行われなくなり」、そして、「実際は、既に解散したようなもの」「私だけが取り残されているように」感じたとも述べている。[145]これ以外にも、「それぞれの大学へ戻って行く仲間から取残され、孤独になり悲壮になっていた」という記述も見られる。[146]
実際、「三たび平和について」以降は、平和問題談話会の活動自体がかなり勢いを失っていく。平和問題談話会の会員は、清水のようにジャーナリストが少なく、笠信太郎ぐらいであった。その笠は、ちなみに「三たび平和について」のときに、談話会を脱退している。それ以外の会員は、ほとんどが官立大学の教授などであり、「三たび平和について」以後は、とりたてて「外部に向う活動」にアピールするわけではなく、大学の研究室や書斎に戻る者が多かった。
また、平和問題談話会が分裂した要因として、久野は、「次の段階(「三たび平和について」以後の段階―引用者補)で全体としてコミットする方法が見つからなかったから」だったと回想している。[147]「全体」としてコミットする方法が模索できないほど、談話会内部の分岐が顕在化してきているとも言えるだろう。
しかしながら、清水はこれら「知識人」たちとは異なる軌跡を描くことになる。「三たび平和について」以降、平和四原則を左派社会党やGHQの力で出来た総評が受け継ぐと、清水や久野はこれらの活動に精力的に取り組むことになる。特に左派社会党から、清水に協力要請があり、これが一つの契機となって、後の平和運動に大きくコミットすることになる。清水は以下のような機会から左派社会党と連携することになる。[148]
・・・私は・・・神田の外出先で、左派社会党の鈴木茂三郎氏及び日本労働組合総評議会の高野実氏の来訪を受けた。勿論、二人とも以前から知ってはいたが、その時は謂わば公式の訪問であった。用向きは、十月一日の衆議院議員の総選挙のために文化人一同の協力を得たい、ということであった。私は協力を約束した・・・
この鈴木茂三郎とは、久野が敗戦直後から関係を有していたことは前述のとおりである。
こうして、その後の清水は、談話会の声明の原則を現実の中で貫くために内灘闘争や、砂川闘争といった実践活動に体調を崩すまでにコミットしていき、その活動ぶりは「平和産業の大社長」と呼ばれるほどであった。[149]
なぜ、ここまで実践活動に全力投球したのであろうか。それには、様々な要素が複合的に絡まりあっているであろう。「庶民」への好感、西洋的な「知識人」に対する嫌悪、あるいは平和問題に「熱心に」取り組んだ性格やビルマで徴用班員となった経験なども考えられる。清水と連携をしつつ実践活動に熱心に取り組んだ久野は、清水のことを以下のように回想している。[150]
・・・談話会のメンバーが学者が多かった。学者が実践活動に出ていったのでは研究生活がもたないというので、書斎に踏みとどまる人々が多かったんです。それに対し清水氏は、新聞社の最前線という“現場”におって、太平洋戦争の進行を自分の目で見とどけていた。清水氏には、戦争の中で、すべてが“後のまつり”という痛切な体験があったのでしょう。だから、平和運動、市民的抵抗運動に全エネルギーを投入して悔いるところがなかったのだと思います・・・
このように見てくると、様々な意味で、清水は平和問題談話会に影響を与えたとともに、丸山が指摘しているように、平和問題談話会の分岐過程のおける「一つの帰結」でもあった。[151]
2−4.議事録・部会報告における平和問題談話会
2−4−1.学者と民衆との連帯
本節では以上見てきた知識人たちが、「戦争と平和にかんする日本の科学者の声明」を検討した総会議事録を中心に分析していく。前述した範囲内では、平和問題談話会に参加した知識人の世代論的な差異や、実践運動や「大衆」といったものに対する思想的な傾向の差異を抽出するような形で検証を進めてきた。
それ以外にも、「東京平和問題談話会」と「京都平和問題談話会」との差異というものも厳然として存在していた。京都平和問題談話会をリードしていった者に、末川博と恒藤恭が挙げられる。本節ではこの二人のうち末川に焦点を当てるとともに、「東京」と「京都」の差異はいかなるものであったのかということを主なテーマとして検証していくこととする。平和問題談話会の三度の声明を分析することも勿論肝要ではあるが、様々に傾向の頃なる知識人たちが一同に介した総会という場での議事録もまた、本研究の文脈では重要である。[152]
まずは、1948年12月に行われた総会の議事録を中心とした分析を進めていく。結論から言えば、総会においては世代論的な差異以上に、実践運動に対する志向や、東京平和問題談話会と京都平和問題談話会との間の思想的差異が顕著に見出せるものである。
この総会では、その冒頭において知識人の戦争責任を問いただした羽仁五郎の以下のような発言で始まることになる。
羽仁によれば、ユネスコの社会科学者に対して、「日本の学者がただちにこれに応えることができるかという」「非常に大きい問題」があるという。[153]なぜならば、第一に、「日本では学者の節操というものがまだ確立」されておらず、そのことを反省する必要があるため。[154]第二に、「今まで日本の学者は、社会の中における自己の立場にもとづいて本来感じなければならないはずの責任を感じえなかった」のであって、「人民に対してこそ、学者は最も深き責任感をもつべき」であるため。[155]第三に、日本の学者が世界の永久平和のために貢献しようとする場合には、「われわれは絶えず人民に対して責任を感じて行くことが必要であり、且つ学者の言論と人民との間に強い連帯感を作りあげてゆくこと」が大切であるため。[156]
この羽仁の発言の中で、第一の理由として挙げられている「学者の節操」「学者の自己批判」の問題に対して、安倍能成が嫌悪感を抱いたということは有名である。最終的には、「戦争と平和にかんする日本の科学者の声明」の前文に「学者の節操」の問題は織り込まれることになる。
こういった学者としての自己批判の意識はそれなりに総会においても共有されていた。例えば、総会に参加した田畑茂二郎は、総会のことを回想するなかで、「議論は終始緊張した白熱した雰囲気の中ですすめられた。」「知識人のあり方について深い反省を迫られ、再びあのような戦争を繰り返してはならないという思いつめた気迫が、すべてのひとの発言から強く感じられた。」と述べている。[157]
「これだけの人びとが集まって平和の問題を論ずるといったことは、戦前にはまったく想像もつかなかったこと」[158]の新鮮さや解放感とともに、総会の空気に底流していた「学者の節操」という緊迫感を集約的に表現したのは、総会の後半における中野好夫の以下の発言であろう。
・・・現在ではまだ私たちは、平和への意志を表明したり、平和を語ることが非常に楽であります。いや、楽なばかりでなく、ある意味では平和を語ることがむしろ人気のあることかもしれません。しかし、あるいは近き将来に平和を語り平和の意志を口に出すことが、非常に困難だという時期が来るかも知れません。あるいはそういう言論に対し危険さえ迫るという日が来るのではないかと思われます。そのときにおいても私たちが・・・とにかく今日平和を語っている人々が、口をつぐんでしまわないということ、それが大切な点だと思うのであります。かようなことを言いだすというのも、かつて私たちが、この点で誤りを犯した痛い経験があるからで、太平洋戦争前後に私たちは確かに誤りを犯したと率直に言わなければならぬと思います。あの経験に徹しても、せっかくいま平和を語りながら、そういう危険の状態になったときに、この平和を語る声が小さくなるということでは、何のためにもならない・・・[159]
各人によって程度の差はあれ、こういった学者としての自己批判という感情はおおむね共有されていたと言ってよい。逆に言えば、こういった底流をなす感情が各人に共有されていたからこそ、思想的な相違を乗り越えることができたと言えるであろう。
羽仁発言を契機として、この学者の自己批判は大きな議題の一つとなった。そして、それと同様大きな議題の一つとなったのが、「学者と一般民衆・大衆組織との関係」である。この問題をめぐっては、大きく意見を異にすることが顕在化していくことになる。とりわけ、京都平和問題談話会会員の末川や恒藤、田畑や沼田といった面々が、学者と民衆との結合を繰り返し述べている。それに対する形で、応じていったのが丸山であった。
前述したように、羽仁は「学者としての節操」の問題とともに、「学者と人民との連帯」の必要性をも強調していた。
それに対して、丸山は、
・・・戦争によって何ら得るところのない人民との結合ということが強調されました。それも、もちろん重要ではありますけれども、私はそれと並んで、むしろその前提条件として、社会科学者相互の間のコミュニケーションが、もっと緊密になされなければならない・・・一般民衆に訴えるということも必要であると同時に、それに並んで社会科学の横の団結というものを強化し、いわば社会科学者が一つの連帯組織をもつに至る、ということが特に必要なのではないかと考えます・・・
と述べている。[160]この総会の中で、「学者と人民との結合」以前の問題として、学者相互の連帯という事を何度か述べている。丸山が、安易な啓蒙活動を批判的に見ていたことは前述したとおりである。それに加え、戦中における研究活動に対する抑圧を防ぐためにも、丸山にとっては、学者相互の連帯の方がまず先決であると思われたに違いない。戦後直後の知的雰囲気を回想して、丸山は「社会科学者ないし自然科学者の横の交流というよりは、大衆啓蒙活動の方に熱心で、それを媒介として各学者が結びついたのであって、各学者の専門領域を越えて、学者として横に結びつく状況があったとはおもえない。」と述べている。[161]このような丸山の発言に対して、京都の学者を中心に「学者と民衆との連帯」を求める発言が数多く見出される。例えば、京都平和問題談話会のリーダー的存在である、末川博は以下のように述べている。
「単なる声明に終わらない平和運動、その実践の一策として、社会科学者が今まで強調することを知らなかった国内大衆組織の問題を取りあげ」ることが重要である。[162]また、戦争挑発者に対応するためには、やはり「国内の大衆組織の必要を取りあげ」るべきであるし、同時に「労働者の完全な基本的人権を保障する意味での、国際労働機構の問題」も提案するに値するという。[163]
そして同じく京都平和問題談話会の恒藤も末川の発言を補足するかたちで、ユネスコ声明は「一般の民衆にも訴えるという目的をもっている」のであるから、「学者の問題ではなく、一般の民衆の問題として考えますと、これだけのことでも民衆の理解の中に浸透すれば、その効果は決して小さなものではない。」と発言している。
同じく京都平和問題談話会の田畑は、これまでの社会科学者は「民衆との間にある距離があった」と述べている。そして、末川や恒藤、田畑らの「学者と民衆との連携」をより具体的に集約して述べたのが、京都平和問題談話会の沼田稲次郎である。
・・・ジャーナリストに教えることも大事でありますが、合わせて、教える者が教えられるというか、学者が社会にとびこんでいって社会から教育される必要がある。教える者が外にいて方向づけるからいろいろの問題が起る。中に入っていって、むしろ自分が教えられようとすることが肝腎だと思う。そのためには、いろいろの組合なども、一つの生きた教育の場である・・・[164]
この発言の後に、議長役の安倍が、「学者が民衆と結びついて行くということですか」と発言の意味を確認し、それに対して沼田は、「具体的にいえば、組合の中に入って、組合の人たちともっと近づく、一般的の関心を深めて行く、ということ」であると返答している。[165]労働組合に対してそれほど関心の強くない安倍にとっては、なかなか共有のしにくい発言であったのかもしれない。
このように見てくると、関西の方が革新的・進歩的という意味もより理解するのが容易となるであろう。1948年の12月の総会に先立って行われた各部会での報告においても、近畿地方法政部会では「学者と一般民衆との連帯」といった主旨が盛り込まれている。その一方で、東京の各部会報告では、こういった主旨の報告が掲載されているものは見当たらない。ちなみに近畿地方法政部会は、末川や恒藤が参加しているものである。
東京平和問題談話会では、安倍能成・田中耕太郎・津田左右吉・和辻哲郎などが代表的な会員であり、一方京都平和問題談話会では末川博と恒藤恭がその代表的存在であった。吉野もこの点を理解した上で人選をしていた。
そしてまた、恒藤や末川は年齢的には安倍らオールド・リベラリストとほぼ同世代ではあるものの、その実践的志向から「心」グループには参加していなかったことは前述の通りである。このことも、本節の議論を読めば容易に納得のいくことであると考えられる。
2−4−2. 末川博と平和問題談話会
そして、吉野が始めて京都に末川を訪れ、関西の組織を末川に頼んだ時に、末川に東京の参加者、つまり安倍や田中、和辻らの名前を出したところ、末川の顔が曇ったという。そして、吉野に向かって、「君、ぼくと田中さんといっしょにやれると思うか」と聞き返したという。[166]
このような京都平和問題談話会の末川博は、戦後どのような平和論を語っていったのであろうか。前述したように末川は、恒藤とともに革新的な京都平和問題談話会の中心人物である。法学者である末川は、平和問題談話会ののちにも、破防法反対運動や、1958年に結成された憲法問題研究会に参加するなど、戦後一貫して平和運動や護憲運動に積極的に関わっていた人物である。平和問題談話会にも積極的な姿勢で臨んでいたようである。
末川は、前述したように平和問題や護憲運動に関心が高かったことから、平和問題にかんする文章はそれなりに多く執筆している。例えば、「平和と世論」「平和のための運動」など、「平和」と名のつく論文や随想も数多い。[167]
末川の平和論における一貫した特徴は、ある意味でその特徴のなさである。「平和」という言葉を全面的に賞賛しながら、「文化」や「道徳」の力が必要であるということを強調している。しかしそれは、当時盛んに叫ばれていた一種の流行語とも言える「文化国家論」を基礎にしつつ、「道義」を説くというオールド・リベラリストの傾向に沿ったものであったと位置づけて間違いないであろう。
こういったことは、「われわれは新憲法のもとに平和を愛好し文化をたかめ民主的な国民として生きつづけることを念としなければならない。」[168]「われわれは死をもってこの平和のちかいを守りぬかねばならない。」といった発言から理解できる。[169]
「死をもって」守るべき平和という言葉に表れているように、末川の「平和」に対する思い入れは相当なものがある。徹底して平和の重要性を繰りかえしているという点が逆に目立った傾向といえるのかもしれない。
しかしここまでの論調では、やはり当時の支配的な「文化国家論」「平和国家論」の路線と軌を一つにしているという印象が強い。しかし、末川の一貫した特徴は、「文化が一部支配者のものではなくて、すべての民衆のものであるべきことを要求する」[170]といった発言に代表されるように「大衆」「民衆」を繰り返し述べているということである。このことは、前述した議事録の検証から理解できることである。
もう一点、末川の平和論の中で特徴的なことは、講和論争が隆盛を極める中で、全面講和の論拠として、「道義的」な観点からアジアに注目しているということである。
末川は1951年10月号の『世界』に掲載された「日本国民としての切実なねがい」の中で以下のようにのべている。まず、「日本は東洋の一角に位し、日本民族は東洋民族の一つ」であることを確認することから始める。そして、「もしこの事実を無視するような講和がなされたら、それは真に平和をもたらす現実的な意味を持ち得る道理」はない。すなわち、「中国はもちろん東南アジアないしアラブ、インドの諸国との平和的な連携をもたらすことができぬような講和は、真の講和と呼ぶに値しない」と述べる。それが、経済的な理由からだけではなく、「道義的に考えてもそうである。」「今度の戦争で一番大きな迷惑をかけ損害を加えたのは、何といっても中国の民衆である。」「この中国の民衆をぬきにして講和をしたのでは、日本の道義的な責任を果したとはいえない。」と結論付ける。道義的な観点からの全面講和論である。全面講和論の中で中国との関係を考慮したものは散見されるが、それらは主に中国との経済的関係が切断されてしまうことへの憂慮からであった。その意味で、末川の論は興味深いものと言えよう。
本節からは、京都平和問題談話会と東京平和問題談話会との関係がいかなるものであったのか、ということが明らかになったと思う。東京と京都とではおよそ内包している思想傾向は異なっていた。そしてまた、末川の平和論も概略的に提示した。ある一線までは、安倍らと共有する面を持ちつつも、実践的な志向という点では明確な違いがあると位置づけることができるであろう。
2−5.平和問題談話会の声明
この章では、1949年の3月に平和問題談話会が正式に発足し、1950年の12月に三度目の声明「三たび平和について」に至るまでの平和問題談話会自体の活動を検証する。[171]
2−5−1.「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」
前述したとおり、1948年の12月12日に明治記念館で東西の合同総会が開催され、ユネスコが発表した声明に応えるかたちで、「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」が討議・作成され、翌年の『世界』三月号に掲載される。ちなみに、ユネスコの声明は同じく翌年の『世界』一月号に掲載されている。
ユネスコの声明はA〜Lの12項目から成っている。それに、対し「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」は1〜10の10項目からなっている。日本の声明は、東西の合同総会に先立ち、11月から12月初旬までにわたって各部会においてユネスコ声明を検討したものを清水がまとめ、それを総会で発表・協議し、正式にまとめられたものである。
ユネスコの声明の各項目を要約して記すと下記のようになる。[172]
・
A 戦争が「人間性」そのものの必然的不可避的結果であることを示すいかな
る証拠もない。
・
B 平和の問題とは、集団間乃至国家間の緊迫や侵略をいかに統御可能の範囲
内に抑え、再び人が人を搾取するがごときなからしめるかというもんだいである。そのためには、社会組織ならびにわれわれのものの考え方自体における根本的変化が肝要である。
・
C 武力抗争に導く侵略を避けるためには、最大限の社会的正義が行われるよ
うに、近代的生産力ならびに資源の利用を計画し、調整することが必要である。
・
D 国家間乃至国家群間における近代戦争は、世代から世代へ継承されている
国家的自負の神話、伝統、象徴類によってはぐくまれる。
・
E 教育は、国家主義的自己正義観に抗するものでなければならない。
・
F 現代における高速、広汎な交通手段の発達は、世界的連帯性の促進を助け
るものである。これらの大量的通信手段を善用し、他の諸国民に関する正しい理解を促進することこそは、国連の責任である。
・
G いかなる人種的集団といえども、天賦的に劣等者であるという証拠はない。
・
H 社会科学者は、いまなお、イデオロギー的・階級的相違によって隔離され
ている。
・
I 社会科学における客観性を達成するためにも、国際的な研究及び教育プログ
ラムが必要である。
・
J 国際的規模における社会科学者の協力あるいは世界的社会科学研究所の設
立が必要である。
・
K 原子力戦争の発達に伴い、科学技術の力を建設的に利用することの重要性。
・
L 「人間の学」である諸社会科学間の障壁が、崩壊しつつあること。
それに対して日本側の声明はどうであろうか。前述のように、日本側の声明は清水幾太郎が総会の前に東京と京都の各部会から作成した、その最大公約数的な草案をもとに討議されたものであるが、結論から先に述べると、その清水の草案とほとんど相違はないものとなっている。それは、ただちに総会の会議内容が乏しいことを意味するものではない。これについては後述する。
結果的には、日本側の声明もユネスコ声明を受け継ぐかたちとなっている。すなわち、日本側の声明の1〜4はユネスコ声明のA〜Dに対応し、5・7・8・10はそれぞれユネスコ側のG・K・F・Eに対応していることになる。残りのH・I・J・Lでユネスコ側は、社会科学者の存在意義や国際的規模での協力、あるいは国際的な社会科学研究所の設立の必要性が述べられている。これに対し、日本側の残りの6と9では、以下のようになっている。[173]
・6 われわれは、現在二つの世界が存在すると言う事実を率直に認める。併しながらこの事実が直ちに平和を根本的に不可能にすると信ずるのは、非科学的独断と称すべきものであろう
・9 元来戦争は、人間がある問題を解決するために用いる一つの、しかも極めて原始的な方法である。嘗てこの方法が有効且つ有利と認められる時代があったにしても、現代は全く相違する
ここには、明らかに日本の戦争に対する「反省」の心情が述べられている。また、「現在二つの世界が存在すること」は認めるが、それはイコール平和を不可能とするものではないというくだりも、冷戦の影響下におかれていた日本の当時の状況を想起すれば不思議なことではない。それに、繰り返し述べてきたように、こういった発想は平和問題談話会内部で意見の一致を見る上でも欠かせない思考枠組みであった。また、以上の相違点以外にも、日本の声明からは、当時の日本に対する自己意識を読み取ることができる興味深い言葉がある。それは、日本の声明の中には、「後進国」や「敗戦国」、「軍国主義的支配による荒廃」と言った言葉が散見されることである。これらも、敗戦直後の経済的・政治的荒廃の風景を背景とした言葉であり、いまだ占領下の日本を当時の知識人たちがどのようなものと見ていたのかを示すものであり看過できない点である。
こういった「後進国」や「四等国」という否定的な認識がある程度充満しているからこそ、「平和国家」や「文化国家」というものに日本のアイデンティティを求めざるをえなかったと述べることもできる。
丸山は、第一回声明当時の知識人の感情を以下のように回顧している。[174]
・・・まだ戦争の惨禍は生々しく、しかもその戦争によって日本を悲惨な状況におとし入れたことに対して、・・・知識人が知識人としての責務を果たしていたのかという点で、・・・かなり痛切な反省が基盤にあって、その共通な気持で寄り集まったという感じが・・・強いのです。・・・そこにある共通の心情というものは、やはり日本を再びこのような悲惨な目に合わしてはならないという一般命題だけではなくて、・・・国民にたいし、世界にたいしてどういう仕方で責任を果たしてゆくべきかということについての反省と新しい出発の気持が、みなぎっていた・・・
ここにも、『世界』創刊前後の吉野と同様、敗戦による「開放感」と同時に「いま私たちが迎えようとしている時代は、なまやさしい時代ではなかった。」という心情に加え、知識人としての自己意識を強烈に保持しているが故の「悔恨」が存在していたことは明らかである。その感情が、世代とイデオロギーの立場を横断した「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」という一致点に導いた。
このような知識人の反省は総会の討議においても幾度となく述べられている。例えば当時参議院だった羽仁五郎は、総会の討議冒頭で「われわれが過去において犯した過ちを深刻に反省し、そして将来そういう過ちを繰り返さないという新しい決意を披瀝しなければならない」という旨の発言をしている。また、当時東大法学部教授の川島武宣も「戦争中多くの学者に・・・節操について遺憾な点があったことは事実であります。」と述べている。[175]
そもそも、平和問題談話会のメンバーには、戦時中に戦争協力の仕事をしたようなメンバーは入っていなかった。年長世代も戦争に抵抗した者が多かったことに加え、若手の学者もファシズムに批判的なものが多かった。平和問題談話会は、マルクス主義者から反共主義のオールド・リベラリストまでを含むものであったが、その主義主張の異なる者たちが連帯できた背景には、「戦争中なにをしたかが問われる時代であって、つまり戦後のそのときにおける立場の問題ではなかった」という状況が考えられる。[176]
いずれにせよ、前述したように、「戦争を阻止できなかった」とか「もっとうまく戦争に抵抗できたのではないか」という雰囲気は確実に存在した。それゆえ、前述のような発言が総会参加者から相次いで述べられたため、清水が起草した草案に、日本の知識人の「反省」をのべた個所を含む前文が加えられることになった。結果的に言えば、総会後に最も大きな変化が加わったのが、この前文の挿入であった。ちなみに、この前文も清水の執筆によるものである。前文は以下のようなものである。[177]
・・・翻って、われわれ日本の科学者が自ら顧みて最も遺憾に堪えないのは、・・・この平和声明(ユネスコ声明)に含まれている如き見解を所有しておったにも拘らず、わが国が侵略戦争を開始した際にあたって、僅かに微弱な抵抗を試みたに留まり、積極的にこれを防止する勇気と努力とを欠いていた点である・・・
次に、各部会報告の内容に言及したい。まず、東京と京都の経済部会報告に共通のこととして、ユネスコ報告のC項目、つまり「近代的生産力ならびに資源の利用を計画し、調整すること」に対して、これらの不平等が戦争の直接の原因としていることだ。これらは、経済部会という専門からC項目に最も大きな関心を示すことは、当然であると見るべきかもしれないが、両経済部会が「二つの世界」の共存の道を探る必要が急務であると最も強く述べていることには注目に値するだろう。ユネスコ声明は、二つの世界の差異とその共存に関して述べてはいないが、このことに対して東京の経済部会は「考慮の賢明さを疑うものである」と痛烈に批評している。[178]
また、東京の法政部会は、日本の戦争責任の問題にかんして、「今日、戦争責任の問題が多く敗戦責任としてのみ取り上げられ、日本の犯した国際的罪過についての責任感が甚だ希薄だった」と述べていることも興味深い。[179]どちらかといえば、平和問題談話会に集まった学者は「一学者」としての戦時中に対する「悔恨」は強烈に持っていたが、自分に戦争責任があると考えている者は少なかった。知識人の「悔恨」や「反省」もどちらかと言えば、「なぜもうすこし勇気をもって抵抗しなかったのか」とか「果たしてあれでよかったのだろうか。もっと、他にやるべきことがあったのではないか」という道義的・倫理的な悔恨意識である。そういう意味で「戦争責任」は為政者の問題であると考えているものがすくなかったからこそ、ここで日本の戦争責任を追及するような言辞を呈することができたのかもしれない。
また、上記の関連で言えば、最も戦争に対して責任を感じていたのは自然科学者だった。自然科学者はその学問の性質上、イデオロギーの如何を問わず戦争に協力してしまうため、その分「悔恨」の念も深かったといえる。例えば、「人類に大なる災害をもたらしたこれまでの戦争に対して、われわれは、自然科学者が少なくとも一半の、しかも重大な責任を有することをはっきり表明したい」と自然科学者の部会報告に記されている。[180]そのため、今後二度と同じ過ちを犯さないためにも、「自然科学者の国際的協力が絶対に必要」[181]であると述べ、自然科学部会のリーダーである仁科も討議会の最中に何度かこのことを強調している。
最後に、ナショナリズムあるいは民族文化の個性に関して東京と京都では対照的な意見が述べられている。東京の文科部会報告では「国家の国際化は国民性の没却を必要としない」[182]と述べ、東京の法政部会ではさらに、「民族文化の個性的な多様性は真の国際主義と矛盾せず、かえってその内容をより豊かならしめるもの」[183]として、ナショナリズムとインターナショナリズムの積極的共存の意義を強調している。丸山によれば、この個所は「アメリカ的生活様式に直ちに普遍性を与えるのは、インタ−ナショナリズムではないんだ」という意味である。[184]
これに対して近畿地方文科部会報告によれば、「日本においては伝統といっても実は伝承にほかならないことも考えられ、また民主主義革命が遂行せられた欧米においてこそ、それ以前からの秩序・思想・価値などを伝統として守ろうとする運動が意味をもつのであるが、・・・日本においてはそのような意味の伝統は欠如している」とかなり否定的に述べられている。さらに国語・国字の改良を計らねばならないことや、エスペラントの普及の意義を認めているのである。[185]
本研究で主に参照軸にしている知識人以外にも、どのようなメンバーが参加していたのかを確認しておくため、以下に第一回声明時の談話会会員を記す。
「東京地方文科部会」
安倍能成、天野貞祐、清水幾太郎、武田清子、淡野安太郎、鶴見和子、中野好夫
南博、宮城音弥、宮原誠一、和辻哲郎
「東京地方法政部会」
磯田進、鵜飼信成、川島武宣、高木八尺、田中耕太郎、丸山眞男、蝋山政道
「東京地方経済部会」
有澤廣巳、大内兵衛、高島善哉、都留重人、矢内原忠雄、笠信太郎、蝋山芳郎、脇村義太郎
「東京地方自然科学部会」
稲沼瑞穂、丘英通、富山小太郎、仁科芳雄、渡辺慧
「近畿地方文科部会」
久野収、桑原武夫、重松俊明、新村猛、田中美知太郎、野田又夫
「近畿地方法政部会」
磯村哲、岡本清一、末川博、田畑茂二郎、田畑忍、恒藤恭、沼田稲次郎、前芝確三
森義宣
「近畿地方経済部会」
青山秀夫、島恭彦、新庄博、豊崎稔、名和統一、福井孝治
その他、津田左右吉、鈴木大拙、羽仁五郎(以上、55名)
2−5−2.「講和問題についての平和問題談話会声明」
占領軍による当初の対日政策は、1948年に転換された。こののち、アメリカ側は、日本をいかに西側陣営に取り込むかという点が、講和の眼目となっていく。国務省側は日本の国民感情を重視して早期の講和を主張し、国防省の懸念は講和条約や関連取り決めで解決できるとし、1949年10月には、サンフランシスコ講和条約の原型を作り、翌月、講和を検討中であることを公表した。[186]
これにより、日本国内で対日講和問題に関する議論が徐々に活発なものとなっていく。東西の平和問題談話会はこの同年の12月に各部会で討議を行った後、12月21日に東西の連合総会を開き、「講和問題についての平和問題談話会声明」の草案を決定。この草案もまた、清水幾太郎の手によるものであり、1950年の『世界』3月号に掲載された。
今回の声明の内容を簡潔に述べると以下の通りになる。[187]
1 講和問題について、われわれ日本人が希望を述べるとすれば、全面講和以外にない
2 日本の経済的自立は単独講和によっては達成されない。
3 講和後の保障については、中立不可侵を希い、併せて国連への加入を欲する
4 理由の如何によらず、如何なる国に対しても軍事基地を与えることは、絶対に反対する
また、声明の本文中には「戦争の開始に当り、われわれが自ら自己の運命を決定する機会を逸したことを更めて反省しつつ、今こそ、われわれは自己の手を以て自己の運命を決定しようと欲した。即ち、われわれは、平和への意思と祖国への愛情とに導かれつつ、講和をめぐる諸問題を慎重に研究し、終に各自の政治的立場を超えて、共通の見解を発表するに到った」と述べられている。
「悔恨」の表明、「祖国」を愛するが故の「全面講和」の意見を、各々の政治的立場を超えて「共通了解」に至ったということである。
しかしながら、「祖国」を愛するが故の「全面講和」が、平和問題談話会内部の「共通了解」を言い切れたのかどうかは別問題である。第一回の声明では、ユネスコ声明を受けたものとして、「当たり障りのない」内容であったと言える。「平和」を学術的に研究する団体として、政治的にコミットしていくというものではなかった。
ところが、この時期に50名以上を越える新旧知識人たちが、「全面講和」「中立」「軍事基地提供反対」を公式声明として述べることは重要な政治的意味を帯びてくるものと言わざるをえない。
実際、今回の声明時において、田中耕太郎や津田左右吉は、「全面講和」に高い評価を与え、平和問題談話会からは抜けている。
第二回声明時の談話会を回想して清水は以下のように述べている。[188]
・・・平和問題談話会には、さまざまの立場の人たちが含まれていた。その中から或る一群の人たちを挙げれば、安倍能成、和辻哲郎、田中耕太郎、高木八尺・・・他のメンバーに比べて、この人たちは単独講和に高い評価を与えていた・・・
これら、反共主義のオールド・リベラリストたちは、単独講和に比較的高い評価をなしていた。安倍に限って言えば、恐らくこちらの意見の方がより本心に近かったように思われる。
さらに、第二回声明時の総会議事録の抜粋である「補足講和問題の論点」で以上の事がより容易に理解できる。[189]「補足講和問題の論点」のを見ると、総会における全会員の総意として、「全面講和が最も望ましい」という点が確認されている。ただ、「全面講和が最も望ましい」としながらも、実際は全面講和の可能性を高く見積もる多数派と、「国際政治の微妙な事情のため、実現には数年を要し、或は不可能に近い」とみなす「少数派」とに分かれていた。[190]
全面講和に対して「不可能に近い」とみなす「少数派」の根拠としては、「単独講和と雖も、これを占領の継続に比較すれば、多くの積極的意義を有する」ものであった。この全面講和を「不可能に近い」とみなす「少数派」が、前述のオールド・リベラリストたちであることは間違いない。しかし、談話会の中では、あくまで「少数派」であった。
これに対して、「全面講和の可能性を高く」考える「多数派」の根拠としては、「単独講和は実質上占領の継続」であり、「ポツダム宣言を受諾」した以上、ポツダム宣言に「従う講和のみを受け容れる義務がある」というものであった。また、これ以外の理由は、主に経済的なものであった。つまり、単独講和を結ぶことは、「日本の経済的自立にとって死活の重要性を有する」「中国及び東南アジア諸国との貿易」を困難にさせるということである。[191]
このような、「全面講和が最も望ましい」という前提の上で、「単独講和」か「全面講和」かという議論の構図は、談話会会員特有のものではない。当時の大新聞の論調などを、見ても「全面講和が最も望ましい」という前提の上で「全面講和の現実可能性」の問題と、占領の継続よりは「独立」をという論調が支配的であった。[192]
ここで確認しなければならないことは以下のようなことである。すなわち、前述のように当初の平和問題談話会は、「当たり障りのない」研究団体として見なされていたため、反共主義者から非共産系知識人やマルクス主義者までという多様な思想的地図を内包しつつ、「共通了解」に至ることができた。
しかしながら、やがて「全面講和」「中立」「軍事基地提供反対」という政治的にコミットせざるを得ない声明に至る過程では、「当たり障り」が「表面化」してきてしまったということである。独自色のない「当たり障りのない」研究団体が、政治色の強い団体へと前進すればするほど、多様な思想的地図を内包しつつ「共通了解」に辿ることが困難となる。
実際、ほとんど大きな反響のなかった第一回声明にくらべ、第二回声明では、「全面講和」「中立」「軍事基地提供反対」という線を明確に示したため、GHQなどから問題視されることになる。
「当時の日米政府が進めていた講和とは正反対」の内容だったため、吉野源三郎のもとには「GHQが問題にしたばかりか、日本の警視庁や法務省の特審局も眼を光らせて、発表後すぐ、続々と前後4、5回にわたって、会の性質について審問された」ということである。[193]
この内容はほとんど同時期に発表された社会党のものより、内容が進んでいたため、社会党以上に圧力をかけられた。
談話会内部で世代的な差異や、実践運動に対する姿勢の差異などがより明確に顕在化してくるのは、「三たび平和について」発表以後である。簡潔に述べれば、そのときは、平和問題談話会で発表した声明の内容を、今後いかに現実政治の中で生かしてゆくか、どのように現実政治にコミットするのかという問題を模索する過程での分岐の顕在化であったと思われる。
そして、この第二回声明が完成したのち、久野と清水は「いくら平和問題談話会の理論的声明や報告だからといって、やはり言いっ放しでは具合が悪い、これをもっとアピールする方法はないか」と考え、当時国務省顧問のダレスに声明を渡したという。[194]
しかし、その以前の第二回声明の段階で、ある種の分岐が顕在化してきたという点を見逃してはならない。何かが契機となって、一挙に分岐していくというものではなく、徐々に分岐の過程が進行しつつ、「共通了解」を模索していたと位置づけるべきであろう。そういう意味では、この第二回声明の分析も意味があるものであった。
2−5−3.「三たび平和について」
平和問題談話会が第二回声明を発表した直後の1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。アメリカは、北を「侵略者」と断定し、国連軍の名の下に参戦した。この戦争は北軍と国連軍との一進一退が続く中、1953年7月の休戦協定までに、戦死者と民間死者合わせて460万人もの被害を出した。
日本では、社会党や総評までもが、国連軍を支持する構図であった。そして、占領軍の対日占領政策の転換は朝鮮戦争を契機として格段に進み、非軍事化・民主化路線は180度転換されることになった。[195]
朝鮮戦争後すぐに、マッカーサーによる警察予備隊の創設の指令が出ることになる。と同時に、以前から徐々に始まっていたレッド・パージが拡大する。1950年の7月には、GHQは吉田内閣に対して『アカハタ』とその後継紙の無期限停刊を指令した。同年の8月下旬までに、新聞・放送社などで704人が追放され、11月までに官公庁や一般企業にまで及んだ。同時に、総同盟や国労・日教組など17組合約365万人を結集し、日本労働組合総評議会を結成した。しかし、この総評は、1951年3月の第二回大会では、平和四原則を掲げることになる。その一方で、公職追放の解除により、旧政党人や財界人の多くが復帰していった。[196]
こういった国内状況と国際状況の緊迫化は、平和問題談話会のテーゼである「二つの世界の平和的共存」に対する重大な挑戦であり、平和問題談話会自体の危機でもあった。前述したように第二回声明に対する批判的見解と、談話会に対する圧力は激しく、「外からの圧力」は「大変」なものがあった。[197]
平和問題談話会は第二回声明で、政治的に重要な意味を帯びる声明を出したことは前述した。しかし、「二つの世界の平和的共存」をあくまで模索するという姿勢に変化はなかったと言える。そして、朝鮮戦争をきっかけとして始まった日本の内外の状況変化は、この「二つの世界の平和的共存」という根本原理に対する重大な挑戦という形となった。
この当時のことを、丸山は以下のように述べている。[198]
・・・平和問題談話会が、はじめは抽象的原理から出発して、だんだんに具体的な政治的問題にコミットしていったというよりは、むしろ逆に現実政治の動向が向こう側から、平和問題談話会の原理に切り込んできた・・・
このような中で総会が行われ、第三回声明「三たび平和について」が、1950年の『世界』12月号に「研究報告」というかたちで掲載された。[199]今回は以前の二回の声明とは趣きがことなり、総論を清水が、第一章及び第二章を丸山が、つづく第三章・第四章はそれぞれ鵜飼信成・都留重人が執筆するという、個人研究的な印象の強いものであった。その分、各執筆担当者の負担は大きいものがあった。丸山や都留らは、この執筆のために三日間ほどの合宿をはり缶詰状態であったという。[200]その直後に丸山は、病に倒れ入院を余儀なくされる。
また、趣きが以前の声明とは異なる二つ目の点は、「声明」ではなく「研究報告」というかたちにしたことである。[201]久野によれば、以前の二回の「声明」と異なり、「三たび平和について」を「研究報告」としたのは、「その実践は各メンバーの自由な意思決定に任せたい」という談話会内部の意向があったらかだという。つまり、「声明」とは「現実への訴えかけ」であり「具体的な実践活動をともなうべき」ものである。その一方で、「研究報告」は、「あくまで思想的研究報告」である。そして、「具体的な実践活動をともなるべき」スタイルで今後活動するのか、「あくまで思想的研究報告」というかたちで思想的・理論的に活動するのかという選択の前で、「どちらのスタイルをとるか」という問題は、「談話会のメンバー各人の自由な判断に委ねる」という暗黙の了解がその時あったという。
この二者択一の「暗黙の了解」から、実践活動を重視する人々と研究活動に自己制限する人々の両派が生まれ、それぞれ自分の「活動」に分かれていった。
これと同様の状況を、丸山は以下のように述べている。つまり、「安倍先生と同じような考え方をもっておられた方もいれば、平和問題談話会の原則を、現実の状況のなかで貫くためには、基地反対運動にも参加しなければならないと考えられた清水さんのような立場も平和問題談話会のなかからは出て」きた。そして、こういった「分岐」が表面化したのは、「一つの運命的なこと」であるとしている。[202]
同様に清水も、「三たび平和について」の後の状況をこう記してしる。「その後、研究会は何度も開かれたが、外部に向う活動は殆ど行われなくなり、やがて、研究会も開かれなくなった」。事実上は「解散したようなものであった」。[203]
「三たび平和について」に関して言及する上で、最も重視したいことは以上のように、この「研究報告」が平和問題談話会の知識人相互の間で、分岐過程における重要なメルクマールであったということである。
そして、次に「三たび平和について」の内容を簡単に確認しておく。「三たび平和について」は前述したように、全体の総論を清水幾太郎が執筆し、丸山が第一章・第二章、鵜飼が第三章、都留が第四章を担当した。とりわけ、平和問題談話会の原理的な立場を発展的に明らかにしたのが丸山担当の第一章・第二章である。
簡単に内容を記せば、まず「戦争は本来手段でありながら、もはや手段としての意味をうしな」い、「戦争はまぎれもなく、地上における最大の悪」となったがゆえに、「戦争を最大の悪とし、平和を最大の価値とする理想主義的な立場は、戦争が原子力戦争の段階に到達したことによって、同時に高度の現実主義的な意味を帯びる」ことが確認される。そのうえで、二つの世界の共存が可能と捉えるか否かは、問題提出の選択の問題、思考方法の問題であるとする。[204]
そして、様々な論者が用いている「二つの世界」という曖昧な概念を、次のように三つにわける。つまり、「イデオロギーとしての自由民主主義と共産主義の対立」「英米を中心とする西欧国家群と、ソ連を中心とする共産主義国家群との対立」「今日の世界最強国としての米ソの対立」である。[205]
こうして、「二つの世界の対立」を、それぞれ「二つの世界」とは何か、「対立」とはどういう意味においてかという判断の下に、次のように結論づける。つまり、「イデオロギーの対立は直ちに戦争を意味しないこと」「イデオロギーと武装権力としての現実の国家との間には、ギャップがあること」「自由民主主義と共産主義という図式以外に他の次元での対立が交錯していること」「世界の有力国が必ずしも米ソの対立と同じ幅と深さで対立しているわけではないこと」「米ソ両国とも極力全面的衝突を回避しようとしていること」であるという。[206]
さらに、第三勢力の形成や、インド及び中国の情勢に注目しつつ、「世界政治の両極化にたいする牽制的要素」、冷戦の継続による両体制の近似化などを指摘しつつ「米ソ両国が直面する共同の危険性の問題」や「国連の役割」に対する期待や「ソ連における市民的自由の伸張とアメリカ経済の計画化による両体制の接近」といった「二つの世界」の共存における積極的契機が提出される。[207]
こうした思考方法、「二つの世界」の共存を可能と見る問題提出の視座によって、「二つの世界の対立」が「不可能」であるとする論理を突くことに成功している。
こういった論の進め方、すなわち問題の提出の仕方によって、現実に対する認識が変容するという思考態度や、丸山らしいものである。どこまでも、理想的な目的を追求することが、逆説的にすぐれて「現実主義的な」態度であるということであろう。
しかし、それと同時に、上記の論点の中における、戦争の正確の変化とか、平和と思考態度の問題は第一回声明で指摘されているものでもある。また、「二つの世界の関係を性急に且つ固定的に見ることは誤り」であり、「長い目でプラスティックなものとして見ること」が重要な思考態度であるとする認識は、「補足講和問題の論点」で既に提出されている。その中では、さらに、「アメリカの自由企業もロシアの共産主義も共に相当の変化を遂げつつあり、双方の変化が両者の平和的共存の可能性を増大しつつある」ことや、「両者の間に調整の進められる可能性」が高いこと、「両者の対立」は世界政治の中で「決定的なもの」ではなく、第三勢力への注目が説かれている。[208]
そういう意味では、丸山が執筆した論文も、丸山の独自性とともに、平和問題談話会の原理的態度の集大成と位置づけることが妥当であるように思われる。
3.平和問題談話会の分岐
以上見てきたように、平談会内部には世代的な相違や思想的な背景の差異を多分に含んでいるものであった。とりわけ、幾人かの回想からも、そして今までの論証からもわかるとおり「実践運動に対する志向性」という点は大きな分岐点となるものであった。
この実践活動に従事するか、それともあくまで研究活動に従事するかというのは、「平和」を理論的かつ学問的に追求していた平談会のメンバーにとって大きな分岐点であった。繰り返しになるが、1949年1月に発表された「戦争と平和に関する科学者の声明」においては、その声明内容はユネスコ声明と比べて若干の相違は見られるが、大まかに言ってユネスコ声明と大差がないと言える。この段階では、あくまでも「平和」に込める思いは様々であっても、「平和」を理論的かつ学問的に追求する学者集団という自画像は維持されていたといえる。
安易な比較は危険であるが、このような意味では、「民科」や「20世紀研究所」や「思想の科学研究会」といった性質と共通する部分があったといえる。しかしながら、繰り返しになるが、レッド・パージや朝鮮戦争・講和論争といった国内状況及び国際状況の変転は急速だった。平談会が明確に政治状況にコミットしなければならない程に、その状況変化は急速であったとも言える。
その時に、全面講和を始めとする平和四原則が打ち出されたことが決定的に大きかった。つまり、ある意味で「平和」に関して学術的に研究していればよかった段階を超えて、明確な「性格規定」が表れ始めると会員相互の差異も大きい分だけ反響も大きかったと言わざるを得ない。さらにいえば、「全面講和」を明確に打ち出した第二声明「講和問題についえの平和問題談話会声明」は、「対外的」な反響も大きいものがあったが、それ以上に、談話会内部における反響も大きかったといわざるを得ない。
これも前述したとおりであるが、反共主義者のオールド・リベラリストたちは、単独講和に高い評価を与えていた。たとえば、久野によれば、安倍は「全面講和が実現せず、全面講和の未実現のままで、基地を撤廃し、非武装中立にふみきる結果のもたらす不安を痛切に感じていた」という。[209]繰り返しになるが、「実践運動に対する志向」以外にも、平和問題談話会が明確な政治的位置づけをしてしまうような「性格」を自己に託していくにつれて、若手の知識人に対して安倍や田中耕太郎、津田、和辻、田中美知太郎らが思想的に「全面講和」から離脱していくことになる。その一方、こういったオールド・リベラリストたちは、「全面講和」にたいしては懐疑的である反面、「軍事基地提供反対」には完全に同意をしていた。そういう意味では、安倍らの唱える「平和」の内実は、「全面講和」は「中立」という要素ではなく、「軍事基地提供反対」「軍国主義日本絶対反対」という要素の方が強かったのではないだろうか。実際、より年長の者が第二回の声明から平談会を抜けていくのは前述したとおりである。
それと同時に、第一回の声明を出して、正式に平談会が結成された直後から、清水や久野・吉野らと日教組との共同が始まっていたのも見逃すことが出来ない。そもそも、あまり先行研究等では強調されないことであるが、談話会の構想段階において、組合との連携を吉野が構想していたことは繰り返し述べてきたとおりである。平談会はその後、1950年の『世界』12月号で「三たび平和について」を発表するが、同じく1950年の12月に社会党は「平和三原則」を決定し、翌年の1月第七回党大会で「再軍備反対」を加えた「平和四原則」を打ち出すことになる。また、総評は1951年の3月に「平和四原則」を打ち出し、知識人の運動が労働運動と結びつき、それが社会党左派に受け継がれていくことになる。久野は、直接左派社会党という政党勢力に呼びかけるのではなく、もう一つレベルを落として総評と連携しようとしたと回想している。そしてまた、談話会の原理・原則を民衆レベルにまで落として実践的に生かしていこうと考えていた久野にとって、当時の総評は、「日本国民の声なき声を代表している」と思われたことが大きいという。[210]しかし、これも清水の節で述べたように、清水は左派社会党からの要請で、左派社会党と密接な連携をとるようになる。
たとえば、51年6月の国鉄労組新潟大会で「平和四原則」を正式決議させた、岩井章・横山利秋らは平談会の三回にわたる声明を自費でガリ版刷りにし、多くの組合員に働きかけた。そして日教組も、大西正道・今村彰といった活動家たちが、平談会の久野や清水らと協力し、平和運動を展開していった。その結果が、『五十万教職員に訴える−教え子を再び戦場に送るな』という声明に繋がっていく。
こういった状況の中で、清水と久野は実践運動に全力を注いだ。久野は「平和問題談話会のわれわれの方も声明を出した以上、市民大衆に訴える方針を立て、それを実践していかなければならないと思いました。清水幾太郎氏とぼくたちは、そこに力を入れていく決心をした」と述べている。[211]久野と清水を全く同一の地平で論じることはできない。しかし、敗戦直後から二人の人間関係は形成されていた。それに加え、前述したことではあるが、「大衆」観や背景となるアメリカ哲学という点においては共通項も見出せる。清水は、「プラグマティズムの立場から、目の前の緊急課題に対して、相手が誰であろうとどんなイデオロギーを持っていようと、一致できる主張があれば、そこで行動の一致を計」る活動方針であった。[212]久野もこういった清水の姿勢には共感していたのだろう。
また、「三たび平和について」を出していらい、「実践活動を重視する人々と研究活動に自己制限する人々の両派がうまれ、それぞれ分かれていった」と述べているし、[213]清水も「三たび平和について」のあと「実際には、既に解散したようなものだった」「平和問題談話会の仲間は、それぞれ大学へ戻り、彼らに会うことは稀になった。」と述べている。[214]
丸山眞男は「三たび平和について」以後、病気で入院したが、実践的な運動に主に関わるという形態ではなく理論的なバックアップをしていくという形をとった。久野も「丸山眞男も病床の中から理論的バックアップをおしみなく与えてくれた」と回想している。[215]そして、安倍は幾人かの回想からも分かるとおり、およそ実践運動とは距離の遠い人間であった。これはある意味では当然のことで、戦前からのオールド・リベラリストである安倍にとっての大衆観と久野や清水らの大衆観とは相当程度の距離があったのである。安倍は、都留重人と平和の問題にかんして真っ向から論争を行った小泉信三とも、「全面講和」や「中立」に批判的という点では同一の地平に立っていた点も追加して述べておく。また、末川や恒藤はその後も京都で平談会の会合を持ち続け、二人とも平和運動・憲法擁護運動に理論的な寄与をしていくことになる。かれらは、戦後の「保守主義」という面では、安倍と微妙な相違があり、また、敗戦時にそれぞれ50代という年齢的な面からも久野や清水の平和運動とは微妙な相違が存在した。前述したように、同じく「保守主義」を志向しながらも、「東京」の安倍らと、「京都」の末川・恒藤らとはまたおよそ異なる思想を抱いている。
この平談会は、「憲法問題研究会」と「国際問題談話会」へと、メンバーを交替させながら発展的に解消していくことになる。平談会の実質的な活動期間は3年ほどであった。しかし、そこに参加した知識人たちは平談会を経て、それぞれ自身の「性格」を明瞭にしつつ、50年代以降の活動を続けていくことになる。そして、それぞれ自身の「性格」を規定していく中で、総評や左派社会党と連携して平和運動や・反戦運動にコミットして反政府的な立場に立っていた「戦後民主主義者」という認識が生まれてくる。50年代以降、このような平和問題談話会の分岐過程の流れから平和運動・護憲運動に携わった一連の流れを一括りとして「進歩的文化人」や「戦後民主主義者」といった他称が生まれていき、知識人に対する一つの「神話」が形成されていくこととなった。ある意味でいえば、平和問題談話会の分岐の過程を検証することは、この「進歩的文化人」や「戦後民主主義者」というカテゴリーが形成される一つの契機をも検証するものであったのかもしれない。
4.結論
4−1. 知識人の多様性
本稿の議論によって、平和問題談話会の会員における様々な次元での差異が一端でも明らかになったと思う。以下では、以上の議論をいま一度確認する。
まずは、世代的な背景である。世代的な背景と思想的な背景を明確に分離することは必ずしも出来ないが、安倍を軸として見た場合、より若い世代との相違は明確である。敗戦時に安倍は62歳であり、敗戦時に30代だった丸山や久野との種々の思想的な差は明確だった。安倍らオールド・リベラリストは「戦後」を必ずしも良いものと見ていたわけでなく、そういった戦後観といったものも丸山ら若手とは大きく異なっていた。
そして、何度も述べてきたように、安倍ら「年長」の者たちと、若手の知識人とちとは、同じ「平和」という言葉を用いていても、その意味するものはことなっていたと言える。安倍らにとって、「平和」とは何よりも、「軍国主義日本」の復活忌避という要素が顕著であり、必ずしも「全面講和」や「中立」を意味していたわけではなかった。
そしてまた、丸山や吉野らの世代から見て、オールド・リベラリストに対する強い批判的意識意識を抱いていたことも何度か見てきた。オールド・リベラリストが説く、「道義」や「文化国家」の理念の有効性には懐疑的であった。その一方で、安倍からみても、吉野たちの「思想と行動」には「同意しかねる」思いを抱いていたことは前述したとおりである。「世代」という軸をひとつとっても、非常に大きな差異が内包されていたことがわかる。
そして、丸山や安倍と、久野・清水との決定的な相違は、その「大衆観」や「知識人としての自画像」に求めることが出来る。本稿でも述べたように、末川や久野が、知識人と大衆との結びつきこそが平和の問題にとって重要であるとの問題提起をなすと、丸山はまずは知識人の連帯・団結こそが必要であると述べ、その「大衆観」「知識人としての自画像」の相違が垣間見ることが出来る。
末川や久野・清水らにとって、戦後における緊急課題の一つは、「知識人と大衆」との結びつきであった。かれらはいずれも、「庶民」や「大衆」といったものに好感を抱きながら、「戦後」と対峙していったのである。そういう「大衆観」という点では、世代を異にしながらも、末川や久野という「京都」の談話会会員と清水という「東京」の談話会会員とは近い位置にいたと言うこともできる。
その一方で、世代的には久野と近い丸山が、安易な「啓蒙活動」を批判していたことも見てきたとおりである。清水にとっては、丸山らは「庶民」とはおよそ心理的に距離の離れた「知識人」というように思われたであろう。その丸山は、「知識人と大衆との結びつき」を志向するよりも、むしろ「知識人相互の連帯」を強く主張していたことも見てきたとおりである。この主張もまた、丸山の戦争体験から得られた問題設定であろう。久野も戦争体験から学び、戦後の活動に生かしていった「戦後知識人」の一人であるが、その「問題設定」は丸山とはおよそことなるものがあった。
そして、ここから「実践運動に対する志向」性の差異も見えてくる。この軸に沿って言えば、久野と清水は、ともに平和問題談話会の原理を現実に生かすために、日教組や労組、左派社会党などと提携していく。丸山は、平和問題談話会の原理・原則を「理論的」に追求していき、久野や清水ほどに実践活動に関わったとは言えない。安倍は、その資質や「大衆観」から言って、こういった実践活動に主体的な参与するとは言いがたい。末川や恒藤も、平和運動に拘っていった者たちであるが、久野や清水の活動方針とはおよそ距離のある知識人であった。
最後に、「東京」と「京都」の談話会の中でも大きな差異が見出せる。「東京」の談話会は安倍や和辻、田中耕太郎などの会員が主流であり、「京都」では革新的な末川や恒藤らがその代表である。こういった点からも、「東京」と「京都」の意見調整や、談話会の「性格規定」が明らかになるにつれ、あるいは朝鮮戦争といった内外の事件が起きるにつれ、困難になっていった。
このように、談話会内部において、その様々なレベルでの差異は顕著だった。以上述べてきたことを簡単なマトリックスとして見取り図を書くと、以下の表Tのようなものを作成することができる。
表T
およそこの表Tのように理解出来るであろう。本研究で明らかにしたかったのは、このような差異が内包しつつ、どのようにその「差異」が顕在化していったのかという過程である。
繰り返しになるが、当初から談話会内部においては、差異が内包されていた。それが、第二回声明から第三回声明へと至るなかで、徐々にその差異が顕在化していったことが改めて理解されよう。
4−2.「悔恨」という紐帯
しかし、以上見てきたような内部における差異が顕著である一方で、談話会は非常に熱心に、その声明の発表を行った。例えば、丸山が総会の時のあるエピソードを以下のように回想している。[216]
・・・ある全体会議の席上で、有沢広巳先生が私のすぐそばに坐っていて、この会は驚いたな、こんなに熱心な会合というのは、あまりないなと、言われたのを、覚えています・・・
差異を内包しながらも、それなり以上に熱心に談話会は声明を発表していく。その理由としては、戦時中、各知識人がバラバラに撃破された体験から、知識人たちが集まって共同研究を行っていったことが挙げられよう。戦後直後は、こういった研究会が各所でいくつも結成されたこともよく知られていることである。
なによりも、戦争中は、「熱心に」議論できるような雰囲気ではなかった。誰に密告されるのかわからないような状況であり、言論弾圧も激しかった。そのような中で、うかつに学者が「集まって」議論をすることなどはできない。このような非常な息苦しさから解放されたという事が大きいと思われる。
そして、本研究でも、たびたび言及されたように、知識人を熱心に結びつけた紐帯としては、知識人としての「悔恨」が根強く存在した。丸山は「近代日本の知識人」のなかで、「悔恨共同体」というテーゼを提出してこのように述べている。[217]
・・・戦争に反対して辛い目にあった少数の知識人でさえも、自分たちのやったことはせいぜい消極的な抵抗ではないか、沈黙と隠遁それ自身が非協力という猜疑の目でみられる時代ではあったとはいいながら、我々の国にはほとんどいうに足るレジスタンスの動きが無かったことを、知識人の社会的責任の問題として反省せねばならない、もしそれが日本における権力や、画一的な「世論」にたいする抵抗の伝統の不足に由来しているならば、われわれは日本の「驚くべき近代化の成功」のメダルの裏を吟味することから、新らしい日本の出発の基礎作業をはじめようではないか。日本の直面する課題は旧体制の社会変革だけでなく、われわれ自身の「精神革命」の問題である―そうした考えから「これまで通りではいけない」という気持は、非協力知識人の多くをもとらえていた、と思います。・・・知識人の再出発―知識人は専門の殻を越えて一つの連帯と責任の意識を持つべきではないか、そういう感情の拡がり、これを私はかりに「悔恨共同体」と呼ぶわけです・・・
こういった、「悔恨」を紐帯とした「共同」して研究をしていくという知識人なりの模索が敗戦直後には散見された。丸山はまた、平和問題談話会にかんして、知識人の自己批判という「共通感覚」があったからこそ、本研究で見てきたような、様々なレベルでの「差異」を乗り越えて、「集まり得たのではないか」と述べている。[218]
当初の平和問題談話会においても、こういった「悔恨」という感情が広範に広がっていたことは、本研究の中でたびたび言及してきたことである。そういう意味では、「平和問題談話会」という、戦時中に抵抗した知識人が集まった研究団体そのものが、「悔恨共同体」のひとつとして提示できるのではないかとも考えられる。戦争体験から得た、何らかの「悔恨」を行動のバネにして集まった知識人が本研究で扱った者の中には散見される。
しかしまた、さまざまな「差異」を乗り越え結びつける紐帯が「悔恨」という「感情」であることは、強みでもあり弱みでもあった。当然のことながら、「感情」というものは現実政治の圧力の中で、あるいは時間の経過とともに「風化」していくものである。丸山も、「近代日本の知識人」のなかで、「悔恨共同体」として成立したということが、その共同体の「限界」であり、「全体の傾向としては、戦争体験が風化するように、「悔恨」もまた時の流れの経過によって風化を免れなかった」と書いている。[219]
平和問題談話会もまた同様に、「悔恨」を紐帯とした「悔恨共同体」として成立した側面が大きかった分、逆説的ながらその「悔恨」の風化によって、知識人の分岐が顕在化していったと述べることができるであろう。
4−3.「進歩的文化人」という呼称
このように、「悔恨」が「風化」していくにつれ、逆説的ながら平和問題談話会のなかの「差異」が顕在化していく結果となった。前述してきたように、三度の声明を出したあと、談話会全体として、どのように平和問題にコミットしていくのかという方法が見つからなかったという側面がある。それと同時に、三度目の「三たび平和について」が「声明」というかたちではなく、「研究報告」というかたちをとったこともその表れと位置づけることもできる。
このような談話会の行き詰まりの中から、一つの「帰結」として、久野や清水らに代表されるような、実践運動を総評や左派社会党らと提携しつつ、平和問題や護憲運動・反戦運動に主体的にコミットする知識人という役割が創出されていくこととなる。
丸山によれば、進歩的文化人は、「社会党・共産党・総評等の現実の政治勢力と結びつき、こうした政府反対勢力」を「支援している者」と見なされているという。[220]そして、「進歩的文化人」という用語は、戦後、とりわけ50年代以降に作られた他称でもある。
本研究における、談話会内部の分岐過程の一の帰結として、主に久野や・清水らが左派社会党や総評と連帯しつつ平和運動にコミットした最右翼である。丸山はどちらかといえば、距離を置いて「理論的に」バックアップしていた側面の方が強い。そういう意味では、のちのちになって生み出された「進歩的文化人」というものの内実に、もっとも当てはまるのは、久野や清水といった面々である。逆にいえば、久野や清水らの活動から「進歩的文化人」という他称が形成されていったと言える。
それにも関わらず、表Tでも指摘したように、久野や清水とは禁欲的に一線を画していた丸山が「進歩的文化人」や「戦後民主主義者」という言葉の「代表格」として、のちのち批判されていったということがあわせて指摘できよう。最も「進歩的文化人」というカテゴリー形成に寄与した久野や清水らといった面々ではなく、丸山が批判の対象とされたのはなぜなのかという疑問が沸いてこざるを得ない。果たして、「進歩的文化人」とはいったい何者であるのか。この用語も戦後日本における一つの「神話」であるだろう。その「神話」の形成過程のわずか一端でも、本研究が資するところがあるのかもしれない。そういう意味では、平和問題談話会に参加した知識人の分岐の軌跡は、「神話」の形成過程でもあったということであろうか。このより詳細な点は、今後の課題としていきたい。
註
[1] 例えば、清水を50年代以降に著名となったと述べるのは危険かもしれない。実際、清水は丸山や久野等に比べたらより年長でもあり、戦中から著述活動を行っているからである。しかし、「平和運動の旗手」といった評価が定まり、戦後における清水の性格が決まってくるのは平談会に参加して以降というのも間違いではないであろう。そういう意味で、清水に関して上述のような言及をした。
[2] 例えば、平談会は「進歩的文化人」の集まりといった言い方をされることもある。しかし、「進歩的文化人」という呼称もその包含している意味は曖昧な面も多く、またおよそ「進歩的文化人」とは相容れない人も平談会に参加している。本研究のねらいでもあるが、「進歩的文化人」という言葉は50年代以降に形成された他称である。「進歩的文化人」に関する分析は、丸山眞男『後衛の位置から』(未来社、1982)に詳しい。
[4] 管見の範囲では、吉野源三郎に関する研究は見当たらない。部分的に吉野を扱った論文としては、『日本の時代史26戦後改革と逆コース』(吉川弘文館、2004)所収の「総評労働運動の時代」がある。しかし、戦中の経緯や吉野の思想的背景などを踏まえた上で、思想史的に研究したものではなく、平和問題談話会のオルガナイザーとしての吉野という位置づけにとどまっている。本研究では、吉野の生い立ちや戦中・戦後の吉野の思想を検証したうえで、単なる変和問題談話会のオルガナイザーとしてだけでないかたちで扱うことを目的としている。
[5]毎日新聞社編『岩波書店と文芸春秋』(毎日新聞社、1996)52頁
[6] 吉野前掲、10頁
[7] 吉野前掲、29頁
[8]久野収『市民として哲学者として』(毎日新聞社、1995)169頁
[9] 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波書店、1982)302頁
[10] 吉野『君たちはどう生きるか』、255頁
[11] 吉野前掲、22頁
[12] 吉野前掲、15頁
[14] 吉野前掲、256−257頁
[15] 吉野前掲、62頁
[16] 吉野前掲、63頁
[17] 吉野前掲、75頁
[18] 吉野前掲、60頁
[19] 清水幾太郎「わが人生の断片」(『清水幾太郎著作集』講談社、1993)316頁
[20] 吉野前掲、27頁
[21] 吉野前掲、71頁
[22] 吉野前掲、80頁
[23] オールド・リベラリストに関しては小熊『〈民主〉と〈愛国〉』の第五章に詳しい
[24] 吉野源三郎『戦後への訣別』(岩波書店、1995)251頁
[25] 吉野前掲、73頁
[26] 安倍能成『戦後の自叙伝』(日本図書センター、2003)167頁
[27] 丸山眞男『丸山眞男座談 第一冊』(岩波書店、1998)292頁
[28] しかしながら、西尾幹二『国民の歴史』(扶桑社、1999)において、「丸山真男のような進歩的文化人は、知識人を除くすべての現実の非を鳴らし、弾劾したが、自らの仲間である知識人だけは決して批判の対象にしなかった。たとえば彼が戦前の南原繁を問責した文章を書いたという話は聞いたことがない」と述べている。確かに、師である南原を明確に批判したことはないかもしれないが、丸山は敗戦直後の著作や座談会でもオールド・リベラリストの世代に対する痛烈な批判を行っている。具体名を挙げての批判は稀ではあったが、それでも津田左右吉に関して言及しているものもある。また、より上の世代の知識人を批判したのは一人丸山だけではない。戦後思想史において、旧世代と新世代との思想的対立はぬきがたく存在しており、上記の西尾の発言は適切であるとは言い難い。
[29] 吉野前掲、83頁
[30] 吉野前掲、84頁
[32] 吉野源三郎『平和への意思』(岩波書店、1995)54-55頁
[33] 久野収、丸山眞男、吉野源三郎、石田雄、坂本義和、日高六郎「平和問題談話会について」(『世界』臨時増刊号、岩波書店、1985)18頁
[34] 「1950年前後の平和問題」(『丸山眞男手帖』第四号、丸山眞男手帖の会)13頁
[35] 久野他、前掲、18頁
[36] 久野他、前掲、19頁
[37] 吉野前掲、139頁
[38] 吉野前掲『平和への意思』51頁
[39] 清水前掲、318頁
[40] 清水前掲、319頁
[41] 吉野源三郎「戦後への訣別」(岩波書店、1995)223頁
[42] 安倍前掲、167頁
[43] 丸山眞男「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」(『世界』1995年11月号)
[45] 吉野前掲、256−257頁
[46] 吉野源三郎『平和への意思』25頁
[47] 久野他「平和問題談話会について」20頁
[48] 久野他、前掲、21頁
[49] 久野他、前掲、21頁
[50] 久野他、前掲、21頁
[51] 久野他、前掲、17頁
[52] 吉野『平和への意思』76−77頁
[53] 吉野『平和への意思』129頁
[54] 吉野『平和への意思』115頁
[55] 吉野『平和への意思』121頁
[57] 丸山眞男『丸山眞男座談2』(岩波書店、1998)241〜242頁
[58] 丸山眞男『戦中と戦後の間』(みすず書房、1976)145頁
[59] 丸山眞男『現代政治の思想と行動』(未来社、1964)106・129頁
[60] 丸山前掲『現代政治の思想と行動』109頁
[61] 丸山前掲『戦中と戦後の間』145頁
[62] 丸山眞男『自己内対話』(みすず書房、1998)12頁
[63] 丸山眞男『丸山眞男集第五巻』(岩波書店、1995)10頁
[65] 丸山眞男『後衛の位置から』(未来社、1982)116頁
[66] 毎日新聞社編前掲『岩波書店と文芸春秋』72頁
[67] 丸山前掲『丸山眞男座談1』84・85頁
[68] 丸山前掲『丸山眞男座談1』309頁
[69] 丸山前掲『戦中と戦後の間』388頁
[71] 丸山前掲『戦中と戦後の間』275・276頁
[72] 松尾尊允『国際国家への出発』(集英社、1993)70頁
[74] この「心」グループの分析は、久野収著『久野収集T』(岩波書店、1998)に詳しい。本稿の「心」グループに関する記述も、『久野収集T』に負っている部分が多い。
[75] 久野前掲書、205頁
[76] 久野前掲書、206頁
[77] 安倍能成『安倍能成集』(日本書房、1959)255頁
[78] 安倍前掲258頁
[79] 清水前掲、320頁
[80] 安倍前掲、176頁
[81] 安倍前掲、167頁
[82] 丸山眞男『丸山眞男集12』(岩波書店、1995)165頁
[84] 久野収に関する研究書は、管見の範囲では見当たらない。久野も戦中の体験から、その
思想を形成した戦後知識人の重要な人物の一人である。私見では、久野の根本思想にあたるものは、本論にあるとおり戦中の滝川事件時の運動体験や、投獄体験である。その点を考えてみると、久野はある意味、戦後一貫して「思想と行動」をなしたと位置づけることが可能であろう。久野の「思想と行動」を通して、戦後の日本の問題を考えることは今後の課題としていきたい。
[86] 久野前掲、33頁
[87] 久野収『発言』(晶文社、1987)173頁
[88] 久野前掲『久野収集5』34頁
[89] 久野前掲『市民主義の成立』222頁
[90] 久野前掲『発言』175頁
[91] 久野前掲、175頁
[92] 久野前掲、175−176頁
[93] 久野前掲、186頁
[94] 久野前掲『久野収集5』28頁
[95] 久野前掲、47頁
[96] 久野前掲、68頁
[98] 久野前掲、119頁
[99] 久野前掲、119頁
[100] 久野前掲、132頁
[101] 久野収『平和の論理と戦争の論理』(岩波書店、1972)391頁
[102] 久野前掲、146頁
[103] 久野前掲『平和の論理と戦争の論理』8頁
[104] 久野前掲、9頁
[105] 久野前掲、8頁
[106] 久野前掲、14頁
[107] 久野前掲、14頁
[108] 久野前掲、14頁
[109] 久野前掲、15頁
[110] 久野前掲、15頁
[111] 久野前掲、15頁
[112] 久野前掲、15頁
[113] 久野前掲、15頁
[114] 久野前掲、5頁
[115] 久野前掲、20頁
[116] 久野前掲、146−147頁
[117] 久野前掲、136−137頁
[118] 久野前掲『久野収集5』164頁
[119] 清水前掲、329頁
[120] 久野収『久野収対話集・戦後の渦の中で2』(人文書院、1973)281頁
[122] 清水幾太郎を扱った主な研究としては、天野恵一『危機のイデオローグ』(批評社、1979)、小熊英二『清水幾太郎』(御茶の水書房、2003)、都築勉『戦後日本の知識人』があ る。本研究では、前記先行研究に負っている部分が少なくない。とりわけ、小熊英二『清水幾太郎』の中では、清水の「原思想」にあたるものが、戦前・戦中の体験とともに、清水の出身階層や家庭環境・性格をも含めた生い立ちを通して明らかにされており、この図式をある程度念頭に置いている。本節では、前記先行研究を批判的に検討することが直接の主眼ではない。清水と平和運動との関連を示すことで、平和問題談話会内部での清水の位置や、清水の実践的な志向が談話会の分岐過程の一環として把握できること、そしてそのような「庶民」に好感を示しつつ実践運動に徐々に集中していった背景に、彼の「庶民」への好感と、「インテリ」への複雑なまなざし、徴用班員としてビルマに赴いたことなどを示すことが目的である。
[123] 小熊前掲『清水幾太郎』16頁
[124] 清水前掲「わが人生の断片」302頁
[125] 同上書、317頁
[126] 同上書、318頁
[127] 久野前掲『久野収集5』145頁
[128] 清水前掲「わが人生の断片」320頁
[129] 同上書、321頁
[130] 同上書、322頁
[131] 同上書、324頁
[132] 同上書、324−325頁
[133] 同上書、325頁
[134] 同上書、326頁
[135] 同上書、329頁
[136] 清水幾太郎編『声なき民のこえ』(要書房、1951)1,23,30頁
[137] 久野前掲『久野収対話集・戦後の渦の中で』269頁
[138] 清水前掲「わが人生の断片」330頁
[139] 同上書、333頁
[140] 同上書、333頁
[141] 同上書、336頁
[142] 同上書、340頁
[143] 同上書、341頁
[144] 同上書、341頁
[145] 同上書、341、345頁
[146] 同上書、350頁
[147] 久野前掲『久野収対話集・戦後の渦の中で』268頁
[148] 清水幾太郎「わが愛する左派社会党について」(『中央公論』1954年2月号)。都築前掲『戦後日本の知識人』178頁より重引。
[149] 久野前掲『久野収集5』165頁。ちなみに、「平和産業の大社長」という造語は、大宅壮一の言葉である。
[150] 同上書、165頁
[152] 平和問題談話会の声明を分析した研究としては、都築勉『戦後日本の知識人』などがあるが、1948年の平和問題談話会総会の議事録を、東京と京都の思想的な差異を探るという観点からなされた研究は、管見の範囲では見当たらない。
[153] 「平和問題討議会議事録」(『世界』1985年7月臨時増刊号)260頁
[154] 前掲「平和問題討議会議事録」261頁
[155] 前掲「平和問題討議会議事録」261頁
[156] 前掲「平和問題討議会議事録」262頁
[157] 田畑茂二郎「末川先生と平和問題談話会」(末川博『末川博随想全集』第二巻月報所収、1971)5頁
[158] 田畑茂二郎前掲、5頁
[159] 前掲「平和問題討議会議事録」308頁
[160] 前掲「平和問題討議会議事録」267頁
[161] 久野他前掲、「平和問題談話会について」14頁
[162] 前掲「平和問題討議会議事録」269頁
[163] 前掲「平和問題討議会議事録」273頁
[164] 前掲「平和問題討議会議事録」304頁
[166] 久野他前掲、16頁
[167] それ以外にも、「平和と講和と民主」「平和と文化と法律」「平和のちかい」「平和と民主主義を守りぬこう」などがある。ともに、『末川博随想集第二巻』(栗田出版会、1971)に所収。なお、末川博を取り上げた著作としては、兼清正徳『末川博:学問と人生』(雄渾社、1997)及び浅田純雄『末川博:その人と人生観』(百華苑、1979)がある。
[168] 末川博『末川博随想全集第二巻』(栗田出版会、1971)79頁
[169] 末川博前掲書、84頁
[171] 平和問題談話会の声明分析は、都築前掲『戦後日本の知識人』所収の第三章「講和論争と平和問題談話会」に詳しい。本件研究は、談話会の声明分析に対する都築の分析に基本的に同意するものである。本稿の意図としては、談話会の三つの声明の分析とともに、声明を出すごとに、談話会の「性格規定」が明確になっていったこと、そして、それゆえに談話会内部での分岐が徐々に顕在化していったことを強調するために、談話会の活動とその声明を取り扱った。
2−5−1.「戦争と平和にかんする日本の科学者の声明」
[172] 「平和のために社会科学者はかく訴える」(『世界』臨時増刊号前掲)99−102頁
[173] 「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」(『世界』臨時増刊号前掲)106頁
[174] 「安倍先生と平和問題談話会」(吉野前掲書『戦後への訣別』)227頁
[175] 前掲「平和問題討議会議事録」それぞれ、264、266頁
[176] 久野他前掲、18頁
[177] 前掲「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」103頁
[178] 「東京地方経済部会報告」(『世界』臨時増刊号前掲)234頁
[179] 「東京地方法政部会報告」(『世界』臨時増刊号前掲)230頁
[180] 「東京自然科学部会報告」(『世界』臨時増刊号前掲)238頁
[181] 同上「東京自然科学部会報告」239頁
[182] 「東京地方法政部会報告」(『世界』臨時増刊号前掲)226頁
[183] 同上「東京地方法政部会報告」230頁
[184] 「1950年前後の平和問題」(『丸山眞男手帖』第四号、丸山眞男手帖の会、1998)13頁
[186] 松尾前掲『国際国家への出発』(集英社、1993)153頁
[187] 「講和問題についての平和問題談話会声明」(『世界』臨時増刊号前掲)110−111頁
[188] 清水前掲「わが人生の断片」335頁
[189] この「補足講和問題の論点」は、平和問題談話会を扱った先行研究の中でも、研究の対象とはあまりなっていないものである。都築前掲『戦後日本の知識人』の第三章のなかでは、部分的に第二回声明の内容を「補足」するために引用されている。本節で、この「補足講和問題の論点」を扱った理由は以下の通りである。まず、「全面講和の実現を不可能に近い」と見る「少数派」である反共主義のオールド・リベラリストたちの存在を指摘することで、第二回声明の時点で、談話会内部で分岐の兆候が顕在化しつつあったこと。第二に、後述するが、この「補足講和問題の論点」で記されている総会の内容が、第三回声明「三たび平和について」で受け継がれたこと。とりわけ、丸山が執筆した章である。そういう意味では、丸山執筆の「三たび平和について」第一章・第二章は、丸山の思想を読み取ることができるものではあるが、第二回声明での議論を発展的に継承した平和問題談話会の公式論文と位置づけることもできる。
[190] 「補足講和問題の論点」(『世界』臨時増刊号前掲)112頁
[191] 前掲「補足講和問題の論点」113−114頁
[192] たとえば、毎日新聞1950年5月10日や、読売新聞1950年5月15日など新聞論調を読むと、「全面講和論」が世論一般の中でいかに「少数派」であったのかということがよく理解できる。支配的な意見としては、「全面講和を望むが、単独講和を拒否しない」という「現実主義的」な意見であろう。(大森実『戦後秘史』講談社、1976)より重引。また、こういった談話会声明は共産党と思想的親和性を有しているとも見られていた。たとえば、1950年3月14日の読売新聞社説では、「これは客観的にみて、かなり共産党の政策に接近したものである。進歩的な知識人として当然であり、われわれもその純粋な考え方に共感するものであるが、このような知識人の思想指導は多面大きな危険をともなう」と書かれている。共産党に近い、「純粋な」考えであり、「危険」な要素も含まれているということである。
[193] 吉野前掲『戦後への決別』226頁
[195] 松尾前掲『国際国家への出発』145頁
[196] 同上書、149、152頁
[197] 吉野前掲『戦後への決別』263頁
[198] 同上書、230頁
[199] 「三たび平和について」もまた、いくつかの先行研究で分析がなされている。都築前掲書では、「三たび平和について」を、丸山がほぼ同時期に執筆した「ある自由主義者への手紙」との関連性を中心に言及されている。本研究の位置づけでは、「三たび平和について」と「補足講和問題の論点」の親近性を指摘するとともに、「三たび平和について」の検討・発表が、談話会会員の分岐を促進する大きなメルクマールであったことを指摘することとしている。談話会会員の思想的分岐が「三たび平和について」で大きく促進されたことは、久野や清水、丸山の回想からも明らかである。
[200] 都留重人「平和問題談話会の頃など」(『世界』岩波書店、1996)242頁
[201] 以下からの引用は、久野前掲『久野収集5』162−163頁
[202] 吉野前掲『戦後への決別』239頁
[203] 清水前掲「わが人生の断片」341頁
[204] 丸山前掲『丸山眞男集第五巻』7、9、10頁
[205] 同上書、15頁
[206] 同上書、16、17、18、19、20頁
[207] 同上書、24,28,27,31,32頁
[208] 前掲「補足講和問題の論点」115頁。都築前掲書『戦後日本の知識人』169頁においても、「三たび平和について」の中の丸山の論点が、第一回声明「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」と関連しているとの指摘がなされている。このことは間違いないことであるが、「三たび平和について」と同年に発表されている「講和問題についての平和問題談話会声明」との親近性、連続性を指摘することも同時に見落としてはならないことであろう。そういう意味では、「三たび平和について」は、「純粋な」意味で「丸山のもの」と位置づけることは困難かもしれない。もちろん、都築前掲書においても、同様の主張は部分的になされてはいる。しかし、主張の裏づけ方という意味で、本研究とは異なるものであると考える。
3.平和問題談話会の分岐
[209] 久野収『久野収集1』(岩波書店、1998)32頁
[210] 久野前掲『久野収対話集・戦後の渦の中で』260頁
[211] 久野前掲『久野収集5』162頁
[212] 同上書、147頁
[213] 久野前掲『久野収集5』163頁
[214] 清水前掲「わが人生の断片」341・345頁
[216] 吉野前掲『戦後への決別』231頁
[217] 丸山前掲『後衛の位置から』116−117頁
[218] 吉野前掲『戦後への決別』227頁
[220] 同上書、120−121頁
〈参考文献〉
・安倍能成『戦後の自叙伝』(日本図書センター、2003)
・安倍能成『安倍能成集』(日本書房、1959)
・天野恵一『危機のイデオローグ』(批評社、1979)
・アンドルー・ゴードン編『歴史としての戦後日本』(みすず書房、2001)
・五十嵐武士『対日講和と冷戦』(東京大学出版会、1986)
・石川真澄『戦後政治史』(岩波書店、1995)
・稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』(文藝春秋、1994)
・大内兵衛『大内兵衛著作集第七巻』(岩波書店、1975)
・小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜者、2002)
・小熊英二『清水幾太郎』(御茶の水書房、2003)
・北河賢三『戦争と知識人』(山川出版社、2003)
・久野収『市民として哲学者として』(毎日新聞社、1995)
・久野収『平和の論理と戦争の論理』(岩波書店、1972)
・久野収『久野収集T』(岩波書店、1998)
・久野収『発言』(晶文社、1987)
・久野収『久野収対話集・戦後の渦の中で2』(人文書院、1973)
・久野他「戦後平和論の源流」(『世界』臨時創刊号1985年7月号、岩波書店)
・黒川みどり「戦後知識人と平和運動の出発」(『年報日本現代史』第8号、「戦後日本の民衆意識と知識人」、現代史料出版、2002)
・佐々木隆爾『サンフランシスコ講和』(岩波書店、1988)
・関寛治「平和の政治学」(『日本政治学会年報』「行動論以後の政治学」岩波書店,1977)
・清水幾太郎「わが人生の断片」(『清水幾太郎著作集』1993、講談社)
・清水幾太郎『声なき民の声』(要書房、1951)
・末川博『末川博随想集』(栗田出版会、1971)
・恒藤恭『新憲法と民主主義』(岩波書店、1947)
・中野雄『丸山眞男音楽の対話』(文芸春秋、1999)
・中野敏男『大塚久雄と丸山眞男』(青土社、2001)
・西尾幹二『国民の歴史』(産経新聞社、1999)
・原彬久『戦後史のなかの日本社会党』(中央公論新社、2000)
・毎日新聞社『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社、1996)
・松尾尊允『国際国家への出発』(集英社、1993)
・間宮陽介『丸山眞男』(筑摩書房、1999)
・丸山眞男「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」(『世界』1995年11月号、岩波書店)
・丸山眞男「1950年前後の平和問題」(『丸山眞男手帖』第四号、1998)
・丸山眞男集第五巻(岩波書店、1995)
・丸山眞男『戦中と戦後の間』(みすず書房、1976)
・丸山眞男『現代政治の思想と行動』(未来社、1964)
・丸山眞男『丸山眞男座談1・2』(岩波書店、1998)
・丸山眞男『後衛の位置から』(未来社、1982)
・丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大学出版、1952)
・丸山眞男『自己内対話』(みすず書房、1998)
・丸山眞男「戦後民主主義の原点」(『丸山眞男集15巻』岩波書店、1995)
・水谷三公『丸山眞男』(筑摩書房、2004)
・吉田裕編『日本の時代史26戦後改革と逆コース』(吉川弘文館、2004)
・吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波書店、1982)
・吉野源三郎『職業としての編集者』(岩波書店、1989)
・吉野源三郎『平和への意思』(岩波書店、1995)
・吉野源三郎『戦後への訣別』(岩波書店、1995)
謝辞
単純に「進歩」したり「進行」していくのとは異なる歴史を描きたかった。あらゆる前提を排した歴史、さまざまな緊張や葛藤や分裂の契機を内包しながらも、それでもなお「進行」していく歴史を描きたいと思っていた。この研究のなかでは、単純な「進歩」とはやや異なる、複雑な要因を含みながら思想的にも実践的にも分岐していく過程がささやかながら描けているのではないだろうか。その過程からまた一つの「神話」が生まれ、「進行」していく。こういった「神話」を単純に受け入れるのではなく、その「神話」の形成過程を明らかにしてみたいというのが、本研究の動機のひとつではあった。
実際に、論文を書いてみると、語りたい言葉はたくさんあるのだが、なかなか言葉にでてこないものである。その「語りたい言葉」を次の研究で生かしていくだけであろう。
本研究を行っていく上で、多くの方にお世話になった。とりわけ、指導教官の小熊英二先生には、「学恩」といってもよいほどお世話になったと思う。学問の上で尊敬できる先生と出会えたことを非常に感謝している。小熊先生には、研究会の場だけでなく、食事の場などにおいても、多くの刺激を与えられた。この場をお借りして、心より感謝申し上げたい。今後も私の「先生」でありつづけるとともに、「いつの日か・・・」の思いを旨に勉強を重ねていきたいと思う。
また、私が不自由なく研究できたのは、家族のおかげである。気持ちよく研究をさせてくれた家族に心より感謝申し上げたい。